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1989年天安門事件の一考察 : 「四・二六動乱社説」の形成をめぐって

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Academic year: 2021

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1989年 天 安 門 事 件 の 一考 察

「四 ・二 六 動 乱 社 説 」 の形 成 をめ ぐ っ.て一

丸 山.鋼 二

A Consideration

on the Tian' anmen Crisis of 1989

the political background

of the Ren - min

Ri - bao Editorial of April 26, 1989

Koji Maruyama

This paper aims to explain a characteristic of contemporary Chinese politics, that is, how

the reins of Chinese administration are held in the hands of a few authoritarians and its

politics under the rule of the Chinese Communist Party (CCP) , which is dependent on the

armed forces. This is done by analyzing how the top leadership of the CCP coped with the

early situation of the Tian' anmen Crisis in 1989. My analysis focusses on the activities of

major six actors : (1) Deng Xiaoping as Supreme Leader, (2) the Standing Committee of the

Political Bureau (SCPB) of the CCP as the highest decision-making organ, (3) Yang

Shang-kun and Wang Zhen as Deng's private sworn friends, (4) the Beijing Municipal Committee

(BMC) of the CCP, (5) the State Committee of Education, and (6) the Student Democracy

Movement.

In power struggles such as the Tian' anmen Crisis, the most important factor for each

hostile division contending for supremacy was how to have influence upon Deng's attitu de

and get his support. It is difficult to analyze Deng's political thought, because it is a

com-pound of some contradictory elements such as realism, pragmatism, rationalism and a

pat-riarchal temperament which supports military oppression.

On April 24 the BMC sent an appeal to the SCPB to enforce rigid regulations against the

student movement. That night it was accepted by the SCPB with enlarged menbership

which included the secretary-general of the party, Zhao Ziyang, at that time visiting North

Korea. Conservatives in the Party finally succeeded in changing Deng's attitude and getting

his support. Deng's patriarchalism and military tendencies predominated over his

rational-ism. He concluded to label the student movement a "disturbance". In accordance with Deng's

attitude, the Rewmin Ri-bao (People's Daily) ran an editorial entitled "Stop the

Disturb-ance with a determined attitude" on April 26. On reflection, this early synopsis of taking a

hard-line attitude against the student movement was written by Deng himself, including the

appeal of the BMC which was faithfully written according to Deng's intention from the

be-ginning.

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目 次 は じめ に 1.天 安 門事 件 の 経 過 2.最 高 指 導 者 の 政 治 的 二 重 思 考 3.最 高 領 袖 の取 り巻 き 「北 京 グ ル ー プ」 一 一 4.北 京 市 と国家 教 育 委 員 会 の 学 生 運 動 へ の対 応 5.趙 紫 陽 の学 生 運動 へ の対 処 方 針 6.最 高 領 袖 の盟 友 楊 尚昆 と王 震 の役 割 7.学 生 運 動 の高 揚 と北 京 市 の 決 断 8.「 四 ・二 六 動 乱 社 説 」 の 形 成 は じ め に 政 治 の 研 究 は,常 態 に あ る静 態 的 政 治 制 度 の研 究 よ り も,政 治 体 制 が 急 激 に変 化 す る時 の 政 治 メ カ ニ ズ ム を研 究 す る方 が しば しば 好 ま れ る 。 ゆ え に,革 命 とか 大 衆 運 動 に焦 点 をあ て た研 究 が よ くな され て い る 。 そ れ は,常 態 の 時 に は現 れ な い 隠 され た 政 治 の特 質 が 表 面 に浮 か び上 が り, ま た しば しば グ ロ テ ス ク な形 で誰 に も理 解 しや す い よ うな 現 象 と して 出現 す るか らで あ る。1989 年4月 か ら6月 に か け て 北 京 で発 生 した,民 主 化 を求 め る 学 生 運 動 と解 放 軍 に よ る武 力 鎮 圧,い わ ゆ る 天 安 門 事 件 は,政 治 指 導 者 の深 部 の 奥 に まで 潜 ん で い る 現 代 中 国 政 治 の 特 質 を我 々 の前 に さ らけ 出 し,あ る い は我 々 にそ う した 現 実 を改 め て 再確 認 させ て くれ た 。 そ の 特 質 とは 一 言 で い え ば,中 国 政 治 が 少 数 の独 裁 者 の手 に 握 られ て お り,そ の 政 治 が 軍 事 力 に依 拠 した もの で あ る と い う こ とで あ る。 本 稿 は,天 安 門事 件 処 理 をめ ぐる 中 国 共 産 党 指 導 部 内 の対 応 を検 討 す る こ とに よ っ て,そ こ に現 れ た 中 国 政 治 の特 質 を 析 出 し よ う とす る もの で あ る。 1.天 安 門 事件 の経 過 天安 門事 件 に は,一 党 独 裁 体 制 の改 革 を求 め る民 主 化 運 動 の側 面 とそ れ に よっ て 激 化 した 中 国 共 産 党 内 の権 力 闘 争 の 側 面 とが あ る。 天 安 門広 場 で 展 開 さ れ た民 主 化 運 動 の展 開 に沿 っ て運 動 の 経 過 を概 観 す れ ば,事 件 の 過 程 は 次 の7つ の段 階 に 分 け る こ とが で き る(1)。 まず は事 件 の経 過 を 簡単 に振 り返 っ て お こ う。 前 段 階(1月6日 一4月14日)=政 治 犯 釈 放 要 求 第 一 段 階(4月15日 一4月26日)=胡 耀 邦 追 悼 街 頭 行 動 第 二 段 階(4月27日 一5月3日)=4・27デ モ の 成 功 第 三 段 階(5月4日 一5月12日)=対 話 要 求 と 「党 内 闘 争 」 第 四段 階(5月13日 一5月18日)=ハ ンス ト支 援100万 人 デ モ 第 五段 階(5月19日 一6月1日)=戒 厳 令 施 行 と進駐 阻止 第 六段 階(6月2日 一6月5日)一 天 安 門広 場 軍 事 制 圧 第 七段 階(6月5日 一6月30日)=天 安 門事 件 の事 後 処 理 94

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第 一 段 階(4月15日 一4月26日)一 胡 耀 邦 追悼 の 街 頭 行 動 運 動 が 起 こ る き っか け とな っ た の は,4月15日 の 中 国 共 産 党 前 総 書 記 ・胡 耀 邦 の 死 去 で あ った 。 早 く もそ の 日の夜9時 に は胡 耀 邦 追悼 の壁 新 聞 が 北 京 大 学 に貼 り出 され,ま もな く街 頭 で の 追悼 デ モ や 天 安 門広 場 人 民 英 雄 記 念 碑 へ の 献 花 とい う形 を と っ た学 生 運 動 と して 出 現 した 。4月26日 付 『人 民 日報 』 の社 説 「旗 幟 鮮 明 に動 乱 に 反 対 し よ う」 が,学 生 運 動 に対 す る 共 産 党 指 導 部 の 最 初 の対 応措 置 で あ っ た。 と ころ が,こ の 「4・26動 乱 社 説 」 が か え っ て学 生 運 動 を刺 激 し,学 生 運 動 は当 局 との 対 話 お よび 「動 乱 社 説 」 の 撤 回 を も とめ て展 開 され,運 動 は 第 二 段 階 に は い っ て い く。 第 二段 階(4月27日 一5月3日)=4・27デ モ の成 功 4・27デ モ の 成 功 に勢 い づ け られ て,学 生 側 は 厂北 京 市 大 学 学 生 自治 連 合 会 」 を旗 揚 げ し, 偽 りで ない 対 等 の 対 話 を要 求 す る。 ま た,学 生 運 動 の 余 波 は そ れ まで 学 生 運 動 に傍 観 の態 度 を と っ て い た趙 紫 陽 を して,五 四 運 動 七 〇周 年 を前 に学 生 運 動 支 持 へ と態 度 を変 更 させ る に至 っ た 。 第 三段 階(5月4日 一5月12日)=対 話 要 求 と 「党 内 闘争 」 当 局 と の対 話 及 び社 説 撤 回 を求 め る学 生 運 動 へ の対 処 を め ぐ って,共 産 党 指 導 部 は意 見 の不 一 致 を越 え て,公 然 た る分 裂 に至 り,天 安 門 事 件 は 党外 の 学 生 運 動 か ら党 内 闘争 の 趣 きを強 め て い く。 指 導 部 の分 裂 は学 生 運 動 を活 気 づ け る 方 向 に作 用 し,学 生 運動 を長 期 化 させ る こ と とな っ た 。 ま た,運 動 の 主 体 と して 学 生 以 外 に新 聞記 者 の デ モ が 出 現 す る と と も に,全 国各 地 の都 市 で デ モ ・集 会 が 行 わ れ,全 国 的 な 規 模 の 運 動 に 発 展 して い っ た。 第 四段 階(5月13日 一5月18日)=ハ ンス ト支 援二100万人 デ モ 闘 争 手 段 と して 学 生 はハ ンス ト戦 術 を採 用 し,5月13日 か らハ ンス ト闘争 に突 入 した。 これ に よ り当 局 は 学 生 代 表 との対 話 に応 じる状 況 に ま す ます 追 い込 まれ た 。 こ のハ ンス ト闘 争 は広 範 な 市 民 の 共 感 と支 持 を か ち取 る こ と に成 功 し,5月17日,18日 と学 生 に声 援 を 送 る百 万 人 デ モ が 連 日行 わ れ る に至 っ た。 反 面,ハ ン ス ト闘 争 は こ れ まで そ れ な りに統 制 が とれ て い た運 動 が リー ダー た ち の 制御 で きな い 方 向 に進 ん で い く こ とに な り,5月20日 の 戒 厳 令 施 行 に対 して も,学 生 た ち は た だ広 場 に座 り込 む だ けで,撤 退 す る とい う効 果 的 な選 択 肢 を とる こ とが で きなか っ た 。 第 五段 階(5月19日 一6月2日)=戒 厳 令 施 行 と進 駐 阻止 党 中央 ・政 府 機 関 職 員 や マ ス コ ミ関係 者 な ど も運 動 に参 加 す る発 展 を みせ た 裏 で,ゴ ルバ チ ョ フ と の会 見 を終 え た5月17日 か ら共 産 党 政 治 局 は 戒 厳 令 施 行 の検 討 を始 め て い た 。5月19日 夜 に 戒厳 令 が 布 告 され て以 後,運 動 の焦 点 は解 放 軍 の 市 内 進 駐 を 阻止 す る こ とに お か れ た 。 学 生 側 は 市 民 の渦 に よ っ て軍 の 進 駐 阻止 に成 功 した 。 こ の 時 に は軍 隊 と住 民,学 生 との 交 流 が 始 ま る とい う最 悪 の局 面 が 出現 し,軍 隊 の統 制 が失 わ れ る危 険 が あ っ た 。 そ の た め,以 後 約2週 間近 く もの 間,軍 は 行 動 を起 こす こ とが で きな か っ た 。 ま た 戒 厳 令 に対 す る抗 議 行 動 も連 日お こ な わ れ る が, 運 動 の進 め 方 とカ ンパ 資 金 を め ぐっ て 学 生 内部 で 内 紛 が 起 こ り,運 動 は行 き詰 ま り と混 迷 の状 態 を さ らけ 出 して い っ た 。 第 六 段 階(6月3日6月5日)=天 安 門広 場 軍 事 制 圧 全 国 の大 軍 区 と地 方 の 党 ・政 府 の支 持 を得 て,意 思 統 一 を した 戒 厳 部 隊 は鄰 小 平 の 命 令 を受 け て,つ い に6月3日 か ら戦 車 と発 砲 を伴 う軍 事 行 動 を 開始 し,よ うや く天 安 門 広 場 か ら学 生 を排 除 し,市 内 を軍 事 管 制 に置 くこ とが で きた 。 第 七 段 階(6月5日 一6月30日)=天 安 門 事 件 の事 後 処 理 6月9日 に鄲 小 平 が 戒 厳 部 隊幹 部 を接 見 して事 件 の 正 当化 を図 り,6月23-24日 の 中央 委 員 会 95

