生活教育の基本問題
15
0
0
全文
(2) . 第7 巻 第1 号. 北海道学芸大学紀要 (第一部増補). 昭和31年7月. 生 活教育の基 本問題 船. 山. 謙. 次. (北海道学芸大学札幌分校教育学研究室). Kenj i FUNAYAD -A : The FoundamentaI Problems of f Li ‐Cent e er ed Education. l. 序. 「生 活 によ る 生活 の た め の 教 育」 と か、 「生 活 に よ る 生 活 に ま で の 教育」 と か と よく い わ れ る 。. これは、 教育とは 「生活教育」 でなければならぬということである 教育とくに学校教育が 現実 。 、 の社会生活から遊離した内容を、 子 どもたちの日常的な生活経験とは無関係な方法で教えてきた古 い学校に抗しておこってきた教育思潮・教育運動であって、 戦後はじめて主張されたというもので はない。 わが国の教育界で、 生活教育という語が一般 に使用されるようになったのは、 直観教授 i i (Anschaunungsunt er r ) お よ び 作 業 教 育 (Arbe cht t sschul e) の 主 張 と と も に、 昭 和5 .6年 こ ろ 拾 頭 して きた郷 土 教 育(He i k t unde)の 主 張 に と も な う も の で あ る。 生 活 教 育 の主 張 は na ・ 、 しか し、. ふるく、 明治末期から大正時代にかけての新教育運動のなかに、 をみることができる。 なかでも野 ロ援太郎を中心とする「池袋児童の村小学校」の生活教育は、 その代表的なものである。 昭和に入っ 1 ては、 山崎博を校長とする神奈川県田島小学校のように生活科を試みるものもあり、 ) さらに生活 算術、 生活理科、 生活修身、 生活綴方などのように、 教科の生活化を主張するものがあらわれた。 これらの生活教育には、 自由主義的、 児童中心主義的傾向がつよく、 上からくる国家主義的軍国主 義的教育によって、 みずからの限界を暴露するという運命をたどったのであった。 知 識 学校 (Wi s sensschul e) と か 教 科 書 学 校 (Buchschul e) な どと い われ る 教 師 中 心、 教 科 書 中. 心の古い学校が、 あまり役にもたたぬ生活遊離的な知識を、 子どもたちの頭脳につめこむことを主 としたとすれば、 「教育の目的を生活者と して充実した人間の形成におき、 方法的には学習者がみ ずから生活 し、 行動することをっうじて学ぶことをもって教育方法、 学習方法の基本たらしめよう 2 ) 生活教育の主張は正 しくもあり 大きな前進でもある 教育が生活教育でなければなら とする」 、 。 というのは ぬ、 、 教育の根本原理が 「生活」 にあるということであり、 その 印票は実践的な生活者 を 育 成 す るとい う こ と で あ る。 しか し、 「生活」 の 意 義 は 多義 で あ り、 「生 活」 の 解 釈 の い か ん に よ っ て は、 教 育 理 論 の全 体 構 造 と そ の 実 践 の 方 法 も 種 々 あ り う る こ と と な る。 そ こ で 「生活」 と は. なにか、 わけても教育における 「生活」 の概念はなにか、 生活の内容をいかに把握するかというこ とが重大な問題となる。. 2. 生活教育論と生命教育学. 生活をとおして、 生活者に必要な知識 や技能や態度を子どもたちの身につけさせることを ひろ 、 く生活教育というならば、 それは人間の歴史がはじまっていらい存する教育の方法であり、 このよ うな方法は古くから存した。 キケロ ( Ci cero , B, C.106一43) は、 古 代 ロ ー マ の 学 校 教 育 を 批 判 )といっているが この言葉は し、「われわれは学校のためにではなく、 生活のために 学ぶのだ」3 、 、.
(3) . 船. 山. 謙. 次. 生活教育の古典的な表現であるといわれている。 しかし、 いわゆる生活教育論が教育史上に登場 し i tal ozz てく る の は、 そ う 古 い こ と で は なく、 わ れ わ れ は、 そ れ を ペ ス タロ ッ チ (Pes ,1746‐1827). にもとめることができる。 ペスタロ ッ チ時代の学校教育は、 家庭や社会での生活とはほとんど無関 係 であり、もっぱら生活から遊離 した女字の教育や 「教理問答 Kat echi snms」 の 場 と な っ て い た。 かれは、 これを難じ、 「純粋な人間の知慧はかれのもっとも身近かな関係の知識と、 かれのもっと も身近かなことがらを完全に処理する能力との堅実な基礎のうえに成りたつ」 といい、 「学校は、 )ことを 生活 の た めに準 備 し、 こ の 生 活 に 関 心 を も ち、 生活 の 面 を て ら し だ さ な く て は な ら な い」 4 強 調 した。 かれ がそ の 著 『白 鳥 の 歌』 (Schwanengesang) のな か で、 「生活 が 陶 台す る」 (Das Leben b i l de t ) .. というとき、 かれは教育の基礎を 「生活の直接性」 にもとめ、 学校と生活とは密 接にむすびつくべきことを説くものであった。 この考えかたから、 かれは、 学校教育の中心に生. 産・労働をおき、 教育を子どもたちの賃 仕事 に む す び つ け よ う と した の で あ る。 ペ ス タロ ッ チの 生 活教育が、 教 育 活動の中心に生産・労ゴ動をおいたということは、 その後、 労作学校、 生産学校 i (Produkt echni onsschul e) 綜 合 技 術 教 育 (Polyt sm) 発 展 の 契 機 と な る も の で あ り、 今 日 に お い. ても十分注目されなければならないところである。 9第世紀の末葉いごにいたって、 いちじるしく 発展する。 ベルギ←の ドクロ 生活教育の思想は1 ly リ ー (Decro ,1871一1932) は、 1907年 ブリ ュ ッ セ ルの 郊 外 に 「生活 に よ る 生 活 に ま で の 学校」 (Pecol e pourla vie, par la vi e)を モ ッ トー と す る 新 学 校 を 創設 し、 教 育 は 子 ども だち の 生 活、 と i tre く に 本源 的 欲求 を 出 発 点 と す べ き で あ る と した。 ドイ ツ の エ ス トラ イ ヒ(oes ch,1878-)は、 第. 一次世界大戦中の道徳的社会的危機に触発されて、 子 どもたちの身体および精神の力の健全な発達 5 ’を主張した。 また、 19 17年の革命直 を期待する「生活学校にして生産学校六 ;る弾力ある統一学校」 後のソ連において、 教育上の改革を一挙に実施しようという急進的意気にもえた時代はに、 教育の i (1884-)の 「労 目的は生産的労働をっうじて 「労働者=哲学者」 を作ることにあるとした B1onski 1 1年)が主張された。 わが国において、 「生活教育」 という考えかたが、 はっきりと確 92 働学校」( 立 され た の は、. t o Eberhard) の 「労 作 学 校 か ら 生 活 学 校 へ」 入 沢 宗 寿 が エ ー ベ ル ハ ル ト (ot. 6 tsschule Zur1ebens e schul (Von der Arbei ,1925) を 紹 介 して か ら の こ と で あ る と い わ れ る )。. 入沢は、 日本におけるデューイ教育学説およびジャッ ドの教育心理学の紹介者で 狭 同時にディ タイー派の 「生命哲学」 にもとづく 女化教育学 説の有力な主張者のひとりであった。 生活・経験を 重視するデューイ 教育学と、 生・体験・全体性な どを重視する生命教育学を祖述する入沢が、 生活 教育を主張し、 みずから生活教育の指導にあたったのは偶然のことではない。 日本における生活教 育の思想には、 入沢の教育思想にみられるように、 大別して ドイツのディルタイ ー派の生命哲学に も と づく も の と、 ア メ リ カ の デ ュ トイ を 中 心 と す る 経 験 主 義 教 育 原 理 に も と づく も の と が あ っ た の ・あ る。 で l they) 1833一1911) で あ る。 か れ に よ れ ば、 生 生 命 哲学 の積 極 的 な 主 唱 者 は ディ ル タイ (W. Di. i f 命哲学とは生命ないし生活 (L e ,Leben) をもって 自 然および人生の 統一的解釈の中心とするも のである。 かれは概念をもって人生をとらえようとする立場に反対 し、 抽象にたいしては具体、 思 惟にたいしては感情、 合理にたいしては非合理、 要素分析にたいしては綜合・全体性を力説する。 t t ディルタイ の 流 れ をく む リ ッ ト (Th . Li ,1880一) の 言 葉 を も っ て い え ば、 「生 命 哲学 は 原理 か ら. 出立する思想結合でなく、 内面的生活の持続的方面における自由な表現であり、 生命を直接に直 )哲学である。 生命・生活は抽象ではなく、 概念でもなく、 むしろ非合理 観、 体験しようとする」7 的なものである。 生命哲学は非合理、 感情の哲学として、 概念の哲学に対立する。 生命哲学は、 生 命の本質を合理主義、 批判主義の哲学のように超経験的な理 念にもとめることをしないが、 他方経.
