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木 ﹂
考
迫 徹 朗 平安時代及びその後の文学において、相木は兵衛府の官 人の異称として、またこの木には葉守の神がいるというこ とで有名である。この点について、兵衛の異称がいっ、何 故生じたのか p 葉守の神とはどんな神か、叉その神の存在 はいつ頃から認識され出したのか、いろ/九、と問題、が多い が、直接の契機となったのは次に引く大和物語及び後撰和 歌集の説話であると考えられる。 良少将兵衛の佐なりけるころ、監の命婦にすみける、 女のもとより かしは木のもりの下草おいぬとも身をいたづらになさず もあらなむ 返 し かしはぎのもりの下草おいのょにか L るおもひはあらじ とぞおもふ となむいひける。 ︵ 大 和 物 語 二 十 一 段 ︶ 枇杷般より、としこが家に柏木のありけるを折りにた まへりけり。折らぜてかきつけ奉りける 我やどをいつかは君がならのはのならしがほには折りに おこする 御かへし かしは木に葉守の神のましけるを知らでぞ折りし弘なさ るな︵大和物語六十八段︶ 枇杷左大臣ょう侍りてならの葉をもとめ侍りければち かぬがあひしりて侍りける家にとりにつかはしけれ、は 俊 子 我宿をいつ慣してか楢の一葉をならし顔には折におこする か へ し 枇 杷 左 大 臣 楢の葉の葉守の一神の坐けるをしらでぞ折りし崇なさるな ︵後撰集巻十六、雑二︶ まず﹁葉守の神﹂の歌について考察するに、大和では﹁ かしは木﹂とあるのに対し、後撰では﹁ならの葉﹂とあり その上俊子の夫藤原千兼の事にふれている。これについて 柏木と楢とは同一物を指しており、業守の神は俊子の犬千 兼を臣官えたものとする見方と、柏木と楢とは別なもので、 かつ葉守の神も大和では俊子を、後撰では千兼を替えたも のとする見方とが考えられる。 ところで、この歌が詠まれたのは、 3 柏木に葉守の神がい ると考える習俗、があったからか、それとも枇杷左大臣藤原仲平の口から出まかせの戯言によるものであったろうか。 そのことに触れる前に、柏木と楢とが同一物かどうかにつ いて考えてみたい。新撰字鏡は﹁ナラノ木﹂に檎・櫛・椎 ・杵・摘の字を宛てており、そのうち杵にはナラ・ヒソ・ シヒ・楢にはハハソノ木・ナラノ木の訓を付している。次 に﹁カシハ﹂には柏、﹁ヵシハ木﹂には店、﹁ヤマカシハ ﹂には棚の字を宛てている。なお、横には﹁カシノ木﹂と いう訓もある。倭名紗︵二十巻本︶では欄・柏をカシハと 訓み、楢にはナラ、枠にはハハソ、椎子にはシヒの訓があ るだけである。名義抄では掛にカシハキ・アフチノキの訓 杵にはハハソ・カシ・樫木︵クヌギのことか︶・シノ木な どの訓、楠にはナラノキ・カシハキの訓がある。以上の三 書は成立年代を異にするので、一括して取扱うことには問 題がある、が、要約すると、ナラ・カシハ・カシ・シイ・ハ ハソそれにおそらくグヌギなどは大体において同一種類の 木
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必り、その中でも樋と柏木と枠とはやや近いが、殊に 楢の一種と柏木、楢の一種と枠とは密接な関係があったと 思われる。今日の植物分類学においても、ナラ︵コナラ・ ミズナラ・グヌギの類︶、カシワ、ブナ、グリなどは落葉 樹、カシ、シイは常緑樹のちがいはあっても同じブナ科に 属 し て い る 。 ‘これらの植物の親疎開係や、落葉・常緑の問題、それに 栗 山γ
