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棲神 第57号

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(1)

ISSNO910-3791

研究紀要

第57号

昭和60年3月

(2)

仏騨1の一シと

一 一

はけろ〃際l

勵銅共山簾ルイ證溺湾

を筈擢期参#夜参間a勇魍

3蓮零人諸法寅組鋤/

−学長狼下御染筆一

(3)

研究紀要

第57号

昭和60年3月

(4)

学園葉報

後記

言 マックス 火 身延山唯 ﹁錘不鋤 ﹁柔道の ︹資料︺ 身延. ツ

︹資料︺

身延

﹃大智度論﹄における法華経の把握

日朝の﹁本尊抄私記・見聞﹂の検討

l教法相配釈についてl

身延山晩年の日蓮聖人⋮⋮⋮⋮⋮⋮

火と光⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮

︵仏身観の変遷︶ ・ヴェーバー冨閏顕言呂閏に於ける ﹁禁欲的宗教倫理﹂について⋮⋮⋮・§ 柔道の精神﹂について⋮⋮・⋮⋮⋮⋮: ﹁精神善用自他共栄﹂の教えるもの 壷叩

﹁高座石年中行事帳﹂

諸堂記・身延山再建諸堂記・身延山再を建諸堂記

校註

編纂

小論⑧

神第五十七号

目次

校註奥

⋮⋮⋮大

北沢光昭届︶

身延山短大仏教文化研究所

一町 高上中望 森野

宮嘉孝品︶

田是正︵術︶

橋堯昭︵〃︶

田本昌︵抑︶

條暁秀︵”︶

月海淑︵1︶

本洋

孝 ︵ ” ︶ へへ 1 〃7 ーー

(5)

法華経と﹃大智度論﹄との関係については古来、沢山な学者によって研究がされ来っている。﹃大智度論﹄は竜樹 造、鳩摩羅什訳出として伝えられ、﹃摩訶般若波羅蜜経﹄に対する逐語訳の型をとっているが、﹃大智度論﹄がその まますべて、竜樹によって櫓かれたものかどうかについてさえ、疑問が持たれるに至っている。 すなわち、干潟竜祥教授は﹃大智度論﹄の内容を検討した結果、A、竜樹の言とは思われないもの。仰明かに竜樹 の言ではなく、訳者羅什の言と思われるもの、側﹁明かに﹂とまでは云えなくとも、﹁恐らく﹂竜樹の言ではなく羅 什の言と思われるもの。B、ここは竜樹の言に相違ないという特色のはっきりしているもので、竜樹以外の者少くも 印度外の羅什の如き者の言とは思われないもの。C、これはAではない、然しBとすべき特色も見られない部分、即 ち何れとも特色の明かでない部分、ここは致し方ないから伝の通り竜樹のものとしておかざるを得ないものoという ︵■且︶ ように分類し、漢訳に際し羅什が加筆した部分のあることを指摘している、などである。 ︵2︶ ﹃大智度論﹄を訳出した翌年に﹃妙法華経﹄を訳出した羅什の態度としては、この両者に対する関連を見ることが 出来るのであるが、もし然りとすれば、竜樹と法華経という関連では一考を要さなければならないであろう。 ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶

﹃大智度論﹄における法華経の把握

1

望月海淑

(I)

(6)

﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ ︵毎画︶ ﹃大智度論﹄の中に引用されている法華経の語句の引用についての研究はすでに行なわれているところであるが、 今は、この両者の関連をしらべ、更に梵文法華経における表現を摘し、それにより﹃大智度論﹄が見た法華経、法華 経の説示をどのように﹃大智度論﹄がとらえているのかについて考えてみることになるであろう。 ⑩﹃大智度論﹄巻七には、 復次有下諸仏無二人請者一o便入一連樂一而不中説法上。如二法華経中多宝世尊一。無二人請一故便入一迫藥一。後化仏身及七 ︵■a︶ 宝塔。証し説二法華経一故。一時出現。 とある。これは﹃大品般若経﹄の﹁能請無量諸仏﹂の句を釈したもので、請うのには二種があるとし、一は仏の初成 道の時で、一辰諸仏が無量の寿命を捨てて浬梁に入らんと欲した時だとしている。そして諸仏が目前にいる時は請え るが目に見えない時は請えないとし、諸仏の法は必ず応に説法して広く衆生を度すべし、請うと請わざるとにせよ、

?暑

− へへ 3 2 曹一 干潟竜祥﹁大智度論の作者について﹂︵﹃印度学仏教学研究﹄七ノー︶112。この外塚本啓祥教授は、その論文の中で、ラ モット教授の説を詳細に一且って紹介している。﹁大智度論と法華経﹂︵坂本幸男編﹃法華経の中国的展開﹄︶六四○’六五七。 ﹃大智度論﹄訳出は後泰弘始四’七年、﹃妙法華経﹄訳出は挑秦弘始八年とせられている。 ﹃大智度論﹄と法華経に関しての論究として、山川智応﹃法華思想史上の日蓮聖人﹄四三七’四四四、勝呂信静﹁インドに おける法華経の注釈的研究﹂︵金倉円照編﹃法華経の成立と展開﹄︶三六五’三七四塚本啓祥﹁大智度論と法華経﹂︵坂本 幸男編﹃法華経の中国的展開﹄︶六二’六六○、等がある。 2 (2)

(7)

︵獅子座に坐り、足をく為四肢は干からび、全身は不散で、禅定に入っているかのように見えた。︶ であったとして、法華経が説かれる時、その時に多宝塔が出現し、善哉と証明し、諸仏が多宝如来の身体を四衆に示 ︵⑤J︶ そうと欲する時には、十方世界の如来の分身冒菩凹魑苗︲ぐ毎画富を集めなければならないことを示している。 しかして、四肢が干からび全身不散であるという時、それは全身の舎利を意味するであろうから、減度した仏であ ることになる。﹃大智度論﹄により﹁便入浬梁﹂といわれるところであるが、法華経が説かれる時、浬梁の後であっ ても、誓願によって出現し証明法華経するというから、多宝如来は入浬薬しているのではなくて、塔の中から音声を ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ んとする時、その時︵ 関して、多宝如来は、 ︵ 2 ︶ ﹃大智度論﹄の多宝如来への言及は要旨を語ったものであるが、妙法華経によると、多宝如来は、 ︵ ② ︾ ︶ 於二宝塔中一坐二師子座一。全身不散如レ入二禅定一 と表現され、仏と成り減度した後、十方の国土において法華経を説く処あらぱ、わが塔廟はこの経を聴かんがための ︵△誰︶ 故に涌現して、ために証明をなして讃めて善哉といわん、との誓願日昌号習画を作し、多宝如来の身体を人に示さ ︵Eu︶ んとする時、その時の仏は分身仏を十方世界から集めよ、との誓願があったことを示している。梵文法華経はこれに 及したものである。 雌も、請う者は亦応に福を得くし、請う者なき場合は浬藥に入ると語って多宝如来甸冒gg冒国目色︲冨昏画隠冨に言 法として自ら応に繭るべし、何を以てか請うを須たんや、との質問に対して、諸仏は必ず説法し、人の請を待たずと ﹃大智度論﹄の極 段昌彦邸の画ロ・ロ四ぐ厨冨毎℃脚吋望 で︶ 冨叶昏倒の四目身ご鼻の閏巨画一 ℃肖箇鼻餌冒冨&冒乱冒景屋の菌︲魁司農8日召墨圃︲圃冒旨昏倒の四目且冨︲の四日g四回目の 1 (3)

(8)

﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ ︵⑪。︶ 放って大衆に呼びかけているから、現在している仏陀である、とも考えられる。﹁滅度之後﹂と妙法華経が訳出して いるのに対し、梵文法華経は前世において菩薩行を修行したが、教菩薩法仏所護念の妙法蓮華の法門を聞かない間 ︵@J︶ は、決して無上等正覚に達しなかった、としているから、妙法華経、﹁便入浬藥﹂とした﹃大智度論﹄とは異ってい る。しかし、干からび全身不散という時、実質的には浬桑を意味するから、妙法華経がいう誓願力、梵文法華経のい う法華経を聞くまで、という働きが現在している仏という意につながるのであろう。このことは活動せずして、しか も現在している仏、法身仏たる多宝如来を表現したことを示したものと思われる。しかし、妙・梵両法華経とも法身 仏の何たるか、多宝如来が法身仏であるのかについて、言明をしているわけではない。 ﹃大智度論﹄は、仏法は等しく衆生を観て、貴なく賎なく、軽なく重なく、人の請う者あらぱ、その請のための故 に、便ちために法を説くとし、 ︵ m ︶ 錐三衆生不し面二請仏一。仏常見二其心一亦聞二彼請一。仮令諸仏不レ聞不レ見・請レ仏亦有二福徳一。 としている。すなわち、仏法が請に応じて法を説くことあるを示しているが、仏法が法を説くことそれは法身仏の説 法であり、多宝如来がそのように理解せられたことを意味するであろう。しかも、衆生は目前に仏を見なくとも、仏 に説法を請う心が大切なことを示しているから、仏が法として遍在することあることを意味しているであろう。 ③﹃大智度論﹄巻九は、 如二大月氏西仏肉髻住処国一・一仏図中有二人頼風病一・来二至遍吉菩薩像辺一・一心自帰二念遍吉菩薩功徳一。願除二此 病一。是遍吉菩薩像。即以二右手宝渠光明一。摩二其身一病即除愈。復一国中有二一阿蘭若比丘一。大読二摩訶術一。其国 (4)

