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沖縄学と郷土研究 : 戦前の沖縄学・郷土研究が内包した矛盾と葛藤

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Academic year: 2021

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(1)ࠝᏛ⾡ㄽᩥࠞ. Ἀ⦖Ꮫ࡜㒓ᅵ◊✲ 㸫ᡓ๓ࡢἈ⦖Ꮫ࣭㒓ᅵ◊✲ࡀෆໟࡋࡓ▩┪࡜ⴱ⸨㸫 The Study of OKINAWA and Japanese Folklore. 㜰. ஭. ⰾ. ㈗. Yoshiki SAKAI. Studies in Humanities and Cultures No. 26. ྡྂᒇᕷ❧኱Ꮫ኱Ꮫ㝔ே㛫ᩥ໬◊✲⛉ࠗே㛫ᩥ໬◊✲࠘ᢤๅ. 26 ྕ. 2016 ᖺ 6 ᭶ GRADUATE SCHOOL OF HUMANITIES AND SOCIAL SCIENCES NAGOYA CITY UNIVERSITY NAGOYA JAPAN JUNE 2016.

(2) 〔学術論文〕. 阪井 芳 貴. 沖縄学と 郷土研究 ―戦 前 の 沖縄学・ 郷 土研究が内 包した矛盾と 葛 藤. キーワード. はじめに. 戦後の沖 縄学をリードし続けてこられた外間守善氏が、本稿執筆の. さ な か の 1 1 月 2 0 日 に 亡 く な ら れ た 。 ( 注 1 )今 年 は 、3 月 末 に 東 京 で. 大 規模 な 沖 縄学 シン ポ ジウ ム が 開 催され 、こ れ ま で の 沖 縄 学 の 足ど り. を確認し、これ からの沖縄学の見通しを多くの研究者が 見つけようと. 集 い 、 さ ら に8 月に は 那覇 で も 、 沖縄 学 の 過 去と 未 来 を 探る シン ポ ジ. ウ ム が 開 か れ た ので あ っ た が 、 外 間 氏 は こ う した 沖 縄 学 を め ぐ る動 き. をど のよう に見てお られ た ので あ ろう か。. 外間 氏は 、当 然、 常に 「沖 縄学 の父 」伊 波普猷 を 意識 して 研究 や 後. 伊 波普 猷 を 「父 」と して きた 「沖 縄学 」を再評 価し 、 そ の足 取りと. 多くある。その明ら かになっていないことがらのなかには、沖縄の人. の学の世界について、実はまだまだ明らかになっていないことがらが. 近代沖縄・沖縄学・郷土研究・郷土教育・折口信夫. 進の指導を 続け てこ られ たと推 測す る 。そ の結果、 学界 から も社会 か. 未 来 を 探 る 動 き が 盛 んに な って い る 。 本 稿 は 、 そ の 「 沖 縄 学 」 が 確 立. 々 にと って 、郷 土の 学 問で あ る 沖 縄学と は ど のよ うな 学 問で あ った の. ら も 伊 波 の 後 継 者と して 評 価 され てき た。 そ の伊 波普 猷 の開 拓 したこ. し た 戦 前 の沖 縄 に お け る 教 育 界 で 、 時代 の 要 請に よ り 重 視 さ れ て ゆ く. か 、 ど のよ うに 受け 止 め ら れ て き たの か、 そ れ が ど の よ う に 拡が っ て. 要旨. 郷土教育・郷土研究と沖縄学と の間で 矛盾・ 葛藤を抱えることになる. いたのか、という根本的なこともたくさんある。. 本稿は、 それ らについてひと つ の解 を示し、沖縄学の 萌芽 から発展. 36. 教員たちの言説をもとに、沖縄学がどのように受け止 められていくの. ஧ ࠐ ୍ භ ᖺ. に 至る 過程 につ いて 検 討する 材 料 を提 示 しようとす る も ので あ る 。. 一. ୍. かを明らか にしようと したもので ある。あわ せて 、「 沖縄学」を折 口. . 信 夫 の独 特 の学 問世界 を 構 成す る 「折 口 名彙 」と して 位置づけ ようと 試みる。. ே 㛫 ᩥ ໬ ◊ ✲.

(3) 日本民 俗学を導き、本格的な 学 問に 築き 上げ ようと していた柳田國. 芸 能 のヤ マ ト へ の紹 介 に 尽 力 す る など 、 沖 縄 へ の 思い を 終 生 持 ち 続 け. 縄 に 渡 り 、 独自 の理 論で あ る 「 ま れ び と 論 」 を 確 立 し 、 また 琉 球 古 典. 折 口は 、 その 翌々 年と1 93 5 年 か ら 3 6 年 に かけ て の、 計 三回 沖. 男 に と っ て 、 1 9 2 1 年 の い わ ゆ る 海 南 小 記 の旅 は、 そ の 学 問 の道 筋. ることにな る。. 沖縄研究 の間接なる恩恵は 幾つ かあるが、(中略)ぜひとも比較. 心 づ く ま で は 全 然 参 照 し 得 な か っ た 新 資 料 の み で あ つ た 。( 中 略 ). 略 ) ( 言 語 ・ 信 仰 な ど が ) い ず れ もみ な 沖 縄 を 日 本 の 古 い 分 家と. 我 々 の 学 問にと っ て 沖 縄 の 発 見 は 画 期 的 の 大 事 件 で あ っ た 。 ( 中. と くに 沖 縄 県設 置後 ただ ち に に 全 県的に 整 備 され る学 校 を 拠点とす る. は 急 速な日 本化 ・同 化 が 推 進 され てい た。 い わゆ る皇 民 化で あ るが、. 波 柳- 田 折- 口 の 創 り 上 げ た 沖 縄 学 が 進 展 し て ゆ く の と 並 行 し 、 沖 縄 で. れ る に 至る には 、こ の 2人 の 存在 が 欠 かせ な か っ たと 思 われ る が、 伊. え られ た のが伊 波普猷 で あ った。 伊波が 、 後 に「 沖縄 学 の父 」と呼ば. こ の 2人 の民 俗学 の泰斗 の沖 縄 研究 に 刺 激を 与え 、 ま た2 人 から 支. に よ っ て 民 族 全 体 の 古 代 を 映 発 す る た め に 、 一 日 も早 く 各 自 の郷. 皇民化教育が、 そこ で 大きな 役 割を果たして いく。そ の背景には、県. た収穫を 次のように述べて いる 。. 土研究を 進める必要があるとい うことを、新しい 歴史 学に教えて. 民 に よ る 早 く日 本人 に な らね ば な らぬ とい う 内的 希求 と 、 ア ジ ア 進出. の足が か り の確 立と 周 辺諸地域支 配の先駆例 を求める 政府による外的. (「郷土 生活の研究法」1 93 5年). ここで 柳田が「古い分家」と 表現したのは、日本民 俗学における日. 要 因と が 働 いて い た ので あ り 、 そ こ に 教員 たち が 関 与す るこ と にな る. くれたのである。. 琉同祖という言説の嚆矢として もよいであろう。 その見聞談を自宅で. のは当然の帰結であ った。. たとえば、「沖縄教育」第76 号(1912年)には 次のような発. 聴 い た 折 口 信 夫 は 、 そ れ を 自 分 の 眼で 確 か め ずに おれ な くな り、 半 年 遅 れ の 同 年 夏に 沖 縄 に 旅 立 つ 。 折 口 信 夫の 感 性が 沖 縄 で 捉え た のは 、. 沖 縄 本 島 を 中 心と し た 沖 縄 県 の島 々 及び 、其 北に 散 在 す る 若干 の. う物扱ひ を されて居た。今後お互 いに 充分に奮励努力して一日も. 我沖縄はこ れ まで 内地府県の人よ り、一 般我国の 世の中よ り骨と. 言が見られ る。. 他 府 県 の 島 々 は 、日 本 民 族 の 曾 て 持 つ て ゐ た 、最 古 い 生 活 様 式を 、. 早く内地同様当 り前の程度に進まねばならぬ。. 柳田よりも距離感を縮めた日琉 の関係であった。. 最古い姿において 伝へ る血 の濃い兄弟 の現に 居る 土地である。 (「沖縄を憶ふ」1946年). ( 「 島 尻 郡 部会 に 於 け る 島 内 事 務 官の 演 説 大 意 」 ). 35. ஧. を 大 き く 変 え る ほ ど の イ ン パク ト を 与え た 。 後に 、 柳 田 は こ の 旅で 得. Ἀ ⦖ Ꮫ ࡜ 㒓 ᅵ ◊ ✲ 䢣 ᡓ ๓ ࡢ Ἀ ⦖ Ꮫ ࣭ 㒓 ᅵ ◊ ✲ ࡀ ෆ ໟ ࡋ ࡓ ▩ ┪ ࡜ ⴱ ⸨ 䥹 㜰 ஭ 䥺.

