目
次
発行にあたって
四国総支部 執行委員長 繁木 康宏 ⋮ 1特別寄稿
西日本本部 執行委員長 喜井 広明 ⋮ 3 四国総支部 初代執行委員長 三宮 正博 ⋮ 5 情報労連 四国ブロック事務局長 川元 浩樹 ⋮ 6 西日本本部 執行委員 金並 泰志 ⋮ 8寄稿
愛媛分会 沖縄行動参加者 城戸 祥子 ⋮ 10 愛媛分会 長崎行動参加者 黒田 史尚 ⋮ 11 愛媛分会 長崎行動参加者 大森 瑞恵 ⋮ 13 香川分会 沖縄行動参加者 藤田 真大 ⋮ 14 香川分会 沖縄行動参加者 高濱 正二 ⋮ 15 香川分会 長崎行動参加者 原田 淳也 ⋮ 16 徳島分会 沖縄行動参加者 芳田 佳司 ⋮ 17 徳島分会 広島行動参加者 森本 厚隆 ⋮ 18 徳島分会 長崎行動参加者 手塚 広知 ⋮ 19 高知分会 沖縄行動参加者 北村 彰祥 ⋮ 20 高知分会 広島行動参加者 山中 隆志 ⋮ 21 高知分会 長崎行動参加者 山崎 文昭 ⋮ 22 ネオメイト四国分会 広島行動参加者 石崎 勝 ⋮ 23 ネオメイト四国分会 長崎行動参加者 越村 秀爾 ⋮ 24 退職者の会愛媛県支部協議会 会長 尾崎 公 ⋮ 25 退職者の会香川県支部協議会 会長 國方 勲 ⋮ 27 退職者の会徳島県支部協議会 会長 谷岡 行利 ⋮ 29 退職者の会高知県支部協議会 会長 國弘 昭 ⋮ 31 愛媛分会 f r a g e 委 員 山橋 宣裕 ⋮ 33 愛媛分会 f r a g e 委 員 小原 弘志 ⋮ 34 愛媛分会 f r a g e 委 員 大須賀ゆり ⋮ 35 愛媛分会 f r a g e 委 員 浮田恵津子 ⋮ 36 愛媛分会 f r a g e 委 員 武智 優太 ⋮ 37 愛媛分会 f r a g e 委 員 嘉村 優希 ⋮ 38 香川分会 f r a g e 委 員 安倍 正登 ⋮ 39 徳島分会 f r a g e 委 員 大森 章史 ⋮ 40ネオメイト四国分会 f r a g e 委 員 中山 定宣 ⋮ 41 ネオメイト四国分会 f r a g e 委 員 沼 慎太郎 ⋮ 42 四国総支部 元執行委員長 井原 眞人 ⋮ 43 四国総支部 前執行委員長 田岡 章 ⋮ 45 四国総支部 副執行委員長 三浦 一臣 ⋮ 47 愛媛分会 分会長 森 清 ⋮ 49 香川分会 分会長 明石 晶博 ⋮ 51 徳島分会 分会長 井後 眞治 ⋮ 53 高知分会 分会長 小野川公作 ⋮ 55 ネオメイト四国分会 分会長 武井 哲和 ⋮ 56 四国総支部 事務局長 吉成 康晃 ⋮ 58 愛媛県グループ連絡会 担当弁護士 草薙 順一 ⋮ 60 高知県グループ連絡会 担当弁護士 藤原 充子 ⋮ 62
あとがき
四国総支部 執行委員︵平和担当︶ 坂本 寛 ⋮ 64資
料
情報労連平和行動 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 65 戦跡 愛媛県 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 66 戦跡 香川県 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 68 戦跡 徳島県 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 69 戦跡 高知県 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 70四国総支部執行委員長
繁
木
康
宏
発行にあたって
私たち四国総支部は、戦後・被爆七〇年の節目 を捉え﹁今一度﹃平和の尊さ、戦争の愚かさと悲 惨さ﹄を学び、新たな世代へと引き継ぎ語り継ぐ ことが、今を生きる私たちの責務である﹂との立 場で、第一回分会全役員会議における﹁平和四行 動﹂参加者による 、報告会の実施をスタートに 、 本年度の平和活動の取り組みを企画・実践してい ます。本記念誌の発行は、その取り組みの一環で あり、発行責任者として、西本部・喜井執行委員 長をはじめ寄稿をいただきましたすべての皆さん に心から感謝申し上げます。 私が物心ついたときに、祖父は既に亡くなって いたこともあり、戦争体験を直に聞くことができ ませんでしたが、両親からは幾度となく、対戦国 の飛行機から身を隠しながら登校したことや、近 くの山に焼夷弾が落ちたことを聞き、幼からず防 空壕に駆け込んだ話を聞き、何となくではありま すが幼いころから ﹁戦争への恐怖﹂ ﹁平和の大切さ﹂ を感じていました。 その思いがより深まったのは、就職し組合運動 に関わるようになり、広島での原爆の悲惨さ、沖 縄での地上戦の悲惨さを ﹁見て 、聞き 、学んだ﹂ ことによるものです。 第二次安倍政権発足以降、 日本はこれまでの ﹁平 和国家﹂から﹁戦争ができる国﹂へと舵が切られ ようとしています。沖縄では、普天間基地の辺野 古移設を巡って、沖縄県民の思いを踏みにじる暴 挙が繰り返されています。 また、これらについての報道の在り方も、本来 のあるべき姿なのかとの疑念を感じてなりませ ん。 こうした状況のもと、戦争の悲惨さを知らない 世代が圧倒的多数を占める今日、強権的な政権運 営を何の思慮もなく漠然と肯定し、反対を唱える 者を漠然と批判するということが増えていると感 じています。私たち情報労連・ NTT 労組は﹁平和なくして 労働運動なし﹂をキーワードに平和運動を積み上 げてきました。 その立場から、 現状に危機感をもっ て、 平和活動の取り組みを進め、 私たちが﹁見て、 聞いてそして学んできた確かなこと﹂を次世代に 風化させることなく伝えていかなければなりませ ん。 その先頭に立って取り組む決意を申し上げ、発 行にあたってのあいさつとします。
NTT 労組西日本本部 執行委員長
喜
井
広
明
戦争とは何か。いまも、世界各地で紛争が繰り 返されているが、 それらも﹁戦争﹂なのであろう。 人間の尊厳を踏みにじる﹁殺戮﹂は、メディアか ら流れてくる﹁死者数﹂をもってのみ、素通りし てはいないだろうか。 戦後・被爆七〇年を迎えた二〇一五年も、また たく間に四半期が過ぎた。 NTT 労組西日本本部 は、一昨年の大会以降﹁戦後七〇年を見据えた取 り組み﹂を推進し、沖縄における﹁在日米軍基地 の整理縮小﹂ ﹁日米地位協定の見直し﹂をはじめ とした、各種行動や広島・長崎における﹁核兵器 廃絶と世界の恒久平和﹂ の実現に向けた対応など、 運動的側面と多くの組合員の参加による裾野を広 げた活動をこれまで以上に推進している。当然の こととして、情報労連 ・ NTT 労組の運動である、 北方領土や稚内行動などへも参画をし、過去の歴 史に学び、戦争の悲惨さを未来に伝えていく取り 組みを強化してきた。 戦後 ・ 被爆七〇年は、 つらい戦争を経験した方々 が高齢化する中で、いかに未来に﹁平和﹂を継承 できるのかとの思いを強く持っていたが、政治の 流れは、日本版 NSC の設置・武器輸出三原則の 見直し ・﹃特定秘密保護法﹄の施行など 、多数の 国民 ・ 有識者などが反対する中で、 巨大与党によっ て進められてきた。さらに、二〇一四年七月には ﹁集団的自衛権﹂の行使容認を閣議決定し 、折し も戦後 ・ 被爆七〇年となる本年に﹁安全保障法制﹂ について、与党協議の中で、自衛隊の海外派遣や 伴う﹃恒久法﹄の制定など﹁戦争に参加できる体 制﹂づくりを進めている。 ﹁国家﹂を論じる中にあっては 、民主主義は絶 対的なものであると考えているが、名護市・辺野 古における新基地建設はどうか。私も応援に参加 した、二〇一四年一月の名護市長選挙、一一月の 沖縄県知事選挙、 一二月の衆議院議員選挙では ﹁新 基地建設反対﹂の民意が示され、反対派が圧勝し た。それにもかかわらず、基地建設に向けた強硬 な作業、反対派に対する暴力など、民主主義がどこに存在するのかと考えさせられる。沖縄戦で戦 死した伯父に、何と言っていいのか。 ﹁﹃平和運動﹄というだけで、満足しているので はないのか﹂との指摘もあるが、私たちは、さま ざまな活動を通じ、人間の尊厳や個の尊重をはか り、そして、働く者の視点に立ったリベラルな政 治をめざしていかなければならない 。その中で 、 やはり﹁平和なくして労働運動なし﹂を掲げる情 報労連の旗の下に、今後とも、発信・行動を継続 していく責務がある。世界中の仲間と共に、連帯 しよう。
