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3.11 後の世界を生きるための教育: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

3.11 後の世界を生きるための教育

Author(s)

宮川, めぐみ

Citation

こども文化学科紀要(1): 16-23

Issue Date

2014-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/17501

Rights

沖縄大学人文学部

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【研究ノート】 3.11 後の世界を生きるための教育 宮川めぐみ 要約 3.11 後の世界と公教育を,我々はどう再構築し,子どもたちを育んだらいいのか。現在の日本の教 育理念,及び特徴的な二側面(正解主義と競争主義)から省察する。この二側面は日本社会にも 影響を及ぼし,かつ倫理的思考や態度を妨げていないか。また,原発問題と共通する課題を有す る沖縄の文脈を踏まえ,新しい価値観に基づく社会と教育を求める動きを紹介する。 キーワード 3.11 日本の教育 オルタナティブ教育 トランジション はじめに あの,東日本大震災,そして原発事故から3年が経過する。私達はこれからも「3.11 後の世界」 を生きることになる。子どもたちや生まれてくる命を3.11 後の世界に生きさせてしまう責任を, 謝罪と共に取らねばならない。ならば,これからどのように子どもたちを育んでいったらよいの か。この壮絶な経験は,多くの人々が信じてきた前提や常識を覆した。3.11 後,様々な分野から の検証や論考が始まっているが,「教育」の側面からの省察も必要ではないだろうか。原発事故と, 背景としての日本の教育の間の因果関係を証明することが困難であることは承知している。しか し,それでも,まだ試論の段階の,この論考を記すのは,この甚大な犠牲を生みながら,何もなか ったかのように,同じ歯車を回し続けていていいのだろうか,という問いと,絶対に繰り返して はいけないという偽らざる思いからである。スローガンでも建前でもなく,絶対に。公教育は, 意図的で集団的な営みであり,日本という歯車を回す原動力のひとつとしての役割を課されてい る。その教育は,子どもたちの命と暮らしを守り,未来につなぐ責任の一端をどのように担うの か。今回の原発事故,そして同根の問題を抱える沖縄の文脈から日本の教育を省察することを通 して,3.11 後の世界を,我々はどのように再構築していくのか,3.11 後の世界を生きさせてしま う子どもたちに,何をどのように学んでもらったらいいのかを,当事者の一人として省察するこ とをお許しいただきたい。 尚,本稿で3.11 として扱うのは,主に東京電力福島第一発電所の事故に関連する事柄である。 Ⅰ 3.11 から見える日本の公教育の課題 1.3.11 と日本の教育理念 本稿のはじめに,日本の教育の理念と現状を確認したい。日本は 1990 年代後半から,教育理念 として「生きる力」を掲げている。今回の原発事故により,広範囲にわたる子どもたちを,放射 能による健康被害の可能性という新たな脅威にさらしてしまった。危険にさらし,子どもたちの 生きる力を育むどころか阻害しているのは,本来,子どもたちを命がけで守るべき大人たちであ り,許されることではない。重ねて事故後に次々と起きた事柄も,理念とは裏腹な行動であった。 福島原発の事故直後,政府は,それまでの何十倍も安全基準値を緩和し「直ちに健康に影響はな い」根拠とした。その安全基準値そのものの問題と,事故直後に緩和するという,二重の背信。 文部科学省や自治体行政による放射線量計測方法の妥当性への疑問。国内外の専門家たちから警 鐘を鳴らされている,被ばくの可能性の高い子どもたちへの向き合い方。本来,学校,自治体,

