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〈論文〉チャロナラン劇の解釈における不明瞭さについて--バリ島の人類学、植民地主義、そして文化観光

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(1)磯. チャ口ナラン劇の解釈における不明瞭さについて. 由. 幸. チャロナラン劇の解釈における不明瞭さについて ーパリ島の人類学、植民地主義、 そ し て 文 化 観 光 │. 、 , こ. 11. は、沿岸部のヌサドゥアなら、高級感溢れるリゾートホテル. 頭 に は バ リ 島 旅 行 の パ ン フ レ ッ ト が 必 ず 並 ん で い る 。 そこに. 観光ガイドブックは多数出版されているし、旅行代理屈の庖. 地としてその知名度はきわめて高い 。事 実 、 パ リ 島 に 関 す る. て知られ、日本でも手軽に旅行できる東南アジアのリゾート. インドネシアのパリ島は世界有数のリゾート地の一つとし. 呼称である 。 こ の キ ャ ッ チ フ レ ー ズ が 継 続 的 に 使 用 さ れ 続 け. 島観光の語り口に欠かせないのは﹁神々と芸能の島﹂という. の観光スタイルは長きにわたって変遷を続けてきたが、パリ. 光設定が主流となっている 。 日本での場合に限らず、パリ島. した噌好を満足させるために、上述のように多彩で優雅な観. 光スタイルが主流を占めていた 。 現在では、観光客の多様化. パリ島の場合、﹁文化観光﹂とは主として、この島に﹁園. ているのは、パリ島の観光スタイルがいかに変化しようと. ロンで癒し、美しいライステラスを眺めながらエキゾティ ッ. 有で独自な文化であるとイメージされている信仰や芸能﹂を. に宿泊し、プライベート・ピ l チ で 南 洋 の 熱 帯 を 体 験 で き る. クな料理を味わうことができるなどと、バリ島の観光につい. 体 験 さ せ よ う と す る 観 光 ス タ イ ル の こ と を 指 す 。今日でも、. も、常に﹁文化観光﹂が通底しているからである 。. ての魅惑的なイメージがカラフルな写真とともに紹介されて. パリ島観光の呼び物のひとつとして、あるいは﹁パリ島のパ. 年 代 の 始 め 頃 で 、 当 時 は 、 安 価 な ロ ス メ ン や コ テ lジに宿泊. 日 本 で バ リ 島 観 光 が 注 目 さ れ る よ う に な っ た の は 一 九 八0. れた演劇的ダンスがホテルのステージや観光客向けの劇場で. リ島らしさ﹂を体感できるものとして、観光用にアレンジさ. 、、、、、、、、、. いる 。. し、内陸部のウブドでなら、精神と身体をエステティックサ. して、 エキゾティ ックな異文 化 体 験 を す る と い っ た 類 い の 観. 磯. 円台 U. 可 -.

(2) 文化/第 25巷第 1号 / 2013 9 芸術. 文学. ンダによる植民地時代に遡るとされている 。 つまり、パリ島. 立され、観光スタイルの根幹を担うようになったのは、 オラ. した芸能が宗教的コンテキストを離れ、﹁見世物﹂として確. な伝統性﹂を帯びさせているのだ 。 しかし、ダンスを中心と. た宗教的な背景との密接な結びつきが﹁見世物﹂に﹁文化的. での祝祭で、宗教儀礼の主要な一部として行われる 。そうし. 実際に、演劇的ダンスは、観光とは無関係のローカルな村落. 寺院祝祭で演じられるもので、宗教的な背景を持っている 。. 説されている﹂ことだが、本来ならこうした演劇的ダンスは. 演じられ、観光客を魅了し続けている 。そこでも﹁真撃に解. る。 つまり、宗教と演劇的ダンス(ガムラン音楽も含めて). 策としての﹁文化観光﹂の影響がきわめて大きいとされてい. な要素のひとつとして言及されるようになったのは、文化政. がパリ島の文化的な特異性(バリーヒンドゥ l) を示す重要. わけではない 。 パリ島の場合、スペクタクルな演劇的ダンス. に結びつくという様式は、なにもパ リ島に固有のものである. 礼とダンスがドラマ(演劇的形式)という形式において密接. 聞の聖なる演技を前提とする﹂. 神の運動は人聞を動かすのであって、ドラマは神と人間との. 芸術の関係性についての論考で﹁舞踏は神の運動を反映し、. 当然のことだが、たとえばファン・デル・レ lウが宗教と. 、 、 、 、. (1) と述べたように、宗教儀. の文化観光は、今日でもなお、オランダの植民地政策との連. の組合せは、パリ島の外部に向けて﹁パリ島をパリ島化す. る﹂ための、いわば植民地主義的な観光の表象作用と密接に. 続性を保っているのである 。 近年、観光人類学やポストコロニアル批判の人類学は、パ. 絡み合うことで、逆説的に﹁パリ島の文化﹂として特異化さ. パリ島のダンスといっても多様な種類のダンスがあるが、. リ島の﹁文化観光﹂を、オランダの植民地行政からその後の. 化されたイメージとして生成されるプロセスであり、その再. 文化観光との関わりでいえば、最も知名度が高く、パリ島の. れてきたのである 。 バリ島を﹁神々と芸能の島﹂と呼称する. 生産のメカニズムである 。 そして、そのイメージは、﹁パリ. 演劇的ダンスはおろか、バリ島の文化や宗教をも表象してい. 国民国家へと続く文化政策と関連守つけて、系譜学 的に分析し. ヒンドゥ l﹂と称される宗教システムとダンスを中心にし. るとさえ考えられているのは、﹁チャロナラン劇﹂ であろ. ことには、こうした歴史的な背景があるのだ 。. た芸能との組合せとして結晶化されてきたのだ、と指摘され. う。そこに登場する﹁聖獣バロン﹂と﹁魔女ランダ﹂という. ている 。 そこで主題化されるのは、﹁パリ島の文化﹂が特異. ている 。. 3 2.

(3) チャロナラン劇の解釈における不明瞭さについて 磯. てアレンジされた観光用パフォーマンスの一部としても、パ. 有名なキャラクターは、﹁バロン・ダンス (バロン劇)﹂とし. ンテキストを追いつつ、解釈が不明確なままであることの経. が論じられている代表的な論考とそれらが配置されているコ. バリ島のダンスは、. う性質上、精巧さが重要視されている 。. ジエロ. (3)0. 構成しているとされていて、その技量は、供物であるとい. ズ・身振り・移行動作は、バリ島のダンスの基本的な表現を. の供物と考えられている 。 この部類のダンスに特有のポー. 所であるが、 ルジャンやパリスは、そうした神々や精霊へ. 聖物 ( プラティマ)が収められた嗣が設置されている至聖. アンは寺院祝祭(オダラン)の際に神々や精霊が降臨する. くはそこから演じ始められることなっている. ダンスは、寺院の内庭(ジエロアン) で演じられる、もし. (男性による戦士のダンス)がある 。﹁ワリ﹂に分類される. えばルジャン (女性や少女による奉納ダンス) やパリス. 最も神聖な﹁ワリ﹂に分類されるダンスとしては、たと. の)﹂の三種に分類されている 。. ﹁ワリ(神聖な)﹂﹁ブパリ(儀式的な)﹂﹁バリーバリアン(世俗. 一般的には、神聖さの度合いによって. スペクティブを示唆したい 。. 緯を明らかにし、﹁チャロナラン劇﹂について再考するパ l. しかしながら、その﹁チャロナラン劇﹂にしろ、バ. (2 )O. ンフレットの写真や紹介映像でも頻繁に取りあげられてい る ロンやランダといったキャラクターにしろ、数多くの学術的 研究で論じられてきたにもかかわらず、その解釈については 不明確なままである 。. 2 魔女ランダ. 本稿では、﹁チャロナラン劇﹂とバロンやランダについて の決定的な解釈が提示されるわけではない 。 しかし、それら. 聖獣バロン. 丹、u. qtu.

