教育構造について
22
0
0
全文
(2) 教育構造 につ いて. それに続 いて、その広 く考 えられた教育の構造 がどんな諸特徴 をもっている かを見 てみようと思 う。. トラ ンスアクション と しての教育主体 個 人 に学習 をもた らす活動 を、私 は「学習」 と区別 して「学習活動」 とよ ぶ ことに しているが、 この学習活 動 が学習者 たる個人 の 直接 の教育主体 であ る こ とはい うまで もな い ことである。 ところで個 人 は生 きて いる限 り学習す るの だか ら、学習活動 は個 人 が生 きて いることの証 しでな けれ ばな らない。 それ は経験 であ り、 トラ ンスア クシ ョンである。 トランスアクシ ョンと して の経験 が 、そ れ に従事 している個 人 に学習 をもた らす のである。 transaction"は 「 トラ ンザ ク シ ョン」 と 「 トラ ンス ア ク シ ョ ン」 の 原 語 “ interaction"(「 イ ンタラクシ ョン」)の 一種 発音 す る こと もで きる。それ は “. で ある。すなわ ち、 トラ ンスア クシ ョンは有機体 が環境 との 間 に行 な う緊密 な一一 相手 か らの要求 を想 像 し、相手 の反応 を予想 しなが ら相手 に作用 す る interaction"は 通常 財目互作用」と訳 され る。 一一 イ ンタラクシ ョンで ある。“ trans"は 横切 って、貫 いて 、越 え “ transaction"に は適訳 が あ るだ ろ うか。 “ transaction"に は「互 通作 用」 の訳 はど うか と て な どの 意 を表 わ すか ら、“. 私 は考 えた ことが あるが、あま り使 っていない。 イ ン タラクシ ョンはいわゆる「物」 と「物」 との 間 で行 なわれ るが 、「人」 と「物」 との 間 で も、 また「人」 と「人」 との 間 で も行 なわれ る。それ は二 要 因 が相互 に作用 し合 う ことである。単 なるインタラクシ ョンの ときは、両 要 因 は相 互 に作用 し合 うが一方 が相手 の要求 や動 きを考慮 しつつ 、 いわ ばそ れ に感応 しなが ら、相手 に作用 す るとい うのではない。 も しこの よう にな っ た とすれ ば、それ は トラ ンスア クシ ョンである。水 は石 をうがつ が、水 は石 が どう反 応 す るか を考慮 しつつ それ の上 に落 ちるの ではない。石 もうが たれ ようと欲 して、落 ちて くる水 に当 たるので はない。 だが水 が石 の上 に落 ち続 けると石 をうが ち、石 が うが たれ ると水 の飛 び散 り方 が変 わってい く。 これ は単 なる相互作用 である。こ うい う作用 は「人」と「物」との 間 に も、また「人」.
(3) 牧. 野. 宇 一 郎. と「人」 との 間 にさえ行 なわれている。人間同志 の挨拶 で も、機械 的 にな さ れれ ば単 なる イ ンタラクシ ョンであるが、相手 の反応 を期待 しなが ら交 わ さ れ るな ら トラ ンスア クシ ョンになっているといえ よう。 個 人が 自己 と環境 との 間 で行 な う諸作用 を区別 す ると、次 の ような種類 が あ げ られ よう。 自己作用 (self― action) 相 互作用 (interaction) トラ ンスアクシ ョン (transaction) コ ミュニ ケ ー シ ョン (communication) 自己作用 は環境 や相手 にか まわず に行動 す る こ とである。相 互作用 は今見 た ものであるが 、 トラ ンスアクシ ョンにお いて は個人 は環境 に対 して何 か を 為 す とき、環境 が どの ように反応 す るか を予想 しなが らそれ を為 す。また環 境 か らの作用 を受 けるときも、自己 へ の効果 を考慮 しなが ら受 けるので ある。 そ こで は能動 と受動 が一 である。為 す ことにお いて受 け、受 ける ことにお い て 為 す。 だか ら結局 、そ こで は個人 がいつ も環境 か らの作用 を勘案 しなが ら 環境 に対 して作用 しているので ある。 コ ミュニ ケ ー シ ョンは個 人 が他 の個人 や人 々 との 間 で行 な う経験 の共有 の過程 である。それ は「人」 と「人」 との 間 の単 なる イ ンタラクシ ョンで はな く、 トラ ンスアクシ ョンと して の イ ンタ ラクシ ョンにおいて成立 す るもの と思 われ る。 私 は これ らのそれぞれの概念 をほぼ J.Deweyの 説 くように理解 して いる つ も りで ある。彼 は『民主主義 と教育』 の第 一章 の 中 で コ ミュニ ケ ー シ ョン が教育的 であるといっている。つ ま りそれが教育主体 だ といって いるわ けで ある。 しか しこの場合 に想 定 されている教育 は社会 の更新 に寄与 す る一― と い う意味 で社会 が要求 している一―教育 である。それ はだか ら、すで にある 程度望 ま しいとされている教育 である。しか し私 が今問題 に して いる教育 は、 社会 の要求 に適 わない場合 もある広義 の ものである。 だか らそれ の主体 は必 ず しも コ ミュニ ケ ー シ ョンに限 らない。それ は、 コ ミュニ ケ ー シ ョンをも含 む こ とが不可能 で はない トラ ンスアクシ ョンである。 トラ ンスアクシ ョンす.
(4) 教育構造 について. 60. る三 者 の うち一方 は必 ず有機体 (た る個人 )で なければな らない。 だが他方 の環境 は必 ず しも人 間 でな くて もよいので ある。 われわれ は通常 、社会 の 中 に生 きている。 しか し稀 にせ よ、社会 の外 で 、 社会 的文脈 か らも離れて生 きる人が いる。 また、そ うい う場 合 がある。 だか らだれ に もど こで もいつ で も行 なわれ る教育 を考 える場合 には、教育主体 を コ ミュニ ケ ー シ ョンに限定 しな いで 、そ れ よ りも広 い トラ ンスアクシ ョンと して捉 えてお く必 要 が あるのである。そ うすれ ば狼少年 の ような場 合 も排 除 しないですむ ことが で きる。 トラ ンスア クシ ョンはわれわれが金鎚 で釘 を板 に打 つ ごときときに も行 なわれている。 なぜな らわれわれ は打 ち降 ろす一 振 りごとに、釘 が どの ように打 たれれ ば打 ち込 まれ易 いか を予想 しなが らそれ を打 つ か らで ある。だか ら指 で立 てた釘 が倒 れれ ば、そ の瞬間、打 ち降 ろ し つつ あった金鎚 も宙 で止 め られ る。 これ は腕 の動作 が、釘 や板 か らの情報 に 絶 えず照応 して行 なわれているか らであろう。そ れは トラ ンスアクシ ョンと な っているのである。学習活動 は学 習者 の この ような トラ ンスアク シ ョンと な っている。 トランス ア クシ ョンにおいては個 人 と環境. (こ. の 中 に人 々が含 まれ る こと. が ある )と の 両方 に同等 の重 みがか け られている。一 方 が強 す ぎれ ば他方 は 破 壊 す る。 ある学習 の原因 をたずね るとき、教育主体 たる トランスア クシ ョ ン を もって応 えるとい う こ とは、それ の二 要 因 に同等 の重 みで原因性 が帰 せ られ る こと を意味 しているの “ What makes yOu think so P"を ある とき英言 吾の講師 が「 どう して貴方 は そ う考 えるか」 と訳 し、その英文 は大変英語的 な言 いまわ しなのだと説 明 し て いた。 その とき私 はその訳 が 、直訳 の 「何 が貴方 をそ う考 え させ るか」 と 同 じだろ うか と考 えてみた。私 にはちが うように思 われ た。先 の訳 は、相手 が そ う考 える心 の 中 の理 由 を問 うているの に、他方 の 忠実 な訳 は相手 にそ う 考 え させ るす べ ての原 因 を問 うて いる ような感 じが した。すなわち原文 は、 相手 がそ う考 えた こ との原 因 と して相手 の トランス アクシ ョンを、 したが っ て相手 と環境 との全 体 を想定 して いたので ある。.
