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台湾・過去と現在-うるわしの島・台湾-: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

台湾・過去と現在−うるわしの島・台湾−

Author(s)

石川, 政秀

Citation

沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 14(2): 1-21

Issue Date

1990-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6786

(2)

湾・過去と現在

_うるわしの島。台湾一

石川政秀 現在、台湾省と呼ばれる地域は台湾本島と膨湖諸島および金門島、馬租島に 属する島嶋群より成り、面積は台湾地区が3万6,000平方キロ、金馬地区が 205平方キロで、日本の九州よりやや小さい面積を有するが、人口は1,972万 8,000人もいるので人口密度はバングラディシュ、香港、シンカポールに次い で高い。経済面から見ると一人当り国民所得が4,889米ドルと中進国並だが、 外貨準備高は760億ドルもあり、日本、西ドイツに次いで世界第3位である。 (1987年末の調査報告) 台湾本島は中国大陸から見れば東方の島々から成り、その昔は「東鰻」と呼 ばれたり、三国志の時代には「夷洲」とも呼ばれた。晴書琉球伝の書かれた 636年には未寛、陳陵らの使者が福建省東部に浮ぶ台湾諸島に遠征して集めた 知識を基本に、他の南方漁民の漂流民の情報も加えて編集されたのであろう。 この晴書琉球伝が台湾を指すのか、沖縄諸島を指すのか、明治の頃から歴史学 者が論争を行ったけれども、沖縄本島ではその頃は6世紀、7世紀で貝塚時代 に属し、鉄器を使って稲作を始めたのは12世紀ごろのアジ(按司)の時代である。 「王の居るところの壁の下に多くの閥艘を集めたり、人の門戸の上に必らず獣 頭や骨角を安置する」風習は台湾の生番地域ではないか、と考えられるので今 では台湾説を支持する学者が多い。 階の蝪帝の時代、陳稜や張鎮州に命じて広州の義安(潮州)から出兵させ、 水行5日でその島に到ったが、激しい住民の抵抗に遭い男女数千人を捕虜にし て凱旋したように書いているが、それ以来台湾との交流は絶えたようである。 しかし階初の陳稜らの遠征はかなりの知識を持ち帰えり、唐の時代の636年魏 徴らによってそれまで各地で集めた琉球伝説をまとめたことからすると、台湾 1

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現代の台湾図

:馬祖島 :馬祖島 陽明山公園 /

]〕鬘:菫,澳底

淡水 淡水河) 隆 隆 〃 〃 〃

{震iiiiiiiiiiFriii;

手埋』)愛

戸一一。馴蘭

獅島

台中港

鹿港/

湾海峡

港 彰イ ,I 花蓮

膠湖諸島

阿里山玉山

加糠…評

▲ 線 北回帰 玉里 営 、 ●● ◎

七美

太平洋

台南 《ロ

台東d緑島(火焼

鶴帝

島) 琉球

、蘭喚

恒春f9y墾丁

鷲豊鼻

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や琉球諸島の漂流民から得た情報も付け加えられたのではないか、とする折衷 説も生れた。1874年フランスの東洋学者サン゜ドニーが琉球、台湾説を唱え、 1898年ドイツのリース博士の「台湾島史」が出版されるに及んで、今日では 階書琉球伝の記事は台湾を指すという学説が定説となっている。 中華帝国にとって東海の島々は明末にいたるまで未知の世界であり、そこで は高山族と平舗族が住んで「国人は好んで相攻撃し、人は皆強健でよく走る。 死を恐れず、創(傷)に耐える。諸洞(村)はおのおの部隊をつくり、たがい に救助しない。両陣か相当るとき、勇者が3,5人進み出て跳躁し、言葉を交 えて相罵り、そこから(武器)で撃ったり、射たりする。もし勝てないと一軍 みな走り逃げ、人を遣わして謝り、そこで和解する。戦って死んだ者は収め取 って、共に集ってこれを食う。そこから闇霞をもって王の所に行くと、王はす なわち、これに冠を賜い、隊師(隊長)にする」(晴書琉球伝) 台湾山地に住む高山族に関する研究はかって日本政府統治時代に多くの研究 者が輩出したので、いまなおその時代の文献史料が学者の間で引用される。彼 らの調査によれば当時高砂族と呼ばれた原住民は山地や平野部に住んでいたが、 地方差がいちじるしく、文化。言語。習俗も異なるので単に高砂族と呼んでも 内部事情は種族によってちがい、みんなが狩猟、首狩、食人の風習を持ってい たのではない。日本政府統治時代は彼らを「生蕃」と呼び、中華民国の時代に なると本省人と呼んだ。しかし本省人と呼ばれる人々は戦前中国大陸の福建、 広東両省から移住した人々も指し、戦後蒋介石総統と共に移住した人々は外省 人と呼んでいる。高山族は日本政府の統治時代に抑圧され、有名な霧社事件を はじめ反乱をおこすたびに人口は減少し、現在は山岳や高山地域に住んで、ほ とんど観光客の眼に触れることはない。 日本政府の統治時代に東京帝国大学の矢内原忠雄教授が「帝国主義下の台湾」 を書いたのが動機となり、1942年には信夫情三郎の「近代日本産業史序説」 の中に台湾糖業がくわしく招介されているが、1949年には呉主恵の「漢民族 の研究」も出版され、清国統治時代から日本統治時代までの台湾原住民はちょ うど日本列島で言えば先住民のアイヌ族が次第に倭人によって北へ追いやられ たように、高砂族も平野部から高山地帯へ移住したということになる。高砂族 のなかでも高山地区にはアタイアル、サイセット、ツオン、プヌン、ルカイ、 -3-

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パイワン、ヤミ、ピュマ族は次第に山岳部へ追いやられ、蕃界に本籍を持つ高 砂族は「高山族」と呼ばれ、反対に山麓地域、平野部に住んでいた平舗族は漢 民族と雑居している間に漢化され、今日では漢民族と区別がつかないほど同化 したので台湾政府は今曰山地に住んでいる高山族と区別し、選挙権、居住権を 与えているが、彼らの大多数は貧しく男子は炭鉱労働者、船員となったり、女