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総 会 で 趙 紫 陽 を全 職 務 か ら解 任 し,江 沢 民 を総 書 記 に選 出 して 後 継 体 制 を固 め た。 そ して6月30 日,反 政 府 的 な 姿 勢 を部 分 的 に み せ て い た全 国 人 民 代 表 大 会 常 務 委 員 会 の 場 で 陳 希 同 ・北 京 市 長 が 「動 乱 の制 止 と反 革 命 暴 乱 の鎮 圧 につ い て の状 況 報 告 」 を発 表 し,最 終 的 な事 件 の 総 括 を行 な い,事 件 を と りあ え ず締 め く くっ た 。 学 生 運 動 の ドラマ が 以 上 の よ うな 経 過 を経 て 天 安 門広 場 で 展 開 さ れ て い た 時,学 生 運 動 が 党 内 に飛 び 火 し,学 生 運 動 処 理 を め ぐ る方 針 の相 違 に端 を発 した 権 力 闘争 に発 展 し,中 国 共 産 党 の 本 部 が お か れ て い る 中南 海 で は そ の 暗 闘 劇 が 演 じ られ て い た 。 で は,学 生 運 動 に対 す る対 処 方 針 を め ぐっ て 共 産 党 指 導 部 内 で は どの よ う な議 論 が た た か わ され,そ の過 程 で どの よ う な亀 裂 が 発 生 した の か,そ して権 力 闘 争 と か らみ な が ら戒 厳 令 布 告 とい う強 硬 方 針 が どの よ う に決 定 さ れ,そ の施 行 の た め に軍 は ど う関 わ っ た の か を検 討 す る こ と は,天 安 門 事 件 研 究 の 重 要 な一 課 題 で あ る 。 そ の 際,分 析 の ア ク ター と して,[1]最 高 指 導 者 で あ る郵 小 平 ・党 中央 軍 事 委 員 会 主 席 の 「考 え と関 心 」,[2]趙 紫 陽 を 中心 と した改 革 派 の 動 向,[3]中 国最 高 決 定 機 関 「政 治局 常 務 委 員 会 」 各 メ ンバ ー の 考 え と行 動,[4]郡 小 平 の 個 人 的盟 友 で あ る楊 尚 昆 国 家 主 席 と王震 国 家 副 主 席 の役 割,[5]長 老 集 団 の役 割,[6]首 都 の 治 安 行 政 に責 任 を負 う北 京 市 党 ・政 府 当 局 の 学 生 運 動 対 処 工 作,[7]通 常 の学 生 工 作 を担 当 す る 中 国 の文 部 省 「国 家 教 育 委 員 会 」 の対 応,[8]解 放 軍 の 動 き,[9]学 生 運 動 の動 向,[10]改 革 派 知 識 人 の動 向,[11]一 般 市 民 の 動 向,の11の ア ク ター を措 定 す る こ とが で きるが,こ こで は4月15日 か ら4月26日 ま で の 運 動 の 発 端 とな っ た 胡 耀 邦 追悼 行 動 とそ れ に対 す る共 産 党 指 導 部 の 最 初 の措 置 とな る 「4・26動 乱 社 説 」 の形 成 とい う,本 稿 で 区分 した 第 一段 階 に考 察 を 限 定 せ ざ る を 得 ない 。 そ の た め 本 稿 で は,[1]鄰 小 平 と[3]政 治 局 常 務 委 員 会 とい う最 高 政 策 決 定 機 関,そ して 党 指 導 部 の 「学 生 運 動=動 乱 」 認 識 の形 成 に重 要 な役 割 を は た した[3]郵 小 平 の盟 友 で あ る楊 尚 昆 と王 震,[6]北 京 市 当 局,[7]国 家 教 育 委 員 会 の3 つ の ア ク タ ー,お よ び もう一 方 の 主 役 で もあ っ た[9]学 生 を 中心 と した 民 主 化 運 動,の 計6つ ア ク タ ー の行 動 に主 と して注 目 し なが ら,当 局 が 学 生 運 動 に どの よ う に対 応 した の か を 中心 に検 討 し,そ れ ぞ れ の ア ク タ ーが 天 安 門 事 件 に は た した役 割 が い か な る もの で あ っ た の か を分 析 す る 。 まず は事 件 全 体 の 一 方 の 主 役 で あ り続 け た鄰 小 平 の 政 治 的 思 考 か らみ て い こ う。 2.最 高 指 導 者 の政 治 的 二 重 思 考 現 代 中 国 の よ うに最 高 指 導 者 が 存 在 す る 政 治体 制 の も とで は,最 高指 導 者 の 考 え方 や 関 心 の あ り方 お よ び そ の性 格 や行 動 が しば しば 政 治 の動 向 に決 定 的 な 重 要 性 を もつ 。 この89年 学 生 運 動 へ の 対 応 に 関 して も,鄰 小 平 個 人 の 「考 え と関心 」 が や は り大 き な重 要性 を も った 。 郡 小 平 の 政 治 に対 す る 「考 え方 」 に は,通 常 の 人 間 の 性 格 と 同 じ よ う に,政 治 的 二 重 人 格 とで も表 現 し う る相 矛 盾 す る2つ の 思 考 傾 向 が つ ね に つ き ま とっ て い る。 つ ま り,一 方 で は 「白猫 ・ 黒 猫 論 」 に代 表 さ れ る よ うな 理 性 的 ・現 実 主 義 的 ・実 践 主 義 的 思 考 を有 す る が,他 方 で は 「深 層 意 識 に お け る軍 事 暴 力 的 気 質 と家 父 長 独 裁 的 気 質」 を脱 す る こ とが で き な い で い る(2)。郵 は そ う した 思 想 の 二 重 性 を 自 ら 「改 革 開放 政 策 と 四 つ の基 本 原 則 とい う2つ の基 本 点 」 と概 括 し,こ の相 矛 盾 した2つ の 基 本 点 を 堅 持 す べ し とつ 掴 に言 及 して い る 。 これ ま で の 中 国 共 産 党 の領 袖 の 中 で は,郵 小 平 の権 力 欲 は そ れ ほ ど突 出 して お らず ,毛 沢東 や 林 彪 あ る い は 陳雲 や 彭 真 とい っ た 人 物 の 方 が み な郡 小 平 よ り も権 力 に執 着 して い た とみ ら れ て い る 。 た と え ば,1981年6月 に毛 沢 東 が 自 ら選 ん だ華 国鋒 が 党 主 席 を辞 任 した後,党 中 央 委 員 会 は 96

