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津波常襲地における技術の断絶と継承

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津波常襲地における技術の断絶と継承

Inheritance and Disruption of Craftsmanship in Tsunami-prone Areas

加藤 幸治1 KATO Koji

キーワード:東日本大震災、伝統的工芸品、工芸技術

Keywords : East Japan great earthquake, Traditional crafts, Craftsmanship

1.はじめに 平成23 年 3 月 11 日、宮城県石巻市の東南東沖 130km の海底を震源として発生した東北 地方太平洋沖地震によって、10 メートル以上の大津波が沿岸部の広範な地域に襲来した。 その影響をうけた多くのモノづくりの生産地が困難な復興の途を歩んでいる。しかし、文化 財や博物館資料といった有形の民俗文化財や民俗芸能等の無形の民俗文化財に比して2、モ ノ作りや民俗技術の震災後の状況については社会的にも学問的にもあまり関心が払われて おらず、今回の東日本大震災によって継続困難となった手工業の全体像は未だに見えてい ない3 モノ作りや民俗技術は、20 世紀後半の大量消費社会の到来、機械工業の発展や就労に対 する価値観の変化、社会的ニーズの変化や観光産業の盛衰など、多くの要因によってその存 続・継承が困難となった。民具研究は、人びとのくらしの営みによる歴史的所産としての手 先の技術に対して重大な関心を抱き、ある種の救済的な意識も持ちながらその記録と調査 研究にあたり、時にはその復活に関与したり産業としての振興に介入したりするなど実践 的な活動を実らせてきた。ひとつの伝統工芸が継承困難になるほどの状況という意味では、 今回の大災害においても同じであるから、危機に瀕した手工業に対して関心を向けるのは 当然であろうが、今のところ被災地における民俗技術における状況調査や動向研究は少な い。モノ作りや民俗技術の調査研究に最も大きな役割を果たしてきたのは、他でもない民具 研究ではなかったか。 1 東北学院大学文学部歴史学科 教授 2 国立歴史民俗博物館編(2012)、大学共同利用期間法人人間文化研究機構・国立歴史民俗博物館編(2013)、 津波により被災した文化財の保存修復技術の構築と専門機関の連携に関するプロジェクト実行委員会編 (2014)、日高真吾(2015a)(2015b)、加藤幸治(2013)(2015)(2016)(2017)参照。 3 「東日本大震災に対処するための特別の財政援助及び助成に関する法律」第2条第3項に規定される「特 定被災区域」内に位置するもので、国の伝統的工芸品を挙げるだけでも以下ものがある。 岩手県(南部鉄器、岩谷堂箪笥、秀衡塗、浄法寺塗)、宮城県(雄勝硯、鳴子漆器、宮城伝統こけし)、福島 県(大堀相馬焼、会津塗、会津本郷焼、奥会津編み組細工)、茨城県(結城紬―栃木県含む、笠間焼、真壁 石燈籠)、栃木県(益子焼)、新潟県(小千谷縮、小千谷紬、長岡仏壇、十日町絣、十日町明石ちぢみ)、長 野県(信州紬、内山紙)。

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69 東日本大震災の影響で工芸技術が存亡の危機に直面したものとして、特に困難な状況に あるものが福島県の大堀相馬焼と宮城県の雄勝硯である4。本稿では、そのひとつである石 巻市雄勝地区における粘板岩採掘と伝統的工芸品「雄勝硯」を研究対象とする。まず、被災 地の伝統工芸の現状の一端を紹介する。そのうえで、これまでのこの技術の近代における展 開を、災害と復興を念頭に概説する。その歴史から、津波常習地における生業の営みが、い かに資源とニーズに依存し、また新たな技術を導入しながら変化してきたかに思いを巡ら せたい。震災復興は直面する課題のなかでは非日常的な対応であるが、長い営みのなかでは 常にその創意工夫が民俗技術を発展させてきたと見ることもできよう。そして震災前から 震災後の現在における技術的な特色について筆者自身の調査データをもとに記述する。こ れらをふまえて、震災後の現状について考察し、災害常襲地における手工業に対する研究の 方向性について再考してみたい。 本稿は、文化庁「文化遺産を活かした観光振興・地域活性化事業」の一環で行われた「宮 城県文化遺産復興プロジェクト」における雄勝石採石・加工技術の映像制作を監修するため、 筆者が行った平成22 年度から平成 25 年度までの現地調査データをもとにまとめたもので ある。 筆者は2009 年から、宮城県による国の選定保存技術「石盤葺」の技術継承のための記録 作成事業で、民具調査や石盤葺講習会へ参加して断続的に雄勝地区で調査を行ってきた。震 災後は、上記の「宮城県地域文化遺産復興プロジェクト」にて、後継者のテキストとなる技 術者や職人の作業の映像記録(およそ一二時間分の映像作成)の撮影と監修を行った。加え て、2014 四年から、当時国の登録文化財「デフォレスト館」(現:国の重要文化財「東北学 院旧宣教師館」)の文化財修理を念頭に置いた東北学院大学の学長研究助成金における調査 プロジェクト「デフォレスト館の保存・再生を軸とした雄勝スレートの瓦葺き技術に関する 伝承と産 業振興に関する活動」(研究代表:東北学院大学工学部環境建設工学科教授 櫻井 一弥)で天然スレート産業の史料調査・民俗調査担当した。 4 福島県双葉郡浪江町大堀地区を生産地とする国の伝統的工芸品に指定されている大堀相馬焼は、事故を 起こした福島第一原子力発電所の10 キロ圏内に位置していたために移転を余儀なくされ、内陸の二本松 市に工人が移転し、二本松市小沢工業団地の「陶芸の杜 おおぼり 二本松工房」にてモノ作りを再開して いる。 写真 1.東日本大震災前の雄勝硯ミュージアム (筆者撮影) 写真 2.東日本大震災後の雄勝硯ミュージアム (筆者撮影)

