長野大学紀要 第34巻第2号 65―78頁(133―146頁)2012 目 次 はじめに Ⅰ.暗転 Ⅰ-1.鬱屈 Ⅰ-2.脱出 Ⅰ-2-(1) 自我 Ⅰ-2-(2) 思惟 Ⅰ-2-(3) 止揚 Ⅱ.挑発 Ⅱ-1.愉悦 Ⅱ-1-(1) 人性 Ⅱ-1-(2) 悦楽 Ⅱ-2.改心 Ⅱ-2-(1) 迷夢 Ⅱ-2-(2) 転換(以上、本号) Ⅲ.開智 (以下、次号) Ⅲ-1.訓導 Ⅲ-2.自学 Ⅲ-3.教養 Ⅳ.抵抗 Ⅳ-1.批判 Ⅳ-2.建前 Ⅳ-3.冷徹 おわりに はじめに 金井正(1886-1955)を紹介した本格的な論稿 の嚆矢は、土田杏村(1891-1934)が雑誌『改造』 の1921年7月号に寄せた「哲人村としての信州神川」 とみて間違いない1)。杏村は、その中で「〔神川〕 村の資産家の息子さん」金井を次のように紹介し ている。なお、杏村は同稿で金井家を「資産家」 としているが、それは、家が代々蚕種・養蚕業を 営む傍ら、父一平が金融業「興産社」を設立し、 後にそれを「国分銀行」に発展させ、1915年に亡 くなるまでその頭取を務めていたからである。 「金井君は父君がなくなってから、今では一家 の主人であり、……哲学に就いて非常に熱心の研 究者であって、……長野県内何処でも評判もので ある。其のライブラリイは、自分だけで独り読み して居るのは勿体無いからと言うので、読破した ものはそっくり村の小学校へ持ち出されて居るが、 ……其の分量は実に堂々たるものである。以前に 自費出版せられた心身相関に関する哲学論文など 見上げた見識を示して居られる。政界へでも出て 居たなら、今頃屹度県会議員や代議士になって居 るに相違ない、近郷の人望を博して居るけれども、 何処までも新らしい精神的の途を進んで居るのは 頼もしい」2)。 杏村の、比較的早い時期における金井への言及 にもかかわらず、彼は生前には忘れられた農民哲 *環境ツーリズム学部教授
金井正の思想と行動(1)
──大正デモクラシー期を中心に──
Tadashi Kanai’s Intellectual Ideas and Social Actions: (1)
The Taisho Democracy Era
長 島 伸 一
*- 66 - 学者であった。変化が訪れるのは、1960年代以降 のことである。1964年に、金井にゆかりのある山 越脩蔵、猪坂直一ら5人が、『上田市立図書館報』 に金井の回想録を寄せている3)。また、1969年には、 宮坂広作が『近代日本教育論集』の第7巻を編集し、 その中に『唯物論研究』の1935年9月号に投稿した 論稿「農村における技術と教育」を再録し、金井 の紹介文を寄せている。この2つの中間に上梓され た猪坂直一の『回想・枯れた二枝』(1967年)を加 えた3つが契機となり、60年代後半から70年代にか けて、主として児童自由画運動、農民美術運動、 自由大学運動に関わる研究者たちによって、金井 正の名は折に触れて指摘されるようになる。 しかしながら、それらの指摘のほとんどは極め て断片的なものに過ぎず、金井正その人に焦点を 絞り、その思想と行動をあぶり出したものとは言 えなかった。金井個人にスポットライトを当て、 その全体像を浮かび上がらせた僅かな例外として は、小崎軍司の論稿「農民哲学者・金井正──大 正デモクラシーを超えた人」4)と、柳沢昌一が分 担執筆した論文「自由大学運動と〈自己教育〉の 思想──〈農村青年〉の自己形成史」5)とを挙げ うるのみである。 小崎の論考は、短編ながら要を得て金井の遍歴 を追跡した佳作と見なすことができる。また小崎 は、その後、創作評伝ともいうべき『夜明けの星』 (本稿、注4)参照)を出版し、巻末にかなり詳細 な「略年譜」を付している。一方、柳沢は、金井 の「産業としての農民美術の成立に就て」や「二 つの催青」など、雑誌に公表された論稿だけでな く、謄写版刷りの冊子『入営之辞』『輸卒之回顧』 『教育に関する雑感』や、杏村が「見上げた見識を 示して」いると評価した論考『霊肉調和と言ふ意 義に就て』など、当時としては史料収集の難しかっ たパンフレットにも丹念に眼を通すことによって、 初めて本格的に金井の全体像に迫ろうとした秀作 である。 ただし、柳沢が検討した金井の論稿は、それで も全体のうちのごく限られた一部分に過ぎない。 しかも、幸いなことに、柳沢の論文が公表された2 年後に、金井の論稿のうちかなりの部分を収録し た『金井正選集』が出版されている6)。もちろん、 この『選集』は、その名のとおり「選集」に過ぎ ず、『農民美術』や『蚕糸』や『農民美術出張所月 報』などの雑誌や小冊子に掲載された論稿の一部 は省かれており、また、『信濃毎日新聞』への投稿 記事および青年団が発行していた時報『神川』に 掲載された数多くの論説記事なども再録されてい ない。 そこで、本稿では、小崎と柳沢が既に明らかに した金井正の思想と行動に関する検討を踏まえた 上で、彼ら2人がその利用を差し控えた史資料をも 検討の俎上に乗せることによって、農民思想家・ 金井正の全体像を明らかにするとともに、『選集』 出版後の長い研究の余白を埋めることを通じて、 地域に根ざして思索の旅を歩み続けた金井正の足 跡の今日的意義を明らかにしたい。 Ⅰ.暗転 金井正の思想形成において、その転機となった ものは、兄汲二の死であった。時に弱冠16歳、上 田中学校を卒業するほぼ一年前、1903年2月の出来 事である。 金井は三人兄弟の末子として生を享けたが、長 男は幼少より精神の病を患っていたため、比較的 早くから次男の汲二が家督を継ぐことが決まって いた。四歳上の聡明な次兄は、金井にとって頼り がいのある極めて大きな存在であった。尋常小学 校在学中から書に親しみ、兄が創めた回覧雑誌『学 問乃友』に短文を発表する愉しみを味わうことに なったのも、その兄から受けた影響だった。 Ⅰ-1 鬱屈 後輩にあたる山越脩蔵の回想によれば、敬愛す る兄の死によって、金井の「生涯に意外の変化が 起った」7)。三男として自由気儘に育ってきた金井 の夢、つまり大学進学の希望は、家督を継がなけ ればならないという現実に直面して断念せざるを 得なくなった。そのうえ両親のたっての希望で、 中学卒業を待って兄嫁と結婚しなければならない という事情が加わった。 その結果、「兄の死に対す(る)悲しみに加えて、 両親の嫁に対す(る)処置と自分の将来の望みがか なえられない絶望とが一点に集注した彼は、昼を 過ぎると兄の墓前にうずくまり、長いこと兄と相 談し、兄の知恵を借りたい気持であった。そうし
