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明治初期戸籍の地域性について : 若松県・彦根藩・大津県・日田県の事例

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(1)

明治初期戸籍の地域性について : 若松県・彦根

藩・大津県・日田県の事例

著者

井戸 庄三

雑誌名

滋賀医科大学基礎学研究

4

ページ

b1-b14

発行年

1993-03

URL

http://hdl.handle.net/10422/1198

(2)

明治初期戸籍の地域性について

- 若桧巣・彦根藩・大津頻・日田県の事例

明 治 四 年 ( 一 八 七 一 )   四 月 四 日 へ   太 政 官 布 告 第 一 七 〇 号 ( 戸 籍 法 ) が公布され'翌五年に全国各地で壬申戸籍が編成された。ところでへ 壬申戸籍以前の明治初期の戸籍についてはへ その数も少な-'一般に はよ-知られていないようである。筆者は、昭和四三年二九六八) から同四五年にかけて、徳島県内各地で徳島藩の明治三年郡中戸籍、 徳島市で徳島城下の明治三年市中戸籍、明治四年徳島藩士籍へ同卒寿 ( -0 ( ォ ) を実見し、明治初期の戸籍に関する二編の拙稿を発表した。以下、 前稿との重複をできるだけ避けるよう配慮しながら、ご-簡単に明治 初期の戸籍の系譜を振り返ってみよう。 ( < 蝣 ) >         ( -* > 福島正夫へ新見吉治両氏の研究によれば、明治二∼四年の戸籍の原 型は、明治元年(一八六八)一〇∼二月の京都府戸籍仕法に求めら れる。この京都府戸籍仕法は市中戸籍仕法へ郡中戸籍仕法へ士籍法、 卒寿法、社寺籍法とそれぞれの雛形からなるが'そのうち市中戸籍仕 ゥ 法と郡中戸籍仕法の本源は'田中彰氏によって、長州藩の文政八年(1 八二五)戸籍帳であることが明らかにされている。 : ゥ : さて'福島氏によれば、京都府戸籍仕法は'明治二年(一八六九) 六月四日へ 民部官達第五〇五号によってへ政府の直轄領である当時の 府県1般に施行が命じられへ この限りにおいて中央法令の性格をもつ ( 7 )     ( 8 ) ようになった。その結果、明治二年から同四年にかけてへ日田、若松 の両県や前稿で紹介した甲府へ神奈川へ堺などの各県で実際に戸籍が 編成されたのである。ところでへ ここで注意すべきことは、明治二午 六月四日は廃藩置県(明治四年七月1四日) の二年余も前であり'彦 根藩はいぜんとして﹁彦根藩﹂であって﹁彦根県﹂ であるはずがな-ち 当然のことながら民部官達第五〇五号の対象外であったということに なる。詳細は後述するがへ その彦根藩で京都府戸籍仕法の流れを汲む 戸籍が作成されたという事実は'深-検討する意義があると思われる。 京都府の市中戸籍仕法および郡中戸籍仕法は、その冒頭で﹁人民御 保全永世産業を安んせしめんため戸籍編製﹂をするとうたっているが、 その目的として明治維新直後の治安維持と脱藩浮浪者の取締りがあっ o 滋賀医科大学基礎学研究第四号二九九三年)

(3)

明治初期戸籍の地域性について-若松県・彦根藩・大津県・日田県の事例-(井戸) たことは否めないであろう。このことは京都府だけではな-'当時へ 政府にとって全国共通の重要問題であったからこそ'前記の民部官達 第五〇五号が公布されたと考えられる。しかしへ その民部官達に﹁戸 籍編製ノ儀へ 其始メ手数相掛候事二候へトモ'後年其事二馴レ候上ハ 簡易ナル良法ナレトモ、事ノ改ムルヲ嫌フ下民ノ常情敢テ当惑不致様 懇々説諭施行スルヲ肝要トス﹂とあるごと-、戸籍編製は相当に困難 な作業であったと推察できる。したがって、この民部官達第五〇五号 に基づき実際に戸籍を作成することができた府県は全国で数少な-' しかも完成までにかなりの年月を要したようである。 二 : g > ; これから検討する大津県へ彦根藩へ日田県および若松県の各戸籍の 概要と'それを筆者が実見した経緯などについて言及しよう。 昭和五1年(1九七六) 1月へ 町名変更に関する調査で大分県日田 郡天瀬町役場を訪ねたがへ そのとき同町本城の山田良久氏が明治初期 の戸籍を所蔵されていることを知り、同氏宅で閲覧させていただいた (10) のが﹁豊後国日田郡本城村戸籍﹂である。この戸籍は﹁人民御保全 永世産業を安んせしめんため--﹂ の前書につづいて仕法書が記載さ

れ、その末尾に南無蒜日田県﹂とありへ以下へ庄屋の団九郎は

じめ本城村の各家の戸籍がおさめられている。なお、仕法書の奥付は 明治二年であるが'戸籍の年令の記載が﹁明治三年〇〇歳﹂となって いることから、この戸籍が実際に作成されたのは翌三年とみて間違い な い だ ろ う 。 平成三年(一九九こ の初夏へ 滋賀県栗太郡栗東町役場の栗東町史 編さん室で'栗東町の明治前期の行政区域の変遷に関する資料を点検 していたさいに'大津県と彦根藩のいずれも明治二年の戸籍仕法書を 見出した。前者は川崎愛作家文書(栗東町下戸山)で'﹁近江国何郡何 村戸籍﹂の表題があ。、仕法書の末尾は﹁明肇irain tn大津県﹂となっ ていて'つづいて戸籍の雛形が記載されている。後者は﹁栗東町有里 <--0(-") 内文庫﹂におさめられている﹁近江国犬上郡一円村戸籍﹂で、仕法 書の末尾に﹁諸二唱彦根藩﹂とあ。'以下,l円村の各家の戸籍 が明治二年現在で書き込まれている。 昭和四六年(一九七一)六月へ前記の拙稿発表後へ甲斐英男氏から <m> すでに宮川満氏が彦根藩の明治二年戸籍に関する研究論文を発表さ れている旨の教示をえた。以下へ彦根藩の戸籍の検討にあたっては' ﹁近江国犬上郡一円村戸籍﹂(栗東町有里内文庫)を基本資料としてい るが'宮川氏が研究された﹁近江国神崎郡新海村戸籍﹂(新海共有文書) (-蝣*) をあわせ参照させていただいた。そのほか、﹃彦根市史﹄(下冊)に (ォID)(-.﹂>)も'坂田郡小田村へ犬上郡高宮村などの明治二年の戸籍が紹介され ているが、筆者は未見である。 <-">) 川口洋氏が陸奥の南山御蔵人における明治初期の村落人口を分析 された研究論文で基礎資料として使用されている明治二∼四年の戸籍 に関心をもち、平成四年(l九九二)九月、福島県歴史資料館と福島 県大沼郡金山町中央公民館を訪ねた。そのさい福島県歴史資料館で閲 SB 覧したのが、桧枝岐村文書の﹁戸籍仕法書﹂である。この仕法書は 木版刷でも末尾に﹁明治四辛未年へ若松県﹂とあるが、戸籍の雛形は 付されていない。 つぎに、京都府戸籍仕法をほぼそのまま受け継いでいる大津県の明 (2)

