(31)
研究報告 :秋 田大学医学部保健学科紀要13(2):31‑39,2005
カブグラ症候群 と永井の ( 私)論 ( その 1)
‑ ( 私)論への批判で他者 の ( 私) は確保 されたのか‑
新 山 喜 嗣
要 ヒ日ユ
筆者 は, これ まで カブ グラ症候群 の本質規定 にあた って, 本症候群 で は他者 において 「この もの性」 と しての (私) の変更が行われ るものとす る小論 を発表 して きた. しか し,本来 は自分 自身 の もの とされ る く私)が他者 にお いて も存立す るか否か とい う問題 について,それ らの小論で は充分 な検討がなされないまま議論が進め られていた.
したが って,本稿で は他者 における (私)の存立 の是非 に焦点 を当てた検討 を試み,同時に, カブグラ症候群で変更 す る (私)が もつ存在論的な意味 について も検討 した.
最初 に, ここで意図 されている (私)概念を最初 に提起 した永井均 の所論か ら,他者 における (私) の存立 を否定 す る彼 の主張 を概観 した.永井 によれば,(私) とは自分 自身だけが もっ唯一性であ って, それが誰 もが持 ち うる唯 一性一般 に歪曲され ることは許 されない ことであ った.続 いて, このような永井 の他者論 に対 して否定的な見解 を も つ 3名の論者 による主張 を概観 した. しか し, これ ら論者の主張 において も,他者 における (臥)の存立が充分 な根 拠を もって確保 されているとは言 い難 い ものと思われた. したが って, カブグラ症候群 に関す る先 のよ うな本質規定 が妥 当な ものであるためには,他者での (秩)が存立す るための根拠 を,異 なる視点か ら新 たに探 し出す ことが必要 であると思われた.
Ⅰ. は じめ に
筆 者 は これ まで発 表 した小 論 12,13)に お いて, カ ブ グ ラ症 候 群 脚注 1) に て 妄 想 対 象 とな った人 物 で入 れ 換 わ る当 の もの は,人 物 に付 帯 す る属 性 の束 と して の 「私 」 と は 区 別 さ れ る 「この もの性 (haecceity)4・15)」 と し て の (私 ) で あ る い と い う主 張 を , 哲 学 者 永 井 均8,9,10)の (私 ) 論 に仮 託 しっ っ 提 出 して きた. これ は, カ ブ グ ラ症 候 群 を もっ 患 者 の 中 に は外 見 , 性 格 , 役 割 とい った人 物 が もっ 全 て の諸 属 性 の差 異 を認 め な い ま ま, に もか か わ らず , そ の人 物 の 同一 性 を否 認 す るよ うな患 者 が存 在 し, そ の よ うな患 者 を カ ブ グ ラ症 候 群 の純 型 とみ な して検 討 を進 め る こ とが本 症 候 群 の 本 質 規 定 に は有 効 で あ る との考 え方 に基 づ いて い た.
しか し, この よ うな筆 者 の これ まで の主 張 に対 して, そ の後 ,多 くの識 者 ・学 兄 か ら疑 問 と批 判 を頂戴 した.
そ れ らの多 くは, 筆 者 の小 論 にお け る議 論 で仮 託 した 永 井 均 の (私 ) 概 念 の取 り扱 い につ いて で あ り, 小 論 で は永 井 の (私 ) 概 念 が 窓 意 的 に拡 大 され た上 で そ の 援 用 が な され て い る との指 摘 で あ った. そ れ を概 略 す る と, 「永 井 の (私 ) は元 来 よ り自分 自身 の (臥 ) に の み適 用 され る概 念 で あ り, 他 者 に お け る (私 ) の存 立 を永 井 自身 が否 定 して い る. に もか か わ らず, 筆 者 の小 論 で は他 者 の (私 ) を 当初 よ り存 立 可 能 な もの と して持 ち出 し, そ の上 で, カ ブ グ ラ症 候 群 を そ の よ う な他 者 の (私 ) が変 更 す る もの と して論 じて い る. し た が っ て , そ の よ う な 論 法 を と る こ と は , 永 井 の (私 ) 概 念 を正 し く理 解 す る限 り適 切 で な い」 と い う
秋 田大学医学部保健学科作業療法学専攻 KeyWords:カブグラ症候群 永井 の (私)請 他者
同一性 個体
(32) 新山喜嗣/ カブグラ症候群 と永井の (臥)論 (その 1)
指摘であ った. ここで確認 をすれば, もとよ り,筆者 が カブグラ症候群 にて変更 を とげるとす る (私) は, 永井均 の提起 した く私)概念 による (私) とは後述す るよ うな重要 な点 で異 な るものであ った. もちろん, 筆者 の (私) とい う表記法 は永井 に倣 った ものであ り, そ こで使用 され る (私) も,永井 による (私) と ̀属 性 を欠如す る' ことか ら始 まるい くつかの共通点 を も つ ものであ る. しか し,筆者が使用す る (私) は, あ る地点か ら永井への正確 な追随 よ り意図的 に逸れてい ることは疑 いない.筆者 の小論12)において もこの点 に 関す る簡単 な補説 は しておいた ものの, に もかかわ ら ず筆者 による (私) の使用が永井 の意図 に背 いている との批判が向 け られ るとすれば,永井 とは異 な った筆 者独 自の (私)概念が正 当な理 由を もって成立 しうる もので はないとの見解が提 出されていると考 え るべ き であろ う.
このよ うに, (私)'概念 はその解 し方 に慎重 な配慮 を要す るに もかかわ らず, これまでの筆者 の小論では, そ こで仮託 した永井 の (私)論 に関す る検討 を相 当に 簡略 して行 ってお り, また,筆者がカブ グラ症候群 で 入 れ換わ ると した他者 の (私) に関 して も充分 な概念 規定がなされないまま終了 していた. したが って,本 稿 で は以前 の小論12・13)において議論が不充分であ った 他者 における (私) の存立 の是非 を中心 に検討 を し, そのよ うな手続 きを経 ることによ って, カブグラ症候 群 で変更す る (私)が如何 な る存在論的 な意味を持 ち うるか とい う問題 について考察 を進めることに したい.