(9)

すなわちこれは、見仏のあり方について述べたところであるが、見仏に関し﹃大智度論﹄は、普賢菩薩の功徳と来 至の挿話を使用して答えたことになる。 遍吉の訳語はの四日目菌g“骨“普賢の訳である輪︶妙法華経は、﹁有人癩風病﹂等に関して、若し後の世に於て、 是の経典を受持読調せぱ⋮⋮所願虚しからざらん⋮⋮ 兎︶ 若復見下受二持是経一者上。出二其過悪一。若実若不実。此人現世得二白願病一。 ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ と述べている。 王常布し髪令二箔し上而過一。有二一比丘一語し王言。此人摩訶羅不二多読P経。何以大供養如し是。王言我一日夜半欲し見二 此比丘一。即往二到其住処一。見二此比丘一在二窟中一読二法華経一。見下一金色光明人騎二白象一合し手供養上。我転近便滅。 我即問二大徳一以二我来一故。金色光明入滅。比丘言。此即遍吉菩薩。遍吉菩薩自言。若有レ人請二読法華経一者。我当下 a︶ 乗二白象一来教中導之上。我諏二法華経一故遍吉自来。 と法華経に言及している。これは、今、此の衆生は多く三悪道の中に堕つ。若し十方無鐙無辺の諸仏及び諸菩薩あら ぱ、何を以てか来らずや。との質問に対したものである。これに対し﹃大智度論﹄は、衆生は罪重きが故に諸仏菩薩 が来ると錐も見ず。又、法身仏は常に光明を放ち常に説法しても、罪を以ての故に見ず聞かず、として、衆生の心清 浄ならば、則ち仏を見、若し心不浄ならぱ則ち仏を見ず。今実に、十方の仏及び菩薩ありて、来り衆生を度すと錐 う も、而も、見ることを得ず、とし更に、十方の仏が来らずは、衆生は罪垢深重で見仏の功徳を種えざるを以て、であ り、一切衆生の善根が熟し結使が薄らぐを知って、然して後に来り度すとのべ、その上で前掲のように法華経に言及 した上で、人ありて罪垢の結薄く、一心に仏を念じ、信が浄く疑わざれぱ必ず見仏を得て、終に虚しからざるなり、 (5)

(10)

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︵。︶

(11)

側﹃大智度論﹄巻十は、若し皆東方の諸仏を供養せぱ、諸仏は甚多し、何の時か当に記って此の間に来るぺきや、と の質問に対して、諸の菩薩は人天の法による供養をするのではなく、菩薩の供養の法を行ず、それは、身禅定に入っ て、其の身を直進し、其の身辺より無量身を出し、種々な供養の物を化作して諸仏の世界に満たす、のだとしてい る。そして、更に、此の諸の菩薩は釈迦牟尼仏に詣んと欲す、何を以ってか中道で諸仏を供養するのか、との間に対 し、諸仏は第一の福田なり、若し供養せぱ大果報を得る、この故に供養するのだし、菩薩は常に仏を敬い重んずるこ と、人の父母を敬い重んずるが如くで、菩薩は仏の説法をうけ三昧・陀羅尼・神力を得ているのだから、恩を知るが 故に広く供養するのだ、として法華経に言及している。すなわち、 ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ と述べて、この法門から一句、一字でも見落すようなことがあれば、六牙の王侯のような白象に乗り法師の前にあら われて、この法門を欠けるところなく発声させるであろう。かの法師は私の姿を見て、この法門を欠けるところなく 私から聞き、満足し悦び歓喜し極喜し欣喜と憶悦を生じ、この法門に十分に精進をおこすでしょう、と述べている。 すなわち妙梵両法華経倶に、後者に関しては普賢菩薩の行願として法華経の法師に対しての守護を述べ、前者は、 普賢の言葉を聞いた釈尊が法華経を受持する者をそしる人が受ける報いとして述べたものである。これに対し﹃大智 度論﹄は、普賢︵遍吉︶菩薩がその︵行願によって︶法華経を読調する人のところへ、金色光明の身をもって自ら現 われ、又、癩風を病める人が、遍吉菩薩に帰依をし念じたところ病除却したと述べているから、表現は法華経が示す ものよりも一層積極的であることになる。そしてこれは見仏のあり方について述べたものであるから、仏の実在を信 ずる心、心のあり方を示すために、法華経に対する受持の姿が用いられたのであろう。 (7)

(12)

として、このように仏を供養すれば無量の利を得、この故に菩薩は仏を供養するのだ、としている。 ︵鴫︶ 塚本啓祥博士によると、この部分は法華経の直接引用の状況で、妙法華経とは部分的相応関係を示す、とされてい るが、妙法華経は﹃大智度論﹄の文章よりも、はるかに詳述しており、梵文法華経は更に詳しい。今、紙数の関係も あり、その全文を紹介することが出来ないので、要をとって見ていくことにする。 法華経によると、この箇所は薬王菩薩の前生、一切衆生喜見菩薩ぴ胃ぐ画のg尊画官営且胃雷目の焼身供養の場面であ り、この菩薩が現一切色身三昧綴弓胃目“切眉目臥自画︲8日且嵐を得たのは﹁皆是得し聞二法華経一力﹂目眉留&︲ 冨吋日砦巨急目百日農胃日9画q“冒日働隠日冒︵この妙法蓮華の法門の故に︶であるから、日月浄明徳仏○自身︲ “”胃冒乱目鳥胃号薗の画留と法華経に供養しようとして三昧に入った。すると虚空目誌肖涛粗︵空中︶から華の雨が ふり、三昧から立ち上った菩薩は、身を以って供養するに如かず、として、香を食し千二百年間牙且画留︵十二年︶ も香油をのゑ火をつけた。その光明は八十億恒河の世界思晟︲のg魁1回四日︲&房甲の四日画︵八十恒河沙と同じ︶を照 した。この供養は第一の施、於諸施中最尊最上ぐ墜篭喝画く画国頁画く四国日画包蔵号胃日画︲9両︵最勝、最高、最 上、最善、上妙な法供養︶で、国城・妻子を布施するよりも勝れたもので、その身体は千二百才号且鼠色ぐ胃溜︲ ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ 如二法華経中薬王菩薩一。従し仏得二一切変現色身三昧一・作二是思惟一我当三云何供二養仏及法華三味一・即時飛到二天上一。 以二三昧力一雨二七宝華香幡蓋一供二養於仏一。出二三昧一已意猶不レ足。於二千二百歳一。服二食衆香一飲二諸香油一。然後以二 天白畳一縄し身而焼。自作二誓言一。使三我身光明照二八十恒河沙等仏世界一。是八十恒河沙等世界中。諸仏讃言。善哉 善哉善男子。以レ身供養是為二等一勝一。以二国城妻子一供養百千万倍。不し可下以二響喰一為も比。於二千二百歳一身燃不レ ︵Ⅳ︶ 減。 (8)

(13)

側﹃大智度論﹄は巻二十六の中で、仏の滅度にふれて、若し仏衆生を度せんと欲して未だ息まざれば、何を以てか浬 藥に入るや、との間を設け、その答として、衆生を度すに二種あり、或は現前の得度あり、或は滅後の得度あり、と して、法華経の説示を例証に挙げ、 如二法華経中説一・薬師為二諸子一合し薬与し之而捨。是故入一迫藥一。復次有二衆生一鈍根徳薄故。不し能し成一天事一。但 可レ種二福徳因縁一。是故入二浬鈴申 と述べている。仏の現前の得度は当然のことであるから、法華経を挙げたのは滅後の得度に関するもので、薬師云な の語は如来寿量品の説示の良医の響を意味している。すなわち妙法華経は、父︵良医︶の留守中に誤って毒薬を服し ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ 曾函己︵千二百生 容を示している。 而して﹃大智度論﹄の表現は、法華経を要約したものであることが知られるが、法華経が仏と法華経に対する供養 としているのに、論が法華三昧に対する供養となした理由は解らない。法華経は一切衆生喜見菩薩が仏と法華経のた めに焼身供養をなし、その供養が諸施の中で最尊最上であるから、薬王菩薩として現世に出現したことを説示してい ︵別︶ る。﹃大智度論﹄が、薬王菩薩の焼身供養を語り、﹁如レ是供二養仏一得二種種無量利一。以レ是故諸菩薩供二養仏一﹂とい う時、仏に対する供養の心が如何なるものかを示さんとしたものと思われる。そして、釈尊に至らんと欲すのに、何 故に中道で諸仏を供養するのかとの間に対する答えでもあり、菩薩は諸仏を見て供養すれば仏たる果報を得るとなす から、釈尊と諸仏との関係について、釈尊の中に諸仏が含承こまれるのか、どうかは考えてゑなければならない。 ︵閲︶ ︵千二百年︶燃え続けて消えた、と。すなわち、妙。梵両法華経は数字の差こそ一部にはあれ、大よそ同一内 (9)