(4)

治二年の戸籍仕法と、京都府戸籍仕法の流れを汲むもののへ かなりデ フォルメされへ ローカリティに富む若松県の明治四年の戸籍仕法の全 文を掲げてお-oなお、条文には'田畑畑・・・-の番号を付した。 ﹁ 近 江 国 何 郡 何 村 戸 籍 ﹂ 人民御保全永世産業を安んせ志めんため戸籍編製被仰付其法左之通 用 : 戸 籍 の 編 製 観 撃 支 配 内 を 以 て 1 部 と し 其 地 租 管 を 掌 と る 支 配内の五人組一二の志るLを以て分之1部の紙員多きときは分て 上中下となすも妨なし 聖 表紙近江国何郡柵腎籍と書左側へ張掛紙にて観粕何某支配と 書肩へ年号月日よりと記ス交代の節は上へ張掛記ス追々如斯して 六ヶ年を経大改の節に至り尽-張掛を除き又始の如-張掛紙にて 其年当勤の名を書す 畑l l部の始に此仕法書あるへし ㈲1 冊の仕立柿渋引の合せ紙を台紙とし1丁の片面へ白紙を竪曲尺 九寸横六寸に切合せ張付是を1家分とす上四ケTの処へ墨筋を引 上を産業井田畠山林船牛馬等を記ス所とし下を人名宗門等を記ス 所とす 但代替りの筋是迄の本紙ハ其儀さし置後代の分上へ新に張掛書 す永々如此すへし幾代を経るといへとも其家の系譜明かなら志 めん為なり尤1代1枚と限りあれハ年を経て書入繁多なるへし 始より極て細字に書記スへし ㈲一台紙へ本紙の張立ハ五人組を一組々々にて一二の志るLを以て 仕分け一伍組限り順々次第を追ひ仕立へし新家出来の節は冊末の 台紙へ張入れ相伍組隔るといへとも右一二の志るLを以て知るへ し ㈲1 五人組の内出生死去其外出入有之度品額へ相島報即座に是 を志るす出生は名前を書上へ年号月日生と記ス死去ハ名前へ点を 掛上へ年号月日死と記ス 聞1 縁組は年月親元処名名前書入レ親元の方へは年月何某へ嫁ス又 ハ何某へ養子に遣スと記し名前へ点を掛る若不縁の節は双方点を かけ親元は張掛紙にて名を記し上へ年月何其方より帰と記ス再縁 ハ張掛へ書入再々緑は張掛を取除又張掛書記し二重張すへからす ㈱一他支配へ緑付其外にて其地の暇を免さる∼ものハ名前の上へ年 月暇御免何の何某養子又は何の何某家来ト成と記し名前へ点を掛 ㈱一本人又ハ家内の者にても年限暇にて奉公棟に出るものハ名前の 上へ付紙にて何ノ年より何ヶ年ノ間暇と記し立帰る節付紙を取除 -へ し ㈹一子孫別家する時は名前へ点を掛上へ年月別家何印ノ組へ人と記 し其最寄五人組又ハ家数不足の伍組へ入新に1家分の本紙へ書載 ス若他咽へ分家する時ハ年晶柵へ分家と記し名前へ点を掛ル他 咽より分家し来るものハ年晶腎其方より分家と名前の上へ記 ス ㈹一産業田島山林船牛馬等年に一度三月改にて産業改れは肩へ年月 改何と記し最前の分へ点を掛田島其外買入る分ハ肩へ年月買得と 記ス売る分ハ肩へ年月売と記し点を掛分与分売ハ年月分与又ハ分 売と記し点を掛残る高を新に記ス m 滋賀医科大学基礎学研究第四号二九九三年)

(5)

明治初期戸籍の地域性について-若松県・彦根藩・大津県・日田県の事例-(井戸) ㈹一御答にて村退町退国過等の者ハ名前の上へ年月日師町退何所何 某へ渡と記点を掛話方にハ名前を記し上へ年月日何所晒退に付何 某より請と記し育む者の戸籍へ入流罪ハ年月日流罪と記し名前へ 点を掛 ㈹1 暇免なきに他所へ出るものハ五人組よ。艇種へ申出役人も共々 心遣ひ早速連れ帰すへし万一行衛不知ものハ其由相届戸籍へは年 月出奔と記し六ケ月の間に尋出し帰参の申出すへし六ケ月を過る といへとも行衛不知時ハ弥出奔の段届出其時戸籍へ年月日届と記 ス三十六ケ月を経るといへとも行衛不知ものハ其由申出戸籍へ年 月日除籍と記し名前へ点を掛人数を除-へし家内不残出奔のとき は届書人等同様除籍の節人別名前の上へ除籍と記し点を掛代替り の通白紙を張掛へし ㈹1 1部の末に家数人数田島山林船牛馬数を記ス毎年7度三月に改 之追年張掛紙にて六ヶ年を経大故の節に至り尽-除之其年の数を 記す事又始のことし ㈹l 毎年三月故の節種輝別に美濃紙ニッ折の冊を調表紙の書鉢本冊 に同-し左側寵の名前張掛に及はす直に書付本冊の末記せる家 数人数其外を書載せ其郡の組惣代へ差出ス組惣代において一郡内 村町の冊を集め合て蒜とし柵数家数人数其外を惣計し末に是を 書記ス郡毎に如此し組惣代役座に蔵メ置更に美濃紙ニッ折の冊を 調惣計せる暇数家数人数其外を書載せ近江国何郡戸籍と表題し役 所江差出す庶務掛こおいて諸郡の冊を集め一部とし又是を惣計し 末に郡数晒数家数人数其外の数を書載せ県の役所に蔵ス ㈹一六ヶ年を経大改の節の次第も前条の如-し七年前の家数人数其 外と其年の数と計り校へ増減を書記ス順次に是を計ふ事前の法の 如し 右戸籍の儀は永世の御記録庶民の系譜たり人民御保全の叡旨を奉鉢 認仕法之通柳も不可怠もの也 明治二己巳 月     日 蝣 K J t l * ( 川 崎 愛 作 家 文 書 ) ﹁ 戸 籍 仕 法 書 ﹂ 人民御保全永世産業を安んせ志めんため戸籍編製左之通 川:戸籍の編製l納内を一冊とし肝煎これを掌とる晒内十二伍組十 二支の志るしを以て分之 iil 示組を1部とし大隅構これを掌とる1部の紙貞多ゆへ冊を分 て1二三となるも妨なし ㈲1 冊の表紙何々組何網戸管書左側へ張掛紙にて肝煎何の何某と 書肩へ年号月日ヨリと記す交代の節ハ上へ張掛記す追々如斯して 六年を経大改の節二至り轟-張掛を除き又始の如-張掛紙にて其 年当勤の名を書す 伸一 1部の始此仕法書あるへし表紙何々組戸籍と書左側張掛紙にて 大牌腎の何某役中と書肩書井交代の節六年を経大改之節等前条 肝煎の法の如し ㈲一冊の仕立川口紙へ柿渋引を台紙とし一丁の片面へ白紙を竪曲尺 九寸横六寸二切合せ張付是を表分とす顧酎臥。蒜卵㌢上四ケ 一の所へ墨筋を引上を産業井所持の田畑山林町地牛馬宗門等を記 す所とす下ハ人名を志るす所とす (4)

