6
2012
こべる刊行会NO. 2
3
1
自分史のこころみ⑪ 周縁世界に生きる人びとに寄り添う マグダレナ三千代 『こぺるj終刊に寄せて③ 私も「ひと区切り」つけることにしよう 阪 本 清 『こぺるj終刊に寄せて④ 出発点としての 『こぺるj 恩 智 理 いのちを生きる⑪ 「寛解ですJ
と告げられる 長 谷川洋子 〈幻の銀河〉 ー写真と文 小 林 茂写 真 と 文 一 小 林 茂
「日本人のお前が行けて、在日のおれは行くことができない
j (韓国話加島。済州市郊外。寒風のなか農作業する婦人たち。 1981年2月) 学生時代。京都のおもしろいアパ「卜の一室。鍵はなく、部屋に入ると冷蔵庫に紙が貼つであ る。「中のものは自由に食べてください」。たいしたものは入っていなかったが。その住人の一人 が在日韓国人(以下在日)だった。名字の「文」からとって「ふみさんjが呼び名であった。し かし、あるとき、 「おれは、ムンキジャだ」と韓国名を名乗り、 「だから、呼び名はムーン(= 月)にするjと言‘った。 卒業後、カメラマンを目指した。初めての仕事が、韓国の政治犯救援のスライド慢影だった。 私が渡航の準備をしていると、ム←ンさんはこう言った。 「日本人が韓国に行けて、われわれ在 日は行くことができない。親は済州島出身だが、おれは行ったことがない」。 ぷ さ ん 仕事の撮影が終わった。私はどうしても済州島へ渡りたいと思った。夜、釜山の港を出た。嵐 に船は大揺れ、吐きまくった。介抱してくれたのは、「浅草で焼肉屋をやっている」というおじ さんだ‘った。済州島の入管で別室へ入れられたときも助けてくれた。パスを乗り継いで、 2日間 で島を一周した。韓国最高峰の説遥山(1,950m)があり、火山の島だった。田畑の境界に火山 岩が積み上げられていた。済州島は日本人からは遠いが、在日にすれば近しいものだった。日本 には済州島出身者が多いのである。自己史のこころみ⑪
周縁世界に生きる人びとに寄り添う
マグダレナ三千代 ﹃こぺる﹄への感謝の思いを伝えようとしているうち に、生活のひと区切りとしてこれまでの自分を振り返る ことの大切さを痛感しています。そして、今、私は果た して部落問題に関わってきたのだろうかと自問している と こ ろ で す 。 新聞配達に明け暮れた十年 私は戦後第一次ベビ l ブ l ム時代の一九四八年、北九 州市合併以前の八幡市で生まれました。いわゆる団塊世 代に属し、男一人、女四人の末っ子でした。 父は随分前に東京を離れざるを得ず、母の身内を頼っ て九州まで来た人です。路面電車の通りに面した新開店 の一つを任されていました。家は店舗つきの八畳一間と 粗末な台所があるだけの借家でした。 母の早い死は、私にとって奈落の底に突き落とされた一 ような体験となり、カトリック教会に通っていた姉たち一 について行き始めたのは十一歳の時でした。 日本の経済成長が進むと同時に新聞配達に来る子は段々 といなくなり、私は十一歳から父が医療ミスで急逝する一 までの十年問、朝夕、初めの内は一OO
部、後になって一 か ら は 二OO
部の新聞を配る毎日に追われて、学校生活一 は、部活とは無縁で朝五時に起きて二時間以上走り、ご一 飯をかきこんで登校する始末で、毎日遅刻寸前。学校に一 は不本意ながらも寝に行っているようなありさまでした。 夜は夕食が終われば眠りたいだけ。宿題はかろうじて何一 とか済ませましたが、﹁四当五落﹂、つまり睡眠四時間で一 合格、五時間寝ていては不合格と言われていた競争社会一 こぺる 1とは関係なく、その周縁にいたのだと思います。夢は寝 たいだけ眠ることでした。私は狭い世界の中で同じこと の繰り返しの日々に決して満足してはいなかったのです が 、 そ れ が 現 実 で し た 。 姉 た ち が 結 婚 し た 後 、 父 と 私 の 二 人 だ け の 生 活 と な り 、 父は毎日の晩酌が楽しみで、酔いが回ると、どちらかと 言えば陽気になるタイプでしたが、時にはポツリポツリ と自分の辛かった体験を語ることがありました。若かっ た私にはそれが愚痴のように、また同じことを繰り返し ているとしか聞こえなかったのです。十五年後、父の ﹁愚痴﹂が人生に重大な意味を持って私の内に再現され る こ と に な り ま す 。 受洗、そして障害者施設へ 父の死後、洗礼を受けましたが、なぜか知的障害のあ る子供たちと生きたいと望むようになり、まず長崎の修 道会経営の大きな知的障害児の施設で働くようになりま した。子供たちは大好きだったのですが、十三時間の拘 束、四日ごとの夜勤という重労働に、小さな私の体は耐 えられず、二年半後、身体を壊し北九州に戻りました。 しかし、一年も経たないうちに、再度﹁知的障害のあ る子供たちと生きたい﹂という望みが起こり、市の試験 年齢制限を越えていたのですが、受験を許され、恐らく一 体 験 を 買 わ れ た の で し ょ う 、 雇 一 周 さ れ ま し た 。 視 覚 障 害 一 と、中にはかなり重度の知的障害を持つ子供たちのいる一 施設に送られました。そこは重複障害のある全盲の子が一 一人で出かけて行って池に落ちて死亡するという痛まし一 い事故の後で、市と職員との間で責任を問う闘いの渦中一 に あ る と は 知 り ま せ ん で し た 。 私は新しい職員たちよりさらに遅れて働き始めました一 ので、自己紹介の時に、私が日頃思っていること、子供一 のために必要ならば行政に交渉する心づもりがあると正一 直に言ったことが、賛否の波紋を引き起こしたと、後に一 生涯の友となる同僚が伝えてくれました。私は、障害の ある子供たちと一緒に生きたいと、人はみな考えると思一 い 込 む ほ ど 社 会 を 知 ら な か っ た の で す 。 家族的な雰囲気のあるこの施設で障害児と寝起きを共一 にしながら子供たちとの関わりを通して社会の矛盾、差一 別問題に少しずつ目が聞かれて行きました。そして、視一 覚以外の感覚を通して子供たちの世界が広がって行く工一 夫を一緒に探すことは、とても楽しかったのです。頭と一 心が深呼吸を始めたような爽やかさでした。 被差別部落に住む子、炭鉱住宅に住む子、韓国人の父一 親を持つ兄弟三人がいたのですが、私の鈍いアンテナは一 部落問題をキャッチできませんでした。むしろ子供たち一