このよ うな 目的 に沿 うために,本稿で は次 のよ うな順 にて論述 を進 め ることとす る. まず,次章 の Ⅱ章 にて (私)論 に関す るこれ までの展開を概観す るが, その 第 1節では永井が意図す る (私)論 につ いて,中で も 筆者 との相異が きわだっ他者 における (私) の存立 の 是非 に関す る部分 を中心 に確認 したい.次 に,同章 の 第2節 にて,永井 の (私)論 に対 して これ までになさ れた3名の論者 による代表的な批判 を紹介す るが, こ
れ ら論者 の中心的な論点 はいずれ もが偶然 に も, ある い は当然 の ことなが ら, 永井 が その存立 を否定 す る
「他者 の (私)Jの問題 に直接的な関わ りを有 している.
Ⅲ章 で は, このよ うな (私) をめ ぐるこれまでの議論 によ って,他者 において も (私) が存立 しえ る途が確 保 されたか否か につ いて検討す る. これ らⅡ章 とⅢ章 は,Ⅳ章か ら始 まる一連 の議論へ の予備的考察 の性格 を もっ. そ して,Ⅳ章で行 う議論 を踏 まえなが らⅤ章 に至 って,他者 において (私)が存立 しえ ることを示 す予定 で あるが, その ことによ って, (私)概念 が カ ブグラ症候群 の理解 に寄与 しえ ることを改 めて示 した い. また, ここで は同時 に,個体,同一性,世界,偶 然性 とい った伝統的な形而上学的概念が もつ座標軸 の 上で,他者での (私)が どのよ うな位置を占めるか と い う点 も検討 してみたい.最後 にⅥ章 にて,他者 にお ける (私) をカブ ブラ症候群 とい う病態 の上 に照 らし 出 した ときに, そのよ うな (私) が如何 なる存在論的 な意味 を もっか とい うことにつ いて検討 したい.
Ⅱ.他者の (私)をめ ぐるこれ までの展開
1.永井の (私)論 における他者
永井 の (私)論 に とって,人物 に付帯す る属性 の束 と しての 「私」 と区別 され る (私) とは, あ くまで 自 分 自身 の この (私) であ って,任意 の人物 であること を拒むよ うな唯一性 の レベル (永井 はこれを 「単独性」
の レベル と呼ぶ) を もっ ことは もとよ り, そのよ うな 唯一性 自体が誰 にとって もの唯一性 に一般化 されて し ま うことを も拒 むよ うな レベル (永井 はこれを 「独在 性」 の レベル と呼ぶ) を もっ とされ る.永井 は次 のよ うに云 う.‑ それゆえ,独在性 は伝達可能 な単独性水 準か らの絶 えざる逸脱 ・離反 とい う形 で しか 自己を示 す ことがで きない. ここにいた って単独性 と独在性 の 括抗 はきわめて力動 的な もの とな る.‑ 10)このよ うに, 永井 によ って (私) の唯一性が限 りな く純化 され ると
脚注1)カブグラ(Capgras)症候群とは,身近にいる人 物について 「顔かたちはそっくりだが別の人物に 入れ替わっている」と患者が訴える特異な妄想で ある.このとき,妄想対象となった身近の人物は, 患者にとって本物に成 りかわったにせものとされ ることになる.本症候群は,一連の症状からなる 組合せではないことか ら,「症候群」 という名は 本来は適切ではなく 「カブグラ症状」とするべき との意見もあり,また,妄想対象が人物に限定さ
132
れているとすれば本症候群の別名である 「ソジー (sosie)の錯覚」の方がむしろ適切かもしれない.
ただし,従来より多 くの症例報告で 「カブグラ症 候群」の名が使用されてきた経緯があることから, 拙稿でもこの慣例に従 うこととした.本症候群は 国内外で300例を超える報告がなされているが, 臨床で遭遇 したとしても症例報告をしない医師が 多いことを考慮に入れると,世に棲む患者は実際 には相当な数に登るものと推測される.
秋田大学医学部保健学科紀要 第13巻 第2号
新山喜嗣/カブグラ症候群 と永井の (私)論 (その 1)
き, その純化 の過程で他者 の問題が浮上 し,同時にこ の他者 は絶えず排除 され続 けるべ き対象 となる. なぜ な ら,「独在性」 の レベル と しての (私) は, それが 伝達 されよ うとすればどの (私) にも妥 当す るよ うな
「単独性」 の レベル と しての (私) に読 み換え られ る ことか ら, この読 み換え と しての 「変質 ・頚落」への 抵抗 として唯一性の純化 の運動が絶えず行われ る必要 がでて くるか らである. この とき他者 の存在 は,唯一 の (私)がそれ ら他者 にも妥当す るもの と して一般化 され る可能性 を提供す るものであ り,本来の (私)が
「単独性」 の レベルへ と変質す るのをいざな うもので ある. したが って,「独在性」 の (私) が この変質 に 対す る拒絶 によ って維持 され る限 りは,他者 は 「独在 性」 にとって常 に否定的な契機 とな らざるをえないの である.