(6)

但代替りの節是まての本紙ハ其俵差置後代の分上へ新に張掛書 す永々如此すへし幾代を経るといへともその家の系譜明らかな ら志めん為なり尤一代一枚と限りあれは年を経て書入繁多なる へし始より極て細字二書記へし ㈲一台紙へ本紙の張立ハ伍組を1組々々にて十二支の印を以て仕分 け一伍組かきり順々次第を遂ひ仕立へし新家出来の節ハ冊末の台 紙へ張入れ相伍組隔るといへとも右十二支の志るLを以て知るへ し の1 伍組の内出生死去其外出入有之度々肝煎へ相届即座ここれを志 るし肝煎より大牌相へ相届右之如-志るす出生ハ名前を書上へ年 号月日生と記す死去ハ名前へ点を掛上へ年号月日死去と志るす ㈲1 縁組ハ年月親元所名名前書入れ親元の方へハ年月何某へ嫁又ハ 何某へ養子二つかはすと記し名前へ点を掛ル若不縁の節ハ双方点 をかけ親元ハ張掛紙にて名を記し上へ年月何其方より帰と記す先 方ハ名前の上へ年月不縁と記す ㈱一本人又ハ家内の者にても年限暇にて奉公稼二出るものは名前の 上へ付紙にて何の何年より何年の間暇御免と志るし立帰る節付紙 を取除-へし ㈹1 子孫別家する時ハ名前へ点をかけ上へ年月別家何印の組へ人と 記す其薯の伍組又ハ腎不足の伍組へ入新にl家分の本紙へ書 載す若晶へ分家する時ハ年月何組何鮒へ分家と記し名前へ点を 掛る他響。分家し来るものハ何組晶何の何其方よ。分家と名 前の上へ志るす 仙一産業田畑山林船町地牛馬等改れハ肩へ年月改何と志るし最前の 分へ点を掛其外とも買入分ハ肩へ年月買と記す売分ハ肩へ年月売 と記し点を掛分与分売ハ年月分与又ハ分売と記し点を掛残高を新 二 志 る す ㈹一若脱走の者有之節ハ早速届出其親族伍組又ハ柵役人蒜精々探 索いたし六ケ月毎二瑳様申立三十六ケ月を過不知ものは其よし申 出戸籍へ年月日除籍と記し名前へ点を掛家内不残出奔の時ハ届書 人等同様代替之通り白紙を張掛へし ㈹1 1冊の末こハ家数人貞田畑山林船町地牛馬数を記す毎年l度三 月二改追年張掛紙こして六ヶ年を経大故の節二至り尽-除之其年 の数を記す事又はしめの如し sl一部の末二小組内晒数家数人員其外を記事亦前1両し ㈹一毎年三月改之節大牌楯別こ美濃紙ニッ折の冊を調表紙の書鉢本 冊二同-し左側大牌楯の名前張掛二及はす直に書付本冊の未二記 せる家数人貞其外を書載一部とし脚数家数人貞其外を惣計し末二 是を書記改無相違趣奥書を調へ印を押し表紙の書鉢本部の通にし 左側名前張掛二及はす直二書付県庁へさし出す ㈹7 六年を経大改之節の次第も順番二是を計ふ事前の法のことし 右戸籍の儀ハ永世の御記録庶民の系譜たり人民御保全の叡旨を奉鉢 認仕法之通柳も不可怠もの也_ 明治四辛未年 若松麻 (桧枝岐村文書へ福島県歴史資料館所蔵) (5) 滋賀医科大学基礎学研究第四号(1九九三年)

(7)

表1 京都府と大津県、彦根藩、日田県、若栓県の戸籍仕法の比較、対照 京都府 大 津 県 彦 根 藩 日 田 県 若 松 県 前 書 ◎ ◎ ◎ 被仰 付其法 (欠落) 戸籍 仕法書 (表題) (1) (1)伍組 ⇒五 人組 (1 )精 一 支配内 を以 て→ 一村 を 隼 等掘 昆 (1 )鵠 堀 屋 1 X2 大幅 に変更) (2 ) (2)表紙 山城 園何郡舗 (2 )表紙 山城国何郡郡 ‥ (2 )表紙山城国何郡維 (3 )表紙山舶 何郡舘 戸籍 ⇒表紙近 江国何郡 戸籍 ⇒表紙近江 国何郡何 戸籍ll> 表紙何 園何郡何村 戸籍→冊の表紙何々組 館 戸籍 村戸 籍 F il 噌 戸籍 鵠 何某支配→肝煎何 の 何某 (3 ) (3) ◎ (3 ) ◎ (完全 に欠落) (4 ) (大幅 に追捕) (4 ) (4) ◎ (4 ) ◎ 3 (大幅 に変更、後段 は 京都府の(5)の】部 を変 更 した もの) (5 ) (大幅 に変更) (5 ) 5 (伍 組、五人組 が混在 ) (5 ) ◎ 普)(一部 を変更 して(3 )に統 (6 )一二ll> 十二支 (6 ) (6)伍組 →五人組 (嘩 雪掘 屋 (嘩 雷掘 屋 7 (一部補完) (7 ) (7) ◎ (7 ) ◎ (5 ) ◎ (8 )再縁 は張掛へ書入 …→ 先方ハ名前 の上へ年 月不 縁 と記す (8 ) (8)何条 →何 の (8 )何 条→何之 (6 ) ◎ (完全 に欠落) (9 ) (9) ◎ (9 ) ◎ (7 ) ◎ (9 )何 ノ年 よ り何 ヶ年 の間 暇→何の何年 よ り何年 の 間暇御免 10 (10 ( 5 同様 、伍組、五人 組が混在 ) 0 0) ◎ (8 )噌 →他村 舘 ⇒何村 ( 4 か所変更) ID (ll) ♂ u カ買得 と記す売 る分ハ 肩 9 大幅 に変更) u l)船牛馬等 →船町地牛馬 ヘ年月 (欠落) (10 (独 自に補完) 等 年に∼度三月故 にて産 業を (欠落) 田島其外買入 る分 は肩 へ年月買得⇒其外 とも買 入分 ハ肩へ年月買 (12 82) ◎ (12)村退 町退 園退等う村退 等 富 町退 →富 退 馨退 →富退 十十 " I"蝣- I.「= 十 宕退 珊 町退 (完全 に欠落) 13 03)伍組 l> 五人組 (13)鶴 城 屋 ( 2 行分 の但書 を追補) 嶋 等 堀 屋 年 月 日除籍→年月除籍 (12) (大幅 に変更) 04) 14 ◎ 0 4) ◎ 0 3)大改の節 に至 り尽 く除 之其年の数 を⇒大改之節 に其年の数 を 0 3)】 部→】冊 家数人数 田島山林船牛 馬数ll> 家数人貞EB 畑 山林 船町地牛馬数 (14) (8 3)の補完) 15 (15) (後段 、大 幅 に変更) u 5)鵠 ^ Jア屋 . I_ 嶋 等う大農票 (後 段、大幅 に変更) (後段 、大幅 に変更) (後段、大幅 に変更) u6) (16) ♂ u 6) ㊨ (完全に欠落) 16 大幅 に簡略化) 後 書 ◎ ◎ ◎ ◎ 年月 日 明 治 二 己 巳 明 治 二 己 巳 明 治 二 年己 巳 十 二 月 明治 四辛 未年 明治初期戸籍の地域性について-若松県・彦根藩・大津県・日田県の事例-(井戸)