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鄲 小 平 を党 主 席 に推 戴 した が,郡 は 「大 局 を考 慮 す る と な ら ない 方 が 有 利 だ」 と考 え て ,決 して この 最 高 ポ ス トに就 こ う とせ ず,自 分 よ り若 い胡 耀 邦 を推 した 。 こ れ は偽 りの 謙 譲 で は な く,自 分 が 最 高 ポ ス トに就 か な い 方 が 老 幹 部 の 引 退 を促 す こ とが で き,制 度 の改 革 に有利 で あ る と判 断 した 理 性 的 思考 の 結 果 で あ っ た 。 しか し,鄰 小 孛 が81年6月 に党 中 央 軍 事 委 員 会 主 席 に就 任 した 以 外 に最 高 ポ ス トの 党 主 席 や総 書 記 に就 か ない ま ま に,最 高 指 導 者 と して の権 限 を行 使 した こ と は,新 た な 院 政 の 始 ま り とい う別 の 弊 害 を もた ら した。 鄲 小 平 は ほ か の 人 か ら家 父 長 に た て まつ られ,ま た 自 ら も家 父 長 を任 じ,事 実 上 の 「太 上 皇 帝 」 に変 じ,個 人 的 に軍 や 政 府 の 大 事 に干 渉 した の で,毛 沢 東 以 来 の 家 父 長 的 政 治 の 伝 統 か ら脱 す る こ とが で きず,党 の 最 高 責 任 者 で あ る は ず の 「総 書 記 」 で さ え職 権 を行 使 す る こ と が しば しば妨 げ ら れ た 。鄲 小 平 の こ の家 父 長 的 気 質 の 弱 点 が党 内 の長 老 勢 力 に利 用 さ れ,鄰 小 平 を ます ます 威 風 堂 々 た る家 父 長 に仕 立 て あ げ させ て し ま い,結 果 と して他 の 長 老 自 身が 小 家 父 長 と して 影 響 力 を残 す こ とを招 い て しま っ た 。 そ して,よ り重 要 な 問題 は郵 小 平 の この 家 父 長 的 気 質 が そ の 軍 事 的気 質 と深 く結 び つ い て い た こ と で あ る 。 中国 で 行 政 的 手 段 で 解 決 す る こ とが む ず か しい 難 題 に直 面 した と き,毛 沢東 は大衆 運 動 方 式 を 思 い 浮 か べ た が,鄰 小 平 は秩 序 よ く合 法 的 に組 織 され 効 率 的 に機 能 す る機 構 を好 み , しば しば党 組 織 や 軍 隊 とい った 暴 力 抑 圧 装 置 に依 拠 した 。 た と え ば,1986年 後 半 に学 生 運 動 が 中 国 政 治 を揺 さぶ った 時 で さえ も,胡 耀 邦 は 民 衆 の請 願 や 学 生 運 動 な ど とい っ た社 会 の 治 安 問題 は 大 国 が 奇 とす る に足 りな い正 常 な現 象 で あ り,総 合 的 な 対 策 と意 思 疎 通 の方 式 を採 用 す る と と も に,正 当 な法 律 的手 段 で解 決 す べ きで あ る と考 え て い た が,鄲 小 平 は 「来 る 者 か ら順 に 逮 捕 せ よ」 「厳 し く打 撃 を加 え ろ」 「新 疆,西 寧,蘭 州 の労 働 改 造 所 に送 っ て 北 京 の 戸 籍 を抹 殺 しろ」 「各 省 ・市 が 学 生 運 動 の 処 理 に さ い して必 要 と思 っ た 場 合 は 血 を流 して もか まわ ない 」 と指 示 し, 胡 耀 邦 の 学 生 運 動 に 対 す る態 度 を 「軟 弱 」 と批 判 して,彼 を総 書 記 の ポ ス トか ら解 任 した 。 郵 小 平 の こ う し た家 父 長 的 ・軍 事 暴 力 的 気 質 が 理 性 的 思 考 を圧 倒 した極 点 が1989年 に 「天 安 門 戦 役 」 と して表 出 さ れ た の で あ る。 鄲 に と って 「天 安 門 戦 役 」 は,か つ て 国共 内 戦 の なか で 自 らが 指 揮 し国 民 党 軍 を撃 破 した 厂淮 海 戦 役 」 と ま っ た く同 じ輝 か しい 戦 果 で あ る と意 識 され て い た こ とで あ ろ う(3)。 詰 ま る と こ ろ,天 安 門事 件 は 中国 共 産 党 が 学 生 運 動 を軍 事 力 を も っ て武 力 鎮 圧 した と い う側 面 の み で な く,緩 み か け た 共 産 党 の 指 導 権 をめ ぐっ て鄰 小 平 が 自 ら決 断 し遂 行 した 中 南 海 宮 廷 内 の 軍 事 クー デ タ ー とい う性 質 を も有 して い た と理 解 す べ きで あ る。 し た が っ て,宮 廷 軍 事 ク ー デ タ ー と い う 点 で は,1976年10月6日 に 毛 沢 東 死 後 の 主 導 権 争 い をめ ぐ っ て発 生 した ,い わ ゆる 「四 人 組 」 逮捕 と基 本 的 に 同 じ もの で あ っ た とい え る 。 「四 人 組 」 逮 捕 と は ,華 国 鋒(当 時,党 第 一 副 主 席 兼 国 務 院 総 理)・ 葉 剣 英(党 中 央 軍 事 委 員 会 責 任 者)・ 汪 東 興(党 中 央 弁 公 庁 主 任 兼 中央 警 護 部 隊 司 令 官)の3人 が 中 心 に な って ク ー デ タ ー を 主 導 し,文 革 派 の 若 きエ リー ト王 洪 文(党 副 主 席),張 春 橋(副 総 理 兼 政 治 局 常 務 委 員) ,毛 沢東未 亡 人 の江 青(政 治 局 委 員),文 革 の の ろ しを あ げ た文 筆 家 の 姚 文 元 とい う 厂四 人 組 」 や 毛 沢 東 の 甥 で あ る毛 遠 新(党 中央 弁 公 庁 副 主 任 兼 瀋 陽 軍 区 政 治 委 員)ら 文 革 派 の生 き残 り組 を逮 捕 した事 件 で あ る。 四 人 組 逮 捕 の 際 は,89年 天 安 門 事 件 の 時 の よ う に戒 厳 令 の 布 告 や軍 隊 の 市 内 へ の進 駐 や 大 規 模 な発 砲,戦 車 の登 場 とい っ た現 象 は み られ ず,わ ず か に 毛 遠 新 が 東 北 に 逃 走 しよ う と して 北 京 郊 外 の空 軍 基 地 で銃 撃 戦 に な っ た こ と ぐ らい で 南 る。 が,実 際 に は そ の背 後 で ,ク ーデ ター首 謀 者 た ちが 事 前 に謀 議 をめ ぐら し,上 海 の 民 兵 で編 成 さ れ た 「百 万 民 軍 」 とい う親 衛 部 隊 を擁 し て い た 江 青 らの 先 制 攻 撃 を恐 れ て,中 央 軍 事 委 員 会 を通 して秘 密 指 令 を 国境 警 備 隊 や 沿 岸 警 備 隊 97

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を含 む 全 軍 に伝 達 し,各 軍 区司 令 部 に 「四 人 組 」 を監 視 させ,い つ で も軍 を動 員 で きる 態 勢 を整 え て い た の で あ った 。 この よ う に,両 事 件 は 権 力 闘 争 に お い て 軍 事 力 を行 使 して 敵 対 す る勢 力 を 排 除 す る とい う点 で はい さ さ か の 相 違 もな か っ た。 した が っ て,軍 の政 治 との 関 わ り につ い て研 究 す る こ とは 天 安 門 事 件 を 明 らか にす る うえ だ け で な く中 国 政 治 の 特 質 を探 る う え で も重 要 で あ るが,本 稿 は 戒 厳 令 施 行 以 前 の 民 主 化 運 動 の 開始 時 期 を検 討 対 象 と して い るの で,軍 につ い て の 検 討 は行 わ な い 。 つ ぎ に,「 学 生 運 動 は 動 乱 で あ る」 と断 定 し た最 高 指 導 者 ・都 小 平 同 志 の 「考 え と関 心 」 に 影 響 を与 え る う えで 重 要 な役 割 を は た した3つ の ア ク ター の 行 動,す な わ ち(1)北 京 市 党 委 員 会 を 中心 とす る 北 京 市 当局 の学 生 運 動 へ の対 処 方 針,(2)学 生 問 題 を担 当 して い る 国家 教 育 委 員 会 の 対 応,(3)鄲 小 平 宅 に 自由 に出 入 りで き る二 人 の個 人 的 盟 友,楊 尚昆 国 家 主 席 兼 党 中 央 軍 事 委 員 会 副 主 席 と王 震 国家 副 主 席 の行 動 を 中 心 に,「4・26動 乱 社 説 」 形 成 に い た る政 策 決 定 過 程 を 検 討 す る。 3.最 高 領 袖 の 取 り巻 き 一 一 「北 京 グ ル ー プ 」 4月15日 の胡 耀 邦 死 去 に 端 を発 す る 学 生 運 動 に対 して,中 国 共 産 党 指 導 部 は 一 貫 し て こ れ を 「動 乱 」 で あ る とみ な して対 処 した 。 す で に胡 耀 邦 死 去 の 翌 日 の午 前 中 に 天 安 門広 場 に胡 耀 邦 を 追 悼 す る花 輪 が お か れ た だ け の段 階 で,公 安 部 の 同 日付 「内 部 資 料 」 は北 京 大 学 生 の 王 丹 や 北 京 師範 大 学 の ウ イ グ ル 族 学 生 ウ ル ケ シ ら数 人 の 学 生 を要 注 意 人 物 と して マ ー ク して い た 。 共 産 党 指 導 部 内 で 勤 務 して い た 者 の 証 言 に よれ ば,鄲 小 平 が 準 備 した 対 応 策 は早 くか ら学 生 運 動 処 理 の範 囲 を越 え て い た とい う(4)。党 指 導 部 内 で この 核 心 的 な 「学 生 運 動=動 乱 」 認 識 の取 り ま とめ に 動 い た の は や は り最 高 領 袖 ・郵 小 平 そ の 人 で あ っ た。 郵 小 平 は当 初 か ら 「今 回 の学 生 運 動 は た だ の学 生 運 動 で は な く,第 二 のハ ンガ リ ー事 件 で あ る」 とい う判 断 を下 し,そ う した認 識 に基 づ い て,公 式 の最 高 決 定 機 関 で あ る 共 産 党 政 治 局 常 務 委 員 会 お よ び重 要 な 政 策 決 定 の 際 に は常 に背 後 に ひ か え て い る 長 老 指 導 者 た ち の 意 思 統 一 を図 っ た。 そ れ が,4月26日 付 『人 民 日報 』 社 説 「旗 幟 鮮 明 に動 乱 に 反 対 し よ う」 と な っ て 結 実 した 。 これ 以 後,「 動 乱 社 説 」 の撤:回が 学 生 運 動 の 中 心 的 な要 求 とな った だ け で な く,こ の社 説 を堅 持 す る か 取 り消 す か が 党 内 闘争 の 主 要 な争 点 とな っ た 。 つ ま り,社 説 を堅 持 す る か 否 か が そ の ま ま鄲 小 平 を支 持 す る の か そ れ と も彼 に反 対 す る の か と い う政 治 的 踏 絵 の基 準 と な っ た の で あ る。 ま た,学 生 た ち が 要 求 して い た 「胡 耀 邦 の 再 評 価 」 を受 け 入 れ るか ど うか も同 じ く鄰 小 平 を肯 定 す る か 否 定 す る か につ なが る もの で あ っ た 。 この 社 説 が 出 され る前 に,鄰 小 平 は 陳 雲 と何 人 か の 長 老 に対 して 自分 の見 方 を聞 か せ た 。長 老 達 は,鄲 小 平 は 読 み が 深 く,先 見 の 明 が あ る と口 々 に ほめ そ や し,陳 雲 は し き りに頷 い て い た 。 しか し,郵 小 平 の こ う した 「学 生 運 動=動 乱 」 認 識 の 基 礎 に な った 情 報 の一 部 は 陳 雲 自 身 が流 し た もの で あ り,ま た郡 小 平 の取 り巻 きた ちが 郵 の こ う した見 方 を知 っ て,さ ら にそ れ に迎 合 す る 情 報 を伝 え た 結 果,郵 小 平 を して ます ます 自分 の認 識 に確 信 を もた せ る こ と とな った 。 こ う し た 情 報 を鄰 小 平 に伝 達 した ル ー トの一 つ が 鄲 小 平 の ブ リ ッジ仲 間 で あ っ た 。 [郡小 平 の ブ リ ッ ジ仲 間 一 北 京 グル ー プ] 鄰 小 平 の 意 向 に沿 う 厂学 生 運 動=動 乱 」 認 識 に基 づ い て,北 京 の 学 生 運動 に関 す る状 況 報 告 を 最 初 に行 な っ た の は,首 都 の 治 安 を あ ず か る 北 京 市 党 委 員 会 で あ っ た 。 も と も と北 京 市 党 委 員 会 で は,郵 小 平 との ブ リ ッジ前 に な る と,陳 希 同 ・市 長 と李 錫 銘 ・党 委 書 記 と郵 小 平 の ブ リ ッ ジ仲 98

