105 倫理学年報第 70 集
デカルトの﹁自然の教え﹂とは何か
││ストア派の自然本性概念との対比で││
佐
藤
真
人
一.はじめに
│自然に対するストア派とデカルト
ストア派のデカルトへの影響については、これまで多くの論者に 指摘されてきた ︶1 ︵ 。特に﹃方法序説﹄のいわゆる暫定的道徳、とりわ け第三格率が述べるような、克己と思考の統御をめざす思想などに は、デカルトとストア派の共通点は容易に見てとれよう。また、幸 福や情念について質問を重ねるボヘミア王女エリザベートに対し、 当時流行したセネカの﹃幸福な生について﹄を引いて解説している ように、デカルト自身、セネカやストア派の思想には関心を示して いる。 しかし、デカルトとストア派︵または新ストア派︶との関連ない し共通点は、両者が学知の体系的な統一をめざす点を除けば ︶2 ︵ 、ほと んどが道徳や自由意志の問題に関するもので、とりわけ﹃幸福な生 について﹄が語るような至福や善、徳の考察と、デカルトのそれと の相違についての分析が多い︵近年のオリーヴォやメルの考察も、 この系譜に属すると言えるだろう ︶3 ︵ ︶。たしかに、 ﹁自然︵本性︶に従 う﹂とは﹁神の作った事物の秩序に服する﹂ことを意味し、それこ そが知恵である ︶4 ︵ というような考えには、ストア派のデカルトへの影 響、または両者の共通点が見出せよう。しかし、自然本性に関する 両者の考察の共通点は、このような行動原理の側面においてのみ見 られるものだろうか。自然を別の角度から見たとき、両者の新たな 交錯、またはすれ違いの可能性は見えてこないだろうか。 デカルトは﹁第六省察﹂で、一般的な自然とは神そのもの、また は神が制定した被造物の相互秩序であり、個別的な自然とは心身の 結合体であると述べている ︵ AT VII, 80, 21 26 ︶。 ﹁ 自然の教え ﹂デカルトの「自然の教え」とは何か 106 ︵または﹁自然の定め ︶5 ︵ ﹂︶は後者に関わり、端的には、心身合一体が 自らの生命維持や行動に役立てるための、感覚を通じて得ることの できる情報を指している。本稿ではストア派の自然本性概念を導き の糸とし、それによってまずストア派とデカルトの自然学研究の目 的を比較し、両者の相違を明らかにする。そしてデカルトの多義的 な自然本性概念を考えたとき、はたして﹁自然の教え﹂には感覚と 情念の情報以上のものが含まれないかどうか、そしてその教えをも とに、デカルトは自然に対しては何を目的として設定したのかを検 討し、これについて考えられうる仮説の提示を試みたい。
二.
﹁自然本性に従う﹂思想の源流
ラテン語の natura は 、 周知のようにギリシア語の φύσ ις からの 訳語である 。 古代ギリシアにおける φύσ ιςは何かという問題は本稿 の範囲を大きく超えるので、本稿の問題と関連する範囲内で、スト ア派と、その思想の源流の一つであるヘラクレイトスに絞ってみて みよう。 ヘラクレイトスは 、 事物を ﹁ 自然本性に従って κα τὰ φ ύσ ιν﹂明 ら かにしていると説く ︶6 ︵ 。自然本性とは具体的に何か、ここでヘラクレ イトスは説明していない。しかし、この叙述の直前の箇所には、万 物は ﹁ 語 られた通りに κα τὰ τὸ ν λ όγ ον﹂ 生 じるという表現があり 、 さ らにその前には 、 そのような ﹁ 言 論 λό γος はここに示されている ﹂、 つまりヘラクレイトスが語っているとある。バーンズによれば、こ こでのロゴスは形而上学的な意味を付された術語ではなく、単にヘ ラクレイトスが語る λέ γειことを受けた名詞としてのロゴスにすぎ ないので、そこに何か隠密な意味があるわけではない。しかしそれ は、ヘラクレイトスが事物の生成に関する形而上学的理論を有して いないということではなく 、 反対に 、 その説明 λόγος は 、 万物の自 然本性を明らかにすることによって、自然に関する何らかの一般的 な法則についての語りを示しているとバーンズは指摘する ︶7 ︵ 。ヘラク レイトスにとって、事物の自然本性を明らかにするとは、事物が依 って立つ自然性のメカニズムに従ってその性質を解明することであ り、それはすなわち、事物を成り立たせるロゴスを知ることであっ た。生成の原理であるロゴスはあらゆる事物の自然本性に内在して いるので、たとえ自然本性が異なる事物であっても、それらは﹁共 通なもの ︶8 ︵ ﹂としてのロゴスに従って生成し、存在するという点では 同じである。このような自然とロゴスの不可分な関係に関するヘラ クレイトスの思想は、事物の生成原理を重視するアリストテレス自 然学に部分的に受け継がれ ︶9 ︵ 、そしてさらに色濃く、ストア派の倫理 思想に受け継がれていくことになる ︶10 ︵ 。 ディオゲネス・ ラエルティオスによれば 、﹁ 自然本性に従って ﹂ 生きるという考えを、ゼノンは事物の自然本性が有する完全性の相 違によって解釈し、それを、動物にとってはより低い段階の自然本107 倫理学年報第 70 集 性である衝動に従うこと、人間にとってはより高い段階の自然本性 である理性に従うことと同一視した ︶11 ︵ 。理性としての自然本性は人間 にとっての完全性を示すものなので 、﹁ 自然は我々を導いて徳へ向 かわせる﹂という働きがある。自然本性と調和して生きることは、 徳あるいは最高善に従って生きることであり、すなわち人生の目的 であるとゼノンは考えたのである ︶12 ︵ 。ここでゼノンの言う﹁自然本性 と 調 和 し て ὁμο λο γουμένω ς生 き る ﹂ と い う 表 現 が ﹁ 同 じ ロ ゴ ス ὁμο λογ ία﹂ という語を含むことに着目した中川は 、 自らの自然本性 のうちにロゴスをもつ人間にとってのみ、自然本性に従うことがロ ゴスに従うことを意味すると指摘する ︶13 ︵ 。自然本性に従うことがすな わちロゴスに従うことであるから、人間は自らのロゴスを知ること で、他の事物に共通して備わるロゴスをも知る道が開かれ、そのよ うにして万物の自然本性をあらしめる宇宙全体の理法 、 すなわち ﹁ 万物に遍く行きわたる正しいロゴス ︶14 ︵ ﹂ に従うことが可能になると 言える。 もちろん、宇宙全体のロゴスと人間のそれとはまったくの同義で はない。