ここで永井 は,従来 の独我論が どの (私) に も適用 され る一 般 化 され た独 我 論 で あ る と して, 自 らの (私)論 におけるこの (私) にのみ適用 される独我論 をそれ らか ら区別 しよ うとす る. ところで, この とき 彼 の独我論 の主張 によって,逆 に他者がい ったん必要
な もの と して要請 され るかのよ うに見 え る地点 が あ る.‑ ‑ (私) の独我論 は, それ に したがえば本来●●
存在 しえないはずの他 の (私)の存在 を暗に前提 した ときにのみ, 語 りう る もの とな る.(傍 点永井) ‑9)
(私)が独 りであることを ̀図'と して浮 き立 たせ る ためには,同型性を もった多 くの 「他 の (私)Jの存在 が ̀地' とな るもの として必要 となるのである. ただ し, ここでの 「他の (私)Jは, この (私) を原点 とし てそ こか ら開かれている世界の中に登場す るよ うな対 象ではな く,永井 によれば この (私) と同 じく 「そ こ か らも世界が開 けている」 もうひとつの世界の原点で あるとされ る.一他の (●●私) は,つま り他者 は,(私) についてそれについてだけ語 ろうとす る意志の内部で, その意志が産 み出す意味作用の不可避的な副産物 と し て, ただ非 主題 的 にのみか いま見 られ る. (傍点永 井)‑9)この よ うな ̀か いま見 られ る' ものは独我論 を語 るとき, そのときに限 ってかろ うじて示 され るも のにす ぎず,永井 は 「他 の (私)Jの存立 を このよ うな
(33)
否 定 的 な あ り方 以 外 に は認 め て い な い. 永 井 が , (私)か ら開かれ る世界 と 「他の (私)Jか ら開かれ る 世界 について,‑ それぞれの並行世界 は,相互 に重 な りあいなが らも, 無 限 の距離 によ って隔て られて い る.‑ 10)と述べ るの も, この否定的なあ り方 をよ く示 している.永井 にとって 「他 の (私)Jが この (私)の 世 界 の 中 に登 場 す る こ とは あ り得 ず , か く して, r(私) には隣人がいない」 と宣言 され ることにな るの である脚注2)
以上,永井 の (私)論が他者 につ いて語 っているこ とを概観 して きた. ここにおいて, カブグラ症候群 を 患者 にとっての 「他 の (私)Jの変更 とす る筆者の前稿 に対 しては,永井 の所論 に忠実である限 り批判や疑義 が向け られ るのは当然であ り,寄せ られた批判や疑義 は概ね次の4点 にまとめ られ る.① カブグラ症候群 を 呈 した患者 における 「自分の (私)Jの隣人 として,妄 想対象 とな った人物 の 「4 他 の (私)Jが同一 の世界 に存 在す ることはあ りえない.② カブグラ症候群 の妄想対 象 とな った人物 に も (私) を認 め ることは, (礼) の もっ 自他の非対称性 とい う性質 に背 くものである.③ そ もそ も 「他の (私)Jを認 めることは唯一性が複雑性 を帯 び るとい う矛盾 であ って,(私) が固有性一般 に 変 質 した事 態 で あ る. ④ 永 井 の意 図 とは異 な った (私)概念の使用 を しているにもかかわ らず,永井 の 表記 をそのまま倣 って (私) と表記す るのは不適切で ある.以上 の4点 の批判 ・疑問の うち,① と② に関 し ては結局 は③ に帰す ると考え られ る. そ して,永井 の 意図に沿お うとすれば,本筆者への③ の批判 は至 当で あることを ここで断わ りたい. しか し,永井 の (私) 論 においてはとくに他者論 に関す る限 り,永井の意図 をはみ出す微妙 な点 を残 してお り, その問題 をⅢ章以 降の一連の議論 において検討す るが, その前 に本章 の 次節 において,現在 までに提 出された永井 の (私)論 への代表的な批判 を紹介す ることによってそれをⅢ章 以降での議論への伏線 に したい.̀ただ し,上記の④ の 批判 ・疑問 は他 と水準 を異 に しているので, ここにて 回答 を してお く.すなわち,次節で述べ るよ うに,筆 者 に限 らず永井 の (私)論 には幾っかの異論が提 出さ
脚注2)このように,永井の (私)請では,独在性から単 独性への変質の問題と,独我論が語 られるときに 生 じる問題という,2つの独立 した経路から 「他 者」の問題が発生 していると考えられる.しかし,
この別々の経路から発生 した 「他者」同士の相違 について,永井によってはとくに触れられていな
い. もし, このように別々の経路か ら発生 した
「他者」が根拠もなく一致すiことに,別段異和 感を覚えない永井の読者がいるとすれば,それは, それら読者による他者の実在への抜きがたい信葱 によるもののように筆者には見えてしまう.
(34) 新山喜嗣/ カブグラ症 候群 と永井の (私)請 (その 1)
れている. しか し,それ らは永井の (私)論 を中心 と してその円周 をなすかのよ うに,いずれ も,近代 にお●●
ける人間主体一般 としての ̀● 私'概念 を踏襲 していな いとい う点で は共通 している. これ ら一連 の議論 の発 端 を作 った永井 に敬意 を表す るとともに,異論 は多様 であ ったと して も中心的論点 は離散すべ きではないと い う観点か ら, あえて (私) とい う表記 をそのまま使 用 した.
2.永井の (私)論への これまでの批判
永井 によ る (私) をめ ぐる一連 の考察8,9,10)に対 し ては, この ことを中心的な論題 とした ものか ら評釈 と してわずか に触れた ものまで,現在 まで多 くの論者が 言及 している. もっとも,永井 の (私)論 の主軸 をな す 「独在性」の概念が当初か ら誤 った理解がなされた 上でその (私)論への批判が行われていると永井が考 えたい くつかの論考14,17)に対 しては,永井 自身が 自ら の著述10)の中で逆批判 を展開 して きている. しか し, 本稿で ここに紹介をす る3名の論者 による永井批判 は, 永井 の主張す る 「独在性」 に対 してい ったんは一定 の 理解 を示 しっっ も,その上 で,永井 の (私)論 に対す る批判的検討 を通 じて 自 らの (私)概念 を構築す る作 業 を試みた ものばか りである. そ して,前述 のよ うに いずれの論者 において も,永井が否定 した他 の (私) の存立 をどのよ うに考え るべ きか とい う問題 との接点 上で この作業が行われている.
