ダム開発に鑑みるメコン河流域管理の
ガバナンスの考察
濱 崎 宏 則
Ⅰ.はじめに─背景と目的 Ⅱ.メコン河本流におけるダム開発と影響評価プロセスの考察 1. メコン河本流ダム計画の経緯 2. 本流におけるダム開発の影響評価プロセスにおける課題 Ⅲ.メコン河支流のダム開発による越境環境事例に見るガバナンスの課題 1. ラタナキリ州における洪水問題発生の経緯 2. 洪水による生活への影響 3. 洪水問題に対する地域および関連機関の対応 4. ラタナキリ州の洪水における課題 Ⅳ.メコン河流域におけるガバナンスの課題─ 2 つの事例からの示唆 1. 2 つの事例の示唆 2. ガバナンスの諸課題と今後の展望 Ⅴ.おわりにⅠ.はじめに─背景と目的
メコン河流域諸国における経済発展が堅調である。例えば GDP 成長率の推移を見てみる と、数年前に記録した 2 ケタ成長ほどの勢いはなくなりつつあるものの、依然として 5~8% の成長率を続けている(図 1)。他方で欧米諸国や日本などの先進各国や成長著しい中国・韓 国などの新興国は、自国の市場がほぼ飽和状態となっているために、新たな市場の開拓を目指 して、これらのメコン河流域諸国への進出を積極的に推進している。例えば日本政府は、アジ アの市場拡大を見込んで 2,000 億円規模の公的な資金を活用してインフラ整備の受注増を狙っ ている。具体的にはタイやベトナムを対象として、日本企業の鉄道や港湾などのインフラ輸出 を後押しする会社を 2014 年度に新設する計画である(日本経済新聞、2013)。また韓国はラオ スに対して株式市場設立の支援を、中国はタイに対する高速鉄道の売り込みを行っており、メ コン河流域諸国におけるこうした国々の競争は激しさを増している(朝日新聞、2013)。 このようなメコン河流域諸国における経済成長にともなって工業化は進展し、都市への人口論 文
流入は増加し続けている(図 2)。それにあわせて各国における電力需要は急増し、供給の逼 迫が常態化している。ベトナムの首都ハノイやカンボジアの首都プノンペンでは電力使用の超 過から停電がしばしば起きる。電力の不安定な供給はこれらの国々への進出を目指す外国企業 にとっては大きなリスクである。このような背景から、各国政府が安定的な電力確保に余念が ないのは自明のことであり、その電力源として焦点が当てられたのがメコン河流域、とりわけ 本流における水力発電ダムの開発である。そして昨年、ラオス国内を流れるメコン河本流にお いて、初めてとなるダムの建設の着工が始まった。これは英国国営通信 BBC のアジア版でも 大きく取り上げられ、世界的なニュースとなった(BBC, 2012)。 しかし一方で、このメコン河本流におけるダム開発に対しては、国際機関や先進国、環境・ 開発 NGO などからの反発が根強かった。なかでも、メコン河流域を管理する政府間組織であ るメコン河委員会(Mekong River Commission、以下 MRC)の最大のドナーである米国も、 このダム建設に対して懸念を表明していた1)。これらの反対意見や懸念の根拠として、下流の
国や住民、環境や生態系への負荷、影響を受けるおそれのある住民に対する補償、またそれら についての不十分な説明責任や情報開示(透明性)などが挙げられた。その根本的な原因は、
図 1 メコン河流域各国における GDP 成長率の推移
source: Asian Development Outlook 2013 を参照し筆者作成。 註)2013 年、2014 年の数値はアジア開発銀行による予測値。 -3.0 -2.0 -1.0 0.0 1.0 2.0 3.0 4.0 5.0 6.0 7.0 8.0 9.0 10.0 11.0 12.0 13.0 14.0 15.0 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 成長率( %) 年 カンボジア ラオス ミャンマー タイ ベトナム 中国
ガバナンスの欠如にある。
本論文では、まず本流におけるダム開発の前に行われた戦略的環境アセスメント(Strategic Environmental Assessment、以下 SEA)のプロセスおよびメコン河の支流におけるダム建設 による環境影響の越境事例の考察を通じて、当該流域におけるガバナンスの課題を明らかにす る。「ガバナンス」についてはさまざまな考え方があるが、本論文では、世界銀行が各国のガ バナンスの水準を評価するために用いている世界ガバナンス指標(Worldwide Governance Indicators)の観点から検討する2)。具体的には、説明責任や透明性、法の支配といった観点 で、メコン河流域でのダム開発におけるガバナンスの課題を明らかにする。そのうえで、メコ ン河流域における水資源開発・管理の持続可能性の観点から、改善に向けた提言を行う。