子は都市のセックス産業の労働者に追い込まれているらしいg)

日本政府統治時代の1935年6月4日付で台湾総督府は「戸口調査規程」を 公布し、清国時代から使われた先住原住民に対して「生蕃人」、「熟蕃人」と いう差別用語を禁じ、前者を「高砂族」、後者を「平舗族」に改めた。1927 年(昭和2)の人口調査では総人口が433万7,000人であり、そのうち本省 人は400万9,000人に対し日本人が約20万3,000人、生蕃が約8万7,000人、 外国人約3万8,000人であった。従って戦前まで圧倒的に本省人が総人口の92 %を占め、高砂族の人口はいちじるしく減少したことがわかる。戦後中国大陸 から移住してきた国民党政府は旧一般行政区域に本籍地を持った平舗族を「平 地同胞」と呼び、蕃界に本籍地を持つ高砂族を「山地同胞」と呼んで区別し、 特別行政区を定め先住民の下山入山を自由にした代わりに、一般平野部の観光 地以外では許可制を施いて厳密な制限を設けて人口移動を禁じている。

明・清時代の台湾と琉球王国

台湾は長い間無人島と考えられていたが、1544年ポルトガルの貿易船が緑 樹うつ萱たる台湾本島を見て思わず「うるわしの島」(IlhaFormosaハ と呼んだところから中国人は「美麗宝島」と呼んだらしい。しかし、台湾島 の所在が世界史の舞台に登場してきたのは1684年(康熈23)のころ、東方植 民地経営に乗り出したヨーロッパ諸国のオランダ人であった。オランダはスペ イン、ポルトガルと東アジアで競争し、貿易根拠地を求めていた。彼らは1624 年安平に上陸し、さらに台南の赤欺にプロヴィンシア城砦を築き、周辺の植民 地経営に乗り出した。これまで安平港を中心とする中国人の密貿易はオランダ の東インド会社によって駆遂され、日本商人の浜田弥兵衛、スペイン人の貿易 業者も排除され、最後に残ったのが福建省系、広東省系の閏南人であり、オラ ンダはポルトガルの対日、対明貿易を阻止しようと、植民地経営に欠かせない -4-

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労働者を閏南人の移住者に求め、製糖業に従事させた。当時の台南付近には現 地住民が狩猟、漁携を営んでいたが、たちまち漢人系の押し寄せる移住者の波 に抗しきれず、彼らは山間部へ後退していった。 こうして台湾開拓の波は台湾本島南部から始まり、明末に明.清の大乱を迎 えるのである。当時南支那海を航海していた鄭芝龍は九州平戸において平戸の 田川氏の娘と結婚し、2人の間に鄭成功が生まれた。よく日本人の間で知られ る国姓爺合戦とは明の鄭芝竜、成功親子と情国軍との抗争であり、元来父の鄭 芝竜は1628年までは台湾海峡に出没する海賊であったが、明の崇禎帝から海 上防禦の任命を受け、鄭芝竜、成功親子はオランダ人の鎮圧に当った。1628 年に福建省民数万人を率いて自己の勢力拡大に乗り出したようである。しかし 1643年に首都北京は李自成の反乱軍によって攻略された。満州の女真族の首 長ヌルハチはこの機とばかり東は朝鮮半島から西はモンゴルまで支配し、後金 国を樹てたが1636年ヌルハチは太祖と称し、山海関を突破して北京の李自成 軍を破った。こうして後金国の太祖は北京に拠って清国に国号を改め、南下活 動を開始した。 清の太租は鄭芝竜を北京に呼んで軟禁をしたが、子の鄭成功は華南一帯に

幡居する明王朝の王子一族、遺臣を集め頑強に抵抗した。鄭成功は1661年履

門に根拠地を構え、軟禁された父芝竜一族が清の太祖に殺害されたにもかかわ らず、水軍2万5,000人をもってオランダ統治下の台南を攻撃した。翌年2月 オランダ人は赤欺楼を明け渡して退去したが、鄭成功はそれから3代にいたっ て台南政府をつくったが、1683年清国の攻撃を受け、3代22年間の台湾支配 は終った。鄭成功は台湾全域を「東都」と称し、赤欺楼を「府城」と呼んで- 府二県一司の制を確立し、オランダ人に代って最初の台湾経営を試みた。台湾 政府では今でも鄭成功を民族独立の英雄としてあがめ、全島各地に銅像が樹て られている。 清国は台湾全域を福建省に所属せしめ、30万人の住民に対し1万人の軍隊で抑 えつけようとした。「道台」と呼ばれる行政官は台湾全土を五つの警備区域に 分け、道台衛門、北路、安平、膨湖の行政区を守らせ厳重な海上取締りを行っ た。このころ清国では貿易船のみならず、広東を海賊の巣窟と見倣し広東系 住民の移住を禁じたのである。しかし18世紀になると中国大陸では長江下流の -5-

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江蘇、逝江付近で商品経済が発展し、農業生産力の増加につれて海外移住者の

群れをふやした。福建系、客家系の移民は台湾を処女地と考え、清国の海禁政

策にもかかわらず、大陸で戦乱のたびに移住者をふやした。

漢人系移民による開拓が山地へ拡大するにつれ原住民の平舗族、高山族との

摩擦は大きくなり、新移住者の漢人は集団を組んで械斗を行ったところから

「漢蕃紛争」を生み、道台は「熟蕃」と呼はれる平舗族と漢人との同化政策を

行った。しかし平野部から遠く離れた高山族との摩擦は依然として止まず、境

界石を立てて漢人の蕃界立ち入りを厳禁したが、これは余り効果がなかった。

たとえば台湾東部の蘭陽平野への入植はまず平舗族の住んでいる36社の所有

地に潭州人が入植したが、濁水溪以北では滝州人と泉州人との間で械闘がおこ

り、その結果阿里史諸蕃はさらに奥地に移動し、泉州人は溪州より大湖にいた るまで耕し、碆人は冬爪山一帯を開墾することになった。こうして蛤仔薙の開墾 地の多くは樟州人が取得し、泉州人、碆人、平舗族は樟州人によって駆遂され、 彼ら以外の人々は耕地条件の悪い山裾部や平野部の一部を取得したと言われて