尚, ここで確認 を してお くと,当然 なが ら拙稿 の目 的 はあ くまで, カブ グ ラ症 候 群 の本 質 規 定 を他 の (私) の変更 とす る筆者 の立場 の根拠 を確保す ること にある.決 して,その目的が, ある問に関わ る哲学上 の論壇の,本邦 における現況を読者 に紹介す ることに あるのではない. しか し,永井 の (私)論 に対 して提 起 されたこれ ら3名の批判 は,批判が提 出されたとい う事例的な出来事 につ きない ものがある.それは, こ れ らの批判 は,永井 の (私)論 に対 してい ったん は提 出され るべ き範例 となる批判 とも考え られ るものだか らである. したが って, これ ら3名 による批判を吟味 す ることは, カブグラ症候群 に対す る本質規定の立脚 点 を確保す る上で避 けて通 ることので きない重要 な作 業であると考え られ る.
(1)勝守真 による批判5,6):勝守 は永井の (私)論の 中核 にある, 自分の (私)の他者 に対する存在論 的 ・方法論的先行性 に疑念 を表明す る. とくに矛 先が向けられるのは, (私)のもっ偶然性 と奇跡性 が他者 の媒介な しに成 り立っとされる点である.
ここで概説 してお くと,永井 による (私) の偶 然性 とは, 自分の (私)が世の中の人間の うちの 134
誰 と結合 しているかは何 の必然性 もないにもかか わ らず,現実 には永井均 とい う具体的な一人 の人 物 と結合 して い る ことの偶然 性 で あ る. また,
(私)の奇跡性 とは,世 の中の人間のどれ もが こ の (私)でない こともで きたはずであ り, それに もかかわ らず現実 にはこの (私)が存在 している とい うことの奇跡性である.永井 はこのよ うな偶 然性 と奇跡性を,次のよ うな状況 を想定す ること によ って際立 たせている. それ は,永井均がある 日突然 にこの (私)でな くなるとい うよ うな想定 である. このよ うな想定 において も,一永井均 は 依然 として存在 し,この論文を書 き続 けている.‑
部屋 に入 って きた彼 の妻 は, 彼 といっ もと同 じ よ うに会 話 を し, 何 の不 審 も抱 か な いで あ ろ う.‑9)永井 は続 けて言 う.‑ 私 自身 に とって, この想像 は有意味である. しか し, この想像が有 意味なのは,私 自身 にとってだけなのである.他 の人 々は,永井均 に起 こった この<異変 >に,何 の意義 も認 めることがで きない.‑ 9)
このよ うな永井 の叙述 に表われ る (私) に関す る異変の有意味性 を,勝守 はその異変が認識 され るか否か ということと して読 み取 る.すなわち, 勝守 によれば (私) に関す る異変が 自分だけに有 意味であ って他者 にとっては有意味でないとい う
ことは, (私) に関す る異変 が他者 によ って認識 されないということを意味す るのである. さらに, 勝守 にとって (私)が もっ偶然性 と奇跡性 はこの よ うな有意味性 と重 な り合 うことであ り,それ故 に, (私) の偶然性や奇跡性がそのよ うな偶然性 や奇跡性であ り得 るの も,先 のよ うな異変が他者 によって認識 されないとい うことに基礎づ け られ るとされ るのである. ここで,勝守が 自らの論点 と して強 く主張す ることは, (私) に関す る異変 が他者 によって認識 されない ことは, 自分が 自分 自身の中だけで けっして知 り得 ることではな く,
̀認識 されない' とい う 「他者 の語 りを聞 く」 こ とによって初 めて知 られ ることになるとい う点で ある.つま り,かの異変が他者 によって認識 され ない ことは,他者が語 り, 自分がそれを聞 くとい う対他関係 の媒介を待 って始 めて 自分が知 るとこ ろとなるのである.か くして,勝守 によれば 自身 の (私)が もっ偶然性 と奇跡性 は他者 の語 りを聞 くとい う他者 との関係 にその始源か ら巻 き込 まれ ていることにな り,永井 の (私)論が もっ 自身の (私)の他者 に対す る先行性 はそ こで くっがえさ れ ることになるのである.
(2) 森 岡正博 によ る批判7):森岡 による永井への反
秋田大学医学部保健学科紀要 第13巻 第2号
新山喜嗣/ カブグラ症 侯群 と永井 の (私)請 (その1)
論 はいた って簡潔であ り,それは,永井が独在性 としての存在者 に対 して (私) とい う不適切 な表 記法 を とったとい うことにつ きる.森岡は ̀私' と ̀他者' とい う2つの概念 は相互 に依存 し合 っ てお り,私 とい う表記 をすれば必然的に他者 の存 在が前提 とされて しま うと指摘す る.つま り,私 とい う言葉 の もっ意味論的な制約が,独在性 とは 元来 よ り無縁 なはずの他者を登場 させて しま うと い うので あ る.一 独在 的存在者 を指 し示 す の に く私) とい う表記 を用 いることで,永井 は自 ら仕 掛 けた民 に陥 って行 く.‑ 7)よ って,森岡 によれ ば ( ) の中に ̀私'以外の適当な言葉を放 り込 む ことによ り,他者 の存在を暗 に措定 して しまう とい う不必要 な事態 は避 けられるとい うのである.
このよ うに,森岡は独在性の レベルか ら他者 の 存在 をよ り徹底的 に排除す る方法を提案す る. し か し,その一方で森岡は他者 について,‑ 「他者」
は他 の (私) として登場す るのではな く,独在性 の レベルについてその議論 を可能 にす るこの公共 的 な性質 とい う形 に変質 して,登場 す るので あ る.‑ 7)と語 り,「独在性」 に加 えて新 たに 「共 同 性」 の レベルが人称的世界を構成す るために必要 であると宣言す る. そ して,森岡 は 「独在性」 と
「共 同性」 の両者 の関係 は ̀互 いに独立変数'で あるとす る. ただ し, 「共同性」 に関す るそれ以 上の素描 もないまま,先 の宣言 の直後 に筆が折 ら れている.