長島伸一 金井正の思想と行動(1) ――大正デモクラシー期を中心に―― 135 た行動は、幾日も続いたので、部落の人々の噂に なるほどであった」8)。兄の死が引き起こした「悲 しみ」や「絶望」が、当人にとって如何ほどのも のであったかは、想像するに余りある。 この精神的な危機、閉塞感、煩悶を金井はどの ように乗り越えようとしたのか。小崎の作成した 「略年譜」によれば、金井は1905年に「平民新聞」 の定期購読を始め、同年7月には自宅に同僚を集め て平民新聞読書会を開いている。また翌06年には、 上田中学から金沢の第四高等学校に進学した友人 から西田幾多郎の存在を知らされ、その講義録を 読み西田哲学への関心を深めている。翌07年には、 次兄からの影響であろうか、自ら同人雑誌『国分 寺の鐘韻』を創刊し、「偉ナル哉宇宙、偉ナル哉我」 「全一ナル宇宙」などの論考をしたため、同誌に寄 稿もしている9)。 それらの論考は未見であるが、金井の「宇宙」 への関心は、同誌に掲載された「無我ノ愛」によ れば、金井に独自の「自覚の三段階」論と関わり があると見なすことができる。「自覚の三段階」と は、「吾人が吾人自ら生存す(る)と思うはこれ大な る誤りなり」との立場から、自覚の第一段を「自 己の存在を知る」こと、その第二段を「人類の存 在を知り其の相互の関係と其の中に於ける自己の 位置を知る」こと、第三段を「宇宙に於ける吾人 の位置を知る」こと、とする自己認識の段階論を 指すものである10)。 このうち、自覚の第二段階、すなわち人間相互 の関係とその中における自己の位置と役割とを認 識することが、その後の金井の主要な関心事とな り、それをいっそう確かなものとするために、哲 学や心理学や社会主義の研究に深く沈潜すること になる。しかしながら、少なくとも20代の初めに は論考「無我ノ愛」の結語にあるように、「神はす べてを以て我を導き給う、尊い哉」という認識の もとに、自覚の第三段階、すなわち宇宙や神への 関心を深めていたのである。 したがって、当初の「宇宙の調和」や神への関 心から「人事界の調和」へとその関心の重心を移 行させる中で、つまり神学臭を徐々に後景に押し やり、自覚の第三段階から第二段階へと対象を移 動させることによって、金井の内面的な苦悶や鬱 屈、山越脩蔵の言葉を借りれば「絶望」は、徐々 に希薄になりやがて解消されていったと推量する ことができる。もちろんそれは文字どおり「徐々 に」であったことは言を俟たない。社会と人間関 係の中における自己の位置と役割の発見は、長い 時間の経過の中での金井自身の主体的な努力と、 同世代との積極的な相互交流なしには、到底叶え られるものではなかった、という点もまた否定で きないからである。 再び「略年譜」によれば、1908年には、本稿冒 頭で引用した土田杏村の指摘にもあるように、自 らの蔵書を神川小学校に寄託し11)、「神川読書会」 を設立している。また、この読書会が母体となっ て1913年には「神川青年会」が設立されるが、金 井はその会則を起草し、設立総会では座長を務め ている。その総会で青年会に寄贈されることが決 まった読書会附属の文庫は、その責任者に選出さ れた金井自身の意向によって、村内の三区(大屋 岩下、蒼久保、国分)に分置する巡回文庫に発展 し、また「会員結合の基礎を固からしめん為」に、 毎月または隔月で巡回談話会も開催されるように なる12)。 先の平民新聞読書会といい「神川読書会」主催 の巡回談話会といい、活字を介した交流を通じて、 同世代間の意見交換の場を金井自らが積極的に創 りだそうとしていたことは明らかである。しかし、 外に向う力よりも一層強い力が、金井の内面に向 けられていたこともまた軽視できない。地域内で 社会的な意見交換の機会をもつその前後には、書 斎に籠り書物と対話する主体的、精力的な自己鍛 錬の機会が幾重にも積み重ねられていたことは、 彼自身の次の指摘からもはっきりと読みとること ができるからである。 「一体人間という奴太平無事の日は、文学だと か美術だとか色だとか恋だとか盛んに平和の玩弄 物をいじりおる。然し一旦その太平が擾乱させら れると恋も哲学もあったものでない。本家帰りを して明白に野性を現わしてくる。故に人格を修誉 せんとするにも太平無事な修養の方法では畢竟す るに坊ちゃん的な品性しかできない。天日暗澹た るの秋に当ってなお毅然たるを得るが如き人格を 作らんと欲せば、空しく難風怒涛の中に之を修養 せなければならぬ」13)。 この指摘は、1908年6月から三ヵ月間にわたり、
- 68 - 教育召集で東京の輜重兵13大隊第2中隊に入隊し た14)後、それを回顧して翌09年6月に書かれたもの である。したがって、金井の自己「修養」が軍事 訓練のように常に「難風怒涛」の中で行われてい たと直ちに考えることは必ずしも適当ではないが、 少なくとも兄の死後しばらくは、それまでの「太 平無事」な環境が一変して「天日暗澹たる」閉塞 感が続いたであろうことは想像するに難くない。 同時に、金井の当時の精神的危機を乗り切る「方 法」は、いわゆる「坊ちゃん的な品性」の涵養で 満足するような「太平無事な修養の方法」ではな く、「毅然たるを得るが如き人格」を自ら積極的に 形成しようとする主体的な「修養の方法」であっ たこと、これもまた明らかであろう。 金井の指摘は次のように続いている。「一日の仕 事を終った時、前途の煩悶に心を悩ました時、企 図に失敗したる時」、「八畳」の「書斎」に籠り書 物を取り出すことが常だった。著者のうちの「或 る者は優艶な詩情を以って、或る者は高遠な理想 を以って、或は偉大なる意気を以って、また或は 精細なる科学の智識を以ってそれぞれ特有なる慰 藉と安楽とを与えてくれた」15)。 これら一連の指摘には、一般に書物を読む「安 楽」とともに、何のための読書なのかがよく語ら れていて興味深い。読書は、書斎に籠る前の心理 状態はさまざまであれ、書物との文字どおりの格 闘を通して、著者の作品から「優艶な詩情」や「高 遠な理想」や「偉大なる意気」や「精細なる科学 の智識」を引き出して、自らの「前途の煩悶」を 薄め「企図の失敗」を少なくするということが、 その一つ。もう一つは、将来にわたって「毅然た るを得るが如き人格」を、書物との真摯な対話を 通して自己形成すること。金井にとっての読書は、 したがって、絶望的な鬱屈状態から脱却するため の極めて重要な体験だったのである。 Ⅰ-2 脱出 その金井の、自己鍛錬・自己教育の差し当たり の到達点こそ、土田杏村が「見上げた見識」と評 価した「心身相関に関する哲学論文」、すなわち 1915年11月に自費出版された『霊肉調和と言ふ意 義に就て』にほかならない。 金井は、その論考の冒頭で「哲学は生活の装飾 となすべきものではなく、生活の力となすべきも の」であると述べており、その指摘はその後も繰 り返されているが、それは彼にとっての読書の性 格、生活と読書との関係をよく語っている。また、 論文の末尾で、「此の拙文を草した為に自分の思想 の欠け目を反省することが出来たという意味で多 少の満足を感じないでもない」と述べているよう に、推敲を経て上梓されたこの哲学論文は、未熟 さは残るものの全力を傾けた故の充足感といささ かの矜持とを自らに齎すことのできた作品と見做 しうるものである。そこで、この論文に含まれる、 杏村のいわゆる「見識」とはいかなるものである か、それをここで確認しておこう。 Ⅰ-2-(1) 自我 “はしがき”に続く本論の冒頭で、金井は次の ような課題を設定している。「神を人間の及ばない 高いところに安置する(の)と、人間に近く或は人 間自身の中に見出すのと何れが果して人間生活の 昂昇を意味するだろうか」と。この課題設定に続 いて彼は、ある哲学者が、「将来に神を認めて其の 為に多少なりとも自分達の生活を改良することが 出来るとすればその時に神の観念は初めて市価を もつことになる」と指摘したことを紹介する。こ れに対して彼は、その指摘は「真理」を含んでは いるが、全面的に正しいとはいえないと判断する。 どこが正しく、どこが不充分なのか。 金井は、「神という観念の市価はそれが人間生活 の改善に対して有する力に比例して」決まる、と いうこの哲学者の判断は是認しうると考える。し かし、「人間の世界の改善の可能と必要」とを認め ることは、同時に「現在の人間の生活に改善すべ き欠点のあること」を認めることを意味する。し たがって、かの哲学者が、一方で「将来に神を認 め」つつ、他方で現在の「生活を改良」すると考 えている限りで、その認識は不充分であると判断 する。「将来に」ではなく「現在」に「神を認め」、 しかもその神は、人間の外部にではなく「人間自 身の中に」認めなければならない。そのことを論 証するために、彼はこの論文を執筆することに なったのである16)。 その筋道を追いかけてみよう。金井によれば「人 間の生活の基本的型式は習慣と欲求とである」。こ