Ⅱ.メコン河本流におけるダム開発と影響評価プロセスの考察
1. メコン河本流ダム計画の経緯 メコン河下流域の国々にとって、本流におけるダム建設は数十年来の悲願であった。1957 年に下流 4 カ国(南ベトナム(当時)、カンボジア、タイ、ラオス)を加盟国とするメコン委 員会(Mekong Committee)が創設され、その前後に積み重ねられた各種の調査(G. F. 図 2 メコン河下流域各国における都市人口比率の推移source: Key Indicators for Asia and the Pacific 2013 (ADB, 2013) をもとに筆者作成。 15.0 20.0 25.0 30.0 35.0 40.0 45.0 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 全人口に対する 都市人口割合(%) 年 カンボジア ラオス タイ ベトナム
White, et. al., 2003)に基づく流域開発の本格化を目前にベトナム戦争が勃発した。冷戦がイ ンドシナ半島にも暗い影を落とし、カンボジア内戦や中越戦争などのためにメコン河流域開発 は頓挫した(堀、1996: 169–170)。 1991 年のカンボジア和平協定調印をきっかけにメコン河流域には平和と安定が訪れた。 1995 年には下流 4 カ国によって MRC が設立されたほか、ベトナムが同年に、ミャンマーと ラオスが 1997 年に、カンボジアが 1999 年に東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟した。そ の後、各国とも飛躍的な経済発展を遂げ、それにともなって電力需要が急増してきたことは既 述のとおりである。また図 3 に示すとおり、今後の電力需要の見通しも大幅な増加傾向にあ 図 3 メコン河下流域各国における電力需要の見通し source: ICEM (2010: 49)
り、メコン河流域諸国にとって電力の安定供給は喫緊の課題である。 そこで MRC は第 2 期の戦略計画(2006–2010)からメコン河本流におけるダム開発に向け て動き始めた。MRC がイニシアティブをとるのは、メコン河本流の開発に関しては流域 4 ヵ 国の合意の下に進めるという「メコン・スピリット」を原則とするからである(山影、2003: 56)。図 4 では、上流で既にダムを建設し稼働させている中国を除いて、メコン河下流域にお いて開発が計画されている 12 のダムを示している。上述のとおり、今回建設が始まったのは そのうちの Xayaburi ダムである。このダムの位置するラオスは資源に乏しい国であり、水力 発電による電気を売ることによって外貨を獲得している。他方で隣国のタイでは電力の確保が 急務であり、双方のニーズが合致したために、Xayaburi ダムの建設プロセスは円滑に進んだ という経緯がある。 図 4 メコン河本流におけるダム開発計画 source: MRC (2008: 28)
2. 本流におけるダム開発の影響評価プロセスにおける課題 MRC とメコン河下流域各国が推進してきた本流のダム開発に対して、既述のとおり、欧米 諸国や環境・開発 NGO は、地域住民や生態系への影響を懸念して反対を主張し続けてきた。 例えば上述の Xayaburi ダムに対して、建設予定地付近のタイ側住民は「Xayaburi ダムによっ て発電された電気を私たちは使用しない」と主張してきた。また、SEA 報告書で何らかの影 響が出るおそれがあると指摘された下流のベトナムでは、メコン・デルタで漁業を営む人々が ダム建設中止を訴えてきた。最大の援助国である米国の議会下院は、MRC が外部に委託して 行った SEA の手法について疑問を呈している。 では実際に SEA はどのようなプロセスで行われ、どのような評価結果を出したのか。