憲法における「政治道徳の法則」 : その新トマス主義的見解
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(2) . 第 12 巻 第 2 号. . 道学芸大学紀要 (第÷ 北、 第÷部B 北海道学芸大学紀要 部B). 6年12月 昭和3. 憲法における 「政治道徳の法則」 -- その新 トマス主義的見解 -- 「中世法思想および新トマス主義法理論に関する小研究」 9. {. 局. 坂. 之. 直. 北海道学芸大学旭川分校法律学・政治学研究室. ’ ’ m the 1 i l i i I N[ Na。yuki K6sARA : on ”Laws of Po t ty ca ora Const i i fjapan tuton o i --‐ fronl the Neo‐Thomi ewpoint 一-- c Vi st. “sあoγZ SZ“”Ze Z Zαβ 2gαZ rゐoz iαZ ムf 2 ‘gみZs のzd 2 ル8 c s o7 ’ 〆 Z 〆 彰 ~の‐rあの難ぜ Z Z 彫γ s s 矛 s C “γ を“ のに ,9. 次. 目. W 条約ないし行政協定と憲法との相関関係 -アメ リカにおける論争を中心として一 V 憲法と条約との同位性に必然する国際協. 序 1 政治と国際倫理との不可分的関係 江 形式的・技術的 「政治道徳の法則」 批判 皿 民主政体においてのみ奏功する国際協調 主義. あ. 調主義 と が き. 序 l mora l i i i ty) を 明 ら t l ca aws of pol 日本国憲法は, 前文の第三段において 「政治道徳の法則」 ( かに自然法理論に基 づく普遍性のものであると認め, しかもそれは国際関係を貫ぬく 大原則であ るとしてこれが遵守の決意を表明する一方, 他国の正当な権 益を無視する国家的利己主義ない し. 独善主義が, いかに自国の安全を阻害するかを教えている, ところで政治があらゆる分野に未曽有の浸透をみせている今日, 「政治と法律との懸け橋」 とい われる憲法がますます濃厚にもつ政治性を, 憲法理諭から完全に排斥しようとする極端な潔癖論 がある, これはむしろ現代の危機 感に対して憲法思想に 「ずれ」 を覚えさせるだけのものである が, さればといって, 憲法の政治性を誇大視して 「憲法はもはや法でない」 などと広云する実態 1 ) いずれにせよ憲法における政治的道徳は, 的判断の 行きすぎは, いうまでもなく論外であ ろう. ) と い う福 祉 社 会 への 方 法 論 を も l i l i d i t t Jean Dabi que)2 n の いわゆる政治的自然法 ( rot na ure po 含む指導理念に関連するもの で, 実証的考究を純粋に基底としてもつ憲法の政治性問題とは一応 きり離して考えるべ きものである. おもうに政治道徳の 法則は, 単に憲法の前文において総則的な解釈基準を示すものに止まらず, それは各条女のなかに明確な潜在概念として存在し, それゆえ少なくとも各条文の深奥において -2 6一.
(3) . 高. 坂. 直. 之. は, その脈々たる香気を感得しうる体のものでなければならない. したがって 「在る法」 ( l aw ti as i ) と道徳的色彩が表面に渉みでている 「在るべき法」 ( l s ) との峻別 aw as it ought to be は, 人間の眼を法の 本質と社会生活の根源から殊更に覆うてしまぅことになるばかりでなく, ま たそういう考え方が 専制政治への抵抗権を弱める結果にもなることを反省する必要がある, 十九 世紀後半から知的闘争の ミサイルとして使用された 「法実証論」 は, 第一次および第二次世界戦 3 ) 争の原因 を作った責任の一端を当然負わねばならない. しかしここで更に反省す べきは, 十九世紀初頭の功利主義者の政治道徳的洞察が, いささか「単 純」 な嫌いはあるといっても, それを 「浅薄」 と取り違えないように留意す べきことである. た とえば, かつて奴隷が公認さ れていた時代, かれらは苦情を云えないどころ か, いかなる苦痛に も耐え 忍ばねばならなかった. 現代においてはどうであろう. 自然が人間を他の人間の生活の単 なる道具としてはいないと果して云いきれるかどうか, そこに問題があるので, それを言葉上の 問題のみにしぼ って論議するだけでは, 収拾できないおそれがある, こういった社会政策の同様 な 問 題 に つ い て 論 議 し な か っ た学 者 よ り も, わ れ わ れ は Bentham や Aus i t n. に負 うところ 大. であったことを卒直に認めねばならぬ, 少なくともかれらは言葉上の 「締麗事」 で処理する ドラ イな分析学者でなく, ょき社会とよき法をもたらす運動の先駆者として十分な熱情の所有者 であ 4 ) Aus i t っ た. n によれば道徳の基本原則は, 功利主義が指導原理である神の命令であり 更に社 ,. 会主義団体によって現実に認容された実証道徳でもあった. しかしかれは周知の ごとく, 法と道 徳とを峻別し,実定法と道徳との「頻繁な一致」( f tcoincidence)を 認 め な が ら も,B1ackstone r equen の 「神の法に反する人定法は無効なり」 を評して 「追従的な静寂主義」 (obsequi i t e ous qui sm) 5 ) われわれはむしろ法と道徳 (窮極において神) との峻別こそ 二つの であると非難している. , 危険を蔵しているといわねばならない, すなわち第一に, 法とその権威は, 法の理想とい う人間 の創意のなかに溶けこんでいることを留意しない危険. 第二は 現実の法が行為の終局的試金石 , として道徳をおしつけることによって, 法自体の批評は逃れうるという危険である. 分析法学者その他の法実証主義者がいうように, 道徳の法則など理念そのものが表 面だけ先に 進んでしまって, その奥底には理念に伴って動く気配もない社会生活の実体が沈澱 しているよう な場合, いたずらに観念的に組立てられた法体系を作ってみても, 法は宙に浮いてしまうだけの ) も ち ろ ん 法を 観 念の 奴 隷 た ら しめ ては な ら な い が こ と で あ ろ う,6 , さ れ ば と い っ て, 沈 澱 し た. 社会生活の実体のみにしがみつき, あらゆる理念を排してそこに行われている l i ch の い わ ゆ ・Ehr る l t だけを法なりとするのでは, 社会関係の合理化は少しも進歩 しない ここに ebendes Re ch . おいてわれわれは Aristoteles の実証主義を巧みに取入れて独特の法・政治哲学にまで昇華させた 新 Thomism 法理論のなかに, 本間解決の可能性をうかがい知るのである. 註 i) 「ジュリスト」 No .152 , 昭・33 , 2頁 (小林直樹;「憲法における政治的なもの」) ‘Th点or “ ie G6ngra l i 2 ) 丁ean Dabin;‘ t i t ig6e e du Dro i ℃t l on ‐ s ab se , Deuxieme ddi ,revueetcorr ,1953, 1 l l B t l l ment s Rmi e Br u s yan, ruxe e .263 (なお詳しくは, 本学紀要, 第÷部, 第七巻, 第一号の高坂 : ,p 「ジャソ・ ダバンの自然法思想研究」 参照). 3) ”Harvard Law Rev絶・ l vぞ vo eb .71 ,4 .1958) p.595 , no , 4) 効謬. .596~597 ,P in: ”The Prov ince ofJur i 5 ) John Aust sprudence De t brary 。fldeasedり p ermined′ 195も Li ・184 ~185. 6 ) 尾高朝雄: 「法律の社会的構造」1 957 , 勤草書房,317頁. - 27 -.
