、 K.トルノーのナチズム期障害児教育論
荒 川 智*
(1996年10月14日受理)
Der Gedanke K.Tornow s Ober die Behindertenpadagogik in der NS−Zeit
Satoshi ARAKAwA*
(Received October 14,1996)
はじめに
ドイツの歴史家ポイカート(Peukert, Detlev)は, rナチス・ドイツーある近代の社会史』で,労働 者のサボタージュや,様々な青少年集団の逸脱・反乱的活動といった反ナチ的行為を描いている。彼 によれば当時のそうした行為は,「非同調,拒否,抗議,抵抗」といった段階に分けられるω。しか し,国民学校教師(補助学校も含まれる)の場合,ナチ党員の比率は3割近くに達し,それは他の階
層と比べ著しく高く,上述のような反体制的行為は極一部に限られている。まして障害児教育の教 員は,社会民主党員は一握り,共産党員は皆無という状況で,エルガー・リュットガットが論じて いるような,当時の社会民主主義者の女性補助学校教師ブッフホルツが良心的立場から消極的抵抗 を行っていた②,とする評価が正しいとしても,それはせいぜい不一致の段階にとどまっていたと
いえる。
しかし,反体制的行為にいくつかの段階があるとすれば,逆に親体制的行為にも,いくつかのタ イブが見いだせるのではないか。補助学校などの障害児学校教師は,総じて保守的であったとされ
ているが,一般的には保守的であればなおさら,ナチスへの拒否的感情も根強いという傾向もある。ナチスの最大の票田は,根っからの保守層よりも,かつては社会民主党に投票したプロテスタント
系労働者であったともいわれている。そもそも国民学校教師のような中間層の行動は,「批判と同意 のどちらかに換言できない二重の座標軸があった」のであり(3},親体制的行為は保守的傾向だけで は説明できない。ところで1934年,補助学校連盟,聾唖教育連盟などの各種障害児教育団体は,翼賛教員団体であ るナチス教員同盟(NSLB)第五専門部(特殊学校部)に併合された。同専門部は機関誌として Die
Deutsche Sonderschule
@(以下 DDS と略記)を毎月発行していたが,ヴォルフの研究によれば,
DDSの論文におけるヤルゴン(ナチス的用語・表現)の使用頻度の分析から,イデオロギー的に扇
*茨城大学教育学部障害児教育講座(〒310水戸市文京2−1−1).
動する内容のものと,条件付きながら迎合的・妥協的な論調で教育論を展開するものと,全く非政
治的に指導内容・方法のみを論ずるものに分けられるという④。筆者はさらに,イデオロギー的に扇動する指導者層の中にも,いわば熱狂的なものと,現実的なものの二つのタイプかあったのではな いかと推測している。今回は後者のタイプと思われるものとして,DDS編集長トルノー(Tornow,
Karl)を取り上げる。彼は,障害児教育関係者の中でナチス期を通じてNSLB幹部であり続けたほぼ
唯一の人物で,当時もっとも影響力を行使した一人である。1900年12月生まれということから,編集長には33才の若さで抜擢されたことになり,まさに若き行動力を売り物とするナチスならではの人
事ともいえる。トルノーは1921〜28年まで州立養育施設および孤児院の指導員を勤め,教職についたのはそれ以
降である。しかしハレの補助学校での短期間の経験にもかかわらず,1932年に学位論文をまとめ(同年r補助学校の教授・教育課程』として刊行),ナチス政権確立とともに一気に出世街道を上り始め
る。37年にはマークデブルグ補助学校長,42年にはベルリンの視学を併任する(5)。もっとも彼がどの様な経緯でナチスに関わるようになり,登用されていくのかについては分からないことが多い。本 稿はDDS誌上におけるトルノーの論説を通して,彼の思想,教育論とそこに込あられた彼の心情を 検討し,また彼の目を通して見たナチズム期の障害児教育を概観するものである。なお,彼の論説
は,障害児教育・福祉の問題について広範囲に及んでいるが,ここでは,補助学校の制度・組織間 題一それは必然的に生徒の特性,実態とも関わってくる一,補助学校の教育内容・方法一とりわけ
作業教育や職業教育一,特殊学校教員の組織・養成問題を中心に取り上げていく。1.ナチ・イデオロギーによる障害児教育の防衛と定着
(1)rNSLB特殊学校部」への期待
ナチス初期にあっては,いかに新体制に障害児教育の営みを定着させるか,そのためにもいかに 教員を結集させるかが,トルノーの最優先の課題であった。特殊学校部結成の意義を彼は次のよう
に説明する。
まず,第三帝国の建設を大袈裟にもルネッサンスに匹敵する大転換期ととらえる6)。彼によれば,
