学 会 集 報
学
メL -;i::5;.葉
報
理 事 会附和三十六年度
︿第三回﹀ 昭和三十六年十一月七日 一、第九回大会に関する件 大会を昭和三十七年四月七、入日に専修寺本山におい て開催することに決定。両日のプログラム原案在検討 協 議 す る 。 ︿第間同﹀ 十 二 月 二 十 一 日 於 大 谷 大 学 図 書 館 会 議 宗 一 、 昭 和 三 十 六 年 度 会 計 中 間 報 告 ︵ 十 二 月 三 十 一 日 け 現 作 ︶ 二、第九回大会に関する件 前問の理事会において審議された大会日釈について何 度 協 議 を 行 な う 。 一 一 一 、 事 務 引 継 ぎ の 件 次回大会の運営に伴い、木日をもって大谷大やより龍 谷大学に事務を移管すら。 ︵尚第て二同の記事は前号に掲載済み︶ 於大谷大学関書館会議室 一 三 四昭和三十七年度
︿ 第 一 一 間 ﹀ 昭和一二十七年四月七日於専修寺大講堂控室 て第九回大会進行に関する件 三、学会運営に関する件 ︿第二回﹀ 七 月 五 日 於 龍 谷 大 学 図 書 館 応 接 室 一、﹁真宗研究﹂第七輯編集に関する件第
九
回
大
会
昭和三十七年四月七、八日 三重県津市一身回専修守 第九回大会は高岡派本山における親驚聖人七百回大遠忌法一安 泰賓の意をもって、専修寺において開催された。 ︿ 第 一 日 ﹀ 問 月 七 日 公 開 講 演 会 於 専 修 寺 大 講 堂 一 、 太 子 へ の 親 近 高 田 派 鑑 学 一 、 親 鷲 聖 人 の 人 間 像 大 谷 大 学 教 授 一 、 禅 と 真 宗 念 リ ム 玩 龍 谷 大 学 長 文 学 博 士 羽 松 生i
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原 桑 完明氏 祐善氏 了諦氏聴講者約二百名、折りからの大遠忌法要に参訴した人々が 終 始 熱 心 に 耳 を 傾 け た 。 懇 親 会 於 専 修 寺 賜 春 館 学会員相互親睦のための懇親会を午後五時より開く、高田 派法主貌下及び新門様を迎え、川瀬理事司会のもとに和気 謁々の中に進行、七時に会を閉じた。 法 要 参 拝 懇親会終
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後、大師堂におけら第二日中法要に参作すら n 解 散 後 駅 前 の 旅 館 に 分 祈 ︽ ︿第一一日﹀問月八日 研 究 発 表 於 高 田 学 苑 講 常 半前九時より午後三時まで次の八氏の研究発表が行なわれ1
、 浄 土 論 に 於 け る 一 心 と 唯 高 田 学 会 小 一 安 道 生 識教学2
、 宗 唯 一 品 品 目 的 軒 町 山 中 崎 市 l i 大 谷 大 学 日 井 元 成 3 、 開 一 輔 教 学 に お け る 方 便 の 龍 谷 大 学 普 賢 大 円 4 、 時 間 ほ 政 暗 殺 立 過 程 に 高 田 学 会 話 繁 三 5 、 宗 祖 の 釈 尊 出 世 素 壊 の 意 表 同 朋 大 学 山 上 疋 尊 6 、浄土教思想史における易 行 品 と 浄 土 論 の 地 位 名 古 陸 大 学 上 田 義 文 7 、 慶 信 宛 蓮 位 添 状 の 文 中 私 見 大 谷 大 学 細 川 行 信 8 、 真 宗 の 宗 風 木 辺 派 増 山 順 信 会 員 総 会 於 高 田 学 苑 講 堂 研究発表の中聞において十一時より約一時間、学会会員総 学 会 奨 報 会 が 次 の 如 く 開 か れ た 。 