長島伸一 金井正の思想と行動(1) ――大正デモクラシー期を中心に―― 135 のうち、「習慣の革命」には「苦痛」を伴うがゆえ に、「勇気のない人達は作り上げられた習慣の堂塔 を破壊するに忍びない」。他方で「欲求」は、「社 会現象を説明」し「事の真相を洞察」する場合に は、その基礎に置かれるべき「型式」であるが、 その欲求には「解決の不可能な欲求」と「人間に 解決を迫る欲求」とがある。人間が「神を創造」 するのは、社会に「習慣を革命することの出来ぬ 無気力」とか「習慣と欲求との間(の)姑息な妥協」 とか「欲求の譲歩」が蔓延した場合である。一般 論でいえば、「民族の欲求は其民族の神観に濃い色 彩を反映する」ということになる17)。 続いて金井は、「行為の主体」として「自我」を もつ人間が、「社会の秩序内に棲む」ということの 意味を考える。我々は、それぞれ「社会的に」「情 緒を経験し」「言語を用い」「周囲を見聞し」「知識 を承認する」のであるから、「自我」の形成に際し て「社会的影響」は極めて有力であって、それか ら自由になることはできない。したがって「社会 的影響」を常に受けざるをえない「自我」は、固 定的なものではなく、中心的な「興味」や「関心」 が常に「移動」する「閉ず可からざる」ものであ る。「自我」が外に向かって開かれているというこ とは、「自我の拡大、自我の満足」が常に繰り返さ れるということを意味する。 言い換えれば、「自我の満足」とは、永久に繰り 返される問い、すなわち「如何にせば社会を改良 することが出来るか」という問いに応え続けるこ とによって初めて得られるということになる。し かも、この「自我の満足〔すなわち社会の改良〕 をうる方法如何」という問題を解決するには、歴 史を振り返って「人間の経済生活を省察」しなけ ればならない18)。 そこで金井は、「経済思想の発達」の歴史を3段 階に分けて、人間はその経済生活において「如何 にして確実にして恒久的な自己の利益を獲得」し てきたかを検討する。3段階の最初の段階は「家族 主義の時代」、第2段階は「自分の利益を得ようと 相敵視している時代」、第3段階は「一者の利益(と) 他者の利益(が)両立」し「相互の利益を増す」こ との可能な時代である。第2段階と第3段階を区切 る指標は、金井によれば「資本家と労働者、地主 と小作人、国家と其植民地、国家と国家」間の「経 済的取引関係」の違いである。「賃銀を最低限度ま で」引き下げる雇用主の方針や、スペインが南米 植民地に採った「掠奪主義」や、国家間の「戦争」 は、第2段階の特徴であった。しかし、第3段階の 現在では、低賃金論や「掠奪主義」は「恒常的な 利益」と結びつかないことが明らかになった19)。 それは何故か。既に触れたように、人間生活の 基底をなすのは「欲求」である。その「欲求」は、 「文明を生み出す素因」であって、それによって「文 明の進展」が齎された。その行き着く先は「完全 なる世界」、すなわち「一切の人間が一切の欲望を 満足させることの出来るような組織をもった世界」 である20)。先に触れた「人間に解決を迫る欲求」 を満足させ、「社会に存する罪悪をできるかぎり少 なく」する歩み、それが「文明の進展」であり、 「経済思想の発達」の第3段階はこうして齎された というわけである。 もちろんこの段階も、人間の欲望や欲求には限 りがないから、静止状態の「完全なる世界」とは 言い得ないが、「賃銀の増加」によって「労働者の 生活状態」は改善され、高賃金による労働効率の 上昇によって「資本家の利益」も齎される。また 「西班牙が殖民に失敗し英吉利が之に成功した原 因」も「掠奪政策」からの訣別にある、というの である21)。 Ⅰ-2-(2) 思惟 この論文の前半を以上のように展開した後に、 金井は後半の冒頭で論文のタイトルに即した次の ような問いを立てる。すなわち「霊と肉、或は之 を一般にして所謂精神と物質とが其隠微なる相に 於いて如何なるものであるか」という問いがそれ である。いわゆる「常識」的な理解では、両者は 「截然たる区別のある二つの異なる実在」のように 見える。我々の「常識」は、事物を「流動的発展 の相」からではなく「固定の相」から眺めるよう に馴化されているからである。しかし、「霊と肉」 「精神と物質」あるいは「主観と客観」が、劃然と 区別され対立しているように見えるのは、「私共の 頭に深く刻み込まれた独断」に過ぎず、いずれも 「相対的なものであって同一の経験の見方の相違」 に過ぎない、というのが金井の判断である22)。 何故にそう判断するのか。それらの対立の基を 137
- 70 - なす「思惟(作用)」と「(直接)経験」について 検討すれば、その点が明確になるという。「思惟」 とは「連続の原理に従い発展する所の無限の過程」 であり、「思惟作用」とは「無限なるものの中に有 限なる体系を限定する働き」である。他方、「経験」 とは「常に進行して然も終に完成することなき過 程」であり、「直接経験」は、「時々刻々に変化し 同一の経験を繰り返すことのない不断の創造的発 展」である。 そうであるとすれば、「時々刻々に変化」する「無 限の(発展)過程」「不断の創造的発展」過程とい う点で、「思惟」と「直接経験」とは「其根底に於 いては全く同一である」と金井は考える。したがっ て、「霊と肉」「精神と物質」等々も、「常識」では 截然たる別様の対立物とみなされるが、二つはそ れぞれ「統一」され「融和」されるというのであ る23)。 以上が金井の論述の道筋である。この時期の金 井は、自らを「一個の小なる社会主義者」24)と規 定し、「社会主義者は進化律を尊重」すると認識し ている25)。論文の前段に見られる社会進化論的な 歴史認識には、マルクス主義とダーウィニズムと を安易に結合しようとする意図が読み取れるばか りでなく、歴史の発展段階の指標を何に求めてい るか、その点も必ずしも明らかではないなど、難 点のあることは否めない。また、後段に見られる 抽象的・観念的な論理展開の方法は、この時期の 金井を捉えていたのがいわゆる新カント派の哲学 であったことと無関係ではなく、それに批判を加 えることもある意味では簡単にできえよう。しか し、ここでは、論理展開上の細部の問題点は脇に 置いて、少し長くなるが、この哲学論文全体の結 論部分を示しておこう。金井は、以上の論述を踏 まえて、次のように指摘する。 「自らの中に創造の原理を蔵し、自らの力によっ て自らを分化限定して世界を構成する生命其物を 措いて、何れの処にか神を求むべき。私共が神を 知るとは、私共が自分の中に流るるこの生命の力 を自覚することでなくて何であろう。自らの力を 自覚することが自らを神化することではないか。 道は近きにあり遠きに求むべからず。自己の神を 捨てて空架なる異邦の神を求むるのは不信の至極 であろう。 私共が私共の神を自分達の中に見出す時、一切 の欲求は満足と歓喜とに於いて諧調し、一切の霊 的なるものは肉的なるものに即し、一切の肉的な るものは霊的なるものに反かない。自我と非我、 精神と物質等の対立は渾然たる融和の中に各其の 適然の姿を見出すであろう。而してすべての清き ものと共にすべての醜きものを容れうる神の王国 が地の上に建設せられるであろう。