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ヨゼブ・エッサー『原則と規範』(一)

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叶 品 ﹀ の 著者と出版社の承諾にもとづく翻訳である。 71一一『奈良法学会雑誌』第1巻4号(1989年3月〉

隆(訳)

目 次 第 一 編 私 法 に お け る 普 遍 的 な 法 原 則 の 現 象 形 態 と 法 思 想 の 現 象 形 態 第一章題目の限界と意味 第 二 章 法 律 学 的 な 原 理 の 力 の 場 と し て の 裁 判 官 に よ る 法 の 形 成 ( つ づ く ﹀

第一編私法における普遍的な法原則の現象形態と法思想の現象形態

第一章題目の限界と意味 ﹁法の原則﹂、﹁普遍的法原理﹂、﹁指導理念﹂、及び、所謂﹁普遍的法思想﹂は、人々がそれらの種々様々の意味とそれらの到達 距離につき、いつも、釈明したりすることなくして、あるいは、それらの沿革と機能を明らかにする試みさえすることなくして、 教説と実践が絶えずそれでもって論証していることばの一部である。このような抑制なくしてそのような基本概念は、たいていの 場合、きわめて異る課題のために使用され、過度に高いことが要求され、困難の救援者、また、万能薬として使われ、したがって非

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第1巻4号一一72 ハ 1 ﹀ 常に矛盾にみちて判定されている。私はこのことをその当時擬制の事例で探求してきたし、また、このことを、今日、上述の題目 においてあらためて述べてみたいと思う。なぜかといえば、﹁独立して﹂有効な法原理、普遍的な法原則、あるいはまた、制定法 の法思想に関する表象は、独裁的な制定法擬制の自動的な﹁効果﹂に関する信仰と同様に、説明が必要であるように思われる。あ ちらこちらで壊庇ある区別は性急な前提判断に至っている。このような普遍的概念があいまいであることは政治的濫用、法廷上の 濫用を誘惑する。﹁ X 条の法思想﹂というようなことばはよろこんで各々の表面的な論証に与えられやすい。このような法律学的 な新しいことが突然に流行となるならば、真面目に研究する者は不信と追考のためのすべての原因をみつけるのである。彼はこの 幻ような統一的表象をより詳しく考察することと分類することを要求するのであり、この表象は法形成の現実の事象についての我々 の直観をくもらしている。このようにして、ここにおいて﹁不文の原理﹂の助けを用いて各々の私法秩序を完全化することに関す る我々の表象をあきらかにすることを必要とする。この試みが我々の表象と誤解の由来について像を与えるべきであるとするなら ば、この試みは法典化された法体系のもとに立ち止まることはできなくて、法原理の発生と作用のあり方を

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-伊者圏の裁 判官法においても引用しなければならない。我々のもとでは、法原理はおりおり実定的規則の基礎の上に﹁居眠っており﹂、その 場合、独力で実定的│法的真理として始動するためには、﹁発見される﹂必要があるにすぎないという思想は全く日常的である。 この思想は法典編纂時代の弱点からあきらかにされる。実証主義的狭陸さを克服し、制定法の時代的欠点と編集上の欠点をとり除 く実際的必要性にもかかわらず、大陸の法律家は、観念論的に、自己固有の創造行為の法的権威を理由づけること、また、それを 限界づけることはできないようにみられる。大陸の法律家のこれらの弱点と伝統的な﹁観念論﹂、あるいは、プラトン主義は、こ の理論が啓蒙的に、あるいは、ローマン的に色どられていようとも、この法律家のために﹁かくされた法原理﹂についての神話を 説明するのである。しかし、より現実主義的なアングロ・アメリカの法律家もまた、たしかに、彼には法源理論と法律学方法論の 抽象的な問いかけは存在していないがゆえに、﹁原理﹂の作用のあり方に関する神秘的な表象をしばしば持っている。このように して、忍らく二つの領域にとって、いかに法原理﹁の﹂存在、作用のあり方、及び、実定性が現実になっているか、!ーーどこから、 また、誰をとおしてこの現実性は決定されるか、の研究が承認される。 何を、我々は実務の﹁法原則的﹂考量、及び、法原理、格率と解釈学説の公理のもとで限前に持っかということは多様であるこ とを既に一時的にはかない観察者が書きしるしている。すなわち、彼は、教説原理、構築原理、国民的な法体系の基本思想及び普 遍的に周知の(宇宙的な)制度のもつこのようなもの、現行の法原則から理性として生ずる原理、伝統によって持ちこまれている

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73ーーヨゼブ・エッサー『原則と規範』付 このようなもの、政治的な体制が拘束的と宣言したこのようなもの、司法によって定立されている上記以外のもの、実体的法定理、 法適用の手引的原理、あるいは、技術原理、そして、最後には﹁各々の法﹂一般の普遍的原理、あるいは最高原理をみている。 それゆえ、これら諸々の原理すべての法的性質への問いかけに対する統一的解答は存在することはできないということは、最初 日からあきらかである。我々は、したがって、その際、実定法が問題である範囲において、現象すべての適当な叙述ののちはじめて、 法源、拘束力、再検討性等への問いかけの研究に、どちらかといえばはいってよいであろう。ところで、しかし、純粋に事実的な 像は、裁判官の法発見過程における課題、裁判官の大量の実体的法規範(規則または規定)に対する関係、ならびに、これらを導 く原理(原理または原則)に関するそのおりおりの支配的な表象によって色づけされる。この理由から特定の国民的解釈学説につ いての題目の取り扱いは非学問的であるであろう。 時の経過につれて法律学的法発展のための法原理の意味はあきらかな変遷を経験している。今日、法典化された私法秩序でさえ 条文から帰納的に取得され、以前には既に全問題を決定するようにみえた原理では満足していない。前世紀にとって既にその発展 は功績のある行ないであった。ドイツ大審院が、﹁普遍的な規範のなかに集中化されて制定法に明文化されていない制定法の基本 原理を明るみにだすこと、また、この原理を生活のなかに登場し、制定法には特にとりあげられなくて、当該原理のもとに帰属す る事案に適用することは、むしろ、法律学の問題であり、なかんづく(直接に生活関係に関与する力を持つ法律学を承認する﹀司 ハ2 ) 法の義務である﹂、ということを文言化したことは注目に値いする進歩と思われた。 人々がこの発言の開拓者的性格を決定内容との関連において読むときはじめてその性格を人々は把握するのである。この性 格は我々に今日理念的には日常的な自明さを忠わせる。大審院に対してこの性格は、その当時、条文の権威に対立する裁判官 による原則利用の到達距離のために基本的な熟慮を強要した。いかに真剣に最上級裁判所が法典思想へ侵入したかということ を、その文言化から次のように述べている擁護しゅく姿勢が示したのであった。すなわち、﹁各々の普遍的な制定法の原理を、 この文章から単純な推論帰結を通してあらゆる特別な種類の、当該原理によって支配された事案のための結論が発展させられ るという明哲性をもって文章のなかでいいあらわすことは、立法者にとって実行されえない課題である﹂ということであった。 さらに、各々の形成されゆく生活関係のために特別な規範を定立することは立法者の課題ではない。結局、すべての法律学的 !技術的に可能な形態のことを考えることは立法者の事柄ではなく、この形態(制定法の文字にこだわる判例﹀により制定法