第三 者 機 関 と し て SEA を 実 施 し た ICEM(International Centre for Environmental Management)の最終報告書によれば、SEA は NGO をはじめとする市民社会組織(Civil Society Organizations、以下 CSO)を必要に応じて関与させながら、①スコーピング、②ベー スライン調査、③利点・リスクの検討、④影響の回避・緩和という 4 つの段階を経たとしてい る(図 5)。しかしながらこの CSO の参加のプロセスについては、ラオス政府が MRC 事務局 に提出した Xayaburi ダム計画の文書は市民に公開されておらず、被害を受けるおそれのある 人々が参加することなく進められていて、透明性を欠いているとの指摘がある(Bangkok Post, 2010)。この点について、MRC では「通告・事前協議・合意手続き(Procedures for Notification, Prior Consultation and Agreement、以下 PNPCA)」を原則とし、透明性を保つ ことを定めている。それにもかかわらず、上述のような不透明な手続きが取られたとするなら ば、MRC におけるガバナンスに問題があると言わざるを得ない。
図 5 SEA における 4 段階のプロセス
また SEA の最終報告書は、本流におけるダム開発の結果として、さまざまな悪影響が生じ ると述べている。具体的には、12 のダムすべてが建設された場合、ラオスが年間 26 億米ド ル、カンボジアが年間 12 億米ドルの電力輸出による利益が得られ、また両国において見込ま れる海外直接投資は 250 億米ドルにのぼるとされている(ICEM, 2010: 12)。その一方で本流 ダム計画がもたらす負の影響は多方面に渡るとされており、漁業や農業、自然環境に与える影 響は、ほぼすべての項目において恩恵よりも損失が上回る “Net loss” となるという評価結果が 出ている(Ibid.: 58–59)。とりわけ本流の周辺で暮らす人々や地域社会に与える影響は大き く、例えば、2,960 万人がメコン河から 15km 以内に生活しており、うち 5km 以内に住む 210 万人が直接ないし間接的な影響を受けると予測されている(Ibid.: 108)。またそのうちのおよ そ 11 万人はもっとも直接的な影響を受けるとされ、移転が必要であると指摘されている (Ibid.: 107)。さらに報告書は、結論として、本流のダム開発は①生活様式、②文化、③コミュ ニティの態様、④自然環境、⑤食料の質・量、⑥災害からの安全性、⑦資源へのアクセスと管 理、⑧身体的・社会的・精神的健全性と豊かさ、という 8 つの点において重大な影響があると 指摘した(Ibid.: 133)。 このような評価結果が報告されているにもかかわらず、なぜ本流におけるダム建設は見直さ れることなく進められたのか。SEA の特徴は、環境影響の評価が行われた後に問題の見直し や計画案の修正、代替案の模索などのフィードバックのプロセスが備わっている点にあると、 原科は主張している(図 6)。これと図 5 を比較したとき、メコン河本流のダム開発に係る SEA においては、環境影響の評価後のフィードバック・プロセスが組み込まれていないこと が分かる。つまり、メコン河本流のダム開発における SEA はただその影響を予測しその負荷 に対する回避あるいは緩和のオプションをまとめたにすぎず、計画そのものの見直しや変更を 図 6 SEA のフローチャート source: 原科(2000: 49)
促すプロセスがなかったことが問題であると言える。 以上に述べてきたように、MRC が行ってきた SEA のプロセスには大きな問題があると言 わざるを得ない。このような透明性やフィードバックを欠く手続きの存在はガバナンスの欠如 であり、根本的な見直しが求められる。
Ⅲ.メコン河支流のダム開発による越境環境事例に見るガバナンスの課題
1. ラタナキリ州における洪水問題発生の経緯 カンボジア北東部に位置するラタナキリ州は人口およそ 150,000 人、面積が約 10,000km2(青 森県とほぼ同じ広さ)の小さな州である(NIS, 2008: 23)。州都はバン・ルン(Banlung)で、 州のほぼ中央部に位置している。ラタナキリ州は東側でベトナムと国境を接している。また、 メコン河の支流でセ・サン川(Se San)とスレポック川(Sre Pok)という 2 つの大きな河川 が、ベトナムを上流として流れている。支流と言っても非常に大きな河川で、スレポック川の 流域面積は 3,111km2、セ・サン川の流域面積は 18,710 km2にもなる(GIWA, 2006: 17)。