四国総支部初代執行委員長
三
宮
正
博
子供、女性だれかれなく命を奪う戦争が終結し て七〇年の時が経った。私も団塊世代生まれの戦 争未体験者のひとりですが戦争の悲惨さを知らな い訳ではありません。 子供の頃に戦争体験者である祖父、父親などか ら戦争の恐ろしさ、悲惨さについて聞かされ、子 供心にその恐怖を感じていました。 幼少期 の 記憶 で は 、 日 常生 活 に お け る 衣 食 の 大 変さを感じ て い ま した 。 衣 類は古くな っ ても母 親 が苦労し膝 当 て や ツ ギ ハ ギ の繕 い を し 、 着用 。食 はご飯の量 を 増や す た めにイ モ を混 ぜたも の 、数 日 続 くクジ ラ の煮 込み ︵ 当 時クジ ラ は捕 獲 量 が 多 く安価 で あ っ た ︶、 お 菓子な ど 甘 い も の は 口 に で き ずら く 、 貴重 で あ っ た 砂糖を ご 飯 に か け て 食 べ た こ と など 、 総 じ て 物が不 足 し て おり 、 親 から贅 沢 を控 え 、 節 約 する こ と を諭されま し た 。 こ の よう な状況も戦争 の影 響に よ る 結果 で あ ると 思 い ます。 社会人︵当時の電電公社入社︶では、職場の大 先輩から自分の子供時代の戦争体験について機会 あるごとに聞かされました。体験内容は、空襲警 報の恐怖で学校授業中 、自宅就寝中であれ先生 、 親と防空壕へ避難し、授業や遊びに集中出来るこ とがなかった。命を守るために止むなく田舎へ家 族で疎開し、不自由な生活を経験したことなどに ついて聞かされました。 平和は 、歴史が示すように一部のトップリー ダーが誤った判断と行動によって一瞬に失うこと になると考えます。現在も、世界では戦争が起き ており、いつも弱者である子供、女性が被害者と なっています。 現役時代は、平和運動について積極的に関わり その重要性を認識し、活動を支える若い世代へ平 和の尊さについて語り継ぎました。今も活動の継 続の重要性を感じています。 最後に四国総支部として﹁平和記念誌﹂の提案 を決定されたことに心から賞賛を送りたいと思い ます。私の寄稿が仲間の皆さんの﹁気づき﹂にな れば幸いです。情報労連四国ブロック 事務局長
川
元
浩
樹
二〇一五年 、日本は終戦から七〇年を迎える 。 この間、戦後の復興から高度経済成長やバブル期 とその崩壊等を経て、細かいことを除けば一定の 豊かな国となった。 しかし、 地球上で戦争のなかっ た時代はなく、各地で紛争が続き多くの民間人も その犠牲になっているのが現状だ。 過 去 の 戦 禍 で の 死 者 数 は 、 ベ ト ナ ム 戦 争 約 二三四万人、朝鮮戦争約三〇〇万人、フランス革 命約四九〇万人、第一次世界大戦約二六〇〇万人 と 、第一次世界大戦では群を抜く死者数である が、第二次世界大戦ではその倍の約五四〇〇万人 が戦死している。一九三九年に始まった第二次世 界大戦だが、日本はドイツ・イタリアとの三国同 盟締結後の一九四一年から参戦し、民間人を含め 約三一〇万人が還らぬ人となった。今では語り継 いでくれる人も少なくなり、 風化が懸念されるが、 ﹁悲惨さ﹂を知ってこそ ﹁平和﹂であることの尊 さが分かるのではないかと思う。 ﹁平和﹂とは 、戦争や紛争がなく 、あるいは心 配事やもめ事がなく ﹁おだやか﹂ な様をいう。 戦後、 軍隊を持たず戦争を放棄し平和な国として歩んで きたが 、戦争体験者はどうなのだろう 。﹁生きて いることが恥ずかしい﹂という人もいる。ずっと 負の遺産ともいえる過去を背負いつつ、苦悩と闘 い続けている。彼らの戦争は未だ終わっていない のかもしれない。折しも、政府はさまざまな法律 を改正し憲法まで改正しようとしている。ひとつ 解釈を間違えれば戦争のできる国へと転換してし まう恐れもあり、諸外国はそう捉えるかもしれな い。 ﹁戦争﹂ は ﹁平和﹂ の対義語。軍国主義であっ た時代の思想はよく理解できないが、今となれば その考え方は否定されることは間違いないし、日 本のみならず各国でも﹁二度と惨事を繰り返さな い﹂との思いを込め、終戦を祈念した式典などが 行なわれている中、七〇年の時を経て再び愚かな 道を歩くのだけは止めなければならない 。また 、 紛争の続いている地域においては、早く停戦・終 結となるよう祈るばかりだ。永い年月を経て穏やかになってきたが、よくよ く考えてみると﹁平和﹂という言葉は惨状を知っ た戦争体験者が使う言葉かもしれないし、戦争の なくなった平穏な時代に生まれた未体験者が使う 言葉かもしれない。いずれにしても、私たちは常 に何ひとつ心配事もなく穏やかに暮らしていると は言い難いが 、世界中のほとんどの人が ﹁平和﹂ を望んでいることに間違いはない。
NTT 労組西日本本部執行委員
金
並
泰
志
多くの尊い命が犠牲となった惨劇から七〇年の 節目を迎えました。私自身もそうですが、両親に 至っても戦後に生を受けたこともあり、二代に渡 り戦争を知らない世代として今日を迎えておりま す。今後このような世代が大半となる時代が訪れ つつある今、平和活動におけるさらなる意識の醸 成に向けては ﹁戦争の悲惨さ﹂ ﹁平和の尊さ﹂を 身をもって経験された方々から ﹁聴き﹂ ﹁学び﹂ ﹁伝 えていく﹂ことが重要と考えますが、過ぎ行く年 月とともに、 その機会が年々減少しつつあります。 こういった状況にある中、政府は時の流れによ る記憶の風化を待っていたかのように﹁武器輸出 三原則﹂の見直し﹁集団的自衛権行使﹂容認、お よびそれに関わる法改正等を立て続けに打ち出 し、人間同士が殺し合う﹁戦争のできる国﹂へと 変えようとしています 。﹁同じ過ちを二度と繰り 返してはならない﹂ という、 戦争を経験された方々 の思いを受け継ぎ、共に訴え活動してきた多くの 国民の声を無視し、半ば強引に推し進めようとし ている政府の方針は全く理解できるものではあり ません。このままでは近い将来、現代における戦 争・紛争に巻き込まれ、再び七〇年前の悲劇が繰 り返されないとも限りません。 進む方向を誤ることで、世界における平和のバ ランスが崩れ国際紛争に巻き込まれる事態となれ ば、これまで家族と楽しく暮らし、充実した毎日 を送っていた生活から突如、自分自身や家族が生 命の危機にさらされることとなり、安心して仕事 すらできない状況となります 。こうなった場合 、 社会的にも成長が止まることとなり、豊かな暮ら しへの希求はもろくも崩れ去ることとなるばかり か、家族等を失えば憎しみが憎しみを呼び、終わ りのない負のスパイラルへと陥ってしまいます。 こうした未来を﹁つくらない﹂ ﹁つくらせない﹂ ため、 そして子どもたちの明るい未来を﹁つくる﹂ ため、我々は訴え続けなければなりません。より 多くの ﹁思い﹂ ﹁声﹂が届けば未来を変えること が出来ます。全国の米軍専用施設面積の約七四 %が集中する沖縄では、一九九九年普天間基地の移 設候補地として辺野古を正式に決定したものの ﹁沖縄に新たな基地はつくらせない﹂という強い 決意のもと反対活動を続け、現在でも移設は実現 されていません。これも未来を変えるひとつの活 動例だと言えます。 国際社会の中にある日本。ひとつの地域におけ る紛争がさまざまな影響を及ぼします。日本のみ ならず世界が希求する真の平和に向け、七〇年前 に起きた惨劇の風化に抗し、共に声をあげ、行動 していきましょう。
