• 検索結果がありません。

大 教 部論 第 45 成 26 年 10 (109) 自覚知章 の和訳と考察を中心に 星野雅徳 0. はじめに 11 世紀から12 世紀頃にかけて活躍したモークシャーカラグプタ (Mokṣākaragupta) は 最後期のインド仏教を代表する学者である その著作の タルカバーシャー 1 (Tar

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "大 教 部論 第 45 成 26 年 10 (109) 自覚知章 の和訳と考察を中心に 星野雅徳 0. はじめに 11 世紀から12 世紀頃にかけて活躍したモークシャーカラグプタ (Mokṣākaragupta) は 最後期のインド仏教を代表する学者である その著作の タルカバーシャー 1 (Tar"

Copied!
18
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

0.はじめに

 11 世 紀 か ら 12 世 紀 頃 に か け て 活 躍 し た モ ー ク シ ャ ー カ ラ グ プ タ (Mokṣākaragupta)は、最後期のインド仏教を代表する学者である。その著作の『タ ルカバーシャー』1(Tarkabhāṣā)(Tbh)は当時から仏教哲学の綱要書として評 価されていたことが梶山雄一博士による『タルカバーシャー』の全和訳『論理 のことば』の中で述べられている2。その評価されていた理由として、一つは ディグナーガの流れを汲み仏教論理学を大成したダルマキールティの主張を踏 襲し、なお且つその主張が初学者の理解に供する為に簡明に纏められている点。 いま一つはその活躍年代からダルマキールティ以降の仏教論理学派およびそれ を巡る諸学派との議論が網羅的に著されている点である。  この Tbh には梶山博士による全和訳『論理のことば』(梶山 [1975])並びに その英訳版であるAn Introduction to Buddhist Philosophy (Kajiyama[1998])がある。 また、ダルマキールティの『プラマーナ・ヴァールティカ』(Pramāṇavārttika) 現量章の研究として戸崎宏正博士による『仏教認識論の研究 法称著プラマー ナ・ヴァールティカの現量論 上巻』(戸崎 [1979])並びにその下巻(戸崎 [1985]) がある。  本稿ではこの Tbh の中で自覚知(svasaṃvedana)3の定義に関して述べられ ている箇所を取り上げる。自覚知は Tbh において四つの現量のうちの一つであ ると述べられている。しかしながら船山徹 [2000] において自覚知と他の三つの

モークシャーカラグプタの現量説

―〈自覚知章〉の和訳と考察を中心に―

星 野 雅 徳

1 Rangaswami Iyengar[1952] を底本とする。B.N.Singh[1988] 及び Geshe Ngawng Samten, chif ed.[2004] を適宜参照。

2 梶山 [1975](pp.160-163)

3 svasaṃvedana は「自己認識」と言い慣わされているが、本稿ではこれまで使われてき た他の量等のテクニカルタームとの整合性を保ち、且つ簡明に表しうる語の使用を目 指したため、これに対して「自覚知」という訳語を当てることとする。

(2)

現量との関係が問題点として指摘されている。この問題点を端緒として、イン ド仏教最後期に位置したモークシャーカラグプタが Tbh の中で、自覚知に関し てどのような主張をしているのか。そして、その主張を通して現量がどのよう に捉えられているのか考察する。

1.『タルカバーシャー』自覚知〔章〕原文と試訳

 Tbh の自覚知〔章〕の原文とそれに続いて付した拙訳は以下のようである。 【主張】sarva-citta-caittānām ātma-saṃvedanaṃ svasaṃvedanam /cittaṃ

vastu-mātra-grāhakaṃ jñānam / citte bhavāḥ caittāḥ, vastuno viśeṣa-rūpa-grāhakā sukha-duḥkha-upekṣā4-lakṣaṇāḥ / teṣāṃ sarva-citta-caittānām ātmā saṃvedyate yena rūpeṇa tat

svarūpam ātma-svarūpa-sākṣāt-kāritvāt svasaṃvedanaṃ pratyakṣaṃ kalpanā-apoḍham abhrāntaṃ ca^ucyate /(Tbh,pp.15-16)

自覚知(svasaṃvedana)とは、一切の心・心所の、自体(ātman)に関する 覚知である。 心(citta)とは、事物一般(vastu-mātra)を把捉している知である。 心所(caitta)とは、心(citta)における諸生起(bhava)であり、事物の特 殊性たる〔諸〕形態(rūpa)を把捉しているものであり、楽、苦、捨(upekṣā) を相とする。 ある形態によって、それら(teṣām)、一切の心・心所の、自体が、知覚され る(saṃvedyate)ところの、それが(tat)、自形態(svarūpa)である。〔その 心・心所の、〕自体の自形態を直証するもの(sākṣātkārin)であるが故に、自 覚知は、分別を離れ(kalpanā-apoḍha)、かつ(ca)、迷乱ならざる(abhrānta)、 現量(pratyakṣaṃ)であると言われる(ucyate)。

【問】atra kecid āhuḥ―na ca citta-caittānāṃ svasaṃvedanaṃ ghaṭate, sva-ātmani kriyā-virodhāt / na ca suśikṣito^api naṭa-vaṭuḥ sva-skandham āroḍuṃ śaknoti / na hi tīkṣṇā^apy asi-dhārā svam ātmānaṃ chinatti / na hi prajjvalito^api vahni-skandha ātmānaṃ dahati /

4 Rangaswami Iyengar[1952] で は apekṣā, B.N.Singh[1988] な ら び に Geshe Ngawng Samten,chif ed.[2004] では upekṣā となっている。倶舎論索引では apekṣā は二観(真)お よび二所観(玄)となっており、upekṣā は捨(無量観)となっている。拙訳では前に「楽、 苦」と出ていることからも、梶山 [1975] とともに upekṣā とよむこととする。