(4) 文化/第 25巻第 1号 / 2013 9 学 文. 芸術. 世紀頃とされている)。 こうしたダンスではダンサーにトラン. したダンスである(パリ島にヒンドゥーが導入されたのは十四. 行われていて、ヒンドゥ lが導入される以前の様式を色濃く残. ンスは、 ヒンドゥ l の影響が抑制された地域(パリ・アガ)で. ンス自体が宗教儀礼であるものも含まれている. こうしたダ. また、﹁ワリ﹂には、サンギャンやブルトゥクといった、ダ. としてダンスの技量の高さや表現の洗練さが重視されている 。. れているため、神々への供物という意味合いではなく、芸術性. ンメントを目指して創作されたダンスもある 。鑑賞が目的とさ. しく登場したクピャ lル様式のように、最初からエンターテイ. あったものから派生したダンスもあれば、 二O世紀になって新. 練性が融合したレゴンのように、本来は宗教的コンテキストに. (サンギヤン・ドゥダリ) の患依動作と宮廷舞踏劇ガンブの洗. ブーやパリ島の王朝史をモチーフとした仮面舞踏劇トペンなど. ドゥ 1 ・ジャワ王朝の宮廷舞踊を発展させた古典舞踊劇ガン. ダンスとされている。 たとえば、バリ島に伝わったヒン. いて、降臨してきた神々や精霊(先祖の霊)を歓待するための. 要性は低い 。しかし、寺院祝祭を構成する必須の要素とされて. 劇で、﹁ワリ﹂に分類されるダンスと比較すれば、宗教的な重. ﹁ブバリ﹂に分類されるのは、寺院の外庭で行われるダンス. うという意図が働いていたのである 。それゆえ、こうしたダン. 業化するのを制限することで、パリの伝統的な文化を保護しよ. なものに類別し、宗教的な意味合いの深いダンスが娯楽化・商. 聖さによって分類することには、ダンスを聖なるものと世俗的. キーワードにして、観光の制限を画策していた. に関する行政機関は、伝統文化に対する﹁脅威﹂と﹁保存﹂を. リ島の文化に及ぼす影響についての議論が高まり、観光や文化. 年代になってからのことである 。当時、観光(文化観光)がパ. (4)0. スが生じ、そのことで神聖なる存在(精霊や悪霊)の窓依が確. がある 。ダンサーは、与えられた役割を適切な身振りと台詞で. スの分類は、近年になってからの観光政策の産物であって、バ. こうしたダンスの分類が確立したのは、実のところ一九七O. 演じることが求められていて、高度な表現能力のみならず、背. リ島のダンスを論じるにあたってはさしたる重要性があるわけ. 認されることが特徴とされている 。. 景となる物語に対する深い理解が必要とされている 。本稿の主. ではない 。. ﹁バリバリアン﹂には、宗教的意味合いは薄く、鑑賞を目. けの暖昧きである 。チャロナラン劇は、寺院祝祭(﹁死の寺院﹂. しかし、この分類で興味深いのは、チャロナラン劇の位置づ. (5)O. ダンスを神. 題であるチャロナラン劇も、﹁ブバリ﹂に分類されている 。 的とした娯楽性に富んだダンスが分類されている 。サンギャン. -34-.

(5) 磯. チャ口ナラン劇の解釈における不明瞭さについて. て分類されているが、舞踏劇として演じられているような現在. じられることになっている仮面舞踏劇であり、﹁ブパリ﹂とし. とされるプラ・ダレムで二 一O日毎に催されるオダラン)で演. テルの特設ステージで今日も踊り続けているのだ 。. ランダは観光用の﹁バロン劇﹂の登場キャラクターとして、ホ. 境﹂を阻止すべく分類が提示されたにもかかわらず、バロンと. というわけである 。事実、聖と俗の区分からの ﹁逸脱﹂や﹁越. こうした分類上の暖昧さは、チャロナラン劇それ自体に特質. の構成が完成されたのは 一八九O年頃(ギニャア lル州パトブ ラン地区)とされており、同じく﹁ブバリ﹂に分類されている. 的な固有の何かがあるから、だろうか 。実際のところ、チャロナ. 味では、 ルジャンやパリスと大きな違いがあるわけではないだ. ガンブーやトペンとは比較すれば、かなり新しい創作であると. また、チャロナラン劇は、演じること自体が﹁亜必魔放い ﹂と. ろう。また、ガンブーやト ペンといった 他の舞踏劇と比較して. ラン劇には、他のダンスに見られない特別な舞踏動作があるわ. して考えられている点、そして、必ずしもということではない. も、きわめて特殊な物語を背景にしているわけではない 。背景. い う こ と に な る 。 むしろ、近年の創作という点からすれば、. が、その最後にダンサ ーがトランスに陥るという点からすれ. となっている物語の根幹は、パンジ物語や他の古典期ジャワの. けではないし、 ヒンドゥ l ・ジャワを源泉としているという意. ば、神々を歓待することを目的とした﹁ブバリ﹂のダンスとし. 説話と同様、一般のパリ島人にも広く知られているもので、. ﹁パリーバリアン﹂に分類されてもおかしくない 。. てよりも、それ自体が宗教儀礼として行われている様相が強. ジャワの擬似歴史的な物語を下敷きにした、未亡人の女王チャ. ロナランと隣国の王エルランガとの呪術的な戦いである 。その. く、﹁ワリ﹂に類別されるサンギャンとかなり類似している 。 さらに、チャロナラン劇、およびその主要な登場キャラク. ほどまでに、重要視されてきた 。 つまり、人類学や民族誌学に. ず、観光レベルにおいても、パリ島のダンスや文化を表象する. 仮面を被つての演技になる)は、学術研究においてのみなら. たチャロナランは、女神ドゥルガに供物をし、呪術を行使し. あえてその娘を要ろうとする者はいなかった 。そのことに怒っ. いたが、チャロナランの強力な呪術は広く知られていたので、. ディラ国の女王チャロナラン (未亡人)には美貌の 一人娘が. 概要を述べればこうである 。. よってバリ島の伝統的な宗教文化の中心的表象として﹁刻印さ. て、疫病を流行らせ、人々の聞に不信を蔓延させた 。隣国ダハ. ターである聖獣バロンと魔女ランダ(ともに神聖視されている. れた﹂聖なるダンスが、世俗的な観光レベルでも流通している. J 円. Fhu.

(6) 文化/第 25巻第 l号 / 2013 9 学 文. 芸術. いくのを嘆いたエルランガは、祭司の助言で聖人パラダに援助. 荒廃し、人々がチャロナランの手下レヤクたちの餌食になって. によって無残にも焼き尽くされてしまった 。すべての街や村が. 魔女ランダに、聖人パラダは聖獣バロンに姿を変えて、呪術的. あるが、舞踏劇としてのチャロナラン劇では、チャロナランは. じられるチャロナラン劇でも用いられる物語の筋立ての概要で. ここに示したのは、影絵人形芝居(ワヤン・クリ)として演. 入れ、和平を結んだ後、聖人に感謝して、天国への道を示して. を求めた 。聖人は息子をチャロナランの娘のもとに送り、チャ. な対決を行うことになる 。舞踏劇として演じられる場合は、村. の王エルランガは自国の荒廃の原因がチャロナランにあると知. ロナランの呪術力の源泉となっている古い書物(ロンタ 1 ル). 落ごとに構成や物語は微妙に異なり、実に様々なパリエ lショ. もらったのである 。. を 盗 み 出 す。 チ ャ ロ ナ ラ ン は こ の 書 物 の 内 容 を 左 右 逆 転 さ せ. ンがある 。たとえば、チャロナランと呪術的に戦うのが王エル. るや、多くの兵士を差し向けたが、チャロナランの呪術的な炎. て、邪悪な方向に呪術を行使していたのである 。. 一不すように懇願する 。聖人は、チャロナランの罪の重さは死に. の登場人物によるダンスの流用もあれば、 レゴンが組み込まれ. 家臣たちによる様々なエピソードも存在する 。 パリスやトペン. ランガ自身や宰相であるバージョンもあるし、先述の概要では. よってしか購えないと告げる 。 それに怒ったチャロナランは、. ることもある 。村落の規模(実質的には、寺院の信徒集団の規. チャロナランは、女神ドゥルガに供物を捧げている際に、聖. 聖人に呪術で対決を挑む 。 チャロナランは炎でパンヤンツリー. 模)が大きい場合には、数多くのエピソードやダンスを組み合. 言及しなかったが、チャロナランの手下たちゃエルランガ王の. を焼き尽して、自らの呪術力を誇示する 。すると、聖人はチャ. わせて、長時間にわたって、多人数の演者を動員して演じられ. 人がやって来たことを手下から告げられるや、聖人に善き道を. ロナランにその木を再生させるよう求める 。 チャロナランは試. るが、規模が小さい場合は、任意のエピソードやダンスの抜粋. ﹁チャロナラン劇﹂と銘打ってある場合、基本的にはバロン. みるが、木が匙ることはなかった 。 しかし、聖人がマントラを を聖人に放つが、聖人は無傷のままだった 。今度は、聖人が呪. とランダの対決がクライマックスを構成する 。 ランダに立ち向. という構成で演じられる 。. 文を唱えて、チャロナランを倒す。 しかし、聖人は、チャロナ. かった兵士たちがトランス状態になり、短剣(クリス)を自分. 唱えると、木はすぐさま匙った 。 チャロナランは、呪術的な炎. ランを再び魁らせて、赦しを与えた 。 チャロナランは死を受け. 36-.