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70 2.技術の断絶と継承へのアプローチ 大規模災害の被災地の現在進行形の状況は、極めてイレギュラーな状況への対応の連続 であり、それらのすべてが非日常的な営みのように見える。しかし継続的に見ていくなかで、 非常時の対応と見えるもののなかにその地域における生業の位置やモノづくりの在り方に 気が付く場合がある。イレギュラーな状況と同時に、災害前の地域社会が直面していた課題 がより先鋭化している要素が溶け込んでいるというわかりにくさには、研究上の課題が潜 んでいる。被災地のこの大きな転換期にこそ、継続的な現地調査が求められているのである。 こうした変化に視点を置いた技術研究は、これまで筆者が取り組んできた課題とも連続 性がある。拙著『紀伊半島の民俗誌』(加藤2012)で筆者は、技術がいかなる変化を遂げて きたかを、当該社会を理解する最も重要なファクターに据えるアプローチをとった。この技 術改善の歴史的展開を記述するモノグラフにおいては、マクロとミクロの接合をどう描出 するかの試行でもあった。具体的には、権力や政策との関わりや知識・情報・技術・物品の 流通などが、技術改善の歴史的展開に対してどのように作用してきたかに着目した。また、 「農業技術改善」「漁業技術改善」「山村資源利用」の三つの切り口から技術の歴史的展開を 追跡したが、そこで用いたのが「本位」という概念である。これは新技術や知識を導入する 際に、地域において意識的/無意識的に依存する通時代的に継続する論理のことであり、そ れを民俗誌から描出することによって、地域において生まれた独自の近代化過程を説明づ けることを目指した。 本稿でも、こうしたアプローチによって変化することで継承されるもの、すなわち“変わ らないもの”ではなく、状況の変化に対応する際のよりどころとなる「本位」を見出してみ たい。 3.東日本大震災の復興過程における対応 東日本大震災においては、沿岸部の生活基盤はもちろん、農業・漁業を中心とする第一次 産業に甚大な被害をもたらした。その復興には行政の復興事業によって基盤の再整備が進 められると同時に、従来の生産・流通構造をドラスティックに変えたりIT技術の導入、生 産の協同化が試みられたりしていることは、報道でも大きくとり上げられているとおりで ある。 一方、第二次産業においては建築業の活況に対して、中小企業を中心とする製造業は生産 体制の復興のための資金調達の困難さや関連産業の復興のばらつきなど、さまざまな要因 によって復興の歩みは遅々として進まないのが現状である。それは直接的に地域の雇用の 不安定さに直結し、社会問題化している。こうした状況にあって、伝統的な技術を背景に持 ち、手先で器物を製作する伝統工芸も、復興への困難な歩みを進めている。 雄勝硯の生産地である宮城県石巻市雄勝地区は、町場としての性格も有していた雄勝浜 を中心に半島部の各所に漁村が展開する人口約4300 人の地域であった。平成 23 年 3 月 11 日の東北地方太平洋沖地震による津波は、雄勝湾で15 メートル以上の高さとなり雄勝浜は 壊滅状態となった。雄勝地区では 100 名以上が命を落とし、全体の九割以上の家屋が津波 の直接的な被害を受けた。雄勝地区内に用意された仮設住宅は、住む家を失くした人の数の

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71 六分の一程度であったため、多くの人々が散り散りに旧町外に避難せざるを得ず、震災後の 人口流出が最も深刻な地域のひとつとなっている。 この震災によって、砕石や硯の生産の関係者の多くが被災したが、組合の関係者はボラン ティアの手を借りて瓦礫の中から道具や材料を回収した。伝統産業会館および雄勝硯生産 販売協同組合の事務局を兼ねた雄勝硯ミュージアムは、雄勝浜に面した埋め立て地に立地 していたために津波の直接の被害によって壊滅的な被害を受けた。雄勝浜の硯工人の工房 のみならず、雄勝浜に隣接する明神地区に所在した採石後の加工工場や雄勝スレートの普 及施設もすべて流失した。ハード面においては、工芸の生産地に必要なものをすべて失った と言っても過言ではない。 しかし、組合関係者と採石・硯生産関係業者らの並々ならぬ努力によって、雄勝硯の生産 地は再生しつつある。彼らが活用したのは、さまざまな震災復興の事業や補助金である。例 えば、中小企業等グループ施設等復旧整備補助事業を活用し、流失を免れた重機類や工作機 械、硯生産に必要な荒彫用のグラインダなど、様々な道具を修理することができた。また、 このグループ補助金と伝統工芸品産業復興対策支援補助金、そして自己資金を使って、更地 に建設したプレハブの作業スペースで作業を始めている。組合は、事務局を被災した旧石巻 市雄勝支所庁舎前の復興商店街「おがつ店こ屋街」のプレハブに構え、ここで生産と販売を 行っている。 震災後の対応で、震災前と生産構造として大きな変化を余儀なくされたのは採石の手続 きである。今回の震災以前、採掘は採石業者によって行われ、適切な石材が製品に合った大 きさに加工されて硯工人やスレート屋根葺き業者に供給されていたが、採石業者の事務所 や自宅、そして工場は集落ごと津波で壊滅したことによって廃業を決断した。そのため、組 合は自前で採石を担うことができるよう、国の関係省庁や県に採石許可申請を行った。採石 場は、国定公園を含む国有林に位置しているためである。震災後は瓦礫のなかから回収した 材料を用いて硯の再生品等を製作していたが、現在は組合が主体となって採石の知識と技 術を持った職人を雇用して採石が行われ、プレハブ作業所において生産が再開している。本 稿の調査の取材時は、元採石業者の木村満氏に作業を行ってもらいながら、採石加工の技術 を見せていただき、後継者育成の現状についてもご教示いただいた。 一部の硯工人は、内陸部に移り住んで作業場の提供を受け、書道関係団体をはじめとする 様々な団体の支援を受けながら作品作りをしている。一方、地元に残って仮設住宅から通う などして生産を再開した工人の努力は今も続いている。取材させていただいた遠藤市雄氏 は、四階まで津波で浸水した旧庁舎一階の機械室に荒彫機等の道具を配置し、発電機を回し て硯生産をしていた。現在はプレハブの工場に作業場所を移している。 震災前から商品化されていた「玄昌石皿」と呼ぶ石皿は、飲食店に人気が出てきており、 海外へも販路拡大が期待されている。建材であるスレートについても、平成二四年に修復が 終了した東京駅にも用いられ、マスメディアでも大きく採り上げられた。実は今回の震災後 の工芸分野の復興事業においては、工芸品の海外販路拡大によって需要を伸ばそうとする 動きが活発である。その中心にあるのが、経済産業省の地域経済産業活性化対策費補助金、 通称被災地の伝統工芸品等を活用したクール・ジャパン海外展開事業である。この事業では、 海外向けに日本の優れた工芸品を販売するために、伝統的な技術が発揮され、かつシンプル でモダンであるとして海外で好まれる日本のデザインをアピールしようとするものである。

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72 こうした事業には、震災復興を復旧作業とするだけでなく、新たな魅力を創生する機会とし ようとする意図が明確である。 一方、工芸技術の継承者確保と技術の伝承は、震災特有の問題ではないが、雄勝の場合は 前述のように地域に人々が戻ってくる見通しが立たないという極めて深刻な事情を抱えて いる。雄勝硯生産販売協同組合は、ふるさと雇用再生特別基金事業を活用して雇用の確保と 若手の育成に努めている。組合では、この事業による「雄勝石産業活性化事業」で採用した 若手男性職員を見習い職人として、震災後の困難な状況にもかかわらず、採石と加工の技術 を基礎から鍛えあげようとしている。また、文化庁の文化遺産を活かした観光振興・地域活 性化事業において、宮城県では宮城県文化遺産復興プロジェクトの一環で伝統工芸技術の 継承に必要な映像記録の作成を実施し、前述のとおり筆者はこれを監修した。大震災後の技 術継承のための参考となる映像資料として、石材利用の知識や技術の記録について撮影を 行った。 4. 粘板岩採掘と加工の歴史的展開-災害による手工業の断絶と復興- 4-1 雄勝における採石業の始まり 石巻市雄勝地区は硯や石盤、天然スレート等に加工される良質な「玄昌石」の産地として 古くから知られてきた。「玄昌石」の原石は、2~3 億年前にあたる北上山系登米層古生代上 部二畳紀の黒色硬質粘板岩であり、その性質は石目に沿って薄く板状に剥離するため、硯や 建材に利用されてきた。とりわけ雄勝地区内では黒く硬質な粘板岩が採掘される。この粘板 岩の石脈は雄勝半島から登米、唐桑へと延びているが、古生代から中生代にいたる年代の違 いや生成条件の違いによって、その色や質はさまざまである。そのため例えば、碑石や建材 に用いられる砂質の粘板岩は「井内石」と通称され、またスレートに用いられる灰色の粘板 岩も産地によって「女川石」や「登米石」などと呼ばれることもあり、雄勝で硯と天然スレ ートの石材として採掘される石は「雄勝石」として知られている。この色と質の違いを適材 適所で用いた結果、この地域では粘板岩が多様な目的で用いられるようになった。雄勝地区 周辺では、前述の硯や屋根材・壁面材の天然スレートのみならず、神社の鳥居や扁額、橋梁 などに美しい「玄昌石」が用いられ、端材は斜面の階段や畑の石積みなどにも何気なく用い られている。工芸品としての硯から身の回りの積み石まで、粘板岩の幅広い利用はこの地域 の文化的な特色のひとつである。 この地域の粘板岩は、硯の原材料として古くから利用されてきた。『封内風土記』や『封 内土産考』といった江戸時代の地誌からは雄勝が硯石の産地であったことが記されている。 また、硯を一子相伝の技として受け継いだ奥田主計が伊達政宗の鹿狩りの際に硯を献上し て褒美を賜り、その子孫も藩のお抱え硯師として格別の扱いを受けてきたとされるように、 その材料としての価値のみならず工芸技術においても仙台藩を代表する産物に数えられて きた。 もともと雄勝というところは、地先の海産物採集と自給的な農業を営むような半農半漁 の浦々が所在する場所であった。仙台藩の御仕込方を通じて移出されたナマコの干物やこ のわた、干アワビ、ノリなどの採取、肥料や油とするイワシ、タラなどの漁、そして製塩は、