いる写)

潭州人はこうして宜蘭平野の大部分を取得し、泉州人、広東人はさらに条件 の悪い土地へ移住せざるを得なくなったが、客家系の漢人は福建系の移民に追 われ、さらに南部へ移住せざるを得なくなった。しかし漢人の平舗族への土地 移住は目に余るところから1811年揚廷理の献策によって総督圧志伊は平舗族 の保護政策を始め「蕃大租」を創設したが、ほとんど効果はなかった。今日台 湾全土に見られる-村一廟信仰は大陸から移住した漢人が新らしい開墾地を求 めていく過程で病気、災害、高山族の襲撃を免れ、五殻豊穣を祈るために創建

されたが、霊験あらたかな廟を争って把る習慣になった。村廟は村人が経済的

に安定するのにともない、祭祖公業として村民負担で営まれるようになった。 いつぼう漠人によって追われた平舗族は次第に漢人化したか、高山族のなかで もパイワン族だけは頑強に同化せず、彼らは侵入者に恐ろしい毒矢で報いるば かりか、首狩、虐殺を行っていた。 1871年11月、沖縄本島から帰える途中の宮古島民69人は暴風に遭い、台湾

東南部の牡丹社の住む地区に入り、生蕃によって一行54人が虐殺される事件を

おこした。生存者12人の証言によれば、1871年10月一行は台湾南部海岸に漂

一6-

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着し、海上から陸地に向かう途中でまず3人が溺死し、上陸した63人が人家を 求めて排回するうち、2人の漢人によって衣類、金品を強奪され、翌日15,6 軒ある原住民集落にたどり着き、やっと食事を与えられたものの、翌朝猟銃を 持った男たちに襲われ、そこを逃れて5,6軒の漢人民家に立ち寄っているう ち、再び30人の追手に襲われて51人が殺害された。幸い漢人の場友旺の図らい で生存者12人は10月12日鳳山県を経て29日台南府城に送られ、翌年1月中国官 船で福州琉球館に護送され6月7日に無事那覇港に帰えったと言う。 しかし日本政府は宮古島民の虐殺事件を利用し、沖縄本島、先島の領有権主 張の契機と承け取ったのである。日本政府は領民保護の名分を掲げ、1874年

5月台湾に出兵するように画策し、日本軍は都督西郷従道の下で情国軍、漢人

との遭遇を避け牡丹社を攻撃鎮圧した。宮古島民54人の遭難を悼む石碑が那覇 市旭ケ丘公園の横にある護国寺傍に樹てられているが、日本政府は台湾出兵 を理由に事件処理のため遺族への撫血銀(見舞金)10万両を清国政府に支払わ

せ、日本政府はこれを契機に琉球王国は表面では清国に従属しているが、実高

的には「琉球は日本領土の一部である」との認識を内外に宣言するにいたった。 曰本政府統治時代 日本が清国から領土割譲を受けた1895年下関条約以前に見逃すことのでき ないのは清朝末の1886年(光緒12)洋務派の李鴻章によって任命された劉銘 伝の善政である。李鴻章の部下であった劉銘伝は初代の台湾巡撫使に任命され、 台湾南東部の山地開発、道路の建設、兵制の改革や砲台の構築を行ういつぼう 鶏籠一帯の石炭採堀や硫黄、石油の採堀なども試みた。彼の後任丁日昌もまた 洋務派に属し、1887年まで電線の敷設工事を行い、多くの客家系の広東人労 務者を招き寄せた。彼らは特産品の茶、樟脳の製造に努め、火薬の原料である 硫黄の採集にも当った。劉銘伝の試みた洋務派の開発事業はその後の台湾経営 に大きな影響を与え、日清戦争以後の日本統治時代にも引き継がれ、台湾の近 代化政策に貢献するようになった。劉の行った行政目標は弁防(国防)、練兵、 清賦、撫蕃の4つであり、清賦は土地の調査事業、撫蕃は山地、高山の開発事 業を意味していた。日本政府は軍人総督の下で劉の事業を継承し、台湾を根拠 地として南方進出を試みようとしたのである。 -7-

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1868年隣国日本は明治維新によって統一国家を形成し、富国強兵、殖産興

国の近代化政策を行ったが、それには領土権を拡張する必要があり、まず島津

藩の領地であった琉球王国を1879年武力による併合を行ったが、欧米諸国よ

りも100年もおくれて工業化した日本は朝鮮や台湾で市場独占に迫られ、清国

の勢力を排除し植民地として台湾が選ばれた。1896年、台湾第2代の総督と

なった桂太郎は伊藤博文に書簡を送り「戦後ノ今日時勢一変、所謂北守南進ノ

策ヲ取り、日本海ノ区域ハ遠ク支那海ノ区域二進〆、其沿岸各地二向テ進取ノ

計画ヲ立テント欲スルニ在り」と述べ、この桂提言を根拠にして第4代総督児

玉源太郎にも引き継がれ、日本政府は台湾を根拠地として南方進出を試みよう

としたが、これは思いも寄らない植民地経営の難問を抱えるにいたった。それ

は矢内原忠雄が指摘している日本人移民と原地民との間に生活較差を産み出す

と共に原住民の改姓問題と皇民化教育が原地人の民族的誇りを傷つけ、日本人

移住者との間にも人種摩擦を引き起した」4)

