ビザンチンの皇帝
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(2) . ・ 第8 巻 第1号. 北海道学芸大学紀要 (第一部). ビ. ザ. ン 斎. チ. ン. 藤. 二. 昭和32年8月. 皇. の. 帝. 郎. 北海道学芸大学岩見沢分校史学研究室. i J ro SA工To : Der byzantinische Kaiser. (1) 西欧中世世界は二つの異質的なものとの対立のなかにこれを克服して西欧近世に移行した。 一つ はイスラムとの対決であり、 他の一つはビザンチンとの抗争である。 そして前者との対立関係は瞬 時にして解決せられたのであるが、 後者のそれは継続であった点で、 ビザソチ帝国の終減が東方 ト ルコによってなされたとはいえ、 同帝国の生命に非常に大きなか わりを持つものであった。 本来ローマ帝国の繁栄の物質的基礎は属州にあったのであるから、 征服戦争の終了とともに経済 in による遷都はこの事実の承 的 重 心 は東 方 の 属州 に 移 る こ と に な る の は 当 然 で あ った。 K0nstant. i5世紀における西ローマ帝国の滅亡はこの東ローマの優位をその 認をも意味するものであった。l 後の西欧諸国に対して保持する契機となり、 東ローマは一面においてローマの伝統を保持するとと もに、 他面その地理的、 政治的関係よりするオリエント的要素とを以て中世を通 じて独自の存在た る こ とを 得た。. ローマ帝国の故地の上にゲルマンという新しい要素を主体として形成された西欧諸国が文学、 美 術等におけるビザンチンの功績を充分認められながら、 なおビザンチンを異質的なもの、 対立的な も の、 しかも 鞭 しめ ら れ る べ き も の と して みた こ と は 当 然 で あ ろ う。 特 に ビザ ン チ ンの 政 治 に対 す. る批判は啓蒙思想家においてきびしかった。 Montesquieu によると-- 「ギリシャ帝国の歴史は 反乱、 ー擬、 不忠のかたまりであって、 国民が君主に忠誠をつくすという観念がなかったばかりで なく、 皇后の腹から生れてやがで皇位を嗣ぐもの porphyrog6nete と い う特 別 の 語 が あ る く ら い 皇 2 ) 統 を 嗣 ぐも の は 少な か っ た。 皇帝 に な る た め に は どん な 道 で も い い と され た。」 l nes a 1453 註 1 ・ enko: Hyzance ) Levtcl ,P .10 . . Desong .1949 i i i d rat 2) Mont ns er 版、 eu: Cons escaus es del a grandeur de s Roma on surl esqui ,1734 . (Garni 1 2 1 1954 ) .p . ,. (2) Mont euは、 以 上 のよ う な 忌 む べ き 内 容 の ビザ ン チ ン 史 が しかも1000年 も の 長 き に わ た っ て esqui 存 続 し得 た のは、 ビザ ンチ ンの 強 敵 た る ア ラ ヴ人 の 内 証、 「ギリ シア 火」 の 発 明及 び こ の 新 兵 器 の inope l における繁栄せる貿易 tant 秘密 を 保持 し得 た こ と、 K0ns 、 ドナウ地方に野蛮族が定着する. ようになって、 それが新たな侵入者に対する防壁の役割を果したこと等の外部的事情 に 帰し て い ) ビザンチンがその独自の存在を保ち得たについては、 外部的状勢も勿論であるが西欧世界と る。1 東方オリエント世界との中間に位して異質的なものを自己の中に育成したことによるものであるこ ) と も 考 えなけ れ ばな らな い。 そ れ が 何 で あ る か に つ い て Uspensky は 三つ の も の を あげ て い る。 2 一 91・一.
(3) . 斎. 藤. 二. 郎. 2 1政治的主権を求める国民の斗 1 --{ }ラテン語を完全に廃止 して次第に ギリシア語に変えたこと。{ の創 われわれは宗教その他いくつかのも 造。 争。 圏美術及び文学の 領域における新しい特殊なもの のをこれにつけ加えな ければならないと思うが、 それらのうちで最も重要なものは統治体制の問題 で あろう。. は政体について、 主権の存在と法との関係において共和政、 君主政、 専制政の三をあげ、 前二者に対 して後者は当然簾しめらるべきものとして描いている。 即ち専制政 体においては、 共和政における徳政、 君主政における名誉に比敵するものは恐怖であって、 そこで は徳性は不必要であり名誉はかえって有害であるとされる。 専制政体では人間は意欲す る被造物に 周知の如く. Montesquieu. ) 叉そこでは唯一人による統治という点では君主政と同じであるが、 君主 服従する被造物である。3 政とち がって法も規範もなく万事は自己の意志と気まぐれによって導かれわずかに宗教が法の一種 ) かくて専制政体は原理そのものが腐敗しているのであ の受託所の代用をなしているにすぎない。4 るからなにか偶発的な原因がその原理 .の腐敗を妨げてくれない限りその内面的欠陥のために滅びざ るを得ない。 専制政体が維持できるのは風土、 宗教、 位置、 人民の天性から導き出される若干の情 ) Mont ‐ es 勢 が この 政 体 を 或 る秩 序 に 従 い 或 る 規 則 に 服 す る こ と を 強 制 す る と き に 限 る と い う。5. の理想としたのは民主主義的共和国家であったのであるが、 当時の ancien regime におけ るフラ ンス君主制の専政制への堕落の傾向を防止しようとするところからイ ギリスの立憲 君主制を 現実的理想像と考えたのであった。6月皮のビザンチンに対する痛烈な誹議はこのような観点からな. quieu. されたもの であり、 結果的には ビザンチン国家は彼によって専制国家とみられたことを示すもので ある と い え よ う。. ビザンチン国家が専制国家であったか どうかということについては ビザンチンにおける皇帝の地 位をみなければならない。 i tka ser の存在である。 即ち2人以上の皇帝一時に ビザンチ ンにおける帝制 の特色の一つは Mi は5 人の場合もあった-が同時にしかも対立抗争の姿において でなく存在したということである。 ian 帝がその広大な領土の組織的統治のために、 そして叉ギリシア的東方とラ この制度は Dioklet テン的西方との間にある差異を認めて2人の Augustus (正 帝) と 2 人 の Caesar (副帝) と を 設 けたのに始まったのであるが、 この際4人はいずれも一つの帝国の支配者と考えられ、 政府の法令. も4人の名において公布された。 ビザ ンチ ンの 皇 帝 はロ ー マ の Princeps を継ぐという共和的性格と、 他面やはりローマ帝国皇帝. に出目する皇帝神聖観との一見相矛盾した性格をも持っているが、 そのいずれもが広大な領域と数 多い異民族を統一統治するという現実の必要から生れたものであった。 ところで ビザンチン世界を l eni sm の中核たる 特に西欧世界と区別するものは Hellenism で あ る と せ ら れ る の で あ る が、 Hel ギリシア語は帝国統一の手段としては必ずしも普遍的なものではなかった。 小ア ジアの西部やバル. カンは別として、 特にシリアにおいては、 ギリシア語は一般民衆の言語でなかったことは勿論、 教 養ある人々の間でも話 されなかった。 そこでは、 シリア語叉はアラ ヴ語のみが行われたといってよ ) かくて言語による一体化は望まれず、 これに代るものは政治的、 宗教的なものに求め られな い。7 ければならなかった。 註 1 ) Montesquieu;ibid. p.132一134. ・ ・ ine Bmp i 4 l e t 2) Uspensky: The Hi ol s .40 y ofthe Byzant .p . ,191 3) モンテスキュー: 法の精神 (河田書房、 世界大思想全集版) 第3篇第9 、10章. 4) モンテスキュー: 同上、 第2篇第1 、4章.. 0章. 5) モンテスキュー:同上、 第8篇第1 45一2 47頁. 6) 原田銅: 西 洋政治思想史、 2. - 92 -.
