[ 19 ] てーぶるとーく
ワーズワスの『湖水地方案内』と歴史
[Wordsworth’s Guide to the Lakes and History]小 田 友 弥
[Tomoya Oda] はじめに 『高慢と偏見』第2巻第4章の末尾でエリザベスはガードナー夫人から湖 水地方行きの計画を聞いて喜んでいる。この小説が出版されたのは1813年 だが、ジェイン・オースティンが最初に出版を試みたのは1797年だった。 その後彼女は出版までに加筆修正をしたようだが、湖水地方旅行に関わる 部分は初期に書かれた可能性が高い、と推測される。このエピソードは18 世紀末にはイギリスで湖水地方旅行が盛んになっていたことを物語ってい る。そして増大する旅行者向けの旅行記・案内書が次々と出版された。ピー ター・ビックネル(Peter Bicknell)の『湖水地方のピクチャレスクな風景』 (1990)は1750年から1855年の1世紀間に出版されたそうした書籍の書 誌学的研究だが、そこには160程の書名があげられている。ウィリアム・ ワーズワスの『湖水地方案内』もそうした案内書の一冊である。しかしなが ら、他書と比較すると、ワーズワスの『案内』には内容的に二つの大きな特 徴がある。一つは案内することに消極的な案内書なことで、もう一つは、他 の案内書に類例がない方法で湖水地方の歴史を語っていることである。この 歴史の扱い方は、エドマンド・バーク(Edmund Burke, 1729–97)のワーズ ワスへの影響の現れではないかと私には思われる。1.
案内に消極的とは 本論では、『湖水地方案内』の特徴として、歴史の扱い方を考察する。だ がそれに先立ち、『湖水地方案内』の概要説明もかねて、案内することに消 極的な案内書、という側面にも簡単に触れておきたい。『湖水地方案内』は 通常1835年に出版されたと理解されているが、ワーズワスはそれを第5版 と考えている。『湖水地方案内』の初版は、1810年にジョゼフ・ウィルキン ソンの版画を収めた『選り抜きの光景』(Select Views)の説明文(letterpress)として出版された。内容的に『湖水地方案内』の第5版は、地形や歴史を 語った部分(「湖水地方の景色について」)と旅行案内(「旅行者への提案と情 報」、「様々な留意点」、「遠出」)に分かれる。この構成は大筋で初版でも同様 で、35ページから46ページの第1、第2セクションが旅行案内にあてられ ている。そこでワーズワスは、自分が発掘した、既存の案内書が言及してい ない、おきまりの見物コースから外れた光景に読者を案内することを熱心に 試みている。しかし、旅行案内に臨むワーズワスのその後の姿勢には大きな 変化があった。 具体的に言えば、ワーズワスは、1820年発刊の第2版、1822年の第3 版で方向転換を図り、旅行案内部分の充実を目指さなくなった。旅人を既存 の案内書が触れていない絶景に導くことに代わるものとして彼が打ち出した のは、旅行者がどんな喜びを見出すかは、彼らが旅先に持ち込む心がけ次第 で、尊重すべきは景色の構成要素間の調和だと説くことであった。旅行者が 湖水地方をいたずらに他の景勝地と比較すれば、この地方の山や滝などが崇 高さで劣るのに失望し、この地の真価に触れることができないからである。 ワーズワスはこうして自分の案内書を、湖水地方の個々の場所に案内するこ とには消極的だが、景色に接する際の心がけを説く「心の案内書」という性 格を与えた。私はこの変化を別の論文でテーマにしているので、ここではも う一つの特徴に焦点を当てていきたい。1
2.