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第1巻 4号一一74 の目標はつぶされるかも知れない。これを考えるのはむしろ法律学の事柄である。・:・(上述の新しい原理がつずいてでてく る ) 。 それに反して、今日、いかに著しく裁判官による法発見の地平線は移動したことだろうか。連邦通常裁判所長官は、裁判官は、 制裁判官法を設定する数多くの可能性をもつが、制定法のあの﹁普遍的な法思想﹂とならんで、成文法﹁より以前に存在しているよ り高い﹂法の原理をも注目しているということを自明なことと考えている。じつに、﹁超時代的に効力のある法﹂のこのような﹁普 遍的に拘束する最高の法規﹂のみがこのより高い法に霊感を与えなければならないことはない。外見的に技術的にして概念的な法 ( 3 ) 形成の構築原理もまたこのより高い法に固有の法体系の理性を形成するあの﹁上位の当為原則と価値尺度﹂を知らせるべきである。 ﹁単純な法概念﹂と実定的﹁体系﹂から従来から知られていなかったり、あるいは、認識されていなかった課題のためにいかな る評価尺度もかちとられることができないということを法律学に教示するために、最近の戦争中と戦後の時期の動揺がじっさいに はじめて必要であったのであろうか。いかなる経験ある実務家も、﹁制定法の論理的素人は決定的な価値の問いかけが登場する点 までのみ到達するのであり﹂、また、上位の法原理が存在しないならば、いかなる価値の問いかけのためにも﹁利益衡量は魔法の ( 4 ) 杖ではないということにまどわされなかった。この迷信は学校用のやり方である。実務的法律学、大陸の法律学も、いな、ドイツ の法律学でさえ、全き﹁制定法への忠実﹂のなかでこの価値の問いかけを追跡してきた。この法律学はその認識から法原則を定立 してきたし、また、これを政治的圧迫に対して堅持したのであり、この法原則は、たとえ形式によるのではないとしても、事実上、 法律の外部にある法を意味していた。よき事例を帰責能力ある病人の意思に反対して身体の完全性への侵襲の医師の職業上の権利 ( 5 ) の拒否が提供するのである。 新しい医師の健康課題を観念論的に美しくいいあらわすことも、国民医療と人種政策の領域での立法上の特別措置も大審院を規 律することはできなかったし、他人の侵襲力の限界についての大審院の原理と身体の不可侵性を変更することはできなかった。﹁医 師の侵襲は病人の同意を必要とするという原則は、患者の直接的な生命の危険の場合、あるいは、著しく直接的な普遍的な利益の 場合のためにのみ破られうる﹂ということを大審院は超制定法的緊急状態を拡大する各々の試みに反対して宣言した。しかし、ど 日こにこの原則は存立しているのであろうか。この原則は、政治的な立法権という方途において法をつくり、しかも、少からず判例 に作用している制定法の前提となる価値秩序または文化の一片である。大陸の裁判官によってすべてそれは制定法に整数的な部分

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75 ヨゼフ・エッザー「原則と規範」付 として帰属させられることはもちろんであり

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ーまた制定法からとりだされている。我々は、成功しているかどうか見るであろう。 この実務を我々は到るところで観察する。しかし、既に、﹁並日遍的な法思想﹂が個々の制定法の章句に復帰するための古典的な ( 6 ﹀ 事例、例えば特別財産における物上代位が周知の事例に復帰するための古典的な事例、あるいは、自分の以前の態度に反する行為 をすることが﹁民法第二ハ二条に含まれた法思想﹂に復帰するための古典的な事例はこの論証的な形態における単なる体系性のた めにのみ﹁制定法からの﹂沿革を強調する。じっさいは、これらの事例は原理として沿革から独立に効力を持っている。これらの 事例は事物の本性、あるいは、当該の制度の本性から正当化されるのであり、また、これらは、各々の個々的解決の機能上必要な 一片を形成するのであり、この解決は共通の問題領域の一部である。したがって、これらの事例は、いかなる制定法もそれらを ﹁知って﹂いない場合でさえ、そのときにもまたすべての法体系において類推可能な関係のもとではひとしくよく周知されている。 歴史的に形成された正義観念のまだそれ以上研究されていない均衡との結合における需要はひとしい利益状態のもとでは同じ意味 の解決を創造する││﹁制定法﹂も解釈学説的な概念もなくても。代位(物的代位)に関して、私はそれを比較法の部で述べるで ( 7 ) あろうし、民法第二ハ二条の﹁法思想﹂に関して、私はオ l ストリ l 民法を引用してよいであろうが、この民法典ではひとしい条 ( 8 ) 文の章句は欠如しているが、それにもかかわらず、該当する判例が存在することはもちろんである。 我々は、それゆえ、事情によってたしかに特定の秩序(契約の自由、私的自治)、組織、または、制度の選択とともに存在する ( 叩 ) ( 9 ) ことができる原理の事物に則した基礎の確認においてそのよそほいに迷わされてはならない。その場合、我々は、不毛の概念論理 によっておびやかされた時間の方向のように、一つの体系、または、単純な﹁法概念﹂からでてくる評価尺度に関する消極的な判 同断に至るのではなくして、おそらく概念形成と体系形成こそその意味において原理の保護者として評価しなければならないであろ E ( n υ ぅ。この意義における﹁体系性﹂は、その場合、もちろん、いかなる怒意の幾何学的構成でもなくして、個々の制度の必然的に一 貫した整理であり、これは、﹁法律行為﹂、﹁取引の妨害﹂、﹁取引の保護﹂、﹁取引の安全﹂、﹁経営の危険﹂等のような、特定した、 ︹ 立 ﹀ また、現実の﹁問題関連﹂の特定の時間的継続の疑問に対するこれらの個々の制度の内在的なむすびつきのなかに存在している。 問題関連はひとしい文化のすべての法体系において驚くほど類似の形態で登場し、また、

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それゆえ、││驚くほど類似の手段 で克服される。これが現実主義的比較法の真一の基礎である。 しかしながら、この体系は、我々はこれを機能によって条件づけられた、もしくは、課題によって条件づけられた体系と名づけ ることができるが、決して歴史的││教義学的体系と同一のものではなく、この体系は制定法の実定的な構成と私法の法典編纂の

