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盾と矛? : ミナンカバウ社会にみるイスラームと母系制の関係について [Unbreakable Lance vs. Impenetrable Shield?: On the Relationship between Islam and Matriliny in Minangkabau Society]

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東南 ア ジア研究 18巻2号 1980年9月

盾 9

-

ミナ ン カバ ウ社 会 に み る イ ス ラー ム と母 系 制 の 関 係 に つ い て

*

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K ATO*

TheMinangkabau ofW estSumatraaredevout mIoslemsandatthesametimefollowersofmatrili -nealadat(tradition). Scholars have long been perplexed overthisseemlngly contradictory com・ bination of patrilineally-oriented Islam and matriliny:like the proverbial Chinese merchan t whotriedtosellanallegedlyunbreakablelanceand an impenetrable shield in a single deal,isn't Minangkabau society contradicting itselfP The Minangkabau"paradox"ha・sremainedunexplained

,

sincescholarstendsimplytocomparelslamiclegal principleswith matrilinealadatlawsand practices.

このよ うな制度(ミナ ンカバ ウの母系制)が, 父系制的イスラームの法的枠組 との関連 におい て一体 いか に機能す ることがで きるのか, とい う疑問は,多 くの人の臆測を誘 って きた。

H.

ギ アツ この矛盾 (イスラームと母系制の両立) こそ が,ブスケ (G.H.Bousquet)を して

,

「ミナ ン カバ ウの事例 は,イスラーム社会学 における驚 くべ きパ ラ ドックスである」 とみな さしめた も のであ り, また, ファン・ロンケル (Ph・S・van Ronkel)を して,アダ ッ トとイスラーム, 即ち 地方的慣習 と普遍 的宗教 という対立概念が,い かに して 「ミナ ンカバ ウ民族性」の基礎 ともな るよ うな統合を形づ くることがで きたのか と, 思案 させた ものなのである。

T.

アブ ドゥラ *京都大学東南 アジア研究 セ ンター;TheCenterfor

SoutheastAsianStudies,KyotoUniversity

222

Thispaperlooksratherattheparadoxinitshistorical context,aimingto丘ndoutwhatIslam signi丘edto Minangkabausocietyintheprocessofitslslamiz a-tion. A cmcialin且uencewasthePadrimovement

,

an Islamicreformism which rocked Minangkabau societybetweenthelateeighteenthcenturyandthe early nineteenth century・ Islaml together with matrilinealadat,cametobeperceivedasofferinga new basisofMinangkabau identityand solidarity againsttheencroachmentintotheHMinangkabau World" oftwoin丘delforeign powersクーhe Dutch andtheBatakofnorthernSumatra.

は じ め に イ ン ドネ シア の 一 種 族 で あ る ミナ ンカバ ウ 人 は , そ の 人 口数 (1971年 現 在 で 約350万 人 ) に お い て , 世 界 で も恐 ら く最 大 の 母 系 制 社 会 を 形 成 して い る。1)単 に 母 系 制 と い う比 較 的 珍 しい親 族 制 度 の ゆ え ば か りで な く, 彼 らは ま た , イ ス ラー ム に対 す る強 い 信 仰 心 に よ っ て も有 名 で あ る。 イ ン ドネ シア人 口 (約 1億 1)ここにあげてある ミナ ンカバ ウの人 口数は推計 値 であるが, その 推 計 方 法 については Kato 【1977:155-156]を参照。ミナ ンカバ ウに匹敵す る規模の大 きな母系制社会 は,イン ドのマ ラバ

ール (Malabar)海岸 に住むナヤール (Nayar)で,

1970年代 中半 における推定人 口は,300万人強 である[Fuller1976:ix]。

(2)

加藤 :矛

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万人 ) の

90

%

近 くは イス ラー ム教 徒 で, イ ン ドネ シアは世 界最 大 の イス ラーム国家 で あ る。 しか し, イ ン ドネ シア人 の多 くが 「統 計上 の イス ラーム教 徒

で あ るの に対 し,ミ ナ ンカバ ウ人 は, ス ンダ人 (西 ジ ャワ),ブギ ス-マ カ ッサル人 (南 ス ラウ ェシ), アチ ェ人 (スマ トラ北端 ) な ど と並 んで, イ ン ドネ シ アの 中で も敬 慶 な モ ス リム(イス ラー ム教 徒) と して, 夙 に知 られ て い る。 母 系制 と,父 系制 的色彩 の濃 い イス ラーム とい う, この二 つ の相 反す る要素 の混清 は, 多 くの人 類学者 ・社会学 者 の興 味 を駆 り立 て て きた。 現在 まで の と ころ, この 「パ ラ ドッ クス」 に十分 満足 の ゆ く説 明を与 えた人 はい ない。本 論 で は, この問題 に対す る私 な りの 解 答 を考 えて みた い。 ミナ ンカバ ウ社会 にみ る母 系制 とイ ス ラー ムの共 存 は, 中国の故事 にい うと ころの, い か な るは こを もって して も決 して 突 き破 れぬ● ● たて と,● ● い か な るたて を も突 き破 る ことので●● きるは ことを同時 に売 ろ うと した商人 の よ う●● に,果 た して 矛盾す る もの なので あ ろ うか。 も し矛盾 しな い もので あ るの な らば,後 述 す るよ うに理念 の上 で 明 らか に相対 立す る母 系 制 とイス ラー ムが, いか な る過 程 を-て, ミ ナ ンカバ ウ人 の意識 の 中において 矛盾 しない もの と して受 容 され るにいた った ので あ ろ う か。 これ らの疑 問 に対す る私 の答 を先取 り し て述 べ れ ば, ミナ ンカバ ウ人 は母 系制 とイス ラー ムの共 存 を矛盾 とは意識 して お らず, ま た, ミナ ンカバ ウ人 の この 曲芸 的 と もいえ る 現実認 識 の謎 を理解 す るため には, ミナ ンカ バ ウ社 会 の イス ラー ム化 の歴史 的状 況 お よび 過 程,特 に

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世 紀末 か ら

1

9

世 紀初 め にか けて 起 こ ったパ ドリ(Padri)運 動 (イス ラーム改 革運 動) の考 察 が不可欠 で あ る。 ミナ ンカバ ウの 「パ ラ ドックス」 に関す る 従来 の論 議 は, イ ス ラー ムの法 と理念 を考察 対 象 と して進 め られ る ことが多 か った。 しか と 盾 9 し,宗教 が あ る社会 に と って 意 味す る ものは, 必 ず しも聖典 に書 かれて い る ことと同 じで は ない。 宗教 が人 々に対 して持 つ意 味 は, あ く まで もそ の人 々の住 む社会 の歴 史 的経験 の所 産 で あ り, ミナ ンカバ ウの 「パ ラ ドックス」 も, ミナ ンカバ ウ社 会 の イ ス ラーム化 の過 程 において, イス ラー ムが担 うにい た った意 味 を考 えず して理解 す る ことはで きない。 以下 で は次 の順序 で考察 を進 めて ゆ くこと とす る。 Ⅰ ミナンカバウ社会と母系制 Ⅱ イスラームの志向する親族体系 Ⅲ 矛盾 か斉 合 か Ⅳ ミナンカバウ社会のイスラーム化 Ⅴ パ ドリ運動の概観 Ⅵ パ ドリ運動の再評価 ラジヤ 1. 王 の伝統的構能 2.宗教改革運動の意味●● Ⅶ イスラームと母系制- 新 しい統合 エ ピロー グ Ⅰ ミナ ンカバ ウ社 会 と母 系制 ミナ ンカバ ウ発祥 の地 は, 中部 スマ トラの 西海岸 に位 置す る西 スマ トラ州 で あ る (図

1

参照)。 その面 積 は 約 46,000km2で , 九 州 よ りやや広 い。海 岸近 くの土地 は平担 で あ る が, 内陸 部 は スマ トラを 縦 断 す るバ リサ ン (Barisan)山脈 にまた が って お り, 山が ちで あ る。一般 に内陸部 ,特 に内陸 中核部 の地 味 は豊 かで, 西 スマ トラ州 内の人 口分布 もこの よ うな立 地条 件 を反 映 して, 内陸部 の方が, 概 ね村落部 の人 口密度 が高 い。 タ ン ポ ミナ ンカバ ウの伝 承 (tambo)に よれ ば,ミ ナ ンカバ ウ人 は,タナ・ダ タール,アガ ム,リマ プル ・コタとい う三 つ の 内陸 中核 地域 - こ タ● レ ツ ク れ らは総称 して 内 陸高地 (darek)と呼 ばれ る - にまず定住 し, そ こか らの ちに海岸地 帯 ランタウ を含 めた他 の周辺 地域(rantau)に,村 落分 離 を繰 り返 しつつ拡散 して い った といわれ る。

(3)

東南 ア ジア研 究 18巻2号 図 1 西 ス マ ト ラ 州 西 ス マ トラ州 にお け る主要 な経 済活 動 は農 業 で , ジ ャワ,マ ドゥラ,バ リを除 くい わ ゆ る イ ン ドネ シアの外 島 の 中で は, 水 稲 耕作 が 広 範 囲 にみ られ る数 少 な い地 域 の一 つ で あ る。 稲 作 以 外 の農作物 と して は, 野 菜 , 豆 類 , 磨 辛 子 な ど, そ し し多 年 性 の作 物 で は, ゴム, コ コナ ツ, シナ モ ンな どが栽 培 され て い る。 農 業 以 外 で は織物 ,銀 細 工 とい った手 工 業 が, 一 部 の地 域 で み られ る。 また , 商 業 も盛 ん で あ る。