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問 で あ る副 市 長(誰 で あ るか 不 明)の3人 が 小 常 務 委 員 会 会 議 を開 い て,郡 に会 っ た 時 どん な こ と を言 うの か を事 前 に研 究 し,ブ リ ッ ジが 終 わ る と も う一 度 常 務 委 員 会 を開 い て,鄲 が 何 を 言 った か,何 を考 え て い る の か を話 し合 い,鄲 の 意 向 に迅 速 に応 じ られ る よ う に備 え て い た 。4月16日 午 後,郡 小 平 は予 定 通 りい つ もの ブ リ ッジ仲 間3人 とブ リ ッジ を お こな った 。3人 は こ こ に 来 る 前 に,「 高 い 地位 の あ る人 物 」 か ら今 日は 特 に気 を つ け る よ う に とい う異 例 の 電 話 を受 け て い た。 ブ リ ッジ をや りなが ら,そ の 中 の一 人,北 京 市 出 身 の 国務 委 員(誰 で あ る か 不 明)が 厂陳 希 同 同 志 が 準 備 は 整 っ てい る と伝 え て ほ しい とい っ て い た 」 と郡 小 平 に語 っ た 。 これ に先 立 つ3月 の あ る 日,や は りブ リ ッ ジ を や っ て い る時 に,郡 小 平 が 「最 近 ,学 生運動 は どうか」 と尋 ねる と,同 席 して い た 王 震(国 家 副 主 席)が 厂調 べ て み な け れ ば わ か らん な。 共 産 党 を ひ っ く り返 そ う と して い る の で は な い か 。 誰 か が 後 ろ で 糸 を引 い て い る の で は な い か 。 誰 か黒 幕 が 必 ず い る はず だ 」 と 口 をは さ ん だ こ とか ら,す で に1989年3月 か ら資 料 集 め に と りか か っ て い た(5)。 こ う して,学 生 た ちが 街 頭 に 出 て デ モ を 始 め た り中 南 海 新 華 門 前 で 座 りこ み を 始 め る と,4月 17日 か ら25日 の 問 に 北 京 市 首 脳 の 李 錫 銘 と陳希 同 は学 生 運 動 に 関 す る報 告 を相 前 後 して9回 に わ た り郵 小 平 に提 出 した 。 内 容 は ほ とん ど 「学 生 が 動 乱 を起 こ して い る」 とか 「共 産 党 に反 対 して い る」 とか 「中南 海 を襲 撃 した」 な ど とい う もの ば か りで ,鄰 小平 に 「学生運動 を支持 しない と い う明 確 な態 度 の 表 明」 を促 す も の だ っ た(6)。 そ して ,鐔 紫 陽が北京 を離れ た翌 日の4月24日, 北 京 市 党 委 員 会 は 「ブ リ ッ ジ で うけ た まわ っ て きた お 言 葉 」 に沿 っ て書 き上 げ ら れ た学 生 運 動 に つ い て の報 告 書 を党 中央 政 治 局 に あ げ た 。 報 告 書 は 「今 回 の 学 生 運 動 の矛 先 は 直 接 的 に党 中央 に 向 け られ た もの で あ り,共 産 党 の 指 導 を転 覆 させ よ う と企 図 した もの 」 で あ り,「学 生 運 動 は計 画 的 組 織 的 な,事 前 の謀 議 を経 た反 党 反 社 会 主 義 の行 動 で あ る 」 と断 定 した だ け で な く,さ らに 「学 生 運 動 は2年 前 か ら準 備 が 進 め られ て い た 」 と ま で 記 して い た 。 そ もそ も北 京 市 党 委 員 会 の この 報 告 書 は,首 都 の 治安 維 持 を直接 に な う北 京 市 警 備 司 令 部 の 政 治 委 員 を も兼 任 して い た李 錫 銘 ・北 京 市 党 委 員 会 書 記 が 配 下 の 副 書 記 ・徐 惟 誠 に執 筆 させ た もの で あ っ た 。 李 錫 銘 は か つ て1975年 に李 鵬 と同 時 に水 利 電 力 部 副 部 長 に就 任 し,李 鵬 に近い保守 派 とみ られ る の で,こ の 報 告 書 は李 錫 銘 が 陳 雲 ・李 鵬 グ ル ー プ の 「趙 紫 陽 追 放 計 画 」 に加 担 す る た め に,李 鵬 の意 を受 け て ま とめ あ げ た との 見 方 もあ る ⑦ 。 徐 惟 誠 とは,か つ て 文 革 期 に 「洪 広 思 」 とい うペ ンネ ー ム で 論 陣 を張 った 「四 人 組 」 の 執 筆 グ ル ー プ の リー ダー で ,い つ も上 層部 の 意 向 を研 究 し上 層 部 の 人 た ちが 喜 び そ う な こ と を選 ん で書 き,上 層 部 が嫌 が りそ う な こ と は書 か な い とい う 人 物 とみ な さ れ て い る 。 「四 人 組 」 の失 脚 後,彼 は本 来 「文 革 三 種 人 」 の な か に 入 れ られ て 粛 清 され る運 命 に あ っ たが,彼 の 極 左 思 想 が 改 革 開放 時 代 の 左 派 イ デ オ ロー グ の代 表 者 で あ る郡 力 群 や 胡 喬 木 に認 め られ た の で,生 き残 る こ とが で き,1982年 に は北 京 日報 社 長 に任 命 さ れ た 。 問題 とな る 『人 民 日報 』 「4・26動 乱 社 説 」 も彼 が 執 筆 し た もの で あ っ た(8)。つ ま り, 文 革 路 線 と決 別 した はず の 改 革 ・開放 の 時 代 に あ っ て も,文 革 時代 に活 躍 した人 物 が 引 き続 き活 躍 して い る こ とは,経 済 政 策 の 面 で は大 き な路 線 転 換 が な され た が ,政 治面 ではい まだ に文革期 と同 じ 「一 党 独 裁 」 と 「最 高 領 袖 」 の メ カ ニ ズ ムが 働 い て い た こ と を典 型 的 に示 して い る 。郡小 平 は4月25日 の 談 話 で 「文 革 の 再 来 」 と語 った 学 生 運 動 を文 革 の理 論 イ デ オ ロ ー グ を用 い て取 り 締 ま らせ た の で あ る 。(9)徐惟 誠 は 事 件 後 の1989年9月,こ の 功 に よ り党 中 央 宣 伝 部 常 務 副 部 長 に昇 進 して い る 。' 99

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4.北 京 市 と国家 教 育 委 員 会 の 学生 運 動 へ の対 応 [北京 市 当局 お よ び 国 家 教 育 委 員 会 の胡 耀 邦 死 去 に対 す る対 応] 北 京 は 党 中央 のお 膝 元 とい う こ と もあ り,首 都 の 治 安 を あず か る北 京 市 党 委 員 会 は も と も と保 守 的 な性 格 を もつ 傾 向 に あ るが,当 時 の 北 京 市 の 党 ・政 府 指 導 部 も保 守 派 に よっ て 牛 耳 られ て お り,北 京 市 当 局 は 当初 か ら学 生 運 動 の発 生 を警 戒 し,こ れ に対 す る 監視 を続 け て い た 。 実 際,北 京 市 党 委 員 会 は胡 耀 邦 が 死 去 した 当 日(4月15日)に は 早 く も夕 方7時 か ら,学 生 の 動 向 を見 越 し て一 部 の 大 学 と市 街 区 ・郊 外 区 の党 委 員 会 書 記 を 緊 急 召 集 し,学 生 の 追 悼 活 動 に対 す る 善 導 工 作 や 下 心 を も っ た者 が 扇 動 し騒 ぎを起 こす こ とへ の 警 戒 や 治 安 管 理 の 強 化 を指 示 し てい た(10)。 確 か に当 局 が 警 戒 した よ う に,胡 耀 邦 追 悼 名 目の 学 生 の活 動 は活 発 で,4月15日 に北 京 大 学 校 内 の 「三 角 地 」 で胡 耀 邦 の 死 亡 をめ ぐ っ て数 百 名 の 学 生 が討 論 を行 な っ た の を皮 切 りに,16日 に は北 京 大 学,中 国 人 民 大 学,中 央 民族 学 院,清 華 大 学,北 京 師 範 大 学 な ど北 京 の20大 学 で 党 と政 府 を批 判 す る壁 新 聞 ・ス ロ ー ガ ン ・晩 聯 な どが 計300枚 余 り も貼 り出 され た。 さ ら に は,人 民 大 学 な どの 学 生 が 人民 英 雄 記 念 碑 に花 輪 を捧 げ る とい う天 安 門 広 場 で の追 悼 行 動 も行 な わ れ た。 翌 17日 に な る と当 初 の 壁 新 聞 や学 内 集 会 とい っ た 学 園 内 で の 行 動 に と ど ま ら ず,中 国 政 法 大 学 の 500名 余 りの学 生 が 初 め て 学 外 に出 て天 安 門広 場 ま で デ モ 行 進 し花 輪 を献 花 す る とい う街頭 行 動 に 出 て,「 天 安 門 広 場 デ モ 第 一 号 」 が 生 ま れ た 。 同 日 に は,上 海 ・天 津 ・西 安 ・湖 南 省 湘 潭 な ど 地 方 の 大 学 で も,学 生 が 街頭 に出 て デモ を行 な う な どの 騒 ぎが 起 きて い た 。 そ の 中 に は 「専 制 独 裁 反 対 」 「郵 小 平 打 倒 」 な ど の ス ロ ー ガ ン を叫 ぶ もの も現 れ,西 安 で は500人 余 りの 学 生 が 省 政 府 内 に突 入 し よ う とす る事 態 も発 生 し,治 安 当 局 に 重大 な 懸 念 を抱 か せ た 。 こ う した動 き に刺 激 さ れ て,北 京 大 学 で も真 夜 中 の0時30分,校 内 の 「三 角 地 」 に突 然2千 人 ほ どの 学 生 が 集 ま り,う ち1千 人 余 りが 午 前1時 頃 よ り街 頭 に 出 て,途 中で 中 国 人 民 大 学 の学 生 も加 わ りな が ら,天 安 門広 場 まで 行 進 した 。 北 京 大 学 の 学 生 が デ モ に出 た とい う情 報 が もた ら さ れ るや い な や,北 京 市 当 局 で も さ っ そ くに対 応 に走 っ た 。18日 の 未 明 の う ち に,北 京 市 党 委 員 会 の 責 任 者 と国家 教 育 委 員 会 副 主 任 の何 東 昌 お よ び 国務 院 副 秘 書 長 の劉 忠 徳 が 市 党 委 員 会 で 緊急 会 議 を 開 き,北 京 大 学 の学 生 に よ る こ の行 動 は 北 京 市 ひ い て は全 国 に影 響 を及 ぼ す もの で あ る との 判 断 に至 っ た 。 この た め北 京 市 党 委 員 会 で は,(1)マ ス コ ミを操 縦 し,胡 耀 邦 同 志 を追 悼 す る に は マ ル ク ス 主 義 を堅 持 し,悲 しみ を力 に 変 え,団 結 して 整 備 整 頓 を立 派 に行 うべ きで あ る と旗 幟 鮮 明 に 言 明 す べ き で あ る(下 線 は筆 者)。(2)胡 耀 邦 同 志 の 厂青 年 運 動 の方 向 に つ い て の講 話 」 を発 表 す る よ う建 議 す る 。(3)目 下,胡 耀 邦 同志 が 死 去 した状 況 をめ ぐっ て デ マ が い ろ い ろ流 れ て い る の で,中 央 が 胡 耀 邦 同 志 の 病 状 に つ い て紹 介 し,様 々 な 憶 測 を は らす よ う希 望 す る 。(4) 真 剣 な追 悼 活 動 と意 図 的 な 扇 動 とを厳 格 に区 別 す る,と い う4つ の 提 案 を行 な っ た。 こ の よ う に, 北 京 市 党 委 員 会 は学 生 運 動 に 「旗 幟 鮮 明 」 に対 処 す べ き こ と を提 議 し,ま た胡 耀 邦 の 病 状 を党 中 央 が 明 らか にす る よ う求 め,学 生 運 動 の 問 題 処 理 の 責 任 の 一 部 を党 中央 に押 し付 け よ う と して い た(11)。 当局 側 の 文 献 に初 め て 「旗 幟 鮮 明 」 とい う言 葉 が あ らわ れ て い る こ と は注 目 して よい で あ ろ う 。 北 京 市 当 局 の か く も迅 速 な対 処 に 呼 応 した の が,大 学 の 政 治 ・思 想 工 作 に責 任 を もつ 国 家教 育 委 員 会 で あ った 。 上 記 の 北 京 市 党 委 員 会 の 会 議 には 国 家 教 育 委 員 会 か ら も何 東 昌 副 主 任 が 出 席 し 協 議 に参 加 して お り,ま た彼 は そ の後 の 北 京 市 当 局 の 学 生対 策 の 会 議 に は つ ね に 出席 し,時 に は 演 説 し重 要 な指 示 を伝 達 す る とい う役 割 を は た して い る 。 国 家 教 育 委 員 会 は 同 日(4月18日),一 一100一