ルネッサンス以降の科学の発達は,一面で大きな意義があったが,他方で学問,文化,経済その他 生活のすべてを専門分化,孤立化させ,人間自身も魂を失った,アトム化・機械化した存在にして しまった。今や「科学的知見」によって「分解し,個別化し,孤立化してしまったものを,再び全
体として,相互連関として,有機的統一として認識する」「有機的思考」が必要とされている。「生きた全体のみがその部分,四肢に意味を与える」のであるσ)。
ここでは「専門分化」「孤立化」を従来の障害種別の組織に,「有機的統一」「全体」を翼賛組織た る専門部に対応させている。ナチズム体制においては「全体(の利益)が個(の利益)に優先する」
のであり,個々の「欠陥,特異性」から出発してそれぞれの特殊学校の違いをあげつらう前に,ナ
チ世界観から理解される「民族全体にとっての」「統一性,共通性」を確認せよ,というのである。彼によれば,ドイツの障害児教育は「これまでも,また今日でもr治療教育』という共通概念の
もとで,統一的学問領域として指導的な学者によって概括されてきた」が,ここでいう「治療」は
日常的な病気の「治療」とは違う「一定の意味でとらえる」べきもので,例えば「精神薄弱」を教 育で治療するなどという「自己欺購」は以前から分かっていた。したがって盲・聾を治療はできな いから盲・聾教育は治療教育ではないとする議論は成り立たないし(だれの主張なのかは示されて
いない一筆者一),「この種の論拠をもって治療教育の概念,ましてや専門部の統一を拒否する」こ とはできない,と。「治療教育」という用語については,かねてから議論もあり,ナチズム期になると,個人主義的という批判もでてくるが,トルノーは用語問題には中立で,あくまでも統一的概念 であるかどうかを問題にしている(その点で,感覚障害を治療教育の対象外としたヘラーを批判し
ている)。
「ある者が,通常の教育機関を利用しても,ドイツ国家およびドイツ民族・文化共同体の完全に価
値ある,また生活(生存)能力ある一員へと発達することが阻まれていることによって,民族全体 に有害となる危険があるかどうかが重要なのである。通常の教育の遂行によっては民族全体にとっ て価値ある者にすること,民族有機体の中での有用化が達成できない場合,常に治療教育が……試
みられなければならない(8)」。さらに,「生物学的劣等は文化的劣等を意味するものとはほど遠い」のであり,精神・情緒的(see1一 isch)なところでの障害と構造的連関,すなわち「個々の欠陥の種類・程度や能力の優劣」ではなく,
全人格上の「質的変化と構造的作用」を把握することが「現代の心理学の課題である」⑨。
このように障害児教育全体の共通の性格や役割を強調しつつ,「統一というのは,ナチストにとっ
て画一を意味しない」として,今度は一転して障害種別を考慮しない画一論ともいうべき主張への
批判に移る。同じナチストの補助学校教師であるミュラー(M田ler, a.S.)の,「我々は,個人主義的立場の教育者のように,特殊学校必要児のそれぞれのグループを厳密に区別しようとすることを支持
できないしすべきではない」「様々な障害のある子どもでも,個人主義的原則によって厳密に区分さ れた教科目に一同に集めることが可能であることは今日決してまれではない」という主張に対して,「そうしたことがいえるのは,覆せないあらゆる所与の現実を伴うそれぞれの特殊学校において,実
践的に遂行すべき治療教育的教授を全く見誤っている者だけである」と,単級補助学校の弊害など を例に挙げながら反論している㈹。障害児教育の統一の課題は「ナチス世界観の意味で,そして我
が総統のいう意味で解決する。(n)」このようにトルノーは,専門部のイデオロギー的意義付けを前面に打ち出しているのであるが,そ
れは,外的・組織的な均一化の達成に比べ,障害児教育教員の内的・精神的・翼賛化が思わしくな かったことの裏返しでもあった。それはDDS誌の購読者数に表れている。彼によれば,かつての補 助学校連盟の機関誌r補助学校』が約5500部,聾唖教育雑誌が約1100部の購…読数を有していたのに
対し,なぜかDDSは36年になっても4000部に届かないという(12)。ここでもある匿名の国民学校校長 を敵対者,無理解者として登場させ,ナチズム体制にとっての補助学校の意義について「もっと我々 の思想を広げていかなければならない」と,焦りに似た主張をしている。(2)補助学校(生徒)と優生政策
1935年7月の文部省布告「補助学校への子どもの転入」で,補助学校は一応市民権を得たのである
が,トルノーの不安は依然拭い去られてはいなかった。彼によれば,「自由主義時代」の補助学校へ の敵対者はとくに国民学校の一部によく見られ,「補助学校教師の僅かな特別手当てを妬む」者,そして生得的能力差を認めない「極端な環境説」に基づき,補助学校が統一学校の理念に反するとい