愛媛分会沖縄行動参加者
城
戸
祥
子
二〇一四年六年に催された﹁沖縄ピースすてー じ﹂に参加させていただいた。 それまで、沖縄に旅行で訪れても観光がメイン で、沖縄で平和学習を行なう機会はなかった。ま た、 愛媛で生まれ育った私は、 学校教育において、 ヒロシマを題材とした﹁日本は世界で唯一の被爆 国﹂ということを学ぶ機会が多かった。 ﹁沖縄ピースすてーじ﹂で最も印象的だったの は ﹁糸数壕﹂だ 。沖縄戦の際 、避難場所や病院 、 司令部などとして利用された洞窟である。現地で は足場の悪いガマの中を進み、暗黒の中で語り部 の話を聞いた。暗闇の中、多くの人がひしめき合 い、苦しむ人の声を聞きながら過ごしたであろう 状況を想像すると辛い気持ちになった 。しかし 、 この気持ちも当時の恐怖とは比べものにならない だろう。ガマの出口に近づくにつれ見えた陽の光 にホッとし、外の空気を吸える喜びを感じられた のも、ガマの外が戦争のない時代だからこそだと 思った。 過去が語られる時、情報を発信する側の意図が 含まれ、視点が偏ってしまう傾向があると思って いる。今回、 当時利用されたガマに足を踏み入れ、 平和祈念資料館で資料を閲覧し、基地周辺でデモ 行進を行ない、その基地の広大さと航空機の騒音 を体感した。どれもとても貴重な経験になった。 沖縄戦がわずか七〇年前の出来事ということが 信じ難い。一方で現在もなお、沖縄米軍基地問題 が存在している。これからを生きていくためにも 過去を知ろうと努め、考えて行動していきたい。愛媛分会長崎行動参加者
黒
田
史
尚
一九四五年八月六日の朝、母親の手伝いで畑に 出ていた娘は﹁ドーン﹂という音に振り向いてみ ると、そこには見たこともない雲が湧き上がって いたそうです。広島から遠く離れた伊予市の出来 事です。 これは、母親から聞いた原爆の話です。短い話 で、 広島に居合わせたという話でもないのですが、 身近な人から、じかに聞かされた話は、本やテレ ビでは伝わらないものがあり、語り継ぐことの大 切さを感じていました。 ここ数年、世界を見渡しても、各地で紛争が起 きていて、日本も次第にその渦に巻き込まれてい きそうで、不安も感じていた調度その頃、情報労 連平和行動として八月七日から九日にかけて﹁第 二四回長崎平和フォーラム﹂が開催されるという ことを聞き、語り継ぐことについて、少しでも参 考にならないかと、フォーラムに参加することに 決めました。 長崎平和フォーラムでは、二日目に平和行進と して、原爆の傷跡をまの当たりにしながら、爆心 地の平和公園、そして浦上天主堂と歩いて回りま した。すべて焼き尽くされ、荒野と化してしまっ た長崎。今は赤いレンガ造りで建て替えられた浦 上天主堂では 、当時のマリア像が飾られており 、 薄暗くひんやりとした教会の中で、ステンドグラ スを通した光が青く差し込み、被爆したすべての 方たちに、語りかけているように見えました。午 後には、 長崎県立総合体育館に移り、 核兵器廃絶、 恒久平和を願い 、各種行動が展開されましたが 、 その中で、語り部の方によるお話に心打たれまし た 。語り部の方は 、当時は小学生だったそうで 、 何が起こったのかも分からず、兄弟を探して走り 回ったこと、見つかったが水を与えたくても与え られなかったこと、その後、症状が悪化して病院 に連れて行こうとしたができなかったこと。原爆 が人の命を奪うだけでなく、人の心まで奪ってし まうことを、その方は話し聞かせてくれました。 今年戦後七〇年となり、歴史認識や尖閣諸島などの領土問題で隣国と摩擦が強まり、戦争の風化 が危惧されています。 最近見たニュースの中では、 戦争の語り部の方が、講話の後で小学生に、もし 戦争になったら、あなたたちは行くかと質問した ところ、八人の子供が手を挙げたそうです。 このフォーラムで初めて語り部の方の生の声を 聞かせていただき 、また目にした長崎の惨状を 、 少しでも子供に伝えいきたいと思っています。
愛媛分会長崎行動参加者
大
森
瑞
恵
私は二〇〇九年八月に長崎平和フォーラムに参 加させていただきました。 これまで広島原爆ドームなどには修学旅行や個 人的に何度か訪れたことはありましたが、長崎は 初めてでした。 その日 は と て も 暑 い 日 で 、 長 崎 市 内 は 原 爆 が 投 下された 日 と い う こ と で 、 当 時 を再 現 し た劇や、 い ろいろ な 会 場 で 展 示 物 等 も 多 く だ さ れ て い ま し た 。 また語り部の皆さんの臨場感あふれるお話を聞 くたびに、何故?どうしてこんなことに?と悔し さと強い憤りで涙が止まりませんでした。 そして私たちは、決してこの原爆被災地として の長崎や広島を忘れてはいけないと思いました。 当時アメリカ軍の目標は別場所であったそうです が、色々な状況下のもとやむなく、第二の目標地 であった長崎になったと聞き、また本来はそうい う状況下であるなら、爆撃を中止して海に落とし 帰還すべきだったものを命令にそむいて投下した 結果だとも聞きました。その結果、長崎上空では 原子爆弾が炸裂し、一瞬のうちにあたり一面焼き 尽くされたそうです。その跡形がいたる所に残っ ていて、思わず目を覆いたくなる光景でした。 今世界中では争いが絶えない国がありますが 、 最後には原爆投下という結末になるのではと思っ ているのは私だけでしょうか?また、未だにその 原爆などの製造や実験を繰り返している国もある ようです。 この悲劇を二度と繰り返さないように、 そして平和な世界になるように、私たち大人は子 供たちに過去の悲劇を伝えていく役目を担ってい ます。世界中の誰もがこのような悲劇に陥ること は許されるものではありません。 ︻N O MORE W A R !︼と強く言いたいです。 最後に毎年行なわれる長崎平和フォーラムでの 現地スタッフの皆さんにお礼を言わせていただき ます。毎年暑い中、会場準備も大変なのに、すべ ての参加者の体調や車の移動手配・安全などに気 を配りながらの進行、大変お疲れ様でした。本当 にありがとうございました。香川分会沖縄行動参加者
藤
田
真
大