旅行案内書と歴史 『湖水地方案内』でのワーズワスの湖水地方の歴史の扱い方に特徴がある ことは、他の案内書と比較すれば明瞭になる。イギリスでは、ウィリアム・ キャムデン(1551–1623)が1586年に『ブリタニア』を出版したのを契機に地方史・古事物への関心が高まり、古事物研究・愛好者協会が設立され、 1616年まで存続した。この関心は18世紀に新たな高まりとなり、1717年 にはロンドン古事物研究・愛好者協会が正式に設立された。そして、この地 域の過去を探究する熱情は全国に波及し、各地の地方史書が次々と発刊され た。湖水地方の場合、最初の本格的な地方史はニコルソンとバーン(Joseph Nicolson and Richard Burn)が1777年に上梓した2巻本の大著『ウェスト モーランドとカンバーランドの歴史と古事物』で、これはしばらくこの地方 の正史扱いされた。18世紀に発刊されたこの他の湖水地方に関わる歴史書 には、トマス・ウェスト(Thomas West)の『ファーネスの古事物』(1774)と ウィリアム・ハッチンソン(William Hutchinson)の『カンバーランド州史』 (1794)があった。2 通常遺跡や歴史的建造物、過去の戦場や事件の現場、偉人の生誕地など は、自然景観とともに人々を旅行に駆り立てる大きな要因なので、旅行先の 歴史に関する記述は、旅行案内書の不可欠な構成要素である。そのために旅 行案内書の執筆者は自著に魅力を与えようと、地方史書から、自分が扱う地 域に関係する故事来歴を次々と借用した。例えばギルピン(William Gilpin) は『湖水地方のピクチャレスク美の観察記』(1786)において、ウィンダミア 最大の島ベル・アイルに関して、『ウェストモーランドとカンバーランドの 歴史と古事物』から次のような事件を取り出している。清教徒革命の頃この 島を所有していたのは王党派のフィリップソン家で、所有者の弟のロビン は悪魔と呼ばれるほどの荒くれ者であった。革命の帰趨も決した後で、ケ ンダルの清教徒派軍人ブリッグスはロビンが島にいることを聞きつけ攻撃 をしかけ、10日間も彼を包囲した。幸い兄に救われたロビンは、島を攻撃 された復讐のためにケンダルの教会に殴り込みをかけ、大きな危険を潜り抜 け生還した。ギルピンはこれをバーンらの書から借用し、内戦は戦いが終 わっても地域に反目を残すものだとコメントしている(Nicolson and Burn 1: 185–86; Gilpin 1: 139–42)。旅行案内書の歴史的事項の扱いはこのよう に個別的で、脈絡がない。ところがワーズワスは系統的に湖水地方の歴史を 提示しており、案内書には前例のないことである。ワーズワスが提示する湖 水地方の歴史の概要は次のようなものである。
3.
『湖水地方案内』における歴史第1章で述べたように『湖水地方案内』の初版は、地形や歴史を扱った
部分と旅行案内で構成されている。旅行案内は第2版以降大きく変化した
が、歴史などの部分は小規模な修正しか行なわれず、第5版に「湖水地方
の景色について」という章名で収録されている。ここではオックスフォード 大学出版局から出ている3巻構成の『ワーズワス散文集』(The Prose Works of William Wordsworth)の第2巻に収録されている第5版をテキストとし て使用する。引用や言及の末尾に付けた数字は、このテキストのページであ る。地形や歴史を扱った部分は、第3版(1822)以降3分割された。最初の セクションは 「自然により形作られたこの地方の景観」 という名称が与えら れているが、その冒頭でワーズワスは、1790年のアルプス旅行の際にスイ スのルツィルン(Lucerne)で見たアルプスの地形模型の有効性に触れ、湖水 地方の地形を、グレート ・ ゲイブル山かスコーフェル山を中心にした、8本 のスポークのような谷のある車輪に喩えている(170–73)。スポークに擬え られたそれぞれの谷筋には平野、湖、川、山があり、「しとやかさとあざや かさから最高度の壮大さや崇高さへの、段階を追った上昇」(173)が認めら れる。しかも尾根で遮られた谷は、それぞれが特徴ある景観を持っているの で、湖水地方は比較的狭い地域に変化に富んだ景色を備えている。確かに湖 水地方の景観を構成する山や谷は、スコットランドやウェールズなどのもの より規模が劣るかもしれない。だがこの地方にはそれを補う多様性があると ワーズワスは考えるのである(173–75)。 2番目のセクション「住民の影響を受けて生じたこの地方の様相」でワー ズワスは、人間のこの地の自然への働きかけを、有史以前からの住民の歴史 を ることで示している。湖水地方の最初の移住者はケルト系のブリトン人 であったが、イギリスに侵攻したローマ人がブリトン人を支配するところと なった。しかしながら、人間が入り込みにくく経済的価値も低い山岳地は、 自然に委ねられたままであった(194–95)。ローマが退去後はサクソン人、 デーン人が来襲してきた。彼らは平野部は占拠したが、山岳部に関心を示さ なかった。ワーズワスは権力者が湖水地方の山岳地を顧みない状態は、ノル
