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Wordsworthのストイックな思想 : 弟の死を中心に

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Wordsworthのストイックな思想

一二の死を中心に一

原 田

俊  孝

 Wordsworthの弟Johnは東インド会社の商船「アバガーヴァニー伯号」 (Earl of Abergαwenny)の船長として,1805年2月1日Portsmouthから3 回目の航海に旅立ったが,2月5日Portland Bill沖で難破し, Johnは船と 運命を共にした。  2月11日,このニュースがWordsworth家に伝わると,一家は「数日間泣          くばかりであった」。Wordsworth自身も2か月間「力がぬけ何も回復させる       の ことができない」ほどの衝撃を受けた。この事件によって,彼は精神的に致命 的な打撃を受け,彼はヴィジョンを喪失して保守的となり,キリスト教信奉へ と転向していったと一般的には考えられている。しかし,かかる割り切った解 釈は誤りではないが,飛躍の感をまぬがれないと思われる。 Wordsworthの初;期のヴィジョンの喪失は彼が当然たどらなけれぽならない 道程であり,たまたまその途上で今回の事件が起こった。仮りにこの事件が起 こらなかったとしても,彼の保守への転向は避けられなかったであろうこと       よわい を,またキリスト教信奉へと転向するセこはまだ齢を重ねる必要があったであろ うことを示すのがこの小論の目的である。 /) Mary Moorman, VVilliam Wordsworth: A BiograPhy, The Later Years, 1803−  1850 (Oxford: Clarendon Press, 1965), p. 35. 2) Elegiac Stan2as: Suggested by a Picture of Peele Castle, in a Storm, Painted  by Sir George BeaumOnt.35.(以下, Peele CastJeと略記する) 詩の題名はすべて  イタリック,邦訳は『』とし,行数を示す1,またはJl.は省略する。

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44 彦根論叢 第218号 工  WordsworthはJohnについて「私たちの心の誇りであり,喜びであり,今 までに生きた何人にも劣らずやさしく温順で,勇敢で,確固として高貴な精神        きう をもった人だった」と回想しているが,そのように「純粋な生活を送っていた        4) Johnがなぜ連れ去られたのか」σこれがWordsworthの心を激しく悩ませた。

兄Williamや姉Dorothy思いであった弟Johnの不慮の死はWordsworth

のこれまでの「死」の観念に反するものであったから,いやおうなく「死」の 問題と取り組まざるをえなくなっていたのである。現世と来世,アンチィセシ スといってよいが,この二つの対立する世界を如何に調和させるかという葛藤 が彼の心を苦しめていたであろうことは想像に難くない。  これまでの「死」の観念とは,『不滅のオード』(The immortality Odのに       ゆ みられるように,「暗闇」や「寂しい寝床」へ行くための「死」ではなくて,        ラ 「天上の光に包まれた夢のような輝きと鮮かさ」に充溢した霊的世界や,嬰児 が生まれる前の「胎児の世界」といった「めざめ」すなわち「よみがえり」の 世界へ行くための「死」一を意味していた。要するに,彼はこの世と対立する別 な世界を創造し,その世界は霊的世界であれ,胎児の世界であれ,それが超自 然的な「めざめ」た世界であれば何でもよいが,そこへ行くための「死」と考 えていた。言い換えれば,人間の心にもつ霊的性質,つまり,人間性をめざめ させる世界へ行くための「死」と考えていた。このように,「死」は彼にとっ て「人間性の法則」にぴったりとあてはまっていたから,この現世と別な世界 3)ユ805年3月7日付けのWordsworthからSir Walter Scott宛の手紙。 Ernest de  Selincourt(ed.)and Chester L・Shaver(rev・), The LettersげWiUiam andエ)orothy  I)Vordsworth, The Earl二y Years,1787−1805,2nd Edition(Oxford’Clarendon Press,  1967),p.553.(以下, EY.と略記する) 4)1805年3月12日付けのWordsworthからSir George Beaumont宛の手紙。 EY.,  p. 556. 5) Ode: Jntimations of Jmmortali’Ly from Recollections of Eargy Childhood, 117,  (以下,The JmmOrtaltty Odeと田各記する) 6) lbid. 4−5.