(4) で 強力に 押 し 進められて い くので あ った。. 同 化 教 育 ・ 皇 民 化 教 育 は 、 そ う し た教 員 た ち によ って 、 昭 和 戦 前期 ま. が 共 有して ( させ られて ) いた のであろう。 標準 語教 育に象 徴 され る. 悲 壮な 決 意 が 読 み 取れ る 。 お そ ら く、 こ う し た 意 識を 多 く の 教 員 た ち. 人と 同等 の知 識・生活レベ ルに 引き上げなけ れば なら ないという一 種. こ こ に は 明 ら か に 、 ヤ マト へ の劣 等 意 識 を 持 つ 沖 縄 人 を し て 他府 県. 各地で の講 演・ 啓蒙 活動に も通 じ る姿 勢であ ったと 考え られ る 。しか. 文 化 事象 に つい て の 考 察 を 深 め て い っ たと も 言え よう 。 そ れ は 、 県 内. から前近代 に至る琉 球史ならびに 琉球 独 特の 言語・民 俗・ 芸能など の. 伊 波は 『 古 琉球 』に 見 られる よ う に、 内発 的 関心 を喚 起すべ く、古代. 立 図 書 館 長 時 代 は 、ま さ に そ の 時 代 で あ っ た が 、そ う で あ る が ゆ え に 、. な 流れ が 社 会全 体を も 支 配 して い たと 考え ら れる 。伊 波普猷 の沖縄 県. し、そ の成果は 日琉 同 祖論として ひと くく りに され、 結局は同化・ 皇. 述 す る 矛 盾 と 葛 藤が 存 し た も のと 考え ら れ る 。 そ して 、 そ の 矛 盾と 葛. いっぽうで、同誌第75号には、次のような記述も見える。. 沖 縄 教 育 目 下 努 力 研 究 す べ き こ と 二 つ あ る 。 第一 郷 土 の 研 究、 第. 藤 は 、 伊 波 や 柳 田・ 折 口 に 導 か れ るよ うに 郷 土研 究に 携わ っ た 沖縄在. 民化 の推 進に利 用されて いったと いう 側面は 否め ない 。そこ には、後. 二児童の研究とであ る。郷土の研究を看過せ る為其自 身の住 む郷. 住 の研 究 者 たち にこ そ 重 く のし か かる こ と にな る ので あ った 。. こ れ は 、ヤ マト に 沖 縄理 解を 深 めて も らう に は 、 ま ず 自 ら沖 縄のこ. 必 要 だ と の 言 説 が あ っ た こ と は 前 述 し た 。こ の「 郷 土 」と い う 言 葉が 、. 1 9 1 2 年に 「郷 土 の 研 究 」 が 、ヤ マト に 沖 縄 を 知 ら しめ る ため に. 二. 土 の 事情 を 明 察して い ない 為に 、一 方に おいて は 其欠 点がひ いて は沖縄県 を他に紹介するこ とが で きない。依て沖 縄県が 他の 辺隔 な る 地よ り も 他に 知 ら れて 居な い 。. とを知らなければならない、と いう議論であ る。 内発 的な関心から の. 戦 前 の 沖 縄 の思 想・ 教 育 に お い て 極め て 重 要 な 術 語で あ る ので はな い. ( 廣 川 鐵 蔵「 手 土 産( 其 の 一 )」). も ので は な く、 沖 縄 に つ い て の 知 識を 深 め 、 そ の ポジ シ ョ ン を 高めて. 柳田國男 が日 本民 俗学を学と し て立 ち 上げ た、そ の発 足点 は191. かと い うこ とに つい て 、こ れ まで 言及 され たこ と は な か った 。. そ う し た 立 場と 連動す る の か 、あ る い は 純 粋に 琉球 ・ 沖 縄 史 の再 確. 0年の郷土 会と いう 研究会の創設と1913 年の「郷 土研究」という. も ら う た め の 方 策 と し て の 郷 土 研 究 が 推 奨 さ れ た ので あ っ た 。. 認 の 試 みで あろ う か、こ の 時 期 の同誌には 王 朝時 代 の 古文 書 ( 例『 中. 雑誌の発刊とにあった。こ の郷土 会のメンバーには、 後述する戦前の. 郷 土 教 育 の 推進 者と な る 小 田 内通 敏も い た 。 そ の こ と は 、 柳 田 の民 俗. 34. 山 世 譜』) の翻 刻など も連 載さ れて い る 。 琉 球 処 分・ 沖 縄 県 設 置 か ら 大 正 期 まで は 、 こ の よ う な 教 育 界 の大 き ே 㛫 ᩥ ໬ ◊ ✲. . ஧ ࠐ ୍ භ ᖺ. ୕.