しかしすべての事物には、それをあらしめるための何らか の規則性が本来的に含まれているという点で共通し、そのような共 通の規則性があらゆる自然を生み出す根源となっているからこそ、 ロングの言うように 、﹁ ストア派が哲学のあらゆる側面を統一しよ うとするのは、全体としての自然にロゴスが浸透しているからに他 ならない ︶15 ︵ ﹂のである。そして、事物を秩序づける共通の理法として のロゴスが万物の自然本性に含まれていることは、ロゴスを精神の うちに持つ人間のみが認識可能な真理である。したがって人間は、 自己と宇宙の自然本性を知れば 、﹁ 宇宙の諸事象と人間の思考や言 論の間に根本的な関係﹂があることを知り、さらには﹁考え、また は話すための自らの能力のうちに、自身を世界に関係づけ、事物の 真の自然本性への何らかの手がかりを与えてくれるものがある ︶16 ︵ ﹂こ とを認識できるのである。このように、ストア派にとっては、ロゴ スに従って運航する宇宙全体を研究する自然学と、宇宙の中に占め る人間の位置づけとその自然本性を考える倫理学、そして万物に共 通するロゴスの学問としての論理学との三つが不可分に織りなす学 問が哲学に他ならなかった ︶17 ︵ 。 さて、ストア派のこのような自然本性についての考察、そして人 間と宇宙の自然本性の関係についての考察は、デカルトにどのよう に受け継がれた︵または受け継がれなかった︶のだろうか。この問 題を次に検討したい。
三.ストア派とデカルトの共通点
│認識論と倫理学の側面から
ストア派とデカルトに共通点があることはデカルトの友人バルザ ックがいち早く見抜き、中でも精神の闊達さや豊かさ、事物の原因デカルトの「自然の教え」とは何か 108 の探究に専心する等の共通点をさして 、﹁ ゼノンはデカルト氏の姿 をしていた ︶18 ︵ ﹂とまで述べている。はたして、ストア派とデカルトに は具体的にどのような共通点が見られるのだろうか。 ①ストア派は哲学を一つの肥沃な畑になぞらえ、論理学を畑の柵、 倫理学を畑の果実、自然学を畑の土壌ないしは果樹であるとの比喩 を用いて、学知としての哲学の統一性を説明している。このような 学知の統一性についてデカルトは随所で語っており、中でも﹃哲学 原理﹄序文における﹁哲学の樹﹂の説明は、ストア派の比喩と最も 親近性があると言えるだろう ︶19 ︵ 。②あるいは哲学は、立派な城壁に守 られ、理性によって統治された都市のようなものであるとするスト ア派の比喩 ︶20 ︵ は、デカルトでは﹃方法序説﹄第二部で、方法の発見に 至るいわゆる﹁炉部屋での思索﹂を述べた箇所に、対応する表現が 見られる ︶21 ︵ 。このような学知に関する共通点に加え、③ソクラテスの 観念を彼の像からの類比によって得る方法や、巨人や地球といった 大きな物体の観念を、小人や小球といった把握しやすい物体の観念 の類比から得るストア派の認識方法は、デカルトの自然学では、感 覚で捉えられない微細物質の動きを、リンゴや砂といった知覚しや すい物体の動きとの類比によって理解する方法と同様である ︶22 ︵ 。④そ して、神を自然一般と同一視する点も共通している ︶23 ︵ 。 このようにデカルトとストア派の思想には多くの共通点が見出せ る。これをデカルトの側からみれば、彼がストア派を評価した点は、 学問の統一性と、理性に従った真理の探究という二点に大きく分け られるだろう 。 前者については 、 メルの指摘するように 、﹁ デカル トの知は、ストア派の徳のように、もはや外部の自然の上に秩序づ けられるのではなく、自らの内なる法則に従って決定される ︶24 ︵ ﹂と言 えるかもしれない。事物の種や類に応じた学知の階層的分類を図っ たアリストテレスの方法や、ルネサンス期に流行したルルスの記憶 術のような博学の方法とは対照的に、ストア派とデカルトはともに、 理性に従った学知の連鎖による哲学の樹立を主張したことから、こ の点でストア派がデカルトの思想に影響を及ぼしたことは充分に考 えられる。しかしデカルトの知は、単に自らの自然本性の﹁内なる 法則﹂であるロゴスに従った考察を目的とするものではなかった。 上述の第二点め、すなわち真理の探究による徳の会得について、 コッティンガムは、真理の探究が高次の知恵や至福にまでわれわれ を導くと述べられている﹃哲学原理﹄序文を引き、真理探究の目的 におけるデカルトとストア派の親近性を認めている。そしてストア 派の哲学同様 、 デカルトの哲学を 、﹁ 倫理学上の理解と自然科学上 の理解を連結させ、実り多い人生のための方策を生み出すための完 全な体系 ﹂ であるとみた ︶25 ︵ 。 たしかに ﹃ 方法序説 ﹄ の副題は 、﹁ 我々 の本性をその最高度の完全性にまで高め得る普遍学の計画 ︶26 ︵ ﹂であり、 ﹁ 普 遍学 ﹂ とはある一つの学問や 、 雑多な知識の寄せ集めではなく 、 ﹃精神指導の規則﹄ ︵以下、 ﹃規則論﹄ ︶があらゆる研究の目的として
109 倫理学年報第 70 集 述べる ﹁ 人間の英知 ﹂︵ AT X , 360, 8 ︶ 全体のことで 、 これは ﹁ 霊 魂による認識のうちに存する ﹂︵ AT X, 359, 12 ︶ からこそ ﹁ 我々の 本性をその最高度の完全性にまで高める﹂ことができるものである ︶27 ︵ 。 このような意味で、ジルソンのように、デカルトを﹁セネカとモン テーニュの真の弟子 ︶28 ︵ ﹂とみなすことは可能かもしれない。しかし、 倫理学はあくまでデカルト哲学の果実の一つであって、それのみが 目的ではない。そのうえ、自然本性に関するデカルトの考察は、自 らの本性の向上と統御というような、内省的な側面のみをめざした ものではなかった。それでは、デカルトは自然本性の研究によって、 そのほかに一体何をめざしたと言えるのだろうか。
四.自然学研究の目的
│神の観想と実践哲学