(4) . 生 活 教 育 の 基 本 問 題. 験主義、 実証主義、 心理主義のように経験的事 実や帰納的法則の世界にもとめることもしない 生 。 命とは、. ディ ル タイ が い う よ う に、 客 観 に た い す る主 観、. 物 にた いす る心 というようなも の では. なく、 「個々の生命相互の間、 および生命と外 界の諸事物との間に成立する交互作用の連関」8 )な のである。 すなわち生命は、 「生命統一の交互作用の連関」 のなかに存立し それ自体 目的によ 、 、 る統一体をなし、 全一的・構造的である。 内と外との交 互作用の連 関を生命の本質と しながら、 しかし生命哲学は 生命の客観 性よりは生 、 命の主 観性を強調するものといわなければならない。 ディルタイが 「意識はいっさいの事 実の住み 家であり、 それからいっさいの事実の織り出される材料である」9 ) というのは、 内面の意識すなわ ち主観をもって一次的とするものとおもわれる 生命は生命の内奥に存する意志および感情を中心 。 とする生活連関を意味し、 その衝迫 (Dr ) によって自由に表現される。 このような生命は生命 ang そのものによって理解されるよりほかはない かく して生命哲学は 生命の主観性を一次的とし 。 、 、 その客観 性を二次的地位にすえていたことは否定できない 。 生命哲学は、 しかしながら、 在存と当為、 現実と理想との二元的分裂を 生命の根源 生命の創 、 、 造力、 生命の統一性そのもののなかに融合しようとするものであり 因果的必然と論理的必然のい 、 ずれからも脱出 して、 内的生命ほんらいの自由な活動をもとめようとするものである かく して 。 、 リッ トは、 生命の自由・体験・全体性・創造的発展を強調 し 1 ( ) 無限に生産的な深み からくる 、 2 創造的発展、 ( ) 個人と社会とにたいする自己発展の自由、 ( 3) 生新なる体験の豊錠、 ( 4 )主 知的荒廃のかわりにあらゆる精神力の生動す る全体性 5 二元論 ) 的分離のかわりに身体と精神 、 との全体性、 ( 6 ) 利己的分離のかわりに人間社会の全体性、 ( 7 ) 原子力的分離のかわりにすべて の宇宙の力の全体性、 を人生ならびに教育の根底とするl o ) 。 生命教育学は、 生命哲学を土台としておこってきた 生命教育学は人間の生命の根源に ひとつ 。 、 の形成的・陶 台的 な 衝迫 が 躍 動 して い る も の と み る。 こ の 思 想 の 影 響 を つ よく う け た も の は ドイ ツ の 「青年運動」 ( Jugendbewごgung) である。 青年運動は青年の情熱による自己教育の教育運動で あった。 かれら青年は、 大人の、 生命力を喪失して汚濁の世界にあって みずからの躍動的な生命 、 力を窒息ゞさせることなく、 自己自身の責任と自由において 自己を解放しようとした 魂の救済を 、 。 さけび、 精 神 的 な も の を 目 ざ して す す ん でい っ た の で あ る 。. 生命教育学は「青年運動」を刺戟しただけではなく 教育上のさまざまの改革璽動に力強い影 響を 、 あたえた。 そ の主 要 な も の は「体 験 学 校」(Erlebni ss chul i e)、「共 同 社 会 学 校」(Geme t l ・ schaf sschul e) 「労作学 校」 (A i t rbe s schul i e)、 「生 産 学 校」 (Produkt onsschul e) な どの 新 教 育 の 諸 運 動 で あ る。 ‐. これらの諸教育運動のすべてが、 生命教育学をその理論的根拠と して登場してきたもの で は な い が、 それにしても生命教育学の基礎概念である全体性の原理に影 響されるところ大であったことは imatunt 否定 しえ な い。 「郷 土 教 育」 (He i er r )、 「綜 合 教 授」 (Gesamtunt cht i )、 「体 験 学 err cht l h l 校」 (Er ) A ebni ssc u e 、 「労 作 学 校」 ( rbe i t sschul e)、 「生 活 科」 (Lebenskunde)、 「文 化料」. l t (Ku ) な どの教育思潮には、 直接間接、 生命・体験,自由 ・個性・全体性,創造的発展 urkunde どの生 な 命教育学の理念がみられる。 古い教育が、 生活から遊離 した知識を機械的に子だもたちに 注入することを主にしたのにたいし、 生命教育学とこれにもとづく諸教育運動は いずれも生活と 、 いう具体的全一体としての実在連関から教育過程を発展させようとしたものである その方向は 。 、 「学問から教育へ」 ではなく、 「生活から教育へ」 を志向するもので、 生活教育とか生活学校とか の名称を冠するといなとにかかわらず、 子 どもたちの生活と活動とを重視している。 日本において、 とくに第一次世界大戦後、 大正中期から昭和のはじめにかけ、 自由主義的 児童 、 中心的教育運動がさかんになり、 わが教育界をゆりうごかした。 教育学説としては個人的教育学、.
(5) . 船. 山. 謙. 次. 人格的教育学、 文化的教育学その他が紹介 され、 また、 労作教育、 自動教育 (モンテッ ソリー法) 、 総合教授、 プロジェ ク ト法、 ウィネトカ・システム、 郷土教育、 生活教育、 公民教育、 自治訓練な どが問題とされた。 これらは、 世界的な自 由の雰囲気のなかにおいて、 絶対主義教育体制下におけ る教科書中心の学問主義の教育、 形式的な訓練主義 教育にたいする抵抗の契機をふくむものでもあ った。 昭和初期になると、 各教科の生活化が教育界の主思潮となり、 生活修身、 生活算術、 生活理 科、 「生命の綴り方」 が主張され実践された。 城戸幡太郎のいうように、 日本においては 「日常生 活と教科生活 とは初めから並行」 n )していたのであるが、 ここにいたってようやく教育の生活化が 問題とされた。 この時代のいわゆる 「前期生活教育」 は、 概して 「生活指導ないし生活表現の教育 であり、 同時に生活を発展的に観る教育」であり、 生命教育学の影響がきわめて強かった。 しかし、 「後期生活主義教育」 になると、 たんなる生活 表現の教育や、 子 どもたちの消 費生活主義の教育か ら、 生産主義教育や、 生活綴り方な どの生活教育が登場してくるのである。 生命教育学と、 それにもとづく生活 教育については、 いくたの長所と進歩性とをみとめなければ ならない。 しかし同時にその限界と反動性をもみのがすことはできない。 生命哲学ないし生命教育 学の存在理由は、 現代女化と古い教育学の批判にある。 生命哲学は現代の機械文明、 理性主義、 自 然科学主義にたいして批判的であり、 生命教育学は形式的な注入主義の教育に批判的である。 リッ トによれば、 現 代人は、 現実界にせよ、 理性にせよ、 それらが有する硬直形式になやんでいる。 生 s 命 哲学 者に して 実 存 主 義 者 で あ る ヤ ス パ ー ス(K,Jasper ,1883-)は、 現 代 は 自 然科 学 的 法 則 に た. つ産業、 経済、 技術な どによる機械化的、 合理的、 平均的、 画一的な現存秩序 の身うごきのできな い精神状況にあること、 人間は目的 や意 味ではなく、 たんなる手段 となりきってしまおうとしてい 2 1 ) る こ と、 一 言 に して い う な ら ば、 現 代 は 人 間 存 在 そ の も の の 危機 であ る こ と を 指 摘 して い る 。 さ. ればこそ、 生命教育学にとっては、 合理論や機 械論、 宿命論を排し、 反主知主義的な意志ならびに 感情を中心とする衝迫、 生命の躍動によってアポリアを解決しようとするものである。 画一的な教 育をうけ、 直親のともなわない空疎な概念をつめこまれて生命生活生命教育学は、 要 するに、 れて ここに 生気自主性を失 いつつある青少年をして、 自由な自己創造者 たらしめようとするのである。 、 生命教育学の魅力 と、 古い教育にたいす る進歩性とがある。 ディルタイ は、 人間を「体験・表現・理解」 によって解釈し、 また人間の生命(生活)を人間主体の 精神構造としてとらえようとする。 かれの立場の根本は 「生を生そのものから理解する」 ことであ るで。 すなわちかれは、 生を生いがいのものから遮断しているのであって、 結局は主観的・観念的 あることをまぬかれない。 かれも客観的世界を説かぬではない。 しかし、 かれの客観的精神は 「生 の外化」 にほかならない。 かれの外界は、 いわばガラス戸ごしにみる外界にす ぎない。 人間の精神 生活といえ ども、 生理的にまた社会的・歴史的に制約されているのであって、 生を生いがいの世界 s) を き わ め て 重 視 か ら遮 断 し放 しで は、 そ の 本質 を と ら え る こ と は で き ない。 か れ は体 験 (Lebni. するが、 外界から遮断された体験はあくまで主観的であり、 「生を生そのものから理解する」 とい うことも、 結局は観念の空転にほかならない。 ここに生命哲学ない し生命教育学の限界があるo 生命哲学者たちによれば、 人々は生命によって意識の独立を表象することができるであろう。 か れらは意識の独立のなかに、 その自由な絶対的な活動のなかに、 生きた生命を感得するであろう 。 . けれども それは 世界が ある かれらにとっては、 生命こそ存在であり、 意識こそ存在だからで 、 、 。 どうあるうと、 他人が どうあるうと、 自分が生きているという意識に疑いはありえないということ になりかねない。 個体的生命の独立的存在の確認は、 現代女明と古い型の教育にたいする批判とし て重要 な意義をもっとしても、 生命は個人的なものとして体験され、 理解されることにつきるもの ではない。 生命・生活を社会的歴史的にとらえることをせぬところに、 生命哲学ないし生命教育学 - 4 -.