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部 の省 ・直 轄 市 の 教 育 部 門 と所 轄 の 大 学 宛 て に 「通 達 」 を 出 し,「 学 生 達 が 行 って い る 胡 耀 邦 追 悼 活 動 の な か に は注 意 す べ き状 況 と兆 しが 現 れ てお り,少 数 の 者 が 当 面 の い くつ か の 間 題 に対 し て 不 満 を もち,機 会 を借 りて 吐 き出 そ う とね ち っ て い る の で,き め細 か な思 想 工 作 を行 な っ て 善 導 す る必 要 が あ る。 こ の機 会 に下 心 を もっ た 者 が 党 と政 府 へ 矛 先 を向 け よ う とす る 大 学 内 外 の 動 き に対 して 冷 静 な 頭 脳 を保 持 す る 必 要 が あ る」 と,警 戒 を呼 び か け た(12)。 この よ う に,北 京 で 学 生 運 動 へ の 対 応 を当 初 か ら担 当 して い た の は,李 錫 銘 や 陳 希 同 ら北 京 市 首 脳 と元 清 華 大 学 副 学 長 の 何 東 昌 ・国 家 教 育 委 員 会 副 主 任 と元 国 家教 育 委 員 会 副 主 任 兼 秘 書 長 と して何 東 昌 と 同僚 で あ っ た劉 忠 徳 ・国務 院 副 秘 書 長 の3者 で あ っ た(13)。北 京 市 党 委 員 会 と国 家 教 育 委 員 会 の 両 機 関 は 当 初 か ら学 生 の 動 き に厳 しい 見 方 を もっ て 学 生 運 動 を 警 戒 し,学 生 の なか の 「注 意 す べ き状 況 と 兆 し」 を即 座 に見 い だ し,断 固 た る 「旗 幟 鮮 明 」 な措 置 を指 示 し,そ して 問 題 処 理 の 一 端 を つ ね に党 中央 に あ ず け る よ う努 め て い る。 学 生 運動 処 理 を 担 当 した3者 は い ず れ もか つ て 国 家 教 育 委 員 会 主 任 で あ った 李 鵬 国務 院 総 理 に近 い人 物 で あ り,ま たす で に趙 紫 陽打 倒 の 陰謀 が 進 め られ て い た こ とか ら も,か れ らが趙 紫 陽 とラ イバ ル 関 係 に あ る李 鵬 の意 を受 けて,故 意 に 学 生 運 動 を 中 傷 し,そ れ に よ って 学 生 運 動 を煽 る と と も に,学 生 運 動 を党 中央 に誇 大 に報 告 し,問 題 の い っ そ うの 拡 大 化 を図 り,党 外 の 問 題 を党 内 に持 ち 込 み,党 内 闘 争 の激 化 を意 図 し,趙 紫 陽 を して学 生 運 動 に対 処 で きな くさせ,郵 小 平 の 「考 え と関 心 」 に 影 響 を与 え て趙 紫 陽 の 解 任 に 同 意 させ る と の うが っ た見 方 も充 分 に成 り立 ち う る。 北 京 市 当 局 や 国 家 教 育 委 員 会 と は別 系 統 で,公 安 ・諜 報 部 門 も独 自 に学 生 運 動 へ の 監 視 活 動 を 行 な っ て い た 。 この 日(4月18日),国 家 安 全 部 と公 安 部 が 連 名 で 「反 政府 的 思 想 の持 ち 主 」 を監 視 す るか ど うか,ど う監 視 す る か につ い て指 示 を求 め て 請 訓 した こ とが確 認 で きる 。 政 治 局 常 務 委 員 の なか で公 安 ・警 察 ・情 報 を担 当 して い る喬 石 が まず 裁 可 した後,各 常 務 委 員 に 回 され,秘 書 の代 筆 に よっ て全 員 が 監 視 活 動 に賛 成 を表 明 した(14)。 [新華 門 突 入 事 件 の発 生 と 当局 の 対 応] 一 方,北 京 大 学 を出 た学 生 た ち は18日 早 朝 の 午 前4時30分 前 後 に天 安 門広 場 に到 着 し,人 民 英 雄 記 念 碑 に 「中 国魂 永 遠 に耀 邦 同志 を偲 ぶ 」 と い う垂 れ 幕 を掛 け た後,学 生 リー ダー 王 丹 ら が 記 念 碑 前 で 演 説 し,厂7力 条 の 要 望 」 を発 表 し た。 そ の後,6時15分,学 生 達 は 広 場 か ら人 民 大 会 堂 前 に移 り,全 人 代 常 務 委 員 会 宛 ての 請 願 書 を宿 直 の 職 員 に手 渡 した が,な お も座 りこみ を 続 け た 。8時 過 ぎ,全 人 代 常 務 委 員 会 信 訪 局(請 願 処 理 部 門)の 職 員 が 人民 大 会 堂 で学 生代 表 と対 話 を行 ない,王 丹 や 郭 海 峰(北 京 大 学 国 際 政 治 系 学 生)が 請 願 書 を責 任 者 に渡 した。 しか し,対 話 の 後 も200-300人 の 学 生 が 広 場 に 残 っ て座 りこ み を続 け,王 丹 ら は全 人 代 常 務 委 員 長 との対 話 を 求 め る な ど,要 求 をエ ス カ レー トさせ た。 昼 頃,対 話 の 相 手 を全 人 代 常 務 委 員 で も可 と要 求 を引 き下 げ た 結 果,夕 方5時30分 頃,共 青 団 中央 書 記 処 書 記 で もあ る全 人代 常 務 委 員 の劉 延 東 と陶 西 平(全 人 代 代 表),宋 世 雄(同)の3人 が 座 り込 み を して い る学 生 と会 見 し,請 願 書 を受 け 取 っ た。 晩19時 か ら 人民 大 学 の 学 生1千 人 余 りが 天 安 門 に向 か う な ど,夕 方 か ら他 大 学 の学 生 も広 場 に集 ま りは じめ,21時 頃 に は2万 人 前 後 の 学 生 と群 衆 が 広 場 及 び周 辺 に集 ま って い た。22時 に学 生 達 が 郭 海 峰 ら に率 い られ て 広 場 か らデ モ 行 進 しな が ら,中 国 政 治 の 中枢 部 「中 南 海 」 の 南 門 に あ た る新 華 門 前 ま で移 動 した。23時 頃 か ら2千 人余 りの 学 生 が 新 華 門前 で座 りこみ を始 め,政 法 大 学 学 生 の周 勇 軍 や北 京 師 範 大 学 教 育 系88年 級 学 生 の ウ ル ケ シ らが 新 華 門前 で ア ジ演 説 を行 ない,一 部 の 学 生 は 「李 鵬 出 て こ い」 な ど と叫 び,さ ら に は新 華 門 へ の突 入 を図 ろ う と した 。新 華 門へ の 突 入 は 当 局 の発 表 に よ る と30分 ご と に繰 り返 され,計6回 試 み られ た とい う。 こ う した 中 南 海 へ 一101一