第一部 一 、 開 会 の 辞 て勤行︵嘆仏偏︶ 一 、 挨 拶 一 、 挨 拶 て 祝 辞 一 、 祝 辞 第二部 一、座長推挙藤島理事を推挙 一、昭和三十六年度会務、会計報告 一、次年度大会々場の件 事務局より次年度大会々場について興王寺本山を予定 しその内諾をえている旨を発表、全員の賛成をえた後 輿正寺宗務総長の挨拶を受ける︽ 一、学会費値上げに関する件 佐藤理事より学会々計の現状について説明あり、昭和 三十八年度より年額五OO
円に値上げ案を提出、全員 の 賛 成 を え て 可 決 す る 。 一 、 閉 会 の 辞 佐 藤 理 事 記 念 撮 影 研究発表終了後如来堂前にて一同記念撮影を行なう正 法 要 参 拝 大師堂における親驚聖人七百回大遠忌法要に全員参拝‘以 上をもって第九回大会を終了する。 調 /f 佐 藤 理 事 大 原 理 事 長 大 原 理 事 長 高 田 派 法 主 貌 下 仏光寺派法主貌下 三門徒派波多野宗務総長 稲葉 理 事 二 ニ 五学 会 実 報 第九回大会記念品解説 紙 本 墨 書
親鷺聖人真筆見聞集
専修寺蔵重要文化財
二冊よりなっており、第一冊の一冗表紙には﹁見聞集 L 、 第 二 冊 の元表紙には﹁浬柴経﹂、と外題を記しており、従来一冊ずっこ の外題の名で呼ばれて来たが、次に一記すような成立過程から二 冊一括して﹁見開集﹂と呼ぶことにした。共にタテ三三・八棚、 ヨコ一回・六摘の寸法で、第一冊は本文三O
葉、第二冊は本文 墨付六七葉︵うち別筆一葉︶、白紙三葉よりなっている。 ︹表紙︺現在の表紙は江戸時代に新補された鍛子表紙で、元 表紙は中に綴じ込まれており、第一冊のものは本紙と同質の格 紙で袋綴とし、中央に﹁見聞集﹂、左下に﹁愚禿親驚﹂と墨書 があり、筆跡も聖人のものとして間違いない。紙背に﹁期今日 至宝国実是裟婆本・::﹂と﹃般舟讃﹄の文が四行だけ記されて いるロその筆致は、穂先の切れた筆を用い、後に述べる本紙の ﹃五会法事設﹄などの筆致と共通し、ほぼ同時期の聖人真筆で あ る 。 第二冊のもと表紙は二枚あり、第一表紙は寅梨地紙を料紙と し、中央に﹁浬繋経﹂、左下に﹁釈顕智しと思書されている。 その筆跡は、専修寺所蔵﹃教行信一証﹄︵重文︶の教巻及真仏七 巻にある要人入滅記事を記した奥書と同筆である。この筆跡は 従来高田派第三世顕智上人筆といわれてきたが、疑問がある。 第二表紙は、白紙の中央につ浬奨経﹂、左下に﹁愚禿親驚 L と 一 一 二 六 思 一 書 し 、 中 央 下 部 に コ 局 回 専 修 寺 し の 里 山 印 が 捺 さ れ て い る が 、 料紙の紙質も本紙と異り、筆跡も明かに後世のもので、室町時 代 と 考 え ら れ る 。 ︹本文︺さて本文は格紙の表一一両面に墨書されており、袋綴 の折目は切り開かれ、綴孔が三つずつ紙の左右両側に並んでい る。いうまでもなく、三つ孔綴は聖人の時代によく行われた綴 じ方である。どうしてこのような形になったかについて次のよ うに推測できる。即ち、聖人は六十三才の文暦二年︵一二三五 年︶、同じ法然門下の法友聖覚法印の死を聞いたことが思い立 つ原因となったのであろう。彼の著書で前々から深く傾到して いた﹃唯信紗 L を、袋綴の冊子に平仮名混り文で書写し、これ に﹁文暦二年乙未六月十九日、愚禿親驚書之﹂と奥書した。