1

97

1年 の人 口セ ンサ スに よれ ば , 西 ス マ ト ラ州 の人 口は約280万 で ,恐 ら くそ の90%弱 224 に あた る250万人 が , ミナ ンカバ ウ人 で あ る と推 測 され る。残 りの

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万人 は, ジ ャワ人 , バ タ ック人 (北 ス マ トラ出身), 華 人 な どで , 彼 らは 主 にパ ダ ン

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を 中心 と した 都 市 に 居 住 して い る。 多 くの ミナ ンカバ ウ人 は西 ス マ トラ州 以 外 の地 に も移 り住 んで お り, そ の数 は

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年 時 点 で 約

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万 人 と推 計 され る。 彼 らは主 と し て 家 族 連 れ の 出稼 ぎ人 で ,現 在 で は,ジ ャカル

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(4)

加藤 :矛 と バ ン(Palembang)とい った ,イ ン ドネ シア の 大 都 市 に集 中 して い る。2)ム ラ ンタ ウ(mer an-tau)と呼 ば れ る出稼 ぎ な い し地 理 的 移 動 の 習 性 は, 母 系 制 と イ ス ラー ムの 強 い浸 透 と並 ん で , ミナ ンカバ ウの3大 特 色 と もい え る もの で あ る。 行 政 区分 の上 で は, 西 ス マ トラ州 は八 つ の 堤 (kabupaten)に分 か れ, そ の下 に は73の郡 ナガ リ

(kecamtan)と500以 上 の村 (nagari)が存 在 す る。 ラジヤ ミナ ンカバ ウ社 会 にはか つ て 王(raja)が存 在 した が , あ とに述 べ る よ うに王 の機 能 は主 に象 徴 的 な もの で あ り,昔 か らナ ガ リは高 度 の 自律 性 を有 し, 「村 落 共 和 国」 と まで特 徴 づ け られ て い る [Abdullah 1972a:185,n. 7]。 独 立 後 の イ ン ドネ シア政 府 に よ る中央 集 権 化 - の 努 力 , そ して 官 僚機 構 の整 備 は, ナ ガ リの 自律 性 を 弱 め た とは い う もの の , イ ン ドネ シアの他 の社 会 と くらべ ,アダ ッ ト(adat - 慣 習 法 ) が村 で の生 活 を律 す る割 合 は ま だ大 きい。 そ して , この アダ ッ トの核 を形 成 して い るの が母 系 制 の親 族 制 度 で あ る(以 下 , アダ ッ ト, 母 系 制 , 母 系 制 アダ ッ トは, 相 互 に交 換 可 能 な言 葉 と して 使 用 す る)。 ミナ ンカバ ウの母 系制 は, そ の伝 統 的 な形 に お い て次 の よ うに特 色 づ け られ る。3) 母 系 制 で あ るか ら, 出 自 は母 方 を通 して た ナガ リ ど る。 一 つ の村 に住 む 同 一 出 自 をた ど る人 々 は, 母 系親 族 集 団 を形 成 す る。 村 に は い くつ か の レベ ル の 母 系 集 団 が存 在 す る。4)村 の う ちで最 も高 い レベル の母 系 集 団 は ス ク (母 系 氏 族 )で ,各 々の村 は,通 常 ,村 内族 外 婚 を 原 則 とす るい くつ か の ス クか ら構 成 され て い る。 個 人 の属 す る ス クは, ご く限 られ た 例 外 を除 き一 生 を通 じて 変 る こ とが な い。結 婚 後 も夫 2)ミナ ンカバ ウの出稼ぎ人の大都市への集中は, 優れて1950年代以降顕著 にあ らわれた現象であ る。 ミナ ンカバ ウ社会 における出稼ぎの社会 ・ 文化的意味,そ して出稼 ぎ形態の歴史的変遷に ついては,Kato[19771を参照。 盾 9 婦 は別 々の ス クの成 員 で あ り, 子 供 は母 親 の ス クに属 す る。 ス クはパ ユ ンと呼 ば れ るい くつ か の血 族 集 団 か らな る。 ス クが ど ち らか とい う とゆ るい 結 合 体 を構 成 して い るの に対 し, パ ユ ンは よ り共 同 体 的 な性 格 の 強 い集 団 で あ る。 パ ユ ン は , プ ンフル (penghulu)とい う儀 式 に の っ 3)「伝統的」の 時代区分を 明確 にすることは必ず しも容易でない。19世紀初頭以降,オ ランダ植 民地政庁の政治 ・経済的支配は, ミナ ンカバ ウ ダ レ ツ ク 社会 の中心、地域である内陸高地 にまで拡大 した が, これ以前の時代 にあっては, ミナンカバ ウ と外 部 勢 力 (グジャラー ト, アチェ, イギ リ ス,オランダ) との接触 は,主 として海岸地帯 の商業活動だけに限 られていた。従 って,19世 紀以前,特 にイスラーム化 (16世紀か ら17世紀 にかけて)以前の時代 における, ミナ ンカバ ウ の母系制に関する我 々の知識は, 非常 に限 られ タ ン ポ ている。 本論での記述は多 く伝承[Dat oekBa-toeah Sango ca・1966;Datoe'SanggoenoDi Radjo 1919;DatukBatuah1956;Dat ukNa-gariBasa 1966;RasjidManggis 1971]に依

拠 している. タンボは本来 口詞伝承であった も のが,イスラームの到来後アラビア文字を使 っ て ミナ ンカバ ウ語で書かれた ものである。その 内容は ミナ ンカバ ウ社会および村 々の起源 に関 する物語,そ しで慣習法の説明が中心である。 タンボの描 く母系制は,必ず しも架空の もので はな く,オランダ人の手 になる19世紀時代の母 系制 の記述 と多 くの点 で一致 す る[Josselinde Jong 1952]。 ここでは

,

「伝統的」 の解釈 とし て,貨幣経済の浸透が比較的限 られていた●●● 19世 紀の ミナ ンカバ ウ社 会 を 念頭 に 置 くこととす る。以下の伝統的母系制の記述では,常 に過去 形を使 う繁雑 さを避 け,時 には現在形で叙述が なされているところもあるが, これ とて もあ く まで過去の状態 に言及するものであることに注 意 されたい。なお,20世紀初めの母系制にの っ とったいまだ伝統的な村での生活様式は, ラジ ャブの自伝【Radjab 1950]に最 も詳 しい。 4)村の中に存在す る母系集団の種類 ・名称につい ては,研究者の間で意見が異な り,また,酉ス マ トラ州の中で も地域によ り違いがみ られる。 本論では分析上 の便宜のため,3種類の母系集 団- スク(suku),パユ ン(payung),パルイ ッ ク(paruik)- のみを検討す ることに した。 こ れ らの集団の名称は,使 う人,使われる場所 に よって違 った意味を持つ ことがあ り,必ず しも 筆者が使 う意味のみに限定 されてはいない。 225

(5)

東南 ア ジア研究 18巻 2号

と って 任 命 され た男 性 の長 を戴 く。 また パ ユ ンに は, 農 地 ,家 屋 , 養魚 池 , 家 宝 の よ うな 共 同世 襲 財 産

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- ル タ・プ サ カ) が存在 す る。 この財 産 は, プ ンフル とい え ど も勝手 に売 買 な どの処 分 をす る ことが許 され な い。伝 統 的 ミナ ンカバ ウ社 会 に あ って は, 個 人 財 産 , 特 に土 地 , 家屋 とい った不 動 産 類 の個 人 財 産 は, 原則 と して存 在 しなか った 。 パ ユ ン自身 は, い くつ か の小 血 族 集 団 で あ るパ ル イ ックか ら構 成 され る (村 , ス ク, パ ユ ン, パ ル イ ックの 関係 につ いて は, 図2参 照 )。 パ ル イ ックは 「一 つ の腹 」か ら出た人 々 を 意 味す る。 同 じパ ル イ ックの成 員 は,通 常 ル マ ・ガダ ン

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と呼 ばれ る大 家 屋 に一 緒 に住 み, 正 式 に認 め られ た男 性 の

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トゥ ンガ ネ ィ) に統 率 され て 単位 単位 の 長 村 (ナガ リ) (ラ ジャ)

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(プ ンフル ・ス ク) プ ンフル トゥンガ ネ ィ 注 :ラジャはランクウの-吾郎こみ られ,プ ンフ ル ・スクもその存在が一定の村に限 られて いた。通常各単位の最高決定機関は長老会 議で,長は

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であった。 図2 母 系 集 団 間 の 関 係 図 3 ル マ ・ガ ダ ン 226 い た。5)一 つ の ル マ・ガ ダ ンに何 人 ぐ らい の人 が住 ん で い た の か は明 らか で は ない。19世 紀 ダ レ ツ ク 後 半 の記 録 に よ る と, 内陸高 地 の南 , シ ジ ュ ンジ ュ ン

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地 方 で は, 平 均 して60 人 は どの人 が

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軒 の ル マ ・ガ ダ ンに住 ん で い た

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39-40]。 また , 20世 紀 初 頭 の ダ レ ックの村 の様 子 を書 い た ラ ジ ャブの 自叙 伝 に よ って も, 一 つ の 家 に40 人 もの 人 が 住 ん で いた ことが 記 され て い る

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1950:4-5]。 パ ル イ ックは,伝 統 的 ミナ ンカバ ウ社 会 に お いて 「一般 的 に 最 も重 要 な 機 能 単 位 で あ る とい う印象 を 与 え る

