始 め に
張
偉
世親 (天親) と小乗 ・大乗 ・他力
一 九 四 天親論主 は一心 に 無碍光に帰命す 本願力 に乗ずれば 報土 にいた る と のべた まふ」 ` そ し て 、 「天親菩薩造論説蹄命無碍光如来依修多羅頚偉賓光閑横超大誓願廣由本願力廻向焉度群 生彰一心帰入功徳大賓海必獲入大会衆敷得至蓮華蔵世界」 「釈迦の教法おほけれど 天親 菩薩はねんご ろ に 煩悩成就のわれ らには し弥陀の弘誓をすすめ しむ」(2) とい う 文 にあ らわさ れた よ う に、 親鸞は、 千部の論者 と いわれる世親のすべて の教 え よ り 「弥陀の弘誓をすすめ しむ」 と い う他力念仏の教えを汲み上げる と言 う と らえ方を して - 81-世親は大乗仏教の二つの頂点のーつ で あ る唯意識論の大成者で あ り、 また浄土教 を発展 させる源流で ある 「浄土論」 を打ち立てた、 ひたむきな浄土の願生者である。 従来、 世親 の生涯の作業 を小乗仏教 を主張する前期 と大乗仏教 を説 く 後期 に分け、 世親の代表作 の一 つである 「倶舎論」 を小乗仏教の教え に固執 した著作 と して と らえている。 また、 唯識と 浄土 は、 そ れぞれ独立 し た世親の主張 と し て と ら え る よ う で ある 親鸞は、 「教行信証」 の中で数多 く 世親の論を引用 している。 「高僧和讃」 では尊敬の 念 を こ めて歌十首 を世親 に さ さ げて い る (l)。 「釈迦の教法おほけれど 十 天親菩薩はねんごろ に 煩悩成就のわれ ら には 弥陀の弘誓をすすめ しむ( 中略)「大乗」 と 「小乗」 ・ 「大乗仏教」 と 「小乗仏教」
-いる。 それは、 親鸞以前、 そ してその後現代 に至 る まで の一般的な世親の と ら え方 と は峻 別 し て い る と こ ろ に立 っ て い る。 筆者はその親鸞の と ら え方の根拠 を求め、 世親のすべての著作 と世親についての原典 を 考察 した。 考察 している う ち に、 従来の と らえ方に疑問を感 じて く る。 こ こ で原典 を根拠 に して、 あ えて異議 を述べたい と思 う 。 一 九 三 「教行信証」 も大乗に関する釈尊の言葉 を数多 く 引用 している。 「実諦者名日大乗、 非大乗者不名実諦。 実諦者是仏所説。 ( 中略) 実諦者、 一道清浄無有 二。」(m 親鸞は大乗に関する釈尊の言葉 を忠実に引用 しなが ら、 大乗が阿弥陀如来の誓願であ - 82-まず大乗仏教 と小乗仏教の言葉の源 を探 っ てみよ う 。 大乗 と小乗 は北伝仏教おいて は大 きな意味 を持つ言葉だ と思われる。 それは釈尊によっ て さ ま ざまな形で語 られている。 例 えば次の よ う で ある。 「十方国土中 唯有一乗法 但以仮名字 引導諸衆生 (中略) 仏自住大乗 如其所得法 定慧力荘厳 以其度衆生 自証無上道 大乗平等法 若以小乗化 乃至於一人(中 略) 更以異方便 助顕第一義 為諸衆生類 分別説三乗 少智楽小法 (中略) 但一乗道 法 教化諸菩薩」 (3) 「求一切智仏智自然智無師智如来知見無所畏。 ( 中略) 初説三乗引導衆生。 然後但以大乗 而度脱之。」 (4) 「貪著小乗 (中略) 深著五欲 求現滅度」 (5) 「諸仏如来正真正覚所行之道。 彼乗名為大乗。 名為上乗。 名為妙乗。 名為勝乗。 名無上 乗。 名無上上乗。 名無等乗。 名不悪乗。 名無等等乗。 ( 中略) 以是義故名為大乗。」(6) 「以大悲不痴忘為成大乗」(7) 「云何云為荘厳菩薩乗。 乗者謂無量也。 無辺無涯故。 普遍一切喩如虚空。 広大容受一切 衆生故。 ( 中略) 是故名為大乗( 中略) 此乗普照能放綬網光明故( 中略) 。 菩薩大荘厳及乗大 乗。 (中略) 捨一切邪道巳趣於真実正道到薩婆若。」(8) 「摩詞術者。 出諸天世同人阿須倫之上。 術男空等如虚空。 菩薩摩詞薩亦不見来時。 亦不 見去時。 亦不見住処。 摩詞術如是。 (中略) 是故摩詞術名為無有男等者。」 「放光般若経」(9) 「欲行大道莫示小径。 無以大海内於牛跡。 無以日光等彼蛍火。 (中略) 我観小乗智慧微浅 猶如盲人。」(10)要する に 「大」 と は、 人間の計 らいの レベルの もの、 「世間、 衆生、 思議。 有限、 不円 満」 に対する 「超世間、 如来、 不思議、 無限、 円満」 を意味する。 したがっ て仏教の根本 である慈悲は、 「大」 なる もので あ らねばな らない。 その人間を救済する大慈大悲は人間 の計 らい を超 え る ものなので ある。 世親(天親) と小乗 ・ 大乗 ・他力 る こ と を も明示 し て い る。 いわゆる大乗の真髄、 こ れらの著作 を貫いている芯は、 「大乗」 の 「大」 である。 それ は一本の赤い糸のよ う に世親のすべて の著作 を ま と めて いる。 大一摩詞。 自体寛広、 周遍含容、 多、 勝、 妙、 不可思議。 「周遍含摂 ・ 体無不在 ・ 物無 不是 ・ 非因待小 ・ 当体受称 ・故名為大j (12) 「爾大哉。 至理真法一如、 化物利人」(13) 「為一切衆生求仏道故名為大」(14) 「慈悲有三縁。 ―者衆生縁。 是小悲。 ( 中略) 三者無縁。 是大悲。 大悲即出世善也。」(15) 「誠知、 選択摂取之本願、 超世稀有之勝行、 円融真妙之正法、 至極無碍之大行也」(16) 「摩詞術者。 出諸天世間人阿須倫之上。」(17) 一 九 二 乗 と は、 運載 ・ 車乗 ・ 乗 り物 と言 う 意味で あ る。 仏教の教 え をた と えた もので あ る。 教 えの レベルの異な り によっ て大乗 と小乗 に分ける。 大乗 と小乗が意味す る こ と は、 次のよ う である。 (出典同前) 一 大乗はまた摩詞術 と もいう 。 大いなる車乗であ り、 すべての衆生 を済度する。 それ 対 して小乗は一己の解脱 を求める。 「自住大乗 以其度衆生 自証無上道 大乗平等法若 以小乗化 乃至於一人」 「広大容受一切衆生故。 (中略) 是故名為大乗」 二 大乗は 「実諦」 であ り、 真の仏の教えである。 すなわち、 真如、 超世間、。如来のレ ベルの真実の教えで ある。 それに対 して、 小乗 は世間諦で あ り、 眼に見 える世界の真実、 人間の計 らいで理解で きる、 世間的な教 えで ある。 二 「諸仏如来正真正覚所行之道。 彼乗名為大乗。」 「菩薩大荘厳及乗大乗。」 「捨一切邪道巳 趣於真実正道到薩婆若。」 「貪著小乗」 「深著五欲 求現滅度」゛ 三 大乗は人間の働 きを超 え る如来の力や智慧に よる救済なので 、 時間 と空間の限界は ない。 それに対 して、 小乗は人間の働 きを よる救済であるので限界がある。 丁摩詞術者。 出諸天世同人阿須倫之上。 術興空等如虚空。 術興空等如虚空。 菩薩摩詞薩 亦不見来時。亦不見去時。亦不見住処。摩詞哲如是。 (中略) 是故摩詞哲名為無有興等者。」 「我観小乗智慧微浅猶如盲人。」(19) 、 ) ‥ ‥ ‥ 大乗と小乗の異な りは、 「大海」 と 「牛跡(牛の足跡の中の水) 」。 「日光」 と 「蛍火」万 のよ う であ り、 比べ よ う もない。: その異な りは、 人間の分別心にと らわれる二元対立的な -
83-「言一乗海者大乗、 大乗者、 仏乗、 得一乗者、 得阿蒋多羅三貌三菩提。 阿侭多羅三貌三 菩提即是涅槃界。 涅槃界者即是。 究竟法身。 得究竟法身者則究竟一乗。 ( 中略) 究竟一乗 者即是無辺不断。 大乗無有二乗三乗、 二乗三乗者入於一乗。 一乗者即是第一義乗、 唯是 誓願一仏乗也。」 (23) ゛ 大小で はない。 差別観念の中の大 と小で はない。 大乗の 「大」 に対 して、 差別観念の中の 大 と小はと も 「小」 で ある。 大乗 と小乗の異な り は、 如来 と人間、 超世間 と世間、 彼岸 と 此岸の違いで ある。 根本的な と こ ろ は、 働 きの能源 と行方の異な りで ある。 小乗は小 さ い だけで はな く 、 方向不明のま まで ある。 実は彼岸への乗 り物 にな らない。 「我観小乗智慧 微浅猶如盲人。」 小乗 は盲人が一人で船 に乗 る如 く 、 い く らがんばっ て も、 解脱の彼岸 に 到達す る こ と はで きないので ある。 「十方国土中 唯有一乗法」 衆生 を解脱の彼岸に度す る乗 り物は大乗 しかない。 そ う で ある な ら、 なぜ小乗 を語る のか。 その理由は ( 如来有無 量智慧力無所畏諸法之蔵。 能輿一切衆生大乗之法。 但不能尽受尹)) 「妙法蓮華経」 (巻第 二 「大正蔵」 第九巻12ページ) と言われた よ う に如来は無量の智慧力 と無所畏の諸法の 蔵を もっ て一切の衆生 に大乗の法 を与 え る こ とがで きるが、 それを衆生 は十分受け入れる こ と はで きない と のこ と で ある。 