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フォイエルバッハの幸福観――宗教感情の人間学的考察―― 利用統計を見る

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フォイエルバッハの幸福観――宗教感情の人間学的

考察――

著者

川本 隆

著者別名

KAWAMOTO Takashi

雑誌名

東洋大学大学院紀要

53

ページ

67-80

発行年

2016

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008776/

(2)

フォイエルバッハの幸福観

――

宗教感情の人間学的考察

――

文学研究科哲学専攻博士後期課程満期退学

川本  隆

(要旨)

 本論文では、『キリスト教の本質』(1841)にいたるまでのルートヴィヒ・フォイエルバッ ハの初期思想が問題となる。この書では、神学が人間からその自然的本質を疎外するがゆえ に、神学は精神病理学として扱われる。フォイエルバッハによれば、神学のキリスト教的理 性が宗教を自己分裂として基礎づけるため、神学においてひとは不幸で不健康だと感じざる をえない。そもそも、自然の人間は自分の存在と本質とが一致した状態で生き生きとするも のである。それゆえ、フォイエルバッハはキリスト教の教義を批判し、これをその自然的要 素に還元した。しかし、フォイエルバッハの思想を「還元主義的」とみなすのは適切ではな い。というのも、彼の人間学のシンボルは楕円4 4 であって、ヘーゲル哲学のような円4 ではなかっ たからである。  その楕円の意味を明らかにするには、フォイエルバッハの「感性」「愛」「感覚」「感情」「心情」 「情意」という術語を詳細に探究する必要がある。ここでは、1)哲学と神学の矛盾――理性 の両義性、2)ベールとカントの再評価と「感覚」概念の変容、3)ヘーゲルからの離反と宗 教感情の両義性、が解明されるであろう。

目次

1)哲学と神学の矛盾――理性の両義性 2)ベールとカントの再評価と「感覚」概念の変容 3)ヘーゲルからの離反と宗教感情の両義性

キーワード

愛、感覚、心情、情意、汎神論、理性

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 「神学の秘密は人間学である」という『キリスト教の本質』のテーゼが、神学・思弁哲学 に呪縛された同時代人たちに解放的な衝撃を与えたことはよく知られている。その一方で、 フォイエルバッハの提唱する「人間」は歴史の弁証法をとらえるには「抽象的」すぎる(エ ンゲルス)とか、彼のおこなう還元は「非問題的人間への還元」にすぎない(ブーバー)な どの批判もなされてきた。しかし、フォイエルバッハの「幸福な人間観」は今日、見なおさ れてよい要素があるのではなかろうか。  たとえば、『キリスト教の本質』では、「存在…Sein」と「本質…Wesen」との一致のなかで 生きる〈自然の人間〉への回帰がめざされていた。人間的本質を外化し疎外する神学が「精 神病理学4 4 4 」(GW5,…S.6A,…⑨7頁)として扱われる背景には、人間のあるべき自然な姿を求める フォイエルバッハの幸福観があった。この見方は、神学が「自然の身になって感じたり考え たりする能力を奪った」(GW4,…S.40,…⑧46頁)と指摘する『ベール論』(1838)や「自然への復 帰のみが救いの源泉である」(GW9,…S.61,…①324頁)と説く「ヘーゲル哲学批判のために」(1839) にもみとめられる基本姿勢である。しかしながら、彼のこうした見方に対して〈本質還元論〉 の嫌疑がかけられてきた。すなわち、フォイエルバッハの疎外論の根底には「疎外されない 状態」という一種の理想郷(完結した実体)が前提されており、その本来的な「存在=本質」 への回帰が、かえって神学への退行を意味するのではないかというもの1である。  たしかに彼の宗教批判は、神学に奪われた「人間の本質」を返還請求する「還元論」では ある。しかし、還元先が完全に把握可能であるとすれば、その思惟の軌跡はヘーゲルと同じ 「円環」であったにちがいない。しかし、フォイエルバッハは「楕円」を「新しい哲学」の シンボルとした。ここに、彼の人間学を〈本質還元論〉とみなせない秘密がある。還元論で ありながら円環的本質論(実体論)でないという逆説を、どのように理解したらよいだろう か。またこの逆説は彼の〈自然の人間〉志向とどのような関係にあるのだろうか。この問い に答えるには、一見、あいまいにみえる「感性…Sinnlichkeit」「愛…Liebe」「感覚…Empfindung」 「感情…Gefühl」「心情…Herz」「情意…Gemüt」といった用語の使い分けを年代史的に吟味し、彼

の人間論にどのように生かされるかを確認する必要がある。本稿では、『キリスト教の本質』 (1841)にいたるまでの初期著作をとりあげ、1)哲学と神学の矛盾――理性の両義性、2) ベールとカントの再評価と「感覚」概念の変容、…3)ヘーゲルからの離反と宗教感情の両義性、 の3点からフォイエルバッハの人間観・幸福観を明らかにしてゆく。

1.哲学と神学の矛盾―理性の両義性

 フォイエルバッハは『キリスト教の本質』初版の序言で、同書の目的を「プネウマ的水 治療法を促進すること」(GW5,…S.8A,…⑨10頁)としている。「プネウマ的」とは意味深長だが、 キリスト教的な「霊」2のたぐいではなく、自然そのものに含まれる「生気」といった意味あ いであろう。なぜなら、この「水」は「自然的理性の明るく澄んだ水」(GW5,…S.9A,…⑨11頁)