(7) の胸に向けて突き立てるシ l ン(この部分は﹁クリス・ダンス﹂. が、なぜバリ島の文化や宗教を表象する演劇的ダンス、もしく. チャロナラン劇がバリ島のダンスにおいて特異性を持ち、文. は演劇的儀礼として論じられ、しかも文化観光の中核のひとつ. となる 。 しかし、バロンとランダの対決には、物語で語られて. 化観光において突出性を示しているのは、どうやらチャロナラ. と称される)が続き、祭司が聖水を撒いて、トランス状態で錯. いるような結末が明確に示されることはなく、唐突に終わ って. ン劇自体に固有の特質があるからではなくて、チャロナラン劇. になっているのだろ、っか 。. しまう。 クライマ ックスを除けば、チャロナラン劇は、その観. が特定のコンテキストに置かれることで、特定の分類にはおさ. 乱している者たちを鎮めることで、チャロナラン劇は終わるこ. 光向けバージョンである﹁バロン・ダンス﹂も含めて、今なお. まりきらない多面性を纏わされているからではないだろうか 。. たのかが問題となってくるのである 。次節以降では、チャロナ. 創作の進行形であると言えるほどに、その構成のヴアリアント. このように、チャロナラン劇は、バロンやランダという独自. ラン劇がバリ島の文化と密接に関連づけて論じられるように. つまり、チャロナラン劇がいかなるコンテキストで浮上してき. のキャラクターが登場すること、あるいは舞踏劇として演じら. なった流れを追いながら、この問題を考察してみたい 。. を様々に生み出し続けている 。. れる際に明確な結末を 一 不さないということなどでは、独自性を 示しているものの、背景となっている物語の出自にしろ、演劇. ヒンドゥ I ーバリ的なルジャンやパリスではなく、 アルカイツ. 持っているとさえ言える 。 では、﹁ワリ一に属する、 いかにも. ていくプロセスと濃密な関係を取り結んだのは、. が、バリ島の文化観光が主として芸能を中心にして洗練され. 学的な研究において極めて重要な表象となっていくプロセス. 構成にしろ、チャロナラン劇に顕著な特性があるわけではな. クなサンギャンでもなく、あるいは古典期ジャワの正統な遺産. 代 の こ と で あ っ た 。前 者 の プ ロ セ ス の 中 心 が 、 人 類 学 者 の グ. チャロナラン劇がパリ島の文化についての人類学・民族誌. 的継承ともいえるガンブーやトペンでもなくて、 いわばオ l ソ. レゴリ l ・ベイトソンとマーガレ ット・ミ lドであるならば、. い。むしろ、従来のダンスや舞踏劇のハイブリ ッド的な構成を. ド ックスな原型すらも存在せず、後年の創作であるチャロナラ. 後 者 の プ ロ セ ス の 中 心 に い た の は 、 ヴ ァ ル タ l ・シュピ l ス. 一九三O年. ン劇が、そしてその登場キャラクターであるバロンやランダ. 3. 磯. チャロナラン劇の解釈における不明瞭さについて. u. 門 i. 、 円.

(8) 学 文. 文化/第 25巻第 1号 / 2013 9 芸術. 島へ移住し、後にバリ島の若者たちとともに興した﹁パリ・. である 。 モスクワ生まれのドイツ人画家シュピ l スは、 機のひとつとなったのである 。. 文化の中心的な表象物に仕立て上げてられていく中心的な契. 島の文化を研究したことこそは、 チャロナラン劇がパリ島の. ヴァルター・シュピース. ( 6 ). 一九 二 七 年 に は 移 住 し て し ま う 。彼は、その﹁魔術. する﹁想い﹂はそれだけにとどまらなかった。シュピ l ス. 的で神秘的な絵画作品を数多く制作したが、彼のバリ島に対. 的リアリズム﹂と称される手法で、バリ島を主題とした幻想. 決意し、. パリ島に魅せられたシュピ l ス は こ の 島 へ 永 住 す る こ と を. と書簡にしたためている 。. 景、あらゆるものにとてつもなく魅力を感じています﹂. であった 。 シュピ l スはこのことを﹁パリの人々の性質に風. 芸術的な才能を聖化して、自由に発露させているという情景. 常的な生活行為と芸術と宗教とを美しく調和させ、溢れ出る. り、この島の人々が独自な熱帯のランドスケ lプのなかで日. じ 取 っ た 可 能 性 を 顕 在 化 さ せ る よ う な 光 景 で あ っ た 。 つま. 想 起 さ せ る も の で あ り 、 ア ン リ ・ ル ソ l の絵画の﹁先に﹂感. で経験したタタ l ルやパスキュールのプリミティブな生活を. それは、彼がかつて第一次世界大戦中にウラルでの抑留生活. つの理想的な﹁場﹂が生きて展開されていることを見出す 。. を経由してバリ島へやって来たシュピ l スは、この島にひと. ヨーロ ッパでその才能を酷使させることに疲弊し、ジャワ. ルネサンス﹂と称される芸術運動の中心人物でもあった 。 そ して、その彼の影響下のもとで、ベイトソンとミ lドがバリ. 「 風景とその子供たち J( 1 9 3 9年). qJ. o o.

(9) チャロナラン劇の解釈における不明瞭さに ついて 磯. や 音 楽 、 宗 教 儀 礼 を さ か ん に 調 べ た 。も ち ろ ん 、 そ れ に は. 的な絵画や彫刻といった造形芸術はもちろんのこと、ダンス. バリ島の民族誌はないであろうと思われる ﹃ パ リ島﹄、そし. レ1タ!のミゲル・コ パルピアスに よる、これ以 上の詳細な. 島の ト ラ ン ス さらには民族音楽研究者コリン・マク 、 ﹄ フィ lの ﹁ 熱帯の旅人﹂、民族誌家ではないが、イラスト. は、バリ島のあらゆる芸術を調査し、克明に記録する 。伝統. チャロナラン劇も含まれている 。 こうした演劇的な宗教儀礼. てシュピ l ス自身とベルリ・ド・ズ l テの共著﹃パリ島の舞. これらの作品の著者たちは﹁シュピ l スとの密接な関係の. はダンスと音楽を中心にした、いわば総合芸術であり、ダン 当然のことながら、そうしたものに強い関心を示した 。 こう. なかで﹂パリ島の調査を行ったわけだが、それは﹁シュピ l. 踏と演劇﹄などである 。. した調査記録は後に﹃パリ島の舞踏と演劇﹂として結実する. ス﹂という一つの﹁フィルター﹂を通してのパリ島経験で. スや音楽にも人並み外れた才能を持っていたシュピ l スは、. ことになる 。 こうして、シュピ l スは精力的にパリ島の人々. あった 。 しかし、 それは一九三 0年 代 当 時 の パ リ 島 を 経 験. 、 、 、. パリ島と親密に交わり、シ ユピ l ス以 上にバリ島を知ってい. し、調査するには最適な方法でもあった 。 シュピ l ス以上に. の中に﹁入り﹂、そして彼らとともに﹁バリの芸術﹂を創造 していくことになる 。 一九三0年代、 パリ島の調査研究を行ったのは、シュピー. な著作物となり、バリ島についての﹁古典的﹂研究として、. を 数 多 く 出 版 す る と に な っ た 。 そのほとんどが彼らの代表的. 中的に調査し、それをもとにして、パリ島を主題にした著作. リ島の調査を行 っている 。彼らは相互に関係し合いながら集. スのもとに集まり、シュピ I スとの密接な関係のなかで、パ. れた著作を世に送り出すことになる研究者たちも、シュピー. なかった 。 つまり、ダンスにしろ、音楽にしろ、それらはす. 始される 。そもそも、パリ島には﹁芸術﹂に相当する概念が. 加速され、﹁パリ島の芸術的な世界﹂の再創造が本格的に開. や、シュピ l スとこの島のあらゆるものとの交わりはさらに. ヌン・ルパ寺院近辺の﹁チャンプアン﹂に新居を建設する. 家の王宮近くに居を構えていたが、渓谷の底に建立されたグ. シュピ l スは、移住当初には、後援者でもあるウブドの王. た西洋人は他にいなかったからである 。. 今なお強い影響力を持ち続けている 。たとえば、ベイトソン. べて宗教的な儀礼の一部であり、独自の﹁作品﹂とはみなさ. スだけではない 。今日では﹁古典的﹂研究と称されている優. パ リ島人の性格﹄、ジェ i ン・ベロ l の とミ 1ドの ﹃. U. 可 ハ円︿U.

