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島尻勝太郎先生のこと: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Title

島尻勝太郎先生のこと

Author(s)

上原, 清光

Citation

沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(7): 33-35

Issue Date

1990-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5735

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沖縄大学紀要第7号(1990年)

島尻勝太郎先生のこと

上原清光 昭和54年3月、島尻勝太郎先生は、沖縄大学教授兼沖縄高等学校校長に就任 された。また、翌年の昭和55年9月から60年3月までの間、理事長も兼任され た。学園は大学も高校も財政状態が極度に悪化し、先行きどうなることかと皆 が必死に出□を見つけ出そうとしていた頃である。そのような中で、島尻先生 は、「自分は何もわからないよ」とおつしやりながら理事長職についておられ た。その頃の理事会は、しばしば高校担当理事と大学担当理事が、それぞれの 利害をぶつつけ、激論し合う場所と化した。しかし、双方の組合もまき込んで、 学園は、組織の軌道を修正しながら何事かを成し遂げつるあった。 穴だらけの事務組織の未熟な長であった私は、何時も学長からの烈しい落雷 に遭い、右往左往するばかりで、周囲に気配りをする余裕など無かった。その せいもあって、島尻先生がどの局面でどのように対応されたのかを具体的に書 くことは出来ない。只、どのような激論が交されている時でも、島尻先生は我 関知せずの態度で、終始、自分の世界に静かに沈潜されているように視えた。 島尻先生は、学長室に用がある時や講義の前後によく私の部屋に立寄られて、 「オーイ、○○に電話してくれ」と柔和な顔で声をかけてこられた。空いてい る向いの机で、コーヒーを飲みながら一服しておられた姿が思い出される。そ のような折、私と同僚たちはよくいろいろなお話を伺った。あらゆる面で余裕 がなかった私たちにとって、それは心を自由に遊ばせることができる安らぎに 満ちた、不思議に充実した時間であった。どういう話を伺ったのだろう。心の 奥深いところから幾段もの階梯を降りてくるようにして、まるで孫にでも語り かけるように話された島尻先生のお話も、いまでは細部の輪郭がぼやけてし まって、その時にはよくわかった積りであったが、あらためて自分の言葉で辿 り直し、再構成しようとしても不可能に近くなってしまった。 中でも仏教の話はよく伺った。目を閉じて柔和な顔で静かに私達の質問に応 -33-

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沖縄大学紀要第7号(1990年) えて下さった。餓鬼の私達が、先生の話題を自分の身近かなものIこしたくて、 よく卑小な半畳を入れたりもしたが、先生の表情も声の調子も決して変らなか った。いつだったか、私たちは修業の境地と老いと身体の問題に関心を集中さ せた事があったが、その時の先生の答えは、肉体の自然性は変らないものだと いう事だったように思う。又、ある時、「何もしない皇帝の時が国はうまくい っているのだよ/」と中国の歴史を引き合いに言われた事がある。柔和な表情 のま■、しかし、心の筋肉のようなものは確かに動いたと、私には思われた。 私はその言葉を先生が意識的に採られている方法の表明と受けとった。理事 会でそれまで眠っておられるかのようにみえた先生が突然発言されることがあ ったが、その発言は決して議論の的をはずさなかった。 「何もわからないよ」とおっしゃる島尻先生の姿は、俗世間を歩むための仮 の姿かも知れなかった。何もかも心得ながら馬鹿なふりして誰かのために針の ムシロに座りつづける忍耐は、いつしか生き続けていることの意欲と同義をな しているのかも知れなかった。 ある正月の2日目、新年の挨拶に私達同僚3人でお宅に伺った時に、先生は 1人応接間で般若心経のテープを聞いておられた。お屠蘇気分でいた私達は驚 いて、「お面白いですか」ときくと、「あ、、いいよ/」といつもの態度。お 節料理を御馳走になりながら、私たちは無知をかえりみず、勝手に議論を仕掛 けたが、先生は嫌な顔もなされず、静かに仏教の「無」ということについて語 られた。遅くまで意地悪な質問をしつづけて、見送りに出てこられた奥様の視 線に恐縮しながら私達は退出した。島尻先生は人と接する時の距離のとり方と、 圧迫感を与えずその人を自由に振舞わせたま、薫化する方法について、人知れ ず修業を重ねられたに違いない。私達は先生のその意志的態度と忍耐に思いも よらず、甘えさせていただいた。 生きている達の生業の中で年月は過ぎ、島尻先生がご苦労なされた学園も、 今、又新たな転換期を迎えている。その渦中にいる私の様々な感慨の中に、し ばしば島尻先生の面影がたちあらわれる。何故こうもしばしば、島尻先生なの だろうか。 年月を越えて残るものと、消えていくものとを視つめ続ける歴史学者であら -34-

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沖縄大学紀要第7号(1990年) れた島尻先生は、又、人の心の壊われやすさもよく熟知しておられたに違いな い。落したら割れてしまう卵を扱うように、島尻先生は私達の心の傍らに何時 も貴重なものをそれとなく残していかれるだけだった。生涯のある曰、どこか でそのように思い決められ、そのように生き抜かれた島尻先生の物静かな柔和 な面影は、温かさだけを伝える南風のようにふいに私の前にたち現われる。 ついに、一度も病床にお見舞することもないまる先生と永遠のお別れをする ことになった。 -35-

参照

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