二〇一四沖縄ピースすてーじに参加させていた だきました。 糸数壕 ︵アブチラガマ︶の中に入壕した際に 、 沖縄戦の犠牲者の声をテープで聴きました。七〇 年前に、この場であまりにたくさんの尊い命が奪 われたのかと思うと、戦争の意味の無さを感じず にはいられず、 やりきれない気持ちになりました。 嘉手納基地周回行動では、周囲一七 ㎞ に もおよ ぶ広大な基地を歩くことで、住民の皆さんの生活 が、米軍機などの騒音問題や墜落事故などの危険 と常に隣り合わせになっている現状を知りまし た。 華やかな観光地のイメージがあった沖縄に、日 本国内の米軍基地施設の約七五 % が集中している という現状を目の当たりにし、これまでは、遠く に感じていた米軍基地移設や集団的自衛権などの 問題が、決して対岸の火事などではなく、我々の 暮らしに密接に関係している問題なのだと身近に 感じることができました。 今年、戦後七〇年という節目を迎えました。 私の祖父も八九歳になり 、戦争を経験された 人々の高齢化が進み、周りでも、当時を知る世代 の声を聴ける機会が少なくなってきました。 我々の世代は戦争を知りませんが〝平和を守り 伝えていく世代〟 としての自覚をより一層強めて、 平和な生活を送れる喜びや、今日の平和は、悲惨 な戦争当時の、たくさんの尊い犠牲の上に築かれ ているのだと再確認しながら、次代に語りつない でいく責任があると思います。香川分会沖縄行動参加者
高
濱
正
二
﹁平和について﹂と問われてまず思い浮かぶの は、やはり﹃沖縄﹄です。 たしかに﹁反戦・平和﹂の目的を持って訪れた 時は、戦争反対、平和のありがたさを感じたもの ですが、しばらくすれば忘れてしまっているのが 現実です。 昨年の九月に数年ぶりに沖縄旅行をしたのです が、旅目線で見た沖縄は美しい観光地であり、み どころの多い楽しい島でした。 七〇年前にここが戦場であったとはとても信じ られないような、青い空ときれいな海に思わず B EGIN の曲を歌っていました。 それが、時折頭上をジェット機やヘリコプター が爆音とともに飛んでいくと、ここは米軍基地の 島なんだということを自覚させられました。 ﹁島人ぬ宝﹂の歌詞にあるように ﹃汚れてくサ ンゴも 減っていく魚も どうしたらいいのかわ からない﹄と、何も行動しなければ﹁平和﹂は蝕 まれていきます。 今、安倍内閣の﹁憲法改正の動き﹂や﹁集団的 自衛権﹂などの暴走・危険な政治情勢が、なんと なくそのまま進んでいることに不安感はありつつ も、国民は今の生活に精いっぱいでどう対処して いいのか分からなくさせられているようです。 一方で、労働組合が平和勢力としての力を無く しつつあるのなら、早めの対応が求められます。 よく言われることですが何年かのちに ﹁ あの 時・・・﹂とならないように。香川分会長崎行動参加者
原
田
淳
也
戦後七〇年の節目に﹁平和﹂を脅かす出来事が 数多く起こっている 。領土問題や歴史認識をめ ぐって、政府間の考えや意見の対立により近隣諸 国との関係が冷え込み、政府の集団的自衛権行使 の容認や憲法解釈に批判の声が高まっている。ま た、海外に目を移せば、イエメン、ミャンマーの 内戦や ISIL によるテロリズム活動など、世界 各地で今も混乱は続き、 多くの尊い命が失われた。 今から七〇年前に何が起こったのか。当然のこと だが、私を含め戦争を知らない世代が増加し、語 り部を中心に戦争の愚かさを体験した人が減少し ており、戦争体験者の生の声を聞ける機会は少な くなっている。 過去に語り部の方からの﹁他人の命を奪う行為 はどんな理由があっても許されない﹂ ﹁核兵器の 廃絶と平和の実現を私は絶対に諦めない﹂との力 強く切実な願いが込められたメッセージは、私自 身もいつまでも忘れることなくこの胸に残ってい る。 歴史から戦争の愚かさを学ぶ意義はとても大き く、未来に向けた平和の維持に欠かすことはでき ない。 沖縄や長崎の平和行動への参加を通じ 、現在 の﹁当たり前の平和﹂がどれだけ素晴らしいこと かを再認識するとともに、語り部の方からのメッ セージをいつまでも忘れることなく、ひとりの平 和行動参加者として戦争を風化させない取り組み に微力ながら関わっていくとの想いを持ち続けて いきたい。 ﹁歴史は繰り返されるが 、戦争は絶対に繰り返 してはならない﹂徳島分会沖縄行動参加者
芳
田
佳
司
沖縄平和行動に参加して、はや一二年の歳月が 経過した。民間人を含め一二万人もの死者を出し た沖縄戦があったことを 、恥ずかしながら当時 、 初めて知ることとなる。 平和公園の﹃平和の礎﹄に戦没者の名前が刻ま れているのだが、当時も、名前を彫っている最中 であったことに驚いた記憶がある。 沖縄戦のことについてもっと知りたいと、イン ターネットで検索していたら、 NHK 沖縄放送局 のホームページの中に﹃沖縄戦七〇年、語り継ぐ 未来へ﹄なるものがあった。沖縄戦体験者の証言 が、一〇〇以上も掲載されており、それぞれ六分 ほどの映像で紹介されている。ある女性の体験談 を紹介しよう。 沖縄戦で孤児となり、 米軍基地で働き、 知り合っ た陸軍兵と結婚して女児を出産 。幸せな日々を 送っていたが、夫がベトナム戦争へ出兵、帰国後 精神を病んで自殺をしてしまう。 ﹁二つの戦争が、 両親と夫を奪った。戦争は終わっているが、心の 傷は終わっていない⋮。 ﹂と述べている。 戦争がひき起こす、愚かさをあらためて感じさ せる悲劇である。また、戦争体験者の男性は、戦 争の愚かさを後世に伝え、二度と起こさせてはい けないと言う思いからか﹁この戦争のことをどう 語り継ぐか、今生き残った者の大きな責任だと思 います。 ﹂と話されていた。 我々も、その語り部に積極的に耳を傾けるべき である。いや、傾けなければいけない。 平和行動で学んだことと共に、次の世代へ伝え るために。 ﹃命どぅ宝︵命こそ宝︶ ﹄!徳島分会広島行動参加者
森
本
厚
隆
今回、平和記念誌を発刊するにあたり、平和に ついて考える機会を持つことができました。 日常の生活の中で、私たちはあまり平和につい て考えることがありません。なぜなら、あまりに も平和な生活に浸りすぎているからでしょう。し かし、私たち日本人は、世界でただひとつの原爆 被爆国です。そのことを、年に二度、考える日が あります。それが、広島原爆の日である八月六日 と、長崎原爆の日である八月九日です。 私たち NTT 労組の仲間は、世界の恒久平和を めざし平和活動の一環として広島ピースフォーラ ムおよび長崎平和フォーラムとして、平和行動を 行なっています。 私も以前、広島ピースフォーラムに参加させて いただき、原爆の悲惨さや平和の尊さについて考 える機会を持たせていただきました。テレビなど で知る平和行動も参加することで、より大切で意 義のある取り組みであることを感じることができ ました。 私には、四人の子どもがいます。どの子も大切 で、幸せに成長してほしいと願っております。し かし、世界には、まだテロや戦争に苦しんでいる 子どもたちがたくさんいます。自分の子どもだけ でなく、世界中の子どもたちが、安心で自信を持 ち、 自由に生きていける世界になるように、 私も、 皆さまとともに自分のできることから平和活動に 参加していけたらと思います。また、全電通から の平和運動がこれからも継続する基礎は、いまま で培った経験と組織力による団結です。この活動 が継承されるようつなげていきたい。徳島分会長崎行動参加者
手
塚
広
知