(4) . 憲法における 「政治道徳の法則」. 政治と道徳とが完全に結合したギリシァ的世界に次で, ロー マ的世界ではその実定法文化が示 す ごとく, 「道徳」 の演 じた役割を 「実定法」 がとって代った. しかしその行 きすぎは, キリス i t ) なる普遍 理念, 超民族的思念, 人格尊重の絶対視という a ca r ト教が回教となり, 「愛徳」 ( s 新 しい価値判断が古代の政治社会に浸透して, 中世においてはギリシプのそれとはかなり異なっ た意味で政治と道徳との結合が再現したのである. それが多かれ少なかれ現代政治にも影響して いるのはいうまでもない. これを一民族の繁栄に主眼をおい たロ←マ社会の単なる延長とみるの は 誤 り で あ る. こ と に ロ ー マ 法学 の 「公 共 福 祉 は 最 高 の 法」. i l t ) ca suprema lex e ( us publ s sa .. は, 後に国家権力が全能であるこ とを正当 づけようとする福祉国 家や 警察国家に発展する素因を なしたことに反省すべきであろう. 至高の法は実に国際的公共福祉でなければな らない. そうし て超国家的トマス主義法思想に基づく公共の福祉こそ, わが憲法にいう政治道徳の重要な法則な の で あ る.. 古代, 中世以来の伝統 に反抗して, 国際政治から道徳を追放した最初の人物はいうまでもなく i t i であるが その後 Spinoza や 近 代 に お い て は Tre l l Machiave schke な ど に よ っ て 更 に 布 街 さ , れてきたことは周知のとおりである. 現在においても実証主義者や プラグマティストにはそれが ” 多く, たとえ ばかつてアメ リカの国務長官であった Dean Acheson も そ の 著 Powerand Diplo‐. のなかで 「国家間の行動を道徳的だとか不道徳的だとかいうふうに律すれば, われわれ の言葉や思想はおそらく混乱してしまうであろ う. 道徳的なお説教とい うものは,熱意のあまり一. cず ma. 方に偏しやすく, そうでなくても独善的色彩をお びやすい, それは議論を明快にするよりは, む しろ隈妹 にするおそれがある」といっている. すなわち国 家間の問題に関しては道徳, 不道徳の分 1 ) 類によらず, その目的なり影響力なりに応 じて原則を立てるのが最上であるというのである。 なるほ ど歴史的, 経験的現象として道徳を取扱うかぎり, そうして国家相互関係を自然状態な りとす るかぎり において上述の主張は容れられるかも知れない, 少なくとも今世紀前半までは, 型にとり残されず, 自国の繁栄を図るためには, ときとして国際法を無視するな 為政者 が国際場ネ どの国際道 徳違反行為が繰返されてきた. 政治活動は権力の論 理にしたがって回転されるもので, 道徳的価 値判断による 発展が常態ではないであろう. しかしそれはあくまで形式的な政策面にお いての みいわれることで, 政治の論理が手段的と目的的, 技術的と実体的とい う二元性を有しな がらも, 政治そのものの存在価値は, これを道徳に求めなけれ ばな らないことは厳然たる経験上 の事 実である. しかも人間性はあるがままの 世界に満足するものではなく, たえず目的的, 理念 的自由の場を渇望しな がら, 心裡的に苦闘し続 けるものである.われわれは法の世界においても, 実証的遍 歴の果にた どりつく憩いの場 として自然法の暖かい抱擁を忘れてはならない. 法思想的 葛藤のすえ, 晩年に至ってその安息の地を自然法的広場に求めた幾多の法学者を知っている. も っとも 自然法とて も, 人間性を無視してその普遍 性を誇示した自らの高ぶ りに, ついに自壊せ ざ i t r a o るをえなかった近世自然法の 轍をふまないよう戒心す べ きであろう. われわれは聖なる 理性( i di na), v. つま り知 的 な 良 心 の 閃 光. ) に よ っ て え ら れ る 静 か な る 秩 序 の 法, 個 人 差 i )2 ( er es s synt. を認 める道徳法たるトマス主義的自然法こそ, 実証法の淵源である と確信している. したがって 法の実 践的方面である政治は, 法の理論的方面であ る道徳と矛 盾するわけがない, 理論と実践と は互に難背するを許されないものである. 世界の窮極的和平は, このような実践的・ 道徳的理性 の顕 揚によってのみ得られ るというのは, 決して怠惰な願望の抽 象的表現でない. 個人は静寂な 一 28 一.
(5) . 高. 坂. 直. 之. 環境において思考 するのでなければ, 知識と智恵を十分に得 られないと同様に 人類もまた静か , な 平和, す な わ ち 「秩 序 の 静 け さ」 ( l i t tasordi ) のなかにおいてのみ もっとも安易 ranqui ni s , 3 )t に も っ と も 自 由 に その 天 賦の 能 力 を 発 揮 し う るの で あ る。 l i l i i tasfe tassumma ranqui c .. いかに一国の名分が正しくとも, 人類社会に根強 い永続的な執念を不注意にも招来するような , 秩序の 静けさを破る一方的態度は, 過去の事実に徴するま でもなく遠からず牒網さ れる必然性を も っ て い る,. ロ マ 書 第 十 三 章 八 節 な い し 十 節 が, こ の こ とを い み じく も 教 示 し て 余 す と こ ろ が な. い. ゆえに戦争は, いかなる名儀によれ, 国際政治道徳の破壊以外の何もの でもなく 歴史的観 , 点から, いま だか つて純然たる軍事上の勧告や決定による健全かつ賢明な対外政策があったかど 4 ) Kar l von C1 うか を 疑 う。 t ausewi z (1780~1831) が 「戦 争 論」. i (Vom Kr ege ,1833一 邦 訳). において云った有 名な 「戦争は内政の 延長である」 という言葉は, 目的と手段を混同し 不寛容 , な近視眼的目的を急追する場合に当てはまるもの としか思われない, 註 ” 1) Dean Acheson : ”Powerand Dipl omacy v,Press , 1958, Harvard Uni ,p .122. ’ ’ by: ”Po l l i i I Thought o ) Thomas Gi t f Thomas Aqu 2 inas ca f Ch i v cago Press , 1958 .o , Uni .137; ,p R,▽▽ ly l ’ l l ’ t IPol e & A.i i i I Theoryin the 帆/ e: ”A Hi s t ory of Medi aeva .Car y ca t .Car es , 1949 , h i l l i B 1 1 3 W v ( ヒ vol c e n ) am ackwood & Son . . .35 ,p ‘The stat ’ ’ 3 ) Heinrich A. Rommen: ・ i thol ein Ca c Thought , 1950, B. Herder Book Co . .735; ,p. 神川彦松 : 「国際治政学概論」1 950 3頁, 3 0 05頁 , 勤草書房,302~3 ’ ’ 4 ) Lester B. Pearson: ”Democracyin Wor i i ince l d Pol t t cs on Uni v.Pres s , 1955, Pr .62 , p 1 1. 1 )方法論偏 重への疑義…-- 「現在」 は遥かな蒙昧の闇にまでつながる過去と 注漠とひろが る未 ( , 来との間にはさまれた極めて細い一線にすぎない. この 「現在」 が意義あるものとなるのは そ , れが深 G過去に根ざした重厚性をおびながら未来に 何らか寄与し うるときにおいてのみである . 過去の中立化を図ることによって, 人々に過去のきずなを断ちきらせ 狭い 「現在」 にとじ込め , させておきなが ら, 奴隷状態から解放しようなどと叫ぶものは, 自分自身が単なる言葉の奴隷に 堕していることを意識しない人である. つまり 「現在J に重みがあ るとするならばそれは過去の 目方 に す ぎな い.. こ の よ う な 「現 在」 に お い て な さ れ た考 察 な ら ば, 思 想 と し て い つ ま で も 色 の. 槌せない価値をもつであろう, したがって過去と無縁の変転きわまりない「方法」に重きをおき , 政治を形式的・技術的にの み解決を図ろうとする理論は, 明日にも崩れおちる可能性が多分にあ る, かかる理論は未来に豊かな寄与 をなすわけがなく, 思想としての永続性はない, さればこそ i 「原理」 の探索は人間の理性に与えられた最高永遠の宿願 であるといわねばならぬ。 ) 社会科学における方法・技術は 「妥協」 を巧みに粉飾したものがかなり多 い, 一 時的な妥協に 永遠の 平和をかける人々は, よく 「原理」 を非実証性のものと決めつけて, その現実離れを誇張 するが, いったい如何なる規準をもって 「実証性なし」 と断定できるのか甚だ暖昧であるし, ま た実証性を金科玉条として絶対視 することは, かつて概念法学の欠点を痛論したかれらが, 結局 同じ欠点をさらしているの に気がつかないのであろうか, 方法は動物も考える。 人間の動物的衝 動性ないし残忍性を不可避なもの とする諦観の下にうち立てられた方法論のみ によっては, とう てい恒久平和の達成など望むべく もない. われわれは方法が目的への 過程であること,それゆえ本 質的に善なる目的を達成するために, 本質的に悪なる方法を採用することは, それ自体ナンセ ン スにすぎないのを知ってい る. しかし現実は人間が実際行動の面において,往々明確崇高 な原理, 2 )Jacques こ と に 政 治 的 諸 原 理 を 慰 み 物 に し て い る こ と も, よ く 経 験 す る数 か わし い 事 実 で あ る。 -2 9一.