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そして国家は,家庭と協力して,何よりも子どもたちの命と健康を最優先に考えなければならな いのに,実際は,一部の大人の都合が優先されている。それは,これまで繰り返してきた,国策に よる失敗を真摯に反省し,予防原則をもとに,科学的態度で目の前の事実を一つ一つ検討するの ではなく,先に結論ありきの姿勢であった。 不安な市民や親たちは,それに対し,子どもたちや自分たちの身体の異変,数値,海外の研 究論文といった事実を一つ一つ示しながら反証しなければならないという,途方もない繰り返し を続けている。自前で高価な検査機器を用意し,定点観測をし,行政と学校に頼んでも計測して くれない為,修学旅行先にも計測にいく。予防原則に基づいて子どもたちの安全を最優先に考え るという「当たり前」のことが,学校・家庭・行政の共通の原則にもミッションになり得ていな い。なぜ,対立せねばならないのか。子どもたちの「自分の身体の将来に自信が持てない。やる 気がしない。頑張っても仕方がない」「どうせ子どもを産めないし結婚もできない」「嘘をついて はいけないのではないの」「どうしてこんなに原発をつくったの。なぜ命がけで止めてくれなかっ たの。」という言葉に込められた悲しみと憤り。「大人たちは,本当は自分を守ってくれないのだ, 自分の命は大切にされていないのだ,自分たちの命よりも大事なものがあるのだ」と悟った彼ら。 被災の後,追い打ちをかけて子どもたちを襲った更なる絶望感と不信感。教育理念である「生き る力」を育むことと逆行した現状が続いている。 2.問いを封じる正解主義 現在,日本では子どもたちの思考力,活用力,発想力を育てなければ,という掛け声が大きい。 しかし実際は,依然として「正解主義」が強い。自分で熟考せず,最短距離で解決する答えをす ぐにほしがる,わかりやすいものになびく,などと批判される日本人の特徴と,正解主義教育の 影響は重なる。筆者が県内で学習支援を行っている小学生たちにも,その傾向はよくみられる。 HOW の問いまでは「解ける」が,WHY を投げかけると「なにそれー?」「いいさそれは」「答 えが合っていればいいよ」と逃げ腰になる。日本の学校では「正解」とされるものを正確に再現 することが高評価につながる傾向が非常に強い。この場合,正解や考えるべき範囲,想定は,上 から示される。自分自身の思考は,基本的に,あらかじめ存在する正解の獲得のためのものであ る。より速く,より多く,正解を得ていくために,方法の改善や工夫は必要とされるが,それは あくまで「その正解」を得る近道のためのものだ。そのような学びにおいては,正解は教科書や 教師が持っていて「そもそも,なぜ?」の前提部分や妥当性(倫理的な視点も当然含まれる)を 問うことは基本的に必要とされない。今回の原発事故を引き起こし,現在に至る問題の一要因と して,この「正解主義」の影響は無視できないのではないだろうか。 国策を遂行する組織では,往々にして基本的に「そもそも」の前提部分を問うことは基本的に必 要とされず,安定した組織と自分の立場を維持するための努力は要す。改善や工夫は必要でも, 本質的な意義を問うことは求められないか,許されない。(しかし,差しさわりのない範囲で主体 性と創造性を要求される!)上から示されたミッションを滞りなく遂行することが重要で,基本 的に受身で,責任感に乏しくなる。正解主義に加え,学校にも導入されたPDCA(PLAN(計画), DO(実行),CHECK(検証), ACTION(修正)サイクルの疑いなき遂行という,手段の目的 化が当然になると,原発の是非や安全性への疑問は,ますます耳障りな阻害要因でしかない。目 標管理と評価システムの設定の仕方によっては,原子炉の亀裂さえも,目標達成のための阻害要 因にしか見えなくなる。この思考枠組みでは倫理的側面は欠落する。さらにそういった組織や政 府だけでなく,原発事故を「受けた」(原発を容認してきた)側である一般の日本人にも,同様の 側面が見える。民主主義社会であれば,一人ひとりが事実から検討し,示されたことが「妥当な