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1952:11]。パ ル イ ックの 基礎 で あ るル マ ・ガ ダ ンは, 村 の人 々の生 活 の 中心 で あ り, 共 同 世 襲 財 産 (特 に土 地 )の使 用権

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ガ ンガ ム ・ブル ウ ン トゥク) ち, 各 ル マ ・ガダ ンに配 分 され て いた [Ih'd.:55]。 共 同世 襲 財 産 の 「所 有 者 」は女 性 で ,6)同一 パ ル イ ックに属 す る男 は,財 産 に余 裕 の あ る 場 合 に はそ れ を使 用 す る ことが で き るが, 財 産 を 「所 有 ・相続 」 す る ことはで きない。 従 って ,共 同世 襲財 産 (よ り適 切 に は そ の使 用 権 ) は母 親 か ら娘 - , 娘 か ら孫 娘 - と受 け継 が れ るので あ り,父 親 か ら子 供 へ とい う財 産 委 譲 は, 原 則 と して 存 在 しない。 男 性 が 自分 の努 力 で か ちえ た財 産

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- ル タ ・プ ンチ ャ リア ン, 即 ち 「自己取 得財 産

」)

は, 例 え ば 開墾 地 や 商 業 利 益 に して も, 坐 存 中 は本 人 の 自 由裁 量 下 の財 産 とみ な され る が,死 後 は生 家 (母 親 の家 ) の共 同世 襲 財 産 5)パイル ックの正式の長は トゥンガネィであると はいうものの,ルマ・ガダ ン内の日常の生活 にお いては,ルマ・ガダ ンの年配の女子成員が多 くの ことを取 り仕 切 っていたようである

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1967:368;

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1964:42;

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1960: 64-65;

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1972:106;

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1971: 56,64]。 6)この場合 「所有」の概念は,我 々が通常考える ところの,売却などの処分権を含まないことに 注意。

(6)

加藤 :矛 とな るの が 常 で あ る。 土 地 と同 じ く, ル マ ・ガ ダ ンも女 性 の所 有 に な る。 従 って, 結 婚 後 も女 性 は 自分 の家 を 離 れ る ことは な く, 居 住 形 態 は妻 方 母 方 両 居 制 で あ る。 結 婚 後 , 男 は妻 方 の家 に 「投 宿 」 し, 朝 に な る と 自分 の母 方 の家 に戻 る。 出 自お よ び財 産 「相 続 」 は母 方 を た ど る と は い う もの の, 母 系 集 団 内で の権 力 は男 性 の 手 に 握 られ て い る。 この 場 合 男性 とは, 夫 あ るい は 父 親 を さす ので は な く, マ マ ック

(

mamak)

を さす 。マ マ ックは文 字 通 りに は母 方 の オ ジを 意 味す るが , 広 くは オ ジ と同 例 ・ 同世 代 の , 母 系 制 に よ って 親 族 関係 に あ る男 性 一 般 を さす 。 マ マ ック と対 を なす 言 葉 は ク マ ナ カ ン

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-manakan)

で , 男 性 か らみ た場 合 , 自分 の 姉 妹 の子 供 た ち, お よ び, それ と同 列 ・同 世 代 の母 系 親 族 を意 味 す る。7)社 会 構 造 的 に,伝 統 的 ミナ ンカバ ウの 母 系 制 にお い て最 も重 要 な 人 間 関係 は, マ マ ック と クマ ナ カ ンの 関係 で あ る とい って も過 言 で は な い 。 例 え ば , 母 親 とそ の子 供 た ちは, ス マ ンデ ェ ィ

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「母 子 家 族」)と呼 ば れ るパ ル イ ック内 の 最小 構 成 単 位 を 形 成 す るが,8)ス マ ンデ ェ ィの 安 寧 を保 証 し, 見 守 るの は夫 (子 供 に と って は 父 親 ) で は な く, マ マ ックで あ る。 また , ス マ ンデ ェ ィの た め に共 同世 襲 財 産 を管 理 し, さ らに, 開 墾 な どを 通 じて 財 産 をふ や す 義 務 を負 って い るの もマ マ ックで あ る。. ミナ ンカバ ウ社 会 で は, 夫 は ス マ ン ド

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と呼 ば れ る。 一 説 に よれ ば

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1969:51],ス マ ン ドは,サ ン ド

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質 7)女性 にとって,自分の子供 と自分の姉妹の子供 は出自を同 じくしているわけで, クマナカ ンと いう言葉は使わず, 等 しくアナ ック(anak -子供)と呼ばれる。 しか し,兄弟の子供 は自分の 姉妹の子供 と区別 され,アナ ック・ピサ ン(anak pisang- 意味不明) と呼ばれる0 8)伝統的な ミナンカバウの母系制においては,核 家族の存在 は構造的には認め られてお らず,ス マンデ ェィが,最小の親族単位である。 盾 9 入 れ) とい う言 葉 か ら由来 す る とい わ れ , 実 際 ス マ ン ドの 地 位 は, メスを受 精 させ るた め に借 り出 され た種 馬 の感 が な くもな い。 夫 は 妻 の寝 室 を 夜訪 ね , 朝 方 まで に は 引 き上 げ る の を 常 と して い た

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1952: 10-ll;

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1950:5;

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1871:43-44]。 夫 の妻 お よ び子 供 に対 す る経 済 的 義 務 は, 子 供 の通 過 儀 礼 (例 え ば割 礼 ) に伴 う贈 り もの を 除 き, ほ とん ど なか った と い って よ い[Sjafnireza7.1973:22;

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1871:43-44]。 何 故 な ら ば , 妻 と子 の生 活 は 自分 た ちの共 同 世 襲 財 産 に よ っ て 賄 わ れ て いた か らで あ る。 離 婚,9)あ るい は妻 との死 別 の の ち に は , 子 供 た ち は母 方 の ル マ ・ガ ダ ン 大 家 屋 に残 り, 父 親 と子 供 た ち との 日常 的 な 関係 は, 次 第 に縁 遠 い もの とな らざ るを え な か った 。 この よ うな ス マ ン ドと妻 子 との希 薄 な 関係 は, ミナ ンカバ ウの人 た ちが , ル マ ・ガ ダ ン 内 に お い て 大 家 族 制 の共 同 体 的 な生 活 を 営 ん で い た こ と と, 表 裏 一 体 の 関 係 を な して い た 。 ス マ ン ドの , 妻 の ル マ ・ガ ダ ン- の 干 渉 の余 地 が少 な けれ ば少 な い ほ ど, そ こに共 同 生 活 す る複 数 「母 子 家 族 」 間 の調 和 を保 つ こ とが容 易 に な るか らで あ る。 以 上 の こ とを ま と.bて み る と, 伝 統 的 な ミ ナ ンカバ ウの母 系 制 は次 の よ うに特 徴 づ け ら れ る。

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)

出 自は母 系 に よ る。 (2) 一 つ の村 に住 む 同 一 出 自成 員 は, ス ク (母 系 氏 族 ), パ ユ ン(母 系血 族 集 団), パ ル イ ック (母 系小 血 族 集 団 ) な どの親 族 集 団 を形 成 す る。 (3) パ ル イ ックは, 人 々の 日常 生 活 の 中で 最 も係 わ りが 深 く, か つ 重 要 な集 団 で あ る。 9)オ ランダ時代 の人 口セ ンサス (1930年)による と,夫婦間の杵の弱 さを反映 して,蘭債東イン ドの中で ミナ ンカバ ウ人 は最 も高 い離婚率を示 していた。

(7)

東 南 ア ジア研 究 18巻2号 (4) 同一 パル イ ック成 員 の生活 は,共 同世 襲財 産 (-ル タ ・プ サ カ)によ って賄 われ る。 (5) 共 同世 襲 財 産 の 「所 有 者 」 は女性 で, 男性 はそれ を利 用 ・管理す る ことはあ って も 所 有 す る ことはな い。 (6) 共 同世 襲財 産 の 「相続 」 は,母 系-母 ,娘 , 孫 娘 な ど- に よ る。 (7) 原 則 と して個人 所有 の財 産 は存在 しな い。 (8) 男性 が 自己の努 力 によ って か ちえた財 産

(

「自己取 得 財 産

」)

は, クマ ナ カ ン (母 系 制 に よ って規 定 され る メイ とオ イ) に よ って 相続 され, 当該母 系集 団 の共 同世 襲 財産 とな る。 (9) 原則 と して

,

「父親 か ら子供 」 (特 に息 千 ) とい う財 産 相続 の形 は存在 しな い。

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1

0

)

女 性 お よび その子 供 た ちの保 護者 ・後 見人 は マ マ ック (母 系制 に よ って規 定 され る オ ジ) で あ って ,夫 あ るい は父 親 で は ない。 (ll) 婚 姻形 態 と して は,村 内 ス ク外婚 (同 一 村 内の他 の ス ク成 員 との結 婚 ) を原則 とす る。直 接 の血 縁 関係 が な くと も, 同一 ス クの 成 員 は同 じ血 を分 けた者 とみ な され,一 つ ス クの 中で結 婚 す る ことは許 され ない。 (12) 結 婚 後 の居住 形 態 は妻方 母方 両居 制 で あ る。