ラオ スを上流とするセ・コン川(Se Kong)とあわせて、この流域一帯を「3 S地域」と呼んでい る。 この地域では、毎年雨季に起こる洪水が深刻な問題となっている。その原因となっているの が、セ・サン川上流のベトナム側で建設されたヤリ滝(Yali Falls)ダムをはじめとする水力 発電を目的とした大型のダムである(図 7)。この地域では、ベトナム側でダムが建設される 前には、自然の洪水が 10~15 年に 1 度起こる程度であった。しかし 2000 年に異常な水位の洪 水が起こったのを最初に、2003 年以降は毎年洪水が起こるようになったという3)。これは、 ベトナム側に建設されたダムからの放水が原因で、特に雨季の後半にあたる 10 月に洪水が起 こることが多い。 ヤリ滝ダムは 1993 年 11 月に建設が始まり、2000 年 5 月には 4 つのタービンのうちの 2 つ が稼働した。総工費はおよそ 10 億 US ドルで、地上 65m の高さに建設され、満水時には 64.5km3の水を貯留することができる。ヤリ滝ダム建設には、ロシアとウクライナが国際的な 支援を行った。このダムでつくられた電気は、ベトナムのホーチミン市を中心とする南部の工 場地域に送られており、そのための送電線は世界銀行ローン(57,500 万 US ドル)の一部から 融資を受けて整備されている(Wyatt & Baird, 2007: 429–430)。この地域は、先住民族(ethnic group)の住む集落が多く存在する、いわば未開の地であ る。先住民たちは独自の信仰をもっており、洪水が起こるとそれを神の怒りと考え、その怒り を鎮めようと祭事を行う習慣があった。それゆえ、2000 年以降に異常な洪水が起こるように なっても、彼らはその原因がダムであるとは知らされず、神が怒っていると信じ込んでいた。 後述するように、洪水の原因がベトナム側におけるダム建設であることを知ったのは、現地の NGO である 3SPN(3S Rivers Protection Network、以下 3SPN)による啓発活動を通じてで あった。
ヤリ滝ダムの建設に際しては、下流にどのような環境影響が生じるかを予測するためのアセ スメント(環境影響評価:Environmental Impact Assessment、以下 EIA)が実施されたが、 カンボジア側に対しては告知や相談はまったくなく、また EIA のコピーも渡されなかった (Wyatt & Baird, 2007: 430)。ヤリ滝ダムの EIA にはスイス政府が 109 万ドルの資金援助を行 い(Ojendal et al., 2002: 19)、国営会社であるベトナム電力に代わってスイスのコンサルタン ト会社が行ったが、下流のカンボジアへの影響は無視された。ヤリ滝ダムはカンボジアとの国 境からおよそ 80km 離れたところに建設された(Trandem, 2008: 109)が、その影響が及ぶの はダムからわずか 6km だけだと見なされており(Wyatt & Baird, 2007: 430)、実際に EIA も ダムから長さ 8km、幅 1km の範囲しか行われなかった(Bruch et al., 2007: 398)。
またベトナム政府は、ヤリ滝ダムの他にもセ・サン 3、セ・サン 3 A、セ・サン 4 などの水
図 7 3S 地域におけるダム建設および計画状況
力発電ダム建設を進めてきた。セ・サン 3 はヤリ滝ダムより 20km、セ・サン 3 Aは 25km、 それぞれ下流に建設された。前者は 2002 年 6 月に、後者は 2003 年 4 月に建設が始まったが、 双方のダムともに EIA は公表されておらず、またカンボジア政府も調査の内容を知らされな かった。一方セ・サン 4 については、EIA が 2005 年 8 月に公表され、同年 12 月にはベトナ ム側がカンボジア政府に対してこの EIA に対するコメントを求めてきた。しかしながらセ・ サン 4 は、2005 年 1 月には既にカンボジアとの国境付近において建設が始められており (Wyatt & Baird, 2007: 428, 431)、このタイミングでの EIA の公表とコメントの要請は事実