大乗 は限 り ない力 を持 っ てすべての衆生 を救済す る こ と がで きるので あるが、 人間の計 らい ・ 自力に固執 している衆生は、 大乗 と 出会 う には大 き な隔た りがある。小乗はその隔た りの中に働 く もので あ り、衆生 を大乗 に導 く 方便で ある。 喩えてい う な らば、 海 を渡る には大船で なければな らないが、 海 に至る まで の川 を下る に は小 さ い舟が運びやすい場合がある と い う こ と で ある。 「所説三乗引導衆生。 然後但以大乗而度脱之」 「但以仮名字 引導諸衆生 ( 中略) 更以異 方便 助顕第一義 為諸衆生類 分別説三乗」。(21) 以上の考察 によれば、 小、 虚偽、 雑汚染で ある人間の計 らいに対 して、 大乗 は大、 真実、 純、 清浄と い う 。 「純―大乗清浄無雑」(22) それは仏教の救済その もので ある。 小乗は方 便で あ り、 真の救済の道にな らない。 大乗以外 に、 仏教の真実はな く 、 仏教の救済 も ない。 一 九 一 以上は小乗 一大乗の異な り についての考察で ある。 で は次は小乗仏教 ・ 大乗仏教の異な り について考察 してみ よ う 。 世親の時代は、 釈尊がな く な っ てか ら九百年、 像法時代の末期で ある。 (注 世親の時 代 について は、 「至仏滅度九百年」(24)と 「仏滅度後千一百余年。 有出家菩薩名婆薮盤豆。 器度宏映。 神才壮逸。 学窮文字。 思徹淵源。 徳隆終古。 名蓋当世。 造大小乗論。」(2S)、 「仏 滅度後千一百余年」 と言 う 二説がある。 本論は、 像法時代の特徴を も加えて 「至仏滅度九 百年」 とい う 説に したがう 。) その時代 に、 仏教は形骸化 していた。 釈尊の教えはだんだん と形式的 ・ 戒律主義的に変 -
84-一 九 〇 世親(天親) と小乗 一大乗 ・ 他力 質さ れ、 専門化 さ れ、 学問化 さ れ、 民衆 と の距離はます ます大 き く な っ た。 それ と 同時に、 学問的に も教 え は釈尊が伝 え よ う と した真実 を失 っ て世間的な も のに化 さ れ、 世俗化 に 陥っ た。 その傾向を是正 して、 仏教 を釈尊の真意に返そ う とする運動が行われた。 人間の 行っ た運動で あるか ら、 さ ま ざまな人間的な計 らいや功利的な打算が混 ざっ ているが、 こ の運動によ っ て当時伝 え られた仏教の問題点が問いかけ られ、 釈尊の大乗思想が明かにさ れ、 仏教の発展の方向が是正 さ れる。 運動 を興 っ た仏教徒は、 自ら を大乗仏教 と名づける と と も に、 既成の仏教 を小乗仏教 と侮蔑 し て呼 んだ。 し たがっ て、 既成の仏教が 自ら小乗 の思想 を主張す る と も思わな い し、 自ら小乗仏教 を称 し た も ので も な い。 す なわち、 も と も と いわれる小乗仏教は、 大乗仏教が台頭 し始める と き、 その大乗教徒が既成の部派仏教 を軽視 し た こ と か ら生 まれた名称で あ る。 一口に小乗仏教 と いっ て も、 既成の原始仏教 を含めて言 う 場合 と 、 直接大乗仏教の運動 の敵対者 と な っ た保守派の諸組織 を言 う 場合 と の二つの場合がある。 世親の兄で ある無著は大乗仏教の運動の中で重要な役割 を担 っ ていた。 無著は、 最初小 乗仏教 に入 っ たが、 釈尊の教えがそれだけで ある はず も ない と思い、 兜率宮 に弥勒菩薩に たずねた。 弥勒 に大乗仏教の密意 を教わ り、 大乗の真実 を覚 り、 大乗の真理 を主張 し始め た。 も と も と大乗 についての教 えは、 釈尊の語 りの中に散在する もので あるが、 それは無 著に よっ て ま と め られ体系化 さ れた。 無著の論 を解釈 し、 それを深め広め、 大乗仏教の理 論基盤 を築いたのは世親で ある。 「言大乗者。 理必絶待。 仮大称之。 名日大乗。 其義郭周。 体性該博。 謂為大也。 所行功徳。 能至能証。 名之為乗。 論者無著菩薩之所製造。 窮源尽理。 清微朗暢。 謂為論也。 釈者婆薮論師之所注解。 清弁剖扶。 文理倶騰其為釈焉」 「摂大乗論 釈序」 この文の中での 「論」 は無著の 「摂大乗論」 で ある。 それは絶対の真理を語るので 「大」 と言う言葉を借 りて表現 し、 「大乗」 と名づける。 その義は円融至極であ り、 その性はあ まね く ゆきわたる。 それは源を窮 し理 を尽 く し、 明晰であるので論 と言 う 。 文の中の「釈」 は、 天親の「摂大乗論釈」で ある。 明哲 に論弁 し透徹 に解釈 し文理 と も に上回る釈 とい う。 以上考察 して きた と こ ろ によれば、 丁小乗」 と 「大乗」 と言 う と きには、 釈尊の教えの 中で の方便 と真実の異な り を意味す る場合 と 、 当時の釈尊の大乗思想 を掲げ られ新興仏教 が自ら を大乗仏教 と名づける と と も に、 既成の仏教 を小乗仏教 と い っ て侮蔑 して呼んだ こ と を言 う場合 と の二つがある。 後者は、 「小乗仏教 ・大乗仏教」 と言 うべ きである。 し
世親は 「小乗」 を主張 したこ と があるか ?
従来、 世親が二十歳 よ り五〇歳 ごろ まで小乗仏教徒 と して著作 し、 その仕事が大乗仏教 をそ し る こ と だ と い う ふ う に と ら えて いる。 世親が二十歳 よ り五 〇歳 ごろ まで小乗仏教徒 ¬ 85-一 一, 「法師先偏通十八部義。 妙解小乗執小乗。 為是不信大乗。 謂摩詞術非是仏所説。 阿僧伽 法師既見其弟聡明過人識解深広該通内外。 恐其造論破壊大乗。 阿僧伽法師住在丈夫国。 遣使往阿輸開国報婆薮槃豆云。 我今疾篤汝可急来。 天親即随使還本国男兄相見。 諮問疾 源。 兄答云我今心重病由汝所生。 ( 中略) 天親聞此驚惧即請兄為解説大乗。 兄即為略説大 乗要義。 法師聡明殊有深識。 即於此時得悟知大乗理。 ( 中略) 昔既毀膀大乗。 不生信楽。 惧此罪業必入悪道。 深 自咎責欲悔先過。 往至兄所陳其愚迷今欲懺悔。 ( 中略) 云我由舌故 生毀誇。 今当割舌以謝此罪。 (中略) 兄云汝舌能善巧毀誇大乗。 汝若滅此罪。 当善巧解説 大乗。 (中略) 天親方造大乗諭。 解釈諸大乗経。 ( 中略) 文義精妙有見聞者廉不信求。」(27) であっ た こ と は間違わないが、 その時期の著作が大乗仏教 をそ し る こ と には疑問を感 じて いる。 それについて考察 し て みた い。 以上の 「大乗 ・ 大乗 ・小乗仏教 ・ 大乗仏教」 についての論 を踏 まえて、 世親の前期の著 作はこ う い う 仏教の大乗の教え に対する小乗の教 え を主張する ために書いた ものだ と は、 あ り えない。 それは作品そのものを読めば自明のこ とで ある。 (それについて、 後で詳 し く 述べる。) で は、 なぜ、 世親の前期の著作が小乗の教 え に固執 して著 さ れた作だ と い う こ と は定説 にな っ たのか。 それは経典の中の世親が 「執小乗。 為是不信大乗」 と言われる言葉を根拠 に しているので はないか と思 う 。(26) こ こ に 「小乗 ・ 大乗」 と 「小乗仏教 ・ 大乗仏教」 と い う 言葉を区別せずに理解する こ と によっ て もた ら さ れた混乱がある と思 う 。 以上の 「小乗仏教 ・ 大乗仏教」 と い う 言葉が意味す る こ と と 、 それが生 じ る時代背景に ついての考察 によれば、 天親がいわれた 「執小乗。 為是不信大乗」 においての 「小乗 と大 乗」 は、 「小乗仏教 ・ 大乗仏教」 に該当するべ きで ある。 小乗に固執 し大乗 を信 じない と は、 当時世親が身をおいた小乗仏教の組織か ら出 られず に、新興 している大乗仏教の運動、 その組織 を理解 してい ない と い う ふ う に理解すべ き と思 う 。 世親が小乗仏教か ら大乗仏教 まで にた どる経緯 も 「婆薮槃豆法師伝」 に記 さ れている。 一 八 九 世親がは じめ説一切有部において 出家 し、 経量部の教義 を学んだ。 世親が最初 に身をお いたのは小乗仏教 と言われた当時のイ ン ドの部派仏教で ある。 世親はいわゆる小乗仏教に 身をお きなが ら、 その枠 に縛 られず、 仏教の真髄に深 く 入っ ている。 世親は、 釈尊の教え は釈尊の直接の言葉だ と伝え られた小乗仏教以外 にあ り え ない と信 じ込んで いる よ う であ り、 新興 し た大乗仏教 を理解 し よ う と も しな く て、 大乗仏教の教 えは釈尊の教 えで はない と も言っ た。 世親の兄で無著は 「聡明過人識解深広該通内外」 とい う弟の並々な らぬ聡明 さ と仏教の真髄 を理解す る深 さ 、 広 さ を よ く 知 り、 その非凡の力 を持っ て論 を作 り大乗仏 -
86-『倶舎論』 は小乗 を主張する作であるか ?