(5) 牧. 野. 宇 一 郎. ". トラ ンスアクシ ョンの二 要 因 の一方 のみ を教育主 体 とす ると、そ こに極端 で片寄 った教育観 が位置 づ け られ る。学習者 たる個人 だけを教育主体 とみれ ば、学習 は内 か らの成熟 の ごとき もの となる。展 開. (unf。. lding)と して の教. 育 とい う考 え方 がそ こに ある。他方環境 だけが教育主体 だとみ るな らば、学 習 はす べ て外 か らの作用 のせ いだとい う こ とになる。 ロ ックの タブ ラ・ ラサ の考 えや ヘ ルバ ル ト流 の形成 (formation)と しての教育 とい う考 え方 はこれ に近 い もの であろ う。 学 習 が成熟 のみ による場合 もな いとはいえないと考 える人が いるか も しれ ないが 、学習 の源泉 が トラ ンスアクシ ョンにあることを認 めるな ら、内か ら の成熟 のみに よる学習 は不可能 だとせ ざるをえない。そ もそ も性 向 に関 して、 学 習 で はない ところの成熟 とい うものが考 え られ るだろ うか。私 は、 それが 考 え られ ないのは、身体 の成熟 が環境 との相 互 作用 な しには考 え られな いの と同様 だ と思 う。 環境 が個人 に教育的 に作用 す るとい う ことと、環境 だけが個人 の教育主体 で あ るとい う こ ととは全 く異 な る。前者 を疑 う人 は、「感化 」 とか「指導」 とか いわれ る働 きの教 育的意義 を忘 れているの であろう。 しか し後者 を信 ず る人 は、学習者 たる個人 が教育主体 に属 して いる ことを否認 し、教育 を単 な る外 か らの詰 め込 み 、注入 、化粧 、ま たは刻 印 の ごとき形成作用 とみて いる ことになる。 自然的景観 などか らの感化 を無意 図的 であるという理 由 で教 育 か ら区別 す る人 がいるか も しれない。 これ は逆 に、教育 を外 か らの意 図的作用 たる指導 と同一視 している ことに依 る場合 が 多 いであろ う。 この 同一視 は前 回問題 に した人為主 義 的教育観 を表 わ している。感化 は教 育 の外 にあるので はな く、 教 育 の一 つの相 で ある。それ は トラ ンスアクシ ョンの教育的作用 の うち、環 境 か ら無 意 図的 に与 え られ て い る と想 定 され る部分 に ほか な らな いで あ ろ う。 だか ら個 人 は、教育的意 図 をもたな い環境 か らな ら、単 に物理的 な 自然 か らだけでな く、 校風 とか人 物 などか らも感化 され るといわれ るのであろう。 、 人物 はもちろん指導 して くれ る ことが ある。 しか しそ うでな くて も人物 か ら.
(6) 教育構造 につ いて. 得 られ る影響 が あるわ けである。 一 つ だけ、物理的諸物 が ここで主張 している広 い意味 で教育的 となる仕方 につ いての べ たデュ ー イの言葉 を引用 してお きたい。 「・……物理 的諸物 は、そ れ らが、予 期 され る諸帰結 の ための作用 の 中 に巻 き込 まれているのでない限 り、心 に影響 し (す なわ ち観念 や信念 を形成 し) ない。」 これ は、別 の いい方 をすれ ば 、 いわ ゆる「物」 は意図的 に使用 されな けれ ば心 に影響 しない とい う こ とで ある。 またそれ は、「物」 は操作 に利用 され な けれ ば教 育 的 に作用 しない とい う こ とであ る。 これ は、「物」 か ら教 育的 な作用 を受 けるには、それ と トラ ンスア クシ ョンを しなけれ ばな らない とい う こ とと同 じであろ う。 だれが また何 が行 な う作用 であれ、それが教 育的 であ りうるの は、それが 学 習者 たる個 人が行 な う トラ ンスアクシ ョンに、それ の要素 と してであれそ れの 外 か らの統制 と してであれ、影響す る限 りにおいてである。それ は トラ ンスア クシ ョンが教育 の 直接 の 唯一 の主体 だか らである。 Ⅱ. 教 育 本 体 と して の 学 習 者. 学 習者 は単 に教育作用 が 向 け らるべ き対象 で はない。学 習者 はそ こにおい て 学 習 が 生 起 す る 個 人 で あっ て 、 こ の 意 味 で は 確 か に 「教 育 客 体 (educatiOnd object)」. だ とい われ て よいで あろ う。 しか し他 方 、彼 は 「教. 育主体」 の一 部 であった。すなわ ち彼 は彼 の教育主体 たる トランスア クシ ョ ンの担 い手 と して、その教育主体 に属 して いたの である。 こ う して学習す る 個 人 は教育客体 で あるとともに、教育主体 の一 部 なので ある。彼 は教育客体 で もあると ころの教育主体 である。学習 す る個人 ごとにその個人 の教育 が生 起 しているの であるが、そ の教育 に関 して上 の ような関連 に位置 づ け られ る の は 、その学習者 しかな い。 ″り αグ Eれ ′ グ θ η,New YOrk:The Macmillan CO。 (1)John Dewey,Dι πθθ 1916,p.38.. “. ,.