マン人のイギリス征服後も続いたとして一気に時代を下り、ノルマン人によ る封建制度確立後の湖水地方、特にその奥地に目を向ける。ノルマン人は平 野部に城や館を築いて支配したが、狭い谷筋や山岳地には興味を示さず、無 法者や羊飼い、森林生活者に委ねた。それに湖水地方がスコットランドとの 国境地帯に位置するという地理的条件が作用し、中世におけるこの地域の土 地利用形態が形作られた(195–97)。 ワーズワスはトマス・ウェストの『ファーネスの古事物』が記すファーネ ス修道院長の農地管理を手がかりに、当時の土地利用形態を推定する。その 際彼は、ウェストからの引用だとして二つの段落をあげている。最初の段落 (197)では、ファーネスの修道院長が隷農を慣習的保有農民に解放した時、 土地を分割し借地化したと述べられている。借地人は、年貢の他にスコット ランド国境有事の際には兵役の勤めを果たす義務を負う。さらに各借地は4 戸の農家に委ねられ、それらの農家は共同で兵役やその他の義務を果たす。 だが各農家の区画は確定されたものではなく、各戸は耕作地や放牧地に権利 を有していた。こうして土地が細分化されると、手入れの行き届いた労働集 約型の農業が勤勉に営まれ、多くの人口を維持することが可能になるので、 この土地分割方法は創設当初は高く評価された。 第1の段落はファーネス低地の状況を述べたものと考えられる。ウェス トの書からの二つ目の引用(198)では、ファーネス高地の隷農の状況につい て語られる。高地では牛や羊の放牧が営まれていたので、隷農の仕事は、夏 は狼から羊などを守り、冬はひいらぎの葉などの を与えることであった。 修道院長はこうした高地の領民も解放し、地代を払うことを条件に家の周囲 の小土地を囲い込むことを許可した。 スコットランドとの対立の最前線である湖水地方にとって、人口が多いの は望ましいのだが、山腹や谷筋は平坦地ほど多くの住民を維持できない。そ のために、隷農から解放された羊飼いなどが山の斜面といった条件の悪い奥 地に進出した。そして粗末な居を構え、その周囲の小土地を囲い込んでロビ ンソン ・ クルーソーさながらの生活を始めた、とワーズワスは推測する。彼 らが囲い込んだ小土地以外の耕作可能地や放牧地は共有地であったが、そこ
でも慣習により、石や木々で仕切られた区画が各人に割り当てられるところ となった。また経済的価値が乏しい山腹では囲い込みが拡大し、境界を示す 石垣が築かれ現存しているものもある(198–99)。 1603年のイングランドとスコットランドの王位統合は、このような農業 形態を維持する必然性を消滅させた。そのために湖水地方でも一戸あたり の農地の拡大が徐々に進行した。だがこうした推移にもかかわらず、ワー ズワスは1770年頃までこの地域の生活基盤に大きな変化はなかったと考え る。家族に必要なだけの穀物を生産し、羊毛を紡ぐことで得た金銭で生計を 立てていた山岳地や谷筋の上流の住民は「一切が完全に平等で、自分が占め 耕している土地の所有者である、羊飼いと耕作者の共同体」(201)を形成し ていた。ワーズワスはこの共同体で、人間の力が住居や家畜小屋、道や橋な どにどのように振るわれたかを紹介していく(201–205)。山岳地の小規模 農民には自然を大きく変える力がないので、彼らの構造物は周囲の自然と調 和し、大土地所有者のものとは異なる様相を帯びるようになる。彼は最初に コテージを取りあげているが、こうした小住居は状況に応じての変更を受け つつ、同じ仕事に従事する一家の父から子へと代々住み継がれてきた。その 結果、質素なコテージは岩から本性のままに生え出たような趣を帯び、自然 こそがこれらの住居の建設者かと思われるほどになった(202)。コテージの 屋根は表面が粗いスレート葺なので、地衣類や苔などの憩い場になった。こ うして植物の衣装を纏った建築物は「事物の生きた原理の胸元」(203)に溶 け込むことになる。このような論の流れを踏まえてワーズワスは、この地域 の谷筋の上流には、1770年頃まで「羊飼いと耕作者の完全な共和国」(206) が幾世紀にも渡り存在したと言う。これは「羊飼いと耕作者の共同体」の別 の表現だが、その住人は、自分の土地は500年以上に渡り、自分の血筋の ものが耕作してきたと自覚していた。このような羊飼いと農民が、人工物が 自然の生きた原理の胸元に溶け込んだ、湖水地方特有の景色を育んだのであ る。この「共和国」住民こそが、この地方の景観の形成者であり長年の伝統 の継承者であったのだ。 ワーズワスはここで再び話題を転じ、三つ目のセクション 「変化とその悪 影響を防ぐための趣味の規則」 で1770年以降の変化を取りあげる。彼は湖