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のか/それ以外の解はないのか」を自身で判断しなければいけないのだが「上の人が言う(=正解) のだから大丈夫」となり,問題意識を持つ人,行動する人を「上の人の言うことを聞かない,秩 序を乱す迷惑な人」と非難したり,異論がでると対話ではなく断絶が起きやすい。「上」と異なる 意見に辿り着いた人は,しかし,同調圧力の強い組織や社会,学校の中では,軋轢をさけるため に,大きな声は出しにくい。だから外から一見すると,その学校やその地域は,同じように考え, 動いているようにみえる。新たに疑問を持った人は,孤立感をおぼえ,つながりづらく,自分の 考えを殺してしまう。正解主義のなかで,異なる独自の意見を持つことは,生きづらさにつなが ってしまう。建設へのプロセスの初段階では反対が強かった原子力発電所立地地で,次第に賛成 に傾くプロセスにおいても見られた様相である。 正解主義に慣れてしまうと,我が身を守るためには,その時々の強いほう(これが示すものを正 解とする)をみて,自分が得をするほうを選ぶことが得策となり,問う事,思考することを止め る。子どものいじめ問題は,大人が選んだ社会を写す鏡だ。 枠組みを問わないため,普段の教育実践においても,前提や現行のしくみを検討する,という 根本的な問いを置き去りにしがちになる。学習指導要領やめまぐるしく変わる方針の中で,その ものを問うことなく,常に降りてくる方針に合わせた「よい授業づくり」であったり,現行のエ ネルギー政策の範囲の中で,自分たちにできることを探すことであったり,格差の原因である不 公正な政治・貿易システムを問わぬままの「貧しい人のために『効果的な』援助をしよう」のよ うに。家庭においても,我が子は今のシステムの中の勝ち組にしよう,学校でも「とりあえず今 のシステムで有利などこかに就職・進学させるように対策しよう」と皆が再生産の一部になる。 それでは,いったい誰が「今よりも良い」世の中をつくっていく主体になるのだろうか。「正解」 に吸収されないような想像力と批判的検討力が,子どもたちの生きる力を育むことに繋がる。実 際,筆者の経験からは,本質的な理解のないまま,ただ「問題を解ける」子どもたちが多いと危 惧している。与えられたものをただこなすのは,「現行の在り方の,省察なき再現・適応」の練習 で,ただ従順な人材育成にもつながる。また,教科書や教師といった,現在,もしくは―世代前を 「正解」とし「到達目標」にしてしまう。学校で扱う内容は,ごく一部にすぎず,また,「事実」 として書かれている事柄も,現段階での仮定にすぎないにも拘らず。教科書や教師は,その先に 行くためのたたき台や試論だ。そうでないと,教科書や教師がゴールになり,今よりいい世の中 を,そもそも目指しにくい。子どもたちに,社会とは,実は絶対的な正解などないものの集まりで あることを正直に話し「君たちは,今の大人たちのつくっている社会よりも,もっと皆にとって いい,君たち自身が決めた,実現したい社会や人生を実現していくんだよ」と送り出さねばなら ない。なかでも沖縄の現状と未来を考えたとき,沖縄の子どもたちには,その力を育む責任があ ると感じる。彼らが今後,世の中を構築する主体となる為には,誰かが示した(東京から来がち だ)「正解」をただ再現する力をつけるのではなく,批判的に検討し,正解のない問いと格闘し, 自ら問いを立てる力をつけること,そのような学びへの転換が急務である。社会構成主義や脱植 民地主義を意識した教育が参考になる。 3.一元的な価値観に縛る競争主義 日本の教育において,正解主義と軸を一にし,補強する機能を持つ競争主義。競争とは,基本的 に「一斉に同じ」ゴールを目指す。画一的な価値観のもと,レースに勝つことを目指させ,基本 的に「もっと速く,もっと多く」とプレッシャーをかける。ここでもやはり,競争の意味や,ゴ ールの意味を問うことは置き去りになり,そのレースに参加しないことは許され難く,ドロップ アウトとされがちだ。正解主義同様,誰かが設定したゴールに向かって,誰かが引いたライン上 を,一生懸命走る。日本の公教育は,歴史的に「受験戦争」と言われてきたように,他国に比べ