そ して続けて、かつて法然上人の仏事に際して聖覚が作った表白 文と、聖覚が六条宮雅成親王にあてて記した消息とを書きつけ た ο その後どれほどか経って、聖人に﹃五会法事讃﹂を書写す る必要が生じたが、あいにく手許に適当な用紙がなかった為、 先に書写した﹃唯信紗﹄などの紙背を利用しようとした。しか し紙を裏返して綴じ直し、﹁唯信紗﹄の方を全くの反古にして しまうのは困る、ということもあったのか、綴紐をはずして袋 綴の折目の方を綴じ、胡蝶綴のような格好とし、そこに現われ た紙の一一面に書写しようとしてみた。ところが、それでは﹃唯 信紗﹄の方は頁と頁の続き具合が逆順となってしまうので、止 むを得ず、元の綴じ方にもどし、袋綴の折目を全部切り放っ て、その中へ書写したのであった、というのではなかろうか。 このとき書写したものは三つに大別できたらしい、が、その第一 の も の は わ か ら な い 。 第 二 の も の が ﹃ 一 札 会 法 事 讃 ﹄ で 、 第 一 一 一 のものが﹁担架経﹄の要文と、ある人の夢の話とであった。そ してこの紙背書によって一冊のものを三つに分冊した。もっと も聖人自筆の表紙しか残っていないところな見ると、聖人は第 一 と 、 第 三 、 三 と の 一 一 分 冊 に し た の か も し れ な い 。 そ し て そ の 第一分冊は今は失われて、第二分冊、第三分冊のみが伝えられ て い る 。 ︹筆跡︺紙表﹃唯信紗﹄の方は筆の穂先のよく効いた筆致 で、晩年の筆跡に較べて若さがある。これに対して紙背書の方 は穂先の切れた筆を用い、やや渇筆で、筆致は異るが、それほ ど晩年の筆とも思われない。したがって表と裏との書写の聞 に、それほど大きな年代のへだたりはなさそうな感じがする。 ︹奥書等︺奥書としては、寸唯信紗﹄末尾にこの複製写真に 示す奥書があるのみである。この奥書のうち﹁御年五十五也﹂ と、聖覚の﹃唯信紗﹄稿了の年令を示したものと、﹁文麿二年 三月五日御入滅也﹂の聖覚往生忌日を記す文字は明かに別筆で あるが、第三行の﹁寛喜三歳::・﹂の一行は文句なく聖人真筆 で、ただ他とは別時追筆と考えられる。﹁承久三歳:::﹂から ﹁草本書写之﹂までの四行が原本の奥書であったことは、専修 寺蔵聖人真筆﹃唯信紗﹄︵童文︶にもこれがそのまま記されて いることから問題はなく、この一行を書き落したことに気付い て、あとから挿入せられたものであろう。 奥書の他に、先般第一冊﹃五会法事讃﹄の第一頁綴じシロよ り、﹁嘉禎三年八月六日一﹂と墨書した小紙片を発見した。わ ずかタテ九・山側、ヨコ一・五岬のもと押紙かまたは符筆紙か 学 会 見 繋 報 と考えられる紙片で、筆跡は聖人とは思われないが、その時代 のものである事は問題江さそうである。従ってこの年時が何を 意味するかは大きな問題であるが、年記の下に﹁ごとあるの を﹁一校了 L の意味にとれないこともないので、﹁五会法事 演﹄書写ののら、対校した日付ではないか、と怨定しておきた い 。 ち な み に 嘉 禎 三 年 ︵ 一 二 三 七 年 ︶ は 文 暦 一 一 年 の 翌 々 年 で 、 聖 人 六 十 五 才 に 相 当 す る 。 ︹内容︺①﹃唯信紗﹄については今更記すまでもない。聖人 は何度もこれを書写しておられるが、いずれも片仮名混り文で あるのに、これだけが平仮名混り文である。