(14)

﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ た子等が、父の調合せる色香美味の薬を見て、不失心者は服したが、失心者は服しなかったので、薬を留めて旅に出 て方便を以て父は死すと告げさせる、これを聞き失心者も父の言葉をうけ薬を服し癒えたり、という話を記し、父が ︵錘︶ 仏であることを示している。梵文法華経も同様の意を伝えているが、失心者について、急冨凰冨︲笛冒蔵冒冒︵意識の 顛倒︶という語を使っており、偶文の﹁令顛倒衆生﹂については、急ご胃冒︲盲目言8口凹働ぐ冒画舎響︵理性が顛 倒し愚かな人々は︶としている。の四日意甘冒呂匡の顛倒者は父︵仏︶が滅度の後にしか飲薬しなかった︵不見︶の 罰︶ であったことを示して、このような人々は愚かな人であるとしている。これに対して父は、﹁良医智慧聡達。明練二方 ︵理︶ 薬一善治二衆病こ︵§昼冒︲宮日名9mぐ9冒昼8ぐ冒胃◎日&富剴切ロ百世農の“g“︲ご目冨︲胃鼠妙目自習“︵賢 明で明蜥で知的で立派で全ての病を癒す良医がいるとしよう︶とせられるから、これは失心者とは相反するものであ る。﹃大智度論﹄が、鈍根にして徳薄きと称したのは、まさに失心者のことであり、この故にこそ福徳の因縁を種え るために仏は浬梁に入るとせられたのであろう。 側﹃大智度論﹄巻三十には、阿修羅は天に非ず人に非ず、地獄の苦多く畜生の形と異なるとし、五道の摂するところ だとし、更に、経には五道ありと説く、云何なれば六道というのかとの質問に対し、仏去ってから久しく経の流れ遠 し、法伝わって五百年の後、多く別異あり部を同じからず、或は五道といい、或は六道という、若くは五と説く者は 仏の経において文を廻して五と説き、若くは六と説く者は仏の経において文を廻して六と説くのだとし、 ︵篭︶ 摩訶桁中法華経説し有二六趣衆生一。観二諸義旨一応し有二六道一・ と述べて、六道説を示している。この句は説示のごとく法華経序品の (〃)

(15)

如二法華経説一・醤嶮三千大千世界地及諸山末以為し塵。東方過二千世界一下一二塵一。如レ是過一手世界一復下二一塵一・ 如レ是尽二三千世界諸塵一。仏告二比丘一是微塵数世界算涛量可レ得し知不。諸比丘言。不し可し得し知。仏言。所下可レ著一 微塵一不し著中微塵上諸国。尽皆末以為し塵。大通慧仏出世已来劫数如し是。如レ是無鎧恒河沙等世界微塵。仏大菩薩皆 ︵鴎︶ 悉能知。何況一恒河沙等世界c としている。すなわち、衆生の善法の果報を楽しむ者のために仏は大神力を示したもので、法華経化城嶮品の大通智 勝如来の三千塵点劫の説示を、そのことを証するために引用しているといえるであろう。 ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ ㈲﹃大智度論﹄巻三十二には、経の三千大千世界の大地、諸山、微塵数を知らんと欲せぱ、般若波羅蜜を学すべし、 の語をうけて、仏は何故に六度等の諸の功徳を讃歎せず、大力を讃歎するのかの質問を設け、衆生には善法を楽しむ 者と善法の果報を楽しむ者の二種があるとし、前者には諸の功徳を讃歎し後者には大神力を讃歎する心があるのだと している。そして、一石土の微塵すら尚数うべきこと難し、何に況んや三千大千世界の地、及び諸山の微塵の数を や、との質問に対し、声聞辞支仏の智慧、尚知ること能わず、何に況んや凡夫をや。是の事は諸仏及び大菩薩の承知 や、との︾ る所なり、 ︵坊︶ 於一庇世界一。尽見二彼土六趣衆生一。 命︶ 望①O脚討普ず巨邑・彦画1斤淵貫①豐秘官mpm画建智の騨弓倒昏の四目ぐ鹿ご色目8閏目色扇のm円く①。$淵恒画の画昌身9脚口蔚関口画 ︵この仏国土で六趣の人々が知られ、彼等は一切すべて見られた︶ をうけたもので、法華経により六道説をとっていることを示している。 とし、 (皿)

(16)

﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ 妙法華経と梵文法華経とが、大通智勝如来富農gg圏蔵習号冨ずぱ甲菌号針、国の寿命について述べる表現は、 翁︶ おおむね﹃大智度論﹄の引用するところに似ているが、ただ引用の後半の﹁尽皆末以為し塵﹂の箇所は、妙法華経に おいては﹁尽末為し塵一塵一劫﹂として塵点劫が示されており、梵文法華経では尿農胃昌宮口胃g涛留ぐ尉蔚協昌 冒冨︲号騨目画ョ冨息︲・画”目鼻のg箇恩箇冨︲目呂平日騨尉急菌胴息目図曽gご§8箆巨胴目言昌篇普 乱冒凰爾巷融巳団己冨忌日営巨点里四日留滞普乱呂冨昌恵g蔽巳︵比丘たちよ、それらの最も微細な塵がおかれた り、おかれなかったりしたそれらの世界を、誰か数学者か大算者が計算によって、正しくつくし知ることが出来るだ ろうか︶﹂とされているだけで、﹃大智度論﹄の引用に近い。そして引用末尾の如来の寿命を悉知しているとするとこ ろは、妙法華経は﹁如来知見力﹂を以ての故にとしており、梵文法華経は、﹁89画隠薗︲蔵習甲烏詠自甲冨毎号習画 ︵如来の知見力を執すること︶﹂となしているから、塵点劫を知るためには如来の知見力が必要なことを示している。 すなわち﹃大智度論﹄が三千塵点の数を知らんと欲せぱ、般若波羅蜜を学すべしといい、そのような数が算せられる わけがないので不可信という質問に対して、法華経の説示が語られるのであるから、凡夫の智から如来の知見力への 転換として般若波羅蜜を捉らえているかと思われる。 切又、﹃大智度論﹄巻三十二は、経の菩薩摩訶薩は一毛をもって三千大千世界中の諸の須弥山王を挙げ、他方無量の 世界に郷げるところをとりあげて、菩薩は何を以っての故に須弥山及び諸山を挙げて他方の世界に過着するのかとの 質問を設け、菩薩の力は能く之を挙げることを明すの象で、菩薩は仏が当に説法をなすが故に、先ず三千大千世界を 荘厳し、諸山を除いて地を平整ならしむ、のだとし、 如一法華経中説一・仏欲し集二諸化仏一故先平二治地一。 (12)

(17)

︵ 詞 ︶ 無二大海江河及目真隣陀山摩訶目真隣陀山咲囲山大鉄囲山須弥山等諸山王一。通為二一仏土一。宝地平正。 として、諸山がなく通一仏土で宝地平正だとしている。梵文法華経は屍凹色.冨匡&旨9.冨画薗日巨昌目目・○鳥圖︲ ぐ且“︾冨鼻風8胃画く豊騨.留日の旨の山盈がなく、川も天・人・阿修羅・地獄日圖冒畜生蒔冨喝◎己やヤマ冒日画 ︵ 割 ︶ もなく整えられ、仏国土は瑠離からなり云云と続けられて、平正・平治地にあたる語はない。しかし五百弟子受記品