此王国を支配 する神は清節を喜ぶと共に享楽を拒まない人間自 らの神聖なる標徴でなければならぬ」26)。 Ⅰ-2-(3) 止揚 引用の第一段落に見られるように、金井は神を 他力本願の対象とする態度を忌避して、そもそも 人間は、自己の内部に、あたかも血管中の血流の ように流れている「創造の原理」「生命の力」を内 包してこの世に生を受けた、という「自覚」から 出発しなければならないと考える。ここで「創造 の原理」「生命の力」とは、「人間生活の改善に対 して有する力」と言い換えることができる。した がって、人間が「自らの力を自覚する」というこ とは、取りも直さず「自己の神」を捨てることな く「自らを神化すること」、言い換えれば、自らを 「創造の原理」をもった神と「自覚」することと同 義である。この認識は、すでに触れた「自覚の第 一段」(すなわち「自己の存在を知る」こと)の認 識がいっそう深化・発展した結果と見なすことが できる。 また、第二段落では、この論文のタイトルにあ るように、人間はその一人ひとりの中に自分の神 を見出す時に、換言すれば「自己の存在」をその ように「自覚」する時、霊と肉は「調和」し、「自 我と非我、精神と物質等の対立」も止揚される、 と結論づけられているのである。 ところで、第一段落には、「自らの力によって自 らを分化限定して世界を構成する生命其物を措い て何れの処にか神を求むべき」という表現が含ま れていた。「生命其物」の前に置かれた「自らを分 化限定して世界を構成する」という形容句はいか なる意味を持っているのだろうか。この表現は、 論稿「無我ノ愛」で指摘されていた「自覚の第二 段」、すなわち「人類の存在を知り其の相互の関係 と其の中に於ける自己の位置を知る」ことと関
長島伸一 金井正の思想と行動(1) ――大正デモクラシー期を中心に―― 135 わっていないだろうか。 金井によれば、「現在の人間の生活に改善すべき 欠点のあること」を認める人間は、それぞれの興 味と関心とに基づいて、また自らの位置と役割と を自覚して、人間世界の改善に立ち向かう主体で あった。したがって、「自らを分化限定して」とい う表現は、「社会的影響」を常に受けざるをえない 「自我」をもつ各人が、それぞれ自らを他者から分 化し、自らの位置と役割とを限定して、という意 味に解することができる。人間には「一切の世界 の構成原理が潜んでいる」27)と考える金井は、人 間の「生命其物」、すなわち「不断に変化し、不断 に創造し、不断に融合浸透する直接経験の発展」 である「生命其物」以外には、天上にも地上にも 神は存在しないと考えたのである。 「自覚の第二段」、すなわち「人類の存在を知り 其の相互の関係と其の中に於ける自己の位置を知 る」自覚の第二段階は、こうして、人間「相互の 関係」を通じて生活と社会との改善に立ち向かう 主体として鋳直されることになった。その限りで、 この論文は、細部に不充分な展開を含んでいたと しても、一時は暗転した金井の道程を、「自らの力 によって」新たな方向に切り拓き、鬱屈状態から 抜け出しそれを止揚するための、とりわけ重要な マイルストーンだったのである。同時に、この『霊 肉調和と言ふ意義に就て』は、金井のその後の軌 跡を暗示する論考であり、また、杏村のいわゆる 「見上げた見識」を示す論考と見なしても差し支え ないと考えられる。 Ⅱ.挑発 ところで、この哲学論文を草するに当たって、 金井は「文学博士西田幾多郎、文学士田辺元の両 先生の高論から得た所が甚だ多いことを述べる義 務(が)あることを感じます」と記していた。「自覚 の第二段」の認識を深化させた金井は、自らの思 想形成に甚大な影響を与えた「未見の両先生」の 謦咳に接する機会を探っていたが、予想以上に早 くその機会は訪れる。自費出版から9か月後の1916 年8月には西田幾多郎が、翌17年8月には田辺元が 上田中学校講堂に招かれ、三日連続の哲学講習会 が開かれることになるが、その発案は言うまでも なく、費用の負担も金井自らが提案したもので あった28)。 二つの哲学講習会は、従来行われてきた仲間内 の読書会を発展させて、多大の示唆を自らが受け た両哲学者の連続講義を地域に公開することを通 じて、参加者一人ひとりが「自己の存在」と人間 「相互の関係と其の中に於ける自己の位置」とを自 覚するために開催された、そう考えて間違いなか ろう。これらの講習会は、やがて山越脩蔵に引き 継がれて、二度に渡る土田杏村の哲学講習会、さ らには信濃自由大学の開講へと繫がっていくので あるが29)、ここでは西田、田辺による二つの講習 会の間に行われた山本鼎との運命的な出会いと、 その後実践された児童自由画および農民美術運動 の概略を辿っておきたい。 山本鼎がフランス留学からロシア経由で帰国す るのは、1916年12月のことで、金井が山越を誘い、 上田の料亭菊与に一席を設けて帰国談を聴いたの は、翌17年2月初頭のことであった。当時の模様を、 山越は後に次のように書き遺している。 「雑談のあと、山本はややあらたまって、『君達 は、日本のオブローモフではないかね』と問われ たが、吾々はそれを知らなかった。これはゴンチャ ロフの小説に出てくる主人公の名で、地主の若主 人で大学教育を受け、地位もあり金もあり誠に恵 まれた境遇であったが、思いついた仕事をするが、 どれも成し遂げ得ないで一生を終るという人物の ことである、というのであった。吾々は『オブロー モフ』の説明によって、事柄の如何によっては、 その事柄の遂行に力を添えることに応分の努力を する、と言明した」と30)。 ロシアの文豪ゴンチャロフの代表作『オブロー モフ』を山本が話題にしたのは、二人に対する明 らかな挑発であった。資産家の跡取りであった彼 らの境遇が、小説の主人公のそれと重なることは 間違いないが、同時に新しい生活を切り開くこと のできない無気力な主人公の気質とは重ならない ことを、山本は承知の上で話を切り出したと見ら れるからである。二人が「事柄の如何によっては」 「応分の努力をする」「事と次第によっては、一身 を挺してもやる気持はある」と応えているのは、 いわば当然としても、この宴席での駆け引きでは 山本は一枚も二枚も上手であった。というのも、 山本はロシアから「児童自由画」と「農民美術」 139
- 72 - という二つの印象的な経験を持ち帰ったが、「この 時は農民美術に就いては触れず、ただも一つ面白 い仕事があるが、一度に話せば目移りがする」と 「思わせぶり」な発言をしているからである31)。 Ⅱ-1 愉悦 こうして、一年を優に超える準備期間を経て、 1918年12月に神川小学校において「児童自由画の 奨励について」と題する山本鼎の講演会が開かれ、 翌19年4月には同校を会場に「第一回児童自由画展」 が開催される。この運動は、三人の予想を上回る 程の勢いで短期間のうちに全国に波及していくが、 既に先行研究に詳しいので32)、ここでは、金井が その後20年近く積極的に関わることになった農民 美術運動に眼を転じたい。 Ⅱ-1-(1) 人性 金井が農民美術運動に乗り出す決心を固めたの は、1919年4月下旬に神川小学校で開催された「第 一回児童自由画展」の会場でのことであった33)。 同年12月には、同小学校内に「農民美術練習所」 が開設され、翌20年3月には「第一回の冬季教習を 終了し」、5月には「その製作品を東京三越呉服店 内で展覧即売した」。その結果は、「幸にも大部分 を売ることが出来たほどの好成績」を収めること になった。