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今田勇子とは何者か -連続幼女誘拐殺人事件・再論-

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【原著論文】

今田勇子とは何者か

――連続幼女誘拐殺人事件・再論――

山内 春光

社会倫理研究室

Who is Yuko IMADA?

Reconsideration of the Tsutomu MIYAZAKI Case

Harumitsu YAMAUCHI

Social Ethics

Abstract

This is my third paper concerning the Tsutomu MIYAZAKI Case (1988-89), in which four little girls (from 4 to 7 year-old) were murdered successively by MIYAZAKI.My first essay on this topic (Yamauchi 2009) dealt with how and why the first victim was murdered. The second one (Yamauchi 2011) mainly discussed how and why the other three victims had to be killed. In this essay, we will consider the MIYAZAKI case further, focusing on Yuko IMADA who was imaginarily made up person as the criminal of this case by MIYAZAKI himself, and claim that she was MIYAZAKI’s imaginary deceased mother by whom, he thought, his childhood would be preserved eternally.

キーワード:連続幼女誘拐殺人事件、宮﨑勤、今田勇子、亡き母

はじめに

連続幼女誘拐殺人事件――宮﨑勤が 1988 年から 89 年にかけて四人の幼女を誘拐し殺害した事件― ―を筆者が論ずるのは、今回で三度目になる。第一稿(1)では、最初の被害者であるA子(仮名・以下 同じ)殺害に至るまでを追い、宮﨑が幼女殺害の際に臨んでいたものは、幼い頃の「甘い世界」の一 瞬の回復と喪失だったであろうことを論じた。そして第二稿(2)では、A子に続くB子とC子の殺害を 追った上で、A子事件の実行犯を名乗る「今田勇子」の告白を考察し、さらに最後の被害者であるD 子殺害を経て宮﨑の逮捕・死刑に至るまでを追った。そこではとくに、今田勇子に重なる宮﨑勤によ

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っておそらく死刑が願われていることを論じた。以上の考察によって筆者は、事件全体の骨格はほぼ 把握し得たのではないかと考えていた。しかしながらそれだけでは、この事件の核心とも言うべき今 田勇子の存在に、今田勇子とはそもそも何者であるのかという問いに、迫り得ていなかったように思 う。 筆者は、この事件を考察するための基本テキストとして、吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』(3) 用いるべきであると考え、一貫してそうして来たし今回もそうしたい。吉岡はその中ですでに、今田 勇子の「犯行声明」に、とりわけその冒頭に、今田勇子あるいは宮﨑勤の「むきだしとなった」また 「強烈な自己意識」を見ていた。さらに吉岡は、今田勇子の「告白文」に登場する今田勇子の「我が 子」を「宮﨑自身が子どもだったときと読み替えて」読むこと、つまり「母親は宮﨑――今田勇子だ」 とする解釈を提示し、最終的にはその子供を宮﨑にとっての「真実の自分」とも捉えていた。 基本的にこの吉岡の解釈図式に従いながら、母である今田勇子およびそれに重なる大人の宮﨑勤と、 その子供である今田勇子の「我が子」およびそれに重なる子供だったときの宮﨑勤と、の両者の関係 に再考を加えることが、本稿のさしあたりの課題である。そのことを通じて、今田勇子とは何者であ るのかという問いに、何らかの答えを出したいと考えている。

1. 『遠野物語』九九より――亡き母の幻視――

今田勇子は、最初に殺害されたA子の事件の「犯行声明」と「告白文」の書き手として、宮﨑勤に よって作り出された存在である。今田勇子はその「告白文」の中で、自分は自分の「不注意からなる 不慮の事故で、5才になる、たった一人の子供を亡くして」しまった母であり、自分が自分の「子供 に向けてA子ちゃんを送った」と記していた。 そもそも子供を亡くした母という存在を、どのように考えたらよいのだろう。そのとき、子供にと っても母は失われた存在になっている、と考えることもできるだろう。そのような母と子の関係を考 える一つの材料として、柳田国男『遠野物語』九九(4)を、私訳を交えて全文引用し、まず考察してみ たい。 『遠野物語』九九は、1896 年(明治 29 年)6月の三陸大津波で被災し、妻と子を失った男の物語 である。そして 2011 年(平成 23 年)3月の東日本大震災の後に、改めて注目を集めることになった 物語でもある。 遠野の土淵村の助役北川清という人の家は、字火石 ひ い し にある。代々の山伏 や ま ぶ し の家でもあり、祖父は正 福院と名のり、学者で著作も多く、村のために尽くした人であった。その清の弟で福二という人は、 海岸の田の浜へ婿に行ったが、先年の大津波にあって妻と子を失い、生き残った二人の子と共に元 の屋敷のあった場所に小屋を立てて一年ほどが過ぎた。夏の初めの月夜に便所に起き出したが、遠 く離れた所にあって途中の道も波の打ち寄せる渚である。霧の立ちこめる夜であったが、その霧の 中から男女二人の者の近よって来るのを見ると、女はまさしく亡くなったわが妻である。思わずそ