上、意味をなしていない。 2. 洪水による生活への影響4) 以上のように、ダム建設の影響が国境を越えることを予測しなかったために EIA が十分に 実施されず、洪水が起こる原因となった。この洪水は地域住民の生活に甚大な影響を与えてい る。例えば経済的な影響として、1999 年の年間の収入損失は 3,434 世帯分で 250 万ドルに及ん でいる。洪水の影響により、世帯収入は 1996 年には 1 ヶ月あたり 109 ドルであったのが、 1999 年には 46 ドルにまで減少した5)。また、1996 年から 99 年の間の、洪水による資産の損
失はおよそ 80 万ドルで、1 世帯あたりの損失額は約 237 ドルに及ぶ(Wyatt & Baird, 2007: 430)。 地域の住民や社会に対してこの洪水が及ぼしているその具体的な影響について、以下に詳述 する。 (1)予告のない急激な河川の増水 この洪水における最大の問題点は、下流に対して事前の警報や通告がされないままダムから の放水が行われるため、ラタナキリ州の村では、前触れもなく突然目の前の川が増水し、かつ 短時間のうちに洪水となって村を襲うことである。2000 年 3 月にはヤリ滝ダムが事前通報な しに放流して 6 人の死者が出た(岩見、2006: 83)。洪水が来ると、村の人たちはボートに乗っ て村から 2~3km 離れた高地に避難し、水が引くまでの間そこで過ごさなくてはいけないとい う。 (2)農業、漁業、健康への影響 別の問題として、生業として営んでいる農業および漁業への影響がある。洪水のために、田 畑に植えているコメやその他の農作物はすべて流されるという。そのため、ほとんどの農家が 農業を営むことができなくなった。一方、ダム建設にともなって川の水質が悪化し、また、ダ ムからの放水がない時には川の水がせき止められて断流が起こるために魚の数が激減し、漁業 を営むこともできなくなった。さらに、村人たちが食用に飼育している牛や豚、鶏などの家畜 も洪水によって流され、溺死する6)。したがって収入はおろか、自分たち自身の食料も確保す ることができない。そのため、現地や先進国の NGO による食料の配給に頼らざるをえず、自
立が困難な状況にある。 加えて、川の水質の変化にともなって、村の人々の間に健康被害が起きている。ダムが建設 されてから、村の人たちの間で、とりわけ子どもを中心として、それまでは見られなかった原 因不明の皮膚病や下痢などの症状が見られるようになったという。 (3)家屋への被害 セ・サン川沿岸では、洪水による河岸の浸食が深刻である。川の近くに住居を構えている村 人は、河岸が削られて川が迫ってくるたびに自宅を離れた場所に建て直さなくてはならない。 建て替えの費用は自己負担であり、およそ 1,000 ドルが必要になるという。筆者が訪れた際に は、以前家屋が建っていた際の石製の基礎がいくつも残されていた。 また、洪水の勢いが非常に強いために、家屋が横転することもしばしば起こる。実際に筆者 が訪れた村では、横転したままの家が残っており、洪水の威力の凄まじさを物語っていた。 3. 洪水問題に対する地域および関連機関の対応 では、この洪水問題に対して、川沿いに住む人びとはどのように対処してきたのか。また、 カンボジアやベトナムの政府、国際機関などは、この問題に対してどのような対応をとってき たのだろうか。既述のように、この地域には独自の信仰を持ついくつかの先住民族が長年暮ら しており、このような原始的な生活を送ってきた人びとに対して、洪水の本当の原因がベトナ ム側におけるダム建設にあることを教え、食糧配給や政府機関への陳情などの支援をしてきた のは 3SPN であった。現地の住民たちは、このような NGO を通してさまざまな対応策を検討 してきた。 まず 1 つめに検討したのは、洪水による影響を免れるための、被害の及ばない土地への移住 である。しかしながら、村の周囲のほとんどの土地はカンボジア政府の国有地になっている。 そのため、政府の許可がなければ移住することはできないが、カンボジア政府からの許可を得 るのは難しいということであった。 他方で、さらに遠方の都市部への移住を選択する住民もいるという。しかし、そのような 人々も経済的な自立が難しく、日常の生活に困難を強いられているという。なぜなら、彼らは 先祖代々、数百年にわたって川とともに生活し、農業や漁業など、川を利用した生業を営んで きており、政府による雇用の保障などのサポートがない限り、経済的な自立を果たすことは難 しいからである。 そもそも、村の人々の本音としては、自分たちが先祖代々住んできた土地はできるだけ離れ たくないという。その一方で、村の人びとはメコン河流域における一連の開発に対して反対し ている訳ではなく、むしろカンボジアの発展のためには必要なことだと理解している。それで も彼らが納得することができず、もっとも不満を感じている点は、メコン河流域開発の便益を 他の人たちが享受し、自分たちだけが被害を受けているという、不公平感であるということ だった。