1

9

世 紀 中半 以 後 の オ ラ ンダ支 配 の確立 ,人 口増加 ,貨 幣経 済 の浸 透 ,教 育 の発展 ,交通 網 の整 備 な どは, ミナ ンカバ ウ社会 に多 くの変 化 を もた ら し, これ は特 に今世 紀 にな って よ り顕著 で あ る。 従 って, 上 に特 徴 づ けた よ う な伝 統 的 な ミナ ンカバ ウの母 系制 が, 現在 ま で もその まま踏襲 され て い るわ けで はない。 具体 的 には,次 の よ うな変 化 がみ られ た。 (1) 経済 単位 お よび居 住 単位 と して現在 最 も重要 な もの は, パ ル イ ックで は な く核 家 族 で あ る。 (2) 核 家 族 構成 員 の生 活 は,主 と して母 親 の利 用 で きる共 同世 襲財 産 (農地 ) と,父 親 228 の 自己取 得財 産 (商 業利 益, 俸給 な ど) に よ って賄 われ て い る。 (3) 多 くの場合 ,特 に人 口桐 密 な村 にあ っ て は,共 同世 襲 農地 の使 用権 は,一人 ひ と り の成 人女 性 に配 分 されて い る。 あ る農地 に対 す る使 用権 保持 者 が多 い場 合 には,年 替 りの 輪 番制 で使 用す る。 (4) 男性 は, 自己取 得財 産 を子供 (娘 お よ び息子) に譲渡 す る ことが で き る。 しか し, この場 合 で も,不 動産 は娘 に譲 る ことが多 く, また一般 的 に, 一 度 譲渡 され た 自己取 得財 産 は,1,2世 代 の間 に共 同世 襲 財 産 に変 る (図 4参頗)0 (5) 日常 生活 において,核 家 族 内 にお け る 世 帯主 の役割 (例 えば扶 養 )を担 うのは夫 (千 供 に と って の父親 ) で あ る。 しか し, ア ダ ッ トに係 わ る事柄 ,例 えば共 同世 襲 財産 の管理 お よびそ の使 用 にまつ わ る争 いの調停 は,依 然 と して マ マ ックの監督下 にあ る。 (6) 村 内婚 規制 を設 けて い る村 は少 な くな った。 しか し,現実 にはい まで も大 多数 の人 が同 じ村 の 中で結 婚 して い る。 (7) ス ク外 婚規制 もゆ るや か にな って きて 注 :三つの円で締まれたグループは,三つの異 なる母系集団を示 し,点線は,自己取得財 産が子供に与えられた場合の,可能な相続 の方向を示す。なお○は女を,△は男を意 味する。 図

4

自己取得財産の相続

(8)

加藤 :矛 と い るが, 一般 に同一 パ ユ ン成 員間 の結 婚 はい まだ に禁止 されて い る。 (8) 結 婚後 の居 住形態 は,妻 方居住 制 で あ る。 この場合 で も,村 内姫 が現在 で も一般 的 なた め, 夫 は しば しば生 家 に立 ち寄 る。 西 スマ トラで は, この

1

00

年 は どの人 口増 加 に伴 い, 農地- そ のほ とん どがい まだ に 共 同世 襲財 産で あ る- が持つ人 々の 日常生 活 にお け る経済 的重要 性 が減少 し,逆 に,貨 幣経 済 の浸 透 に よ って 自己取 得財 産 の重要性 が増大 した。 これ と呼応す る変化 は, 自己取 得財産 (商業利 益 ,俸 給 な ど) を稼 ぐ者 と し て の夫 (父 親) の地位 の上 昇で あ り, さ らに その夫 を中心 とす る核 家族 の,経 済 単位 ・居 住 単位 と して の重要性 の増大 で あ る。 しか し,上 の変化 を して, ミナ ンカバ ウの 母 系制が父 系制 あ るい は双 系制 の親族 制度 に と って替 られた [Maretin

1961

]と結 論 す る の は,性 急 に過 ぎ る。母 系制 の 出 自の原理 , 共 同世 襲財 産 の母 系相 続 , 母 系集 団 の機能 の 存続 (例 えば世 襲財 産 の共 同管理 あ るいはパ ユ ン外婚 規制), 妻方 の親族 間 の 連帯 を強 め る結 婚後 の居 住 形 態 (妻方 居住 制) な ど,母 系制 の根本 的特 徴 は, い まだ に ミナ ンカバ ウ 社会 に強 く残 って い る。10)

イ ス ラームの志 向す る親族 体 系 イス ラー ムが果 た して独 自の親族 制度 を有 して い るか ど うか は,議 論 の あ る と ころで あ ろ う。本 論 で は, イス ラー ム法 にみ る諸 規定 の うち, ミナ ンカバ ウの母 系制 に対立 す る点 を列挙 して み る。 出 白に関 して いえば, イ ス ラー ム法 の 出 自 認 知 は父 系制 的色彩 が濃 い。子供 の嫡 出 ・非 嫡 出 (legitimacy)を決定 す るの は 父 性 ( pa-ternity)で あ る。イス ラー ム法 に よれ ば,離婚 10)ミナ ンカバウの母系制の歴史的変化の詳細につ いては,Kato

[

1

9

7

7;1

9

7

8

]

を参照。 盾 9 した女性 は離 婚後 約

1

00

日間 は再 婚 を許 され ないが, これ は,女性 が前 夫 の種 を宿 して い な いか ど うか を確 認 す るた めで あ る。 も し女 性 が妊娠 して い る場合,生 まれ た子 供 は前 夫 に帰 属 す る [Levy

1

971:1

22

]

また離 婚 の 際,既 に存在 す る子供 に関 して も, まだ幼 い 場 合 を除 いて,子 供 は父親 の元 に残 る[Ib2'd.:

1

39

-1

42

]O 財産所有 につ いて いえば,イス ラー ム法 は, 財 産 の共 同体 的所 有 や,性 別 に よ る財 産所有 の限定 とい う概念 を 持 た な い。 財 産 の 相続 は,父親 か ら子供 - の相続 が一般 的 で あ る。 また子 供へ の相続 の場 合,男 子 は女 子 よ り も 優 遇 され,女 子 の取 り分 が

1

とす る と,男 子 の それ は

2

で あ る。 家族 構成 員間 の関係 につ いて は, イス ラー ム法 は きわ めて父権 的性 格 の濃 い規定 づ けを 行 な って い る。男 は 白分 の子供 に対 して絶大 な る権 力 を持つ ばか りで な く,結 婚 (一 夫 多 妻 婚), 離婚 (男 はたやす く妻 と離婚 で き る) にまつ わ る男優 先 の思 想 にみ るよ うに,男 は 妻 に対 して も強 い権 力 を行 使 す る

「父権 制」 と裏腹 の関係 において,男 は妻 子 を養 う義務 を負 って い る[Zbzld.:

99,11

5,1

41;

Nicholson

1

965:1

06

-1

07

]

O

婚 姻 を禁止 され る範 囲 は,非 イス ラー ム教 徒, 幼時 に同 じ乳房 を分 けあ った男女 とい う 特 殊 な規定 以外 には, きわ めて狭 い もので, 大 体

3

親 等以 内の親 族 に限 られ て い る (図

5

参照)。 ▲ ェ ゴ ◎ 禁止 され た結婚相 手 図5 イスラーム法における 「近親婚」の 禁止範囲 (前田成文氏作製)

(9)

東 南 ア ジ ア 研 究 18巻2号 蓑 1 伝統的母系制とイスラーム法の比較 出 自 財 産 所 有 財 産 相 続 生 活 単 位 保 護 者 「近親婚」の禁止範囲 居 住 形 態 母 系 制 母 系 共 同 所 有 母 か ら娘 パルイ ック 中心 マ マ ッ ク 同 一 ス ク 妻方母方両 居制 イスラーム法 父 系 的 個人所有中心 「父か ら子」 中心 核家族中心 父 親 概ね3親等 内の親族 「夫方居住」 志向 父 権 中心 の家 族 関係 を反 映 して,結 婚 後 の 居住 形 態 も夫 方 居 住 制 へ の 志 向 が 強 い [ Ha-zairin1968:182;Nicholson 1965:108]

イス ラー ム法 は,種 々の法 領 域 の うちで も, 結 婚,家族 生 活 ,相 続 な どに係 わ る私 法 嶺 域 で の規定 を 非 常 に重要 視 す る とい われ る 【Jos -selindeJong 1960:196]。 これ まで の叙述 か ら, ミナ ンカバ ウの母 系制 は, ま さに この 領 域 にお いて イ ス ラー ム と対立 ・矛盾 す る関 係 にあ る ことがわか る。 表 1にみ るよ うに, この対 立 は,理 念 的 には容 易 に融和 させ る こ とので きない性 質 の ものの よ うに思 われ る。 Ⅲ 矛 盾 か 斉 合 か 母 系制 とイス ラー ムの 「矛盾 」 が, いつ ご ろか ら ミナ ンカバ ウ人 に意識 され始 めた のか は定 か で な い。少 な くと も18世 紀末 に始 ま る パ ドリ運 動 (イ ス ラー ム改革 運 動)時代 には, 一 部 の イ ス ラー ム 教 師 ・有 識 者 (ulamaウ ラ マ)に よ って