(3)

tathā citta-caittam api katham ātmānaṃ vedayatu / (Tbh,p.16) これに関して、或る人々は言う。「だが、心・心所に対しては自覚知が適合 することはない。自身の自体(sva-ātman)に対しては、作用(kriyā)に矛 盾(virodha)があるが故に。また、踊り子が、仮によく訓練していたとしても、 自身の肩に登ることが出来るということはないのである。なぜならば、仮に 剣の刃が鋭かったとしても、自身の自体を切ることはないからである。なぜ ならば、仮に火の塊が燃え盛っていたとしても、〔自身の〕自体を焼くとい うことはないからである。 同様に、心・心所もまた、どうして自体を知るだろうか。 vedya-vedaka-bhāvo hi karma-kartṛ-bhāvaḥ /

karma-kartṛtvaṃ ca loke bhedena^eva prasiddham, vṛkṣa-sūtradhārayor iva / (Tbh,p.16) なぜなら、所知・能知関係は、行為(/ 目的物)(karman)・行為主体(kartṛ) 関係(bhāva)であるからである。 そして、行為(/ 目的物)・行為主体関係は、木(vṛkṣa)・大工(sūtradhāra) のように(iva)、世間では、正しく別異なるものとして(bhedena)、周知で ある(prasiddha)。

【答】atra^ucyate na karma-kartṛ-bhāvena vedya-vedakatvaṃ jñāne varṇyate / kiṃ tarhi vyavasthāpya -vyavasthāpaka-bhāvena /(Tbh,p.16)

これに対して言われる。「知における所知・能知関係は、行為・行為主体関 係として説明されることはない。そうではなくて、所定(vyavasthāpya)・能 定(vyavasthāpaka)関係として〔説明されるの〕である」。

yathā pradīpa ātmānaṃ prakāśayati tathā jñānam api jaḍa-padārtha-vilakṣaṇaṃ svahetor eva prakāśa-svabhāvam upajāyamānaṃ svasaṃvedanaṃ vyavasthāpyate // (Tbh,p.16)

燈火が〔自身の〕自体(ātman)を照らすように、そのように愚鈍なものと 相を異にする知もまた、他ならぬ自身の原因に基づいて、照明を自性として、 生じるものであり、〔したがって、それが〕自覚知であると確定せしめられ るのである。

【教証】tathā ca^uktam― “vijñānaṃ jaḍa-rūpebhyo vyāvṛttam upajāyate / iyam eva^ātma-saṃvittir asya yā^ajaḍa-rūpatā”/ iti // (Tbh,p.16)

(4)

愚鈍な諸形態から相異したものとして生ずる。この〔識〕には、非愚鈍な形

態性が〔あるが、〕それこそが、その自体の覚知(自覚知)である」、5と。

【教証】alaṅkāra-kāreṇa^apy uktam kalpitaḥ karma-kartra-ādiḥ paramārtho na vidyate / ātmānam ātmanā^eva^ātmā nihanti^iti nirucyate / iti //(Tbh,p.17)

また、〔プラマーナ・ヴァールティカ〕アランカーラの作者〔のプラジュニャー

カラ・グプタ〕によって〔次のように〕言われた。「行為・行為主体等は想 定されたものであり、勝義なものとしては存在しないのである。自体が自体

を他ならぬ自体によって攻略すると説明される」、6と。

na ca citta-caittānāṃ jñāna-antareṇa prakāśyatvaṃ yujyate / (Tbh,p.17)

そして、心・心所に、別の知(jñāna-antara)による、被照明性(prakāśyatva) が、妥当である(yujyate)ということはないのである。

tathā hi―na tāvat samāna-kāla-bhāvinā jñāna-antareṇa citta-caittaṃ prakāśyata iti ghaṭate, upakārya-upakārakatva-abhāvāt, savya-itara-goviṡāṇayor iva / (Tbh,p.17) すなわち、まず、同時存在者(samāna-kāla-bhāvin)であるところの別の知に よって、心・心所の両者が、照らされる(prakāśyate)ということが妥当す る(ghatate)ということはない。〔その両者には〕被補助(upakārya)・補助 (upakāraka)関係がない(abhāva)が故に。右(savya)と別〔の左〕(itara)

の牛角(goviśāṇa)両者の場合ように。

na^api bhinna-kāla-bhāvinā, kṣaṇikatvāt prakāśitavyasya^eva^abhāvāt /(Tbh,p.17) 異時間存在者〔であるところの別の知〕によって、〔心・心所の両者が、照 らし出されるということが妥当であるということ〕もない(na^api)のである。 〔心・心所の両者とも〕刹那滅者(kṣaṇika)であるが故に、〔別の知による、〕

他ならぬ被照明者(prakāśitavya)〔たる心・心所〕がないが故に。

api ca yadi jñānaṃ svasaṃvedanaṃ na syāt,tadā jñāto^artha iti durghaṭaḥ syāt, ‘na^agṛhīta- viśeṣaṇā buddhir viśeṣye varttate’ iti nyāyāt / (Tbh,p.17)

さらにまた、もし知(jñāna)が自覚知(svasaṃvedana)でないとするなら ば、その時には「対象物(artha)が知られた(jñāta)」ということが、不適

5 vijñānaṃ jaḍa-rūpebhyo vyāvṛttam upajāyate / iyam eva^ātma-saṃvittir asya yā^ajaḍarūpatā // (TS,1999)kriyā-kāraka bhāvena na svasaṃvittir asya tu / ekasya^anaṃśa-rūpasya

trai-rūpya^anupapattitaḥ // (TS,2000)

6 kalpitaḥ karmakartrādiḥ paramārtho na vidyate / ātmānamātmanaivātmā nihantīti nirucyate // (PVBh,757)

(5)

切なものとなるであろう。「限定者が把捉されていない(agṛhīta-viśeṣaṇa)知

(buddhi)が、被限定者(viśeṣya)〔である対象物〕に対して、存在する(varttate)

ことはない」という正理(nyāya)の故に。 

【主張】 tathā hi―artho viśeṣyaḥ,jñāta iti viśeṣaṇam, jñāto jñānena viśeṣita iti / jñānaṃ cet svayaṃ na bodha-rūpeṇa pratītaṃ, tat kathaṃ jñānena viśeṣito^arthaḥ pratīyatām / na hi daṇḍa-agrahaṇe daṇḍino grahaṇaṃ yukti-saṅgatam /(Tbh,p.17)