水地方には、詩人トマス・グレイ(Thomas Gray)の『湖水地方旅日記』に 残された「この思いがけなく発見した小さな楽園」(Gray 365)というグラス ミア評から窺われるような、質素で素朴な人間社会と理想的景観が1770年 頃までは存在したと言う。だがそうした社会が1770年頃から急速に失われ、 湖水地方の景観は危機にあるという認識から、その原因と対応策を考察する ことになる。 ワーズワスはこの変化の原因を二つあげている。グレイなどの筆を通して 湖水地方の名声があがると、この地方を目指して人々が殺到し、その美にう たれて定住するものも出てきた(208)。これが原因の一つで、流入者による 自然への働きかけが、この地域に二つの害悪をもたらした。一つは趣味が未 熟な彼らは、自然の中に、明確な境界で区別されたものや、けばけばしい対 照を求めたことである(210)。二つ目は、彼らの風光明媚なこの地域の住宅 は人目を惹くものでなければならないという誤った認識と、自分の家から眺 望を確保したいという欲求である。その結果彼らは、丘の上など突出した土 地に俗悪な住居を構えることになった。こうしてグレイが目にしなかった、 湖水地方とは異質のものが根を下ろし、昔ながらの「形と色の穏やかな調 和」(210)を破壊したのである。 湖水地方の危機のもう一つの原因は、外来者の流入とともに在来の農民層 の減少が続いていることで、ワーズワスはその理由を経済的視点から考察す る。長年この地域で農業に勤しんできた人々はステイツマンと呼ばれるが、 彼らは二つの収入源を持っていた。一つは土地の生産物と羊からの収益で、 他は婦女子が手仕事で羊毛を紡いで得る金銭であった。だが産業革命による 機械化で第二の収入の道は閉ざされてしまった。しかも彼らは知識や資本に 乏しいので、最近の農業を取り巻く情勢を追風にすることができない。その 結果没落したステイツマンは土地を手放しこの地を去ることになり、彼ら によって維持・継承されてきた景観も荒廃するのである(223–24)。そこで ワーズワスは移住者に「彼ら以前の慎ましい所有者たちが、意図せず無意識 のままに ってきた素朴さと美の道から逸脱することがない」(225)ように と要請する。 以上が『湖水地方案内』でワーズワスが提示する湖水地方の歴史である。
それはケルト人の移住から彼の時代までを扱っているが、焦点は中世以降に 当てられている。中世において最も大切だったのはスコットランドからの来 襲に備えることで、防衛にあたる人員を確保する土地保有制度がとられた。 さらに羊飼いや耕作者は山岳地や谷筋などの一種の権力の真空地帯に進出 し、小規模な保有地を確保し定住した。1603年の王位統合によりスコット ランドの来襲に備える必要性は消滅した。しかし住民の生活に大きな変動は なく、「羊飼いと耕作者の完全な共和国」の住民が作りだした景観は存続し 続けた。しかし1770年頃から「共和国」を支えてきたステイツマンが、イ ギリス近代化の影響を受け衰退し始めた。それとともに、湖水地方にそぐわ ない悪趣味の持ち主が侵入しこの地方を汚すようになり、景観に危機が訪れ た。 この湖水地方史で、ワーズワスは1770年以降を下降の歴史と見ているが、 彼はそのような歴史観をどこから得たのであろうか。私は先に18世紀後半 に出版された代表的な湖水地方の歴史書をあげたが、こうした書籍の著者 は、この地方の歴史上の不遇な時代は、イングランドとスコットランドの王 位統合まで続いたが、統合により平和が訪れると、生活は徐々に向上したと 考えている。だが、湖水地方には他地域より封建時代の残滓が根強いので近 代化が遅滞している。このような歴史認識は、中世からの延長線に最高点を 見るワーズワスの見解と大きく異なっている。両者に隔たりがあることをよ く示すのが「住民の影響を受けて生じたこの地方の様相」における『ファー ネスの古事物』からの引用である。ウェストはファーネス修道院の土地分割 は多くの人口維持を可能にしたので創設当時はうまく機能したと述べてか ら、このような込み入った土地保有制度は農業改良の障害になるので、当 代には不要である、といった趣旨の言葉を付け加えている(West, Furness xxiv)。ところがワーズワスは中世以来の制度を近代化の障害と捉えるウェ ストのこの言葉を引用から削除している。明らかにワーズワスとウェスト などの湖水地方の歴史家では、中世以来引き継がれてきたものに対する評価 が異なり、彼らの書籍がワーズワスの歴史観の源ではなかったと思われる。3 なお、18世紀から19世紀初めにかけて出版された湖水地方旅行記・案内
書にはウィンダミアやダーウェント湖などでの自然破壊行為に向けられた批 判が幾つか見られるが、その破壊を歴史的に考察した例はない。
4.