(7) 牧. 野 宇 一 郎. 教 育客体 と して は学 習者 は唯一 の ものである。教育主体 と しては、彼以外 に少 な くとも物理的環境 が必 ず ある。社会的 も しくは人的 な環境 は不可欠 な 教育主体 で はなか った。人的要 因 の 中 で不可欠 な教育主体 は、 これ また学習 者 のみで ある。す なわ ち学習者 は 自己 の教育 に関 して、唯一 の教育客体 であ るとともに唯一 の不可欠 な人 的教育主体 なのである。私 は この意味 で学習者 は 「教 育本体 (educational entity)」. とか「教 育本人 (educational subject)」. とか 呼 んで よいか と思 う。. J.デ ユー イは「私 の教育学的信条 (My Pedagogic Creed)」. の 冒頭 で、 「私. は信 ず るが 、す べ ての教育 は人 類 の社会的意識 へ の個人 の参加 によって進 む」 とい って いる。教育過程 を構成 す る人 的要 因 と しては、学習 す る個人 だけが 指摘 されている。学習者 が他 の教育主体 と くらべ て特別 に扱 われている こ と が わか る。 それ は教育客体 である唯一 の教育主体 だか らで あろ う。環境 に属 す る もの は物理 的 な もの も社会 的 な もの も、「人類 の社会 的意識」 を担 うも の と して背後 に控 え させ られている。 教 育 において は上 述 の ごとき教育本体 の 中 に学習 が生ず るのだという こと は、極 めて主 要 な こ とだと私 は思 う。教育 において トラ ンス アクシ ョンが主 体 だ といえるとい う ことに関 して は、他 の人間的活動 の場合 もほとんど同 じ で あろ う。 たとえば物質的生産 において も、生産活動 は生 産者個人 にとって は、彼 と環境 との トラ ンスアクシ ョンになって いな けれ ばな らな い。 しか し なが ら、客体 が 同時 に主体 に属 す るとい う学習者 の性格 は、物質的生産者 に は見 られ ない。物質的生産 で は、客体 は生 産者 の 中 にで はな くてそれ の外 に 作 られ るか らである。 もちろん生産者 は生 産 を通 して学習 す る。彼 はその学 習 に関 しては教 育 の本体 である。 しか し生産 その ものに関 して は生 産 の主体 に属 す るのみで 、客体 で はあ りえないか ら、生 産 の本体 だとはいわれ難 いの で ある。 だか ら個人 が本体 と しての性格 をもつ とい う ことは学習者 に特有 の ことが らではないか と考 え られて くる。 生産 において も生産 され るもの一― 生産物―一 を取 り上 げれ ば、 それ も本 体 の性格 を帯 びている こ とがわか る。それ は もちろん生産客体 であるが、ま.
(8) 教育構造 につ いて. たいわば質料 因 と して一種 の生産主体 であるか らである。生産物 は この よう に生産本体 でない こ とはないが、それの 生産主体 と して の性格 は比較的弱 い。 私 はいわゆる物質的 な生 産活動 は生産者 にとっては トランスアクシ ョンと な りうるが、生産物 にとっては単 なる イ ンタラクシ ョンにとどまると思 う。 木彫 家 の松久朋琳氏 が いつ か 次 の ように語 っていた。「木材 を眺 めて いるだ けで は何 も始 ま らな いが 、二 、三 回 のみ を打 ち こむと応 えがする。そ れか ら は木 の方 が此方 を呼 んで くれ るの だ。私 の仕事 が 弟子 たちの よ り速 いの はこ の ためなんです。 」 木材 の 呼 び声 に応 じなが らのみ を当 て るとい うと ころに トラ ンスアクシ ョンの趣 きが明示 されている。だが本材 の呼 び声 は弟子 たち に はわか らな い。 とい う こ とは トラ ンスア クシ ョンが成立 す るか否 か は木材 に働 きか ける彫刻 家 の 力量 にかか っているとい う ことである。未熟 な弟子 は 師 匠 と同 じ木材 に向 か って も、師匠 の ようには トラ ンスア クシ ョンす る こと が で きな い。木彫家 がそれ と トラ ンスアクシ ョン して いる木材 の方 は、能動 の 意識 も受動 の意識 もな く トラ ンスアクシ ョンを執行 す る力量 もな いのだか ら、 トラ ンスア クシ ョンに関 しては単 なる参加者 にす ぎないのである。つ ま り生産 物 は トラ ンスアクシ ョンの客体 ではあるが、それ の主体 と してはそれ の 材料 にとどまると考 え られ る。 樹 木 と して よ く育 て られ、本像 と して よ く彫 られ、仏像 と して よく保存 さ れ 、美 しく老 いてい く木 の生涯 は、一 つの幸 いな道 であろ う。木彫家 は材木 に主体性 が あるが ごと くにそれ と トランスア クシ ョンして も、材木 はただ木 彫 家 に反応 しているだけである。 だか らいか に立派 な仏像 に作 られて も、そ れ は高僧 の ような活動的 な働 きはで きない。木材 は十分 な意味 での生産 本体 とはいえない ので ある。 教 育 にお いて は学 習者 よ りも指導 者 の位 置 づ けが 問題 だ とい う人 が あろ う。 だが指導者 は 自 らが指導 して いる教育 に関 して、教 育主体 の一 部 を担 当 しうるのみで教育客体 で はあ りえな い。その 点 、指導者 の構造上 の影 は学習 者 の それ に比 べ て逢 か に薄 いのである。 教 育 の働 きを彫塑 に讐 える人 が いるか も しれない。指導者 は彫刻家 に比 せ.
(9) 牧. 野. 宇 一 郎. られ る。確 か に指導者 が学習者 に対 して トラ ンスアクシ ョンす るの は、彫刻 家 が木材 に対 す る場合 に似 ている。 この 限 りでは教 育 と彫塑 とを区別す る決 定 的 な違 いを見 いだす こ とがで きない。 しか しそ こには教育本体 たる学 習者 の特異性 が 問 われて いないので ある。すなわ ち教 育 を指導 と同一 視 す る人 為 主義的教育観 が採用 されていたために、学習 や学習者 の位置 づ けの独 自性 が 看過 されて いたので ある。 本体 と して の特徴 は、政治的民主主義 にお ける個人 に も見 られ るように思 われ る。 とい うの はこの場合 に も、個人 を規制 す る社会的勢力 の 中 に 自己 の 力 や意思 が含 まれて いるか らである。彼 は 自己 を規制 す るに至 る社会的勢力 の成立 に参加 して いるか らである。個人 は 自己 に向 け られ る社会的規制 の客 体 で あるとともに主 体 の一 部 を担 っている。 こ う して個人 は、政治的民主主 義 において は、 自己 に関す る社会的規制 の本体 なので ある。個人 は 自己 の教 育 の本体 であった。教育本体 と民主的政治本体 との 間 には確 か に類似性 があ る。教育本体 と して の個人 の位置 は、民主的 な趣 きをもって いるといえるだ ろ うか。 それ を いい表 わ してみ るな らば、個人 は 自己 の本性 に全 く反 した学 習 は、 た とい他 か ら強 制 されて も、獲得 しないとい う こと、別言 すれ ば、 自 己 の本性 に適 った学習 しか生 ぜ しめ られな いとい う ことになるであろう。 教 育本体 の性格 は政治本体 の それ に似 ている。 自己 に生 ず る学習 の要 因 の 一 部 が 自己 にあるとい う ことは、 確 か に政治 における主権者 の姿 と似 ている。 だか らわれわれ は、教育 の原 因や責任 を環境 にのみ帰 して はな らな い。 ただ 教育本体 において は、 自己 の学習 へ の教育主体 と して の作用 はいつ で もそ の 学 習 を意 図 した ものだ とは限 らな い。政治的関係 において も自己 へ の規制 が どの ように して どの程度 自己 自身 の意思 に依存 しているか は、常 に明 らかだ とは限 らない。 しか し幼 い子 どもの場合 などには、教 育主体 は 自己 の教育 を 何 ら意図せず して、 しか も自己 の教育 に参加 している。すなわ ち教 育本体 に お ける教育主 体 と して の作用 は、必 ず しも 自己 にお ける学習 を一一 つ ま り自 己 が 教 育客体 で あ る こと を―― 意識 した り意 図 した りして い る とは限 らな い。政治本体 である政治主体 は、 いつ で も自己 を政治 客体 と して意識 し意 図.