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とは有機的につながり,調和を保っていた。彼がこのときClarkson夫人に 「一般的な意味で『死の法則』は自分にあてはまらないので,それを受け入れ         のる気になれなかった」と述べたのは上述のことを如実に物語っていよう。  こういう考えを抱いていた時,今回の事件が起こった。兄夫婦やDorothy たちと同居する家を購入する資金を稼ぐ目的で,Johnは今度の航海に出たが, 実現できないままに死んだ。もしJohnが地上でこの目的を遂げた後死んだと 仮定したら,Wordsworthのこれまでの「死」の考えと矛盾しなかっただろ う。故に,Johnの「よみがえり」の世界への旅立ちを祝福できたであろう。 ところが,そうでなかったからこそ,彼の葛藤が生じたのである。Johnの死        みむね は善い世界へ導いた神の御旨,つまり神の摂理だとはどうしても信じられなか った。いや,信じざるをえないのか。いや,「彼が連れ去られたのは神の意志 お  だ」。かかる葛藤はWordsworthがこれまで保ってきたこの世ともう一つの世 界とのバランスを崩してしまった。この点は1805年3月12日付けのBeaumont 宛の手紙に明らかである Would it be blasphemy to say that upon the supposition of the thinking principle being destroyed by death, however inferior we may be to the great Cause and ruler of things, we have more of lowe in our Nature than he has? The thought is monstrous;and yet how to get rid of it except upoll the supposition of another and       の a傭8プωo盟Ido not see.(ltalics.Wordsworth) (私たちが事物の偉大な造物主や支配者よりいかに劣っていようとも, 死が思考する原理を破滅させると仮りに考えると,その造物主や支配 7)!814年付けのWordsworthからClarkson夫人宛の手紙。 Ernest de Selincourt  and Helen Darbishire(ed.), The Poeticag Works o/William Wordsworth(1947;  rpt. Oxford:Clarendon Press,1970), IV,464.(以下, PW.と略記する) 8)1805年2月23日付けのWordsworthからSir George Beaumont宛の手紙。 EY.,  p. 556. 9) EY. p. 556.

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46  彦根論叢 第2!8号  者よりも私たちの本性の方がもっと優れた愛をもっているというのは    ばうとく  神を冒節していることにならないでしょうか。かかる考えは不条理と  しても,別なより善い世界を仮定しない限り,この考えを脱する方法  が私には見つからないのです。) 「偉大な造物主」は理神論を,「支配者」は神の摂理を意味するとFairchildは        の       コ   り の 説明しているが,かかる神よりも「私たちの本性の方がもっと優れた愛をもっ ている」と仮定している箇所は,彼がこれまで求めてきた現世を中心にした人 間性のめざめの法則の表われである。一方,弟の死が「別なより善い世界を仮 定しない限り_脱する方法が私には見つからない」という箇所は,捌な世界 が人間性をめざめさせるところであるという外に,何か別な善い要素を含む世 界でもあると考えざるをえないことを示す。要するに,彼のいう「死の法則」 を受けいれようとする態度がうかがわれるのである。  しかし,彼が仮定法で述べていることは,まだ「死の法則」を全幅的には信 じていないことを示す。仮定法で述べることが,このとき彼が別な世界を「認          ユ  めようとする精一杯の」努力をしていたことになる。言い換えれば,死後の世 界を多少信じても,それを断言するまでには無論いたっていない。まさに彼の 心に別の新たな世界を意識したに過ぎない。今までの死の考えとは異なった死 後の世界への上昇道に一歩踏み出したに過ぎないのである。  彼の心の葛藤はまだ続いていた。「なぜJohnは連れ去られたのか」と。彼       ユ う は弟に一つの欠点があるとすれば,それは「少しせっかちな性格」であると指 摘する。当時航海で成功しようと思えば,その年々にインドへ(今回は中国へ 10) Hoxie N. Fairchild, Religious Trends in English Poetry (1949; rpt. New York:  Columbia University Press, 1970), III, 198. 11) Geoffrey H. Hartman, Wordszvorth’s Poetror, 1787−i8!4 (1964; rpt. New Haven:  Yale University Press, 1967), p. 287. 12)1805年3月12日付けのWordsworthからSir George Beaumont宛の手紙。 EY.,  p. 556.