それに「自信を得て」、20年12月から翌 年3月まで金井の自宅蚕室で「第二回の教習」を行 い、21年6月には作品を二分して「東京及大阪の三 越呉服店」で同様の展示即売会を開催したところ、 その結果は「第一回に劣らぬもの」であった34)。 その後1921年12月には、1,000円程の建築費で大 屋駅北側の高台に「蒼い屋根の工房」が完成する 35)。その「小工房」で制作された作品も、翌22年5 月開催の東京三越の即売会で「出品全部を売り尽 し」ている。翌23年12月には、二日間にわたって 「東京資生堂の作品展覧会」が開かれているが、同 年9月の「関東大震災の影響を懸念」するも「二日 目には既に出品全部が売約済となり、爾後の観覧 者を失望させるほどの盛況」であった。したがっ て、これらの結果から、農民美術「創業の課題」、 すなわち「農村手工芸は可能なりや」との問いに 対して、金井はひとまず「肯定的な実証を得たも の」と判断している36)。なお、23年秋には「工房」 の隣接地に瀟洒な「日本農民美術研究所」が新築 され、翌24年9月には雑誌『農民美術』が創刊され ている。 本格的な練習所「蒼い屋根の工房」が完成する 半年前に、金井は自らを「夢想家」と規定した上 で、農民美術運動を始めた動機を次のように記し ている。 「私共が、もし『確実な利益』を最先に考えるよ うな実際家であったら、海のものとも山のものと も分らないこんな仕事には、恐らく手を着けな かったでしょう。露西亜の人形を見て『やって見 たいな』、『やって見よう』と最後の決心をするま でに私共を動かしたものは、『売れる、売れない』 とか『確実な利益』とか云うものよりは、も一つ 手前のものであったろうと思います。『人性の自然 に根拠をおく仕事』と云うことの直覚が私共を最 後の決心にまで動かしたのだ、と云うことが今は はっきりと分って来たように私には思えます」37)。 金井によれば、「人性の自然に根拠をおく仕事」 とは、その仕事が「純人格的活動」として「どこ までも自己目的であって他のものの手段ではない」 ことを意味している。譬えて言えば、「最も殺伐な 殺人用の投槍や毒矢を、平和な気分で丹念に装飾 する未開人の生活」、「美術が実用品から分離しな いで、身の回りの一切を装飾することが、彼等の 美術のすべてであるような未開人の生活」から生 み出されたような作品が、金井の考える農民美術 なのである。農民美術は、日常生活に根ざした「生 活の普段着」であって、断じて「他所行きの着物」 であってはならず、その限りでそれは、人間が生 来もっている性格、つまり「人性」の「自然に根 拠をおく仕事」なのだ、というのである38)。 とはいえ、農民美術も、それが「商品」として 生産され、かつ販売されるものである限り「商品 界の法則」から自由になることはできない。すな わち、「商品としての農民美術は市場の何処へも流 通すべき事を目当てとして製作されるもので、そ の性質上、必然的に、意匠、技術、販売の各方面 に亘って商品界の法則に支配さるべきものであ る」。しかも、農民美術は、差し当たりは「自給的、 準商品的、商品的の三種類に大別」することがで きるとしても、「広い範囲に及ぶ多数の農村手工芸 者に権利(獲)得の途を与えるためには」、「自給的」
長島伸一 金井正の思想と行動(1) ――大正デモクラシー期を中心に―― 135 な、あるいは販路の限定された「準商品的」な農 民美術ではなく「商品的」な農民美術をめざさな ければならない。そうでなければ、生産者たる農 民の冬場の「副業」は経済的には成り立たないか らである39)。 1920年代の、日本農民美術研究所による「商品 的」な農民美術の事業方針は、しかし、のちに見 るように30年代に入ると軌道修正を余儀なくされ、 新たな段階を迎えることになる。その顚末は先に 譲ることにして、ここでは「人性の自然に根拠を おく仕事」との関係で、金井の、「人性」つまり人 間性に即した手仕事に対する熱い想いと、いわば 「自給の思想」とも言うべき独自の想念について触 れておこう。 Ⅱ-1-(2) 悦楽 1924年9月に創刊された研究所の機関誌『農民美 術』の第3号で、金井は、曾祖父が傾斜地の山林を 農閑期の70~80日間、四冬繰り返して開墾を続け、 それを桑畑にした挿話を紹介している。五段の石 垣からなる計一反歩300坪の畑は、石垣を積み上げ、 傾斜地を均し、雑木の株を掘り起す労役の末に出 来あがったものだが、金井はその曾祖父の手仕事 を、大正末期の同時代人の観念と比べて次のよう に評価する。 「不幸にして、私共は加減乗除の複雑な算術を 知っている。此算術の知識をして一切のものを貨 幣の価値に換算させる」。しかしながら、曾祖父の 世代は「計算を見ずして開墾されて行く土面を見 た」、「生産を見て計算を見なかった」。ことほど左 様に、「衣食を自給し、娯楽を自給し、その他能う 限りを自給した私共の祖先の生活の中に、働くこ とを楽(し)む生活の面影を視る」ことができる。 これに比べると「私共の生活は余りに分裂しすぎ ては居ないか」、と40)。 引用中の「娯楽を自給」するというのは、例え ば地芝居や謡曲や神楽などを鑑賞者としてではな く実演者として楽しんでいたことを指している。 その「娯楽」を含む生活そのものの「自給」を、 金井は「働くこと」とみなし、それを楽しんでい た世代を評価する。つまり、ここには労働を賃労 働に限定しない独自の考えがある。農地の開墾を 「生産を見て計算を見なかった」と評価する金井は、 農民美術もそれと相通ずる「自然に人工を加えそ れを誇りとする」仕事であって、それによって「自 然は借り物の『自分』ではなくして、まがいもな き『自分』となる」と見る。したがって、農民美 術で郷土を飾ることは、そもそも郷土じたいが 我々の「自分」であるのだから、自然の素材に人 工を加えて「自分を飾る」ことを意味するのだ、 というのである41)。 農業を含む手仕事に対する金井の想いはいたっ て強い。小作階級の関心は、本来は「米価の騰落 より米作の豊凶」であるはずだが、自給の価値を 認識し得ない「今日の小作人は、米価30何円以下 では米作は割に合わない」という。しかし、この 考えは、「如何に農家が自給品の価値を低く見、生 産物の市場価値のみを高く見ようとするか」の手 近な一例に過ぎない。それに対して、金井は「農 業の悦楽」を次のように考える。 「自ら計画し、その計画を自分の労力、知識に よって実現し、その結果の損益共に自分の責任と して自分に収める事の楽しみ」、それが「農業の悦 楽」である。その楽しみを措いて「他に求めよう とする時には農村は衰亡する」。農業はかように 「自主的な仕事」であるのだから、この「自主の楽 しみ」を措いて眼を他に転じても、「真の楽しみ」 が農業以外の他のところで見つかるはずがない、 と42)。 ところが現実はどうか。「農業技術員や補習学校 の農業教師」は、進んでというよりもむしろ「百 姓の仕事が嫌だから月給取りになる」という傾向 がある。これは、肥料を手仕事によって自給する ことを怠り、安易な金肥に頼る農業と同様に、「教 育上の一種の金肥万能主義」に他ならない43)。 しかも、手仕事を軽視する風潮は、小学校の「手 工教育」にもよく示されている。「仕事を楽しむ態 度を養うことが普通教育の最も重要な眼目」だと 考える金井の立場からすれば、教師には「根気と 労力との中から滲出する造形的仕事の行程を楽し む態度を児童にしっかりと植えつけてもらいたい」 と願うのだが、現実はむしろその逆が行われてい る。「習慣が天性となり易い児童に対して間に合せ の教習を施すことは最も慎むべきこと」であるに もかかわらず、教師の大半は「初期の基礎技術習 得の退屈に懼れを」なしており、最も肝要な「仕 141