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第1巻4号一一76 なかにその沈殿を発見してきたのである。我々は機能によって条件づけられた、もしくは、課題によって条件づけられた体系を解 釈学説的体系もしくは教説的体系と名づけるのである。実務が発展させ、考えだし、あるいは、みずから主張するように制定法か らひきだしている評価と秩序の原理は││我々は、たとえば、﹁信頼原理﹂をとってみようーーそのおりおりに特定の問題性につ き発見され、また、そのもとに保持されるし、また、問題は、依然として法律学的思考の中心でもあるが、合理的意義における ハ 臼 ) ﹁ 体 系 ﹂ は そ う で は な い 。 以上述べたことは、現代の著者が利益法学的な方法の理路整然たる追求においてただ問題規則、すなわち、原理をその﹁衡量﹂ において、裁判官による処分しうる﹁要素﹂として承認しようと欲しているということ、また、これを体系拘束的な構成と構成要 件的な包摂の代りに設定しようと欲しているというところまで広く及んでい穏なぜかといえば、その概念論理をもっ硬直した解 釈学説的な体系は法倫理的な問題究明と原則形成を頼りとする現代法律学の障碍としてますますあらわれる。まさにこの﹁障碍﹂ 引が代用されえない権利担保と重要な管理部局を形成するのかどうかが関われるにすぎない。各々の原則は、その沿革の問題性から 分離されて、一菌性と二律背反性に到達するということもおそらく正当であるが、かような厳格主義と矛盾を避けることこそ体系 の課題であるということも同様に真実である。このことは、規則と例外との正当な関係をつくりだし、また、これも、原則は││ それが公理として振舞うときでさえも 1 1 、人々がこれを事物適合的にうち破ってよいときにのみ機能することができるという洞 ︿ 路 ) 察からでてくるのである。 まさにそれゆえに、すべての原理は体系形成と論理的な上位秩序と下位秩序の図式を志向するのであり、この図式によって﹁素 材﹂は少くとも全面的に使用し得る、事物的に成果のある公理と演緯可能な概念によって融合される。かようにしてすべての法文 化において問題の発見、原理の形成と体系の強化の聞に循環がくり返えされる。﹁関かれた﹂問題のある思考と﹁閉ざされた﹂、 概念的│演鐸的な思考との聞の誤って考えられている競技としての園内に知れわたっている方法の論争によって何が述べられてい るかということは、広い範囲にわたって、事案の実務の新しい経験と学派の理論形態のもつ力との聞における必然的にして、また、 (円 u v すとしづっすすんでゆく素材の交替である。 日我々の時代は、あきらかに、専門家の特殊化された問題解明の諺透によってその特色がいいあらわされる。この専門家はその素 材の今日的原則を硬直化した制定法のもつ姿の外部で形成することを強要されていることがわかる。彼はこの原則を全くだらしな く制定法の姿のもつ体系へはめこむことができる。我々の法典編纂技術の基礎である﹁勝ちとられた﹂幾何学の法則からの距離が、

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77一一ヨゼフ・エッ十一『原則と規範』付 ますます、大きくなればなるほど、我々の法原論の危機があきらかになる。この危機にとっては現代の﹁原則に関する判例﹂の現 象がとくに開示に富むものである。我々はこの現象をこれ以上長く黙殺してはならない。我々の法取引の焦点において実務の成果 はその﹁法思想﹂のなかで法源となってしまった。例えば、現代の市民の不法行為法の国際的状態を述べようと思う者は、その ( 祖 国 ) 第 一 章 を む ロ 仏

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の書いていることをもって述べるであろう、すなわち、人々は﹁普遍的な法思想﹂を転記しなければならないで あろう。その理由は、それ以外のいかなるものも、どこででも、最も重要な責任の構成要件の基礎ではないからである。しかし、 また、裁判官による新しい創造の数多の領域の外部でも、大陸の法思想では、ますます多く、﹁法典﹂の理念とむすびつかない直 接的な、﹁普遍的な法原則﹂からの決定の理由づけが、それが制定法の無力のためであろうと、あるいは、それが全く新奇な評価 ︹ 間 四 ) と思想系列の出発点としてであろうと、一万されているのである。 その際、我々は、裁判官が教義学的精密化ができないとするならば、あるいは、実定的な命令内容を前提決定││すなわち木来 日 の ﹁ 規 則 ﹂

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ーから正確に抽きだすことができないとするならば、﹁法思想﹂ということばが単に混乱を呼び起こす概念としての ハ 却 ) み使用されているいやらしい事案を決して無視しようと思わない。しかし、このような濫用におち入りやすい技術の彼方に法﹁規﹂ の背後に存在する法﹁思想﹂への裁判所による復帰のなかにその法発見作業の新しい把握が告げ知らされる。すなわち、この把握 は決して狭義における白地充足と欠扶充足に限定されるのではなくして、裁判官に全く一般的に﹁文言を越えて志向しなければな ( 泊 ) らない﹂ことを指示するということである。つねに学校の規則にしたがったような解釈の彼方で広々と法創造的に研究されている ところでは、新しい解決方式の権威と確信力の根源に対する問いかけは避けられないものであり、この方式を裁判官はじっさいに ( 刀 ) ﹁無から﹂創造しないのである。ここで﹁発見された﹂法思想と法原理への指示が、すくなくとも﹁体系﹂を維持する裁判官によ る規範形成の正統化としてあらわれる。それにもかかわらずそこから先例制度の意味が大陸の体系にとって新しい光のなかにあら ( お ﹀ われる。さらになじみなく数多の事案が生成発展しているが、ここでは表準的な法原理は全く文言化されず、また、名づけられて ( 誕 ﹀ いなくて、単に裁判官のみが引用する我々の﹁法意識﹂に帰属させられている。これらすべてのことは、この現象に大陸の文献で はごくわずかの注目が一不されているが、ドイツの文献では一般にいかなる注目も示されていないという事実をより一層述べる価値 ( お ) のあるものとしている。その理由は、﹁いかに強く現行法はすべてのその分校にいたるまで原則によって貫ぬかれているか﹂とい う讃嘆をもって、どこからこの原則は、立法とその自称する唯一の拘束性の彼方で、いったい、急に、その正統性を取得するかと いう驚嘆に対して人々は救われない。ここに確定した概念のない白然法的直観の知られざる大地が始まる。そこに我々は、じっさ

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第1巻 4号一一一78 いに、﹁法﹂は法源と呼ばれる権威のなかに、また、交互に制定法、慣習、あるいは、普遍的な法原理としてつくりあげられた権 ( お ) 威のなかに﹁あらわれる﹂というような素朴さ、あるいは、制定法から﹁証明﹂されることができない原則は﹁客観的な裁判官に ( 訂 ) よる裁量﹂以外のいかなるものでもない、というような素朴さを読むのである。これこそ承認された法源論と並ぶ歩みである o