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73 表 1.東日本大震災からの復興で手工業の生産地に活用されている補助金等の例 事 業 名 概 要 伝統的工芸品産業復 興対策支援補助金 復興庁予算にて、「東日本大震災で被害を受けた伝統的工芸品産地において、 生産設備の復旧や後継者育成事業、国内外の需要開拓事業、新商品開発事業 等への支援を通じ、被災地の産業復興・雇用創出を図る」ことを目的とし、産 地活性化事業と、生産基盤確立・強化事業(生産設備等整備事業、原材料確 保・試作品製作事業)を対象にしている。 ふるさと雇用再生特 別基金事業 厚生労働省のふるさと雇用特別基金による補助金で、地域の実情や創意工夫 に基づいて地域求職者等の雇用機会を創出する取組みを支援するための事 業。もともとは震災復興を目的としたものではないが、沿岸部からの人口流 出への対策や被災地の地元企業の雇用継続にも活用されている。 被災地域産品販路開 拓等支援事業 経済産業省予算にて、被災地域と域外地域の取引を促進することで、地域経 済を活性化させるための販路開拓を目的とした事業。「被災地の風評被害を払 拭し、被災地域の持続的な復興・振興等を図るため、国内外を問わず被災地 域産品の販路開拓(ビジネスマッチング、商品開発等)を支援する」事業。 被災地の伝統工芸品 等 を 活 用 し た ク ー ル・ジャパン海外展 開事業 経済産業省の予算にて、被災地域の伝統工芸品等の分野において、海外市場 の開拓を支援することで、被災地域の持続的な復興・振興を図ることを目的 とした事業。具体的には、被災地の伝統工芸品を中心とした文化産業全般の ビジネスマッチング、被災地の伝統工芸品の産地の魅力を活用した交流プロ グラム等の商品開発等支援を内容とする。 「文化遺産を活かし た観光振興・地域活 性化事業」 文化庁の事業で、地域の文化遺産を活用した伝統行事・伝統芸能の公開・後 継者養成・体験事業・重要文化財建造物や史跡等の公開活用などを支援する ことを目的とした事業。宮城県では、「宮城県文化遺産復興プロジェクト」の 一環で伝統工芸技術の継承に必要な映像記録の作成を実施した。 中小企業等グループ 施設等復旧整備補助 事業 宮城県の補助事業で、被災地の中小企業者等の施設・設備の復旧・整備並び に商業機能の復旧促進及び賑わいの創出を支援することを目的としている。 商工業のみならず、養殖や加工業を含む水産業や、商店街の復興にも活用さ れている。被災地にある複数の中小企業や事業者から構成されるグループを 主体とし、生産の協同化を促進する狙いがある。 ふくしま産業復興投 資促進特区 福島県復興推進計画にて、(9)地域資源活用型産業(伝統工芸品関連産業、 木材関連産業)集積プロジェクトが位置付けられ、「伝統工芸品関連産業の戦 略的な事業展開を支援するため、「福島県ブランド認証制度」を活用し、県内 はもとより全国に向けて戦略的な売り込みを行い、県産品の知名度向上、競 争力の強化を図ることにより、伝統工芸品関連産業の更なる集積を目指す」 事業。

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74 この地域の生業のベースとなるものである。それらは、近代の動力船を用いた近海・遠洋漁 業および、カキやホヤなどの養殖業が盛んになって以降も、雄勝の基本的な生業として存在 し続けてきた。農地は場所によっては確保できるものの、度重なる地震と津波の被害によっ て農業が大きく安定的に発展する基盤は得られなかった。おのずと資源と技術に依存した 生業と、出稼ぎや季節労働などの人的資源に依存した生業を、時代ごとに対応しながら生活 を成り立たせるという、柔軟な戦略が求められてきたのである。このことから、外部からの 技術移入や事業参画によって新たな産業がいきなり生まれることがある。牡鹿半島の捕鯨 や大謀網などはその典型であり、外部の資本と技術に労働と天然資源を提供するかたちで、 沿岸部の集落は盛衰を繰り返してきた。 実は、「玄昌石」利用の産業もそうした側面を多分に含んでいる。一般に雄勝硯は、良質 な粘板岩を産するこの地域に住み着いた者が江戸時代以来生産してきたとされるが、実際 のところ江戸時代にそれに携わる人々はごくわずかであった。雄勝の「玄昌石」が大量に採 掘され、採石と加工が産業として飛躍的に発展するのは近代に入ってからである。最初に雄 勝の粘板岩に目を付けたのは横浜の商人であった山本儀兵衛という人物である。海産物の 買い付けにきた昭和六年ごろに石版に活用して欧米に輸出することを企て、雄勝の明神地 区に移住してきたのが明治10 年ごろとされている。その後、地元で採石加工を事業化した 木村幸治の雄勝天然スレート株式会社や、地元出身者によって設立された宮城県特産雄勝 石盤会社などが続いていく。この過程で、明治後期における雄勝一帯の集落は、石盤採掘お よび加工の労働者として雇われたり、材料を家内に持ち込んで内職に励んだりするなどし て、この突如あらわれた鉱物産業の恩恵に沸いたという。雄勝から唐桑の農・漁村では、大 正期に石盤加工の内職をしたという話を聞くことがあるが、最盛期には地域の労働力を総 動員して、石盤は輸出産業として発展したのである。 粘板岩の利用が大きな利益を生むことは、民間企業だけが注目していたのではなかった。 粘板岩利用に行政が関与し始めるのは、明治10 年ごろからである。それは宮城県集治監に よる囚人の強制労働での粘板岩採掘・加工であった。明治前期、北海道では開拓や鉱山での 硫黄採掘などに囚人が動員され、九州でも三池炭鉱に動員された。宮城県集治監では、野蒜 築港建設やこの雄勝での粘板岩採掘に囚人が動員された。囚人の多くは、西南戦争によって 捕えられた元薩摩藩士などであり、西郷隆盛の叔父にあたる椎原国幹などの主要な人物も 含まれていた。昭和11 年、雄勝分監が設置され天雄寺に寄宿舎を建設して旧薩摩藩士ら 70 名をおさめ、その後外役を課せられて労働した囚人は明治17 年には 200 名程度まで増加し たという。囚人らは、当初は恐れられ嫌煙されていたというが、明治13 年の雄勝の火災の 際に、看守が囚人らを指揮して消火したというエピソードもある。しかし、明治26 年には 集治監による採掘・加工が民業を圧迫し、さらに価格の下落も促すという地元石盤業者の内 務省への陳情によって、集治監は粘板岩採掘から撤退した。宮城県集治監による粘板岩採掘 と石盤製作は、東京開運社の依頼によるもので、製品も同社を通じて海外に輸出されていた という。この東京開運社はさきの山本儀兵衛が設立した企業であるから、明治26 年ごろに は山本と他の地元事業者との競争激化と生産をめぐる軋轢が生じていたということであろ う。明治中期、雄勝の粘板岩加工の生業は過熱状態にあった。こうしたなか、明治29 年に 発生した明治三陸地震にともなう津波によって、雄勝分監の使用していた作業場はことご