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の 突 入 とい う出 来 事 は 国 内 が 混 乱 して い た 文 革 時 で さえ も発 生 した こ とが な く,建 国 以 来 初 め て の ゆ ゆ し き事 態 で あ る と,治 安 ・警 備 当局 に は深 刻 に 受 け とめ られ た(15)。 19日 未 明 の 午 前3時5分 に も,新 華 門前 で 学 生 と武 装 警 察 との衝 突 が 発 生 した 。 こ う した 緊迫 した事 態 を受 け て,3時40分 か ら情 報 ・治 安 ・警 察 ・検 察 の総 指揮 を と る党 中央 政 法 委 員 会 書 記 の 喬 石 ・政 治 局 常 務 委 員 と党 中央 機 関 の警 備 に も責 任 を負 う党 中 央 弁公 庁 主 任 の 温 家 宝 ・党 中央 書 記 処 候 補 書 記 は,国 務 院 弁 公 庁 ・公 安 部 ・中央 宣 伝 部 ・中央 弁公 庁 警 衛 局 ・北 京 市 党 委 員 会 ・ 北 京 市 人 民 政 府 ・北 京 市 公 安 局 な どの 関係 者 を集 め て事 態 を検 討 し,次 の よ うな 決 定 を行 な っ た 。 す な わ ち,北 京 市 人 民 政 府 の 名 義 で 「通 告 」 を発 し,市 公 安 局 が 早 急 に人 員 を動 員 して,速 や か に新 華 門前 の 秩 序 を整 頓 す る よ う任 務 を執 行 す る こ と と した 。 4時20分,公 安 警 察 と武 装 警 察 は任 務 執 行 の た め長 安 街 の3方 向 か ら新 華 門前 に集 結 し,3台 の 広 報 車 を 配 備 し,4時45分 か ら市 政 府 の 「通 告 」 を読 み 上 げ,学 生 に退 去 を 求 め た 。 「通 告 」 は まず,「 こ こ数 日来,広 範 な 大 衆 が 追 悼 活 動 を行 な う とい う機 に乗 じて,少 数 の 下 心 を も っ た 者 が デ マ を ま き散 ら し,人 心 を惑 わ し,党 と国 家 の指 導 者 を攻 撃 し謾 罵 す る壁 新 聞 を貼 り出 して い る。 さ ら に重 大 な こ とに は,4月18日 夜,公 然 と少 数 の者 が 扇 動 に の っ て 中南 海 に突 入 し,秩 序 維 持 に 当 た っ てい た警 備 戦 士 を傷 つ け,追 悼 活 動 とは 無 縁 の 無 理 な要 求 を あ れ これ 提 出 した 。 これ らの者 の や る こ とな す こ と は,も は や 胡 耀 邦 同志 の 追 悼 活 動 で は な く,意 図 的 に紛 糾 を作 り 出 して 煽 り立 て,追 悼 活 動 の 正 しい方 向 をね じ曲 げ よ う とす る もの で あ る」 と述 べ,警 告 を発 し た 。 そ し て 「通 告 」 は,「 追 悼 活 動 を 正 常 に進 め,少 数 の下 心 の あ る人 間 の攪 乱 や破 壊 を防 ぎ, 社 会 秩 序 の安 定 を確 保 す る た め に,(1)追 悼 活 動 を通 じて,実 際 の 行 動 で もっ て 胡 耀 邦 同 志 の革 命 的 献 身 の精 神 を学 び,大 局 に心 を配 り,安 定 団結 した 局 面 の 維 持 につ とめ,各 自の 持 ち場 で 中 華 の 振 興 の た め に貢 献 す る よ う努 力 す る 。(2)追 悼 活 動 は各 所 属 組 織 内 で組 織 的 で 秩 序 あ る形 で 行 な うべ きで あ る。(3)い か な る者 も追 悼 活 動 に名 を借 りて,攪 乱 や 破 壊 活 動 をお こ な う こ と を 絶 対 に許 さな い 。 殴 る,打 ち壊 す,盗 む,突 入 す る,放 火 す る とい っ た違 法 行 為 を働 く犯 罪 分 子 は 法 に よ っ て厳 罰 に処 す る」 と通 告 し,「 党 ・政 府 機 関 を襲 撃 す る こ と は違 法 で あ り,正 常 な工 作 秩 序 と交 通 秩 序 を維 持 す る た め に現 場 か らた だ ち に 立 ち去 る 」 よ う呼 び か け た(16)。 「通 告 」 を放 送 後,人 群 は 散 り始 め,5時 頃 に は 残 っ て い た200人 余 りの学 生 も決 め られ た時 間 まで に退 去 す る よ う に とい う通 告 を受 け て,自 発 的 に 解 散 した 。 北 京 市 公 共 交 通 総 公 司 は市 党 委 員 会 の 要 求 に応 じて4台 の バ ス を六 部 口 まで 運 行 させ た。 武 装 警 察 の 勧 告 と説 得 に応 じて,座 り込 み を して い た 学 生 た ち は次 々 とバ ス に 乗 っ て大 学 に 戻 っ て行 き,こ の騒 動 は す ん な りと一 件 落 着 した か に み え た 。 しか し,新 華 門突 入 と い う重 大 事 態 の発 生 を受 け て,午 前 中 に北 京 市 党 委 員 会 は 常 務 委 員 会 会 議 を 開 き,学 生 運 動 に対 処 す る た め 指 導 部 内 で の 新 た な 任 務 分 担 を行 な っ た。 続 い て,午 前11時 か ら35の 大 学 と8の 市 街 区 ・郊 外 区 の 党 委 員 会 書 記 会 議 を召 集 し,当 日未 明 に一 部 学 生 が 新 華 門 を襲 撃 した状 況 に つ い て報 告 した 。 李 錫 銘 書 記 は,「 本 当 に胡 耀 邦 同志 を追 悼 し よ う とす る 者 が 多 数 を 占 め てお り,下 心 を もっ て 陰 謀 を企 て て い る者 は 少 数 で あ る」 と指 摘 し,学 生 の 状 況 を真 剣 に分 析 す る こ と と旗 幟 鮮 明 に少 数 の 者 の 陰謀 を暴 露 す る こ と(下 線 は筆 者)の2点 を強 調 した 。 会 議 は,同 時 に 『北 京 日報 』,北 京 テ レ ビ局,北 京 人 民 ラ ジ オ 放 送 局 な ど北 京 市 管 轄 の 報 道 宣伝 機 関 の 報 道 工 作 に つ い て も具 体 的 措 置 を決 め た(具 体 的 措 置 の 内 容 は不 明)。 青 年 工 作 を担 当 す る 中 国 共 産 主 義 青 年 団 の 北 京 市 委 員 会 も動 き は じめ,同 日(19日),一 部 の 区 ・県 ・局 ・総 公 司 ・大 学 の 団 委 員 会 書 記 を集 め て 会 議 を開 き,胡 耀 邦 死 去 以 来 の 学 生 運 動 の 状 況 を検 討 した が, 一102一

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こ の段 階 で 「学 生 運 動 の 趨 勢 が 正 常 な 追 悼 の範 囲 を越 え て 政 治 的 な事 件 に,ま た全 市 的 な分 散 的 活 動 か ら全 国 的 な連 合 し た活 動 に 転 化 しつ つ あ る」 と分 析 され,そ の危 険 な兆 候 が指 摘 さ れ て い た 。青 年 団 北 京 市 委 員 会 は 「胡 耀 邦 同 志 の 功 績 を正 確 に 宣 伝 す る こ と,及 び断 固 と して 安 定 団結 の局 面 を擁 護 す る」 とい う活 動 方 針 を決 定 し,学 生 と大 衆 の 状 況 把 握,事 実 の 宣 伝,デ マ に対 す る反 駁,旗 幟 鮮 明 に 騒 乱 者 と闘 う こ と(下 線 は筆 者)と い う4つ の活 動 を指 示 した(17)。 こ う し た 当局 の対 応 に も関 わ らず,4月19日 深夜 か ら20日 未 明 に か け て,学 生 と武 装 警 察 の衝 突 が新 華 門前 で再 び よ り険 悪 な形 で 発 生 した 。 北 京 市 党 委 員 会 は20日 午 前 中 に,区 ・県 ・局 ・総 公 司 ・大 学 の指 導 幹 部 緊 急 会 議 を召 集 し,善 後 策 の 検 討 を行 な っ た 。 まず 袁 立 本 ・常 務 委 員 兼 秘 書 長 が こ こ数 日間 の 天 安 門広 場 の 状 況 を報 告 した 後,李 錫 銘 書 記 と李 其 炎 常 務 副 書 記 が そ れ ぞ れ 大 衆 工 作 を う ま く行 な う よ う述 べ,以 下 の 指 示 を 出 した 。 す な わ ち,(1)何 が な ん で も混 乱 状 態 を作 り出 そ う とす る 者 が,デ マ を流 して 政 治事 件 に作 り上 げ よ う と して い る事 実 を 旗 幟 鮮 明 に暴 く こ と(下 線 は 筆 者)。(2)各 企 業,商 業 な どの 生 産 部 門 は正 常 な 生 産 活 動 を保 証 す る こ と。 (3)教 育 関 係 の 職 員 労 働 者 は天 安 門 広 場 に 赴 い て は な ら な い こ と。(4)各 大 学 で は,学 生 た ち を これ 以 上 広 場 に 行 か せ な い よ う に説 得 に尽 力 し,あ くま で も行 く こ と を堅 持 して い る大 学 で は オ ル グ説 得 工 作 を し っか り行 な う こ と。(5)各 機 関 は 当 番 制 を 強化 し,速 や か に状 況 を報 告 し, 22日 の 追 悼 活 動 の 順 調 な進 行 を確 保 す る こ と。 国 家教 育 委 員 会 も同 日(20日),一 部 の 省 ・直 轄 市 の教 育 部 門 と所 轄 の 大 学 に学 内 の 治 安 管 理 を 強 化 す る よ う命 ず る 「通 達 」 を 出 し,同 時 に 「北 京 市 人 民 政府 通 告 」 を転 送 した 。 「通 達 」 は, 「中央 の 手 配 通 りに胡 耀 邦 追 悼 活 動 を き ち ん と実 施 し ,大 学 の 状 況 を安 定 させ,安 定 団 結 の局 面 を維 持 す る」 た め に,注 意 すべ き こ と と して 次 の 二 つ の 指 導 工 作 を提 起 して い た 。 す な わ ち,ま ず 第 一 に,追 悼 活 動 に対 して 大 学 党 委 員 会 が 組 織 的指 導 を強 化 しな けれ ば な らな い 。 主 体 的 に校 内 の 追悼 活 動 を 組 織 し,党 員 ・教 師 を動 員 して ク ラ ス に は い らせ 教 育 説 得 工 作 を し っか り行 な い, 胡 耀 邦 同 志 の青 年 問 題 に 関 す る論 述 を学 習 す る よ う指 導 す べ きで あ る。 学 生 の 中 にあ るい くつ か の意 見 や 恨 み に対 し て は適 時 善 導 し,誤 っ た 言 論 に対 して は旗 幟鮮 明 に反 駁 を加 え,個 々 に扇動 して 騒 ぎ を起 こす 人 に対 して は,学 校 の指 導 者 が 彼 ら と話 し合 い,厳 粛 に彼 らの誤 りを指 摘 す べ きで あ る(下 線 は 筆 者)。 第 二 に,学 校 の 正 常 な 教 学 ・生 活 秩 序 と追 悼 活 動 の秩 序 を 維 持 す べ き で あ る。 学 校 は 内 部 管 理 を強 め,学 生 が 規 律 を遵 守 す る よ う教 育 し,と りわ け党 員 ・団 員 が模 範 的役 割 を果 た す よ う要 求 す べ きで あ る。 ま た校 内 の 治 安 管 理 を強 化 し,公 安 部 門 と密 接 に協 力 し て社 会 の 治 安 を守 るべ きで あ る,と 指 示 を与 え た 。・最 後 に新 華 門 事 件 につ い て,国 家 教育 委 員 会 は 「北 京 の 少 数 の 者 が 中 南 海 新 華 門 に突 入 した こ と に対 して,北 京 市 政 府 は交 通 と政 府 機 関 の 正 常 な活 動 を 維持 す る た め に,法 に基 づ い て 必 要 な解 散 措 置 を と っ たが,人 は捕 ま えず,ま た任 務 を執 行 した 武 装 警 官 は警 棒 を携 帯 せ ず,ベ ル トを つ け て い なか っ た」 と説 明 し,学 生 側 の 「警 官 の 暴 行 」 とい う主 張 に 反 論 し,「 あ る者 が この 機 に 乗 じて デ マ を 飛 ば して い る こ と に鑑 み て,学 生 を組 織 して新 華 社 の評 論 員 論 文 を学 習 させ,彼 らが 軽 々 し くデマ を信 じな い よ う に教 育 す べ き で あ る。 同 時 に学 生 の 上 京 をや め させ る よ う断 固 と して説 得 しな け れ ば な らな い 」 と,学 生 へ の 教 育 と説 得 に尽 力 す る よ う求 め た(18)。 当 局 は マ ス コ ミの宣 伝 工 作 に も力 を入 れ た。 報 道 宣 伝 機 関 は与 え られ た 党 の 宣 伝 機 関 と して の 機 能 を果 た す べ く,前 日の 北 京 市 党委 員 会 の 「報 道 宣 伝 に関 す る具 体 的措 置 」 に基 づ い て 当 局 の 安 定 団 結 局 面 の 擁 護 を優 先 させ,少 数 の 者 に騙 され る な との 主 張 を繰 り返 し伝 え た。 同 日付 『北 京 日報 』 は,学 生 の攻 撃 の 的 とな る 「北 京 市 人 民 政 府 通 告 」 を掲 載 す る と と も に,新 華 社 も 「社 一103一