日本政府の台湾領有は激しい原地民の抵抗運動とそれに対する日本の警察、

駐屯軍による弾圧がおこった。台湾の大地主層は旧巡撫使の唐景寝を大総統に推し

て台湾独立国を宣言したが、日本政府はただちに各地のゲリラ軍活動を排除し、

1897年から1901年までに捕虜にした者8,030人、銃殺した住民が3,473人

に及んだほど、現住民の抵抗運動は激しかった。日本軍は慎重に正面対決を避

け、澳底港から上陸し、瑞芳、鶏篭を占領したけれども、その間台湾独立国の

唐景寝大総統は履門に脱出した。当時台湾を支配していた買弁的資本家の一部

は香港に脱出した者もいたが、大多数の地、主層は抗日どころか、自分たちの権

利と安全を守る立場から日本軍の無血入城を歓迎する空気にあった。彼らが日

本派遣軍を迎えた理由は、清国から派遣された巡羅も3年交代で来るし、結局

は台湾総督府と妥協し、近代化政策に協力する姿勢を示したほうがよいと考え

たのであろう。それは曰本政府の植民地統治に大きな影響を与えたが、政府は

台北市に総督府をおき政治、経済、文化の中心とすると共に基隆、新竹、台中、

嘉義、台南、高雄の西海岸に開発を集中し、高山族の多い東海岸は長い間開発

されないまま放置された。

1898年3月、陸軍中将児玉源太郎が第4代台湾総督に、後藤新平が初代の

民政局長(後に長官)に任命された。後藤はさっそく台湾住民の懐柔策として

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地方の老人層を招き「饗老典」を開催し、政府の治安維持に協力した有力者に は塩、煙草の専売権を与え、ときには地主、富農、商人層に土地の紳士という、 「紳章」という勲章を与えたりした。児玉源太郎総督は1887年後藤に命じて 「匪徒刑罰命」を11月に発布させ、総督府の命に従わぬ者には容赦なく弾圧を するという、アメと鞭の両面政策を行った。いつぽう中国大陸では広東省出身 の孫文によって辛亥革命が1911年におこり、彼の影響力を受けた広東省出身 の羅福星が1903年叛乱を企だてたが失敗し、捕えられて台北刑務所で39才の 若さで処刑された。1906年児玉の後任として第5代総督に佐久間左馬太が就 任すると、総額2,000万円にのぼる「5ケ年計画討蕃事業」が実施された。 1901年台湾総督府の殖産局長として新渡戸稲造が就任したが、彼は着任早 々「糖業改良意見書」を総督府長官に提出し、その後の台湾経営に大きな影響 力を与えた。これまで台湾の製糖工場では本省人の小工場しか運営されなかっ たが、1902年6月律令第5号をもって糖業奨励規則が発布されるや、内地資 本の大型工場も建設され、従来の含蜜糖工場から1千屯生産の大型工場に転換 する機会を与えた。曰本国内の砂糖市場ではこれまで外国産糖が抑えていたけ れども、政府補助金政策でキューバ糖、ジャワ糖が抑えられ、台湾産の精製砂 糖が生き残った。確かに台湾産糖は原価計算ではジャワ、キューバ糖よりも高 いが、運賃、関税等が高いため台湾産糖は有利な条件下に立った。従来の茶、 パイン、バナナ、石炭、金、樟脳に加えて砂糖の精製工場が台湾全土に乱立し たことは、付属農場をふやし大規模工場に地元の労働力をふやし、台湾糖業に

おいて日本の資本主義体制は確立したP)

日本政府の台湾領有は植民地特有の支配機構を完成させねばならない。それ にはまず植民地を支配する総督府官吏だけでなく、警察官、教員、技師、土木 人夫、實春婦など多くの支配機構に奉仕する行政の補完機構が必要であった。 いまこれら日本人と現地労働者の賃金の差別構造を見ると、 大工二石工瓦工鍛冶工仲仕 本島人 2.001.801.601゜500.80 1927年(台湾総督府第30統計書) 9 職種 大工 左官 石工 瓦工 鍜治工 仲仕 雑役 内地人 円 3゜50 円 4゜00 円 4.00 円 4.50 円 2.50 円 2゜50 円 2.00 本島人 1.80 2゜00 2゜00 1.80 1°60 1.50 0.80

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このように日本人移民については賃金のみならず社宅を設け差別的待遇を与

えて普通の捧給以外に5,6割の加棒するのか例となっているので、内地人も

だんだんと募集に安易に応ずるようになった。1895年から1910年までは官

営移民はしていないけれども、日露戦争以後曰本政府は積極的に植民地経営に

乗り出し、1903年台湾銀行を設立したにもかかわらず、本店は東京に存置し、

株主総会も東京で開催した。結局台湾銀行は不在地:主と同じく不在資本家によ

って経営された「台湾の銀行にあらざる悲惨な銀行」であったP)曰本人によ

って支配された植民地体制は漢人の地主層、資本家の下に漢人系を中心に、高

砂族を底辺層においた複雑な社会構成となったが、日本政府の統治方針はまず

高山族を鎮圧し、次いで経済的発展に全力をそそぎ、教育上の施設改良はこの

次とされた。しかし台湾全土の60%を占める山地にも資本主義の波が押し寄せ

ると、これまでの焼畑農業と狩猟を生業としていた山地現住民は、清国時代に

設置した蕃界を越える総督府の調査事業に激しい抵抗運動を示し、1930年10

月27日、台中州(現在の南東県)の霧社公学校でI恒例の運動会を開催しようと

したとき、アタイアル族の高山族が押し寄せ、日本人の男女、児童百余名を殺

害し、和服を着けた漢人の大人1名、児童1名も犠牲にした。こうした霧社事

件の繰返しは日本政府の指導層に大きな衝撃を与えた。

台湾の移民募集は1910年から官営で始まったが、沖縄県民が応募したのは

1913年以降に多く応募し、明治末で約1,000人に達したが、ほとんど東部台

湾の自由移民が主体で、職業は漁師が大半で宮古島民、与那国島民が多かった。

彼らは基隆市を始め東部各地に漁業基地をつくり、高瀬貝、石花草(てんさぐ)