が巣立って行く時、全盲の子供たちが自活できる用意を する方が気がかりでした。行政にとっては﹁指導効果の ない﹂子供は福祉の無駄使いのようで、一人の職員を確 保し続けることは大変な闘いでした。率直にありのまま でぶつかって来る子供たちの在り方が私を変えて行き、 五歳の女の子は私に母の喪失の傷を気づかせてくれまし た 。 施設は墓地に近く、以前は火葬場もあった所で、すぐ 近くに朝鮮総連系の人たちの市営アパートがありました。 ある日一人の人が指紋押捺反対の署名を願うために来た のですが、その時の施設長の冷ややかな対応が私にかえっ て 関 心 を 引 き 起 こ さ せ た の で す 。 その時から在日の人たちが心にかかり、学校では決し て習うことのなかった韓国と日本の歴史を本で知るよう になるにつれ、在日韓国・朝鮮の人びとにどうしても出 会いたいと思うようになりました。ちょうど、北のスパ イ容疑で拘留されている在日韓国人留学生の支援活動の 始まりのころでした。在日の人たちは政治活動に参加で きない状態に置かれているということすら知らない程に 私は無知で、そこに行けば会えるに違いないと同僚と二 人で参加するようになりました。ビラ配りや、映画上映、 ハンガーストライキの支援等々を一年半ほどした後、い つも行動を共にしていたこの同僚がある日、﹁私がそう ょ。今までは言えば関係が終わりになったからね﹂と打一 ち明けてくれました。私は彼女がこの一年半、どういう一 想いでいたかと考えると、﹁いろいろ辛かったやろね﹂ としか言えず、後は涙でした。彼女とは人間の深みで出一 会 え た と 思 っ て い ま す 。 一 この活動を通して、私は社会が﹁極左﹂と呼ぶ人たち一 に出会いました。私は、いろいろなグループがあること一 も、お互いが対抗し合っていることも知りませんでした。 出会った二人は印刷工場で働きながら活動していた夫婦一 です。わたしは、﹁このご夫婦は、活動を通じて人間関一 係を生きようとしているのだ﹂と感じました。彼女は一 ﹁キリスト信者は一点の非の打ちどころのない人﹂と錯一 覚していたのか、﹁あなたが教会に行けるのなら、私だっ て行けるわね﹂と言い、﹁北九州に来て得た成果は、あ一 なたたち二人に出会えたことだ﹂とさえ伝えてくれまし一 た。また一方で、労災認定申請を始めることにした、別一 の障害児の施設で働いていた教会の友人を支えることを一 通じて出会った人たちは、社会に全く疎い私たちに忍耐一 し、自分たちのやり方を押し付けるのでもなく二年以上一 も、労災認定に漕ぎつけるまで手伝ってくれました。 当時の教会は社会から遊離していましたので、そうい う意味では、私は教会の中でも周縁にいたのかも知れま一 せん。それが社会の周縁に自分を置き、無私で何かのた一 こぺる 3
めに自分を賭ける人たちに出会わせたのだと思います。 この出会いは、私の中で今も大事なものになっています。 京都での暮らし その後、私はキリストに従う道を選、び、﹁イエスの小 さ ん や さい姉妹﹂という修道会で生き始めました。東京の山谷、 わ つ か な い 北海道の稚内で生活した後、修練期の問、他の姉妹たち と私が、物事の見方や、捉え方や、感じ方が、どうして こんなに違うんだろうという漠然とした不安のようなも のがありました。その時に気づいたのは、入会以前の友 人は自分が選んでいたこと、そして今は道を共にする人 たちを与えられたということでした。 その後、京都市東三一条の被差別部落で焼け出されて京 都駅のすぐそばにある東七条の被差別部落に引っ越した う ち お家︵トイレも共同という小さな借家︶に派遣されまし た。﹁十年経たんと関係は生まれへん﹂と言われていま したし、住所を言えば部落、だと分かり、やんわりと断ら れて、仕事を見つけるのは大変でした。近所の人に勧め られて駅弁の大きな会社に行ってみるとすぐに雇われま した。不思議に思っていたら、隣近所の人たちが数人働 いていることが分かったのです。このことを通して少し ずつ言葉を交わすことができるようになりました。 と町内に住むお年寄りたちに集会所で踊りを教える人に一 頼まれ、毎週一度、ご飯とお味噌汁を作る手伝いと後片一 付けをしながら、段々そこに溶け込んで行きました。 一緒に生活していた姉妹から投げかけられた、﹁あな一 たは在日韓国・朝鮮の人たちと共に生きたいと言うけれ一 ど、私にはあなたは障害のある人たちにもっと惹かれて一 いるように見える﹂という問いが、私の内部で感じてい一 ることを明確にさせてくれました。障害のある人たちへ の思いから、障害のある子供たちの側に身を置いて生き一 ることは、私にとってはごく自然なことでした。それが一 周縁の世界に身を置くことへの始まりだったのかも知れ一 ません。在日の人たちへの思いは自分では抗し難いもの一 で、自分の奥深い所にある何かに駆り立てられるような、 自分があるべき場に向かうという感覚でした。後になっ て﹁民の記憶﹂という言葉に出会った時、﹁これなのか一 も知れない﹂と思ったのです。私の内に刻まれている一 ﹁民の記憶﹂が私を差別される人へとどうしょうもなく一 引 き 寄 せ る と 言 い ま す か 。 一 ある日、その踊りの先生のお姉さんが亡くなり、近所一 でもあるので﹁宗旨は違うけどお祈りに行っても構わな一 いか﹂と尋ねると、喜んで迎えてくれました。みんなが一 そ れ