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といわれるように自然の冷水にたとえられ、目や精神におよぼす生理的効能としての「治癒 力」が期待されているからである。癒されるべき病は、神学の土台である「信仰」ならびに 「キリスト教的理性」である。思惟力という点で共通するとはいえ、普遍法則をとらえる「哲 学」の「自然的理性」と「信仰」を基礎づけるキリスト教の「特殊な理性」とは両立不可能 であり、前者の水によって後者の「神秘的ヴェールを脱ぎ捨てる」(ebd.,…同頁)ことが、と らわれからの解放、つまり病の克服につながると考えられている。  こうした「理性と信仰の矛盾」という論点は、『ライプニッツ論』(1837)や『ベール論』(1838) でも繰り返し指摘されていた3。どちらの著作でも「理性」が「哲学」の特質、「信仰」が「神 学」の特質として規定され、一貫して後者の不自然さが追及される。ただし、フォイエルバッ ハが論及対象を頭ごなしに批難することはない。文献引用を通してまずは当該の哲学者自身 に語らせ、矛盾が際立ったところをおさえて、行間に隠れている理念をひきだし、批判を加 えるという手法をとる。ライプニッツとベールに関しては、哲学史上、両者が相互に敵対的 な関係にあったため、両者に対するフォイエルバッハの評価点もおのずと異なっていた。「理 性と信仰」の関係に限定して、その評価の相違をみてみよう。  まず、ライプニッツに関しては、「神の本質は理性にのみ基づいている4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 」(GW3,…S.98,…⑦129 頁)、あるいは、理性的な自然法則は「諸事物の本性4 4 4 4 4 4 によって説明される」(GW3,…S.99,…⑦131 頁)という主張が評価された。たとえば、身体が傷ついて激痛を発した場合、ライプニッツ なら身体の損傷という「事物の本性」に原因をみようとするが、ベールはこれを「神の意志」 に求めたため、この点でライプニッツに分があると判断された。フォイエルバッハによれば、 この「神の意志」は「学の原理に対立した恣意4 4 の原理」であり、「特殊な4 4 4 学としての神学の土台」 (GW4,…S.45f.,…⑧52頁)である。ライプニッツが「神が行為しようと自然が行為しようと、自 然は常に自らの根拠をもっている」(GW3,…S.99,…⑦130頁)と述べる際の「学問」的姿勢が自 然的理性の立場として評価されたわけである。  ところが、ライプニッツは『弁神論』で「信仰と理性の一致」(GW3,…S.109,…⑦145頁)を主 張してベールに反論した。ここでフォイエルバッハの評価は逆転する。すなわち、ライプニッ ツよりも懐疑論者ベールのほうが、「信仰と理性の矛盾」を鋭く顕在化させた点で優れてい るとみなされる。ベールは神学の立場に立っていたが、その信仰に反するような主張もして いた。たとえば、「自然の光…la…Lumiére…naturelle、すなわち、われわれの認識の普遍的原理 は、おもに品行…moeurs4…に関して、全聖書解釈の母体となる規則、根本規則である」(GW4,… S.89A/B,…⑧109頁)という主張や、「聖書も教会も奇跡も、理性の明証な認識にさからって は……何もなしえない」(GW4,…S.91,…⑧111頁)といった主張である。こうした言説は、信仰 に反する哲学的理性の正しさをベールが図らずも認めていたこと、つまり信仰と理性が調和 せず、矛盾に陥らざるをえないことを神学の立場から証言したことを意味する。フォイエル バッハがベールを「弁証法的なゲリラ指揮官」(GW4,…S.3,…⑧3頁)と呼ぶのは、ライプニッツ

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があいまいにした「哲学と神学の矛盾(理性と信仰の矛盾)」という問題を、ベールが(不 本意にせよ)内部告発に値するような言明で明示したからであろう。  つまり、ライプニッツは理性にもとづいて「自然的直観」を回復したが、理性が信仰と一 致すると考えた点に限界があった。他方、ベールは理性と信仰の矛盾をきわだたせたが、自 然的理性の意義を積極的に認めるには至らなかった。両者をこのように総括してフォイエル バッハは人間理性への還元を行ったということになる。ただし、この還元は外から恣意的に 行われたわけでない。「神学はとっくの昔から人間学になっている」(GW5,…S.7A,…⑨9頁)とい う『キリスト教の本質』の論旨は、神学の矛盾を神学者自身に語らせるという、特有の内在 的批判の手法に基づいている。こうして、『ライプニッツ論』や『ベール論』で準備された、 「哲学」と「神学」の矛盾、「自然的理性」と「キリスト教的理性(信仰)」の矛盾が、『キリ スト教の本質』では、第一部「人間の本質との一致における宗教」と第二部「人間の本質と の矛盾における宗教」の対比として生かされ、第一部の人間的本質は肯定的に、第二部の神 学的本質は否定的に論じられることになるわけである。  しかし、普遍的理性を軸とする神学批判なら、汎理性主義に貫かれた初期の『理性論』 (1828)でも、「汎神論以外はすべてエゴイズム」と主張した『死と不死』(1830)でも行われ ていた。『ライプニッツ論』でフォイエルバッハは「あらゆる哲学が、ライプニッツの哲学で さえもが、神学との比較・関係においては、必然的に……スピノザ主義・汎神論として現れ る」(GW3,S.111,…⑦147頁)と述べている。彼が「神学」との対比で「哲学」を「汎神論」と 規定するのは、神を「人格的存在者」として論じる神学の「恣意」を批判するためである。 したがって、神を「思惟の非人格的な活動」ととらえる哲学の系譜、すなわち、アナクサゴ ラスの「ヌース」、プラトンの「真実在」、アリストテレスの「存在としての存在」、スピノ ザの実体、ライプニッツのモナド、ヘーゲル『論理学』の最後に現れる理念、初期フィヒテ の「自我」までもが、「私を……ひたすら対象自身のために4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、対象に4 4 4 関係させる」(GW3,…S.119,… ⑦158頁)哲学の思惟(テオーリアの立場)として評価され、他方、「対象を私に4 4 関係させる」 (ebd.,…⑦同頁)神学は「実践的立場」にたつものとして批判されることになる(vgl.…GW3,… S.121f.,…⑦160~161頁)。初期フィヒテの「自我」が、「本質的に人格的または人間的な自我 から区別されるべき」と書き添えられるのは、「人格的」な神を擁護するヤコービなどの神 学を想定してのことだが、この文脈は、「人間の自我」を主体とする後年の立場とは異なり、 汎神論を全面的に肯定しているようにもみえる。『ベール論』でも、ブルーノ、スピノザが「自 然の内的生命に関する観念」(GW4,…S.44,…⑧50頁)をもっていた人物として評価され、ライプ ニッツも「宇宙の立場から、したがって汎神論的な神の立場から」(GW4,…S.121,…⑧151頁)ベー ルに反論した点が評価されている。この汎神論の痕跡は、『キリスト教の本質』の立場とど のような関係にあるのだろうか。