- 74 - 事の行程を楽しむ態度」を児童が身につけること を取り逃がしている。要するに、手工教育にあっ ても、商品経済の浸透によって農村に蔓延ってい る安易な「金肥万能主義」から脱却できていない、 というわけである44)。 Ⅱ-2 改心 滑り出しは順調そうに見えた農民美術運動で あったが、上に述べたような思索を金井が深めて いた間にも、この運動は必ずしも順風満帆という わけにはいかなかった。そして、1931(昭和6)年 には転換期を迎えざるをえなくなる。そこで次に、 その経過を辿ることにしよう。 Ⅱ-2-(1) 迷夢 もともとこの運動は、農閑期の「副業」として 始められた運動であった。日本農民美術研究所の 前身である農民美術練習所は、「農村に副業的手工 芸品の製作を扶殖し、又その扶殖に必要とする処 の意匠、技術の指導教習を行う」拠点として開設 された。この「副業」を、全国各地の農村に根づ かせる「産業運動」である以上、生産者の収入増 と結びつかなければならない。その限りにおいて、 この運動は、金井自身が既に指摘したように「商 品界の法則」を無視することは許されない。「商品 界の法則」とは、農民美術品が他の商品と同様、 「他人の消費を目的として」生産され、それが販売 されて初めてその価値を実現できるという意味で ある。したがって、金井によれば、「副業」を指導 する日本農民美術研究所の方針としては、「趣味と 実益」との一致を求めるのではなく、「趣味」を度 外視しても「実益」を、つまり「確実に売れる品 物」の生産を優先すべきだった、ということにな る45)。 ところが、研究所は、「実益」を軽視して「趣味 を以て世間の好尚を導かんとするような不遜」を 犯してしまった。研究所はこれまで、「美術的良心 と商品生産との並立」を認めてきたが、むしろ「商 品の生産殊にその意匠に於いては、意匠者の趣味 を世間に主張するのではなくして、世間の趣味に 意匠を順応させること」が肝要である。「他人の消 費を目的として」生産されねばならない以上、デ ザイナーつまり「意匠者の趣味」を消費者に押し 付けるのではなく、「世間の趣味」「購買者の趣好」 に合わせて「確実に売れる品物」を生産しなけれ ばならない。 にもかかわらず、研究所はその名称の中に「美 術」の二文字を加えるという「不用意」を犯して、 この運動を始めてしまった。それによって、「産業 運動」であるべきこの運動が、あたかも「美術啓 蒙運動」であるかのような誤解を所員に与えた。 この誤解を避けるためには、「農民美術」という用 語に替えて、むしろ「農民手工芸」という用語を 使うべきであった46)。「美術と産業との無思慮なる 混淆」、それを長い間放置して「迷夢から醒め」な かったこと、これが転換期に遭遇した金井の「後 悔」であり「反省」でもあった47)。 ところで、金井は1933年および翌34年に、農民 美術の「事業の経過」を三期に区分して、次のよ うに冷静に振り返っている48)。 「創業期」にあたる「第一期」は、1919年暮の「農 民美術練習所」開設以降23年までの数年間であっ たが、この時期には、大都市のデパートで開催さ れた展示即売会は「予想以上の好成績」であった。 そのため、「売行きが良かった」ことを「市場の承 認を得た」ことと「混同」し、「他の多くの本格的 商品に伍して市場での太刀打ち」ができるかどう か、それを「冷静に洞察」することができなかっ た。 他方、「土産品の製作指導期」にあたる1924年以 降の「第二期」には、「東北地方より九州に至る広 範囲に亘り」「四十余」の技術講習会が開催され、 「土産品を郷土人が自給しようとする風潮(が)各 地に勃興」した。そのため、農業とは「全く別部 門の産業」が農村に根づく可能性があるかのよう な印象すら生れた。しかし、講習会後に設立され た各地の「生産組合」への研究所の指導の不徹底 や、「製作者側の辛抱の不足」や、高価なうえに生 産量が限定されるといった「販売上の経済的条件」 などによって、各地の「生産組合」の発展は阻害 されざるをえなかった。また、1927年1月には、東 京に研究所の「出張所」が開設されたが、これも 当初の目論見どおりには効果を挙げることができ ず、むしろ「失敗」に終わった。 その失敗の理由は、「土産品向きに考案」した作 品を、何の手も加えずに直ちに大市場に送り出し
長島伸一 金井正の思想と行動(1) ――大正デモクラシー期を中心に―― 135 た点にあった、というのが金井の判断である。旅 先で土産品を購入する場合と、日常を暮らす大市 場でそれを購入する場合では、おのずから「購買 者の購買心理」は異なるものだが、その点に対す る配慮の欠如、それが敗因だったというのである。 しかし、東京「出張所」の開設に全く収穫がなかっ たかといえば、そうではない。第二期の後半は、 「将来の発展の基礎」である「手工芸的雑貨製作指 導期」、つまり1931年以降の「第三期」を準備する 助走期間にも当っていたからである。 第三期には、「生産組合」を研究所の方針に沿う よう「再組織」化されたが、それは「需要者〔消 費者〕の趣味を低級であると軽蔑」するような「高 踏的批評」から訣別し、「美術啓蒙運動」から「産 業運動」に軸足を移動させることによって可能に なった。「製作者の美術家気取り、好事家的製作態 度、野趣、素朴の仮面の下に技術の拙劣を自己弁 護しようとする卑屈」などを、徹底的に排除する 一方、東京「出張所」の開設により「大百貨店、 問屋等の本格的商店」と取引する機会も生れた。 有力な「専門商人」との「本格的商取引」を通じ て、「目下流行中の意匠上の題材」や「価格と売れ 行きとの関係」など「商機上のヒント」を入手す ることが、遅まきながらできるようになった。 Ⅱ-2-(2) 転換 以上が、三期に区分された、日本農民美術研究 所の「事業の経過」である。なお、誤解を避ける ために付言すれば、「美術啓蒙運動」から「産業運 動」に軸足を移動させた金井は、それによって「製 作品の美的価値を無視」したり、「単に売れさえす れば意匠は如何に低級のものであっても」構わな いと考えたりしたわけではない49)。むしろ逆に、 「研究所の事業から離れて考えた所員の私生活に 於いて、〔所員〕が純美術家であり、又は純工芸家 であることは少しも差支えがない。否差支えがな いと言うよりはそれに依って研究所の仕事自体が 肥やされ、奥行のあるものとなることができると いう点に於いて、却って大いに望ましいことであ る」、というのが金井の立場である。しかし、「労 働に全く無体験な知識階級者が真に労働運動を指 導」できないのと全く同様に、「単調無味な副業生 産を全く体験せずしては組合指導の実を挙げ得な い」というのも厳然たる事実である。この点もま た、金井の譲ることのできない確たる立場であっ た50)。 ところで、この指摘は言うまでもなく、農民美 術運動の提唱者であった山本鼎への痛烈な批判と 見做しうるものである。この運動を「美術啓蒙運 動」と位置づけ、「単調無味な副業生産を全く体験」 しないままに「生産組合」の指導を続けてきたの が、他ならぬ山本鼎だったからである。1932年11 月発行の『日本農民美術研究所報』で、金井は、 名指しこそしなかったが、極めて直截に、以下の ようなラディカルな批判を書き付けている。 「提唱者が美術家であったことはこの事業に利 益と不利益とを齎らした。