(6) . 生活教育の基本問題 の反動性があった。 事実、 生命哲学は、 ファシズムとむすび、 軍国主義の下僕たる の任務をおぅに い たっ た こと も否 定 で きな い。. 古い型の教育に対立し、 それの克服と して登場してきた生命教育学、 それにもとづく広汎な生活 教育の諸運動は、 明らかに進歩的なものであった。 しかし、 それは内外の教育史が示すように み 、 ずからのうちに限界と反動性をふくんでいた。 かく して、 われわれは生活教育の前進のために 過 、 去のあやまりをくりかえすことなく、 真実の生活教育をうちたてるために、 「生活」 とはなにかを 問わなければならない。 われわれは現に生活 し、 日々に生活を直接的に体験しているために 「生 、 活」 を ごく 安 易に考 え、 わ か り き っ た 事 実 と して 問 う こ と を お こ た っ て い る よ う に お も わ れ る わ 。. れわれの生活がいま現にどのようにあり、 またそれがなにによって規制されているか そして 教 、 、 育 に お け る 生 活 と は な ん で あ る の か を 吟 味す る の で な け れ ば な ら な い 。. こ の ことをおこたるなら. ば、 いうところの生活教育の実践を正 しく方向づけることもできないであろう 。 3. 経験主義と生活教育. こんにち、 日本に支配的である生活教育論の多くは、 戦前の生命教育学にもとづくものではな く、 アメ リ カ の経 験主 義 教 育論 にそ の 理 論 的 根 拠 を も と め て い る アメ リ カに お い て も っ と も 支配 。 的な哲学はプラ グマ ティズ ム(Pragmat i i sm) で あ り、 そ れ は バ ー ス(Pe rce ,1889一1914) に は じま り、 ジェ←ム ズ (W,James 1 2 1 8 4 1 0 9 一 ) に よ っ て 普 及 さ れ、 デ ュ ーイ (J , , Dewey ,1859一1952). によって大成された。 プラグマティズムは、 哲学上の一般的特徴からいえば 「生命哲学」 の一種で ある。 プラグマティズムは合理論と対立する古い経験論 ではなく むしろ主知的合理論と実証的経 、 験論との対立を止揚しようとする。 経験論が受動的・機械的であるのにたいして プラグマテ ズ ィ 、 ive) ムは能動的 (act c) で あ る。 経 験 論 が合 理 論 と 同 様 主 知 的 で あ る の に た い し 、 有 機 的 (organi て、 プ ラスマ ティズ ム は 行 動 的 (behabi l ora ) で あ ろ う と す る。 ま た経 験 論 が 合 理 論 と お な じく 心. 身の二元論にたつのに反して、 プラグマティズムは心身の統一観にたとうと している 経験論.合 。 理論のいずれの立場をも排して、 心身一元の生命観にたつところは 先にのべた生命哲学と軌を- 、 に して い る。 こ の よ う な プラ グマ ティズ ム の 哲学 は 「新 しい 経 験 主 義」 と よ ばれ て い る・ 3 )。 アメ リカに おけ る 生活 教 育 の 思 想 は デ コ ←イ に よっ て 代 表 さ れ る。 デ ュ ーイ に よ れ ば 、 「生の あ. るところには、 つねに行動があり、 活動がある。 生が存続するためには 、 その活動は環境と連続 し、 かつ 環 境 へ適 応 しな け れ ば な ら な い。 しか の みな ら ず こ の 適 応 的 調 整 と い う こ と は ま っ た 、 、. く受動的であるのではない。 すなわち有機体が環境によって ただ型に入れられるというだけのこ 、 とではない1 ) 4 。 要するに、 生とは環境と個体との受動・能動の交互活動であり、 環境への働きかけ l f s e ★ r ) の過程・ enewi ng による自己更新 ( 5 )である。 たえざる生の自己更新 すなわち連続的な成長 の過程が、 教育の過程であり、 教育の過程は、 生の成長過程の各段階において 成長力を増加させ 、 ることを目的とする。 生の成長の各段階において、 成長力を増加させるとは 意味ある経験をあた 、 え、 これを再構成ないし再組織 してやることを意味する1 6 ) 。・デュ←イが、 教育を 「経験の連続的改. 造 continuous reconstruction of experience)」. と い っ て いる のも、 こ の 意 味 に ほ か な ら な い 。 経 験 を あ た えてや る』 と い う こ と は 生活 さ せ る こ と であ り デ ュ ーイ の 場 合 経 験 即 生活 な の であ 、 、. る。 かれは「経験の・経験による・経験のための教育「 1 7 )を力説しているが、 われわれはこれを 「生 活 教育」 と解 して も、 ま ち が い では あ る ま い。. プコーイは「学校と社会』のなかで、 暗記と試験による受動的な学習の場であった学校を、 ( 1 )児 童の活動的な社会生活がいとなまれる小社会にしなければならない、 ( 2 ) 学校は現代の社会生活 の必要と進歩とを反映する小社会でなければならない、 ( 3 ) 学校と周囲の社会との間には、 活発 - 5 -.