︵鋪︶︵鈴︶

の﹁地平如レ掌﹂においては、の画自画巳鳳凰︲薗旨︲蔵薗目︵手の平のように平で︶として仏国土を表現しているから、 仏国土は地平正というのは定着していたものと思われる。したがって、地平正は仏の説法の現場面を表現するために 示されるものであるとの立場を示し、そのために法華経が引用されたものと思われる。 及している。 の語をうけて、若し菩薩は未だ漏尽を得ずんぱ、云何ぞ漏尽の聖人の前に在るや、との質問を設け、菩薩について言 たること、大春属を得ること、菩薩の春属を得ること、浄報大施を得ることを欲せぱ、般若波羅蜜を学すべしとの経 側﹃大智度論﹄三十三巻は、菩薩摩訶薩は、一切の声聞辞支仏の前にあること、諸仏に給侍すること、諸仏の内春属 着させるのに対し、 金︶ と法華経に関説し、希有の事を現じ衆生をして見せしめんと欲するのだ、としている。 この化仏︵分身仏︶来集は、法華経見宝塔品が示すところであるが、妙・梵両法華経ともに﹁平二治地一﹂といわれ た娑婆世界のありさまを、細かく具体的に表現している。そして、﹃大智度論﹄の須弥山等の諸山を他方の世界に過 即ち、菩薩は功徳智慧大なるが故に、初発意の時すでに一切衆生の前にあり、世交に常に大いに声聞辞支仏を利益 ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ (13)

(18)

﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ すとし、衆生は菩薩の恩を知るが故にどこにても尊重し、菩薩はどのような場にても衆生を利益すとし、舎利弗・目 腱連等の聖人、弥勒・文殊師利等の菩薩は大春属であり、更に、仏には無量無辺阿僧祇の一生補処の菩薩が前に在っ て導き、後に従って出ずとして、 ︵ 訂 ︶ 又如一法華経説一・従し地踊出菩薩等皆是内巻属大春属。 と述べている。従地涌出は明らかに従地涌出品の説示を意味している。妙梵両法華経は、出現に関して、 娑婆世界三千大千国土地皆震裂。而於一真中一有二無量千万億菩薩摩訶薩一同時踊出 ]冨昌闇冨︲旨冨︲昏騨目留日“昌騨g冒宮融急呂冨昌薗ずぽ昇蔚ずぽ制の889毎口厨39首ず呂冒﹄9号T ︵詔︶ 闇詳自失畠︲邑昌巨圃︲綴薗あ農閉融昌昌蔚吾目蔚の9画 ︵この娑婆世界は一面に裂け開いて、その裂け目から百千万億那由佗という沢山な菩薩が出現した︶ としており、この菩薩たちが釈尊と旧知であることを示し、弥勒菩薩等は、地涌菩薩を昔より已来、見ず聞かず ︵且靭冨も胃冒︾脚野巨冨も胃菌︶と質問し、釈尊は地涌の菩薩は私が教化したものだとし、 我今説一美語一汝等一心信我従二久遠一来教二化是等衆一 画風の国乱ずぽ画冨ご色目目評乱&陣屋営尊脚闇弓の目凹自画か恩&且冒且蔵ぐ画昌一①箇昌9日目耳目薗目亀画・喝甲 ︵鉛︶ ず8冨冨国風g団恥&忌日畠勘箇箇目且一 ︵この浄らかで真実の私の言葉を聞いて、一切私を信ぜよ、このように私が最高の覚りを得たのは遠い以前だ、一 切のものを私が成熟させた︶ としている。遠い以前、久遠蜂 久遠は如来寿量品における久遠実成に展開するものだが、久遠実成の生命の流れの中におい (I4)

(19)

法華経の中で眼等の六根にふれているのは法師功徳品であり、そこでは法華経を受持・読・調・解説・書写する人 は、八百眼功徳・千二百耳功徳・八百鼻功徳・千二百舌功徳・八百身功徳・千二百意功徳を得、六根を荘厳し皆清浄 ︵伽︶ ならんとせられている。ここでは法華経に対する五種法師の行が六根をして荘厳し清浄ならしめるとしていることが 明白であるが、﹃大智度論﹄は前述の引用文に続いて、命根は老病等のために悩まされず安隠に楽を受く、是を命根 の利となす、と利なることを種を挙げ、利と相違するが故に鈍なり、としているから、﹁眼等六根如法華経説﹂で表 現しようとしたものは、利であるということなのだろうと思われる。 ⑩そして叉、巻三十八は、いかなるを劫と名づくるやの質問に対し、百由旬四方の城と芥子、百由旬四方の石を磨す 故話を挙げ、時の中の最小なるは六十念中の一念、大いなる時を劫と名づくとし、劫には大劫小劫の二種があると し、法華経に関説した有人の説を示している。それは ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ 側﹃大智度論﹄巻三十八は、鈍根とは二十二根の中の何者か是なる、との質問に対し、慧根能く諸法を観ずるも久し く禅味を受著するを以っての故に鈍なり、信等の五根は皆道法を助成するも受報著味を以っての故に鈍なり、菩薩は 清浄の福徳智慧の因縁の故に十八根皆利なるも罪の故に則ち鈍なり、と有人の意見をそれぞれ照介した上で、 堀︶ 眼等六根如二法華経説一 て、地涌菩薩が教化されたもので、八十年という有限な中ではないことを法華経は示している。﹃大智度論﹄が地涌 菩薩は内春属・大春属だというのは、久遠実成の中で考える時に、認めうることを意味しているであろう。 と述べている。 (お)

(20)

劫続くであろう︶ としているから、元 解る。尚、正法華唾 としているから、正 ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ 時節歳数名為二小劫一。如二法華経中説一・舎利弗作仏時正法住し世二十小劫。像法住し世二十小劫。仏従一三昧一起。 ︵他︶ 於二六十小劫中一説二法華経一。是衆小劫合名為二大劫一・ としている。これは有人の説であるから、そのまま﹃大智度論﹄の説示とは出来ないが、妙法華経は ︵蝿︶ 華光仏寿十二小劫⋮⋮正法住し世三十二小劫。像法住し世亦三十二小劫。 とし、梵文法華経は 法・像法の続く劫数に関し、﹃大智度論﹄と妙梵両法華経の表現とでは非常に異っていることが ︵妬︶ 解る。尚、正法華経はここのところを﹁正法像法住二十中劫﹂として華光如来の寿命を除いた劫数では、﹃大智度論﹄ の表現と一致している。これがどのような理由によるものか解らないが、仏が六十小劫の中において法華経を説くと ︵ 妬 ︶ いう﹃大智度論﹄の説示は、以下に述べるところの序品第一の表現と合一している。又、﹃大智度論﹄は劫には大小 の二劫があるとしているが、正・梵両法華経は中自国圃劫とし妙法華経のみ小劫として一致しているのも疑問であ ろう。 弔画・日四℃吋画ず毎画切望凹み胃彦画ぬぃ薗印昌画・ぐ画・脚織冒冨吊色l穴巴己四四望烏1℃崎関口騨掴凹昌⋮⋮﹄ぐ騨凰日留Q1口目冨吋胸l丙巴口画目のmQQ1 寄画﹃計昌四壱“念底凹の喝四感一命“計画の奇画の喫凹計画の門口戸口印画q・底画刷片口口I宍禺ロのQぐ”舜吋冒己のmQ1mp症、吋画l丙“一口四回印画QQぽぃ吋再己四固吋脚唾H1 ● ●● ︵“︶ ロロ画丙凹昏の匪匿”の]色感 ︵華光妙来の寿命は十二中劫⋮⋮正法は三十二中劫続くであろう、正法滅尽の後、像法︵正法に似た︶は三十二中 (26)

(21)

これは大乗と一切智に言及しそこにおける菩薩の心のあり方にふれたものだが、六十小劫という長い時間も従日至 食と思われたという記述は、法華経では序品の中に見られる。すなわち、日月灯明如来は三昧より起ち妙光菩薩によ せて大乗経の妙法蓮華教菩薩法仏所護念と名づくるを説き、六十小劫座を立たず、 ︽錫︶ 時会聴者亦坐一二処一・六十小劫身心不し動。聴一仏所説一謂レ如二食頃一 時会聴者亦坐一二処一・六十 888弓倒ぐ凹威己肖如且①丙画間口の凰肋自国凹融ロ租心ご出口g3I丙巳風の冨磐四ずぽ凋昌胃。ご建汽圏旦彦肖目目︼ ︵栂︶ か君o感の日旦口画8厨⑳鼠冒己胃秘旦昌鼻甲閏#菌印怠凰恩冨︲匡色日国昏◎・陣己目目89算甲匡騨日四号農 ︵すべての集った人盈は同一の坐にて六十中劫の間、この世尊の法を面前で聞いた、かの集った人盈の中では一人 として身体の疲労や心の疲労がなかった。︶ とのべて、従日至食、謂如食頃を心の疲労。詳冨︲匡画日脚昏凹がなかったと抽象的にのぺている。心の疲労がないとは ﹃大智度競﹄における法華経の把握︵望月︶ ⑪﹃大智度論﹄巻五十は、仏すでに須菩提の所問を知る、今何を以って更に称して答うか、との質問に対し、この摩 訶般若波羅蜜経は十万偶・三百二十万言あり、四阿含と等しきなり。これは一坐に説き尽すに非ずとし、二事は時を 異にし日を異にすとし、声聞法の中には不可思議の事あることなく、一日一坐の中に説き尽すことを得ず、との有人 の言に対し、仏は無腰解脱あり、菩薩は不可思議三昧あり能く多時をして少時と作さしめ、少時を多時と作し、亦能 く大色を以て小に入れ小色を大と作すとし、法華経に関説し ︵抑︶ 又如下六十小劫説二法華経一人謂中従し日至乞食 とのぺており、梵文法華経は と答えている。 (〃)