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       13) も寄港するはずであったが)「一番乗り」しなければならなかった。そのあせ りから1月という非常に天候の悪い月に出航する羽目となり,今回の難破を招  14) いた。もし弟が「少しせっかちな性格」を抑えていれば,今回の悲劇が避けら れたかもしれないと,Wordsworthが悔んでももはやどうすることもできなか ったのである。  しかし,嵐による難破,それは自然からの教訓といってよいが,はやる心を 抑えることがいかに大切であるかを彼はこのとき痛感したに違いない。この点 は弟に関する詩や手紙に歴然としている。一例として,『幸せな戦士の性格』 (Character of the HaPPy Warrior)をここで取りあげてみよう。  立派な戦士とは,苦痛や恐怖や流血などが起こらないように人間性を最高に       1{, ) 発揮する我慢強い人でなければならない。「しぼしぼ自己犠牲が必要とされる」 につれ,次第に思いやりが深くなり他人を許せるようになる一 More skilful in self−knowledge, even more pure, As tempted more; more able to endure, 13) Carl 1{. Ketcham (ed.), The Letters of John VVordszvorth (New York; Cornell  University Press, 1969), p. 155. 14)難破の原因は無論暴風雨に巻き込まれたためであるが,2月1日に出港する前の一  週間の空模様について述べてみたい。Johnの手紙によると,1月23日までは「雪や  みぞれ」の混じった「激しい風」が吹き荒れていた。23日と24日は風がおさまったの  で,25日を出航日と決めた。しかし,25日は激しい風で延期する。次の出航日は28日  を予定するが,この日も「激しい風」のため再び延期を余儀なくされる。だが,29  日,30日は風が和いでいたのであろう,「3!日の朝も天気が良く,順風が続くので明  朝出港予定です」と兄宛の手紙に記している。こうして三度目にやっと出航したので  ある(CarL H. Ketcham, op. cit., pp,152−59)。以上のことから判断すると,2,3日  ごとに天候が崩れていることが分かる。従って,2月1日に天候が回復していても  4,5日後には天候の悪化が予測された。その危険を犯してまで出港したのは,前の  2回とも遅れたため,商売がうまくいかなかったあせりがあったのであろう。Words−  worthの妻Maryは「Johnの死はビジネスと深くかかわっている」と述べている  が,根本的にはJohnの性格に由来するといえよう。 Mary E. Burton(ed.), The  Letters of Marbl Wordsxvorth (Oxford: Clarendon Press, 1958), p. 2. 15) Character of the HapPy Warrior, 22.

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48 彦根論叢i第218号      As more exposed to suffering and distress;      Thence, also, more alive to tenderness.         (Character of the HaPPN Warrior, 23−24)  (〔自己犠牲の要請が〕増えれば増えるほど,一層自己を知り,一層純  粋にさえなる。苦しみや悲しみにさらされればさらされるほど,一層  我慢することができるようになる。それでまたやさしさに一層敏感に  なる。) この戦士はNelson卿を指すが, Nelsonの性格とJohnの性格とが多くの点         で類似するとWordsworthは指摘している。つまり, Nelsonの死がJohnの 死と重なり合っているのである。逆に言えば,Johnの死はNelsonの死にも 匹敵する。ということは,弟が死の最期まで自己を犠牲にして,乗船していた        ユリ 約400名のうちその半数を助けた。この事実は最期まで義務を果たしたことに なるから,彼の魂はNelsonのように「純粋」となり,「天のほほえみを信じ     ヱき  て息を引き」とったとWordswor thは考える。「天のほほえみを信じて息を引 きとる」とは,逆に言えば,自己の抑制が究極において,来世(別の世界)を 信じることにつながると考えたのである。弟がこの地上での目的を十分に果た せなかったことは,Wordsworthにとって無念であったろうが,弟はせめて死 の最期まで「義務」を十分に果たしたから,それでよいではないか,「地上の希        ラ 望をあまり思いわずらうなよ」と述べている。かかる考えはWordsworthの 思想の変化を示すものとして注目される。  こうして,彼は半ば来世を信じ,半ば禁欲生活を送る以外には自分の苦しみ から抜け出る道はなかったのである。これまで一般的な意味での「死の法則」 をあてはめる気になれなかった彼が,来世信仰は信じられても信念にまでなつ 16) PW., W, 419. 17) Mary Moorman, oP. cit., pp. 33−40. !8)  Character げthe .吻メ〕y 「VVarrior,83. 19) Elegiac Verses in Memory of my Brother, John V[lordsworth, 68−70.