(7) . 船. 山. 謙. 次. な相互作用がおこなわれねばならない、 ことを説く。 そのために、 学校は、 人間のもっとも根源的 な社会活動である生産資料獲得の方法を中心に現在の社会生活を理解させること、 すべての児童の 活動はその欲求を無理なく自然に発展させてやらねばならないこと、 さらに、 芸術的活動は他の活 動を純化し、理想化するものであるから、学校での諸活動は芸術的活動と切りはなすべきではないこ が説く。 古い学校教育が概して貴族的 ・教養的であったのにたいし、 新しい学校は、 周囲の社会と の間に密接な関係をむすぶべきこと、 児童はたんに知識をおぼえるよりも、 生活をとおして学ぶべ きであることを説くのが、 デューイ の特色である。 これが、 デューイの基本的な学校観、 教育方法 観である。 プューイ は、 同書のなかで、 児童教育が児童の態度を受動的・機械的・一律的にし、 また教育課 程や教育方法も画 一的であることを指摘したあとで、 「学校においては、 児童の生活がす べてを支 配する目的となる。 児童の成長を促進するあらゆる媒介物がそこに集中される学習は どうなるか? たしかに学習はおこなわれる。 しかし生活することが第一で あって、 学習は生活することをとおし て、 また生活することの関連においておこなわれるのである。」とのべている。 これは 「上からの注 ine)、 ipl sc e nal di ext i i t on from above)、 外 か ら の訓 練 ( 入 (impos. 教 科 書 と教 師 か ら す る 学. i i t s on )、 ドリル に よ る 孤 立 した 技 能 ・ 技 術 の 獲 得 (aqui l 習 ( earning from texts and teachers i t i l l on )、多少 に か か わ ら ず 遠 い将 来 へ の 準 備 (prepara l l l s and techniques by dr ofi so ated ski 1 8 ) l i d i i t ) t t ms a n s e r a ma a c 教 材 ( 」 を主 sa for a more or iess remote future)、 固 定 した 目 的 と. とした、 型にはまつ伝統的な学校教育、中世的な、学問の概念に支配 されていた学校教育、 児童の内 面から発する生命力をおし殺すような学校教育への挑戦としての 「生活教育」 の提唱の言葉であっ た。 そ してそれは、 教育史上まことに重大な意味をもつものであった。 しかし、 生活を第一とし学習を第二とするデコ ーイの 「生活」 とはなにか。 かれは成人の世界に i i on) を と りい れ る べ き こ と t ve occupat ac おける職業および仕事に着目 L、 学校に活 動的作業 ( を力説する。 その作業とは個人的 責任を要求し、 かつ生活の物質的現実との関連において児童を訓 練するところの諾々のく社会的・生産的な>作業なのである。 その作業は、 「社会の生活活動であ る衣食住」 を中心に、 それと関連ある生産・消費・交換な どを主とする作業と考えられている。 具 体的にいえば、 学校は 「木工・金工・編物・裁縫・料理などをふくむ手工、 工作室作業・家庭技 9 )を教授す べきだというのである。 作業が学校教育にとりあげられる意義はなんであろうか。 芸」1 まず第一の意義は、 諸 作 業こそが社 会を維持存続させる諾々の過程の典型であるという点に存す る。 デュ←イによれば、作業には「社会生活 の第一義的な必要条件のいくつかを児童に納得させる機 縁として、 およびそれらの必要が人間のしだいに成長する洞察と工夫とによって充たされてきた道 0 ) 程2 」 として、 教育的意義がある。 だからである。 第二の意義は、 作業の過程において、 秩序や勤 勉の習慣、 責任や義務 の観念、 社会的協力の精神がやしなわれるということにある。 作業は、 かく てデューイ によれば、 社会生活た児童の社会生活に必要な諸力力および洞察力、 社会生活の倫理観 念を発達させることのできるものであり、 その目的のためにかれは作業の基本的条件を児童に熟知 させ、 また生活教育の中心として学校にとりいれるのである。 ここから、 学校を生きた社会生活の 純粋の形とする、 というデュトイの教育思想がうまれてくる。 中世的,スコラ的な学問のつめこ みの場となっていた学校教育にたいするデュ←イの批判、 それ に、 社会生活の基本である生産的な活動としての 「作業」 を学校教育のなかに導入 した創意は、 た しかに卓見である。 しかし、 それにもかかわらず、 学校において「児童の生活がす べてを支配 する」 という生活至上的 教育観には、 にわかに賛同しがたいものがある。 デューイは、 生活教 育 に お い て、 「児童はいかにして必要な知識を 修得するのか、 いかにして必要な訓練を受けるのか」 という - 6 「.
(8) . 生活 教育の基本問題 疑問は、 「生活の正常の過程と知識や訓練の修得とは両立しえないもののように思われるところか 1 )も のと して いる。 教 育 に お い て、 生 活 と 知識と は 両 立す る と は い っ ても デ ュ ーイ の ら生 ず る」 2 、. 立場は 「学校は児童が実際に生活をする場所であり、 児童がそれをたのしみとし、 またそれ自体の 2 )の で あっ て どこ ま で も た めの意 義 を みい だす よ う な 生 活 体 験 を あ た え る こ と が 最 も 望ま しい」 2 、. 生活第一主義である。 しかも生活教育において、 「われわれがわれわれ自身を児童の真の本能およ び要求に一致せしめ、 その完全な実現と成長とをただひたすらにもとめるならば、 成人生活の訓練 3 )と、 しごく楽観的である。 と知識と教養とはことごとくその然るべき時期に到来するであろう」2 この見解にしたがえば、 教育という仕事を、 子 どもたちの真の本能と要求に一致させ、 その完全 な 実現と成長とに努力するならば、 生活と知識とは両立するということになる。 ここで、われわれは二つの問題に当面せざるをえない。その第一は、 デュ←イの生活とはなにかと いう こと である。デ ュ ーイ の 哲学 は、多 く の 人 に 指 摘 さ れ て い る よ う に、ダー ウィニ ズ ム(Darwini sm) の影 響 をつよ く う け て い る。. デ ュ ーイ は ダー ウィン (C. Darwin ,1809一1882) の 生 物 進 化 の 思 想. を、 人間にかんする未来の諸事象に転換 して、 人間や社会の進化思想・発展観をいだいたが、 同時 に人間の生命を生物的生命の類推のもとに考察した。 もちろん、 人間の生命を生物の生命と同一視 す る こ と は しなかっ た が、それ に して も 人 間 の 本 能 を 重視 す る と こ ろ な どは ダ ー ウィン の 思想 の 影 、. 響によるもの大ではないかとおもわれる。 さきの 「われわれ自身を児童の真の本能および要求に一 致せしめ、 その完全な実現と成長とをただひたすらにもとめる……」 という教育思想は、 児童の生 活を本能の立場からみるものである。 教育において児童の本能や要求を無視ないし軽視することは あやまりであるが、 それにしても問題はのこる。 第二の問題は、 生活と知識の両立の問題である。 学校教育の中心は、 デュ←イにあっては 「作業」 である。 教育における生活=経験とは、 一定の実 際的な作業の束を意味する。 知識は、 かれによれば、 これらの作業を合目的的に遂行するために必 要なかぎりにおいてのみ、 組織化され学習される。 極言すれば知識は、 「作業」 のお相伴であるか 召使いであるにすぎない。 それゆえ、「生活と知識の両立」 とはいっても、 実は知識の軽視である。 知識の軽視は、 体系 的知識を軽視し理論を軽視する。 このことを端的に示すのが、 かれ の後継者に よ る プ ロ ジェク ト・メ ソッ ド ( project me thod ) の提唱であった。 過去の伝統的教育が超克され るべきであることに異論はないが、 それだからといって、 学校は 「生活することが第一であって、 学 習 は 生 活 す る こ と を とお して、 ま た 生 活 す る こ と の関 連 に お い て 行 わ れ る」 と い う の は正 しく あ. るまい。 なぜなら、 「学習」 こそが学校の存する第一義だからである。 日本の生活教育論者である梅根悟は、 194 9年の著 『新教育と社会科』 のなかで、 「生活 学校とい うことは、 学校が学校でなくなること、 在来の学校とは全く性格のちがったものに生まれ変ること を意味している……」 と論じたことがある。 生活至上主義、 生活即教育の思想をおしつ め て い け ば、 学 校 否 定 論 と な る。 1930年 代 に お い て、 ア メ リ カの デ ュ ←イ や キ ル パ ト リ ッ ク (Ki lpat i r ck , 1871-) の 教 育 思想 の 影 響を う け た ソ ヴェ トの 児 童 学 者 シ ュ ル ギソ や クル ペ ニ ナ な ど が 「 教 を 育 、. )をとなえて、 批判されたことがある 「生 4 社会環境からの影 響の総和に解消」 して「学校死滅論」2 。 活が教育する」 という生活至上の教育理論を 徹底化するならば、 教授を否定し、 学校を否定する思 想にみちびかれるのは当然である。 しかし、 学校における生活教育とは、 「自然の生活のなかで教 育する」 ことを意味するものではない。 生活と知識とを対立と統一の両面から、 すなわち生活の知 識化、 知識の生活化の両面からとらえるべきで、 一方のみを強調することは真実ではない。 デュ ー イの生活教育論は、 かれ一流の考えかたから、 学校環境の単純化・理想化を説くものであって、 学 校を否定するものでもなければ、 学校は死滅すべきものだなどと論じてもいない。 しかし、 その生 活至上主義の教育観は、 生活 (自然的形成) と知識 (意 図的教授) との関係を、 たんに同一と連続.