の神が柏木や楢の木を守ると考えられた理由などを和 歌史における実例について検討してみよう。まず、安法法 師 集 に 同じ寺に椎の柏木にいみじくなりたるをみて 柏木もこのめも老いて有物を昔の人のみえずも有哉 とあるのによれば、椎木と柏木とを同じものと考えていた とも取れるが、おそらくは、柏木の実が椎の実に似ている ので一言ったものであろう。次に狭衣物語巻三に 村雨のおどろ/ 1 、、しきに、柏木の下風涼しく吹き入れ たれば、御簾少し上げて見出し給へるに、楢柏はげに いたくもり煩ふも目止まりて、 柏木の葉守の神になどてわが雨もらさじとちぎらざりげ む とあるのによれば、 義語と考えられる︶ る 。 この頃柏木と楢柏︵橋の葉がしはと同 とは同一物を指していたと考えられ と こ F つで、玉葉和歌集の次の歌 冬 の 歌 の 中 に 前 関 白 太 政 大 臣 外面なる楢の葉がしは枯落ちて時雨をうくる音の寂しさ ︵ 玉 葉 集 巻 六 、 冬 歌 ︶ によれば、楢の葉柏は落葉したと思われるが、後拾遺和歌 集の歌 題 し ら ず 曾 根 好 忠 榊とるう月になれば神山の楢のはがしはもとつ葉もなし︵ 後 拾 遺 集 第 三 、 夏 ︶ によれば、前年の葉が四月近くまで枝に残っていたように 受 け 取 れ る 。 次に楢の葉が落葉する事を一不す歌には次のような作があ る 。 務 葉 有 レ 声 と い ふ 事 を よ め る 惟 宗 隆 頼 風吹けば槍の枯葉のそよ/\と云合せつ L いつか散る覧 ︵ 詞 花 和 歌 集 巻 四 、 冬 ︶ 冬 夜 恋 と 云 ふ 事 を 前 右 近 大 将 公 顕 議ふりならの落葉に風吹きて物恋しらにさ夜、そ更け行く ︵ 玉 葉 和 歌 集 巻 十 二 、 恋 歌 四 ︶ た だ
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、千載和歌集の次の歌によれば橋の葉は落葉しなか ったとも取れるようである。 山 家 雪 朝 と い へ る 心 を よ め る 大 納 言 経 信 朝戸あけて見るぞ寂しき片岡のならの広葉にふれる白雪 ︵ 千 載 集 巻 六 、 冬 歌 ︶ なお、柏木が落葉したことを示す例歌に新古今和歌集の 歌 が あ る 。 題 し ら ず 法 眼 慶 算 ときしもあれ冬は葉守の神無月まばらになりぬもりの柏 木︵新古今集巻六、冬歌︶ 次に葉守の神とはどんな神を言うのであろうか。源俊頼 は俊頼髄脳において、﹁葉もりの神とは木の葉をまもる神 の木にはおはするなり﹂と言ひ、顕昭も袖中抄で﹁はもり の神とは樹の神也。よろづの木を守神也。﹂と言い、すべ ての木全守る神と考えているが、同じく袖中抄に記すとこ ろによると、家成卿歌合の落葉の題で藤原通憲が﹁名にし おはば葉守の神にいのりみんは L その紅葉ちりやのこると ﹂と詠んだのに対し、判者の藤原基俊が大和物語の﹁かし はぎの葉守の神の﹂の歌を引いて、﹁はもりの神はは L そ のかへでの葉まもる神にはあらず﹂として、相木だけを守 る神と考えていたようである。思うに通憲は柏木・楢・杵 は同種類であるのに、なぜ柏木だけ落葉しないのか、枠も 散り残るかどうか葉守の神に祈ってみようと詠んだもので あろう。この話と前に掲げた新古今集の﹁冬は葉守の神無 月﹂︵八代集抄に﹁折ふし冬は葉守の神もなき月なれば、 柏木の森もまばらに散りたると也。﹂とある o ﹁ 神 が な い ﹂ と﹁神無月﹂とは懸詞。︶の歌からすると、葉守の神は落 葉を止める神であるとの意識が暗々裡にあったものと思わ れ る 。 ところで、勝化しないで巣に残っている卵を意味する巣 守という語、があるが、葉守もおそらくは落葉しない葉を指 すのであろう。従って冬になっても色を変えない常緑樹を 言うのではないかとの疑問も生じるが、平安中期頃までの 歌や物語では葉守の神は柏木又は楢とのみ組み合わされて おり、かつ枕草子に、﹁柏木、いとをかし。葉守の神のいますらんもかしこし。﹂とあるのを見ると、葉守の神はブ ナ科の中でも落葉樹のナラやカシワの類に存在すると考え られていたと見るべきであろう。しかも、完全な落葉樹で あればそれは不適当である、が、この類のうちカシワとクヌ ギとは秋になっても落葉せず褐色になって枯れたまま枝に ついて冬を越す性質がある。