(10) 教育構造 について. して いるであろ う。たといその意図 がいつ も実現 するとは限 らな いに して も。 教 育 において は これ と異 な り、本体 は学習 の ことを意識 しない ことに よって 却 って よく学習 す るとい う こ とが 多 いので ある。 しか し教育本体 も自己 の学習 を配慮 した り意図 した りして行動 す るように な るな らば、政治本体 にい っそ う近 い構造 になる。そ うい う場合 には、 自己 に生 じた学習 に対 して責任 を分担 しなけれ ばな らない。幼 くて、 自己 の作用 を自己 の学習 に関 して統御 す る ことがで きな い間 は、個人 は教育本体 であっ て も責任 を問 われえない。政治 において は、本体 であって責任 を問われな い とい う ことは あ りうべ きで はないのでは なか ろ うか。 最後 に教育本体 と強 制 との 関係 を考 えてみ たい 。強制 されて も生 きている 限 り個人 は トラ ンスアクシ ョンを行 な う。そ れ は学習 をもた らす。強制 され て もされな くて も トラ ンスアクシ ョンは トラ ンスアクシ ョンである。だが強 制 され た通 りの行動 も トラ ンスアクシ ョンた りうるであろ うか。生 きている 限 りはそ うであって、その結果学習 が生 ず る。そ の学習 は 自主的 に生 じたと いえ るだろ うか。 ル ソー もデ ュー イもいっていたが、 囚人 は刑務所 に長 くいたか らといって、 それ へ の愛着 や趣 味 が もて るとはいえないで あろ う。刑期 を終 えて喜 ばない 囚人 は少 ないにちがいな い 。刑務所 に収容 され るとい うの は、大 ていの 囚人 に とっては強 制 で あろ う。強制 であつて もそれ に堪 えて生 きている限 り、 ト ラ ンスア クシ ョンが ある。この ような場合 に刑務所 へ の愛着 を期待 す るの は、 は じめか ら見 当 ちが いなのである。 む しろ晴 れての釈放 を望 む性 向 の形成 を こそ予想 す べ きである。囚人 は外面的 に強制 され た行動 をとって いて も、 自 己 における釈放 され たいとい う性 向 の形成 たる学習 に関 しては 自主的 である こ とがで きる。彼 はそ うい うとき教育本体 と しては、民主 的本体 の ごと くに 振 舞 っているわ けである。 強制 に従 うの は外的圧力 へ の屈従 だか ら自己 の意思 は全然生 か されていな い 、 とはいい切 れない。強制 を正 当 と して受 け入 れ る場合 には、 自己 の積極 的 な意思 さえ働 いているであろ う。要 す るに学習者 が内実 的 に欲望 しない学.
(11) 牧 野. 67. 宇 一 郎. 習 は獲得 されない、また得 られ る学習 には本人 の本性 に帰 せ らるべ き原 因性 一― 責任 とまで はいわないに して も一一 が必 ず い くらか はある、 とい う こと が確認 され る。 思 うに問題 は強制 の有無 で はな くて、 トラ ンス アクシ ョンの有無 である。 トラ ンスアクシ ョンす る学習者 は環境 との ダイナ ミックな均衡状態 にあ り、 環境 か ら一 種 の抵抗 を感 じていなけれ ばな らな い。 も し環境 が強制 して こな か った ら、それ に逆 に働 きか けてそ こか らの抵抗 を作 り出 さね ばな らな い。 活発 な学習本体 と して の幼児 が 、一面 で親 にとって さえ もとか くうるさい存 在 で あるの は、 この ためで もあろ う。. Ⅲ. 自己教育的側面 の不可欠性. 教育客体 が 同時 に教育主体 の要因 となっているとい う こ とは、「 自己教育」 と よばれ る考 え方 に関係 が あると思 われ る。「 自己教育 はあ る辞書 に よれ ば「 自己 自身 の. [行. (self― education)」. なう]動 機 づ けを通 して 自己 の生長 と. 発達 とを刺激 し、生 ぜ じめ る行 為」 で ある。 この定義 が 出 て くるため には、 まず「教 育」 が 、 おそ らく、 財目手 を動 機 づ ける こ とを通 して相手 の生長 と 発達 を刺激 し、生 ぜ じめる行為」 とで も定義 されていな けれ ばな らな い。 そ して この 「相手」 が 「 自己」 になるとき教育 は 自己教育 となると考 え られ た ので あろ う。学習 す る者 につ いてい うな らば、他人 か らの動機 づ けを通 して 自己 の生長 と発達 を刺激 され生 ぜ しめ られ るの とは異 な り、 自分 自身 が 自己 へ の動機 づ けを行 な うの である。動機 づ けを指導 になおす と、 自己教育 は、 自己 に対 して他人 が行 な う代 わ りに自己が行 な う指導 を通 して可能 になる教 育 だ と解 されていると して よい ことになるで あろ う。 「 自己教育」 の この ような規定 は、必ず しも人為主 義的 で はない。 も し教 育主体 と して指導者 たる 自己 だけを想 定 しているな らそ うだ けれ ども。 だが 上 の規定 は、 自己教育 がそ うでな い教育 と異 なる点 を、 自己教育 において は グ θ ηαη げ Eれ ι θ グ η,Second Ed.,Mc Graw― Hill Book (2)Co V.Good,Dグ θι “. Co。. ,Inc.,New YOrk,1959..