では、この問題に対する関連機関の対応はどのようになっているのだろうか。まず、カンボ ジア・ベトナムの両政府はまったく対応してこなかったという。このような政府の沈黙に対し て、現地の NGO である 3SPN は住民に対する支援や政府機関に対する抗議など、さまざまな 活動を行ってきた。具体的には、洪水問題が顕在化してから啓発活動を展開し、先住民の人び とに対して原因がベトナム側でのダム開発にあるということを説明してきた。また、ラタナキ リ州政府の知事を現地に招いて被害の実情を知ってもらうと同時に、補償を含めた何らかの対 応を求めてきた。さらに、カンボジア・ベトナム両政府に加えて MRC や ADB に対しても、 彼らの署名と併せて請願書を出すなどして、この問題への対応を要請してきた7)。しかしなが ら、今日までこの問題への対応は何もなされておらず8)、とりわけ MRC はこの件に関して、 1995 年協定が締結される以前に着工したダムが原因であり、当時まだ発足していなかった MRC が補償などの対応を行う必要はない、という立場を崩していない(MRC、2002)。村の 人びとの話では、ベトナム政府の担当者が現地を訪れたこともあり、洪水の状況は把握してい るはずだということで、この問題への早急な対応が強く求められている。 3SPN のコーディネーターは、この洪水問題の根本的な原因が、ダムの計画時に行われるこ とになっている EIA がきちんと実施されず、またその内容について、下流のカンボジア側に 住む人びとに対して何も説明がなかったことにあると指摘している。そして現在、セ・サン川 およびスレポック川の双方において、今度はカンボジア側に新たにダムを建設することが計画 されている。しかしながら、これまでと同様に、その内容や影響についての説明は、どこから もまったくなされていない。 4. ラタナキリ州の洪水における課題 以上に述べてきた洪水問題の根本的な原因は、既述の SEA の問題と同様に、ガバナンスの 欠如である。具体的には、セサン・スレポック両河川におけるダム開発によって何らかの環境 影響が下流に起こることは容易に想定できたにもかかわらず、カンボジア側の流域住民に対し て何らの通告も行われなかったことについて、流域を管理するベトナム政府や MRC は説明責 任を果たしているとは言い難い。また EIA そのものが適切に実施されなかったことも問題で あるが、その評価結果が国境を越えたカンボジア側を含めたすべての影響を被りうる人びとに 公表されなかったことは透明性を欠いている。さらに住民のコメントにもあったように、住民 に対しては被害に対する補償がない一方で、ダム開発の恩恵は都市の住民(電力)や農家(灌 漑)など異なる人びとによって享受されており、不公平であると言わざるを得ない。したがっ て、メコン河流域における水資源管理は、支流レベルにおいてもそのガバナンスを欠いている と言えよう。
Ⅳ.メコン河流域におけるガバナンスの課題─ 2 つの事例からの示唆
1. 2 つの事例の示唆 ここまで、メコン河本流におけるダム開発の SEA における問題と支流におけるダム開発に よる越境洪水問題について考察し、両者に共通する根本的な問題としてガバナンスに課題を抱 えていることを明らかにしてきた。具体的には透明性や市民の参加の欠如、果たされない説明 責任や不公平性などがその原因であると指摘してきた。 この 2 つの事例の関係を考えたときに看過してはならないのは、メコン河本流も、セ・サン 川やスレポック川といった支流も、どちらもひとつの流域界に包含されるという点である。そ のように考えたとき、複数の国家を跨る当該流域界の管理主体となるべきは MRC である。そ して MRC もまたそれを認識しているはずである。なぜなら MRC は、図 8 に示すとおり、メ コン河流域管理の基本的なフレームワークとして統合的水資源管理(Integrated Water Resources Management、以下 IWRM)を指向している。