バークの『フランス革命についての省察』 それではワーズワスは、前章で示したような湖水地方の歴史認識をどこか ら得たのであろうか。私はエドマンド・バークの『フランス革命についての 省察』(1790)に、ワーズワスのものに似た歴史観が流れていることに注目す べきだと思う。『省察』は二つの部分から成り立っており、最初の部分は非 国教派の牧師リチャード・プライス(Richard Price, 1723–91)への反論と批 判である。プライスは1789年11月、名誉革命から100年経たことを祝う 『祖国愛についての講話』という説教を革命協会で行った。そこで彼は、名 誉革命で人民が獲得した三つの権利に触れている。その3番目は自分自身 の統治者(国王)を選出し、統治者に不正があった場合には彼を罷免し、自 分のための政府を樹立する権利である。しかしこうした権利はイギリスでは まだ不完全にしか実現していない、とプライスは訴えた(Price 34)。バーク はこの説教に、名誉革命をフランス革命への第一歩と見做し、フランスで進 行中の政治体制の刷新をイギリスに導入しようとする危険な意図を感じ取っ た。『省察』はプライスに反論しフランス革命の原理を批判する書として書 き出された。 バークはこうしたプライスの主張、とりわけ、人民は名誉革命で新しい 政府を樹立する権利を得たという主張が誤りであることの証明に努めてい る。彼によれば、名誉革命はイギリスの法と自由の保全をうたった権利宣 言(Declaration of Rights, 1689)と権利章典(Bill of Rights, 1689)を発布 し、人民に種々の自由や権利などを認める国家の基本構造を確認したが、そ れはマグナ・カルタ(Magna Carta, 1215)や権利の請願(Petition of Right, 1628)を経て長年継承されてきたものである(Burke 81–3)。したがってイ ギリス人は名誉革命により、国家の基本構造を新たに獲得したのではなく、 祖先からの遺産として代々引き継いできたものを確認しただけなのである。 国家は一時的利益のために気ままに設立されたり、解消されたりすべきものではない。それは今生きている人々だけのものではなく、「生きている人々 と死んだ人々とこれから生まれてくる人々の共同事業」(Burke 147)として 継承されるものなのである。 バークがこのように継承を重視するのは、人間は不完全でその理性は誤り を犯しやすいと認識していたからである。国家の構造は極めて複雑で慣習的 なものなので、人間が理性によって幾つかの原理に還元できるものではな い。理性による誤りを防ぐため基本構造は世襲の遺産として継承することが 必要なのである。そのために国家の構造を定めるには歴史や伝統、長年の使 用に耐えてきたことの証である時効(prescription)、人民の心に入り込んで いたことを示す先入見(prejudice)などのサポートが必要なのである。とこ ろがフランスの国民議会はルソーやヴォルテールなどの啓蒙思想家に従い、 人間の権利を純粋に理論的・哲学的に考察した。しかし国家構造や法は、市 民社会のしきたりである慣習から生じたものだから、哲学的思索に馴染むも のではない。フランスはこの点に配慮せず、古来のものすべてを時代遅れと して捨て去り、現実社会に理性的思索から得られた結論を適用しようとし た。これは伝統や慣習、先入見の形をとって継承されてきた先人の叡智を顧 みず個人の浅薄な知恵のみに頼ることである(Burke 135–39)。その結果が フランスの混乱と破綻である。バークは名誉革命とフランス革命の原理の違 いをこのようにまとめて、イギリスが「ルソーへの改宗者」「ヴォルテール の弟子」、啓蒙思想の追随者になっていないことを喜ぶ(Burke 137)。そし て、プライスのようにフランス革命に倣おうとすることがいかに愚かで危険 なことかを説いたのである。
5.
