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『パンとぶどう酒』第一節「聖なる夜」その三 ――「離在」と「噴泉」 ――

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/ ̄n 一 心 m一 一 W m 一 一 一 心 ︹四︺ (3){2){1) (3)(2)(1)  宥和の旋律  序  論 内容梗概

頭韻と詩脚

内省する魂

生ける静謐

燈火と松明

生成と消滅

燈火と月影

発酵と解体

思慮深い家長

(5)(4){3)(2)(1) ラ親緒 ン友 ダラ言ウェル絨毯毛織物商会 ンダウェル 共和精神と専制 結 語 ︹五︺ 黄昏から聖夜へ (2){1) 噴離 泉在 註 解 Num Verstandnis dieser Art︶I︷ ` ‘ ※既刊部︵︹こ1︹四︺︶は註解とともに、 二︵`一︶頁 五︵159︶頁 一 一八六 −一一 1S 162 160 一一ヽ一 頁頁頁 S 1 1 一一 五一七 −一一 169 165 161 −−一 頁頁頁 一六︵170︶頁I﹂七︵m︶頁 一‘七︵m︶、頁一二二・︵176︶頁 二二︵176︶頁∼二八︵w一︶頁 二九 三〇 三五 三八 四二 一一ヽ一一 77 74 69 68 一一一一 ら 8 1 W 頁一三〇 頁一三五 頁一三八 頁一四二 頁一四四 −ヽ一一一一 83 81 77 74 69 −−−−一 頁頁頁'頁頁  四五︵16︶頁−五〇︵21︶頁  五〇︵21︶頁−五六︵27︶頁  五六‘︵召頁一六八︵39︶頁  六九︵40︶頁一七一 ︵42︶頁 一九八五年度一八六年度・高知大学 学術研究報告・第三四巻I第三五巻、人文科学篇所収。  ︹こ∼︹三︺  ︹四︺ 一五 第三四巻、一五五頁−ニ○一頁、一九八六年 二月刊。 第三五巻、 六七頁一一〇二頁、一九八六年十一月刊。 高 ・・橋.克 己    人文学部独文研究室  ’﹄.・・ ゛匈 .‘  ・     本論要旨 <ご    ドプ ド  ﹁パンとぶどう酒﹂冒頭は実に然り気なく歌力れているが、諸表象に注意して みると、凛妙々明暗が巧みに織り成されているのよ謄で。まず瞳目すべきが第一 句と第二毎との対比の下に浮かび上がる﹁燈火(Erieuchtung )と松明  (Beleuchtung) jの相違であり、思想詩冒頭の導入部の‘動静は﹁燈火﹂の﹁生成﹂ と﹁松明﹂の﹁消滅﹂によ力見事μ彩られている。ミ・四﹁生成﹂の息吹きを伝え  ﹁居慮深い家長﹂︵第四句︶が高唱されたあ﹃一詩1 μ客観性を帯びた都市生’活 の諸相から転じて次第に心意識の内観へと沈み。ゆく。、  ﹁離在﹂と橘貨﹂は、﹃かく深まする詩情の流れにおい’て。、。前者は逢か彼方へ と向かう魂の旋7 であり、後者はその心の勁きに応答する様に﹁泗々と湧く﹂と 歌われる﹁生ける水﹂である。この﹁生ける水の噴泉﹂が大自然の奥底から﹁生 成﹂するには、既に﹁孤独﹂ヽな魂が﹁離在﹂へと﹁消滅﹂することを前堤として いる。つまり正に﹁離在﹂の﹁孤独﹂︵第八句︶と﹁生ける自然﹂の﹁噴泉﹂︵第 九句︶とは両者が相侯って、。冒頭二句の﹁燈火と松明﹂に見られる﹁生成と消滅﹂ に呼応すると考えられるのである’。  同じ﹁生成と脆滅﹂でも﹁燈火と松明﹂に比べて、後の﹁噴泉と離在﹂の場合 の方が、詩情は一層と内面化されている。蓋し内面へと向かうと言うことは自閉 するごとではひく、Hり広いを無へと開かれた詩想を目指すことを意味する。そ れは﹁燈火﹂が斟やか、に占ふ市民意識において、敢て﹁孤独﹂を天窓と1 て﹁離 在﹂の彼方㈲﹁至福なるギーリシア﹂詮警氷する力めであや、この魂の放下に相応 しく’﹁パンとぶどう酒﹂の詩想は﹁噴泉﹂、︵第九句までで始めて大地の懐へと開 かれる。すなわち﹁燈火﹂や﹁松明﹂。。。に照らさ、れた市壁の内部空間八辿、大自然 の奥底から﹁生ける水の噴泉﹂が遊り、あた。かも天高く沸き上がる祈りの歌声の 如く心をI﹁浄め﹂るの。である。   ニ ⋮⋮⋮ ご ノ ドヽ   ト

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-/ X 高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶ 人文科学 r ゛ “ ` ゝ 五 J

黄昏から聖夜へ

 田 離  ゛在﹃、  ﹁パンとぶぐっ酒﹂・は第七句頭の。﹁だが他方︵・卜g﹁﹂﹂を機に、ヽこれ     一      ゛   − まで造形化された具体的で客観性を帯びた都市生活の諸相から、次第に 主観性に彩られた心象へと転調して嘔く。第一句の﹁静かに安らケ都市匹 や﹁燈火のとiる街路﹂、第二毎の﹁松明に飾られ疾駆する馬車﹂、第三’ 句の﹁昼間の歓びに別れを告げ家路へと歩みゆく人々﹂、第四句から第  五句にかけ﹃ての﹁収支得失を慮り悠然と和やかにわが家にくつろぐ思慮 深い家長﹂、それに続き第五句から第六句までの﹁葡萄も花束もなく、 また手仕事の品々もなく憩う広場の市場﹂、これらは決して単なる記述 描写ではなく、現実の諸相と心の往き交う詩想である。しかしながら、 此所では当時の外界が詩人の心の鏡に素直に映じ造形化されており、未 だ詩情が内観に沈みゆくとは読めないのであ<。5'°  ところが第七句頭からは事情が異なり、正にこの内観へと深沈せんと する瞑想への動静が明らかとなる。 七  Aber das Saitenspiel tOnt fern aus Garten; vieleicht. dafi 八   ︷︸ort ein Liebendes spielt oder ein einsamer Mann 九  Ferner Freunde gedenkt und der Jugendzeit; ⋮⋮ 七  だが他方、竪琴のかが彼方の庭園から響いて来る。恐らぐは 八   そこで恋人が奏で、或いは孤独な者が 九  彼方の友を想いつつヽまた若き日を偲びつつ・ :祐︶       ︵﹁パンとぶどう酒﹂第一節、第七句I第九句︶ 第七句の中央部で印象深く耳に残る変母音︵ウムラウト︶、すカわち﹁響 いて来ゐ︵テーント︶﹂で強声なす﹁エー︵・o。︶﹂の音価が注目される。 なぜなら、この喉の奥から文字通り響いて来る長変母音により、今まで 第六句までには聞こえて来なかった呻吟を第七句が得るからであゐ。し かも韻律上この呻吟は、中間休止︵=︶の後に始めて響く強音ゆえに、 十全に口範られて発音される。 A b e r   d a s   S a i t e n s p i e l   t O n t   f e r n   a u s   G a r t e n ;                           S J I     `     i I9      fJ        ““。     ︱    ゞ。旋律曲線は﹁テーント・、フェルン︵S耳Iロ︶﹂において、悠然どし・た なだらかな峰を形造り、そのうち﹁響いて来る︵Sま︶﹂の箇所が最高 潮と成る。これは文字通り何処ともなき﹁彼方﹁i己﹂から響き渡っ て来る咽喉音と考えられる。そしてこの新たな呻吟を以て﹁パンとぶど う酒﹂では、第六句まで歌われた都市像の外観に映し出された内観が、 次第に一層と心の中へと重心を移し、かくして心に移りゆく情緒の流れ へと音調が転移するのである。  この内面世界への転調は第八句で歴然とする。すなわち﹁恋︵エロー ス︶人( ein Liebendes ︶ jとか﹁孤独な者﹁ein einsamer Man己﹂が 歌われ、人の心の動きを抜きにしては考えられない﹁恋﹂とか﹁孤独﹂ と云う詩歌象徴に彩られ、詩想は主情的な色調を帯びる。そして第九句 では更に﹁彼方の友を想いつつ、また若き日を偲びつつ ︵Ferner Freunde gedenkt und deこugendzeit︶ jと、意識は時空を過去への追想 へと向かい、瞑想への傾斜は決定的となる。  此所で詩人の他の作品を知る者は、﹁若き日﹂の﹁恋﹂で長編﹁ヒュ ペーリオン﹂における女性ディオティーマ像を想い起こし、﹁彼方の友﹂ で親友ベラルミンを思い浮かべるであろう。