(3)入不二基義 による 批判1,2,3):唯一無二 の存在 としての (私) に至 るアプローチの仕方 に関 して, 永井が (私)の もっ偶然性 ・奇跡性 というある種 の形而上学的直観 を出発点 にす るのに対 し,入不 二 は ̀私' とい う語 の働 きに関す る形式的 ・論理 学的な議論 を出発点 とす る.すなわち,入不二 に よれば ̀私' とい う語 には,その語 の発話者であ る個体 を指示す る働 きとしての 「個体性」 の レベ ル (私1)脚注3)と, その語 の発話者 自身への再帰的 関係 を表 出す る働 きと しての 「形式性」 の レベル (私2)の2つがあると した上で, さ らに, これ ら 2つ の レベ ル とは異 な る 「単 独 性 」 の レベ ル
(35)
(私3)を暗示す るとい う3つ 目の働 きがあると云 う.「単独性」 の レベル とは,具体的 には 「或 る 自己意識が,入不二 の中に在 る。」 と 「他 な らぬ この自己意識 が,入不二 の中 に在 る。」 とい う云 い方 にあ って,後者 の場合 にだ けある 「この性」●●
が まさに 「単独性」 を暗示す るとい う. ただ し, 入不二 によれば, ここで注意すべ きこととして, 暗示 とい う言 い回 しがす で に示 して い るよ うに
「この私」 によって単独性 を指示 しよ うとして も,●●
す ぐにその 「この性」 はこのとい う限定 を無限 に 付加 し続 けない限 りは,一般化 された個体性 と形 式性 の レベル (私 1+2) の ̀私' に回収 されて し まい,直接 には 「単独性」 (私3)を指示す ること が で きない と して い る. この点 で は, 入不二 の
「単独性」 (私3)は永井 の 「独在性」 (私4)にき わめて近接 しているもの と思われ るが, ただ し, 入不二 は以下 の点で永井 に異論 を唱える.
異論 の一点 目は,永井が 「独在性」 を示す にあ た って,一般化 と しての変質か らの絶 えざる離反 とい う一方向性の運動 のみを重視す る点 に向 けら れ る.すなわち,入不二 によれば,永井 のよ うな
「個体性 ・形式性」(私1.2)‑‑ 「単独性」 (私3)
‑‑ 「独在性」 (私4)とい う唯一性 の強度が増す方 向の運動だけで はな く,逆 にその強度が減 じる方 向の運動があることによ って こそ 「独在性」 が示 され うるとい う.一変質 と遡行 とい う<対 >関係 が本質的なのであ り,一方 のみを純化す ることは 不可能 で あ る.‑ 3)入不二 に とって私3は私1+2と 私4の間隙 にあ って 「中間的 ・二重的」 な特性 を もち, この私3の二重性が もつ両方 向性 の運動 と しての緊張関係 の中で私 。はか ろ うじて示 され る ことになる. この ことは,先 に森岡が触れた独在 性 としての存在者 の表記法 につ いて も関連 を もっ ことになる.入不二 は,独在性 の表記が (私)で あ って例 えば (¢) で ない ことの回答 と して, 一私 の単独性がつねにすでに私 の個体性 ・形式性 に変質 しているとい うことは,逆 に 「変質」 とい う動 きの中につねにすでに私の単独性が読み込 ま れていることである.‑ 1)と云 う脚注4).入不二にとっ
脚注3)ここで使用する私1,私2,私3,私。という表記法 は,永井が入不二の批判に対 して逆批判を展開し た論文10)の中で使用されたものであるが,入不二 もこの論文への応答3)の中でその表記法を踏襲 し ていることから本稿でもそれに倣 うことにする.
脚注4)入不二は 「単独性」という言葉を 「独在性」 と区 別 しないで使用することがしばしばあるが,とく にこの箇所では 「単独性」という言葉を 「単独性」
のみならず 「独在性」の意味に置き換えてもその 主張は維持されうると考えられる.
(36) 新山喜嗣/カブグラ症候群 と永井の (敬)請 (その 1)
て,私 1か ら私 。までの問で作 られ る一連の関係 は 私 の場で生起す る両方 向への 「ずれ」 として とら え られ,それ故 に 「独在性」 といえ ども一方向へ 完全 に昇華 されて しま うことのない不純性を もっ ことか ら, 「独在性」 に対 して ̀私' とい う表記 が使用 され るのは決 して不 自然 な ことではないと されるのである.
入不二 の永井への異論 の二点 目は,永井が 「独 在 性 」 と して の (私 ) は 「言 語 ゲ ー ム」
(Wittgenstein,L.)16)的合理性か ら絶 えず はみ出 るものであるとす る点 に向 けられ る.入不二 は, このよ うな言語 ゲームか らの超 出に関す る叙述 自 体が もう一つの言語 ゲームを形成 しているとし, あ くまで 「独在性」 と しての (私) を言語ゲーム の中に含み込 もうとす る. そ して, この ことにお いて他者への戸 口を開 けることを試 み る.すなわ ち,入不二 は,各人が同等 に固有性 を共有 しあう 場である 「社会的言語 ゲーム」 に対 して,かけが えのない絶対的な固有性 を私 と他者 の問で保存 し 合 う場 を 「ェロス的言語 ゲーム」 と呼 び,後者 の 実相 を記述 しようとす る.彼 によれば, エロス的 言語ゲームにおける他者 の 「高次 の固有性」 は, 私 の 「単独性」 と相関す ることによ ってその私 の
「単独性」 か ら支え られているとい う.一方,私 の 「高次 の固有性」 も同様 に他者 の 「単独性」 に 支え られているはずあ り,そのよ うな ものとして の他者 の 「単独性」 はすでにエロス的言語ゲーム において前提 とされているとい う. このように, 他者の 「単独性」 は, エロス的言語 ゲームの中で 私 のイ 高次 の固有性」 を照 らしだすいわば虚焦点 として,他者 の中に読 み込 まれているとされ るの である.