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2.ベールとカントの再評価と「感覚」概念の変容

 周知のように、フォイエルバッハは「ヘーゲル哲学批判のために」(1839)で、唯物論的転 回をみせる。『ライプニッツ論』(1837)や『ベール論』(1838)は、その準備期の著作ともいえる。 「汎神論」的思惟が『理性論』(1828)から『キリスト教の本質』(1841)まで貫いているとこ ろもあるが、しかし、その汎神論を支える「理性」や「感覚」の意味が少しずつ変容してい るところもある。つまり、フォイエルバッハの唯物論的転回は39年に突然行われたのではな く、神学・哲学の歴史的探究と論争のなかで、「理性」「感覚」などの鍵概念をとらえなおし ながら「転回」に至ったのではないか、ということである。ここでは『理性論』と『ベール 論』の比較から、「転回」の因子を探ってみたい。  まず『理性論』では、ブルーノやスピノザに一目がおかれ、すでに高い評価がなされてい たが、ベールの評価は低く、理性の一性をとらえ損なった一例として、わずかにその言説が 否定的に引用されるにすぎなかった(vgl.…GW1,…S.166,…Anm.58,…半田訳…77~78頁)。これに 対し『ベール論』では、ライプニッツのような数学・形而上学の功績を果たせなかったにせよ、 ベールが「論争術の領域で無限者の解析を導入した……健全な理性のスコラ哲学者」(GW4,… S.205,…⑧253頁)として特別な扱いをうける。つまり、『理性論』では無限者(理性)の一性 の視点から、理性の個別的分散(複数性)を説くベールは否定的にしか論じられなかったが、 『ベール論』では、無限者(神)の解析的分解によって「差異」を際立たせるベールの徹底 ぶりが積極的に評価される。また、『理性論』には、ヘーゲルの『信仰と知』に類似した「主 観性の哲学」5への批判があり、理性に限界を設けたカントもその一人として批判されていた が、『ベール論』では一転して、カントが「倫理学を独立に把握する」(GW4,…S.103,…⑧127頁) という人類の課題を成就し「倫理学の文法を最初に書いた人物」(ebd.,…⑧128頁)として高評 価をうける。トマソーニは、ヘーゲル同様に『エアランゲン講義』(1829/30)で神の存在論 的証明を擁護したフォイエルバッハ6が、『ベール論』執筆のころは存在論的証明を拒否する 途上にあり、カントの評価が高まるにつれ、ヘーゲルからの離反が進んでいったと指摘して いる7『理性論』よりも『ベール論』でカントおよびベールの評価が高くなっている事実は、 トマソーニの見解を裏づけるものといえよう。『キリスト教の本質』の第一部と第二部の対 比が『純粋理性批判』の構成に類似している点や『キリスト教の本質』を『非純粋理性批判』 と呼んでいたエピソードなども、フォイエルバッハのカント再評価の流れに沿ったものと考 えられる。しかし、それだけではヘーゲルから離反する理由にならない。ヘーゲルに熱烈に 師事したフォイエルバッハの離反の要因はどこにあるのか?  ベールやカントを再評価するフォイエルバッハの関心が、精神(理性・愛)の普遍性から 自然の個別性へ、前者の一性から後者の差異性へと移行しているのはたしかである。もちろ ん、先にみたように汎神論的理性の公平さ・健全さは一貫して否定されない。そもそも、万 有を包括する汎神論的理性に外部(理性の外)は存在しえない。しかし、個別的差異への関