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W o   a h e r   s i n d   d i e   F r e u n d e ?   B e l l a r m i n M i t   d e m   G e f a h r t e n ?   ⋮ ⋮ だが.何処に友たちは? ベラルミンと あの仲間は? しa︶パ      、・    ︵ヘルダーリン﹁追想﹂第四節、第三七句−第三八句︶ 更に伝記に通じ&者は、殊に恋愛︵エロース︶物語の裏付けとなる現実 のズゼーツ・テ=ディオティトマ体験を話題としよう。確かにそれらの関連 は﹁パンとぶどう酒﹂の詩想と微妙に呼応してい。る。しかしながら世間 の巷における色犀︵クピ.Iドー︶に甘えた情念の燃焼へとそれを還元し てしtうこ。とは困難である。なぜなら﹁パンとぶどう酒﹂の焦眉の急は、 神人キリストの大悲︵アガペー︶であり、’この止み難い彼岸からの重力 なす恵み︵グラーティアー︶と平衡を保ち得る恋︵エロース︶、‘すなわ ちプラトーン。が﹁饗宴﹂で説く恋︵エロース︶の如く倫理︵エートス︶ 意識に強く支えられた魂の空無への放下にして始めて、この大悲に誠意 もて応え得るからである。  この種’の色恋︵クピードー︶ならぬ恋︵エロース︶としては、例えば イタリアのマントヴアで一六〇七年に初演されたモンテヴェルディ作  ﹁オルフェオyにおける、古代ギリシア神話上の歌人オルペウスと妻エ ウリュディケLの物語を念頭に置くことが出来る。実にこの歌人オルペ ウズこぞは、﹁パンとぶどう酒﹂第七句に云う﹁竪琴( das Saitenspiel︶ j の名人として古来称えられた﹁恋︵エロース︶人︵ein Liebendes) jで あり、この﹁竪琴﹂のみを頼りに亡き妻エウリュディケーを慕い乞い求 め、敢て冥府︵ハ﹃︲︲デース﹄ へと招魂すべく降りていったのである。  その様は恐らく﹁パンとぶどう酒﹂終結部で歌われている詩歌象徴に 一脈通じるであろう。 一七 ﹁パンとぶどう酒﹂第一節﹁聖なる夜﹂その三 ︵高橋︶     Sanfter traumet und schlaft in Armen der Erde der Titan. 一六〇  Selbst der neidische. selbst Cerberus trinket und schlaft.     和やかに夢みて大地の腕で、かの巨人︵ティターン︶が眠る、 一六〇  かの嫉み深い︵冥府の番犬︶ケルベルスさえもが甘露に眠つてい硲︶l        ︵﹁パンとぶどう酒﹂第九節、第一五九句−第一六〇句︶

﹁パンとぶどう酒﹂では酒神ディオニューソスの葡萄酒の酔いが番犬ケ

ルベルスを眠らせるのに対し、オルペウス神話では冥府の渡し守カロー

ンが歌人の竪琴の音に酔い眠ることになる。このように情景は異なるが、

冥府へ赴くと云う基調、すなわち生者の圏内から死圏への勁静には変わ

りがない。そして正にこの点においてオルペウス神話は﹁パンとぶどう

酒﹂に関連すると言えよう。

 本論が話題としている﹁恋人﹂︵第八句︶の﹁恋︵エロース︶﹂も、恐

らくこの脈絡で考えるのが妥当であろう。つま。りこれを単に此岸の現実

における充足追求と看倣すことは難い。まず何より詩歌の調べがこれを

 ﹁彼方から響いて来る︵テーントーフェルン︶﹂のであり、この強声な  す﹁彼方︵Iロ︶﹂の響きを静聴せずに、これを文字通り﹁彼方の庭園  から(fern aus Garten ︶ jとのみ解しては杓子定規であろう。故に第八  句の﹁恋人﹂や﹁孤独な者﹂も、文字通り﹁そこ︵`R︶﹂に居る点に  気を取られていては、十分に詩想を汲み取ったことにはならないと考え  られる。なぜなら﹁恋人﹂も﹁孤独な者﹂も、﹁そこ﹂に居て実は﹁そこ﹂ 。﹃に居ないが如き﹁恋︵エロース︶﹂と﹁孤独﹂に本質を有しているから  である。 Ferner Freunde gedenkt ⋮⋮ 彼方の友を想いつつ、 ⋮⋮

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一 八 高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶ 人文科学

第九句冒頭の﹁彼方の︵?﹁回こ﹂は、このような何処とはなき﹁彼方﹂

への動静を決定ならしめる言葉に見える。つまり第八句から詩想の流れ

は、﹁⋮⋮ 彼方から響い  ︵フェルナー︶ ⋮⋮﹂と げる。

しつつ﹁恋人﹂と﹁孤独な者﹂の心を告

る︵テーントーフェルン︶ ⋮⋮ 彼方の

.これらは此岸の現実から﹁彼方﹂へと想いを馳せると思われる。つま り現実に充足せず﹁彼方﹂に自己の本質を求めて・いると考えられ・る。例 えば既に亡きディオティーマヽを想い、﹁ヒュペーリオンの運命の歌﹂`︵第 十六句︲第十七句︶では次のように歌われる。     ∼ 一一 七六 [ ] 0   c h   u n s   i s t   g e g e b e n 。     A u f   k e i n e r   S t a t t e   z u ﹁ ¢ 7 ? だが私達に叫えられしは、  俯妙にも安らわぬこ冴︶       ︵﹁ヒュペーリオン﹂第二巻、第二’書︶ 此所に﹁孤独﹂な﹁恋人﹂の基調が、﹁何処にも安らわぬこと﹂と規定 されている。この基調で以て﹁パンとぶどう酒﹂第七句以下を汲み取る ことが出来る。すると先に述べた第六句までと第七句以下との対比が一 層と明瞭となる。すなわち第六句までの基調が、第一句と第三句と第六 句で三度も畳み合わせて歌われる﹁安らぎ︵・: ruhet    ・: ruhen ruht    ・:︶﹂︵註︵1︶︶、詳しく述べると詩人の意識の内観に映じた外 界の都市像における﹁安らぎ︵rg︶﹂に他ならないのである。から、 これと好対称なして。﹁何処にも安らわぬ﹂と云う第七句以下の心の内な る基調が浮き彫りにされるのである。       いつ        SIS ﹁安らわぬ﹂とは、何時とはなしに求めているからそうなのであって、 決して無頼を意味せず、敢て﹁彼方︵t∼︶﹂へと止み難く揺れる心の 旋律曲線を指す。例えば此岸に﹁安らわぬ﹂オルペウスが﹁孤独な者﹂ として、冥府へと﹁恋人﹂を求め赴く折に、案内役を務める﹁希望︵ス ペランツァ︶﹂も、この旋律曲線を美しく描く。蓋しこれが現実の充足 へ・の甘えと成り、心の鏡を曇らせることのないように、冥府の﹁彼方﹂ への入口でモンテヴェルディは﹁希望﹂そのも。のにダ。ンテの言葉︵﹁地獄﹂ 第三歌・第九句︶を語らせる。 Lasciate ogni speranza。 voi ch' entrate. 此所より入&者は、あらゆる希望を 割ご平 ︵﹁オルフェオ﹂第三幕冒頭︶ これは虚無へと絶望して自暴自棄となれと云・うことで、はなく、﹁私達の 眼前にある希望は希望ではない。つまり眼前のものが希望されるわけが 無い﹂︵パウロ﹁ローマ人への手紙﹂︶と云うことである。なぜなら︵む しろ眼前に無いものを私達が希望する時に、始めて堅忍不抜の心で待ち 望び︶﹂︵同上︶からである・この脈絡からは﹁恋人﹂も・孤独な者﹂もヽ ﹁パンとぶどう酒﹂の関心の的たる﹁敬虔︷ピエタース︸﹂とか﹁祈り︵レ リギオー︶﹂と無縁ではなくなると言えよう。’  この魂の動静において第八句の。﹁恋人﹂と﹁孤独な者﹂を考景一するに 際して、まず当該部の詩歌象徴の調べが物語る所に注目してみよう。 D o r t   e i n   L i e b e n d e s   s p i e l t   o d e r   e i n   e i n s a m e r   M a n n   I C − C C 一 − 一 一 I C C I 一 r k C ︲ ︰ 。 。 中間休止︵=︶前後で寄せては返すこの五歩格︵ベンタメトロン︶の律 動の波において高潮なす箇所は、中間休止前後の強声部﹁奏で、或いは  ︵シュピLルトーオーダー︶﹂と句末の﹁孤独な者︵アインーアインザー