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ても受験(かつてはその先に大企業)という画一化,序列化されたゴールをモティベーションに し,競争主義的な側面が非常に強い。気を付けないと,今や出生前から受験レースに参戦させら れそうになるほどだ。これは「与えられたミッションに対して精一杯がんばる」「他者よりも」と いう心性を生み,また支えられている。原発事故や,日本で起きてきた同根の問題の責任者たち は,一般的に,このレースの「勝者」であり,この国の公教育のメインストリームにうまく「乗 ってきた」結果として,その立場を獲得している。同時に,それを支えてきた我々日本人は,大 抵は同じレースに参加してきた。 日本人の課題として,社会や他者への無関心という点が指摘され,その態度は,いじめの深刻化 の要因とも重なる。しかし,競争に追い込まれていれば,その態度は必然だ。競争とは,他者よ りも先んじることを目指す。そして,目的は常に未来にあり,現在は,未来の目的にとって有利 に働くものを選別しようとする。そのような人や時間との付き合い方は,他者とのつながりや関 心,意欲を限定する。自分の内なる感性も抑制される。こういった側面に関し,吉田敦彦は,ア メリカ主導の自由貿易協定(NAFTA)締結前後のメキシコの人々の変化を例に,興味深く指摘 している。こういったメンタリティは沖縄が苦しむ構造的暴力や構造的差別の素地としても指摘 できる。他者の痛みに寄り添うことよりも,自分が抜きんでることが優先されるのであれば,不 利な立場の人たちは,常に必要とされるのだ。 学校は「規則やルールは守るもの」の一点張りで子どもを従わせようしていないだろうか。単一 のゴールや細かい単一の規則に,有無を言わせず,皆を従わせるという発想は,そもそも,子ど もたちが多様でなく,単一的であるという前提がなければ,成り立たない。日本では法律家にし ろ教員にしろ,養成段階において,法律や法規は,記憶するものであって,批判的に検討する経 験がないことが大半である。決まっていることに,ただ黙って従うのが得,という心性は,実社 会では長期的には身を守ることにならない。民主主義国家を担う準備として公教育があるならば, 学校のルールは絶対的な正解ではないし,勝手に破ればいいものでもない(ことを、身をもって 学ぶ場であるべきであろう)。規則も,法律も,常に自分たちで検証し,皆にとって,よりよきも のを求める努力を怠らず,そして責任もとる。このことを日本の子どもたちが学び,経験しても らうことが,現在のお任せ・観客民主主義がつくっている生きづらい日本から脱し,危機を回避 することにつながる。 沖縄の小学校によくみられる,子どもを頻繁に表彰(=相対評価)することも気掛かりだ。外部 評価や物質的褒賞を動機にする習慣づけは,子どもが評価のために学ぶように誘導してしまうし, その評価基準に盲目的に順応させてしまう。これもまた,強い者・上に立つものに従順になるこ とで保身をはかる心性につながりやすい。(ちなみにヨーロッパ諸国では,子どもを相対評価する こと自体が戒められている)原発事故を引き起こした反省からも,評価や物質的褒賞に依存しな い、自律した倫理観を持つような人を育てる教育が重要である。そのためには,評価に依存しな い教育に変わることが必要だ。正解主義や競争主義は,倫理という観点を凌駕し,駆逐してしま う。 Ⅱ 3.11 後の世界とは ―どのような世界を志向し,真の生きる力を保障するのか― 3.11 後の世界を生き,築く力を育む教育のあり方を考えるとき,まず,これからどのような世界 にしていきたいのか,を考える必要があろう。そうすれば,教育の姿は,おのずとみえてくる。 ここではその取り組みの例を紹介する。 日本国内では,3.11 以降,関東を含む東日本から,相当数の人々が避難し,そして,移住という 決断をしている。彼らの多くは,当初は予防原則に基づいた危険からの避難であったが,彼ら自 身の今後の人生を「これまでとは違う3.11 後の世界を生きるために,自らもその世界を再構築し