ワーズワスとバーク、そしてエコロジー 第3、4章での要約は、バークとワーズワスにはフランス革命と湖水地方 の自然と、考察の分野に違いがあるが、中世以来継承してきた伝統を尊重 し、それを近年の新潮流から国家構造や自然を守るための防波堤としてお り、歴史認識の類似性が看取される。そこから、ワーズワスがバークから湖 水地方史の着想を得たのではないかという推測も可能のように思われる。だ が、バークとの関連はワーズワス研究上の大きなテーマの一つであったが、バークの『湖水地方案内』への影響は、これまで論じられることがなかっ た。 1790年代前半のワーズワスがフランス革命の支持者で反バークであった ことは、彼が1793年に書いた「ダンダフ主教に宛てた公開書簡」などから 明らかである。その後彼はバークの保守主義を受け入れ、革命に批判的に なっていく。だがワーズワス研究において、彼がいつ頃からバークを受容す るようになったのかについては深く考察されず、彼の「偉大な」10年が終 了したあたりからかと想定されていた。ところがジェイムズ・チャンドラー (James Chandler)は、1980年の論文「ワーズワスとバーク」、1984年に出 版された著書『ワーズワスの第二の天性』でこのような通説に挑んだ。ワー ズワスは1830年に『序曲』(1850)第7巻のロンドン議会見聞体験にバーク 礼賛の512–43行を挿入した。チャンドラーは著書でこれらの詩行を引用 し、そこに(1)抽象的権利概念に立脚した体系の糾弾、(2)長年通用してき た制度や法律の尊重、(3)生活習慣において大切とされてきた社会的絆の重 要視、などのバーク思想の根幹となる五つの概念を認めている(Chandler, Second Nature 26–7, 32–9)。そして彼は、ワーズワスはこうしたバーク的 特徴が見られる詩や散文を1798年頃から書いていたと主張し、通説の大幅 な修正を迫った。 チャンドラーがあげる例の一つがワーズワスの「道徳論」( Essay on Moral )で あ る(Chandler, Wordsworth and Burke 755–56 ; Second Nature 81–82)。1798年後半にドイツで書かれたこの論でワーズワスは、 人間の行動は習慣の結果であるが、理性が作り出す命題は、そのような習 慣を生み出すものであろうかと問いかける(Wordsworth, Prose 1: 103)。 習慣は精神が昔から羽織っていた衣服であるが、ウィリアム・ゴドウィン (1756–1836)やウィリアム・ペイリー(1743–1805)などは、それを剥ぎ取 ろうとする。これは理性偏重からくる誤りで、言葉を事態に合わせるのでは なく、言葉に事態を合わせるものだ、とワーズワスは見做すのである。 我々は以上のような「道徳論」に二つの面を見ることができる。一つは理 性により導き出された命題のみを尊重し、そうした命題に行動を合わせよ うとするゴドウィンなどの道徳論の批判である。二つ目は、ワーズワスが本
物の道徳は習慣により育まれるとしていることである。既に触れたように、 ワーズワスは1830年に『序曲』第7巻に追加した詩行で、バーク礼賛の理 由を5項目あげているが、「道徳論」はその(1)と(3)に立脚していることに なる。この例から、ワーズワスのバーク的な保守化は『叙情民謡集』の頃か ら始まっていたことが窺われる。しかしながらチャンドラーは、『序曲』に 追加した詩行の(2)に通ずる特徴を有する『湖水地方案内』とバークの関係 については言及していない。 1991年に出版されたジョナサン・ベイト(Jonathan Bate)の『ロマン派の エコロジー―ワーズワスと環境保護の伝統』は、ワーズワス研究にエコク リティシズムの視点を導入した先駆的研究書であった。彼がこの視点を用い た理由の一つは、ワーズワスの自然は自分の政治的変節(保守化)を隠 する ためのものだと主張する新歴史主義に反佀することであり、彼の『湖水地方 案内』の評価もこの姿勢の延長線上にある。彼はワーズワスが湖水地方社会 を「羊飼いと耕作者の完全な共和国」と表現していることに着目する。そし てこの「共和国」をピューリタン革命と結び付け、 イギリス共和主義を持ち出すことは、フランス革命に対する忠誠の宣言で あった。それはとりもなおさず、グラスミアの谷と共和主義を結び付ける ことによって、ワーズワスが回顧しながら、幼年時代から親しんできた田 園社会の中に、彼の革命的情熱を見出してきたことを示す。(Bate 21) と述べている。さらに、ワーズワスとバークの地域社会と人間をめぐる発 言の類似性を否定し、「自然への帰還は政治からの退却ではなく……人間の 権利と自然の権利の結びつきへと政治を導くことである」(Bate 33)と、トマ ス・ペインの著書を彷彿させるように述べ、ワーズワスの自然が革命との結 びつきを保持していると捉えている。ベイトにとってのワーズワスは、自然 の権利を擁護・回復するための革命家である。このようなワーズワス像は、 詩人は変節したという新歴史主義の主張を否定するためにも必要なことで あった。 『ロマン派のエコロジー』の出版以来20年近くが経過した。この間にエ コクリティシズムは多様な変化を見せたが、総じて革新・左翼的傾向の思考