すなわち、「対象物(artha)」が被限定者であり、「知られた」が限定者である。「知 られた」とは、知(jñāna)によって限定された(viśeṣita)、という〔意味で〕 ある。もし、知(jñāna)が、自ら、覚知(bodha)という形態(rūpa)を持 つものとして了知された(pratīta)ということがない(na)ならば、その時 には(tat)どうして(katham)、対象物(artha)が、知(jñāna)によって限 定された〔すなわち、対象物が知られた〕と理解されるであろうか。なぜな らば、〔限定者である〕杖(daṇḍa)が把捉されない(agrahaṇa)とき、〔被限 定者である〕持杖者(daṇḍin)の把捉(grahaṇa)が論理に適っている(yukti-saṅgata)ということがないからである。

【問、答】yat^ca^uktaṃ trilocanena―cakṣuṣo^agrahaṇe^api cākṣuṣaṃ rūpaṃ yathā pratīyate, tathā jñāna-anavabodhe^api jñāto^artha iti ghaṭiṣyate” iti tad-asādhu / prastute^anupayogāt / (Tbh,p.17)

「眼が把捉されなくても、眼に基づく形態が了知されるそのように、知が覚 知されなくても、対象物が知られたということは妥当するであろう」とトリ ローチャナによって言われたところのそれは正しくないのである。話題への 不適合の故に。

na hi cakṣū rūpasya viśeṣaṇam / kiṃ tarhi,cakṣur-vijñānam /(Tbh,p.17)

なぜならば、眼(cakṣus)は形態(rūpa)の限定者(viśeṣaṇa)であるとい うことはない、そうではなくて、〔形態の限定者は、〕眼に基づく識(cakṣur-vijñāna)であるからである。

tataś cakṣur-vijñāna-asaṃvedane kathaṃ rūpaṃ jñāyatām iti codyam akṣatam eva // (Tbh,p.17)

したがって、眼に基づく識に対する覚知がないときに、どうして、形態が知 られようか、との非難が必ず(eva)残るのである。

【問】yat punar jñānasya parokṣatva pratipādanāya bhaṭṭena^uktam―yathā ca rūpa-ādi-prakāśa-anyathā-anupapatyā indriya-siddhiḥ, tathā jñānasya^api siddhir iti /

(6)

(Tbh,p.18) さらにまた、知の非知覚性を理解せしめるために〔クマーリラ〕バッタによっ て〔次のように〕言われた。「また、形態等の照明が別様には不成立である ことによって、感官の存在の証明があるように、〔知の覚知がなくても、対 象物が知られたということが別様には不成立であることによって〕知〔の存 在〕もまた証明される」、と。

tathā hi tatra bhāṣyam―‘na hi kaścid ajñāte^arthe buddhim upalabhate / jñāte tv anumānād avagacchati ’ iti / vārttikaṃ ca ‘ tasya jñānaṃ tu jñātatā-vaśāt ’ iti / (Tbh,p.18) すなわち、そのことに関して〔以下のようなシャバラ〕バーシュャがある。 「なぜなら、何人も知られざる対象物に対して、覚知を得るということはな い、しかるに、〔対象物が〕知られたる時に、比量に基づいて〔知の存在に〕 赴くのである」、と。 また、「一方、その〔対象物〕の知〔そのもの〕は、〔対象物に対する〕既知 性という力に基づいてある」、との〔シュローカ〕ヴァールティカがある。7

【問】jñātatā ca viṣaya-prākaṭyam ucyate / tad api ca^ayuktam /(Tbh,p.18)

そして、〔その〕既知性とは、対象の顕現性(viṣaya-prākaṭya)である、と言 われる。だが、その〔ミーマーンサーの説〕もまた、正しくない。

【答】prākaṭyasya^api jñānāt pṛthaktve viṣaya-rūpatāyāṃ vyaktau jaḍa-rūpatā, jaḍasya prakāśa-ayogāt / viṣayād artha-antaraṭve jaḍatāyāṃ tasya^api svataḥ prakāśa-ayogāt / (Tbh,p.18)

顕現性も、知とは別異である場合には、対象の形態性が開展しているので、〔顕

現性には〕愚鈍な形態性がある。愚鈍なものには、照明が不可能であるが故に。 〔また、顕現性が、〕対象とは別なものであるときに、愚鈍なものであるとい

うならば、それ〔の顕現性〕もまた、自ら、照明が不可能であるが故に。  prākaṭya-antareṇa tu prakāśane^anavasthā syāt /(Tbh,p.18)

一方、他の顕現性によって照明があるならば無限遡及となるであろう。 jñāna-svabhāvatve prākaṭyasya^api parokṣatva-prasaṅgaḥ / (Tbh,p.18)

また、〔顕現性が、〕知(jñāna)を自性(svabhāva)とするものであるとすれ

7 Yuichi Kajiyama[1998] において、SV の中にはこの一文 ‘ tasya jñānaṃ tu jñātatā-vaśāt ’ が 見られないことが示されている。(111,p.51)

(7)

ば、顕現性(prākaṭya)にもまた(api)、非知覚性(parokṣatva)が付随する こと(prasaṅga)になるのである。

【主張】tato^avaśyaṃ jñānasya svasaṃvedanatvam abhidheyam /

anubhava-prasiddhaṃ ca svasaṃvedanatvaṃ katham apahnūyeta ? (Tbh,p.18) それ故に、確実に、知には、自覚知性が〔存する〕と言われるべきである。 したがって、経験上周知の自覚知性が、どうして否定され得ようか。 【主張】tad uktam ‘apratyakṣa^upalambhasya na^artha-dṛṣṭiḥ prasiddhayati / iti /

(Tbh,p.18)

また〔ダルマキールティによって次のように〕8言われた。「現量(自覚知)