(10) 文化/第 25巷第 l号 / 2013 9 学 文. 芸術. ﹁チャンプアン﹂とはパリ語で﹁二つの川が交差するとこ. を、この島の﹁内部から﹂創造することになったのである 。. て 、 いわば﹁シュピ l スのパリ島﹂とでも言うべきイメージ. の過程で彼自身がまさしく﹁バリ島の内部の人間﹂となっ. ンスパイアを与え、﹁再創造﹂に深く関与したのである。そ. ではなく、それらを﹁芸術作品﹂として洗練させるためのイ. 類のダンスや音楽を綿密に調査したり、記録したりするだけ. れていなかったのである 。 シュピ l スは、 パリ島の様々な種. 者﹂であったとすれば、 バリ島が﹁外部﹂に聞く拡散点でも. 約点であり、彼がこの島を訪れた者たちを案内する﹁媒介. 界﹂の再創造の中心にいたとすれば、パリ島の﹁内部﹂の集. ン﹂のアトリエこそは、シュピ 1 スがバリ島の﹁芸術の世. 世界に拡散させていくことになった 。 つまり、﹁チャンプア. とに数多くの作品が生み出され、﹁シュピ 1 スのパリ島﹂を. はシュピ I スのアテンドによってこの島を経験し、それをも. トリエに集まり、シュピ I スは彼らを温かく歓待した 。彼ら. た、ベイトソンとミ lド、ジェ l ン・ベローなどの人類学者. する﹁パリ島芸術のアトリエ﹂となっていったのである 。ま. の中心となり、新しい表現を実験的に試みたり、討議したり. のアトリエは、 パリ島の芸術のあらゆる分野のネットワーク. ﹁交わり﹂は質的にもますます深まっていった 。 シュピ l ス. たむろするようになり、彼らとの交流を通じて、バリ島との. の使い手﹂といった芸術家たち、あるいは博学な祭司たちが. トリエにはバリ島の﹁絵描き﹂、﹁彫り師﹂、﹁踊り手﹂、﹁楽器. 島とその外側の世界とを結びつける場所でもあった 。彼のア. く彼自身とパリ島とを交錯させる場所であると同時に、パリ. 後に出版され、シュピ l ス、ミ lド、ベイトソンらの論考が. ﹃パリ島の伝統的文化﹄(この美しい装丁の書物はベロ l の死. 流れている 。先述した著作群に加えて、ベロ l の編集による. 社会的・文化的な描写や論考には、﹁調和性﹂が背景として. トソンとミ Iドの ﹃パリ島人の性格﹄がそうであるように、. 伴った儀礼を重点的に扱っている割合が少なくないし、ベイ. 著作のタイトルにも表れているように、演劇的なダンスを. 術的側面を強調する傾向が強く、たとえばシュピ l ス自身の. の関心が強く反映されることになった 。 つまり、 バリ島の芸. ちが生み出した著作物には、当然のことながら、シュピ l ス. それゆえ、シュピ 1 スの媒介でパリ島を調査研究した者た. あったのである 。. 以外にも、音楽研究者、作家、それに映画監督なども含め、. 収められている)、ミ lドとフランシス・クック・マックグ. ろ﹂という意味であるが、シユ。ヒ 1 スのアトリエは、まさし. パリ島を訪れた様々な西欧人たちが次々とチャンプアンのア. -40.

(11) レガーによる﹃成長と文化﹄、それにシュピ l スやミ lドの そもそも、. 一九三0年代の研究者たちは、それぞれの関心. おける精神障害の研究の計画﹂などというタイトルをつけた. から研究を行おうとしていたわけで、バリ島の芸術的な側面. 実のところ、こうした作品群がシュピ l スの影響のもとで. 申請書もあるが、要はパリ島の人々の性格が発達する過程を. ムがバリ島の王朝の悲劇的な最期を題材にして描いた﹃パリ. ﹁一九三0年 代 の バ リ 島 ﹂を 詳 細 に 描 写 し た こ と こ そ バ バ リ. 検証しようとする目的があったのであり、パリ島の人々に見. に の み 関 心 が あ っ た わ け で は な い 。 たとえば、ミ lドの場. 島が ﹁ 神 々 と 芸 能 の 島 ﹂ な ど と し て イ メ ージ さ れ る よ う に. られる幾つかの行動パターンに注音却を払う ようにとの師フラ. 島物語﹄などを組み合わせれば、一九三 0年代のパリ島の文. なった決定的な要因となっている 。彼自身も一九六0年代に. ンツ・ボアズの指示もあって、とりわけ成人と幼い子供との. 合、バリ島への調査にあたって﹁制御された文化 的な設定に. バ リ 島 を 調 査 し 、 バ リ 島 研 究 に 決 定 的 な影響力を及ぼすこと. 相互作用の諸活動に注目していた 。. 彫刻、感嘆をさそうほどの姿態や言葉や動作の優雅さ、さら. 理 想 郷 と し て 、 つ ま り ﹁ダンス、音楽、仮面劇、影絵芝居、. て、パリ島をイメージしたが、そのことで、パ リ島は、美の. の発露を制限せず、内的性質が自由に表出される社会とし. 続写真から構成されている 。 ここに示されているのは、イラ. 版の 一つで、母親と幼い息子とやりとりを撮影した九枚の連. 親と幼児が恐怖を共有するという経験を取り扱った一連の図. である 。 これは、母子関係における恐怖の重要性、つまり母. 刺 激 と 欲 求 不 満 ﹂ と 題 さ れ た 図 版 四七 の 写 真 をもつのは、 ﹁. ﹁パリ島人の性格﹄では、ミ lド の 研 究 に 決 定 的 な 重 要 性. に儀礼、神話、建築物、礼儀作法などの息をのむほどの複雑. イラしている子供に母親が最初は刺激を与えるが、子供がそ. 供はさらなる刺激を求めると、母親はそれを見守るだけで反. さ﹂を生み出す、生活と芸術とが 一つに融合した、亘(に創造. (7)O. れに反応を示すと、今度はそれに母親が反応しなくなり、子. である. 的な民衆文化の存在する場所へと仕立て上げられていったの. アツは、皮肉まじりに、こう書いている 。 西 欧 は 、 美 的 衝 動. になった ﹃ヌガラ﹄ の著者である人類学者クリフォ ード・ギ. 化 的な状況をかなり精確に再現することができる 。. 書簡集、フィ ー ルドノ lト、さらには小説家ヴィキイ・パウ. 4. 応しないといったシ ークェンスである 。 ミ1ドによれば、子. -4 1-. 磯. チャ 口ナラン劇の解釈における不明瞭さについて.

(12) 文化/第 25巷第 1号 / 2013 9 芸術 文学. 母親と子供との間で感情のクライマックスが回避されている. 供の関心が高まると、母親が途中でそれを断ち切ることで、. の、その感情はクライマックスに達する前に必ず勢い. うのだが、子供の方は感情を高まらせて反応するもの. とい︾つ 。. バリ島では、母親が子供に刺激を与えつつも、途中で関係. ( 8 ). を そ が れ て し ま う。も う 少 し 大 き く な る と 子 供 は 自 分. から、からかい、刺激を与えながら、絶対にクライ. を切断してしまい、クライマックスを回避させるという経験. の 殻 の 中 に 引 き こ も り は じ め る 。﹂. マ ッ ク ス に 到 達 さ せ な い こ と が 型 と し て 一段 と 固 ま. を、幼少時から母子関係において積ませることで、人間関係. ﹁子供が大きくなり、生後一八ヶ月を過ぎた頃くらい. り、強烈さを増していく。:::母親、そして叔母、妹、. で生じる感情の高まりをシステムとして抑制するという文化. パターンに固定しようとしているというわけだが、さらに. ミlドはこの母親像をチャロナラン劇に登場する魔女ランダ. に重ね合わせる 。. ミlドによれば、このチャロナラン劇に登場する魔女一フン. ダがとる姿勢(腕を広げ、手のひらを突き出し、指を後ろに. 反らせる)は、パリ島の人々が驚いて、慌てたときに示す反. 応である﹁カパ 1 ル ﹂ と 同 じ で 、 実 は 魔 女 は 人 間 を 怖 が ら せ. るだけの存在ではなく、魔女自身も怖がっていることを示し. ているのである 。 つ ま り 、 魔 女 が チ ャ ロ ナ ラ ン 劇 で 再 構 成 し. ているのは、子供を刺激しつつも、途中で気を逸らせ、満足. 感を与えないだけでなく、子供に注意を促す場合には、自ら. も恐怖を表現することで、子供を引き寄せもする母親像なの. -42-. 子守役の子供も母親と一致協力して、じらし、からか. 『パリ島人の性格』.

(13) 係を明確に定義しており、観劇する大人には幼少時の記憶を. である 。 ミ1ドは、 チャロナラン劇の主題がバリ島の親子関. も、前述の連続写真にとられた母子関係は、﹁定常型システ. る定常型システムとして形式化されることになるが、そこで. ということになる 。 こ の こ と は 後 の 論 文 で 分 裂 生 成 を 抑 制 す. わされる相互作用の中断、つまり母親は子供に刺激を与える. 再現前させ、子供には母親との関係をどう解釈すべきか、母. また、 ベイトソンの場合にしても、最初に目論んでいたの. が、子供がそれに応答すると、母親はそれに反応しないとい. ム﹂が作用する典型であり、その学習的なオリエンテ l ショ. は﹁エートス﹂という概念の応用であった 。彼は、 パリ島の. う、累積的な相互作用がクライマ ックスに至ることを回避す. 親がどのような態度をとるべきなのかを様式化しているのだ. 調査をする以前に、 ニュ l ギ ニ ア の イ ア ト ム ル 族 の 調 査 を. る関係性は、子供の望むそうした累積的な相互作用の在り方. ンであるとして提示されている 。 つまり、この母子の間で交. 行っている 。 こ の 調 査 で は 、 イ ア ト ム ル 族 の 社 会 シ ス テ ム に. を母親が嫌悪していることの事例であり、同時に社会におい. -43-. と述べている 。. 頻出する累積的な相互作用の連鎖を抽出し、それを分裂生成. てもそうした相互関係には何の報いもないのだということを. ミlドがチャロナラン劇の魔女ランダに文化的にパターン. の理論として考案していた 。 ベイトソンがパリ島を訪れた. た年でもあり、自らが提示した理論をパリ島の社会の分析に. 化された母子関係を見出し、それをベイトソンが非分裂生成. 子供に教えているというわけである80. も さ っ そ く 応 用 し て み よ う と 考 え て い た の で あ る 。 ところ. の﹁定常型システム﹂として裏付けることで、チャロナラン. 一九三六年は、その成果をまとめた﹃ナヴェン﹄が出版され. が、バリ島は、イアトムル族の社会とはまったく異なった. ンスとみなされるようになる(魔女ランダが母性に対する無. 劇はパリ島の文化を典型的に表象している宗教的な演劇的ダ. ミl ド は 、 日 記 に ﹁ パ リ 島 に は 緊 張 と い う も の が な い か. 意識的な感情の表現であるなら、その対立物である聖獣バロ. (反対の)社会、つまり非分裂生成的な社会であった 。 ら 、 お そ ら く 分 裂 生 成 は な い だ ろ う 。あ ら ゆ る も の が 間 延 び. ンは父性のそれとして提示されることになり、ミ lドの論考 れることになった)。. によって、ランダとバロンは一対のセットとして印象づけら. (9) と記しているが、ベイトソンの分析によ. しているのだ﹂. パリ島のあらゆる社会的なコンテキストは累積的な相. 互作用においてクライマ ックスを回避するよう作用している. れ ば. 磯. チャロナラン劇の解釈における不明瞭さについて.