(9) . 船. 山. 謙. 次. の面 か らの み と ら え、対 立 と 矛 盾 の 面 か ら と ら え よ う と し な い。 そ れ ゆ え に、デ ュ ←イ の 教 育論 に は、. 学校否定もしくは学校死滅 へみちびく 契機があるとしなければならない。 プユーイは、 さらに、 学校の任務ないし機能は、 学校を、 子どもたちに、 現実社会の事相を単純 化し、 秩序化し、 ・理想化し、 現実の社会生活よりはいっそうよく調和のとれた環境として提供する ことにある、 とのべている。 学校はとく べつに教育的に配慮された生活 の場、 もっとも理想化され た小社会でなければならぬ、 というのである。 この見解も、. 基本的には正当であると考えられる が、 この場合にも疑問がのこる。 もし、 単純化され、 秩序化され、 理想化された学校社会というも のが、 複雑でしかも対立と矛盾の存する現実社会から抽象きれた温室的な社会環境としての学校を 意味するならば、 デューイの生活教育論は、 実は生活教育ではなく、生活捨象の、もしくは生活擬似 の教育を説くものといってよい。 事実、 学校は現実の社会生活をそのまま反映することもできない し、 そうすることがつねに望ま しいとはかぎらない。 けれども、 学校が、 たんに単純化され、 秩序 化され、 理想化された場であるならば、 それは現実生活から抽象された、 もしく は遊離した場とな ってしまうであろう。 もし、 そうだとすれば、 学校は生活教育の場ではない。 学校には、 現実生活 にそく しながら、 しかも 生活 から離れる面がなければならない。 学校は、 たんに理想化され、 純化 され、 秩序 づけられた環境がよいのではなく、 より現実的でなければならない。 より現実的であれ ということは、 学校が複雑多岐な社会の諸事象そのままの反映でなければならぬということではな ない。 教育の必要に応じて、 社会生活の典型的な事象が学校にもちこまれるということ、(そのよう 教育内容が選定されるということ、 そのような環境が購成されるということである。 現実的とは、 そのなかに子どもたちを真の生活者にまで育成する契機をふくむこと、 その意味で真に理想的だと いうことである。 理想の契機をふくまぬ現実は真の現実ではない。 この意味では、 教育における真 のリアリズム (それは理想・生きた浪漫をふくむ) の確立こそが生活教育への道である。 かく して こそ、 生活を変革し前進・ させる新 しい知性と行 動の人間を育成することができる。 デユーイの学校 理 想化 論 は、 か な ら ず しも い ま の べた よ う な リ ア リ ズ ム 教 育 に 立 脚 し て い る も の で は な い。 i on) を す え、 そ の 社 会 的 意 義 に つ い て、 「作 プ ュ ーイ は、 学 校 教 育 の 中 心 に 「作 業」 (occupat. 業は社会的事態の典 型を再現するものであり、 社会生活の基本的諸条件を子供に親しく知らせるも のでなければならない。 その典型的な基本的条件としては と消費. 衣食住と家政. ならびに. 生産と交換. 5 2 ′と い う。 こ れ は 人 間 生 活 に お け る 基 本 的 な も の を 経 済 に も と め て い る の で あ が あ る。」 、. って、 卓見である。 また人間の生活活動の基本として 「職業」 と 「仕事」 とをあげ、 これを学習活 動の中心にすえたのもよい。 しかし、 経済的活動としての職業や仕事を、 社会のしくみのなかにし っかりと位置づけたものとはおもわれない。 デュ←イ は経済活動の重要性を説く が、 それは主とし i ladjustment) の 観 点 か ら で あ る。 そ れ ゆ え に、 て個人の生命の維持、 あるいは社会適応 ( s oc a プュ ーイは、 経済活動、 職業・仕事の問題を、 ややもすると個人的な倫理 や生活技術として考え る inct ins impul t ) と か衝 動 ( ) の面 に 還 元 して しま う。 こ ん にち の経 済 活 se かあ る い は人 間 の 本能 ( 動が社会的にどのような意 味をになっているのか、 学校における 「作業」 教育が、 社会的にどのよ. うな意味をもち、 また役割をはたすものであるかについての検討は十分でない。 資本主義社会が提 出 している問題を、 かれはただ人間の本能とか、 個人の倫理として考えているかのようである。 プューイはいう。 労働者が機械の附属物になっているのは、 「一部分は機械そのものの、 または 機械の生産物に重きをおく制度に帰因する」 が、 「その大部分はたしかに労働者が自分の仕事のな かにみいだされる社会的ならびに科学的価値に関してみずからの想像力とみずからの共 感的洞察力 とを発達させるべき機会をもつことがなかった」 からであり、 「産業組織の基底に横わっている諾 6 )からである。 労働者 々の衝動は、 学校時代に事実上無視されているか、 または歪曲されている」2 - 8 -.
(10) . 生活教育の基本問題 が機械の奴隷となっているのは、 資本主義の社会の しく みによるのではなく、 デューイによれば教 育のまずさによるものと観念されている。 労働者の仕事のなかにみいだされる 「社会的ならびに科 学的価値」 とは、 協力とか責任、 義務などの倫理的価値、 ならびに機械 操作の上手・下手というよ うな技術的価値という意味であって、 デューイによれば、 労働者が機械か附属物となっていること は、 資本主義の社会機構がもたらす矛盾のあらわれであるとは考えられていない。 現代の経済的な 禍い、 すなわち 「労働者が機械の附属 物」 となったのは、 「構成および製作の諸本能が児童期およ 2)と考えられている 資本主義の矛盾のあらわれ び青年期においてよく訓練されなかったからだ」 、? 。 ・ない。 生活活動の基本であるとした を、 たんに一方的に教育の不足にみとめる考えかたは、 正しく 経済や生産の問題 が、 たんに個人の本能や技能、 また個人の精神や倫理の問題に還元されてしまう のは、 どうしたためであろうか。 ともかく、 われわれは、 かれの 「作業」 を中心とする生活教育論 が、 ア メ リ カ資 本主 義 の 発 達 と無 関 係 で は な い 趣 を 知 る こ と が で き る。 i l i ence) に つ い て 語 る こ と しば しば で ある が、 「生 活」 ( f ブ ュ ーイ は 「経 験」 (exper e) そ の も. のについては多くを語らないが。 しかし、 かれにとっては生活即経験なのである。 ところで かれ 、 i は 『民主 主 義 と教 育』 (Democracy and Educat on) に お い て、 生 活 を 「慣 習 ・ 制 度 ・ 信 仰 . 成. 功・娯楽・職業などを包括するもの」 と定義している。 もしも 「生活」 の概念が、 これにっ失敗・ きているものとすれば、 生活とはいろいろの機能の総体にすぎないものとなる。 事実かれは生活と は、 個人あるいは種族としての経験の総体であるといっている。 その経験とは、 「有機体すなわち 8 2 i i 個 体 と環 境 と の、 受 動 と 能 動 と の 交 互 作 用 ( t on)- erac ′で あ り、 こ れ が す な わち 生 活 で あ る。 nt 1 生 活 と は、 人 間 が そ の 環 境 に た い す る 受 動 と能 動 と の 活 動 を と お して、 自 己 の 生を 更 新(renewing). する過程であり、 教育とは、この経験をたえず再構成または再組織すること、言葉をかえていえば、 i inous r t on) の こ と と さ れ る。 こ れ だ け で は、 生 活 の た ん な る 経 験 の連 続 的改 造 (cont econs ruct. 形式的原理が提示されるだけ、 構成の契機が示されたにすぎない。 しかもこのような経験観、 した がって生活観は、ダーウィンの進化論の影響をうけて成ったもので、 一般に個人本位に偏している。 プューイは、 経験の社会性を説かぬでもなく、 また教育とは 「もっとも広い意味で、 その生命を社 会的に持続する手段である」 ともいうのであるが、 その経験は本質的に社会的なものとされるより は、 個人的なものとして把握される傾向がつよい。 とにかく、 生活や経験を、 このうえなく 重視す る事実は否定できないが、 歴史的現実における 「生活」 の具体的規定は、 デューイならびにその 後 継者たちによっても明確にされてはいない。 経 験 主 義に お け る 「生 活」 概 念 を みる た め に、 あげ て みる。. カ リ キ ュ ラ ム構 成 の ス コ ー プ (Scope) 諭 を と り 戦 後 の 日 本 に もっ と も 大 き な 影 響を お よ ぼ した ヴァー ジ ニ ア ・ プ ラ ン (1934) の 「社. i i 1 j ) をみると、 ( 会生活領域」 (Ma o r areas of sociall ) 生命財産および資源の保護保全、 ng v 3 4 5 6 2 ) 消費、 ( ) 通信運輸、 ( ) 物の生産や利益の分配、 ( ) 娯楽、 ( ) 美 的 欲 求 の 表 現、 ( 8 9 10 11 7 ) 教育、 ( ) 自由の拡大、 ( ) 個人の統合、 ( ) 開拓、 をあげ ) 宗教的欲求の表現、 ( ( 9 ) て い る2 。 これ は 社 会 生 活 の 領 域 を、. ia lfunc i 主 と して 社 会機 能 (soc t ons) に分 節 した も の で、. 他のカリキュラム学者や地域教育のプランの場合にも共通の事実である。 これによってみると、 か れらのいう人間生活とは社会諸機能の並列的なよせあっめだという観がある。 生活を社会諸機能に 分化してみることも大切であるが、 分化と同時に統一の面をもみなければならないし、 また現在を 歴史的にみることも必要である。 社会諸機能を無原理・無原則的に並列し、 現象的に人間生活をと らえるやり方は真実の人間生活をとらえたものとはいえない。 こうした安易な、 一方的な理解のし かたが、 経験主義的 生活教育者の通弊となっている。 1 ) 生命の維持・生きること、 日本においても、 梅根悟は、 かつて生活教育を説き、 生活とは (.