(6) . 憲法における 「政治道徳の法則」 l i i i t lrat i t za i i on) と道徳的合理 Mar ona ca ta e chn n は政治生活の 合理化を 説いて, 技術的合理化 ( i i lrat i l zat on) の 二 方 面 か ら 論 究 を 進 め て い るの は 極 め て 示 唆 に 富 ん で い る と い わ ね 化 (mora ona ば な ら な い.. 元来人間の内心は単に道徳と環境によって決 定 づけられるのではなく, 人間は精神の無限の 領 域に触れ合うことができるという前提があってこそ, はじめてわれわれは人間たると国家たると を問わず建設的な行動を確 信してなし得るのである. このことは国内問題 ばかりでなく, 国際問 題においても妥当す るであろう. もっとも政府は対外政策を遂行する場合, 自国の利益追求 にの み汲々として道徳的配慮には無関心であ るのが常態ででもあるかのように よくいわれてい るが, それは皮相な観察といわね ばならない. もちろん自国の利 益追求は政府の責務であ るには違いな いが, 何が真の国家的利益であるかを 正確に判断し, しかもそれを獲得するに至る過程が極めて 知的であることを要する. それがため には政治的判断力に加えて道徳的判断力が絶対必要になっ 3 ) てくる, すなわち民主的外交政策は, 国民の道徳的判断力 に負うところ極めて大である。 しかし国際政 治問題は, 単に善悪二色に色分けされ るほ ど簡易なものではなく, 非常にニュア ンスの濃い もの であることを看過してはならない. むしろ中間色 的な旗轍不鮮明な諸問題 に囲ま れているとい うのが現実である, したがってこれに対する正しい処理は, イ ギリス憲法の指導理 念でもある 「寛容」 と 「互譲」 の精神をもって不遜な形式主義を打破し, 異質的なものをも十分 に摂取して, これらを止揚することにあるとおもう。の 近来とみに苛烈さを加えて きた異質的な 世界観に対する憎悪と攻撃は, 瞬慢な事 大主義に基づく全体主義的傾向を示すといっても過言で はあるまい. ことに対外政策において, かかる弾プア性のない独 善的態度を反映させるよ うなこと は, 厳に警戒を要する. われわれはもっと共存共栄の強い夢をもてないものであろ うか. なるほ ど近世においても, ウイーン会議以来, 国際政治機構はすべて終りを 全うしていない. しかし人 間をいた づらに退嬰的ならし める暗い予言は厳に慎しむべ きである. 純粋な国際的静説への織烈 な欲求と, そのあらゆる可能な到達経 路の探求に倦まない精神, 換言すれば国際政治の領域にお 5 )も ける自然法顕現の意欲という内心の問題が, 今日の文明の危機を乗りこえる唯一の鍵である. っとも外部的脅威が国家の建設的反応の 促進に利用されて きた幾多の歴史的事実を 決して否定す るものではないが, 内心の問題を度外視 して単に施策のみで糊塗しよ うとするような態度は, 終 局の理想を実現する道ではありえないとおもう, 真に必要なことは, なす価値のあるものは何か という重要な目標の問題に, よりいっそう留意することである. 客観的存在理由をもち, 普遍性 をお びて具体化し うる価値をもつ目的にこそ, われわれの関心を 集中す べきであろう. そうして 謙虚なれと警告しながら, かかる目的を求めて心を無限に昂揚させる意識が, 結局は客観的精神 ) の 世 界 に 接 合 さ れ て い る こ と を 知 るの で あ る。6. 2 1 本質的な政治道徳への回帰--政治道徳の本質については後述に譲り, ここでは本質的政治 ( 道徳へ復帰する必要理由を結論的に強調することにしたい, 政治の宿命である飽くなき権力欲の当然の帰趨として, 対立した国際政治意志間の弁証法的な 平衡化の過程におけ る政治的妥協が必然的となり, 権力の理論の道徳化という倫 理的縦過が必要 となってくる. 確かに権力それ自体は, 自己抑制の意思と責任に乏しく, かつ排他的であるとい う点において, まことに非民主的性格を現わしがちである, 一方, 民主主義は, 権力欲や名誉欲 などの本能的・衝動的なもの を排撃しよ うとする理性的配慮を, まず実現の前提としなければな らない. そこに現実の政治が技術的にも道徳化されねばならない理由 を見出すのである. しかし 往々にして権力欲を巧みに擬装するために政治の道徳化が喧伝される場合のあることを 十分 に警 一 30 一.