Ⅲ.
(私)論への批判が向か う院路拙稿 の目的 は, 自分がいる世界 に他 の (私) も存立 しうるか否か とい う問 に対 して,一定の回答 を示す こ とにある. これは, とりもなおさず Ⅰ章 で紹介 したカ ブグラ症候群 を他の (私) の変更 として捉え ること‑
の疑問や批判 に対 して, そのよ うに捉え ることの妥当 性 の根拠 を確保 しようとす る試 みで もある.当然の こ とであるが,他 の (私)が 自分 自身の (私) と同一の 世界 に存立 し得 たときにのみ, カブグラ症候群をその ように捉え ることの妥当性 に途が開かれ ることになる.
なぜな ら, カブグラ症候群 を呈 した患者がいる世界 に もしも患者 自身の (私) のみが存立 してそれ以外 に他 の (私)が存立 しないのであれば,患者 にとっての他
136
者 において,その他者 を占有す る (私)が変更す るこ とは元 々あり得 ない ことになるか らである.
自分 の (私)が一定の人物 と結合 していることに異 変があ ったとき, このような異変 は私 自身 にとって有 意味な ことであ って他者 にとって は有意味な ことでな い ことの理由 として,永井 はそれが他者か らばこのよ うな異変が気づかれないことであることを自らの論考 の中で幾度か述べて いる.勝守が (私) の存在 の偶然 性や奇跡性 について,知 りうることか否か とい う問題 に関連 させて論 じたの も, このような永井の記述 に添 っ た ものであ り,それ 自体 は自然 な ことであると思われ る. しか し,永井 は一方で次のよ うに述べている.‑
たとえば今晩寝て起 きると, あるいは次 の瞬間に も, 私であるこの人物が,物理的同一性 と心理的継続性 を 維持 したまま,私でな くな って しまう, とい うことが 考 え られ ることになる.考 え られ る, と私 は思 う.だ●●
が, それが起 こった とき, それが起 こった ことを知 る●●●●●●●●●●●●
主体 は もうどこにもいない (傍点筆者). (中略) しか し,今晩 これか らそれがお こることを恐れ ることには 意味がある, と私 は感 じる (傍点永井).‑ll)このよ う に永井 は,将来 に起 こる自身の (私) に関す る異変が 現在 の 自分 自身 にとって有意味であることを述べてい るが, さ らに,将来 の自分 自身 にとって もやはり有意 味であ ることをそ こで述べているように筆者 には思わ れ る. そのよ うな場合, (私) に関す る異変 をその と きに知 りうる主体がいな くて もや はりそ こに有意味性 は発生 しうることを意味 し, したが って,私 自身にとっ ての変更の有意味性 は,その変更 を私 自身が知 りうる か否か という問題 とは無関係 な事柄であるとい うこと にな る. そ もそ も, (私) に関す る変更 の有意味性 の 有無 は当初か ら存在論的な問題であったはずであ り, したが って, それ は変更がわか るか否か とい う認識論 的な問題 とは別個 の問題 と して扱 われ るべ きはずなの であ る. そ して, (私)が一定 の人物 であることの偶 然性や (私)が存在 したことの奇跡性 も,やは りそれ は有意味性の問題 と連接す る存在論的な問題であ り, それを知 りうるか否か とい うこととは別個 の問題であ ると考 え られ るべ きなのである. このよ うな思路 に立 つ限 り,勝守が指摘す る 「異変 に気づかないとい う他 者 の語 りを聞 く」 ことの偶然性や奇跡性 にとっての意 義 は,そ こで消失せざるを得ないことになる.そ して, 勝守 によって示 された他者へ と至 る道筋 も, ここに来 て途絶す ることとな る脚注5)
一方,森岡 は前述 のように当初か ら他者 の存在 を根 底 よ り排除 しよ うと し, (私) とい う表記 さえ もが, 私の対概念である他者 を暗黙裏 に呼び込む不適切 な表 記であ るとしたので あ った. しか し, 「独在性」 と し
秋田大学医学部保健学科紀要 第13巻 第2号
新山喜嗣/カブグラ症侯群と永井の (私)請 (その1)
ての存在 を表す ( ) の中には存在 を示す何 らかの言 葉 が入 らな けれ ばな らず, た とえ森 岡 の言 うよ うに (私) とい う表記が不適切であるとして も,読者 はそ の不適切 さを念頭 に置 きっっ読めばそれで事足 りるの である.そ してそのようなときには,永井が 「独在性」
の真 の意味を読者 に伝達す ることに成功 しているとも 云え るのである.問題 は,森岡の意見 に反 して (私) がその表記が適切 な もの と して意図的に使用 された場 合であ り, このような場合 に不用意 に他者が要請 され て しまうか否かである. た しかに,意味論的問題 の取 扱いが存在論的問題 と深 く関わ り合 うことは場合によっ て はあ り得 るものと考え られ る. しか し,森岡の危供 は言葉の概念が もた らす他者 の問題 にあ くまで議論 は とどまってお り,その限 りで は,存在論 的に他者 をど のよ うにとらえ るべ きか とい う問題 とは常 にすれ違 う もののよ うに思われる. したが って, た とえ意図的に (私) とい う表記が使用 されたときに も,森岡の危倶 に もかかわ らず他者の存在 自体 は暗黙裏 にさえ措定 さ れ ることがない もの と思われ る. また,他方で,森岡 によって他者がそこに登場す ると予告 された 「共同性」
とい う概念 について も,筆者 の知 る限 りでは現在 まで 森岡 自身 によ って素描 さえ されていない.結局,森岡 の論考の中には,他者 の存在 について直接 に触れ る議 論 は今 までの ところ何 も含 まれていないよ うに思われ
る.
