船旅の意義
著者名(日)
亀井 俊介
雑誌名
井上円了センター年報
号
13
ページ
23-30
発行年
2004-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002750/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja船旅の童義
亀井俊介
さ式ミOS迂ミoせ 学生時代からの友人である瀧田夏樹君が、﹃井上円了・世界旅行記﹄という大冊を送ってきてくれた。私は東洋 大学と縁のない人間だが、井上円了の名はもちろんよく知っている。本の中身は、井上円了の三つの旅行記、 ﹃欧米各国政教日記﹄︵明治二十二年︶、﹃西航日録﹄︵明治三十七年︶、﹃南半球五万哩﹄︵明治四十五年︶を一冊にま とめたものだった。歓喜した。 私はこのうち、﹃欧米各国政教日記﹄だけはかつて読んだことがある。私はアメリカ文化の歴史を勉強してお り、幕末開国以来の日本人がアメリカをどのように受けとめてきたかということにも関心がある。仏教哲学者の 井上円了が﹁日本主義﹂の盛んになってきた明治二十二年に、キリスト教国アメリカを旅して何を考えたかなん て、興味津々たる問題ではないか。﹃自由の聖地 日本人のアメリカ﹄︵昭和五十三年︶という小著で、私は彼の この﹁出色の旅行記﹂をかなりくわしく論じたのだった。 ところで、こんどの本をひもといて私が語りたくなったのは、井上円了その人のことではない。私には、瀧田 君や三浦節夫氏がこの本に寄せた周到な解説以上に語れることは何もないのだ。それとは別に、私は巻末につけ られている井上円了の三度の旅の経路をしるした地図にひきつけられた。明治の人の旅だから、当然、船で大洋 23 船旅のff義を渡り、港々に立ち寄っている。もちろん、アメリカ大陸を横断したり、ヨーロッパ諸国を陸路でめぐったりも しているが、船の旅が大きな部分を占めていたといってよい。思索にふける機会は、むしろ船の上の方が多かっ たかもしれない。そんなことを思いながら地図を眺めていると、いわゆる﹁洋行﹂の意味合いが当時といまでは ずいぶん違っていることをあらためて痛感させられる。 24 外国︵といってもここでは西洋のことだが︶は、本当に遠かった。船で幾日もかけて行った。しかもそこは、日 本と異質の文化の土地であることが強調されていた。﹁洋行﹂は文字通りの壮挙だったといえる。 だから﹁壮行会﹂があり、大きな興奮をともなっていた。明治四年に出発した岩倉具視らの米欧回覧使節は、 国家的な事業だったためもあるが、その壮行会における三條実美の送別の辞は、﹁洋行﹂の精神をよくあらわし ている。﹁行ケヤ海二火輪ヲ転シ、陸二汽車ヲ輯ラシ、万里馳駆、英名ヲ四方二宜揚シ、無レ志帰朝ヲ祈ル﹂と 結ぶのだ。 井上円了のような民間人の洋行でも、その第二回目の記述を見ると、午前八時半という早い時間に新橋駅で ﹁千百の知友、学生が余が行を見送るありて、汽笛の声は万歳の声にうずめられ﹂たとある。そして彼は横浜出 港にあたり、﹁留別﹂と題して、﹁力学多年在帝都、始知緑緑読書愚、欲扶後進開文運、再上航西万里途﹂という 詩を賦した。力学して多年帝都にあったが、始めて漫然たる読書の愚を知り、後進を助けて文運を開くことを欲 し、再び航西万里の途に上ると、決意の総括をしたわけである。 当時の洋行者は、出発前から真剣あるいは深刻な心の準備をするのが普通だった。しかし長い船旅の間に、そ の準備は根底をゆさぶられ、修正や再構築を迫られる。明治三十三年に渡英留学した夏目漱石は、彼一流のドラ
イな筆致の日記の中で、出発後わずか五日目に、﹁夢に入る者は故郷の人、故郷の家。醒むれば西洋人を見、蒼 海を見る。境遇、夢と調和せざること多し﹂としるしている。コロンボ︵セイロン︶では、乞食にまといつかれ もと ﹁亡国の民は下等な者なり﹂と思うが、道路や芝生の見事さを見れば、﹁固より日本の比にあらず﹂と感じざる をえない。こういう体験の積み重ねが、彼の屈折した心情の西洋文明観へとつながっていくわけである。 私の関心にもっと近いアメリカ留学者の中から一人だけあげると、明治三十六年に太平洋を渡った有島武郎 は、横浜出港からシアトル上陸までの有様を、漱石と違ってウエットな文章の日記で詳述している。クリスチャ ンの彼は、船中で自分の信仰をたかめるために懸命の努力をしたり、日本のかかえる問題について思いをめぐら せたりしている。やはり、長い船旅が心をゆさぶり、またたかめるのである。