(14) 学. 文. 実のところ、こうした分析にもシュピ l スの影は垣間見て. ミ1ドとベロ l にいたっては、シュピ l スの仲介でクリス・. ピースは毎日のように二人を儀礼に案内しているが、当時. 厚 く も て な し た 。 ミl ド が 書 簡 に 書 い て い る よ う に 、 シ ュ. 屋とその使用人まで用音山するなど、この二人の人類学者を手. 逸 話 だ が 、 こ の 最 初 の 出 会 い 以 降 、 シ ユ ピ l スは滞在用の家. らっしゃらないのかと思いましたよ﹂と述べたことは有名な. シュピ!スのもとに到着したとき、シユ。ヒ l ス が ﹁ も う い. ダ ー で 演 じ る こ と が 広 範 に 流 通 し て い た の で あ る 。 むしろ、. 然、 チャロナラン劇も含まれていた)を観光客向けにオー. 進んでいたこともあって、儀礼で行われる演劇的舞踏(当. 倣慢さなどということではなくて、すでに観光化が本格的に. 教儀礼﹂を娯楽目的で現地人に演じさせたという、西欧人の. ら 自 分 た ち の 愉 し み の た め で あ っ た ら し い 。 このことは﹁宗. ヴィッカ lズによれば、それは調査目的ではなく、もっぱ. ロ )0 ダンスの実演をオーダーまでしている (. シュピ l スは共著者のズ 1 テとともに、後に ﹁ パリ島の舞踏. そ う し た 流 通 経 路 の 成 立 に シ ュ ピ l スは少なからず関与して. -44. とれる 。 ベ イ ト ソ ン と ミ l ド が 予 定 よ り も 遅 れ て ウ ブ ド の. と演劇﹂となる著作を準備中で、そのために数々のダンス儀. いずれにしても、ミ lドとベイトソンも、調査の対象とし. おり、そうした流れの中から、必ずしも宗教儀礼と密接なか. ン・ヴイ ツカlズ に よ れ ば 、 シ ュ ピ 1 ス 自 身 が そ う な の だ. てのみならず、シュピ l スの影響から、こうしたトランスを. 礼 を 調 査 し て い た 。 ミl ド と ベ イ ト ソ ン 、 さ ら に は ベ ロ l. が、シュピ l スのもとを訪れた西欧人たちの多くは、トラン. 伴うダンスにかなり惹かれていたことは確かで、このことが. かわりをもたない新しい﹁ダンスドラマ﹂が﹁芸術﹂とし. それが. 背景となって、ミ lドは母子関係に見出したパターンをチャ. も 、 そ れ に 同 行 し て い た と い う こ と だ ろ う 。 バリ島における. シュピ l スの音山向なのか、本人たちがそうした類のダンスを. ロナラン劇の魔女に反映させて論じることになったのであろ. て成立することになったのである 。. 数多く﹁観劇させられた﹂結果なのかどうかはわからない. う 。 ﹁パリ島人の性格﹄ の 序 文 で も ﹁ パ リ 島 の 人 々 が 、 生 き. 人類学と文化政策の関係を批判的に研究しているエイドリア. が、ミ lドとベイトソンもそうした傾向にあったことは確か. た人間として動き、地面に立ち、食べ、眠り、踊り、トラン. )O. である (事実、﹃パリ島人の性格﹄には、チャロナラン劇も. スに入りながら、わたしたちが厳密な意味で文化と呼ぶ抽象. スを伴うダンスにかなり強い関心を寄せていた立. 含 め て 、 ト ラ ン ス に 関 し て か な り の 割 合 を 割 か れ て い る )。. 、. 文化/第 25巷第 1号 / 2013 9 芸術.

(15) チャ口ナラン劇の解釈における不明瞭さについて 磯. 極めて突出した事象とみなしていることは明らかである 。. 述べているように、ミ lドが﹁トランス﹂をパリ島の文化で. 日) と 概念を、どう具現化しているかを書いたものである﹂ (. のは、ある意味で人類学と芸術運動の﹁共犯関係﹂であると. た。 チャロナラン劇が多面体という性質を纏うようになった. 伴 って、文化観 光 で 重 要 な 地 位 を 占 め る よ う に な っ て い っ. バロン・ダンスも、特別な存在としてのバロンやランダを. してチャロナラン劇は、文化観光の呼び物としてのそのヴア. チャロナラン劇は、そのなかでも重要な位置を与えられたの. 、 バリ島の さらに、 ﹃ バ リ島のトランス﹄ の著者ベロ lは. リアントと絶えず共鳴し 合いながら、さらに様々なパ リエ l. さ え 言 え る の で は な い だ ろ う か 。 そして、宗教儀礼の一部と. 様々な トランス 事象を網羅的に記録し、分析 しているが、ト. ションを生み出していくことになるのである 。. である 。. ランスと宗教儀礼との関係において、チャロナラン劇に特権 的 な 地 位 を 与 え て い る 。 その理由は、バロンとランダが、 チャロナラン劇以外でも、寺院の様々な行事で開帳された. 小村を選択して いるが、ミ lドが﹁山の中 腹にある 、 一つに. ミ1ドとベイトソンは調査地の 一つにバユン・グデという. ど、村落規模の宗教行事で重要な役割を担っているからであ. ま と ま った美 し い 村 です ﹂ き と書いたこの﹁パリ・アガ﹂. り、格納された寺院からパレードに連れ出されたりするな る。とりわけ トランスとの関連で言えば、バ ロンやランダの. の小村の選択にも、実はシュピ 1 スの意向が働いていた 。. ﹃ パ リ島人の性格﹂の序文には、パリ島は外的な文化の影. のものが凝縮された表象として位置づけられるようになり、. 互作用を続けることで、 チャロナラン劇は、バリ島の文化そ. 学的な研究がシュピ l スによる﹁パリ島芸術の再創造﹂と相. このよ、つに、 ベイトソンとミ lド、そしてベローらの人類. ε けるというもので、この構図に合わない要素はあ の中に跡 つ. ジャワを経たヒンドゥ l の影響や中国の影響をバリ島の文化. ジア的文化の伝播の構図﹂でパリ島をとらえ、インドから. イ ト ソ ン や ミ lド以前の文化研究の基本的な方向性は、﹁ア. 究するのだという方向性が打ち出されている 。そもそも、ベ. 響を幾層にも累積 しているが、自分たちはその﹁土台﹂を研. そのことによって、 チャロナラン劇のヴアリアントとしての. されているからである 。. ンサ l (顕著にトランスになりやすい者)であることが重視. 仮面を付ける演じ手は、ダンサーとしての技能以上に、トラ. 5. ﹁U F. A吐.

(16) 学. 文. た。暦を頼りとし、供え物と通過儀礼を複雑にする傾. だった特徴である、工芸と儀礼尊重主義に見られる、. パユン・グデは、こうした従来の研究では軽視されてい. 向 は 、 す べ て や せ 細 っ た 骨 だ け の 最 小 限 に な ってい. まり重要視されておらず、基本的には古文書の文献研究が中. た、ヒンドゥ l の 影 響 を ほ と ん ど 受 け て い な い ﹁パリ・ア. た。最 小 限 と は い う も の の 、 世 界 の 現 在 わ か っ て い る. 反復と過度なまでの凝りょうは最小限にとどまってい. ガ﹂であり、それゆえに二人はこの小村を﹁土台﹂として選. ほとんどの文化に比べれば、まだかなり複雑ではある. 心であった 。. 択したのである 。 ミIドはパユン・グデについてこう書いて. のだが 。そしてこの場所に 一年もいるうちに、その文. ンドゥ l の神々の名前をあてないし、供え物では方位. ﹁一般 的 な ﹂ 人 々 の 生 活 を 観 察 す る よ う 示 唆 し た の も 、 そ し. しかし、従来のように文献を研究するのではなく、パリ島の. (日 ). とのかかわりで色が重要視されるわけではなく、火葬. てミ lドとベイトソンの研究方針、 つまりヒンドゥ l の影響. た o﹂. 化の、いわば 平 面 図 を 体 系 的 に 理 解 す る こ と が で き. いる 。. ﹁そこには、後から侵入してきた文化を顕著にあらわ. もカ l ストもなく、牛を食べるのはタブ!とせず、ブ. の少ない﹁土台﹂を研究したいという方針に従って、. ﹁創意工夫とたゆまぬ努力によって、パリ人は主たる. -46. す 要 素 は 欠 け て い た 。 パユン・グデでは、神々にはヒ. ラl フマナの祭司の家とも関係を持たない 。文字を書. 二人と同じく、シュピ l スの影響 下でバリ 島の詳細な民族. ン・グデを推薦したのも、シュピ l スであった 。. の記録をつけるのがやっとの、少々読み書きができる. 誌的書物﹃バ リ島﹂を著した コパルピアスは、﹁ふつうの人. きしるすことがないではなかったが、出席や罰金など 人が五、六人いるだけだった 。村 の 誇 り は 、 複 数 の 週. た。 さらに、 パユン・グデは、 ほ か の 山 村 と 比 べ て. 生業である稲作を、どこの稲作民族にも負けないほど. 一人の暦の専門家だつ. も、儀礼が簡素だった 。 パリ島文化のとりわけきわ. に助言できるほどに熟知した、. たち﹂を﹁貴族階級﹂と区別してこう書いている 。. ニ L. と﹁月﹂が連動した、こみ入った暦について村の役人. ノ1. 文化/第 25巻第 1号 / 2013 9 芸術.