勝守のよ うな認識論的なアプローチや, あるいは, 森岡のような意味論 に限定 したアプローチとは異な り, 入不二の とった方法 は,私 の指示 に関わ る形式的な議 論 を出発点 と しなが らも,常 に存在論的な (私) の問 題 を背後 に控えさせていた ものと考え られ る.例えば, 入不二 によ ってなされたなぜ (私)であ って (¢)で
はないのか とい った議論 も,森岡のよ うな純粋 に意味 論的な問題 と しての議論で はな く,実質 を何 ら持 たな いよ うに見え るものがなぜ (私) と して ̀私' によっ て充実 させ られているのか といった存在論的な問題へ の回答であ ったと考え られ る.
ただ し,一方 で入不二 は, (私) の唯一性 の純度 に 関す る 「個体性 ・形式性」⇔ 「単独性」⇔ 「独在性」
とい う一連 の運動 を, 「独在性」 の出 自に関わ る存在 論的な問題 と して捉え るのではな く, このような運動 は 「独在性」 の示 し方 の問題であるとも述べ る.すな
(37)
わ ち, (私) に関す る両方 向性 の運動 は永井 とは異 な るもう一つの 「独在性」 の示 し方 にす ぎないとして, 自らの主張を相対化 させ る論調 も見せ るのである.入 不二 は,彼の 「独在性」の示 し方を 「類比的な指 し示 し」 と呼び,永井 のそれを 「説明の拒絶」 と呼んで次 のよ うに云 う.‑ 「類比的な指 し示 し」 と 「説明の拒 絶」 との対立 は,実 は,同一平面上 の対立 とは異 なる ものである.それは,同一の言語 ゲーム内での 「事実」
をめ ぐる対立で はな く,同一 の 「謎」 をめ ぐる異種 の 言語 ゲ ーム間 のずれなので あ る.‑3)しか し, このよ うな入不二 の陳述 に もかかわ らず,入不二 と永井 の両 者 による 「独在性」 の示 し方 の問で, それぞれが参入 す る言語 ゲームについて,入不二が指摘す るほどの差 違 はそ こにないよ うに筆者 には思われ る.なぜな ら, 永井 に して も入不二のよ うに私 の唯一性 に関 してい く つかの水準 があることを認 めて いるか らこそ,「独在 性」 に至 るためには唯一性 の減弱 と しての 「変質」か らの絶 えざる 「離反 ・逸脱」が重要 であることを強調 す る必要があ った もの と考え られるか らである. した が って,(私) の唯一性 に関わ る運動 につ いて,永井 のよ うに一方向性 を主張す るかあるいは入不二のよ う に両方 向性 を主張す るかの違 いにつ いては,言語 ゲー ムの異種性 どころか,同一 の言語ゲーム内での主張の 差違 と して も, 「独在性」 と しての存在者 を理解 しよ うとす る上で意味のある差違 には見 えないのであ る.
それで も,その差違 こそが重視 され るべ きとの主張が あるとすれば, それ は, 「独在性」 を存在論 的に捉 え よ うとす るここでの本来 の目的 とは無関係 な,別種 の 意図がその主張 に含 まれている時だ けであるように思 われ る.畢毒す るに,入不二 は自らの所説 を複数 の言 語ゲームの一つ として相対化 させて しまう必要 はなか っ たのである.すなわち,永井が (私) に関 して徹底 し た唯一性 の純化を求 めれば求 めるほど,逆 にその純化 に背 く運動 を,否定的な もの としてであれ,「独在性」
に関わ る看過で きない要素 と して暗 に認 めている もの と考え られ るのである. したが って,入不二 のよ うに (私) に関す る両方 向性 の運動 を認 めてゆ くことは, この事態 に対 す る率 直 な把握 で あ り, また同時 に,
「独在性」 に対す る理解 の基本的な根幹 において永井 の思考 にそれ ほど背馳す るもので もないよ うに筆者 に は思われ る.
脚注5)実は,勝守自身が自らの著述6)の政文と思われる 箇所で,(私)をめぐる認識論 と存在論との問の 相克の問題に触れている. しかし,その著述の本
文はここで述べたように認識論的な関心によって 貫かれており,拙稿ではその本文の骨子に沿 った 紹介をしたことをここに断りたい.
(38) 新 山善嗣/ カブグラ症候群 と永井の (礼)論 (その 1)
もっとも,その一方で,他者 に至 る経路 に関 して は, 入不二 が行 ったよ うな 「エ ロス的言語 ゲ ーム」 の記述 の試 み によ って は決 して開かれ るもので はない と思 わ れ る. なぜ な ら, 「エ ロス的言語 ゲ ーム」 の場 に現 れ るとされ る,先 に述 べ た,他者 の 「高次 の固有性」, 私 の 「高次 の固有性」,他者 の 「単独性」 といった各 々●●
は, 「エ ロス的言語 ゲ ーム」ノの記述 によ って得 られ る もので はな く, まさ しく 「エ ロス的言語 ゲ ーム」 とい う概念 の構成要素 その もので あ るよ うに思 われ るか ら で あ る. も し仮 に, 「エ ロス的言語 ゲ ー ム」 と呼 ばれ るべ き言語 ゲームが まちが いな く機能 して いるので あ●●
れば, その実相 を記述 す る作業 は可能 で あろ う. しか し, そのよ うな言語 ゲ ームが成立 して い るか否か とい う最 も重要 な問題 は等閑視 され たまま, そ こに提 出 さ れた 「エロス的言語 ゲーム」 の内容 だ けが披露 されて い る ことは間違 いない. したが って, ここでの 目標点 とも思 われ る他者 の 「単独性」 は, それが帰結す るよ うには じめか ら 「エ ロス的言語 ゲーム」 の概念 の中 に 盛 り込 まれて いた ことにな る. あ くまで, われわれの 当面 の関心 は他者 にお け る (私) が正統 な根拠 を もっ て成立す るか否か とい う問題 で あ り, われわれの 目的 に対 して入不二 が とった試 みが寄与す ることはないよ
うに思 われ る.