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の跡をつけて、はるばると船越村の方へ行くみさきの洞のある所まで追って行き、名前を呼んだと ころ、振り返ってにっこりと笑った。男はと見ると、これも同じ里の者で津波の難で死んだ者であ る。自分が婿に入る以前に互いに深く心を通わせていたと聞いた男である。今はこの人と夫婦にな っていると言うので、子供はかわいくはないのかと言うと、女は少しく顔の色を変えて泣いた。死 んだ人と物を言っているとは思われずに、悲しく情けなくなったので足元を見ている間に、男女は 再び足早にそこを立ちのいて、小浦へ行く道の山かげをまわり見えなくなってしまった。追いかけ て見たがふと死んだ者だったのだと心づき、夜明けまで道の中に立って考え、朝になって帰った。 その後、久しくわずらったという。 物語自体の主人公は、言うまでもなく福二という人である。だが彼が代々の山伏の家に生まれたこ と、そして兄が村の助役を務め、祖父が学者で村に尽力した人であったことも、考慮しておいてよい かもしれない。山伏とは、山岳での仏道修行などによって世俗の日常世界の人々を越える能力を身に つけたとされる存在である。『遠野物語』九一には、「山臥 や ま ぶ し のケンコウ院」という人が登場し、山中で 不思議な死に方をした男の死を、山の神たちの遊んでいる所を邪魔したためにその祟りを受けて死ん だのだと説明している。異界の存在と交流しその意図を推し測る能力を持つ人々の家系に、彼は生ま れていた。また彼の兄も祖父も、村や人々のために尽力した人物であった。おそらく近隣の人々の生 活や人生に、その幸福や不幸に、深く思いをいたすことのできる人を、彼は近親者に持っていた。 詳しいいきさつは知り得ないが彼は、内陸の遠野から峠を越えて海岸沿いの村へ婿に行った。その 婿入りの前後にかしばらくしてからか彼は、自分の妻には自分との結婚以前に深く心を通わせ合った 男がいたことを、そしてそれが同じ里のどの男かということも、知ることになった。その後、彼と妻 は少なくとも三人の子供をもうける。そして明治 29 年の大津波によって、彼は妻と少なくとも一人の 子供を失う。そのとき、妻のかつての思い人であったという男も、同じ津波で死んだことを知った。 彼はその後一年ほどを、残された二人の子供と共に、妻と一緒に住んだ屋敷のあった場所に立てた小 屋で過ごす。そして夏の初めの霧の立ちこめる夜、彼は妻との再会を果たす。妻は男と一緒に、海岸 を歩いていた。 彼はおそらく、とりわけ津波で妻と子を失った後に、とりわけ妻のことを深く強く思い、妻の人生 について様々に思いをめぐらせたのだろう。自分と結婚する前に、互いに深く心を通わせていたとい う男と、なぜ一緒にならなかったのか、なれなかったのか、なっていた方がよかったのではないか。 自分と結婚した後、次々と子供を生み、育てていたが、どのような思いでいたのだろう。そして、突 然の津波で死を迎えるときに、何を思っただろう。最後に思い浮かべたのは、誰のことだったのだろ う。親か、子供たちか、夫である自分か、それとも思い人だったというあの男のことだったろうか。 死んでからは、どこで何を思っているのだろう。そのような様々な思いが、深く強い思いが、彼に死 んだ妻の幻を見させたのではなかっただろうか。 男と連れ立って歩く妻の後を、彼はかなり長い間つけて行ったらしい。そしてようやく名前を呼ん

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だとき、妻は振り返ってにっこりと笑った。連れ立って歩いていた男は、やはりあの思い人だったと いう男であった。今はこの人と夫婦になっている、と妻は言った。 こうなることを彼は、たしかに怖れていただろう。しかし同時に、心の底では、こうなることを願 わしいこととも思っていたのではないだろうか。なぜなら死んだ妻は、自分と結婚する前に深く心を 通わせ合っていたという男を、実は一番好いていたのかもしれないからである。一番好きな男としか も好き合っている同士で一緒にいられるのなら、女として一番幸せなことではないか。そうだとした ら、妻とその思い人だったという男が一緒になるのは、願わしいことなのかもしれない。妻にとって 願わしいことを、自分にとっても願わしいこととすることが自分にもできるのではないか。そのよう な思いを心の底で思いめぐらせることが、彼にはあったのではないだろうか。 しかしそれは、実際に結婚し次々と子供をもうけた自分との夫婦の縁が、断ち切られることを意味 するだろう。さらにそれは、現に生まれ育ちそして生き残った子供たちとの親子の縁までもが、断ち 切られることにつながるかもしれない。彼の思いの焦点はそこで、生き残った子供たちに移ったので はないだろうか。かつて深く心を通わせ合ったという男と比べて、夫としての自分が見捨てられるの は、よしとしよう。しかし、生き残った子供はどうなるのか。子供を選んだり捨てたりすることがで きるのか。子供は親を選べないではないか。母親として、生き残った子供を見捨てることができるの か。そのような思いが、子供はかわいくはないのか、という彼の言葉につながったのではなかったろ うか。 これに対し女は、少しく顔の色を変えて泣いたという。少しく顔の色を変えたということは、問い かけに対してやや気色ばんで否定的な表情を見せた、ということだろうか。とするとそこには、子供 はかわいくないはずがない、子供はもちろんかわいい、という声にならない声を読み取ってよいだろ うか。しかしそれに続けて泣いたとは、どういうことだろう。女と対面していた男は、そこに女のど んな声を読み取っただろう。例えばそれは、子供はかわいいけれどもうかわいがることはできない、 という声にならない声であったろうか。彼は、死んだ人と物を言っているとは思われなかったという。 ありありと生きているかのように、彼は死んだ妻の幻と対面し会話していた。 彼は、悲しく情けなくなったという。それは、自分も子供も妻にあるいは母に見捨てられるという 悲しさであり情けなさであったろうか。悲しく情けなくなった彼が、足元に目をやっている間に、男 と女はそこを立ち去り、やがて道の山かげに姿を消した。彼は再び追いかけてみたが、ふと死んだ者 だったのだと心づいて、追うのをやめる。そして夜が明けるまで、道の中に立ち尽くして考えたとい う。もちろん、先ほどまでありありと幻視していた亡き妻のことを、考えたのであろう。どのように 彼は、考えたのであろうか。 彼は、死んだ妻と会話していた。死んだ妻は、かつて深く心を通わせ合っていたという、死んだあ の男と、今は夫婦になっていると言っていた。死んだ妻は、今はあの男の妻であり、もう自分の妻で はない。だがそれはよしとしよう、と彼には思えたのではなかろうか。それが妻によって、心の底か ら本当に願われていることだったとしたら、それを自分にとっても願わしいこととして受けいれよう。

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そう考えることが、彼にはできたのではないだろうか。しかし生き残った子供は、どうすればよいの か。 子供はかわいくはないのか、と問うたとき、死んだ妻は、少しく顔の色を変えて泣いた。そこに、 子供はかわいいけれどもうかわいがることはできない、という意味を読み取ることができるだろうか。 もしそうだとすると、それはなぜだろう。かわいい子供をもうかわいがることができないのは、なぜ なのだろう。生きているときであればそれは、別の男の妻になり別の家に入ったからだと言われるか もしれない。しかし妻は、死んでいる。 彼女は、自分は死んでしまったから、かわいい子供をもう本当にはかわいがれない、そう言おうと していたと考えることはできないだろうか。もしそう考えられるならば、彼女は、生き残った子供た ちにとって、いわばただの死んだ母であり続けることができるだろう。子供たちは、死んだ元の妻を、 今は亡き母として思慕することが許されるだろう。生き残った子供たちは、そうすることでかえって、 生きることの支えを手にすることができるかもしれない。彼は、そのように考えなかっただろうか。 他界に去った亡き妻の声にならない声を、そのように聞き取ろうとはしなかったであろうか。