と関りを持ってきたように思われる。そうした中で、2013年にケイティ・ カステラーノ(Katy Castellano)の『イギリス・ロマン派の保守主義のエコ ロジー』が出版された。この書の第1部「想像力」は2章構成で、第1章 はバークにあてられている。そこで著者は、『フランス革命についての省察』 が、ロマン派の時代の、環境保護を重視する保守主義の源泉であったとい う立場を打ち出している(Castellano 1)。そして、バークは土地や文化を前 世代から引継いだ贈り物と見ているが、この考えを引き継いだロマン派時 代の保守主義こそが、自由な産業活動がもたらす発展を追求する進歩・改 革派を抑止し、環境を保護する機能を持ったと主張している。ワーズワス を扱う第2章でカステラーノは、ワーズワスのバーク受容時期についての チャンドラーの説を踏まえ、『叙情民謡集』のエピタフ的詩が、過去から引 継いできた文化や景観を近代化の抑止物として提示するものと理解している (Castellano 43)。 『イギリス・ロマン派の保守主義のエコロジー』は、ロマン派の保守主義 者としてワーズワスしか扱っていない点に物足りなさが残る。しかし『ロマ ン派のエコロジー』などとは異なり、バーク的保守思想にエコロジーの源流 を見出そうとしていることや、1798年頃のワーズワスの詩にも、バーク的 思考に由来する環境保護意識を想定している点に新しさが感じられる。そし て、こうした点でカステラーノの書には、『湖水地方案内』が提示している 歴史にバークを見ようとする私の試みと通ずる側面があるかもしれない。し かしこの書も、チャンドラーの書と同様に、『湖水地方案内』には殆ど言及 していないので、私の考えを積極的に支持してくれるものではない。『湖水 地方案内』でワーズワスは『フランス革命についての省察』のものに近い歴 史認識を、湖水地方の自然を守るために用いたという私の考えと関連する 英米の研究は、私の知る限り、以上のような状況である。私が提案したこ とは、もし事実なら、ワーズワスの環境意識を考えるうえで意味があると思 う。しかし不備や準備不足な面があり、さらに深めていくことが今後の課題 である。ここでは、ワーズワスが湖水地方の歴史について構想を練っていた 頃に、バークを意識していたことを示唆するものが存在することに触れて締 めくくりにしたい。
1809年にワーズワスは『シントラ協定論』を公にしている。これは、イ ギリスがナポレオンのフランス軍に抵抗するスペインと連携し戦闘で勝利し たにも拘わらず、フランスに有利と思われるシントラ協定を締結したことへ の抗議の書である。コッバン(Alfred Cobban)やチャンドラーなどの研究者 は、ここにはバークの『フランス革命についての省察』を踏まえたと思われ る文章が幾つか存在すると指摘している。その一つが、ワーズワスがスペイ ンは革命初期のフランスからは学ぶことができるかもしれないという考えを 述べたくだりである。彼がそのように思う理由の一つは、スペインではまだ 有害なフランスの似非哲学が進展せず、「矛盾に満ちたルソーの夢想もヴォ ルテールの軽薄さ」(Wordsworth, Prose 1: 332)もこの地に浸透していない ということである。ここでのフランス啓蒙思想家への言及は、『フランス革 命についての省察』でのルソーなどへの批判(Burke 137)を想起させる。ま た『シントラ協定論』終盤の、重大事での心構えを説いた個所でワーズワ スは、「生存している人とこの世を去った人を、すべての時代の善良な人、 勇敢な人、そして賢明な人を結合する精神の共同体がある」(Wordsworth, Prose 1: 339)と言っているが、これは、国家は「生きている人々と死去し た人々とこれから生まれてくる人々の共同事業」(Burke 147)だというバー クの見解に依拠したものと推定される。4 『シントラ協定論』は、ワーズワスが時事問題に関して自分の意見を述べ た重要な散文文献だが、そこでバーク的なものがこのように使用されている ことは、社会問題を考察する際に、バークが彼の思考の支柱であったことを 示唆している。同じことが、一年後に初版が出版された『湖水地方案内』に ついても言えないであろうか。 (山形大学名誉教授) 注 1 この点について私は、小田「ワーズワスの『湖水地方案内』と「粗野で強 烈な刺激」」などで自分の考えを述べている。 2 湖水地方に関わるこうした地方史書についてはWinchester, Cumberland and Westmorland 91-106.