(17) 磯. チャロナラン劇の解釈における不明瞭さについて. まだ賃金労働者にはなっていないので、精神的な楽し. 足 り て い る 。 大多数の人は自分の土地を耕していて、. そして、熱帯の暮らしゃすさを享受し、身も心も満ち. きる人々であって、航海や商業には関心を向けない 。. 高 い 水 準 の も の に し て き た 。彼 ら は 根 っ か ら 農 業 に 生. 常的なシステム﹂という概念にも合致するものであろう 。. 的な村落共同体﹂というイメージであり、ベイトソンの﹁定. デ を 推 薦 す る 背 景 が あ っ た と い う こ と に な る 。 それは﹁調和. ば、シュピ I スには、二人の研究方針とは別に、 パユン・グ. だが、その選択にシュピ l ス の 意 図 が 働 い て い た の だ と す れ. nノ、 パリ島の社会では累積的な相互関係が押さえ込まれ、. 定常状態が維持されており、たとえ何らかの逸脱が生じて. 土品、. 詩や舞踊をこよなく愛し、そこからすばらしい演劇が. も、それを制御する作用が働くという、すなわち非分裂生成. み の た め に 費 や す 時 間 的 ゆ と り も 自 由 も あ る 。 音楽や 生み出されている 。﹂8. 型の社会が存在するという分析であるが、ベイトソンにその. もっとも、シュピ l ス が パ ユ ン ・ グ デ と い う 辺 郡 な 場 所 を. 意志があったかどうかは別としても、結果的にこの分析は. 地 域 社 会 を 詳 細 に 描 き 出 し て い る 。 コパルピアスによる描写. 勧 め た の に は も う 一 つ 別 の 理 由 も あ っ て 、 それはミ l ドと. コパルピアスは、これに続いて、﹁原パリ島人﹂として﹁パ. のいずれにおいても、 バリ島の﹁ふつうの人たち﹂は調和的. ゾl テとの確執であったといわれている 。科 学 的 分 析 に 固 執. ﹁調和的な村落共同体﹂というイメージを﹁科学的に﹂裏付. な村落共同体を形成しており、そこからバリ島の芸術と文化. するミ lドは、芸術家肌のシュピ l スやゾ l テと方法論をめ. リ・アガ﹂(ここでは、 グ リ ン シ ン で 有 名 な ト ゥ ガ ナ ン の 様. が生み出されるのだとされているが、これにしてもシュピ I. ぐ っ て し ば し ば 対 立 す る よ う に な っ た 。女 性 解 放 運 動 の 旗 手. けることになってしまった 。. スがバリ島に思い描いていた理想の姿であり、それは同時に. でもあり、著作の間違いを指摘されても決して訂正をしな. 子が描写されている)に言及した後、章を変えて、パリ島の. オランダの植民地行政がその政策によって固定しようとして. ける攻撃的な言葉は、とりわけゾ l テの怒りをかったらし. かったほど、自らの研究に強い信念を持ったミ lドが投げか. ベイトソンとミ lドは、 バリ島文化の﹁土台﹂を研究しよ. い。辛妹な言葉が飛び交う関係に耐えられなくシュピ l スが. いたイメージでもあった 。. うという目的で、調査地としてバユン・グデを選択したわけ. て 〉. i. 円. A吐.

(18) 文化/第 25巷第 1号 / 2013 9 芸術 文学. ミlド を バ ユ ン ・ グ デ に 体 よ く 追 っ 払 っ た と い う も の で あ る. や癒しゃ再生を具現化した魔女や精霊となって聞からじっと. あり、神秘的な力が自然も人々をも覆い尽くし、それが畏れ. 奉納することで、宥めたり、懇願したりしながら、日々の時. が、真偽のほどはともかく、 いかにもミ Iド ら し い エ ピ ソ l. 一九三0年 代 に シ ュ ピ l ス の も と を 訪 れ. 聞 が 流 れ て い く 暮 ら し 。﹃ バリ島人の性格﹄も、﹃バリ島のト. 見守っていて、人々がそうした存在を、祈りや供物や舞いを. た者たちは、﹁シュピ l ス と い う フ ィ ル タ ー ﹂ を 通 し て パ リ. 、 ﹃パリ島の音楽﹄も、 そ う し た シ ュ ピ l スの想 ランス ﹄ も. ドである 。. 島 を 体 感 し 、 そ れ を 表 象 す る こ と にな っ た 。 ﹁科学的な学術. 像 を 表 象 し た バ リ エ ー シ ョ ン だ っ た の か も し れ な い 。 信念の. いずれにしても、. 調 査 ﹂ な ど と 銘 打 っ て も 、 そ の 著 作 か ら シ ュ ピ l スの影響力. そ の 一 方 で 、 こ れ ら の ﹁ 古 典 的 ﹂ 研 究 は 、 シ ュ ピ I スの感. 強 固 な 、 あ の ミ Iド で さ え 、 そ の 影 響 か ら 逃 れ る こ と が 極 め. す べ て そ う な の で あ る 。も と も と 、 彼 ら の い ず れ も が 、 パ リ. 化力を介して、オランダの植民地政策、つまり高度な文化を. を 少 な か ら ず 読 み 取 る こ と は で き る 。 そ れ は ミ lド と ベ イ ト. ニューヨークであれ、. て 困 難 で あ っ た の だ か ら 、 シ ュ ピ l スの感化力そのものがバ. 島を訪れる前、 そ れ が パ リ で あ れ 、. 維持したパリ島を保護するという文化政策に結びつくことに. ソン、 ベロ l に し て も 、 あ る い は コ パ ル ピ ア ス に し て も 同 じ. シュピ l ス の 名 を 耳 に し ( あ る い は 彼 の 作 品 を 見 て ) 、 ま ず. なる 。 いくらシュピ l ス が パ リ 島 の 人 々 と 密 接 な 関 係 に あ っ. リ島の備える﹁力﹂ の 一つ に な っ て い た の か も し れ な い 。. は彼のもとを目指してパリ島にやってきたという点で、すで. たとはいえ、彼はオランダの植民地行政による間接統治の健. で、先に列挙したパリ島の研究についての﹁古典的﹂著作は. にシュピ l ス の 魔 術 に か か っ て し ま っ て い た と い え る だ ろ. 偏 的 権 力 者 ( そ の 人 物 と は チ ョ コ ル ド ・ ラ コ l ・スカワテイ. ケIプ の 中 で 感 覚 的 に 調 和 し て い る 世 界 で あ り 、 根 源 的 な 芸. る だ ろ う。 つ ま り 、 生 と 美 と 聖 が 美 し い 幻 想 的 な ラ ン ド ス. スのパリ島に対する想像力が表象されたものであるとも言え. そういう意味では、これらの﹁古典的﹂研究は、シュピー. 島 の 文 化 を い く ら 深 く 愛 し ん で ﹃パリ島﹂ を 書 き 上 げ た の だ. て﹁芸術の島﹂を創造してきたのだし、 コ バ ル ピ ア ス が バ リ. たとしても)の庇護のもとで、増大する観光化の流れに沿っ. が、彼らが内面的には植民地行政にどういう態度をもってい. と後にはその弟のチョコルド・アグン・スカワティである. o. λノ. 術的感性が優れた芸術的才能によって表出される美しい島で. -48-.