2. 事件の概要

やはりここで、連続幼女誘拐殺人事件の概要を改めてふり返っておきたい。前稿・前々稿と重複す る部分がかなり出るが、ご容赦を願っておく。 宮﨑勤は、2008 年6月 17 日に死刑を執行された。執行当時、彼は 45 歳であった。同日付けの『毎 日新聞』夕刊(5)は、その犯行を次のようにまとめている。 「1988 年8月、埼玉県入間市で幼稚園児(当時4歳)を誘拐、東京都あきる野市の山林で殺害して 遺体を焼いた▽同年 10 月、埼玉県飯能市で小学1年生(同7歳)を誘拐、あきる野市の山林で殺害し た▽同年 12 月、埼玉県川越市で幼稚園児(同4歳)を誘拐して飯能市で絞殺、遺体を山林に捨てた▽ 89 年6月、東京都江東区で保育園児(同5歳)を誘拐、殺害して遺体を捨てた▽同年7月、東京都八 王子市で小学1年生にわいせつ行為をした。」(地名は 2008 年時点のもの。) また同紙は、事件の発生から刑の執行に至るまでを、次のようにまとめている。「80 年代末の日本 社会に衝撃を与えた同事件の発生から丸 20 年。宮﨑死刑囚は捜査や公判で不可解な供述を繰り返し、 詳しい動機や背景を語らないまま、06 年2月の判決確定から2年4カ月で死刑が執行された。/殺人 罪などで起訴された宮﨑死刑囚は公判で『夢の中でやったような感じ』『ネズミ人間が出てきて怖くな った』などと述べ、責任能力が最大の争点となった。1審での精神鑑定は①人格障害だが完全な責任 能力がある②多重人格で責任能力は限定的③統合失調症で責任能力は限定的――の3通りに分かれる 異例の展開になったが、1、2審、上告審とも、完全な責任能力を認めた。/最高裁は『殺人の主た る動機は性的欲求や、死体等を撮影して自分だけの珍しいビデオテープを持ちたいという収集欲に基 づく』と指摘した。」 以上の記事に、諸本(6)からさらに重要と思われることまた主に公判段階での宮﨑勤の証言などを書

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き加えながら、今少し詳細に事件の概要を追ってみる。 一審初公判における罪状認否で宮﨑は、四人の幼女に対する計画的な犯意を否定した。後の公判で は、いずれの幼女と出会ったときも「独りぼっちの子」と出会い「パッと波長が合って、その子に独 りぼっちの自分を見て」、「自分が自分の手に気付いていない悩みのない甘い世界に入った」などと証 言している(「自分の手」とは「先天性とう尺骨癒合症」という「手のひらを上に向けようとしてもで きない」両手首の障害のことを指す)。そしてその後、幼女が泣き出したりすると「裏切られた」と思 い「おっかなくなって、どうしようもなくなって」、そこに「ネズミ人間」(また二審以降では「もう 一人の自分」)が現れて、幼女が殺されることになる。 最初の被害者A子を自宅近くの山林で殺害し放置した翌日、宮﨑は現場に行き、遺体をビデオカメ ラで撮影し、その「肉物体」(宮﨑独特の表現)に添い寝したり「解剖行為」(同上)をしたりした。 そしてその夜そのビデオテープなどを使って祖父を「よみがえらせよう」という儀式を行ったという。 この事件の3ヶ月余り前に病死した祖父は、宮﨑にとって最も大切な「心の支え」となる存在(そし て死後にその姿が彼には「見えるようになった」と言われる存在)であった。 二番目の被害者B子を同様に殺害し放置したその翌日も、彼は殺害現場に行ったが、このときは遺 体を見つけられなかったようである。 三番目の被害者C子は車内で絞殺後に、その遺体を飯能市の道路脇の山の斜面に捨てている。その とき「ここへ置けよ」という祖父の声が聞こえたと、宮﨑は証言している。 そしてこの三番目と次の四番目の犯行の間の 89 年2月初め、宮﨑はA子の焼いた遺骨などを入れ た段ボール箱をA子宅の玄関前に置き、数日後「今田勇子」を名乗る「犯行声明」を、さらにその1 ヶ月後には同じく「告白文」を書き、A子宅と朝日新聞社に送りつけた。これについて公判のとくに 後半段階で宮﨑は、「自分がこんな面倒くさそうなことをするかな」また「覚えていない」などと証言 している。 四番目の被害者D子は車内で絞殺後、その遺体をあきる野市の自宅に持ち帰って添い寝したという。 そしてこの日か翌日かに、遺体をビデオ撮影し「解剖行為」もしたという。その後、宮﨑は遺体を切 断し(「改造人間の改造手術」と彼は表現する)、そのビデオ撮影もし、血を飲んだ後、切断した両手 首を焼いて食べたという。同じく両足首は「見たらなくなっていたので、家に住んでいる狸か近所の 猫が持って行って食べたのではないかと思う」と証言している。彼はその後、遺体の胴体部分を飯能 市の霊園に捨て、頭部を自宅近くの神社に投棄した。さらに 10 数日後、頭部を再び家に持ち帰り(こ のとき「そのがい骨がおじいさんのがい骨になった」とも証言する)、水で洗い、頭蓋骨部分を青梅市 の山中に置き、はずれていた下あご部分を奥多摩町の山中に置いたという。 五番目のわいせつの被害者E子の裸の写真を撮っているとき、近くにいた E 子の姉が父に知らせそ の後駆けつけた警察官によって、宮﨑はわいせつ容疑の現行犯で逮捕された。だが一審初公判で彼は、 「私は、自己の性的欲望を満たす目的で同児を誘拐しようと企てたことはないし、同児をわいせつ目 的で誘拐したこともない。同児に裸になってねと言ったことはない」と証言している。