もっとも消息を除 いて、これが聖人の唯一の平仮名文でもある。第一冊には﹁ぬ へし、二心あると一心なると::・﹂より、﹁::しりてか罪志 のみなれは﹂まで、第二冊には﹁すくわれかたしとおもふへき ・﹂より末尾まで、を収める。これ以外のところは今は散侠 してしまっていること、前述の通りである。 ②﹃聖覚法印表白文﹄は、建暦二年一二月一日、法然上人の六 七日忌に際して、導師をつとめた聖覚の表白文であら。聖人は 叶尊号真像銘文﹄にも、聖覚の銘文としてこの文中の一節を収 録し、和讃にもこの表白文中の字句をとり入れておられる。 ③﹃聖覚法印消息﹄は、承久の変に坐して但馬国に流されて いた後鳥羽上皇の皇子六条宮雅成親王が、念仏の用意につい て、聖覚法印に質問した手紙に対する聖覚の回答で、承久三年 十二月十九日付のもの Q ④﹃五会法事讃﹂は、念仏道場に於て、念仏勤行を修する法 式作法と、読請する各種の讃文とを類集したもので、唐の大隈 一 三 七
学 会 奨 報 元年︵七六六年、支那衡山の般舟道場において法照によって作 られた。慈覚大師円仁が日本に伝え、その音律は叡山の常行三 味堂に於て行われていた。そこに青年の習学時代を過した聖人 にとって、なじみ深いものであった筈である。なお﹃五会法事 讃﹄には、一巻本と二巻本とがあるが、ここに書写されたのは 内題にも明記せられているように、一巻本である。 ⑤﹃浬柴経﹄には、北涼曇無識訳のいわゆる北本と、宋惹厳 等訳の南本とがああが、ここに書写されたものは南本である。 ⑤﹃或人夢﹂は、夢の中で後鳥羽上皇が聖覚法印を﹁釈尊﹂ として礼拝した、という説話であるが、出典は明かでない。 以上の全文は﹃親驚聖人全集﹄写伝篇
2
に複刻収載されてい ス 九 ︹摘要︺﹃唯信紗﹄の書写された文暦二年前後に、聖人は関 東より帰洛せられた。書官 7 年時の明らかなこの頃の聖人真蹟と して唯一のもので、他の聖人真蹟の年代判定の基準ともなり、 また聖人帰洛年代論の一つの資料ともされている。 紙背の﹃五会法事讃﹄﹃浬紫経﹄については、﹃教行信証﹄と の関係から、しばしば学者によって論議されている。 いま昭和三十七年間月、真宗連合学会第九回大会一記念品とし て、﹃唯信紗﹄本文一葉、同奥書一葉、﹃五会法事讃﹂巻頭一 葉、﹃浬繋経﹄巻頭一葉、の川葉を選び、実物原寸大コロタイ プ 複 製 に よ り 刊 行 す る 。 ︵ 高 田 学 会 平 松 令 三 ︶ 一 三 八 A 五計
報
畳二 仁1 計 計 計 昭 和 十 ,\ 年 度 昭昭 和和 十十 七 六 年年 三同 月月 凶 五 工 一 山 八 三 ムへ
Q Q
日日 記とト七三二モ石
一 入 九 円 円 円 収 入 合 支 出 合 差 引 合収
入
の
部
前年度繰越金 会費収入 第八回大会収入 各本山助成金 雑収入 合 計支
出
の
部
会議費 事務費 通信費 交通費 第八回大会開催費 記念論文集刊行費 ﹁真宗研究﹂第六輯印刷放びに発送費 慶弔費 合 計 九二、九九四円 九四、八CC
円 一 七 六 、 七OO
円 一 一 二 九 、 五OO
円 二 六 、 一 一 山 五 円 江 三O
、 h 三九円 一 五 、 山 五 五 円 一 二 、 八 五 五 円 三 、 一 一 七 七 円 一 一 一 、 一 八 五 円 一 一 心 七 、 九 六 六 円 A L ’ し 、 4 、 ﹂ 、 \ ノ P 1 l ’ J 一 イ ノ ﹂ ノ ﹂ ノ ﹁ \ U l 一 六 五 、 九 二 一O