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心が高まるにつれ、フォイエルバッハはおそらくこの「外界」の実在性およびその意義を見 直すことを余儀なくされた。私見では、その大きな役割を果たした著作が37年の『ライプニッ ツ論』である。すなわち、モナドの「混濁した表象」、とりわけ「原始的受動力」としての「第 一質料」の分析から、彼はその表象の外部世界の実在性を強く意識し始めた。物塊を意味す る「第二質料」がモナドの表象作用のたんなる成果ではなく、「第二質料」の実在性あって の受動であるという、いわゆる「他性の原理」をフォイエルバッハは発展的に引きだし、ヘー ゲルのライプニッツ観との相違をより鮮明に自覚するようになる8。もちろん、モナドの表 象の外界の実在性に気づいたとしても、そのモナドが被造モナドであるかぎり、ヘーゲルの 絶対者の外部の証明にはならないし、フォイエルバッハの信奉する汎神論的理性の外なる世 界の確証にもならない9。しかしながら、『ライプニッツ論』原註65には、連続律や表象の判 明度の視点を生かした「主観的感覚…subjektive…Empfindung(感情…Gefühl)」と「客観的感 覚または認識感覚」の連続性の考察、および、毒物への嘔吐感や両生類への嫌悪感などの 特殊な感情に、一回かぎりの「自然の声…Naturlaut」を伝える「もっとも繊細な教師…doctor… subtilissimus」としての重要な意味があるという指摘(vgl.…GW3,…S.287-293,…Anm.65)があ り、ヘーゲル的な観念論のなかにありながら、初期の汎神論的円環の外を志向する人間学的 考察が散見される。すなわち、初期フォイエルバッハの汎神論的思弁を特徴づける「純粋活 動…actus…purus」ではとらえきれない自然の声を聞き届けようとする感覚(感情)の視点が 37年の『ライプニッツ論』にはじめて登場するのである。  もちろん、30年の『死と不死』では、「神は愛なり」というテーゼを中心に、神の遍在の 確信(vgl.…GW1,…S.214,…449,…Nr.146)、すべてを燃え上がらせる愛の火としての神の視(vgl.… GW1,…S.206)など神秘説への共感がベーメに即して肯定的に述べられていた10。付録の「風 刺詩」には、ブルーノ、ベーメ、スピノザの3人が、キリスト教によってひき裂かれた精神 と自然をふたたび和解にもたらすための基礎を築いた「高貴な人たち」とみなされ(vgl.… GW1,…S.463,…Nr.195)、『死と不死』でも「愛」や「感覚」が積極的に論じられている。しか し、37年の「感覚」と比べると、『死と不死』は「特殊な感覚」の意義が、「繊細な教師」に 匹敵する〈感受〉レベルにまでは至っていない。たとえば、「有機的身体Körper」は汎神論 的精神の視点から「相互外在的」と規定され、「単に感性的な規定」「外的規定」「表面的規定」 にすぎず、「本質的規定」「内的規定」でないため、取るに足らないとされている。そのうえ で、愛の感覚の普遍性が語られる。「愛は、それが全感覚であるという点において他のすべ ての感覚から区別される。愛は特殊な感覚ではない。愛は絶対的な無限な端的に普遍的な感 覚Empfindungである。愛は、全苦痛であると同時に全歓喜であり、全意欲であると同時に 全苦悩である。にもかかわらず、愛の実質は、同時的で切り離せない一としての全感覚であ るという点……にある」(GW1,…S.214A)。  人格としての神が人間を「愛する」のではなく、神が「愛である」という事態そのものが

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遍在し浸透しているとみるところに、『死と不死』の汎神論の特徴があるが、この愛は、道徳・ 思惟・宗教において個を自己放棄へと駆り立てる「普遍的感覚」であって、日常の利害やと らわれを含むような「特殊な感覚」ではない。むしろ、個別や特殊の感覚が矛盾や対立を含 んでいたとしても、普遍的に遍在する一なる神(精神=愛)の洞察に貫かれて〈いま〉とい う瞬間を生き抜くこと(矛盾・対立を克服すること)が要求される。この愛(精神)の活動 は「焼き尽くすもの…verzehrend」「火…Feuer」ともいわれ、ベーメの強い影響下で死を超克 する愛の倫理的実践が説かれるのである。  こうした『死と不死』の思索は、40年代以降のフォイエルバッハ人間学とは別の意味で「実 存的」だが、ここで問題にしたいのは、若きフォイエルバッハの思索がヘーゲルと同様に円 環的であるということである。『ライプニッツ論』においてモナドを問題とした時点で、個体 性へと問題関心が移らざるをえないという面もあるが、しかし、「もっとも繊細な教師」と いわれた特殊な生理的感覚などは、普遍的な精神(愛)に貫かれた汎神論的思惟の「活動 actus」という視点からは克服されるべき対象と映らざるをえない11。精神(理性・愛)の普 遍性からみて個別への〈とらわれ〉としかみえないような〈声なき声〉を受け容れる〈繊細 な感覚〉が37年時のフォイエルバッハの考察にあり、彼自身の理性観を根底から揺さぶる要 因になったと考えられるのである。

3.ヘーゲルからの離反と宗教感情の両義性

 「感覚」論の刷新という意味で、従来の汎神論、観念論の理性観を決定的に破ったのは、 やはり39年の「ヘーゲル哲学批判のために」であろう。その突破口は、「ヘーゲル哲学はデ カルトとスピノザ以来の近世哲学全体についてあてはまるのと同じ批難、すなわち感性的 sinnlich…直観との無媒介的4 4 4 4 断絶という批難、哲学を直接4 4 前提しているという批難があてはま る」(GW9,…S.42,…①300頁)という一文に端的に示されている。「感性的直観との無媒介的断絶」 とは、〈感性の媒介を経ずに思惟が切り離され孤立すること〉を意味し、『論理学』であれ『現 象学』であれ、ヘーゲル哲学の体系の円環の外に、感性的直観の対象となる「個別存在…das… einzelne…Sein」(ebd.,…①302頁)がおきざりにされてしまう事態をさす。「哲学を直接4 4 前提する」 とは、〈哲学にとって本質的な思惟、理性、精神、理念、自我などを直に設定する〉という ことであり、哲学のこうした前提は―デカルトのコギトがそうであるように―意識に とっては直接的だが、個別存在からは「断絶」してしまう、という含みがある。フォイエル バッハ特有のアフォリズムであるにしても、この箇所の記述は、これまでの近世の理性主義 哲学すべてが、撤回されてしまうかのようにみえる。この「断絶」の強調に、どんな意味が あるのだろうか12  フォイエルバッハは、自らのめざす哲学を「自分自身4 4 4 4 を疑う自由と勇気をもち、自分の 対立物4 4 4 から自分を生みだす哲学」(GW9,…S.38,…①295頁)と規定する。哲学の「対立物」とは、