を採集して集落を作っていた。なかには小学校教員も多く、皇民化教育の尖兵

としての役割を果していた。1937年日中戦争の開始と共に小学校が国民学校

となり、台湾人の母語使用が禁止され、新聞の漢文編集も廃止された。皇民化

運動は中国風の演劇、音楽、武術まで及び、中国文化の沫殺政策が採られた。

これら皇民化運動は沖縄県出身の巡査と教員によって進められ、日本語の強制

使用と曰本式の改姓運動をすすめた結果、太平洋戦争の始まった1942年ごろ

台湾総督府は80%ぐらいの現地人が曰本語を話し、志願兵も41万人に達したと

発表したが、これは後に大陸同胞に銃□を向けるという悲惨な戦後の分断政治

の基本となった。 -10-

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現代台湾の形成と発展

1945年8月15日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、連合軍に無条件降伏

を申し入れた。台湾現住民はこの日を期し長年の異民族支配から解放されたと

狂喜して、以来8月15日を「光復節」として毎年喜び祝ってきた。しかし日中

戦争、太平洋戦争の続くなかで、日本軍の軍夫、志願兵として華南、東南アジ

ア全域に約21万人が動員され、そのうち2万7,000人以上も戦死しているため、

戦争犠牲者の補償問題はいまなお尾を引いている。1945年10月25日、国民党 の陳儀将軍が台湾に進駐し、曰本軍との間で降伏文書が交わされ、日本軍は国

民党によって武装解除を受け、撤退して帰国した。しかし1947年2月28日夜、

台北市内で煙草を密売していた老婆を見つけ取締官が殴り倒したため、抗議の

ため集まった民衆に対し警察官が発砲、市民1人が銃殺された。翌日激昂した

デモ隊は陳儀長官の宿舎に押し寄せたが、待機していた軍隊はデモ隊に機銃掃

射を浴せ、多数の死傷者を出した。これが有名な2.28事件であるが、これ

以来国民党軍のなかの特務機構が民衆運動を摘発し、1万人以上が処刑された

と言われる。1949年以降戒厳令が施行され、反体制派の指導者が多数連行さ

れ、そのなかには著名な学者、知識人も含まれ、今なお行方不明者が多い。

日本軍に勝利した国民党軍の蒋介石政権は1946年5月、重慶から南京に遷

都したが、6月30日国民党と共産党の停戦会談が決裂するや、中国は再び内戦

状態になった。しかし軍事面から見ると共産党軍は各地で農民側の熱狂的歓迎

を受けたのに引き換え、内戦に敗れた国民党軍は200万人から50万人に減少し台

湾に1949年2月進駐を開始した。1947年4月蒋介石総統は陳儀将軍の後任

として文官出身の魏道明を台湾省主席に任命したが、1949年1月蒋介石の右

腕と言われた陳誠が省主席に就任し、大陸での苦い経験から小作料を全生産物

の37.5%を越えてはならないという「37.5減租」を実施した。この小作 料の引き下げ政策は日本政府から接収した公有地の払い下げや大地主保有地の 開放などと相まって、その後の台湾農業、漁業、畜産業の発展の基礎をきずい た。1964年までに買収および寶渡金の清算をも含め、全農家戸数の約60%が利 益を受けたと言われる。 台湾の国民党政府は1954年蒋介石を第2期総統に選出したが、1950年か ら1953年にかけておこった朝鮮動乱は東アジア諸国の緊張感を高め、同年9 -11-

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月金門島で激しい砲撃戦が展開され同年12月米華相互防衛条約かワシントンで

調印された。アメリカは中国、北朝鮮、北ベトナムの共産主義の浸透を恐れ沖

縄、台湾、フィリピン諸島の軍事基地を強化する「封じ込め」作戦を施いて基

地建設、軍事援助の拡大を約束した。このダレス国務長官の対共産国の封じ込

め政策は同地域へのアメリカ援助額を大幅にふやし、台湾への軍事援助額は援

助総額の69%、余剰農産物24%、開発借款5%、技術援助2%に達し、台湾海

峡をはさんだ大陸との緊張感はアメリカ政府の軍事支援に守られたものの、若

者に徴兵義務を負わせ、それだけ女子労働力の進出がいちじるしかった。

中国の諺に辛亥革命前夜まで婦人は地位が低く、「子なきは去る」、「ウド

ンは飯ではない、女は人ではない」、「女は人に従うものである。家にあって

は父に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う。」「男は家屋を受け、女

は衣服を承ける」と極端に地位が低く、清朝時代女性はテン足をはめて歩かさ

れた。しかし国民党政府が孫文の三民主義を踏襲した結果、男女平等の思想が

普及し、現代では大学、専門学校に学ぶ者も多く、技術修得のため海外留学生

も多い。とくに曰本語の修得熱はすさまじく、彼女たちのあこがれは東京ファ

ッションであり、西洋の科学、技術の修得は一生の幸福を左右するものと考え ている。不思儀なことに結婚式には親戚、友人から女性へ金の指輪、装身貝等

の贈呈をする習慣があり、1989年の金の輸入は主としてアメリカを中心に大

量に海外から輸入され、金額で51億ドル、日本を凌いで世界第1位の金輪入国 となった。

1950年アメリカの第7艦隊が台湾海峡に進出し、アメリカ政府の援助で農

業生産技術の修得、いわゆる「緑の革命」が強調されるいつぼう1951年6月

29日に農地改革の第2段階として日本政府の旧公有地の払い下げ実施、1953 年の第3段階で土地利用の強化、肥料や農薬の投下、農業の機械化をすすめた。 しかし農業生産が従来の茶、バナナ、砂糖は既に東南アジア諸国の進出もあっ

て、熱帯性果樹に移行しながら、大陸からの外省人の受け入れに米の増産体制

が必要になった。そのため1953年「耕者有其田」政策を実施し、米の自給率向

上が図られ、零細農の障害となる家産均分主義が放棄され国家の利益が優先さ

れた。1954年以降、農業だけに頼らず、官営主導で砂糖業を中心に肥料部門

の化学工業、鉄鋼、機械、造船等もすすめなければならず、1954年外国人投

一12-

(14)