以上の記載 を考察すれば、 世親は大乗仏教に入る前に 「大乗は釈尊の教えで はない」 と は言っ たが、 大乗 に対立する立場 に立 っ て、 小乗 を主張す る作 も作 ら なかっ た こ と は事実 である。 したがっ て世親の論作の中に大乗 に対立する小乗 を主張す る作がない こ と は推論 で きる。 世親の全論作 を貫いているのは大乗仏教の真髄で ある。 その後の仏教徒は大乗 と 小乗 は問わず に皆世親の教え を寄 り所 に している。 「大小乗人。 悉以法師所造為学本。」(28) 「仏滅度後千一百余年。 有出家菩薩名婆薮盤豆。 器度宏礦。 神才壮逸。 学窮文字。 思徹 淵源。 徳隆終古。 名蓋当世6 造大小乗論。」(29) こ の文の中の 「造大小乗論」 と い う 言葉 を天親の著作が半分小乗 を半分大乗 を主張する よう に受け止められている よう であるが、 それは誤解だと思う。 「造大小乗論」 と は、 「大 小乗人。 悉以法師所造為学本」 と いわれた よ う に、 天親の著作 は、 大乗仏教 と小乗仏教の 共通の理論根拠 になる と のこ と だ と思 う。 世親(天親) と小乗 ・大乗 ・他力 教を破壊せんこ と を恐れ、 「病篤」 と知 らせて世親を身元に呼んだ。 世親は兄の心配を聞 いて驚いて、 す ぐ兄 に大乗仏教の理 を教そわっ た。 も と も と深 く 仏教の真髄 を会得 してい た世親は、 兄に説かれた大乗仏教の理に深 く 頷 き、 真剣にそれを学んだ後に大乗仏教に目 覚めた。 過去に大乗仏教を誹膀 した 自分を深 く 咎め、 痛切 に自責 した世親は、 自分の舌を 切 り、 罪 を須お う と決心 し た。 兄 は、 舌 を切 る よ り、 自分の舌 を持 っ て大乗仏教 を弘賛す る方が罪 を須 う と説得 した。 世親はその説得 に頷 き大乗仏教 を弘め説 き始めた。 世親に説 かれた ものは義理精妙で あ り、 それを見聞 した者で大乗仏教 を信求 し ない者はほと ん どい な い 。 一 一 一 一 八 八 「倶舎論」 を読めば 「倶舎論」 は決 して小乗思想を主張する作で はない こ とが明らかで ある。 筆者は 「倶舎論」 を書いた背景 と天親が大乗仏教に入る経緯を仏典に基づいて考察 した。 考察の経緯は次のよ う である。 犬 し 二 し 『婆薮槃豆法師伝』゜))に、 天親が 「倶舎論」 を書 く 背景について次のよ う に記 している。 イ 至仏滅度九百年有外道。 名頻間詞婆娑。 ( 中略) 唯釈迦法盛行於世。 衆生謂此法為大。 我須破之。 即入阿輸開国以頭撃論議鼓云。 ( 中略) 王知此事即呼外道間之。外道日( 中略) 我今欲与釈迦弟子決判勝劣。二各須以頭為誓。 王即聴許。 王遣人間国内諸法師。 (中略) 於 時( 中略) 唯有婆薮槃豆師仏陀蜜陀羅法師在。 (中略) 法師即堕負。 (外道) 従此神女乞恩願 - 87-「倶舎論」 は小乗 を主張する作だ と は従来のと らえ方に定着さ れている よ う である。 そ こ に誤解がある と思 う 。 ■ ■ ■ ■ ㎜令我死後身変成石。 永不毀壊。 (中略) 婆薮槃豆後還聞如此事歎恨憤結。 不得値之。 遣人 往頻開詞山挺此外道欲折服其恨憤慢以雪辱師之恥。 外道身巳成石。 ( 中略) 即造七十真実 論破外道所造僧伽法論。 首尾瓦解無一句得立。 諸外道憂苦如害己命。 (中略) 法師爾後更 成立正法。 先学毘婆沙義巳通。 後為衆人講毘婆沙義。 一 日講即造一価摂一 日所説義 ( 中 略) 如此次第造六百余偶摂毘婆沙義。 皆尽一一皆爾。ヽ遂無人能破即是倶舎論価也」 上の文の大意は次のよ う で ある。 釈尊滅度九百年 にある外道があ り、 釈尊の法が世の中において最高の法で ある と思われ る こ と に不満 を感 じ、 釈尊の法 を破 ろ う と し、 阿輸開国に入 り、 頭で論議の鼓 を打 ち、 国 の王 に 「私は頭 を持 っ て誓 う 。 釈迦弟子 に対論 し勝負 を決め よ う とす る」 と請願 した。 国 王はその請願 を受けた。 その時、 世親な どの諸法師は他の国にいて不在で あっ た。 国内に いた世親の師なる仏陀蜜陀羅法師が老邁の身を以っ て それに当 り、 遂に負けた。 外道はそ の後 に神女に自分の身を石に化する よ う に頼んだ。 釈尊の教え に勝 ち取 っ た こ の結果 を永 遠に世の中に示 し、 仏教の代わ り に自分の説が石のよ う に世の中に立ち、 永遠に毀壊 しな いこ と を願 っ たので ある。 後 に世親が戻 り こ れを聞いて 「歎恨憤結」 に耐 え られず、 外道 の験慢 を折服 し雪辱 し ょ う と、人を遣 っ て外道 を探 したが、外道は既 に身を変 じて石 と な っ た。 こ れにおいて世親は七十の真実論 を作 り、 外道の僧法論を破っ た。 外道の論は一句 も 立つ こ と を得 られず に首か ら尾 まで瓦解 して し ま う 。 当時の諸外道は自己の命が害 さ れる ほど憂苦 に耐 え られないが、 世親の論 を論破す る ものはー人 もい ない。 こ のよ う に して、 外道の醤慢 を折服 し雪辱 した世親は正法 を保つ ために、 更 に毘婆沙義 な どを深 く 学び、 その深意を会得 した上、 人人に毘婆沙義 を説 く 。 一 日に一講、 一 日に説 かれた講義をー偶 にする。こ のよ う に して次第に毘婆沙の深髄 を収める六百余価 を作 っ た。 それが 「倶舎論価」 で ある。 以来天親に保たれた正法を破 る者はなかっ た。 ノ 以上の文によって、 次のこ とが明らかになる。 その一は、 「倶舎論」 は外道から、 釈尊 の教え を守る体験 を踏 まえて作 り上げ られた作で ある。 世親のおかげで 、: 外道の論が破 ら れ、 釈尊の教 えは外道の説に取 り返 さ れる危難か ら免れ、 破 られない位置が保たれた。 そ の二は 「成立正法」 に表 さ れた よう に、 「倶舎論」 によって立て られた ものは大乗小乗 と は関係 ない正法その もので あ る。 = ¥ 「倶舎論」 は 「毘婆沙義」 を説 く 内容 を整理 した ものであ り、 その理論根拠になる 「阿 毘達磨大毘婆沙論」 が部派仏教教理の集大成で ある と い う こ と も、 「倶舎論」 が小乗仏教 を主張す る作で あ る根拠 にな る。 ◇ j 「大毘婆沙論」 の著者の名に 「五百大阿羅漢等造」 と書いたので あるが、 序の と こ ろ に 次のよ う に述べている。 「問誰造此論。 答仏世尊。 所以者何。 以一切種所知法性甚深微妙。 非仏世尊一切智者。 誰能究竟等覚開示。 若爾此中誰問誰答。 ( 中略) 五百阿羅漢問。 仏世尊答。」(31) - 88-一 八 七