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、我々はすべての固定した地盤を失った。何のために﹁根本思想﹂は必要であるかこれは問いかけではない。しかし、 いかなる役割を根本思想はより現実的に演じているか、また、いかにしてこの役割は我々の公的な法源論とむすびっくことができ ( 叩 岨 ) るか、!│これは、我々の国では、国家的な法源の独占に抵触するすべてのものと同様に、用心深く避けられている。 さて、すべてを支える法原則を国家的に定立された個別的な指令の﹁部分﹂として把握する調和しゅく努力、また、これを﹁実 J 定法﹂から演緯的に獲得する調和しゅく努カは、真に短視眼的な実証主義的な作戦であったということはおそらくこれ以上長く秘 ( m m ) 密のままでありつづけることはできないであろう。この穫のひそかな法の発展的形成は、真正の理論的な洞察をてっとりばやく立 法者の従来から全く認識されていない知慧としての実証的に秩序づけられたものに押しこむのであるが、この形成は、(訂正を必 要とする)制定法にも役立たないし、(無益に従属にち入る)法律学にも役立たないし(現実の認識をだましゅく)学問にも役立 ( 初 ) たないのである。じっさい、法原則の機能は従来から単にこの﹁法律学的な弁証法﹂のごまかしによってのみ実証主義的な体系努 力のなかで目に見にみえないようにされ、﹁この弁-証法は実証的なものに論理的なものの光彩をほのめかしている﹂ということが 示されるであろう。このようにして、我々には、既に冒己何回目 h p n z が、﹁直接に個々的なものから普遍的なものをさかのぼってみ ちびきだすことは特定の限界から不可能であるので、規則を与えられたものから独立にはじめて見つけること以外のいかなるもの も残らない﹂ということを文言化した始源的洞察が留保されている。以上のことから、﹁それゆえ、ここにおいて私は実証的なも ( 刊 以 ) のへ再びはいりこむために、実証的なものから出てゆかなければならない﹂ということがでてくるのである。 この命題のなかに方法の綱領全部がひそんでいる。我々の法典編纂とその解釈技術のなかにあらわれている実証的な体系の全体 の支配要求はこの綱領の理解への入口を閉ざすのである。同じことは公理的な自然法思想に妥当するのであり、これに失望するこ ( お ) とは法律学的な論証における前提││実証的な観点の価値を下げることに対して責任を負うことはあきらかである。このようにし て、じつに、﹁原理なき法はもともと存在したということはできない﹂(凶作の

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という自明の理は実証主義的な研究に とって依然として不毛のままである。その理由は、この自明の理は現存するものを秩序キつけるためには有益と思われるが、いかに 広く有効にいわゆる閉ざされた体系の外部で特定の事物に条件づけられた原理の手で新しい実定法がつくられるか、という生成し

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79一一三ゼフ・エッサー『原則と規範』付 2ゆくものの認識には有益と思われないからである。このような題目をたてる人は、﹁現行の体系﹂の実証主義的なあまりに都合の 幻よいいいつくろいに警戒しなければならないと同様に、自然法的な思弁にもまた警戒しなければならないのであり、この思弁は実 定的な秩序の歴史的な形成要素を越える﹁彼方における﹂現存の静的な自然法体系の主張を越えでるものである。このような弁明 ( 誕 ) は残念ながら我々の題自に関する哲学的研究にまさに誤りとして入りこむのであり、この研究はこの題目のなかに特定の自然法教 理のための証明の機会を見るのであり、また、実定法についての法律学的形成のための現象自体の現実的、方法的意味を無視する のである。とくに誘惑的に思われるのは国際法の理論家のためのこの傾向であり、彼等にとっては常設国際裁判所(そして、今は 国際聯合の司法裁判所﹀の定款第三八条第一項第三号に従って﹁文明化した国民によって承認された法の一般原則﹂は実定的な共 通の国際法であり、あるいは、解釈学説にしたがって、判決主文を通して実定的な共通の国際法になることができる。そこで、国 際法の自然法的な根本概念をすべての文化に役立つ法のもつこの普遍的な﹁原理﹂の﹁自然法の証明﹂をもって強国にすることは あきらかなことである。そのとき、この原理の性質及び国際法の法源に関する学派の争いにおいて、法形成過程におけるこれらの 3 現実の機能を調査することが忘れられている。 &以前よりはるかにすこしのことを、我々は、ある種の国家形態において国民的、民族的、あるいは、﹁世界観的﹂原理をいわゆ ハ 訂 ﹀ る必要な法原理として回定せんと欲している政治的議論と綱領から期待してよいであろう。これらの原理は、普遍的な法原理を設 定することは一般に政治的な立法権の課題でありうるかどうかにつき、我々を熟考させうるにすぎない。現象それ自体の究明を放 棄しながら、現象の性質と現象の内容に関する権威のある則座の意味表明を行うすべてのことは、たとえ、その現象に関する思弁 的な関心がつねにどのような性質のものであろうとも、学問的には役に立たないものといわれなければならない。 我 ⋮ ベ は 、 そ れ ゆ え 、 図 。 d E Z の何回に、即ち、題材に最もよく通じている人に、彼が、﹁法の原則の理論はまだ始められていなか った﹂というならば、正しいといわなければならない。切。 CF ﹀ Z の何回に、司法上の訴訟における原理の形成と機能に関してでない ことはもちろんであるが、法原理の類型と種に関する最初の分析的研究を書いたという功績は帰属するのであり、この研究は法原 理の﹁性質﹂に関する永遠の統一的判断に最初の問を差し、また、我々を、種々の法体系における裁判官による研究、また、学問 的研究、要するに法律学的研究の正確な調査が、はじめて、法原理の現実的役割をあきらかにすることができるという意見におい て、強めるのである。

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第1巻4号一-80 第二章 法律学的な原理の力の場としての裁判官による法の形成 視線の方向の統一のみが多くの素材と題目のもとにおける研究の統一を担保する。いかに法原理は形成され、また、変遷するか、 その発展の種々な段階においてその法的性質はどのようなものであるか、また、法典化された法と判例法(裁判官の作った法)の 二つの基本体系において法原理の課題はどのようなものであるか。今日的な法形成の現実の事象の観察以外のいかなる視線の方向 からも我々は成果を約束することはできない。この事象のなかでのみ原理は裁判官による思索のために、また、教義学的思索のた めにあきらかに認識しうる意味と有効性を展開することができる。この切断面においてもやはり題目はきわめて多面的であること はもちろんである。我々が再検討しなければならない諸関連は法源論と解釈論の個々の疑問のなかへはいってゆくのである。これ らの関連は、我々が一つの題目の定立と理由づけのことを考えてさしっかえない以前に、まず、記述と序列を要求する。真の理論 において一義的な支点のない単純な叙述は意義もないし、また、関心もないことはもちろんである。それゆえ、私は、既に、記述 しゅく部分において主張を文言化しなければならなかったし、この主張のために私は、まずはじめに、事実それ自体をして語らし めようと欲した。これらの事実は、新しい解釈学的命題のために、例えば、原理と制度における前提法律学的(例えば倫理学的) ︿ 州 制 ) 真理の優位についてのこのような命題、我々の法源の複数的な性格(単純な﹁段階構造﹂でない﹀についてのこのような命題のた ・3 ハ 引 ﹀ ぶめにあらわれるのである。それにもかかわらず、学理的出発点の遡及はあまりに多様であるので、たとえそれが脚註の負担になる Q U としても、私は国際的な議論の状態、しばしば、まさに、我々の文献においてなおざりにしている議論の状態の適当な叙述によっ てこの出発点を精密化することを断念してよかったであろう。 最後に比較法の部分に関することであるが、人々は様々な国民的な構造と歴史的な根底の制度が取得する驚くべき内容的類似性 を内在的な問題に条件づけられた原理の視角のもとに観察するのであるが、これを認めることなくして、私が単に裁判官による法 発見過程における原理の種々異なる地位のみを研究したとすれば、比較法の部分は私にはあまりに断片的なものと思われたであろ ︹ 位 ) ( 必 ﹀ ぅ。この類似性は、いたるところで生育している法律学的な法の新形成の領域でしばしばまさに統一となり、それゆえ、ますます 6 ( 必 ) ( 必 ﹀ 引比較法の関心を獲得し、また、法律関係の性質決定の問題でなやまされた国際私法の関心をひくのである。何がここで比較しうる かということは公式の解釈学説またはイデオロギーの造形に依拠するのでないことはもちろんであるが、これらの原理の現実の機 能の正確な知識からのみ評定されることができ、この知識は同意義の根本規則と格率にも夫々全く異る価値を与えることができる。