自然本性の問題について考えるとき、デカルトにとってもストア 派にとっても、知と徳の内面的な一致や、理論知と実践知の統一ば かりが重要視されたわけではない。したがって、上述のメルのよう に、両者の思想における知の内面的統一という側面はたしかに指摘 できるにせよ、それのみに注目するのでは充分とは言えない。自然 とは事物の本性だけでなく 、﹁ 外部の自然 ﹂ をも指すものである 。 そして、我々の内面的な本性とは本質的に異なる外部の自然界の研 究を、デカルトもストア派も同様に重視した。では、ストア派にと って自然研究はどのような意義があるものだったのかを、セネカの 思想を通して瞥見しよう。 セネカにとって、自然を研究するのは、まず宇宙を構成する物質 を知るためだったが、それにも増して、そのような宇宙を創った神 について考えるためだった ︶29 ︵ 。﹁ 自然の隠された事柄 ﹂ について考え ることで、我々は﹁汚れたものから遠ざかる﹂ことができ、さらに ﹁ 魂そのものを肉体から引き離す ﹂ ことができる 。 それによって ﹁魂を解放して、天上のことを認識する﹂ことは、 ﹁人間に許される 限りで最高にして完全な善 ﹂ である 。 そのようにして 、﹁ それ以上 大きなものは何も考えられないという偉大さが神に帰せられる﹂と セネカが述べるとき、バルザック風に言えば、セネカが先取りして いたのはまさに 、﹁ 神よりも完全なものは考えられない ﹂ と述べる デカルトの姿であり 、 ま た 、﹁ 神とは 、 それより大きなものが考え られないものである﹂と述べるアンセルムスの姿でもあっただろう ︶30 ︵ 。 さらにセネカは 、﹁ 神の本性と我々の本性の間にはどんな違いが あるのか﹂と問う。肉体の無い神は﹁思惟によって見なければなら ない ﹂。 我々は神とは違い 、 肉体の中にいるからこそ ﹁ 汚 れ ﹂ が あ り 、﹁ 死すべき定め ﹂ もある ︶31 ︵ 。 セネカにとって自然を研究し 、 神 の 本性について考えることは、同時に我々の本性についても考えるこ と に な る。こ れ は 、﹃ 方 法 序 説﹄と﹁三 試 論﹂が、神 の 発 見 と 考 察 を経て﹁我々の本性を高める﹂のを目的とする点に通じていると言 えよう。デカルトの「自然の教え」とは何か 110 ではデカルトにとって、自然研究と神の考察はどのように結びつ いていただろうか。神の考察がまず自然学上の要請から行われ、宇 宙論的な観点から、つまり宇宙の創造者として神を考える︵または 神を ﹁ 精神の眼で見る ︶32 ︵ ﹂︶ 点で 、 デカルトとセネカには一定の共通 点が見られる 。 デカルトにとっては 、﹃ 規則論 ﹄ の執筆をやめた一 六二〇年代後半から専心して取り組んだ自然学の基礎として、神の 存在は不可欠だった。そして、すべての真理は神によって創られ、 精神に植え付けられたとする、所謂﹁永遠真理創造説 ︶33 ︵ ﹂によって、 自然学の基礎を探す問題は一定の解決をみた。 しかし、神は単に自然学の基礎としてのみ駆り出されたわけでは ない 。﹁ 宇宙の延長 ﹂ といった ﹁ 神の作品をより大きいものと考え れば考えるほど、ますます神の能力の無限性に気づく ︶34 ︵ ﹂と述べるよ うに 、 セネカと同じくデカルトにとっても 、 自然学を知るのは 、 我々の本性を高めるためだけでなく、最終的には、神についてより よく考えるためだった。デカルトの﹃哲学原理﹄では、形而上学と 全自然学の体系を語り終えたその末尾で 、﹁ 自然的事物のうちにさ え、絶対的に、かつ実践的以上に確実だと我々が判定するものがあ る。それは⋮神は至高に善であり、決して欺かない﹂という真理に 改めて思いを致している ︶35 ︵ 。デカルト自然学の究極の目標の一つは、 自然を創った神の観想にあったのである。 しかし、セネカにとっては神の観想のみが自然学研究の最大の目 的であったのに対し、デカルト自然学の目的は神を考察することだ けではなかった。自然学だけなく、デカルト哲学そのものがめざし たのは ﹁ 思弁的な哲学 ﹂ ではなく 、﹁ 実践的な哲学 ︶36 ︵ ﹂ である以上 、 デカルトの最終目標は常に実践に向けられていた。神の創った自然 との関係で考えるとき、それはいかなる意味において現れているの だろうか。この点を次に検討したい。
五.自然と技術
│理性の統御あるいは受動的生と、意志の
発現あるいは能動的作用
セネカによれば 、﹁ 身体的なものでも 、 精神的なものでも 、 自 然 に起因する弱みを取り除ける知恵は無い ﹂、 そして ﹁ このようなも のへの対抗策を哲学は何一つ保証しないし、何一つ役立つことは無 い ︶37 ︵ ﹂。このようにセネカが言うのは、 ﹁私たちの目標は、自然本性に 即して生きること ︶38 ︵ ﹂だからであり、自然な状態のうちに魂の幸福を 追求することがセネカにとっての徳であり、目標だったからである。 自然を探究するのは、あくまで自然の成すロゴスを知り、それに従 うためであり、同様に、自己の本性を知ることは、あくまで自己と 自己の情念を理性によって統御するためであった。自然本性を知る ことで、それに変革を加えることはセネカの目的ではなかった。 ストア派にとっての自然概念はきわめて多義的だが、中でも﹁技111 倫理学年報第 70 集 術者﹂の意味があることにここでは注意したい。ストア派にとって ﹁ 自 然は技術者である ﹂ というとき 、 そこには二つの意味がある 。 一つは自然一般の製作者、すなわち万物の究極の原因として、自然 を技術あるいは﹁技術を備えた火﹂とみなすものである。この意味 での自然は、万物に内在し、その生成や存続などのあらゆる変化の 根本原理を成している 。﹁ 作り出し 、 生み出すことは何より技術に 固有のこと﹂であるから、自然はこの意味で﹁技術的に歩む﹂もの であるとゼノンは言う ︶39 ︵ 。他方でゼノンは、自然を生物のレベルに従 って区別し、動物にとっての自然が衝動であるのに対して、人間に とっての自然は理性︵ロゴス︶であると考えた。人間にとって﹁自 然に従う﹂とは、 ﹁理性に従う﹂ことと同義であり、 ﹁完全な自然﹂ としての理性は、人間の自然本性が含む生物的な衝動を取り扱うた めの ﹁ 技術者 ︶40 ︵ ﹂ なのである 。 ここには 、﹃ 情念論 ﹄ で理性による情 念の統御を説くデカルトとの共通点を見出すことができよう。デカ ルトにとって 、 情 念をコントロールする理性はまさに 、﹁ 個別の自 然 ︶41 ︵ ﹂としての情念を扱う技術者と言えるものだった。デカルトは自 然学者として﹃情念論﹄を著したが ︶42 ︵ 、この意味で﹃情念論﹄はたし かに、個々の情念の内容と原因を自然学的に分析し、それらに対処 するための技術的なマニュアルとなっているのである。 ﹁ 情 念はその本性上 、 す べてよい ︶43 ︵ ﹂ というのがデカルトの持論で あり、その背後には、神に創られた自然︵そこにはもちろん秩序が あり、ロゴスがある︶の本来的な善性への信がある。したがって、 情念の内容と原因を知り、これに対処することは、デカルトにとっ ては自然本性に従うことと同義であり、さらにそのような自然本性 を定めた神に従うことを意味するものだった。その結果として、ス トア派と同じく 、 デカルトにとっても 、﹁ 善い生き方は自然に決ま る ︶44 ︵ ﹂ことになるのである。しかしストア派とは異なり、デカルトに とっては、自然を分析・理解してそれに従えば、それで自然研究の 目的に達するわけではない。自然を補うこと、自然に変更を加える ことをデカルトは厭わなかった。 ストア派とデカルトの相違を意志の発現において考察したオリー ヴォは、ストア派にとっての意志の本質は、あるがままの自然を進 んで受け入れようと欲することであり、そのようにして、自らもそ の一部である自然と一致して生きることがストア派にとっての徳で あると指摘する ︶45 ︵ 。自らに訪れる現象と運命は、自然によって定めら れた秩序によるのだから、そのような自然に従うこと、そしてそれ によって自然を創った神に従い、神を観想することが、われわれの 意志の目的であり、またわれわれの徳の源となる行為なのである。 対照的に 、 デカルトにとっての意志とは 、 単に欲する vouloir とい うだけでなく 、 なそうとする決意 résolution d e faire ︶46 ︵ を意味した 。 デカルトにとっては、理性に従うという意味においてのみ、ストア 派の﹁自然に従う﹂ことには同意できるものだったが、外的自然あ
デカルトの「自然の教え」とは何か 112 るいは自然一般に対しては、ストア派のような受動的な態度をとる ことは﹁学校で教えられる思弁的な哲学﹂と同様の容認しがたいも のだった。反対に、自然に対して﹁実践的な﹂あるいは﹁人生にき わめて有用な知識﹂を用いることこそ、デカルトが樹立しようとし た新しい哲学である ︶47 ︵ 。 つまり 、﹁ 生来の理性を使う ﹂ または ﹁ 善 良 な精神をよく用いる﹂だけでは充分ではなく、それらをよく用いよ うと ﹁ 決意している résolu ﹂ こ と 、 すなわち ﹁ 自由に行為する 、 つまり意志によって行為すること﹂が﹁人間の最高の完全性 ︶48 ︵ ﹂であ る以上、自然一般に対しても、自由意志を発現して実践すること、 換言すれば、自らが作用因となって自然に働きかけること、これが デカルトの自然研究の最終目標なのである。 このデカルトの姿勢は 、﹁ 自然の教え ﹂ に対したとき 、 顕著に現 れる。デカルトは﹁第六省察﹂で、水を飲んではいけない水腫病患 者が水を欲しがる例や、無いはずの四肢に痛みを覚える幻肢痛など の例を挙げているが、これらの例は、身体の何らかの障碍によって、 ﹁神の善性にもかかわらず﹂ 、心身合一体としての﹁個別の自然﹂の 教えが誤りうることを示している ︶49 ︵ 。﹁ 自然の教 え﹂は、 単に心身合 一体の維持に有益なことや不利益なことを示すだけではなく、もし 病気やケガなどで心身合一体がその﹁自然﹂な機能に支障をきたし、 通常の﹁自然の教え﹂が適合しなくなるならば、その原因を突き止 め、直すようわれわれに示す働きがある。ここから、デカルトが晩 年まで取り組むことになる医学の問題が生じる。デカルトにとって 医学とは、心身合一体の異常を突きとめ、それによって、誤って発 信された自然の教えを検知し、その異常を正すための技術であった ︶50 ︵ 。 自然本性に対する技術について、ストア派はあくまで内部世界と しての人間の本性のための方法、すなわち理性による情念の制御に 焦点を当てたが、デカルトは外部世界へ働きかける方法、すなわち 自然界に対する技術をも考え、その成果を自ら提案した。セネカは 神を芸術家になぞらえ 、﹁ 偉大な芸術家でも多くの駄作を作るのは 、 技術が無いからではなく、技術がその中で働く素材がしばしば技術 に従順ではないからである ︶51 ︵ ﹂と考えたが、それは時に﹁駄作﹂と見 えるような自然物ですら、神とその技術の偉大さを観想するために 役立つからであって、技術そのものについて研究するためではなか った。自然学についてだけなく、セネカとストア派の自然本性につ いての考察は、本質的に観想と内省の範囲に留まったのである。 これに対し、デカルトの自然学研究の実践的な狙いは、セネカの 言葉を借りるなら 、﹁ 自らの死すべき定めを飛び越えて 、 よ り良い 境遇 ︶52 ︵ ﹂を作り出すため、自然の認識を通じて考案した技術によって 自然を利用し、自然に働きかけることだった。その端的な例は﹃屈 折光学﹄に見られる。この書は、一方で光線の屈折という外部世界 の自然について、他方で心身合一体の視覚の構造という﹁個別の自 然﹂についての、二つの自然を領域横断的に研究している点が特筆
113 倫理学年報第 70 集 される。これら二つの自然に併せて作用し、それらの制御と補正を 目的とするものが、著作の後半で詳細に説明されるレンズと望遠鏡 である 。﹁ 自 然は技術によってそれ ︵ 筆者註瞳の大きさを変える 能力︶に何かを付け加える余地を残しておいた ︶53 ︵ ﹂と述べる通り、デ カルトにとって自然とは、受動的に観想するためだけのものではな く、能動的に知識を行使して変革を加えることが可能なものだった。 レンズや望遠鏡は、光線という﹁自然﹂を調整することで、視覚と いう﹁自然﹂を補い、これに不足している生来の能力を増強するも のである。ここには、自然に対して自らが作用因となって働きかけ るデカルトの能動的かつ技術的な思想の白眉を見出すことができよ う。 ストア派にとっては、自然そのものが技術者︵または技術者的な 火︶であり、自然界はその作品だった。したがって、自然を考察す ることがそのまま 、 自然をあらしめる技術 ︵ すなわちロゴスの一 つ︶について観想することになった。デカルトにとっては、技術は あくまで人間の実践的知識に属し、それによって自然に働きかけ、 これを変えることを可能にするものである 。﹁ 自然の教 え﹂は、た だ感覚に関わる情報や、身体にとって有益または有害な情報を教え るだけでなく、それらの情報に対してどう対処すればよいのかとい う考察、すなわち、技術とそれによる倫理の可能性についても教示 してくれるのである。