唱和するご詠歌を聴きながら、ふと提灯の家紋を見て釘 付 け に な っ た の で す 。 ﹁ 何 で 我 家 と 一 緒 の 紋 な ん や ろ ? ﹂ 。 ﹁左三階松だ。格好いいだろう﹂と父が自慢していたこ と を 思 い 出 し た の で す 。 父 の 故 郷 へ その日からこのことが頭から離れなくなり、私たち姉 妹の住まい﹁共同体﹂にあった部落問題に関する本を丁 寧に読み始めました。そしてあるペ
l
ジに、私が小さい 時から疑問に思っていた答えを見つけたのです。 父は十人兄弟の末っ子で、みんなの位牌を仏壇に守っ て い て 、 私 は 時 々 叔 父 叔 母 の ﹁ 捨 吉 ﹂ 、 ﹁ 捨 五 郎 ﹂ 、 ﹁ 捨 ﹂ という名前を見ながら、何で祖父母たちは自分の子供の 名前に﹁捨てる﹂という漢字を使っているのかという疑 問 を 抱 い て い ま し た 。 それからは、既に他界して十五年経っていた父との会 た ぐ 話の記憶を手繰り寄せ、聞き流していた父の言葉を聴き とり直す作業を続けました。子沢山で貧しく、学校に行っ ても昼食は水だけの日もあったこと。軍隊でどんなに努 力しても上等兵以上には決してなれなかっこと。そして 軍隊でひどい扱いを受け、上官が見かねて相手をたしな め た 程 だ っ た と い う こ と 。 そ の 相 手 に 出 会 っ た ら殺すかも知れない﹂。普段は決して人を悪く言わない 父の口から出たこの烈しい言葉を聞いたことを思い出し た 時 、 ハ メ は 差 別 と い う 言 葉 を 決 し て 使 わ な か っ た け れ ど 、 ちゃんとサインを出していたのだと思い至ったのです。 私は何故父が出していたサインを受け取れなかったのか。 父は﹁どうして?﹂と聞いてほしかったのだろうか。そ れは、後悔しながらも、父との出会い直しの旅の始まり で し た 。 ﹁ 4 h U 7レ 、 責任者の姉妹に伝えると、 ﹁ こ の こ と を は っ き り さ せ ん と 、 あんたにとって修道生活どころやあらへん﹂ 被差別部落の人びとと関わっていた教会の人に一 いろいろ相談したり、考えたりしたあげく、父の故郷に一 直接行って確認することになったのです。 埼玉県と群馬県の境にある二つの川に挟まれた小さな一 父がここを出て既に五十年が経っていました。家一 突然会いた一 ま さ れ 、 部 落 。 族・親族に会うつもりは全くなかったのに、 く な り 、 行 っ て み る こ と に 決 め ま し た 。 町 内 に 入 っ て 間 も な く 、 九十歳以上と思えるお婆さん を 見 か け 、 思い切って父の名を言ってみたところ、 よ く こ~る 覚 え て い て 、 すぐ親族に当たる人のところに連れて行つ て く れ ま し た 。 行 く 途 中 、 ﹁ ほ ら 、 土手の上にあるホル 5モン焼きの店。あれもあんたの親戚の人の店よ﹂と教え て く れ ま し た 。 親族に当たるという店の人は、父の名を覚えていませ ん で し た 。 ハ メ が 東 京 で 小 さ な 洋 裁 店 を し て い た と 言 う と 、 突然﹁ああ。兄さんや。東京見物させてやるからと呼ん でくれて。連れあいに死なれて小さい子供二人抱えて、 おまけに満州で死んだ兄さんの連れあいが結核で二階に 寝 て い て 、 そ の 面 倒 も 見 な き ゃ な ら な い か ら 大 変 だ っ た ﹂ と言う。私は父がその義姉のことを気の毒だったと話し て い た の を 思 い 出 し 、 こ の 人 は 間 違 い な く 親 族 だ と 分 か っ ても、ここが部落なのかどうか、まだ決めかねていまし た。すると間もなく一人の年配の男性が野菜を届けに来 ました。何となく父の面影を思わせると伝えると、﹁イ ヤ。私は遠くから来たから何の関係もないよ﹂と柔らか に否定した途端、父の姪に当たる人が﹁何言ってんの。 今 で こ そ 、 外 に 嫁 に 行 っ た り 、 外 か ら 来 た り も す る け ど 、 昔はみんな内々でしていたんじゃない。関係ないなんて 言えるわけがない﹂と切り返したのです。 私は心の内で﹁ああ、これでいい﹂と、何かホツとす る思いになりました。この男性は既に他界していた父の 従妹との結婚でここに来た人でした。その人は﹁引っ越 した時、お骨も持って行って、墓石だけだけど﹂とすぐ 親族の墓地に連れて行ってくれました。お寺とは全く離一 れたほんの小さな一角にある墓地でした。その日はそこ一 に泊めていただき、祖父が子供たちに賭けごとを非常に一 ば く ち 厳 し く 禁 じ て い た の は 、 曾 祖 父 に 当 た る 人 が 博 打 打 ち で 、 祖父は警察の下で働く役目があり、自分の父親が博打を一 打っているところに捕縛に踏み込んだとても辛い体験を一 それとなく父が話していたことを思い出していました。 こうして私は父が出すサインを十五年も経って不思議一 な仕方で受け取りました。私がキリストに従う道に入つ て い な か っ た な ら 、 京 都 に 派 遣 さ れ る こ と が な か っ た ら 、 恐らく何か感じていたとしても、生涯知らぬまま過して一 しまったことでしょう。長々と書いてしまいましたが、 この過程は私にとって父と出会い直し、私の出自を遡る一 一 年 半 の 道 の り で し た 。 一 私にはショックは全くなく、むしろ自分の中で感じて一 いた感性の違いから来る不安の雲聞が切れて青空が見え一 始めたとすら感じたのです。とは言え、自分の出自を真一 実に受け入れる私の歩みが始まります。それは同時に白一 分の感じ方を姉妹達に要求しないということでもありま一 した。その時、自分の中で何か軸のようなものが動いた一 と感じたのですが、その体験が何なのかは今も言い表せ一 な い ま ま に ま す 。 一