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81-ヨ ゼ フ ・ エ ッ サ 『原則と規範』付 このことこそ、私にとってこの部分を特に困難なものとし、また、責任を負うことをむつかしいものとしたのであるが、私は、 せいぜい不法行為の資料において、我々の大陸法体系自体と

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-担当体系自体の司法上の実践に際して原理の現実の比較可 能性のための尺度を示すことができると信じてよいと思っていたのである。なぜかといえば、私は、多くのものを批判的に分離 することができる固有の歴史的な直観のたすけを必要としないし、また、そのかぎりにおいて司包 Z の 由 自 己 ♂ 問 。 円 出 L P E w -Y 司 ・

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︾門戸志山口問。自の研究滞在がなければ、研究のこの篇はどっちみち書かれなかったであろう。私は、彼等 の書きおろしを、ここに関連が存在するということを私が確信しないならば、今日も敢えて持たないであろうし、この関連は、は じめて発見したことであるが、個々の叙述へ力を大きく投入することによって宇宙的な共通法の我々の法源論と可能性を新しい光 のなかへ進ませてゆくのである。この意義において私の作業は解釈論の領域における比較法的な個別的研究のための枠組を述べる ( 日 日 a ﹀ のであり、この解釈論を私は同開。開 F と共通に一九五二年六月五日の比較法学会の基礎研究の部会の∞

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毛色会議で提案した。 私の本来の構想は、類型的な法律学的な新形成を伴う若干の系列の大陸の判決伝統に関して大陸の﹁法律学﹂の規則を創造する 力をも説明することであった。このことは、はじめて、私をして、裁判官による法の形成のための法原理が﹁指針﹂として持って いる意味、及び、法形成過程と﹁体系﹂の構成における法原理の二重の機能につき熟慮させる意味を観察せしめた。この枠組のな かで、その場合、私にとって魅力はまさに特殊から普遍への分析のなかにあり、理論的│方法論的な議論のなかになかったのであ るけれども、事例系列は、全体像の部分として残念ながらますます後退して行った。 おそらく人々は、しかしながら、前者、すなわち、特殊から普遍への分析を、そのつど、私が以前に責任法の個々的問題におい ( 必 ) て試みたように、また、私が今、すくなくとも説明的に利得思想につき最後まで行ってきたように、単行論文的に論ぜられた分野 に限定しなければならない。今回、私は、問題性の全状況、すなわち、制定法における裁判官法をすくなくとも、我々の解釈学説 がこの裁判官法のなかで再び、我々よりとくにフランスにおいていくらか進んでいる外国の方法論との接続をみつけるほど広く述 ( 円 引 ︺ べること、また、この裁判官法を我々の解釈学説へすえつけることが成功するならば、私は満足するであろう。法律学的な比較法 は、思弁的な法哲学と実証主義的な資料の比較との聞の割れ目を閉ざすことを助けるように定められていると私には思われるので 日あり、また、それこそ私は比較法学会の﹁基礎研究﹂の部門のここに開かれた新しい叢書の主たる目標と考える。

(12)

第1巻4号一一82 ( 必 ﹀ 私 は 、 な か ん づ く 、 切 。 何 岡 山 富 開 問 の 衰 の 円 ロ ロ 門 出 品 百 ロ 円 山 由 司 ず 出 荷 町 ﹃

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ロロロ汽に関する労作によって鼓舞されたのであり、 これは、第二篇第三部において法律学的な法の形成を我々の法体系の基礎の一っとして述べているが、これらの基礎の現代の形式 を在来の解釈事象をもって克服せんとする試みに対して、我々は従来から﹁法を越える法の発見﹂と﹁訂正しゅく制定法の解釈﹂ を独立させることはできなくて、この法の形成を矛盾へとかりたてている。私は、その当時、図。何回忽何回の労作は我々に、たしか に、比較法的な考察を通じて、結局、﹁法的現実から発展すべき制定法と裁判官のもつ権力に関する理論のための確固とした土壌 (品目﹀ を獲得するように﹂強制するということを知った。ここに今やこの方向における最初の試みが存在する。 この試みは我々の公認の解釈学説と我々の大陸的な裁判官法の形成がコモン・ロ I の実際とその今日の理論と対立することから 出発するということは、一つの体系を原理と規則の創造のため承認された﹁裁判所の法的権威﹂と対照する際に我々の理念をあき ( 日 ) らかにし、また、吟味する教訓的な目的を持つのみではない。我々の、政治的な立法権の独占によって狭くされた視線のこの解放 を越えて、我々はコモン・ロ i の理論に社会学的な法律学の﹁分析学派﹂の発展を負っているのであり、この発展は裁判官による ( 日 ) 法の形成の﹁臨床研究﹂の綱領を真剣に考えるのであり、また、さらにそれを越えて、全く普遍的に法を休息している連続とみる 9 ( 位) 引のではなくして、裁判官の職業からそのときそのときに生れでる状態にあるものとして、法は﹁はたらく﹂がままにあるものとし て、(﹁はたらく法﹂、また﹁現にはたらいている法﹂と名づけられている﹀みているのである。 この表現は、始源的に可。

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によって﹁書物のなかにある法﹂の対立物としてその特長を与えられた。この表現はしばし ば単に﹁公認の﹂法とは異る実際の特長をいいあらわすためにのみ使われる。このようなひそかな法の発展的形成は、まさに ﹁微妙な﹂素材のなかに、例えば、離婚原因がますます真実の動機から独立した形式問題になり、また、当事者双方の合意に よってつくられゆく象徴性になるところの離婚法のなかでみられる、