IWRM とは、水そのものだけでな く、その多面的な価値を尊重して、社会・文化・経済・環境などの多様な視点を統合した管理 を目指すべきだとする考え方である9)。IWRM の考え方に則れば、水資源管理は流域単位で 行われるべきだとされている(濱崎、2009)。それゆえ MRC も、メコン河流域を支流も含め た ひ と つ の 流 域 と し て 管 理 す る こ と を 目 指 し て お り、 ゆ え に 流 域 開 発 計 画(Basin Development Plan、以下 BDP)と称する流域大での発展戦略を練ってきた。 しかしながら、既に見てきたように、MRC は本流だけでなく支流についても適切な管理を 行うことができていない。つまり、実態としてガバナンスの点で問題を抱えている現在の状態 では、MRC は本流と支流を合わせた統合的なメコン河流域管理を実現することができていな いと言える。 2. ガバナンスの諸課題と今後の展望 以上見てきたように、メコン河流域における水資源管理の問題は、未成熟なガバナンスがそ の根本的な原因であることを論じてきた。IWRM においても、水資源管理の向上・改善には よいガバナンス(good governance)が求められると指摘されている(Varis, 2000)。これま での研究で、水資源管理のガバナンスは「地域社会のボトムアップ的・自治的な視点から、 各々の多様性と長所を活かして、生活と環境の多面的な関係や課題を粘り強く調整しながら、 長い目でみた持続的な流域社会をつくっていく試み」(谷内、2009: 6)と主張されているよう に、生活と環境の多面性を考慮しながら、ボトムアップの視点から課題に対して粘り強い調整 が求められる。また、GWP(2000)も指摘するように「すべての人が十分な量の安全な水に、 適正な価格でアクセスでき、清潔で、健康的、生産的な生活を送ることができ、なおかつ環境 が保護され維持される状態」がよいガバナンスとして求められる。つまり、すべての人にとっ て望ましい水との関わりを実現するには、その制度・政策設計にあたって、地域住民との信頼 醸成と相互理解が求められるということであり、そのためには、既に述べたように行政が適正に情報を開示して透明性を担保し、説明責任を果たすことが必要不可欠であると言えるのであ る。 以上のような「望ましい水資源管理のガバナンス」の考え方に沿って、そのガバナンスに関 する諸課題とその改善に向けた方策について述べ、今後の展望を示したい。 (1)透明性の確保と説明責任 既に述べたように、メコン河流域におけるダム開発では、その計画段階において SEA や EIA が組み込まれているにもかかわらず、それらが的確に機能してこなかった。その原因と して、環境への負荷についての評価結果にもとづいて計画を再度見直すフィードバック・プロ セスがないことは既に指摘したとおりである。それに加えて、評価結果が適切に情報開示され ているか、とりわけ開発によって影響を受ける可能性の高いステークホルダーに対して必要な 情報が適正に開示されているかを監視・チェックする機能や第三者機関が存在しなかった。 ガバナンスの改善に向けては、これまでも指摘してきたように、高い透明性と説明責任が担 保される必要がある。原則に則ってフィードバック・プロセスを組み込む SEA の再設計や、 情報開示と説明責任のチェックを行う第三者機関の設置が求められるといえるだろう。 (2)越境環境負荷への対応 2 つめの事例として述べたメコン河支流における洪水のケースでは、既に指摘したように、 図 8 IWRM を基本とした MRC の水資源管理コンセプト source: MRC (2006: vii)
開発の当事者であるベトナム政府によるダム開発に関する情報の開示や説明責任が求められる ことは、ガバナンス改善の観点から言うまでもない。他方で、現在の主権国家というシステム に鑑みれば、ベトナム政府がカンボジア側で起こっている洪水問題に対して、カンボジア政府 との協議もなく一方的に対応することはある意味で内政干渉であるとも言える。このような国 境を越えて生じる問題に対しては、一般的には政府間機関が解決や関係改善に向けて一定の役 割を果たすことが望まれる。このような現状は、現在のメコン河流域管理において、それが国 際河川であるにもかかわらず、国境を越える環境影響やそれに起因する国家間あるいは地域間 の対立・紛争に対応する機関や当事者が協議する機会、調停に導く仕組みなどが皆無であるこ とを示唆している。 