﹃ こ ぺ る ﹄ と の 出 会 い 東七条に住み始めて十年目、京都市の駅前開発計画で 家主さんが借家を売ってしまい、私たちは京都駅を挟ん で 反 対 側 の 九 条 に 引 っ 越 し ま し た 。 家主さんは小さなお好み焼屋をしていて、私たちその 並びの借家の一番奥に住んでいました。生活し始めて一 年経つか経たない時、こう問いかけられました。﹁あん たら人がょう交代するけど、ここやから続かへんのか﹂ と。確かに姉妹たちが入れ替わり立ち替わりしていまし た。﹁お母はん。違うねん。私ら零細修道会やろ。若い 人が養成のために動かなあかん時、一つの駒が動いたら 全部の駒が動くことになってしまうねん﹂と言うと、彼 女は部落の貧しい家族から嫁いで来てとても苦労したこ とを話してくれました。それからしばらくして﹁人はよ う代わるけど、そうやって人が代わっても、日本人ゃな い人でも一緒にそうやって生きれるんやから凄いことや ね﹂とぽつりと言ってくれました。 ある年の台風の時、夜中にすごい音がしてトタン屋根 がめくれ始めました。どうしようと表に出て砂袋でも乗 せてと思っていたら、家主さんの家族全員が起きてきて、 とび職の娘婿さんが暴風の中、屋根に上って釘で打ちと一 めてくれたのです。家族のようでしたので怒られる時に一 も 遠 慮 な し で し た 。 私はすぐ近くにウエスト︵機械類の汚れを拭き取るぽ一 ろ切れ︶を作る作業場を持つ韓国人の夫婦に雇われまし一 た。ある日、奥さんが﹁ A さ ん が な 、 N 子さんは日本人一 みたいやねって言うてん﹂。私は少し腹が立ち﹁何やの一 それ!まるで日本人の方がいいみたいな言い方ゃん?﹂ 彼女はとても真面目な顔で﹁ほんまにそう思うん?﹂ ﹁当たり前ゃないの。腹立たたへんの?﹂それからは関一 係が変わって行きました。二人は日本人女性と結婚した一 息子さんに願われて一緒に帰化申請を始めたところでし一 た。ある日、ご主人が﹁帰化の希望理由を書かなあかん一 のやけど、何て書こうかな。まさか良い日本人になりた一 いですとは書けへんし﹂。私が﹁こう書いてみたら。私一 らが何で今になって帰化申請せなならんのか考えたこと一 ありますか﹂と言うと、﹁何やそれ。お願いやなしに喧一 嘩をふっかけるみたいやな﹂。﹁書けるものならそう書き一 た い わ ﹂ と 奥 さ ん 。 一 そしてやはり十年目、開発計画で家主さんは借家を売一 ることになり、私たちは、また引っ越さざるを得ません一 でしたが、引っ越すたびに友人が増え、関係はずっと続一 こぺる 7
き ま す 。 ﹃こぺる﹄に出会ったのもこの東九条だったと思いま す。地域の子供たちの学童保育をしているカトリック教 会の﹁希望の家﹂にたまたま行った時、置かれていた ﹃ こ ぺ る ﹄ を 読 み 始 め て 何 か を 見 つ け た と 感 じ た の で す 。 部落問題は人間の問題、人間関係の問題と感じ始めて いた時で、﹃こぺる﹄は人と人との関係についての投稿 が続いていたと記憶しています。読みながら自分の体験 と合わせて﹁そうだ!その通りだ!﹂と相槌を打ちなが ら 読 ん だ こ と を 覚 え て い ま す 。 も ろ お か す け ゆ き ある日、﹃こぺる﹄の発行責任者だった師岡佑行さん に ど う し て も 尋 ね た い こ と が あ っ て 、 教 会 で 講 演 を な さ っ た時に時間がなかったのでエレベーターの中で質問しま した。とても簡潔明瞭に答えて下さり、つけ加えて言わ れ ま し た 。 ﹁ あ な た た ち の 生 き 方 で い い ん で す よ ﹂ 。 こ の 一言は確かな支えとなっています。ただそこに共にいる という私たちの生き方は、何もしていないかのように感 じてしまう時があるからです。その後、私は会のための 仕事を願われ、日本にいる時が年に半分ほどになり、そ の後さらに日本から離れてロ l マ で 六 年 間 生 活 し ま し た 。 けれど十二年間、全く異なることを生きていたわけでも なく、姉妹たちが生きている先々で出会うのは社会の周 縁に置かれている人たちです。私たちの創立者はフラン一 ス人で全ての境界、社会的な階層であろうと、民族間の一 分離であろうと、人と人とを分ける障壁に我慢ならず、 自分で越えて友情を通してそれを無化しようと生きて、 私たちに道を開いた人でした。私は六十二の国籍の姉妹一 たちが六十三の国々に行って生活している国際的なほん一 の 小 さ な 修 道 会 に 属 し て い ま す 。 一 今、私は会のための仕事を終えて日本に帰る前に数カ一 月間の時を過しているのですが、まずは日本人の姉妹に一 交代してここ北アイルランドのベルファーストから一時一 間ほどの所にある、以前英軍の基地で兵士達の宿舎だっ た住宅の一画にある小さな共同体の一員として、掃除と一 ベ ッ ド メ l キングの仕事を三か月間するために来たつも一 りが、ここでもまた差別問題に出会うことになり、来た一 の は 交 代 の た め だ け で は な か っ た と 痛 切 に 感 じ て い ま す 。 知っていると思っていたアイルランド紛争の背景にある一 侵略と収奪に次ぐ周到な差別は人と人とを分離し、その一 歴史は様々な仕方で残っています。ここでもまた神は意⋮ 表をつく仕方で私のまなざしを聞かせました。そしてそ一 れは日本に帰ってからも続くに違いないと楽しみにして一 い ま す 。 ︵ 北 ア イ ル ラ ン ド に て ︶