(12) 教育構造 について. ただ指導者 と して は 自己 だけを数 えるとい うと ころに見 いだ して いるにす ぎ な いか らであ る。「 自己教育」 の 「教 育」 は 自然主義 的 に解 され た広 義 の教 育 を表 わ して いると見 ることがで きる。 「 自己教育」 は学校教育 など他 か ら指導 が与 え られ る場合 の教育 の到達点 ない し目標 だと され る ことが 多 い。 それ は教育 にお ける学習者 の 自律 を意 味 す ると考 え られ よう。と ころが これ とは少 し異 な って 、学校 へ は通 わないで 、 家 計 を手伝 いなが ら勉強 す るとい う こともある。 これ は「独学」 と通常 よば れ て い るが、 や は り自己教 育 に属 して い ると考 え られ る。Harry No R市 lin 編 の E雀ガレ 励 αぼ Mθ ルrη. &滋 ″グ θ η(Kennikat. Press,Inc"Port Washing―. tOn,NY), VOl.Ⅱ の “Self― Education"の 定義 はこの種 の もの を指示 して い る。 「 自己 が 唯一 の指導者 であるところの個人 の教育」 要 す るに「 自己教育」は、 と して定義 され るであろう。 それ は正 しい意味 の 自己教育 であろう。 それ は 学校教育 の あ とで行 なわれて も、学校教育 の代 わ りに行 なわれて もよい。 注 意 してお きた い こ とは、「 自己教育」 は「 自己 が 自己 を指導 す る こ と」 で はないとい う こ とである。 これ は「 自己指導」 とな ら呼 べ るであろう。 こ れ は 自己教育 と同一 ではな くて、それ の要素 にな りうるもの にす ぎない。 も し両者 を同一視 す るな ら、「教 育」 と「指導」 は同義語 となるか ら、教 育主 体 はいつ で も指導者 だけになって しまう。人為主 義的教育観 が もたれ た こと になる。私 はこの考 えに陥 らな い ように警戒 す るのが よいと思 う。 と ころで学習者 が教育本体 であるとい う こ との 中 には、教育 は 自己教育的 な側面 ない し作用 を含 むとい う ことが合意 されて いる。 この 自己教育的作用 は 、上述 の 自己教育 とも、それ の要素 とな りうる自己指導 とも同 じではない。 学 習者 が教育客体 であるとともに教育主体 の一 部 であるとい う ことは、学習 活動 の 自発性 や 自律性 を表 わ して いる。学習活動 が 自己 の イニ シヤテ ィブに 基 づ いて行 なわれ る、 いわば「 自主的」 な もので ある こ とを表 わ している。 自己教育的作用 は一 つの十全 な教育 ではな くて、教 育 や自己教 育 の一 つの 、 しか もいつ で も存在 しなけれ ばな らない相 である。それ は外 か らの指導 と対.
(13) 牧 野 宇 一 郎. 立 す べ きもので はな く、指導 がな され るときはそれに よって生 か さるべ きも ので ある。ル ソーが 『エ ミール』 の初 めの方 で「われわれ は生 きる ことを始 め なが ら、 自己 を教 授 す る こ と を始 め るL3)と ぃって い るの は、学 習活 動 に いつ で も備 わ っている 自己教育 的作用 を指摘 した もの といえ よう。 自己教 育的作 用 は学 習活動 を 自発 的 また は 自律 的 ににす ると考 え られ る が 、 自律 的 な 自己教育的作用 が 自己教育 にお ける自己指導 の働 きを受 け持 つ ようになるの だと考 え られ よう。 「教 授 の個 別化 (individualizatiOn Of instructiOn)」 が ある。 それの 中 には次 の もの が数 え られている 『. と呼 ばれ る一 群 の実践. ). 「独立勉強 (independent study)」 「無 学年制 (nongradedness)」 「『 自由学校』運動. (the“ free sch001"approach)」. 「 プ ロ グ ラ ム 化 され た コ ン ピュー ター 補 助 の 教 授 (programmed and computer assisted instruction)」. 「連続 的進歩 カ リキュ ラム (cOntinuOus progress curricula)」 これ らは学校教育 において 、個人 に向 け られ る指導 に属 している教授 とい う働 きが、個人 ごとの成熟度 、思考 ス タイル、学習 の歩調 、 ね らいなどの違 い に応 じて適 切 になる ようにす るための 、すなわ ち教 授 を個 別化 す るための 方法 である。 つ ま りそれ らは、学習者 たる個人 の 自己教育的側面 を生 かす た め の教授法 で ある。それ らは学習 を個 別化 す るための方法 だと考 え らるべ き で はないで あろ う。なぜな ら、学習 はは じめか ら個別的 で個人 ごとに独 自で あろ うか らである。 これに即応 させ るために こそ教 授 を個 別化 しなけれ ばな らな くな っているわ けである。 個 人 の学習 が個別的 になっているの は、個人 の学習活動 を進 めて いる、そ の個 人 の 自己教育的作用が独 自である ことに多 く負 うて いるで あろう。 この ル,EditiOns Garnier Frё res,Paris,p.12. (3)J.一 Jo ROusseau,Ё πグ グ θ2,Macmillan and Free Press,1971,VOl.5,p. (4)2,ι Eη りθJ″ ιttα げ E励 ′ “. 102.私 の つ け た訳 語 は 最 適 で は な い か も しれ な い 。.
(14) 教育構造 について. 作用 は教授 の個別化 が施 されて も施 され な くて も、本性上独 自ではなか ろう か 。 それ は生 誕 とともに発動 す るが、絶 えず学習 を積 み 、絶 えず再構成 され て きて いる もので あろ う。教授 の個別化 が行 なわれない方 が学習 に差 が 出 る と予想 されるの は、 自己教育的働 きの差 が大 き くなっているか らであろ う。 教授 の個別化 の ごとき指導 が生徒 に試 み られ るようになるな らば、生徒 は い や応 な しに自己 の学習能力 を、 したが って 自己 の 自己教育的作用 を意識 さ せ られ る ことになる。 と ころが子 どもの学習 へ の周 囲 の 関心 は異常 に高 く、 子 ど もは不当 に早 くそれ を意識 させ られ る。 そ して 自己 の学習 に必要 な学習 活動 を統御 で きな い うちか ら、学習意欲 だ けを強 める。そ の結果 、学習 ノ イ ロー ゼに陥 り、折角 の 自己教育的作用 を生かす ことがで きな くなる。 一 定 の 時期 が くれ ば、 自己教育的作用 も自覚 され る必 要 があるであろ う。 それが 自覚的 にな った もの は 自己指導 とみな されて よいであろ う。 これ は外 部 か らの指導 を受 けなが らも行 な う ことがで きる。 自己指導 を始 める時期 は さま ざまな条件 に よるであろ うが、 自 らの学習 に必 要 な トラ ンスアクシ ョン を行 な う ことがで きな い うちに始 めるべ きで はなか ろう。 自己教育的作用 は必 ず しも自覚的 ではない。そ れ は要 す るに トラ ンスアク シ ョンを実行 して 自己 に学習 をもた らす働 きである。だが トラ ンスアクシ ョ ンは必 ず しも学習 の意 図 をもって行 なわな くて もよいのである。幼 い子 ども は学 習 しようと して遊 ぶのではないが、それが健全 な遊 び方 で ある。 も し子 ど もに 自己教育的作用 の 自覚 をもたせ ようとすれ ば、彼 は トラ ンスアクシ ョ ン よ りも学習 とい う結果 の方 へ意識 を向 ける ことになる。そ うす ると肝 心 な トラ ンスアクシ ョン自体 に習熟 す ることはで きな くなる。すなわ ち幼 い子 ど もに 、 自己教育的作用 を自覚 させ る ことは有害無益 なので ある。 だか ら指導者 や教授者 の態度 につ いてい うな らば、 自己教育的作用 が重 要 な もので あるか らといって 、それ を子 どもに 自覚 させ ようと して急 ぐあま り、 「優 秀 な」教授技術 を適用 して、子 どもが もっている 自己教育的作用 を台無 しに して しま う ことがない ように気 をつ けて もらいたい。子・どもにとって は 学 習意欲 は要 らな い。生 き生 きと して い さえすれ ば、子 どもの 自己教育的作.