(7) . 高. 坂. 直. 之. 戒しなくてはなるまい, 原田博士も, このような政治のもつ好智ほど非道徳なものはなく, これ 7 ) を道徳的と錯覚させる技術的性格をもつのが政治の論理でもあるといわれている. しかし権力欲そのものが非合理的なもの であるからといって, 政治道徳の限度も形式的なもの に止め, 実質的拡張を極力避けようとする傾向はいかがなものであろうか. なるほ ど国際政治に は非合理的幻影がいつもまつわりついている. しかしそれだからこそ, この非合理性をこえた目 的や理念が強調され, 実質的道徳が希求されるの だということができよう. 単なる暫定的な国際 的均衡に満足する形式的道徳化によっては, 政治の成就性を満足させられない. このようないわ ば欺瀦的な形式化によって粉飾された理論を, わが憲法の前文の示 す自然法に基づく普遍的国際 政治道徳に当てはめようとすることそれ 自体がすでに矛盾をおかしている, なるほど国際平和に対する今日の特徴は, 高壮な理念の分野を離れて, もはや技術的な問題に 8 ) 現在確かに列強間の政治的 checks and balances 政策のうちに なっているとよくいわれる. , わずかに平和的小康を保っている状態にあることは否定できない. しかしかかる技術の研究によ ってこれが小安延引策を見出すことだけに, われわれの満腔の信頼がつながれているのであろう か, 技術は前にも触れたように限りなく前進する. 不動ではありえない. したがって技術はいつ かは崩壊し, 次なる技術が確立されるまで技術的ブランクが続くという必然性によって国際政治 的混乱が約束されている. われわれは技術的問題を蔑ろにする意思は毛頭ないが, 平和に対する 自然法的理想主義の存在を確信し, これを実現する手段としての技術に, その研究の新生面を見 出したいと念願して止まない, 十八世紀の末以来政治哲学的な問題であると考えられてきた公法 上の諸制度は, 今世紀に入って技術的な問題として扱わ れるようになったが, いまや政治的理念 の再導入を考慮しなければならない段階に入って いる. 戦後焼原の火の如く蔓延した道徳的頒廃 を技術によって回復することは不可能であると一般が悟ったからである, 今世紀後半になって再 認識された自然法理念が, その後各国憲法に浸透して, もはや近代憲法のぬきさしならない精神 的基礎をなしているという事実は, これを物語って余りがある, 註 ‘Bth ix s.Cohen:・ i iSys lldea l I Books l I Uni 1 t ) cZ Fel t Sea ca v emsand Lega sP I959, Gr ea , ,Come “ Pr i ITheory es s edmann: ”Lega ′ v429 evens & Sons . Fr . .428 ,p.60; ▽▽ ,1949 , St ,p , 2nd ed. ‘Man and the stat i in: . t 2 ) Jacques Mar a er l956, Uni v cago Pr es s .of Chi .55~56 ,p 3) Pear s on: り. 瑠. ,P.175~176. 4 ) 寛容と謙譲が, 無関心と消極性におき替えられることを極度に恐れなければならない, かかる退嬰的な I 心情からは, 政治に対する無批判と怠惰な推論が結果づけられるのみである,195 4年, ローマ教皇Pi usXI が復活祭のメ ッセージにおいて 「今日の危険は, 善良な人々を悩ます倦怠である」 と述べておられるが, 玩味すべき言葉である, 5) Pear son: 砂.凋ん p,180~181 6) G. ラートブルッフ (田中耕太郎訳):「法哲学」1951 0頁 , 小山書店,17 951 3 7 ) 原田銅:「政治と倫理」1 河出書房 頁 7 頁 4 2 , , , 8) B. ミル キ ヌ ゲツェヴィ チ (宮沢, 小田訳):「国際憲法」1 95 9頁 2 , 岩波,25 皿. 国際条約による拘束の度合は, 実際上共和国の方が絶対主義国家よ りも大きい. それゆえ国際 信義の推進, ひいては国際平和の実現もデモクラシドなしには困難である, もっとも, 歴史的に みて保守的平和主義がたえず調われてきた事実を否定するものではない. しかしその脆弱性は, かの神聖同盟の例に徴するま でもなく明らかなことである. つまり国際条約と国内政治ないし憲 1 ) 法との関係が本格的に問題化したのは, 十八世紀末、民主国家の出現によってであるといえる, - 31 一.
(8) . 憲法における 「政治道徳の法則」. 国際政治道徳の 法則を促進するためには, 国際団体加入がその推進条件として浮び上ってくる. もちろんこれが加入を義務 づけた憲法は少なく, かつて国際連盟加入の先鞭をつけたスペイ ン憲 11条) 法( 78条) ほかわずか二, 三の憲法に端を発し, 現在イ タリア共和国憲法 ( ,ドイツ連邦共 24条) などにみられるにすぎない. しかし, いったん惹起された国際政治的不信を 和国基本法 ( 当事国間のみに局限するわけにはいかなくなった現在, 利害関係諸国の連なる国際団体の存在を 前提として国際信義の培養がいよいよ可能となるのである. したがって憲法にはっきり国際信義 を誰 う以上, 国際団体加入をもまた明文化す べ きは当然で, 今後制定, 改変される憲法は, かな - りこの点の共通性をみせ るであろうことは想像に難くない. こういった傾向の裏付けとして God wi nは, 人類の向上と文化の発展が将来急激に進む必然性によって, 各国の政治的政策は, いき おい同一の形式を強くとらざるをえないという. それはたとえ人種こそ異なれ, 能力と欲求にお 2 )ここに各国憲法の歩みより, 共通的 いて大体みな同一のものをもっているからにほかならない. 発展の可能性を発見するとともに, つまりは憲法の 自然法的傾向が正しい軌道にのった動きであ ることを悟るの である. たとえ ば国際法の本質的傾向は, 近代に入って戦争防逼に法的根拠を与 えようとする一連の努力の うちに うかがわれる. そしてそのことが各国の憲法に渉透して,戦争否 定という自然法的原則の国内成文法化に成功したのだといって差支えない. 人間は, 戦争の防過をはじめ真の民主主義を求めて苦 難に満ちた道程をた どり, 狩余曲折を経 たのちに極めて徐々ではあるが, 同意によって権威の, 責任によって権力の均分化 に近 づ いて来 た. 確かに歴史が示すように, 民主主義は運営の至難な 政治制度であるとともに, この制度が一 般国民, とくに為政者に課する責務は極めて大きい. しかもそれが国際的舞台へ発展すればする ほ ど, ますます大きくなってくる. このようないわば国際的な民主主義が超国家主義を標携する かぎり, 複雑に権力の交錯したこの広大な舞台の圧力に果して堪え うるかどうかは問題であろ う. しかしすでに世界人権宣言も公布され, 人種の如何を問わず人格の尊厳性が普遍化されている現 在, これが理想 への期待と努力なく しては, 国際政治道徳の法則な ど単なる空念仏に終るに違い ない. 国民と為政者が相互依存の国際社会において, 自由を確保することによって要求するもの より強 い自己訓練を甘受する能力があるという確信をもつか ぎり, かかる理想の彼岸へ到達する 3 ) そして前にも触れたよ うに, 世界における憲法の自然法化 ことは決 して不可能 ではあるまい. 的傾向, その一具体化として国際信義推進の 法的確立こそ, これを助長するものとい うことがで き る.. しかしこのように憲法における国際協調主義を押し進めていくと, 国際的精神と個人の自由と の問題, いわば全と個との問題という法律学, 政治学における一大難関に想到せざるをえない. Jean Da b i nも説くように, この問題は結局, 理論的に解決するよりも, 具体的事例において 国民 4 J いかな i i t 一般の政治的思慮分別 ( l a prudence Pol que) に 関 心 と 責 任 が お か れ る べ き で あ ろ う. ) を乱すことはできないが, それ る場合であれ, 「個人の人格を無視しえない」 という最低基準5. 以上は個人的な自由が平和より上位にあると主張する何らの 規準もなければ, また平和が個人的 自由を凌駕するという理論的根拠も見いだし難いからである. しか しここで明らかなことは 「人 格」 そのものは, いわゆる 「個人主義」 とは無縁であるということである. 個人主義と国際信義 の相旭を, 人格の尊厳と国際信義との関係にふり向けるわけにはいかない. (これについての詳 H諭参照) 世界市民の大多数 細は, 本学紀要, 第一部, 第十巻, 第二号 「公共の福祉」 に関する才 I 6 は, 国際平和を公共の福祉と考えている.) 為政者はこの法, 条約の一大共通目的である公共の 福祉実現が, 各国民の人格昂揚にふさわしい態様に おいて社会的統制をなすべ きであろう. かく 一 32 -.