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3. 吉本・佐藤対談

前々稿でもほぼ引用だけの形でふれたが、宮﨑が逮捕されてまもなくの頃、月刊『現代』89 年 11 月号(講談社)に「親鸞が〝幼女殺し〟を救うとき」と題する、吉本隆明と佐藤正英の対談(7)が掲載 された。そこで取りあげられた「幼女殺し」とは、宮﨑勤のことであった。やはりかなり重複するが ご容赦いただき、これについてもふり返っておきたい。 対談の初めの方で吉本隆明は、「親鸞の肉声の思想は、最終的には造悪論でしょう」と言い、「つま り善人も救われる、まして悪人も救われるというのなら、すすんで悪をしたって救われるはずだ。悪 をしたっていいじゃないか、という論理が必ず出てきます」と言う。そして「最近の話題では幼い女 の子をつぎつぎに惨殺したという事件がありましたね」と言い、その上で「これは親鸞の思想でいえ ば救済されるだろうか」という問いを提示して、次のように述べる。「『もちろんそうだろう。無条件 だろうな』とぼくには思えるんです。/だけど、どこかで『おや』というものが残ります。あれだけ 無意味に残酷に幼女を殺したんだから死刑にしたっていいんだ、という論理は当然出てくるだろうし、 あり得るわけですね。/ただ、そこでもし、女の子をたくさん殺したということに、その人の無意識 の資質みたいなものを見たらどうなるか。無意識の資質が根本にあるんだったらしょうがない。それ を意図的に死刑にするのは『何かが違うぞ』という気もするんです。死刑というのは裁判し、判決し、 意図的にするわけですからね。」 これに対し佐藤正英は次のように発言する。「幼い女の子を殺す人のなかで、どこからが無意識で、 どこからが意識的かということは、われわれにはどうしても便宜的にしか規定できませんね。われわ れは意識で裁くほかないわけですから。ですが、われわれの社会はともかく裁くべき義務をもってい るから裁かざるを得ない。それは当然のことでもあります。けれどもそのとき、裁く側にたつわれわ れの一人ひとりにどこかで恐れというか、果してこのことは悪だろうかという――法に違反している かどうかではなく――問い直しがないと、やっぱり妙なことになってくると思うんです。どんな人間 でも同じように救おうという阿弥陀仏は、われわれ一人ひとりにその問い直しを迫る仏なんじゃない かと思います。/阿弥陀仏の眼差からすれば、われわれは誰しもいわゆる悪をなし得る存在なんじゃ ないでしょうか。」 宮﨑勤は、公判中の二度に渡る精神鑑定の結果、三種類の異なった鑑定が下される。裁判所は三審 とも「完全な責任能力がある」とする鑑定を採用し、死刑が執行されることになった。だが「多重人 格」にせよ「統合失調症」にせよ「責任能力は限定的」とする鑑定が、もし採用されていたならば、 彼は少なくとも死刑にはならなかったはずである。裁く側に立つ我々の判断が「便宜的」にならざる を得ないことの一例を、まさにここに見ることができるのかもしれない。現実の社会に生きる我々の 判断は、人により時により立場によって様々に揺れ動かざるを得ないのであろう。そして佐藤の言う 「果してこのことは悪だろうかという――法に違反しているかどうかではなく――問い直し」は、仮 にもせよ一時的にもせよ「阿弥陀仏の眼差」に立ってみることの必要性を、我々に訴えているだろう。

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対談はこの後、『歎異抄』の親鸞と唯円の問答――「唯円が『私の言うことを何でも聞くか』と問 われて『聞きます』と返事をする。『じゃあ人千人殺してみよ』と言われて『いや、自分には一人でも 殺すだけの器量はないから殺せません』と答えるところ」――が取りあげられ、「宿業しゆくごう」の問題が引き 出されて、佐藤の次の発言に続く。 「幼女殺しの例なんですが、『あなたは幼い子をおもちゃにできますか』と問われたとき、『できま す』と答えられるかということになると思うんですけれども、ともかくよく考えてみるとできるはず ではあるんですね。いまここではやらないし、やれない。けれどもひょっとすれば、なにかの拍子に やるかもしれない。たとえそんなことはないとしても、――ちょっと飛躍しすぎるかもしれませんが ――自分が知らない自分の前世、たとえば五世か六世前にやっているかもしれない、といったことも あるわけですから……。/無意識というのはそのことだと思います。私はこの世の私しか知らないけ れども、阿弥陀仏は前世、前々世、五世も六世も前からの私という存在を見てとっている。それを親 鸞は宿業という言葉で言っているんだろうと思います。幼女を殺し得るのが無意識であり、宿業であ ると親鸞は言い、そうした宿業はわれわれには捉えきれないし、その意味で幼女を殺さないとは決し て言いきれない。たんに、いまこの私は殺せないとしか言えない。そのことの恐れが親鸞にある……。」 仮にでも一瞬でも「阿弥陀仏の眼差」に立つことができたならば、「幼女を殺し得る」ことを自分 の「宿業」として幻視することができるかもしれない、そう佐藤は言っているのであろう。だが「幼 女殺し」を、逃れ難い自己の宿命という意味での自分の「宿業」として考えてみることは、少なくと もこの対談を読んでいる当時の筆者には、ひどく困難なことのように思われた。 これに対し吉本は、事件の被害者側に立つ視点から次のように述べる。「もし千人ではなくても、 三人も四人も殺したとして、親鸞によれば許されるんだということになるとしますね。/それじゃあ 殺された幼女の親の側は、どういうことで癒されるのかと考えるとします。これは実感的に感じるこ とですけれども、いちばん癒されそうで、ぼくでもやる可能性はあるなと思えるのは、法律がどうい おうと、どこかで待ち伏せしていて、殴り殺してしまうことです。それでも飽き足らないという実感 は親にはあると思うんです。そうなった場合、親鸞はどういうんだろうかと思うんですよ。」 吉本のここの発言は、筆者にも実感的に分かるような気がした。もし同じ立場に立たされたならば、 自分も同じように思うのではないか、不遜ながらそう考えることができた。それは一体、なぜであっ たのだろう。それは例えば、「どこかで待ち伏せしていて、殴り殺してしまう」自分を、たしかに幻視 することが可能であるように思えた、そのような「宿業」であれば自分にも引き受けることができる かもしれないと思った、からであったかもしれない。 対談の直接に連続幼女誘拐殺人事件を取りあげた部分は、佐藤の次の発言で終わる。やや長くなる がそのまま引用する。「阿弥陀仏は、幼女をなぶり殺したい男の気持ち、さらには相手の男を殺し返さ ずにはいられない親の気持ちを、よくないことだといって断罪したり、抑圧したりしないで、なんと か救いとりたいと願って、誓願をたてて難行苦行したんだろうと思います。われわれ人間は社会をつ くって、殺したいというような気持ちを抑制しないとやっていけません。阿弥陀仏はそのこともわか

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っている。わかった上で切り捨てられた部分をなんとか救いとろうとするのが、親鸞のいう阿弥陀仏 だという気がします。/親鸞が指摘しているわれわれ一人ひとりの煩悩の深さというのは、たとえば 幼女をなぶり殺したいと思うとか、殺した相手を殺し返さずにはいられないということだと思います。 そこで、もし『それは悪なのだ、あってはならないことである』で済むのであれば阿弥陀仏はいらな い。誰もが、幼女をなぶり殺すのか、あるいは幼女を殺した相手を殺すのか、そこで実際に手を挙げ るか否かを別にすれば、殺さなきゃいられなくなることがある。ひょっとすれば、つまり事情の如何 によっては殺すかもしれない。親鸞の『おまえはいまここで人を千人殺せるか』という問いかけは、 そこにふれてくるところがあるんじゃないでしょうか。」 宮﨑勤は、たしかに連続して幼女を誘拐し殺害していた。今田勇子という存在を作り出した時点で、 すでに三人の幼女を惨殺していた。しかし宮﨑は、それを自分自身の行為とすることが、そのことを いわば自己の宿業として受けいれることが、できていなかった、あるいは彼自身としては、ついにで きなかったのではないだろうか。彼自身になり替って、それをすることを仮託されることになった存 在が、限りなく他界的存在に近い母として幻視された、今田勇子だったのではなかったろうか。