,

「矛 盾」は指摘 されて いた [ Dob-bin 1974:330]。母 系制 とイス ラー ムの 関係 は,19世 紀 の後 半 にな る と,論 議 さ るべ き重要 なテ ーマ と して, オ ラ ンダお よび ミナ ンカバ ウ知識 人 の間 に よ り明確 に意識 され, この認 識 は今世 紀初 頭 に も受 け継 が れ て い る。11) 230 母系 制 とイ ス ラー ムを巡 る論議 には, 当然 の ことなが ら二 つ の立 場 が存在 す る。一 つ は, 両 者 は矛盾 す る とい う立 場 で あ り, もう一 つ は,両 者 は矛盾せ ず斉 合 す る とい う もので あ る。 それ ぞ れ の 立 場 に 組 みす る 代 表 的議 論 杏, こ こで みて み よ う。 「矛盾 派」 は,母 系制 とイス ラー ム との問 に,理念 上 お よび実 践 上 の矛盾 ・対 立 を認 め, それ を ミナ ンカバ ウ社 会 の歴 史的 発展 の 中で 位 置づ け よ うとす る。 即 ち,母 系制 と イス ラ ー ムは矛盾す るゆえ に, 母 系 制 は, ミナ ンカ バ ウ社 会 の イス ラー ム化 が進 む につ れ 崩壊 す る と考 え る。 例 え ば, イ ン ドネ シアの イス ラ ー ムに詳 しい ス ヌ- ク・フル フ レーニ イエは, 19世 紀 の終 わ りに, ミナ ンカバ ウ人 の イ ス ラ ー ムに対 す る強 い信 仰心 , そ して イス ラー ム 有 識 者 の アダ ッ トに対す る戦 闘的態度 を み る 限 り, 母 系制 は その 将 来 にお いて 崩壊 を運 命 づ け られ て い る, と予言 して い る [Snouck HurgroIづe 1906:γol.Ⅰ

,3,16;Josselinde Jong 1960:196]

上 の よ うな意 見 は オ ラ ンダ入学 者 の間 に多 くみ られた が [Maretin 1961:172], ミナ ン カバ ウ知識 人 の間 に も同 意見 の人 が い なか っ た訳 で は な い。 「矛盾 派」 に近 い立 場 の人 は, ミナ ンカバ ウ知 識 人 の 中で も特 に イス ラー ム との関係 が深 い人 々(ウラマ)に多か った。彼 らの意見 には, イ ス ラー ム化 の進行 に伴 って ミナ ンカバ ウの母 系制 は崩壊 す るで あ ろ う, とい った傍観者 的態度 で は な く, む しろそ の 崩壊過 程 の遅 々た る歩 み, そ して不 完 全 さ に い らだ って い る面 が み られ る。従 って ,彼 ら は よ り行 動 的 な志 向 を示 し,書物 , 説教 な ど を通 じて母 系制 の変 革 を 目ざ し, ミナ ンカバ ウの親 族 制 度 を イス ラー ムに適 った もの に変 ll)このような認識は,既に述べた,経済的重要性 を増 しつつあった自己取得財産の相続問題-イスラーム法に拠るかアダ ットに拠るか- に 触発された面が大 きかった。

(10)

加藤 :矛 えて ゆ こ うと主 張す る。 ミナ ンカバ ウの「矛盾 派」の代表 と して は,

1

9

世 紀末 か ら

20

世 紀初 め にか けて メ ッカで活 躍 した ミナ ンカバ ウ出身 の ウ ラマ, ア フマ ッ ド・カテ ィ

ブ (

AhmadChat

i

b,1

860-1916

)

が あ げ られ る。 カテ ィブは, ブキテ ィ ンギ近 く の村 コタ ・ガダ ン

(

Kot

aGadang)

の生 まれ で ,

15

才 の年 に メ ッカ に渡 り, その地 の宗教 界 で も重 要 な地 位 を 占め るまで にいた った人 で あ る。彼 は特 に,母 系制 に基 づ く相 続 法 を, イス ラー ムの教 え と相 対 立す る もの と して糾 弾 した。 カテ ィブによれ ば, イス ラー ム法 に 逆 らう母 系財 産 相続 を遵 守す る者 は,不 当 に 得 た財産 を 享受 す る 泥 棒 で あ り, 母 系 制 ア ダ ッ トに 従 う者 は 地獄 に 堕 ちるで あ ろ うと まで極言 した。彼 は メ ッカ にお いて多 くの ミ ナ ンカバ ウ人 の弟子 を養成 す る とと もに, メ ッカか ら母 系制 を廃 止 す るた めの活 動 (主 と して著作 活 動 ) を続 け, ミナ ンカバ ウの母 系 制 が廃 止 され るまで西 ス マ トラの土 は2度 と 踏 まない とい う誓 いの通 り, メ ッカで その生 涯 を終 えて い る

[

Abdul

l

a

h 1

972a:203

-204;

Sc

hr

i

e

ke1973:34

-37

]

カテ ィブ と同様 の趣 旨の発言 は, イ ン ドネ シア革 命 (独 立 戦 争) 時 の

1

946

年 , ミナ ンカ バ ウの母 系制 アダ ッ トは, イ ン ドネ シア と同 じよ うに革命 の洗礼 を受 け るべ きで あ る と主 張 した, もうひ と りの著 名 な ミナ ンカバ ウ出 身 の ウ ラマ, - ム カの著 作 に もみ られ る。彼 の主 張 は, イス ラー ム法 な らび に時 代 の要 請 に適 応 す る よ う,母 系制 を夫婦 そ して親子 関 係 を 中心 とす る親 族制度 に変革 しよ う, とい う もので あ った

[

Hamka 1

963

]。 「矛盾 派」 の主 張 ・提 案 に対 して反 「矛盾 派」, 即 ち 「斉 合 派」は, 単 に母 系制 とイ ス ラ ー ムは矛盾 しない ばか りで な く,両 者 は相 互 補 完 的 な関係 にあ る と説 く。 「矛盾 派」の多 く が イ ス ラー ム教 師 ・有 識 者 で あ った よ うに, 「斉 合 派 」 は主 に, プ ンフル (母 系血 族集 団 盾 9 の長) に代 表 され る, アダ ッ トの上で何 らか の重要 な地 位 を 占めて い る人 々で あ った こと は,驚 くに値 しないで あ ろ う。 彼 自身 プ ンフルで あ る フ ァクルデ ィ ン

(

Fa-C

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nHs

・Dat

ukMadj

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ndo)

は,(母 系 刺 ) アダ ッ トとイス ラー ムにつ いて,次 の よ うにい って い る。 当初 において アダ ッ トとイス ラー ム の関係 は, 単 な る似合 い な者 同志 の 出 合 い に しか過 ぎなか った が, の ちに, 両 者 は撚 り合 わ さ って一 つ の もの とな り, お互 いを 強 め,助 け, そ して支 え る もの とな った。 終局 的 には, アダ ッ トとイ ス ラームは一 つ の命 を持 つ もの とな り, 現 実 に両 者 を弁別 す る ことは

で きな い

[

Dat

ukMadj

ol

ndo 1

970:

1

]

アダ ッ トとイス ラー ムが一体 で あ りうる理 由 と して,両 者 に共 通 な次 の よ うな哲学 的精 神 が あ げ られ て い る[)bZld.:1-3]。

(

1

)

人 道 主 義 の精 神 (2) 人 間 が と もに生 きて ゆ く上 で の安 寧, 平 和 ,繁 栄 ,協 調 の重視 (3) 森 羅万 象 を も って,人 間界 の指針 とす る (4) 民 衆一般 と社会 の保 護 (5) 道 徳 ・礼 儀 の重視 (6) もの ごとを決 め る にあた って 「満場 一 致 の原 理」 の重視 アダ ッ トとイ ス ラー ムの不可 分 な関係 は, ミナ ンカバ ウ出身 の著 名 な法学 者 , ナスル ン に よ って も指 摘 されて い る。彼 に よれ ば,覗 世 の事柄 , そ して特定 の事 柄 に多 く係 わ るア ダ ッ トは, 超越 的 かつ普 遍 的 な イス ラー ム と の融 合 に よ って, 完 全 な もの とな った

[

Nas

-r

oe

n 1

957:28

-30

]

一 般 に

,

「矛盾 派」が ミナ ンカバ ウの アダ ッ

(11)

東 南 ア ジア研 究 18巻2号 トと イ ス ラー ム法 との間 の具体 的 な対 立 点 , 例 え ば 相続 や 父 権 に 注 目す るの に対 して , 「斉 合 派」 は個 別 の対 立点 を無 視 し, よ り観 念 的 , 抽 象 的 な議 論 に終始 して い る。従 って 両 者 の議 論 は決 して 噛 み合 う ことが な く

,

「矛 盾 」 と 「斉 合 」 の 「現 実 」認 識 の違 い は, 対 話 や理 性 で解 決 で きる性 質 の もの で は な い。 知識 層12)の動 向 は別 と して ,ミナ ンカバ ウ 人 一 般 は, 母 系 制 とイ ス ラー ムの 関係 を どの よ うに受 け止 めて い るので あ ろ うか 。 この疑 問 を 考 え る上 で, 「矛 盾 派」 の カテ ィブ と-ム カの意見 が , どれ ほ ど ミナ ンカバ ウの大 衆 に説 得 力 を持 って いた のか を検 討 して み るの 揺, 示 唆 的 で あ る。 カテ ィブ とハ ム カの例 は,社 会 的 に大 きな 影 響 力 を持 つ ミナ ンカバ ウ人 が, 公 に母 系 制 の廃 止 を提 唱 した, 私 が知 る限 りで は最 も注 目す べ き事 例 で あ る。両 者 と もに,親 代 々(主 と して父 方 を通 して ) の著 名 な ウ ラマ一 家 に 生 まれ[Hamka 1966;1967],彼 ら自身 も博 識 な ウ ラマ と して, そ の影 響 力 は イ ス ラー ム の 強 い ミナ ンカバ ウ社 会 に あ って大 きな もの が あ った。 彼 らの母 系制 廃 止 の提 唱 は, ウ ラ マ と して の絶 大 な る影 響 力 に もか か わ らず , ミナ ンカバ ウ社 会 に母 系制 変 革 の気 運 を巻 き 起 こす には い た らなか った。13) な るほ ど