ではない所得には対象物の視覚が〔その対象物の形態を〕知らしめることは ない」、と。

alaṅkāra-kāro^apy āha ‘ parokṣaṃ yadi tat jñānaṃ jñātam ity eva tat kutaḥ / parokṣasya svarūpaṃ kas tasya lakṣayituṃ kṣamaḥ // iti //(Tbh,p.18)

また〔プラマーナ・ヴァールティカ〕アランカーラの作者〔であるプラジュ ニャーカラ・グプタ〕も〔次のように〕言う。「もし、その〔対象物の〕知 が非知覚であるならば、他ならぬ既知であるとは、それは何に基づくのか。 非知覚の自形態を何がそれ(非知覚である知)の〔形態であると〕認めるこ

とが出来るであろうか」、9と。

【問】nanu sarva-jñānāṃ svasaṃvadana-pratyakṣatve ghaṭo^ayam ity ādi-vikalpa-jñānasya nirvikalpakatvaṃ, pīta-śaṅkha-ādi-jñānasya^abhrāntatvaṃ ca kathaṃ na bhavet ? (Tbh,p.18)

もし、一切の知が自覚知性を有するならば、「これは瓶である」という等の 分別知が無分別知であることになってしまう。〔したがって、白い貝を〕黄 色い貝等の〔誤った〕知が迷乱でないことがどうしてないであろうか。 【答】ucyate―vikalpa-jñānam api svātmani nirvikalpam eva / (Tbh,p.18-19)

8 このダルマキールティの主張(apratyakṣa^upalambhasya na^artha-dṛṣṭiḥ prasiddhayati)は PV 北京版、Tbh デルゲ版に見られる。また、この引用は多数見られる(e.g.TSP,401,4 ;JNA.,478,7 ;TS,2074)ことが Kajiyama[1998] において示されている。(Kajiyama[1998], p.51,115)

9 parokṣaṃ yadi tajjñānṃ jñānamityeva tatkutaḥ / parokṣasya svarūpaṃ kastasya lakṣayituṃ kṣamaḥ // (PVBh, 619);Rangaswami Iyengar,Ed.[1952], B.N.Singh[1988], Geshe Ngawng Samten,chif ed.[2004] のすべてで jñānamityeva が jñātamityeva となっている。

(8)

〔また次のように〕言われた。「分別知もまた、自己自体に関して他ならぬ無 分別知である」。

ghaṭo^ayam ity anena bāhyam eva^arthaṃ vikalpayati, na tv ātmānam /(Tbh,p.19) 「これは瓶である」という「これ」によって、他ならぬ外界の対象物を分別

せしめるのである。しかし、それ(外界の対象物)自体を〔分別せしめるの〕 ではない。

【主張】tad uktam śabda-artha-grāhi yady atra jñānaṃ tat tatra kalpanā / svarūpaṃ ca na śabda-arthaṃ tatra^adhyakṣam ato^akhilam 10/ iti // (Tbh,p.19)

それに〔答えてダルマキールティによって〕言われた11。「もしこの場合、

知がことばの対象物を把捉しているものであるならば、それ(知)はそれ(こ とばの対象物)に関する分別である。しかし、〔ことばの対象物を把捉した 知の〕自形態はことばの対象物を〔言うの〕ではない。そうではなくて、こ こでは、知覚全体を〔言うの〕である」、と。

bhrāntam apy ātmany abhrāntaṃ svaprakāśa-rūpeṇa eva^avabhāsanāt / asad-viṣayatvāc ca bhrāntir ucyate /(Tbh,p.19)

他ならぬ自己を照出する形態を以てのみ顕現するが故に、迷乱もまた自体に 関しては迷乱ではない。〔即ち〕非存在を対象とするものであるが故に、迷 乱である〔と〕言われる。

tad uktam―‘svarūpe sarvam abhrāntaṃ pararūpe viparyayaḥ’ / iti / (Tbh,p.19) それに〔対して次のように〕言われた。「自形態に関しては一切は迷乱では なく、外〔界〕形態に関しては顚倒している」、と。

tasmād anyathā prakāṣa^asiddheḥ yady amī prakāśante, tadā svahetor^eva prakāśa-svabhāvād utpannāḥ santaḥ prakāśanta iti svīkartavyam // (Tbh,p.19)

それ故にもし、別様には顕現が成立しないという理由で、これら(知)が顕 現するならば、そのときには、他ならぬ自己の因である照出という自性に基

10 Rangaswami Iyengar,Ed.[1952]、B.N.Singh[1988] では abhilaṣam となっており、Geshe Ngawng Samten,chif ed.[2004] では akhilam。ここでは、文脈より、梶山 [1975] ならびに Kajiyama[1998] に従って akhilam として読む。

11 śabdārthagrāhi yad yatra taj jñānaṃ tatra kalpanā / svarūpañ ca na śabdārthas tatrâdhyakṣam atoʼ khilam // (287)或る(知)が或る(対象)に関して、ことばの対象を把えるとき、 その知はそ(の対象)に関して分別である。しかし(その分別知の)自相は言葉の対 象ではない。それゆえ、それ(=分別知の自相)に関してはすべて現量である。(戸崎 [1979],p.381)

(9)