六.結びに代えて
│自然本性に対する実践的技術としてのデ
カルト哲学
これまで述べたような両者の相違やデカルト自身の批判にもかか わらず、デカルトはセネカを敬愛した。人生に対するセネカの姿勢 には深く共感したようで 、 セネカの悲劇の一節 ︵﹁ 皆に知られすぎ 、 己自身に知られることなく死ぬ者に 、 死は重くのしかかる ﹂︶ を二 人の友人への書簡に引用し、これを自らのモットーとして研究を進 めると述べている ︶54 ︵ 。このようなデカルトの考えは、同じく彼のモッ トーとした﹁よく隠れた者はよく生きた者 ︶55 ︵ ﹂という言葉、そして何 より、デカルトが真理の第一原理たるコギトの確立者であることを 考え併せれば、いっそうよく理解できるのではないだろうか。 セネカのこのような生き方の姿勢や徳の思想には大いに共感した デカルトだが、その自然本性の思想に関しては、幾つかの共通点に もかかわらず、終始批判的だった。それは自然本性についてのセネ カの説明が﹁きわめて曖昧 ︶56 ︵ ﹂だったことに加え、その思想があまり に受け身だったことによるとわれわれは考える。自然に従うことを 徳としたストア派の思想通りに、人間の本性や自然に関するセネカ の考察はあくまで内省的な地点に留まり、それらに対して能動的に 働きかけることは遂になかった。デカルトの「自然の教え」とは何か 114 しかしデカルトにとっては 、﹁ 精神と身体から複合された人間の 本性は時として欺くものであらざるをえ な﹂く、 ﹁ 我々の本性の弱 さを認めなければならない ︶57 ︵ ﹂からこそ、我々はまず﹁自然の教え﹂ を通じて、そのような本性を研究しなければならない。そして、た だ従容としてそれに服するのではなく、これを治したり補ったりす る余地は、自然本性には残されている。そして、それは個別として の自然だけでなく、事物の相互秩序の総体としての自然にも当ては まる。というのも、デカルトにとって技術とは、自然に対して三つ の仕方で綜合的に働きかける実践的方法を意味したからである。ま ず、情念に対する技術としては道徳が挙げられる。これは、個別の 本性としての心身合一体と自由意志の領域に関わる技術である。次 に、個別の自然としての身体の領域の技術として医学があり、最後 に、自然一般または外部世界に働きかける物理的な方法としての技 術が挙げられる。自然へのこのような三方向からのアプローチによ って、初めて人間は﹁自然の主人にして所有者のように ︶58 ︵ ﹂ふるまう ことができる 。 この表現では 、﹁ ように ﹂ という語に注意しなくて はならない。人間は、自己の自然本性に対して主人でいることは可 能かもしれないが、その他の自然を含めた﹁自然の主人﹂として真 にふるまうことができるのは、ひとり神だけだからである。自己の 自然本性に対して主人であろうとするのは、ストア派とデカルトに 共通する態度かもしれない。しかしデカルトは、さらに外部の自然 に対しても﹁主人のように﹂ふるまうことを考え、その方法を検討 した。但し、その場合に人間に許されているのは、あくまで﹁自然 ︵の主人︶ ﹂に倣った﹁技術者﹂として自然に働きかけることだけで ある ︶59 ︵ 。 自然に様々な仕方で呼びかければ、それに対して様々な仕方で自 然は応える。自然を受動的に観想するストア派に不足していたのは、 このように自然と対話する能動的な姿勢だった。デカルトにとって、 自然は固定的なものでも、硬直的なものでもないし、ましてや何ら かの窺い知れない目的のために存在しているわけでもない。自然を 多方面から考察したデカルト哲学に即して﹁自然に従う﹂という語 句を解釈するならば、それはもちろん、自然の教えにただ服するこ とではなく、理性による多様な方法を通じ、自然に働きかけること を含んでいる。さらに、それに対する自然からの反応を調べること で、自然から新たな教えを受け取り、それによって使用した技術の 適否を検証し、その結果に応じてさらに適切な技術を用いて回答を する、というような作業を繰り返すことにより、それはいずれ﹁自 然に従う﹂というよりは、自然との相互交流の様相を呈するであろ う。つまりデカルトにとっては、自然の果実をもっとも良い方法で 享受するための適切な技術の探求、すなわち、自然を適切に模倣・ 応用し、自然と継続的な対話を行うために﹁節度と慎重さ ︶60 ︵ ﹂のある 技術の探求を可能にしてくれるのが、自然の教えの効用であると言
115 倫理学年報第 70 集 えるだろう。そしてその目的は、自然に従うというようなストア派 的な徳にあるのではなく 、﹁ 万人の一般的な善 ﹂ を図ること 、 ま た は ﹁ 人は宇宙の一部である ﹂ と考え 、﹁ 自分がその一部である全体 の利益 ﹂ を自己の自由意志の使用によって図ることで 、 最終的に ﹁ 精神の満足や充 足﹂と﹁喜 び﹂ を得ることにある ︶61 ︵ 。 このようにし て、デカルトにとって自然の教えの探求は、晩年に取り組む倫理の 問題へと繫がることになるのである。 ︻文献︼
H. Diels - W. Kranz, Die Fragmente der Vorsokratiker, 1, Berlin