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三 明治元年の京都府戸籍仕法へ 明治二年の大津県へ彦根藩へ 日田県の 戸籍仕法へ 明治四年の若松県の戸籍仕法をそれぞれ比較へ 対照しへ そ ( -> ) の特色を検討することにしよう.条文には、3㈱畑  と番号を付し' ( N O ) 京都府の郡中戸籍仕法をベースにして検討をすすめた。なお、要点は 表一にまとめてみた。 前書は'大津県へ 彦根藩へ 日田県はいずれも京都府とまった-同じ であるが、若松県は﹁被仰付其法﹂ の五字を省略している。このほか <Nォ) 徳島藩も﹁戸籍編製の凡例左の通﹂ときわめて簡潔に表現しているが' 後書の﹁右戸籍之儀は永世之御記録--﹂で戸籍編製の趣旨を改めて 強調しているので'前書の簡略化は不思議ではない。なお、若松県は' 冒 頭 に ﹁ 戸 籍 仕 法 書 ﹂   の 表 題 を 付 し て い る 。 まず川は'戸籍編製の責任者、その管轄区域、伍組および分冊など に関する規定である。大津県は﹁伍組﹂を﹁五人組﹂ に変えた以外は 京都府とまった-同じである.彦根藩は﹁種撃の併記を﹁庄屋﹂と 単記しているが'対象地域に存在しない役職名を削除しただけのこと である。さらに、彦根藩は﹁観撃支配内を以て﹂を﹁蒜を﹂と簡 略 に し て い る 。 日 田 県 も 、 彦 根 藩 同 様 へ   ﹁ 庄 屋 ﹂ の 単 記 で あ る 。 若 松 県 は'川畑の二項に条文を分けへその内容もかなり変更し'県独自に﹁肝 煎﹂﹁大隅轡という役職名を採用している.このほかへ伝統的な地方 統治制度を反映し'﹁小組﹂で1部としているのも特色の一つであるo 佃は戸籍簿の表紙のタイトル、レイアウトなどについて言及してい るが、大津県と彦根藩は﹁山城国﹂を﹁近江国﹂ に変更している。こ れに対して'日田県は﹁何国何郡何村戸籍﹂ であるが'おそら-民部 官達第五〇五号のマニュアルをそのまま使用したことによるのであろ う。若松県の畑は'国名へ 郡名を削除し'﹁何〝組﹂を入れているほ かへ﹁櫨粕何某支配﹂を﹁肝煎何の何某﹂に変更している。 畑は戸籍簿の冒頭に仕法書を書載することを義務づけている。大津 ( N O ) 県と彦根藩は京都府とまった-同じである。日田県はこの条項が欠落 し て い る が ' ﹁ 豊 後 国 日 田 郡 本 城 村 戸 籍 ﹂   ( 山 田 良 久 家 文 書 )   の 冒 頭 に 仕法書が実際に書写されていることからみてへ この戸籍簿の作成者が 書き漏らしたのか、あるいは書載の必要性を認めず'意識的に省略し たものと推測される。若松県は'㈲で﹁表紙何々組戸籍と書へ 左側張 掛紙にて大隅甜何の何某役中と書,肩書井交代の節、六年を経大改之 節等'前条肝煎の法の如し﹂と、前条の大幅な補完をはかっている。 京都府戸籍仕法を原型とする戸籍の特色の一つが軸の規定で'戸籍 簿の仕様へ産業へ 田畑・山林などの家産へ宗門などを記載させるとと もにへ但書で代替りのさいの措置を示しているO この棚も'大津県と 彦根藩は京都府とまった-同じであるが'日田県と若松県では大幅に 変更されている。まず日田県の畑はきわめて長文で'後段は京都府の ㈲を一部手直ししている。冊の判型は﹁竪曲尺九寸横六寸﹂から﹁竪 曲尺壱尺横六寸﹂とやや縦長に変更されている。﹁上四ケ一の処へ墨筋 を引﹂は大津県へ彦根藩へ 若松県のほか神奈川県、徳島藩など明治二 ∼四年の戸籍に共通する特徴であるが'日田県はこの箇所を﹁上三寸 弐分之所へ墨筋を引﹂ に変えている。京都府戸籍仕法の表現に置き換 えてみると、竪1尺の上三寸二分であるから﹁上四ケ1の処﹂が上三 分の一に改められたことになる。確かに﹁豊後国日田郡本城村戸籍﹂ は'ほぼ上三分の一に墨筋が引かれており、他の戸籍に比較して産業へ (7) 滋賀医科大学基礎学研究第四号(1九九三年)

(9)

明治初期戸籍の地域性について-若松県・彦根藩・大津県・日田県の事例-(井戸) 田畑などの記載スペースがやや広-なっている。このほか日田県は、 但書の﹁尤1代1枚と限りあれは  ﹂の箇所を﹁六ケ年毎に改候間へ 旧帳を大切二蔵すへし﹂と書き変えるとともにへ つづいて﹁籍認順は 庄屋へ組頭を始に出し'其次へ伍組々々にて一二の志るLを以て仕分へ 一伍組限り順々次第追ひ仕立へし、新家出来の節ハ冊末の白紙へ書入 相伍組隔るといへとも右一二乃志るLを以て知るへし﹂と追補Lへ京 都府の㈲の新家出来の節の措置についても言及している。若松県の㈲ ( I M C O )