う立場(イエナ・プランを想定か一筆者一)などがあったが㈹,「ナチ運動によって,短期間に徹底 した,確固とした内的転換がなされた」。しかし「人種改良(Aufartung)と補助学校生徒を対置させる 敵対者」が今でも若干残っている」という(14)。彼にいわせれば,補助学校を完全になくしてしまうならば,直ぐにその必要性が再確認されるだ ろうから,ある意味ではそれは最悪ではない。むしろ縮小の方が厄介なのである。なぜなら「いわ ゆる軽度の子どもを国民学校に戻す,ないし最初から国民学校で放置し続ける」ことになり,こう した子どもは中途の学年で社会に出て,生活不能になる。一方補助学校には「本来の補助学校生徒
ではない」「重度精神薄弱,痴愚,白痴」が残る。この子たちは「 生計可能およびフェルキッシュな社会的有用性 という補助学校教育の目的に達しない」から「補助学校が責務を果たしていない
ことを証明することも難しくなくなってしまう。㈹」また教員削減で一学級の定数が増えると,手作業,工作によって文化財を補助学校に適した形で
習得させるのが困難になり,「教授が特別な治療教育的性格を失い」,ますます国民学校に従属した読・書・算の練習中心となる。すなわち「補助学校は数十年前にすでに克服した補習学校の観点に
再び転落する。㈹」補助学校の建物は依然として劣悪で,調理室,作業室,校庭などの施設・設備も不足している。「倹 約」の対象となるのは「やむを得ない補助学校生徒」(Nothilfsschmer一比較的重度の子ども)のみ
である,と(17)。
こうしてお定まりのように,80%の補助学校生徒の生計能力を引き合いに,彼等が学校で教わる知 識,理論的能力では劣っていても実際的能力は引けを取らないとして,彼等の「社会的有用性」,補 助学校教育の経済的な意義を強調する。
ところで補助学校には,優生政策への協力(断種対象者の把握など)という役割が課せられてお り,トルノー自身もすでにこれについては再三論じている㈹。優生政策と社会的有用性という二つ
の問題は,それぞれ個別に論じるのは比較的容易である。しかし,補助学校生徒には,「有用」と「断種対象」という正負まったく異なるイメージが被せられることとなる。この微妙な点はどう説明さ
れるのか。彼はナチ少年組織への補助学校生徒の参加について論じる中で次のように説明している。
単に補助学校生徒であったという理由でヒトラー・ユーゲントなどのナチ少年団入会を拒否され
ることは承服できない㈹。「 補助学校生徒 という概念は決して一義的なものではなく」,国民学校 生徒との境界線児から,「やむを得ない生徒」まで多種多様である。一部には,確かに身体的,精神的,性格的にみてヒトラー・ユーゲントには全く不適格の子もいる。また先天性精神薄弱で遺伝形 質を残すべきでない生徒はすべて断種すべきである。しかし,大部分は「やむを得ない生徒」では なく,高水準の多様化した文化が初めて彼等を補助学校生徒として特徴づけたのであり,依然とし
て素人には良く分からない存在である。彼等は実際的知能をもち,たとえ断種されている場合でも,ヒトラー・ユーゲントに危険・妨害にならず,熱心に活動する例も数多い⑳。そしてトルノーは,「生 計能力」「軍事的有用性」,あるいはスポーツ競技会での成績などをあげながら,「我々補助学校教師
は,生計能力のある補助学校生徒に対する,ナチ少年団を通しての性格形成教育,および民族共同
体をあらゆる点で促進する教育を放棄することはできない」と力説する⑳。
結論として,「遺伝的負荷のない補助学校生徒はナチ少年団や労働奉仕に参加し,遺伝的負荷があ る者は参加しない」といった,遺伝性だけを判断基準にするのは誤りであるとしている(認)。整理す
ると,補助学校生徒は,遺伝性で有用性のない者,遺伝性でないが有用性のない者,遺伝性だが有
用性のある者,遺伝性でなく有用性のある者の四種類に分けられることになる。トルノーが補助学校生徒の中でもとりわけ好意的評価を与えているのは,いわゆる境界線児と晩
熟児(Spatentwicklung)である。彼は一方では優生政策への積極的関与を主張しているが,他方で例 えば境界線児については,「できるだけ多くの者を淘汰すべきなのか」といえば,人口減で多くの価値あるものを必要としている時期に「そう単純にはいえない」のであり,知能テストだけで決める
のではなく,訓育的,性格的側面を含め,発達の経過を全体的にとらえるべきだとしている(23)。さらに晩熟児の場合は,もっと慎重さが求められるという。例えばハレの補助学校1934年の調査 では595人中23%が該当し,これまでの予想よりはるかに多かったことを紹介し,またいくつかの 具体的事例を挙げて「一部の補助学校生徒は,発達の遅れを完全に取り戻し,職業においても,民