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先にみた「感性的直観」の対象となる「個別存在」にほかならない。ヘーゲル『精神現象学』 「感性的確信」の叙述を念頭におきつつ、フォイエルバッハは「個別存在が言い表せないか らといって、どうして感性的意識は自分が反駁されていると認めたり、現に反駁されたりし なければならないのか」と問い、さらには「感性的意識は自分の領分では完全に正しい。そ うでなければ、われわれは生活において事柄によってではなく言葉で丸めこまれて4 4 4 4 4 4 しまうだ ろう」といって、「感性的確信」に味方する(vgl.…GW9,…S.43f.,…①302頁)。つまり、『論理学』 もふくめ、ヘーゲル哲学は「思想の他在からではなく、思想の他在についての思想4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 から」(GW9,… S.45,…①304頁)始めるにすぎない。だから、ヘーゲルの「現象学も論理学も……自分自身を 直接に前提とすること、したがって感性的意識に媒介されないという矛盾〔つまり〕感性的 意識との絶対的断絶」(ebd.,…①同頁)という欠陥があるという。  フォイエルバッハが、ヘーゲル弁証法の円環の外に実在する「個別存在」の感性的意味を 再評価しようとしているのはわかる。観念論的思弁の媒介によってとらえきれない「個別存 在」の意味―『ライプニッツ論』の表現を借りるなら「一回限りの声」―をくみとろう とするフォイエルバッハの見方を「唯物論的」と呼ぶことも可能であろう。問題は、この「唯 物論的」視角から始める「哲学」が『ライプニッツ論』や『ベール論』で「汎神論的」と評 価されていた「哲学」とどのような関係にあるかである。  注目したいのは、「発生的4 4 4 -批判的」という用語である。フォイエルバッハによれば、ヘー ゲルの原理は「思惟する精神」であり、「否定的4 4 4 、批判的4 4 4 エレメントを自分のうちにもって いる」が、「発生的4 4 4 -批判的意味をもっていない」。それゆえ、求められるべき「発生的-批 判的な哲学は、表象によって与えられる対象が……教条的に論証され概念把握されるのでな く、その起源4 4 を探究する哲学、その対象が現実的な対象か、それとも単に表象、一般に心理 現象にすぎないかを疑う哲学、したがって、もっとも厳密に主観的なものと客観的なものと を区別する哲学である」(GW9,…S.52,…①312~313頁)とされる。ヘーゲル弁証法は「批判的」 ではあるが、「発生的」視点に欠けるため、思弁の円環の外にある「個別存在」の「起源」 への探究に向かわなかったという。しかし、この主張はこの前年の『ベール論』ときわめて 対照的である。『ベール論』では、「批判的4 4 4 -発生的4 4 4 哲学だけが真の哲学である」とされ、「懐 疑」にもとづいて「批判」を基礎づけたデカルトに加え、「カント、フィヒテ、ヘーゲルは〔真 の哲学にいたる〕正しい道を歩んでいた」(GW4,…S.340A/B,…Anm.31)といわれていたからで ある。38年の「批判的-発生的」という語順を逆にして39年の立場を「発生的-批判的」哲 学としたのは、「発生的4 4 4 」視点を根本的に見なおす必要があったということであろう。実際、 「ヘーゲル哲学批判のために」では「ヘーゲルは……発生的-批判的哲学の基礎である自然4 4 的な4 4 根拠・原因をしりぞけた」(GW9,…S.60,…①322頁)と述べられている。もちろん、フォイ エルバッハが「個別存在」を気づかう「感性」を重視するからといって、理性を放棄したこ とにはならない。「もし自然が真実に、つまり対象的理性としてとらえられるなら、自然は