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75 写真 3.雄勝の玄昌石の由来について記した明治 11 年の碑文の関連資料 (筆者所蔵) とく破壊され、住宅も119 戸流失倒壊した。それは、近代における雄勝の採石・加工の第一 幕の終焉を意味した。 4-2 明治三陸津波からの復興 明治29 年の津波以後、採石業と学童用の石盤製作は徐々に再開された。明治から大正期 の学童用筆記用具として石盤の需要は途絶えることはなく、雄勝の石盤製作は明治末期か ら本格的に地元企業によって事業化され、発展していった。当初は原盤のまま東京や大阪に 送り、そこで木枠をつけて製品化されたが、のちに雄勝で製品まで製作するようになったと いう。その販路については、国内では学童の筆記用具に紙を用いるようになり需要は急激に 減少したため、アジア・アフリカの各国植民地の市場を開拓しようとするも当初はうまくい かなかったという。しかし、第一次世界大戦の影響でヨーロッパからの物流が滞り、大正中 期には海外市場の開拓に成功し始める。当時、船会社は比較的安価で石版を運搬してくれた。 というのも、日本―ボンベイ航路の船に石版をバラスト水代わりに積載したのである。ただ

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76 その勢いは昭和前期にはすでに欧米に圧され、板材による製品は天然スレートに特化して いき、石盤製作は衰退していった。ただ、この石盤製作の過程で、様々な新技術が玄昌石加 工に導入された。例えば、鋳鉄の円盤に固定した研磨用石盤を回転させて、水と砂で半製品 を研磨する機械研磨は、大正中期に考案されたものであった。また国外はもちろん、海外へ もその販路を開拓したことは、その後の量産硯の販路拡大へと結びついていったであろう。 一方、天然スレートは軽量で見た目にも美しい屋根材・壁面材として、明治以降この地の 主要な産業として発展してきた。もともと明治23 年に大阪の技術者が雄勝石をドイツの寸 法でスレートに加工したのがはじまりで、明治後期から大正前期にかけて公共建築や銀行、 教会などに用いられた。東京駅や北海道庁などはよく知られた雄勝産天然スレート屋根の 建造物である。また宮城県内においても、重要文化財「東北学院旧宣教師館」(通称:デフ ォレスト館)をはじめ、刑務所、大学など、多くの建築で雄勝産の天然スレートが用いられ た。関東大震災以後、レンガ造りの建物の耐震脆弱性が指摘されると、公共建築に天然スレ ートが用いられることは少なくなっていった。 産業としての硯生産は、学校教育、教養、趣味といった日本の近代化過程での様々なニー ズを受けて飛躍的に発展してきたが、雄勝地区は再び昭和 8 年の昭和三陸地震にともなう 津波によって流失倒壊361 戸という壊滅的な被害を受けた。 写真 4.重要文化財「東北学院旧宣教師館」 (東北学院大学土樋キャンパス敷地内)(筆者撮影) 4-3 昭和三陸津波からの復興 震災復興とその後の戦時体制の困難さを経て、学校教材としての学童用硯の生産量は昭 和20 年代半ばにピークを迎えた。この時期、工人 200 人、ダンケ(檀家)と呼ぶ販売業者 が11 社あったというから、その活況ぶりを推して知ることができよう。 順風満帆かにみえた雄勝硯と採石業は、再び1960(昭和 35)年のチリ地震津波によって 80 戸以上が流失倒壊し、町は大きな被害を受けた。復興においては 3 メートルの嵩上げと ともに浸水地域を居住地から除外する措置が取られたが、その後は徐々に低い土地にも住 宅は進出していった。

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77 写真 5.大正~昭和初期とされる女川周辺(宮城県)での採掘の写真 (筆者所蔵) 4-4 チリ地震津波からの復興 昭和後期は、伝統的な技術を高度化した高級硯において雄勝硯は確固たる地位を築き、ま た一般向けの硯でも全国の90 パーセントのシェアを誇る一大産地に成長した。石粉を固め た人造硯も含めたこうした大量生産品の販売拡大は、当然のことながら作業の効率化と工 程の分業化を促すこととなり、生産技術の上でも種々の工夫が図られていった。 硯においては名を残す硯作家が何人もあらわれ、現在もその評価は確固たるものがある。 こうした産業としての硯と工芸品としての硯の両面が、その歴史を含めて評価され、雄勝硯 は1985 年に国の伝統的工芸品に指定された。2011 年の東日本大震災前には、雄勝で生産 される硯のうち天然石および中国産石材を用いた中級・高級硯は、全体の一割強で、多くは 学童用の人造硯となっていた。また、全国の工芸産地と同様、従事者の減少および高齢化は 年々顕著となっていた。雄勝硯の評価は、石英や銅などの墨を磨るための成分を含む良材と、 彫りや磨きの高度な技術にある。 一方、住宅建材としてのスレートは、戦前から一般的にこの地域で使用されてきたが、チ リ地震津波以降、北上川沿いを中心とする宮城県東北部では、多くの住宅や倉庫、工場など 一般の建物に天然スレートが用いられた。 5.現代の採石加工技術 5-1 採石 現代の採石加工技術について、採石加工業を営み、震災後廃業を余儀なくされた木村満氏 に取材した内容を以下にまとめる。採石加工業を営んで三代目にあたる木村氏は現在80 歳 であるが、震災後は「玄昌石」の採石加工を後継者の若者たちに教えながら、雄勝硯の再興 に挑んでいる。 震災前からすでに、「玄昌石」を採掘するのは明神地区の採石場のみとなっていた。かつ ては雄勝湾を挟んだ南側の水浜、分浜・波板の採石場、かつて囚人が採掘の強制労働にあた った船戸の採石場、江戸時代にはお留山であった唐桑の採石場、その他名振と船越に採石場