2

0

世 紀初 頭 に は, カテ ィブの弟 子 た ちが メ ッカか らスマ トラに戻 り, カ ウム ・ ムダ(Kaum Muda一 若 い集 団) 運 動 とい わ れ る宗 教 改 革 運 動 を通 して , 宗 教 ばか りで 12)ここでの知識層 とは,西洋教育を受 けた知識人 ばか りでな く,イスラームやアダ ッ トに造詣の 深い人 々も含める。 13)カティブ(メッカ),ハ ムカ (主にジャカル タ) ともに活躍の舞台は酉スマ トラの外にあ り,母 系制廃止の提唱 もミナ ンカバウ社会の外か らな された。 これは,母系制を潔 しとしない者は西 スマ トラに留まらないとい うだけでな く,活躍 の場が西スマ トラの外であったか らこそ,彼 ら は母系制廃止を大胆かつ公 に唱えることができ たともいえる。 232

な く, 政 治 運 動 , 任 意 集 団 (voluntaryass o-ciation)の組 織 化 , イ ス ラー ム教 育 の近 代 化 な ど に お い て, 数 々の変 革 を な し遂 げた 。 し か し,母 系 制 に関 して い うな らば, 彼 らの 目 ざ した と ころは母 系制 そ の もの を 葬 り去 る こ とで は な く[Schrieke 1973:56],男 性 の 自 己 取 得 財 産 を子 供 に も譲 渡 で きる よ う,社 会 的 コ ンセ ンサ スを得 る ことで あ った。14) ハ ム カの 問題 の著 『ミナ ンカバ ウの アダ ッ トは革 命 に直 面 す』[Hamka1963]に して も, そ の発表 当時 , 西 ス マ トラ内 に著 者 に対 す る 反 発 を招 い た以 外 , 積 極 的 な反 応 を得 る こと はで きなか った

[

Zb2

'

d.

:

12;1968:41]。 1972年 1月 か ら1973年 6月 にか けて, 私 が 西 ス マ トラ州 で行 な った 調査 の経 験 にお いて も, 母 系 制 とイ ス ラー ムは矛 盾 す る, とい う 意 見 を持 つ ミナ ンカバ ウ人 に会 う ことは まれ で あ った。 私 の調 査 の一 つ は, ブ キテ ィ ンギ 近 くの四 つ の村 にお け る面 接 調 査 で あ った。 そ の 中で382人 の成 人 男 子 に次 の よ うな質 問 を して み た 。 ミナ ンカバ ウの アダ ッ トと イ ス ラー ムは, 前 者 が 母 系 制 に, 後 者 が父 系 制 に立 脚 して い る ゆえ に矛 盾 す る とい う 意 見 が あ ります 。 あな た は この 意 見 に つ い て ど う思 い ます か 。 この意 見 につ いて 賛成 です か 。 結 果 は, 賛 成 と答 え た者16%, 反 対 と答 え た者84% で あ った。 この よ うな意識 は村 人 だ けで な く,都 市 に住 ん で い る ミナ ンカバ ウ人 に も共 通 す る。上 に述 べ た ブキテ ィ ンギ近 在 の 四つ の村 の うちの二 つ の村 の 出身者 で , 覗 在 パ カ ンパ ル (中央 スマ トラ ・リア ウ州 州 都 ) とパ ダ ンで 働 いて い る73人 の成 人 男子 に, 上 と同 じ質 問を して み た。 結 果 は15%が 賛 成 14)カウム ・ムダ 運動全般 に 関 しては,Abdullah [1971]を参照。

(12)

加藤 :矛 で,

85

%

が反 対 で あ った。 これ ら出稼 ぎ人 の 多 くは, 既 に

1

5

年 以 上 自分 の村 を離 れて い る 人 た ちで,教 育程 度 も比 較 的高 く, 職 業 もホ ワイ ト ・カ ラー (主 に政 府 関係 の仕 事)が主 体 で あ る

「モダ ン」 な 出稼 ぎ人 も,イス ラー ム と母 系制 に関す る限 り,村 の同胞 と同 じよ う な意識 を持 って い る といえ よ う。 私 は,母 系制 とイス ラー ムが,全 く緊 張感 を 伴 わ ない関係 にあ る とは思 わ ない。 しか し, 母 系制 とイス ラー ムの 「対 立 」 は, ミナ ンカ バ ウ社 会 に常 に顕在 して い るわ けで は ない。 過去 にお いてパ ドリ運動や カ ウム ・ムダ運動 の よ うに, ミナ ンカバ ウの歴 史 の節 目とな る よ うな 出来 事 が起 こ った時 , 「対 立

は,一 つ の (ど ち らか とい うと中心 的で はな い)争点 と して顕在 化 して い る。 同 じよ うな ことが,将 来繰 り返 され て も不思 議 で はな いで あ ろ う。 しか し, 少 な くと も日常 の生 活 において は, 人 々は 「対 立」 を実感 と して経 験 して い るわ けで は な い。 大 部 分 の ミナ ンカバ ウ人 の意識 の 中で は,母 系制 とイ ス ラー ムは矛盾 しな い ばか りか ,相互 補完 の関係 にあ り, 多 くの人 に と って ミナ ンカバ ウ文 化 の本 質 は, この両 要 素 を抜 きに して考 え る ことはで きない。 で は,母 系制 とイ ス ラームに関す る この よ うな ミナ ンカバ ウ的 了解 の仕 方 は,一 体 どの よ うに説 明で きるので あ ろ うか。前 項 で み た よ うに,理 念 的 には母 系制 とイス ラーム法 は, い くつ か の点 で明確 な対立 関係 にあ る。)この 意識 と理念 のずれ を,我 々は どの よ うに説 明 した らよい ので あ ろ うか。 ミナ ンカバ ウ出身 の歴 史学 者 タ ウフ イ ツク ・ア ブ ドゥラに よれ ば,母 系制 アダ ッ トとイ ス ラー ムの対 立 関係 は, ミナ ンカバ ウの文 化 的 テ ー マの一 つ と して考 え られ な ければ な らな い。 即 ちア ブ ドゥラに よれ ば, ミナ ンカバ ウ 社 会 は,本 源 的 に種 々の矛盾 ・対 立す る要 素 を 内包 して お り, ミナ ンカバ ウの歴 史 的発 展 エラン の活 力 は, これ らの対 立 す る要 素 を統 合 し, 盾 ? その統 合 が さ らに新 しい対立 ・緊 張 を生 み, また それを統 合 す る とい った, 彼 の言葉 を借 りれ ば螺旋状 の転 回か ら生 まれ る。 アダ ッ ト とイス ラームの対 立 も, この よ うな ミナ ンカ バ ウの歴史 ・文 化 的 テ ーマの変 形 と して考 え られ る。 アダ ッ トとイ ス ラー ムは相 対立 す る 関係 にあ りな が ら,両 者 と も ミナ ンカバ ウ社 会 の 歴 史的 転 回 に と って 不可 欠 な もので あ り,一方 が他方 を排除す る,あ るい は排除す べ き関係 にあ るので はない

[

Abdul

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9

6

6

]

。 アダ ッ トとイ ス ラームの対立 を,他 か ら独 立 した事 象 と してで はな く, ミナ ンカバ ウの 全 体 的 な文化 的 脈絡 の中で と らえ よ うとす る 努 力 は評 価 しつつ も,ア ブ ドゥラの解釈 には, い ささか 悪 意的感 が あ るの は免 れ な い。 「対 立 と統 合 の交 互 作 用」 は,一 体 どれだ け ミナ ンカバ ウ特有 の現 象 といえ るで あ ろ うか。 ま た アダ ッ トとイ ス ラー ムの対立 を

,

「対立 と統 合 の交互 作 用 」 は ミナ ンカバ ウの歴 史 的転 回 二ラン の活 力で あ る とい う, アプ リオ リな文 化 的命 題 に取 り入 れ る ことに よ って, アブ ドゥラの 解釈 はすべ て を説 明 した よ うで あ りなが ら, 結 局 は何 も説 明 して いない ので はな いだ ろ う か。 「矛盾 派」

,

「斉合 派」, そ して ア ブ ドゥラ も 含 めて, アダ ッ トとイス ラー ムに関す る従来 の議 論 には,重 大 な視点 が一 つ 脱落 して いた よ うに思 われ る。 それ は歴 史 的視点 で あ る。 アダ ッ トとイ ス ラー ムの関係 は,単 に母 系制 の慣 習 とイス ラー ム法 の理 念 的 な比 較 や ,普 遍 的 な ミナ ンカバ ウの文 化 的 枠組 の考 察 の よ うに,歴 史 的視点 を捨 象 して い る限 り理 解 す る ことはで きない。 ミナ ンカバ ウの 「パ ラ ド ックス」 は歴 史 的 ・社会 的 ・文 化 的 な真空状 態 の中 に生 まれ た もので は な く, あ る歴 史 的 状 況 の産物 で あ る以 上 , それ は アダ ッ トとイ ス ラームの相互作 用 の歴史 的過 程 との 関連 の 上 で 考 察 され な けれ ば な らない。 具 体 的 に は,母 系制 ミナ ンカバ ウ社 会 に,父 系制 的色 233

(13)