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に お ける極端な、また、くり返えされた虐待)││このようなことは、じっさい、また、法律学的な構成要件の真正な方法的課題 に一致している。書物のなかにある法は、観念論的な理由から、あるいは、立法者には教義と現実にはたらきゆく力との間の 必然的な正しい妥協のための勇気が欠けているがゆえに、社会的な生活の現代的な名誉に関する法典と倫理に関する法典を無 視するすべてのもののままで、まさに、ありつずける。そこで、そのとき、 111 ﹁公務員の格率﹂であるにもかかわらず│││ 現実の承認された社会秩序と偽証の前に目をつむらなければならないのは裁判官である。これが﹁行動のなかにある法﹂の概

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83一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』け 5.20 念の一つの側面である。他の、ここで強調された面は法律的、司法的な進化の側面である。しかし、この視線の方向は、ここ で使われた社会学的な法形成の意義において所謂﹁現実主義者﹂の全グループにとって独自なものであり、そのなかで、 ( 日 ) 門 戸 開 垣 間 F F 4 Z はいわば学識ある思考を代表している。思想白体はヨーロッパの社会学派の影響、とくに何回開口何回の影響にさ かのぼることは-証明されているとおりであり、﹁現行﹂法として現実に適用された法を述べること、また、その成立を分析す ることはこの学派の綱領の一品端である。しかし、この方向の大陸の法源論への影響は残念ながら殆んど全くあらわれていない o

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のように、﹁現行法とは単に法裁の裁判上のつくりあげにすぎない﹂とい う勇気のある結論をひきだしている文献はぽ﹀吋の判決形成の感覚の精細な分析と同様にかえりみられないままである。﹁第 一一一の法源﹂を公的に承認する不安は我々の時代にはじめて消滅していると思われる。ちょうど今出版された円何回印 ( Z -N 3 の労作、ならびに、以下 ( Z ・

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﹀に引用された最近のスイスの論文を参照。 分析学派は、元来、我々の一般的な法律学以外の何物でもなく、したがって、実証主義的な意義において形式的

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百科全書 的である。人々は概念を比較し、機能を比較ぜず、せいぜい制度上の構造を比較し、この構造の原理を比較しない。古典的名 著は図。巳﹀ Z ロ ・ 吋 ,

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であり、その著作はすべての点(法規論、法の分類、法秩序の構 造、公法及び私法、法及び法の適用)において、今のところ、何百戸司冨何回富山 F のドイツの一般的な法律学にひとしい

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ただ一つの点において河 d u 。 F 司 冨 明 明 白 白 w F のドイツの一般的な法律学とひとしくない。すなわち、アングロ・サクソン法に おいてみたされていない体系の必要は出。ロ﹀ Z U に今日やはり新版(一九三七年から使われた増刷)をもたらしているので ある。これに対する反作用に関して、戸田岡 04 ・ N 叶 - F ・

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によって理由づ けられた社会学的な方向、アメリカでは明。 d z u w 図 。 F 富 田 及 び わ ﹀ 河 口 。 N によって継続された社会学的な方向が理解されてお り、この方向は﹁裁判所によってまもられている規則、及び、それらの規則に含まれた原理﹂を実体的な法としてあらわして お り 、 1 1 最近はまた歴史学派、社会学派あるいは比較学派と呼ばれ 1 1 1 またアメリカにおいては司。 d z u 以来裁判官の行動 ( 日 ) の純粋に行動主義的な予測に変性している(﹁法的リアリズム﹂)。 ( お ) 大陸の法律学は、周知のように、今なお││あたかも制定法上の諸制度が現実の法全体をあらわしているように││これらの制

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第1巻4号一一84 度を描写すること、また、教義学的に体系化することに固着している。それに反して、﹁比較法律学﹂にとっては、制定法上の制 度と法典化された法規は決定を形成する要因と資料のもとにおける範鴎にすぎないのであり、この要因と資料は法の論理、原理及 ( 白 川 ) び概念であり、先例とそれ以外の規則の発見場所である。これらのことは、すべていっしょになって﹁解釈﹂と﹁事案判定﹂、あ るいは、﹁事案の整理﹂という事象を決定するのであり、その際﹁体系﹂の統一はより多くの原理と要因の必然的な対立に臨んで ( 幻 ) ( 目 岬 ) 現存の法典のなかにあるのではなくして、解釈行為においてそのつど新しくつくられるのである。そこから法原理もまた学校にふ さわしいような閉鎖された構造物の静的要素ではなくして、トポィ、法律学的な評価の選択観点、論証の権利を与えられた、また、

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法的な基礎である。また、次のことはいうまでもなくあきらかである。単純な経験的な観察から法の﹁必然的な﹂原理に対する要 幻求は提起されないし、この観察は、﹁法の必然的な概念﹂は現実に、あるいは、契約的に、﹁人間自然の一般的な力﹂にさかのぼ

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らされるのかどうかということを未解決のままに放置しておくにちがいないのであり、このことは我々をしてこの弱点、阿内出口円に よって噺笑的に侮辱された純粋に経験的な法律学のこの弱点に警戒させる。司法過程の経験的な調査が現実に有効な法原則の探求 のために重要であればあるほど、前者は後者を理由ョつけることができるのは少い。法的リアリズムの逃げ道は、今や、事象を少く とも、﹁説明している﹂ということ、いい換えれば、事象を社会学的な視野から心理学的な視野にするということである。 社 会 学 的 な 視 野 の 最 も 著 名 な 代 表 者 は ﹄ 何 回 。 玄 関 E E Z R であり、その著書名 ( A O C 2 宮 吋 ユ と J E 老 町 三 円 U C Z 3 己 O E H り 白 円 ぺ J Z ﹀ 足 ﹄ ロ 己

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は、裁判官に関する偽証の心理分析を含んでおり、この分析は父の全知を求める市民的な権威の必要及び固定し、 完全な、また、計算可能な実体的な権利主体を求める未成熟な保護の希望を迎え入れなければならない。この﹁基本的な神話﹂

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というテーゼを対立させており、このテーゼを人々は、どっちみち、 n k p 回 口 。 N 。とともに腕曲に﹁一 時的な仮説﹂と呼ぶことができるであろう

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・包⑦。司法の背後にある法はプラトン主義であり

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・宰)、無邪気な希望の世 界からとびだしてきでいるのであり、この世界で、権威の必要、ことばの魔術、及び生活の恒常性と父による管理への信仰は ﹁ こ と ば を せ ん さ く す る 主 義 ﹂ と ﹁ 宇 宙 主 義 ﹂ に 至 る 。 ( ∞ ・ ∞ N ) 。ここでは単に﹁父の権威の必要から免れること﹂という指示

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、また、どこにも、﹁自由裁量の﹂領域でないところのみならず、旬。