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ていく」ことを明確に自覚している。もっと言えば,そのような彼らの中には,3.11 以前から, 既に日本のエネルギー政策や世界の主流の経済体制や政治システム,そこに勝者として乗ろうと する暮らし方,それを支える価値観の著しい歪みに気づき,批判的に検証し「3.11 後」を目指し ていた最中であった人たちも少なくない。大量生産・大量消費・市場経済至上主義との更なる決 別をめざし,排除と格差を助長する弱肉強食の新自由主義的社会の在り方ではなく,皆が声をか けあい,支え合う社会やコミュニティの実現を目指している。こうした流れは,世界中で3.11 以 前からはじまっていたものである。一例をあげると,2005 年にイギリス南部の小さな町で始まっ たトランジションタウン運動がある。トランジションタウン運動とは,石油などの化石燃料に過 度に依存した社会経済システムから,自然との共生を前提とした持続可能な社会経済システムへ の移行を目指す市民の,創意と工夫による草の根の運動である。3 年弱の間にイギリス全土は勿 論のこと,欧州各国,北南米,オセアニア,そして日本と世界中に広がり,現在は,世界では非 公式のものも含めると1800 か所,日本国内では,36 か所を数える。彼らは「国家のリーダー達 はこれらの問題に有意義な方法で取り組もうとはしていません。この期に及んでも。」「政治的指 導者が問題を解決しようとしないなら,いったい誰が解決するというのでしょう?と」と問いか ける。誰かを待つのではなく,必要を感じた自分自身が,それをはじめる。周りによびかけて共 に取り組むことで,「そうでありたい社会」の実現を目指す。地域住民の創造力と適応力を引き出 し,地域にある資源を最大限に活用する。より良い未来を想い描き,その実現が十分に可能であ ると信じて,楽しみながらつながる。国内では3.11 以降,エネルギーを,今までの中央集権型か ら,住民が自ら参加出来るような自立分散型への移行をめざす動きが加速している。彼らが目指 すのは,エネルギーシステムの移行そのもの以上に, それによってもたらされる,地域の豊かな 未来である。 緑豊かで清らかな空気と水に恵まれていた福島県や東北地方では,トランジションタウンを名乗 らずとも,先見の明をもって,このような暮らしを始めていた人たちが大勢いたことを付け加え たい。しかし,今回,放射性物質は彼らの頭上にも,容赦なく降り注いだ。丹精込めて耕した土 地や,彼らの生活を支え,家族同然であった動物たちと別れなければならなくなった人たちがい る。この痛恨の極みを,沖縄の人たちならば,共感をもって受容できるのではないだろうか。 一方,3.11 後,素早く「10 年間で原発ゼロ」に舵を切ったドイツの動きも参考になろう。保守 層を支持基盤とするメルケル首相は,産業界の要望に応じて,前年に延長を決めた自らの政策を, 福島の事故を見て「倫理委員会」の「原発利用に倫理的根拠がない」とする提言を受け入れ再転 換した。当事国の日本より素早い選択の根拠が「倫理」にあったことは学ぶべき視座だ。もう一 方の背景に,チェルノブイリ原発事故直後からの四半世紀にわたる市民による活動の蓄積がある。 環境先進国と評され,環境教育面でも日本から参照されてきたドイツの子どもたちは「学んだら, その日から実行する」と言われる。学校において,ただ,理想を知識として学ぶのではなく,実 際に行動につなげることを重視する環境教育が背景にあり,更に一歩外に出たときに,行動して いる大人たち,それが反映されている社会のしくみが日常を構成している(政治的に揺れること があったとしても)ことが大きい。ドイツの大人たちの,他国での出来事を対岸の火事とせず, 我がこととして真剣に考え,取り組む姿は,つくられた教育よりずっと「教育的」な影響を,説 得力をもって子どもたちに及ぼすに違いない。学校や限られた場所で理想を語り,学習の中だけ で体験をし,知った気,やった気になり,目の前の,そうでない社会をただ憂いながら,だんだ んと諦めていきかねない態度とは決定的に違う。その蓄積の差が子どもを守る力の差につながっ ていると痛切に感じる。学校内では理想を学び,外にでれば全く異なる価値観で大人たちが動い ているのでは,子どもたちに「タテマエ」の存在を教えているにすぎない。大人自身が,真剣に 子どもを守ろうと力を尽くす姿をみせることが,全ての大人が担える,何よりの「生きる力」を