(5) 学と 後 の 文部省 主導による郷土 教 育・ 郷土研 究と が、 同じ 根から成長. 居られる様です。もう今では沖縄学では世界的な学者と いつても. 清川安彦. いいでせう。 ( 紙名不詳. 1935年 12 月21日付の新 聞. う に「 比 較 に よ っ て 民 族 全 体 の 古 代 を 映 発 す る た め 」の も の で あ っ て 、. 新聞スクラ ップより). こ の折 口 の発 言中 に あ る 「沖 縄 学」 に 記 者は 傍 点 を 付 けて い る。 お. そ ら く、 記 者は こ の 耳 慣 れ な い 言 葉に 何 か し ら重 要性 を 感じ 、 読者 に. て 、 そ れ は 沖 縄 の人 々 に と って も 同じ で あ っ た。 その 三 度 目 の旅の始. り深 いと こ ろ で 沖 縄 を 理 解す る 手 が か り を得 たも のと 思わ れ る 。そ し. たが、そう した人々と の交流か ら、単に学問上の収穫 のみならず、よ. そ して 神 女 な ど 、 さ まざ ま な立 場 の人 々 か ら 聴き 取り を おこ な って い. に 渡 る た び に 、 教 員 や 地 域 の 有 力 者、 ジ ャ ー ナ リ スト な ど の知 識人 、. 口が沖縄 の知識人たちに大きな 影響を及ぼす 旅と なった。折口は沖縄. 縄 の 教 員 たち の 招 聘 に よ り 実 現 し た も ので、 過去 二度 と は 異 な り、 折. らす も の と な った ので あ っ たが 、昭和には い って の三 度目の旅は、沖. 縄採訪の旅は、大正期の二度は 自身の学問を深め、新たな展開をもた. るためのフィルター的な意味を 有していたのであ った。その折 口の沖. の沖 縄へ の 眼差 し も ま さに 「 古 代 」 ( =折 口 名彙 とし て の) を 追究す. の 郷 土 研 究 だ つ た 」 ( 1 9 3 5 年 「民 俗研 究 の意 義」 ) ので あ り、 そ. が 初 出で あ ると する な ら ば 、 折 口 研究 の立 場 から は、 こ の 語を 「折 口. よう に 感じ られ る。 「沖 縄学 」が 、仮 に折 口 によ る造 語で あ り、こ れ. 点では、折 口信 夫に よ って 使い 始 めら れ た語であ ると して おいてよい. 上述のよう にこ こで の表記に傍点が付されて いる こと などから、現時. が 、 こ れ 以 前に 他の 研 究 者 な ど に 使わ れて い た 形 跡が 見 られ ず、 ま た. 折 口 の発 言 が初 出で あ ると 断 定す るこ と には 慎重 でな け れ ばな らな い. 昭 和 戦 前 期 の資 料が ほ ん の 断 片 的 にし か残 っ て い ない 現 状で は 、こ の. と い う 術 語 が 世 の中 に 示 さ れ た 、 こ れ が 初 出 例な ので あ る 。 明 治か ら. と し た の で は な い か 。そ し て 重 要 な こ と は 、管 見 の 限 り で は「 沖 縄 学 」. 縄を研究す るこ とが 学 問上世界 的な意義のあ るこ とを 折口は 訴えよう. て い る ので ある が、 こ れ は 、 単 に 伊波 の学 問 とい うに と ど まらず、沖. そ の学 の大 きさ を表す ために 「世 界的」と い う形 容詞 を伴 って 使われ. こ の「沖 縄学 」は 、直接 的には 折口 の伊波普猷 賞 賛の 言辞として、. もそれ を伝 える べ く、強調 のため に傍 点を付したのであ ろう 。. め、193 5年 1 2 月20日に 那覇に 着いた折 口は新 聞記者 の取材に. 単 な る 沖 縄 研究 で は な く 、 そ れ が 学と し て 拡 が り 、 普 遍 性・ 科 学 性が. 名 彙 」と し て 認 定 す べ き で あ る と 考え る 。そ し て 、そ の 概 念 と し て は 、. 折口信 夫にとっての郷土研究 も同様で、「日本人の古い相を知る為. に 所 以があ る。. 柳 田が 「 沖 縄 の 発 見は 画 期 的な で き ご と で あ っ た 」と し た の も、そこ. そ の中で 比 較 す る 材 料と して 最 重 視され た の が沖 縄で あ っ た ので あ る。. し たこ と を 物 語 り、 興 味 深 い 。 柳 田に と って の郷 土研 究 は 、 前 掲 の よ. ᅄ. 答えて、 次 のように語っている 。 東 京 の 伊 波 さ んと は し ば し ば 会 つて ゐ ます が 益々 熱 心 に 研 究して. 33. Ἀ ⦖ Ꮫ ࡜ 㒓 ᅵ ◊ ✲ 䢣 ᡓ ๓ ࡢ Ἀ ⦖ Ꮫ ࣭ 㒓 ᅵ ◊ ✲ ࡀ ෆ ໟ ࡋ ࡓ ▩ ┪ ࡜ ⴱ ⸨ 䥹 㜰 ஭ 䥺.

(6) 認 め ら れ 、 隣接 す る 学 問と 関 わ り 合い な が ら 、沖 縄と 日 本 の 文 化 全 般 を 追究する 上で 他 の領 域 の学 問 と 比肩 しう る 意 義を有す る 学 問、と し ておきたい。ちなみに、従来は 「沖縄学」の初出 を伊 波普猷 の『古琉 球 』改 版( 1 9 4 2 年 刊 )で あ る と し て き た が 、そ れ を 数 年 遡 る の と 、. ざ まで 困 惑 し葛 藤し て い たこ と に も注 目して おき たい 。. だと 思わ ず に いられない。 また 、こ の新聞記 事を 読んだ 県民が、こ の. て 伊 波 折- 口 の 学 問 上 の 信 頼 関 係 が あ っ て こ そ の「 沖 縄 学 」で あ っ た の. し 、 郷 土 の 発展 させ るこ と を 目 的 に 「 教育 の郷 土 化 」 が 提唱 されて い. てできるかぎり郷土 の資料を利 用し、郷土の理解を. これより前、大 正期には、画一 的 教育を打破する ため、各教科におい. 三. 語をどのように受け止めたのか、それを想像することは難しいが、相. た。それを踏まえながら、新たな運動として、師範学校を中心に郷土. 1 9 2 7 年文 部 省 は 全 国 の 教 育 現場 に 郷 土 教育 運 動 を 推 進し 始 め る。. 応 のイン パクトを与え たのでは ないかと考え られ る。という のは、こ. 教 育 推 進 の ため の施 策 を 打 ち 出 し たの で あ っ た。 そ の 結 果 、 多 くの学. 折 口が 伊 波 を 評 価す る 言辞に お い て使 わ れ た とい うこ と が 、 あ らため. の発言 のタ イ ミン グに注 目して お き たい からで あ るが 、 それ に ついて. 校 に 「 郷 土 科」 「郷 土 室 」 な ど が 設置 さ れ 、 カリ キュ ラ ム も 改 訂され. の 教 員 た ち が 沖 縄 の さ ま ざ まな 分 野 に わ た る 研 究 を 深 め て い た こ と が. よ う 。 「 沖 縄 教 育 」 な ど 教 育 界 で 発行 され た 雑誌 など を 見 る と 、多 く. 員たちを 中心として、広い 裾野 に及ぶのが 「沖縄 学」 の特徴と も言え. これら個人 全集などが編纂されて いるような人々 のほかに、学校の教. 宮 良 當 壮・仲 原 善 忠・島 袋 源 七 と い っ た人 々 を 挙 げ る こ と が で き る が 、. 郎 ・ 島 袋 全 発・ 喜 舎 場 永 珣 ら 、 そ の次 の 世 代 に比 嘉春 潮・ 金 城 朝永 ・. う人々には 、 同世代に東恩納寛 惇・末吉 安恭・真 境名 安興・島袋源一. さて、 こ のよう に 伊 波・ 折 口 に よ って 切 り開かれた 「沖 縄学 」を 担. 国 の 方 針 を 支え て い くこ と に な る 。そ の 国 の 方針 とは 、 郷 土 理 解・ 郷. 彼らのスタ ンスは文 部省の掲げた 施策と 微妙な違 いを 抱え なが らも、. 地 方 の 生 活 の 向 上 、郷 土 理 解 か ら 郷 土 愛 の 涵 養 と い う と こ ろ に あ っ た 。. と い っ た 機 関誌 を 発 行 し て 、 そ の 活動 を広 め て い った 。 そ の 目 的は 、. 地 理 学 )の 眼 目 に し て い た と さ れ 、「 郷 土 」「 郷 土 科 学 」「 郷 土 教 育 」. 郷土 の特性や個 性を 追 求す ること を郷土研究 (小 田内にと っては人文. 小 田 内 通 敏 が 中 心 的 な 存 在 で あ っ たこ と も ま た 興 味深 い 。 小 田 内は 、. も見逃せな い。この 連盟において 、柳田國男 の郷 土会 に参加していた. て い っ た 。 19 3 0年 に 発 足し た 郷土 教 育 連盟が そこ に 果 た し た役 割. 深 め、 郷土を愛. は後述する。. 認められ る。従来あ まり注目されて こなかった彼らの研究の成果に今. 32. 土愛 から愛 国心 ・国 民 精神 の醸 成 に向け られ てい た。 それ を 受けて 、. ஬. 後 注 目 し な け れ ば 、 戦 前 の 沖 縄 学 の全 体 像 は 明 ら かに で き な い ので あ. ஧ ࠐ ୍ භ ᖺ. 沖 縄 県 内で も、 郷土 教 育 のあ り か たに つ い て 、 多 くの 教 員 が 検 討と 実 . る が 、 い っ ぽう で 教 育 現 場 に お い て 彼 ら が 同 化 教 育と 郷 土 教 育 と の は ே 㛫 ᩥ ໬ ◊ ✲.