この現象に驚異を感じて葉守 の神会想像したのではなかろうか。ただし、その事が平安 時代の民間習俗であったのか、それとも、そうした現象に 気づいていた藤原仲平が、葉を惜しみ守った俊子、ひいて は俊子につらなる千兼を葉守の神のようだとからかったの かどうか確言できないが、おそらくは前者でなかったろう ふ μ なお、柏木︵楢の葉がしは︶やクヌギは冬になって黄葉 しても落葉しないと言ったが、すべての葉が落葉しないわ けでなく、一部は落葉するので、残った葉に葉守の神を認 め、又一部の落葉現象を見て、前述の新古今や玉葉の作者 は﹁冬は葉守の神無月﹂とか、﹁楢の葉がしは枯落ちて﹂ など詠んだと考えられる。こうしたわけで、後撰集の橋は 大和物語の柏木と同一種類の橋の葉柏を指したものであり しかも楢にはミズナラ・コナラ・ハハソなど同類の落葉樹 、があるため、後世になって楢の葉の落葉を詠じたり、葉守 の神はすべての木を守るという考えが生じたりしたものと 思 わ れ る 。 S 轟量動
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降 、 1 4 i i z t ー を h j i −− では柏木はいつ、何故に兵衛の異称となったのであろう か。犬日本国語辞典は、一説として﹁支那の嵩山の古柏を 漢の武帝が大将軍に封ぜし故事より、兵衛なども武官なれ ばいふと﹂との大和物語虚静抄の説を引いているが、それ ならば柏木は近衛や衛門の異称にも用いそうだ、が、そうで ないのは中国の故事によるものでないからであらう。 柏木を兵衛の異称として用いた、最も古い用例は、前掲 の大和物語二十一段の歌と、次にあげる拾遺和歌集の歌で ある 0 ・ 中納言敦忠兵衛佐に侍りける時にしのびていひちぎり て 侍 り け る こ と の よ に 聞 え 侍 り に け れ ば 右 近 人しれず頼めしことは柏木の一社やしにけむよにふりにけ り︵拾遺集巻十九、雑恋︶ 大和物語に一百う良少将良峰仲連と監の命婦との贈答、かあ ︿ 註 ︶ ったのは、すでに述べた・ように延長年聞のことであり、叉 敦忠が兵衛佐であったのは延長六年から同八年までのこと である。ところで、前述の枇杷殿と俊子の贈答はいつの事 か不明であるが、これ、かもし仲平が左兵衛督であった延喜 九年から同廿一年までの聞のことであったら、仲平と葉守 の神のいる柏木と、か結びついて兵衛の異称が生じたとも、 あるいは、昔から柏木は兵衛の異称であったから、監の命 婦も右近もこの語を使用したとも考えられる。 兵衛の異称としての柏木はその後、和歌や散文に広く用いられた。たとえば、天暦八年頃、右大将道網母は・﹁かげ ろふの日記﹂上巻において、右兵衛佐であった藤原兼家か ら求婚のあったことを﹁かしはぎの木高きわたりよりかく いはせんとおもふことありけり﹂と記し、また夫兼家の夜 離れを﹁かしはぎの森の下草くれごとになほたのめとやも るをみる/\﹂と歌っている。 これらは兵衛佐の異称としての例であるが、一条朝以後 は同じく兵衛の替や尉をも指すようになったことが、枕草 子の﹁花の木ならぬは﹂の段に、﹁柏木、いとをかし、葉 守の神のいますらんもかしこし。兵衛の督、佐、尉などい ふもをかし﹂とあるのによって窺われる。なお兵衛督の異 称としての具体例は、次にあげる後拾遺和歌集、玉葉和歌 集、拾遺愚草に見える。 左兵衛替経成身まかりにける其いみにいもうとのあっ かひなどせむとて師賢の朝臣こもり侍りけるにつかは し け る 小 左 近 よそにきく袖も露けき柏木のもとの雫をおもひこそやれ ︵ 後 拾 遺 集 巻 十 、 哀 傷 ︶ 左兵衛督源経成が嘉じたのは治暦二年のことである。 左兵衛督にて侍りける時、別当惟方右兵衛督になりて 侍 り け る 慶 び い ひ っ か は す と て 前 大 納 言 光 頼 古へもたぐひもあらじ我が宿に枝をつらぬる柏木のかげ この藤原光頼・惟方兄弟がそろって左右兵衛督となったの は 保 元 一 二 年 四 月 二 日 の こ 一 と で あ っ た 。 