前 に述べた時代的特徴 に見 ら れる よ う に、 小乗仏教の理論根拠 と し て掲 げ ら れた 「大毘 婆沙論」 は、 その時代の仏教徒の解釈によっ て内実が取 り違え られている よ う である。 そ う い う 時代の特徴 を痛感すればこそ、 世親は積極的に 「大毘婆沙論」 を説 き、 その真の精 神を伝え よ う と 「倶舎論」 を害いた と考え られる。 「規範諸師今減少 真法正理多混濁 皆由聡叡邪慢人 依 自尋思失教証」(35) 世親 (天親) と小乗 一大乗 ・ 他力 問答形式で書かれた 「大毘婆沙論」 は、 問 う 者はさ まざ ま、 多数で あるが、 答える者は 釈尊のみである。 それに、 こ の序の文には 「甚深微妙である法性は仏世尊 と い う 一切智者 の他 に開示する者はない」 と い う 断言 もあ る。 論の主 旨につ いて は次の よ う に明示 し て い る。 「開覚意息混迷。 遣愚痴生智慧。 断疑網輿決定。 背雑染向清浄。 詞流転讃還滅。 捨生死 得涅槃。 描破一切外道邪論。 成立一切仏法正論。」(32 すなわち、 「阿毘達磨大毘婆沙論」 は、 釈尊の教えで ある。 その主張 も釈尊の教えその もので ある。 阿毘達磨教は小乗仏教の所依で あるだけで はな く 、大乗仏教の所依 に も な る。 「摂大乗論。 即是阿毘達磨教。」 (33) 小乗仏教 と その理論の所依で ある 「大毘婆沙論」 と の関係 について は、 像法時代 と い う 時代の特徴 を踏 まえ て と ら え るべ きで あ る と 思 う 。 像法の 「像」 は鏡の中の人間と言う こ と を意味する。 (筆者の 「龍樹 と他力念仏」 論参 照。 「同朋大学論叢」 第89号) 像法時代の仏法は釈尊の予言の と お り に、 鏡の中の人間の よ う に、 形 はそのま まで あるが、 内実は別所で ある。 「像末五濁の世 と な りて 釈迦の遺経か く れ し む」(`1) 一 八 六 「倶舎論」 は主 と して毘婆沙の義 を解釈 した もので あるが、 傍 ら広 く 仏教の各流派の精 華を拾い、 部派仏教教理 を是正 し、 世親 自身の仏教への会得がこ め られた もので ある。 「倶 舎論」 は理論体系 と して当時の仏教の流派 を凌駕 している と 同時に、 その論旨の整然たる こ と教理の明徹 さ も超絶 して、 比 を見ない。 故に 「倶舎論記」 には、 こ の論は 「討広説之 教源。( 中略) 採六足之綱要備尽無遺。顕八漉之妙門如観掌内( 中略) 。唯此一論。卓乎廻秀。」 (大意 こ の論は 「た く さ んの説の教 えの源 を得て、 六足の綱要 を採 り、 備 え尽 して遺す こ と な く 、 八置の妙門を顕 して、 掌の内にある ものを見るが如 し。 (中略) 。 ただ こ の一論 は衆の秀 を凌 ぐ。」 ) と述べている。(36) △ ノ 「倶舎論」 論は天親が説一切有部の教義を研究整理 した上に作 り上げられた ものである が、 それは有部の伝統的な説 を批判 し なが ら行 っ た作業で ある。 小乗仏教の一派の代表者 で ある説一切有部の教義を研究整理 し、 「倶舎論」 三十巻 を著 した こ と も世親が小乗の教 えに固執 し、¥有部の学 に忠実で あっ た根拠 になる。 ¥ 卜 ‥ ‥‥‥‥‥ ‥ ‥ ‥ - 8←
「倶舎論」 は 「阿毘達磨倶舎論」 の略、 「阿毘」 は 「対する」 の意であ り、 達磨は 「法」 を意味する。 「倶舎」 蔵である。 「阿毘達磨倶舎論」 は法に対 して蔵 を論 じる意である。 「今欲造論。 為顕 自師其体尊高超諸聖衆。 故先讃徳方申敬礼。 諸言所表謂仏世尊。 ( 中略) 巳讃世尊 自利徳満。 次当讃仏利他徳円。 抜衆生 出生死泥者。」(39)と言 う 天親 自身が 「倶舎 論」 の最初に述べた意図を踏まえてみれば、 多論を対象に し、 その勝義を包摂 しながら、 釈尊の真意を明らかに し、 真の仏法を立て るのは、 「倶舎論」 の意図する と こ ろである。 「倶舎論」 は 「談玄微窮於奥極。 述事象略而周遍。 ( 中略) 詞不繁而義顕。 義雖深而易入」 と言われた よ う に、 事象についての叙述は細部まで周遍するが、 究極的な正法は血脈のよ う に全部の内容 を貫いて いる。 「倶舎論」 の主旨は次の歌によっ て明瞭に表 さ れる。 仏典には天親の 「倶舎論」 と有部の学 と の関係について次のよ う に記 して いる。 「先於薩婆多部出家。 但学彼部所立三蔵。 後見彼法多有乖違。 故造此論。 具述彼執。 随 其謬処。 以経部破之。 故此論本宗是薩婆多部。 其中取捨。 以経部為正。」(37) こ の言葉 によれば、 世親は有部の三蔵 を学んだが、 その説が本の仏法 と乖離す る と こ ろ、 異 なる と こ ろが多い こ と に気がつ き、 如来の教 え を根拠 に して、 異説を破 る ために「倶 舎論」 を書いたので ある。 説一切有部の説 を深 く 理解 しその長所 を生か し なが ら、 世親は ます ます説一切有部の説の限界、 特 に像法末期 においての限界 を痛感 し、 「大師世眼久巳 閉 堪為証者多散滅 不見真理無制人 由彼尋思乱聖教 ・自覚巳帰勝寂静 持彼教者多随 滅」(38)と言 う 嘆 きを発 した。 像法末期の時代の現実におかれた世親は、 有部の説 を研究 し ている う ち に、 「非法言法。 法言非法」 「形類比丘」、 「助作末世壊正法憧。 建悪魔憧。 滅 正法矩」 と い う 像法の時代の特徴 を も痛感 し た よ う で ある。 「一切種智滅諸冥 抜出衆生生死泥 頂礼大師如理教 対法倶舎我当説」 ( 「倶舎論」 第一 「大正蔵」 二十九巻161頁) 一 八 五 以上の歌に伺える こ とであるが、 「倶舎論」 は根本のと こ ろ に小乗仏教 と峻別 していま す。 人間の計 らい を よ り と こ ろ にする小乗に対 して、 「倶舎論」 は 「一切種智滅諸冥」 と、 如来の知恵によっ て無明を破 る こ と を主張 し、一己の救済を 目標 にする小乗 に対 して、「抜 出衆生生死泥」 と衆生 を生死の泥沼か ら救い出す こ と を 目標 にす るので ある。 「倶舎論」 には小乗の理 を説 く と こ ろ は少な く ないが、 それは前に述べた よ う に 「為利他方便」 ( 「倶 舎論」 第一 「大正蔵」 二十九巻161頁) なので、 その理の奥底には 「大師如理教」 ( 「立教 不虚称大師」 出典同前) という大乗の理が潜んでいる。 「倶舎論」 は世親がその身を小乗仏教においていた と きに書かれた作であるが、 「倶舎 → (卜
従来の世親の唯識論は次のよ う な と ら え方 を さ れている。
四
世親の 「唯識」 は唯の 「自我の心」 なのか ?