(15) 牧. 野. 宇 一 郎. 用 が働 いているので ある。 はっき り憶 えているわ けで はない けれ ども、私 はいつ か ある小学校 で、授 業 の始 め に子 どもたちが一 斉 に「 これか ら算数 の勉強 を します」 とい う風 に 宣 言 し、終 わ りには、「 これ で算数 の勉強 を終 わ ります」 といった挨拶 をす るの に出会 ったことが ある。 自己教育的 な 自主性 を自覚 させ ようとの教師 の 指導 に基 づ く こ とではないか と想 像 され た。考 えてみれ ば、競技大会 などで は選 手代表 の宣誓 が よ くある。私 は教室 で はそ うい う ことに馴│れ ていなか っ た こ ともあって少 し奇異 な感 じをもった。 もっとも、私 は彼 らが「 これか ら 算数 の御指導 をお願 い します」 とか 、「算数 の御指導 を有難 う ございま した」 といった方 が驚 か なか ったとは思 わない。小学生 の場合 は先生 に向 か って礼 をす るとい う動作 で この点 は表 明 されていたであろうか らである。 私 が感 じた奇異感 を今分折 してみ ると、学習活動 に励 む こ とと指導 をよく 受 ける こ ととを対立的 に捉 えていないか とい う こと も少 しあったが、それ よ りも学習活動 を学 習活動 と して 自覚 させ ること、 できる限 り生活 や経験 と し て行 な うのが よい トラ ンスアクシ ョンを学習 を意 図 した勉 強 と して意識 させ る こ とが幼 い子 ど もに相応 しいか否 か とい う こ とであったように思 う。 Ⅳ. 指 導 の間接 性. トラ ンスア クシ ョンはそれ を行 な う個人 に学習 を生 ずるとい ういみで 、そ の個 人 の教育主体 であ り、それ の参加者 も「人」 であれ「物」 であれ教育主 体 であると考 え られ た。学習す る個人 は教育客体 で もある教育主体 と して特 に教育本体 とよばれて よいので はないか と提案 された。親 とか教 師 とか教 育 長 とか、若 い人 たちの教育 を指導 す る人 々の教育構造 上 の位置 はどうなるか とい う こ とが一 つ の 問題 である。 自己教育 における指導者以外 の教育指導者 ―― 以後単 に「指導者」 と略す―― を私 は人為的教育主体 と指定 して きた。 それ の位置 づ けはすで に示唆 されて きて いるが 、厳密 にいえば、指導者 は学 習者 が行 な う トラ ンスアクシ ョン、つ ま り学習活動 を統 御 す るが、そ の トラ ンスアクシ ョンに属 す る場合 とそれの外 にある場合 とが ある。例 えば子 ども.
(16) 教育構造 について. と一緒 に遊 んでいる親 は子 どもの トラ ンスアクシ ョンの相手 と して これ に属 すが、子 どもを幼 稚 園 に通 わせて様子 を見 ている親 は、幼稚 園 における子 ど もの トラ ンスアク シ ョンに関 してはそれ の外 にある。どち らの場合 に も親 は、 r‐. ど もの トラ ンスア クシ ョンの統御 を通 して のみ 、子 どもの学 習 を統御 す る. こ とがで きるのである。 親 は子 どもと トラ ンスア クシ ョン しなが らその トラ ンスアクシ ョンを統御 す る こ とがで きる、 しか も子 どもの学習 に関 して統御 す る ことがで きる。 し か し友 だ ちは概 してそれがで きな い。そ れがで きれ ばその友 だ ちは友 だ ち以 上 で もあ る。本人 と トラ ンスア クシ ョン しない指導者 はもはや友 だちで も仲 間 で もあ りえな い。 トラ ンスア クシ ョンする指導者 の教育的作用 は「教授」 と して の指導 であ り、 トラ ンスアクシ ョンしな い指導者 の それ は「管理」 と か 「経営」 とかい う こ とがで きる。ただ し教 授 には管理的 も しくは経営的 な 働 きも含 まれて いる。校長 が管理 ・ 経営 だけでな く教授 もす るか否 か は、学 校 の種類 によって も異 なるが、国 によって も異 なる。 指導者 の教育的作用 は管理 と して はもちろん教授 と して も、本人 の学習 に 関 して は間接的 である、とい う ことが注意 されて よいで あろ う。教授 は学習 す る本人 と トラ ンスアクシ ョンす る指導者 の働 きであるか ら、 直接 に本人 の 学 習 に影響す るように見 える。例 をあげると子 どもに堪 える性 向 を生 じさせ ようと して親 が一 緒 に綱引 きを したとす る。親 は子 どもの 力 に応 じて 自分 の 力 を加減 し、か くて綱 引 きを統御 す る。親 の この統御 は直接子 どもの性 向 に 影響 す るように見 える。 しか しそれ は子 どもが綱 を自分 の方 へ 引寄 せ ようと カー杯 引張 り続 ける こ とを通 してである。親 は相手 にな りなが ら子 どもの こ の活動 が可能 になるよ うに助 けて いるのである。 教授者 の作用 が 間接的 なの は学習者 の学習 に対 してであるが、学習者 の作 用 も自己 の学習 に対 して間接的 であると いえるであろ う。 なぜ な ら、上 の例 で 、子 どもは頑張 る性 向 を養 お うと しているので はな く、綱 引 きで勝 とうと して いるのだか らである。性 向 はそれ を欲す るだけで形成 され るもので はな く、形成 に必要 な学習活動 を行 なわなけれ ばな らな いので ある。本人 も指導.
(17) 牧. 野. 宇 一 郎. 者 も、本人 の行 な う トラ ンスアクシ ョンを通 して のみ本人 の学習 に関 わる こ とがで きる。 私 は I節 で個人 は物理的環境 か ら感化 を受 ける場合 で もそれ との 間 に トラ ンスア クシ ョンを行 なわなけれ ばな らな いといった。 デュ ー イの言葉 に「物 理 的諸物 は予期 され る諸帰結 の ための作用 の 中 に巻 き込 まれて いるのでない 限 り、心 に影響 …… しない」 とい うのが あったが、それ と対 をなす原則 と し て 次 の ことが あげ られて いる。「・……人 々が相 互 の性 向 を変様 す るの はただ、 彼 らが物 理 的諸条 件 につ いて 為 す特 殊 な使用 を通 して のみで あ る。」 す な わ ち、われわれ は相手 の性 向 を変化 させ ようと した ら、相手 を して物理的諸 物 を何 か予想 され る帰結 を得 るため に使用 させね ばな らな いとい う ことにな る。 ある帰結 を得 るために何物 か を使用 す る ことを「操作 」 とよぶ ことにす る と、われわれ は学習者 に学習 させ るには、彼 がそれに必要 な操作 がで きる よう に彼 の環境 を操作 しなけれ ばな らな いとい う ことになる。 これ は私 がか つ て「デュ ー イ にお ける教 育作 用 の 間接性」 とい う題 の 下 に論 じた こ とが らで ある。それ を表 わすデュ ー イの最 も簡潔 な表現 は「われわれ は決 して 直 接 に教 育 す るの で はな く、間接 に、環境 に よって教 育 す るの で ある」 とい うもので あった。われわれが末成熟者 たちの環境 を操作 す るの は彼 らの環境 操作 を可能 にす るためである。 デュ ー イが「われわれ」 といって いるの は指 導者 と して のわれわれ を指 しているか ら、私 が 問題 に した「教育作用」 は実 は指導 と しての教 育的作用 であった。私 は当時教育主体 につ いての考 え方 が 浅 くて、その ことの認識 が十分 で はなか った。それ は教育 の とい うよ りも指 導 の 間接性 であった。すなわ ち指導 は学習者 が行 な う トラ ンスアクシ ョンと して の学習活動 を統御 す る ことを介 して のみ学習者 の学習 に働 きか ける こと がで きるので あった。 だが学習者 も自己 の学習 に対 して 直接 に働 きか ける こ とはで きない。 自発的 にで あれ、 自律 的 にであれ、彼 は 自己 の トラ ンスアク πノEあ ″の α ,Dι Zθ θ. ′ グ θ η,p.38。 “ (6)『 教育学研究』日本教育学会編、第二二巻第四号、金子書房、昭和30年 8月 。. (5)J.Deweナ. θ η,p.22. πノEれ ′ づ θ ηの α (7)J.Dewey,Dι πθ “.