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……哲学の唯一の基準である」(GW9,…S.61,…①323頁)ともいわれるからである。つまり、フォ イエルバッハが批判しようとしているのは「自然と人間をこえようとするあらゆる思弁」の 虚栄であり、哲学的思惟の自然からの逸脱である。ドイツ思弁哲学の精神は「自然のなかで 理性をとらえなかった」(ebd.,…①同頁)といわれるときの「理性」のあり方が問題である。  では、そのうぬぼれた思弁の逸脱はどこに現れるのか。ヘーゲルに向けられた「非キリス ト教性という批難」に関して書かれた同年の論文「哲学とキリスト教」(1839)をみてみよ う。フォイエルバッハは、宗教的人間にとって、ヘーゲルの宗教哲学が不条理にみえる原因 を、次のように指摘した。「キリスト教において、神の啓示は恩寵に充ちたものであり、罪 の悲惨に涼んだ人類の救済のためにあるが、他方、ヘーゲルによれば、神は人間のなかでは じめて自分自身に顕わに…offenbar…なるのだから、啓示の祝福は本来、神自身のみの利益に なるものである」(GW8,…S.251,…①209頁)と。キリスト教信者にとって、神秘的で慈悲深い神 の「啓示…Offenbarung」は、ヘーゲル宗教哲学のなかでは「顕わになること(顕示)」とし て「哲学」的に読み込まれ、神のロゴスに変換される。たとえば、フォイエルバッハが聴講 したであろう24年の『宗教哲学講義』では、神の「顕示…Offenbaren」は、「己れを規定する こと、他者に対して…für…ein…Anderes…あること」と同義であり、三位一体の論理は、他者を 措定し廃棄する運動、「精神の永遠の運動」、「疎外…Entfremdung…を消滅させる運動」にほ かならなかった(vgl.…V5,…S.105-107)。ヘーゲルは三位一体の核心を「己れを区別しながら、 己れと同一であり続ける」という思弁の形式でとらえ、その思弁によって、宗教おいて「神 秘」とみなされている三位一体の秘密が暴露される。「三位一体性は神の神秘…Mysteriumと いわれ、その内容は神秘的…mystisch、すなわち思弁的である。〔しかし、〕理性にとって存在 するものは、秘密…Geheimnis…ではない」(V5,…S.125)と。つまり、宗教的な人にとって「秘 儀」として「表象」される謎めいた神の啓示は、ヘーゲルの精神の立場では概念的に把握さ れ、もはや「謎」ではなくなる。しかも、ヘーゲルの思弁的「思惟」は通常の「悟性」では とらえられない。「神は三位一体である…Gott…ist…dreieinig」とキリスト教でいわれるときの… „dreieinig“…という語は、「悟性にとって最大の虐待」にして「矛盾」である。しかしそのよ うにみえてしまうのは、ヘーゲルによれば「3が1になりえない」と思い込む悟性が、諸規定 に「しがみつくこと…Festhalten」による。「父」なり「子」なりの「位格…Person」は、一方 で「それだけで存在するものの極度の緊張…die…höchste…Intensität」をもたらすが、しかし他方、 「人格性…Persönlichkeit…はその対立…Gegensatz…が絶対的に取り去られうるということ……を 言表しており、まさにこの絶頂ではじめて己れ自身を廃棄する」とされる(vgl.…V5,…S.126-127)。  フォイエルバッハは、一方でこうしたヘーゲルの論理が「哲学」である限り、やむをえな いものとみている。なぜなら「啓示を受ける存在者に啓示の欲求・内的必要性を承認するな ら、当然の帰結として、啓示する存在者にも同じ欲求・内的必要性を承認しなければならな

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い」(GW8,…S.253,…①211頁)からである。しかし他方、フォイエルバッハは、哲学の「思惟は、 宗教の規定ではない」(GW8,…S.249,…①206頁)ともいう。 たとえばヘーゲルからみると、ま ず「キリストの受難と死」という「否定の契機」が直観され、その上で「この子〔キリスト〕 が神の右側に昇天した」という事蹟が、教団により本質的に「否定の否定」として認識され たとき、はじめて神の「永遠の愛」が精神として具現する(vgl.…V5,…S.150f.,…161)。しかし、 こうした哲学的「思惟」を、通常の宗教人は受け容れられない。そのため、ヘーゲルに「無 神論」の批難が寄せられたとフォイエルバッハは考える。基本的には「哲学」の理性的解釈 を正当とみなすが、ヘーゲルの思弁によってとらえきれなかったキリスト教の「愛」を、フォ イエルバッハは宗教人のまなざしを加え、次のように読み解く。一般に神的存在者は、対象 において自分を意識する。愛が本質であるなら、愛という神の本質は、人間という対象にお いてはじめて自分自身を意識する。「神の愛」に隠されているのは「同情…Mitleid」という本 質である。神は、愛の行為を通して人間のなかに自分の「同情心」を見いだす。この認識が、 啓示を与える4 4 4 神にあるとすれば、同じことが啓示を受ける4 4 4 側の人間についても妥当しなけれ ばならない。つまり、「人間にとって自分が他人の悲惨について流す愛の涙のなかではじめて、 以前には暗かった自分自身の本質が彼に明らかで透明なものとなる。なぜなら、彼はいまや 自分のためだけでなく、他者のためにも存在しているという自分の規定を認識しているから である」(GW8,…S.252,…①210頁)と。  この宗教意識の分析は、神(または精神)からの思弁的考察からは出てこない。生活の場 で生きる宗教的人間の「心情Herz」に照らしてみないと解明できないものである。この分 析はヘーゲル宗教哲学にみられないだけでなく、初期フォイエルバッハの『理性論』にも『死 と不死』にもなかった分析である。37 ~ 38年のフォイエルバッハは「哲学」と「神学」の 関係を「理性」と「信仰」の関係とみていた。「信仰」に生きる「感情人…Gefühlsmensch」は、 「思惟」「学問」に対して無力であり、それゆえに神を「人格」として表象しないと満足でき ない。そうした特性は37年の段階でもとらえられていた(vgl.…GW3,…S.118f.,…⑦156 ~ 158頁)。 しかし、この「感情」の特性は、「理性」の客観的品位に比べ、きわめて主観的・利己的な ものであり、神学的本質として否定的にしかとらえられなかった。「哲学とキリスト教」では、 宗教的「感情」から、普遍的理性と調和できる「同情心」が摘出され人間的本質としてプラ スに評価されている。これは「発生的-批判的」分析にもとづく人間学的還元の顕著な一例 である。神学の反省が加わる前の「宗教感情」を発生的に解析した跡が、その分析にはっき りと現れている。以前の「哲学と神学」という対比を、「哲学と宗教」という対比に変えて、 39年のフォイエルバッハは次のように規定しなおした。「哲学の土台は思惟4 4と心情Herz…… であり、宗教の土台は情意…4 4 Gemüt と空想…4 4 Phantasie である」(GW8,…S.232,…①186頁)と。『キ リスト教の本質』初版の付録に登場する「心情と情意の区別」は、このような宗教意識分析 の深化によってはじめて獲得されるのである。