(4) . ビ. ザ. ン. チ. ン. の. 皇. 帝. i l 7 ine Empi tory ofthe Byzant ) Vasi ev: Hi s re .1952 .p .89 .. (3) 宗教的権威としての ビザンチン皇帝-- ビザンチン帝国の西欧に対す る貢献の一つは ビザ ンチ 、 ンがイ スラムに対する堅固な防塁であり叉有力な橋頭墾であったことであるが 他方キリスト教の 、 分 派 を 形 成す る こ と に よ っ て西 欧 特 に ロ ー マ 法 王 と 対立 した そ れ に して も キ リ ス ト教 と の か ふ わ 。. りあいはビザンチンの皇帝に独特な宗教的性格を附与する こととなった ビザンチン帝国の開祖と 。 in 大帝 の ミ ラノ 勅 令 はそ の ま 考 え ら れる K0ns tant. 帝 の キ リ ス ト教 信仰 を 語る も の では な い に し. )公認されたキリスト教はそのことによって帝国の皇帝権の精神的支柱と しての役割を ても、1 持た さ れ る こ と に なっ た。 も とも と ロ ー マの Senat は 民 政 神 事 を 担 当 して い た の であ る が ニ ケ ー 、 、. ア会議以後は Senat から神事関係は除かれて独立し、 しかも K0nstantin 大帝は 僧侶の宗教会議 出席の旅費を支払い叉帝国の郵便制度をも使用せしめることによって会議の主導権を握り 会議の 、 決 定事 項 は 元老 院 の決 議 と 同 様 皇 帝 の 同 意 に よ っ て 有 効 に な る も の と した 2 ian t okl e 。 ) 既 に Di. 帝. はササン朝ペルシアの宮廷の風をとって脆拝を行わしめたのであったが、 帝国の思想統一のため皇 帝の出目を神聖なものとすることをも考え彼自らはJup i t rの後蕩と称した。 以後これにならって e K0ns ius 帝は Apo tant l lo を そ の 先 祖な り と した 3 in tant 。 )K0ns i 大帝は Dioklet an 帝の業を継承したのではあったが、 その中央集権政治推進のためには従来の皇. l ian 帝 は Her l Maximil cu esを、. 帝崇 拝 は 適切 な もの で は な い と し、 む Lる み ず か ら 神 であ る と す る こ と を や め て キ リ ス ト教 に お け る神 の 「摂政」 とな る こ とに よ っ て 教 会 の力 を そ の 背に 持 つ こ と の 方 を 採 っ た 4 。 ) 勿 論 皇帝 権 と 教. 会権との衝突がないわけではなかったのであるが、 そのような対立関係よりは国家と教会との結合 による統一的行動の方が特徴的でありそこから皇帝の敵 異端に対抗する協力が生れた しかもこ 、 。 の関係における皇帝の優位はビザンチンの全時代を通じて変らなかった 皇帝の発する種々の文書 。 の中にあらわれる皇帝の呼称のうち、 皇帝が神に恭順の意を表 しキリストの意志に従うという意味 の み り‘ eてepα ガe〕びg魚 群 も 皇帝 が 神 に 責 任 を 感 じて い る と い う宗 教 的 な 考 え に 基 くも の で あ り と 、. かくてかつて神託が座子の口を通して神意を告げたのと同じように皇帝の口を通して神の命令が語 )Nove l l られる の で あ る と考 え る。 5 lに 附せ ら れ た そ の 前 文 とも い う べ きProoimi e やChrysobul on. はその本女に対する装飾の用をなしているものであるが、 それを西欧の同様のものに比較してみる と用語、 体裁等著るしく周到であるとともに、 ビザンチンの皇帝思想をも物語っている 即ち皇帝 。 の権力 は 神 か ら直 接受 けた も の で、 皇 帝 は ≠ と謬り↑) ザgoo 即 ち 神 の模 倣 者 と いう こ と で あ り、 皇 帝 を太 陽 に比 較 す る とし・う 考 えは 既 に 見 られ な く な っ て いる 6 。 ) しか し、 神 に 接 近 して い る 皇 帝 は、 オ リエ ン トの そ れの如 き 暴力 的 専 制 君 主 と して あ る の では なく Augus tus に よ っ て つ く ら れ た、 、 Pr incipatus の 伝統 は 皇帝 に も う 一 つ の 理 想 像 を 持 た しめ た. 。 即 ち Markian 帝 (450一457)が そ の. Novel le. において-- 「人類の幸福のために準備することがわれわれの関心事である われわれの 。 支配のもとにあるものはすべてわれわれの軍隊の庇護のもとに敵の攻撃から免かれ 叉戦争のない 、 時には人々が安穏 な生活をたのしむことができるように日夜たゆまず努力することがわれわれの目 標である」 と記 している如く、7 )つねに国民に対する配慮ということが皇帝の重要な任務とせられ た。 更 に、 こ の こと か ら ビザ ンチ ン の 皇 帝 に 関 して 称 讃 さ る べ き 性 格 と して の 愛ぇαし物のだそα と 、 6ddeβ”α と が あげ ら れ て く る。. 4世紀の哲学者、 修辞学者 Themisteus によると 荻ぇαし鉢の霧α (仁慈)は君主の 性格を知る試 金石ともいうべきものであって、 どんないい性格でもこれが加わると更に一段と尊厳さを増す刻印 であり、 民衆が街路や公衆浴場でする世間話にも皇帝に希望するところは結局 - 93 -. ばαシあの冗たて と い.
(5) . 斎. 藤. ニ. 郎. ばαン命の旧α は神と共有し得る億であって、 われわれは生命の長さ や力 「仁慈」▲によ の大きさでは神にはかなわないが仁慈という点では神をまねることができる。 皇帝も ので って神に似たものになることができるのである。 たとえば刑罰は犯罪者に対する薬のようなも 、いう病気から癒える 望みを全くとり去ってしまう。 従って 皇帝の特 あるが、 死刑となると犯罪者と 権は犯罪者に 慈悲を与える口実をさがすことである。 裁判官の任務は法律を厳正に施行することに がこの世 あるが、 法律の主としての皇帝の徳は法律をさえ訂正する権能を保持することにある。 神 う こと で あっ た。 しか も. t eusは 魂スαヂpp病α s る Themi に 皇 帝 を送 っ た の は 動 き の と れ な い 法 律 か ら 人々 を 護 る た め で あ 。 i につ いて こ の よ う に 語 っ て い る。8 iusll l は そ の 地 理 的 位 置 の上 か ら も、 叉Theodos inope K tant e肪 泊”α (敬 度) に つ い て -- 0ns. が によってつくられた城壁の堅固さからいってもその防衛に関しては絶好の状態にあったのである かした はこれを脅 いで来襲して 。 それでもスラ ヴ人、 アラ ヴ人、 アヴアル人、 ブルガリア人等相つ 敵 ては首都さえ ビザンチンにおい を演じた 教は大きな役割 。 これらの外族の危機に関 してキリスト ていたが 、 に とられなければたとえ敵が国内に侵入 Lても復旧は可能であるということが信ぜられ る 遺物が首郡を護 の遺体叉は 即ち殉教聖徒 のものに置いた 特に皇帝や主教等はそ の根拠を超自然 。 ることに努め という考えであって、 そのために彼等は、 できるだけ多くのそれらの遺体遺物を蒐め ) 特 に944年 に John Curcuas が Edessa 王 Abgar の持っていた有名なキリス トの肖像を首 た 9 。. 都に持ち帰ったことは市民を非常 に喜ばせ、 彼等はこれで首都が一段と力を獲得したことになり永 0 inope域こおい て そ の 正 統 }し か し K0ns tant 久 に安 全 で あ り 侵 掠 され る こ と が な い も の と 信 じ た。 1 l inope tant theB1 rgin)で あ っ て、 い わ ば K0ns essedVi の守 護 神 と せ ら れ た の は「祝 福 さ れ た 処女」(. は彼の女の市 であり従って市民の祈りも数世紀を通じておなじ 「汝の市をまもりたまえ」 という言 葉でなされた。 Virgin に捧げられた教会がたくさん建てられたが、 それらの中 心と考えられたの. が. が あれ ば こ B1 achernae に あ る そ れ で あっ て、 皇 帝 も 主 教 も 高 官 も 市 民 も 公 私 と も に い い こ と. にかけつけて神とマリアに感謝を捧げ、 反対に不幸があればその重荷をはらうために祈った。 この ように処女マリアの崇拝は. inopel の 市 民 の 間 に 徹 底 して い た と こ ろ か ら、 マリ ア も ま た K0nstant. ll L l 市 民 と とも に あ る こ と を 望ん で いた と 市 民 は 考 え た。 か く て 次 のよ う な 伝 説 さ え生 れた。 - eo. によって偶像崇拝禁止 が行われたとき主教はマリアの像が破壊されることをおそれてこれをローマ er寺 に 納 め た。 と こ ろ が ビ ザ ン チ ン の宗 教 政 策 . Pet に移 した。 ローマでは法王は喜んでこれを St が変って偶像崇拝が復活された ときローマではま だこのことを知らなかったのであるが、 マリアは っていたところから自分で離れて海に出て一夜と一 日 で K0nstantinopel に帰りついたという。 このようなマリアに対する徹底的な信仰 は帝国の最後 ビザ ン チ ンに 帰 る べ き こ と を 知 っ て、 像 を く. 1 ) ま で失 つれな か っ た。 1 l 特 有 の も の で あ る が、 キ リ ス ト教 そ の も の は都 部 を 問 わ ず 浸 inope tant この マ リア 崇 拝 は K0ns. 潤していたと考えられる。 それは主としては皇帝の帝国統治の重要な政策の結果であったといえよ 554 ) には次のような表現が用いられ inian の 「信仰に関 して首都の市民に告げる勅令」 ( t う。 jus 教の信仰箇条であり、 従って 1 2 のそ て最大の賜物はキリスト し -- 「全人類にとって第一 ている。 ) 躍も同じ言葉でな されるよう 鰍一 それは全世界にうちたてられ、 すべての僧侶は一つにされて説教も‘ になり、 叉異端者のする申し開きはす べて無意味なものになるようにしなければならない。 この政 策は既にしばしば出された宣言や勅令でふ桁Lておいたのであるが、 異端者は神を恐れるという気 持がなく 叉峻厳な法のもつ罰という考 えも持ってはおらず悪魔の手助けに狂奔して単純な民衆をあ ざむいて神の正統な教会とは矛盾する不法な 集会をひそかにっゞけている以上、 われわれはこの勅 令によって、 彼等がその馬鹿げた異端をやめ、 好計によって人々のたましいを死なしめ る こ と の 一 94 -.