次 の 拾 遺 愚 草 の 歌 は いつ頃の詠かわからないが、鎌倉初期と思われる。 二条の中将近衛づかさにて年たけぬる由述懐の百首に 多くよみて程なく右兵衛督になりて旦に 柏木は今日や若葉の春にあふ君がみかげの繁き恵に 返 し 右 兵 衛 督 春の雨のふりぬと何か思ひけむ恵みに茂き森の柏木 次に兵衛尉の異称としての例は次の一首しか発見でき な か っ た 。 堀河の中宮のたくみの蔵人に兵衛のぞうなる人住むと き L し に ︵ 相 如 集 ︶ 相木の森の下行く自らにくもらばことか人のいふめる 右の歌は堀河中宮の崩が天元二年であるからそれ以前の誌 と 思 わ れ る 。 なお、兵衛佐の異称としての例は前掲のもののほかに、 伝大納言股母上集に さねかたの兵衛のすけに、あはすべしとき L 給て、少 将にてをはしけるほどのことなるべし かしはきのもりたにしけくきく物をなとかみかさのやま のかひなき か へ し
かしはきもみかさのやまもなつなればしげれどあゃなひ とのしらなく・ この歌は右兵衛佐実方と左少将道綱の官職から見て永観元 年の作であろう。次に新古今和歌集に 兵衛佐に侍りける時五月ばかりによそながら物申しそ めて遣しける 法性寺入道前摂政太政大臣 時鳥声をばきけど花の枝にまだふみなれぬ物をこそ思へ か へ し 馬 内 侍 時鳥忍ぶるものを柏木のもりでもこゑのきこえけるかな ︵ 新 古 今 集 、 巻 十 一 、 恋 一 ﹀ この歌は道長が右兵衛権佐であった永観二年から寛和二年 までの頃の作であろう。なお馬内侍集に 兵衛のすけなる人かたらふとみな人き L てのち中将に 文通ほしければ人の聞きていひたる 柏 木 は あ め も 人 め も 繁 し と て 一 一 一 笠 の 山 に 踏 通 ふ と か とあるのも、その頃のことであろうか。ちなみに、﹁三笠 の山﹂は近衛の中少将の異称である。 このような柏木の異称に関する和歌史的事実によって、 能因歌枕、俊頼髄脳、和歌童蒙抄、奥儀抄、和歌初学抄、 和歌色葉、八雲御抄、色葉和難集等の歌学書はすべて柏木 を兵衛の異名・異称としている。 能 困 歌 枕 ︵ 広 本 ︶ みかさ山、中少将をよめり、兵衛をばかしはぎとい ふ。右衛門をば、みかきもりといふ。 俊頼髄脳 兵衛、かしはぎといふ。近衛、みかさのやまといふ 和歌童蒙抄︵第四︶ 兵衛をかしはぎといふ也 奥儀抄︵二十三物異名﹀ 中 少 将 、 み か さ j や ま 、 衛 門 、 み か き も り 、 兵 衛 、 和歌初学抄︵物名︶ 近衛チカキマボリミカサヤマ 中将少将ミカサヤマ 衛門ミカキモリ 兵衛カシハギ 和歌色葉︵七通用名言者他人倫部﹀ 中少将みかさやま、みかきもり 左右衛門みかきもり 左右兵衛かしはぎ 八雲御抄︵異名部﹀ かしはぎ 近衛大将みかさ山仲少点ちかきまもりと一五。 巳 什 レ ﹂ 正 は常事也。大将をも可レ謂。近衛也。 惣衛士 左右衛門みかきもり 名 歎 。 次 将 あ き の く る カ ミ t-:.. 右 忠 衛 本 門 短
靭 負 也 、 ゅ 、 ぎ お ゆぎとりおひてと云り ひ た る 者 也 。 歌 。也。 左右兵衛 色葉和難集 っ か し は 木 和云、かしは木とは兵衛のつかさをいふ。叉た立のか しはをよむ、つねのことなり。ならのはがしはとも。
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、みかさの山と云事 是は少将を云なり。 。、みかきもりと云事 是は左衛門をいふなり。これは大番するに、わうせう などをば南殿をまもらせてゐたり。きればみかきもり と 云 な り 。 右の如く歌学書においても近衛と衛門と兵衛の異称はそれ ん\異っている。八雲御抄に﹁とのベもる﹂は惣衛府の異 称とあるが、壬生忠与の長歌をはじめとして、続拾遺和歌 集、新千載和歌集の例はすべて衛門を指している。 ふるうたにくはへてたてまつれるなかうだ 壬 生 忠 山 今 ちかきまもりの か し は ぎ 。 とのベもると云は惣衛府也。 :かくはあれどもてるひかり な り し を 誰 か は 秋 の く る か た に とのへもるみのみかきもり こ L のかさねの あさむき出て かきより おさ/\しく 嵐のか も おもほえず なかにては1