(11) . 船. 山. 謙. 次. 2 4 3 ) 社会的活動・愛することの組合せ だ とのベ、 ( ) 娯楽・遊ぶこと、 ( ) 勤労・働くこと、 ( 生活教育とは子どもたちに、 社会を観て (観察) 、 手伝う (協力) ようにすること 、 まねて (模倣) 0 ) こ の 思 想 の根 本む だと いっ た こ と が あ る3 こぁ る も の も、 や は り 社 会 機 能 主 義 だ と い わ ね ば な ら な 。. い。 生活、 子どもの生活を、 生活の深層からとらえることをせず、 歴史的・社会的現実からそれを 切りはなして、 学校を成人社会のたんなるまねごと的 生活の場とするならば、 真の意味での児童尊 重の教育とはいえない。 学校が成人社会のたんなるまねごとの場となったり、 教育がたんに成人社 会への適応の助成作用におわってしまうならば、 それはもはや生活教育の名に値しないであろう。 プュ←イによって代表される経験主義教育は、 個人の幸福の増進も社会の進歩も無限に可能であ ると信じられたアメリカ資本主義社会の産物であった。 デュ ーイは、 1 9 46年に論文 集「人々の問題』 (Probl ems of Men ) をだし、 そのなかで教育の社会改造への参加を説いている。 ブューイの哲 学は、 初期 から社会への関心を示しているが、 晩年になるにつれて社会改造の意図をする どく して いる。 しかし、 たとえ社会の改造を説くとはいえ、 かれの哲学の中核は 「個人の経験」 にある。 デ ューイにとって、 社会改造の方向は、 外的な政治にではなく、 個々人の内的な心的 傾向の改造にも とめられている。 すなわち個人の改造による社会改造ということが、 デューイの社会哲学である。 個人の改造・心的傾向の改造は、 すべて教育にもとめられる。 デューイの生活教育観が、 社会的で ある よ う に みえ て も、 本 質 的 に は 個 人 的 で あ る こ と の 理 由 は こ こ に あ る。 個 人 的 で あ る と 同 時 に 社. 会的、 社会的であると同時に個人的であるということこそが、 生活の論理であるべきはずなのに、 プューイの生活教育論にその趣をみいだすことは困難である。 経験主義の教育原理にもとづく教育 運 動の発展が、 日本において戦前につねに限界をもっていたのも、 戦後、 また日本の国土にしっか りと根 を おろす こ と が でき な い の も、 日 本 の 社 会 が ア メ リ カ の 社 会 と 異 な る も の で あ る と と も に、. 生活教育のもつ論理の弱さにあるといってよい。 4. 生活 教育と 「生活」 概念. 人間の生活はたんなる 「生存」 につきるものではない。 た しかに人間には、 生物一般に共通の自 然的・生物的 「生存」 の一面がある。 しかし同時に人間には他の生物一般と明らかに区別される 一 面がある。 すなわち人間は、 文化的・理性的 であることによって、 たんなる生物ではなく 「人間」 なのである。 「生存」 は生物的な概念であるが、 「生活」 は人間についてだけいえることである。 「生 活」 と い う 語 は、 「昆 虫 の 生 活」 な どと い う よ う に、 と き に は 人 問 い が い の 生 物 に も 用 い ら れ. ることはあるが、 それはけっして厳密な用語ではない。 生活とは文化的・理性的な人間の営みなの であって、 生物の世界にはない。 とこ ろ で、 わ れ わ れ は 教 育 に お け る 「生 活」 概 念 を、 どの よ う に 把 握 した ら よ い で あ ろ う か。 ま. えにみてきたように、 経験主義教育論者の多くは、 「生活」 を社会機能法によってとらえている。 生活は、 しかしたんなる社会諸機能のよせあっめではない。 生活とは、 人間の 「営み」 として構造 をもっているとみるべきではないのか。 人間と他の生物とを区別するものが、 人間における女化 的・理性的側面であるといった。 しか し人間が女化的・理性的であるのは、 人間が 「物をつくる」 能 力 を も ち え て い る か ら で あ る。 物 を つく り え な い も の な ら ば、 人 間 は け っ して 女 化 的 ・理 性 的 と . は な りえ な かっ た で あ ろ う。 そ こ で、 端 的 に 人 間 の 「生 活」 は 「物 を つく る」 と い う 生 産 も しく は ジ ラ イ動を 基底 ま た は 基 軸 と して 展 開 さ れ て い る と い っ て よ い。 人 間 は 生 産 ・労 働 に よ っ て の み 「生. テ ィ動をはなれては、 人間の 生活は成立 しない。 実 存」 も 「生活」 も可能なのである。 生産もしくはジ に生産と労働とは、 あらゆる人間生活の根本条件、 基礎条件であり、 人間の生活とその歴史をつく ってきたもとなのである。 生産や労働を経済活動とよ ぶならば、 人間の生活とは、 経済活 動を基底.