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78 写真 6.東日本大震災以前、北上川流域の集落には スレート葺き民家が顕著に見られた (筆者撮影) があった。逆に言えば、これらの採石場の分布域が良質な粘板岩の埋蔵している地域である。 雄勝周辺では、東側(海側)に白い粘板岩が、内陸部にネズミ色の粘板岩が、そしてその中 間に黒い良質な粘板岩が埋蔵している。各所に試掘場所が残っており、先人が実地調査を行 った痕跡がうかがわれ、それぞれの場所から産する堰材が、硯やスレート・石盤、敷石、碑 石など、石の特性に応じた利用に供されてきたのである。 雄勝の明神地区には、雄勝硯・スレートの主要な採石場がある。雄勝湾の南岸から北岸の 明神山にかけては、背斜によって粘板岩を含む2~3 億年前の地層が露わになっている場所 がある。地層は背斜の頂点にあたる部分に行けばいくほど層序的に古い地層が露出するが、 明神地区の採石場はまさにその褶曲している地層の山にあたる部分を尾根筋に持ち、かつ その背斜頂と裾を結んだ断面が剥き出しになっているいわゆる背斜軸が露呈している地形 である。 この場所が採石に適している理由は、露天掘りの工程と関連している。ふつう、石を採掘 する場合に、目的の地層を横から掘り進むと石を手前に引き出すのが困難なため、地層の面 を横から剥がしていくようなかたちで掘り崩して、目的の地層を面として露わにさせる。い わゆる露天掘りである。この方法では、粘板岩の地層を出すため横から土砂を除去していき、 目的の地層まで到達したら石の節理に従って劈開していくことになり、安全にかつ効率的 に石を採掘することができる。ただし、場所によってはどうしても地層の傾斜に対して潜り 込むような掘り方をせざるを得ない場所が出て来る。いわゆるすかし掘りで岩盤の崩落の 危険性が格段に高まるためこれをギャクドリ(逆取り)といって嫌った。結果的にギャクド リ作業になることもあったが、そうならないように地層にアプローチする彫り進め方が求 められるのである。この地層を目指して層を剥ぎ進めていく工程をクチキリ(口切り)とい う。口切りは常に山の側面の土砂の崩落の危険を伴うので、山を棚状に段をつけていくベン チカットの掘削方法をとるのが望ましく、明神の採掘場はまさにそうした作業が数十年に 渡って継続されてきた結果、階段状を呈している。

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79 粘板岩の地層は、尾根筋は石が風化してできる赤土に数メートル覆われ、背斜軸で地層が 露呈している部分も、風化によってもろくなった岩盤が細かく割れて散乱している。粘板岩 はこれを除去した先に埋蔵しており、パワーショベルで瓦礫を除去する作業が必要である。 そして硬い岩盤に到達したところで石を劈開させて剥がしとり、手前の作業場に運び出す。 採掘後は、再び瓦礫や土砂を被せて次回の採掘までの間に風化が進むのを妨げるのである。 粘板岩の地層は当然のことながら均質ではない。そのため碑石に適したものと硯に適した ものなどの使い分けがあるわけだが、硯材となる石にも非常に良いものから粗悪なものま で幅がある。硯工人は、昭和30 年以前の硯材が軟らかく黄色い石が学童用硯の硯材であっ たと語っているが、これは軟らかいものをあえて使ってコスト削減と大量生産を狙ったも のである。こうした風化の進んだ石をナミイシ(並石)と呼び、現在使っている石、特に中 級・高級硯や自然石硯などに用いる硯材をジョウイシ(上石)と呼び分けている。スレート も同様の岩盤の石材から製作している。 こうした硬質で良質な石材を採掘できるようになったのは、第一にパワーショベルやブ ルドーザーなどの重機が使えるようになったことに起因するが、同時に石の埋蔵状況とそ れへのアプローチの見立ての高度な知識・経験あってのことである。 露天掘りによって再堀した石材は、カケヤ(ハンマー)とオオワリヤ(大割矢)を用いて 節理に従って剥離させ、持ち運び可能な大きさに割る。このとき、オオワリヤを打ち込んで 大きく割りながら、コワリヤ(小割矢)を楔のように打ち込んでいき、石を割る。採石場で 石を運搬可能な大きさまで割る作業そのものをオオワリと呼ぶ。 原石を採掘してその場で選別し、オオワリして工場に持ち帰るのは掘り出した10 分の 1 ぐらいである。さらに、それを切り割りして硯材とするのは、工場に運んだ石の10 分の 1 ぐらいである。その過程で利用できない石はボロと呼んでただ捨てるだけのものである。石 材の吟味は製品の良し悪しの根本であるから、この石の見極めが重要なのだという。 採石作業に対して、オオワリの作業は歴史的にほとんど変化がない。道具としては石取り 用の金梃子とヤ、ハンマー、手槌、オオビキ・コビキに用いる鋸、石割り鉈・叩き棒、砥石 といった程度のもので事足りる。それは採石作業に重機を用いるようになった昭和中期以 降も変化はない。それはひとえに「玄昌石」の剥離する性質に依存したものだが、効率性を 写真 7.採石場で原石を運搬可能な大きさに割る (筆者撮影)

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80 挙げるためには何よりも、肌理のそろった不純物の少ない石材の位置を知るための「眼」が 不可欠である。これを木村氏は「見立て」と称して筆者に説明してくれた。せっかく掘り出 した石も、節理がそろっておらずきれいに割れなかったり、不純物が多かったりすると、そ れは硯材としては適わず、ボロとして採石場に放棄することになる。一見すると単純で、極 めて簡素な道具で作業を進めるオオワリ作業は、掘り出した時点ですでに割りやすい状態 のものが選択されている。良質な石が埋蔵している場所は、山を掘る前におおかた推測され ているのである。「玄昌石」を用いた工芸品の技術継承の根幹は、この山の「見立て」にあ るのである。 ここで紹介した採石加工作業は、実は東日本大震災の前後で技術的な意味での変化は全 くない。技術的な変化という意味では、昭和中期に採石作業は人力ではなく重機で行うよう になったことが、歴史的に最も大きな技術革新であった。前述のように、震災前までは「玄 昌石」の採石は採石業者によって行われてきた。しかし、明神地区の採石業者の自宅、工場 や資材、展示施設などがすべて流失し廃業せざるをえなくなった。採石加工業が機能しなく なれば、雄勝硯をはじめとする「玄昌石」加工品は存続することができない。工芸品原材料 としてはほぼ無尽蔵に埋蔵し、また山の中腹に位置する採石場に置いていた重機等は被害 を免れた。そこで組合が自前で採石を担うことを決め、現在は組合に雇用された職人と若手 後継者が採石を担っている。 5-2 硯材加工 採石場でオオワリしてダンプカーで麓の工場まで運搬した石材は、電動丸鋸によるオオ ビキ(大挽き)、電動帯鋸によるコビキ(小挽き)、電動回転盤による砂磨りの三つの行程に よって、硯材やスレート材に加工される。石材を加工する際には、石目がどちら向きか、不 純物や石の組成が整っていない部分をどう避けるかが問題となる。 まず石を加工する方向を決定する石目についてだが、この石目とは鋒鋩つまり石の中の 石英などの硬い成分の粒の揃う向きによって決定する。硯は墨の膠成分をこの鋒鋩によっ て研磨するのであるから、鋒鋩は墨を磨る向きに従っている必要があり、おのずと硯は縦方 向に石目を向けることになる。いわゆるタテビキ(縦挽き)である。量産品のなかには、石 の取り方によってヨコビキ(横挽き)となる石材も出てくるが、墨の磨りはよくないし、加 工もしにくい。またスレートは絶対にタテビキで作らないと石を剥ぐときに割れるし、そも そも屋根に葺いたときに重なり部分ですぐに割れやすくなる。こうした理由から、石材は最 終的に硯材・スレート材となったときにタテビキとなるようにオオビキ、コビキしていく必 要がある。 次に、不純物や石の組成が整っていない部分を避けるという問題がある。オオビキした石 は、平面をよく見るとキレと呼ぶ剥離面に直交するように走る筋状の部分、クセやササレと 呼ぶ石の組織の乱れなどを避けるようにカットするラインを設定する。ジャガと呼ぶ硬い 粒状の不純物、化石の混入などは、割ってみないと分からないが、不純物の多少は石の様子 からある程度予想できるという。 オオワリした板石は、ヨコビキになるように回転鋸で細い棒状に裁断する。オオビキの作 業である。二枚の回転鋸を硯材の幅の間隔をあけて回せば、細長い硯材の原材料ができる。 この細い石材を、小切りしていけば、石材はタテビキの硯材の原材料となる。これをさらに