(6) . ビ. ザ. ン. チ. ン. の. 皇. 帝. ないように、 そ して本当の教義が尊敬されすべての異端者が神の神聖な教会に戻るように勧告する ことはわれわれの義務であると考える。 だからわれわれは不法な集会を催すもの或いはかれらと交 わるものには法に定められた刑罰を凡ゆる可能な方法によって適用することを命ずる。 」この場合異 inian の 考 え如 何 に か ふ っ て い た の で あ り、 こ の 点 で ビザ ンチ ンの宗 教 に 端と判定する規準は Just おける皇帝の役割は西方における法のそ れに比す べきものであった。 即ち皇帝は教義を決定し、 主 inian の 教をはじめ、 教会の高識者を決定する権能を持っていたのであるが、 それはひとえに lust l Nove l e にみる如く 「清らかな手と聖化されたたましいの持主 (聖職者) が帝国のために祈るなら. ば、 神のおかげをもって軍隊はもっと強くな り、 帝国の財産はもっと大きくなり、 農業も商業もも 3 )と い う 政治 的 立 場 よ り 生 れた 方 向 で あ っ た っと栄 え る で あろう」 1 。. しかしながらキリスト教の迷信的ともいうべき弘布と皇帝の純政治的宗教政策とは何の媒介もな しに直結したのではなかった。 こ に 6卿弟”α (敬度) が皇帝の属性として要請された。 こ に いう敬度とはその宗教的言動に関してであって内面的なものには特にか. inは tant わ ら な い。 K0ns. l ) 及 び St.lrene 寺 を 建 て、 叉 St 首都に 「使徒の教会」 (Church of the Apost es , Sophia 寺の ius帝 に よ っ た の で あ る が そ の 基 礎 を お い た の は帝 で あっ た し、 更 に ロ ー マ に 完成は次の Konsant i St ve chre) を、 0l ch of the Holy sepul . Peter 寺、 Lateran 寺、 エ ル サ レム に 「聖 墓寺」(Chur ivi ty)を i 山に 「昇天寺」(Chur on) を、 ベ ッ レヘ ム に 「降 誕 寺」(Church of Nat ch of the Ascens ian によってキリスト教が否定せられ太陽崇拝がとりあげられた も建立 している。 「背教者」 Jul のであるが、 その後 Arius 派と Athanasius 派の争い、 偶像崇拝禁止をめく る紛争はあったにし. ても、 帝国の全時代を通じて帝国の宗教としてのキリスト教の地位は揺がなかった。 而してその首 長としての皇帝は単に権威をもって帝国のキリスト教徒に臨むだけでなく、 皇帝としてのキリスト 教徒的行動がおのずから「敬度」と して要請せられるようになった。 皇帝はその「敬愛」をあらわすた めには長たらしい儀式の間立ち通しで椅子につかず叉福音書を読むのが終っても教会を出ないで勤 )さ き の 愛スαン″ppmα 4 行 が終 る ま で宝 石 を ち り ば め た 重 い 式 服 を つ け て い る べ き も の と さ れた。 1. とともにこの き向き建とα がビザンチンのすべての皇帝につねに理想的態度として意識されていたわ けではないにしても、 ビザンチンの統治形態をして西欧と異ならしめた重要な要素と考えてよかろ う。 註 1) Vas i i id 49 l ev:ib .p . . 2) Lindsay: Byzan「 ium int rope oe t 1 , 1952 ,p ,50一51 . 3) Lindsay:ib i d . P.34 . 4) Lindsay:i i b d .p .36 , i i i 5) Df l ー i l t eeur op enwe sche st aat ger: Byzanz und d ,1952 ,s .22一23 . 6) D6 id s 1 ger:ib .24一25 . 7) Baynes: Byzant ines i her es t ud esand ot says .1955 . P.54 . 8) Baynes:ib i d .p .56一57 . 9) Ba id 7nes:ib ) .p .249 . 10) Baynes:ib id ,P .254 . 11) Baynes:i b id . p,255一260 . 12) Ur in i t e:Jus an and hi sage . 1951 . P.122 . ′ 13) Di l: Le lane hi ine i eh s del s grands prob to re byzant s , ,1947 , P,61一62 14) Baynes:ib i d .57 ,p .. (4) さき に みた如 き ビザ ンチ ンの 皇 位継 承 に お け る Mi i tka ser の 存 在 を 考 慮 に い れ て 計 算 す る と、 in Konstant. 大帝から最後の K0ns i 12 0年間に存在した皇帝の平均在位年数は t nXI にいたる約 1 ant.