(22)

仏亦名為し宝。亦名為一蕪上福田一。若人従し仏種一書根一。必以二三乗法一入二浬梁一不し虚。如二法華中説一・有し人或以二 一華一或以二少香一供一養於仏一。乃至一称二南無仏一。如レ是等人皆当一作仏一。 として、有人の但五波羅蜜を行じ作仏せんと欲する時、乃ち空を観ず、何ぞ用いて常に般若波羅蜜の知り難く得難き 空行を行ぜんや、との質問を挙げている。これに対しての答は、要ず三乗を得て浬藥に入るとも、まさに了了に六波 節︶ 羅蜜を行ずべし、一切種智を了了に行ずるが故に疾く仏道を得るのだとなしている。 羅蜜を行ずべし、一 法華経の方便品は ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ 心が緊張し充実していることを示すから、短い時間に感じたということで差はないと思われるが、法華経はこれを説 法の場面に使用しているのに、﹃大智度論﹄は経典に対する菩薩の不可思議三昧の力の説明に使用している。 是故舎利弗我為設二方便一説二諸尽苦道一示し之以二浬藥一我錐レ説二浬樂一是亦非二真滅一諸法従し本来常自寂 滅相仏子行道已来世得二作仏一我有二方便力一開二示三乗法一一切諸世尊皆説二一乗道一⋮⋮ と説示し、更に若し人が塔廟・宝像及び画像において華香幡蓋を以って敬心に供養す、若し人散乱の心乃至一華を以 って画像に供養せば漸く無数の仏を見る、塔廟の中において一たび南無仏と称うれば皆已に仏道を成弗零念と示して ⑫﹃大智度論﹄巻七十九は、 いる。梵文法華経は

月掛目昏画目闘凰呂薗匡冨冒日ぐ”忌昌旦暑喜儲冒冨8房“gg昌一合算胃目閻弓昼冒身淫菌閏雰習

● ● ● ●■Ⅱ 口月ぐgm冨酎管冨屋冒目腺画望習昌一−2脚日8ずぽ倒掛口昌いぼ口凰ご甲口胃弓薗倒昌胃恩四目威営昌閻弓且冨目ロ響一 ● (18)

(23)

⑬﹃大智度論﹄巻八十四は、曽って仏の功徳の能く人の老病死の苦を度するを聞き、若くは多く若くは少く供養 し、及び名字を称すれば、無量の福を得、亦苦を畢って尽きざるに至るとした上で、須菩提の世尊よ、若し諸法実相 は壊すること無きが故に二仏異なること無しとせば、今仏分別して諸法は是れ色、是れ受想行識、乃至是れ有、是れ 無為法なりと説くは、まさに諸法の相を壊すること無きや、との質問を挙げて、仏は種盈に分別して諸法を説くと錐 も、但、言説を以って衆生をして解を得、心に所著すること無からしめんと欲す。若し二仏共に語るも諸法の名字を 説くべからず。衆生は仏に及ぶ者なく牽引して解せしめんと欲するを以っての故に是は善、是は悪と説くのみ、と答 8q四日8罠。固胃画冨ぴ巨・Q旨脚もg8脚ロ倒顕画芯垈房ぐ倒口ご旨。ウ彦画乱遇胃ニロロ”昌画I丙画巨留辱色目目昌勘ぐ画13℃口昌 昆︶ 冒昇尉巨鼠口習曽§且肖留乱日この冨昌目昌習皆目ロ畠鼠8の厨の園。ご煙昌号留同国ご農習目一一 ︵舎利弗よ、私は彼等に苦を減せよと方便を語り、苦に遭っている衆生らを見て滅度を見せる。このように一切の 法は最初から寂静で常に減度していると私は語る。仏の息子らは行をみたし未来世にジナとなるであろう。三乗を 現わすのは私の善巧方便である。しかし、実に一乗であり、道理は一つであり、指導者の教えも一つである︶ とし、乱れた心であっても一本の花を捧げ絵像に供養しても幾万の仏に順次にお会い出来、一度だけでも南無仏と唱 えれば最高の菩提に到達する、とせられている。 すなわち﹃大智度論﹄が質問の中で引用した法華経説は、三乗を説いて来たが実は一仏乗だけであるとする説示に おける表現の象をとったものであるといえよう。 え、更に ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ (I9)

(24)

﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ 如三法華経説二火宅一以二三乗一引二出諸子一。但以二名相一説二諸法一不し壊二第一義一。 とし、名相を以って衆生のために説くと錐も実事有ること無くんぱ、まさに虚妄なること無からんや、との質問に対 し、聖人は世俗に随って言説するも、中において名相に著する処有ること無し、仏は此の中に自ら因縁を説く、凡夫 ︵閃︶ の如きは苦を説かば名に著し相を取る、諸仏及び弟子は口に苦く説いて心に著せず等と答えている。 二仏とは真仏・化仏のことであり、供養等をなすものは倶に無堂の福を得、仏の説法は種々に分別して説かれるも 倶に第一義のための故であるとし、それを証するために法華経の警喰品の説示を引用したものである。 はない︶ として、﹂ 妄一。初説二三乗罰 とし、梵文法華経は 厨旦当gg凰口四日固の閏管目国薗豊画己目巨租昌四口脚目﹃秘︲ぐ且◎ず彦脚q8蔚昌脚計国営乱ロ冒昌巨冒目詠画筥冒倒 扇掛巳歸日巨胃画丙営脚日①丙働日①くい昌国屋甲再幽ロ凹召切目ぐ①融日・口騨眉の眉冨︲国自画︲日凹望画召の閏ぐ堅目爵畔画Iぐご彦甲 ●● ● 普画日の暦︲ぐ閏9sのぐ9脚”と目働目のぐ画の閂ぐの箇日画曾“当自画日のぐ胸。g冨昌g画くg ︵たとえば、舎利弗よ、かの人が三乗を示しながら、かの子供らすべてに唯一の大乗を与えた。七宝づくりですべ ての装飾でかざられ、同じ色の素晴らしい乗、すべてに最高の乗を与えたからといって、かの人に嘘言があるので 如下彼長者初以二三車一誘二引諸子一・然後但与二大車宝物荘厳安隠第二o無中虚妄之各上。如来亦復如し是。無し有二虚 ︵ 鰹 ︶ 妄一。初説二三乗一引二導衆生一。然後但以二大乗一而度二脱之一。 妙法華経はこの箇所で、 馬︶ 如来は方便によって三乗を示しながら大乗によって衆生等を浬梁させたとしても嘘言者ではないとしてい (”)

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⑭﹃大智度論﹄巻八十八には、若し衆生あり菩薩を割赦し、或はその肉を食わぱ当に罪あるべし、云何ぞ得度せん や、との質問に対して、この菩薩には本願あり、若し衆生有って我が肉を嗽わぱ当に得度せしむくしと。経中に説く が如し。衆生菩薩の肉を食わぱ則ち慈心生ず。⋮⋮肉を嗽うを以っての故に得度するに非ず、慈心を起発するを以っ ての故に畜生を免るるを得、善処に生じ仏に値い得度す。菩薩有り無量阿僧祇劫において深く慈心を行じ、外物を衆 生に給施するも意なお満たず、並に自ら身を以って布施す、として 品︶ 如二法華経中一。薬王菩薩外物珍宝供一蕊仏一。意猶不し満。以レ身為し灯供一謹於仏一。爾乃足し満。 と、薬王菩薩本事品の説示をとりあげて関説している。これに関し法華経は、薬王菩薩の本生たる一切衆生喜見菩薩 の閏ぐ開騨尊号凰望且胃か自画の故事をとりあげ、この菩薩が楽って苦行をなし、仏を供養した上で、 我雌下以二神カー供二養仏玉。不し如二以レ身供養一。 と考え、自ら身を灯した時に諸仏が、善哉善哉、これ真の精進なりとし、 以二⋮如レ是等種種諸物一供養。所し不し能し及・仮使国城妻子布施亦所レ不し及。善男子。是名二第一之施一於一諾施中一最 厨︶ 尊最上。以レ法供二菱諸如来一故。 すなわち﹃大智度論﹄で第一義となされているのは、法華経では大乗目農甲噌習届のことであり、不壊は虚妄目? 愚︲乱忌ではないということであることが解り、ともに仏の広大無辺な力、はからいを示そうとしていることになる であろう。 z︾。 ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ (21)