(12) . 生活教育の基本問題 とする構造体だといわオ ば な ら な い。 経験主義者は、 ややもすると 「生活」 を、 生産・消費・政治・通信・運輸・娯楽・芸術・学問・ 宗教・教育等々に分節し、 それを並行させて考えている。 生活に中心がみいだされていない。 かれ らは経済活動を生活の中心とする考えは唯物的立場であると批難し、 生活の中心は精神的価値にあ るというかもしれない。 生産・労働は経済的活動として、 社会機能したがって生活機能のひとつで あ るこ と は事 実 であ る。 しか し、 公 正 に み る な ら ば、 経 済 と い う機 能 は けっ して 他 の 機 能 と 同 列 ・. 同層ではない。 宮原誠一は、 教育という機能を論じたさい、 教育の機能 は 「社会の他の 基 本 的 な 機能と並行するひとつの機能ではなくて、 社会の基本的の諸機能の再分肢にほかならない」3 1 )との べている。 いま教育の機能を論ずることはしないが たいせつなのは 社会の機能したがって生活 、 、 の機能には、 より根本的なものと分肢的なものとがあるということである 社会諸機能は並行的で 。 はなくて構造的である。 生活 を分節すれば、 経験主義者の指摘するように 生活は諸機能の集合体 、 であるともみられる。 しかしそれぞれの機能は同列・同層にあるのではなく、 根底に 生活を究極 、 的に規定する生産・労働がある。 生活とは、 生産・労 働を基底とする構造体・建築体なのである 。 総じて経済活動は、 人間生活の 「営み」 において、 その物質的諸条件を不断に確保していくための 再生産活動であり、 それは人間生活の諸面のなかで基底的な意味をもつものであることは疑いをゆ るさない。 それだけでなく、 経済活動は、 人間生活の他の諸面、 すなわち精神的文化的な譜面をも 根本的に規制するものである。 しかも、 その経済的諸活動は単独に営まれるものではなく 一定の 、 生産関係・経済関係のもとで営まれる。 家庭経済などといわれるものも けっして狭い範囲の家庭 、 内においてのみ営まれているものではない。 経済活動はもともと社会的である。 社会的なのは. し 、 かし経済的諸活動にかぎらず、 他の精神的・文化的諸活動もすべてそうである。 構造体としての生 活 そ のも の が社 会的 な の で あ る。 社 会 的 だ と い う こ とは し か し個 人 的 契 機 を ま っ たく ふく ま ぬ と 、 いう こ とを 意 味 し な い。 ディル タイ の い う 「生 命」 (Leben) や 、 デ ュ ーイ の い う 個 人 の 心 的 傾 向 とか 欲 望と い うよ う なも の を われ わ れ は ま っ たく み と め ぬ と い う の では な い 純 粋 に 個 人 的 なも 、 。. の、 純粋に社会的なものが存在しうるか どうかは別として 個々の人間の生活には個人的契機と社 、 会的契機とが同時にふくまれている。 しかも両者は、 ときに反擬対立したり ときに調 和統一され 、 て い る の である。. 生活は構造的なものだといった。 そしてそれは経済的なもの、 もしくは生産・労働を基底とする 構造体 であるといった。 そこで、 基底としての経済的なものと、 他の諸活動との関係いかん とい 、 うこ と が 問題 に な る が、 い ま は こ の 問 題 に はい らな い で おく。 生 活 が 構 造 的 だ と い う こ と は 経 済 、. を基底とする構造だということからだけでなく、 生活は時間的構造をもっているという面からも考 察されねばならない。 人間の生活ならびにその綜合である社会は、 けっして固定し停滞 していな 2 1たえず進動している。 ある時代の人間の生 い。 生活は 「限りない時間の連続の上に整序されて」3 活には、 過去と連続 しながら同時に断絶している面がある。 生活は連続と断絶の矛盾のなかに進動 し、現在のなかに未来の生活を萌芽させている 生活は時間の構造をもち 時間的を こすなわち歴史と 。 、 ともに古いものを否定しながら進歩発展してきている。 歴史発展の原動力がなんであるかは、 いま 問わないが、 現在の生活は、 歴史発展のひとゴマである。 したがって、 こんにちの人間の生活また は社会は、 歴史的には、 いずこから来っていずこに進むのかという洞察のなかにとらえられなけれ 3 ばな らな い。 この洞 察 の 底 には、 い わ ゆ る 歴 史発 展 の 法 則性3 )と い わ れ る も の が考 え ら れ る。 この. 法則性によって、 はじめて 「生活」 を確かにとらえ、 教育の方向を理解することができよう。 プューイをはじめ経験主義者の多くは、 社会したがって生活の改造を教育の任務と考えている。 しかしその改造の方向はなんであるのか。 経験主義者も社会の発展をみとめる。 しかしその発展観 - 11 -.
(13) . 船. 山. 謙. 次. は、 量的漸進主義ともいうべきものであって、 「量から質へ、 質から量へ」 の発展史観、 すなわち 弁証法的発展史観ではない。 したがって、 かれらによれば、 量の漸増が関心の対象となっているた めに、 いわゆる歴史発展の法則性はほとん ど考慮されない。 教育による社会改造を説くかれらが、 l adi i tment ) を 説 く の は、 os a よ りつ よ く 「社 会適 応」 (soc. か れ ら の 歴 史 観 と 密 接 な 関 連 が あ る。. かれらによれば、 すべての国民大衆の生活の更新を第一とするよ 現象 まず、 ひとりひとりの子ど も た ち を どのよ う に す れ ば、 社 会 の よ い 一 員 た ら しめ る こ と が で き る か、 と い う こ と が 教 育 の 中 心. 的な任務とされる。 普通児の社会不適応の根本的な原因は、 より多く環境としての社会の側にある と考えられるが、 社会適応論者の多くは、 適応の場としての社会 --それは歴史的社会である-- の構造や特質をあまり考慮しない。 かくして、 適応論者は、 教育によって社会や生活の不合理を排 除し、 よりよい生活を創造しうる人間を育成するというよりは、 現在の社会、 現在の生活によりよ る人間を育成するような結果におちいる傾向がある。 適応論が個人の解放を教育の目標 く適応でき, と す る の はよ い が、 こんをこち で は、 人 間 の解 放 は 個 人 と して よ りも、 集 団 と し て解 放 さ れ る と き に い たっ て い る と い う べ き で あ る。. 生活は時間的・歴史的であるだけではなく、 空間的・場所的である。 すなわち生活は、 その人の 帰属する空間あるいは場所によって規制される。 人間の生活が地域的・国家的・民族的性格をもつ のは、 そのためである。 しかし、 人間の生活は、 たんに風土によって規定されるというものではな 「のなかで 「この く、一定の場所における人間関 係によって規定される。小川太郎が、 『日本の子ども. ような歴史的構成体である社会において生活する子どもは、 同じ現代の子 どもであるといっても、 必ず しも一様な発達をするとは限らないと考えられる。 同じ大きな社会のなかでも、 あきらかに現 代の性格を強くもつ部分におか れている子 どもは、 現代の子どもとして発達をとげるであろうが、 歴史的に過去となったものが強く残存する部分で人となる子どもは、 どちらかといえば、 過去の時 3 4 」と の べ て い る。 こ れ は ま さ しく、 一 定 の場 所 に お け 代 の子 ども に 近 い 発 達 の道 を と る で あ ろ う。」. る人間関 係によって子どもの発達が規定されることを説いたものである。 国内における場所的規定 の問題だけではなく、 こんにちでは、 われわれの生活は、 とくにアジアの地域でいとなまれている ことの的確な認識が必要である。 この認識を欠く生活教育は、 かならずや民族独立の意識を喪失し た人間を育てあげる結果となるであろう。 これを 要 する に、 「物 を つ く る」 と い う こ と が 生 活 の 基 底 で あ り、 こ の 基 底 の う え に の みい ろ い. ろの文化的・理性的活動が開花する。 しかもその生活の様式は時間的に発展し、 空間的に規定され る。 森H 召が、 「社会制度は根本的には生産関係と、 それをもとにする政治によって規定されるので あって……この経済的・政治的機構が主な骨組みになって……全体的な生活連関のパタ←ソが成り 5 )と い っ て い る が、 ま さ に そ の と お り で あ る。 政 治 は、 経 済 の 延 長 で あ る と か、 あ るい 立 つ … …」 3. は、’経済の集中的表現であるとかいわれる。 生活を根本的に規定しているのは経済であるが、 それ と同じ程度に、 ときにはそれ以上に、 政治は生活を規制するものである。 宮原誠一が経済とならべ 6 ) て政治を社会の根本機能とした ことは3 、 ゆえなしとは しない。 生活を根本的に規定するもの、 そ れは生産関係すなわち経済と、 それを端的に反映する政治である。 成人の生活も子 どもの生活も、 ともに根本的には、 この両者によって規定されている。 このことを認識しない生活教育は、 その名 に 値 しな い も の で あ る。. 生活の原理問題 としては、 生活の根本規定の問題のほかに、 生活論理の問題がある。 とくに生活 教育にとっては、 社会と学校との関連、 生活の歴史性からくる現在主義教育か未来主義教育 (生活 準備か否か) かの問題、 生活の場所性からくる地域教育主義か国家教育主義かの問題、 生活過程の 面から考えられる綜合主義教育か分化 (教科) 主義教育かの問題 (これは 生活学習か系統学習かの - 12 -.