(7) . 斎. 藤. 二. 郎. l 大帝以後1 13年弱 とな る。 こ れ を ロ ー マ 帝 国 皇帝 の 平 均9年 弱、 Kar 5世紀中葉にいたる ドイツ王の. 18年に比すれば必ずしも著しい差があるとはいい難く、 更に ドイツとの比較のために9-15世紀の 4 ビザ ンチ ン8)。しか し 期 間 を とっ て みる と 王 朝 の 交 替 は む しろ ビザ ンチ ン の 方 が 少 い。 (ドイ ツ 1 ‐ そ の 内 容に 於 て は Mont esqui eu の指摘したような事実の存在を否定するわけにはいかない。 即ち. 7人、 非合法手段によるもの45人がかぞえられ 92人の皇帝のうち、 即位では合法的手段によるもの4 1 る。 )ビザンチンの皇位のこのような浮動性は中国における如き専制政治そのものの存在を示すも のではなく、 むしろ皇帝の地位にまつわる特殊の慣行-皇帝選立という民主的原則によるものであ ると考えられる。 l l ineck は、 ビザンチン国家を以て 「国家に対 しては個人は全く独立の存在を有せずという語 Je が該当し得べき唯一の国家」 であり、 「西欧諸国の歴史に於て個人に対する抑圧の大なりしこと未 だこの時代の国家の如く甚だしきはなく……個人は僅かに保護甚だ不完全なる私権を有するに止ま )と評している。 事実ロ【マ り、 国家に参与することもなく叉国家に対する自由をも有せず……」2 共和政時代叉は帝政時代と比較してみると、 ビザンチンでは移転、 職業選択、 契約、 信教、 結社等 )ロ ーマ時代の自由精神の廃退とみ の自由が禁止若くは制限せられ、 叉残虐刑が施行されるなど、3 るべきものをとどめている。 これは3世紀中葉における約半世紀間の無政府状態の現出が与って力 あるものであったが、 少くも政治連用の面においては必ず しもローマ的伝統を全面的に忘れ去った ものといいがたい。 ビザンチン皇帝のもつ絶対君主的傾向は蔽いがたいのではあるが、 それは君主 による広域国家の統治の必要と国民の側よりのローマ的伝統の保持の要望とのギアツ プにおける不 可避的な傾斜とみるべきであって、 いわゆるオリエ ント的絶対君主或いは近代西欧諸国の絶対君主 と同類視することは適当ではなかろう。 元来、 斗争のうちに共和政を獲得したローマ人が、 王政を嫌悪するところを洞察したところに、 incipatus が成立したのであり そこでは皇帝は法律の枠内にあるものと考えられ Augustus の Pr 、 の免除をえているのでなければそれに従う義務 ども特に個別的に法律や元老院議決から 皇帝といえ があった。 それが3世紀の初め頃から 「皇帝は法律の拘束を受けず」 という原則が行われるように なったのであるが、 「法律をつくるものがそれと均しい威厳をも って法律に従うのは適当である」 ) ビザンチンの皇帝が絶 と す る Paulus の言の如く、 皇帝は自ら進んで法律に従う態度に出た。4 対君主的傾向にありながらビザンチン全史を通じて選立による即位を原則としたことはそのような ロ ー マ 的 伝統 の 強 さ を 示 す も の で あ る。. 皇帝選立の原則の基本概念は人民主権というこ とに帰せられる。 勿論 ビザンチンにおける人民主 権は個人の人権という概念に基く明確な政治体系の中に展開せられたものでなく Senat 、軍 隊、都 市 の民衆という限定された且つ不安定な要素の上に立つものではあったが、 それは. KarayannoPulos. ) と は い い が た い。 ini t の い うよ 封こJus an 以 後 は 皇帝 の 宗教 的 権 威 に 席 を ゆ ず っ て しま っ た5 tは か つ て 政務 官 で あ っ た も の に よ っ て 構 成 せ ら れ 且 つ ロ ー マ 時 代 に お い て は Sena ( 1 1Senat i t t 政務官の上級機関として行政の実権を掌握していたのであったが、 K0ns an n 大帝は遷都にあた. り元老院議員貴族の代表者を. inople に 移 し 更 にi lustres spectabi l i l imi K0ns tant es、 clar ss 、. と称 6 2 0 4 0 0 せられる高級官僚にもその途を開いた。 世紀半ば頃におけるその数は 人とされている。 ) Anastas iosl ( 491一518) は ブ ル ガリ ア 人、 セ ル ビア 人 の侵 入 に備 えて 長 域 を構 築 (実 効 は な か. i l っ た) した り、 トラ キア に お け る Vi ta an の叛乱を鎮圧 したり、 叉4世紀以来特に都市の貧民階 級に と って 過 重 負 担 で あ った 税 「C1 rysargyron」 を 廃 止 して 代 明こ農 民、 地 主 の 負 担 す る一 種 の ・ 7 l ia」 を 設 け た り、 ) 或 い は circus における人戦のた>かいを禁止したりして或 地 租 「Chrysot e e. 1 であった。 しかし帝の宗教的偏り (単性論) と商工業者保護の政策 i i l る意味では 「C ‐ v e rvant s 」8 - 96 -.
(8) . ビ. ザ. ン. チ. ン. の. 皇. 帝. とはカトリック派及び地主階級の提携せる反撃を受けてその地位を失った。 この際の指導者は元老 in 帝 の 即 位は 彼 等 の 擁 立 に よ るも の と な っ た。 Just in の甥であ 院議員貴族であり、 当然次の Just inian は Senat びいきで 5 7 年にはその数を増し叉元老院 を最 り叉青党の領袖でもあった Just 、 3 高裁判所とした。 しかし大帝は同時 :にその中央集権制確立のたてまえから大土地所有者を制御する ことを必要と認め或いは相続問題に干渉し、 偽証に基く財産を没収し、 強制的に叉は詐術によって 皇帝に財産を贈与させ、 或いは教会所有地をとりあげるために宗教紛争を煽動する等執勘に大土地 ) 帝のこの政策は完全には遂行されなかったのであるが、 これに対する反 所有の破壊をねらった。{ 動は彼の死後. Senat の 優 勢 化 と な っ て 現 れ そ れ 以 後マ ケ ドニア 朝 の 出 現 ま で 続 い た He l i rak os e 。 、. 帝 (610一641) のごときは. Seant. の全くの健傷で、. Senat. は8世紀初期にいたる 約 一 世 紀 の. Herakl i e os 朝 を通 じて 御 前 会 議 と して 叉 最高 法 廷 と して の 役 割 を 果 た し、 特 に 皇 帝 の 選 立 に は 影 響を持 っ た。 Herakl 0 64 onas 帝 ( 1 )にされた上廃位された 次の ) の如きは Senat によって鼻刑1 K0nstansll. 。 64 1一6 68 帝( ) は 即位にあたって将来とも 「国民の幸福のための忠告者であり法律顧. 1 ) 問」 であるこ と を Senat に 要 請 した。 1 しか し9 世 紀 半ば よ り 約 2 世 紀 の 間 の マ ケ ドニ ア 朝 は ビザ ンチ ン帝 政 の 最 盛 期 を展 開 し 特 に 、 、. Le 886一91 2)によって国家のあらゆる方面における皇帝の独裁が確立 された 皇帝は神に onVI帝( 。 よって選ばれたもの、 すべての政治の最高者、 軍隊の最高指揮者 最高の裁判官 立法者 教会の 、 、 、 庇護者、 正しい信仰の保護者であ り、 もし皇帝の言動を制肘するものがあるとすればそれは道徳習 2 慣 のみ である と い う こ と が 立 法化 さ れ た 1 )こ のよ う な 皇 帝 原 理 の 強 烈 な 宣 言 は 前 帝 Bas i ll の ア 。. ラヴ人、 ブル ガリア人、 ロシア人等の帝国東部及び北部の外族との戦における勝利が与って力があ ったものと思われる。 かくて権力は皇帝と彼をめ ぐる官僚及び軍事貴族の手に帰し Sena t は法律 、 起案に関する権利を奪われ皇帝 の出す法令の従順な立会人にすぎないものとなってその政治的意義 を殆 ど喪 失 して しま っ た。 そ れ は ま さ に Hi 3 l ) t er の Reichstag に近い存在であった。1 07 マケ ドニア朝にっ ゞくデュカス朝時代 ( 1 05 8 9一1 ) になると、 皇室の背景が首都の非軍人貴族 i i l l d ) であったところから、 その地位を確立するために首都の市民の広 汎な層を元老院議員 (Z v z l e 4 )即ちこの時代になると Senat の の階級に入れたので議員の数は数万になったと伝えられている。1 稀少価値はなくなり単なる栄 誉的地位にすぎなくなってしまったものと考えられる。 デュカス朝最 後 の皇帝 Nikephorosm (1078一1081 ) の 短 い 統 治 は 内 乱 の連 続 で あ っ た が、 そ れ は Senatの支 配. の崩壊のあとをうずめる将 軍達の支配権争奪のためのものであった。 しかし Senatは そ の特 権的 地 位を諦めたわけではなく、 ゴムネネ朝最初の皇帝 A1 osl (1081一1118) の 時 代 に は Senatは 旧 exi 権快復のために反 A1exios の陰謀に加わった。 この紛争の渦中に、 帝はノルマンの侵穂に対する ために首都を離れなければならないという事態が起ったときその留守の全権を Senatに も 首 都 の 知 5 )と い う こ と は Sena 事 にも 与 えずそ の 母に 委 ね た1 t の政治的没落がもはや決定的であったことを 、. 物語るものであろう。 { 2 }軍隊--初期の軍隊は本質的には辺境軍で別に機動的な軍隊や強力な予備隊を持っていなかっ た の で、 3 世 紀 の帝 国 の 危機 に 際 して は 完全 に そ の 無 力 を 暴 露 した。 Di i in okl tant et an帝 及 びK0ns. 帝は一面に於ては外敵の侵入に対する予備軍として、 叉他面革命に対する皇帝権力の支柱として強 力な機動力のある軍隊を必要として exercitus comitatensis をつくったが、 国境守備の方は軍務 6 1 imi )しか し6 世 紀 か ら 7世紀にかけ i を して 担 当 せ しめ た。 tane とひきかえに土地を得て定住するl. ての帝国の危機は同時に軍紀の頗廃をもたらし、 叉政府が俸給支払を渋ったことも手伝って軍隊を 2 年に ドナウ対岸の陣地で越冬することを命ぜられた軍隊はこれを不満 大いに動揺させた。 特に60 とし、 混血の異族出身の下級将校 Phoka sを強いて首都に殺到し、 当時政府と抗争しっ - 97 -. あった市.