世親(天親) と小乗 ・ 大乗 ・ 他力 論』こ そ、 小乗仏教の限界を明らかに して、 後の唯識大乗の踏み台にな る もので ある。 「倶 舎論」 は世親 によっ て顕かにさ れた小乗 と大乗の内在するつ なが りで あ り なが ら、 世親に よって 開かれた小乗仏教か ら大乗仏教への転換す る理論的な踊 り場で もある と思え る。 そ れによっ て小乗仏教 と いわれる仏教 も、 方向転換する可能性 を得 られた。 一 八 四 このよ う な受け止め方によれば、 世親の唯識の 「識」 は 「自我の心」 とい う 意味にな り、 「唯識」 は 「唯の自我の心」 とい う 意味になる。 こ のよう に して、 唯識 と浄土 (他力念仏) は 「自我」 と 「他力」 とい う 次元の異なる ものになる。 筆者は、 それに疑問を感 じ、 経典 に載っ た世親の 「唯識」 についての論 を読んで、 「唯 識」 と 「他力念仏」 と のつながる道 を探 ってみた。 兄無著の縁 によっ て大乗仏教にはい った世親は、 その後、 大乗仏教の興隆のために心血 を尽 く した。 世親が兄である無著に大乗仏教に導かれてか ら、 兄の著作 「摂大乗論」 を解 釈 した 「摂大乗論釈」 「摂大乗論釈論」 などを書いた上に、 「妙法蓮華経憂婆提舎」 「妙法 蓮華経論憂婆提舎」 「十地経論」 「宝替経四法」 「涅槃論」 「涅槃経本有今無論」 「遺教経 論」 「文殊師利菩薩問菩提経論」 「勝思惟梵天所問経論」 「転法輪経憂婆提舎」 「金剛般若波 羅蜜経論」 「能断金剛般若波羅蜜多経論釈」 な どの大乗仏典の解釈書 と 「業成就論」 「大乗 成業論」 「仏性論」 「中辺分別論」 「弁中辺論」 「止観門論頌」 「発菩提心経論」 ( 「大正蔵」 二十五、 二十六、 二十九、 三十、 三十一、 三十二巻参照) な どを著 し大量の大乗仏教の理 論 を説いた、 千部の論者 と言われる。 その中で、 築 き上げ られた唯識思想は、 大乗仏教の 理論の礎 を高め、 かつ強める ものにな り、 龍樹の 「中論」 と と もに大乗仏教の理論の頂点 を示 し て い る。 卜 これらの作 は、 世親が 「通法貫玄」(42)と言われた よ う に釈尊の大乗思想 を透徹 に理解 し その奥深い と こ ろ に入 っ た上 に書かれた もので ある。 それ故 に、 大乗の先輩で ある馬鳴の説を自在に駆使 し、 龍樹の跡を継ぎ、 「故能徴縦馬鳴継跡龍樹」(43)) 世親は、卜「人梵乖遠」
(人間界 と如来界が背向いて遠 く 離れている) 、 「正像差廻」 (仏教の教えは形が保たれて いる も・のの、 内実が真の仏法から大 き く ずれている) とい う像法時代の末期に、 真の大乗 → 1-「一切の諸法は、 識 と しての心が仮 に現 しだ した ものに過 ぎない」(40) 「自己 と 自己を取 り巻 く 自然環境 と の全存在は自己の根底の心で ある阿頼耶識が示 した もの、 変現 した もの」(41)仏教 を広め、 深めるのに大 きな貢献 を し、 正法の松明を高 く 掲 げ、 それを輝かせなが ら次 の世代 に伝 え た。 千部の論師 と言われた世親の著作群は、その根底 に冷徹な思索が静寂然 と して湛 え られ、 仏法の理 を深 く 説 く 宗教哲学の理論書で ある。 それは強力な説得力 を持 っ て人々の大乗仏 教への信仰心 を促 し て い る。・その高い到達点は唯識 に よ っ て示 さ れて い る。 それ と 同時 に、 それ らの作 はまた世親の深い信心の告白で もある。 書物の行間に世親の深い感激の信仰心 が熱 く た ぎっ てい る。 信心の深 さ と仏法への理解の透徹 さ が渾然 にな っ た と こ ろ 、 それが 世親の世界である。 それらが結晶 した形で著 さ れたのが 「浄土論」 である。 世親の唯識論 は浄土論の踏み台 にな る もので ある。 「大正蔵」 に収め られている世親の唯識 についての論 は次のよ う で ある。 「唯識三十論頌」 (玄奘訳) -「転識論」 (真諦訳) (44) 「唯識二十論」 (玄奘訳) 「唯識論」 (般若流支訳) 「大乗唯識論」 (真諦訳) この著述の中で 「唯識三十論頌」 は世親の唯識説の大成の書である。 「謂此三十頌中。 初二十四行頌明唯識相。 次一行頌明唯識性。 後五行頌明唯識行位。 就 二十四行頌中。 初一行半略弁唯識相。 次二十二広弁唯識相。」(45)と、 「唯識三十論頌」 で は三十行で、 釈尊の教 えの真髄で ある 「法」 の非有非無の本質、 真如 と衆生 ・世間 と 出世 間 ・ 真俗二諦の 「不一不異」 ・ 「広略相入」 の関係 を、 「唯識」 と 「八識」 の関係 ・ 「唯 識」 の両義性 に凝縮 し て説 く 。 世親の唯識論における煩悩を破する中心論点は 「唯識無境界」 で あ名。 「由仮説我法 有種種相転 彼依識所変 此能変為三( 中略) 即依此三性 立彼三無性 故仏密意説一切法無性」(46) と、 識の有 と無、 「広」 と 「略」 の弁証関係 を述べている。 「立義者。 (中略) 唯識無境界故」(47) 「唯識」 は 「唯識無境界」 の略語である。 し 「諸法心為本 諸法心為勝 離心無諸法 唯心身口名」(48) 識は心である。 すべての法は、 心 (識) によっ て生 じる もので あ り、 心 (識) の他に諸法は な い。 ‥ 唯識論 は阿頼耶識 を中心 とす る八識 と し て人間の心 について重層的に分析す る。 その 「唯識」 によれば、 「心意輿識及了別等如是四法義一名異」 。 識 と 「心、 意、 了別」 は異な る名前の同義語で ある。論は釈尊の教え を根拠 に して、煩悩の元が識 にある と説 く 。 - 92-一 八 三
識は三種の縁 によっ て、 果報識 (阿頼耶識) ・ 末那識 ・ 六識(眼 ・ 耳 ・ 鼻 ・ 舌 ・ 身 ・ 意) と い う 三次元的な動 き と し て現れる。 「初阿頼耶識 異熟一切種」(52) 「業態習識内 執果生於外」(51) 世親 (天親) と小乗 ・ 大乗 ・ 他力 衆生の執着心 と執着 さ れる対象で ある環境 は、 実有す る もので はな く 、 縁 によっ て識が転 じ ら れ る こ と よ り、 形 と し て現 れ る も ので あ る。 「識転有二。 一転為衆生。 二転為法 一切所縁不 出此二。 此二実無。 但是識転作二相貌 也O」(49) ( 三界虚妄但是一心作少)) 衆生 と法 はすべて識 に よ っ て転 じ られる もので あ り、識 は一切の縁 の よる と こ ろ で あ る。 「業因業縁」 の作用す る力 によっ て識 に万法 を生 じ る。 阿頼耶識は業識 ・ 果報識 (業の影響 を受ける体で ある) 、 本識 (阿頼耶識 を元 に して他の 七識の動 きを生 じ る) 、 蔵識 (一切の種子 を蔵伏す る と こ ろ) と も言 う 。 その中に作為的な 種が蔵伏 し て い る。 一 八 二 宿業め影響を受けている阿頼耶識は、 六識の感知する環境を煩悩 と して受け止める。 阿 頼耶識においての受け止めは微細であ り、 形にな らない (細 とい うj) 。コその受け止めは末那 → 3-「依止根本識 五識随縁現 或倶或不倶 如濤波依水」 S) 阿頼耶識と他の七識との関係は、 鏡(阿頼耶識) と影(七識) の如 ぐ。 「如衆像影倶現鏡中」(56) また水(阿頼耶識) と・波(七識) の如 く 。 し 「本識如流五法如波」 「衆波同集―水」(57) 「次第二能変 是識名末那JS 末那識は執識 と もい う 。 執着はその体で ある。 「次第三能変 差別有六種」 54卜 六識は塵識 と もい う 。一環境 を感知す る体で ある。