(9) . 高. 坂. 直. 之. てこそ国民も納得する. ただ社会の統制機関は, その起源においてそれぞれ異るもの をもっていることに留意しなけれ ばならない, 社会は, われわれの欲求によって形成されるもの であるが, 統治機関は , われわれ の悪とい う必然性のために目保の立場から止むをえず生ずるものである‘ それゆえ社会は, . いか なる場合においても善であるが, 統治機関は, その最も理想的な状態にあってさえ, 必要な悪で 7 ) したがってそれは社会の秩序が維持される最少限に止める ある. ,べきであろう, 道徳の創作は もちろん, 正義, 道徳を押しつけるような傾向が, も.し統治機関に現われるとするならば, その 存在はもはや不必要な悪 でさえあるといわねばならない. 明白にして現存する, またはありうべ き社会的危険なき限りは, いかなる場合においても個人の価値判断に干渉しない統治機関こそ, その 真の 在 り方 であ る と い え る.. したがって現代の国内政治における倫理的基体は, 人間個人 であり 「人格」 であると同じよう に, 国際政治は各国のために存在し, 習俗, 制度の異なる ,もろもろの国を共存共栄,せしめる媒介 としての倫理的使命 を有する, しかし一般に理性的な立場は,.国家を手段的なものとして価値 づ けるのが普通であるから, 国際政治の倫理的基体も, つまるところは個人の 「人格」 に帰着せざ るをえないわけ で, 個人の人格的生活を媒介し成就せしめるのがその使命 であるといわざるをえ 8 ) な い.. 註 1) B. ミ ル キ ヌー ゲ ツ ェ ヴィ チ : 前出, 9頁 2 , 1頁 ・An Bnqui i l l l i i IJus i 2) Wi t t ry concerning Po am Godwi n: ‘ l ca t ce andi s 1nHuence on Mora s and . ’ Happines 1,1798, London s . ,voL I .561~562 , 3rd ,P 3) Pear獣 n: .痴d ) . .88 ,p i 4) Dab n : 〆疑ぬ p .178 ・The Me “ l kan i I Founda i i i taphys 5 l t ) KarI K・ei ca t onsof Thomi s cJur p: ‘ sprudence , 1939, The Ca‐ i f Ame i v thol 8 1 ′ } 8 c Uni r ca Pres 2 s p .o , . 6) B. ミ ル キ ヌー ゲ ッ エ ヴィ チ : 前出,3 5 4頁 l 7) Godwi n: 〆鋭d , , 1,p.v~vi ,vo i 8) Dab n : 遊ぼ,p .98~99. 国際政治道徳を 「憲法」 の 枠内において考究する場 合, ・結局は憲法と条約との相関関係という 問題に到達せざるをえないが, これについて憲法制定当初より種々論争を重ねてきたアメリカの 現況を窺うことによって, この 問題に関するわれわれの態度を決定したいとおもう. ・ 元来いっの時代でも国民の多くは, 政府がその権 限とする条約の締結権 について かなりの危 , 険 を 感 じて い るも の で あ る. アメ リ カ で は1952年, 米 国 法 曹 協 会 代 議 院 (House of Delegates o f the Ame i i i t r can Bar As s oc a on). が連邦議会に対して, 政府の条約締結権を制限するように憲法 1 ) 同法曹協会の機関誌も同時に鋭い論説を連載し を修正してもらいたいと決議したほ どである. て, 条約の強大な潜勢力にみられる危険に対して一般の注意を喚起している. また1 951年の ピ ュ i Pul tzer p i リ ッ ツ ア賞 ( r ze) は, New orleans State 紙の数日にわたって論ぜられた社説 「条約 ty’ による政治」 (”Government by Tr ) に対して贈られたが, その論旨は結局, 憲法改正に e a よ っ て 条 約の 制 限 を 要 求 す る も の で あ っ た.. こ れ と 前 後 し て, コ ロ ラ ド, カ リ フォ ル ニ ア, ジョ. ー ジアの三州が, 合衆国上院に同様の憲法改正法案の上程を勧告したことも知られ ている. 想うにアメ リカでは十八世紀以来, 政治的均衡が 徐々に変化して中央集権制の連邦政治依存の 傾向が強くなったのは, 連邦政府の条約締結権 行使がその促進にあずかって大 いに力があった, 一 33 一.
(10) . 憲法における 「政治道徳の法則」. これが憲法改正によって新しい憲法上の釣合いを 要求する声となったの であろう. また世界が二 つの武装陣営に分れたことが,.アメリカをしてあらゆる種類にわたって外国との同盟を急がせ, これを過度にさせている原因ともなっている. それゆえ節度を越えた同 盟を排除するためには, 2 ) ところが一方 現在の憲法 政府の条約締結権に対して付加的制限が必要と考えたの であろ う. , は条約締結をあまりにも困難にさせ, その上, 上院の少数党の手に多くの拒否権を与えす ぎると ,いう論も有力となり, 同時に条約承認に関 しては, 下院もあずかるように拡張する多くの改正企 図がなされるに至った. 元来この 「三分の二原則」 (2条2節) は, 差別的な条約に対して局地 的利益を擁護するとい う十八世紀には適合する法則であるが, それは決していかな る基本的政治 理論からも生れたもの ではないとい う意見が強くなっている. 上院のみによる 「三分の二原則」 は結局, 国際事件の急速な処置の必要と行政協定の効果を増すために強調 したものにすぎない. しかし下院は, 大ていの場合,.法律によって国際協定を支持する義務をもつばかりでなく, 上院 と共に法律をもって その国内的廃棄を決定しうるから, 下院の条約締結参与を主張する傾向が強 i tee ) Judi ary Commi c く な っ たの は 自 然 で あ る. こ れ に つ い て は, す で に 1945 年 の 法 務 委 員 会 (. 発表で, 「総体的に国民を土好意的である」 と述 べているが, 上院においてこの問題は何ら進捗し 3 ) ないできたことは事 実である. アメ リカにおいて条約締結権の制限に関する憲 法改正の提議は, これを数グルー プに分けるこ とができる. そのなかで最も顕著な主張は, 国民が憲法上保障されている責任免除を, 条約によ って, すなわち国際協調主義によって損傷す るようなことは, いかなる形にせよ断じて許されな いというものであろう. そのほか条約を完 全に憲法の隷属物とする観点から説き起す二, 三の意 見もある. こういった一連の提議は, いうまでもなくある条約 が, 権利章典や個人に対する政治 的圧迫を制限する規定にとっ で代りはしないかという懸念, および議会が長期にわたって権限を 濫用する機 会を与えられはしないかという憂慮を示すものにほかならない. またそのほかの主張 と して, 合衆国憲法の至上権箇条 (6条) がもっている自力的特徴を削除 しようとするものがある. この場合州議会が国際協定を考慮して法律を制定するときは,その協定 は単に当該州法 としての効力を もつにすぎないとする. また他の意見は更に進んで, かかる法律 の制定を連邦議 会に委任された権限に限 定し, 国家の権益を侵害する条約の効果を防 ごうとする. 更にある提案は, 第二条第二節に 規定されているより, もっと多くの上院議員による同意を必 要としている, この説はある国際事情について, もし分別の至らぬ上院議員が三十三名にも達し たり, 大統領もこれに対して指導を 誤るような場合, アメ リカ国民を不利な条約の下に拘束 しは ガを意味するもので,、上院における投票の最少限を三十三から六十四にあげる ド しな い か と い う 危- 4 ) ことによって, 全議員の三分の二を更に上まわろうと期待するのである. 効力をもっている至上権条項 (6条2項) は, 連邦政府と各州との間 に立法 ところで絶対的な・ 権の配・分を変 更するような場合においても, 連邦憲法に対する条約の 一般的優越性を制限する・も l and 教 授 で あ る が, か れ は 本 来の 憲 法 上 のではない と い う 意 見 が あ る, Harvard 大 学 の Suther それはいかなる条約によっても の制約は, いうまで もなく国民の保護を目的とし, , たとえ国際 信義をもって しても廃棄されないという正諭が, むしろこの至上権条項をめ ぐる諸事情から起り うるという. なぜなら国民の 自由権は, 至上権条項の動機から全く外れているからである. そし てこのことは, 国民の権利章典や南北戦争後における連邦憲法の修正に, より強い力をもって適 5 ) しかし従来連邦最高裁判所は 条約と行政協定とが灘齢する場合でさえ 合するといってい る, , , いずれが無効かとい う点について事実上明確な主張を していなかったために,, 国際協定を結ぶ連 - 34 -.