﹃ こ ぺ る ﹄ 終 刊 に 寄 せ て ③
私
も
﹁
ひ
と
区
切
り
﹂
っ
け
ることにしよう
阪 本 清 ︵ 松 江 市 在 住 ︶ ﹃こぺる﹄最終号まで一年を切った。いかにも藤田さ んらしい終わり方だと思う。藤田さんの五十年を超える 部落問題とのかかわりの ﹁ ひ と 区 切 り ﹂ と い う 意 味 が こ め ら れ て い る の 守 た ろ う か 。 京都部落史研究所︵師岡佑行所長︶ の ﹁ 所 報 ﹂ と し て 発行されていた﹃こぺる﹄が廃刊となった直後の一九九 二年初夏、藤田さんは復刊を呼びかけた。私もその呼び か け に 応 え た 一 人 で あ る 。 一九九三年四月、全国の知ら ないものどうしが基金︵一口五千円︶ を出し合って刊行 会をつくり、部落問題を中心にしながら﹁人間と差別﹂ 問題意識に基づいて企画されたものであるが、読者の興一 味・関心を惹き付けたことは間違いない。 私も藤田さんから﹁阪本君、原稿を書いて!﹂と会う一 たびに声をかけられ、あるいは電話をもらい、拙い文章一 を寄せてきたが、自分の思いを人に伝える難しさを改め一 て 痛 感 し て い る 。 一 最高部数は千部超、現在は七百数十部とのこと。一億一 二千万の人口で、この部数が多いとみるか、少ないとみ一 るか。しかし、私は、この時代に自分の意思で郵便局に一 足を運び、年間四千円を郵便振り込みをする人がこれだ一 けいること自体が凄いことだと思う。おそらく藤田さん一 は、振り込み用紙のコメントを楽しみにしてきたのでは一 ないか。藤田さんはコメントには必ず葉書で返事を出す一 の あ り ょ う を 考 え る 媒 体 と し て ﹃ こ ぺ る ﹄ は 復 刊 さ れ た 。 これまで誌上に掲載された数々の対談は、藤田さんの と い う 。 その﹁筆まめ﹂ぶりには驚くしかない。 こ~る 毎年三月末に開催される総会には一度しか出席したこ とがないので、読者層についての詳しい情報を持たない 9が 、 発 行 当 初 は ﹁ 義 理 と 無 理 ﹂ で付き合った人もいたこ とだろう。時がたち、適正な部数に落ち着いたといえる か も し れ な い 。 店 じ ま い に な る と 、 とたんに閉店を惜しむ人が押し寄 せ る の が 世 の 常 だ が 、 ﹃ こ ぺ る ﹄ に つ い て は 、 そんな心 配は不要だろう。仮にそうなっても、 ﹁ 頑 固 一 徹 ﹂ な 藤 田 さ ん の こ と 、 だ か ら 終 刊 の 決 断 が 揺 ら ぐ は ず が な い 。 終刊にあたり、残念なことがひとつある。それは、私 が一番楽しみにしてきた尼崎市の中村大蔵さんの文章が 読めなくなることだ。中村さんは覚えておられないかも しれないが、何かの集まりのとき、今は亡き師岡さんに 紹介してもらったことがある。その風貌、人柄とともに、 中村さんが特別養護老人ホ
l
ムにおける様々な出来事を 語 る 文 章 に 、 ﹁ 人 間 と し て 生 き る ﹂ とはどういうことか を教えられてきた。特別養護老人ホl
ムという﹁閉ざさ れた空間﹂は、外の世界からはわからないことが多いが、 中村さんの文章からは何よりもお年寄りの生活のにおい が 感 じ ら れ 、 その内容にいつも刺激を受けてきた。それ 一 九 七0
年 代 か ら 八0
年 代 に か け て 本 屋 で 大 き な ス ペI
スを占めていた部落問題のコーナーは年々小さくなり、 今や片隅におかれている。昔日の感がある。そんな情況一 の 中 で 、 A 5 判、わずか十六頁の月刊誌が終刊を迎える一 のはやむをえないのかもしれない。昔、先輩から﹁本は一 カネを出して読め﹂と教えられた。年間四千円、ひと月一 コーヒー一杯分だ。身銭を切って買い、毎月読むことが一 大切だと考えてきた。﹃こぺる﹄には﹁身銭が取り持つ一 購読者が同時に発行者でもあるような雰一 だ け に 、 ﹃ こ ぺ る ﹄ の 終 刊 が 惜 し ま れ て な ら な い 。 縁﹂というか 囲気がある。世の中が変わったといえばそれまでだが、 そ の ﹁縁﹂がどこかで再び繋がることがあるかもしれな ぃ 。 東 日 本 大 震 災 後 、 マスコミで盛んに﹁紳﹂が叫ばれ て い る が 、 ﹁ 紳 ﹂ で簡単にくくれない関係が﹃こぺる﹄ に は あ っ た と 信 じ る 。 私は今年、還暦を迎える。藤田さんと同様、 こ こ で ﹁ ひ と 区 切 り ﹂ つ け て 一 か ら 出 直 す つ も り だ 。﹃ こ ぺ る h 終刊に寄せて④
出発点としての
﹃
こ
ぺ
る
﹄