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マー・マン︶﹂と考えられる。殊に形容詞﹁孤独︵アインザーム︶﹂の強 声部・﹁アイン﹂の部分は、先行の不定冠詞﹁アイン﹂と同音なので、こ の同音の重複により一層と際立って印象深く響くと思われる。他方これ に比べると句中の﹁恋人︵アインーリーベンデス︶﹂の部分は、律動の 上で余り重きを成さないと看倣される。従って、当面の魂の動静は﹁恋  ︵エロース︶﹂よりも﹁孤独﹂に在ると云うことになり、﹁恋人が奏で﹂ ︵第八句中︶よりも﹁孤独な者が︵ein einsamer Mann︶/彼方の友を  (Ferner Freunde)﹂︵第八句I第九句︶にむしろ重心が懸かるのである。  ところで﹁孤独﹂を単に心理上の事実ど考えるならば不十分であろう。 なぜなら﹁パンとぶどう酒﹂の詩想は゛、﹁淋しい﹂少﹄か﹁一人ぽっちだ﹂ などと云う巷の感傷や感慨で量るには、余りに慎ましい謹厳さに満ちて いる。つまり直接そのような心の動きが表立たず、情念︵パトス︶は目 立たず意識の水底を悠然と力強く流れている。この﹁生ける静謐︵die lebendige Ruheブを鮒うのが﹁竪琴の音︵Saitenspiel︶ j︵第七句︶で あろうと思われる。 彼方から耳にするだけで、たとえ嘆き悲しんだ折とて  球馳μJらと歌声はヽ私の心を直ちに獣させ可・        ︵ヘルダーリン﹁気むずかしい人々﹂第一節、第一句1第二句︶ ﹁竪琴の音︵’rぐl︶﹂とは文字通り﹁詩篇﹂の聖歌︵7巴ヨ︶に通t、 この謹厳な﹁旧約聖書﹂の慎ましくも力強い調べが苦難の民の心を支え る様に、歌心に静かに働きかける楽音と考えられる。故に﹁孤独﹂︵第

八句︶とても敢て外に心情吐露されるのでは々く、むしろ内に範もり魂の

水底へと沈潜し、この深沈の﹁彼方﹂に始めて問われ得るのである。

 ﹁彼方﹂とは何処か或る所と云うことではなくて、何処でもない﹁彼方﹂ すなわち空無の彼方と考えられる。と言うこと■H決して次のような晴や かに﹁光の上高く﹂と歌われるような目先の・﹁彼方﹂ではない。 一九  ﹁パンとぶどう酒﹂第[節﹁聖なる夜﹂その三 ︵高橋︶ そしてさらにいや高く光町上に、いと雛らの 至福の神は住んで聖なる光の嬉戯屹確ぶ。 ひそやかに神はひとり住む、その容貌明らけく エーテルの世界より生命を授けんと身をかがめ、o つねにつねに喜びをわれらが上に創り出さんとす稲ご        し ︵ヘルダーリン﹁帰郷﹂第二節、第二一句1第二四句︶ 此所に歌われてい’る﹁至福の神﹂に関して手塚富雄聡では、﹁バンとぶ どう酒﹂第四節の第六五句等に見られる﹁父なるエーテル﹂と同義であ ると説明されているが、筆者はこの解を支持できない。なぜなら、この  ﹁父なる神気エーテル︵ギリシア風にはアイテール︶﹂へと至る﹁至福 な泌ギリシア﹂︵第五五句以下︶の詩想の基調が、﹁空鉦を孕む内面の飛 翔﹃に他ならないと私には思われるからである。       SIχS3 当該の﹁孤独﹂︵第八句︶の基底にも、この空無を孕む心魂の﹁彼方﹂ への放下が私には見える。詰まる所この﹁彼方﹂とは﹁至福なるギリシ ア﹂として西欧キリスト者の意識に過去の死圏から立ち現われることに なるが、此所で﹁至福﹂とは正に西欧キリスト教の植頭と共に没落した 故にこそこう呼ばれるのであって、決してその心意識に呑み込まれ古典 古代として珍重され、﹁そしてさらにいや高く光の上に いと浄らの至 福の神﹂・︵註︵10︶︶の如く祭り上げられるためではない。このように﹁孤 独﹂の﹁彼方﹂とは、甘美な浪漫風夢想を喚起するような無限の憧憬の 果てを意味せず、むしろ古典ギリシア悲劇で知者オイディプースが落ち てゆく如き、心の水底の空界を指し示していると思われ、魂は正にこの 空無の﹁彼方﹂へと放下されているのである。  かく﹁彼方﹂へと放下した魂の動静を考量する上で、興味深いのがエ ″クハルトの云う﹁離在︵Abgeschiedenheit) jである。   私は多くの書物を読んでみた。異教の師たちのものも、預言者たちのものも、   旧約聖書も新約聖書も読んでみた。その際私が全心を傾倒して真剣に探求し

(6)

二〇 高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶・人文科学 たのは、最高最善の徳、すなわち人を最もよく最も密接に神に結びつけるよ うな徳は何かということであった。神がその本性によってあるところのもの と同じものに人が神の恩寵によって成ることが出来るためには、どのような 徳がなけれぱならないか。人が神のうちにあった時のその原像、神が被造物 を創る以前において人と神との間に如何なる区別もなかったようなその原像 との最も大きな合致に至るための徳は一体どのような徳であるか。そのよう にして、私の理性がなし得、私の理性が認識し得る限り、あらゆる書物を徹 底的に探求して来たが、そ。こで私が見い。出したことは・、純粋な離在(luteriu abegescheidenheit)はすべてを凌駕すると。いうことにほかならなかった。な ぜならば、他の徳がすべて被造物への何らかの関心をもっているのに対して、 離在はI切丿被造物を脱却しているから々あIヅ       4 r         J       I﹄一        ∵。<  ご  ︵エ7 クバルト﹁離在について﹂冒頭ダ

例えば神のひとり子キリストを﹁純粋な離在﹂において見るならば、敢

て人の子へと受肉し受難し、正に父なる神から離れて在る点が注目され

 ﹁新約聖書﹂に収められた﹁マタイ福音書﹂第二七章の第四六節以下

にはこうある。

福音史家 イエス ﹁::: して第九時︵昼三時頃︶にイエスは声高く叫び言った。﹂ ﹁エーリー・エーリー・ラーマー・アザブターニー?﹂ 福音史家﹁これはつまり、﹁わが神、わが神、なぜ汝は私を離れて在るのか?﹂  と云うことである。 ⋮⋮﹂ 合唱 福音史家

か此

﹁待て、エリアが来臨し、イエスを救うかどうか見ていよう。﹂ ︵だがイエスは再び大声で叫びヽそして事切れ匹︶・﹂       、 ︵バッハ﹁マタイ受難曲﹂第七一︶ 訳される動詞で、例えばルター訳ドイツ語(verlassen ) は

第二十二歌に見られる﹁アーザブ︵離在︶﹂は、別に﹁島I

この両義を兼ね備えている。ならば何故に﹁見捨﹂とか﹁離脱﹂︵註︵13︶︶

とせずに﹁離在﹂とするかと云うと、この言い方が秘蔵に﹁隠れた神︵エ

ール゛ミスタテー乙︶﹂の荘厳を語るに、他の場合よりも適しており、

      χ 一   .他方﹁捨﹂とか﹁脱﹂の方は主意に根ざす故に﹁隠れた神︵Ueus

゛g8乱ぼな︶﹂の静謐に相応しくな sconditus) jの静謐に相応しくないと考えられるからである。 実に﹁隠れた神(ein verborgen Gotti︶﹂こそヽ当該の思想詩﹁パ ン とぶどう酒﹂゛の焦眉の急キリスト像の姿でもあり、これは第八節で﹁静 かなが痢( ein stiller Genius 1︶﹂として﹁現われでrschienen・^ i﹁か つ消えた(und schwandl jと歌われヽ正にか i の明暗が濃淡細やかに 織り成された﹃﹁隠れ働く静かな神︵ein stiller Gott' ・■・    / Verbprgen-wirkend ) jとな柘ぶ成程この﹁隠れ働く榊﹂は実在(Substanz︶ない ぬ月影。 ︵Mondschein︶ の如き仮象︵、シャイン︶としにて﹁離在  ︵Abgeschiedenheit) jに住まう。だが決して人間を﹁離脱﹂ないし﹁解 脱﹂しておらぬし、ましてや世を﹁捨﹂てたり、人を﹁見捨﹂てたりし ているわけではなく、然り気なく何時とは無しに﹁隠れ働く﹂と考えら れるのである。  話題の﹁孤独﹂︵第八句︶が繋がるのは、この﹁隠れた神﹂の﹁離在﹂ と解される。そして十字架上のキリスト︵註︵14︶︶に倣い﹁何処にも 安らわぬ﹂︵註︵5︶︶と思われる﹁孤独な者﹁ein einsamer Man己﹂  ︵2︶︶ が目指すのは、眼前の﹁安らぎ︵・: 2K ・: ruhen /へ 註 ∼耳 ・:︶﹂︵第一句、第三句、第六句︶ではなく、むしろ﹁神白身﹁晋こ﹂ たる﹁安らぎ︵ll︶﹂に他ならず、これをこそ正に﹁堅忍不抜の心 で待ち望む﹂︵註︵7︶︶ のである。   私達は汝の神聖な偉容に安らわん( requieturoこと待ち望む。汝は ・:   常に安らぎて(quietus )ある。なぜなら︵神よ︶、汝の安らぎは汝自身な   のだから(tua quies tu lpse es.)︶。        ︵アウグスティーヌス﹁告白﹂終結部︶ ﹁眼前に無い﹂︵註︵7︶︶﹁安らぎ︵ルーエ︶﹂つまり﹁神自身﹂へと至

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る道は、目下﹁離在﹂に懸かる﹁孤独﹂に存すると言えよう。