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が意見を持っているように、決定の背後に

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規則または原理が現実として存立しているのではないというあきらかな自白が役立つのである

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法的安定性 は幻想のままであり

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・ N 勾弓、また、司法に関する実務家は、自分と他人のために情緒的なものを合理的にあらわすように させることを目的としたにすぎなかった窃・ミ l ω 3 0 人々は単に﹁生ける神託﹂としての裁判官の心情の心理的な地図作成 術をのみ得んとつとめることができるであろう

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・ ω N ﹀。││このようにして、あきらかに、まさに国民的な裁判官類型と裁 判 所 類 型 に 関 し て 、 司 同 ﹀ Z 問自身においても、また、特別な経験においても、分析を必要とする状況が問題であるということ はその傾向をして、それでもやはり、しばしば学派にした。この学派の最後の段階はわ﹀戸。由打。協同。のいう﹁巾向。

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﹂ な法理論であるように思われ、これは、法とは規範からできているのではなくして、人間の行為からできているので、解釈の ( 臼 ) 対象として規範をするのではなくして、まさに、人間の行為、例えば、裁判官の容態をしている。 85一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範

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日さて、しかし、この極端な経験主義こそ、││実定法が判決においてはじめて、また、ここにおいてだけ創造されるということ ( m U ) が同じく承認されるならば、法原理の前提実定的要素への新しい洞察を幸運にも強いるのである。そこから、人々は、その場合警 ( 臼 ) ﹁司法の手続は法的秩序の一側面であり、また、決してその全部ではない﹂ということを書きしるしている b ﹁ 法 律 家 の 経 験 ﹂ が 、 ( N 凹 ) 前提された原理がなければ、﹁裁判官にもたらされた経験は死せる経験である﹂がゆえに、﹁法の生命﹂を説明するのに充分でな いならば、況んやそれを理解するのに充分でないならば、人々は﹁法の背後にある法﹂の克服された承認を再び導入しなければな らないし、また、﹁法とは法律学以上のものではあり得ない﹂という法的な現実主義の主張を﹁法とは司法上の手続の機能からの 結果であるのみならず、それは法的な規則のなかで具体化された行為の範型としての社会的意識の一部であり、また、文化の一部 ( 侃 ) である﹂というように訂正しなければならない。 反作用によって我々に﹁分析法学﹂のリアリズム学派は現実の法典の本来の範囲と豊富さを思いだすことを配慮するのであり、 この法典は﹁その﹂制定法にもまたそのなかで解釈された体系にも限定されるのではなくして、実定化しうる原理、格率及び規則 のつねに形成することができるたくわえを含むのであり、これらは生ける裁判官の法的確信の一部であり、 111 ま た 、 そ れ ゆ え 、 ハ

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この確信の所在場所の疑問と﹁何処から﹂という問いかけが提起されなければならなしまた、その場合、裁判官による法の形成 はもはや制定法の厭うべき付属物、また、制定法の欠陥のはにかみの秘密にされた人工補充としてあらわれるのではなくして││ ( 幻 ﹀ このことは根本において法典法の意見であったし、また、そうである││機能的に規範的にして必然的な法規形成一般の一部とし

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第1巻4号一一86

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てあらわれるのであり、この部分は、もしも既に成文法によって実定化されていない原則と法思想が司法的な発展によって適用規 則から有用な具体的な規範と制度に濃縮されるならば、まさに特に人の目をひくものであるにすぎない。大陸で成長しゆくこの

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﹁司法立法﹂の今日の一般的な確認は、そのかぎりにおいて、法典化された体系から原理に方向づけられた裁判官による問題思考 へのゆるやかな要点推移の承認と同意義である。 4 ( 町 山 ) 幻概念的に演緯的な解釈崇拝のもつこの原点へ復帰する面において、すべてが迷いを与えないならば、制定法概念の変化が反映さ れ、しかも、﹁司法立法﹂という表現が示しているように、制定法の﹁体系﹂から逃がれ去り、あるいは、滑り落ちた問題解決の ( η ) 再編入の意義において制定法概念の変化が反映される。法典化された法の条文と構成において立法者の知慧の目じるし以上のもの 幻はあきらかでないし、また、予め考慮された解決のための担保以上のものはあらわれていないということに応じて、それまで厳格 に﹁制定法から﹂論一証しゅく法律学的思考は、論証基礎としての原理から出発することを敢行しなければならないのであり、この 原理は、ただ努力によってのみやはり制定法から証明されることができ、しかも、教化された共通意見にしたがって法全体の一部 ( η ) を構成するのである。立法者の教義学的な権威への信仰をもって、彼の誤れる表象が、しばしば、無用の解決不可能な問題性を呼 ( 九 ) び起し、また、緊急の解決を妨げたり、あるいは、困難にしてきたのであるが、最初の一片は、法典編纂の不思議さという理念か ら破れでたのであり、また、唯一人の実定法学者または、訴訟法学者の発見は、発見の位置づけの忠実さに応じて、体系を、なお、 一世代長く保つことができ、あるいは、体系を破壊することができる。法課題の増大しゅく複雑さと立法的なもののますますしば しばなる拒絶

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家族法の改正を参照ーーを多様な体系化されなかった法思想と法原理への関心が、必ず、再びよび起させている のであり、この思想と原理は実践において、つねに、法律学的な問題思考の支柱であったし、この間題思考はすべての法的真理を 概念的 1 1 論理的な体系へ公理にしたがってはめこむことへの希望によってのみ否定されるのである。制定法思考から﹁解釈方 ( 花 ) ( 花 ) 法﹂の機能の危機と思われるこの変遷は、事実であって、教義学的に制御されうる﹁許容性﹂の問題ではない。原則を形成する判 戸内V 幻例、先例形成と先導的原則の編集の現代的な形式の現象は正しいとして承認を要求するのではなくして、方向を与えることとその 補助手段を要求するのである。 ﹁原則決定﹂は、今日、二重の意義において存在している。すなわち、伝来的な意義において、従来から不統一にとり扱われた 具体的な法問題における尺度または解釈結果の確定として、また、新奇な意義において、従来から単に個々の事案においてのみ実 定法とみられていた原則を実定的な﹁普遍的な法思想﹂へ鋳造するものとして。両者は裁判官法の形成であり、この形成は、実践