(19) シェル・フ 1コ1は権力が身体を政治的に包囲する﹁権力. られなければ権力的関連は存在しないし、同時に権力的関連 ゆ) を想定したり組み立てたりしないような知は存在しない﹂ (. 知﹂の在り方について、﹁知の領域との相関関係が組み立て. 字 む こ と に な る 。 つまり、﹁シュピ i スというフィルター﹂. と述べているが、オランダの植民行政の政策はまさしくこの. としても、﹁この文化は、近代商業主義と画 一化の情け容赦 げ) のない嵐のもとでいつか消え去る運命にあるのだから﹂ (. を通したバリ島は、植民地主義がその正当性をもって確保し. 意味で﹁権力ー知﹂の相関関係という機構を用いてパリ島を. と書く時、サルベージ型の民族誌が抱え込むのと同じ問題を. ておきたい﹁ノスタルジックな﹂光景であり、西欧の想像力. ﹁権力. l. 知﹂の相関関係という意味において、当時の植民. いるが、極めて戦略的な植民地支配の構図であった 。. 政策派﹂などと称された官僚たちが中心となって策定されて. 支配しようとしていたのであり、﹁文化保護政策﹂は、﹁倫理. )O. がとらえる剥製化された文化、凍結された時間の表象となる のである高 そもそも、シュピ l スが想像したような、調和のとれた村 落とそこで営まれるダンスを中心とした芸術的な文化という. 地官吏アルフレッド・アルベルト・リ l ブリンクが提示した. ( リ l ブリンクはこれを村落共和国と呼んだ)であるという. イメージには、オランダの植民地行政が生成した前身があ. オランダはバリ島全土を植民地化して後、その統治政策と. ものである 。 そうであれば、オランダの侵攻で消滅した﹁劇. バリ島の基本構造は、保護政策にとっては極めて好都合なも. して﹁文化保護政策﹂を打ち出している 。 それには植民地化. 場国家﹂という﹁儀礼を行うためのシステム﹂がなくなって. り、あえて単純化して言えば、それを豊かに増幅し、神秘化. 末 期 の あ ま りにも悲惨な結末(バ リ島 の 諸 王 朝 の 滅 亡 時 の. も、村落地域に干渉さえしなければ、伝統的な文化としての. のであった 。 つまり、パリの社会組織の基本は、支配者層に. ﹁虐殺﹂的な、プブタンと呼ばれる惨事)に直接的な原因が. 宗教的活動を維持する領域は残存することになる 。 リ l ブリ. したのがシュピ i スということになる 。 その流れを、概略し. あるが、この政策の根幹は﹁パリ島が(パリ島の文化が)い. ンクによって発見された村落規模の地域社会は、文化として. あるのではなく、自律的で平等主義に貫かれた宗教的な村落. かなるものであるかを知ること﹂と﹁バリ島を支配するこ. の宗教活動(宗教儀礼であり、その中核のひとつが演劇的ダ. てみるとこヲつだ 。. と﹂とが表裏一体となっていることにある。たとえば、ミ. -49-. 磯. チャロナラン劇の解釈における不明瞭さについて.

(20) 学. 文. 者として旧支配者層(旧王族や貴族といった植民地エリー. ンスである)を保護・復興する政策の焦点となり、その施行. て、ミ lド と ベ イ ト ソ ン は 、 本 人 た ち が 意 識 し て い た か ど う. 調査・研究し、描写していたということである 。結果とし. て い る と い う 造 詣 深 い イ メ ー ジ ﹂ 互 に 捕 ら わ れ て 、 パリを. は存在しないが、﹁土台﹂にすら見出すことのできるパリ島. パユン・グデのよ、つな﹁バリ・アガ﹂にはチャロナラン劇. 辺) である 。 (. ﹁土台﹂から﹁伝統的な文化と 芸 術 ﹂ に 限 定 し て し ま っ た の. 礎付けてしまったのであり、バリ島についての語り口をその. ト)を登用することで、バリ島における間接続治という植民. )C. かは別として、こうしたイメージを ﹁ 土 台﹂から科学的に基. ( 初. 地支配のシステムが確立されていくことになったのであ マ心. 端的に言ってしまえば、調和した村落規模の地域社会で豊 かな芸術的な宗教活動が豊かに営まれているという、文化保 護政策の基盤となる重要なイメージは、ドイツ人医師のグ レ ゴール・クラウゼに受け継がれ、さらに彼が発表した. ける﹁権力. 知﹂の機構に組み込まれているということにな. の系譜に連なるものになる、だろう 。 つまり、植民地行政にお. 化力がその背景としてあるならば、そうした描写はすべてこ. 人 類 学 者 た ち が 描 写 す る も の に 、 シ ユ ゼ l スの抗しがたい感. 一九 三0年代にシュピ l スのもとを訪れてバリ島を経験した. 民 地 行 政 に お け る ﹁ 権 力 ー 知 ﹂ の系譜があるとすれば、. スへと引き継がれていくことになるのである 。 このような植. チャロナラン劇は、文化観光において、パリ島の特異な文化. 時に、このパリ島に特異な文化パターンの表象物としての. の典型的な表象であるという解釈をもたらすことになる 。 同. 着が不在の唐突な終わり方は、パリ島に特異な﹁定常状態﹂. 解釈されるのであり、(舞踏劇として演じられた場合の)決. 父性/ 母 性 の 無 意 識 的 な 感 情 を 表 象 す る 一 対 の セ ッ ト と し て. チャロナラン劇においてこそ、 バロンとランダは、たとえば. チャロナラン劇によって典型的に表象されることになる 。. の 文 化 の パ タ ー ン は 、 ミ 1 ドとベイトソンの分析を通じて、. るわけだ 。 ヴィッカ iズ が 述 べ る よ う に 、 彼 ら は み な 植 民 地. パターンを経験するための鑑賞用のヴアリアントを生み出. 一九 一二年﹄ に 魅 せ ら れ て パ リ 島 に や っ て き た シ ュ ピ ー. 行政における﹁権力ー知﹂が設定した村落規模の地域社会と. し、バロン / ラ ン ダ は 、 背 景 と な る 物 語 の 筋 立 て か ら ﹁ 聖 獣. 1. いう範囲内で、つまり﹁バリが高度な文化を持ち、民衆の基. バロン / 魔 女 ラ ン ダ ﹂ と い う 対 立 図 式 を 纏 い 、 ﹁ 善 / 悪 ﹂. 島. 盤の上に立つ社会で、そこでは魔女や踊り子の姿がとびぬけ. の. 25巻第 l号 /2013.9 文化/第 芸術. Fhd. ハU.

(21) 良質的な部分を出発点として継承して、パリ島研究を行った. 闘いという一般的で理解可能な構図に回収されていくことに. さらに、この二つの流れが、植民地行政とその残淳を抱え. 人類学者ということになる 。 そのギアツは、一九六0年代の. ヴイ ツカlズによれば、ギアツは、 ベイトソンとミ 1ドの. る現在に至るまでの観光行政において、相互に置換可能な. パリ島調査をもとにして、 チャロナラン劇についての決定的. なる 。. ﹁バリ島の特異性についてのイメ ージ﹂を継続的に形成する な描 写を記している 。. メージと人類学的な分析を裏付ける﹁文化観光﹂ のイメージ とが置換可能になることで、﹁人類 学 が 認 定 し た 文 化 ﹂ と ﹁植民地主義が提示したい観光﹂とが共犯関係を取り結び、 観光客に﹁イメージで見知っているものをパリ島で体験させ る﹂事柄が、﹁伝統的なものとしての人類学的イメージ﹂に よって真正性を纏わされ、真正性を 纏っ た観光向けの事柄が ﹁ 伝統的なものについてのイメ ージ﹂を矯正していくという、 イメ ージの再生 産 の循環である 。 こうして、﹁バリ島がバリ 島化する﹂プ ロセスは継続されてきたのである80 そして、このプロセスにおいてこそ、 チャロナラン劇につ いての解釈は、それが ﹁バリ 島 の文化の表象物 ﹂ であるとい うことに留まり続け、その内容については何も問われなくな ると同時に、何もかもを表象する多面性を纏い続けてきたの である 。. もじゃもじゃ した牧羊犬の毛の ようなおおいには、金. がらに、前と後の、二人の男に よ って踊られる 。 その. 叫びを 口から発する 。 バロンは、ボ lドビルの馬さな. チの爪が出ている 。そして、金属的な笑いの恐ろしい. の手のように白い手をひろげるが、そこから 一Oイン. 炎のようである 。 そ し て ラ ン ダ が 踊 る と き に は 、 死 人. う に 色 の つ い た 腸 の 束 を 吊 し て い る 。 長い、赤い舌は. りに 髪 がまといついていて、乳の聞にソ ーセージのよ. りに垂れている 。胸はひからびてぶら 下 る乳房のまわ. ている 。黄色の髪は、もつれにもつれて、身体のまわ. は、ほおをおおう牙となり、犬歯はあごからはみ出し. 目は、額から、はれもののようにとび出している 。歯. ﹁一 人 の 男 の 踊 る ラ ン ダ は 恐 ろ し い 姿 で あ る 。 彼女の. よ う に な る 。 つまり、﹁文化観光﹂を裏付ける人類学的なイ. 6. と雲母の飾りがつけられ、うすあかりの中で輝く 。 か. -51. 磯. チャ口ナラン劇の解釈における不明瞭さについて.