全電通の時代から組織がどのように再編されよ うと変わることなく取り組んできた平和運動。時 代の経過とともに戦争を経験した諸先輩方の高齢 化も進み、生々しい体験談を伝える﹁語り部﹂も 残り少なくなったと聞く。 労働組合の取り組みの柱のひとつでもある反 戦・平和運動を次代に継承していく中で、戦争を 経験したことのない私たちが 、どう言葉を取り 繕っても実際に経験をした被災者の方が真に平和 を願う気持ちを越えることは不可能である。そう いう意味でも広島・長崎を中心とした被災地を訪 れ、その現場に立ち、自分の目で見て自分の耳で 話を聞くことは少しでも﹁語り部﹂に近づくこと となり平和運動を次代につなぐ重要な取り組みの ひとつである。 私が長崎を訪れたのも随分と昔になり、昨夜の 夕飯が何だったかを忘れる昨今では当時の記憶な ど薄れ﹁語り部﹂失格であるが、それでも爆心地 に近い城山小学校の校庭脇に残る防空壕や浦上天 主堂の崩れ落ちた鐘、資料館での実物大の原子爆 弾など、今も鮮明に残る物も多い。 喉元過ぎれば熱さを忘れ、戦争は忘れた頃にや りたくなる?最近の安倍総理を筆頭に、己は戦地 に赴かない指導者は日本を非常に危険な方向に向 けている。平和という言葉を絵に描いた餅とさせ ないためにも国民の平和を願う気持ちと意識の向 上が大事である。高知分会沖縄行動参加者
北
村
彰
祥
二〇一三年六月 、私は ﹁沖縄ピースすてーじ﹂ に参加のため初めて沖縄へ行った。 メイン行動は米軍嘉手納基地周回で、当日の天 気は快晴、おかげで手足は真っ黒に日焼け、汗は 〝ダクダク〟 、周回が終わるとグッタリとなった。 まず目・耳についたのは、戦闘機の離着陸時の 爆音のすごさ、塀越しに見た米軍の基地の広大さ とその米軍家族の居住地の広さ、そこはまるで米 国である。先の戦争での占領とはいえ、この現実 を見たとき、内地にいる我々にとって経験の無い これまでの沖縄県民が抱えてきたさまざまな苦悩 が伺われた。 その後、米潜水艦に撃沈され多くの学童が疎開 途中犠牲となった﹁対馬丸記念館﹂や、うら若き 女学生が多数犠牲となった﹁ひめゆりの塔﹂など の悲劇の戦跡を巡り沖縄戦の現実を目の当たりに した。 先の大戦後、日本の米軍基地の七〇パーセント を越える占有率を持つのがこの沖縄であり、 以降、 太平洋の容石と位置づけられ 、朝鮮 、ベトナム 、 湾岸戦争にいたるまで重責を果たしてきた。 今 、普天間基地から辺野古への移設について 、 沖縄県民と安倍政権が真っ向から対立している 。 先の衆議院選挙ではオール野党が当選、知事選挙 では反対派知事が誕生した。沖縄戦を経た県民の 強い怒りが安倍政権に向けられていると思う。 そのような中、安倍政権は右傾化を辿り、憲法 改悪を目論んでいる。 集団的自衛権をめぐっては、 自衛隊を戦闘地域へ派兵させようとしている。 我々日本人は先の大戦の惨禍を忘れてはならな い。日本人の戦没者は三一〇万人、沖縄戦では唯 一 、 一般住民が戦闘に巻き込まれ九万人の沖縄県 民が犠牲となったのである。 これらの犠牲が礎となり、以降、今日の復興を 成し遂げたことを忘れてはならない。 ﹁戦争反対﹂ ﹁憲法改悪反対﹂の闘いは、日本の 未来に向けての労働組合の宿命である。高知分会広島行動参加者
山
中
隆
志
二〇一〇年広島ピースフォーラムに参加させて いただきました。 原爆ドームや赤十字病院、広島陸軍被服支廠等 の被爆建物をめぐっていき、原子爆弾の恐ろしさ を再認識することができました。 私にとって平和公園や原爆ドームは、小学生の ころの思い出があります。 小学校のころ、広島県に住んでいたことがあり ました。 小学校では夏前になると平和学習といって 、 一九四五年八月六日八時一五分、広島に原爆が落 ちたことや、当時の被害、爆弾の恐ろしさという ものを学ぶ機会が毎年ありました。 平和公園へ遠足もあり、その時には原爆の子の 像の前で平和学習なども行なっていました。 小学校当時のことを思い出しながら被爆建物や 平和公園内を見ていると、ふと、平和公園内の一 本の木に目がいきました。それほど高くない木で すが、ピンク色の花を咲かせていました。夾竹桃 ︵きょうちくとう︶という花です 。この花は夏に 咲くそうですが、 幼いころの平和学習で習った 〝夾 竹桃のうた〟を思い出しました。 〝夏に咲く花 夾竹桃 戦争終えた その日か ら 母と子供の おもいをこめて 広島の野に もえている 空に太陽が 輝くかぎり 告げよう 世界に 原爆反対を〟この歌は三番まであって 、 一番が広島、二番が 長崎、三番が沖縄の ことを歌ったものだ そうです。 ピースフォーラム に参加させていただ き、これからも恒久 平和に向けて自分が できることがあれば 取り組んでいこうと 思います。ありがと うございました。高知分会長崎行動参加者
山
崎
文
昭
今年、戦後七〇年の節目を迎える。一〇年前に 参加した沖縄と七年前に参加した長崎の平和行 動を思い浮かべようと記憶を辿ると 、長崎平和 フォーラムへの参加と平和祈念公園での追悼式を 原爆投下により殉死した女性交換手の方々が眠る 慰霊碑のそばで聞いていた記憶が残っている。 七∼一〇年でも記憶が薄れていくのに七〇年の 歳月もたち、戦争、原爆の悲惨さや命の尊さをど う伝えていくかが戦後生まれの私たちがどう伝え ていくことができるのかが問われているように思 う。 私の叔父は二二歳の若さでマーシャル諸島の海 で玉砕している。父は予科練に志願し、ペリーの 黒船来航で有名な横須賀の浦賀で訓練され、米軍 の本土来襲に備え佐世保で特攻隊員として待機し ていたが 、沖縄決戦が予期せず早かったことと 、 広島・長崎への原爆投下により死なずに終戦を迎 えている。 安倍政権の右傾化への道は国民が知らぬまに手 かせ・足かせを強めているが、いつの時代も苦し められるのは女性や母親達であり、幼い子供たち であることを私達は忘れてはならない。 戦争の悲惨さを知っている人達が高齢をむかえ ていく中で、その方々のひとり一人が思い出した くないであろうことは想像するに難くないが、一 人でも多くの方たちが﹁語り部﹂として後世に伝 えていくことが﹁平和への道筋﹂であると信じて いる。ネオメイト四国分会 広島行動参加者
石
崎
勝
一九四五年︵昭和二〇年︶に日本が連合国に降 伏して戦争が終わりました。日本では終戦と言っ ていますが 、まぎれもなく敗戦です 。それから 七〇年経ちますが、今も﹁戦後○○です﹂という 言い方がテレビや新聞のニュースに出てきます 。 第二次世界大戦後に始まった﹁東西冷戦﹂は終わ りました。しかし、二一世紀に入って一〇年以上 経ったのに、未だ世界は安定した世界体制を築く ことができていません。激動の時代が続いていま す。 あの太平洋戦争の敗戦の日から日本は七〇年目 をむかえます。アジア・太平洋の各地を戦場に約 四年におよんだ戦いの末、膨大な数の日本人が死 にました。さらに住んでいた住民も犠牲になりま した。あらためて戦争に対する感慨を抱く人々も 多いと思います。肉親や友人を失った人々の悲し みは、七〇年という歳月を経てもそう簡単には癒 されはしないでしょう 。そうした人々にとって も、七〇年という年月は決して遠い過去ではあり ません。しかし七〇年も過ぎれば、これからは歴 史の語り部としての生存者も少なくなる一方であ り、戦争の記憶は急速に風化していくのを避ける ことはまぬがれません。その時、最も怖いのは無 知や一方的は思い込みからくる、 日本人独特の ﹁空 気﹂ だと思います。日本は過去に何度か時代の ﹁空 気﹂によって無謀なことをした苦い経験をしてい ます。戦争に勝者はいません。存在するのは多く の犠牲者のみです。それだけではありません。各 国、各民族間の怨恨は消えることがありません。 広島 ・長崎 ・沖縄の資料館にある品々や写真 、 生存者の体験談、各地に残る戦跡は七〇年前の出 来事を鮮烈に今日に訴えかけてきます。この愚か なる過去が今、 再び繰り返されようとしています。 今こそ、あの戦争は何だったのかを冷静に振り返 り、歴史の教訓を真摯に受け止めることが必要だ と思います。ネオメイト四国分会 長崎行動参加者