円 一 二 、0
0
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川 川 八O
、間二八円註 : : : 差 引 残 額 川 九 、 七 一 一 円 は 昭 和 一 一 一 十 七 年 度 会 計 に 繰 越した。尚、第八回大会の収支の内訳についてはす でに前号において報告した如くマある。
第九回大会会計決算報告
︵ 昭 和 三 十 七 年 川 月 七 ・ 八 日 ︶。
収
入
の
部
大会参加費 懇親会費 昼食弁当代 高田波特別補助金 収入合計 八 V支
出
の
部
印刷費 通信費 昼 食 弁 当 代 ︵ 八 日 ︶ 懇 親 会 費 ︵ 七 日 ︶ 交通費 講師謝礼 記 念 品 代 ︵ 大 会 参 加 ︶ 徽章費 事務用品費 雑 費 支出合計 九、九OO
円 九 、 三OO
円 五 、 三OO
円 問問、七O
一 円 六九、五O
一 円 二 四 、 一 一OO
円 五、六四O
円 入、九OO
円 一 九 、 六OO
円 六、六八O
円 七 、0
0
0
円 三三、九六九円 八九三円 五 八O
円 六 五O
円 一O
八、一一一円 学 会 集 報 差 引 ︵ 不 足 ︶ 二 一 八 、 六 一O
円 備考不足金は昭和三十七年度通常公社より支出すぶこと に理事会でポ認 一七 日仁 h. 、 、J 一 三 九学 会 奨 報
新
役
員
名
簿
︵
組
耕
一
F d
諸 問
︶
顧問︵略︶ 参 与 本願寺派宗務総長 大 谷 派 宗 務 総 長 官同回派宗務総長 仏光寺派宗務総長 輿 正 派 宗 務 総 長 木 辺 派 宗 務 総 長 誠照寺派宗務総長 出雲路派宗務総長 三門徒派宗務総長 山一五派宗務総長 龍 谷 大 学 長 大 谷 大 学 長 岡 朋 大 学 長 京 都 女 子 大 学 長 高 学 会 事 事 目Jiロ
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旧 理 理 訪I
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太 回 覇 信 淳 雄 昭 証 言 山 信 暁 長 長 梅 物 園 部 井 波多野 清 高 増 ハ 曾 中 a , a A a’ 山 大 生 藤 名 泉 原 自 山 焔 江 桑 音 上 我 暁 義 淳 義 良 道 祥 照 ι士, 刀ミZ 良 珠 恭 雄 応 淳 完 得 正 量 顕 祐 忍 尊 深 順 誠 明 一 四 O 理事長 大 原 理 事 稲葉秀賢、藤島達朗、松原祐善︵以上谷大︶大原性実、宮崎 円遵、佐藤哲英、普賢大円︵以上飽大︶川瀬和敬、平松令三 ︵ 以 上 高 田 学 会 ︶ 性 実 評議員 稲葉秀賢、藤島達朗、松原祐善、一二日間彰英、日野環、赤松 俊秀︵谷大︶大原性実、宮崎円遵、佐藤哲英、大友抱漢、小 笠原宣秀、普賢大円︵龍大︶川瀬和敬、平松令二一、岩田繁三 竹内光範、玉樹真染︵高田︶橘純孝︵同朋大︶土井忠雄 ︵京女大︶森脇一掬︵佐賀龍谷短大︶山本正文︵大谷専修学 院︶石田瑞麿︵日本教学研究所︶佐々木求己︵真宗史研究 会︶佐々木篤祐︵仏光寺派︶岡修︵輿正派︶一‘村龍辛 ︵木辺派︶大悟諦現︵誠照寺派︶池聴水︵出雲路派︶林 精 専 ︵ 三 門 徒 派 ︶ 肉 店 祐 恭 ︵ 山 一 冗 派 ︶第九回真宗連合学会 大会記念写真