圓 噴

u n d   d i e   B r u n n e n 一〇 ImmerQuillend und frisch rauschen an duftendem Beet. 九    プルネン して噴泉が 一〇 泗々と湧き、清冽な水しぶきをあげ避り、芳香に匂う花壇を霧している       ︵﹁パンとぶどう酒﹂第一節、第九句1第一〇句︶  今まで扱った第九句﹁若き日を偲びつつ﹂︵︹五︺剛︵2︶︶まで、詩 想は・﹁安らぎ︵ルーエ︶﹂に向かっていた。思想詩冒頭の都市像に見ら れる眼前の﹁安らぎ︵⋮    ruhet ⋮    ruhen: gg ⋮︶﹂︵第一句、 第三句、第六句︶は、ひき続く第七句から詩想が主情の色合いを帯び一 層と内面化す亀に至り、単に目下の生前の﹁安らぎ﹂のみならず、更に 呪後永生の魂の﹁安らぎ﹂に他ならぬ﹁神自身﹂︵︹五︺剛︵25︶︶をも 何時とはなしに目指していた。これが﹁恋︵エロース︶﹂︵第八句︶とか  ﹁孤独﹂︵第八句︶ へと心が深沈する淵源である。  眼前であれ永世であれ﹁安らぎ﹂を目指す詩想は、蓋し第九句の繋辞  ﹁七て︵ウント︶﹂を機に転調し、前述の﹁離在(Abgeschiedenheit︶ j ︵剛︵13︶︶の彼方を踏まえて、その遠く深い空無の色調と鮮明に明暗を 織り成して、・﹁噴泉が/浴々と湧き、清冽な水しぶきをあげ辺り﹂︵第九 句−第一〇句︶ つつ生成してくる。但しこの生成は映像を以て視覚に立 ち現われゐ形成ではなく、空無なす﹁離在﹂の彼方へと静聴する内耳に 響き生育して来る意識の流れである。 -一 一 ﹁パンとぶどう酒﹂第一節﹁聖なる夜﹂その三 ︲︵高橋︶  ﹁噴泉︵s乱∼弓g︶﹂︵第九句︶は、空無へと皮下した心魂を大地 として、この奥底から﹁酒々と湧き︵Fmerquillend ︶ j︵第一〇句︶で てくる。恐らく砂漠の民にとり、﹁生ける水の噴泉(Brun lebendiges wassers ) j   C創世記﹂第二六章、第一九節︶は、この様なものを意味 したであろう。そしてこの﹁生ける水﹁マイムーハイー≒﹂がヽ正に  ﹁生ける神︵エロヒーム’ハイー長︶﹂に繋がり、例えば預言者エレミ ヤにとり唯一神イェホヴア心︶こそヽこの﹁生ける水︵マイムーハイーム︶ の源泉^ムコー公︶﹂に他ならなか゜たのである。  当該の思想詩﹁パンとぶどう酒﹂においてぃ魂に﹁生ける源泉(die 一ebendigen Quel一ご︶﹂は確かに﹁近い、と同時に把握し難い神自身(Nah ist / Und schwer zu fassen der Gott)︶﹂に似る故にヽ Z 皿 回 ご フ a > T r a g t   S c h e u e .   a n   d i e   Q u e l l e   z u   g e h n ; 幾多の者は かしこ         はぱ ︵9︶ 畏み、源泉へと赴くを憚かる。        ︵ヘルダーリン﹁追想﹂第四節、第三八句I第三九句︶ ﹁源泉︵クヴェレ︶﹂とは

﹁パンとぶどう酒﹂の場合﹁至福なるギリシア

 ぶ医ぞ゛911RIう︶﹂をヽすなわち西欧キリスト者の意識の淵源

なす古典ギリシアを指す。この古典精神は西欧意識にとり、﹁近い、と

同時に把握し難い﹂︵註︵8︶︶と言える。つまJ墳識の奥底深く根をお

ろし全く身近で、場合によっては巷の裸体女神勅のように卑近とさえ

看倣されるのであるが、その本質︵エLトス︶なす偉容︵ダイモーン︶

は安直な分別が﹁畏み憚かる﹂︵註︵9︶︶ものである。

 同様に﹁神自身﹂︵註︵8︶︶たるキリストも、在り来たりの受難劇や

(8)

 ︵Ungestilltes ︶’潜まらぬもの 噴泉が/泗々と湧き、清冽な水 ruhen⋮    ruht  -'T r ︵第一句、第三句、第六句︶を目指していた。         y’f・       ひそ 欠なのであるから、当該の﹁噴泉﹂︵第九句︶ の意味は大きい。しかも     プルネッ       ssこの﹁噴泉﹂で以て、﹁パンとぶどう酒﹂冒頭は始めて、自然の生成の 息吹きに触れることになるのであるから、それは尚更のことと考えられ 二二 高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶ 人文科学 十字架像で喧伝されればされるほど縁遠い存在として﹁隠れた神﹂︵︹五︺ 1 ぐ ノ“x メ4jlχN      ﹃ 一 j・。 ヽヽw 。。 どう酒¥中央部の祝祭空間を言わば浄罪界として、始めて詩想は﹁隠れ 働く静かな神﹂︵︹五︺m︵23︶︶となるキリスト像を目指す。当該の﹁袖々 と湧く噴泉﹁die Brunnen / Immerqui一iこ﹂︵註T︶︶の﹁源泉﹁91こ﹂ を考える場合にも、この様な心の働きは無視・できないと言える。つまり 目前の都市像、具体的には南西ドイツの都市シュトウ″トガルトのI町中

茲T︵20︶︶とな允だが古典ギリヽンア訃郎心奢卦莉る﹁パンとふ

`しかしながら同時に、シーユトゥットガルト市内に散見される現実の。

﹁噴泉﹂も無視できない。なぜなら第九句の﹁噴泉﹂も他の詩歌象徴、

例え。ば︵思慮深い家長べ︶^第四句゛と同じくヽ単なる空想や観念の産物

なのではなく、正に当時の生きた現実と協和し合う表現と看倣されるか

らである。実際に今日でもシュトゥットガルト国鉄中央駅から南西方向

へ、シラー広場から市庁舎前広場︵マルクト︶を経て、ヘーゲルの生家

 ︵エーバーハルト通り五三番地︶あたり迄、千メートルにも及ばない旧

市街中心部を散策するだけでも、十ケ所を下らない﹁噴泉﹂を見つける

ことが出来砺・恐らく水道のなかった当時一八〇〇年頃には、これ以

     ブルネッ上の数の﹁噴泉が/泗々と湧き、清冽な水しぶきをあげ辺り、芳香に匂

う花壇を箔しI︵第九句−第一〇句︶ていたと想像されるのである。

‘のそご此所に散見される﹁噴泉︵゛∼弓LJ︶﹂’をいくら探したとてヽ

う花壇を箔し﹂︵第九句−第一〇句︶

 ﹁万物の根源は水である﹂︵タレース

に無けれ。ば   ・       ト      ー         ー s    `  ‘      I    J        I の‘一﹁浩々と湧く呪射い︵第九句−第﹁○句﹂﹁の﹁源泉︵クヴェレ︶﹂かが のそこ此所に散見される﹁噴泉︵叩§︱。︶、﹂・をいくら探したとて、そ 、十全に当面の詩想は汲み取れないので`あ’る。︿  ▽   J      d       − れど ( ”Apiarov   uev ている様に、天地自然の

ていたと想像されるのである。

つよか、﹁この上なく貴きは水な

ご心にこり︶﹂︵ピンダロス︶と古来言われ

いきもの       ︲生物にとり﹁水﹂は貴重であるのみならず不可

る。つまり今まで﹁都市﹂の﹁街路﹂︵第一句︶とか、﹁松明﹂や﹁馬車﹂ ︵第二句y、更に﹁人々﹂︵第三句︶や﹁家長﹂︵第四句︶とか或は﹁広場 の市場﹂︱︶︵第六句゛や﹃庭園﹄︶^第七句゛などヽ様々な形象が思想詩冒 頭の都市像を彩って来ているのであるが、それらは皆あくまで各々人間 の生活空間に限定された表象に留まり、当該の﹁噴泉﹂︵第九句︶の如 く 天 地 自 然 の 奥 底 と は 繋 が っ て い な い か ら で あ る 。 ’   蓋 し 当 の ﹁ 呪 射 ﹂ は 大 地 の 奥 底 の み な ら ず 、 前 述 の 如 く を 心 の ﹁ 離 在 ﹂ ︵ ︹ 五 ︺ m ︵ 1 3 ︶ ︶   へ と 改 心 に し た 心 の 奥 底 か ら も ﹁ 泗 々 と 湧 き ﹂ ︵ 第 一 ︵ 一 ︶ 句 ︶ で て 来 る ∼ 生 け る 源 泉 ﹂ ︵ 註 ︵ 7 ︶ ︶ で も あ る 。 I                             卜                               i                 り a     N a c h t . i s t -e s : n u n   r e d e n   l a u t e r   a l l e   s p r i n g e n d e n   B r u n n e n .   U n d   a u c h   n ^ i e i n e     E i n   U n g e s t i l l t e s 。   U n s t i l l b a r e s   i s t   i n   m i r ;   d a s   w i l l   l a u t   w e r d e n .     ・ ・ 一 一 一 一   ある密かならざるもの、潜まらぬものが私の中にあり、それが声高ならんと   する゜`゜:陥︶    ︵ニーチエ﹁ツァラトゥストラはこう語った﹂第二部、第九章﹁夜の歌﹂︶ ﹁パンとぶどう酒﹂冒頭で文字通り﹁ひそやかに︵゛L J︶ ﹂︵第一句゛と 歌われているように、この冒頭の都市像の基調は﹁安らぎ︵⋮   ruhet 夜だ。 だ。 今や語る弥々声高に、迢る噴泉が皆。して又わが魂も、辺る噴泉なの これとは逆方向に﹁密かならざるもの  ︵gE一Fa︶﹂︵註︵21︶︶ として﹁