(11) . 高. 坂. 直. 之. 邦の権限を制限すべ きか否かにつき, まだ確実な決定線を打ち出していない. もっとも 連邦最高 , 裁判所は判決の附帯意 見としては, 何回も連邦憲法の規定を無効にする目的で条約締結権を利用 l d 判事は 判決の附帯意見として 「条約 す るこ と は で きな い と 示 唆 し て き た, す で に1890年,Fi e , 締結権は, 連邦憲法に明記している通り, 連邦政府や各省の 行動に関する憲法上の制限 および , 連邦政府や各省の 性格自体から生ずる制限を除けば, 女理上原則として無制限 である. つまりそ れは連邦憲法が禁ずるこ とがらを権威 づけ, あるいは連邦政府や州の性格に表われた変化に権威 をもたせ, また州の同意なくしてなす領土の- -部割譲を権威あらしめるまでに拡張されるであろ う」 と 警 告 して い る. , (Geof roy v ggs , Ri ,259, 267) ,133 U,S Coo l i dge 大統領と当時の上院は 少なくとも条約 は憲法の 一修正に勝り うると考えていたらし. ,. い, と い うの は, 1924年 に アメ リ カ は イ ギ リ ス 船 に 酒 類 を 封 印の ま ま ,. アメ リ カ の 領 海 内 に 持 ち. こむことを許す条約を結んだが, 連邦最高裁判所は, すでにその前年において憲法の 禁 酒 規 定 the Eighteenth Amendment ( )が, この よ うな 輸 入 を 禁 ず る 旨 を 宣 言 し て い る か ら で あ る, (Cu‐ l l nard on 00 ) もっとも 当時この禁酒 規定は 権利章典条項 に属 .S . Co .S .v , Me .262 U.S .1. , , するというよりは, むしろ至上権条項に都 合がいいように, 商業的, 純財産的立法に類す るとい う説が÷般的であった, また刊行物検閲の樹立を内容とする条約がない間は 1 , 924年の条約は有. 効であるとする説も広く 行われていたので, この条約に挑戦したケ ースは ただ一件にすぎなか , 6 ) ところが連邦最高裁判所は ある条約に反する法律の制定を認め その法律の優越 性を った, , , ) に して も 米 ・ 中 明確に打ち出したこ●とがある. 例の中国人排斥事件 (Ch i ne e Exclusion Case)7 s 両国の条約による中国人の 再入国権は, 国会によ つて無視されたことがよくこれを裏書きしてい る. すなわち国会の制 定する法律は, それがアメ リカの移民官に対する命令を意味する限り そ , の条約を無効にしてしまったわけである. イ ギリスにお いても条約締結後の特殊な法律に優越性 8 」 を認めている事例がない ではない. しかし総体的にいってアメ リカでは, イ ギリスから継受した伝統的な法体系に基づいて 条約 , を国内法の有力な一部であると している. また国際法は自然法の具 象化されたもの であるという イ ギリ ス 慣 習 法の 考 え 方 が,. 9 ) わ が国 にお いて アメ リ カ に お い て も 支 配 的 で あ る と い っ て よ い.. も, このような考え方が支 配的である. が更にアメ リカでは 条約は一般的にいって連邦法より , o ) が存在する これは 判例によって確定 下位にあっても, 州憲法よりは上位にあるという原則l . , づけられたものではないにせよ 大方の学者の承認するところであろう , . 次に行政協定であるが, これは原則として条約の委任に基づく細則規定をいい 条約締結にお , いてすでにその 含む委任事項を総括的に認容するのであるから, 協定について更 に国会の承認を 経る必要はないとされている. しかもそれは技術的細則の決定か あるいは一般の認める 合自然 , 1 1 法的客観性の強い事項の決定に限定すべ きであるという一般規準が立てられる, ) しかし問題は たまたま条約と別個に結ばれることのある行政 協定の取扱いであろう, 近来この種の 行政協定が結ば れた例はむしろ豊富であるといえるが ひとくちに行政協定と い , っても無数の種類があるの で, これらを合理的に類別することは不可能 に近い そればかりでな . く,「行政協定は条約の代りに用 いられてはいけない」 という一応の類推も 不幸に してまだ両者の , 「定義」 の問題が究明されて いないので ほんの推測に止まっている すなわち 「条約の 代用を , , なす行政協定の禁止」 は, 少なくとも現在決 して明瞭なものとはいえないのである, 両者を満足 に類 別 す るこ と は, アメ リ カ で は Monr i oe 大統領以来 Br cker 上院議員にいたる多くの政治家が 1 2 ) 行政協定の内容につ いても従来種々論議されてきた 認めているように事実上不可能 であろう. - 35 一.
(12) . 憲法における 「政治道徳の法則」. が, いま だ にその限界は 甚だ明確でない- いかな る形式の行政協定であれ, 対外関係の 処理は複雑繁多で, しかも滋大な 仕事である. 例 えば関税問題, 軍事基地問題, 経済援 助問題, それに本国送 還, 電気通信, 自動車交通な どの諸 べ 関係, ま だこれに類するものを 挙げれば際限がない. アメ リカでは かかる行政 協定を, す て行 政専門家の良識で処理してきたが, 一方において国会は, いつも立法手段によって調整的な国内 ・行為の場 規整を留保し うるわけであるからさほ どの不都合もなく, また実際 問題としても, 戦争 合を 除いて, 大きな事件はすべて条約として 上院に提議されてきたのが常態である, 政治的 レア リ ズムが それを要求するのだといって差支えない. したがって行政協定を危倶するのあまり, 憲 法改正に よって, これと条約との間に一線を画 そうとするような考えは, 現実性に乏しい純理論 1 3 ) 国内, 国外政策の 過去における失策について感情的な 気持から, このよ にすぎない とおも う. うな提議をすることは, 将来いっそ う複雑になるであ ろう国際問題に困乱と遅滞を生ぜ しめるに 止 ま る と い っ て よ い. l son 大統領が 「公開で決定さ れた公開の協約」 を提唱したのは 第一次世界戦争のさなかに Wi 有名なこ とである. 国民に知らしめず, た だ由らしめるだけの条約は, いかな る理由によれ非道 の誹りは免れないであろ う. しかし実際問題として, すでに国会の承認を経た対外政策を実施す る段階になってから, 公表を禅るかずかずの技術 的取決めをなすことはよくあることである,「ガ ラス張りの 中で終始する外交」 が実際面で不可能であることは, 多数の外交官の指摘するところ にしろ, その事 実は認めねばならない, マス・コミを通しての国民の一時 で, 理想とはいえないむ 的な誤解を 避けるため, あるいは政府の威信を保つためには,秘密交渉も止むをえない場合がある 1 4 ) この事情を弁えず, 表面上の 対外政策のみを純粋に抽出して,これを善であり, ことを認める. または 悪であると極端な判断を下す人々のいかに多いかは, 思い半 ばに過ぎるものがあろう. し か し こ こ で 考 え ね ば な ら ぬ こ と は,. 重 大 な 秘 密 交 渉 に も 自 ら 限 度 が あ る と い う こ と で あ る. ,. 無制限な裏面外交が民主主義そのものの破壊であ るのはい うまでもない. したがって内容が国民 の権利義務 に密着し, 行政権の専決事項を逸 脱する ごとき規定を多 少でも含むならば, 行政協定 として国会の承認を免れる実質的理由に乏しいといえ るであろう. もっとも, それはま だ実証的 に公式化されていな い憾みはあるが, 現にアメ リカでは行政協定が連邦法と衝突する場合, 多少 づ 疑問を残しながら, 大体において行政協定を 下位におく一方, 各州憲法よりは上 に位置 けると 1 5 ) い う 一般 的 傾 向を 示 し て い る.. l F tが第二次大戦中 に締結した多くの行政協定 については, あるいは極端な秘密外 eve .D,Roos 交であるとし, もしくは権力濫用であるとして非難する向きもないではなかった. かつてのヤル l ) は, アメ リ カ に と っ て 不 幸 だ っ た と い わ ん ば か りの 含 み を も つ 批 評 ta Agr eement タ 協 定 (Ya ) l sdam Agreement and 教 授 は, ポ ツ ダ ム 協 定 (Pot を受けてきた し, ま た前記の A, E.Suther 1 6 べ る て い ,) が ドイ ツ にお い て ソ ヴィ エ トの 意 地 を 張 り通 さ せ る 呪 文 の 役 を 果 し た と,は っ き り述. 更にかれは, 期待された国際協調によって生ずる諸利益と引換えに, あ る国内権力を放棄するこ とが, むしろ利 益 であ り美徳でさえあることを従 来広く論議されていた にも拘ら ず, 目先きの利 益追及という近視眼的強行意見の一般的盛り上りが, かえって不利益な 反動現象を 生ずる結果 に なったこれは 好例であると結んでい る. われわれは国際信義と国内信義の交叉点に立って, よろ しく玩味すべ きことであるとお もう. 註 1 ) 1952年2月27日の New York Times には, 次の記事が登載されている. 「連邦憲法に反する条約の条 -3 6一.