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育む教育なのだ。大人が,まずその姿をロールモデルとして見せなければなるまい。 日本でも,3.11 以降,行政に危機感を持つ市民や子どもを持つ親が,行政の姿勢が変わること をただ待つわけにはいかず,各地で市民測定所を立ち上げ自主計測をはじめ,情報発信をしてい る。これまで自分が上からくる答えを待ち,検討しなかったことで,このような事態を招いてし まったことを悔やみ,反省し,目覚めた母親たちの行動力と判断力は,特筆すべきものがある。 これらこそは,今,日本の大人が示せる「子ども達の生きる力を育む教育実践」の姿であろう。 Ⅲ 3.11 後の世界を生きる力,築く力を育む教育とは ~人をなりゆきまかせの客体から, 自らの歴史を創る主体に変えていく~ (1985 年 ユネスコ学習権宣言より) 1.オルタナティブな視座から 現行の公教育が,これまでの価値観から生まれ,それを支えるための役割を担い,鶏と卵のよう な関係を結んできたとしたら,「3.11 後の世界」を生きる子どもたちのためには,どのような教 育が必要なのだろうか。ある社会を実現させるために不可欠なエンジンとして教育を捉えたとき, 「単に現行のシステムを支えるもの」としてではない教育の必要が,切実に求められている。持 続可能な社会と教育の模索と実践が行われ,日本各地で広がりをみせている。一部の私立の学校 や,オルタナティブ教育といわれる学びの実践がその一例である。それらは,世界各地での長い 歴史と実績のある教育哲学を基にした教育実践であったり,前章までに指摘してきたような日本 の社会構造と子どもたちへの影響を鋭く見抜いたうえで始まった学校など,それぞれにユニーク で,現代日本で子どもを育む一翼を担うものとして認められてきている。しかし,これまで主流 のメディアはこれらの国内外の状況や動きを,ほとんど取り上げず,教員養成のプロセスの中で も,扱われないことが多かった。そのため,実践が先行している地域を除けば,教員にも,教育 行政にも,いまだにあまり知られていないようだ。しかし,市民と国会議員の間では,子どもた ちの必要に応じる「多様な学び保障法」制定を目指した動きがある。(オルタナティブ教育の役割 と広がり,制度的制約に関しては別の機会に記したい) このような発想は、沖縄において深刻 な「中退」「不登校」の課題にも、発想の転換によって,風穴を開けるものになりうる。 教科書依存度の高い,現在主流の学校教育では,多数派の社会制度や価値観しか扱わない傾向が 強い。例えば,近年,必要が言われている金銭教育は,グローバルマネーをうまく使いこなし成 功するために,という価値観に基づき,そもそもグローバルマネーや投資の在り方への問題提起 や,地域通貨については学ばないし,キャリア教育でも,現行のシステムの枠組み内での有利な働 き方への志向が支配的で,前章で紹介したような,世界中に広がる世界観に触れる機会が少なく, 子どもにとっての発想の幅や選択肢を狭めている。多様(オルタナティブ)な価値観や世界観を 知らせることは,子どもたちの生きる力を支えることに役立つであろう。 2.沖縄の文脈を活かし「じんぶん」を育む学びを 東京とは,何と他者に依存してようやく立っているのだろう。現在の日本の教育や,それを支え る価値観というのは,東京の文脈を背景にした,いわば「東京システム」を担う人材を想定した 教育だったのだ,という事を,筆者自身,東京から沖縄に来て,改めて痛感した。基地や原発問 題などに以前から関心を持ちつつも、ここまでとは気づけなかったことであった。沖縄県民にと って非常に重要な課題は,政権交代がかかった今回の衆議院選挙でも,県外では,殆ど取り上げ られることはなかった。ならば,沖縄の未来のためには,むしろ,沖縄の未来を担う人材は,沖 縄の文脈を意識して県内でしっかりと育てていき,地域を主体的に支える人材と仕事を創出する

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ことが,もっと必要ではないだろうか。 その方法のひとつとして,投票率の低い沖縄の若者の政治的関心を喚起したり,社会問題の問題 解決方法を学ぶシティズンシップ教育の取り組みがある。シティズンシップというと,遠く聞こ えるかもしれないが,沖縄の文脈を踏まえることが有効だと提案したい。それこそが,学びが, 持続可能で豊かな地域と暮らしの実現につながるからだ。古来,この地の人々がしてきたように, 人間が生かされるということは,自然に頭を垂れ,月の満ち欠け・潮の満ち引きとつながり,他者 を想いながら暮らすこと。分け合い,搾取せず,取り過ぎないことで,持続可能になるというこ と。自然と対話しながら,今日の自分の過ごし方決めること。そうすることで,台風や厳しい自 然の中で生きることを許されるという感覚。沖縄の生活の歴史の中で,幸と痛みとの両面から経 験してきたことであろう。沖縄の経験から生まれた学びを,再び公教育のなかで活かしていくな らば,それは「地域」と再び,鶏と卵の関係を結び直し,持続可能な地域発展につながるであろ う。今,沖縄が直面している危機的状況を乗り越えるとは,近代教育の再定義、東京発の教育方 法の受け入れ方の検証を迫ることでもあるのかもしれない。 「じんぶん」を育むような学びを,幼児教育や学校に,もっと取り戻せないだろうか。現在,沖 縄では,幼児教育強化の必要性を求める声が強まっている。しかし,幼児期の子どもたちの発達 段階に必要な学びは,学童期以上のそれとは大きく異なる。学校教育的なことを早期に持ち込む よりも,適切な見守りのもとで,自然や人との直接の関わりを多くして頂きたい。今の沖縄の状 況では,厳しい状況が多い家庭以上に,幼稚園や保育所,学童を中心とする活動での試みからは じめるほうが現実的であろう。幼い頃には,たっぷりと野山や大地,海と共に遊ぶ。考え,工夫 をし,他者と譲り合いながら,自然への畏れを自然と身に着けながら成長することができる。そ の原体験は,学校に入ってからの学習や社会生活の礎となる。その経験には,国語・算数から倫 理的側面を含む,全教科の基礎,いやそれ以上の真実が詰まっているのだ。学問とは,世界を読 み解き,捉え直そうとする営みであるのだから。人生の最初は,まず「自分の生きている世界」 を主体的に,具体的に経験し,味わうことが何より必要だ。友達と,どうしたら平等におやつを 分け合えるのか,と悩む経験が,後から「あれは割り算だったんだ」となる。風や光を感じて, 思わず言葉が口をつく。友達と喧嘩をして気まずくなって,どうにか仲直りをしたくて,言葉や 態度を考える。周りの子や先生にわかってほしくて,一生懸命言ってみる。机の前で言葉や表現 を教わる前に,表現したくなる体験をたくさん積むことだ。具体的体験の一つ一つと,培われた 感性こそが,言語を育て,思考を育て,本質的で哲学的な問いとの対話がうまれる。それが,後 の抽象度の高い,高度な思考の根になる。この事は,筆者自身が教員養成を担当する中で経験し た事々だ。健康な根を張るほどに,木は成長し,豊かな枝葉をつける。それができたら,自分で 栄養を取り込み,成長をしていくことができる。幼児期は,枝葉の前に「生きる力」の根をしっ かりと這わせる,人生で最も大切な時期である。 ~終わりに~ 昨年から、沖縄大学における「3.11 後の世界」の授業の 1 回を担当させて頂く機会を頂いた。沖 縄におけるこのテーマの重要性に心から共感するとともに,このような問題設定をされる沖縄大 学の知性に感謝したい。今後,福島に関して,様々な側面からの検証がされるであろう。水俣病 が「水俣学」に発展したばかりであるのに,繰り返す愚かさに,申し訳なく,悔しい。 日本の各地につくられた構造的暴力,構造的差別の形。日本人のだれもが,加害側と被害側の両 側に立っている。宇井純氏が言ったように,両論併記=客観ではない。沖縄の人々がこれまで訴 えてきたことが,この3.11 を通じて「内地」の多くの人に我がこととして,可視化されたのでは ないだろうか。この痛みは共感関係を結ぶきっかけになりえないか,と思う。共感は簡単ではな