3 ワーズワスとウェストなどの歴史観の違いについては小田「湖水地方史の 創造」2-13。
4
『シントラ協定論』へのバークの影響を示す最初の例はChandler, Second
Nature 42–43、二つ目の例はChandler, Second Nature 43–44; Cobban 147で あげられている。なおチャンドラーは『シントラ協定論』の「生存している人 とこの世を去った人を、……結合する精神の共同体がある」と『序曲』(1805)第 10巻967–69行( There is/ One great society alone on earth:/ The noble living and the noble dead. )につながりを見ている。
参考文献
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Castellano, Katy. The Ecology of British Romantic Conservatism, 1790–1837. Houndmills: Palgrave Macmillan, 2013. (『イギリス・ロマン派の保守主義の エコロジー』)
Chandler, James K. “Wordsworth and Burke.” ELH 40 (1980): 741–71.
——. Wordsworth’s Second Nature: A Study of the Poetry and Politics. Chicago: Univ. of Chicago P, 1984.(『ワーズワスの第二の天性』)
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Lock, F. P. Burke’s Refl ections on the Revolution in France. London: George Allen & Unwin, 1985.
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Price, Richard. A Discourse on the Love of Our Country, Delivered on Nov. 4, 1789. London, 1790. (『祖国愛についての講話』)
Rignall, John and H. Gustav Klaus (ed). Ecology and the Literature of the British Left: The Red and the Green. London: Routledge, 2012.
West, Thomas. The Antiquities of Furness; or, an Account of the Royal Abbey of St. Mary, in the Vale of Nightshade, near Dalton in Furness, Belonging to the Right Honourable Lord George Cavendish. London, 1774. (『ファーネスの古事物』) Winchester, Angus J. L. “Cumberland and Westmorland.” English County Histories:
A Guide. Ed. C. R. J. Currie and C. P. Lewis. Phoenix Mill: Alan Sutton, 1994. Wordsworth, William. The Prose Works of William Wordsworth. 3 vols. Ed. W. J. B.
Owen and Jane Worthington Smyser. Oxford: Clarendon, 1974. (『湖水地方案 内』は第2巻の151–257ページ、「ランダフ主教に宛てた公開書簡」、「道 徳 論 」、『 シ ン ト ラ 協 定 論 』 は 第1巻 の29–49ペ ー ジ、103–104ペ ー ジ、 221–343ページに収録されている。) 岩岡中正『詩の政治学―イギリス・ロマン主義政治思想研究』木鐸社, 1990. 小田友弥「ワーズワスの『湖水案内』と湖水地方史の創造」『英文学研究』81(2005) 1–16. ̶̶.「ワーズワスの『湖水地方案内』と「粗野で強烈な刺激」」『揺るぎなき信念 ―イギリス・ロマン主義論集』新見肇子、鈴木雅之編、彩流社、2012、 153–72.