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まとめに代えて

 『キリスト教の本質』初版・第二版の付録で、フォイエルバッハは「心情…Herz」と「情 意…Gemüt」の区別を詳論している。「心情」は「他者の幸いと痛みに参与するための社交的 気質」をあらわし、「共感…4 4 Mitgefühl・同情…Mitleidとしての苦悩…Leiden」だが、「情意」は 「他者を自分のために行為させる」感情、「自己感情…Selbstgefühlとしての苦悩」であり、「本 質的に自己へと集中したものとして、自己自身を苦しめる心情、自分だけに携わる心情、自 分から離れて欲するとはいえ、自分から離れていくことのない心情」、「秘義的な・暗い・厭 世的な心情」などと規定されている。前者の「心情」が健全で、自然と一致しているのに対 し、後者の「情意」は病的であり、自然と矛盾するものとされる。ただし、「理性」や「知性」 との対比で語られるときは、人間の私的な感情として「心情」と「情意」は区別されない。「理 性は一般的な人間であり、心情は特殊な人間である。……我惟う、ゆえに我在りか? いや、 我感ず、ゆえに我在りsentio,…ergo…sum…だ。感じることだけが私の存在4 4 4 4 であり、思惟は私の 非存在、類の肯定であり、理性は人格性の無である」(GW5,…S.475A/B)。  特殊な人間の心情は、情意とも我意とも解される。宗教的な感情人は自分と同じ感情をも つ人格にしかかかわれない。だから、公平な理性のまなざしを受け容れない「我がまま」な 情意が表出する。しかし、その情意の「発生的-批判的」解読によって、「共感・同情」と いう人間の幸福な自然的本質が摘出され、理性と一致する本質として『キリスト教の本質』 第一部に組み込まれた。こうしてみると、『ライプニッツ論』や『ベール論』で規定されて いた「哲学と神学」の関係が、個別感覚(感情)のレベルまで降りて、とらえ直されている のに気づく。宗教感情を分析するために、39年の「感性的直観との断絶」という指摘は重要 な視点を提供した。人間の実生活における生きざまを、たとえ我がままにみえたとしても、 自然に根拠があるかぎりではこれを寛容に受けとめ、神学や哲学の思弁に隠された内容をひ とつひとつ読み解いていく。人間の幸福が何であるかは、この批判の不断の営みから獲得さ れるものなのである。

※引用文献

GW:…L.…Feuerbach,…Gesammelte Werke,…hrsg.…v.…W.…Schuffenhauer,…Berlin,…Akademie…Verlag,…1967-.…… GW巻数で略記した。また、このシュッフェンハウアー版に倣って、各文献の初版をA、第2 版をB、第3版をCとし、必要に応じて付記した。邦訳は、原則として、船山信一訳『フォイ エルバッハ全集』福村出版、1973~1976年を用い、巻数を丸つき数字で表示した。『理性論』 (1828)のみ、半田秀男『理性と認識衝動』下巻、渓水社、1999年から行った。なお、訳文は 適宜、拙訳に直した。 V5:… G.…W.…F.…Hegel,…Vorlesungen…über…die…Geschichte…der…Religion,…Teil…3,…Die…vollendete…Religion… (Manuskript,…1824,…1827),…in:…Vorlesungen, Ausgewählte Nachschriften und Manuskripte,…