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ていなかった。ということは,一般の人々が求める宗教への道程に立ったばか りであり,そこから「第2の一層高貴な生誕となって地上に再び生きるために       ..,再び神々しい上昇」道を登るには,まだ禁欲生活をしながら齢を重ねる必 要があった。かかるストイックな考えが彼の中期の中心的テーマとなるが,こ の点を次章で検討しよう。        皿       あるじ  いまや,Wordsworthは一家の主として悲しみに沈んでばかりいるわけにば いかなかった。妻や妹を慰めなければならなかった。逆に,早く気を取り戻し て『序曲』(The Prelude)の残りを完成するようにと,また弟が最期の瞬間ま        あかし で義務をすべて果たして死んだ証を立てるようにと勧められてもいた。この点

について,Dorothyは3月18日にBeaumont卿夫人に「Williamを元気づ

け,彼が計画している作品を完成させるようにし向けることが私自身の仕事で   ユ  ある」と言っている。ここでの「作品」とは無論『序曲』を指す。さらに3月 28日,同夫人にrJohnが私たちからいなくなったのは必ずしも価値がなかっ たというわけではない。Johnが死の最期に示したと同じ忍耐力を奮い起こす       ラ ことができるだろうと思う」と述べている。  こうして,実幽こは1805年4月の後半から5月にかけてr序曲』を完成させ た。さらに6月以後Johnに関する詩を書きあげたのである。 r序曲』につい ては後で述べるとし,ここでは弟に関する詩を中心に考えてみたい。それには まず『ピール城』(Peele Cαstle)を取りあげるのが最適であろう。        1794年の「夏の4週間」,Wordsworthが実際に見たピール城は「永遠のや   24)       25) すらぎ」を彼に与えた。城の周辺の海も「鏡のように」静かであった。これは 20) The White Doe of Rylstone or the Fate of the A(ortons, 1844−47. 21) EY., p. 567. 22) !bid., p, 574. 23) Peele Castle, 2. 24) !bid. 25. 25) Jbid. 4.

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 50 彦根論叢 第218号 自然の穏やかさと同時に彼の心の平静さをも示していた。  しかし,いまBeaumont卿の絵に描かれたこの城を見ると,その周辺の海    26)      2了) は「怒り」,城は「強風やとどろく波と戦っている」。この「怒れる海」や「と どろく波と戦」う城の姿は,まさにいま直面しているWordsworthの心を反         映している。彼はかつて「海にも陸にも決して存在しなかった光」を求めてい た。言い換えれば,この世を越えた崇高美を求めてきた。その時は「変わらぬ   ラ       きの 平和」をもたらしたが,いまではかっての平和も「詩人の夢」に過ぎないと思 われた。静かな海から怒れる海への変化は彼の思想の変遷をも象徴している。 ということは,この頃から「最高の地位を占めていた自然が,いまや第二の地      き  位に転落した」ということでもある。『ピール城』において,彼が     So once it would have been,一 ’tis so no more;     1 have submitted to a new control:        (Peele Castle, 33−34. ltalics mine) (かつてはそうであったろう一だがいまはそうではない。私は新しい 支配に従うにいたった。) と歌っているのは,まさに上述のことを示している。この詩やこれまでの考察 から判断すれば,弟の死がWordsworthをして「新しい支配」,すなわちスト イックな支配に従わせたことになる。  しかし,ストイックな考えは弟の死によって表面に現われたのではない。弟 の死の一年前(1804年)に書いた『義務へのオード』(Ode彦。 Duty)にすでに みられる。すなわち,この詩で彼は以前の思想を反省して, 26) lbid. 43. 27) lbid., 50−52. 28) lbid., l ro. 29) lbid. 32. 30) lbid., 16. 31)The Prelude(1805),237−39.(以下, The Preludeは1805年版を使用する)