(18) π. 教育構造 について. シ ョンを変 え る こ とによって しか、学習 に働 きか ける ことはで きないのであ る。 デュ ー イ は「厳 密 ないみ で は、 な に もの も彼 ら. [若. い人たち]に 押 しつ け. られ た り、詰 め込 まれ た りす る ことはで きない。 ……正確 にい うな らば、す べ ての 方 向 づ けは再 方 向 づ けにほか な らない。」 つ ま り強 制 的 に学 習 させ る こ とはで きない。方 向づ け (direction)す なわ ち指導 は、学習者 自身 が まず行 な っているの だか ら再指導 になる。 こ ういっているので ある。 これ は 強制 が不可能 だといっているのではない。強制 した方 向 の学習 を生 じさせ る こ とはで きないと いっているの だと思 う。馬 を水辺 に連 れてい くこ とはで き る。 それ は強制 で きる。 しか し馬 に水 を飲 ます こ とは強制 で きない。馬 が水 をの むには、馬 が 水 を欲 しなけれ ばな らない。馬 にこの性 向 をもたせ ること は 、水辺 に連 れてい ったか らと いって必 ず しもで きる もので はない。馬 に水 を飲 ませ るには、水 を飲 み たい状態 に導 かなけれ ばな らな いが 、それ にはた とい強制 で も別方 向 の 、たとえば遠乗 りを して くるごとき ことを強 いね ばな らな い。 しか し遠 乗 りな ら馬 は喜 んで応 ず るか も しれない。 そ うすれ ば、騎 手 は強制 しないで馬 に水 を飲 ませ る ことがで きる ことになる。渇 きを覚 える こ とに対 して は、 したが って馬 が水 を飲 む こ とに対 しては、馬 の遠乗 りに出 る とい う行動 はすでに間接的 だといえよう。 しか し馬 を遠 乗 りに出 させ る騎 手 の行動 はい っそ う間接的 だといえ よう。それ は間接的 の 間接的 である。 自己教育 における 自己指導 も この騎手 の作用 の ように、 自己 の学習 に対 し て二 重 に間接 的 となるであろ う。われわれ は 自己 に一 定 の能力 を生ぜ じめ よ に念 じただけで は駄 目であって、それのために必 うと した ら、そ の こと をJ己 ヽ 要 な トラ ンスアクシ ョンと して の学習活動 を行 なわなけれ ばな らない。 自己 指導 は しか しそれ を行 な う こ と 自体 にあるのでは な く、それ を自己 に行 なわ しめ る点 に ある。 それ は適切 な トラ ンスアク シ ョンを選 び、準備 し、 自己 を それ に動機 づ ける ことで あろ う。 この ように指導 の学 習 に対 す る影響 が 間接的 であるとい う ことは、学習 の. (8)fb〃 ,p.31..
(19) 牧. 野 宇 一 郎. 直接 の主体 は学習者 の行 な う トラ ンスアクシ ョンだとい う ことに基 づ いてい る。説教 や教訓 が指導 の方法 と して拒 否 され るの は、そ れ らにお いて は指導 者 が学習者 の トラ ンスアクシ ョンを介 してで はな く、 直接 に学習者 の性 向 を 改 め ようとす るか らだ といえ よう。 ル ソーが採用 した、「 自然罰」 と して知 られて いる指導法 は、説教 や教訓 の代 わ りに、子 どもの トラ ンスアクシ ョン に訴 え ようと した ものだと解釈 できるか も しれな い。 なぜ な ら、窓硝子 を こ わす と風 雨 を しの ぎ難 くなる こ とを体験 させ られ た子 どもは、以後 は同種 の 場面 において は同様 にいやな帰結 を招 来 す るような行動 をと らな いで 、別 の 新 しい トランスア クシ ョンと して の行動 をとるようになると期待 され るか ら で ある。 だか ら効果的 な指導法 は多分 す べ て、学習者 の トラ ンスアクシ ョン の統御 に関 わ っていると推測 され る。. V. 意 図 的 教 育 と無 意 図 的 教 育. 「無意図的教育」、「形式的教育」、「非形式的教育」 最後 に「意 図的教育」、 な どといわれ ることの意 味 の捉 え方 につ いて少 し考 えてみたい。代表 と して は じめの二 語 につ いて吟味 しよう。教育主体 が一 つ ではな いか ら、何 が意 図 した りしなか った りす るのかが 問題 である。 また「教育」 によってどの教育 的作用 を指すか も問題 である。 まず「意 図的」 か「無意 図的」 かの 区別 は「教育」 に関 してで あるとい う こと を確 認 して お きたい。 つ いで 、「教育」 には構造 上 二 つの種類 の意 味 が 想 定 されている。一 つ は「指導」 と同義 に用 い られ たものである。 もう一 つ は「学 習 を生 ず る働 き」 とい う意 味 の もので ある。「教育」 が「指導」 を意 味 す る と した と き に は、「意 図的教 育」 と は指 導 が 何 らか の 意 図 を もっ て 一― たとえばか くか くの こと を学習 させ ようといつた一― 行 なわれ る こと を 表 わすの だとい う ことは当然 で あろ う。 しか し指導 はもともと意 図的 でな け れ ばな らない もので あ る。 そ うす ると「教育」 が指導 を表 わす 限 り、「意 図 的教育」 とい う表現 は重 複 した言語使用 だとい う ことになる。 また「無意 図 「教育」=「指 的教育」とい ういい方 は矛循 した言 語使用 だ とい う ことになる。.