資条例を制定し、海外華僑にも呼びかけて繊維、製紙、プラスチック玩具、ジ ョツギンギ・シューズ、自転車等の軽工業も始められた。 日本政府との外交政策は蒋各石総統の下でアメリカ合衆国を始めとする1951

年の平和条約や安全保障条約との締結が迫られ、日本政府の吉田茂首相は中共

の支配する中国大陸には及ばないという「限定承認」の形ですすめられた。朝

鮮戦争が1950年から1953年にわたって朝鮮半島でおこなったことは国民党

政府の存在をアメリカ合衆国に意識させ、1957年5月、岸信介首相は東南ア

ジア6ケ国訪問を機会に、戦後始めて曰本政府首脳が台北市を訪れた。以後

「毛沢東が北京で中華人民共和国の独立宣言を行なわなかったら、台湾には何

もおこらなかっただろう」と言われるほど親日、親台政策が打ち出され日本政 府の経済援助、資本、技術の援助拡大策が採られた。台湾では1960年代以降、 図表1外国人投資および工場設立 手続フロー。チャート 表2W台湾島改造,,プロジェクト 田明山■ '''四加公“1$.I2mIu化, hIUl陀甲ざ0AI内 M1・人然ガスエオ.ルギー 宙川Fhi m近代化DlIPq mhi幾甲舌011戸 冊は魁萌■OII肉 jl1*ドル11側木fきりJ1向 巾UV鯨IU1犯萠君,IIFq 1EIK■および IolILI「正¥舌DII内 申116足Ⅳ011内 IUlHJI内 公Itl2jtjI函 行礼IIjlAI風□地「化OIIPq 行社虜公IKAinAsM伯迅 システム研1用DII内 本正肢プロジェクト -13-

(15)

日米資本の下で繊維、家電製品などの労働集約型工業を中心に、輸出志向の工 業化で目ざましい経済成長率が達成された。輸出先は主としてアメリカ、日本 等であるが、1986年、87年の対米黒字の増加が風当りを強くさせ、元の対ド ルレートを引き上げさせた結果、88年、89年度は労働集約的な繊維、皮革、木 工製品が88年から減産に転じているが、いつぽう電気、電子、機械金属工業は

高い伸び率を示していぢ§)

1965年は台湾の社会経済にとって画期的な年となった。蒋介石の子、蒋経 国が国防部長に昇任した年であり、これは前年体制批判派高玉樹が台北市長に 当選し、国民党政府批判の声を封じるためであった。1965年よりアメリカの 経済援助が打ち切られると同時に、日本政府と新らしい1億5,000万ドルの円借 款供与協定を調印し、高雄地区に輸出保税加工地区を設定し、進出企業の受け 付けを開始した。また1968年には蒋経国の強い指導力もあって9年制義務教 育が実施され、質の高い労働力への転換策がとられた。こうした教育の普及は 中産階級を成長させ、1947年中国大陸から移ってきた外省人の階級分化を促 進させ、あらゆる分野で本省人の進出をみたが、1975年3月21日、蒋介石総 統の死去に伴い、4月28日国民党臨時中央委員会では蒋経国を党主席に推挙し たが、1978年3月21曰蒋経国は第3代総統に当選した。しかし桃園県長をめ ぐる不正疑惑事件で民衆が激昂したが、戒厳令と1党独裁を続けてきた国民党 への不満で、本省人中産階級は一部外省人を加えて党外勢力を進出させ、民主 と自由を叫んで大きな政治勢力になった。1979年12月10日に美麗島グループに 対する高雄事件が発生した。これは1979年元旦に中華人民共和国から全人代 常務委員会の名前で「台湾同胞に告ぐるの書」が発表されるや、反体制グルー プは雑誌「美麗島」を党外批判派が出版し、美麗島支部を各地に設立、読者と の対話集会を行い、民主主義に対する啓蒙運動と党外活動を推進した。同年12 月10日高雄市において雑誌「美麗島」グループ主催の下に世界人権デーを開催 したところ、たいまつデモの最中に民間人と警察隊との衝突がおこり、流血騒 乱に発展した。事件発生後、党外指導者は大量に検挙され、入獄中の林義雄 (党外省議員)の母と双子の娘が暗殺された。また逃げた党外指導者をかくま った罪で高俊明牧師も徴役2ヶ年、財産没収の判決を受けた。海外ではアメリ カのカーネギー・メロン大学の陳文成準教授が怪死したが、それは陳が在米左 -14-

(16)

派の台湾独立運動の指導者だったからであろうと言われているJ9)

奇跡的な経済成長の波

1949年8月、台北市で当局を支持する「政治行動委員会」が組織され、 1950年3月、蒋介石が再び総統に復帰、蒋経国が国防部総政治主任になると

中国共産党の地下組織を摘発したり、国民党第7回全国代表大会では中央委員

に選出され1953年1月、第1次経済4ケ年計画を策定した。1955年華僑回 帰国投資条例の制定と共に活発な投資活動が始まり、1952年から1984年ま

での投資統計では香港系965件、日本系178件、その他537件となり、断然香

港系資本がトップであり、それらの多くは中小企業であり今日の台湾経済の基

礎部分を構成するものになった。韓国企業が現代、三星、楽喜の大資本主導に

比べて台湾の強味は中小企業が底辺を支えていることである。また製品輸出に

よって高度成長を成し遂げ、高雄市、台中市、桃園市などの10地区に及ぶ自由

貿易地域(加工出口区と呼ばれている)が、これらは1965年12月に投資受付

表l台湾の貿易関連指標 財政部「進出口貿易統計月報」による。 新台湾元レートは期末値。 (出所) (注) -15- 輸出(iob) 100万 ドル 前年同期 比% 輸入(cii) 100万 ドル 前年|司期比あ 貿易収支 100万 ドル 経常収支 100万 ドル 新台湾元レート 対米ドル 対円 1984年 85年 86年 87年 88年 66925 52418 47865 19▽90 00930 33356 29750 ●●●●● 10943 2 231 92476 50655 91196 ▽0006 10449 22234 25270 ●●●●● 88042 244 △ 74559 92852 46669 000Ob 80580 1111 68797 79797 91291 00▽09 69670 111 59562 ●①●●● 99588 33322 12222 60233 ●●●●● 00000 88年1~3月 4~6月 7~9月 10~12月 89年1~3月 4~6月 7~9月 10~12月 9538312 2004485 7549915 700019? 3555477 1111111 6689880 ●●0●●●● 1253804 21 1 11 3724563 9942852 3236173 0000990 2222233 1111111 6562799 ●●●●●●● 5803117 7342 1 △ 6814859 3062522 3203742 0100?90 1333234 223362 772008 275384 000005 132322 6992496 ●●●●●●● 8888755 2222222 2222211 3223188 ●●●●●●● 0000000