4. 祖父の死から今田勇子へ

宮﨑による事件の出発点の一つに、彼の祖父の死があったことはまちがいない。祖父の死からA子 殺害を経て今田勇子の登場に至るまでを、改めてたどり直してみる。 宮﨑にとって祖父の死は、祖父と、そして子供の頃からの遊び相手であった「鷹た かにい」(仮名)(8) と、共に過ごして来た、「自分がほんとうに自分でいられる」「甘い世界」の喪失を、おそらく意味し ていた。それは彼には、にわかには受けいれ難い事態だったはずである。 祖父の葬式のとき、彼は「焼き場で、おじいさんが一瞬に見えなくなった」と思ったという。「棺 桶のまま入れられた。……木が焼け、服が焼け、肉が焼ければ、骨形態ほ ね け い た いが見られるはず。それがなか った」と思い、「あれーっ、となった。……おじいさんが見えなくなっただけで、姿を隠しているんだ と強く思った」という。そして「四十九日の前」には、「ほんとうに祖父の姿が見えるようになった」 という。「こぢんまりして……九割くらい」で「もうすぐ(ほかの者にも)見えるようになるからな」 とか「もうすぐくるからな」と言うという。宮﨑は「あれほど不思議なことがあるから、甦っても不 思議でない」と思い、墓の中の祖父の骨を「全部食べて、なくす」ことをめざしたようである。「おじ いさんが倒れていない世界からこっちにくる。一人分のおじいさんがくるから、骨があるとだぶって しまう」と彼は言っているという。このときの宮﨑にとって、祖父は「こちら」で死んだとされてい るがたぶん「向こう」で生きている存在と、受けとめられていたのではないだろうか。 またこの時期、彼は「両親や妹たちがほんとうの家族ではない」と「ぴーん、とわかった」という。 「おじいさんと私」の間に「ほんとうの両親」がいて「ちがうところにいる。別のとこに住んでる。 あの家じゃない。住んでるんです」と彼は言っているという。祖父の死後、宮﨑は「ほんとうのひと りぼっち」になったと感じた。それは、自分が「おっかない」社会や外界にむき出しでさらされるよ

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うな感覚を、彼にもたらしたと思われる。そのことがおそらく、外界に対して暴力的に対応する彼の 「もう一人の自分」を生み出して行く。彼が初めてそれを見たのは、「こぢんまり」と「九割くらい」 で「のそりのそり」とビデオテープの「万引き」をする、自分の「うしろ姿」や「ななめの姿」とし て、であったという。 1988 年8月 22 日、宮﨑はA子に出会い、その「ひとりぼっちの子に自分の姿がかさなった」とい う。「かさなる自分の姿」は「出会った子と」「同じくらい」で、「のそりのそり」動くその「もう一人 の自分」を、彼自身は「どっきんどっきんしながら見ている」のだという。「万引き」のときに見えた 「もう一人の自分」が、ほぼ大人の姿をした宮﨑だったとすれば、幼女に重なるここの「もう一人の 自分」は、子供の頃の幼い宮﨑として幻視されている、そう考えるべきではないだろうか。 A子を車に乗せたドライブ中は、「一心同体で……私もああして自分が自分であった時代があった」 と思い、「自分が自分の手に気づいていない……つらさのない甘い感じになった」という。車を下り二 人で山道を歩いているときは、「ピクニック気分」で、「自分が子どもになる」感じで、「甘い気分だっ た」という。宮﨑は幼女と共にあることによって、失われた「甘い世界」の一瞬の回復を味わってい た。 だがA子が「しくしく泣きだした」とき、彼は「平気で裏切った。ぞくーっとした。まさかと思っ た」という。「そのときの女の子の顔」は「迫害のような顔」で、「大勢を呼びたてて、私を襲った」、 それが、「十人くらい」の「ネズミの顔をした大人ぐらいのやつ」だった、と彼は言う。彼は「うしろ を向いた」という。女の子に対して「襲わせないで、と求めるのか、きみのこと信頼しているのがわ からないの、とだいじがる心、助けてもらおうと助けを求める心なのか、恐怖のなかで、憎しみと、 心のなかで叫んだことを覚えている」という。彼は「おっかなくてしょうがなくて……あとはなにし たのかわかんない」と言っているという。女の子は「寝っころがっているというより、動かなくなっ ている感じ」だったという。 二審での証言では、「目の前がまっ暗に」なった後、「万引きのときに見えてきた(のと同じ)」「も う一人の自分のうしろ姿」が、「断片的に目に飛び込んで」きたと言われることになる。そいつは、「(そ の子の)心臓のあたりを蹴って」、「その子の上におっかぶさって」、「馬乗りのような格好」で、腕を 「上から垂直におろすような格好をして」、そしてその子の「足がぴくっと動いて」いたという。その 後、「そいつが立ち上がる光景」が見えた。そのように彼は語っているという。 10 月3日のB子事件でも 12 月9日のC子事件でも、幼女との出会いから殺害に至るまでの心境と その記憶の説明は、基本的にA子事件の場合と同じである。宮﨑は「ひとりぼっちの子」に出会い、 その子と「同じくらい」の「もう一人の自分」が重なる。ドライブ中は「一心同体」で「甘い気分」 が続く。だがその子が「いつ帰るの」と言ったり泣き出したりすると、急にそこに現れる「ネズミ人 間」また(大人の姿の)「もう一人の自分」が、女の子を襲うのにまかせるのである。ただし、B子の 場合は殺害の翌日、現場付近に遺体が見当たらず、C子の場合は殺害の直後に車が脱輪し、遺体を道 路脇の山林に投棄せざるを得なかったらしい。つまりどちらの事件でも、宮﨑の言う「肉物体」は、