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身 せ も き か ぎ り き : : : ︵ 古 今 集 巻 十 九 、 雑 体 ︶ この歌について八代集抄は、﹁忠与はもと左近番長也後 に右衛門府生にうつれり﹂、又﹁とのへもる身とは右衛門 なり外衛也兵衛を中のへといへは衛門をとのへといふみか きもりも衛門をいふ﹂という顕昭の註を引いている。 後鳥羽院に冬月の五首の歌奉りけるに如願法師 いたづらに今年も暮れぬとのへもる袖の氷に月を重ねて ︵ 続 拾 遺 集 巻 六 、 冬 歌 ︶ 如願法師藤原秀能は在俗の時左衛門尉であった。 元亨三年七月、内裏にて三首の歌講せられける時、初 秋月といへる事を右衛門督にでっかうまつりける 大納言師賢 雲の上の月も幾夜かなれぬらむ秋来る方の殿上もる身に ︵ 新 千 載 集 巻 四 、 秋 歌 上 ︶ ただ一つ問題なのは締語抄の説である。その官位部には よしいき左右衛門をいふ。左右兵衛をいふ。 新田部貞範自ニ兵衛府生−遷ニ任近衛将曹一歌云、かし はぎのもりのわたりをうちすぎてみかさの山にわれは来 に け り みかさやま中少将をいふ。 とある。﹁よしいき﹂という歌語は考えられないので、そ の例歌から見て﹁かしはぎ﹂の誤写と思われるが、それだ と柏木は兵衛と衛門の異称ということになる。然しながら みこれも貞範の歌からして柏木は兵衛府生を指しているから 柏木は兵衛のみの異称であり、このあたりの椅語抄には脱 文があると考えるのが妥当ではなかろうか。 以上のような柏木の一異称に関する和歌史的実例に反する のが、大日本国語辞典や大言海をはじめとする諸々の古語 辞典や註釈書の説である。それらのほとんど、が相本は兵衛 及び衛門の異称としている。このような誤解は何故生じた かというに、源氏物語註釈史の過程においてではないかと 考えるので述べてみたい。 周知の如く、源氏物語において光源氏の正妻女三宮と事 を起して柏木巻で死去した権大納言は、通称柏木と呼ばれ ている。彼は少女巻に左少将として笠場以来、胡蝶巻で右 近衛中将、警火巻で蔵人一頭、を兼ね、若菜上巻で宰相兼右衛 門督、若菜下巻で中納言兼右衛門督、柏木巻で権大納言と なり間もなく死去した。その後は故権大納言又は故衛門替 と呼ばれているので、彼は権大納言兼右衛門督であったと 思われるが、紫式部、か生存したと思われる、円融朝から三 条朝までの実在の人物で権大納言になって左右衛門督を兼 ねた例は全くない。然しながら、源氏物語において故衛門 督と呼ばれているのは事実であるから、権大納言に任命さ れて数日のうちに死去したので、後任が間に合わなかった のか、あるいは権大納言の職が数日に過ぎなかったのに反 し、衛門督の期間は長かったので親近者はそう呼んだと解 す る 外 は な い 。 ところで柏木という人名は、いうまでもなく巻名に依る ものであり、巻名は巻中の柏木と落葉宮︵少将の君が代っ て詠んでいる︶との贈答歌 ことならばならしの校にならさなむ業守の神の許ありき と 柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿のこずゑか によっている。なお、この歌は前掲の大和物語及び校僕集 の歌を引いたもので、従って葉守の神は故衛門督︵柏木︶ にたとえたものである。さて、源氏物語の巻名は作者が聞 したものではなく、平安末期以後の源氏物語研究者による 命名であることについては疑う余地がない。