(7) 践 に 携 わ っ て い く 。た と え ば 、「 沖 縄 教 育 」第 1 7 4 号( 1 9 2 9 年 ) 信ずる。. 心として郷土史を併述して行くのが最も妥当なる行き 方であると. と 述べ て い る。 ここ には 、 具体 的 に教 育 現場 でど のよ う に 郷土 教育と. 同 化 教 育 の 折 り 合い を付 け る か 、 大き な 悩 み 、逡 巡が 存 し た こ とが 伺. こ う し た 教員 たち の 戸 惑 い を 踏 まえ て で あ ろ う 、 文 部 省 の 役人 に よ. (真 の郷土教育の目的は)一 定の土 地の上に 起つ た歴史、祖先 の. 成長せしめ(中略)その郷土愛は必然郷土をよく理解して国家全. る 講 話 の 類 も「 沖 縄 教 育 」 に は 掲 載さ れ る 。 たと え ば 、 1 9 3 号( 1. え る のであ る。. 体 に 対す る 各 方 面 の 地 位 を 知 り 郷 土 を 如 何 に 改 善 し 如 何 に 経 営し. 932年) の篠原普 通学務局長に よる「師範 教育と小学校教育との関. に お け る 位 置 は 微 々 た る も ので 、 沖 縄は 国 史 の舞 台か ら 除 外 さ れて い. 縄 の 国 史 教 育 に 対す る 私 見 」で 女 子 師範 学 校 の直 田昇 は 、 沖 縄 の国 史. ろう。たと え ば、「沖縄教 育」 第188号( 19 31 年)収載の「沖. と は 正 反 対 と もと れ る 方針 へ の 戸 惑い を 反 映 し た も の と 見て 良いで あ. られる。 それは、と りもな おさ ず、それ まで の同 化教 育・皇民化教育. 実際 に ど の よ う な 事を す れ ばよ い の か、 と い った 内容 の 論 考が 多数 見. 人 事を知 ら しむ ると 共に、 町村と 自分と の依属関 係を理 解せ しむ. 基 本 た ら し め ん とす るこ れ で あ る 。こ れ に 依れ ば 、 郷 土 の 自 然、. 与へること に依 つて 愛 郷心を 培 い、こ の愛 郷 心を 、更 に愛 国心の. に 重大 な る 任務 の負は さる る に 至つ た。即ち 郷土 に対 す る理 解を. 提唱せられ たも のである。(中略 )後に至つて、郷土教 育には更. を 郷 土 的 材 料 に 依 つ て 、教 育 の 実 際 化 を 計 ら ん と す る 精 神 に 於 て 、. (郷土 教育は) 始めに於ては 、地理、歴史、 理科 の教授 の出発点. 係 」 に は 次 のよ う に あ る 。. る と 指 摘 し た 上 で 、 こ れ ま で の 教 育 思 想は 「 地 方 的色 彩 を 無 視 し一 も. こ のよう に明 確に 郷土理 解・郷 土愛 の涵養をもって愛 国心 に 結びつ. る こ と は 、 やが て 国 家と 個 人と の 関 係 の理 解 に 役 立つ も ので ある. 郷土 史 教育は 国民 を 創る の 根底に 於て 是非と もそ の洗礼を施さね. け る と い う 思想 が示 され る に 至 り 、教 員 間 に もそ れが 定 着 して ゆく。. 二も国家的普遍的色彩にのみ染め出さうとした」と断じつつも、郷土. ば な ら ぬ 。 而 し 乍 ら そ の 洗 礼 の 程 度 は 何 処 まで も 国民 を 創 る 事を. 第195号 (1 93 2年)収載の 女子 師範学校附属小学 校の町田辰巳. と 考へるのであ る。. 目的として の予備であ り段 階で なければならぬ。 (中 略)当沖縄. の「郷土教 育の視点」 には 、. 史教育に 偏重すると そ の結果は 恐るべ き ものにな ると し、. 昭和初 期には、こ のよう な、 郷土教育にど のよ うに 向き合う のか、. て 国 家 の 進 展 に 貢 献 す べ き かと い ふ こ と を 自 覚 さ せ る ( 以 下 略). 事 業 を 考 察せ し め 以 て 社 会 的 感 情 を 教 養 し 郷 土 愛 の幼 芽 を 純 真に. 次のようにある。. に 収 載 さ れ た 下 地 尋 常 小 学 校 の 幸 地 恵 勇 の「 郷 土 教 育 に 就 い て 」に は 、. භ. に 於 ては 郷 土 史 教 育 の 絶 対 的必 要が 存在 す る 。( 中略 ) 国史 を中. 31. Ἀ ⦖ Ꮫ ࡜ 㒓 ᅵ ◊ ✲ 䢣 ᡓ ๓ ࡢ Ἀ ⦖ Ꮫ ࣭ 㒓 ᅵ ◊ ✲ ࡀ ෆ ໟ ࡋ ࡓ ▩ ┪ ࡜ ⴱ ⸨ 䥹 㜰 ஭ 䥺.