論で は、煩悩の対象 を所分別 (分別さ れる もの) 、煩悩の主体で ある心の働 きを能分別(分 別する もの) と名づけ、 両者が と もに無で ある こ と を論理的に説 く 。 「是諸識転変 分別所分別 由此彼皆無 故一切唯識」(58) 所分別は名前はあるが、 実体 はない。 心が煩悩の対象 と して見れば、 煩悩 を感 じ させる ものにな るが、 心がそ う 思わなければ、 その ものは煩悩 と は無関係で ある。 ゆえ に、 それ は名はあっ て も、 実体はない。 また、 煩悩の主体で ある心の働 きは、 その ものがあるが、 真実で はない。 なぜ な ら、 心が曇 っ て いれば、 物事 を見 る と き煩悩 にな るが、 心が晴れる な らば、 煩悩の雲 を生 じ る余地はな く な るか らで ある。 「如人 目有映罰 見毛月等事」 (人は目に影があるので、 月を見る と き、 月に毛がある よう に見える) (59)のであるから。 識において は形を と る (粗 と い う ) 。 「非異非不異」(60) 両者が 「不一不異」 ( 同 じ もので はないが、 異な る もので もない。 互い に相手の存在に よっ て 自身が存在する) の関係で しか存在 しないので、 実体のある ものと はいえない。 「唯是内心虚妄分別」 「為欲遮彼虚妄分別故。 説色等一切諸法畢竟空無。」(61) 一 八 一 こ こで立て られる識は阿頼耶識 を中心 とす る識で ある。 こ の識はなければ執着する もの も執着 さ れる ものもない。 ゆえに 「唯の識」 である と こ ろの唯識が成立する。 こ う い う意 味で の唯識 は、 識 を中心 においで執着す る もの と執着 さ れる ものの無意味 さ を証明す る。 こ こ まで の唯識の意味は、 従来の 「自己 と 自己を取 り巻 く 自然環境 と の全存在 は自己の 根底の心である阿頼耶識が示 した もの、 変現 した もの」 とい う 唯識論についての受け止め 方 と は一致する。 従来の唯識の受け止めは以上に論 じた と こ ろ まで しか と らえていないよ う で あ る。 と こ ろが、 世親の唯識論にはさ らに奥深い意味を もっ ている。 それは 「唯識」 の二義性 にあ る。 唯識の二義のと こ ろ に 「唯識」 と 「他力念仏」 と のつ ながる道 を探 る こ とがで きる と思 う 。 二義性のギーは、 「唯識三十論頌」 の別訳である 「転識論」 の 「転」 とい う 言葉が意味 - 94-執着 と は94-執着する ものと94-執着 さ れる ものがすべて識の作用に過 ぎない。で あればこ そ「唯 識(唯の識) 」 である。 識の他にある ものはない。 唯( ただ) 識である。 こ のよう に して、 さ まざまな論拠 を も っ て、 唯識の義 を立て る。
阿頼耶識は業の影響 を受ける体で あるので 「果報識」 と い う 。 「業識」 と もい う 。 その 影響 によ り阿頼耶識 を元 に して他の七識の動 きを生 じ る。 そ う い う 意味で 阿頼耶識はまた 本識 と も言 う 。 要す る に阿頼耶識 を中心 にす る識 は人間の心の働 きの レベ ルの識で ある。 そ の ものは、 本質的に 「妄識」 である。 その根源になる阿頼耶識は心の深い と こ ろ に叢いている煩悩の 源で ある。 それは破 られなければ、 業因業縁 を受ける種 にな る。 こ の阿頼耶識か ら、 常に 煩悩、 執着心 ・ 無明が生 じ るので ある。 で あ るか ら阿頼耶識は方便 と して仮 に立て られる もので あるが、 最終的に破 られなければな らない もので ある。 それを破 らなければ、 本当 の唯識 に入 ら ない。 世親(天親) と小乗 ・ 大乗 ・他力 する と こ ろ にあ る。 「識転有二。 一転為衆生。 二転為法」。 衆生 と法、 煩悩 と菩提、 世間 と超世間は二元的な世界である。 識はこの二元的な世界の踊 り場である。 「此識能生一切 煩悩業果報事」(62) と いわれた よ う に識 は衆生、 煩悩、 世間の一切の法 を生 じ る元で あ り な が ら、 「転為法」 と法 (超世間の法) に転 じ られる元である。 「転識得智」 と、 識は煩悩識 が転 じ られて 「智慧」 が得 られる元で もある。 法に転 じ させる力、 「智慧」 を得 させ る力は 「以展転力故」(63) と示 しているが、 その力 は 「浄土論」 に、 阿弥陀如来の 「不可思議力」 と して明示 さ れる。 まず、 阿頼耶識に作用する力になる ものは 「業因業縁」 で ある。 「初遍行触等 次別境謂欲 勝解念定慧 所縁事不同」( ) 「業燃習識内 執果生於外」(65) 「果報識者為煩悩業所引故名果報」(66) 一 八 〇 「心(識) 有二種。 何等為二。 一者相応心。 二者不相応心。 相応心者。 所謂一切煩悩結使 → 5-「若人修道智慧未住此唯識義者。 二執随眠所生衆不得滅離。 根本識不滅故。 ( 中略) 二執 随眠所生果惑不得滅離者。 即是見思二執随眠煩悩能作種子。 生無最上心。 惑皆以本識為 其根本。 根本未滅支未尽。」 (67) 「若謂但唯有識現前起此識者。 若不離此執者。 不得入唯識中。」 すなわち、 一口に 「唯識」 と言っ て も、識 は二元的な意味を もっている。 したがっ て 「唯 識」 にも二義牲を含んでいるのである。 世親の唯識論は心 (識) を 「相応心」 と 「不相応心」 と言う二元的な ものと して説き、 「唯識」 の二義性について論 じた ものがある。
「相応心」 と の識は、 人間の計 らいのレベルの分別心である。 「不相応心」 は、 如来の レベルの円融至極の一如の心で ある。 阿頼耶識が破 られる きっ かけは、 阿頼耶識の根底 に潜 んで いる。 阿頼耶識の裏 にも っ と も深い、 無限に広がっ ている大いな る識がある。 それは、 第九識 ・ 真識で ある。 こ の真識 はすべての業 を清浄す る力を持 っ ている。 ( その力は親鸞において は本願 よる もので ある。 「天人不動の聖業は 弘誓の智海`よ り生ず 心業の功徳清浄にて 虚空のご と く 差別な し」(70)) 受想行等諸心相応。 以是放言。 心意呉識及了別等義一名異故。 不相応心者。 所謂第一義 諦常住不変 自性清浄心故。」(69) 「識」 の二元的な意味に、 人間の計 らいの レベルの 「相応心」 の 「識」 は、 衆生に今 ま で執着する ものの無意味さ を思い知 らせ、 衆生を執着心の束縛から解 き放 し、 衆生を 「真 識」 出会 う 道に導 く ため仮に立て られるのである。 こ の意味で 「唯識」 (ただ し き) を強調 する。 「是諸識転変 分別所分別 由此彼皆無 故一切唯識」(71) 「為化執我人」(72) 「入諸法無我」(73) 「顕現為似色識生方便門」(74) 一 七 九 相応心 と しての識は、 衆生の無明を破 る ために一応主張 さ れる もので あるがi 無明が破 られる と こ ろ に無明の根源 と しての「阿頼耶識」 も破 られるべ きである。 破 る と言 う よ り、 無明の根源 と しての 「阿頼耶識」 が不相応心で ある識の働 きによっ て質的な転換 を得 られ るので ある。 煩悩相応心が破 られる と こ ろ にこ そ、 はじめて清浄心で ある 「不相応心」 で ある真識が 自ずか ら現れて く るので ある。 と の意味で の識 こ そ世親 によっ て主張 さ れる唯 識で あ る。 「唯破妄識煩悩相応心。 不破仏性清浄心。」(75) 「不相応心」 は、 如来のレベルの 「唯識」 である。 「第九識」 ・ 「仏性実識」 ・ 「真如 識」 ・ 「真識」 ・ 「唯識実性」 と もい う 。 それは第一義諦 ・ 清浄心である。 真如 ・大慈大 悲 と 同義語で ある。 「此諸法勝義 亦即是真如 常如其性故 即唯識実性 (中略) 是名不可思惟。 是名真実善。 是名常住果。 是名出世楽。 是名解脱身。 於三身中即法身。」(76) この意味でめ唯識は「仮」で はな く 、 まさ し く 本当のもの ・ 自ずから現れる真実である。 →
6-「如是唯有真識更無余識。」(79) こ の識は 「真識」 で ある。 そ こ に万法、 森羅万象、 すべての識が摂 られる。 それ以外 に あ る も のはな い。 世親 (天親) と小乗 ・ 大乗 ・ 他力 「由此義故立一乗」(77) 「此諸法勝義 亦即是真如 常如其性故 即唯識実性」(7S) 仮に立て る 「唯識」 と真の 「唯識」 の間には、 如来が衆生の心への深い配慮がこめられ、 世間の真実 と超世間の真実のつながる道が用意 さ れている。 こ の二義性 に 「真俗二諦」、 「破」 と 「立」 と言 う 仏教の教えの根本が含 まれている。 一 七 八 世親の 「識」 には仮 に立て る 「識」 と真 に主張 さ れる 「識」 と い う 二元的な ものがある こ と を考察 した。 「唯識」 には二義性、 す なわち表層的な意味 と深層的な意味がある。 「自 己と 自己を取 り巻 く 自然環境 と の全存在は自己の根底の心で ある阿頼耶識が示 し た もの、 変現 した もの」 とい う 従来の受け止め方は世親の唯識の中での一元的な意味、 「相応心」 と言 う 次元の識で ある。 それは人間の計 らいの レベルの分別心で あ り、 方便 と して仮 に立 て られる ものであ り、 世親の 「唯識」 の表層的な意味で あ り、 深層的な意味に入る踏み台 である。 二義性の中に一義 しか と ら えてい ないので唯識の芯 を見失い、 唯識 と 浄土 と のつ なが り道が見 え な く な る。 世親の唯識の深層的な意味は、ただ如来の心である こ と を主張するので ある。 その「識」 は、 「不相応心」 であ り、 「真如識」 であ り、 唯一の識、 絶対不二の一如、 一心である。 人間の分別心 を超 える一如の識で ある。 大乗の理 を示す一乗で ある。 釈尊のすべての教え を貫いている大慈大悲である。 「浄土論」 の中で 「焉度群生彰一心」 の 「一心」 である。 それは親鸞 において は本願で あ る。 犬 一 丿 「究竟一乗者即是無辺不断。 大乗無有二乗三乗、 二乗三乗者、 入於一乗。犬一乗者、 即第 一義乗。 唯是誓願―仏乗也。」(85) - 97-「即依此三性 (相応心の三性 筆者注) 立彼三無性 (不相応心の三無性 筆者注) 故仏 密意説 一切法無性」(゛)) 「前二是俗諦。 後一是真諦。 真俗二諦摂一切法皆尽。」(81) 二「頂礼大乗理 当説立及破」(82) 「如来方便漸令衆生得入我空及法空故説有内識。 而実無内識可取。(83) 「此三無性是一切法真実。 以其離有故名常。 欲顕此三無性故。 明唯識義也。」(84)