(26)

﹃大智度論﹄における法 としており、梵文法華経もまた における法 ︵神通力の奇跡を示して世尊への供養をしたとしても、自分の身体を捨てるには及ばないと。⋮⋮善男子よ、これ は最高の布施であり、王位を捨てて布施しても、愛する息子や妻を捨てて布施しても及ばない。亦、善男子よ、自 分の身体を捨てることは、最勝最高、最妙、上妙の法供養である。︶ としており、同様の意味を伝えている。すなわち﹃大智度論﹄が外物の珍宝となしているのは、単に珍宝だけではな く、自分の身体以外の愛妻・愛子をも含むことになるが、人間が本当に愛するものは自分の生命だということを暗示 するのであろうか。﹃大智度論﹄は布施に二つありとし、外物の布施と身を以っての布施として、後者が勝れている ことを説くのは論を待たないが、この捨身供養は菩薩の本願慈心によるとするが、薬王菩薩の本生の生きざまが影響 したものであろう。 ⑮﹃大智度論﹄巻九十三は、 翁︶ 一切仏若人好心聞レ名皆当し至レ仏。如二法華経中説一・福徳若大若小皆当一作仏一。 との質問を挙げている。妙法華経の方便品には ロ騨冒昏秒a目宇冒騨嘗閏冒39烏詠目9脚目撹豊目鳥目蔵再融g豊島冒昏画寓目冒習“︲冨凰ご樹g竪一 ⋮箇画昌薗寸丙巳脚も匡曾億国も国尉口脚目ロ四国昏倒風ご甲息凰ご爵甲烏口画昌ロ画面H昌脚も昌愚さ毒幽昌甲冒匙ご甲 鴇︲忌目目|ご“昌己目農丙巳甲冒胃画乱鯉禦侭風菌働胃留日四目眉風呂閏目甲自蔵旨、樹目算日号冨§︲ ぬぃ1旦凹ロ四門目一 ︵閉︶ 温風ご碕居一 華経の把握︵望月︶ (22)

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⑯同じ巻九十三は、上の阿稗践致品の中に如是相を説く、これ阿稗践致なり、如是相は阿稗駿致に非ず、阿稗賊致は 即ちこれ畢定なり、須菩提、今何を以ってか更に問うとの質問を挙げている。これについての答の中に、般若波羅蜜 には種を間あり、阿稗駿致はこれ一門の中の説なり、今畢定を問い更に異門を問うとし、仏心の中には一切衆生、一 ﹃大智度論﹄における法華経の把握蜜一月︶ となされて、ともに六波羅蜜を行じ福徳を積んだものが仏道︵菩提岸員昏己を成ずることを示している。これは﹃大 智度論﹄の若大若小の表現とは相異があるところであるが、法華経は経巻に対する受持読調解説書写等を強く指摘 し、一句一偶に対してこのようなことがなされる場合でも福徳を積むことが出来、仏道を成じうることを各所で説示 していることからも、若大若小皆当作仏となされたのであろう。根本の真仏は大小の異を分別することあることな 品︶ いからである。 若聞レ法布施或持戒詞 とあり、梵文法華経には 或持戒忍 胃&豆留詳乱の薗冨蔚笛8日目烏冨日野目箇口建号胃日曾恒鼻冨乱脅昇習旨島一愚息ョ8烏再目]8塁冨冒 8酸尽日厨gご脚8闇昌Ba厨の胃§︲8昌馨一言吋淵8・底乱蔚8再威Q冨丙胃讐胃旦倒冒乱○冒陣菌①匪 圃︶ 号胃目鼻一ぐ冨号画風己眉怠凰再圃凰胃巨蔚の胃agQ嵩冒号目凰圃冒旨農一一 ︵彼等の面前で法を説き、或は聞いた衆生等は、布施を施し、戒を持ち、忍辱の行、一切の行を成就した。精進、 禅定への努力をなし、般若によって法が思惟され、種盈な福徳がなされた。彼等の一切は菩提を得るものとなっ た。︶ 辱精進禅智等種種修二福徳一如し是諸人等皆已成二仏勤︶ (23)

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﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ 切法は皆畢定なり云云とのべた後において、 聞二法華経中説一・於二仏所作少功徳一。乃至戯笑一称二南無仏一。漸な必当二作仏一。又聞言一阿稗賊致品中有二退不退一。 又復聞雪声聞人皆当二作仏一。若爾者不レ応し有し退。如言一法華経中説一畢定一。余経説蓉一有し退有二不退一。是故今問為一畢 侭︶ として、その上で、菩薩は畢定なり、不畢定は二乗なり但だ大乗の中において畢定なり、畢定とは必当作仏なりとな している。これによってみると、阿稗駿致品や余経は退不退︵畢定不畢定︶を説くが法華経は畢定だけを説き必当作 仏を説くということで迷うということであるが、法華経の方便品は、 乃至童子戯聚レ沙為二仏塔一如し是諸人等皆已成二仏道一⋮⋮如し是諸人等漸漸積二功徳一具一足大悲心一皆已 園︶ 成二仏道一 と示し、梵. 梵文 であり、妙法華経と梵文法華経とでは微妙な相異が認められるが、大意においては大差なく、僅かな功徳でも成仏道 定一為一示畢定一。 段冨薗︲日亀脚口ぐ色冒愚冨窟再弓倒胃庸︲o箆匡&泳冒冒倒冒胃号習l丙昌鼠愚丙農胃曇嘗冨陣画冨︽目蔚 の胃乱g号ご画号目凰圃昏旨島一言冨昌嘗冒目渦8丙日ロ胃四恩乱闇弓①8蔚恩目恒涛働呂目§且閻弓の ● ︵鯖︶ ・凰蔚式胃画嵐胃幽樫︲冒這ggB豊昌涌口融冨昏屋︲gQ冨閏騨魚宮一一 ︵又、幼児らが遊びにおいてそこここにジナのために砂づくりの塔をつくる、彼等の一切は菩提を得るものとなっ た。大人でも幼児でも壁に︵像をかけば︶一切の彼等は慈悲あるものとなり、幾千万の生命あるものを救い、沢山 な菩薩たちを導いた︶ 法華経は (24)

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⑰更に巻九十三は、菩薩は退して不畢定といい、ある時には菩薩は畢定して不退なりと仏はいうが、何れが実である かとの間に対し、二事承な実なりとし、阿縛多羅三貌三菩提を僻怠し牢固ならざる者、かくの如き人は声聞道に従っ て得度し、而も声聞を求めず久しく生死の中において苦を受くべきであるから、発心するものは恒河沙の如きも、阿 稗賊致を得るものは若は一若は二と説き、大悲心薄く自ら身を愛し重んず、この人は仏は得がたく多く退する者あり と聞いて、我は仏を得ること能わずと思う人のために、 ︵ 鴎 ︶ 為一是人一故説一二切菩薩乃至初発心皆畢定一。如二法華経中説一・ となしている。この法華経中説に関し、妙法華経の序品の末偶の ︵ 的 ︶ 諸人今当し知合掌一心待⋮⋮諸求二三乗一人若有二疑悔者一仏当三為除断令二尽無吾有レ余 ︵開︶ の句が、それに該当すると思われている。これに対する梵文法華経は、 頁畠画風の宮島薗冒豊胃冨再威昼目g瀞毎gの旨冨︲冨団自慰日凰一⋮⋮胃留日8の瞥且①富1恩威ゞ冨恩︲ ⑥冨昌①の凹伺綴曽蝕弓”乱9画筋画丙甲凰丘ぐ]凹む画ロ①遇脚8函乱旦匡吋騨日脚両目画昌昌①す。Q嵐の凹騨ぐ倒濠脚ご○旦巨︲胃“の? となることを示している。この皆已成仏道は一仏乗の開顕に起因するのであるが、﹃大智度論﹄がふれる法華経中の 説はそのことを意味していると思われる。 ︵よき心で自制し、合掌せよ、世間のために慈悲深き人は︵法を︶説く。⋮⋮何か菩提にむかう菩薩たちが、この 世で不確実で疑いや惑いがあるならば、賢者は自分の子供らのためにとり除くであろう。︶ ﹃大智度齢﹄における法華経の把握︵望月︶ ︵ 的 ︶ 冒涛画唇一一 (お)