これがあって、彼のアメリカ体験 の精神的ドラマが展開したような気が私にはする。 さて、こういう明治の先達と比べるのはおこがましい限りだが、私の年齢の者は、船旅による留学をした最後 の世代に属するのではなかろうか。私は昭和二十六年に大学に入り、三十年に大学院に進んだ。比較文学比較文 化という、文学文化を国際的視野で研究することを目指す新しい学科で、この学問がフランスで発達していたせ いか、ほんの数人しかいない先輩たちは、つぎつぎとフランス政府給費生の資格を獲得してフランス留学に旅立 っていった。そのつど、私たちは横浜港へ見送りに行った。日本は敗戦からまだ問がなくて貧しく、行く人は希 望だけを懐にした学生である。本人の家族数人、私たち数人のささやかな﹁壮行﹂だが、船のドラが鳴り、テー プが投げられると、万感胸に迫った。まさに﹁航西万里途﹂に上るのだ。 昭和三十四年、私もようやく同様の機会を得た。私の場合は、アメリカの大学のフェローというものになった 25船旅の意義
のだった。その頃、アメリカへはすでに飛行機で行くのが普通になっていた。しかし運賃は高かったし、私には 何としても船で行きたい気持ちがあった。すると、同じようにしてアメリカ留学することになった同じ専攻の女 子学生が、船会社に勤める親戚のつてで、貨物船で一緒に行けるようにしてくれた。運賃は飛行機の三分の一だ った。 忘れもしない天海丸という船で、客はもう一人の留学生を含めて三人だけ。当時は外貨の持ち出しが二百ドル ふところ に制限されていて、懐は淋しい限り。貨物船だから、カナダの名もない港に寄って材木を積み、ヴァンクーヴァ ーを経て、タコマという小さな港町に上陸するまで、二週間の旅だった。船長に操舵室へ入れてもらったり、機 関長にスクリューのまわる船尾の端まで案内してもらったりしたが、娯楽設備などはあるはずもなく、まずは空 と海を眺めて過ごす毎日だった。あとの時間は、先記の友人と、お互いの勉強や、将来への抱負と不安や、それ から人生のことなどを、えんえんと語り合っていた。時間だけはたっぷりあった。いまから思えばそれは至福の 二週間だった。 私たちはタコマからシアトルまで、アメリカ人の入国管理官に車で送ってもらい、シアトルで大陸横断バスに 乗って、何昼夜も走り続け、私はセント・ルイスで降り、彼女はそのままオハイオ州の田舎町へ乗り続けていっ た。一年後に二人は結婚し、子供もできたが、さらに二年間アメリカで学んだ後、帰国することになった。その 前から、私たちはいつまたこんなにして外国へ出られるか分からないというので、何がなんでもヨーロッパを見 て帰ることにし、おそろしく生活費を切りつめて準備をしていた。こんどは子供つれなので飛行機での帰国とい うことにしていたが、ヨーロッパで路銀が果て、私だけはまたつてに頼って、貨物船で帰ることになった。 昭和三十七年の秋。ロッテルダムで上船、リスボンを経、地中海に入ってスエズ運河を通り、炎暑のポート・ 26
スーダンを体験、果てしないと思われたインド洋の航行をし、シンガポール、マニラ、香港、釜山に寄港、神戸 に着くまで一カ月半の旅だった。することは何もなく、まことにのんびりしていたが、私はまたあらたな思いに とりつかれていた。三年間の留学が自分にとって何だったか、これから何をしたら一番よいのか、考えに考え、 ノートに書き留めた。ただこんな興奮もあった。シンガポールの船会社に、母校の大学から講師に採用したいと いう電報が来ていたのだ。就職の心配がなくなると、私はまた自分の将来の学問上の計画を構築し直すことに夢 中になっていた。 船の旅は、その後も私についてきてくれた。昭和四十四年、朝日新聞社が洋上大学というものを催した。新聞 配達の青年子女に、船でサンフランシスコまで往復の体験をさせる企画だ。そして私に、船内でアメリカ文化に ついての講義をしてほしいと申し出られた。折からいわゆる大学紛争の最中で、夏休み中とはいえ、一カ月近く 大学を留守にすることは難しく、結局、復路だけ上船することにした。 これも充実した、有意義な旅だった。普通、往路は夢があって、行く先についての勉強をしても、帰りはもう 気が抜けてしまうものだろうが、新聞配達の苦労を乗り越えていた二、三百人の苦者たちの多くは、私などの講 義にも熱心に取り組んだ。私もまた、彼らが短いサンフランシスコ滞在中につめ込んだアメリカ知識を血肉化 し、生きたものにするための道を、彼らと一緒に探ったように思う。飛行機で一日で帰ったら、そんなアメリカ はたちまち日本の忙しい生活の中に埋没してしまうだろう。 私はこの後、ほとんど毎年アメリカへ行くようになったが、すべて飛行機で往復し、期待も不安も心の昂揚 も、じっくり経験することがなくなってしまった。いまや誰でも簡単に行けるようになったアメリカは、多くの 27 船旅の意義