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会 の安 定 を保 持 す る こ とは 当 面 の 大 局 で あ る」 と題 す る 上 記 の評 論 員 論 文 を配 信 し,「 現 在,ご く少 数 の 者 が前 面 あ るい は背 後 で コ トを起 こす こ と を企 て て い る」 と して,警 戒 を 呼 び か け た 。 中 国 の 記 者 も事 件 の 現 場 で 取 材 中 で,暴 行 の 場 面 を見 て い た が,党 中央 宣 伝 部 が 各 新 聞 社 に 新 華 社 の原 稿 以 外 は載 せ て は な らな い と電 話 で 通 告 した ため,真 実 の状 況 が 報 導 さ れ る こ と は な か っ た 。 そ の 新 華 社 の原 稿 は,曽 建 徽 ・新 華 社 副社 長 兼 中央 宣伝 部 副 部 長 が 口 述 した もの で,事 前 に 穆 青 社 長 の 了 解 を得 ず,王 忍 之 ・中央 宣 伝 部 長 の許 可 だ け で 発 表 した もの で あ っ た(19)。 こ の よ う に,『 北 京 日報』 が 故 意 に学 生 運 動 を 中 傷 した こ とに 加 え て,新 華 社 も 「新 華 門 事 件 」 を 武 装 警 察 が300人 の 学 生 を負 傷 させ た の で は な く,逆 に 学 生 が 武 装 警 察 を殴 って 負 傷 させ た よ う に報 道 し,こ れ に よっ て 学 生 を憤 激 させ 学 生 運 動 を意 図 的 に煽 り立 て る 目的 に貢 献 した 。 [追悼 大 会 後 の 当局 の 対 応 と学 生 運 動 一 一4月23日 ・24日] 4月22日 の追 悼 大 会 は 軍 と警 察 に 守 ら れ て 無 事 に終 了 した と は い え,学 生 運 動 が 終 息 に 向 か う 兆 しは み え な か っ た 。武 漢 ・上 海 ・天 津 ・南 京 ・蘭 州 ・成 都 な ど他 の都 市 で も学 生 の街 頭 デ モ が 行 わ れ,西 安 や 長 沙 で は 平 和 的 に 終 わ っ た 北 京 の 追 悼 デ モ とは 違 っ て省 政 府 襲 撃 事 件 や 商 店 破 壊 ・略 奪 事 件 が 発 生 し,不 穏 な状 況 が 高 ま っ て い る と当 局 は 受 け取 っ た 。 事 態 の 蔓 延 を防 ぎ大 学 の 情 勢 を 安 定 させ る た め に,国 家 教 育 委 員 会 は22日 に3回 目の 「通 達 」 を出 し,北 京 大 学 で4月 19日 夜200-300人 の学 生 が 『民 主 サ ロ ン』 に 集 まっ て7名 の 学 生 か らな る 「団 結 学 生 会 準 備 委 員 会 」 を成 立 させ 「一 切 の学 生 運 動 を指 導 す る」 と宣 言 した こ と を は じめ,南 開 大 学 や 天 津 大 学 な ど で も一 部 の 学 生 が そ れ ぞ れ 会議 を開 い て 「臨 時 学 生 会 」 の 成 立 を宣 言 し,「 新 覚悟 社 」 と称 し て い る な どの 例 を挙 げ て,各 地 の 大 学 で あ る い は 大 学 を跨 い で 大 学 や政 府 当 局 の 批 准 手 続 きを経 ず に非 合 法 に 学 生 組 織 が 誕 生 して い る こ と に注 意 を促 した 。 「通 達 」 は さ ら に,運 動 の 背 後 関係 に つ い て 「これ ら の組 織 の少 数 の リー ダ ー の背 後 に は 関 与 して い る者 が お り,・彼 らは労 働 者 ・農 民 をか ち取 り労働 者 ・農 民 と連 合 して 労働 者 ・農 民 が 参 加 す る組 織 を樹 立 し よ う と して い る」 と 黒 幕 の 存 在 を指 摘 し,警 戒 を 示 した。 国 家 教 育 委 員 会 は 「これ らの 学 生 組 織 の 存 在 は学 生 大 衆 を 分 裂 させ,学 内 の 安 定 と社 会 の 安 定 団結 を破 壊 す る もの で あ る」 と して,「 制 止 」 を命 じた(20)。 翌23日 に も,北 京 市 党 委 員 会 は7大 学 の 党 委 員 会 書 記 会 議 を召 集 し,国 家 教 育 委 員 会 主 任 の李 鉄 映,同 副 主 任 の何 東 昌,国 務 院 副 秘 書 長 の劉 忠 徳 を招 い て会 議 を 開 き,善 後 策 の 検 討 を行 な っ た 。 うち5名 の 大 学 党 委 員 会 書 記 は会 議 後,中 南 海 に 赴 い て,政 治 局 常 務 委 員 の 喬 石 と胡 啓 立 に 報 告 した 。 北 京 市 当 局 で は,引 き続 き午 後2時 よ り党 委 員 会 と市 政 府 の主 宰 で も って67大 学 の 党 委 員 会 書 記 と学 長 を集 め て 会 議 を 開 き,対 策 を練 っ た(21)。会 議 に は 李 錫 銘 書 記 と汪 家 鏐 副 書 記 お よ び何 東 昌 が 出席 した 。 まず 最 近 の 状 況,と りわ け4月20日 の 新 華 門前 で の 「流 血 事 件 」 や 「北 京 師 範 大 学 の女 子 学 生 が 警 察 の車 に轢 か れ て 死 ん だ 」 とか,「 李 鵬 が 追 悼 会 の 後,学 生 に会 う と約 束 して い た に も関 わ らず 会 わ な か っ た 」 と い う流 言 ・デ マ につ い て の状 況 説 明 が 行 わ れ,事 実 関係 が 明 らか に され た 。 そ し て,「 事 態 は拡 大 化 す る 恐 れ が あ る」 と の懸 念 が 示 さ れ,李 錫 銘 や 何 東 昌 は 演 説 の な か で各 大 学 に 以 下 の指 示 と解 決 策 を 提 示 した 。 す な わ ち,(1)学 生 の 間 で 流 布 して い る上 述 の流 言 や そ の 他 の デ マ に 関 して,き っ ぱ りと事 実 を明 らか にす る 。(2)教 師,党 員 ・団 員,積 極 分 子 へ の工 作 を しっ か り行 ない,情 勢 を 落 ち着 かせ る。(3)各 大 学 の 党 委 員 会 ・ 学 長 ・学 生 会 ・共 青 団 は学 生 の正 し くな い や り方 につ い て は旗 幟 鮮 明 に態 度 を表 明 す る こ と(下 線 は 筆 者)。(4)一 部 の大 学 の 学 生 か ら出 さ れ て い る 大 学 指 導 部 との対 話 要 求 に は応 じて も よ い。 (5)国 務 院 の 各 部 ・委 員 会 所 属 の大 学 は そ の指 導 部 門 に 学 生 の 状 況 を報 告 し,主 動 的 に各 部 の指 導 をか ち取 れ る よ う にす る 。 一104一