, Wei-dmann, 1951 ︵﹃ ソクラテス以前哲学者断片集 ﹄ 第Ⅰ分冊 、 岩波書店 、 1996 ︶. ディオゲネス・ラエルティオス、 ﹃ギリシア哲学者列伝﹄ 、中、岩波文庫、 1989. ﹃セネカ哲学全集﹄ 3、岩波書店、 2005. Hans von Arnim ︵ ed. ︶, , I-III, Leipzig, Teubner, 1903 1905 ︵ 引用は , 巻数 、 断片番号に引き続き 、 邦 訳 ﹃ 初期ストア派断片集 ﹄ 1 3︵ 京都大学学術出版会 、 2000 2002 ︶の 頁数を記載︶ Descartes, , C . Adam e t P. Tannery [ éd. ], Paris, Vrin/CNRS, 1964 1974; 1996 ︵ 引 用 は AT, 巻 数 、 頁 数 、 行 数 を 記 載︶ . Étienne Gilson, , Paris, Vrin, 1925. A. A . Long, , Lon-don; New York, 1974; London; Berkeley; Los Angeles, 1986 ︵A ・ A・ロング︵金山弥平訳︶ 、﹃ヘレニズム哲学ストア派、エピクロス 派、懐疑派﹄ 、京都大学学術出版会、 2003 ︶. A. A . Long, , Cambridge; New York [ etc. ], Cambridge University Press, 1996; Berkeley, University o f California Pres s, 2001. 中川純男 、﹁ 初期ストア派の倫理学における ﹃ 自然本性 ﹄ の概念 ﹂、 ﹃ ギリ シャ哲学セミナー論集﹄ vol. IV, 2007, p. 64 77. Klaus-Dieter N othdurft, , Leiden, E . J. Brill, 1963. Ian Logan, ’ ’ , Farnham; Burlington, Ash-gate, 2009. 小泉義之、 ﹃デカルト哲学﹄ 、講談社学術文庫、 2014 . 佐々木力、 ﹃デカルトの数学思想﹄ 、東京大学出版会、 2003. John Cottingham, , Cambridge;
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注 ︵ 1︶ 例えば V. Brochard [ 1880 ], pp. 548 552; J . Sirven [ 1928 ], p. 253 273; J .-E. d ’Angers [ 1954 ], p p . 1 6 9 196; G . Rodis-Lewis [ 1957 ], pp. 13 27; D. Kambouchner [ 1995 ], pp. 110 120; pp. 136 146, etc. ︵ 2︶ 例えば P. Mesnard [ 1936 ]; J. Dross [ 2011 ], pp. 75 96, etc. ︵ 3︶ G. Olivo [ 1999 ], pp. 234 250; É. Méhl [ 1999 ], pp. 251 280. ︵ 4︶ 一六四五年八月一八日付エリザベート宛書簡︵ AT IV, 273, 20 30 ︶. ︵ 5︶ ﹃ 屈 折 光 学 ﹄ 第 六 講 ︵ AT VI, 130, 1 1 15; 137, 1 4 ︶ 、 ﹃ 情 念 論 ﹄ ︵ I, 36; II, 89; 90; 94 ︶等に見られる表現。 ︵ 6︶ ヘラクレイトス ﹃ 断 片 ﹄ 1︵ DK 2 2 B1, 邦訳 [ 1996 ] p. 308; セク ストス ・ エンペイリコス ﹃ 諸学者論駁 ﹄ VII, 132 ︶。 なお 、 本稿で言 う﹁自然本性﹂の原語はもちろん φύσ ις /natura/nature である。 ︵ 7︶ J. Barnes [ 1979 ], p. 44. ︵ 8︶ ﹃断片﹄二︵ DK 22 B2, 邦訳 p. 309 ; ; ﹃諸学者論駁﹄ VII, 133 ︶ 。 ︵ 9︶ アリストテレス﹃自然学﹄第二巻第一章 192b35 193a1, etc. ︵ 10︶ ストア派がヘラクレイトスから受け継いだ思想については 、 A. A . Long [ 1974 ]の簡潔な纏めに加え︵ p. 145 147 [邦訳 p. 220 223 ] ︶ 、 [ 1996 ] p. 35 57 が詳述している。 ︵ 11︶ ディオゲネス・ラエルティオス﹃ギリシア哲学者列伝﹄第七巻第一 章八六節︵邦訳[中] p. 273 274 ︶ 。 ︵ 12︶ ﹃列伝﹄第七巻第一章八七節 八八節 ; ストバイオスもそのように伝 えている︵ , 2, 75, 11 76, 8 [ I, 179; 552 ] 。 ︵ 13︶ 中川[ 2007 ], p. 72. ︵ 14︶ ﹃列伝﹄第七巻第一章八八節︵邦訳[中] p. 274 275 ︶ 。 ︵ 15︶ A. A. Long [ 1974 ], p. 120 ︵邦訳 p. 183 ︶ 。
117 倫理学年報第 70 集 ︵ 16︶ Ibid., p. 145 ︵邦訳 p. 221 ︶ 。 ︵ 17︶ ﹃列伝﹄第七巻第一章四〇節︵邦訳[中] p. 237 238 ︶ 。 ︵ 18︶ 一六三一年四月二五日付バルザックからデカルト宛書簡 ︵ AT I , 200, 18 23 ︶ 。 ︵ 19︶ ﹃列伝﹄第七巻第一章四〇節︵邦訳[中] p. 237 238 ︶ ; ﹃哲学原理﹄ 序文 ︵ AT IX 2, 14, 23 31 ︶. 学知の統一については 、﹃ 規則論 ﹄﹁ 第 一規則 ﹂︵ AT X, 361, 12 18 ︶; ﹃方 法 序 説﹄第 二 部 ︵ AT VI, 19, 6 17 ︶; 第五部 ︵ 40, 21 13 ︶; 第六部 ︵ 76, 12 16 ︶; ﹃ 哲学原理 ﹄ 第 四部第二〇六 項︵ AT VIII 1, 328, 26 30 ︶, etc. ︵ 20︶ ﹃ 列 伝 ﹄ 第七巻第一章四〇節 ︵ 邦 訳[中] p. 237 238 ︶; ﹃ 初期ストア 派断片集﹄ 3︵ . II, 1127 1131. 邦訳 pp. 378 381 ︶. ︵ 21︶ ﹃方法序説﹄第二部︵ AT VI, 11, 22 12, 9; 13, 13 20 ︶. ︵ 22︶ ﹃ 列 伝 ﹄ 第七巻第一章五三節 ︵ 邦 訳[中] p. 246 247 ︶ ; 一六三八年 七月一三日付モラン宛書簡︵ AT II, 218, 14 219, 11 ︶; 一六三八年九月 一二日付モラン宛書簡︵ Ibid., 367, 21 368, 12 ︶. ︵ 23︶ セ ネ カ﹃自 然 研 究﹄Ⅰ, 第二巻第四五節 ︵﹃ セネカ哲学全集 ﹄ 3、 p. 110 ︶ ; デカルト﹁第六省察﹂ ︵ AT VII, 80, 21 24 ︶ 。 ︵ 24 ︶ É. Mehl [ 1999 ], p. 254. ︵ 25︶ ﹃哲 学 原 理﹄序 文︵ AT I X 2, 20, 2 0 30 ︶; J. Cottingham [ 1998 ], p. 7. ︵ 26︶ 一六三六年三月付メルセンヌ宛書簡、 AT I, 339, 18 20 。 ︵ 27︶ デカルトの普遍学については 、 佐々木力 [ 2003 ] pp. 224 241 を参 照。 ︵ 28︶ É. Gilson [ 1925 ], pp. 93 94. ︵ 29︶ ﹃自然研究﹄第一巻序文︵ ﹃セネカ哲学全集﹄ 3、 p. 10 ︶ 。 ︵ 30︶ この箇所のセネカの引用はすべて ﹃ 自然研 究﹄Ⅰ︵ ﹃全 集﹄ 3︶か ら 、 第三巻序文 ︵ p. 134 ︶; 第一巻序文 ︵ p. 12 ︶; 第一巻序文 ︵ p. 14 ︶ 。 デ カ ル ト﹁第 三 省 察﹂ ︵ AT VII, 48, 5 6; 51, 2 5 ︶ ; ﹁ 第一答弁 ﹂︵ AT VII, 119, 18 26 ︶; ﹁ 第二答弁 ﹂︵ AT VII, 135, 27 31 ︶; アンセルムス 、 ﹃ プ ロスロギオン ﹄、 第二章 ; 第一三章 etc. アンセルムスがセネカを 読んだ確証は無いが 、 引用した両者の表現の類似性 、 とりわけ me-lius ではなく maius という語の選択等からみて 、 ま た ﹃ プロスロギ オン﹄の弁神論的な性質を鑑みて、その可能性は高く、さらには、ア ンセルムスはあえてセネカの表現を借用したのではないかとみる研究 者もいる ︵ K.-D. Nothdurft [ 1963 ], pp. 194f; I . Logan [ 2009 ], pp. 92 93, etc. ︶。 この点について 、 アンセルムスの神の考察があくまで 存在論的だったのに対し、デカルトの神の考察は、宇宙論と存在論の アプローチをともに含むものである。 ︵ 31︶ セネカ、 ﹃自然研究﹄第一巻序文︵ ﹃全集﹄ 3, p. 14 ︶ ; ﹃自然研究﹄ Ⅱ, 第 七 巻 第 三 十 節 ︵ ﹃ 全 集 ﹄ 4, p. 121 ︶ ; 第 一 巻 序 文 ︵ ﹃ 全 集 ﹄ 3, p. 16 ︶. ︵ 32︶ ﹁第三省察﹂ ︵ AT VII, 52, 15 ︶. ︵ 33︶ メルセンヌ宛の一六三〇年四月一五日・五月六日・五月二七日の三 つの書簡︵ AT I, 143, 25 154, 13 ︶で開陳されている。 ︵ 34︶ 一六四五年一〇月六日エリザベート宛書簡 ︵ AT IV, 315, 11; 19 21 ︶。この後、 ﹁この無限性が知られれば知られるほど、それが人間の 行為のすべてにまで及んでいることをますます確信します﹂と続く。 ︵ 35︶ ﹃哲学原理﹄第四部第二〇六項︵ AT VIII 1, 328, 17 20 ︶. ︵ 36︶ ﹃方法序説﹄第六部︵ AT VI, 61, 30 62, 1 ︶. ︵ 37︶ ﹃倫理書簡集﹄Ⅺ,一 ; 七︵ ﹃セネカ哲学全集﹄ 5、 p. 37; p. 38 ︶ 。 ︵ 38︶ Ibid., V, 4 ︵ p. 14 ︶. ︵ 39︶﹃ 初期ストア派断片集 ﹄ 1︵ . I, 171 171e. 邦訳 pp. 123 124 ︶. ス
デカルトの「自然の教え」とは何か 118 トア派のこの思想には、ヘラクレイトス、プラトン、アリストテレス らの影響が認められる 。 こ れについては 、 A. A . Long [ 1974 ] ︵ 邦 訳 p. 223 241 ︶を参照。 ︵ 40︶ ディオゲネス・ラエルティオス﹃列伝﹄第七巻第一章八六節︵邦訳 [中] p. 273 274 ︶ 。 ︵ 41︶ ﹁第六省察﹂ ︵ AT VII, 80, 24 26 ︶. ︵ 42︶ ﹃情念論﹄序文︵ AT XI, 326, 13 15 ︶. ︵ 43︶ 情念は本性上、すべてよいものなので、その誤用や過度だけを避け ればよい︵ ﹃情念論﹄第三部第二一一項, AT XI, 485, 24 486, 2 ︶ 。 ︵ 44︶ 小泉義之 、﹃ デカルト =哲学のすすめ ﹄、 講談社 、 1996 ; ﹃ デカルト 哲学﹄ 、講談社学術文庫、 2014 、 p. 181 。 ︵ 45︶ G. Olivo [ 1999 ], pp. 244 245. ︵ 46︶ 一六四七年一一月二〇日付クリスティナ宛書簡︵ AT V, 83, 11 ︶. ︵ 47︶ ﹃方法序説﹄第六部︵ AT VI, 61, 28 62, 1 ︶. ︵ 48︶ ﹃ 方 法 序 説 ﹄ 第 六 部 ︵ 77, 2 7 28 ︶; 第 一 部 ︵ 2, 1 3 ︶ ; 第 六 部 ︵ 78, 8 ︶; ﹃哲学原理﹄第一部︵ AT VIII 1, 37, 表題︶ . ︵ 49︶ ﹁第六省察﹂ ︵ AT VII, 83, 24 85, 27 ︶. ︵ 50︶ P. Guenancia は自然に対する人間の二つの行動として 、 情 念を制 御する方法︵道徳︶と、外界の事物を扱う知識︵技術︶を挙げている が︵ [ 2000 ], pp. 368 369 ︶、 ﹁ 自然 ﹂ に 対する三つめの行動として 、 医 学を挙げることができるとわれわれは考える。 ︵ 51︶ ﹃自然研究﹄第一巻序文︵ ﹃セネカ哲学全集﹄ 3、 p. 15 ︶. ︵ 52︶ セネカ﹃自然研究﹄Ⅰ,Ⅰ, 16 17 ︵ p. 15 16 ︶. ︵ 53︶ ﹃屈折光学﹄第七講︵ AT VI, 159, 31 160, 1 ︶. ︵ 54︶ セネカ、 ﹃テュエステス﹄ 401 403 。一六四四年一一月一〇日付コル ネリス ・ ド ・ グラルグ宛書簡 ︵ AT IV, 726, 1 3 ︶ ; 一六四六年一一月 一日付シャニュ宛書簡︵ AT IV, 537, 9 13 ︶. ︵ 55︶ オウィディウス﹃悲しみの歌﹄Ⅲ,四,二五 ; 一六三四年四月付メ ルセンヌ宛書簡︵ AT I, 286, 2 3 ︶ . ︵ 56︶ 一六四五年八月一八付エリザベート宛書簡︵ AT IV, 273, 16 17 ︶. ︵ 57︶ ﹁第六省察﹂ ︵ AT VII, 88, 20 22; 90, 15 16 ︶. ︵ 58︶ ﹃方法序説﹄第六部︵ AT VI, 62, 7 8 ︶ . ︵ 59︶ この意味で、技術によって﹁自然を私の意志に従わせること︵ sou-mission ︶﹂が、 ﹁私﹂を﹁ 自然の所有者にして主人 ﹂ にすることであ る 、 とみなすゲルーには賛成できない ︵ M. Gueroult, [ 1953 ], p. 233 ︶ 。 