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彼の手もとに残らなかったわけである。それができたのは、C子事件のほぼ半年後に起こされるD子 事件(9)においてだけであった。 A子殺害の翌日、彼は遺体をビデオ撮影するなどし、その夜そのテープを使って祖父を「よみがえ らせよう」という儀式を自室で行ったという。さらにその後、秋から冬にかけて、吉岡忍によれば「五 回」、宮﨑は殺害現場のA子の遺体を見に行ったという。その「四回目……と思われる」ときに彼は、 「骨形態」となっていたA子の骨の一部を「小さな沢」で「焼いて」「かじった」という。宮﨑は、祖 父の葬儀ではなぞれなかった「肉物体」から「骨形態」へのゆるやかな変化を、A子の遺体において 観察しなぞり返していたのではなかろうか。また人の「骨を焼く」という行為の実際も、同様にたど ろうとしていたのではないだろうか。そうすることで彼は、一方で祖父の再生をたしかに願いながら、 その一方では祖父の死をどこかで、何かの形で受けいれつつあったのではなかったろうか。 1989 年1月8日、元号が昭和から平成に変わる。宮﨑は、昭和天皇の葬儀を「おじいさんの葬式」 と言い、「昭和天皇、おじいさんに似てるなあ。おじいさんが向こうでも死んだとわかる」と、また「冬 場で、ドラマかコマーシャルかビデオか忘れたけど、何回か葬式を見かけて、おじいさんの葬式と同 じだなと思ったことがある。当時、葬式を二度、三度と見たい気持ちになっていた」とも、語ってい たという。「おじいさんが向こうでも死んだ」という言葉には、「こちらでも死んだ」という含意があ るだろう。やはり彼の中で、祖父の「こちら」側での死が、何かの形で受けいれられつつあったので はないだろうか。 そしてそのような思念の形成に当たって、「葬式」という儀式が何かの意味を持つものとして、彼 には捉えられていたのかもしれない。そうした思いの先にさらに、A子にも葬式が必要だという考え が、生み出されることになったのかもしれない。さらに言えば、幼女たちと出会ったときに見えたあ の子供の頃の幼い姿をした「もう一人の自分」をめぐっても、いわば「向こう」と「こちら」の往還 に関わる何らかの形の思念が、宮﨑には生み出されつつあったのかもしれない。 1月中旬頃、宮﨑はA子殺害の現場から遺骨を拾い、自宅に持ち帰ったようである。2月初め、彼 はその遺骨を「自宅前の畑にあったゴミ焼却用の穴に入れ」焼いたという。そしてその「焼いた遺骨」 と、「A子」「遺骨」「焼」「鑑定」「証明」の「切り抜き文字で作成した紙片」と、A子の「衣類などを 写したインスタント写真」を、段ボール箱に入れる。2月6日未明、彼はそれを入間市のA子宅の玄 関前に置いた。 ところが翌7日、狭山警察署長が記者会見で「段ボール箱に入っていた骨を……A子のものとは断 定できない」と発表した。宮﨑は、「段ボール箱」の骨がたしかにA子のものであることを証明しなけ ればならなくなった。それは、A子の葬式がA子の葬式としてあげてもらえなくなることを怖れたか ら、ではあっただろう。そのために、A子の誘拐と殺害そして遺骨の返却の詳細を、自身の体験とし て語り伝えることのできる人物が、彼には必要となった。そこで作り出されたのが、今田勇子という 存在だったのであろう。宮﨑は、「所沢市 今田勇子」名の「犯行声明」によって主にA子の誘拐と殺 害の詳細を語ろうとし、さらには同じく「告白文」によって主にその殺害の理由を語り伝えようとす

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ることになる。

5. 今田勇子とは何者か

「犯行声明」(10)は、「A子ちゃん宅へ、遺骨入り段ボール箱を置いたのは、この私です。この、A 子ちゃん一件に関しては、最初から最後まで私一人がしたことです」と書き出され、「あの骨は、本当 にA子ちゃんなのですよ」で終わっていた。その初めの方、今田勇子がA子を車に誘い込む場面に、 幼女に重なる「もう一人の自分」は出て来ない。これについて吉岡忍は、「そのかわり、ここまでのノ ート約一ページ分……に、『私』という言葉が十二回も出てくる。……本身を放りだして、むきだしと なった分身が前面に躍りでた格好である。その強烈な自己意識が見えるようだ」と指摘する。 また殺害の場面に、「ネズミ人間」も(大人の姿の)「もう一人の自分」も登場しない。実際のとき と方法は違うが、ここでは殺害実行者は、はっきりと今田勇子である。今田勇子は、「とある川に」A 子を連れて行き、「髪の毛をつかみ、顔を川へ沈め」殺したと言い、「その最中」の「思い」を、「もし、 私が、首を絞めることをしていれば、苦しむ顔を見てしまうであろうなあ。今は、少なくても、A子 ちゃんの苦しむ顔を見ずに、A子ちゃんをいかせることが出来る。続けなければ、続けなければ」と 書く。吉岡はこれについて、「A子殺害のとき、宮﨑はほんとうに目をつむるか、顔をそむけるかした だろう。おそらく両方をした。目の前が暗くなり、ときどき目を開いたときに飛び込んできた光景を、 コマを飛ばしたアニメのように言っているのはそのせいだ。断片的であっても、彼は見た。自分がや っていることを、見た」と記す。宮﨑の言う(大人の姿の)「もう一人の自分」は、ここでは今田勇子 に、いわば転倒された形で、つまり「本当にしたことを、していないと言う」という形で、吸収され ていると見ることができるだろう。 今田勇子は、遺体を「夏草の茂みの中」に「置いて逃げ」たという。その後、A子さらにはB子・ C子事件の報道に接し、A子の「両親」のためにA子の遺体を「そのうちにみつかりそうな場所」ま で運ぼうと「決心」し、「現場」まで行ったところ、「骨だけになって」いたという。しかし「骨だか ら箱に入れて、人に見られても運んで行ける」とも思ったのだという。 今田勇子は、自分の「届けた骨」は「A子ちゃんの骨です」とくり返し、そして「遺骨を焼いてい たら自然に骨は崩れてゆき――人間は骨になると、まず、その骨は、予想以上に小さくて、少なくな るんですね。さらに、骨を焼くと、崩れると、もっと小さく、少なくなるんですね。このことは、葬 祭業者に聞けばすぐに分かるはずです」と書く。吉岡は、「ここには亡くなった祖父の遺体が火葬場で 焼かれたときの驚きが、ほとんどそのまま書かれている」と、また「今田勇子は現実を見ている。A 子の骨を焼きながら、視野を絞り込み、じっと凝視している」とも、記す。そして今田勇子は、「A子 ちゃんの御葬式を早くしてあげて」とも、くり返すのである。 このような今田勇子において、A 子の死――絞殺から「肉物体」へそして「骨形態」へさらに焼か れた骨片へという変化――が、たしかになぞり返されているだろう。そしてそのことを通じて宮﨑勤 は、祖父の「こちら」での死とその葬式の意味についても思いをめぐらせていたはずである。さらに