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い。しかし,簡単ではないと知りながら,相手の痛みをわかろうとする覚悟は,我々を意のまま にしようとする大きな力さえ,はねのけることができるのだと,そして,自律によって,今の日 本社会を覆ういびつな依存関係から脱していかねば,と痛切に感じている。 最後に,甚大な津波の被害を受けた釜石で,登校した子ども達全員が助け合うことで生存を遂げ た「釜石の奇跡」の中心となった釜石小学校の校歌の詞を紹介したい。この校歌を歌う学校には 「共に生きようとする」豊かな力が育まれていたであろうことが窺われる。子どもたちの生きる 力は,大人の誠意と共感に包まれた日常の一つ一つの営みによって育まれるのだろう。 釜石小学校 校歌 井上ひさし 詞 いきいき生きる いきいき生きる ひとりで立って まっすぐ生きる 困ったときは 目をあげて 星を目あてに まっすぐ生きる 息あるうちは いきいき生きる はっきり話す はっきり話す びくびくせずに はっきり話す 困ったときは あわてずに 人間について よく考える 考えたなら はっきり話す しっかりつかむ しっかりつかむ まことの知恵を しっかりつかむ 困ったときは手を出して ともだちの手を しっかりつかむ 手と手をつないで しっかり生きる <加藤彰彦先生 退任記念論集に寄せて> 加藤彰彦先生のフィールドであった横浜の寿は,東京圏で「じんぶん」を学ぶ貴重な場所であっ た。寿と沖縄での加藤先生の活動は,見事に時空を超えてつながっていて,温度差を感じない。 筆者が,字を識ること,学ぶことの意味と希望に再び目を開かせていただいた寿は,野本三吉氏 が残した温かな空気と信念の残り香に包まれていた。人が自分の意志で喜びと共に集う学び舎の 雰囲気とは,このようなものであるのだと教えられた。このことを,現在,厳しい状況にある沖 縄の子どもたちとの小さな実践に活かし,返すことができたらと願っている。 <参考文献> 浅野誠 (2011)『地域おこし・人生おこしの教育』アクアコーラル企画 矢部史郎(2012)『3.12 の思想』以文社 吉田敦彦(2009)『世界のホリスティック教育~もうひとつの持続可能な未来へ』日本評論社 和合亮一(2012)『ふるさとをあきらめない フクシマ,25 人の証言』

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