すでに世尊寺 伊行の源氏釈や無名草子においても巻名がほとんど定まっ ている。巻名が定まると、作者による人物呼称も巻名によ って改められることは自然のすう勢であろう。その結果、 故大納言又は故衛門督と呼ばれた人も、彼について最も印 象的な巻である柏木巻に出てくる衛門督、すなわち柏木の 衛門督と呼ばれるようになった。無名草子、源氏四十八も のたとへの事、伊勢源氏十二番女合などにも﹁柏木の衛門 督﹂という語が頻出する。この柏木衛門督という語はさら に柏木と省略された。人名として柏木なる語を用いたのは 定家の﹁奥入﹂や﹁源氏四十八ものたとへの事﹂などが最 も古いようである、か、河海抄以後はこの語が一般的に使わ
れるようになった。 かくて、源氏物語に登場する衛門替が柏木と呼ばれるよ うになったことから、柏木は兵衛のみならず衛門督又は衛 門府の官人の異称でもあるという考えが源氏物語註釈者の 頭に生じたと思われる。その最初の人は四辻善成であっ た。彼は河海抄巻十四で﹁右衛門のかむの君、衛門を柏木 と云﹂と註している。河海抄はその後の源氏註釈書に大き な影響を与えたが、和歌に造詣の深かった一条兼良、二一条 西公条、北村季吟らは従えなかったのか、花鳥余情、細流 抄、湖月抄にはこの説を引いていない。た父、川町江入楚や 枕草子労註は一説として、これを載せている。この河海抄 の説、か影響したのかどうかわからない、が、賀茂真淵は大和 物語直解の中で、前掲の大和物語二十一段の歌について、 ﹁源氏に右衛門督をかしは木といべるを思へば、兵衛は中 重、左右衛門は外重なれど、ともに御門守さま同じき故に 同じ称ある欺﹂と述べて、衛門の異称が後に兵衛の異称と もなった如く考えているようであるが、同じ大和物語の註 釈室田であっても季吟の抄や虚静抄は柏木を兵衛だけの異称 と し て い る 。 河海抄や亘︵淵の説は、その後辞書に影響を与えたと見え て、倭訓某には﹁かしはぎ、右衛門督を柏木によそへ歌に もよめり﹂とあり、雅言集覧は真淵の説を引いて﹁かしは 、 兵 衛 ・ 衛 円 J 称アリ
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﹂としている。この雅言集覧が大日本国訪問 昨 此 ハ や 大 一 一 託 海 の 説 の 源 を な し た と 考 え ら れ る 。 昭 和 泊 ・ 6 ・3
註 ﹁ 肢 の 命 婦 を め ぐ る 人 々 と 大 和 物 語 の 成 立 に 関 す る 一 考 察 ﹂ ︵ 国 語 と 国 文 学 昭 和 一 二 十 八 年 七 月 号 ︶ 附記。脱稿後、玉上琢弥博士が﹁女子大文学﹂︵国文篇 第十五号︶の中の御論考﹁源氏物語作中人物呼び名の論 ﹂において、﹁附その人の一死捜した巻名によるもの。葵 の上・蛤齢式部卿宮・柏木・薄雲女院 柏木は古系図では柏木権大納言と呼ぶが、後叫れでは柏 木右衛門督と呼ぶ。読者の印象に最も強く残るのは右衛 門督時代であって、権大納言になったのは死ぬ庶前だっ たからである。が、柏木はもと兵衛の異称だから、柏木 右衛門督では矛盾するし、柏木権大納言もそぐわないわ けである。もっとも読者がこの人の通称を﹁柏木﹂とす るに至ったのは、その未亡人の歌﹁柏木に葉守内神はま さずとも﹂︵柏木の巻一二六二B
︶ に よ る の で 、 只 衛 の 一 呉 称とは無関係である。ついでながら、この人は死後も﹁ 右 衛 門 の 督 ﹂ と 呼 ば れ て い る の で ︵ 中 略 ︶ 、 権 大 納 一 一 二 川 任 官後も右衛門督をやめていなかったと見るべきょうであ る。﹂と述べていられる事を知り、既に拙稿の後半は蛇 足の観をまぬがれえないが、玉上博士とは別な道から探 求を試みたものであるので、掲載することにした次第で あ る 。なお本稿を草するにあたり、本学鶴久助教授の貴重な 助言を得た。記して謝意を表したい。