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彼は、今田勇子という存在を通じて、A子の死とそしてこれから行われるはずのその葬式の意味につ いても、新たな思念をめぐらせつつあったように思われる。 「犯行声明」は、A子の顔写真も同封され、2月 10 日に朝日新聞東京本社に、翌 11 日にA子宅に 郵送された。2月末、警察は「遺骨はA子のものだったと公式に認めた」。そしてA子の葬式が行われ ることになった3月 11 日、同じく朝日新聞とA子宅に、「告白文」が送りつけられる。 今田勇子の「告白文」は、「御葬式をあげて下さるとのことで、本当に有難うございました。御陰 様で、私の子、共々、やっと『お墓』に葬ってやれることができました」と書き出されていた。今田 勇子はその中で、「不慮の事故」で亡くした「5才になる、たった一人の子供」である「我が子の骨を、 A子ちゃん宅の葬式として、正式に『お墓』に入れてもらおうと思ったのです」と書いていた。また、 「私の子供に、遊び相手を送るにも一人送れば沢山です。二度とする気などありません」とも、書い ていた。 これによれば、A子殺害の理由は、死んだ「我が子」に「遊び相手を送る」ことだったことになる。 またA子の遺骨を返却した真の理由は、A子と共に「我が子」の「葬式」をあげてもらうことにあっ たことになる。今田勇子は、何を言おうとしているのだろう。ここでは一体何が、語り伝えられよう としているのだろう。 今田勇子は、「送る前に骨を焼き」、あの「段ボール箱に私の子の骨を入れ、A子ちゃんの歯数本と、 体の骨を少し入れて混ぜました」とも記していた。だが「二度目の詳細な鑑定の結果では、人骨の重 複はなく、あくまで一人分の遺骨であった」とされる。「犯行声明」が訴えていた通り、段ボール箱の 中の骨がA子のものであったことは、客観的・物理的に証明される。では「告白文」は何を訴えよう としているのか。今田勇子の「我が子」は、客観的・物理的には存在しないはずである。一体それは 何者であり、どこにどのように存在したとされるのか。考察の鍵は、やはり「告白文」の最後の数段 落にある。長くなるが、また前稿と完全に重複するが、以下にそのまま引用(11)する。 子供のまま死んだ子って、向こうで子供のまま暮らしているんじゃないのかしら。子供のままで ちっとも変わらなくて、ずっと苦しんでいるんじゃないのかしら。今頃は、空虚さながらの圧迫に さいなまれているんじゃないかと思うと、私もすぐに行ってあげたい。でも、お母さんが行くと、 お前が見てしまう。一人の大人がお前の目の前に現れたら、たとえ、それが親であっても、無事に 子供を送れた相手に対して、ものすごい嫉妬し つ とでとびかかってくるでしょう。お前は、お母さんにだ けは会ってはいけない。でも、会いたい。 現世の刑法を私が終えても、神様は、罪をいつまでも認識して止やむことはないでしょう。神様は、 私の子を、私を知らない状態でひきあわせるかもしれない。私のことを知らない大人に成長させて いるかもしれない。 しかし、私は私の所からA子ちゃんを送った。私が送った。子供に送った。今会えないことがは っきりしているのだから、願いというものが片方から持てる。送れるんだ。それは、私が今生きて

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いる以上、神様であろうと邪魔はできない。私が、子供に向けてA子ちゃんを送った。子供に届く A子ちゃんは、私が送ったA子ちゃんとして必ず届く。私が死なない限りは、たとえ神様でも理は、 くつがえせない。でも苦しい。可愛いA子ちゃんを殺してしまったけど、やはり、私が会いたいの は私の子供。子供のことしか頭にない。ない。どうしたらいいのでしょう。 私はできることなら、神にさからってでも、あと 15 年は捕まりたくないと思っています。そう 心に思っていれば、もし神様が、それよりも前に、警察官を私の前に持ってきた時に、「あと 15 年は捕まりたくない」という私の願いをふみにじってくれるから、私の、真に会いたい状態の我が 子に、私は対面できる。 だから私は、「捕まりたくない。」と言ったのです。これは私の願いごとなのです。 私は、神に斗たたかいを挑まなくてはなりません。 神に対し、「15 年は捕まりたくない」という「願い」をぶっつけて、「私の会いたい子供に私は 会いたい」という「望み」を死守するつもりでおります。 人間が、神と斗う術は、それしかありません」。 引用の後半に三度くり返される「15 年は捕まりたくない」という一文については、前稿でも述べた が、「注意深く文意をとれば意味は全くの正反対であることに気づく」という大塚英志の見解(12)に従 いたい。今田勇子は「15 年」以内に、いや本当はもっともっと早く、「捕まりたくない」という「願 い」を、「神」に「ふみにじって」もらって「死刑」になり、「向こう」にいる「子供のまま」の「我 が子」に、「会いたい」と願っている。 では今田勇子が「会いたい」と望む「我が子」とは何者であるのか。これも、前稿で述べたが、「宮 﨑自身が子どもだったとき」の「手首のことを知らないころの宮﨑――二歳か三歳か四歳になったば かりの彼自身だ」とする、吉岡忍の解釈に基本的に従いたい。ただし本稿では、母である今田勇子お よびそれに重なる大人の宮﨑勤と、子供である今田勇子の「我が子」およびそれに重なる子供の頃の 宮﨑勤との、両者の関係を再考するという視点から、以下に考察をし直したい。 今田勇子は「こちら」の世界で、「我が子」を失いさらに幼女を殺した母である。「向こう」の世界 に去った「我が子」に、「こちら」から「遊び相手」として死んだ幼女を「送った」母である。「こち ら」という「片方から」、「送れるんだ」という「願い」を持って、幼女を「向こう」に「送った」母 である。今田勇子はそうすることによって、死んだ「我が子」を「子供のまま」でいさせようとする。 「我が子」が「子供のまま」でいることを、支えようとしている。彼女はそのような形で、「子供のま ま」の「我が子」を持続的に幻視しようとしているだろう。 そしてそのような子供の姿は、「犯行声明」が書き出された初めに、今田勇子に重なる宮﨑勤によ って、鮮明に思い起こされていたのではなかっただろうか。もちろんそれは、幼女に重なる「もう一 人の自分」の姿として、である。 宮﨑勤は、子供の頃にもどりたいと心から願う青年であった(13)。吉岡忍は、「私は幼児のころの自