づいて、〔それら(知)が〕生じ、存在者が顕現する」、と認められるべきで ある。

2.自覚知(svasaṃvedana)とは

 仏教論理学派では「疑惑や欠陥のない確実な認識」つまり「知」として現量 と比量の二種を主張している。このうち現量は、感官知(indriyajñāna)、意知 覚(mānasa)、自覚知(svasaṃvedana)、ヨーガ行者の知(yogijñāna)の四種で あると述べられている12。そして、この自覚知の定義に関して Tbh 自覚知〔章〕 の冒頭で「自覚知とは事物一般及び楽等を捉えた知自体の覚知としての知、つ まり知自体の自形態を直証するものであるであるが故に、自覚知は分別を離れ、 かつ、迷乱ならざる現量である」と述べられている。  この主張に対する反論として所知と能知の関係は行為・行為主体関係である として主客の別が説かれる。それに対して、所知・能知関係は、主体と客体の ように別個なものではなく、確定されるものと確定するものの関係であると、 知の自照性が述べられる。  その知の自照性を導く為に、心・心所が別の知によって照らされる場合を同 時に存在する場合と異なる時間に存在する場合の二通りに分け、これによって、 心・心所と別の知が同時或いは異時に存在する場合であっても、前者が後者に 照らされることが妥当ではないことが示され、更に、そもそも知が自覚知でな かった場合には、対象が知られた、ということがあり得ない、換言すれば、知 られたとは対象物が知によって限定されることである、と示される。  次に、顕現性と知との関係を、両者が異なる場合(ⅰ)-(ⅲ)とそうでない 場合(ⅳ)に分けてミーマーンサー学派の「既知性とは対象の顕現性である」 という主張を破する。 ⅰ. 顕現性が知とは別異である場合―顕現性と対象が同じ場合 ⅱ. 顕現性が知とは別異である場合―顕現性と対象が異なる場合 ⅲ. 顕現性が知とは別異である場合―他の顕現性によって照らされる場合 ⅳ . 顕現性が知を自性とする場合

12 tatra pratyakṣaṃ kalpanā-apoḍam abrāntam / (Tbh,p.11)そのうち、現量とは分別を離れ迷 乱がないのである。tat^catur-vidham,indriya-juñānaṃ mānasaṃ svasaṃvedanaṃ yogi-jñānaṃ ca^iti / (Tbh,p.14)「それ(現量)は 4 種である。感官知、意知覚、自覚知、とヨーガ行 者の知」、と。

(10)

 (ⅰ)では、顕現性は鏡の如く対象の相をただ映しただけの愚鈍なものである。 また、(ⅱ)は、知でもなく、対象の相をも持たないものであるので、これも また愚鈍なものとなる。さらに、(ⅲ)では、その照らす側の顕現性にもまた 照らす顕現性が必要となり、これを無限に繰り返すこととなる。これらのこと から、顕現性が知とは別異である場合にはミーマーンサー学派の主張は認めら れないことが述べられる。また、(ⅳ)では、そもそもミーマーンサー学派の 立場では知の非知覚性を説いているので、顕現性が知を自性とすることは成り 立たず、議論自体が成立しないことになる。したがって、知の自照性が述べら れるのである。  次に、「知の自照性」に関して想定される反論として、全ての知が自覚知性 を有するならば、知がみな自覚知となり、分別知も無分別知になってしまうと いうことが述べられる。この反論に対して、分別知か無分別知かといった知の 内容が問われるのではなく、なんであれ知それ自体の自覚が自覚知であり、対 象を認識した知として自覚されたものであるから自己自体に関して無分別であ ると語られる。  そして最後に、ダルマキールティの主張が教証として引かれ、知がことばの 対象物を把捉しているものであるならばその知は分別〔知〕であるが、その知 の自形態はことばの対象物を言うのではないとして改めて「知覚全体を言うの である」、と述べられる。それは、知の内容を問うのではなく知自体に関する ものである、故に知自体は自照性を有する自覚知であって迷乱ではないことが 述べられる。  次に、以下に挙げる 3 箇所において梶山博士による『論理のことば』(梶山 [1975])の中で付されている訳語の妥当性について考える。Tbh 原文(ⅰ- ⅲ) と拙訳(1-3)並びに梶山訳(1K1-3K1)、その英訳版である Kajiyama[1998] (1K2-3K2)を併記する。

(ⅰ)sarva-citta-caittānām ātma-saṃvedanaṃ svasaṃvedanam / cittaṃ vastu-mātra-grāhakaṃ jñānam /citte bhavāḥ caittāḥ, vastuno viśeṣa-rūpa-grāhakā sukha-duḥkha-upekṣā-lakṣaṇāḥ / teṣāṃ sarva-citta-caittānām ātmā saṃvedyate yena rūpeṇa tat svarūpam ātma-svarūpa-sākṣāt-kāritvāt svasaṃvedanaṃ pratyakṣaṃ kalpanā-apoḍham abhrāntaṃ ca^ucyate /(Tbh,pp.15-16) 

(11)

覚知である。心(citta)とは、事物一般(vastu-mātra)を把捉している知である。 心所(caitta)とは、心(citta)における諸生起(bhava)であり、事物の特 殊性たる〔諸〕形態(rūpa)を把捉しているものであり、楽、苦、捨(upekṣā) を相とする。 ある形態によって、それら(teṣām)、一切の心・心所の、自体が、知覚され る(saṃvedyate)ところの、それが(tat)、自形態(svarūpa)である。〔その 心・心所の、〕自体の自形態を直証するもの(sākṣātkārin)であるが故に、自 覚知は、分別を離れ(kalpanā-apoḍha)、かつ(ca)、迷乱ならざる(abhrānta)、 現量(pratyakṣaṃ)であると言われる(ucyate)。 (1K1)自己認識(自証)とは、すべての心と心作用とにある自覚のことである。 心(チッタ)とは、対象を一般的にとらえる認識のことである。心作用(チャ イッタ)とは、心の中に生じるものと 語義解釈 され、対象の特殊な性質を とらえる作用で、快、不快、無頓着などの特徴をもつ(感情などである)。 これらの心と心作用そのものは自覚されるのであるが、そ(の自覚)の本質 は、自己の本性を直観することである。それゆえに、この自己認識は、概念 知をはなれ、迷乱のない知覚であると言われる。(梶山 [1975],p.35)

(1K2)All cognitions(citta)and feelings(caitta)are self-cognizant; this is called self-consciousness(svasaṃvedana). Cognition〔or consciousness in general〕 is knowledge grasping the object in its general aspect. Feeling or mental activity stands for what occurs in the mind; it cognizes specific aspects of the object and is characterised by pleasure,pain or indifference.