(9) . 斎. 藤. 二. 郎. 民の両党 (青党と緑党) と合体し Senatも こ れ に 呼 応 して Phokas を即位せしめるにいたった。 東 ゴー ト の民 族移 動 の 波 を や り す ご した ビザ ン チ ンは ひ き つ ゞ き ペ ル シ ア、 ブ ル ガリ ア、 スラ ヴ ini t の 侵 入を 受 け た が、 Jus an は帝国の主たる敵をゲルマンとしてこれに全力をそ>いだの で帝国 r oe s Nushirvan の も と に 地 の東部 及び北部の防衛は閑却せられ 特に東方のペルシアは英主 Chor. 、 5年間の休戦条約を えたがそれには多額の償金を投 帝は漸くにしてこれと 中海岸にまで進出した。 ぜざるを得なかった。 この条約は50年間に更新されたが、 それも年々多くの金を供与するという条 件においてであった。 更に北方では スラ ヴ人、 ブルガリア人の集団 が年々 ドナウを越えて侵入して 南下 し、 バルカン半島における ビザンチンの重要な都市である Thessalonika の ご と き は スラ ヴ人 の主要 な根拠地の一つにさえなった。 帝国の軍隊はこれと死斗しドナウの向うに押し返したが全面 駆遂するにいたらず、 スラ ヴ人のバルカンにおける残存は6世紀末及び7世紀初期における帝 的に, 7 ’ 国にとって非常に重要 な問題の一つとなった。1 ia を も i och を 占 領 更 に Damascus 東方においても7世紀に ペルシアが東方履州の要市 Ant 、 Syr 占領、 jerusalem を包囲荒掠し、 6万のキリスト教徒を虐殺したばかりでなく、 小亜を西進して、 i l の対岸 Chrysopol inope K0nstant s の近くに布陣するにいたった。 ペルシアの別軍はヱ ジプトに ia を陥落せ しめ、 このため食糧の供給を絶たれた K0nstantinoPel の経済状態は重 向い A1exandr 大な影響を受けた。 これに 対して Herakleios 帝はみずから小亜に 渡り多数の兵士を徴募してこれ. を数ヵ月訓練しこの兵をもって3回にわたって ペルシアに遠征して戦果を収め、 更にペルシアの中 央部まで進出したのでペルシアはシリア以南の 占領地を ビザンチンに返還した。 かくて帝国は東方 に関する限り不安を解消したかの如くであったが、 これに投 じた兵力と財力の損耗の打撃により、 ひきつゞいて帝国の前面に現れたイスラムの軍事力に対 しては全く無力で、 7世紀の30年代以来相 l em も陥落し、 更 つ ぐ戦 争 で全 シリ ア、 エ ジ プ ト、 小 亜 の 一 部 を 失 い、 叉 2 年 の 抵 抗 の 後 jerusa に北 ア フ リ カに お け る ビザ ンチ ンの 属 州 の 一 部 も サ ラ セ ンの 手 に 帰 した。 7 世 紀 末 に な る と サ ラセ cus 港を根拠地として夏の間の数カ月、 ンの 艦 隊 は エ ー ゲ海 及 び ヘ レス ポ ン ト海 峡 を 渡 っ て Cyzi inopel を く り か え し包 囲 攻 撃 した。 しか し ビザ ンチ ン 軍 の 「ギ リ シア 火」(一 種 の 焼 年 々 K0nstant. 7年にはその艦隊をひきあげた。 その後小亜におけるサラセン 夷弾) に悩まされて目的を達せず 67 の軍事行動も不成 功に終りサラセンは却ってビザ ンチン皇帝は歳 貢を納れる条件で和を結ばざるを 8 ) 得 な かっ た。 1. 9 )設定の背景である。 ビザンチンの初期においては地方政治は全国を四つに分けた 以上が 燐”α1 その長官によって行われ、 総督は行政、 司法、 財政について完全な権力を持ち、 属州知事の任免を も行ったの であるが、 軍隊にはその力は及ばなかった。 たゞ士官は 総督の前に出るときは膝を屈し 0 }ことは当時においては総督の地 位が形式上軍人より上位にあったこ て礼をすることになっていた2 と を 物 語 るも の で あ ろ う。 しか し 6世 紀 末に ア フ リカ 及 びイ タ リア に お い て そ の 防 衛 確 保 の た め に. 軍司令官に総督を従属せしめることとした。 このような措置が以上のような帝国防衛の全面的な動 揺を機 と して全国的に拡充されるようになったことは当然であろう。 防衛のために 新たに組織され 2 11 1世紀には領土の拡大もあったが主として細分化によって小 た β聖α の数は9世 紀において25 、 ) 10 南 伊 及 び シ ン リ ← に2 2 ミ 、 亜 で は22、 地 中 海 及 び エ ー ゲ海 に5 、 黒 海 北 岸 の 地 に 、ノ ル カ ン 半 島 に 、. 2 )これらの 能”α の司令官は夫, 々の防衛的重要度によって俸給の支出元及び額を 1をかぞえる。2 計4 異にし、 東方の司令官の俸給は中央より受けるが西方のそれは地方税より出され、 叉その額も小亜 3 )が、 燐”α の 細 分 化 と 小 亜 の 燐”α の司令官の方が一般に ミル カ ン 半 島 の そ れ よ り も高 給 で あ っ た2 の優位とは、 地方軍事力-特に小亜の-が中央を脅かすほどに強力になったことを示すものであろ う。 8- -9.