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87一一ヨゼフ・エッサー『原則と規範』付 と解釈学説のなかにとどまりゆく記録された思想をもって、﹁単に﹂特殊個別的な一目的なものに対して註釈書、事案集及び参考 書のなかで、ますます﹁主導的な原則内容﹂をあきらかにすることを通して強調される。大陸の法学者にとっても、裁判官法のか ような形成は一般に既に社会的な進化と法的な適応という利益のために﹁法的安定性﹂という理想の犠牲をあらわしているという ことは単に条件づきで正当であるにすぎない。なぜかといえば、この法形成もまたすばらしい安定の担保を示しておるのであり、 いな、継続性に関するかぎり、こな山形成は、まさに、政治的に、しばしば、事物にふさわしくない立法に対して法律学的安定性 の支柱になることができるのである。比較法の文献において、しばしば、図式的な判決がみられ、判例法において判例は規則を形 ( 刊 日 ) 成し、また、安定を与えゆく性質を持つのに対して、制定法において判例は規則をときゆるめゆく性質を持つのである。それに反 して、大陸の判例もまた安定を与えゆく傾向を持っているということ、また、それは﹁行進の上にある制定法﹂を具体化するのみ ( 乃 ) ではないということが示されるが、他方において、先例及び先例拘束説の安定を与えゆく作用は、原理の新しい形成と先例の破棄 げ ( 鉛 ) むが重要であるならば、多様な方法で中性化されるということは、はるか以前からよく知られている。各々の無理矢理の普遍像は、 ここでは、思弁的な遊び、例えば、次のようなものに到るにすぎない。制定法は形式主義を具体化し、一般条項と原理は理想主義 を具体化し、判例法的な発展形成は法におけるレヤリズムを具体化し、つねに三つの要因は鴎争のなかに存在するということであ る。秩序(形式主義的傾向)、正義(理想主義的傾向)、及び、進歩(レプリズム的傾向)であおド 図式的な安定理念を放棄することは、まずはじめに、法律学的思考、教義学的自己統御及び規則にしたがって形成された原則と ( 幻 ) 伝統のより深い法的担保を研究することへの道を自由にする。なぜかといえば、法的安定性の要求と生活への適応との聞の永遠の 二律背反は、それに関して、単により現実的な平面へ移動させられるにすぎなく、そこでは、新たにこの二律背反の誇張を制止す る具体的な課題、いいかえれば、この誇張をその範囲内ならば有効な担保が可能である物的必然性に縮少する具体的な課題があら ( 削 叫 ) われるむしたがって、人々が漠然とした概念の不確定性によって法的安定性に迷わされなくて、いかに、同時代人の法発見の有効 な前提のもとで、二律背反のさらなる渉透が前提決定、主導的な原則内容、教説意見及び﹁理論﹂の使用において表面性と浴意に ︹ 目 別 ) よって妨げられることができるかを注目するならば、きわめて現実主義的な事態が問題である。 。 。 幻いかなる法の保障が所謂普遍的な法原理及び普遍的な法思想の一義的にして、かっ、ふさわしい使用を規制するかという問いか けは、ますます多くなりゆく﹁原則に関する判例﹂の時代におのづからあらわれる。﹁承認された原則﹂をより詳しく決定するた めの先例の取扱いにおいて各々の同定した大陸の伝統がなければ、原理を先例から決定するアングロサクソン的な方法への一瞥が

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第1巻4号一-88 必 要 で あ る で あ ろ う 。 我 々 の 現 行 の 裁 判 制 度 が ﹁ 原 則 に 関 す る 意 味 ﹂ に つ い て の 決 定 に よ る 法 の 発 展 形 成 の 課 題 を 承 認 す る な ら ば ニ ・

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叶の︿の)、このような問いかけが単純な事案決定を越えでる権威をもって解決せしめる手段は、法的制御なくしてそのまま で あ る こ と は で き な い 。 換 言 す れ ば 、 原 理 と 個 々 的 事 案 か ら 出 発 す る こ と と の 関 係 、 原 則 と 先 例 の 意 味 は か よ う な 創 造 的 な 新 し い 解決のために探求されなければならない。 ( 1 ) 当 。 ュ 5 仏 国 E E Z 諸 島 2 m R Z m 出 富 山 。

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ぬ・それは、相対立する個々の原理の演出 i 例えば﹁危険原理﹂と﹁過賞原理﹂をなじっているが、実体的原

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89-ーヨゼフ・エッサー『原則と規範』付 理と教説原理の聞をあきらかに区別していないことはもちろんである。彼によって言及され、また、一般的に周知の、民法第八一七条三文の﹁原 則﹂のための判例もまたあきらかにそうしている。そのために、﹁何人も、自己の非行を抗弁に供することを得ず﹂という法格言の関連におい て以下の第一五章六。原則の必然的な問題拘束のために証明カのあるのは、例えば沿背中史であり、また、所謂﹁取引安全義務﹂であろう。その ために、私の論評、 U 向 。 N 唱 。 山 田 M M H E 岡 田 内 o x g 凶 器 ﹃ E 国 民

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片 岡 山 n F 仲 ﹃ o n m H M N S 8 ・ 同 時 崎 一 戸 ハ H U M -H U M ) 、さらなることは以下の第二章のご律背 反問題で終りである。 ( 叩 山 ﹀ ω 。 自 由 仲 河 o n 4 ﹃ 同 EC 問 。 P 白 ・ 。 ・ ロ 出 品 ぐ 同 開 出 場 開 。 回 -P 。 ・ 寸 N -(げ)体系における原則的な構造 l 差異が存立することはもちろんであり、この差異は歴史的に﹁関かれた﹂伝統と事実技術に固執し、また、学則 にしたがうように﹁閉ざされた﹂、しかし、そのために所謂原理に関し、教義学的形相と解決可能性、すなわち、制定法と判例法の類型に関し ﹁時間を超越した﹂蓄積を持つ右の伝統と事案技術に固執するのであり、以下の第三篇を参照。制定法の類型においてすべての規範はひとしく ﹁現行法﹂であり、判例法の類型において現実に作用している(制定法からさえもの)規則と古くさくなった他の規則が存在する。類型の﹁権 威﹂は歴史的な事実のままであり、その概念は歴史的な性格を保っており、その論拠は問題の歴史に方向づけられたままであり、その﹁体系﹂ は歴史的な﹁矯正﹂に方向づけられたままである。発展形成はここでは時間を超越した思考体系からの﹁よりよい﹂構成ではなくして、﹁類推 を通しての﹁類似の事案﹂における関かれた摸倣と新形成、﹁事案にもとづき﹂はたらいていること、擬制と﹁準﹂の付録である。﹁事案にも とづきはたらいていることの起源﹂のた b に は 当 ・

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ロ F ・ O -m O 4 ・ 戸 室 U 間 同 ・ gcE M M C 目 白 山 ω ・ m g を参照。法の﹁基本原理﹂は事案自体の実質的正義の関かれた論拠のままであり、この論拠は危急の場合に﹁技術的な﹂解釈学説 にうちかつのであり│﹁困難な﹂事案における多くの犠牲のあとであることはもちろんである。︿岡田・当自の国吋宮勾・ F ・ O -同 2 ・ 5 品 N Z B 司 巳 -o d 田 町 宮 内 同 ﹀ ロ 曲 件 ﹃ 曲 以 帥 戸 仲 品 ・ ぐ ・ 回 同 H E O M 切 曲 目 - p 戸 包 ・ ︿ 包 含 ﹀ k r . 。 ・ 同 ・ ( 叩 岬 ) 巴 dU 開

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