Self-consciousness is that form〔of cognition〕by which the self of all cognitions and feelings is cognized; it is called〔a kind of〕indeterminate knowledge free from fictional constructs and unerring, because its nature consists in direct intuition of the nature of itself.(Kajiyama[1998],p.47)  ここで問題にするのは、原文(ⅰ)の下線の部分である。以下、拙訳(1)、 梶山訳(1K1)、その英訳版(1K2)のそれぞれの該当箇所に下線を付した。原 文では「心所とは、心における諸生起であり」となっているが、(1K1)では「心 作用(チャイッタ)とは、心の中に生じるものと語義解釈され」となっている。 この下線を引いた「語義解釈」という訳語は(1)の同箇所をみても対応する 原語が見当たらない。そこで、(1K2)ではどのように表されているかを確認す

(12)

ると、この「語義解釈」という訳語に対応する語が見受けられないのである。 これは、原語に対して付されたものではなく、梶山博士が補った語であると解 される。この(1)は「心所とは、心における諸生起であり」と明確に訳語を 当てることが出来ると思われる。それは(1K2)の“Feeling or mental activity stands for what occurs in the mind”からも見て取れる。故に、この補われた「語 義解釈」という訳語は根拠が不明確であり、かえって文全体を曖昧にしている 可能性があると考える。

(ⅱ)karma-kartṛtvaṃ ca loke bhedena^eva prasiddham, vṛkṣa-sūtradhārayor iva / (Tbh,p.16) (2)そして、行為(/ 目的物)・行為主体関係は、木(vṛkṣa)・大工(sūtradhāra) のように(iva)、世間では、 正しく別異なるものとして (bhedena)、周知で ある(prasiddha)。 (2K1)そして世間では、主体と客体とは大工と木との二つのように、それぞれ 異なった個体としてだけ 認められているではないか」と。(梶山 [1975],p.35) (2K2)And the object and the agent in it are well established by common

sense to be always distinct from each other as e.g.a tree and a carpenter. ” (Kajiyama[1998],pp.47-48)  この原文(ⅱ)では、四角で囲った eva について考えたい。(ⅱ)以下それ ぞれの該当箇所を四角で囲った。(2)から「正しく別異なるもの」と、eva に 当てた訳語である「正しく」は「別異なる」に掛かってこれを強調する役割を担っ ている。一方、(2K1)では「異なった個体としてだけ」とされ、「だけ」が「個 体として」に掛かってこれを限定している。(2K2)を見ると「だけ」を訳した always「常に、必ず」が distinct「別個の」を強調している。これらのことから、 「別異なるもの」を「異なった個体」としたと考えられる。しかし、(1)では「異 なる」が重要であり、これを強調することによって、この主張の要旨が「異なる」 に存することが分かる。一方、(2K1)では「個体」を強調している。その結果、 「異なる」ことよりも「個体」の方に要旨が移ってしまう可能性がある。 (ⅲ)jñānaṃ cet svayaṃ na bodha-rūpeṇa pratītaṃ, tat kathaṃ jñānena viśeṣito^arthaḥ

(13)

(3)もし、知(jñāna)が、 自ら 、覚知(bodha)という形態(rūpa)を持つも のとして了知された(pratīta)ということがない(na)ならば、その時には(tat) どうして(katham)、対象物(artha)が、知(jñāna)によって限定された〔す なわち、対象物が知られた〕と理解されるであろうか。 (3K1)もし知識 自ら がその 自己 認識性によって知られていないならば、ど うして知識によって限定された対象が理解されようか。(梶山 [1975],p.37) (3K2)If knowledge itself is not apprehended through its self -luminosity, how then

can the object qualifed by the knowledge be apprehended? (Kajiyama[1998],p.49)  この(ⅲ)では四角で囲った svayam の扱いについてである。(3)ではこの svayam に当てられた訳語「自ら」は一箇所でしか使われていない。一方、(3K1) そして(3K2)を見ると、「自ら」と「自己」、itself と self といった具合にそれ ぞれ二箇所に svayaṃ が現れる。このことは、知自らが自らを照らすという「知 の自照性」を意識して付された訳語であることが考えられる。しかし、二重に 用いられていることは勿論だが、この svayam は副詞として働くものであって、 「自己」が名詞である「認識性」に掛かることは出来ない。  以上これら三箇所で梶山訳において付されたそれぞれの訳語は妥当性を欠い ていると考えられる。

3.モークシャーカラグプタの現量説

 この Tbh の自覚知〔章〕において述べられる自覚知に関する主張を通して、 どのように現量が捉えられていたかを考えてみたい。はじめに、自覚知〔章〕 の冒頭でモークシャーカラグプタが述べる自覚知の定義に関する主張は以下の ようである。

i. sarva-citta-caittānām ātma-saṃvedanaṃ svasaṃvedanam / cittaṃ vastu-mātra-grāhakaṃ jñānam /citte bhavāḥ caittāḥ, vastuno viśeṣa-rūpa-grāhakā sukha-duḥkha-upekṣā-lakṣaṇāḥ / teṣāṃ sarva-citta-caittānām ātmā saṃvedyate yena rūpeṇa tat svarūpam ātma-svarūpa- sākṣāt-kāritvāt svasaṃvedanaṃ pratyakṣaṃ kalpanā-apoḍham abhrāntaṃ ca^ucyate /(Tbh,pp.15-16)

自覚知(svasaṃvedana)とは、一切の心・心所の、自体(ātman)に関す る覚知である。

(14)

心所(caitta)とは、心(citta)における諸生起(bhava)であり、事物の 特殊性たる〔諸〕形態(rūpa)を把捉しているものであり、楽、苦、捨(upekṣā) を相とする。 ある形態によって、それら(teṣām)、一切の心・心所の、自体が、知覚さ れる(saṃvedyate)ところの、それが(tat)、自形態(svarūpa)である。〔そ の心・心所の、〕自体の自形態を直証するもの(sākṣātkārin)であるが故に、 自覚知は、分別を離れ(kalpanā-apoḍha)、かつ(ca)、迷乱ならざる(abhrānta)、 現量(pratyakṣaṃ)であると言われる(ucyate)。  次に、ダルマキールティの Pramāṇavārttika (PV)中でこの部分に該当する偈 (ⅱ)ならびに自覚知に関して後述される偈(ⅲ-ⅵ)は以下のようである。

ii. aśakyasamayo hy ātmā sukhādīnām ananyabhāk / teṣām ataḥ svasaṃvittir nâbhijalpānuṣaṅgiṇī // (249)