(8) い 。 ( 中 略 ) 今 や 郷 土 教 育 は 教 育 の 地 方 化 実 際 化 の重 要 な 一 方法. の 三 方面 を 持 て る一 つ の 目 的に 向 か つて の 教 育で なけ れ ば な らな. 偽 ら ざ る 姿 へ の 認 識と も な る( 中 略 ) 即 ち 郷 土 教 育は 知 、 情 、 意. 拡大 して ゆ く も ので あ つて 、や が て は よ り大 な る 郷土 日 本 国土 の. 愛 の 養 成 に あ る(中 略) 郷 土 の 認 識は 、 児 童 の 人 格 の 発 展と 共に. (郷土 教育の目的は)偉大 なる国家愛へも発 展し てゆくべ き郷土. の 創 立 、 そ して 郷土 博物 館 の 開 館 へと 向 か う 一 連 の動 き は 、 教 育界 に. と 密接な関 係を 持つ 。また、その後の沖縄県 文化 協会 や沖縄郷土協会. 会 に つ い て 同誌 上で そ の 報 告 が 掲 載さ れ る な ど 、 こ の 座 談 会 も 教育 界. 7 号 ( 1 9 31 年) の 巻 頭 言 は そ の意 義 に つ いて 言及 し て い る し、 例. を 中 心 に 据 え た 「郷 土 研 究 座 談 会 」が 発 足 す る。 「沖 縄 教 育 」 第1 8. 土史同好者、郷土研究に趣味を有する人々を集め 、や はり真境名安興. い っ ぽうで 教育 と研 究 と で は 立 場 の相 違 も 見 られ た。 そ れ は 、 郷土 研. おけ る郷土 教育 の展 開と 軌 を一 に して い る。 もち ろん 、こ れ ら の会 や. と あ り 、 郷 土 教 育 が 単 に 地 域 を 理 解す る た め のも ので は な く 、 国 家 を. 究が 沖 縄 の 文化 の真 価が 認め られ るこ とに 寄 与し 「先 祖ノタメ ニ誇リ. で あ る ば か りで な く、 愛郷 心を 培い 愛 国心 の源泉 たら し め んとす. 価値観 の 中心に据え るため の教 育に組み込 まれて いくこと を如実に示. ト スベ キ 」 成果 をも た ら し たと 真 境名が 指 摘 した よう に 、 郷 土 研究 と. 博 物 館 に も 教 員 た ち が 多 く 参 画 し て い る の で 、そ れ は 当 然 で は あ る が 、. して いる 。こ う して 、 実際 の初 等教育、 さ らには 実務教 育に おける 教. 愛 国心 を 涵 養す るた め の郷 土教 育 と の スタ ン ス の違 い に 収斂 して い く. る新使命を加へ益々重 要性を帯びるやうにな つた 。. 育 カ リ キ ュ ラ ム に も 郷 土 教 育が 導 入 さ れ 、 そ の実 践 の た め に 、 教員 に. ので は な い かと 考え られ る 。. 年代 前半に 一つ のピーク を迎える 。それは、 「沖 縄教 育」の特集に 見. 四. よ る 郷 土 研 究 も 盛 ん に な っ て い く ので あ っ た 。そ う し た 動 き に 連動 し て、副 読本 や 年 表など の資 料類 も編集・ 刊行 され 、「 郷土」を冠した 雑誌や資料 類が出回るよう にな るなど、19 30年代 前半は、同化教 育=郷土 教 育と いう 構図 の確立 、そして そ の基盤とな る郷土研究のひ. その郷土 研究においては、1 927年に沖縄県 教育会の主導により. ることがで きる 。現 存が確認されてい る同誌 の内容に よれば、193. 前節で 指 摘し たよ うに、沖縄県 内の郷土 教育と郷土研 究は 193 0. 真境名安興県立図書館長を代表とする沖縄郷土研究会が設立されたの. 3年1月発行の198号から同年9月発行の20 5号 まで 、島袋源一. とつのピークを迎えるので あった。. で あ っ た が 、こ の会 は 「愛 郷 心 を 育て 、 も っ て愛 国心 を 培う 」こと を. 30. 郎 が 編 集 を 担当 して い る 。 2 0 6 号か ら 2 0 13 号 ま で は 現 存 しな い. ୐. 目的とした ものだったようであ るから、 まさに上 記郷 土教育を研究面. ஧ ࠐ ୍ භ ᖺ. ので 判然と しな いが 、こ の島袋が 編集した 時 期に 立て 続け に大 特集が . から支え る 役 割を 担ってい たと 言え よう。そ の後 、1 931年には郷 ே 㛫 ᩥ ໬ ◊ ✲.