使

を 付 し て い る 。 ﹁ 田 畑 ﹂   の 上 に ﹁ 所 持 の ﹂   の 三 字 を 追 加 へ   さ ら に ﹁ 船 ﹂ に替えて﹁町地﹂を入れている。また﹁牛馬﹂につづけて﹁宗門﹂を あげているが'上四分の一の部分に宗門を記入させるのは他府県にみ られない特色の一つである。 ㈲は台紙へ本紙の張立てへ新家出来の節の台紙への張入れなどに触 れている。彦根藩は京都府とまった-同じであるが'大津県は﹁伍組﹂ が一か所﹁五人組﹂ になっている。日田県は独立の条項を設けず'す でに述べたごと-へ この㈲を1部変更して畑の末尾に記載しているo 若松県は﹁一二のしるし﹂を二か所とも﹁十二支の印﹂にしている。 ㈲は出生、死亡、転出入などの記載であるが、若松県を除けば、京 都府戸籍仕法の原型を大幅に改変した事例はみられないO彦根藩と日 田県は'﹁鳴響を﹁庄屋﹂の単記にLへ大津県は前条㈲と同様﹁伍組﹂ を﹁五人組﹂ に改めただけである。若松県は地方統治制度の重層構追

即座ここれを志るし肝煎よ。大牌楯へ相届右之如-志るす﹂と改変へ 補 完 し て い る 。 縁組の記載方法を示した間についてはへ大津県へ彦根藩および日田 県は京都府とまった-変わらない。若松県の㈱は'不縁のときは﹁先 方 ハ 名 前 の 上 へ 年 月 不 縁 と 記 す ﹂   こ と と し へ   再 縁 へ   再 々 緑 に つ い て は 省 略 し て い る 。 ㈱は﹁暇御免﹂に関する条文で'日田県だけが京都府と完全に1致 する。大津県と彦根藩は﹁何条﹂が﹁何の﹂ に変えられている。なお、 若松県はこの条項がまった-欠落している。 ㈱は年限暇で奉公称に出るケースの記載であるが、大津県へ彦根藩、 日田県は京都府とまった-同じである。若松県も﹁何ノ年より何ヶ年 の間暇﹂を﹁何の何年より何年の間暇御免﹂と若干変更しているだけ で あ る 。 ㈹は分家の記載様式で'彦根藩だけが京都府と同一である。大津県 は曾同様,﹁伍組﹂と﹁五人組﹂が混在している。日田県は'﹁他柵﹂ を﹁他村﹂へ﹁梱晒﹂を﹁何村﹂と﹁村﹂の単記に変えている。岩松県 は﹁家数不足の伍組﹂を﹁腎不足の伍組﹂、﹁梱柵へ﹂を﹁何晶肘 へ ﹂ 、 ﹁ 他 晒 よ 。 分 家 ﹂ を ﹁ 他 響 。 分 家 ﹂ へ ﹁ 年 晶 腎 其 方 よ り 分 家 ﹂ を﹁何組何晒何の何某方よ募家﹂にそれぞれ改変している。 佃は産業、家産などの改訂へ田畑の売買に関する書式であるが'大 津県だけが京都府そのままである。彦根藩は﹁買得と記す、売る分は 肩へ年月﹂の部分が脱落しているが'同じ彦根藩の﹁近江国神崎郡新 海 村 戸 籍 ﹂   ( 新 海 共 有 文 書 ) の こ の 条 文 が 京 都 府 と ま っ た -同 じ で あ る ( < N W ) こと、それに前後の文脈からみて一円村の戸籍作成者が書き漏らした ものと思われる。日田県の㈱は'冒頭の﹁産業、田畑--年月改何と 記し﹂までは京都府の仙と同じであるが、つづ-﹁最前の分へ点を掛 (8)

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--﹂から末尾までが﹁田畑買入並分与分売は最前之分江点を掛へ加 除志たる其高数を年々張掛紙二志るす﹂と全面的に書き変えられてい る。さらに日田県は、独自に㈹を設けへ﹁田畑持地を書出すこと当県支 配下丈二限るへしへ他村持地何ケ村たりとも其惣合を書出す'組庄屋 手元へハ10宛の○○ありて年々増減を附置事﹂と前条㈱を補完して いる。若松県の仙は﹁田島へ山林へ船へ牛馬等﹂ に﹁町地﹂を加えへ ﹁ 田 畑 、 山 林 へ 船 へ   町 地 、 牛 馬 等 ﹂ と し て い る 。 ㈲ で ﹁ 船 ﹂ を ﹁ 町 地 ﹂ に替えていることはすでに述べたが、㈲と餌の不整合に多少の異和感 が残る.このほか若松県は﹁年に1度三月改にて産業を﹂の1二字を 省略しているが'産業、家産などに変更があれば'三月に限らずへ そ の都度戸籍に記載した方が間違いがな-'理にかなった省略といえよ う。なお若松県は、もう7か所へ ﹁田島其外買入る分は肩へ年月買得﹂ を ﹁ 其 外 と も 買 入 分 ハ 一 層 へ 年 月 買 ﹂   に 変 え て い る 。 個は﹁御答にて村退、町退'国過等の者﹂と﹁流罪﹂に関する記載 の仕方で、大津県だけが京都府と完全に一致する。彦根藩は﹁村過へ 町退,国退等﹂が単に﹁村過等﹂と簡略化されへ﹁師町退﹂﹁晒退﹂の 二か所がいずれも﹁師退﹂に改変されている。﹁近江国神崎郡新海村戸 .GIS凸 籍﹂ (新海共有文書)にも同様の改変がみられることへ京都府でも市中 戸籍仕法では右の二か所が﹁町退﹂の単記になっていることなどから みてへ この改変は現実に即応し理にかなっているといえよう。日田県 の㈹は﹁酬町退﹂が﹁村町国退﹂へ﹁腎﹂が﹁村町退﹂と表記されて いるだけで'実質的には京都府と同じである。若松県は京都府の㈹に 相当する条文が完全に欠落している。 個は﹁暇免なきに他所へ出るもの﹂の戸籍記載法である。比較的長 文であるにもかかわらず、大津県は﹁伍組﹂が﹁五人組﹂へ 日田県の㈹ も﹁種轡が﹁庄屋﹂へ﹁年月日除籍﹂が﹁年月除籍﹂と軽微な変更に とどまっている。彦根藩は南軍の併記を﹁庄屋﹂の単記にしたほ かへ末尾に﹁但除籍後も精々相尋へ居所分り候ハハ遵帰届出候上、復 籍為致可申﹂の但書を追補している。若松県の脚は﹁若脱走の者有之 節ハ早速届出へ其親族へ伍組又ハ晒役人二而精々探索いたし-⊥と 全面的に書き改めへ親族へ伍組らの連帯責任にまで言及している。 個は戸籍の末尾の家数へ 人数などの集計と毎年三月の改訂に関する 規定で、大津県と彦根藩は京都府とまった-同じである。日田県の細 は﹁大故の節に至り尽-除之へ其年の数を﹂を﹁大改之節に其年の数 を﹂と簡略化している。若松県の脚は'﹁一部﹂を﹁一冊﹂としている ほ か へ   ﹁ 家 数 へ   人 数 、 田 島 へ   山 林 、 船 、 牛 馬 数 ﹂ を ﹁ 家 数 へ   人 員 へ   田 畑、山林へ船へ 町地、牛馬数﹂に変えている。さらに同県は'佃との 関 連 で 別 に 伽 を 立 項 L へ   ﹁ 小 組 ﹂ 単 位 で の 集 計 を 義 務 づ け て い る 。 個は戸籍簿の提出へ保管などに関する規定であるが、府藩県によっ て 地 方 行 政 の 制 度 へ   組 織 が 多 彩 で あ っ た の で ' 当 然 の こ と な が ら へ   こ の条文は京都府戸籍仕法に大幅な手直しがなされている。まず大津県 は﹁大庄屋に差出す--﹂以下を﹁其郡の組惣代へ差出ス、組惣代に おいて1部内村町の冊を集め合て嘉としへ柵数へ家数へ人数其外を 集計し末に是を書記ス--﹂と書き改めているが'県独自の役職名と して﹁組惣代﹂﹁組惣代役座﹂﹁庶務掛﹂などがあげられる。彦根藩も' 二か所の盛轡が﹁庄屋﹂の単記になっているほか、大津県と同じ -﹁大庄屋に差出す--﹂以下が'﹁其郡乃惣轄所に差出ス'惣轄所に 於て1郡内之冊を集め合て1部としへ村数へ家数へ人数其外を惣計し (9) 滋賀医科大学基礎学研究第四号(一九九三年)