東南 ア ジア研究 18巻2号 彩 の濃 い新 しい宗教 が いか に取 り入 れ られ た のか, 即 ち ミナ ンカバ ウ社会 の イス ラーム化 を取 り巻 く歴史 的 ・社会 的状 況 の考 察 が必 要 とされ る。 以下 で は, ミナ ンカバ ウの初期 の イス ラー ム化 , そ して, アダ ッ トとイス ラー ムの関係 に決定 的 に重要 な影響 を与 えたパ ドリ運 動 に つ いて,順 次 みて ゆ くこと とす る。

ミナ ンカバ ウ社 会 の イス ラーム化 現 在 まで の と ころ, ミナ ンカバ ウの イ ス ラ ーム化 の過 程 に関す る定 説 は存在 しない。 い つ ごろイ ス ラームが ミナ ンカバ ウ社 会 に もた らされた のか とい う問題 ばか りで な く, どの ル ー トを た ど って どの よ うな人 々に よ って イ ス ラームが もた らされ たのか も,明確 で は な い。 歴史 的 な資料 が不 足 して い るばか りで な く,敬 慶 な イス ラーム教徒 で あ る ミナ ンカバ ウ人 に と って,歴 史 的 に早 い時期 で の ミナ ン カバ ウの イス ラー ム化 を立 証す る ことは,種 族 の誇 りに もつ なが る関心 事 で あ り, ミナ ン カバ ウ人 ウ ラマの手 にな る 「客 観 的

学 問成 果 を期待 しに くい きらいが あ る, とい う事情 もあ る。 また,何 を もって一つ の社 会 が イス ラーム化 され た とす るのか も, ミナ ンカバ ウ の場 合 だ けに限定 され ない とは いえ,未 解 決 の 問題 で あ る。 上 の よ うな種 々の困難 に もか かわ らず, ミ ナ ンカバ ウ社 会 の イ ス ラーム化 の歴 史 的過 程 につ いて,次 の ことが いえ る。 (1) ミナ ンカバ ウとイ ス ラームの社会 的 に 意 味の あ る形 で の最初 の接触 は,歴 史 的 には 恐 ら くスマ トラ西海岸 で はな く, スマ トラ東 海 岸 を通 じて起 こった。 ダ レ ツ ク (2) しか し, 内陸高 地 に まで イ ス ラームの 影響力 がお よぶ よ うにな るの は, スマ トラ西 海岸 を通 じてで あ り,時期 的 には

17

世 紀 の後 半 にな って か らと思 われ る。

2

3

4

(3) ミナ ンカバ ウに導入 された イ ス ラーム は神 秘主 義的要 素 の強 い もので ,

1

8

世 紀末 の パ ドリ運 動 が起 こるまで, ミナ ンカバ ウ人 は イ ス ラー ムの戒律 (1日5回の お祈 り, 断食 な ど) を従順 に守 って いた わ けで は ない。 これ らの点 につ いて, もう少 し詳 し く検討 してみ よ う。 スマ トラの 中で最 も早 くイ ス ラー ム化 され た地 域 は,北 スマ トラ東海 岸 の ベル ラク(Per

-1

ak)

で,

1

3

世 紀末 には既 にイ ス ラーム化 され て いた。 そ の後 ベル ラク近 辺 の諸港 もイス ラ ー ム化 され,

1

400

年 ごろにな ると,海 峡 を越 え た マ レー半 島 にイ ス ラーム王 国 マ ラ ッカが 建 国 された 【Hal

1 1970:

Chap

・10

]

。 これ らイス ラー ム港市 国 と ミナ ンカバ ウと の間 に, どの程 度 の交流 関係 があ った のか は 明 らか で はない。 しか し, 中央 スマ トラ東 海 岸 に 存 在 した カ ンパ ル (Kampar)とイ ン ド ゥラギ リ(Indragiri)の両 港市 国は, 本来 ミ ナ ンカバ ウの植 民地 的性 格 が強 く, これ らの 地 に移 り住 んだ ミナ ンカバ ウ人 は,交 易活 動 を通 じて マ ラ ッカや北 スマ トラの イス ラー ム 諸 港 と関係 を結 び, その一 部 は イス ラー ム化 され た と想 像 され る。少 な くと も

15

世 紀 の半 ば には, カ ンパ ルお よび イ ン ドゥラギ リの王 とその側近 は イス ラー ム教徒 で あ った とい う 記 述 が , トメ ・ピレスの 『東 方諸 国記 』 にみ られ る [ピレス

1966:404

-405

]

。15) ミナ ンカバ ウ本 来 の地 (現 在 の西 スマ トラ 州)の イス ラー ム化 に関 して も,同 じ 『東方 諸

1

5

)

南 スラウェシのマカッサル人の伝承によると, 彼 らのイスラーム-の改宗は

,1

6

0

5

年の ミナン カバウ ・イスラーム布教者の活動によるという

l

Ma

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9

7

6:

9-

1

1

l。また,フローレス島 西部の住民 も

,(

1

7

世紀に?)ミナンカバウ移住 者 によってイスラーム化 されている [クンチャ ラニングラット

1

9

8

0:2

3

6

]。 このような早い 時期 に東 へ進 出した ミナンカバ ウ人モス リム は,恐 らく西スマ トラ出身者ではな く,早 くか らイスラームとの接触があったスマ トラ東海岸 の ミナンカバ ウであったと思われる。

(14)

加藤 :矛 と 盾 9 図6 ス 国記 』 が,

16

世 紀 初 めの報 告 と して, ミナ ン カバ ウの王 の ひ と り (ミナ ンカバ ウの王 につ いて は後 述) が最 近 モ ス リムに な った と記 し て い る。 しか し, これ は例外 的 な事 例 で, 当 時 西 スマ トラの ミナ ンカバ ウ社 会 一般 は, ま だ イス ラー ム化 され て はい なか った [同上書 :

290

-292

]

0 西 スマ トラの海 岸地 帯 において本 格 的 な イ ス ラーム化 が始 ま るの は,

16

世 紀 の末 か ら

1

7

世 紀 の半 ば にか けて で あ る。 当時西海 岸地 帯 マ ト ラ きん は,金 と胡椴 を求 めて スマ トラ北端 か ら進 出 して きた アチ ェ王 国 に支 配 されて いた (図

6

参照 )Oアチ ェは これ よ り先 に既 にイ ス ラーム 化 されて お り, アチ ェに よ る西 スマ トラ海 岸 の支 配 は, この地 域へ の イス ラームの拡散 に 大 きな はず みをつ け る もので あ った

[

Dobbi

n

1

972:5;

Schrieke

1

955:52

]

西海 岸 地帯 に導入 され た イス ラー ムが, ど ダ レ ツ ク の よ うな経 緯 をた ど って 内陸高地 - と広 が っ て い った のか は 不 明 で あ る。

17

世 紀初 め に

2

3

5

(15)

東 南 ア ジ ア 研 究 18巻 2号 は, アチ ェか らの イ ス ラー ム布 教 者 が ダ レ ッ クを訪 ね て お り, この時代 まで には イ ス ラー ムが この地 域 - も浸 透 しつ つ あ った ことが知 られ る[Dobbin

1

972:5

-6

]。しか し,ミナ ン カバ ウ社 会 の イ ス ラー ム化 に お いて, 決 定 的 に重要 な役 割 を果 た した の は シ ェ ィ ク ・ブル - ヌデ ィ ン (SjechBurhannudin)で あ った [Abdullah

1

966:8

]。16) シ ェ ィク ・ブル ハ ヌデ ィ ンは, アチ ェの地 シ ンケル (Singkel)出身 の, 当時 ス マ トラで 著 名 な神 秘 主 義者 シ ェ ィク ・ア ブ ドゥル ラ ウ フ(SjechAbdurraur)に師事 した (シ ェ ィ ク ・ア ブ ドゥル ラ ウフ自身 は, メ ッカで イ ス ラ ー ム神 秘主 義 を学 ん で い る)。ブル - ヌデ ィ ン は

1

7

世 紀 末 に アチ ェか ら西 ス マ トラに帰 り, パ ダ ンの近 くの ウ ラカ ン (Ulakan)に イ ス ラ ー ム布 教 の た めの 塾 を設立 した (図 1参 照)0 この塾 は シ ェ ィク ・ブル - ヌデ ィ ンが 没 す る

]

7

04

年 ごろ まで に ほ, ミナ ンカバ ウ宗 教 界 に お け る唯 一 の権 威 とみ な され るほ ど重要 に な って い た

[

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.

]。 ウ ラカ ンに は, 海 岸地 帯 だ けで は な くダ レ ックか ら も多 くの弟 子 が 集 ま り, これ らの 弟 子 が の ちに 各 地 に 設立 した 塾 を通 して , イ ス ラー ムは ミナ ンカバ ウ 社 会 全 体 に 布 教 され た [Ih'd.:

8

-9;

Dobbin

1

972:5

-6;1

974:325

-326;

Graves

1

971:

1

03

-1

04

]

か く して 西 ス マ トラに広 ま った イ ス ラー ム は,ス - フ ィー (Sufi)派 の一 派 で あ る シ ャタ リア ・タ レカ ッ ト (Sjatariah tarekat)で あ る。17)シ ャク リア は イ ン ドの影 響 を受 けた神 秘主 義 的 イ ス ラー ムで, 土 着文 化 と融 合 しや す い性 格 を持 ち, ミナ ンカバ ウの アダ ッ トと も適 合 しうる宗 派 で あ った。 さ らに そ の教 義

1

6

)

シェィクは,イスラーム有識者に与え られる最 高のタイ トルの一つである。

1

7

)

タレカ ットは,神秘学派の意である。 シャク リ アは

1

8

世紀を通 じて西スマ トラに大 きな影響力 を振 るったが,他のタレカ ットの学派も知 られ ていた【Dobbin

1

9

7

4:

3

2

6

]

2

3

6

の 強調 す る と ころは,冥 想 そ の他 の訓 練 に よ って個 人 個人 の心 の純 粋 さを培い, また ア ッ ラー との一 体 化 を 目ざす ことで あ り, 必 ず し もイ ス ラー ムの戒 律 の遵 守 は重 要 視 され なか った [Abdullah

1

966:9;

Dobbin

1

974:

325

-326;

Peacock

19

73:1

07;

Snouck Hurgronje

1

906:

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.