(20) 教育構造 について. 「教育」に対 して「意 図的」の修飾語 も「無意 図的」 導」 とい う前提 の下 で は、 の それ も付 け られ ないので ある。 したが って「教育」 は、個 人 に学習 を招 来 す る働 きとい う上 来前提 して き た意味 の もの と理 解 す るほかない。 ところで こ うい う教育 が意図的か否 か は 教育 の主体 の意 図 の有無 の 問題 である。教育主体 には人的 な もの と物的 な も の とが あった。 この うち後者 すなわ ち物理的教育主体 は、教育的作用 を及 ぼ す と して も意 図 を もってそ うす るとは考 え られない。意図 をもちうるの は人 的 ない し社会的 な教育主体 だけである。 そ して これに属す もの と しては学習 者 たる教育本体 と、 指導者 と して の人為的教育主 体 と、 社会的環境 を成 す人 々 の 中 の 、指導者以外 の人 々で ある。 この第 二 の教育主体 は友 だ ちとか近 隣 の人 々とか道 で行 き交 う人 々とかで あって、特定 の教育的意図 をもって学習者 に働 きか けて くる人 々で はない。 近 隣 の人 々 や行 き交 うおとなたちが、子 どもに対 して漠然 となが ら一 定 の教 育的意 向 を もって接 す る こ とは奨励 されて きているが、影響 か らいえば意図 的 よ りも無意 図的 である場合 の方 がず っと多 いで あろ う。人為的教育主 体 と 同様 に、 この第 三 の教育主体 も、教育 にとって不可欠 で はないが 、大抵 の場 合 に存在 し、 また存在 す るときには人 為的教育主体 と同様 に、あ るいはそれ 以上 に大 きな教育的作用 を発揮 す る。だか ら友 だちか らの無意図的 な教育的 作用 や、一 般 の人 々か らの 同様 の作用 を効 果 あ らしめるため の施策 がいろい ろ講 ぜ られ る ことになる。 こ う して無意 図的教育 を意 図的教育 へ組 み入 れ る 動 きは現代 で も続 いているといえるであろ う。 しか し無意 図的教育 の領域 は なお極 めて広 く残 っているので はなかろ うか。 意 図的教育 の意 図性 のた めに必要 な人 的教育主体 は学習者 と指導者 とであ るか ら、 この両者 が教育的意図 をもつ ときと もたな いと きとの組合 せ を作 っ てみ ると次 の 四通 りとなる。. 指導者. 電賓 IXI自 勺. 亮 訳隊 勺. 無意ⅨI的. 無意ⅨI的. 電賓IXI自 勺. 無 意 図的. 選11文 勺. 無意 図 的. 1白. 1自.
(21) 牧. 野. 宇 一 郎. に)の 場合 をまずみ ると、 この ときは明 らか に無意図的教育 が行 なわれ る。 (3)は. 幼児 を親 が育 てる ごとき場合 で意 図的教育 が行 なわれ る。(2)の 場合 は 自. 己教育 が行 なわれ る こ とになるであろ う。 自己教育 は意 図的教育 の一 種 とみ な されて よいので はなか ろうか。(1)の 場合 は意図的教育 が行 なわれ るように 見 え る。学習者 の意 図 と指導者 の意 図 とが一致 しな い場合 はどうなるだろ う か 。強 力 な意図、あるいは強 力 に主張 され た意 図 が勝 つ といえるであろうか。 意 図 と して は勝 つ と して もそ の勝 った意図が実現 す るか どうか は別問題 であ ろ う。 とい うの も、学習者 の意図 を無視 した り、抑圧 した りして は指導者 の 意 図 は実現 で きないで あろうか らである。学習者 の トラ ンスア クシ ョンーー それ の結果 と して のみ意 図 され た学習 が得 られ る一一 の執行者 は学習者 だか らで ある。だか ら問題 は両者 の意図 の強弱 とい うよ りも、学習者 たる教育本 体 の意 図 が生 か され るか否 か とい う ことである。 もちろん両意 図 の調整 は行 なわれ よう。だが最終 的 には学習者 の意 図 が実現 され る程度 においてのみ意 図的教育 が行 なわれ る ことになる。 私 は今 、「行 なわれ る」 とい う言葉 をよ く使 ったが、意 図的教育 は、意 図 されて いた学習 が得 られなけれ ば本 当 に行 なわれ たとはいえな い。意図 が実 意図 されなか った こ とも同時 に実現 す るとい う ことが少 な くな い。 現 して も、 す なわ ち、意 図的教育 が行 なわれ る多 くの場合 に、 それが行 なわれた同一 の 教育本体 に、同時 に無意図的教育 も行 なわれ るのである。意 図 された学習 が 得 られ る の に 付 帯 して 得 られ る 意 図 され な か っ た 学 習 を 「付 帯 的 学 習 (9). (collateral leatting)」. とい う。. 母親 が子 どもに何 かの学 力 を早 くつ けさせ ようと意図 して、子 どもが塾通 い をす ると しよう。期待 に反 した結 果 しか得 られな いか も しれない。 たとい 望 んだ学 力 が早 くつ いて も、塾 に通 わなか った ら得 られたであろ う他 の能力 を得 られず、反対 に塾 に通 わなか った ら得 られなか ったであろ う諸性 向一― 例 えば学校 で怠 けた り、利 己的 に行動 した りす る習慣一一 を身 につ けたか も. (9)拙 稿 「付帯的学習の強調一― ルソーの 『エ ミール』 におけるデューイ的 なも の一一」、『日本デュー イ学会糸 己要』、第21号 、1980年 6月 。.
(22) 教育構造 につ いて. しれ ない。 つ ま り後者 の性 向 に関 しては意図的で はな く無意図的な教 育 がな され ていたのである。 われ われ は学校 は意図的 、計画的 、組識的 な教育 を行 なっていると想定 し て い る。 それ は事実 に違 いない。 だがそれ と同時 に非形式的 、無意図的 な教 育 も大 いに行 なわれているとい う ことを心 得 ていなけれ ばな らない。 一般 に、 意 図的教育が か りに成功 して も、実現 した性 向 が望 ま しいか否 か は別問題 で あ る。 そ して学習 され た性 向 が望 ま しい もの であったと して も、同時 に行 な われ ざるをえなか った無意 図的教育 が どんな性 向 をもた らしていたかが 問題 で ある。医療 の世界 で も副作用 を無 視 しては処 置 の妥当 か否 かの評価 がで き ない 。 われわれ は幼 い精神 に取 り返 しの つ かない副作用 を起 こす こ とのない ように、彼 が学習 す ることの全貌 にいつ も気 を配 っていな けれ ばな らない。.
(23)
関連したドキュメント
オーディエンスの生徒も勝敗を考えながらディベートを観戦し、ディベートが終わると 挙手で Government が勝ったか
ハンブルク大学の Harunaga Isaacson 教授も,ポスドク研究員としてオックスフォード
小学校学習指導要領総則第1の3において、「学校における体育・健康に関する指導は、児
学部生の頃、教育実習で当時東京で唯一手話を幼児期から用いていたろう学校に配
学部生の頃、教育実習で当時東京で唯一手話を幼児期から用いていたろう学校に配
神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな
社会教育は、 1949 (昭和 24