しぶきをあげ辺り﹂︵第九句I第一〇句︶ つつ生成して来るのである。

 ところで、この﹁噴泉﹂︵第九句末尾︶ へと至る詩想展開を詳しく見

てみると、﹁若き日﹂や﹁彼方の友﹂への追想に繋がりながら、﹁して噴

泉が﹂と第九句は流れている。

(9)

− ○九八七 だが他方、竪琴のかが彼方の庭園から響いて来る・恐らくは`  そこで恋人が奏で、滅は孤独な者が      プルネン コ   ’﹃ 彼方の友を想いつつ、また若き日を偲びつつ。して噴泉が ドるお  。よ召  酒泰と湧き、清冽な水しぶきをあげ送り、芳香に匂う花壇を箔している。        ︵﹁パンとぶどう酒﹂第一節、第七句−第﹁○句﹂ 第﹁○句末尾に云う﹁花壇︵切寅︶﹂は、諸処の﹁庭園︵pユg︶﹂︵第 七句︶に附属していると考えられる。そして﹁彼方の友を想いつつ、ま た若き日を偲び﹂︵第九句︶ながら、﹁安らぎ﹂に包まれて時空を温か遠 くまで、﹁泗々と湧き﹂︵第一〇句︶・いずる想念が、あたかも﹁噴泉﹂︵第 九句︶の如く﹁清冽な水しぶきをあげ遊り﹂︵第一〇句︶でて来るので ある。  ﹁何と我々は、かくも至福︵SIII︶であったことか/・︵一七九〇 年頃のテュービ。ングン神学院で忿アカデリメイア風の交友よヽにJ︶﹂ と詩人の三歳年長マーゲナウ︵一七六七年一一八四六年︶が物語る﹁庭

園︷Garten︸の傍を流れていた所謂﹁哲学者の噴泉(Philosofen Brun-﹂﹂が此所で思い併される。∼の﹁庭園﹂︵第七句︶と﹁噴泉﹂︵第

九句︶のみならず、販時に﹁若き日﹂の﹁彼方の友﹂︵第九句︶にも結

びつく、マーゲナウの回想に耳を傾けてみよう。

今やシラーの歌﹁歓喜に寄す( An die Freude )■が歌。い出されんとしていた。 だがヘルだりリンは望んだ。僕たちがまず︵詩神ムーサ達とポイボス神アポ ローンに縁ある︶カスタリアー源泉(kastalische Quelle)で、自分たちの 謳池を皆ぬぐい浄めるべきことを。庭園の傍を流れ’ていた所謂﹁哲学者の 噴泉﹂、これがヘルダーリンの云う﹁カスターアー源泉(kastalischer Quell︶﹂ だった。`僕たちは庭園を通り、源泉へと赴き、顔と手を洗った。荘重にノイ ファーは悠然と歩を進めた。ヘルダーリ 不浄な者は誰一人歌ってはならぬ﹂と? 二三 ’Iリンが言うこま、﹁このシラーの歌を とのことであ乙﹃。     ’︵マーゲナウ﹁交友回想録‘﹂ ﹁パンとぶどう酒﹂.第一節﹁聖なる夜﹂その三 ‘・︵高橋︶ 興味深いのは此所で﹁源泉﹂なす﹁呪射﹂が、何より﹁浄め︵﹁llロ﹂﹂と 結びつ・いている点である。﹁清冽な水しぶきをあげ辺り﹂︵第一〇句︶と ある﹁パンとぶどう酒﹂の一節が注目に値する。 コ目立たぬが力強いこの箇所は、恐らく同節の第二句と対比する時、一 層と内実の意味が響きと形象とともに浮き彫。りにされるであろうと思わ れる。’  二 Und。 mit Fakeln geschmQkt。 rauschen die Wagen hinweg.  二 して訃明に飾られて騒挟と馬車は疾駆し過ぎ去 ヤ − ○九 ○九 u n d   d i e   B r u n n e n ’Immerquillend und frisch rauschen an duftendem Beet.       ⋮⋮ して噴泉が    <^(9≪ 酒々と湧き、清冽な水しぶきをあげ辺り、芳香に匂う花壇を霜している。        ︵﹁パンとぶどう酒﹂第一節、第二句と、第九句︲第﹁○句﹂ 第二句も第一〇句も同じ本動詞(rauschen︶が使われているのであるが、 前者は文字通り﹁過ぎ去る︵ぼla︶﹂︵第二句末尾︶と云える﹁消滅 (Vergehen︶ jを示し、後者は﹁酒々と湧き︵Immerquillend ︶ j︵第一 〇句︶いずる﹁生成(Werden︶jを物語っている。この明暗をヘルダー リン自身の言葉で語ると、﹁生成と消滅、つまり滅びの中で生まれるも の(Das Werden im Vergeheni jと表現できる。  此所での﹁滅びと生成﹂の明暗は、只今述べた﹁過ぎ去る﹂と﹁酒々 と湧き﹂の対比のみならず、﹁松明に︵mit Fakeln ︶jと﹁芳香に匂う 花壇を︵an duftendem Beet︶﹂との、﹁飾られて(geschmflkこ︶と﹁清 冽々︵’lg︶﹂との対比により鮮明に彩られて、各々の主語なす﹁馬 車(die Wagen︶﹂と﹁噴泉︵︱?§gロ︶﹂’とに象徴される両界の﹁調 和ある対立︵das Harmonischeiitgegengesezte︶ jを織り成している・こ

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二四  高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵一九八七年︶ 人文科学 の﹁対立﹂は成程どぎつく無いのではあるが、但し鋭い対立と考えられ る。殊に前述の﹁浄め﹂︵註︵25︶︶を考えに入れるならば、それは一層 と深く挾られるように思われるのである。  別齢で述べたように、﹁松明に飾られた馬車が疾駆し過ぎ去る﹂︵第 二句︶ のは、領邦ヴュルテムベルクの首都シュトウ″トガルトに建てら ‘れた宮殿の傍にある宮廷オペラ劇場、すなわち門閥たる特権階級専用の 歓楽の館と考えられる。この華麗な言わば﹁松明に飾られ﹂た社交の夜会 を徊指し﹁馬車が疾駆し過ぎ去る︵hinwegrauschen︶ j︵第二句︶の’を﹁騒 然﹂、︵註︵祁︶︶としたも’のと耳にすゐ詩人の内観には、市井の諸所に﹁酒々 と湧く噴泉﹂が。ヽ清冽々水しぶき軋あげ辺り︵frisch rauschen ︶ j︵第 LO句︶でで一生成﹂じてくる。へ。     ノ    ド  この様な人工と自然の対立を鋭く挟るのが、﹁新約聖書﹂の﹁マタイ 福音書﹂で語られるイェスーキリストの言葉である。   督の百合を見たまえ。⋮⋮ 栄華に咲恥淘うソロモンでさえ、正にこの百   合一輪ほどにも着飾ってはいなかったのだ。       ︵マタイ福音書、第六章、第二八節以下︶ ﹁浄め﹂︵註︵25︶︶る神言︵ロゴス︶に拠れば、絢爛豪華なソロモン宮 廷ユダヤ文化とて泡の如き虚飾に過ぎず、﹁百合一輪﹂に見られる﹁真 正な自然の畏怖にみちた厳粛さ(der furchtbare Ernst der wahren Naturl'j︵ニーチエ︶と比べれば、単なるか1 の産物に過ぎないと看倣       ・       ブルネッされる。この様な脈絡から一層と鋭く、﹁酒々と湧く噴泉﹂︵第九句︲第 一〇句︶と﹁松明に飾られた馬車﹂︵第二句︶との織り成す﹁生成と消滅﹂ 。︵註︵召︶の明暗が形造られるのである。  とりわけ副詞句の対比、﹁松明に︵mit Fakeln ) j︵第二句︶と﹁芳香 に匂う花壇を︵an duftendem Beet︶ j︵第一〇句︶との人工と自然との 対比から読み取れるものこそ、先の﹁浄め﹂︵註︵25︶︶る神言︵註︵30︶︶ が明示している宮廷の﹁栄華﹂と自然の精華たる﹁百合一輪﹂の花との 二律背反に他ならない。そして花咲き﹁芳香に匂う花壇﹂と﹁酒々と湧  ブルネッ       ーーχく噴泉﹂との諧調が、﹁祝祭の日﹂には新教徒ヘルダーリンの属した﹁教 区民の︵神を︶畏み怖れる歌声﹂の﹁響き︵JSgg︶﹂に見事協和し た模様である。・ 一六 Am Feiertag。 und die Blumen in der Stille。 一七 一八 一九 ニハ 一 七 一 一 W o h l   b l a h t e n   s c h O n e r   a u c h   s i e   u n d   h e l l e   q u i l l t e n   l e b e n d i g e   B r u n n e n . K e r n   r a u s e h t e   d e r   U e m e i n d e   s c h a u e r U c h e r   O e s a n g 。 W o   h ' e i l i g e m   W e i n   g l e i c h 。   d i e   g e h e i m e r e n   S p r Q c h e     '         、 ’ 祝祭の日には・でまた︵庭園の花雇の︶花もひそやがに 、 恐らく常よl1 じく咲き匂いしヽまた明るぐ湧き避りし生庄る呪射﹁ 八 彼方に響きしは、教区民の︵神を︶畏み怖ぬる歌声、 九 そごでは聖なる葡萄酒に似て、獣示の言葉挺  ︵ヘルダーリン﹁宥和する者よ ⋮⋮﹂初稿、第二節、第一六句︲第一九句︶ 自然に﹁咲き匂う花﹂と﹁生ける噴泉﹂は、かくして﹁パンとぶどう酒﹂ 第一節の場合、言わば﹁松明に飾られ﹂た宮廷オペラ文化の華麗な社交 趣味(preciosite j33︶と鋭い明暗を織り成し゜つヽ﹁祝祭の日にはヽ :’ ︵神を︶畏み怖れる歌声( schauerlicher Gesang ) jへと何時とはな しに繋がりゆくのである。  思想詩第一節は第六句に﹁︵黄昏に︶憩う︵昼間は︶忙しき広場の市 場︵ der geschafftige Markt︶ jとある故に目下はかFと考えられヽ詩人 たち新教徒は教会へ赴かないと思われる。従って﹁︵神を︶畏み怖れる 歌声﹂︵註︵32︶︶は、﹁悠然と和やかにわが家にくつろぐ︵Wohlzufrieden zu Hausl︶﹂と歌われる市民意識ををふの彼方へと突き抜けた古典祝祭 空間﹁至福なるギリシア﹂︵註︵10︶︶に見い出されることとなる。蓋し 古典ギリシア﹁悲劇の誕生﹂︵註︵13︶︶に特有の﹁真正な自然の畏怖に みちた厳粛さ﹂︵註︵31︶︶は、此所で﹁音楽の精神︵ガイスト︶から︵か’