越
村
秀
爾
今年は第二次世界大戦の終戦から七〇年に当た り、 数々の記念行事が開催されることと思います。 日本はこの七〇年間、戦争をせず、平和を享受 し、 奇跡とも言われる高度成長を遂げてきました。 戦後においてもほとんどの国が内戦や海外派兵に より多くの戦死者を出している中で、日本が七〇 年間も戦闘行為を行なわず、ひとりの戦死者もだ していないのは世界でも極めて少なく、平和国家 としての成功と言っていいでしょう。 日本は世界で唯一の被爆国でもあります。数年 前に広島、長崎で労働組合の平和活動に参加しま した。被爆体験者の方がまだ、ご健在で講演でい ろいろ貴重なお話を聞くことができました。 その昔﹁戦争を知らない子供たち﹂という歌が 流行りましたが、それからも四五年の歳月が経ち ます。戦争を知らない人達の世の中になってしま うのもそう遠い先の話ではありません。 世界にはさまざまな国、民族、宗教があり、世 界平和は難しいことかもしれませんが、戦争の悲 惨さ平和の大切さは未来永劫、伝え続けていく必 要があります。 日本国民としての矜持を持って、将来に渡って 平和を守っていくためにもこれからも平和活動は 続けていかなければなりません。NTT 労組退職者の会 愛媛県支部協議会会長
尾
崎
公
三歳の頃が終戦で、小学校の同級生や近所には 父や兄が戦死した人も多く都会から疎開して来た 人もいた。孤児︵みなしご︶や浮浪者の話題も絶 えず、ラジオでは毎日のように行方不明の親族や 友人を探す﹁訪ね人﹂が流れていた。父親らしき 人に手を引かれぼろぼろの衣類を身にまとった 、 自分と同じ年頃の子供が玄関先に立ち、物乞いす ることも度々あった。戦争で家や仕事を失った人 だろう。母の言いつけで、お米やお芋を袋の中に 入れてあげたが 、あげるものがない時は ﹁お通 り﹂と言って断るように教えられた。それがつら くて表に出られず、去って行く足音を聞きながら うしろめたい気持になったこともある。松本清張 の﹁砂の器﹂を初めて読んだ時には、その記憶が よみがえり、幼い彼は、その後どうなったのだろ うと思ったりした。兄たちが開墾した畑やわずか ながらの田んぼもあったおかげで食べるものだけ は何とかなったが文字通りの自給自足で、買って 食べるというより獲って︵採って︶食べるという 生活だった。学徒動員や軍事訓練に借り出された 先輩とちがい、戦争そのものの苦しみを味わうこ とはなく、戦後民主主義のおかげで、貧しい中で も自由に育った。後から考えれば戦後の復興の一 番大変な時期に父や母、当時の大人たちが汗水流 し苦労していることを知らずに過ごしただけだっ たのだと思う。 今、東日本大震災で親、兄弟、家や仕事を失っ た人が、悲しみや苦しみを乗り越え、ひたすら前 を向き立ち上がろうとしている。同じように戦後 の復興とともに大きくなったのが自分たちであ る。以来、尊い犠牲の教訓と平和憲法のおかげで 日本は﹁戦争をしない国﹂として豊かになり国際 的な信頼を築いてきた。しかし、それは平坦な道 ではなかった。今もそうであるように、あの戦争 さえも正当化し、美化し、戦争ができる国にしよ うとする動きは、この間幾度となくあった。その 度に労働組合などが抵抗し反対し平和を守ってき た。そのような時期、労働組合は﹁民主勢力﹂といわれ ﹁平和勢力﹂ と謳われた。今はどうなのか。 特定秘密保護法や集団的自衛権の解釈見直し、武 器輸出三原則形骸化など安倍内閣の右傾化、暴走 が益々エスカレートするが、国会周辺のデモの中 にも労働組合の旗を見かけることはない 。﹁我々 が青春をかけたものは 、いったい何だったんで しょうね﹂八〇歳を超える先輩の年賀状には、今 年そうしたためてあった 。﹁平和なくして労働運 動なし﹂というが﹁平和は受け身でなく能動的な 意思と行動で守るもの 、創るもの 、育てるもの﹂ である。労働組合を会社や職場に閉じ込めてはな らない。かつてのような国民をリードするスケー ルの大きな運動をめざしてもらいたい。
NTT 労組退職者の会 香川県支部協議会会長
國
方
勲
NTT 労組四国総支部が﹁平和なくして労働運 動なし﹂を合言葉に労働運動を進めていることに 敬意を表します。 一九四四年生まれの私には、戦中の悲惨さを語 ることはできませんが、戦後の貧しさと戦後復興 に向けた諸先輩の努力を少しは体感しています。 私は、中国・山東省で生まれ、直後に母親と祖 父母のもと︵現・韓国︶に移り住みました。父親 は生後一三日目に民間物資搬送中に共産党軍の襲 撃で命を落としました。終戦後、祖父の故郷に引 き上げ、母親は闘病生活で六歳の時に他界し、両 親の記憶はありません。 年老いた祖父母に育てられましたが、幸いにも 田舎のことで地域の人々にも育まれ、貧しい生活 ではありましたが、自分だけが﹁不幸﹂との思い はありませんでした。 日々の生活が国の監視と統制がなくなり、人権 が保障され、貧しいからこそ生活の安定に向けて 支え合う、 多大な犠牲を代償に得た﹁平和の賜物﹂ と今でも思っています。貧しさが﹁心を貧困﹂に するのでなく、貧富の差が﹁子供の希望や夢を阻 む﹂ことを学びました。この経験が労働運動に携 わる私の原点となっています。 テロの脅威や凶悪犯罪の拡大は多様な要因があ りますが、貧富の格差拡大と固定化が大きな要因 のひとつであり ﹁将来への希望が持てない﹂ ﹁失 うものは何もない﹂との刹那的衝動がテロや犯罪 を増幅させていると思われます。武力によるので なく生活基盤の支援こそが抜本的解決策につなが るものと考えます。 安倍政権は、戦争のできる国に向かって暴走し ています。 ﹁特定秘密保護法﹂ ﹁集団的自衛権行使 の閣議決定﹂など、地球の裏側まで自衛隊を出動 させ武力行使の道を切り開こうとしています。 自衛隊員が戦場に派遣され、犠牲者がでる事態 が生じれば 、自衛隊に志願する人がいなくなり 、 強制力を働かす﹁戦前の徴兵制﹂に逆戻りする恐 れがあります。戦争の愚かさ、平和の大切さを今ほど再認識し なければならない時はありません。 安倍政権の暴走を押し留めるには ﹁反安倍政権﹂ の政治勢力の拡大と世論の形成以外にありません。 無関心が最大の敵であることを肝に銘じ、政治 への関心を高め、 労働組合が平和の砦となるよう、 さらなる政治闘争の強化に取り組まれることを期 待しています。
NTT 労組退職者の会 徳島県支部協議会会長
谷
岡
行
利