(22) 文化/第 25巷第 1号 / 2013 9 学 文. 芸術. か ち か ち 鳴 ら す 。奇 妙 に 由 っ た 尾 に た れ 下 っ た ち り ん. たとき、あるいは尊厳に対する侮辱に対して、激しく. が、日もまたとぴ出し、牙のある顎を、ランダに会っ. た こ つ け い な ひ げ を つ け て い る 。 これまた怪物である. れらは、花、帯、羽毛、鏡、そして人間の髪から作っ. く、チャロナラン劇が﹁チャロナラン劇﹂であるがゆえに、. える必要ない 。 人 は チ ャ ロ ナ ラ ン 劇 に 何 か を 見 る の で は な. しまうことになった 。 つ ま り 、 チ ャ ロ ナ ラ ン 劇 が 何 か な ど 考. う対立構図が真正なものであるというイメージを植え付けて. 相まって、 チャロナラン劇の解釈に﹁一フンダ / バロン﹂とい. は、彼が後に描き出した十九世紀のパリの﹁劇場国家﹂論と. 近年になって、一九三0年 代 の 人 類 学 や ギ ア ツ の 分 析 を 本. ちりんと鳴るいくつもの鈴は自分の恐ろしきをにぶら あるなら、 バロンは、こつけいさのイメージである 。. 質主義であると批判するポストモダン的な研究とは別に、. 人に何かを見せるのだ、というわけである 。. そしてかれらの衝突は、 (いつも結末のつかない)邪. チャロナラン劇の分析についての新しいパ l スペクティブが. せようとしている 。 も し 、 ラ ン ダ が 悪 魔 の イ メ ー ジ で. 包) 悪な者とこつけいな者との衝突である 。﹂ (. レッド・ギアツやミッシェル ・ステファンらによる研究であ. もたらされている 。 たとえば、ギアツの前妻だったヒルド これはパリ島についてのモノグラフで描写されたものではな. 彼女たちは、ジェ l ムス・ブ l ンやバ lバラ・ラブリック. る。. 文﹁文化システムの宗教﹂において、宗教儀礼とパフォーマ. らがバリ島におけるタントラ的な神秘思想の重要性を指摘し. い。 二O世紀後半の人文科学において最も影響力のあった論. ンスを論じる際に、﹁現実のためのモデル﹂と﹁現実のモデ. 話的な説話やそれを背景とする諸儀礼、またそうした説話を. たことを受けて、 バロンとランダをパリ島の神秘的な宗教思. つまり、ギアツはチャロナラン劇をバリ島の儀礼尊重主義. 描 い た 図 像 、 秘 教 的 な ロ ン タ l ル文書を詳細に検討して、パ. ル﹂が置換可能になる顕著な事例として持ち出された描写. 的な文化的特徴を顕著に一不す宗教的表象として提示している. ロンとランダを﹁善/ 悪﹂という対立関係ではなく、 タント. 想のコンテキストで再解釈しようと試みている 。 つまり、神. のであり、そこには文化観光も、植民地主義の政策も干渉し. ラ的な﹁変容﹂ の サ イ ク ル に 置 き 直 そ う と し て い る の で あ. だ 。むしろ、そのことに重要な意味がある 。. て い な い と い う ス タ ン ス を 持 ち 込 ん だ の で あ る 。 この描写. υ. 田町. “ ヮ.

(23) 一度は倒されたチャロナランが再生され、善き道を示さ. E ・ギアツは、 チャロナラン劇に背景となっている物語で. タール文書、たとえば ﹁カラタットワ図。ENGSミ﹂ ゃ﹁シ. 知識人、芸術家へのインタビュー、彼らが依拠しているロン. さらにステファンは、神秘主義思想に精通している司祭や. な様態であるというわけである 。. れることに着目し、 チャロナラン劇の主題が、悪魔被いでは ワガマ. る。. なく、邪悪な存在を宥めて、悪意のあるものから善意のある. 創造神シワとその配偶者ウマの物語に関連づける 。細部のバ. 斗也、. も の へ と ﹁ 変 容 ﹂ さ せ る こ と に あ る と 指 摘 し て い る 。 つま. リエーションは様々に存在するが、物語の概要はこうであ. り、チャロナランの物語は、. の解釈に基づいて、チャロナラン劇を. 一度 は 邪 悪 な 存 在 に な っ て し. る。 シワと 口論 し た ウ マ は 激 怒 し て 、 地 上 に 降 り 、 墓 地 に 留. ﹂. まったものがその本来の姿へと一反るプロセスであり、 チャロ. まる 。すると、彼女は恐ろしい怪物的な姿に変身して、自ら. め 民N eQhGShN. ナランの再生語ということになる80. ミックな﹁変容﹂という主題を読み取ろうとしている 。 ステ. よれば、 チャロナラン劇では、怪物的な姿に変容したシワと. 物的な姿になる、というような筋立てである 。 ステファンに. が創造した世界を破壊し始める 。 シワは欲情して、ウマを求. ファンは、バロンとランダの仮面が寺院儀礼において同等の. ウマは、 バロンとランダで表象されるのであり、そうであれ. ステファンの場合、 日・ギアツのこうした分析をさらに展. 扱いを受けていること、またその扱いは守護的な高位神の象. ば、バロンとランダは対決しているのではなく、交接してい. めるが、怪物的な姿となったウマと交わるために、自らも怪. 徴であるプラティマ (聖物)とほぼ同じであることに注目し. る こ と に な る (チャロナラン劇が、 そ の 本 来 の 物 語 と は 異. 関して、 チ ャ ロ ナ ラ ン 劇 に ヒ ン ド ゥ l的 タ ン ト ラ の ダ イ ナ. て、バロンとランダは物語で見られるような敵対関係にある. なって、唐突に終わるのは、それが対決ではないからなので. つまり、 ステファンの解釈によれば、チャロナラン劇にお. のではなく、ともにそれぞれが神聖な力(サクテイ)の象徴. いうのは、バロンやランダの固有の属性ではなくて、動態的. いて、男性的な宇宙原理の創造力であるシワは、バロンとな. ある)。. な力(サクテイ)が神聖な状態から破壊的な状態へと、そし. り、女性の否定的な宇宙原理とまみえることを通じて、その. であると考えている 。 す な わ ち 、 守 護 者 と か 、 邪 悪 な 存 在 と. て再びその源泉へと変容を繰り返すサイクルにおける一時的. 5 3-. 磯. チャ ロナラン劇の解釈における不明瞭さについて.

(24) 学 文. 芸術・文化/第 25巻第 l号 /2013.9. な存在へ、そして再び創造的な存在へと変容するプロセス. ン劇は、シワとウマが創造的な存在から制御できない破壊的. て、創造的な女神ウマに戻るのである 。従って、チャロナラ. で破壊的な力としての怪物ランダ(ドゥルガ)は反転され. ことであるが、シワ(バロン)と再び統一されると、否定的. される)に変身し、シワから離れている場合に放たれる力の. な力とは、ウマがドゥルガ(怪物的な姿のランダとして表現. 破壊的な力を抑制することができる 。女性の否定的宇宙論的. 宗 教 的 な 生 活 に 染 み 透 っ て い る も の な の だ 。 わたし. の束の一つででもなくて、あらゆるレベルのパリ島の. く、あるいはパリの宗教を作りあげてきた多くの思想. ドゥ l の 概 念 は 、 単 に 薄 い 化 粧 板 で あ る だ け で は な. れ を 含 み 込 ん で い る と い う 見 解 で あ る 。 :::ヒン. で、精神的な教義も含めて、神秘主義思想の重要な流. できる:::パリの宗教は、様々なヨガの実践の内的. なサイクルといった用語を使えば巧く理解することが. 両 価 性 )、そして欲望と破壊のダイナミック レンス (. ドのヒンドゥーへの、とりわけタントラへの、もっと. を、バロンとランダに重ね合わせて可視化したものであり、. ステファンや H ・ギアツの分析は、 チャロナラン劇を含め. 微妙なアプローチが持っている重要性である 。わたし. (ステファン)が注目してきたのは、われわれがバリ. て、宗教儀礼や演劇的舞踏に、聖なる力(サクティ)のダイ. が指摘したいのは、タントラの観念が極めて多様なパ. チャロナラン劇を演じることによって、共同体全体をそのよ. ナミックな変容性を主題とするタントラ的な神秘主義思想を. リ島の儀礼実践の概念的な基礎となっているというこ. 島の宗教についての理解を形成するにあたって、イン. 読 み 取 ろ う と す る も の で あ る 。 そもそも、彼女たちの狙い. お) とである 。 ﹂(. うに方向づけることであるということになる 。. は、一九三0年代の人類学的研究が顧みなかった方向性、つ まりパリ島の宗教文化をヒンドゥ l的な伝統に位 置づけ直す. ノ、. L n ステファンの 言 い方を借用すれば、 チャロナラン つ寺品. 幻) なローカルな表現﹂ ( と い う こ と に な る わ け で あ る 。 チャ. と い う こ と に あ る 。 ステファンは、こう主張している 。. ﹁パリ島のコスモロジ l (宇宙観) は、固定された階. ロナラン劇には、解釈すべき、あるいは読み取るべき、正統. 劇は、﹁ヒンドゥ l の タ ン ト ラ 哲 学 の パ リ 島 に 独 自 で 創 造 的. 層、調和、そしてバランスよりも、変容、 ア ン ピ ヴ ア. h 戸l u. A宮.

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