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。aQヨ︵Jeiste der Musik︶ で就く﹁ドイツ音楽、殊にそのバッハからベー  トーヴェンヘ、ベートーヴェンからヴァーグナーヘの偉大な日輪の歩心 J  から汲み取られるのが相応しかろう。  二五 Uenn。 wie wenn hoch von der herrlichgestimmten。 der01a  二六 Im heiligen Saal。  二七 Keinquillend aus den unerschOpflichen Rohren。        三  二八 Das Vorspiel。 wekend。⋮⋮      あたか       ‘     ;   オルガッ        P“゜“I 二五 即ち恰も高きより、かの壮麗に調律された、教会の風琴より。  二六 あの聖なる︵祈りの︶会堂では、         vXi ■ s/XJ  二七’清冽なる︵響きの︶噴泉が泗々と、尽J’    ぬ︵音の︶管また管がら、 ・・  二八 序曲なしてヽ目覚めよと呼ぶ芦がヽ し:︶        ︵ヘルダーリン﹁ドーナウの源泉で﹂残存草稿冒頭︶  もしこの様に心身を﹁浄め﹂︵註︵西︶る﹁生ける源泉﹂︵註︵7︶︶。を、  当の讃歌草稿成立の地盤となる十八世紀啓蒙期の市民意識に求めるどし  たなら、何を措いてもセバスティアンーバッハ ︵一六八五年一一七五〇  年︶のオルガン作品を筆頭に挙げることが出来るであろう。   ド   ヘルダーリンの詩歌の響きは、この新教徒バッハの音楽作品に見られ  るような威厳ある慎しみ深い市民意識から辺り出て来必。﹁パンとぶど  う酒﹂第一節では、当該の﹁酒々と湧く噴泉︵die Brunnenこヨmer- quillend ︶ jの件りが正にこれにあてはまる瞳目すべき詩節である。目  立たないが力強い‘。他方十八世紀宮廷オペラ文化は、言わば﹁松明に飾  られ﹂た如く絢爛豪華に目立つと同時に底力が無い。殊にドイツ諸領  邦の宮廷文化は、外来のフランス趣味に彩られた異国情緒につつまれた  ものであり、大地ゲルマーニアの自然な風土に根ざすものではない。こ  れに反してバッハの﹁マタイ受難曲﹂︵一七二九年︶とかヘルダーリン  の’パンとぶどう酒﹂‘︵一八〇〇年10一年︶の場合は、事態が百八十  度コペルニクス的転回を成し遂げ、﹁古代ギリシア人以来、再び祖国と  二五  ﹁パンとぶどう酒﹂第一節﹁聖なる夜﹂その三・ ︵高橋︶ 自伏に適い、本来の始源より独創的に歌い始め徊﹂のである・  ﹁本来の始源︵オリーゴー︶ より独創S   (eigentlich origineir)に﹂ とは自然にと云うことで﹃あるが、実は表現する上でこれは難中の難であ る。例えばヘルダーリンが愛読した﹁アルデ ‘ イングロ﹂︵一七八七年︶’

の著者ハインゼ︵一七四六年−一八〇三年︶は、その第二巻・第四部で

﹁呪射﹂を﹁自炊の中におけるか遠の心謬を宿す聖なる象徴﹂と記す・.

    A l l e s   l s t   s t i l l ;   n u r   p l a t s c h e r n   a n g e n e h m   d i e   S p r i n g b r u n n e n :   h e i l i g e   S y m b o l e     d e s   e w i g e n   L e b e n s   i n   d e r   N a t u r 。                     `                                           ・     r         l     何 も か も 禄 で あ る 。 た だ 水 音 が 心 噴 に 順 泉 か ら 聞 こ え る 、 自 挟 の 中 に お け     る 永 遠 の 生 命 を 宿 す 聖 々 る 象 徴 よ り 。             ’ ド         ノ 仮 に 註 解 や 評 釈 の 如 き 学 術 表 現 の よ う 々 場 合 な ら 、 こ の よ う な 説 明 も 不 自 然 で は な い 。 と こ ろ が 詩 人 や 芸 術 家 は 口 先 で 巧 妙 に 附 言 す る よ り は 、 、 む し ろ 自 然 に そ れ と 解 か る よ う に 表 現 す べ く 求 め ら れ て い る 。 。 に も 拘 わ ら ず ハ イ ン ゼ の 例 で は 、 表 現 の か わ り に 附 言 で 終 っ て し ま っ て い る の で あ る 。                     、                       ミ   他 方 ヘ ル ダ ー リ ン の ﹁ パ ン と ぶ ど う 。 酒 ﹂ 第 九 句 に お け る ﹁ 噴 泉 ﹂ は と 言 う と 、 − 説 明 や 附 言 は I 切 な い 。 と こ ろ が 第 九 句 以 下 の ﹁ 噴 泉 ﹂ の 詩 歌 表 現 そ の も の が 、 正 に ﹁ 自 然 の 中 に お け る 永 遠 の 生 命 を 宿 す 聖 な る 象 徴 ﹂ と し て 現 わ れ て ・ い る と 読 め る 。 蓋 し こ れ を 敢 て 芸 術 作 品 と 言 う に は 、 そ の 詩 歌 象 徴 は 余 り に 自 然 で 業 と ら し く な い 。 此 所 で ﹁ 自 然 ﹂ と は 三 重 の 意 味 で そ う 言 え る 。 第 一 に は 通 例 の 芸 術 造 形 と 同 様 に 在 り の ま ま の 事 物 を 映 す 点 で あ り 、 。 第 二 に は 詩 人 自 身 の 生 い 育 っ た ﹁ 祖 国 と 自 然 に 適 い ﹂ ︵ 註 ︵ 39 ︶ ︶ 、 風 土 と 歴 史 の 在 り の ま ま の 姿 を 現 わ し て い る と い う こ と で あ り 、 第 三 に は 以 上 の 両 者 が 共 に 奥 深 い 内 な る 自 然 た る 人 間 本 性 に 聞 か れ て い る 点 で あ る 。 殊 に ご の 第 三 の 点 で あ る 心 の 内 奥 へ の 拡 が り 、 こ れ は 無 限 の 空 無 の 彼

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二六 高知大学学術研究報告 第三十六巻 ︵・一九八七年︶ 人文科学