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81 厚さを整えるために石割り鉈と叩き棒で割って均等な厚さにしていけば、硯材のサイズの 石材の完成である。 良質な部分は、硯材とスレート材の原材料となる石材に取っていく。しかし、半端な部分 や、キレなどが入って大きな面として石材にできない部分は、それに合った目的に使うため にさらに加工していく。あくまでメインは硯材とスレート材をどれだけ多く取れるかを考 えるが、それによって生じる端材も捨てずに湿った布をかけておき、必要に応じてカットし て無駄なく用いられる。 震災前に明神地区の加工工場で取材した折は、手のひらにいくつも載るぐらいの破片を、 電動のミキシング・ドラムに入れて回転させ、玉砂利を製造するのを見せていただいた。庭 園やアプローチなどを飾るものとして広く使われるこうした製品も、端材を無駄なく使う ことで成り立ってきた。採石場でボロとして廃棄したものを除き、麓まで下ろした石材は基 本的にすべて利用に供されるのである。 6.現代の雄勝硯の製作技術 5-2 で見てきた工程によって製作された硯材は、硯工人によって硯へと加工される。ここ では遠藤市雄氏の仮設工房での取材と聞書きデータから、現代の雄勝硯の製作技術を紹介 する。 工人は、最初に硯材を手で表裏を返しながら、どちらを彫る面にするかを決める。硯材を 作る工程では、職人が四角い形を削り出し、オオワリナタ(大割鉈)で四隅をカク(欠く) が、その形は手作業のためひとつひとつ少しずつ異なる。そのためどちらを表にして削れば 電動ドリルの盤に挟んで固定しやすいか、またどの向きで製作すれば出来上がった時の寸 法にしやすいかを瞬時に判断する。そして同時に見るのが異物の混入があるかないか。粘板 岩には石の生成の過程で粒状や筋状の非常に硬い部分ができることがあり、それをジャガ と呼んでいる。このジャガは鑿では削れないし、ドリルで無理に押すと硯材が割れてしまう。 しかし経験を積めば、石の中に埋め込まれたジャガもある程度予測できるようになる。表裏 を返して均質さを確かめながらこのジャガを探るのが非常に重要な作業である。また、石の 写真 8.東日本大震災前の加工工場内の様子 写真 9.東日本大震災後に再整備された

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82 色や石の目の様子も確かめて最終的にどの向きで硯を削るかを決めるが、その勘どころは 言葉では言い表せないものだという。 まず、電動ドリルを使ってアラボリ(荒彫り)する。ドリルの刃は、硯を数十枚彫ったら 先が丸くなって彫れなくなるので、一日に何度かグラインダで砥ぐ。ドリルの刃は、タンガ ロ(タンガロイのこと)と呼ぶ鋳物も彫れる硬いものを使っている。刃先は石を彫るように 自分なりに考えた形状で、三枚の羽の角が石を削り、ドリルの刃の横面で彫り広げられるよ うに整える。この過程で石に硯の面が彫り込まれていき、なかが窪んだために硯の縁が現れ てくる。これをフチタテ(縁立て)といい、硯の形状を決定する重要な作業であるのだとい う。 アラボリは1970 年代中盤まではすべて手掘りであった。まず、硯材の色や石目の状況を ふまえて、硯の面をどうとるかを決めるのは現在とかわらない。手掘りの時代には、そこに 型紙をあてて鉛筆で線をひいたり、罫引きで引っ掻いたりして寸法を下書きした。次に鑿で 荒彫りする。鑿で最初に削った時に、その石の硬さを無意識に感じ取る。粘板岩は石ひとつ ひとつで硬さが異なるので、鑿を当てる角度や力の入れ具合が変わってくるのである。荒彫 り作業はおよそ30 分弱かかる。鑿は利き手の肩に当てるため、硯工人の肩にはみなタコが ある。若いころには痛いのであて布をする人もいたが、未熟者と見られる。実際、試に女性 用のパッドや座布団を当てたりしたが、やはり鑿は「肩で彫る」ものなので、感覚が伝わら なくてうまく彫ることができない。肩が痛いのは今も昔も硯の工人の職業病だという。その 鑿は自分の体格に合ったオリジナルの鑿で、三種類あれば最低限の仕事ができる。一番太い ものを深く削る彫り鑿、平らにするジサライ(浚い鑿)、仕上げる丸鑿。柄の形や長さはも ちろん、平鑿、角鑿など、自分の作業に合った形に砥ぐので、他人の鑿を使って彫ることは できない。最もシンプルな作業でありながら難しく重要であったのが、A面を平滑に彫るこ とであった。現在ではドリルを回しながら高さを固定して、盤を前後左右に動かせばおのず と平らな面が掘り出せる。しかし手彫りでは平らな面を彫り出すことができるまでに二年 以上を要した。 シアゲボリ(仕上げ彫り)では、刃先の細い鑿を用いて各部の形を整えていく。形を仕上 げるのに30 分。アラミガキ(荒磨き)では、砥石や耐水ペーパーを用いて表面を平滑にし ていく。同時に墨を磨る墨堂の部分は、墨汁が適度に溜り、また墨がよく磨れるように、そ の形状や面の仕上げに注意を払う。硯の良し悪しは、この墨堂の良し悪しにかかっていると 言える。指先で何度もなでながら、凹凸をなくし、水のはけ具合なども確かめながら、砥石 で形を仕上げていくのである。 最後にケショウ(化粧)を施す。硯の縁に漆を塗り、それが乾ききる前に煤をこすりつけ る。そのあとイボタの粉をはたき、布でこすりつけると硯には光沢が出て来る。イボタとは 別名イボタ花とも呼ばれる研磨剤で、イボタノキに付着するカイガラムシの一種であるイ ボタロウムシの分泌物を加工したもので、日本刀や木材、碁石の仕上げ磨きに古くから用い られている粉末である。高級硯は雅硯と呼ばれる彫刻を施したものには、指先で掘る鑿を用 いる。粘板岩は剥離面に沿って彫るのは易いが、竪方向に彫るのは固いので技術が必要。数 日間かけて彫刻を彫り上げる。 戦後間もないころの雄勝では、子供は学校から帰ってきたら親の手伝いで硯の荒彫り作 業を手伝ったという。多くの子供は、学校を卒業する前から修行奉公に入り、最初はものを