(10) . ビ ザ. ン チ. ン の. 皇. 帝. 以上 のよ う な 能”α の 設 定 を 通 して み られ る属 州 の 軍事 的 勢 力 は 更 に pro l loi a の制によって強. 化せられた。. 1世紀であるが、 その語源からみて皇 の語が ビザンチンの史料に現れたのは1 4 )しか 帝より与えられたもの (主として土地) 及びそ れに対する深い配慮を意味する語であった。2 0世紀において軍務を条件として与えられる土地を示す語として用いられたことの証拠があ し既に1 Pronoia. 5 )P l i i ると Vas ・ ronoi ev は 云 っ て い る。 2 a は本来期限付の土地授与で多くの場合はその受封者の死. 亡までのものであって相続叉は譲渡のできない性質のものであった。 ところがア ジアの属州では 9 0世紀) に外敵の侵入が比較的遠のき、 叉商工業について順些な規制が行わ 世紀 (ヨーロッパでは1 れるようになると、 最も有利な投資の対象と考えられたのは土地であった。 かくて地方の大土地所 有者による小土地所有農民に対する収奪--贈与、 賃貸借の名鱗で叉は有償でその土地を譲渡せ し める--が行われた。 同じ経過が軍事土地でも行われ、 有力者は兵士の土地を多くは強制的にとり eros、 Comnenes、 Pal 〈l eologue 等の有力な軍 あげた。 かくて小亜では Dalassenes、 Phokas、 S1 事貴族が成立した。 彼等はお互いに利害を共通にするところから結婚による結合をつくり、 叉アラ 6 )その有する力を頼みとして ヴ人に対する共同作戦の必要から強力な社会的グループを形成した。2. 彼等は中央政府に対してつねに発言権を要求し、 もし不平があればその兵力を動かして帝国を動揺 ‐ せしめたことが10 世紀後半にみられた。 11世紀のマケドニア朝の中央政府は軍事貴族の勢力を削ぐ ため に 軍 事 費 及 び 兵力 を 削減 し、 防 衛 は 傭 兵 に よ るこ と と した。 しか し12世 紀 に な る と pronoi aの. 制度はいよいよ広まり、 その所有者は司法、 行政の権利を行使し、 しかも期限付保有が世襲となっ 7 )一方マケ ドニア朝の末期には官僚の専制的傾向が強化されて軍隊の指揮官と対立し ていった。2 、 1043年 の Georges Maniakes の 及 び1047年 の Leon Tomikios の一つの属州の軍事貴族の叛乱 、 8 )しか し帝 国 の辺 境 に おけ る外 族 の 攻 勢--一西 方 の の ご と きは その 日の う ち に 政 府 に 鎮 圧 さ れ た。 2. Patzinaks. 及び Uz s e 、 東方のセルジュクトルコ一一 は特に小亜における軍隊の中央に対する発言. IVI を 在 位 1 権 を 強 め、 彼 等 の 擁立 す る l saak I Komnenos はマケドニア朝最後の皇帝 Mi chae. 年にして譲位せ しめて即位 した。 帝は高官の俸給を減じ、 国庫の寄生物であった宮廷の高識者、 学 ・確立しようと したが官僚の勢力抜 きがたくわずか2年 者、 僧侶の冗職を廃止 して軍事貴族の支配を in Dukas が即位し兵力及び軍隊維持費の削減をはか tant に して 退 位 した。 代 っ て 官 僚 派 の Kons. ったが、 外敵の絶えざる脅威は再び軍閥の力を必要とし Romano sVIが彼等の擁立によって即位し ert の戦(1071)に ト ルコ に 敗 れ、 こ の 機 にDukas た。 帝は内外の問題を処理 し得ず却って Manziki IVI Iが 皇 帝 を 宣 した が、 以 後 帝 国 は 内 証 と トル コ の 侵 入 に よ っ て 無 政府 状 態 と な っ た。 の 子 Mi chae. 1 081一11 18 i Jsaak の甥 A1 ) の内戦統一は軍事貴族階級の勝利を示すものであり、 それは ex o sl ( 9 Jゴムネネ朝の時代は周辺の諸 また少数の特に著名な大貴族の連合の上に成立したものであった。2 1 1 世紀に始まる十字軍との接衝 族との絶えざる職の中にあったとともに、 等対外的に帝国の最大の 危機であった。 特に Manuel工 (1143一1180) は そ の世 界 帝 国 の 実 現 の た め に 外 交 的 軍 事 的 活 動 を 華々しく展開したので、 帝国は経済的軍事的困難をも処理しなければならなかった。 ゴムネネ時代 の軍隊は 燐”α で募集されるものと傭兵とから成っていたが、 前者による供給は属州の人口減によ って次第に困難になった。 殊に小亜においては住民は外族の絶えざる侵入によって、 或いは捕虜と して粒致され或いは都市に逃亡することを余儀なくされ、 耕作者を失った土地は兵士も税も供給し l は以前には奴隷と して売られていた捕虜を買い戻して耕作が放置さ 得 ない よ う に なっ た。 Manue. れてあった土地に落ちつかせたのは、 彼等を兵士の供給源としようと考えてのことであったがこの 方法は必ずしも効果をあげなかった。 もとからその土地にいた農民が自分達の近くに異民族が落ち 0 )こ つ く こ とに お びえて 都 市 に避 難す る こ と が一 再 な らず あっ た か ら で あ る。 3. に根本的に軍事力. i ono aの所有者に割当 を改善する必要を認め国防の任務を経済的に有力である大土地所有者即ちpr - 99 -.
(11) . 斎. 藤. 二. 郎. て た の であ る が、 外 族 の 侵入 に よ る 国 境 の 縮 少 は 兵 力 供 給 源 と して の Pronola の 意 義 を 減 じ、 こ れ. ペ に代って傭兵が大きな役割 をもつようになった。12世紀のビザ ンチンの軍隊にはイギリス人、 チ ュ ネ ー ジュ 人、 フ ラ ン ス人、 ドイ ツ 人等 の 傭 兵 が 多く 現 れ、 11世 紀 ま で の、 傭 兵 には 軍 の 指 揮 は さ. ‐世紀には傭 兵でも非常に高い指ぎ軍官の地 位につくものも せないという政策を探りえなくなって、12 3 1 現れた。 )そ して傭兵維持の費用は帝国と提携する同盟 国及び臣属国に対する多額の報酬や豪著な 宮廷費な どとともに納税者にか つたのであるが、 領土喪失によって減少 した納税者に対する重圧 ida の大司教 Theophyclate をして 「徴税請負人は神の法及び人間の法を犯す山賊」とま は、 ochr 2 ) で 云 わ しめた も の で あ っ た。3. i ono a 即ち、 帝国存立の重要な一支柱であった軍隊は、 本来の防衛力の根幹たろヴ年αの軍隊、 Pr の軍隊より傭 兵本位の軍隊に移行するという過程を通じて、 軍隊の持っていた政治的発言権--軍 l (os の 畷 起 は、 人 皇帝 の選 立 -「 が 弱 ま って い っ た こ と は 明 か で、 次 節 に の べ る1182年 の Androni. 軍人出身でない彼がそのような軍隊の失われた地位恢復の要望を巧みにつかん でその支柱としたも のであり、 叉その点に彼の事業の脆さがあったと解すべきであろう。. ‐Sophia 寺において Senat { }都市の民衆--7世紀以後戴冠式は Saint 3 、 軍 隊 及 び 民 衆 のf 表者 、 3 」即ち民衆はSena t及び軍隊と並んで ビザンチン国家における重要な政 の立会のもとに行われた。3. i t ipa inc tusの 理 念 が Diokl an e 治 的 要 素 を な して い た わ け で あ る。 そ して こ れ は ロ ー マ に お け る Pr in の絶 対主 義 を 通 して も 尚 存 続 した も の と して ビザ ンチ ン 国 家 の 重 要 な 一 性 格 を 形 成 tant -K0ns す るも の で あ る。 l ie (区) か ら 成 っ て い た。 Deme は ギ リ シ ア ビザンチン帝国における都市の内部は幾つかの Del の polis における・一つの行政単位であったが、 A1exandre の遠征以後東方における新都市建設と ともにその方面にもひろまった。 それは本来自治の組織で、 Deme としての集会、 役人及び財産を 持 ち 且つ 徴税、 軍 務、 警 察 を も 担 当 した。 Severus 帝の時から軍務に服することはなくなったが、 7 5世紀における ゲルマンの侵メ 、に際して都市の防衛の任に就き、 6世紀末叉は 世紀初めに正式に都 )ビザンチン時代に於てはDemeは緑、 青、 白、 赤の色で表わされ 4 市防衛の一つの組織となった。3. る四つの党を形成し、 やがて白と赤 は吸収されて緑党、 青党の二つとなった。 はじめは都市の広場 で行われる戦車競技を中心としたス ポーツ団体であった が、 次第に政治的色彩を帯びるようになっ た。 この点に関しては、 緑党は下層階級の地区から起ったものであり従って党の区別は同時に階級 の利害の相違によるものとする説3)と、青党が貴族党、緑党が商工業者を 中心とする下層民の党とす るのは誤 りで、 夫々の党の指導者層をなしていたのが貴族、 叉は下層民であったにすぎないとする 6 )とが対立しているが、 宗教の面 で青党が ギリシア正教をとり緑党が単性説その他の東方の異教 説3 の立場に立ったこと、 即ち党は宗教的立場を主として結集された ことを考えると、 一般に貴族階級 は伝統的宗教に拠り易いということを考慮にいれても、 後者の説が妥当であるように思われる。 特 ini t an がその中央集権制を確立しようとするため Deme の影 響下よ に青 党 と して帝 位を え た Jus り脱しようとして重課税に対する罰 則を両党に差別なく適用 しようとしたところから起った. Ni ka. 3 7 )に お い て は、 両 党 の 協 同 態 勢 が み ら れ た こ と も こ の こ と を 物 語 る も の と 思 わ れ る。 の 叛乱 (532) 両 党 の 協 同態 勢 は さ き に の べ た602年 の Phokas の蜂起とともに首都に起った叛乱においてもみら. 帝 がカルタ ゴに遷都 しようとしたときも、 首都の市民の示した深刻な落胆とそ ios のはげしい反対とともに帝をしてその計画を放棄させるだけの力をもって の 反 対 とは 主 教 Serg. れた。. l Heral 〈 eios. 8 ) いた。 3 l le が同時に一つの軍事力であったことに基くものであっ こ のよ う な Den・e の政治的威力は Del た。 Deme のもっていた治安防火と都市防衛の任務のうち前者は8世紀のイ ザウリア朝以後はその 一100-.