方への拡がりとして同時に心意識のみならず時空の果てまでも目指すも

のであるが、この空無を孕んだ自然生命の広大無辺において、当該の

 ﹁噴泉﹂︵第九句︶は稀有の詩歌象徴たり得ると考えられる。

 九       ⋮⋮ und die Brunnen 一〇 Immerquillend und frisch rauschen an duftendem Beet.   一 丿、○九       ’⋮⋮⋮して噴泉が   √! 昭々と湧き、清冽な水しぶきをあげ送り、芳香に匂う花壇を霧していゐ。        一   ︱I成程ごれは前述の如く、’敢て芸術作品として取。り立てて人目をひく表現 一  L   `  l      l −゛l r・   ♂咽一   ︱ではない。しかしながら静分に心し七﹁パンとぶどう酒﹂第デ節を読み 進んでみるならば、恐らく読者ぱ第九句から第一〇毎にかけて﹁浩々と 湧き辺り霧し七いる噴泉(Brunnenこmmerquillend ⋮⋮︶﹂が内耳 に響き渡るのを認めるであろう。このように私には、これもまた瞳目す べき一片の﹁泉の詩﹂と思われるのであるが、しかし残念なことに万足 卓著﹁泉の詩り︵一九八〇年゛には、この詩節への言及を見い出すこと が出来ない。 言及したツァラトゥストラの﹁夜の歌﹂︵註︵21︶︶も収められていぶ、 l︲;‘・・ ”‘・i⋮︱ I・︱″‘’・‘’・゛y‘  ’︱︱’︵43︶︱ ”’“゛ rI・一一fs‘ もっとも﹁泉の詩﹂には様々な噴泉の歌が採られており、既に本論で ;い4 ″・一IF’r‘y’4﹄’ri/﹁︷yヽ`χノrrχ χトr︸χl〆/ ^ r^ /-K r^し’‘︱︵ボ︶・

だが著者が芭蕉の﹁古池、や蛙飛びこむ水のをとい

史上に持つ意義にも似ているべ︶とまで 八二五年−九八年︶の秀作﹁ローマの ︵一八八二年︶ に他ならない。

の﹁一首がわが詩歌

絶賛しているのは、マイヤー︵一

眼射^9;゜ヨ牙i9§罵&︶﹄

A u f s t e i g t   d e r   S t r a h l   u n d   f a l l e n d   g i e B t E r   v o l l   d e r   M a r m o r s c h a l e   R u n d 。 D i e 。   s i c h   v e r s c h l e i e r n d 。   f l b e r f l i e B t I n   e i n e r   z w e i t e n   S c h a l e   G r u n d ; 五 D i e   z w e i t e   g i b t 。   s i e   w i r d   z u   r e i c h 。 D e r   d r i t t e n   w a l l e n d   i h r e   F l u t . U n d   i e d e   n i m m t   u n d   g i b t   z u g l e i c h       U n d   s t r 6 m t   u n d   r u h t .   ‘ 立ち登るより水柱はくずれ落つ    大理石なる皿の円きに。    溢れては、かつぐごとくに、またそそぐ    第二の。皿の深き底に、      。 五  みなぎりて第二の皿は第三の    。・。   ゾ皿に’わきつつ与える波、       \   プ     jj  ・ ’、受けながらいずれめ皿も磁た与え /    ’ド    y ’y ’ ご  かつ’ほとばしりかつ々すぶ ︶・’   ‘十 ゛゛   △︿ ` 実に見事な芸術作品である。だが。それ以上でも以下でもない。・こ、政脈絡 を﹁パンとぶどう酒﹂の﹁噴泉﹂を鑑みて考えてみょう。  。ところで芭蕉は﹁古池や ⋮⋮﹂と、実に自然に歌っている。支那の 山水画でもなく、天竺の蓮池や西域の青海でもない、この﹁古池や ・: ⋮﹂は私達の﹁祖国と自然に適い、本来の始源より独創的に歌い始め﹂ ︵註︵39︶︶られているように思われる。他方ドイツ語圏に住む者にとり、 ﹁ローマの噴泉﹂︵註︵46︶︶は異国情緒に包まれている。単に歌われた 対象のみではなく、実にマイヤーの歌いぶりが、造形彫琢に秀でた南方 の芸術の息吹きを伝える。すなわち全て明瞭に縁どられ、くっきりと形 造られ﹁丸く収まった芸術作品︵ein abgerundetes Kustwerk ︶ jのどこにヽ ﹁音楽の精神﹁ガイスト゛から﹂︵註︵36ごの︵魂の歌声ぶlg゛2 kJ︶ ﹂ が沸き上がるであろうか。  成程﹁ローマの噴泉﹂は造形見事に、歌い始めから文字通り﹁立ち登 る︵Aufsteigt︶﹂︵註︵45︶︶ のであるが、しかし大理石の彫像にも似た 堅さと冷たさが拭い去れない。つまり燦燦と日輪の輝く碧空の下にある ギリシアやイタリアの﹁祖国と自然﹂には、生き生きと古代オリュムピ

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、アの神々の如ぺ映える研磨の成果が、北方ドイツ語圏の言葉の響きには  乗らず何処となく不自然な観を逸れ難いと言え&。他方ヘルダーゾシの      ・y  、∵       。‘  ﹃・      一一’s ﹁噴泉﹂’ヽの詩節や。芭蕉の∼﹁古池や y・⋮﹂の句には、 ‘ この不自然さが見  受けられず、むしゐ各々の歴史風土に適う﹁魂の歌貧ごか静かに奏でも  れるのである。   しかむ﹁魂の歌声には此所で、各一々の梢神風土に直結している。芭蕉     rF       ` ぷ 。    ・%s     ‘・の俳味は﹁わび'   >ruび﹂に通じ、ヘルダーリン詩歌の響きは﹁音楽の精  神﹂を抜きに考え難い。そ七‘て前者は仏法の空無の真諦へと、後者は西  欧キリスト者の祈りの歌声へと繋がりゅく。もは。や両者ともに﹁丸く収  まった芸術作品﹂へと円現するに甘んぜず、。敢て豊かな意識内面へも十      ■ −咽    I I   ■   dI d       ︱ 全拡拡がりゅく﹁魂の歌声﹂となるのである。        ¨ ノ ‘ 二七 ﹁パンとぶどう酒﹂第一.節﹁聖なる夜﹂その三 ︵高橋︶ ・ ら ● ミ ・ ヽ り

I゛I・“rZil‘’・︰   ︱ dll一回I1﹃加       ・一%一

︹五︺ ∼黄昏から聖夜ぺ

   I’∼ バ  ッ田離  在   

: S j ’ ゛ j ・ ・ ・ 。 ” ” ポ ≒ ︲ い   一 y   1   ←   I   I I     I   r T︶’へ”ルダ・jリぶ全≪' -\ユー。ノ斗泳︰ル・ト版、∼九四六年−七七年・︵索引 一仇八五嘩︶’い第二港ヅ九ヽ○頁プ ︷ヽ’ ゛︲。と・ija.     ‘ 静かに安ら八つ都市’びそやかに街路に燈火がとrもり、∼土  ・・‘    ∵七て松明に飾られてI然丿馬庫’は喉駆し咀ぎ去・ゐ。 ノ ダ ご禰ち足りて家銘へと、昼澗刃・漱びに別衣を告げ、∼安ちfを求めて歩み   ゆく人 ■ ' ≪*-<B≪ ニ‘’・﹄︰﹄J.いヽ. して淑支得失を・4一る思慮凍や家噪は JI⋮⋮⋮  “`・ 1111  ’五 悠然と和やかにわが家にくつろぐ。︵黄昏の今は︶葡萄も花束もなく、    \して手仕事’の品々もなく安ら弓マ︵昼間4︶・忙しき広場の市場。