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⑱同じ巻九十三は更に、阿函 するや、との質問に対して、 得二阿羅漢一時。三界諸漏︷ 聞二法華経一具二足仏道一。 三 界 諸 漏 因 阿羅 ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ となされており、ともに仏を一心合掌する人々に対して仏が疑惑等を断ち切られることを示している。そしてこの表 現が﹃大智度論﹄が法華経中説としたものだと思われる。 と示している。この文の後半のところが法華経の説示となされているが、化城喰品は、この諸の衆生にして今、声聞 地に住することある者に、我常に阿縛多羅三貌三菩提を教化す。この諸人等はまさにこの法を以って漸く仏道に入る として、一切衆生をして作仏させることをのぺている。梵文法華経は、声聞の地位にいるものが、無上等正覚に向っ て成熟せしめられているとして、 瀞8日餌自画己凰昌凰斡開忌愚彊蔚、目自己”働く農帥gg一選g感ず只旨闇詳§︲gご“日8m3選目感冒 国一作仏。更有邑 我滅度後。復有一 くし、とした上で、 復 有 一 詞︶ 当二作仏︸。 ︵狐︶ 減度一・ 弟子一不し聞二是経一。不し知壱一不し覚一善薩所行一。自於一所得功徳一生一滅度想一。当し入一迫藥一。我於二余 更有一異名一。是人錐下生一減度之想一入中於浬梁上。而於二彼土一求二仏智慧一。得し聞二是経一。唯以二仏乗一而得二 縁尽。更不毒一復生一三界一有二浄仏土一出二於三界一。乃至無一煩悩之名一。於一是国土仏所一。 に仏道一。如二法華経説一・有一羅漢一若不レ聞一法華経一自謂レ得一滅度一。我於二余国一為説一是事一。汝皆 漢の先世の因縁にて受くる所の身は必ずまさに減すべし、何処にか住在して仏道を具足 (26)

(31)

以上は﹃大智度論﹄の記述中に法華経の説示が引用されるか、その句の要旨がのべられているところであるが、こ の外、三箇所において法華経についての指摘がみられる。 ⑲﹃大智度論﹄巻五十七の中に、無疑と決了と何の異りかあるやとの問に対し、三宝を信ずるが故に是れ無疑、智慧 究寛の故に是れ決了なり、として、経の発心して阿褥多羅三貌三菩提心を行じ、菩薩道を行ずるも、是の衆生は般若 波羅蜜の方便力を遠離するが故に、若は一若は二、阿稗践地に住し、多くは声聞辞支仏地に堕す、⋮⋮諸余の善法も ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ &ぐぃgo冨冒員①gg厨脚罫乱ぐ脚冒目匿一宮骨&豆59巖豊島の胃ぐの冨昌ロ胃冨ご囚︲、眉冨口農冨凰巳弓勝 習脚具二国凰目丙画画旨己屋ロ脚吋ず富厨画く。昌四Q画冨関口脚冒昌肝巨旨丙画1旦昏牌馬ぐ四口︺○口]凰儲邑倒目“旦置①望凰吋乱昏胃倒凰 厨吋画蔚己屋ロ四門巨計ロ画蔚昌画口蔚冨註壷画胴脚冒1画脚口脚召口脚吋昌①秘日脚唇幽の厨薄口O脚8己屋目画埼⑦ぐ勧団召丙尉ご脚昌欝息望l ︵花︶ 自蔚|の冒昌のぐ画冒菩筒胃目営む胃旨胃乱忌日息のご自冒QQa葛画日冒冨匡尉凰q9画目一 ︵私が浬藥に入った未来の世において声聞らがいるであろうが、彼等は菩薩の行を聞いても、我倉が菩薩なのだと 覚ることが出来ないであろう。比丘たちよ彼等の一切は浬藥の想いをいだき、浬藥に入るであろう。しかし、実に 叉、比丘たちよ、私は他の世界において異った名前で住む時、彼等は如来の智を求めてそこに生まれるであろう。 そして叉、彼等はこれを聞くであろう。如来たちの浬薬は一つであり、他に第二の滅度は存在しない、と。︶ として、口閏目門司厨以外は真の浬梁ではなく、それこそが求めらるべき仏の道であることを示している。即ち、声 門のままで減度した者のためには、仏が異名をもってその国に生じ作仏を得せしめようというのが法華経の説くとこ ろであり、﹃大智度論﹄の説示もそれをうけていることを知りうる。 (27)

(32)

としている。即ち、経にいう諸余善法とは諸余の経で、法華経もその中に入り、ことさら般若波羅蜜といわずとも義 理は同一なのだとしていることがわかる。妙法華経の分別功徳品は、一念信解の功徳をのべるに際し、寿命長遠を聞 き一念信解をする人の功徳は限量あることなく、 於二八十万億那由他劫一。行二五波羅蜜一⋮⋮除一駿若波羅蜜一。 詞︶ この功徳をもって先の功徳に比べても、百分千分百千万億分の一にも及ばない、として、一念信解に対する功徳を賞 徳︶ 讃しているが、梵文法華経も同様である。 ︵花︶ ︾﹂こで何故に法華経が除般若波羅蜜、島農騨島冒旦圏︲忌国且冨乱となしたのかについては詳論をさけるが、施 護訳の﹃仏母出世三法蔵般若波羅蜜多経﹄には、 於二此般若波羅蜜多一発二信解心一。自当下受持読調記念。後為二他人一広説二流布一。普令二衆生一得一天善利一。使二其正 ︵ ” ︶ 法一久中住世間上。⋮⋮此善男子善女人得一橋甚多一。 とあり、﹃八千頚般若経﹄少雲路豐閉房9国笥曾胃閏凰融I呂胃画唇には、 ]卸旨国昌己吋旦副ロ閂閏凰函自画ワ冨脅四口・回・旨四・四ぐ画丙巴固四昌画ご匿い旦毎葺昌色。]四頁固の画昌自画l凰算◎ず○○冨画畳画凰詳閏昌 ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ て般若波羅蜜の中に入る、をうけて、 諸余善法入一般若波羅蜜一者是諸余経。所謂法華経密迩経等。十二部経中義同一駿若一者。雛し不三名為一般若波羅蜜経一。 冠︶ 然義理即同一般若波羅蜜一。 ︵沼︶ 巨斤ロ脚いぼ画:。。: ︵この般若波羅蜜を信じて信頼し、信解して心に浄信し、覚りへの心をおこし⋮⋮︶ (28)

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鋤﹃大智度論﹄巻百には二箇所にわたり法華経への言及が見られる。一は般若波羅蜜をもって仏が阿難に嘱累したと する経の説示をとりあげて、阿難は声聞人であるのに、阿難に般若波羅蜜を嘱累し弥勒等の大菩薩にしなかったのは 何故かとの質問を設け、阿難は常に仏に侍し聞持陀羅尼を得て、一度聞けば失わず、六神通三明にして共解脱し、五 百の阿羅漢の師で利益すること多きが故に嘱累したのであり、諸大菩薩は仏滅後は各地に分散し、随所に度すべき衆 生国土に至り、深く般若波羅蜜力を知るを以って苦しんで嘱累することを須いないのだとしている。そこで更に、若 し繭らぱ法華経、諸余の方等経は何を以ってか喜王諸菩薩等に嘱累するやの問を設け、 有人言。是時仏説二甚深難信之法一。声聞人不レ在。又如三仏説二不可思議解脱経一・五百阿羅漢錐し在二仏辺一而不レ聞。 或時得し聞而不し能し用。是故嘱二累諸菩薩一。 ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ とあり、更に、宗教的な心で般若波羅蜜を聞き、習い、覚え、唱え、理解し、宣く、説き、述べ、教示し、読誘し、 他人のために解説するならば、実に沢山な福徳を得るであろう、とされている。すなわち、分別功徳品がいう如来寿 命長遠︵法華経︶に対する一念信解、更には五種法師に対するあり方と同一意趣が、般若波羅蜜に対してのべられて いることを知りうる。このことは分別功徳品が一念信解の功徳をのべるに際し、五波羅蜜の功徳と対比しながら、般 若波羅蜜を除外したのは、般若波羅蜜に対する行と、如来寿命長遠に対する行とが異趣のものとは捉らえられていな かった、同一意趣のものとせられていたことを示すと思われる。それ故に﹃大智度論﹄は、諸余の善法とは諸余の経 であり、法華経密通経等の十二部経の中の義は、般若に同ずるもので名づけて般若波羅蜜となさずと錐も、然も義理 は即ち般若波羅蜜と同じ、となしたものであろう。 (29)

(34)

﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ とし、何法か甚深にして般若に勝れる者あるか、般若を以って阿難に嘱累し余の経を菩薩に嘱累せるや、との間に対 ︵禰︶ 般若波羅蜜非一秘密法一・而法華等諸経説一阿羅漢受決作仏一。大菩薩能受持用。警如一天薬師能以レ毒為P薬。 となしている。これは般若には共声聞説と、十方の十地に住せる大菩薩のために説くものとの二種があるためだとい ︵ 釦 ︶ 法華経がこの法は難解難入阻日9吋“ョ色目身咋目︼目埼自号。昌旨目︵深く見がたく解しがたい︶であり、甚深奥 少し有二能信者一、目漂国&且冨冒冒の8掛昌号騨◎・号凹ぐ旨ご畏画︵指導者よ、彼等の信じ難いものが今日説かれ 薊︶ た︶であるということを随所に示しているところは周知のことであり、方便品では仏が法華経を説示しようとした ︵錘︶ 時、座にあった五千人の増上慢が座を起ち退去したことをすら示している。そして叉、声聞らに授記したことも知ら ︵ 鱒 ︶ れているから、﹃大智度論﹄は、このような法華経のあり方を捉らえて論を展開したものであろう。 同じ巻百の末に近く﹃大智度論﹄は、仏が阿難にこの般若波羅蜜を嘱累せぱ、仏の般浬梁の後に阿難は大迦葉と共 に三蔵を結集するに、この中に何を以ってか説かざりしや、との質問を挙げ、摩訶術は甚深にして難信難解であり、 三蔵は三十万偶、摩訶術は無撞無限、法華経等の諸大経は無量無辺にして大海の中の宝の如し、云何んぞ三蔵の中に 入るべけんや、小物はまさに大の中にあるべし、大物は小に入るることを得ず。若し問わんと欲せぱまさに言うべ ︵ 鴎 ︶ し。小乗は何を以ってか摩訶行の中に在らざるやと。摩訶術は能く小乗の法を兼ねるが故なり、となしている。 これは小乗と大乗との比較の中において、諸大乗経の名を挙げたもので、法華経もその中の一つとして挙名された 属ノ。 して、 ものである。 (”)

(35)

へへへへへへへへへへへへへへへへ 212019181716151413121110ーーーーーーーーーー画一一嘗嘗一98 7 6 へ5 ー へへへへ 4 3 2 1 ー習嘗一 同二十五・一三 同・二四九中下 同二十五・一三○下 大正九・五三上中、の且障局.P合切1台“ 塚本啓祥﹁大智度論と法華経﹂︵前掲番︶六一九’六二○参照 大正二十五・一三○中下

同ロ踞忌1m

の四・且彦画。ロ。蝉“画

同・六一上

大正九・六二上 ・六一上中

同・一二六下’二一七上

塚本啓祥・前掲雷。六一六 大正二十五・一○九下 印画QQp画。。。凹凸○りく画心樗 平川彰﹁大乗仏教の成立と法華経の関係﹂︵塚本啓祥縞﹃法華経の文化と基盤﹄︶三二 の“﹄Q屋画。己・画心惇,くい 国.黒の﹃目向.z“昌一。︾、且呂胃目9厘且画副冨︲mg3いち︵以下留呂菌.と略す︶ 耳。﹂ 同。一一三下﹁其有し欲下以二我身一示中四衆上者。彼仏分身諸仏。在二於十方世界一説し法。尽還集二一処一。然後我身乃出現 前一為作二証明一。讃言二善哉一。﹂ 同。三二下﹁作二大誓願一。若我成仏。域度之後。於二十方国土一。有下説二法華経一処上。我之塔廟為し聴二是経一故。踊二現其 大正九・三三中 塚本啓祥﹁大智度論と法華経﹂︵坂本幸男編﹃法華経の中国的展開﹄︶・六一四 大正二十五・一○九中 ﹃大智度論﹄における法華経の把握︵望月︶ (3I)

(36)

ヘヘヘヘグー、へへへへへ 31302928272625242322 ーーーーーーレーー誉 ︵躯︶大正二十五・三 ︵鍋︶同九・三三上 ︵鯉︶の色殿屋Pロ胸亀 ︵調︶大正九・二七下 ︵記︶の四口ロゴPP画冨 ︵訂︶大正二十五・三一 ︵詔︶同九・三九下 ︵調︶同・四一中 ︵釦︶同二十五・三 ︵虹︶同九・四七下 ︵妃︶同二十五・三 ︵蛤︶同九・一一上 ︵“︶の画貸房Ppの? の四口ロゴ画.ロ。画。⑮ 大正二十五・三○ の四・・昏画。ロ・の、1 九・四七下 ・ 四 一 中 、 二十五・三 大正九・四三上中 の且目PP“圏I駕“ 大正九・四三上留島 同二十五・二八○上同二十五・ の 脚 色 ○ の脚QQp脚。口。、 大正二十五・二九九中 同九・二二上中同九・ の脚QQロ脚。ロ壷 同九・二中 厨昌旨弄遇煙冒旦画包の宍 大正二十五・三○○中 の画且旦彦画。 三上中 同九・三九下’四○上、留登富.ロ圏?& 同・四〒項留呂毒P回曽っ 留具 、 しかし偶の中には、弓◎ざ胃︲農騨恩巨g画く①冨薗⑩巨忌召、巨吋go胃の冒胃質愚曾忌黒二目冨伺冨吋詳乱口騨斡切①粗冨切 り 冨冒旨冨冒冒§号冨言画I溌扇隠厨8−房画呂冒.ロ﹄圏とあり、一塵一劫の意を伝えている。 t ⑤ ﹃ ﹃大智度諭﹄における法華経の把握︵望月︶ 、g&面P己画農 二十五・三三九中I下 三九上 己。﹄、﹃ 面 囚 。 己。“画。 (32)

(37)

︵妬︶大正九・七四 ︵妬︶塚本啓祥・前 ︵幻︶大正二十五・ ︵躯︶同九・四上 ︵鍋︶の四・Q写四・ロ圏 ︵副︶大正二十五・ ︵団︶同九・八下 ︵艶︶の画QQ彦呼己杢 ︵記︶大正二十五・ ︵認︶同九・一三下 ︵弱︶のmQQp色.Pの ︵弱︶大正二十五・ ︵師︶同九・五三 ︵詔︶の四・口匡画.で延一 ︵卵︶大正二十五・↑ ︵釦︶同九・八下 ︵“︶の四・・唇脚.ロム ︵“︶大正二十五・・

︵“︶同。.

︵“︶同九・八下. ︵妬︶のmQQ冒曾P望 ︵飴︶大正二十五・・ ︵師︶同九・五中 ︵“︶塚本啓祥・前﹄ 塚本啓祥・前掲

大正二十五・七 大正二十五・七 の 四 ・ 口 匡 画 . で 。 ︽ ○ のmQQp色.己。、 同九・五三中 同 九 ・ 八 下 大正二十五・ 大正二十五・ の四・Q写四・ロ画樗 塚本啓祥・前 大正九・七四 己・﹄ 書、六三二

一 三

同九・八下’九上 の“&旨.Pgl臼 一三下’七一四上 一 二 中

同・七一三中下

の J 1 ﹄ つ い 大正二十五・七一二・中 函 大正二十五・六八二上中 , の画QQ彦煙.己・︽の 六四八中下 六一九中 同九・八下’九上 掲喪六二六に、これに関説したものが見られる。 大正二十五・四二○中 中 ﹃大智度飴﹄における法華経の把握︵望月︶ の (”)

(38)

以上、﹃大智度論﹄に引用される法華経の文節について、妙・梵両法華経との対比において検討を試みたが、以下、 これを更に整理してみることにする。 仙巻七。︹質疑︺諸仏の法は法として自ら応に爾るべし、何を以って請うべし、諸仏が現前せぱ請えても、現前せざ ればどうして請うのか。︹答︺諸仏は説法するに人の請を待たずと錐も請う者は福を得等と語り、請う人なければ諸 へへへへへへへへへへへへへへへへ 8483828180797877767574737271"69 ーー嘗一一一一讐一嘗一画一嘗一一 ﹃大智度論﹄ m四口。ぱい.己・唖、 いい邑邑ロmop・樗函の 大正二十五・四五六中,く四六六中 シ鶏尉豐勝凰恩.8.g 大正二十五・七五四上中 同九・五中、の且旨P 同・十二上、同。”

同・七上、同・鍋

同・十一中、二十中 大正二十五・七五六上中 の 色 ・ ・ 岸 伽 。 ①色。ケ望 二十中 大正二十五・七一四中 の色QQp画。己。四四四,’四“四 拙論﹁四信五品をめぐって﹂︵﹃日蓮教団の諸問題﹄︶一○九一’二一八参照 拙論﹁四信五品を 同九・二五下 大正八・五九六下 同九・四四下 における法華経の把握︵望月︶ 己 。 画 の 勺 。 伊 。 ’二十一下等、 3 くい冨員脚。国匡邑己冨牌いい口⑩丙臥舜弓の制苛。z○今ロ。﹃ご四目ぬぽい。后go“﹄ 蟹筐彦Ppg,晨やム段等 (34)

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