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83 運んだり掃除したりといった雑用係で、職場に慣れてくると次第にフチタテの作業を習う ようになり、3 年間働いて 1 枚の硯を 1 人で仕上げることができるだけの基本的な技術を 身につけたという。その頃の学童用の硯材は、山で手掘りであったから山の比較的上の方の 石を使っていたため、現在よりもずいぶん軟らかく彫り易かったという。1960~70 年代前 半までの石は、墨を磨ると石の方が負けて墨がドロドロになってしまうような硯材もあっ たという。これは工作機械の導入以前であったために深い層の石を採りにくかったことも あるが、実際には作業効率を上げて一枚でも多くの硯を生産するために、工人は軟らかい石 を好んで使ったのである。当時は、45 平というサイズの学童用を一日に 100 枚彫るのが当 たり前とされた。現在の石は深い層から掘るため、上質で硬く、その分一日に作れる枚数は 減って、1 日 30~40 枚程度(電動ドリル使用)となっている。 硯生産用具は、電動ドリル盤、作業台のホリイタ(彫板)・硯を掘る鑿類、研磨用の盥と 砥石、仕上げ用の耐水ペーパー等である。 硯の形には、カクモノという角型硯(一般・学童用)、ジョウモノという高級硯、四隅を 欠いたブッカケ、石の形状を活かした高級硯のテンネンモノなどがある。角型には、二五度 (2.5 寸×1.5 寸)、三五度(3.5 寸×1.5 寸)、四二寸(4 寸×2 寸)、四平(4 寸×2.5 寸)、 四五平(5.0×2.5 寸)、五平(5.0×2.5 寸)、五三寸(5.0 寸×3.0 寸)、四七寸(7.0 寸×4.0 寸)、五八寸(7.0 寸×5.0 寸)、尺六(1 尺×6.0 寸)がある。 これらに対しての仕上げの種類には、精製漆を用いたウルシマキ(漆巻き)、ツヤダシ(艶 出し)、ツヤケシ(艶消し)などがある。また、中級硯、一般用にはカシュー漆等の代替漆 やコールタール等を用い、価格を抑えるようにしている。いずれにしても、粘板岩は衝撃を 与えると容易に剥離するため、それを防止するために周囲をコーティングする必要がある。 以上、現代の硯生産技術について概要のみ記した。自然の石の特徴を活かして彫刻を施す ような自然石硯はほとんどを手作業で製作するが、上記のような定型の角型硯はアラボリ 作業を電動ドリルで掘削する。この作業はすでに40 年前から機械化されているが、遠藤氏 は、若い頃に手掘りでアラボリしていた時代を振り返りつつ、墨堂や硯海を掘るうえで手掘 りの感覚が動員されていると自覚しているという。これから技術を学ぼうとする人は、手掘 りでアラボリする必要が無い。機械化以前に修行した工人は、鑿で平らな面を彫り出すとき 写真 10.鑿を使って硯を手彫りする (筆者撮影)

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84 の肩や刃先の動きなどを、基本の身体動作が手彫り作業で身につけたため、見た目は同じよ うな鑿で石を掘る作業であっても、感覚的なレベルでは機械化以後に修行した工人との違 いは少なからずあるのであろう。 一方、硯生産における東日本大震災による影響はどうであろう。ドリルによるアラボリ、 鑿によるシアゲボリ、砥石と耐水ペーパーによる研磨、コーティング作業のすべての工程に、 震災前後の変化は見られない。工人は津波で使えなくなった機械をオーバーホールしたり、 新たな工作機械を調達したりして、製作環境を整えようとしてきた。遠藤氏の作業場所は、 自宅作業場ではなく、壊滅的に被災した庁舎の機械室に、発電機で明かりや動力を確保する という急ごしらえの作業場であり、震災後の極めて困難な状況のなかで仕事をされていた。 しかし一方で、遠藤氏はあっけらかんと「まぁやってることはまえと一緒」と述べた。また 研磨作業を行っている女性たちも、「盥と砥石があればどこでも仕事ができる」と語ってく れた。その笑顔の裏には、推し量ることも難しいほどの震災後の困難な営みが隠されている が、実際のところ確かに技術的な変化はないのである。 7.災害復興と工芸技術 本稿では、宮城県石巻市雄勝地区を中心に産する黒色粘板岩「玄昌石」についての、東日 本大震災後の現状と実際の採石・加工・硯生産技術を記述してきた。 3.では、壊滅的に被災した伝統工芸の生産地が、様々な外部の補助金やボランティア的 な諸活動の援助を活用しながら、現状と格闘しつつ復興の途上にあることを紹介した。被災 地の復興のスピードは決して速くはないが、工芸技術の復興にむけた実践は着実に前に進 んでいる。本稿はあくまで平成二五年度までの調査データとして記述しており、掲載時には すでに次の段階へと移行しているであろう。そのあたりを含みおきいただきたい。 4.では、雄勝地区における「玄昌石」利用の歴史について概観した。ただし、これまで の技術についての見方、つまり江戸時代以来培われてきた工芸技術が、近代化過程の変化や 各時代のニーズに対応しつつ、現在に至るまで伝承されてきたといった見方を、いかに相対 化するかを試みた。そのひとつの見方として繰り返し被る災害と復興に着目した。 三陸一帯は、数十年に一度の大地震と津波を被り続けてきた。そのたびに村や町は壊滅し、 人々は生活を再建してきたが、山で採れる「玄昌石」という資源はそうした状況に関わらず そこに埋蔵していた。雄勝の「玄昌石」利用を理解するためには、震災復興において新たな ニーズを探り当て、それに技術を適用させてきたという特異さに着目することが重要であ る。明治初期は集治監の強制労働による無償の労働力を背景にした輸出用の石盤用石材が 採掘されたが、明治三陸津波以降は地元採掘業者が成長し、さらに研磨用円盤をはじめとす る大量生産用の道具の考案によって、採掘加工、そして天然スレート製作が地域産業として 定着した。昭和三陸津波後は、既存の漁業が零細な経営を脱しなかったのに対し、硯生産に おいては新たな生産流通体制を確立していった。硯の各部の彫りを分業する量産体制はダ ンケと呼ばれる問屋に連なり、活発な商業活動のもと全国的なシェアを確立していくのが、 昭和三陸津波の復興期と重なるのである。チリ地震津波では、被害の大きかった北上川沿い の集落の復興に多くのスレートが用いられたが、高度経済成長期にあたるこの時期は、茅葺 屋根の家屋がなくなっていく時期である。南三陸町から雄勝地区にかけては、現在でも茅葺