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明治初期戸籍の地域性についてI若松県・彦根藩・大津県・日田県の事例-(井戸) 末に是を書記ス、郡毎に如斯し近江国何郡戸籍と表題し民政所に差出 スへしへ 民政所に於て諸郡乃冊を集め1部としへ 又是を惣計し末に郡 数、村数へ 人数其外乃数を書載'藩庫二蔵ス﹂と書き改められている。 彦根藩の行政組織を知るうえで、﹁惣轄所﹂﹁民政所﹂﹁藩庫﹂が注目さ れる。日田県の細は'彦根藩と同じ-二か所の﹁種撃を﹁庄屋﹂の 単記にするとともにへ﹁本冊の未に記せる家数へ人数其外を書載せ--﹂ 以下を'﹁本冊の未に記せる家数へ人数其外並前年分男女共増減を但書 二書我へ年々戸籍正月中願出調済之上相納候節一同二可差出事﹂と大 幅に短縮し、役職名をいっさい表記していない。若松県も、二か所の ﹁梶野を﹁大牌轡に改めるほかへ﹁本冊の末に記せる家数へ人数其 外を書載せ--﹂以下を'﹁本冊の末二記せる家数へ 人員其外を書載一 部としへ脚数へ家数へ人員其外を惣計し末二是を書記へ改無相違趣奥 書を調へ印を押し表紙の書林本部の通にLへ 左側名前張掛二及はすち 直二書付県庁へさし出す﹂と大幅に短縮している。なお大津県、彦根 藩および日田県が京都府の﹁改無相違趣奥書を調へ印を押し﹂ の箇所 を削除しているのに対し、若松県だけが奥書へ 押印を義務づけている の が 興 味 を ひ -0 ㈹で六年一改について触れているが'大津県と彦根藩は京都府その ままである。日田県はこの条項が完全に欠落しておりへ 若松県は﹁前 条の如-し1-増減を書記す﹂の部分を省略している ﹁右戸籍の儀は永世の御記録へ庶民の系譜たり︰-﹂ の後書は'大 津県へ彦根藩へ 日田県へ若松県のいずれもが京都府戸籍仕法とまった -同じである。末尾の年号へ月日は'京都府は﹁即堀元瑠京都府﹂ であるが、大津県へ彦根藩へ 日田県および若松県は表一のごと-であ り'日田県のみ﹁十二月﹂と月を記載している。 以上の検討から、大津県、彦根藩へ 日田県および若松県の戸籍仕汰 のいずれもがへ 京都府戸籍仕法を原型としていることが確認できた0 なかでも大津県と彦根藩は'京都府を多少手直しした程度で'大幅な 改変を加えていない。彦根藩は'政府の指令とは別にへ 地理的に近接 しているので、京都府から直接的に戸籍作成に関係する情報を入手し ォ・) ていたのかもしれない。もちろんへ宮川氏が指摘したように'民部官 達第五〇五号が当時の府県だけでな-藩にも出されていたという考え 方が成り立つし、あるいは近江は幕府直轄領へ旗本領、寺社領へ藩領 などが錯綜していたので、彦根藩が大津県の影響をストレートに受け て戸籍の編製に着手したことも考えられるであろう。 他方へ京都府から比較的遠隔の日田県と若松県でデフォルメが顕著 であるのも興味深い。若松県は明治三年から同四年にかけて三度も戸 籍を作成しているが'それら戸籍の特色と京都府戸籍仕法との関係な どについてはへ章を改めて検討することにしたい。 (10 四 平成四年(l九九二) 九月へ筆者が福島県歴史資料館と福島県大沼 郡金山町中央公民館で閲覧した明治初期の戸籍関係資料は'右にいち おうの検討をすませた若松県の﹁戸籍仕法書﹂(桧枝岐村文書)を除-とも表二のごと-である。これら若松県の戸籍は'明治三年三月の戸 籍 ( 以 下 へ   M 三 -三 戸 籍 と い う ) へ   明 治 三 年 六 月 の 戸 籍 ( 以 下 へ   M 三 -六戸籍という)へ明治四年70月の戸籍(以下へM四II O戸籍という) の三種類に分けられる。