(13) . 高. 直. 坂. 之. 項はすべて無効でなければならぬ. 条約は連邦議会により立法権を通じてのみ合衆国の国内法として有効 となるべきである, 議会はかかる条約が存在しない場合でも, 国民の代表権の下に同じ事項を規定するこ とができるからである」 f i ILawぞ 1937, A1 i red A. Knopf t tu[ ): “Bs saysi ona n Cons 2 ) Robe茸 G. McC1oskey (ed. ,P .219 崩 〆 3 2 2 1 ) ゐ P . . わ履、P 4) 奮 .222 ろ溺・ 5) 煮 .230 ,P. i i t a t on) の書記と, イ ギリス船舶との競争によ s oc 6) 原告である船長船員協会 (Ma s e rS and Mates As って打撃を受けたアメ リカ海運業に関係をもつ人々とが, この条約の効力についての判決に強い不満の意 る財. i t l l i ken v ) 〕 n McC1 oskeysぞ edi を表した. 〔Mi . Stone , (c ,1927 U S U i d S 1 3 0 C h P i 8 8 9 また 1 884年の移民入国税事件 (Head Money t t 8 1 1 ) t C h s 5 ( v n e a e n n a e a g . 7 ) .. , t t 951年の Moser v. United S es においても条約締結後に制定の法律の至 Ca a ) も同じ趣旨である, 1 s e s 日生について再述している, “ 1952/ Rinehar t i ILaw, i i l t erna ona esoflht 8) Hans Ke en: ”Pr nc s .326 pl ,p. 9頁 9 ) cf Bミミルキ・ヌーゲッエヴィ チ : 「国際憲法」1952 , 岩波,13 “ ISc i i i i t encer l957, Mc- ca o Pol on t 10 ) C. C. Rodee . Anderson & C. Q. Christol: lntroduct , T,j l l & Co Graw‐Hi . ,p.570. 8頁, その他の憲法書 (省略)・ 60 11 ) 小林直樹 : 「憲法講義」 口,i9 , 東大出版会,177~17 l くey : 必然,p 12) McC1 os .248~249 妙溺. ・ 0~2 5 2 5 13) , p , . 14) Pear son: ′鰯イ ,91~92 . ,P る履, p i l to :ず s 15) Rodee on & Chr ,570~571 , Anders l 1 9 6 5 ( 5 2) p v eW’ o 16) ”Harvard Law Revi .1305 , . V. わが憲法が明記している政治道徳の法則の普 遍性とその遵守義務も, 結局は憲法と条約との優 劣問題に発展せ ざるをえない, これが窮極における問題点でもあろうとおもう. すなわち不測の 事態突発によって条約の遂行が明らかに違憲とみられるよ うな場合, あるいは緩やかな がら逃し い政治的変遷が, かな り多数の識者がもつ憲法意識の時外にはみ出たとおもわれるよ うなとき, たまたま結ばれる条約の違憲性が問題となってくるわけで, この際憲法が先行すべきか, あるい は pacta sunt servanda . を 文 字 通 りお し 通 す べ き か は, 「政 治 道 徳 の 普 遍 性」 か ら 考 え て, な か なか簡単には決定できない問題である. 条約優位論者は, まず第一にその論拠として平和主義をあげるが, これは強力な 巨大国家にと って甚だ好都合であって, 相手とな る小国家からみれば, 全く植民地的な, 自国の主権を放棄す るもの だという理論も生じかねない. 次に憲法98条1項およ び81条が, 意識的に条約なる言 葉を 除 い て い るの を 根 拠 と す る の も当 らな い と お も う, 98条 で は その 2項に特別 に調っているから省 いたにすぎず, 81条でも条約の司法審査を否定したに止ま り, これを決定的優位を示す根拠とは なしえないからである. 第三に98条2項における誠実遵守の必要を条約優位の根拠とするのも当 らない, これは1項と共に平和主義, 国際協調主義を標梯す るための規定であって, 平和主義即 条約優位とい うことになれば, 第一に述べた欠点は免かれないであろ う. 憲法優位論者の根拠としては, まず第一に憲法改正が条約締結よりも遥かに慎重な手続を要す 7 3条3号, 61 ることをあげている. しかし条約成立手続を法律のそれよりもむしろ容易にした ( 条)のは, 変化の激しい国際場裡に適合すべきダイナミ ックな条約の性格上当然の措置であ って, 効力の優劣には無関係である. 次に憲法によって初めて条約の締結権が与えられたことを 論拠と するのも当らない, なぜなら成文憲法の現われる以前, すなわち憲法と他の法律との形式的区別 がまだ見られなかった時代において, すでに条約の締結は頻繁に行われていた, したがって条約 7一 -3.