これまで、 識の二元性、 「唯識」 の二義性について述べて きたが、 その二元的な 「識」 の関係 につ いて、 世親 は意味深 く 説いて い る。 まず論の中で、 世親は二元性的な 「唯識」 の次元的な異な り を強調 し、 「真識」 の不 思議 さ 、 人間の計 らいで知 る こ と も、 届 く こ と もで きない こ と を説 く 。
五
「唯識論」 と 「浄土論」 とのつながり
「立」 と言 う が、 人間の計 らいで立てる もので はな く 、 も と も と 自然 ( じねん) のまま立 ち現れている ものである。 人間の計 らいの 「識」 が根底から破 られる と こ ろ に、 「真識」 がおのずか ら た ち あ らわれる はずで あ る。 真識に出会 う こ と はすなわち仏教の求道者の 目標で あ り、 真識の境界 はす なわち涅槃界 であ り・、 仏教の求道の道の最高の到達点で ある。 その実現 には仏縁が欠かす こ と ので きな い も ので あ る。 一 七 七 二元的な 「識」 の関係についての結論は、 真の 「唯識」 の境界は 「無量無辺甚深境界」 で あ り、 人間の 「心識」 で は測量すべ きで はない と断言す る。 したがっ て唯識 を説 く 意図 も明確で ある。 「頂礼大乗理 当説立及破 無量仏所修 除障及根本 唯識 自性静 味劣人不信」(91) 恭 し く 大乗理 をいただ く こ と で ある。 それは障 り を除 ぐ根本で ある。 真識 と 出会 う 道は 解脱の道で あるが、 それは仏の働 きに依る他ない。 「相応心」 と 「不相応心」 が此岸 と彼 岸の異な りで あ り、 此岸か ら彼岸へい く には大乗 に乗 る こ と で ある。 「如是所成唯識性相。 誰依幾位如何悟入。 謂具大乗二種種性。」(92) と言 う 問答の形で、 具体的に 「真識」 に悟 る道について述べている。 その道 と して菩薩 の修行の段階を示す 「五位」 を挙げる。 「五位」 は釈尊の 「十地経」 を よ り と こ ろ にする。 → 8-「如彼仏地如実果体無言語処勝妙境界。 唯仏能知余人不知。 以彼世間他心智者於彼二法 不如実知。 以彼能取可取境界虚妄故。 彼世間人虚妄分別此唯是識。 無量無辺甚深境界非 是心識可測量。」(86) 「唯佛如実知 作此唯識論 非我思量義 諸仏妙境界 福徳施衆生」(87) 「如来方便漸令衆生得入我空及法空故説有内識。 而実無内識可取。 ( 中略) 唯識論者。 乃 是諸仏甚深境界。 j (88) 「此境唯仏所見」(89) 「無得不思議 是出世間智 捨二粗重故 便証得転依( 中略) 此即無漏界 不思議善常 安楽解脱身 大名法牟尼」9 )すなわち密意 を説 く ために、 こ の十地 を説 く ので ある。 こ の十地はも っ と も大切な教え であ り、 過去諸仏 もすで に説いてお り、 未来の諸仏 も説 く で あろ う し、 現在の諸仏 も説い てい る もので あ る。 その密意 をあ き らかにす る と こ ろ には、 世親の唯識 と他力念仏 を結ぶ道がある。 それは 十地の中での第七地、 いわゆる 「七地沈空」 についての受け止め方にある 自力の修行によっ て功勲 を積み重ねて仏の果 を得 る よ う に語 られる こ の修行階位で ある 十地には、 実は自力の修行で超 え られない難関を用意 してい る。 それは 「七地沈空」 の難 で あ る。 「一定清浄。 一定垢機。 是中間難可得過。 但以大精進力。 大神通力。 大願力故。 能過耳。 諸仏子。 諸菩薩如是。 行於難道。 難可得過。 但以大願力。 大智慧力。 大方便力故。 乃可 得過。」(94) 世親(天親) と小乗 ・大乗 ・他力 世親が念仏 に帰依する きっ かけは 「十地経」 で あっ た と いわれるが、 こ の 「五位」 のと こ ろ こ そ、 世親が念仏 に帰依す る具体的な踊 り場だ と思 う 。 「十地経」 は大乗菩薩の修行階 位で ある十地によっ て菩薩行 を説 き、 無上の仏果 を得 る道 を明 らかに している。 無上の仏 果を得る道は世親の唯識の中での 「真識」 に悟る道である。 無上の仏果を得る道は、 釈尊 によっ て十地 に密意が潜め られて いる と い う かたちで示 してい る。 「唯諸仏子。 一切菩薩有十智地。 是以過去未来現在諸仏。 巳説当説今説。 由此密意我作 是言。」(93) 一 七 六 「警如人夢中作筏渡大海水。 手足疲労生患厭想。≒在中流中夢覚 自念言。万何許有河而可渡 → ← 「響如有二世界。 一処雑染。 - 処純浄。 是二中間。 難可得過。 唯除菩薩有大方便神通願 力。 乃可得過。 仏子。 諸菩薩諸地亦覆如是。 有雑染行。 有清浄行。 是二中間。 難可得過。 唯除菩薩有大願力方便智慧力。 乃能得過。」(95) 七地は、 清浄界 と雑染 ・垢機界、 世間 と 出世間の中間地帯で ある。 煩悩 と しての存在 と 解脱 と しての存在の最後の分水嶺である。 こ こ は、 菩薩が今までの煩悩である 自身と最後 に決別する場所です。こ こ に至 っ て菩薩は今 まで の煩悩界か ら身を抜け出 している ものの、 真の涅槃界にはまだ まだ入 っ ていない。 犬 「菩薩於七地中得大寂滅、 上不見諸仏可求、 下不見衆生可度」(96) と、 上に諸仏が見えない下に衆生が見えない。 進退こ れ谷の 「難」 に陥づて し まう。
「若不得十方諸仏神力加勧即便滅度輿二乗無異」。(98) どのよ う に した ら、 諸仏の恵みを得 られるか。 いつ まで待つか。 それはわか ら ない こ と である。 こ こ にいた る菩薩は自身の力で どう す る こ と もで きな く な り、 恵まれる まで に待 つ他 ない。 これはすなわち十地の中に用意 さ れた難関で ある。 菩薩の自身の力で どう する こ と もで きない超え られない障碍で あ り、 自力の修行で は免れる こ とので きない 「七地沈空」 の難 で ある。 しか し、 こ れを越 えなければ求道の道の 目的地 に永遠 に到達す る こ と はで きない。 釈尊が 「十地経」 において如来の 「大願力方便智慧力」 な どを得 る菩薩 しか七地から八 地に至る こ とがで きない こ と を説いたが、 如来の助力 を得 る方法 について は直接 に説いて いない。 すなわち 「七地沈空」 の難を免れる方法は十地経に明示 さ れていない。 こ のよ う に して、 修行の過程の内容 を説いたかのよ う な こ の十地経は、 その中に 「七地 沈空」 の難を用意 しているので、 実は自力修行の行 き詰ま りの必然性 を示 している。 これ は十地経 に潜めた釈尊の密意で はないか。 すな わち 第七地か ら第八地 に上 る こ と は、 真 の仏果 を得 る こ と を意味す る ので あ る。 で あればこ そ、 まだ如来の力 を身に着けていない菩薩は、 諸仏の助力 に恵 まれなければで き ないので あ る。 者O」(97) 一 七 五 「平等法身者、 八地巳上法性生身菩薩也。 寂滅平等之法也。 (中略) 未証浄心菩薩者、 初 地巳上七地以還諸菩薩也。 ( 中略) 菩薩於七地中得大寂滅、 上不見諸仏可求、 下不見衆生 可度、 欲捨仏道証於実際。 爾時若不得十方諸仏神力加勧即便滅度輿二乗無異。 菩薩若往 - 10(卜 この文は。 「七地沈空の難」 を免れる道が念仏である とい う こ と を明 らかに している。 文に込められた意味を明解 し、世親の受け止めの根拠を明示するのは、曇鸞の「浄土論註」 で あ る。 その密意を最初にあ き らかにするのが世親で ある。 「七地沈空」 の難を免れる道が 「大 無量寿経」 によっ て与え られている こ と は世親の 「浄土論」 に示 さ れている。 「観仏本眼力遇無空過者能令速満足功徳大宝海故。 即見彼仏未証浄心菩薩畢竟得証平等 法身、 輿浄心菩薩、 輿上地諸菩薩畢竟同得寂滅平等故。」(99)