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       1, loving freedom, and untried;       No sport of every random gust,        Yet being to myself a guide,       Too blindly have reposed my trust:        (Ode to Dutbl, 25−28) (私は自由を愛しながら,経験に乏しかったが,気まぐれな風のまに まに遊んだわけではない。とはいえ,自分みずから指導者となって, あまりに向こうみずに自信をもち過ぎていた。) と,述べている。 「あまりに向こうみずに自信をもち過ぎ」るほど「自由を愛 し」ていたので,いまや「自由」を抑制し,自信過剰を戒める義務があると考 えたのが『i義務へのオ・一A一ド』の主題であった一       O Duty! i f that name thou love       Who art a light to guide, a rod       To check the erring, and reprove;       (Ode to Duty, 2−4) (ああ義務よ。おまえがこの名を好むならば,導きの光にして,誤り を抑制し叱責するむちなるおまえ。) かつては自然が「導きの光」であり,「誤りを抑制し叱責するむち」であった。 しかし,いまは自然に代わって「義務」が「導きの光」となっていることが分 かる。ということは,「新しい支配に従うにいたった」と『ピール城』で断言 する前に,「新しい支配に従う」べきであるという主張がすでにみられるので ある。従って,『ピール城』において,彼が   welcome fortitude, and patient cheer, And frequent sights of what is to be borne!

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52 彦根論叢 第218号      Such sights, or worse, as are before me here.一      Not without hope we suffer and we mourn.        (Peele Castle, 57−60)  (忍耐や辛抱強い気構えよ,新しく耐えねぽならね多くの光景よ,ど  んどんやってこい。ここの私の目の前にあるような光景,いやもっと  悪いものをも希望を棄てず,われわれは忍びかつ嘆こう。) と歌うのは,彼のストイックな考えを一歩進めたに過ぎないと思われるのであ る。  では,この考えは1804年からはじまったのかどうかが問題となろう。実は, 彼のストイックな考えの源は『ピール城』や『義務へのオード』にあるのでは ない。もっとさかのぼらねばならない。例えば,1798年の『老人の旅』(Old Man Trawelling)において,老人が「長い間の忍耐で穏やかな落着きを与え       ヨ う られたので,忍耐はもう必要のないもののようにみえる」と述べている。ここ には典型的な老人のストイックな姿がすでにみられる。Wordsworthが1798年 に老人をこのようにみていたということは,裏を返せば,彼の潜在意識下にせ よ,ストイックな性質がすでにあったということになろう。  いや,幼少時代にすでにこの傾向がはっきりと認められる。少年の頃,彼は         ラ      はしばみ 「誘惑的な実の房」をたらしている榛の木の前で,誰もまだ手をつけていない       きの 「汚れなき眺め」を見ながら,     一A little while 1 stood, Breathing with such suppression of the heart As joy delights in; and with wise restraint 32)α4Man Travelling,9−12.(1800年版のLyrical BagladsではAnimal Tran・  quiltitツand Decay, a Sketchとなる) 33) Nutting, 20 34) lbid,, 21.

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     Voluptuous, fearless of a rival, eyed      The banquet;       (Nutting, 21−25) (一しばらくの間私はたたずんでいた,喜びにふるえる感情を抑え 息づかいながら。欲しいままの欲情を賢明に抑えて,競う相手の心配 もなく,この御馳走をじっと見つめていた。) 「この御馳走」を肉感をそそられながらも「抑え」た。ここにもストイックな 性格がはっきりと読みとれるが,どうしても食べたいという欲望もうかがわれ る。このような情熱と抑制というアンビバレンスの中で,このときは抑制が情 熱よりもやや強く働いたといえよう。しかし,この『木の実とり』(Nutting)        の詩の最後で,苦痛を感じながらも「容赦なく乱暴に」枝を下げて実をもぎ取       う っている。少年時代は「動物的な活動の時期」と言ったのはrティンタン寺院』 (Tintern Abbay)の中であった。要するに,『木の実とり』の中では食べたい 欲望には勝てなかったけれども,心の中では“inner check”が大いに働いてい たといえる。これが後の抑制へと結びついていくのである。 Wordsworthは大人になって幼少時代を回想し,        1 seem      Two consciousnesses, conscious of myself      and of some other Being.       (The Prelude, g, 31−33) (私は,私自身とある別の存在とを意識する二つの意識をもっている ように思われる。) と述べているが,かかる「二つの意識」とは情熱と抑制というアソビバレント 3s) Jbid., 44−4ro. 36) Tintern Abbey, 74.