恩 智 理︵高校教員・堺市在住︶ 一九九三年四月に出された第二期﹃こぺる﹄ l 号の巻 頭には、﹁﹃こぺる﹄の再出発にあたって﹂という、恐ら く藤田敬一さんの手になる文章が掲げられている。多少 長 く な る が 、 そ の 官 頭 を 引 く 。 人はなぜ差別をするのか。この単純で素朴な疑問に 答えようとして、どれほどの言葉が費やされてきたか、 想像もつきません。人間は差別するようにできている との意見から、階級社会が存続するかぎり差別はなく ならないとする意見まで、さまざまな議論がくりひろ げられ、差別解消のための取り組みも試行錯誤を重ね ながら途絶えることなく続けられてきました。差別に かかわって、いまや人権は現代を読み解くキl
・
ワ
ー
ド と さ え い わ れ て い ま す 。 しかし、表面上の賑わいにもかかわらず、情況はい一 よいよ混沌の度を深めているかにみえます。部落問題一 にかぎっていっても、無関心と過剰反応が織りなす奇一 妙な光景を前に、戸惑い、困惑している人はけっして一 少なくないというのが実情でしょう。使いなれた発想、 理論、思想の枠組みを問い直さなければならないとこ ろにきているのです。﹃こぺる﹄廃刊から一年、あら一 ためて再出発する理由はここにあります。 復刊﹃こぺる﹄の目指すものをこれほど簡潔に、また一 的確に標梼している文章はない。しかし残念ながら、私一 たちは今、十九年前とあまり変らぬ場所に立っているよ一 うに見える。と言うのは、﹃こぺる﹄が果敢に取り組ん一 だ問題関心を踏まえるどころか、むしろ避けて通るよう⋮ な言説しか目に入って来ないからである。例えば今年の一 三月五日から八日まで朝日新聞夕刊に連載された﹁私た一 ちの水平社宣言﹂を読んでも、既成の枠組みに対する懐一 疑 心 を そ こ に 読 み 取 る こ と は 難 し い 。 一 断っておくが、私はそこに登場する部落出身の若者や、 この記事を書いた記者の善意を疑いたいわけではない。 むしろそういう善意は、私のようなひねくれ者よりも、 こ"'る 11彼らの方がよほど持っているのだろうと、冗談ではなく 真剣に思う。ただ、私は善意があるだけでこの複雑な問 題が解決できるとも考えていない。結果として、このよ うなアプローチには、もはや興味が持てないのだ。 私見では、部落問題は︵あるいはそれ以外の差別問題 も︶、近代国家の﹁分類癖﹂とも言うべきものと深い関 係があって成立したと考えている。近代国家は暖昧さを 嫌った。ある者は A で あ る か B で あ る か の ど ち ら か で 、 その両方であるという多義性は忌避された。 せ つ ぜ ん その結果、人間はまず自国民と他国民に裁然と分けら れた。それだけでなく、自国民も様々なカテゴリーに分 類された。その分類にあたって、当事者の主体性は必ず しも尊重されない。紙数の制限があるので詳しく論じる ことはできないが、ベネディクト・アンダーソンの﹃想 像 の 共 同 体 ﹄ ︵ 書 籍 工 房 早 山 ︶ や ﹃ 比 較 の 亡 霊 ﹄ ︵ 作 品 社 ︶ を読む限り、それは後進国としての日本に特有の現象で はなく、イギリス・フランスのようないわゆる西側先進 し ゅ く あ 国を含めた、近代国家全ての宿病であったかのように思 われる。近代国家は従って、暖昧さのない、一義的なア イデンティティを、その前提としてきたと言える。 だ が 部 落 解 放 運 動 は ︵ あ る い は 大 多 数 の 反 差 別 運 動 も ︶ 、 この枠組みからどれほど逃れることができただろうか。 自分が﹁部落民﹂であることを絶対視し、そのことによ一 り、全てにおいて自分の優位性が確保されると考えた時、 彼または彼女は、自分がただ秩序を逆転させただけで、 近代国家の枠組み自体をむしろ忠実になぞっているに過一 ぎないことにどれほど気付いていただろう。 確かに水平社宣言にも、﹁吾々がエタである事を誇り一 得る時が来たのだ﹂とは書いてある。一見、この言い方一 は、﹁部落民﹂であることの優位性を高らかに謡ってい るかのようにも見える。しかし水平社宣言の真意とは、 他者とのコミュニケーションを拒絶するような貧しいも一 のだったのだろうか。宣言の中で﹁人間﹂という、本来一 は人と人との間の関係・社会という意味を持つ言葉が、 何度も繰り返されているのは、いったい何のためだった⋮ の だ ろ う か 。 一 一方、﹃こぺる﹄はかかる資格・立場の絶対化に疑問一 を呈し、人と人との関係を変える可能性を一貫して模索一 してきた。例えば私が﹃こべる﹄に書いた初めてのメイ一 ン論文に藤田さんがつけてくれたタイトルは﹁人と人と一 また、アイデンティティの暖一 むしろその中一 の ﹃ あ い だ ﹄ ﹂ で あ っ た 。 昧 さ を 認 め 、 そ の 矛 盾 を 安 易 に 解 消 せ ず 、
に 踏 み と ど ま る こ と を 勧 め て き た 。 ﹃ ﹁ 部 落 民 ﹂ と は 何 か ﹄ というタイトルを持つ本も、そうした議論の中から生れ て き た の で あ る 。 それは多義的なアイデンティティを認め、場違いであ ることを好むようになったと自伝の末尾でも告白した、 パ レ ス チ ナ 系 ア メ リ カ 人 、 エドワード・サイ
l