(14) . 憲法における 「政治道徳の法則」. という自然法的普遍制度を成文憲法において再確認したにすぎないの であるから, これを憲法優 位の根拠とするには足らない. われわれは, もはや国際法ないし条約と憲法との優劣を論ずる段階ではないと信じている. 両 者統一理念の必要性と可能性の実証的解 明こそ, 少なくとも自然法理論を信条とするものにとっ て永遠の課題 でなけれ ばな らない. すでに国際機関の 発する憲章, 宣言その他に, また憲法にお ける戦争否認, 条約遵守の強調な どについて, 両者の歩み寄 り的傾向がみられる現在, 自然法を 仲介とする理念はもとよ り, 大部分の実証的統一も決して夢ではない筈である. しかしそれは, 法の歴史的 発展段階におけるあくま で法の価値観に基づ く究明であって, いわゆる実証主義 に拠 るものではな い. 実証主義はある意味においてまことに反歴史的だからである.D 今世紀にお ける文明の急激な進展は, 内外の諸問題解決を同等に評価せ ざるを えないところま 2 ) 国家的解決を優位におこうとす で達している. したがって その間に矛盾があってはならない. るものは, あたかも井蛙的な社会感覚の偏狭さ を思わせる. がその反面 国際的解決優位論者は , , 法以前の要素を法に注入するという謡りは免 かれまい. それゆえ国際協調と国内秩序維持は 現 , 今においては社会的楯の両面 として取扱わねばならぬ歴史的必然性をもっといえる, Ke l en は世 s 界的な立法府の成立を終局的考慮において, 国際協調を国内関係の優位におく. しかしかれは法 理論としてよ りもむしろ政治的見地に基づいて論を進めており, なお現実面においては, それが 3 ) 国際法と憲法との窮極の統一は 憲法の国際法化 唯一の平和的解決とはかれも考えていない, , という世界的傾向を考慮することによって実現され る問題である. いやすでに人権関係において は十八世紀末の二大成文憲法が誕生した際, その 体系のなかに自然法的普遍規定を多分に設けた こ とがそれを明 らかに裏付けている. しかも第一次世界大戦は憲法の国際化を助長し, 第二次大 戦によってさらにそれが推進された, 少なくとも戦後制定の諸憲法で, 国際連合憲章の前文と大 同小異の前文をもつものが, かな り見当るのは興味あることである. まずフランス第四次共和国 憲法 ( 1946 ) の明らかにした国際 協調主義は欧州各国の憲法に影響し, 194 9年の ドイ ツ連邦共和 国基本法, 同 じく ドイ ツ民主主義共和国憲法, また同年のアル ゼンチン共和国憲法な どによって 国際法規の法律に対する優位が決定づけられるに至った. 更にオラ ンダ王国憲法 ( 195 ) は第60 3 条によって裁判官が条約の 合憲性を決定する権限のないこと, また同条のCには, 国際的法秩序 の発展が必要 とする場合, 条約によって憲法から離れうることも明記している. なおフランス第 五次共和国憲 法 ( 1 ) 958 strait(s , いわゆる ドゥ ゴール憲法は, 特に 「条約および国際協定」 (De d t e accor si i t )なる一章を設け, 条約が法律に優る権威を有し, かつ憲法改正の原因 nt e rna onaux とな り う る こ と を 明 定 し て い る (54 , 55条) こ と な どを み て も, い う もの で あ る.. その 一 連 の 傾 向 が 窺 わ れ よ う と. ひるがえってわが明治憲法には, 条約の国内法的効力についての規定はなかったが, 学説は一 元論的傾向が強かった. 現行憲法は98条2項で決定的に一元論を採択したとみてよい. すなわち 条約と国内法とは, 法秩序の相異, その多様性にも拘らず, 共に統一次元の上にあると考えられ るからである. それゆえ両者の間に抵触するものがあ るならば, 組織的にインテグレイ トするこ とによって, いささかな りとも矛盾の存在を許してはならない. 条約と憲法とにおいて特にその 感を強うする. それは国連を仲介として近 来ますます憲法の国際法化的傾向が推進されるに至っ た 事 実, ま た 国 家 主 権 に つ い て も, Laski のいう 「相互依存の世界では , 独立性というものが無 4 ) か否かは疑問なきをえな いにせよ 益となる」 , 近代初期の主権概念がその最高絶対性, 単一不 可分性ないし自足 性な どの属 性を, 最近の複雑微妙な国際関係においてかな り修正されないわけ -3 8-.
(15) . 高. 坂. 直. 之. にはいかなくなった事実をおもい合せてみるならば, 自ら納得できることである. 今日, 現実の 段階においては国際法規があらゆる国内法規, と ・くに憲法に優先するという根拠を一般には理解 されるまでに至っていないし, またその逆も十分いいうろことである. 両者を一義的に比較する だけでは, 根本的な解決策を見出すわけには いかない. よろしく両者それぞれの拠って立つ根本 規範をみきわめ, これらを正しく 理解し尊重するところ に打開の道が自らひらかれようというも のである. 根本規範の属性は普遍性なるがゆえに, 窮極においては一に帰することが でき, その 間に矛盾抵触の 生ずるわけがない. しか,もそれは世代の進展と共に適用の様相度合が変らざるを ・えな い ダイ ナ ミ ッ ク な 存 在 であ る 5 ) .. し た が っ て 一 部 の 誤 解 す る ご と く ス タ ティ ッ ク な 不 動 主 義. は真の根本規範の容れるところ ではない. われわれは, これらをトマス主義的自然法と名 づける のである. 超民族的な国際条約と, あらゆる国家に妥当する普遍規定を多分にもつ近代憲法がそ うであるばかりでなく, 現体制において健全な国内秩序の維持発達に不可避とおもわれる憲 法上 の重大な変化もまた, 自然法に基 づくものであるといって差支えなかろう, と ,ころがわれ われの 6 ) かれらこそ 立場を誤解する向きは, これを前法律的な政治解決の弊に陥っていると非難する. 異論の介入する余地のない完壁な実証法の作出に腐心した結果, いわゆる実証法万能主義 を現出 せしめるに至った責任を痛感すべき ではないか. なるほど法の発達は集団社会にお ける対人的不 信に起因するもの ではあるが, いかなる高度の法技術でも, 結局これを解釈し執 行する人間 を肯 定しなくては成立しない筈である, つまりは国民全般の, 広い視野に基づく政治意識の昂揚によら なければ, いかに完壁を誇る実証法といえども存続しえないことは, その 卑近な例をワイマ←ル 憲法に徴するまでもない, の自然法理念をキリスト教の潤化によって変貌させたこの独特の自然法思想が 現 , 在までの政治倫理的啓蒙にいかに役立ったかは測り知れないものがある. したがって, かかる自 然法理念に反する条約がもしあるとすれば, それが実体規定であれ技術規定であれ, 条約として Ar i es stotel. の存在価値はないとみるべきであろう. しかし問題は, その違反が政治意識の 相違によって容易 に統一的な決定をなし難い場合に生ずるのである. 1 ) まず憲法9 ( 8条2項の「確定した国際法規」 ( i l i t ) につ いては 想像し e edlaws of nat s ab sh ons. うる限り自然法違反の生ずる余地がなく, したがって憲 法抵触問題は, よほ どの 事情変更が起る 場合でなければ, まずありえないことである. 条約に対する憲法優位論者も, このよ うな国際 法 規に優位を与えることに大体異論はない. 2 1 政治的変遷が特定の条約に自然法違反の疑いを生ぜしめた 場合は, 当事国間における協議 ( の再開を要請されるであろう, 違反疑義に再度検討を加え,当該条約を憲 法の諸原則に融けこ んで いる自然 法理念に適合せしめようとする努力は, 為政者の当然の 政治的義務でなければならぬ. 7 ) その結果条約廃棄の止むなきに至っても, 国際信義に惇ると はいえない. 圏. 適法に成立し, 何ら間然するところがない条約は, 絶えずダイナミ ックに動いている国際 社会の新しい要請として国内法に対しては常に優位に立 つべ きもの である. またかかる条約は, 本来これと合致すべ き憲法のスタティ ックな実証規定の解釈限界を拡げ, 窮極においては憲法を 改 正 に ま で導 く 主 因 と もな る であ ろ う. バ ー ミ ン ガ ム 大 学 の J . A. Hawgood 教授も, 憲法を動 i dera i か す 二 大 要 素の 一 つ と し て 「対 外 政 策 の 考 慮」 (cos t i onsof foreign pol cy) を あ げ て お ら れ. 8 ) ただ問題は, ( i ) 政府によって調印された条約が議会の承認を得られなかった場合, ( る. i i )条 約の批准後. これが国内信義違反を理由として国民の反対運動が起きた場合, いずれも国際信義 に背 馳 し はし な いか と い う疑 い であ る.. - 39 -.
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