(17)

灘jmHIi鵜i蝿蕊l鑓耀騨イ

「I 訂 蝋'1 噸上 【A1鍔 囮 Z国 現在の台湾総統府(旧台湾総督府) 唖や 剛'7.噸』, 凶邸押 容晉と趣L;-,-這腰凹 酩上 一…唾由 umU …律.「449W鋤山 遍苧■

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肘鈩血 中正記念堂(台北市) -16-

(18)

けを開始して以来、加工出口区設置管理条例の下でもまず高雄市楠梓地区に最 大の加工区を設置したが、その目的は安い賃金、質の高い労働力で外貨をまず

獲得することであった。その結果、台湾企業は外国資本と技術提携の形でアメ

リカ市場へ進出したが、対米黒字が増加すると共に対日赤字も増加するという 皮肉な現象がおこった。おかげでアメリカ側から年10%づつの黒字削減を強い られ、元とドルの交換比率も大幅な値上げを強いられた。いつぽう日本商品の 輸入は毎年20億ドル近くの赤字続きとなったため、1989年に「対日貿易強化 計画」を打ち出し、基幹産業の鉄鋼、造船、繊維の工場は作ったものの、家電 製品、自動車、オートバイは日本から輸入しなければならないという皮肉なこ とになった。そこで日本市場に参入するため日本語のできる若手労働者が求め られ、官営企業から民間企業に産業部門をシフトするに当り、ソフト部門の強 い「日本的経営」のノウハウを学び取る必要に迫られた。日本と同じく台湾製 品の最大の輸出先はいまでもアメリカ市場であり(1988年の貿易統計では全

製品輸出の387%を占める)、従来の電力、石油、造船、肥料、機械等の重

工業から一段とレベルの高いコンピューター関連の半導体開発に力を入れる必

要に迫られ、新竹県新竹市に高度工業園区を作り、台湾出身者の技術人を欧米

各国から招いて精密機器の製造をはじめた。台湾の輸出製品も初期の農産加工

品から次第に工業製品が全体の93.9%を占めるようになり(1984年)、初 期の合板、繊維、金属機械は付加価値の高い電子機器、精密機械、プラスチッ ク製品へと変り、いまや年間790億ドルの外貨準備高を有するようになった。 (1988年)、1979年から1989年までのアメリカ市場ではコンピューター 分野で米国産が94%から66%へ、半導体が90%から67%へ、工作機械は77%か ら54%へと、それぞれ大幅に低下した。これら工業製品の分野でアメリカ産業 は大幅に衰退し、ハイテクをはじめ主要製造業の分野で米国製品のシェア(市 場占有率)は日本や台湾の輸出攻勢に押され衰退の一途をたどっている。(米 経済誌フォーチュン9月24日号) 韓国の労働争議の影響で台湾へ発注する外国企業も現われ、いまでは台湾の 繊維、皮革、木工製品から電子機器、金属機械の分野でも台湾企業の進出が目 ざましく、貯蓄心の高い、金銭感覚の鋭い台湾産業は証券業界への参入を図り、 1983年、84年に政府が国際金融業務条例と施行細則を公布した結果、オフシ ー17-

(19)

表2台湾の金融指標 (出所)「金融統計月報」及び“FinancialStatistics・により作成。● (注)プライム・レートは台聞銀行のもの。85年3月1日からプライム・レマト制導入。

ヨア、バンキングへの参入ではシンガポール並の金融市場ができたと言われる。

1984年までオフショア金融業務を取り扱っている業者は国内銀行5社、アメ

リカ銀行2社であったが、1961年にはじめて証券業務を開始、1984年には

ブローカー27社、銀行および信託業者が13社、ディラー兼引受業者が12社とな

ったが、最近の規制緩和で一般投資家も加わり、台北市、高雄市を中心に民間

に証券ブームがおこって関係者を喜ばせている。いつぼう大陸への里帰り旅行

も1988年から始められ、1984年12月、中華人民共和国とイギリス政府は九

竜半島の租借期限が終る1997年7月1日に香港を中国に返還し、中国政府は

その後50年間も現状を維持することに同意する共同声明を発表した。中国政府

は香港に人民解放軍を派遣する権利を認めつつも、一国二制度(香港人が主体

となって香港を統治する)、2つの原則を約束した。1997年の香港返還は海

外に資本進出を図る台湾企業家を強く刺激し、現在履門地区、シンカポーノレ、

タイ、マレーシアにも進出しようと熱意は曰本企業と変らない。

中華人民共和国の毛沢東主席が「銃口の先から政権が生れる」と語ってから

台湾は中華人民共和国に吸収合併されるのではないか、という不安感が強く蒋

介石、蒋経国親子に「大陸反攻、自力自強」の国づくりを始めさせたが、1949

-18- 1985年 86年 87年 88年 89年l~3月 4~6月 7~9月 金.外貨準備高 (期末値、値ドル) 227.5 465.5 771.2 745.4 757.7 749.4 743.9 通貨供給料(MIB) (期末賃、年叶値完) 11.9 47.3 37.8 25.2 290 7.6 7.2 「中央銀行」再割引率($) 85、86’89、89年末 3/226/179/1711/233/410/184/18/23 6.75→6.25→5.75→5.25→4375→4.50→5.50→7.75→7.75 プライム・レート($) 85 86 88 8989 3/13/226/179/1711/232/243/1210/217/74/45/11年末 8.25→8.00→7.50→7.25→7.00→6.75→6.50→6.25→6.75→9.0→10.5→10.5