既に述べたように、ラタナキリでの洪水問題が発覚した当初、MRC はこれに対応しようと しなかった。なぜならこれはベトナム・カンボジアの二国間における問題であるため、MRC が内政に干渉することを避けようとしたからである。また、MRC は実質的にはメコン河流域 の開発を進める政府間機関であり、事例のような加盟国間における対立や紛争を調停する機能 を持ち合わせていない。 この点については、最初に考察した本流におけるダム開発においても同様のことが言える。 今後、計画されている 12 のダムが次々に建設され、稼働することになれば、SEA の最終報告 書で指摘されたような影響が顕在化し、流域内における国家間・地域間での対立が生じるおそ れがある。それゆえに、MRC は開発を推進するばかりでなく、将来予想される加盟国間の対 立に対応できるよう、紛争を調停するための一定の機能を有することが求められる。
Ⅴ.おわりに
ADB の予測では、メコン河流域諸国の経済発展は今後も堅調に続くと見込まれている。そ してこの地域の経済成長は、予測通り力強く進んでいくだろう。実際、メコン河流域諸国は 2009 年に起こったリーマン・ショックによる経済危機の影響もそれほど受けなかった。その 背景にはこの地域の国民性や勤勉さがあるとも言われている。 しかしながら、現在のガバナンスの状況は、今後のさらなる開発、そして MRC がそのビ ジョンに掲げる持続可能な発展の実現における大きな制約要因になるのは明白である。ガバナ ンスに問題を抱えたまま経済発展に突き進んだ以前の日本は水俣病などの公害病を経験し、今 日中国は深刻な大気汚染などの環境問題に直面している。このような環境問題を回避して持続 可能な発展を実現するためにも、本論文で論じてきたガバナンスの改善は喫緊の課題であると 言える。注
1 )International Rivers (2010) および米国上院外交委員会議事録(available from <http://foreign.senate. gov/hearings/hearing/?id=4c2fd291-5056-a032-52fd-414f26c49704>, accessed 2010-9-24)による。 2 )世界銀行ホームページ(http://info.worldbank.org/governance/wgi/index.aspx#home、最終アクセ
ス 2013 年 11 月 21 日)を参照。
3 )筆者が 2009 年に行った 3S Rivers Protection Network のコーディネーターに対するヒアリングに基 づく。
4 )本節および次節の内容については、本文中に引用や注釈を付している箇所を除いて、筆者が現地 NGO(3SPN: 3S Rivers Protection Network)のコーディネーターに対して 2009 年に行ったヒアリン グ調査に基づくものである。
5 )比較の参考として、中央政府の官庁に勤務する国家公務員の月給は、インタビュー調査を行った 2009 年当時でおよそ 60 ドルであった。
6 )1996 年以降の家畜の損失は、40,000 頭以上にのぼると推測されている(Bruch et al., 2007: 398)。 7 )メコン河流域および欧米の NGO が ‘Save the Mekong’ と称する連合体を結成し、23,110 名の署名を
集めて、カンボジア・タイ・ベトナム・ラオス各国の首脳に宛てた請願書を、2009 年 10 月に提出して いる。請願書(日本語版)については、メコンウォッチ・ウェブサイト、<http://www.mekongwatch. org/PDF/Letter%20to%20the%20Prime%20Ministers_Japanese.pdf>、(accessed 2011-2-17)を参照。 8 )セ・サン川およびスレポック川におけるベトナム側におけるダム開発について、メコンウォッチ (2007)によれば、これまでダムの被害に対して何らの補償も行われていないが、今後計画されている ダム計画については、2007 年 1 月 12 日に、カンボジアおよびベトナムの国内メコン委員会による住民 を対象とした公聴会が開催されるなど、事前の説明が行われるようになった。 9 )IWRM に関する詳細は GWP(2000)や濱崎(2009)などを参照されたい。 参考文献
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