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− 一 八 高知大学学術研究報告‘第三十六巻 ︵一九八七年︶ご人文科学   神の想像力による飛翔であり、これによると第六句と第七句との間に大き   な亀裂が生じ、冒頭六句のみが宙に浮いてしまう結果となる。 ︵2︶ 全集、第二巻、九〇頁。 ︵3︶ 全集、第二巻、一八九頁。 ︵4︶ 全集、第二巻、九五頁。 ︵5︶ 全集、第一巻、・‘二六五頁。第三巻、一四三頁。 ︵6︶ ダンテ作品集、ダンテ協会編、一九六〇年、四五二頁。 ︵7︶ 原典希羅対訳﹁新約聖轡﹂︵ヴュルテムベルク聖書協会刊一九三〇年︶﹁ロ   ーマ人への手紙﹂第八章、第二四節I第二五節、四〇七頁。   ’ルター訳一五泗五年﹁聖書﹂︵註︵14︶︶後篇、三三九頁右段プ ︵8︶ 全集、。第六巻、三〇五頁。一七九九年一月一日付弟宛ヘルダーリン書簡  二七二。・ ︵9︶’全集、第一巻、二九八頁。”       ト          −d  ・ノ      ー   ー   ﹄      f(20︶ 全集、第二巻、九六頁。和訳全集、。河出書房新社、﹂九六六年−六九年、   第二巻、一一九頁、手塚富雄訳。 ︵11︶ 右記和訳全集、第二巻、一一九頁。 ︵12︶ 詳しくは筆者の別論、ヘルダーリンの西欧ギリシア論−﹁至・福なる   ギリシア﹂︵高知大学学術研究報告、第三三巻︲第三五巻、人文科学篇所収、   一九八五年一八六年刊︶。殊にその︹三︺神話の神 剛内面の飛翔︵第三四  巻、二二頁一二四頁︶を参照のこと。 ︵13︶ ’ドイツ語作品集、第五巻、一九六三年、四〇〇頁一四〇一頁。講談社・  人類の知的遺産、第二一巻、マイスター・エ″クハルト、一九八三年、二       一    一 ふ       一    一一 六九頁−二七〇頁、上田閑照訳。但し上田訳で。は﹁離在﹂を﹁離脱﹂ど訳  してあるが私は叙述上この訳語を取らず、敢で相原信作訳・、エ″クハルト  著’神の慰めの書﹂︵講談社学術文庫ソー九八五年︶’所収。の’訳語’﹁離在﹂︵一’  八六頁︶を採用した。蓋し相原訳︵本来一九四九年筑摩書房刊︶は旧来の  プファイファー版︵一八五七年︶に多く依拠しているので、訳語﹁離在﹂  に関して以外は全て、近年の学術成巣を踏ま。えた﹁ドイツ語作品集﹂を底  。本とした上田訳を引用してある。  ※当該の﹁離在(Abgeschiedenheit) jを近代ドイツ詩歌の解釈の際に意味深  長に用いた例として、草者が知るものは、ハイデガー著﹁言葉への途上﹂︵一  九五九年︶に収められたトラークル論﹁詩の中の言葉﹂︵一九五三年︶である。  ﹁この詩人トラークルの諸々の詩作は・︵世を︶離れて在る者(der Abge- schiedene) の歌へと収獣して。いる故に、私達は彼の詩。歌の所在を離在︵︱ Abgeschiedenheiこと名付けます。﹂︵﹁言葉への途上﹂。第五版、一九七五年、 五二頁︶・ ’   パ‘ ぐ   ご・々   ニ   ー.   J ※・※此所でパイデガーの念頭に。あるものは、トラークルの﹁夢の中のセバス テ。イアン﹂︵一九一四年︶。に収められた著名な詩歌﹁離在者の歌(Gesang des Abgeschiedenen ︶jと考えられる。確かに﹁パンとぶどう酒﹂`の詩想に、 このう離在﹂は響き合う。だが当面の第八句の﹁孤独﹂よ∼はむしろ第三部﹁芦 欧‘の夜﹂に言う﹁乏しき時代の詩人﹂︵第七節、第一二二句︶にいこの﹁離在﹂ は深い関連を有すると思われるので、、目下は関連を指摘するのみ︰に留め、よ り立ち入っ。た論述は今後の課題としたい。 ” ︵14︶’ゲフアfングンーバクハ研究所/ラ∼プフィビ・’バ?ハ資料館共編﹁新  バッハ全≪J第二篇、第五巻︷︸九七三一年︶所収原典版に依る’マタイ受  ’難曲﹂バ音楽の友社、一九七六年' OQWV第七一、叙唱、二五こ頁∼二五四  頁o∼ ノド‘ “ IIIF 一 −a      I  JII  ‘      ″  ﹄     I        ゛。二前掲ご︵註’‘︵7︶︶原典新組聖戻入O頁を。参照・    。ノ. y≒   ブー五四五年版ルター訳﹁聖書﹂原典複刻写真版、シ﹃ユトゥットガルト、   ドイッ聖書協会、一九六七年、’後篇、二六三頁右段を参照。    シュトゥットガルト版原典ヘブライ語﹁旧約聖書﹂︻ドイツ聖書協会刊、   一九六七年一七七年、︼九八四年︶﹁詩篇﹂第二二歌、第二句、一一〇四頁   を参照。 ・・     い ≒   ・    クロプシュト’ツク ‘ ﹁救世主﹂︵一七四八年−七三年/一七八〇年/一七九   九年︶、第一〇歌︵一七五五年/一七八〇年/一七九九年︶、第一〇三〇句︵一   七八〇年アルトナ版︶/第一〇泗五句︵一七九九年ライプツィヒ版︶。’ハン   ザー版作品選集︵一九六二年︶‘・’所収ヽ一救世主﹂全二〇歌︵一七八〇年アル   トナ版に依ヽる︶四四三頁。 ‘ へ’ルダ’︲︲リン︵一七七〇年生︶は既にアルトナ   版以前の段階で﹁救世主﹂・に親しんでいたと考えられる。 ︵15︶ 日本聖書協会刊和訳﹁聖書﹂、﹁旧約聖書﹂一九五五年改訳、七六四頁。   ﹁詩篇﹂。 ご ︵16︶ 右記︵註︵15︶︶和訳﹁聖書﹂、﹁新約聖沓﹂一九五四年改訳、四八頁。﹁マ  タイ福音書﹂。⋮⋮⋮”︰‘一一゛`’ ‘   ︱  一      j■ ︵17︶ 右記︵註︵14︶︶ 一五四五年版﹁聖書﹂の前篇二九四頁右段︵詩篇︶と   後篇二六三頁右段︵マタイ福音書︶。 ︵18︶ 右記︵註︵14︶︶原典旧約聖書、七四六頁。イザヤ沓、第四五章、第一   五節。      。 ︵19︶ 公認ウルガータ聖書、シュトゥ″トガルト、ドイツ聖書協会、一九六九

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 年、一九八三年、第二巻、]一四四頁。﹃イザヤ杏﹄。 ︵釦︶ 右記︲︵註’︵M︶︶ 一五四五年版’﹃聖書﹄後篤、‘二五頁右段。’イザ々書﹄。 ‘ ︵a︶ ’全集、第二巻、九四頁ご  第二章、第一三章。ご       ” ト ・・‘ ⋮⋮⋮’ ∼ヤーい ※ラ’ングン﹁ドイツ敬虔主義の語彙﹂︵初版一九五四年︶改訂再版三を八八。 年︶には、﹁源泉、・﹁聖書﹂では、神が生ける源泉こebendige Quell乙¨とあ次‘ この意味は敬虔主義の場合も’当語の原義(Grundbedeutung) ;*>な寸ヤ︹三︺ 二九 rパンとぷどふ酒﹂第一節r聖なる夜﹂その三/︵高橋︶⋮⋮⋮’ヽ。︰ ‘ 、 へ 九 ♂ く -1 W へ w −ヽ− 1110 一一  源なす噴泉(Quellbrunnen ) j︵三二〇頁︶、﹁神は噴泉として 源泉(Brunnquelこすなわち神︵=Qoμ︶﹂︵三二I頁︶とある。 全集、第二巻、一六五頁。へ・ルダ’IIリン﹁パトモス﹂初稿、第一節、第 一句︱第二句。 全集、第二巻、斗八九頁’      / 全集、第二巻、九一頁。 例えばヴィーランドが後に﹁ギリシア物語(Griechische Erzahlungen )j こ七八四年︶・と改題した﹁滑稽物語( Comische Erzahlungen ) j︵T七六 五年︶ ‘・におけゐ宮廷風ロココ趣味を考えると良い。    よじ        一  ・∼その様にキ汗プリア︵ウ’エーヌス︶は立ち、’半ば身をIらせ。 イレヴッエ助t︵女神像︶に似て、片手で・被う、 せ、≒自らに攬垂れ、︲’  し  ︷∼‘     魅惑の乳房を、右が被い・ようもない。  酋じそし’て別の一手︶で=皆様御存知の所を﹃。 乙   ︵﹁ギリシア物葺y︲`’﹁パ’Jスの審判﹂薦二Å一句︲第二八五句。マイヤー  サ ’版四巻本作品集、仁九〇〇年、・第二巻、一八七頁︶  こ’句種の理想偉膏求めれベヽヘレニズム期の代表作﹁ミロのアプロディー ノテJムループル美術館凛︶にゆき着くことにな ‘ ろう。蓋し他方ド古典ギリ ’ぃ・ぃソアJ几優美と尊厳﹂︵シ,ラー︶は湘物で、そもそも﹁半ぱ身を振らせ﹂る  ハ旬き笥葱の跡は見られなJのである。ヽヽ⋮⋮︰ ︵怒 例えぜ万ーテ’は猟潮劇﹁神々 、英雄たち、ヴィーラント﹂︵一七七四年︶ Λで、省典ギリタフ神話を・﹁・畏み憚か﹄’hペヴィーラントの詩歌象徴を厳し  く我判ルている。 へ j’ァや   ﹃・﹃・ ︰‘あなたの︵描かた︶小娘や男の子を楽しませ、また恐らく榛った  に  ’りしたことでしj弐つまりこれがあな希のおっしやる感動なので・  で  ・すから。⋮⋮⋮  ’’ ’グィーラシナ 巾あなたは否定なさらな`心でし・よう。私の方が仝体を、   y よ力感七易く︵liE﹃︶取り扱った点を。 シッ ド△ノ  ︵ハふ`プ4ク版作品集、一九八二年、・第四巻、二〇七頁︶ ︵ぉ︶ ニーチエ’﹁意劇の凄互﹂︵仄七二年︶ ︵u︶ 観光案内有シ’ユミ.ー争署﹃シユト。″トガルト﹄所収︵表表叙裏︶掲載

参照

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