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 54 彦根論叢 第218号 な意識であったと言い換えられよう。ここで重要なことは,この「二つの意 識」に気付いたのが大人になってからであるという点である。ここでの大人と は,1802年彼が32回目なったばかりのときであったと筆者は思うのである。つ まり,1802年5月に書いた『眠りに』(To SleeP)において,彼は      1 have no pain that calls for patience, no;      Hence am 1 cross and peevish as a child:       (To SleeP, 9−10) (私には忍耐を必要とする苦痛がない。そうなんだ。だからこそ子供 みたいに不機嫌にいらだつのだ。) と述懐し,「忍耐」の必要性にここではじめて気付いたのである。言い換えれ ば,忍耐や抑制は幼少時代にもあったことはすでにみたが,1802年前までは気 まぐれ過ぎて,抑制はあっても意識下に過ぎなかった。いまやそれを意識しは じめた。ということは,この年に抑制と情熱の「二つの意識」の微妙なアンビ バレンスの均衡が保たれたことになる。この均衡が崩れかけると,今までとは 逆に,抑制や忍耐をこれまで以上に強調してもし過ぎることはないと考えるの        ひるは至極当然であろう。『眠りに』と同じ頃に書いた『蛭取り老人』(The Leech− Gatherer)について,彼は老人の言葉を退屈だと言ったSara Hutchinsonに対 し, 「老人の性格がもっている不擁不屈の精神,独立,忍耐,倫理的威厳のす べてを深く汲みとって,あなたがそこから喜びを汲み出してくれることは,こ        う の上なく大切なことです」と答えているのは,まさにストイックな面を強調し たかったからである。  こうして,Wordsworthは蛭取り老人のストイックな姿を見て,「自己の戒 め」を「決意」し,新たな気持で「独立」しょうとした。まさにこの『決意と 独立』(Resolution and JndePendence)の詩をG6rardは「観念的直観力と倫理 37) EY., p. 367.

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       38) 的洞察力とのバランスを成し遂げた」と指摘する。彼の指摘は直観によって得 た崇高美と洞察によるストイシズムとのバランスを成し遂げたということにな る。  『決意と独立』の詩は“ten−syllable line”が詩型の基調をなすが,これと同 じ韻律でソネットを書きはじめたのも1802年である。先程のr眠りに』もソネ       39)ットである。ソネットを彼は「言語道断で馬鹿げた」ものとこれまで思ってい        40) たが,14行詩のもつ「強烈な統一感」の優れた点にこの年はじめて気付いてい る。これは詩型の面にも抑えようとするストイックな態度が表われているとい えよう。また『国家の独立と自由に捧げる詩』(Poems Dedzcatea to National IndePendence and Libertov)と題するソネットでも彼のバトリオティシズムが うかがわれるが,この中でも逆境のもとでの精神の自由とそれを抑制する忍耐 強さとのバランスを述べるのにソネヅトが最適であると考えたのは決して偶然 ではなかろう。これはまた散文『シントラ協定論』(The Conwention of Cintra) でナショナリズムを説く先鋒ともなる。  1804年,彼は『義務へのオード』で「あまりに多くの自由を重荷と感じた       41) 人」として,「私は無制限の自由に疲れ,気まぐれな欲望の重荷を感じる」と 歌った。同じ年,『不滅のオード』の最後の節で「後に残ったものに力を見    42) い出そう」と歌うが,この「力」とはストイックな力である。彼が若い頃,情 熱的に求めた崇高美に代わる償いはまさにこのストイックな力であったのであ る。 3s) Albert S. Gerard, Enggzsh Romantic Poetrov (Ber・ keley & Los Angeles: University  oi California Pr・ ess, 1968), p. 136. 3g)!822年4月20日付けのWordsworthからWalter Savage Landor宛の手紙。 Alan  G. Hill (rev., arr. and ed.), The Letters of Wzlliam and Dorothy Wordstvorth,  The Later Years, Fart 1 (f82f−1828), 2nd Edition (Oxford: Clarendon Press,  1978), p. 125. 40)1833年4月22日付けのWordsworthからAlexander Dyce宛の手紙。熾4., Part  JI (1829−1834), p. 603. 41) Ode to Duty, 37−38. 42) The lmmortality Ode, 184.