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まずM三-三戸籍は、仕法書の条文はみあたらないが'京都府の郡 中戸籍仕法の雛形とほぼ同じ雛形を収載しているのが表二のIIlで ある。表題﹁岩代国何郡何村戸籍﹂ の左側に﹁何何年何日幾日ヨリ﹂ と書かれているが'家族の年齢記載が﹁明治三午何歳﹂ になっている ので'明治三年に作成されたとみて間違いない。このIIlに基づい て実際に編製されたと推定される戸籍が表二のII二へ II三へ II 四の三冊であり、上四分の一で横線が引かれ'上欄に雛形どうり職業、 所有田畑反別(その所在小字名も併記)へ牛馬数などが記載されてい る。I-二とI-四は'伍組を一番組、二番組の数字で上欄の末尾に 記載しているが'I-三には伍組が記載されていない。旦那寺はt I l二へ I-三、--四のいずれも'雛形どうり下欄の末尾に明記され ている。なお--Illは'各家ごとに家族の末尾に﹁合九人内票轡 のごと-'雛形にはない家族の合計数を記している。以上の検討から' これら若松県のM三-三戸籍は'京都府の郡中戸籍仕法をほぼそのま ま踏襲して作成されたとみて誤りないであろう。 つぎにM三-六戸籍を検討してみよう0表二のH-1はその雛形で、 まず各家ごとに職業、所在村名を記載Lへ以下ほぼ上下二分Lへ上部 に所有田畑(石高)へ山林へ牛馬へ船など'下部に家族構成へ末尾に旦 那寺を書き込んでいる。家族は'年齢の記載はあるが、縁組の記載が な い 。 こ の 雛 形 に 準 じ て 作 成 さ れ た 戸 籍 が E j I 二 へ   E j I 三 へ   H -四 の 三冊である。いずれもその内容へ形式ともにほぼ雛形どうりであるが' 三冊とも旦那寺の頭部に丸で囲んだ十二支で伍組を表示している。ま たHI二へ HI四は戸籍の1面を1家分としているがt EjI三は余白 を残さない追込み形式で、一家の戸籍が二面にまたがっている事例が 表2 著橡県の明治3-4年の戸籍 明治 3 年 3 月の戸 籍 I - 1 岩代 国何 郡何 村戸 籍 (雛形 (K ) I 】 2 明治 三午 年三 月 岩代 国会 津郡 叶 津村 1)戸 籍 (H ) (M 3 一 3 戸 籍) I - 3 岩代 国大 沼郡 桑原 村2)戸 籍 明 治三 午年三 月 (K ) I - 4 岩代 国大 沼郡 山入 鮭立 分3)戸 籍 帳 明治三 年午 三 月 (0 ) 明治 3 年 6 月の戸 籍 M 3 - 6 p i II- 1 岩代 国大 沼郡 大谷 組小 野 川原 村4)戸籍 (雛 形 ) (K ) II- 2 岩代 国会 津郡 黒谷 組 叶津村 戸 籍 明治三 庚午 年六 月 (H ) II- 岩代 国大 沼郡 大谷 組 桑原村 戸籍 明治三 庚午 六 月 (K ) II- 4 明 治三午 六 月 大沼郡 大塩 組 山人村 5)戸籍 (0 ) II- 5 岩代 国会 津郡 黒 谷組 叶津村 戸 籍 明治 四辛 未年二 月 (H ) 明治 4 年10 月の戸 籍 Ill- 1 明 治四辛 未 年十 月 戸 籍雛 形 (H ) Ill- 2 戸籍 雛 形 (K ) (M 4 - l OF if ) IIl一 3 若松 県 第四 十九 区岩代 国大沼 郡大 谷組 桑原 村戸 籍 明治 四辛 未年 十 月 (K ) (注) (H)長谷部大作家文書(福島県歴史資料館所蔵) (K)河越卿家文書(福島県歴史資料館所蔵) (0)大竹門三家文書(金山町中央公民館所蔵) 1)現南会津郡只見町  2)現三島町  3)現金山町  4)現三島町  5)現金山町 ail‖E 滋賀医科大学基礎学研究第四号(l九九三年)

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明治初期戸籍の地域性について-若松県・彦根藩・大津県・日田県の事例-(井戸) 少な-ない。そのほかH-二には'各家ごとに﹁メ五人譜jJのご と-'雛形にはみられない家族数の記載がありへ H-四には﹁明治三 響月故へ右村内相改候処相違無御座候以上﹂の奥書きがある。 HI五は、八か月遅れの明治四年二月に作成されているが'家族数 の記載がないことへ 明治三年九月へ 平民に苗字使用が許可されたこと により新し-姓が記載されていることへ戸主の姓名の下に押印してい ることを除-とへ その記載内容、形式はH-二と基本的に変わらない。 Ej-四の奥書きのあとに、﹁此帳面こ而未ノ二月改上ル﹂ の追記があ り、前年六月以降の村内人口の変化(男子1人死亡へ 男子1人出生) が書載されている。叶津村は八か月後に改めて戸籍を作成したがへ山 人村は追記にとどめたわけである。以上の検討から'H-五は'八か 月の時間的ずれはあるが、M三-六戸籍と軌を一にしているといって 間 違 い な か ろ う 。 表二のC- 1'i- 二はいずれもM四I70戸籍の雛形である。両 者は基本的に同じであるが、m-一は﹁社寺之分略ス﹂とあり、神官へ 僧侶の戸籍記載方式が省略されている。ほぼ上四分の1に墨筋が引か れ、上に職業へ家産などが記載されていることから'京都府戸籍仕法 の流れを汲むことは間違いないと思われるが、下四分の三が1人ごと に縦の罫線で画されていることや、記載内容が彪大で多岐にわたって いることなどからみて、M四-10戸寿と前述の若松県の明治四年の ﹁ 戸 籍 仕 法 書 ﹂   ( 桧 枝 岐 村 文 書 ) と の 関 連 性 に つ い て は へ   い ま の と こ ろ 明確な判断を下だすことが困難である。 若松県のM四110戸籍は、M三I三戸籍へ M三-六戸籍に比較し て記載内容がきわめて豊富である。Ⅲ-一、Ⅲ-二は、上四分の一に 所在村名へ職業へ所有田畑(石高)・山林・牛馬などの家産、旦那寺を 記載している。他の戸籍と異なって﹁薗野﹂﹁菅野﹂﹁漆木﹂ の記載に 地域性がみられ、﹁何組何村二出作へ 田高何石何斗'畑高何石﹂﹁同村 何ノ誰持家地﹂﹁何村何ノ維持地﹂などの記載から地主小作関係、階層 構造などを分析する手がかりがえられる。職業についてはへ ﹁工﹂は大 工 へ   壁 塗 へ   屋 根 茸 、 木 挽 ' 鍛 冶 な ど ' ﹁ 商 ﹂ は 呉 服 へ   太 物 へ   穀 、 質 、 酒 造 へ   荒 物 へ   小 間 物 へ   ﹁ 雑 業 ﹂ は 医 へ   手 習 師 匠 な ど 具 体 的 に 例 示 し て い る。職業へ家産などの下で'全体のほぼ半分近-を占める欄には'役 職へ縁組のほか出席へ手伝へ修行、奉公などの記載例をあげている。 右のmI一'mI二に準じて実際に作成された戸籍がmI三であるo このEjI三には、雛形にはみられない屋敷番号が村名につづいて記戟 されているが'職業欄は空白になっている。末尾に﹁職分合へ農二十 五 人 ﹂ と あ り へ   二 五 戸 全 戸 が ﹁ 農 ﹂   で あ っ た の で 省 略 し た の で あ ろ う 。 (12) 民部官達第五〇五号により中央法令としての性格をもつようになっ た京都府戸籍仕法は'地方によって多彩な受けとめ方をされ、デフォ ルメされた。そしてへ近世の伝統的な地方統治制度とのからみで、府 藩県によってローカリティに富んだ戸籍が編製された。今後も各地で 明治二∼四年の戸籍が掘りおこされ'それらを比較へ検討することに よってへ 明治初期の地方行政制度の変遷とその地域性を追究する手が かりがえられることを期待したい。 ( 付 記 )