(9) 沖 縄 の 郷土 史と 琉球 史 と は 全 然別 々 の も ので あ る こ と を注 意され. 県 郷 土 史 の 取扱 に就 いて 」 の 筆 記 録が 載 って いる が、 こ こ で 東 恩納 は. い 1 2 0 頁 を 超え る 分 量で あ っ た 。こ の島 袋 源一 郎は 、 戦 前 の沖縄 教. た い 。 ( 中 略) 琉 球 史 は 向 象 賢 以 後 に 組 み 立 て ら れ た も ので (中. 組まれて いる。198号は昭和会館落成記念、1 99 号は郷土史特輯. 育 界 の 第一 人 者 で あ り 、 1 9 1 9 年に は ひ と りで 『 沖 縄 県 国 頭 郡志 』. 略 )王 国 と し て の 変 遷 を 書 い た も の で あ る 。然 し な が ら 郷 土 史 は 、. 次 のよ う に 述べ て い る 。. を著すなど 郷土研究においても沖縄在住の研 究者 たち の中心人物で あ. こ こ で 東 恩納 は、 郷 土 教 育 が 目 指す とこ ろ に 関 わ る 郷 土研 究 と し て. 国 史 の 一 部 分で あ つ て 、 従 つ て そ の教 授 に よ つて 、 期 す る 所 の目. 考館の設置と運営に島袋は大い に貢献したのであ るが 、彼はこれを、. の郷土史と 琉球 王 国史とを切り離 し。後者は 国史 とは 別のものとして. ったし、 折口信夫が も っと も信 頼した人 物で もあ った 。そ の島袋が 、. 琉球・沖縄文化の貴重な文物の散逸の危機を防ぎ、収集・保存・公開. 扱 う こ と を 提 唱 し た の で あ る 。伊 波 のラ イ バ ル で あ る 東 恩 納 に と っ て 、. 的 及 結 果 は 、全 体 の そ れ と 抵 触 し て は な ら な い 筈 で あ る 。 (中略). す る 場 、す な わ ち 郷 土 研 究 の 一 拠 点 と な る べ き 施 設 と し て 考え て い た 。. そ の研 究 対 象で ある 琉球 王 国史を 国史な らび に郷 土教 育と リンクす る. 上 記 特 集 を 次 々 に 企 画 し た のは 、 こ の時期が 沖縄 の郷 土 教 育と 郷土 研. が 、 そ の 名 称を 沖 縄 県 教 育 会 の 財 産と して 郷 土 教 育に 資 す る 「 教育 参. 郷土史と 切 り離すこと で、 自らの研究 における 自由度を 確保するね ら. 国史教育の 目的を 成しとげると 言ふ 事が、郷土史教授 の 任務であ. 考 館 」と し た こ と に つ い て は 、今 後 考 察す べ き 点 が あ る よ う に 感 じ る 。. い が あ っ た のか もし れ な い 。こ の 発言が 、 ど のよ うに 受け 止 め られ た. 究において重要な 時期であったこと を認 識してい たか らであろう。昭. 島袋は、こ の教育参考館を博物館 に発展させ るた め、 こ の後「沖縄教. の か 確 か め よう がな いが 、 実 際 に こ の郷土 史 特集 号に お い て は 、 極め. らね ば な ら ぬ。 国史 教 育 の 目 的は 言ふ まで もな く国民 性 の涵養で. 育」誌上に収蔵品目録を連載するなど、さらに働きかけを強めていく. て 大 胆な 同 化教 育か ら の 脱 却を謳 う言 説 まで 掲 載 され て い る 。 第三中. 和 会 館 は 沖 縄 教 育 会 の 拠 点と して 建 設され た 建物 であ っ たが 、 そこ に. のであった。そこには、郷土研 究の充実発 展への大い なる期待と希望. 学 校 の 豊 川 善曄 の「 魂 の ル ネ ッ サ ン ス 」が そ れで ある 。 豊 川は 、 「 沖. ある。. を見ること ができよう。昭和会 館落 成記念特集に は、 そうした島袋の. へ た い 。 薩 摩入 以来 抑 へ つけ られ て 萎縮 して ゐた 吾々 の民 族 魂 を解 放. 縄 郷 土 史 教 授 の 骨子 は 何 か と き か れ た ら 私 は 「魂 の振 興で あ る 」と 答. その次 の、郷土史特集号には、郷土研究のあり方に関連し、大変興. して 元 の通 り元 気よ く活動 させ る にあ ると 云ひた い。 」と して 、次 の. 思いが込められていたのである。. は 後 の郷 土 博物 館 の 前 身と い う べ き 教 育 参 考館 が 設 置 され た 。こ の 参. 号、 200号は 国語特輯号という 具合で、 特に後二者 はそれ までにな. ඵ. 味 深 い 言 説 を 見 い だ す こ と が で き る 。ま ず 巻 頭 に 東 恩 納 寛 惇 の 講 演「 本. 29. Ἀ ⦖ Ꮫ ࡜ 㒓 ᅵ ◊ ✲ 䢣 ᡓ ๓ ࡢ Ἀ ⦖ Ꮫ ࣭ 㒓 ᅵ ◊ ✲ ࡀ ෆ ໟ ࡋ ࡓ ▩ ┪ ࡜ ⴱ ⸨ 䥹 㜰 ஭ 䥺.

(10) ように述べている。. し少なから ぬ県民が 内心こ のよう な思いを 抱 いて いたことは充分想像. で き る 。教 育 界 の リ ー ダ ー で も あ っ た 島 袋 源 一 郎 で さ え 、 「沖縄教育」. 今日 喫 緊の 大 問 題、 否 根本 問 題は 実に 剛 健に して 偉 大 な りし祖 先. 同化政 策の為め に取られた 精神的重圧は旧藩時代に於けると同様. 一制度、 中央文化に対する 過度 の賛美と、 固有文 物に 対する過度. の 気 魂 を 甦 生す る こ と で な け れ ば な ら ぬ 。 ( 中 略 ) 此 等 の 活 躍せ. 第 2 0 5 号 の巻 頭 言 で 次 の よ う に 語 って い る くら いで あ る 。. の 卑 下 、 或 は 県 民 に 対す る 各種 の 差 別 待 遇 な ど は 吾々 の 精 神 を一. る偉人や種族繁栄の為めに貢献せ し人々の業績を顕彰することが. に 吾々 魂 を抑へ つけ て 活 発 な 活 動 を な さ し め な か つた 。 極 度 の画. 層萎縮させて、 自分等はつまらない者、見棄てられた者といふ感. 焦眉の急務では あるまいか。(中 略)猶ほ文 化協 会に 於ては一方. こうした立場と 連動していると考えられる陳情が1933年8月. を 強 く抱 かせ た 。こ の感じ はあ ら ゆ る 方面 に 希 望 を失 は せ 、 努力. 代 の 哀調 を一 掃して オ モロ 時代 の 朗 ら かな 気 分 を 復興 し な け れば. 2 2日 に お こ な わ れ て い る こ と も 注 目 に値 す る 。そ れ は 、尚 家 文 書 の. 郷土 博物館 建設 の急務を唱道し、 速に県立図書館 の移 転拡張と共. な ら ぬ 。さ う す る に は 古 琉 球 の 文 化 を 研 究 し な け れ ば な ら ぬ 。 (中. 公 開 に 関 す る陳 情で あ る 。 右 の 巻 頭 言 を 載せ る 「 沖 縄 教 育 」 第 205. を 失 はし め た 。 ( 中 略 )吾 々は 斯 う い ふ 気 分 を一 掃し て 心 の 奥底. 略) 吾々 の祖先はこれ 迄縁 の下 の力持と な りて暗々に 日本文化に. 号 に そ の 陳 情書 が 「 雑 纂 」 の中 に 収 録 され て い る 。 そ こ には 、 「 日 本. に之を断行すべ きを 絶叫してゐる 。是れ亦吾等の祖先が 遺した文. 貢 献 して 来 た ので あ る 。 決 して 今日 の 如き 無 為 無 能の 他力 本 願人. 本土 同化 思 想に 禍せ られて 」 旧 家 の文 物が 散 逸し てし まったこ とを 問. か ら 魂 の 改 造 を は か ら なけ れば な ら ぬ 。 之 を な す には 唯 郷 土 史を. 種 で は な か つ た ので あ る 。 然る に 今 日 の 状 態は 如 何。 溌 剌た る往. 題 視し、 伊 波普 猷が 県立図 書館で 琉球 王 国 時代の 古文 書 等を 収 集して. 化を永遠に 伝へて県民 の発奮を促 さんと の意志に基づく もので、. 事 の 面 影 は 何 処 に か あ る。 こ れ 皆 同 化 々 々 と い つ て 角 を 矯 め て 民. き た 実 績と 意義 を挙 げ て 、 尚 家に 対し 「 御 所 蔵 の 郷土 文 献 書 類絵画図. 振 興 し民 族 的 認 識 不 足 を 充 たす よ り 外 は な い 。 ( 中 略 ) 本 県 を 振. 族 魂 を殺 した 為めで あ る。 廃藩 置県 以後の本 県統 治は 政策 の誤謬. 面 等 を 公 開 して 広 く 内外一 般郷 土 研究 者に 利 用せ しめ られ むこ とを 」. (以下略). か ら で あ る 。 ( 中 略 ) 郷 土 史 は 吾 々 の 失 は れ た 精 神を 喚 び 起 して. 陳 情 す る と あ る 。陳 情 者 は 沖 縄 県 初 等 教 育 研 究 会 代 表 陳 情 委 員 と し て 、. 興させる にも古琉球 の文藝復 興 の力をからね ばな らな い。述懐時. 自力更生の力とならしめるものである。. 島袋源一 郎が名 前を 連ねている。こう し た動 き、 そして 同化政策へ の. 28. 一 種 のナ シ ョナ リズ ム 喚起 の檄 文 のよ うに も感じ られ る 文章 であ り、 師範 学 校 と 各中 学 校 の 校 長 、 小 学 校長 協会 長 、そ れに 沖 縄 県 教 育主 事 ここ まで 同化政策を批判したも のはあ まりないように感じるが、しか ே 㛫 ᩥ ໬ ◊ ✲. . ஧ ࠐ ୍ භ ᖺ. ஑.