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 56 彦根論叢 第218号  結局筆者が言いたかったのは,Wordsworthのストイシズムは潜在意識下と はいえ幼少時代からずっとみられる。それが成人した1802年になって,彼の意 識にはっきりと昇り,情熱と抑制とのバランスを成し遂げた。ところが,1804 年頃からバランスが崩れはじめ,弟の事件以後,抑制すなわちストイシズムの 方が彼の意識の核心を占めるようになってきたということである。意識の核心 を占めるとは,これまでの自然に潜む崇高なヴィジョンの探求にあまりに「危       ラ 険な情熱」(dangerous passions)を注ぎ過ぎたことへの反省の段階に達して いることでもある。ということは,それとの決別をも意味する。そういう状況 の中で書いた『ピール城』において,      Farewell, farewell the heart that lives alone,      Housed in a dream, at distance from the Kind!      Such happiness, wherever it be known,     Is to be pitied;for’tis suエely blind.       (Peele Castle, 53−56) (さらば,さらば,ただ一一・一一人人々から離れて,夢の中に閉じこもる心 よ。そんな幸福はどこにあろうとも,哀れむべきだ。それは確かにめ しいたる幸福だから。) とは,まさに初期の崇高さとの決別である。  こうして,いまや彼は自分の性格を厳しく抑制していく。この点は彼の手紙 にもはっきりと表われている。例えば,1805年2月12日付けのSouthey宛に 「剛毅について,正しい時に,びっくりしてものが言えない苦しい時に,私は     ゆ       るの いや私たちみんながそれを示すことを望んでいます」 (傍点は筆者)と言い, また2月16日付けのClarkson宛でも「神が私たちに忍耐を授けて下さる,と 43) The Prelude, VII, 72. 44) EY., p. 542.

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       の いうのはこの世では何にもましてそれが必要だからです」(傍点は筆者)と述 べている。Southey宛の手紙で主語の「私」が「私たち」と言い換えられ,ま たClarkson宛の手紙でも「私たち」と言っている点を見逃してはならない。 なぜなら,ここにはWordsworthが自己中心性から決別して,「人聞らしくな った」ことを示すからである。  1814年のr遺遙』(The Etzrcursion)の序文において, r序曲』は「自分の能       ラ カが十分に熟していると不遜にも思ったときまでの精神史である」と述べてい るが,この言葉は『序曲』だけでなく,初;期の詩全般にあてはまる。1818年に        るの KeatsがWordsworthの詩を「自己中心的崇高さ」(egotistical sublime)と呼 んだことは周知の通りである。Keatsの批評に対し, Wordsworth自身がすで にそれ以前に気付いていたということになるのである。  Bulletは,かつてのWordsworthは熱情的で動物的なエネルギーに満ち, 自然に潜む歓喜を強烈に求めていたが,そういう性格を厳しく抑制しようとし た。その抑制があまりに徹底的であり過ぎたため,自己を坐折さぜてしまつ         なき  たことを述べている。Bulletとは反対の意見を述べているSpurgeonは「神秘 的な幻視を獲得するためには...自己を抑制しなければならないという事実を Wordsworthは繰り返し説いている」と言った後,「力強い元気な動物の原始 的本能」に含まれる情熱的な歓喜は「それ自体,善であって,Wordsworthは それを砕いてしまおうとはせず,むしろ慎重に扱って,より高次な水路へと出          ラ ロを変えようとした」と述べている。 45) lbid., p. 545. 46) PW., V, 2. 47)1818年10月27日付けのKeatsからR. Woodhouse宛の手紙。 Lord Houghton(ed.),  The LiL17e & Letters of John Keats (!927; rpt. London: Everyman’s Library,  1969), p 133. 48) Gerald Bullett, The English A4ystics (1950; rpt. Pennsylvania: Felcroft Library  Editions, 1979), p. 191. 49) Caroline F. E. Spurgeon, Mysticzsm in English Literatzere (1913; rpt. New York:  Kennikat Press, 1970), pp. 64−65.