楽等の自体は他に依存しない(=共通しない)。(したがって)社会的約束 は不可能である。それゆえに、それらの 自証は言語表現と結びつかない 。 (戸崎 [1979], p.348)

iii. ātmā sa tasyânubhavaḥ sa ca nânyasya kasyacit / pratyakṣaprativedyatvam api tasya tadātmatā //(326)

それ(=知)の自体は、かの(=青等の相をもった)領納であり、そして 決して他(=外境)のそれ(=領納)ではない。(さらにまた、)それ(= 知)はそれぞれ直覚される(が、それ)もそれ(=領納)の本性によって のことである。(戸崎 [1985],pp.9-10)

iv. nânyo ’nubhāvyas tenâsti tasya nânubhavo ’paraḥ / tasyâpi tulyacodyatvāt svayaṃ saiva prakāśate //(327)

それゆえに、(知よりほかに)別個に領納されるべき(対象)は存在しない。

(また)それ(=知)を領納するのは他ではない。なぜならば同じように 批難されるから。まさにそれは自らあらわれる。(他によって現れるので はない。)(戸崎 [1985],p.10)

v. nīlādirūpas tasyâsau svabhāvo ’nubhavaś ca saḥ /

nīlādyanubhavaḥ khyātaḥ svarūpānubhavo ’pi san //(328)

それ(=知)のこの自性は青等の相をもち、そして領納である。それは 自己の相の領納ではあるけれども、「青等の領納」と呼ばれる。(戸崎

(15)

[1985],p.12)

vi. prakāśamānas tādātmyāt svarūpasya prakāśakaḥ / yathā prakāśo ’bhimatas tathā dhīr ātmavedinī //(329)

光が顕照するとき、それ(=顕照)を本性とするゆえに、自己の相を照ら すとみとめられる。同様に知も自己を認識する(とみとめられる)。(戸崎 [1985],pp.12-13)  Tbh と PV の内容は対応する関係にある。そこで Tbh(ⅰ)と PV(ⅱ)-(ⅵ) を見ると、(ⅱ)-(ⅵ)の下線部の内容が、(ⅰ)では、一切の心・心所の自体 が知覚される、それが自形態である。〔その心・心所の、〕自体の自形態を直証 するものであるが故に自覚知は分別を離れかつ迷乱ならざる現量であると言わ れる、と述べられて、PV 中で(ⅱ)と(ⅲ)-(ⅵ)に散在している偈の要旨 が短く纏めて冒頭で述べられたものであることが見て取れる。   その一方で、(ⅱ)中の「自証は言語表現と結びつかない」、という一節が(ⅰ) では触れられていない。この「ことば」はダルマキールティが無分別知を導く 際(註 .12)には重要な語句としてしばしば用いられているものである。(ⅰ)、 (ⅱ)共に言わんとするところは、自証つまり自覚知が無分別(知)であると いうことで、その主張において両者は一致する。では、どうして「ことば」に 対する言及が(ⅰ)では見受けられないのか。自覚知について船山徹氏は(船 山 [2000])「自己認識という視点から認識の構造を一般化するならば、苦楽の 認識に限らず、何であれ認識はすべて心の内なる出来事なのであって、その意 味ですべて自己認識にほかならないとも言える。認識は、対象認識たる感官知 や意知覚もふくめて、全て自己認識であると主張される」、とこのように指摘 している13。これによると、自覚知は単に現量の一つとして他の感官知、意知覚、 ヨーガ行者の知と並列関係にあるのではなく、認識はすべて自己認識(自覚知) 13 認識には、苦や楽の認識など、専ら心に関わるものもある。仏教知識論学派ではこれ も直接知覚と考え、苦や楽などは客観的対象ではなく感受という心作用(何らかの対 象より生じた心の状態)であるから、その認識は自己認識であるとする。しかしこの ように自己認識という視点から認識の構造を一般化するならば、苦楽の認識に限らず、 何であれ認識はすべて心の内なる出来事なのであって、その意味ですべて自己認識に ほかならないとも言える。なぜなら、認識するとは、一般に、心の一面(認識主体面) が同時に成立している心の他面(認識対象面、心に写った限りの対象)を知ることで

(16)

であるという側面をも持っている。このことは、概念知も自覚知と言えること になってしまうのではないか、という矛盾を指摘されることが想定される。そ れ故に、一つの理由として、このような反論を避ける為に、分別〔知〕である「こ とば」に言及しなかったことが考えられる。  「知」に関して戸崎宏正博士(戸崎 [1974]14)によれば、知覚は 知覚自身 と 対象相(映像)と 自らを知ること との三つの要素からなる。このような考えが いわゆる“三分説”といわれるものである。そしてこの三要素のうち、“知覚自身” と“対象相”が知覚の構造を成すものであり、 “自らを知る”ということも同時 に行われているのである。その知覚“自らを知る”とは、対象相を映している 知覚自身を認識するということ、あるいは、“知覚自身”と“対象相”(映像) とを認識するということである。自覚知といえども知である以上、対象相が存 するわけであるが、(ⅰ)では、自覚知とは、いってみれば「心・心所が何であれ、 その内容を問わない知そのもの、まるごとの知」の自覚であることが「知自体」 や「自形態」という表現によって三分説のうちの「自らを知る」の部分が強調 されている。その一方で、対象相については不明確な印象を受ける。  現量について、ダルマキールティの独自の考え方とされる「アルタクリヤー (arthakriyā):目的行作性」という概念がある。そして、現量とアルタクリヤー の関係についてダルマキールティによって述べられた偈が Tbh で教証として引 用されている。それは「量とは、整合性を有する知であり、整合性とは目的行 あるからである。そこで認識は、対象認識たる感官知や意知覚もふくめて、全て自己 認識であると主張される。これが第三の「自己認識」の意味である。そしてこの意味 では、通常は知覚から排除される概念知すらも、生じている瞬間の知それ自体としては、 自己認識に分類される。・・・ともかくもここに分類の重複性がひとつ認められるので ある。つまり自己認識には、対象認識とも言えるものと、そうでないものとがある。(船 山 [2000]) 14 知覚が生じるとき、その知覚(心)には、対象相(映像)が外界から受容されて顕現 している。換言すれば、そのとき知覚は“知覚自身”と“対象相”(映像)とからなる。 これが外界を対象とする知覚の構造である。しかし、知覚には前述したように、“自ら を知る”ということも同時におこなわれる。知覚が自らを知るとは、対象相を映して いる知覚自身を認識するということである。あるいは、“知覚自身”と“対象相”(映像) とを認識するということである。このように、知覚は“知覚自身”と“対象相”と“自 らを知ること”との三つの要素からなる。このような考えがいわゆる“三分説”とい われるものであって、ディグナーガの説として有名である。ダルマキールティももち ろんこの考えを引きついでいる。(戸崎 [1974],pp.175-176)