(11) 後 日 の 彼ら の言 説に よ り 確 認で き る。 宮 城は 、沖 縄の 御嶽 と ヤ マト の. 育 」に 掲 載 され た。 名 護で 教員 を して い た宮 城真 治や 知 念 村在 住の 新. こ う し た 例 か ら 伺え る よ うに 、 折 口が い う と こ ろ の 沖 縄 学 に 携わ る. 神 社 の関 係 に 特 に関 心 を 持 っ た よ うで 、 数 年 後に 県議 会 議員 と して の. 批 判が 教 育 現 場 の長 たち の総 意 と して 出 されて い るこ と 、 また、それ. 多 く の人々 が 実は、 研 究 を深 め れ ば深 め る ほ ど、 琉球 ・ 沖 縄 のアイ デ. 議会におけ る質 問に もそ の 影響が 現れて いた 。ま た、 新垣と 島 袋もそ. 垣 孫 一 、そ れ に 島 袋 源 一 郎 が 、そ の 発 言 に 大 い に 刺 激 を 受 け た こ と が 、. ン テ ィ テ ィを 自覚 し、 同 化 教 育 =郷土 教 育と いう 枠組 み に 対し 矛盾と. たこ と は 、 そ の 発言 内容 か ら 明 ら かで あ っ た 。そ れは 、 と り もなお さ. を し て い る 。た だ 、 彼 ら が 必 ず し も折 口 の 真 意を 汲 み 取 れて いな か っ. れ ぞ れ 沖 縄 の宗 教に つ い て 言 及 し た際 に 、 折 口 の 考え を 踏 ま え た 発 言. 五. ず、同化と 反同 化と の折 り合い の つけ 方 の難 しさに起 因していた。 そ. こ に 、 戦 前 の沖 縄に おけ る 郷 土 研 究と 沖 縄 学 と の 微妙 か つ 重 要 な差 違. を見ること がで きる のであるが、 折口 自身も、同 化を 至上命題と課せ. 前節で 見た郷土研究のスタンスを易しく語っているように感じられ. (「民族学」とい う漢字表 記は 原文 のまま). の 舌 禍 事件 、 柳 宗悦 の 発 言 に 端 を 発す る 方 言 論争 など に 見 ら れ たよ う. 発 言 の 影 響 は 決 して 小 さ くは な か った と 思わ れる 。も ち ろ ん、 河上 肇. さて 、折 口だ けで なく、ヤマト から来訪し た研 究 者・ 言論 人など の. られ つつ沖 縄文 化の研究を深 化 させた いと願 う沖 縄の研究者たちに、. るが、この三度目の折口の来県は沖縄の知識人たちに多大の影響を与. に 、 沖 縄 の 独自 性を 評 価す る 発 言 がか え って 反発 を招 いて し ま った 例. 民 族 学 が 盛 ん に な つ た のは 新 し く 故 郷 を 省て 先祖 の 生 活 を 知る 事. え た。それ は 、 前 二回と は 異な り、沖 縄在 住 の國 學院 の教え 子たち を. もあるが 、 おお かた の、 琉球・沖 縄文 化が 有する 独自 の芸術性を高 く. ど のよ う に 向き 合え ば よ い のか、 少な か ら ず 迷い があ っ たこ と は指摘. 中心とする 教育会のメンバーに よる招聘で の来県であ り、 各地で講習. 評価し賛美した来訪者たち の発言は、多くの場合 、沖 縄の知識人たち. に あ る の で す が 、 こ れ に よ つて 具 体 的 に 故 郷 の 有 りが た さ を 知 り. 会や講演 をおこなったこと によ る。そ の主た る講 習会 は 国語研究会が. のアイ デン ティ ティ の自覚を 促す 結果とな っ た。 それ は、たとえば伊. して お かね ばな らな い が 、 そ れ に つい ては 別 に考 察す るこ と に する 。. セッティングした万葉集の講習会であったが、そ の他に沖縄の宗教・. 東 忠 太 の 評 価が 首里 城 の 保 存 ・ 修 復に つ な が って 、 県 民 の 誇 り を 回 復. 正しい生 活に向つてゆ く方 針も 決まる訳です。. し た 新 聞 記 者 の イ ン タ ビ ュ ー の 中で 次 の よ う な 発 言を し て い る 。. 193 5年 12月に三度目の来県をはたした折 口信 夫は、先に紹介. 葛藤 を 抱 くよ う に な って い たと 思わ れ る ので ある 。. が郷土研 究の発展のためと謳わ れていることは注目すべきである。. ୍ ࠐ. 信 仰 に 関 す る 講 演 な ど も お こ な わ れ 、 そ の 筆 録が 新 聞 紙 上 や 「 沖 縄 教. 27. Ἀ ⦖ Ꮫ ࡜ 㒓 ᅵ ◊ ✲ 䢣 ᡓ ๓ ࡢ Ἀ ⦖ Ꮫ ࣭ 㒓 ᅵ ◊ ✲ ࡀ ෆ ໟ ࡋ ࡓ ▩ ┪ ࡜ ⴱ ⸨ 䥹 㜰 ஭ 䥺.