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Bd.5,…Hamburg,…Felix…Meiner…Verlag,…1984. 1… こうした批判はたとえば、45 年の B・バウアーやシュティルナーにみられる。 2… たとえばパウロは、人間を「肉にしたがって生きる者」と「霊タ ・ マ ル カ カ タ ・ プ ネ ウ マにしたがって生きる者」に分けた。 ミヒァエル・ラントマン『哲学的人間学』第 3 版、谷口茂訳、新思索社、1995 年、98 頁参照。 3… 33 年の『近世哲学史』を第一部とすると、『ライプニッツ論』は第二部、『ベール論』は第三部 をなすものと位置づけられる。しかも、一哲学者に一著作を費やすという点からみても、ライプニッ ツとベールの二人は、フォイエルバッハの哲学史のなかでも特別な位置を占めている。 4… ベールからの仏文での引用は 48 年改版の際に独訳に変えられるが、この「品行 moeurs」とい う仏語を、フォイエルバッハは…„Moral“…と翻訳している。 5… GW1,…S.142,…Anm.…31,… 半田訳 38 頁。『理性論』でフォイエルバッハが「主観性の哲学」に属す るとみなしている人物は、ヴァイラー、ノヴァーリス、ヤコービ、カント、フィヒテなどである。 Vgl.…GW1,…S.144-147,…Anm.35,…S.64,…半田訳 39 頁、47 頁参照。 6… Vgl.…GW13,…S.98ff.,…bes.101,…103.…この講義でフォイエルバッハは、カントが「表象」の立場にたっ て「存在 Sein」と「思想 Gedanke」を切りはなしたことを正しいとしながら、「神の真なる思想と 概念」は「抽象的な表象」ではなく、「あらゆる実在性の総括」であり、「自分自身のなかで規定 された実在的な思想」であるといって、ヘーゲル的な理解を示している。 7… フランチェスコ・トマソーニ「フォイエルバッハと啓蒙」柴田隆行訳:『季報唯物論研究』第 78 号、2001 年 11 月、19 頁参照。 8… 拙論「フォイエルバッハとヘーゲルの差異――ライプニッツ解釈をめぐって」:『ヘーゲル哲学 研究』Vol.15,…2009 年、こぶし書房、129~141 頁参照。 9…『ベール論』では「批判的4 4 4 -発生的4 4 4哲学だけが真の哲学である。……カント、フィヒテ、ヘーゲ ルが……正しい道を歩んでいた」(GW4,…S.340)と、哲学の批判を基礎づけたデカルトとともにド イツ観念論の哲学者たち(但し、後期シェリングを除く)が讃えられている。 10…『死と不死』においても、汎神論の立場から神の超越や人格を批判する視角は共通する。同書で、 フォイエルバッハは同時代の敬虔派神学者らの表象する神の人格を「絶対的人格」と呼び、「何か を欠く単なる誰か ein…bloßes…Wer…ohne…Was、本質のない人格 eine…Person…ohne…Wesen」(GW1,… S.210,…⑯ 29 頁)と批判した。 11…論点をみえやすくするために、ここでは、ヘーゲル的な階梯的発展の側面をとりあげている。 つまり、自然の本質が魂であり、魂が自己意識や精神に生成発展するという見方である。しかし、『死 と不死』には、精神優位の着想だけでなく「自然は自然自身の根拠である」というもう一つの見 方も存在し、この点ではヘーゲルとは異なる思弁の側面もある。この点については、拙著『初期フォ イエルバッハの理性と神秘』知泉書館、2017 年、第 2 章「『死と不死』における『自然』の位置価」

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を参照。 12…「個別存在」との「断絶」という指摘に、前年のドルグート反駁論「経験論批判のために」(1938) の影響を考えることは可能である。ただし、フォイエルバッハがドルグートの経験論を反駁しな がら、内心、その生理学的経験論の正しさを認め、ドルグートの観念論批判をそのままフォイエ ルバッハが転用したと解釈するのは、安易である。同様に、フォイエルバッハの論理矛盾(言葉 にしえないものを言葉にしようとする矛盾など)を指摘して主観的反発にもとづく「断言」にす ぎないと反論するのも安易だろう。「すべての哲学は観念論」と述べてヘーゲルに同調し、思惟作 用は、「見る作用から区別される作用」であり、「感官を超え出ていく活動である」と述べていたフォ イエルバッハが、なぜ 39 年になって思惟や言語から独立した「存在」の意味を問おうとしている かが問題である。

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L. Feuerbachs Lehre von Glückseligkeit

Die anthropologischen Gedanken über

das religiöse Gefühl

KAWAMOTO,…Takashi

 In…dieser…Abhandlung…geht…es…um…die…früheren…Gedanken…Ludwig…Feuerbachs…bis…zum… „Wesen…des…Christentums“(1841).…In…dieser…Schrift…wird…die…Theologie…als…psychische… Pathologie…behandelt,…weil…sie…dem…Menschen…sein…natürliches…Wesen…entfremdet.…Nach… Feuerbach… muss… man… sich… in… der… Theologie… unglücklich… und… ungesund… fühlen,… weil… ihre…christlichen…Vernunft…die…Religion…als…Entzweiung…mit…sich…begründet.…Eigentlich… belebt… ein… natürlicher… Mensch… sich… in… der… Übereinstimmung… vom… Sein… und… Wesen.… Deshalb…zielt…Feuerbach…darauf,…das…christliche…Dogma…zu…kritisieren,…und…es…auf…seine… „natürlichen…Elemente“…zu…reduzieren.…Es…ist…aber…nicht…treffend,…Feuerbachs…Gedanken…als… „reduktionistisch“…zu…bezeichnen,…weil…das…Symbol…seiner…Anthropologie…die…Ellipse…war,… nicht…der…Kreis…wie…die…Hegelsche…Philosophie.

 Um… die… Bedeutung… der… Ellipse… zu… erklären,… ist… es… nötig,… dass… wir… uns… Feuerbachs… Terminus…„Sinnlichkeit“,…„Liebe“,…„Empfindung“,…„Gefühl“,…„Herz“,…und…„Gemüt“…ausführlich… untersuchen.…Hier…soll…1)…Widerspruch…der…Philosophie…mit…der…Theologie…–…Zweideutigkeit… der…Vernunft,…2)…Feuerbachs…Umwertung…über…die…Baylesche…und…Kantische…Philosophie… und…Veränderung…des…Begriffs…„Empfindung“,…3)…Feuerbachs…Abkehr…von…der…Hegelschen… Spekulation…und…Zweideutigkeit…des…religiösen…Gefühls…erörtert…werden. Inhalt 1)…Widerspruch…der…Philosophie…mit…der…Theologie…–…Zweideutigkeit…der…Vernunft

2)…Feuerbachs… Umwertung… über… die… Baylesche… und… Kantische… Philosophie… und… Veränderung…des…Begriffs…„Empfindung“

3)…Feuerbachs…Abkehr…von…der…Hegelschen…Spekulation…und…Zweideutigkeit…des…religiösen… Gefühls

参照

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