ドの態度 とも共通する姿勢であった。彼の自伝﹃遠い場所の記憶﹄ ︵みすず書房︶の原題は﹁場違いな感じ﹂とでも訳すべ きものである。また、在日朝鮮人・韓国人の世界でも、 パラムの会の安田直人氏が同じような問題に取り組んで い た こ と を こ こ で 指 摘 し て お く 。 一九九八年に公刊された﹃︿日本人﹀の境界﹄︵新曜 社︶の中で、﹁﹃日本人﹄であって﹃日本人﹄でないとい おぐまえいじ う位置﹂の持つ可能性に注目した小熊英二氏も、よく似 た問題関心を持っているように見える。彼はその中で、 ﹁ ﹃ 日 本 人 ﹄ で あ っ て ﹃ 日 本 人 ﹄ で な い と い う 位 置 ﹂ lま ﹁ 無 権 利 状 態 や ア イ デ ン テ ィ テ ィ ・ ク ラ イ シ ス と い っ た 、 ﹃祖国なき民﹄の苦痛をもたらす最悪の位置である場合 が多い﹂ことを認めながらも、それは同時に﹁支配側が その願望を達成する抜け穴として残した隙間であり、そ こに﹃日本人﹄という分類の枠を変容させていく抗争の 一部の活動家たちから激しい批判一 広く支持を集め、今日まで続いて来た一 ﹃こぺる﹄が部落問題に関して行われる議一 論の枠組みを変えるほどの広がりは持ち得なかったこと一 は、冒頭でも示唆した通りである。我々にはいったい何一 が 足 り な か っ た の だ ろ う か 。 先に挙げた小熊氏は、その著書﹃ 1968 ﹄ ︵ 新 曜 社 ︶ の中で、六、七0
年代の学生運動について、詳細な検討 を行っている。彼によれば”来るものは拒まず、去るも一 のスタイルを作った全共闘やベ平連の運動一 た だ そ の 動 き は 、 市場の動向に敏感一 立 場 が 存 在 し う る ﹂ と 主 張 し て い る 。 そ う し た 意 味 で 、 ﹃ こ ぺ る ﹄ の試みは決して孤立した も の で は な か っ た 。 む し ろ そ れ は 、 問 題 意 識 を 共 有 す る 、 もっと大きな流れの中の一つの取り組みであった。 fez 中 J , ヵ ら こ そ ﹃ こ ぺ る ﹄ も を浴びながらも の で あ る 。 そ れ で も 、 の は 追 わ ず “ は、組織論として非常に新鮮だった。 シ ョ ー ト ス パ ン で 組 織 の 編 成 を 変 え 、 に対応していかなければならないように変化してきた。 こぺる そのために派遣労働者などを重用せざるをえなくなった 昨今の資本主義体制、いわゆる ﹁ 脱 工 業 化 社 会 ﹂ 13 の 動 きと 皮 肉 に も 軌 を 一 に し た と 言 う 。 また、当時の学生は﹁管理社会﹂に強く反発しながら も、完全雇用状態と終身雇用制度を無意識の前提として いたことも指摘している。そうした文脈を踏まえ、小熊 氏は六、七
0
年代の運動が現在の若者たちに引き継がれ ていない理由に関してこう述べている。 経済成長と安定雇用の時代に生まれた﹁一九七O
年 パラダイム﹂とそれに依拠している︵と思われている︶ ﹁サヨク﹂とその論調は、経済停滞と不安定雇用の時 代に生きている現代の若者にとっては、その内容を把 握する以前に感覚的に共鳴できないのだ。 この小熊氏の議論が﹃こぺる﹄に関してどの程度妥当 するのか、私には判断がつきかねる。ただ、既に五十路 を迎えた私が、﹃こぺる﹄の集まりに出席すると、今で も最年少であるかそれに近いことがしばしばであること を考えると、﹃こぺる﹄が読者として、多くの若者を獲 得できていないことは認めなければならない。また、少 なくとも、社会全体が﹁経済停滞と不安定雇用﹂によっ て余裕をなくして行く中、部落問題に興味と関心を抱く 人の数が増えなかったという事情は確かにあったと思う。 ﹃こぺる﹄といえども、時代の影響と制約から完全に逃一 れ る こ と は で き な か っ た の で あ る 。 一 そして﹃こぺる﹄は今、眠りに就こうとしている。最一 後に、個人的なことを書くことをお許し願いたい。藤田一 さんは﹃同和はこわい考﹄が刊行されて十年後に﹃﹁同一 和はこわい考﹂の十年﹄という私家版を編んでいる。私一 も﹁出発点としての﹃同和はこわい考﹄﹂と題する小文一 を寄せた。その中で私はこう書いている。 この本に書かれていることを土台として、私は一歩一 足を踏み出すことが出来たと思う。 だからこの本も私にとっては一つの出発点なのだ。 出 発 点 と し て の ﹁ こ わ い 考 ﹂ 。 ﹃こぺる﹄という雑誌もまた、私にとって一つの出発一 点であったことは、もはや言うまでもない。い の ち を 生 き る ⑨
﹁
寛
解
で
す
﹂
と告げられる
長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 四月二十日 四ツ谷駅から上智大学、ホテルニュl
オl
タニへと歩 く。ソフィア通りと名付けられた道路沿いの桜はどれも 大きく、毎年開花の季節に歩くことを楽しみにしてきた が、今年は時季をのがしてしまった。花びらが舗道にこ びりつき、雄しべや専は口紅のような色になってちぢこ ま っ て い る 。 ﹁東京クリニック﹂が近づくほどに、毎度のことなが ら 不 安 が こ み あ げ て く る 。 S F 映画に出てくるような診 察室に入るとなおさらだ。白い光沢のある壁、天井、床、 深紅の二脚の精子。不安は頂点に達し、元気に働いてい 四 日 前 に 神 戸 一 で撮った私の pet −CT 写真をちらつと見て、﹁異常な一 し で し た 。c
p