(12) 第239 号の表紙には組踊「銘 苅子」の舞台写 真が使 われている。こ. も 、 特 筆 す べ き で あ ろ う 。こ の 公 演 の 直 後 に 刊行 され た 「 沖 縄 教 育 」. 人 に 自 信 を 植え 付 け た と い う 意 味 で も大 変 意 義深 い 機 会 と な っ たこ と. たちに強烈な印象を伴って知ら しめたと同時に、 沖縄 の芸能者や知 識. 6年)が 、沖縄の芸能の洗 練された芸術性をヤマトの知 識人・ 芸術家. 回 目 の来 県 時に 発 案し た 琉球 古 典 芸能大 会の 東京 公演 の実 現( 19 3. す る に 至 っ たと い っ たこ と から も明 ら かで あ る 。 また 、 折 口 信 夫が 三. 歴史 的な 考へ方をす る様に さへな つた 。 最近 の郷土 教 育・郷土研. て 、 狭い 意 味の 郷土 を 考へる様に なり 、 更に近 頃は 、 其 に対して. が くつゝ い たも ので あ つ た のだ が 、 残 念な 事に は 其 が 再 、 逆転し. 即 、日 本 人 の 古 い 相 を 知 る 為 の 郷 土 研 究 だ つ た の で 郷- 土 と 研 究 と. ふ 、狭 い 意 味 の 郷 土 の 研 究 で は な く 、其 を 通 り 越 し た 我- 々 の 過 去 、. である。即、我々の郷土研究は、誰某の郷土、我が郷土などとい. ゐた郷土と 、最近一 般に謂はれて ゐる郷土とでは、 意味が違ふの. げ た 結 果 だ と も 見 ら れ る 。と に か く 、最 近 の 郷 土 研 究 な る も の は 、. 究が其であ る。 謂はゞ、かうした人達には、言葉の進化といふ事. こ のよ うに、 県外から の来訪者 の影響を も抱え 込 ま ざるを得なくな. 一 地 方 だ け に 対 す る 知 識 殊- に そ の 歴 史 を- い ふ の で あ る が 、 我 々. う し た 表 紙 は 、 現 存 す る 号 で は 極 め て 珍 し い ので あ り 、 そ れ だ けこ の. っ た 結 果 、 1 9 3 0 年 代 は 郷 土 教 育と 郷 土 研 究が そ の ピ ー ク を 迎え る. の 用 ゐ た 郷 土研 究は 、 歴 史 を も つて 考へ 切れ な い も の を 、 各 地に. がないとも見られる。また、言葉の意義を無視して、無制限に拡. と と も に 、 そ こ に 関 わ る 教 員 を 始 め と す る知 識人 たち に 、 同 化 と 反 同. 残 存 し て ゐ る も のゝ 比 較 に よ つ て 究 め よ う と す る の で あ る か ら 、. 東 京 公 演 が も た ら し た イ ン パク ト の大 き さ を 物 語 って い る 。. 化 、 日 本 化 と 郷 土 化 、 と い っ た 相 反す る 方向 の双 方へ の深 化 を 求め る. 大きな違ひ であ る。. 歴史 の大 きな 流れ の中で、沖 縄 の教 員・知 識人たちに よる 郷土 研究. (「民俗研究の意義」19 35年). 時代と な っ た。 彼 ら は 矛 盾と 葛 藤 を そ の教 育 活動 およ び 研 究 活 動に 内 在させなければならな くなった のであった。. る 郷 土 教 育と 、 国 家が 主 導 し た 郷 土 教 育と そ れと 軌を 一 に し た 郷土 研. 命 名 し た し た「 沖 縄 学 」 と は 一 線 を画 す も の と な って し ま っ た ので あ. 折口言うところ の狭い意味の郷土研究にとど まり、伊 波が導き折口が. の 多 く は 、国 家 主 導 の 愛 国 心 発 揚 の た め の郷 土 教 育 に 自 ら を 組 み 込 み 、. 究と の間 に本質的な違いがあること を沖縄の教員たちが把握し得なか. った。そ の結果 、前 述のように、 愛国 心 発揚とア イデン ティティの高. そ の遠 因 に は 、 柳田 ・ 折 口が 推 進 し た 民 俗 学 な ら び に そ れ に 隣接 す. っ たこ と を 指 摘 し な け れ ば な ら な い。 が 、 そ れは 無理 か ら ぬこ とで あ. 揚 と のは ざ まで 、 矛 盾と 葛 藤 が 生 じ 、 そ れ を 内包 した ま ま 1 9 40 年. 26. っ た 。 折 口 自 身 の 説 明 は 次 のよ う で あ る 。. 代に入り、 やが て それらは雲散 霧消の結末を 迎え るのであった。. ୍ ୍. 我々は、民俗学といふ 語を 用ゐる前は、 郷土研究と言うてゐたの で あ る が 、 近 年 、 此 語を用 ゐる のが 都 合が 悪 くな つ た 。 我 々 の用 ே 㛫 ᩥ ໬ ◊ ✲. . ஧ ࠐ ୍ භ ᖺ.

(13) 帰40年沖 縄国際シンポジウム. これ まで の沖縄学. こ れか らの. と い う 術 語 の 受け 止 め 方 を 追 究 す る こ と が 重 要で ある こ と を 述べて き. ここ まで、戦前 の沖縄学の実相を明らかにするため には、 「郷土」. 「沖縄学 を問い直す ―過去・現在・ 未来へ―」 二 日 目 の 報 告. 博物館 美 術 館で 開 かれ た 「 琉 球 大 学 国際 沖 縄研 究 所シ ン ポ ジウム. れ まで と こ れ か ら 」 に お け る 報 告と 、 同 年 8 月1 2日 に 沖 縄 県立. おわりに. た 。 だ が 、 残 念 な こ と に 、 近 代 沖 縄を 知 る 手 が か りと な る 資 料 は 断 片. 「 沖 縄 学 と 郷土 研 究 と - 折 口 信 夫 か ら 島 袋 源 一 郎 まで 」 を も と に. 沖 縄 学 」 三 日 目 のパ ネ ル セ ッ シ ョ ン 「 「 同 化 」 を め ぐ る研 究 のこ. 的にしか 残っておらず、そのこ とが研究の大 きな 妨げ になってきた。. 成稿 し た も ので ある 。. 恵 を 被 る こ と が で き た 。 研 究 が 進 展す れ ば 、 また 資 料 の 発 掘 に 可 能 性. 男 の文 章も 、そ れぞ れ の 全集 ( 最 新版)に 収 載の テキ スト に 依っ. (2009 年~201 2年 )によ った。また、折口信 夫・ 柳田國. 本論文中 の「沖縄教育」からの引用は、不二出版によ る復刻版. が 広 が る 。そ う し た 良 い 循 環 が 今 後 も 続 く こ と 、そ し て 、折 口 名 彙「 沖. 伊藤 純郎『郷 土教育運 動の研究 』1998年. 参考文献 1. 思文閣出版. た。. て い る 。 本 稿 に お い て も 、 「 沖 縄 教 育 」 の 復 刻版 刊行 に よ り 多 大 の 恩. が、 徐々 にではあるが研究 の進 展を促す資 料 の発 掘や 復 刻が 進められ 3. ୍ ஧. 縄 学 」 が 1 9 3 0年代 から 今日 ま で た ど って き た 経 緯 を 確 認 す るこ と で 、 沖 縄 学 の 過 去・ 現 在 ・ 未 来 の 把 握が で き るよ うに な る こ と を願 っ. 本論文は、2012年3 月31日に早稲田大学で開かれた「復. たもので ある。. 刊行 が中 止となったため公 開されなかったので、 本紀 要に投稿し. に脱稿したが、諸事情 によ り本 論文が収載される予定だった本の. 文中 にあ る「今年」も2012年である。本論文は、同年12月. 外 間 守 善 氏 が 亡 く な ら れ た の は 2 0 1 2 年 の 1 1 月 で あ り、 本. ている。本稿は、その小さなステップと位置付け たい 。. 注 1. 2. 25. Ἀ ⦖ Ꮫ ࡜ 㒓 ᅵ ◊ ✲ 䢣 ᡓ ๓ ࡢ Ἀ ⦖ Ꮫ ࣭ 㒓 ᅵ ◊ ✲ ࡀ ෆ ໟ ࡋ ࡓ ▩ ┪ ࡜ ⴱ ⸨ 䥹 㜰 ஭ 䥺.

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参照

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