(20)

表3台湾の経済見通し (前年比). 90年見通し 聿腎GNPl51f岳Z怒兜 霊翻 形 古l…小 形 % % % 言易(を階 % 鞠Ⅱ[ % 望ELUv宅 形 Ⅲ hIr当扉率% (出所)行政院主計処「国民経済動向統計季報」他による。 年蒋介石の80万人の大軍を含む外省人の台湾移転は、本省人には敗残兵としか 映らなかった。しかし朝鮮戦争の勃発はアメリカの軍事、経済援助を呼び込む 「誘い水」となり、歴史は思いがけない方向へ発展した。台湾では農地改革が はじめられ、商品作物の栽培で外貨携得を図ったものが食糧自給の達成可能と なり、工業化政策の成功で外貨が蓄積された。中国大陸から持ち出した金、銀、 外貨が工業化政策を助け、さらに北京市の故宮博物院の宝物は台北市郊外に移 され、中国5千年の文化の粋である古美術品、文献史料の62万点は台湾を防れ る日本人観光客の眼を奪うほどである。その中には中国琉球間文書も含まれ、 中国史料研究者には欠かせない記録文献であろう。1988年蒋経国総統の死去 により同年7月7日国民党第13回大会が開催され、本省人の李登輝が党主席に -19- Up 88年実績 89年実績見通し 90年見通し (行政院主計処’89/11/17) 一人当たりGNP米ドル 実質GNP成長率% 最終消費 民間% 政府% 固定資本形成形 民間彩 政府形 公営企業形 財・サービス貿易(金を除く) 輸出% 輪入% 貿易収支黒字米ドル 卸売物価上昇率形 消費者物価上昇率% 2 4 9 ■ 6 ●●■ R〉 146aaa 句I〈0q〉(b〔. 58m11 ● ●●●■●● 7 へ.QJ44nnn 1 1 1 △ 8 1 5 0 7 2 617000 00327 60⑫04 口 ●C●●●● 7 232855 111 11 1 8 9 4 0 8 ●■ 2 aaR)ワ】nV(U 74169 几、1爪44 2ZnL3 111

(21)

選ばれた。 1990年の総選挙でも知日派の李登輝氏が総統に選ばれ、台湾人のなかでも 本省人が外省人の勢力を圧倒した。当初は外省人の力が強く、1987年10月に 完成した台北市の中正記念堂は台湾最大の公共記念物であるが、この記念建築 物の故蒋介石の銅像がワシントン市のリンカーン像のように建てられており、 なぜか蒋介石像の眼は大陸の南京に向けられているような気がする。蒋経国お よびその後継者たちは蒋介石を孫文を葬った中山陵に模放したのか、蒋介石の 銅像は明らかに孫文の後継者と考え中国式の巨大建築物を建てたのであろう。 しかし1988年の蒋経国死去に伴い、本省人、それも客家系の政治家が選ばれ たことは今後の台湾行政に大きな転換をもたらすことになろう。 李登輝総統は1923年台北県三芝郷の地主の家に生れ、淡水のプロテスタン ト系の私立中学を出て旧台北高校へ入学、京都帝大(現在の京都大学)農林経 済学科に進んだ。しかし日本の敗戦で台湾大学に転入学し、1948年卒業とと もにアメリカのアイオワ州立大学およびコーネル大学に留学し、1968年農業 経済学の分野で博士号を取得した。帰国後は台湾大学で教職のかたわら中国農 村復興委員として土地改革を成功させた。これまでの50%以上の小作料を37.5 %以下に切り下げ、曰本政府所有の公有地を安く払い下げ、「耕者有其田」政策 を実施した。彼はシンガポールのリー・クワン・ユー首相と同じく客家系出身 者で、日本人のなかにも友人、知人も多いところから今後さらに日本からの企 業進出、資本、技術の提携もすすむであろう。しかし彼自身は中華人民共和国 に対し一国二政府論を提唱しており、今後日本政府は台湾が果して独立路線を 歩むのか、あるいはアジアの中華人民共和国内の自治区になるのか、まったく 余断を許さない厳しい国際環境の下で合併、統一されるのか、今後のことは誰 もわからない。しかし台湾は沖縄県にとっては近くて遠い隣人であり、最近台 北市の世界貿易センター内に沖縄県の外交事務所を設置しようとしたところ外 務省の反対に遭い、止むなく物産館になった。宮古、八重山の人々はいまでも 台湾の基隆港、花蓮港と貿易したいと願っており、日台友好を深めるため1990 年3月、宮古農林高校研修生は嘉義市の農業試験場を訪れ、マンゴーの熱帯果 樹を視察した。現在曰本人の台湾観光客は91万9,000人に達し(1989年)、 台湾からの日本旅行者は41万1,314人であるが、そのうち沖縄県への旅行者 -20-

(22)

は8万6,000人であり、以外と台湾からの入域客が多く、沖縄県で学ぶ若者 も毎年ふえ続けている。 <註> (1)載国揮著台湾1988年岩波書店刊 (2)石田浩著台湾漢人村落の社会経済的構造1985年関西大学出版部刊 (3)比嘉春潮箸沖縄の歴史1970年三一書房刊 (4)矢野暢著「近代日本における南進政策と民衆」新沖縄文学第84号掲載論 文 (5)矢内原忠雄箸「帝国主義下の台湾」1929年岩波書店刊 (6)前掲書65頁以下 (7)栗本弘箸「アジアの経済成長」1969年勁草書房 (8)経済企画庁編「世界経済白書」各国編平成元年版 (9)載国揮著前掲書183頁 ⑪台湾経済を知るには矢島欽次著の「台湾経済のすべて」をすすめたい。 また台湾協会の「うるわしの島・台湾」のガイドブックも現地観光には欠 かせない。 -21

参照

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