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分をこんなにくり返し語り、なつかしみ、あのころにもどりたいという青年にあったことがない」と も記していた。 宮﨑は幼女と出会ったとき、幼女に重なる幼い頃の「もう一人の自分」を幻視し、そして子供の頃 の「甘い世界」の一瞬の立ち現れを、「甘い気持ち」で体験していた。今田勇子と重なる宮﨑勤は、幼 女に重なる「もう一人の自分」の姿を、持続的に幻視したいと願ったのではなかったろうか。宮﨑は、 幼女と共にあることにおいて幻視された幼い自分を、ありのままの「真実の自分」として、それがそ のままに持続すること、そしていつか自分もそこにもどることを、心からの自分の願いとしたのでは ないだろうか。 宮﨑勤は、子供の頃にもどりたいという自らの願望の表現を、「向こう」の世界に子供の自分を置き、 「こちら」の世界にそれを支える母を作りあげるという形で、「告白文」の中に観念的に達成させた。 その作業の核心に置かれた存在、それが、今田勇子であった。他界に置かれた子供の視点から逆に捉 えたとするならば、それを、幻視された亡き母(14)と見ることもできるであろう。 【注】 (1) 「連続幼女誘拐殺人事件・試論−−宮﨑にとっての幼女の意味−−」(『群馬大学社会情報学部研究論 集』第 16 巻、2009 年、所収)。 (2) 「今田勇子から宮﨑勤へ−−連続幼女誘拐殺人事件・続論−−」(『群馬大学社会情報学部研究論集』 第 18 巻、2011 年、所収)。 (3) 文春文庫版、2003 年、による。以下『M』と略記する。なお本稿の本文中の引用はとくに断らない 限り『M』からのものである。 (4) 諸本を参照したが、直接には、柳田国男『新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺』角川文庫、2004 年新版、60 頁、に拠った。訳出に当たっては、石井徹・訳注『全訳 遠野物語』無明舎出版、2012 年、121~122 頁、を大いに参考にさせていただいた。記して感謝する。 (5) 毎日新聞東京本社発行の第4版による。なお同紙では「宮﨑死刑囚」の「﨑」の表記が「崎」とな っていたが、諸本により訂正した。 (6) この部分のとくに公判での証言などの引用は、『M』の他に、宮﨑勤『夢のなか―連続幼女殺害事 件被告の告白』創出版、所収の、同編集部作成による「第一審公判における被告の供述要旨(判決文 抜粋)」から多く取っている。なお同書と、これに続く『夢のなか、いまも』は、東京拘置所に拘置 されていた宮﨑との文書によるやりとりを中心に、編集部作成の事件・裁判資料、識者・評論家によ る事件の解説などによって、構成された書物である。 (7) この対談はその後「親鸞における悪と善」と改題されて、佐藤正英ほか『親鸞の核心をさぐる[徹 底討議]』に収録された。ここではその単行本によって引用した。 (8) 佐木隆三『宮﨑勤裁判(中)』(朝日文庫版、2000 年)では「たけ兄」として、また一橋文哉『宮 﨑勤事件』(新潮文庫版、2003 年)では「武にい」として、記述されている。宮﨑にとって非常に重 要な存在だが、詳細は前稿・前々稿に譲り、本稿では割愛する。 (9) これについても詳細は前稿に譲り、本稿では割愛する。 (10) 「犯行声明」・「告白文」ともに一橋文哉前掲書の「資料編」によって全文を参照した。 (11) 引用文は一橋前掲書と『M』および次注『密室』によって作成したが、前稿とは読点の位置やル ビなどが若干変わっている。 (12) 大塚英志「今田勇子論――死のグレート・マザーをめぐって」(森・芹沢・大塚『密室』所収)。 なおこの部分の考察に際しては、『夢のなか、いまも』に記録された宮﨑の、「母は、自分が事故か 病気で死んだ場合、あの世で5歳のままの我が子に会いたがっていると、それが望みであると。それ で一方、神は母が死んだとき、大人の状態、つまり 20 歳の子供を会わせるかもしれない。そこで、母 は神に対して、日頃、20 歳引く5で 15 年は捕まりたくないという願いをぶつけることで神の裏をか

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いて、5歳のままの我が子に会うという望みをかなえようとしていると、そう思いました」との証言 も、大いに参考になった。 (13) 前稿でも紹介したが、『夢のなか』によれば、拘置所で宮﨑は、「まだ心がチクチクしていない でいられた頃(自分が自分であった頃)の中学時代以前のどの時代でもいいが、もちろん一番自分が 安心していられた子供の頃に戻りたいというのは言うまでもない」と、語っていたという。 (14) 佐藤正英は『歎異抄論釈』の中で、「『歎異抄』の基底を流れているのは、事物や事象および自 己の真にして実なる在りようを体得することへの衝迫である」と述べ、「自己の非通約性に直接むき 合うことが僅かでもできたとすれば、そのとき私たちは阿弥陀仏の眼差をなぞっている」と、また「真 にして実なる在りようは、幻視された自己の非通約性の逆立像に他ならない」と記している。今田勇 子とは、複雑な迂回路を経ながらも、宮﨑勤によって幻視された「非通約性のかたち」の一つだった、 と見ることができるのではないだろうか。なお同書は、本稿の「3.吉本・佐藤対談」に先立って出 版された『歎異抄論註』に加筆、改訂・増補がなされ、その 17 年後に刊行された大部の名著である。 本稿の考察に当たっても大いに参考にさせていただいた。記して感謝したい。 引用文献 吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』文藝春秋、2000 年。後に同社から文庫本化された。 柳田国男『新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺』角川文庫、2004 年。 石井徹・訳注『全訳 遠野物語』無明舎出版、2012 年。 宮﨑勤『夢のなか―連続幼女殺害事件被告の告白』創出版、1998 年。 佐藤正英ほか『親鸞の核心をさぐる[徹底討議]』青土社、1991 年。 佐木隆三『宮﨑勤裁判』(上・中・下)朝日新聞社、1991 年~97 年。後に同社から文庫本化された。 一橋文哉『宮﨑勤事件―塗り潰されたシナリオ』新潮社、2001 年。後に同社から文庫本化された。 森毅・芹沢俊介・大塚英志『密室』春秋社、1990 年。 宮﨑勤『夢のなか、いまも―連続幼女殺害事件元被告の告白』創出版、2006 年。 佐藤正英『歎異抄論釈』青土社、2005 年。 原稿提出日 2014 年 9月5日 修正原稿提出日 2014 年 11 月4日

参照

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