﹁戦後﹂ ﹁平和﹂の文字を目にする度、母の手ひ とつで育てられた自分自身の子供時代が懐かしく 思い出される。 私の父は、 敗戦色濃い一九四四年︵昭和一九年︶ 六月、沖縄戦増援のため鹿児島港から輸送船﹁富 山丸﹂で南下中、鹿児島県徳之島沖で米潜水艦の 攻撃を受け、船もろとも海中に沈み戦死した。 ガソリンの入ったドラム缶一五〇〇本を積んで いたため、海上は一面火の海と化し大惨事となっ た。 四国、九州旅団の将兵三七二四人の人生は、魚 雷三発により一瞬で断ち切られた。 遺骨は帰らず、白布に包まれた桐の箱には石こ ろ一個が入っていただけという。 戦後の騒然とした時代、猫の額ほどの田んぼが あったとはいえ、女手ひとつで三人の子供を育て るのは並大抵のことではなかったろう。 その母も、徳島空襲の際には爆風で吹き飛ばさ れ、生死の境をさまよい、一家離散を覚悟した危 機もあったと聞く。今では考えられないが、片親 育ちだからと就職差別を受けたことも、当時の貧 困実態は戦争遺児にしか分からない。 時は過ぎて戦後七〇年。戦争体験者の高齢化に より、各地で実施されていた追悼行事・同期会等 が転機を迎えており﹁富山丸﹂遺族会主催の慰霊 祭も、遺族の高齢化が進んだため昨年からは行な われていない。 戦争を知らない世代が八割を超え 、コミュニ ケーションや相互理解が難しくなった現代にあっ て、戦争体験や原爆体験は、その時代の世代だけ に封じ込めてはならない。 戦争による多くの人々の死や犠牲を無駄にしな いものがあるとすれば、それは戦後積み重ねてき た﹁平和憲法﹂であり﹁戦争放棄﹂こそ遺言とし て守られるべきであろう。 しかし、ここにきて安倍政権は、恒久法制定や 周辺事態法改正 、 P KO 法改正 、文官統制改革 、 邦人救出、船舶検査など、安全保障をめぐる与党協議を次々と行ない、今国会中の成立をめざして いる。日本の安保政策を根底から組み替える内容 であるにもかかわらず、我々国民には、提案情報 や論議が得られないままであり、何がどう変わっ ていくのか、分からない状態に置かれている。 力による一方的な行動や国同士の小競り合い 等、環境変化により安保政策・外交が問われてい るというが、隣国との摩擦原因を作り出したのは 安倍首相自身のはずだ。 与党が圧倒的多数を占める国会では、野党の出 来ることに限度はあろうが、かつてであれば、大 問題になったレベルの提案があっという間に過ぎ 去って、また次の大問題に移ることが繰り返され ており、ここ一番の底力を期待したい。 いずれにしても、自衛隊を外交の道具化し、国 際紛争を解決しようとすれば 、多くの国民の犠 牲・悲劇を招くことを我々は先の戦争で学んだは ずだ。戦争に至らずとも軍拡はさまざまな代償を 伴なう。 戦争を知らぬ世代が戦争を風化させず、これか らどう平和を守っていくかがいま問われている。
NTT 労組退職者の会 高知県支部協議会会長
國
弘
昭
日本国憲法前文には﹁⋮政府の行為によって再 び戦争の惨禍が起こる事のないようにすることを 決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し ⋮﹂ とあり、又第九条には、一項で﹁正義と秩序を 基調とする国際平和を希求し、国権の発動たる戦 争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛 争を解決する手段としては、永久にこれを放棄す る﹂と明記し、二項では﹁陸海空軍その他の戦力 は、これを保持しない﹂と明記している。 戦後七〇年を経て戦争経験者が少なくなる中 、 悲惨な経験を風化させず、非戦の願いを次の世代 へ強いメッセージを送らなければならないと考え る。 私は昭和一八年生まれで、第二次世界大戦中に 生まれたが、戦争の記憶は全くない。しかし、父 親は二回も南方方面に出征し、幸いなことに無事 生きて帰ることができた。父親は私に戦争の話は あまりしたがらなかったが、南方へ行くまでの悲 惨な状況を話してくれたことがあった。船での移 動中、船酔いや胃腸関係の弱い人は戦地につくま でにバタバタと倒れていったとのことであった 。 満足に食べるものも無く、苦しかったと言ってい たが、実際の戦闘状況については、話すことはな かった。よっぽど悲惨な状況だったのだろう。こ んな経験は二度としたくないと、かみしめるよう に言っていたことを覚えている。 今世界のあちこちで戦争が絶えない。人間同士 が殺しあっても 、何の問題の解決にもならない 。 残るのは悲しみと恨みしか無いのではないか。イ スラム教やキリスト教など、世界中のあらゆる宗 教は人を人として尊敬し、救うためのものであろ う。お互いにいがみ合ったり、傷つけあったりす るものではないはずである。 世界中の人が、自分も大事にするが、他人も大 事にすると云う気持ちを持てないものだろうか。 翻って今の日本を考えた時、安倍政権は国会与 党の数の力を背景に強権的な政治運営を行なっている。特定秘密保護法・集団的自衛権行使容認の 閣議決定・国会答弁での自衛隊を﹁わが軍﹂と発 言する等、日本国憲法を全く無視したかのような 言動が目に余る。 日本を戦争のできる国にしてはならない。二度 とこのような経験をしたくないと言った父親の言 葉を思い出す。 国を良くするも悪くするも政治なら、その政治 家を選ぶ責任は我々国民にある。心して事に当た りたいと思う。
愛媛分会 f r a g e 委 員
山
橋
宣
裕
第二次世界大戦末期の一九四五年八月六日、ア メリカ軍 B ︱ 29爆撃機から一発の原子爆弾が広 島上空へ投下され 、爆風や熱線により一瞬にし て約九万人が死亡した 。爆心地付近の地表温度 は三〇〇〇 ℃ に 達し 、衝撃波を伴う爆風は秒速 四四〇メートルを超えたという。また放射能汚染 による二次被害によって広島市人口の約半分であ る一六万人が犠牲になっている。 私は小学生の修学旅行で原爆ドームへ当時の様 子がどのようなものだったのか見学に行った。今 でも印象に残っているもので、焼け跡の広島から 逃げる一組の親子の様子が思い出せる。子はすで に原爆の熱によって溶け出し死亡しているが、背 負って逃げる母親は逃げ出すことに集中してそれ に気づいていないという内容だった。あまりにも むごいその様子を見て子供ながらに衝撃を受け 、 助かる見込みはないにしても必死に生き抜こうと するその姿に胸がいっぱいになったことを覚えて いる。 その後の八月一四日にポツダム宣言を受託 。 一五日の玉音放送によって第二次世界大戦は終結 した。大日本帝国の人的被害は軍人・民間人含め 約三一二万人が犠牲になった 。一九三九年から 一九四五年の六年という短い期間でこれだけの被 害が出る戦争を今後は起こしてはならないものだ と再確認できる。 現在では技術の発展によりインターネットなど から手軽に戦争の様子を入手することができる 。 忙しくて資料館などに行く時間がない人でも調べ られるのでいかがだろうか。愛媛分会 f r a g e 委 員
小
原
弘
志
今回あらためて平和 、戦争について考えてみ た。小学生の時、 修学旅行で広島県の原爆ドーム、 広島平和記念資料館に見学に行った。当時の生々 しい写真を見て恐怖とショックを受けた記憶があ る。建物の入り口で座っていた人の影の写真を見 て、初めは何か分からなかったが説明を聞くと熱 線で人間が一瞬で蒸発したものと聞き、じわじわ と汗がにじんだ。小学生の私にとって凄惨な展示 物は目を背けたいものも多かったが、原爆の恐ろ しさを知るために向き合った記憶がある。 中学生の時には沖縄に修学旅行へ行き、嘉手納 基地を遠目から見学した。戦闘機が短い時間に何 機も飛び立つ様子をみて戦争が起こるとこれ以上 の戦闘機が行き来するのだと説明を受けた。沖縄 平和祈念資料館では、映画でしか見たことのない ような写真があり、日本唯一の戦場となった沖縄 戦の激しさを感じることができた。修学旅行のカ リキュラムの中に戦争体験者の話を聞くことがで き、アメリカ軍が上陸してからの戦闘の激しさに より、顔見知りの人が目の前で亡くなったとの話 を聞いた時、戦争は絶対に起こしてはいけないと 思った。体験者の方の﹁戦争は悲惨よ﹂という言 葉は未だに記憶に残っている。 その後、会社に入社するまで戦争と平和につい て学ぶ機会はなくなり、組合活動を行なう中で平 和活動を行なっていることを知り、機会があれば 平和活動に参加していきたいと思っている。私た ちの後の世代に戦争を体験することがないように 強く願っている。愛媛分会 f r a g e 委 員