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北 京 市 当 局 は 学 内 で の対 話 に よ っ て学 生 を懐 柔 す る一 方,各 大 学 の党 委 員 会 書 記,学 長,教 師, 学 生 会,共 青 団,党 員 ・団 員 な ど動 員 で き るす べ て を動 員 して 学 生 運 動 の鎮 静 化 に努 め よ う と し て い た か に み え る。 で は,党 の 最 高 責 任 者 で あ る 総 書 記 の趙 紫 陽 は学 生 運 動 に ど う対 処 しよ う と して い た の で あ ろ う か 。次 に これ を検 討 す る こ とが 必 要 で あ ろ う。 5.趙 紫 陽 の 学 生 運 動 対 処 方針 北 京 市 当 局 及 び 国 家 教 育 委 員 会 の学 生 運 動 へ の 熱 心 な対 応 に対 して,総 書 記 の 趙 紫 陽 は 日増 し に激 化 す る学 生 運 動 に対 して 「容 認 と放 縦 」 の態 度 を とる だ け で,学 生 運 動 と関 わ る こ と を避 け 続 け,胡 耀 邦 の 失 脚 の教 訓 か ら学 生 運 動 に つ い て 自 ら判 断 す る こ と は避 け,何 の 決 定 も指 示 も行 わ ず,ひ た す ら学 生 運 動 の 荒 波 を乗 り越 え よ う とす る だ け で あ っ た。 の ち に 趙 紫 陽 の失 脚 後,彼 の 学 生 運 動 に対 す る 「放 任 」 の態 度 につ い て,「 党 中 央 と北 京 市 の 責 任 者 が何 度 も趙 紫 陽 に対 し て,党 中央 が 明 確 な態 度 と方 針 を示 す べ きで あ る と忠 告 して も,真 剣 に分 析 し討 論 す る こ と を終 始 回 避 す る だ け で,胡 耀 邦 の 追 悼 大 会 終 了 後 に も党 中 央 の指 導 同 志 が 北 朝 鮮 訪 問 前 に会 議 を開 く よ う提 議 した が,趙 紫 陽 は 会 議 を 開 く こ と さ え拒 絶 した」 と批 判 ・弾 劾 され る始 末 で あ っ た(22)。 実 際,趙 紫 陽 は学 生 が騒 ぎ を起 こ して い る に もか か わ らず,北 朝 鮮 訪 問 を延 期 し よ う と もせ ず, さ ら に は北 朝 鮮 訪 問 前 に予 定 され て い た 学 生 運 動 対 処 の た め の 政 治 局 常 務 委 員 会 会 議 を総 書 記 の 職 権 で 中止 し,4月23日 午 前 中 に ゴ ル フ に 行 っ た後,問 題 を残 っ た政 治 局 常 務 委 員 た ち に押 し付 け た ま ま,午 後 北 朝 鮮 公 式 訪 問 に向 け て 出 発 した 。呉 学 謙 ・政 治 局 委 員 兼 副 総 理,洪 学 智 ・中共 中央 軍 事 委 員 会 副 秘 書 長,朱 良 ・党 中央 対 外 連 絡 部 長 が 随 行 した 。 出 発 に 際 して,趙 紫 陽 は駅 で 見 送 りに来 た李 鵬 と喬 石 に,学 生 の デ モ の こ とは あ ま り深 刻 に考 えず,彼 ら と衝 突 しな い よ う に よ く話 し合 う よ う に と告 げ,対 話 の方 針 を示 した 。 ま た,北 朝 鮮 訪 問 の 出発 前 夜 に,趙 紫 陽 は劉 振 華 ・北 京 軍 区 政 治 委 員 と宋 徳 福 ・共 産 主 義 青 年 団 中 央 書 記 を呼 び寄 せ,部 隊 が 動 揺 しな い よ う に 兵 士 た ち に 政 治 思 想 教 育 を徹 底 す る こ と,兵 舎 や 軍 機 関 が学 生 か ら攻 撃 され ない よ うに 警 戒 す る こ と な ど を指 示 して い た 。 趙 紫 陽 は 「軍 隊 さ え動 揺 しな け れ ば,ど の よ うな 騒 ぎで も抑 え る こ とが で きる 」 と述 べ て,中 央 指 導 部 の 学 生 運 動 に対 す る悲 観 的 な見 方 を批 判 して い た(23)。 こ の よ う に趙 紫 陽 が 北 京 を離 れ る まで は,党 中 央 指 導 部 の 学 生 運 動 に対 す る公 式 の 態 度 は基 本 的 に一 致 して い た とい え る。 少 な くと も何 の 決 定 も な され て い な か っ た 。 と こ ろ が,趙 紫 陽 が 北 京 を離 れ る や,そ の 翌 日(4月24日),北 京 市 党 委 員 会 が 学 生 運 動 の状 況 につ い て 「非 常 に深 刻 で あ る」 と報 告 し,学 生 運 動 を取 り締 ま る よ う に 党 中央 に迫 っ た の で あ る。 趙 紫 陽 が 学 生 運 動 に対 して こ の よ うに慎 重 で,態 度 表 明 を避 けて い た の は,す で に党 内 で 権 力 闘争 の 暗 闘 が底 流 で 進 行 して お り,学 生 運 動 の嵐 が 党 内 に 吹 き込 む こ とを恐 れ て い た か ら に ほか な ら ない 。1987年1月 の胡 耀 邦 失 脚 以 来,党 内保 守 派 の 「自由 化 」 摘 発 活 動 は 断 続 的 に続 け ら れ, 趙 紫 陽 を 「も う一 人 の党 内 最 大 の ブ ル ジ ョ ア 自 由化 分 子 」 と見 立 て て,彼 の失 脚 を策 して 陰 謀 活 動 をめ ぐ らせ て い た 。1987年4月 に郵 力 群 ・党 中央 書 記 処 研 究 室 主 任 は左 派 を代 表 す る2雑 誌 と 1新 聞 の 関係 者 を琢 州 に 集 め,趙 紫 陽 と開 放 路 線 を堅 持 す る 『人 民 日報 』 を標 的 に した編 集 会 議 を開 き,秋 に予 定 さ れ て い る第13回 党 大 会 で の 自派 陣 営 の進 出 を 目指 した 。趙 紫 陽 は この 会 議 は 「反 郵 小 平 」 「反 三 中全 会 路 線 」 の疑 い が 濃 厚 で あ る と して,中 央 組 織 部(部 長=宋 平)に 会 議 の 調 査 と厳 格 な処 分 を命 じた 。 ま た,中 国 の 外 貨 保 有 高 が60億 ドル まで 減 少 し,外 国 との 貿 易 や投 資 が激 減 す る とい う危 機 的状 況 に鑑 み て,趙 紫 陽 は 反 自 由化 の範 囲 を厳 格 に制 限 す る こ と及 び 文 革 式 の 文 字 や 言 語 な どに よ る批 判 を禁 止 す る な どの措 置 を と った 。 趙 紫 陽 は,1987年11月 の 第13回 一105一

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党 大 会 で 中 央 書 記 処 書 記 の 総 入 れ 替 え を意 図 し,改 革 派 の鮑 丹彡・温 家 宝 ・陳 俊 生 ・李 鉄 映 ・李 錫 銘 ・林 若(広 東 省 党 委 員 会 書 記)の6人 を書 記 処 にい れ よ う と した が,人 事 権 を握 る長 老 た ち の抵 抗 に あ い,最 側 近 の鮑 形 さ え も書 記 とす る こ とが で きず,温 家 宝 を わず か に候 補 書 記 に押 し込 む こ とが で きた だ け で あ り,総 書 記 と して の 権 限 が 制 約 さ れ た もの で あ る こ と を 自覚 せ ざ る を得 な か っ た。 1988年 に イ ン フ レな どの 経 済 危 機 を経 て,陳 雲(党 中 央 顧:問委 員 会 主 任)を 黒 幕 に,薄 一 波(党 中 央 顧 問 委 員 会 副 主 任)・ 王 震(国 家 副 主 席)・ 胡 喬 木(元 党 中央 党 史 研 究 室 主 任)の3人 が そ の 急 先 鋒 とな り,李 鵬 ・姚 依 林 が そ の実 働 部 隊 とな って 趙 紫 陽打 倒 工 作 が再 び 開 始 さ れ た 。1988年ll 月,重 病 の 陳 雲 は直 接 趙 紫 陽 に農 業 問 題 や 食 糧 問 題 な ど 「8つ の 意 見 」 を聴 か せ て い た が,1989 年 に は い る と,ま ず 鄲 小 平 に 「趙 紫 陽 の 失 策8項 目」 を提 出 し,そ の 中 で 趙 紫 陽 に対 して 改 革 を 口実 に社 会 主 義 計 画 経 済 を全 面 的 に放 棄 した と糾 弾 し,さ ら に 「思 想 的 な す べ て の砦 は す で に資 産 階 級 に よ っ て 占領 され,無 産 階 級 の も の は も う何 も残 っ て い な い 。 世 論 や 思 想 や 理 論 が う ま く 行 か な くな る と政 権 は つ ぶ れ る」 とた きつ け,意 識 形 態 の領 域 で の失 地 を回 復 す る よ う求 め た 。 1989年2月,総 政 治 部 ・団 中央 幹 部 との 会 見 で,薄 一 波 は 陳 雲 の話 を 引 用 して 「党 と国 家 は存 亡 の 危 機 に 直 面 して い る」 と語 り,王 震 は 「総 書 記 の 政 治 思 想 路 線 は基 本 的 に右 寄 りで あ る」 と批 判 し,胡 喬 木 も 「マ ル クス 主 義 を 堅持 す る 党 内 の 同 志 を抑 え る こ とは 許 せ な い」 と述 べ,相 次 い で 趙 紫 陽 を攻 撃 した 。 この3人 の話 を聞 い た李 先 念(全 国 政 治 協 商 会 議 主 席)は,上 海 に飛 ん で郵 小 平 と密 談 し,経 済 と政 治 の 混 乱 を収 拾 す る た め に は 趙 紫 陽 を 降 ろ す しか な い と提 言 した(24)。 しか し,1986-87年 に は 長 老 達 の策 に は ま っ て,信 頼 で き る優 秀 な改 革 指 導 者 で あ る 胡 耀 邦 を総 書 記 の ポ ス トか ら引 きず りお ろ した こ と を後 悔 して い た鄰 小 平 は,2年 も経 た な い う ち に 「残 さ れ た改 革 派 指 導 者 」 趙 紫 陽 総 書 記 を交 替 さ せ る こ と に は容 易 に 同意 で き なか っ た 。 この よ うに, い わ ゆ る改 革 派 と保 守 派 との 権 力 闘 争 はす で に開 始 され,両 者 の 闘争 は 膠 着 状 態 に あ っ たが,胡 耀 邦 の 死 が この 均 衡 状 態 を破 り,政 局 を流 動 化 させ,両 者 の 闘 争 を再 燃 させ る引 金 と な っ た の で あ る。 郵 小 平 が 首 を縦 に振 ら な い な ら,で は この 学 生 運 動 を使 っ て鄲 小 平 の 「考 え と関 心 」 を 変 え させ て み よ う と試 み る動 きが 活 発 化 した 。 6.最 高領 袖 の 盟 友 楊 尚昆 と王 震の役割 事 前 の予 約 な しに郵 小 平 に 自 由 に 会 う こ とが で き,し た が っ て郡 の 「考 え と関心 」 を変 え させ る う えで 影 響 力 を行 使 す る こ とが で き る人 物 を鄰 小 平 の 取 り巻 きの 中 か ら探 せ ば,楊 尚 昆 と王 震 の 二 人 の 盟 友 を挙 げ る こ とが で きる 。 両 人 は病 弱 な 都 小 平 に代 わ っ て あ ち こ ち動 き回 って 情 勢 を 探 り,都 に情 勢 を報 告 し,そ して郵 の考 え や指 示 を政 治 局 に伝 え る とい う余 人 を もっ て 替 えが た い 重 要 な 役 割 を果 た して い た 。 郵 小 平 の 主 治 医 が 鄰 の 健 康 と 自 己 の 政 治 的 責 任 を考 え て,「 な る べ く人 に会 わ ない よ う に して,情 緒 の安 定 を保 つ べ きで あ る 」 と勧 告 して も,郵 は 「楊 尚 昆 と王 震 だ け は別 だ 。 二 人 に は会 う」 と語 って い た エ ピ ソー ドも伝 え ら れ る 。 そ の 様 は,こ の 長 老3人 が 「指 導 部 の 中 の 指 導 部 」 を意 味 す る 「小 中央 」 を形 成 して い る と も形 容 され る。 実 際,4月15 日に 党 中央 機 関 が 胡 耀 邦 の 死 去 を規 定 に従 っ て鄲 小 平 と5人 の 政 治 局 常 務 委 員 に知 らせ る と,郵 小 平 は楊 尚昆 と王 震 に も知 らせ る よ う指 示 した こ と は,鄰 の 二 人 に対 す る個 人 的信 頼 関 係 を示 し て い よ う(25) 一106一

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