人にとっていわば日常化し、共感にしろ反感にしろ、心をゆさぶるものではなくなってきているのではなかろう か。しかもグローバリゼーションなどという言葉で、それをよしとする主張は若いアメリカ研究者たちの間でも 強い。私には、淋しいことに思える。 そういう現象を自分にも周辺にも見るにつけて、アメリカ文化が世界の人たちに対してもってきた歴史的な意 味を考えたい私は、船でアメリカに渡った人たちの心の体験を理解し直し、味わいたい気持ちが強くなってきて いる。と、そこへ舞い込んできたのが、この頃はやりの観光船の世界一周クルーズに乗って、アメリカ文化につ いての連続講義をしてほしいという依頼だった。もちろん、百日余りの全行程ではない。船がアメリカに近づい て行く時、二週間ほど乗るのだ。最初は、私がまだ航行したことのない大西洋を横断してアメリカに上陸すると いう話で、私は喜んで応じた。 にっぽん丸という二万トン級の船。平成十三年の初夏、コペンハーゲンから上船し、北上してベルゲン︵ノル ウェー︶、西航してレイキャビク︵アイスランド︶に寄り、ケベック︵カナダ︶を経て、三ユーヨークに到るまで の二週間。なんとこれ、はじめてアメリカ大陸に渡ったヴァイキングの航路ではないか。自由の女神を眺めなが らニューヨーク港に入る時には、無数のアメリカ移民が体験した興奮もいささかながら味わうことができた。私 の講義は、その種のアメリカ渡航者たちの心の活動や、その後の行動の展開を追体験してみることに重点をおく ものになったと思う。 船客たちに喜んでもらえたらしく、翌年、こんどは太平洋クルーズに誘われた。ヴァンクーヴァーで上船し、 シアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルスを経て、ハワイに到るまでの二週間。もちろんアメリカ西部開拓史 の話も大いにするが、日本人や中国人、あるいはそれ以前のスペイン人やイギリス人たちが、アメリカ西海岸や 28
ハワイでどのように活動したかといった話も、なるべく彼らの身になって語るようにした。 そしてその翌年は、また世界一周クルーズに参加し、エディンバラで上船、リヴァプール、ダブリンを経て、 大西洋を西航、バーミューダ島に寄り、キー・ウェスト経由、ニューオリンズで上陸するまでの二週間を経験し た。カリブ海には入れなかったが、コロンブスを先頭とするスペイン人、それからフランス人やイギリス人たち の野望と苦闘を発端にして、アメリカ南部の話がたっぷりできた。 私は最初、豪華観光船の客について大きな誤解をしていた。高い船賃を払って百日ものんびり優雅に過ごすと いうのは、金はあっても心は貧しい人たちに違いないと思っていたのだ。たしかにそう見える人たちもいた。し かし多くは、高年齢ではあるが、知的にも精神的にも積極的に生きようとしている人たちだった。飛行⋮機のツア ーの﹁世界とび歩き﹂ではなく、時間をかけて、世界を見ると同時に自分を見つめ直そうとしているのだ。だか ら、船中にはあらゆるエンタテインメントが揃っているのに、私の堅い内容の講義にも熱心に耳を傾けていたよ うに思える。そして自分の人生経験に合わせていろいろな質問をしてくれる。私はあの貨物船で体験したような 緊張と興奮を味わいもした。 井上円了は三回目の﹁南半球﹂の旅で、何と﹁にはかに思ひ立ち﹂、北極海観光クルーズに参加している。私 の一回目のにっぽん丸の航路の一部に近い。こんどの本を読むと、彼の観察はこまかく、観察したことについて の思索は広くて深く、それがゆったりした船の動きに合わせるかのように、のびやかな文章で綴られている。現 在では、船旅はぜいたく旅行になったことを否めないが、それでもやっぱり、旅の本来の意義をたっぷりもって いるように思える。 29船旅の意義
本稿は、電子マガジン﹃⑦あ①蔓旦の創刊号のために寄稿されたものでありますが、当センターの都合
により、同誌の発行を見合わせたために、著者のご了解をいただき、本年報に掲載することになりまし
た。この紙面を借りて、著者にご迷惑をかけたことをお詫び申し上げます。︵井上円了記念学術センター
所長 清澤文彌太︶