初地以上七地以下の菩薩は阿弥陀仏 を見れば八地以上の菩薩 と 同 じ よ う に平等法身を得 る こ とがで きる。 すなわち、 初地以上七地以下の菩薩は阿弥陀仏 を見る な らば、 七地 を通 らな く て も八地以上の菩薩 と 同 じ よ う に平等法身を得る こ とがで きる。 「七地沈空の難」 に陥 らな く て も済むので ある。 その根拠 は 「大無最寿経」 の中で の阿弥陀如来の二十二願 にあ る と曇鸞は示 し て い る。 曇鸞は 「浄土論註」 で二十二願の言葉 を引 きなが ら、 その中の 「超出常倫諸地之行」 に よっ て次のよ う に推論す る。 「按此経推彼国菩薩或可不従一地至―地。 言十地階次者、 是釈迦如来於閻浮提一応化道 耳。 他方浄土何必如此。」(101) 世親(天親) と小乗 ・ 大乗 ・ 他力 生安楽浄土、 見阿弥陀仏、 即無此難。」(1゛) 「正道大慈悲 出世善根生 (中略) 大乗善根界 ( 中略) 二乗種不生 」 「第一諦妙境界」 「無分別心」 「真実智慧」(103) 」 十 ‥ ‥ ‥ ‥ こ のよ う に唯識論は、 念仏の道 とつ ながっ て いる こ と を明 らかに した。 それは決 して従 来 と ら え ら れて きた よ う な人間の 自我の心 を立て る ためで はないので あ る。 そ の一心 は、 - 101-二十二願の願文によれば、 求道の道の 目的地を阿弥陀の浄土 に定める な らば、 初地以上 七地以下の菩薩は阿弥陀如来の願力 に乗 り、 ―地か らL 地へ と 、 各地 を順番に通 ら な く て もいけるので ある。 七地 を通 らず と も 目的地に到達す る こ とがで き、 七地沈空の難 を 自ず か ら免れる と のこ と で あ る。 今まで論 じて きた唯識についての内容 を も踏まえて推察すれば、 唯識論に定め られた仏 教の求道の道の 目標で あ る 「真識に悟 る道」 は阿弥陀の浄土へ と定めるべ きだ と は自明の 理になる。 こ のよう に して、 十地に潜められる釈尊の密意を明らかに し、 それを さ らに「大 無量寿経」 の中で の阿弥陀如来の二十二願 につ なげる こ と によっ て、 世親においての真識 ・十地 ・ 浄土がつながっ て く る。 十地に用意さ れた難関- 「七地沈空」 の難の受け止め方 は、 世親 において の唯識論 と他力念仏の踊 り場で あ る。 こ れに よ っ て世親の唯識論 にこ め られた本心 も明 らかにな るで あろ う 。 世親は唯識 (唯一の識) 論をたて、 「真識」 、 一如、 一心を明らかにするのは、 「浄土論」 の中で 「焉度群生彰一心」(1°2)によっ て明示 さ れた よう に、 衆生 をす ぐう ためで あ り、 「抜 出衆生生死泥」 ( 「倶舎論」 第一 「大正蔵」 二十九巻161頁) 「抜出衆生生死泥」 ( 「倶舎論」 第一 「大正蔵」 二十九巻161頁) ためである。 犬 一 七 四
以上見て きた よ う に世親は生涯仏教の真髄 を説 く ために心血 を尽 く し、 た く さ んの釈尊 の教 え を学んだ上 に千部の作 を作 り、 その結晶 と して浄土論 を作 り あげた と い え よ う 。 浄土論はた く さ んの経典を踏 まえて顕かにさ れた真実で ある。 「依修多羅顔具賞」。 そ と同時に、 浄土論 に彰にさ れた 「一心」 にはまた 「鴬度群生」 とい う像法末期 とい う 時代 におかれたゆえの使命感 も凝縮 さ れて いるので ある。 像法末期の時代の現実 におかれた世親は、 大量の作 を書いている う ち に既成の仏教の像 法末期における限界 を痛感 し、 「大師世眼久巳閉 堪為証者多散滅 不見真理無制人 由 彼尋思乱聖教 自覚巳帰勝寂静 持彼教者多随滅」(l゛) と言 う 嘆 きを発 した。 「非法言法。 法言非法」 「形類比丘」、 「助作末世壊正法憧。 建悪魔徨。 滅正法矩。」 とい う像法の末期 の時代の特徴 を も痛感 した よ う で ある。 二
結
論
「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来」 の 「一心」 と は同質のものである。 「唯識」 -ただの識 はた だ他力念仏 と は別々の もので はないので あ る。 一 七 三 「既知如来正法寿 漸次洽亡如至喉」 と い う仏法の危機 を嘆いた世親は、 「吾去世後、 経道漸滅、 人民諮偽、 復為衆悪。 五焼五痛、 還如前法。 久後転劇。 不可悉説。」 と言 う釈 尊の予言の時代の到来 を切実に感 じ取 っ た こ と と思われる。 したがっ て、 世親は誰 よ り も 「我但為汝、 略説之耳。 仏語弥勒。 汝等各善思之。 転相教誠。 (中略) 当来之世、 経道漸滅。 我以慈悲哀慾、 特留此経、 止住百歳。 其有衆生、 値斯経者、 随意所願、 皆可得度。」 と言 う 「大無最寿経」 の言葉に深 く 用意さ れた釈尊の真意を体得 した と思われる。 その像法の末期 に、 「大無量寿経」 の真意 を顕かにす る こ と は、 似通 っ た教 えの偽装を 破 り、 如来の教えによっ て真の仏法 を顕 し ( 「依修多羅頭淀賓光閑横超大誓願」 ) 、 像法の 末期に行方を失っ た衆生のために真の救済の道 を照 らす火矩 を高 く 上げる ( 「廣由本願力 廻向焉度群生彰一心」 ) こ と は世親 に課 さ れた辞す こ と ので きない使命 にな る。 それは、 時代の要望で あ り、 歴史的な必然 と も言え よ う 。 丁像末五濁の世な り 釈迦如来か く れ し む - 102-「正像末の三時には 弥陀の本願 ひろ まれ り 像季末法のこ の世 には 諸善龍宮にい りた まう」(105)弥陀の悲願 ひろ ま りて 念仏往生 さ か り な り」(106) 世親(天親) と小乗 一大乗 ・ 他力 「倶舎論」 の終わ り に 「巳善説此浄因道 謂仏至言真法性 応捨闇盲諸外執 悪見所為 求慧眼 此涅槃宮一広道」(107)と述べた。真の法性、無明の闇中での無限に涅槃界へ と広がっ てい く 一本の道である 「一広道」、 その 「真の法性」、 「一広道」 は 「浄土論」 に 「世尊我 一心 帰命尽十方 無碍光如来」 と して顕かにさ れた。 「唯仏世尊得永対治於一切境一切種冥」(1(゛)と言 う 「倶舎論」 の言葉 と、 「仏慧明浄 日 除世痴闇冥」(1(゛) と言 う 「浄土論」 の言葉が重なる と こ ろ に、 「倶舎論」 と 「浄土論」 の関 係 も伺 え る。 このよ う に して、 「大無量寿経」 の真意を解明する 「無量寿経優秀婆提舎願生傷」 - 「浄 土論」 が出世 し、 「南無阿弥陀仏」 が声 と して文字 と して世に顕 さ れた。 この 「一心の華 文」 に世親の生涯の努力の心血 と 時代ゆえの使命感が凝縮 さ れている。 一 七 二 以上の考察 によっ て、 従来の と らえ方の錯誤が明かにな る と思 う 。 なお、 こ の論文の唯識の部分 について は、 2005年 9 月24日仏教文学会で発表 したのであ る。 こ の と き、 親鸞 によっ て読 まれた世親の唯識に関する書物 について上げるべ きだ と の 意見があっ た。 こ ら まで調べた と こ ろ によれば、 要の と こ ろ に親鸞が引用 した り、 論 じた り しているのは 「浄土論」 のみで ある。 しか し、 「教行信証」 の 「信」 の巻のは、 「 「倶舎論」 中、 有五無間同類業」 と・い う 記 述がある。 また、 「尊号銘文」 には、 天親の 「修多羅」 とい う 言葉について、 「仏の経典 をまふすな り、 仏教に大乗あ り、 小乗あ り、 みな修多羅まふす、 いま修多羅と まふすは大 乗あ り、 小乗あ らず」 と述べている。 「教行信証」 の引用や世親の著作 についての親鸞の 受けかたか ら見れば、 親鸞は 「浄土論」 の他の世親の論 に眼を通 していない と は考え られ ない。 繰 り返 し て い え ば、 「天親菩薩造論説峰命無碍光如来依修多羅顔偏食光閑横超大誓願廣由本願力廻向焉度群 生彰一心帰入功徳大貫海必獲入大会衆敷得至蓮華蔵世界」 「天親菩薩造論説」 の言葉に、 釈尊の本心を く み上げ、 浄土三部経の心を開いた 「浄土 論」 を作った世親への深い感謝もこめられている よう である。 「依修多羅頚偏食」 という 文に、 念仏とい う真実の教えとた く さ んの経典との関係を示す一文だ と思う。 「穎偏賓」 の 「穎」 、 「光閑横超大誓願廣由本願力廻向焉度群生彰一心」 の 「光閑」 、 「彰一心」 の 「彰」 とい う 動詞には、 「図」 と 「地」 の関係 と して世親の全部の教え と念仏の関係 を と らえる 親鸞の姿勢が伺え る。 ‥ 十 親鸞の 「如来の教法おほけれど 天親菩薩はねんごろ に 煩悩成就 のわれち には 弥陀 -