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85 屋根をスレート葺きに改めた例を見ることができるが、チリ地震津波の復興期は、一般家屋 にスレートが多用された時期でもある。加えて硯は、普及品である学童用硯と工芸的な高級 硯という、両極端の製品作りの時代となった。「雄勝硯」として国の伝統的工芸品にも指定 され、良質な石材と高い技術に対する評価を不動のものとしていくのもこの時期である。雄 勝の「玄昌石」利用の近代は、まさに災害と復興の過程で紆余曲折を経てきたと見ることが できる。 5.と6.では、現代の採石加工と硯生産技術について紹介してきた。4では、震災がモ ノ作りの変化に大きな影響を与えてきたことを述べたが、ここでは逆の結論を述べなけれ ばならない。すなわち大地震と津波は、こと技術的な意味においては、ほとんど変化をもた らさないということである。災害は、職人や工人にとっては壊滅的な物質的な損失をもたら してきた。災害のあと彼らは、復旧に向けた行政的なサポートに加え、各々のネットワーク を活用して災害前の仕事の復旧を目指すことになる。そのため震災前と震災後とでは、技術 的にはすぐに大きな変化は起こらない。 技術的な変化を促すのは、むしろ技術革新とニーズの変化であるように思われる。硯生産 においては、1970 年代まで続いた極めて安価な学童用硯を製作した時代から、高級硯や良 質な「玄昌石」加工品のような付加価値を追求したモノづくりの時代への変化に対応して、 技術は大きく変化した。採石の面でも、硯の職人が多くの硯を削れるように軟らかい石を用 いていたのが、より緻密な加工が可能で、見た目の石肌も美しい硬い石を求めるようになっ たため、採掘に重機が用いられるようになった。大量生産のために各部を分業していた硯生 産は、ひとりの工人が一貫してアラボリから研磨、仕上げまでを行うようになった。おのず と、工人は作家性を帯びるようになり、個人の独自な表現を競いながら細密な加工技術が高 められていった。こうした過程で導入されたのがアラボリ用の電動ドリルで、これによって 量産品もひとりの工人の一貫製作が可能となった。技術改善が促されるのは、災害による復 旧期ではなく、一定の復旧を終えたあと新たなニーズや販路を開拓していく復興期であっ た。 先に述べたように、本稿は東日本大震災後の工芸技術の復興に向けた現在進行形の実践 について、2015 年前半の段階までの状況を述べたものである。すなわち、東日本大震災に おける工芸技術の復旧期にあたる。生産地は、生産体制のドラスティックな転換を余儀なく されたが、一方で震災前の状態の復旧を目指すため、今のところ技術面での大きな変化は見 られない。しかし前述の歴史的展開をふまえるならば、今後の復興期とその後において、「玄 昌石」利用には大きな技術的な変化を促す技術改善が起こる可能性がある。 8.まとめ 本稿では、近代における粘板岩利用の歴史的展開を、たびたび襲来する津波と被災からの 復興過程の連続とともに通覧してきた。それぞれの復興期には、石を扱う基本的な技術を応 用して、新市場の開拓とニーズへの対応を念頭に産地のありようを大きく変化させてきた ことがわかる。雄勝では、グローバルに流通する商品や、国内のニーズ、学校教育等の制度 を視野に入れたアイデアによって復興への活路を見出そうとしてきた。それを可能にした のは、石を選び、割り、磨き、塗装するという基礎的な技術である。これらをいかに組み合

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86 わせて新商品を作り出すかが、雄勝の粘板岩利用技術の本質であり、剥離性石材の活用法を 常に探るのが「本位」とされてきた。 現在生産されている輸出用石皿のような目新しい商品にもそうした「本位」が反映されて いる。現代の雄勝硯は、国の伝統的工芸品に指定され、生産体制もそれにもとづいた復興過 程にある。しかし、雄勝の歴史を紐解けば、雄勝硯を守ることのみに執着してきたのではな い。雄勝硯は、粘板岩利用の技術の精華であり、その到達点があるからこそ、その技術を応 用したさまざまな商品開発ができるという意味では、雄勝硯の技術は守りつたえることが 重要である。一方、産地として継続的に地域の人々の生業を成り立たせていくためには、過 去の生産者たちがそうしたように新たな販路や商品を模索していくことが重要であり、実 際に現場で復興に携わっている人々が取り組んでいることはそちらに軸足が移行している のである。民俗誌的な調査においても、こうした現代的な変化にこそ調査すべき内容が含ま れているのである。 これまで、民具研究における手工芸技術の研究は、長い歴史のなかで培われてきた体系的 な技術と、理想的な形へと昇華されてきた人間の手足の延長たる道具類とを対象としてき た。技術と道具に対する着目は、人々の多様な実践を記述して考察する有効な切り口である ことは現在も疑いはない。しかし、そこにはそのスタティックな体系が現代において解体さ れ、技術も衰微しているという前提に立ち、その保存・継承を考えること以外のことを忘れ てはいないだろうか。技術は変化するという、至極あたり前のことに対する学問的なアプロ ーチ、即ちダイナミックな技術改善の展開へのまなざしがなければ、技術の担い手が今そこ で実践していることを等閑に伏してしまうであろう。従来の民具研究のアプローチでは、熟 練者を取材対象に選択しその聞書きデータを抽象化して歴史的に培われ、地域的な特色を 持つ技術の体系として記述する。実はこれこそが民具研究の限界であるかもしれない。 津波による大規模災害で、すべてを失った民俗技術の担い手が、今なにをめざし、これか らどこへ向かっていくのか。そして研究においてこれから何を描いていくべきかを、人々の 実践から学びながら考えていくことを今後の課題としたい。 参考文献 井上英子(編) 2013『雄勝硯-遠藤盛行・弘行 父子の念い-』、笹氣出版。 雄勝町史編纂委員会(編) 1966『雄勝町史』、雄勝町総務課。 加藤幸治 2013「東日本大震災の民具の救援・保全活動の展開-宮城県における取組みとコレクシ ョンのこれから-」『民具研究』第147 号:21-34。 2015「復興のキュレーション-被災資料を陳列して行う聞き書きの試みから-」『展示学』 第52 号:40-44。 2016「大規模災害と被災地の大学博物館 -大学生と取り組む文化財レスキュー活動」『博 物館研究』平成28 年 9 月号:24-27。 2017『復興キュレーション-語りのオーナーシップで作り伝える“くじらまち”-』、社

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87 会評論社。 国土地理院(編) 1961『チリ地震津波調査報告書-海岸地形とチリ地震津波-』、建設省。 国立歴史民俗博物館(編) 2012『被災地の博物館に聞く』、吉川弘文館。 柴修也 1990『西南戦争余話』、宮城刑務所。 大学共同利用期間法人人間文化研究機構・国立歴史民俗博物館(編) 2013『第四展示室特集展示―人間文化研究機構連携展示 東日本大震災と気仙沼の生活 文化図録と活動報告』、一般財団法人歴史民俗博物館振興会。 津波により被災した文化財の保存修復技術の構築と専門機関の連携に関するプロジェクト 実行委員会(編) 2014『安定化処理-大津波被災文化財保存修復技術連携プロジェクト-』、同会・公益財 団法人日本博物館協会・ICOM 日本委員会。 日高真吾 2015a『災害と文化財-ある文化財科学者の視点から-』、一般財団法人千里文化財団。 2015b「大規模災害時における文化財レスキュー事業に関する一考察-東日本大震災の活 動から振り返る-」『研究報告』第40 巻第 1 号:1-52。 政岡伸洋 2012「暮らしの文化と復興に向けての課題」『21 世紀ひょうご』vol.12:3-18。 宮城県(編) 1903『宮城県海嘯誌』、宮城県。 宮城縣内務部第五課(編) 1900『明治三十年宮城縣農商工統計書 宮城縣農商工報第十号附録』、仙台印刷株式会社。 山口弥一郎 1943『津浪と村』、恆春閣書房。 山本俊一郎・上野和彦 2008「宮城県雄勝硯産地における生産構造と産地再生の課題」『大阪経大論集』第五八巻 第六号:131-143。

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