工芸雑貨の意匠に陳腐 を観、これを新産業によって補わんとまで奮起し たことは、美術家的敏感からであった。また着想 の観念的価値に眩惑して、事業の前途の多難を予 見することの出来なかったことも、同じき気質に 根ざして居る。この気質は、良かれ悪かれ、此事 業を創始する蛮勇の原動力となった。然しながら 美術家の着想や、美術家の蛮勇は、事業を産業的 に整備するには、席を産業的才能の処理に譲らな ければならない。着想を産業的に具体化すべき各 種方法は、美術的才能の処理しうる事柄ではない」 51)。 見られるように、農民美術運動の提唱者であり 美術家であった山本鼎が、その「美術家的敏感」 や「美術家の着想」から従来の手工芸品のデザイ ンに「陳腐(さ)」を発見し、それを新たな産業に まで発展させたことを、金井は一方で高く評価し ている。しかし同時に、この事業は、紛れもなく 新たな「産業運動」として出発したものであった。 「美術啓蒙運動」ならば、その席を「美術家」が占 めることは何ら差し支えがないが、これが「産業 運動」である以上は、「事業の前途の多難を予見す ること」が是非とも必要である。山本鼎にはその 才覚が欠けていた。したがって、芸術家たる山本 鼎は、この運動の第一線から退いて、その「席を 産業的才能の処理に譲らなければならない」。これ が金井の批判の要点であった。 しかしそうなると、この金井による山本批判は、 自らにも降りかかってくる。じっさい、金井自身 が、研究所の「創業より現在に至る事業の経過」 143
- 76 - を述べるに当って、「私共の犯した誤(り)を自己批 判しながら」と語っているし52)、「現代の産業工芸 に於(い)て、意匠と工作との分業が、必死の運命 であることに就(い)て無知であった創業者達の過 誤」や「創業者達の誤謬」に言及し、これを認め ている53)。したがって金井は、自らを圏外に置い て、山本一人を批判しているわけではない。『日本 農民美術建業之趣意書』に名を連ねている金井と しては、遅きに失するとはいえ、自己批判をも辞 さずに研究所の再組織化に乗り出さざるを得な かった。それが真実であり、そこにまた金井の真 骨頂がある。 1931年に研究所の実質的責任者になった金井は、 翌32年4月に「不動産全部を妻のものとして協議離 婚をし」、退路を断ってこの運動の再建に邁進する 54)。1920年代後半までの金井の散財が2万円もの巨 額にのぼり55)、山本鼎も両親への手紙の中で「私 は十余年間に約8万円の負債をつくってしまいま した。其半分は殆ど無利子にも等しいもので、憩 (休)火山的な債務であり、他の半分は活火山的な もの、而して又其うちの半分強が爆発性の高利債 なのであります」と述べているように56)、二人の 経済状況は文字どおり火の車であった。 金井としては、しかし、「前途の多難を予見」し つつも、途中で投げ出すわけにはいかなかった。 「蒼い屋根の工房」が完成した直後の1921年1月に、 彼は猪坂直一の求めに応じて連載した論稿の中で、 当時読んだある米国人の演説を引用していたが、 恐らくそれも関係していたのかも知れない。演説 の内容は、以下のようなものであった。 「もし私が此処に居られる新聞記者の誰方かを 連れてエヂソンの実験室に行き、そうして其処で 色々の失敗の跡のみを拾い出して示したならば、 其実験室は米国で一番厄介な所だと思わせるよう な記事を新聞紙全面に書かすことが出来る。いけ ないのは民衆が失敗するからではない。試みない のがいけないのだ」57)。 演説は、次のように続く。「吾々の祖先を賞讃す るのは何の為か? 彼等が成功したからか? そ うではない、彼等が立ち上がって彼等自身のため に試みるだけの神経をもって居たからだ」。 かつ て哲学論文の中で、自己の中には「創造の原理」 が内包されており、「自らの力を自覚すること」の 重要性を自覚していた金井にしてみれば、この演 説の主旨と、自己批判をも辞さずに引き出した彼 の結論との間に、齟齬が生じる余地のなかったこ とは、指摘するまでもなく明らかであろう。 とはいえ、事業を投げ出さなかった金井に、成 功が約束されていたわけではない。1931年7月には、 15年戦争のきっかけとなった満州事変が勃発し、 33年2月には教員赤化事件が起き、34年9月には 徐々に減額されてきた研究所への国庫補助金も打 ち切られる58)。翌35年9月には神川村助役に推され、 1年半後の37年2月には村長を引き受けざるを得な くなる。外的要因が事業の継続を許さなくなった ばかりではない。副業そのものの継続を保障する 資金も製作者も不足し、販路も狭隘になる中で、 出口なしの状況に追い込まれたのである。時代が 戦時色を色濃く染める中で、待っていたのは、丘 の上に立つ西洋風の研究所で重ねられてきた事業 そのものを、閉じることであった。 注) 1)これより前に、山本鼎が『美術家の欠伸』(アル ス、1921年2月)の中で、「K(金井)君は所謂、 哲学と自然科学に身を鍛えた深味ある実際家で、 Y(山越脩蔵)君は其後輩なのである。最初の児 童自由画展覧会が神川村で行われたのもK君等 の理解と運動のお陰であるし、農民美術の建業 も同じ人の愛と金に支持されて今日まで来たの である」(p.142)と指摘しているが、本稿では、 このイニシャルによる山本の指摘を、金井を「紹 介した本格的な論稿」のうちには含めない。 2)土田杏村「哲人村としての信州神川」『改造』第 3巻第8号(夏期臨時号)、1921年7月、p.12。 3)寄稿者とタイトルは以下のとおり。堀込義雄「金 井正さん」、山越脩蔵「哲学者としての金井正さ ん」、箱山貴太郎「資料から見た金井正」、猪坂 直一「自由大学と金井正氏」、尾崎英次「村長か ら晩年まで」。『上田市立図書館報』第14号、1964 年6月、所収。なお、堀込義雄については、拙稿 「上田自由大学受講者群像(1) ──宮下周、堀込 義雄の軌跡」(『長野大学紀要』第33巻第2・3号 合併号、2012年2月、所収)参照。 4)『思想の科学』第39号(別冊No.9)、1974年11月、 所収。なお小崎は、翌年『夜明けの星──自由 大学・自由画・農民美術を築いた人たち』(造形 社)を出版しているが、それは金井に光を当て たいわばノンフィクションの評伝であるが、史
長島伸一 金井正の思想と行動(1) ――大正デモクラシー期を中心に―― 135 料の裏づけを欠く部分がかなり含まれている。 小崎の評伝には山野晴雄の書評(『長野県近代史 研究』第7号、1975年、所収)がある。 5)大槻宏樹編『自己教育論の系譜と構造──近代 日本社会教育史』早稲田大学出版部、1981年、 所収。なお、金井正の簡単な紹介として以下の ものがある。『信州人物誌』(信州人物誌刊行会、 1969年)pp.133-34。山野晴雄「自由教育運動 を推進した人びと──金井正」『歴史公論』第83 号、1982年10月。『長野県歴史人物大事典』(郷 土出版社、1989年)p.194。『上田市誌』人物編 (上田市誌編さん委員会編、2003年)pp.48-49。 藤城優子「美術的社会運動家としての山本鼎─ ─鼎と上田の青年が描いた夢」山本鼎記念館、 2006年。 6)大槻宏樹編『金井正選集──大正デモクラシー・ ファシズム・戦後民主主義の証言』早稲田大学 教育学部大槻研究室(大槻ゼミ報告書「社会教 育の研究」特別号)、1983年。また、大槻宏樹編 『山越脩蔵選集──共生・経世・文化の世界』(前 野書店、2002年)には、金井の後輩に当たる山 越脩蔵の金井評が数多く含まれている。 