,1

2

-20

]。 この意 味 で,当時 の ミナ ンカバ ウ人 が決 して 「良 い イ ス ラー ム教 徒」で なか った ことは驚 くに値 しな い

。1

8

世 紀 にお け る ミナ ンカバ ウ人 の宗 教 心 につ いて ,次 の よ うな観 察 が オ ラ ンダ人 に よ って な され て い る

。「

(ミナ ンカバ ウ人 は) 冒 らを マ ホ メ ッ ト教 徒 とみ な して い る貴 族 を除 い て,その大 部 分 が異 教 徒 ,とい うよ りはむ し ろ不 信 心 者 で あ る」[Dobbin

1

974:327

に引 用]。また

,

「1日5回 の お祈 りや 断食 とい った イ ス ラー ムの戒律 も, い いか げん に しか 守 ら れて お らず, モ ス クに来 る人 も少 な い

」[

Lo

c

.

〟.

]

宗教 的実 践 ・行 動 よ りは冥 想 を,戒律 の遵 守 よ りは ア ッラー との一 体 化 を 強 調 す る神 秘 主 義 的 か つ適 応 性 の高 い シ ャク リア派 。 この よ うな シ ャク リア派 の宗 教 的 志 向 を反 映 して , 「異 教 徒 」 あ るい は 「不 信 心 者 」 とみ な され た ミナ ンカバ ウ人 。 こ こに は, アダ ッ トとイ ス ラー ムの対 立 を示 唆 す る もの は な い。

1

9

世 紀 以前 に お いて, イ ス ラー ム とアダ ッ トの 交互 作 用 が いか な る歴 史 的過 程 を- た の か は, い まの と ころ明 らか で は な い。少 な く と も, 両 者 の間 に鋭 い対 立 が存 在 した とい う 記 録 は な い。 と もあれ 両 者 の 交 互 作 用 の結 果 , イ ス ラー ムは部 分 的 に アダ ッ トの 中 に取 り入 れ られ る こと とな った 。18)例 え ば, アダ

1

8

)

イスラーム到来によるアラビア文字の導入以前 は, ミナ ンカバウは文字文化を持 っていなか っ たと考え られている rDatuk Maruhun Batuah and Bagindo Tanameh ca.

1

9

5

4:7;

Datuk NagariBasa

1

9

6

6:

1

6

-

1

7

1

。従 ってアダ ッ トの 本格的な体系化は,アラビア文字の導入後であ

り,イスラームはアダ ッ トの体系化・概念化にも

影響 を 与えたと思 われる【Abdullah

1

9

6

6:

9

(16)

加藤 :矛 ッ トにの っと った重 要 な役 職 の一 つ に マ リム (malim)が あ る。 マ リムは結 婚 , 離 婚 とい っ た, ア ダ ッ トに関す る事 柄 で あ りなが ら, 同 時 に イス ラー ムに も係 わ る事 柄 の処 理 に関 し て責 任 を負 って い る。 例 え ば結 婚 した い男 女 が, イ ス ラー ム法 に よ って結 婚 の許 され る間 柄 にあ るか ど うか の確 定 , そ して 離 婚 時 の イ ス ラー ム法 にの っと って の認 定 は,伝 統 的 に は マ リムの仕 事 で あ る。 マ リム とい う名称 自 体 が , イ ス ラー ム教 師 を示 す ア ラ ビア語 の ム ア リム (mu'alim)か らきて お り, 宗 教 色 の強 い地 位 で あ る ことが わか る。 それ に もか か わ らず ,この地 位 は アダ ッ トの 中 に組 み込 まれ, マ リム は, イス ラー ム に対 す る知識 や信 仰心 の強 さに よ って で は な く, 他 の アダ ッ トにの っ と った地 位 (例 え ば プ ンフル- ー母 系血 族 集 団 の長 ) と 同 じよ うに, 血 縁 な い し 家 系 に よ って 任 命 され るの が常 で あ った [Graves 1971:62-63

]

以 上 み た通 り,19世 紀 以 前 の ミナ ンカバ ウ 社 会 に あ って は, アダ ッ トとイ ス ラー ムの関 係 は対 立 ・矛 盾 を含 む もの で は な く, む しろ 両 者 は無 関心 な共 存 関係 にあ った とい って よ いで あ ろ う。 この状 態 に変 化 が起 こるの は, 18世 紀 末 に始 ま るパ ド リ運 動 の の ちの ことで あ る。 Ⅴ パ ド リ 運 動 の 概 観 パ ド リ(Padri)の語 源 お よびそ の意 味 は,必 ず しも明確 で は な い。 ポル トガル語 の パ ドレ (padre- 僧 侶)か ら由来 す る とい う説 もあ れ ば, 当時 ス マ トラか らメ ッカ に行 く際 の経 由地 とな って い た, ス マ トラ北 岸 の ペデ ィル (Pedir)か ら由来 す る とい う説 もあ る

[

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:

105]。 パ ド リ運 動 自体 は18世 紀 の末 , ど ち ら ダ か とい うと穏 や か な宗 教 改 革運 動 と して, 内 レツ ク 陸高 地 に起 こった。 パ ドリ運 動 の 背 景 と して は, ミナ ンカバ ウ 盾 9 社 会 に お け る道 徳 の退 廃 そ して経 済 的 困窮 の 増 大 が あ げ られ る。17世 紀 の後 半 以 来 , 西 ス マ トラの海 岸 地 帯 は, ア チ ェの あ とを受 けて きん オ ラ ンダ に よ って 支 配 され た。 オ ラ ンダ は金 と胡椴 の買 いつ け ・輸 出を掌 握 す る と と もに, 数 々の経 済 的 独 占政 策 を打 ち 出 した。 海 岸 地 帯 の塩 業 は禁 止 され, ダ レ ックの人 も, マ ド ゥラ島か らオ ラ ンダ の手 に よ って独 占的 に輸 入 され た塩 を高 い価 格 で 買 わ な けれ ば な らな 丁 ラツ ク か った[Dobbin 1977:19]。19)ア ヘ ンと米 酒 (礼rak)もオ ラ ンダ の 占業 の もと, 西 ス マ トラ に盛 ん に導 入 され た。 恐 ら くオ ラ ンダ の経 済 活 動 は, ミナ ンカバ ウ社 会 の一 部 の層 を潤 す もの で あ った ので あ ろ う, 賭 け事 や 賭 け闘鶏 も広 く行 われ る よ うにな った よ うで あ る。 さ らに, ア - ンの吸飲 ,賭 博 な どの悪 習 の横 行 は, 強 盗 ,殺 人 ,人 身売 買 とい った金 めあ て の犯 罪 を助 長 した [Dobbin 1974:328]。 既 に18世 紀 には, この よ うな社会 状 況 は イス ラ ー ム教 師 ・有 識 者 (ウ ラマ)の問 に, 憂 慮 の念 を 抱 かせ るほ ど にまで な って いた [Schrieke 1973:12-13]。20) パ ドリ運 動 の最 初 の指 導 者 は, ダ レ ックの 一 部 で あ るアガ ム地 域 に いた トゥア ンク ・ナ ン ・ トゥオ(TuankunanTuo)で あ る。21)ト ゥア ンク ・ナ ン ・ トゥオ は, 当時 ミナ ンカバ ウ社 会 にみ られ た社 会 悪 - 殺 人 , 強盗 , 賭 博 , 飲 酒 , ア - ンの吸 飲 - の蔓延 に心 を痛 め, 頁 の モ ス リム と して の戒 律 を人 々に教 え る ことに よ り, この よ うな状 況 を正 して い き 19)オランダの塩は,北 スマ トラ西海岸のイギ リス 支配港であったナタル とタパヌ リで売 られてい た塩よりも,2倍 も高 か った [Dobbin 1972: 151。 20)スマ トラにおけるアヘンの吸飲,闘鶏などの習 慣に関 しては,M arsden[1966:273-279]を参 照。 21)トゥアンクもシェ ィクと同 じように,イスラー ム教師 ・有識者に与えられる最高の称号の一つ である。

図 1 西 ス マ ト ラ 州 西 ス マ トラ州 にお け る主要 な経 済活 動 は農 業 で , ジ ャワ,マ ドゥラ,バ リを除 くい わ ゆ る イ ン ドネ シアの外 島 の 中で は, 水 稲 耕作 が 広 範 囲 にみ られ る数 少 な い地 域 の一 つ で あ る 。 稲 作 以 外 の農作物 と して は, 野 菜 , 豆 類 , 磨 辛 子 な ど, そ し し多 年 性 の作 物 で は, ゴム, コ コナ ツ, シナ モ ンな どが栽 培 され て い る。 農 業 以 外 で
図 7 ダ レックとランクウおよびラジャ

参照

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