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 58 彦根論叢 第218号 Bulletは抑制しようとしたことがWordsworthの詩的ヴィジョンの衰退につ ながると指摘するが,一方Spurgeonは抑制することが詩的ヴィジョンの獲得 につながると指摘する。このことはBulletがWordsworthの初期の「自己中心 的崇高さ」を中心に考えるのに対し,Spurgeonは宗教家として自制がWords−       5D) worthの「浄罪過程」(purgative stage)に不可決な要素だと考えたからだと 思われる。Wordsworthのストイシズムを論ずる場合,このように全く正反対 の意見があることをわれわれは心に留めておかなければならない。       皿        51)  「執拗にいつまでも胸をつきさす私個人の悲しい時期に書き進められた」と Wordsworthは『序曲』で述べているが,ここにいう「悲しい時期」とはJohn の死を指す。この時期に彼はヴィジョンの衰退を意識しながら,幼少時代を回 想することがヴィジョンを取り戻す唯一の道であると考えている。この回想 は,いわゆる「時点」(spots of time)と呼ばれる想像的ヴィジョンの瞬間で ある。その例を二つあげている。一つは6才に満たぬ頃,Penrith近くの「国 境ののろし台」(Border Becon)へ出かけた時,昔罪人が処刑された遺跡に迷       らのい込んだときの恐怖の体験が,後に「黄金の輝き」(golden gleam)となった ことである。もう一つは(これが重要なのだが),13才の時,クリスマス休暇 で下宿から帰るための迎えの馬車を待ちきれず,早く見たい一心で嵐の中を岩 山の頂上に登った。帰宅後,10日もしないうちに父親が死んだことへの回想で ある。迎えを待ちこがれた少年Wordsworthの焦燥や不満が彼に「一種のこ        うおう らしめ」(Achastisement)を与えたのは「月並みな道徳的反省」(trite reflec一         tions of morality)であるかもしれないと述べている。迎えの馬車を待つ焦燥 50) Jbid. 64. 51) The;‘Prelude, XIII, 415−19. 52) rbid., M, 323. 53) lbid., M, 370. 54) lbid., M, 373.

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や不満がなぜ「こらしめ」になったのか。『序曲』を読んだだけではよく理解 できない。  実は,ここでは父親の死がJohnの死と微妙に重なり合っていたと思われ る。つまり,Johnが早くインドへ行きたいという「せっかちな性格」を抑え ていれば,難破は避けられたかもしれな:いということはすでにみた。はやる気 持を抑えることの必要性を痛感していたWordsworthが,13才のときの出来 事を回想し,あのとき早く帰れなかったことへの不満と,父親の死とを結びつ けた時,そのあせりを抑えなかった罪の意識が彼の心に「こらしめ」となって 現われたと考えられる。  “Return to childhood”への二つの例は, Wordsworthの初;期の思想,言い 換えれば,1804年に書いた『不滅のオード』(後半)の思想の延長上にあると いえるが,13才のときの父の死の例に「いささか陳腐な教訓臭すら感じられ ヨら  る」のは,ストイックな考えが『序曲』にも微妙に表わされているからだと筆 者には思われるのである。  また,スノードン山頂への登山において,「利己的な情熱」を取り除き「最         高に高められた理性」である想像力によって,「知的な愛」「果てしない生命の  5ア)      58) 実感」,「無限と神との思い」をもたらしたと述べている。かかる考えは彼の初 期の特徴である汎神論的思想といえるが,「利己的な情熱」との決別の意識は 彼の性格を厳しく抑制した『ピール城』の詩と類似している。『序曲』の1805年 版と1850年版を比較すると,「知的な愛」が「宗教的な愛」に,「果てしない生 命の実感」が「果てしない生命の信仰」へと,書き換、えられているが,1850年 版にみる宗教思想にいたるには人生経験をさらに積む必要があったのである。  いまや,崇高美を求めた自己中心的な初期の天上的な世界から,人間的苦悩 に満ちた地上へと下降し,ストイックという「一つの新しい支配」に従い,「人 55)栗山稔『ワーズワス『序曲』の研究」 (東京1風間書房,昭和56年),383頁。 56) The PreJude, XII工,186. 57) lbid., XIII, 183. 58) lbid., XIII, 183−84.

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 60 彦根論叢第218号 間らし」くなったWordsworthの運命の変転が明らかになったと思われる。 これから先,彼は「残されたわずかの力」をたよりに禁欲生活を送り「精神的        ヨのな巡礼」(spiritual pilgrimage)へと再上昇して行くのであるが,かかる道程は 彼の詩の本質がたどらなければならない自然な過程でもあったのである。  こうして,彼のストイックな考えは,Johnの死後長期にわたって彼の詩作 の根底となる。例えば,エミリーが苦悩に耐えることによって慰めや平静な境 地が得られるというrリルストンの白鹿』(The White Doe of Rツlstone)の主 題の先触れとなり,さらに『遣遙』へと結びつくのである。また,社会的立場 からみても,科学技術の進歩の中で科学を抑制し,その抑制と均衡を保つ想像 力のバランスこそ,理想社会の原型とみようとした『シントラ協定論』への先 鋒となるのである。これらの作品については別の機会に検討したい。 59) Mary Moorman, op cit., p. 52.

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