7)山越脩蔵「金井正さんのこと」前掲『金井正選 集』p.11。 8)同前、p.12。 9)小崎『夜明けの星』巻末「略年譜」p.373および 前掲『金井正選集』「執筆目録」p.28参照。 10)「無我ノ愛」(1907年)『金井正選集』pp.40-41 参照。原文カタカナ表記。 11)神川郷土研究会編『神川村略誌』(1973年、p.186) によれば、図書数は和漢書2175冊、年間閲覧人 数756名とある。なお、小県郡役所『学務雑件綴』 によって青年会と文庫に言及した渡辺典子 「1920~30年代における青年の地域活動」『日本 教育史研究』第13号(1994年8月、pp.35-36)参 照。 12)金井「巡回文庫及巡回談話会」(1913年頃執筆?) 『金井正選集』pp.69-70参照。原文カタカナ表記。 13)「輸卒之回顧」(1909年6月執筆)『金井正選集』 p.45。原文カタカナ表記。 14)金井は入隊前に、神川中学会の送別会の席上で、 「私の今回の入営に就きまして、隠す所なく申上 ますと、私はあまり之を喜ばんのであります。 ……其最も有力なる原因は、自分が軍備縮小と 言う考を持って居ることにあります」と述べて いる(「入営之辞」1908年、『金井正選集』 pp.42-43)。 15)前掲「輸卒之回顧」p.45。 16)『霊肉調和と言ふ意義に就て』(1915年8月脱稿、 同年11月自費出版)『金井正選集』pp.77-78およ びpp.94-95。 17)同前、pp.79-81。 18)同前、pp.81-84。 19)同前、pp.84-87。 20)同前、p.78およびp.88。 21)同前、p.86。なお、金井の「経済思想の発達」 の第3段階におけるイギリスの植民地政策は、金 井の指摘に反して、オーストラリアやカナダな どの自治植民地に対するそれと、インドや中国 など対アジアに対する強圧政策との二重構造で あった点を看過することはできない。この点に ついては、拙著『世紀末までの大英帝国』(法政 大学出版局、1987 年)のpp.181-186 および 190-192を参照。 22)同前、pp.89-91。なお、金井は、西田幾多郎の 指摘、すなわち「絶対に客観的なるものもなけ れば絶対に主観的なるものもない、客観化の程 度の低きものは高きものに比較して常に主観的 である」という指摘を援用して、自己の主張を 裏づけている。 23)同前、pp.92-94。 24)「社会主義管見」1910年、『金井正選集』p.53。 原文カタカナ表記。 25)同前、p.58。 26)前掲『霊肉調和と言ふ意義に就て』、『金井正選 集』p.94。 27)同前、p.83。 28)前掲、小崎「農民哲学者」p.60。なお、西田と の交渉に当ったのは、後に自由大学の理事の一 人になる小県教育会の六川静治(1887-1959) である。六川は、金井より1歳年下の小学校の教 員および西塩田小、塩尻小、神川小、中塩田小 の校長を歴任した人物で、戦後は1947年から51 年まで県会議員を務めた。『信州人物誌』(信州 人物誌刊行会、1969年)pp.565-66および『長 野県歴史人物大事典』(郷土出版社、1989年) p.791を参照。 29)柳沢昌一「信濃自由大学成立過程の再検討」(『社 会教育の研究』第8号、1980年)および拙稿「自 由大学運動の歴史的意義とその限界」(『経済志 林』第74巻第1・2合併号、2006年)参照。 30)大槻編、前掲(注5)『山越脩蔵選集』p.64参照。 31)同前、p.65。同様の指摘は、『山越脩蔵選集』の pp.78-79にも見られる。 32)さしあたり、次の三著を参照されたい。山本鼎 『自由画教育』(アルス、1921 年)復刻版、黎明 145
- 78 - 書房、1972 年。上野浩道『芸術教育運動の研究』 風間書房、1981 年。金子一夫『近代日本美術教 育の研究─明治・大正時代』中央公論美術出版、 1999 年。 33)小崎、前掲「農民哲学者」p.60。 34)金井「日本農民美術研究所概要」1933年7月、『金 井正選集』p.120。原文カタカナ表記。 35)小崎『山本鼎と倉田白羊』(上田小県資料刊行会、 1967年)および同『山本鼎評伝』(信濃路、1979 年)参照。 36)金井、前掲「日本農民美術研究所概要」『金井正 選集』p.121。 37)金井「産業としての農民美術の成立に就て」『芸 術自由教育』第1巻第6号、1921年6月、p.15。『金 井正選集』p.98。 38)前掲『芸術自由教育』pp.16-20。『金井正選集』 pp.99-103。柳沢前掲論文(注5参照)も箱山前 掲稿(注3参照)も「人性の自然に根拠をおく仕 事」を「人生の自然に根拠をおく仕事」と引用 しているが、金井の原文どおりとすべきであろ う。 39 )金井「農民美術」1924年、『金井正選集』 pp.104-105。 40)金井「農村夜話」『農民美術』第1巻第3号、1924 年11月、p.12およびp.16。 41)金井「土産品を以て郷土を飾れ」『農民美術』第 2巻第3号、1925年3月、p.46。 42)金井「自給なき農村」『農民美術』第3巻第5号、 1926年12月、pp.12-13。 43)前掲「農村夜話」pp.15-16。 44)金井「手工教育雑感」『農美月報』第3号、1929 年1月、p.5。 45)金井「研究所ノ事業方針ニ関スル意見書」1932 年、前掲『金井正選集』p.116。原文カタカナ表 記。 46)前掲「日本農民美術研究所概要」『金井正選集』 p.120。 47)金井「日本農民美術研究所ノ目的及方法」1932 年、『金井正選集』pp.108および105。原文カタ カナ表記。 48)以下の指摘については「研究所ノ経験ヲ語ル」 1934年、『金井正選集』pp.157-162、および前掲 「日本農民美術研究所概要」1933年、同『選集』 pp.122-130を参照した。 49)前掲「日本農民美術研究所概要」1933年、『金井 正選集』p.127。 50)前掲「研究所ノ事業方針ニ関スル意見書」1932 年、『金井正選集』p.119。 51)金井「転向期の農民美術」『日本農民美術研究所 報』1932年11月、『金井正選集』p.130。 52)前掲「日本農民美術研究所概要」1933年、『金井 正選集』p.122。 53)前掲「転向期の農民美術」1932年、『金井正選集』 p.131。 54)前掲、小崎「農民哲学者」p.64。 55)なお、2万円の散財は、一軒の家屋が500円程度 で建設できた当時の金額である。中村実『信州 の木彫り 農民美術と共に』信濃毎日新聞社、 2006年、p.231参照。 56)山越脩蔵編『山本鼎の手紙』上田市教育委員会、 1971 年、p.320。なお、手紙の日付は不明であ るが、文中に「小生が農美の経営者である事な ど不快でせう。それで実は、四五日前金井さん と相談の結果農民美術研究所長を辞任致しまし た」とあるので、1931 年末に書かれたものと思 われる。 57)金井「農民美術研究所より」(一)『蚕糸』1922 年1月、pp.28-29。 58)農林省からの補助金は、1925年10月には8,000 円であったが、それが打ち切られる3年前の31 年10月頃、鼎は山越に宛てて次のように書き 送っている。「不幸にも、先月になって政府の赤 字補てんの為、農村振興費が大削減され、研究 所の如きも一挙2千円へらされてしまったので あります。民政党内閣になってから、これで3 回目の減額で、従来の半分になってしまいまし た」。前掲『山本鼎の手紙』p.324、参照。