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本稿執筆のための資料採訪'収集にあたって'滋賀県栗東町役場栗 東町史編さん室へ福島県歴史資料館へ福島県金山町中央公民館の各位へ 大分県天瀬町本城の山田艮久氏へ滋賀県栗東町下戸山の川崎愛作氏、 大阪教育大学の出田和久氏にお世話になった。またへ資料の解読にさ いして'栗東町史編さん室の岩永篤彦氏のご助言をえた。末筆である が、心から感謝の意を表する。 EJ ( -) 井 戸 庄 三   ﹁ 庚 午 戸 籍 の 歴 史 地 理 学 的 研 究 ( 一 )   -  戸 籍 編 製 規 則 を 中 心 と し て   -  ﹂ ﹃ 徳 島 大 学 教 養 部 地 理 学 報 告 ﹄ 1 号   l 九 六 八年 l∼1二ページ ( 2 ) 井 戸 庄 三 ﹁ 明 治 初 期 戸 籍 の 系 譜 と そ の 歴 史 地 理 学 的 意 義 ﹂   ( ﹃ 織 田武雄先生退官記念人文地理学論叢﹄柳原書店・所収)一九七一 年 六五九∼六七二ページ ( 3 ) 福 島 正 夫 ﹁ 明 治 四 年 戸 籍 法 の 史 的 前 提 と そ の 構 造 ﹂   ( ﹃ 戸 籍 制 度 と ﹁ 家 ﹂ 制 度   -  ﹁ 家 ﹂ 制 度 の 研 究   -  ﹄ 東 京 大 学 出 版 会 ・ 所 収 ) 1九五九年 l O1-1〇三ページ (4)新見吉治﹃壬申戸籍成立に関する研究﹄日本学術振興会一九 五九年 二一∼二五ページ (5) 田中彰﹁明治政権初期政策の原型 - 戸籍帳を1例として -﹂﹃日本歴史﹄八三号一九五五年 二三∼三〇ページ (6)福島正夫﹃日本資本主義と﹁家﹂制度﹄東京大学出版会一九 六七年 四四∼四七ページ、七七∼七八ページ (7)明治元年閏四月二五日に置県へ同四年一一月一四日廃県となりへ 滋 賀 医 科 大 学 基 礎 学 研 究 第 四 号 ( 1 九 九 三 年 ) 大分県に統合された。 保科保編輯﹃地方沿革略譜﹄内務省図書局蔵版 1八八二年 二 六七∼二七〇ページ (8) 明治二年五月四日に置県へ 同九年八月二一日廃県となりへ福島 県 に 統 合 さ れ た 。 ﹃地方沿革略譜﹄前掲 (7) 一七一∼一七二ページ (9) 明治元年閏四月二五日に大津裁判所が改められて大津県になり' 同五年一月一九日に滋賀県と改称された。 ﹃地方沿革略譜﹄前掲 (7) 一四三∼一四七ページ ( S ) 本 城 村 は 現 在 へ   天 瀬 町 域 に は い っ て い る 。 ( S )   明 治 四 1 年   ( l 九 〇 八 ) へ   滋 賀 県 栗 太 郡 葉 山 村 手 原   ( 現 栗 東 町 ) の呉服太物商里内勝治郎(直太郎) が自宅を改造して、里内文庫 を開設した。一万点にも及ぶ一般図書や新聞へ古絵図へ標本模型 の展示のほかへ 講演会、式祭典などの事業へ また巡回文庫などを 行 っ た 。 栗 東 町 史 編 さ ん 委 員 会 編 ﹃ 栗 東 の 歴 史 ﹄   ( 第 三 巻 へ 近 代 ・ 現 代 編 ) 栗東町役場一九九二年 二一八∼二二四ページへ巻末付録二八

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(S) 円村は現在へ多賀町域にはいっている。 (13) (2) 宮川満﹁明治二年の彦根藩戸籍法と戸籍 近江国神崎郡新海 村 戸 籍   -  ﹂ ﹃ 生 活 文 化 研 究 ﹄ 第 九 冊 一 九 六 〇 年   七 三 ∼ 八 四 ペ S﹂ なおへ宮川氏は'新海村(現彦根市) のほか、愛知郡下岡部村 ( 現 彦 根 市 ) へ 東 浅 井 郡 今 西 村 ( 現 湖 北 町 ) な ど で 彦 根 藩 の 明 治 二

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明治初期戸籍の地域性について-若松県・彦根藩・大津県・日田県の事例-(井戸) 年 の 戸 籍 を 発 見 さ れ て い る   ( 七 五 ペ ー ジ ) ( 3 ) 中 村 直 勝 監 修 ﹃ 彦 根 市 史 ﹄   ( 下 冊 ) 彦 根 市 役 所 一 九 六 四 年   七 三∼七五ページ ( S ) 小 田 村 は 現 在 、 山 東 町 域 に は い っ て い る 。 ( S ) 高 宮 村 は 現 在 へ 彦 根 市 域 に は い っ て い る 。 (﹂)川口洋﹁南山御蔵人における村落人口の特色 - 明治四二八 七 1 ) 年   -  ﹂ ﹃ 東 京 家 政 学 院 筑 波 短 期 大 学 紀 要 ﹄ 第 二 集 ・ 第 l 分 冊 l九九二年 九九∼二九ページ ( S ) 福 島 県 南 会 津 郡 桧 枝 岐 村 。 ( 2 ) 以 下 へ   い ち い ち 例 え ば ﹁ 大 津 県 ( の ) 戸 簿 仕 法 ( 書 ) ﹂ と 書 -と 文章が煩境になるので'﹁戸籍仕法(香)﹂を省略Lへ単に﹁大津 県﹂と府藩県名だけを書いた箇所が少な-ないことを断わってお O i Z b ( ァ )   以 下 へ   と -に 府 藩 県 を 付 さ ず に 、 川 畑 ㈲ -・ -と 記 し た 場 合 へ   京 都府の郡中戸籍仕法の条文をさす。なおへ その条文は'前掲(-) を 参 照 の こ と 。 / 蝣 , -i s   井 戸 庄 三   前 掲 ( -)   五 ペ ー ジ (ァ3)同じ彦根藩の明治二年の戸籍でも、﹁近江国神崎郡新海村戸籍﹂ の前文では'畑が軸の冒頭に書かれていてt lつの条項に統合さ れ て い る 。 宮川満 前掲(3) 七六∼七七ページ ( S 3 ) 会 津 地 方 西 部 へ 大 沼 郡 川 口 村 ( 現 金 山 町 )   で 生 産 さ れ た 和 紙 。 合羽などに用いられ珍重された。なおへ地元産の紙使用を明記し ている事例としては'高田藩の明治三年戸籍の清水紙と内山紙が あ る 。 ﹁角川日本地名大辞典﹂編纂委員会編﹃角川日本地名大辞典﹄ (七へ福島県)角川書店一九八一年 井戸庄三 前掲 (-) 四ページ 二九二ページ ( S )   宮 川 満   前 掲   ( 3 ) ( 5 S )   宮 川 満   前 掲   ( c o l ) ( 8 )   宮 川 満   前 掲   ( C O N 七六ページ 七六ページ 七八ページ (14)

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