(12) . ビ. ザ. ン. チ. ン. の. 皇. 帝. 実質を失ったのであるが、 後者の点では親衛隊及び防衛隊の中核をなしていた 3 〕7世紀のはじめ 。9 00人青党9 首都における民兵隊は緑党1 5 0 0人計24 00人と報ぜられている。4 0 ) 対立する党としての両党の抗争は届州にまで発展し、 たとえば、 P1 ・okas が 青 党 を 後楯 と して 即 位 し、 緑 党 を公 職 か ら 追 放 した と き、 帝 国 内 の全 緑 党 は 結 束 して こ れ に 抗 し Ana l ia、 Ci i l ia to c 、 、 Pal ina The lonika 等で叛乱を起した 即ち7世紀初期においては 緑党も青党も帝国の比 est ssa 、. 。 、 較的大きしY都市ではま だ充分な政治的役割を果していたといえる。 その後においても、 民衆の政治. 的感覚が皇帝の政策によって刺戟せられた場合に、 党活動として発動せられた He l i e os朝特に 。 rak i i tnanl l( 685一69 Jus 5 ) の自由農民保護政 策は貴族階級の不満をひき起すとともに、 その植民政策 が民衆を強制的に未知の地に追いやったことや 苛酷な徴税を行ったことなどは青党を中心とする 、 Leont ios. 帝 (695一698) の 擁 立 に 至 ら しめ、 Leontios 帝がアラ ヴ人の アフリカ侵略を防ぎ得ずし て カ ル タ ゴの 地 を 放 棄 した と き、 艦 隊 の 叛 乱 は 首 都 の 青 党 の民 兵 の 擁 立 す るTiber i l(698一705) l os. を即位せしめ得た。 ところがマケドニア朝は市町村の自治を禁止し、 都市の Sena tを閉鎖 し且つ市町村における選挙 をすべて禁止する政策によって中央集権政治と官僚制とを完成した。 この際青党緑党の領袖は皇帝 の 官 僚 と して 吸収 さ れ しか も そ の 地 位は 比 較 的 つ ま ら な い も の で あ っ た4 1 )と こ ろ か ら、 か つ て 強 力. であったDe l neはその政治的意義を喪失し、 代表者が宮廷の儀式に出席し民衆は皇帝に対してF 渇釆 を送るだけの装飾的役割を演ずるにすぎないものとなってしまった。 中世 を 通 じて、 ビザ ン チ ン の商 業 は、 西 欧 の そ れ に 比 して 格 段 の 繁 栄 を 保 ち 11世 紀 に お け る 、 Konstant inopel の 人 口は1 2 ) 00万 に 近く、 4 13世 紀 の初 めRober i の記 す と こ ろ に よ る と 世 tde C1 ar inopel に あり 残 り の1 3 界 の 財産 の2 / )と い う ヨ / 3は K0nstant 3が そ の 他 の 世 界 に ば ら ま か れ て い た4 。 ーロ ッ パ と ア ジ ア の 接 合 点、 バ ル カ ンと ドナ ウ 以 北 の地 の 合 流 点 と して の K0ns i l がその tantnope. ような繁栄を持ちえたことは当然であるが、 そ の 他Thessalonika、 Peloponnes Theben Sparta 、 、. 等の ギ リ シ ア都市、. バ ル カ ン の海 港 Dyr rachion、Cor ias t cyra ne l r 、半 島 部 のDe 、小 亜 側 のAbydos 、. Trepezunt Ant ioch Mami stra、 Adana、 Tarsos、 Attal eia 、 、 、 Chios、 Phokaa. 等が商業の繁栄. を も っ て 知 られ、 11世 紀 に は そ れ ら の地 に ヴェ ニ ス 人 が 商 館 を 開く こ と を要 求 して い る 4 4 。 )しか し. これらの商業の基本的性格は著修品を主とする消 費財を対象とするものであり 商業の基盤をなす 、 生 産も西 欧 中世 の Zunft を思わせるものがありしかもそれは国家による諸種の制限を受けた 4 5 。 )従 6 ってビザンチンの商工業は発展性をもつものではなく、 特に Manuellの世 界政策4 )に基く派手な 外 交 政 策 と ハ ン ガリ ー、 セ ル ビア 殊 にノ ル マ ンと の 抗 争、 小 亜 属 州 の 兵力 源 財源 と して の無 力 化 、. 十字軍による国内の荒→ 京等は自由農民の没落という現象を通して帝国を封建化の道に押し進めて行 った。 こ のよ う な状 態 のも と に あ って 商 業 は ヴェ ニ スそ の 他イ タ リ ア 諸市 に 対 して 与 え られ た 特 権. のもとに運営せられ、 土着の商業 及び手工業はその活動の場所を失い、 従って市民の政治的意志表 示はかつてのごとき組織的なものではあり得ず、 激発的な騒乱と してのみしか表現され得なくなっ た。 民衆が移り気によって動く 存在と化したことは Andronikos の事件が如実に現わしている 。 註. 1) Di id b ehl:i 9 5一1495年の間の107人の皇帝のうち、 ベッ ドで生涯を終 ったもの .p.49÷50 . では 3. 3 4人、 戦死叉は事故死が8人、 他は退位強要、 毒殺 寵殺 圧殺 不具刑 国外追放な ど 叉1 8 05 、 、 、 、 。 年間における宮廷、 街上、 兵営の革命65という数字をあげている。 2) 美濃部達吉訳:イ エリネック人権宣言外三篇 (原田慶吉; ロ←マ法の原理 1 . 、 73頁より引用) 3 ) 原田慶吉: ローマ法の原理 (昭和27年) 第10章. 4) 原田慶吉: 同上 4 、 0一41頁. 5) KarayannoPu t ihbyzant l in i i in os: Derf r i i i f sche Ka ser t t sche Ze schr .〔Byzant . Bd,49 (1956) . Hef 3 8 1 3 8 2 [2 - 〕 .s . .. 6) 。s trogor i sky: GesChi cht e des byzant t schen Staa es .1952 .s .31 ..