例えばベーコンに見られる 、 自然の支配や命令 imperium/impero ︵﹃ ノヴム・ オルガヌ ム﹄Ⅰ, 129 ︶ というような考えは 、 デカルトに は皆無だからである。また、世界における人間中心的な考えもデカル トには無縁のものであり ︵﹃ 哲学原理 ﹄ 第三部第二項・ 第三項 etc. ︶ 、 この考えはむしろストア派の思想に見られる ︵ II, 1131; 154; 1149; 1152; 1162, etc. ︶. ︵ 60︶ 一六四五年九月一五日付エリザベート宛書簡︵ AT IV, 293, 14 ︶. ︵ 61︶ ﹃ 方法序説 ﹄ 第六部 ︵ AT VI, 61, 27 28 ︶ ; 一 六 四 五年九月一五日付 エリザベート宛書簡 ︵ AT IV, 293, 7 8; 12 13; 294, 18 19; 293, 25 ︶ . 満足や喜びは、のちに﹃情念論﹄の重要な項目の一つになる。 本研究は、JSPS科研費 20K12779 の助成を受けたものである。 ︵さとう まさと・慶應義塾大学︶
7
L’institution de la nature chez Descartes face au concept
stoïcien de la nature
Masato SATO
L’influence stoïcienne sur la philosophie de Descartes est notée chez les plus-ieurs commentateurs. Elle se borne pourtant dans la plupart de cas, à notre
con-naissance, à la morale ou à l’unité de sciences; d’où l’interprétation selon laquelle
« suivant la nature » équivaut à « obéir à l’ordre des choses », ce qui est la prin-cipale sagesse. Mais, malgré un certain nombre de points communs avec la phi-losophie stoïcienne, le concept cartésien de la nature se limite-t-il à la sphère
éthique ou à l’épistémologie ?
Les stoïciens étudient, aussi bien que Descartes, la nature au sens physique, bien évidemment. Et l’un des objectifs ultimes de cette recherche est également chez les deux de contempler la grandeur de Dieu. Quoique la recherche stoïcienne de la nature se renferme dans cette contemplation ou dans la réflexion
intéri-eure, la recherche cartésienne de la nature inclut aussi bien le côté actif de l’art
humain que le côté passif de la contemplation, de sorte que la technique est une science inséparable, de même que l’éthique qui en provient, de la considération sur la nature. Étant donné les sens multiples de nature chez Descartes, « l’institution de la nature » pourrait donner aussi plusieurs résultats.
Cet article a pour but de présenter, en envisageant ce que la nature peut nous instituer, que trois manières de répondre à l’institution de la nature résident dans trois connaissances pratiques, à savoir, la morale envers la nature de l’homme, la médecine envers la nature individuelle du corps et la technique phy-sique envers la nature en général, et que la philosophie naturelle chez Descartes
présente bien, au-delà de l’aspect passif de la recherche stoïcienne, la méthode
ac-tive et pratique, au moyen de notre libre arbitre en tant que cause efficiente vis-à-vis de la nature, non seulement pour étudier la nature, mais aussi pour la compléter et la changer.
What Kind of Teleological Conception Does Kant’s Ethical
System Require?
Airi NAKANO
Although Kant repeatedly states that religion is an inevitable consequence of morality, few people take this seriously. Traditionally, it has been maintained