︵ 寛 解 ︶ で す 。 こ れ で ︵ 再 々 発 し て か ら ︶ 三年間異常なしでしたので、定期検査は終了です。今後一 異 常 が 出 た ら 、 petCT を撮ってこちらに来て下さ一 い。おめでとうございます﹂と無造作に、でもちょっと一 嬉しそうに先生は言った。﹁十二月の IMRT ︵ 放 射 線 一 治療︶の定期検診の時、−先生が﹃前回の腫擦がまた写つ一 ている﹄とおっしゃったのですが﹂と尋ねると、﹁それ一 はゴースト︵幽霊︶です﹂とすまして答えた。 私が受けてきた免疫治療は、私の血管から取り出して一 鍛えた樹状細胞︵白血球︶を腫療のど真ん中に打ち込み、 腫擦の中を自家ワクチンの工場にするというものだ。腫一 蕩の中で樹状細胞はがんを認識し、伝達する白血球・記一 憶する白血球・攻撃する白血球へと次々に情報が伝えら一 工場になった腫療は﹁死一 ど う す る か 、 一 一 十 分 ほ ど あ れ こ れ 心 の 準 備 を す る 。 別室に導かれるとすぐ H 先 生 が 現 れ た 。 れ 、 免 疫 は 全 身 を か け め ぐ る 。 に 体 ﹂ で 形 が 残 る 。 こぺる ﹁ こ の ﹃ 工 場 ﹄ は 二 、 一 二 年 で 力 を 失 っ て い き ま す が 、 る日常がウソのようだ。がんの転移再発を告げられたら腫療がまた出ても、白血球の記憶が匙る身体になってい 15ます﹂と先生は説明した。お礼を言う私に﹁腫虜一個、ぐ らい消せて当然です。十個もある方がいらっしゃるんで す か ら ﹂ と 照 れ 臭 そ う に お っ し ゃ っ た 。 うれしさは数日たってじわじわと出てきた。進行がん な の で 、 まだ酒呑みの生活に戻れるわけではない。早寝 早起き、食べ物に気をつけて、毎日二回の温熱療法、毎 週一回のハスミワクチンを自己注射する生活は一生続く だ ろ う 。 それでも﹁大きい腫蕩になった卵巣がんは助か らない﹂と言われた命は五年間永らえた。私の幸運、め ぐりあえた優れたドクターたち、何よりも私を支えて下 さったたくさんの方々に心の中で深く頭を垂れた。 四月二十九日 病気が一段落したお祝いに、お蕎麦や自家製見布の煮 染めなどを頂く。美しい素焼きのコーヒー茶碗も。 メ キ シコのナディアさんはパチェコの短編小説を贈ってくれ た。しおりにスペイン語と日本語でメッセージが書いて ある。上手な漢字で ﹁ 遠 く て も 心 に い つ も 一 緒 ﹂ と あ る 。 スペイン語は ﹁言葉が心から発せられたとき、国境はな く な る ﹂ 。 スペイン語の方が格好いい。うれしい一方で、 と 書 一 長谷川さんたちがいらっしゃるのかと一 とうなずくのですが﹂ということなの ﹁息が苦しいのでお話ができないのです一 が、決して嫌がっているんじゃないのです。ご一緒に過一 ごせることをとても喜んでいます。どうか嫌がらないで お 姉 さ ん は 涙 声 に な っ て い た 。 S さ ん は 日 本 一 ﹁ 火 事 の 焼 け 太 り ﹂ み た い で 申 し わ け な か っ た 。 ホスピスに入院しているーさんのお姉さんから電話が かかってきた。今日、友人四人で彼を見舞うことになっ ているのだ。急な電話に息を詰めてお姉さんの声を聞い た 。 ﹁ 弟 が ホ ワ イ ト ボ
l
ド に ﹃ ホl
ム パ ー テ ィ ー ﹄ く ん で す 。 今 日 、 聞 く と 、 ﹃ う ん ﹄ で ほ っ と す る 。 や っ て く だ さ い ね ﹂ 。 駅前のバス停にみんなは集まっていた。 酒 を 携 え て い る 。 ー さ ん の 好 き な 銘 柄 、 だ 。 ホ ス ピ ス で は お酒の持ち込みを許してもらえる。酒好きのーさんにとっ てはうれしい環境だが、先週お見舞いに行ったとき、 さんはお酒を飲める状態ではなかった。心やさしい S さ んがーさんの病状にショックを受けるのではないかと、 そ ち ら の 方 が 気 が か り だ っ た 。 ︵ こ の 項 、 つ づ く ︶濃水飛山記 マ﹁とうとう終刊の日を迎えられるの かと、さまざまの感慨が胸に押し寄せ ます。一ばんのそれは、いかにエネル ギーを注ぎこんでこられたかという敬 意です。藤田さんの生き方と思想に触 れることがなければ、じつに多くの| 本質的なものを、わたくしは欠落させ たまま過ごしたであろうと、思い返さ れます。これまで賜った啓示に深謝申 し あ げ ま す ﹂ ︵ 千 葉 県 K さ ん ︶ 。 こ う いうお便りをいただくと、恐縮するほ かありません。みなさんとの議論をと おして﹁人間と差別﹂について思索を 深めることができました。数年前に部 落問題全国交流会から離れ、来春には ﹃ こ ぺ る ﹄ の 終 刊 を 迎 え ま す 。 ﹃ 同 和 は こ わ い 考 ﹄ も 絶 版 に な っ て い ま す 。 身辺整理をしているわけではありませ んよ。﹁一人ででさることは高が知れ ているが、一人だからこそできること が あ る ﹂ と 信 じ て 歩 み 続 け る 所 存 。 マ﹁被災した沿岸部は、東京や仙台な どの大都市から遠く離れた地域だった た め 、 ﹃ 自 分 た ち の と と は 自 分 た ち で 決 める﹄という自立・自決の空気が強く 残っている土地なんです。ところが最 近、高台移転の議論などしていると、 ﹃ 行 政 が 悪 い ﹄ ﹃ 国 は OO してくれな い﹄と他人任せにする意見が目立って 聞かれるようになりました。私たちは この日カ月間で︵﹃もらうこと﹄に慣 れてしまったのではないか︶と言う人 もいます。もし、それで﹃自分たちで 決めてきた町﹄が﹃誰かにやってもら う 町 ﹄ に な り つ つ あ る の だ と し た ら 、 私にはとても恐ろしいことだと思いま す 。 ︵ 略 ︶ 自 立 性 を 放 棄 し て し ま え ば 、 地域社会そのものが崩れてしまいかね ません。環境の厳しい北国で生き抜く ためには、どうしても自分の足で立ち 上 が る 力 が 必 要 な の で す ﹂ ︵ 宮 城 県 南 三 一 は た け や ま ふ み お 陸町仮設住宅自治会長・畠山扶美夫さ ん。聞き手・三浦英之記者。朝日新聞 ロ ・ 2 −