(17)

作性の存在である」15という一節である。これは、量の一つである現量につい ても、整合性を有する知であってその整合性とは目的行作性(arthakriyā)が存 していることであるといえる。即ち、現量の一つである自覚知にもアルタクリ ヤーが存しているといえるのである。それでは、(ⅰ)の中で対象相が不明確 な自覚知では目的行作性によって何の実在が確かめられるのだろうか。そこで、 三分説(註 .14)との対応関係をみると、「知自体」と「知覚自身」、「知自体」 を自覚する「自身」と「対象相」、「直証する」と「自らを知る」が対応する。 このことから、三分説に照らして(ⅰ)を見てみると、知自体の自覚としての 自覚知は知自体の獲得と同時に対象相たる自己自身の獲得が為され、自己自身 の実在が認められるところにアルタクリヤーが存していると考えられる。この ことは経験上も知自体の自覚と同時に自身の自覚がなければ、その知自体が誰 の自覚であるか分からなくなってしまうことからも分かる。このことから(ⅰ) では、モークシャーカラグプタの述べる自覚知において、「知の自照性」の中 に対象相として「自身」を想定していたのではないかと考えられる。それ故に、 他の論師に比べて「知自体の自覚と同時にある自身の自覚」をより重要視して 現量である自覚知が考えられていたのではないかと思われる。 

4.むすび

 Tbh の自覚知〔章〕冒頭で主張された自覚知の定義において、「知自体の自 形態(svarūpa)」と強調されて述べられている。そこでは、三分説でいうとこ ろの対象相が不明確である。その理由として、「自覚知の重複性」に対する矛 盾への指摘を回避し、これらの争点に立ち入ることなく、自覚知そのもののあ り方を簡明に表現する為もあったであろう。しかし、更なる理由として、モー クシャーカラグプタの現量に対する考え方である、「知自体の自形態を直証す るものである自覚知」という知に存するアルタクリヤーについて、知自体の獲 得と同時に獲得される対象相たる自己自身に存しているという考えに比重が置 かれていたことが考えられる。つまり、モークシャーカラグプタの現量に対す る理解は、知の自覚によって自身における知自体を獲得すると同時に自身の実 在が確かに認識され、また、自身の知であることが認識される。それ故に、分 別を離れ迷乱ならざる現量である、というところにあったのではないかと考え

(18)

られる。 【略号表・参考文献】 PV:Pramāṇavārttika PVBh:Pramāṇavārttika-bhāṣya SV:Mīmāṃsāślokavārttika Tbh:Tarkabhāṣā TS:Tattvasaṇgraha Rangaswami Iyengar,H.R.,Ed.

[1952]:Tarkabhāṣā and Vādasthāna,Mysore. B.N.Singh

[1988]:Tarkabhāṣā A Manual of Buddhist Logic,Naya Sansar Press,Varanasi Geshe Ngawng Samten,chif ed.

[2004]:Tarkabhāṣā of Ācārya Mokṣākaragupta,Varanasi Ram Chandra Pandeya,ed.

[1989]:The Pramāṇavārttikam of Ācārya Dharmakīrti with the Commentaries Svopajñāvṛtti of the Author and Pramāṇavārttikavṛtti of Manorathanandin,Delhi

R.Sāṅkṛtyāyana,ed.

[1953]:Pramāṇavārttikabhaṣyam or Vārtikālaṅkāra of Prajñākaragupta:Being a Commentary on Dharmakīrti’s Pramāṇavārttikam,Patna

Yuichi Kajiyama,Tr.

[1998]:An Introduction to Buddhist Philosophy,Wien. 梶山雄一 [1975]:訳『論理のことば』中央公論社 [1984]:「仏教知識論の形成」『講座・大乗仏教 9 認識と論理学』春秋社 [1984]:「ディグナーガの認識論と論理学」『講座・大乗仏教 9 認識と論理学』春秋社 戸崎宏正 [1979]:『仏教認識論の研究 法称著プラマーナ・ヴァールティカの現量論 上巻』大東 出版社 [1985]:著『仏教認識論の研究 下巻 法称著『プラマーナ・ヴァールティカ』の現量論』 大東出版社 [1984]:「ダルマキールティの認識論」『講座・大乗仏教 9 認識と論理学』春秋社 船山 徹 [2000]:「カマラシーラの直接知覚論における「意による認識」(mānasa)」『哲学研究』第 五百六十九号 京都哲学会 [2012]:「認識論―知覚の理論とその展開」『シリーズ大乗仏教 9 認識と論理学』春秋社

参照

関連したドキュメント

人は何者なので︑これをみ心にとめられるのですか︒

王宮にはおよそ 16 もの建物があり、その建設年代も 13 世紀から 20 世紀までとさまざまであるが、その設計 者にはオーストリアのバロック建築を代表するヒンデブ

 問題の中心は、いわゆるインド = ヨーロッパ語族 のインド = アーリヤ、あるいはインド = イラン、さ らにインド =

仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必

19 世紀前半に進んだウクライナの民族アイデン ティティの形成過程を、 1830 年代から 1840