以上 のよ うに, カブ グ ラ症候群 を他 の (私) の変更 と して と らえ る上 で, その前提 とな る他 の (私) が存 立 しうることが, これ までの永井 に対 す る批判的論考 によ って は充分 な根拠 を持 って確保 されて いるとは言 い難 いように思われ る. しか し, ここまでの議論 によっ てわれわれ は先 の入不二 か ら重要 な示唆 を得 た と思 わ れ る. それ は,唯一性 に関す る両方 向性 の運動 を惹起 す る (臥) の もっ 「中間的 ・二重的」 な特性 であ る.
そ して, (私 ) の もつ この よ うな特性 につ いて は入不 二 か ら重要 な示唆 を得 っっ も,一方 で, われわれ は他 者 へ と至 る経路 は入不二 とは異 な る経路 を とりたい.
それ は,実 は r(私 ) の同一性」 に関す る問題 を基 点 とす る経路 で あ り,次章 か らはその経路 につ いて述 べ てゆ くことにな る.
(続 く)
138
文 献
1)入不二基義 :「私」・他者 ・エロス的言語ゲーム.武蔵 大学人文学会雑誌,23:31‑64,1992.
2)Irifuji, M.:From De Se to De Melon the SingularSelfHiddeninthelrreducibilityThesis ofDeSe.武蔵大学人文学会雑誌,24:1‑22,1993.
3)入不二基義 :独我論の語 り万一永井均氏の 「独在性の 意味(二)」後半への応答.山口大学教養部紀要人文科 学編,28:1‑ll,1995.
4)Kaplan,D∴On the Logic of Demonstratives. JournalofPhilosophicalLogic,8:81‑98,1981. 5)勝守真 :他者の語 りとしての (私)論一永井独我論の
脱構築.現代思想 (青土社),1月号 :323‑333,1998.
6)勝守真 :他者の語 りとしての (私)論一永井独我論の 脱構築 (承前). 現代思想 (青 土社),3月号 :297‑ 309,1998.
7)森岡正博 :この宇宙にひとりだけ特殊な形で存在する ことの意味‑「独在性」哲学批判序説‑.自己と他者 (池上哲司他編),pp.110‑135,昭和堂,京都,1994. 8)永井均 : (私)のメタフィジックス.勤葦書房,東京,
1986.
9)永井均 : (魂)に対する態度.勤草書房,東京,1991. 10)永井均 : (私)の存在の比類なさ.勃草書房,東京,
1998.
ll)永井均 :転校生 とブラック ・ジャックー独在性をめぐ るセ ミナー‑.岩波書店,東京,2001.
12)新山喜嗣 :Capgras症状 と私の同一性 一属性を欠如 する 「このもの性」の視点から‑.臨床精神病理,22: 129‑145,2001.
13)新山喜嗣 :Capgras症状 と可能世界一本物 とにせ も のが存在する場所‑.精神経誌,106:28ト303,20()4. 14)大庭健 :権力とはどんな力か.勤草書房,東京,1995. 15)Salmon,N.U∴How notto deriveessentialism
from the theory ofreference.The Journalof Philosophy,76:703‑725,1979.
16)Wittgenstein,L.:PhilosophischeUntersuchungen.
BasilBlackwell,0Ⅹford,1953.(藤本隆志訳 :哲学 探究.ウィトゲ ンシュタイン全集8,大修館書店,秦 京,1976.)
17)山田友幸 :他者 とは何か.ウィ トゲンシュタイン以後 (飯田隆,土屋俊編),pp.43‑68,東京大学出版会,東京, 1998.
秋田大学医学部保健学科紀要 第13巻 第2号
新山喜嗣/カブグラ症候群 と永井の (臥)論 (その 1)
Ca pgr asSyndr o mea ndNagai ' sThe or yo ft he
(Ⅰ) ( Par t1 )
‑ Hast he
(Ⅰ ) i nt heOt he rbe e nSe c ur e di n Cr i t i c i s msagai ns tt he ( Ⅰ ) The or y?‑
YoshitsuguNHYAMA
CourseofOccupationalTherapy,SchoolofHealthSciences,AkitaUniversity
(39)
Ⅰn thepreviouspapers,theauthorattemptedtodefinethevery natureofCapgrassyndromeasa changeofthe(Ⅰ)thathasonly haecceity.In thosepapers,thediscussion didnotfully look intothe questionastowhetherornotsuch (Ⅰ)caneverexistintheother.Inthispaper,theauthorexamines thequestionoftheexistenceofthe(Ⅰ)intheother,whichshouldbeaprerequisiteforthedefinitionof Capgrassyndrome,andthendiscusseswhatthechangeofthe(Ⅰ)meanswhenviewedfrom anontologi‑ calperspective.
First,theauthorintroducesthewell‑known theoryofHitoshiNagai一七hefirstresearchertopropose the(Ⅰ)conceptinwhichherulesouttheexistenceofthe(Ⅰ)intheother.AccordingtoNagai'stheory,
the(Ⅰ)isnothingbutuniquenesspossessedonlybyone'sownself,andisnotallowedtobegeneralized totheuniquenesspossessedbyanyoneelse.Thus,itisimpossiblethattheothersharesthe(Ⅰ)incom‑
mon.Theauthorrefersto threeadvocateswho hold negativeviewson Nagai'stheory on theother.
However,itseemsthatthoseadvocatesfailedtoplausibly demonstratetheexistenceofthe(I)in the other.Asaresult,itisnecessarytolookfornew groundfortheexistenceofthe(I)intheotherfrom adifferentpointofview.