(13) . 斎. 藤. 二. 郎. b i i i d l 7) Vas ev:i . .p . i12一113 i b d 8) Lindsay:i .p . ,71 i b d i i i 9) Vas ev:i .p .158 .. 1 0 ) i l ) 12 ) 13 ) 14 ) 15 ). i b d os t sky:i rogor .92 .--東洋からとりいれられた不具刑の最初のものという。 .s i d.s b os t 「ogorsky:i . .93 i b d.s 。s t rogorsky:i , .198 id Ure:ib . . 102 .p id b os t rogorsky :i . .s .272 . t mortde Byza 1 Br各hi ce ee er: Vi .297 . . 1948 ,p. i d b 16J 0s t rogorsky:i . .35‐‐36 .s i d.p i i l 17) Vas ev:ib . 140 . f i b d.p i i l 18 ev:i ) Vas .f . .196. 19 ) その成立時 期 については渡辺金一:「テマ」(βema) 制度成立の時期をめ ぐる論争・の現況 (史学雑誌. 20) 21 ) 22) 23). 65ノio) . i i i ine C l iman: Byzant Runc on sat vi . 69 . . 1956 .p 7 i 2 iman:i b d Runc . p. . d l ehi bi Br t es に よ る。 e descar er:i . Tab i i on tol akon i b d akon ---LeonV1(886一912) 時 代 Ana os t rogorsky:i , Tharkes ,Armeni . .s .203 i d M k i 亜) n (本 k e n e i k B l l (小 a o ド o n r 4 e a o 0 ポ ン o n u ps (いずれも小亜のテマ) の司令官は年 、 , 、. 0ポンド等の如し。 土) は3 i d i i b l 24 ev:i ) Vas . .p . 567一568 i に i i d l i b 88 25) Vas ev:i .5 .p .--但し ostrogorsky は マ ケ ドニ ア 朝 及 び デ ュ カ ス朝 に 於 て は Pronoa なったと主張してい i l 8 1 1 1 1 8 A 1 1 0 ‐ ) に至ってそう 朝初代の ( く ゴムネネ e x o s は軍事的任務はな 、 26 ) 27 ) 2 8 ) 29 ) 3 0). b i d.s [ rogorsky:i る (os .294) . id b Levt chenko :i , .175一176 .p id Li ndsay:ib . . p.164 i d Levt chenko :ib .p .195 .. id b Levt chenko:i . .p .221一222 b d Levt i chenko:i .p .235 . id b 31) Levt chenko:i .236一237 . .p 32 ) Levtchenko:ibid. p. 238. 33 ) Runciman:ibid‐ p.55.. 34 ) Lindsay:ibid. p.52-53 . i d.p i bi l 35) Vas ev:i . 155-156 . 及 び156の 註。. 36) ostrogorsky:ibid.s . .55-56 37 ) Lindsay は、 この叛乱は党の領袖達に対して怨恨を持った兵士達が絶望的になった農民の援助のも i i b d 1 ) とに行われたものという。( .12 . .p 38 ) ostrogorsky:ibid・s,76. iman:i b i d. p 39 ) RL -nc .59 . 40 ) ostrogorsky:ibid.s . 55の 註。 41 ) ostrogorsky:ibid.s .20‘ . i t 〕 es 42 ) Pirenne: MedievaI Ci . .1 . 60 . 1956 1:ib i d 1 43) Diel .p . .10 44) Levtchenko:ibid. p.169. ) 45) Levtchenko :ibid.1 .172 . [um und Byzanz 46 ) Norden: Das Papst .s .106 . .1903. (5) l ) を も っ た An( ronikos が60才 を す ぎて 纂 奪 の 業 を 起す こ ゴム ネ ネ 家 の 傍 系 と して 波 渦 の 生 涯1. )もあったのではある が、 次第に強まってゆく 各2 とができたのは、 一つには彼自身のもつ特異な性ォ t が装飾物化したあと没落しながらわずかに残存 西欧勢力の浸透 と封建貴族の優勢化に対 し、 Sena していた政治的要素としての軍隊と民衆とを背景とし支柱とする野心的政治家の最後の抵抗であっ.
(14) . ビ. ザ. ン. チ. ン. の. 皇. 帝. た こ と に よ る も の で あ る。. ビザンチンにとって関心をはずすことができない最大の外国勢力は南伊のノルマン王 国と商業都 市共和国 ヴェニスであり、 しかもこの二大 勢力は ビザンチンに対して或るときはその一方が味方と なり叉或るときは両者合体 して帝国の敵となるという厄介な存在であった。 ヴェニスはア ドリア東 岸 の 地 にノ ル マ ンが 定 着 す る こ とを 以 て 自 国 の商 業 上 の 障 害 と し、 1801年ノ ル マ ン の ビ ザ ン チ ン攻. 撃に際しては A1exioslの救援に応じて艦隊を出 してこれを 援け その報償として爾後ビザンチン 、 の 急に 際 して は 赴 援 す る代 り極 め て 有 利 な 通 商 条 約 (K0ns inope l に商館をおき 叉帝国の諸 tant 、 港に自由に出入し貿易し得る) を締結し得た。 これは貿易に関する限りビザンチンの国家主権を否 定 した にも ひ と しい も の で あ っ たた め に 爾 後 の 紛 争 の 種 と な った と こ ろ が Manue ll の 南伊恢復 。 政策はヴェニスの利害 に反するものであったからヴェニスはこれに反対し 帝はこれに対する報復 、 」 ヴェ ニ ス は勿 論 艦 隊 を エ ー ゲ海 に 派 した が 奏 効 と して1171年 国内 に い る ヴェ ニ ス 人 を 逮 捕 した。 ぼ せ ず、 た めに1175年 ヴェ ニス は そ の 年 来 の 敵 た るノ ル マ ンと 結 ぶ に い たっ た 4 llも こ の 。 ) Manue. 二大勢力の合体には抵坑の力なくヴェニスの前の特権を確認せざるを得なかった 国民のヴェニス 。 に対 す る不 信、 反 感 は、 GregorVI 以 来 の ロ ー マ 教 会 の東 方 教 会 へ の 攻 勢 5 ) ノ ルマンの 脅 威 十 、 、 字軍 を 機 とす る ドイ ツ の 世 界 政 策 よ り す る ビザ ン チ ン帝 国 へ の 対 立6 ) とともに 西 欧 人一 般 にま で 、 拡大された。 特に Manuell の 皇 后 で あ り A1exiosll帝 (1180一1182) の 摂 政 と な っ た Mari eが. ラテン人であったことは更にこの気勢に油をそ い だ。 Mar i i e はその摂政に当って寵臣 A1 ex os Komnene (Manue l の甥)に実権を行使せしめたが 両者の行う人事はゴムネネ家一族の間に不評 、. を ひ き お こ し、 叉 そ の 親 ラ テ ン政 策 の 強 化 は 国 民 の 憎 悪 を 甚 だ しく した こ の 際 Manue ll によっ 。 0年間投獄、 追放、 放浪の生活を余儀なく さ れ たAndronik( てうとまれ約3 i ) sが Mar e 及 び A1 os exi. の対立者として特に首都の民衆から期待されたのは当然であった 彼はこの状勢の中に 。 l を側姦よ り護るというロ実のもとに小亜より兵をあげて首都に向ったのであるが 幼帝 A1 exi osl 、 A1 le がその海峡渡航阻止のために? exi os Komnel 反した艦隊の指揮官は寝返って Andronikosを 迎 Komnene. えた。 こ れを きっ か け と して 首 都 に 叛 乱 が 起 り7 )A1 ios は逮捕の上盲刑にされ 同時にラテン人 ex 、 ) 8 Mar に対 す る大 虐殺 が始 ま っ た。 i e は 絞 殺 せ られ、 Andronikos は幼帝の Mi tkai ser と な っ た. i l l を絞殺 しその遺体を河流に投じた 後間もなく A1 ex os 。 彼はその帝位の合法性を主張するため に A1exiosllの 寡婦 Anne( 12才) と結婚 (みずからは63才) し なお主教を交迭 して新主教によ 、. って戴冠した。. Andronikos は民衆保護を第一の政策とした 官吏の俸給を高くすることによって 収賄の根絶を 。. 期し私利をはかる徴税吏を厳罰に処し、大土地所有者を圧し多くの貴族を死刑にした 「Andr i kos on 。 9 という名は魔法の言葉のごとく収奪者を逃げ出させた。」 ) 民心の粛正の点でも従来 「海草の権利」 と称 して嵐で海岸にうちあげられた難破船を掠奪するという蛮風が行われていたのを根絶させるこ 0かくて彼の政治のもたらした収奪の停止 国庫収入の増加 物価の低落は商工 とにも成功 した。1 、 、 業者、 農民の共感と支持を受けることができた。 彼もまた、 みずから民衆の友であることを示す ポ ーズを忘れなかった。 彼は 「四十人の殉教者教会」 の北門の近くに自分の像をたてたが、 その像は 皇帝服も君主としての黄金の装飾もつけず、 労働で押しひしがれた、 控え目な、 そして大きな鎌を l 持 っ た労働 者 と して の 姿 であ っ た。 ”)同 時 代 の Thessa ta thius に よ る と Andronikos onika の Eus は 「民衆 に と っ て は 神 そ の も のよ り も 親 しい 人 少 く も 神 に す ぐっ ゞく も の」 1 2 )で あ っ た 、 。 Andronikos の民衆の側に立つ政治は当然反貴族の政治であり しかもそれは強い抵坑を排する 、. ためのテロリズムとして現わされた。 この政策に抵坑するものには財産没収 盲刑 絞刑等をもっ 、 、 てむくいたのであるが、 押しつめられた貴族はその立直りのより所を And i ko r on s及び民衆の敵ラ.
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