(14) . 生活教育の基本問題 問題 でもある) 7 ノ 、さらに実用主義か教養主義かの問題等々がある3 。 しかし、 これらの二律背反的問 題は、 たんに 「あれかこれか」 の問題として片 づけられるべきではあるまい 生活教育は生活の論 。 理のうえにたたねばならない。 論理といえば 形式論理と解されがちであるが 生活の論理は形式 、 、 論理的思惟によって割り切れるものではない 現在主義か未来主義かの問題を例にとっていえ ば、 。 生活そのものが、 歴史的現在として過去を背負い未来をはらんでいるもので 現在のなかには 未 、 、 来も過去も現在もふくまれている。 生活は現在的 であると同時に未来的である 現在は未来に対 立 。 するものではあるが、 同時に現在において 現在と未来とは統一されている現在的であると同時に 、 未来的であるのが、 生活そのものなのだから 教育もまた現在主義的であると同時に未来主義的で 、 あるという論理にしたがわなければならない その他の場合も同様に弁証法的性格をもつものとい 。 8 )。 う べ き であ る3. 生活の原理問題はそれとして、 こんむ こちのわれわれにとって重要なのは、 現在のわれわれの生活 がどうあるかということである。 われわれの生活は 前近代的なものと現在的なものとを混在さ 、 せ、 きび しい国際関係のもとで資本主 義のもたらす大きな矛盾に当面させられている 生活 教育の 。 課題は誠実に、 この困難と矛盾とに対決し、 しかも具体的で’ リアルな生活上の問題をとお して真実 の民主主義の社会と生活とを、 教育によって追求することである それは生きた事実 きびしい生 。 、 活の事実から、 日本社会の課題をとらえ、 未来の生活者がぜひもたねばならぬ生活や物の見かた 、 考えかた、 感じかた、 行いかたを指導することである 波多野完治氏は 「心理 学と教育」 のなかで 。 「日本の子 どもの精神発達」 を論じ、 「われわれが求めているのは 発達の法則が文化の相違によ 、 っ て どん なふ う に こと な っ て 自己 を 具 体 化 して い る かを しる こ と な の で あ る ち ょ う ど 古 代 的 社 。 、. 会から近代的資本主義社会への移行が、 ヨーロッパとアジアでは 同じ基本法則でありながら し 、 、 かも こと なっ て できて い る よ う に、 子 ども の 精 神 発 達 の 法 則も 気 候 風 土 そ の上 に さ い た 女 化 、 、 、. の特殊様相のために、 いろいろな日本的様相を出すだろう。 そのような女化の型と発達の具体的様 3 〕 」と の べ て い る が 子 ども の 生活 とい う も の を も こ 相 と の関 係 を われ われ は 知 り たい の であ る。」 、 、. のような具体的現実からとらえ、 そして教育すべきである。 教育は日本の社会と 子どもたちの生 、 活現実から遊離することなく、 しかもその現実や生活に埋没してしまうことなく、 人類が獲得集積 してきた知識と科学を実践に統一する新しいタイ プの、 全面的に発達 した人間の育成をめざすべき である。 これこそが 「生活による 生活のための教育」 の真実の意味である。 学校は理想化された小社会であるべきだなどといって、 たんに温室化すべきではない。 生活学習 などといって駅頭にたって乗降の客を調べさせるだけにおわったり、 あるいはマス, コミのもつ意 味を全然知らせることも しないで、 無意味に新聞社を見学させるべきではない たんに人為的な 。 、 しか も あま り意 味 の な い 「ごっ こ遊 び」 や、 「ま ま ごと 遊 び」 「しら べ も の」 を 、 、 児 童に興 味が あ るか らと いっ て、 や ら せ る こと も、 真 実 の 生 活 学 習 と は い え な い 児 童 の 興 味 を無 視 して よ い の で 。. はないが、 真の生活知とならないような、 遊び学習などはきびしく反省されてよい 「生活綴方教 。 育」 がこのような教育の方法をとらず、 リアルな生活の事実を出発点とし、 集団のなかに児童を解 放しながら、 真実の民主主義の生活をめざし、 子どもたちの生活認識をたかめ 生活者としての物 、 の見かた、 考えかた、 感じかた、 行いかたを指導 している点は、 生活教育の前進のために注目す べ 0 ) き こ とで ある4 。. 1 ) 山崎 博著 「新時代の郷土教育」 (明治図書、 昭和6年) 山下徳治 「生活教育の歴史と現状と に対する批判」 (雑誌 「教育」 - 13 -. 昭和12 ) .6.
(15) . 船. 山. 謙. 次. 1年) 「教育学事典・4」 平凡社、 昭和3 2) 梅根 悟 「生活教育」 ( 3) 同 上 9年) 4) ク ルー プ ス カ ブ・勝田昌二訳 「国民教育と民主主義」 (岩波書店、 昭和2 昭 7年 ) 「 明治図書 和 ( 新郷土教育原論 」 5) 入沢宗寿 、 6) 山下徳治同上. i dea l ldungs lussauf das Bi i t und ihre Bi . nf losoph ,1930 t t; Di e der Gegenwar 7) Th. Li e Phi 工 1 d V t S h i f B D t l e i h G c n l t r e t W ・ e c e s a m l l e 8) . ey; . . , .. 9) 10 ) 11) 12). 篠原肋市 「教育断想」 (宝女館、 昭和13年). idea l dungs l hr tundi e Bi n孔ussaufdas Bi l . Th ,1930 e der Gegenwar t 七; Di osoPhi e Phi ・ Li. 雑誌 「教育」 (昭和13年5月号) の座談会記事. i i i i i t r tuat K.JasPer on der ze e ge s s; Di ge s . ,1933. 杉谷雅女 「現代哲学と教育学」 (柳原書店、 昭和29年) i lempiricism と よ ん で い る。 Dewey の立場はさらにこ ca 13) l ame s ば自己の立場を根本的経験論 rad i れを発展 したもので実験的経験論などともいわれている。Dewey は自分の哲学を 実 験主 義 exper‐ i l menta sm と い つ て い る。 i losophy on in phi 1 4) J. Dewey; Reconstruct . ,1920 ‐ Dewey; Democracy and Educat i on,1916 1 5) j . to 16) di t i i on,1938 J ence and Educa「 . . Dewey ; Exper di t t o i ty e J . ,i899 . Dewey ; school and Soc. 1 7) 18) 19 ). 5年)〕 〔宮原誠一訳 「学校と社会」 (春秋社、 昭和2. i 20) d t to 21) di t t o 22) di t t o t t 23) di o. 5年) 24) 矢iH徳光 「ソ ヴェト教育学の展開」 (春秋社、 昭和2 i 1 9 9 ty 8 e 2 5) J. Dewey ; schooland soc . , 森 昭 「ジョ ソ・ デューイ」 (金子書房、 昭和26年) 26) J . Dewey; Schooland Society,i899. t t 27) di o ion i ence and Educat 28 ) J . ,1938 . Dewey; Exper l ive Cour ementaryschoo i rgini a E1 f B B d d orVi i i i S , t V se ofStudyf n t t 29 o e r o u c a oa ; Tentat rgna a ) 1934 .. 30) 1) 3 32) 33). 34) 3 5) 36 ) 37) 38) 39 ) 40). 梅根 悟 「新教育への道」 (誠女堂新光社、 昭和23年) 宮原誠一 「教育と社会」 (金子書房、 昭和24年) 大泉行雄 「経済生活の本質」 (同女館、 昭和26年) lは歴史を絶対精神の自己 歴史の発展は複雑であるが、 そのなかに法則性があると 主張される。 Hege i n lでは、 こ r× s 展開という形でこれを考察 したし、 まなあるものは歴史は 人権拡大の歴史とみる。 Ma れを生産力と生産 関係との対立矛盾とみている。 小川太郎 「日本の子 ども」 (金子書房、 昭和27年) 昭 「教育とは何か」 (熱明書房、 昭和26年) 森 宮原誠一・上掲書 桑原作次 「現代教育の基本問題」 (誠女堂新光社、 昭和28年) 同 上 波多野完治 「心理学と教育」 (牧書店、 昭和31年) ・氏らの日本生活教育連 盟 毎根憎 真実の生活教育をめざしているものは、 生活綴方教育だけではない。ヰ の理論と実践に学ぶ べきものが多い。. - 14 一.
(16)
関連したドキュメント
Hirakata BOE is looking for Native English Teachers (NETs) who can help to promote English education at junior high schools and elementary schools in Hirakata..
[r]
[r]
[ 特集 ] 金沢大学の新たな教育 02.
大正期の詩壇の一つの特色は,民衆詩派の活 躍にあった。福田正夫・白鳥省吾らの民衆詩派
[r]
小牧市教育委員会 豊明市教育委員会 岩倉市教育委員会 知多市教育委員会 安城市教育委員会 西尾市教育委員会 知立市教育委員会
「社会人基礎力」とは、 「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な 力」として、経済産業省が 2006