大
須
賀
ゆ
り
ざわわ ざわわ ざわわ 毎年、夏が来るとこの歌が明石家さんま主演の 映画と共に流れてくる。初めてこの映画を観た時 は﹁これが現実にあったことなのか﹂と息を呑ん だ。 国のために全力を尽くし、負傷した兵士たちが 邪魔者扱いされ、毒薬を差し出される場面では胸 が苦しくなった。 映画の内容があまりに衝撃的だったため、事実 を確かめたくて、戦争中に九州の大牟田へ派遣さ れた祖々父に話を聞いてみた。祖々父は何とか生 きて帰ってくることができたものの、友人の中に は違う戦地で命尽きた者もいたという。 次は祖々母に聞いてみた。新婚当初、夫が戦地 へ派遣されることが決まった時の心境 ・ ・ ・ 。返っ てきた答えは意外にも﹁呼ばれたら行かんといか んかったからね﹂というものだった。 現代の日本では、戦争を繰り返してはいけない と学校教育でもあるように、戦争=負の歴史だと 捉えられている。平成の時代に生まれた私が、も し、自分の夫が戦地に行くことになればハッキリ ﹁ N O ﹂と言うだろう。 それが言える時代になった。 そう言える勇気を持てる時代を戦争中に苦しんだ 先代たちがつくってくれた。 今でも海外では戦争が多発している。日本が巻 き込まれる可能性もゼロではない。これからの日 本を背負っていく私たち若い世代も無関心ではい られない。むしろ無関心でいてはいけない。今の 平和な毎日が当たり前のものではなく、先代たち の努力の賜物であることに感謝し、私たちがこの 当たり前を維持していこう。 ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは消えない愛媛分会 f r a g e 委 員
浮
田
恵
津
子
私は戦争どころか小さな内紛すら体験したこと がありません。国民のほとんどが戦争はイスラム 国のような遠い異国の事件だと考えていると思い ます。空想や睡眠時の夢をすぐ忘れてしまうよう に、体験していない戦争という事実は忘れてしま います。 二〇年ほど前に戦争を体験した語り部さんのお 話を聞く機会がありました。どこにでも見かけそ うな普通のお婆さんが大きな会場の壇上で居心地 悪そうに話し始めたことを最初はおかしく思えま した。お婆さんは二〇代で戦争にあい、戦争で大 怪我を負い、家族も何もかも全てを失い苦しんだ こと、戦後暫くは経済的にも精神的にも大変辛い 思いをされたことを涙ながらに話しておられまし た。会場内もすすり泣く声でいっぱいになりまし た。お婆さんは各地で何度も繰り返し戦争の話を されているそうです。その度に戦争での出来事が 鮮明に目の前に思い浮かび怖く辛く悲しくなり毎 回泣いてしまう、戦争の悲惨さをたくさんの方に 知って欲しい、二度とあんな悲しい体験を下の世 代にさせてはならないと話されました。 語り部さん達も高齢化により少なくなり、実体 験をお話しできる方も僅かでしょう。七〇年間戦 争が行なわれていないのは、戦争についての知識 が語り継がれてきたからで、今は戦争を知らない 世代がほとんどで、何もしなければどんどん風化 してしまうのです。次は私達が自分より下の世代 に戦争がどういうものなのか継承し二度と起こら ないようにしなければなりません。愛媛分会 f r a g e 委 員
武
智
優
太
鹿児島県南九州市知覧町、山間の小さな町は薩 摩の小京都と云われる雰囲気を漂よわせている 。 武家屋敷の庭や側溝の清流に放たれた鯉が心を和 ませる。 この町外れの小高い台地に陸軍知覧特攻基地が あった。 ここは太平洋戦争末期に沖縄戦へ向けて若者た ちが片道切符で飛び立って行った場所である。現 在は知覧特攻平和館になっている。 特攻作戦とは人類史上類のない爆装した飛行機 がもろとも敵艦に体当たりするという作戦だ。記 念館内には太平洋戦争時に特攻作戦で散った一〇 代・二〇代の若者︵英雄︶の写真や遺書・手紙な どの遺品が展示されていた 。遺書を拝見すると 、 自分を犠牲にしてでも御国や家族、恋人を守りた いという粋高な思いを感じた。 ﹁お国のために喜んで死んで行きます﹂という 姿勢で飛び立って行く思い。 写真を見ると皆、笑顔で出撃される様子が見て 取れる。 死の恐怖を克服しているというより死の恐怖を 感じていないと強く思った。大志の前には死の恐 怖などないのでしょうかと思う。そして、今の日 本があるのは犠牲となられた方たちの意思あって こそと深く感じることが出来る。そんな、いろん なことを考えさせられる場所だと思う。 戦後七〇年を迎え戦争を体験した方がだんだん 少なくなって行く中で戦争の悲惨さを風化させな いことが大切である。戦争は人と人とが殺し合う 悲惨なもの、絶対にだめだと次世代に伝えていく ことが唯一私たちにできることだと思う。愛媛分会 f r a g e 委 員
嘉
村
優
希
﹁平和﹂とは何か ?と問われた時 、今の私には 即答できる自信がない。幼い頃は、学校で行なわ れる平和集会や道徳の授業、被爆地への修学旅行 等、平和について考える機会が多かったように思 う。しかし、歳を重ねるにつれ﹁平和﹂とは何か を考える機会が減り﹁平和﹂な日常が当たり前と 感じている自分自身がいた。しかし、あらためて ﹁平和﹂について考える機会があった 。それが 、 被爆地で行なわれた労働組合主催の平和行動であ る。 私は昨年の夏、長崎県で行なわれた平和行動に 参加した 。出身地が佐賀県の私にとって 、﹁被爆 地長崎﹂について考える機会は、前述のとおり幼 い頃には数多くあったのだが、歳を重ねるにつれ ﹁被爆地長崎﹂で起こった出来事について 、どこ か遠くに感じていた。平和行動は二日間にわたり 行なわれ、原爆資料館や爆心地周辺の訪問・平和 集会への参加など﹁平和﹂とは何かを真剣に考え させられる時間であった。幼い頃訪れた原爆資料 館では、ただ怖いという感情しか浮かばなかった のだが、歳を重ねた今訪れてみるとさまざまな感 情が浮かんできた。大切な家族を一瞬にして失っ てしまった悲しみ、夢や希望を途中で絶たれた喪 失感 、焼け野原を目の当たりにした際の絶望感 等、戦争で命を落とした一人ひとりの気持ちや環 境を、今の自分自身に当てはめて考えると胸が張 り裂けそうだった。 平和行動に参加後 、当たり前に存在する ﹁ 平 和﹂な環境を少しではあるが意識するようになっ た。一個人では、大きな﹁平和﹂を創ることはで きないが、身近にある小さな﹁平和﹂を創り出す ことはできると思う。一人ひとりが当たり前に存 在する﹁平和﹂を少しでも意識することで、大き な ﹁平和﹂ につながっていくのではないだろうか。 今回の平和行動で感じたこの気持ちを忘れること なく、当たり前の﹁平和﹂に感謝しながら、心豊 かに生活していきたいと思った。香川分会 f r a g e 委 員