族共同体の一員としても,有能であることが示されていることを確認すべきである。」「こうした元 補助学校生徒には断種という考えは当てはまらないのは当然」であるとさえ言っている(24)。しかしながら,最後に次のように釘を刺している。「精神薄弱」の判断は補助学校教師には難しい し,まして遺伝性かどうかの診断は医師の仕事で,教師は基礎となる所見を作成する。「だからこそ
大きく重い責任が,特殊学校教師の肩に掛かってくる」のであり,自分の仕事は教育だけという考
えは,「第三帝国の補助学校の仕事の本当の意味を完全に見誤っている。」断種を避けるために検査の答えを事前に教えるような一部の教師の「不誠実な行為をドイツの補助学校教師は断固として拒
絶するものである。⑳」慎重さと断固とした態度,どちらが真意なのか。彼としてはどちらも真意なのであり,論理的に 一貫していたのであろう。しかし,現実には慎重な措置など望むべくもなく,彼のいう断種対象外
となるべき子どもにも,優生政策の魔の手は伸びていった。
2.「四か年計画」と障害児教育の発展志向
1936年より,いわゆる「四か年計画」がスタートする。その頃までには失業者数もかなり減少し,
経済再建の一定の目安もつき,金融資本の要請にも応えながらいよいよ再軍備の本格的着手と軍事
経済体制確立に向かってナチス国家は突き進んでいく。軍事部門への労働力の大掛かりな投入は,専門職賃金労働双方の部門で深刻な労働力不足を生じさせるのであるが,それは労働市場に卒業生 を送り出す障害児教育界に一定の有利な状況をもたらす。そしてそれを機に,関係者は補助学校の
組織防衛から,組織拡張を積極的にアピールする攻勢に転じる。(1)統一的教員養成の要求
前述した教員組織問題(組織拡大)がどこまで「解決」したのかはっきりしないが,トルノーは,
一歩進んで,統一的な特殊学校教員養成制度の建設を本格的に志向するようになる。「この問題は,
…第三帝国の新秩序建設以来,特殊学校教師の頭を最も悩ましていることは,経験から知られてい
る。㈱」これまでも教員養成について触れられることはあったが,教員の過剰が不足に転じ,いよ
いよ差し迫った問題になってきたのである。教員養成問題には二つの基本的論点があった。第一は「これまでのような,(一般教員に対する)
講習会による積み上げ養成方式(Zusatzausbildung)か,大学での基礎的養成か」ということであり,卜 ルノーは後者すなわち適切な教員養成大学での養成の必要を説く。第二は,「個々のグループ別(障
害種別)の養成の場を作るのか,すべての特殊学校教師に共通の適切な教員養成大学で養成するこ とが可能かつ必要か」ということで,これも個々の専門性を損なうことなく,共通の養成を行うべ
きだとしている。ここでいう「共通性」とは,次の「三つの基準」で考えられている。「1.特殊学校 の民族生物学的・人種衛生学的課題,2.統一的学問領域としての特殊学校教育(Sonder一schulpadagogik),3.特殊学校実践の本質の共通性(27}」。
「1」と「2」については改めて取り上げる必要のない内容である。「3」もとくに目新しいというわ
けではないが,どの障害についても例えば,言語発達の問題や,精神病質など性格的問題と関連を もつという実際的理由を上げている。そして将来共通に習得すべきものとして,世界観や優生学関
係,心理学関係(一般心理から職業心理,心理療法などの各論まで),医学・生理学関係,教育学説,特殊学校教育の原理,福祉・経済・政治学関係,各種指導法・訓練法の講義を想定している(28)。
その一方,各種障害別の心理学,歴史,指導法については別々に習得すべきとされ,とりわけ資
格試験に関しては,共通試験であってはならないとしている(29)。「特殊学校教員養成大学」については,その可能性からいっても大都市での設置が考えられている。
.総合大学,病院研究所,付属学校などの施設・設備が不可欠だからである。障害種別には4コース
が設けられる。原文とは順序が異なるが,「1.聾唖・難聴・言語障害学校,2.盲・弱視学校,3補助 学校,4施設(不具院,孤児院,治療・訓練施設,感化院,矯正院)」である。特殊学校の中に「4」を含めるのはやや奇妙ではあるが,統一的な「特殊学校就学義務」を定めた38年の「帝国就学義務
法」制定以前などで,ここでは触れないでおこう。養成期間は2年間4ゼメスター制で,中等教育終了後,労働奉仕(1/2年),兵役(2年),一般教
員養成(2年),特殊学校教員養成(2年)を経て,25才で特殊学校の教員になれるとして,若い教員 の確保にも配慮されている(30)。これまでの積み上げ方式では,「特殊学校」教員としての統一的な観点が身に付かず,また,ここでいう「施設」及び難聴弱視言語障害に関する教育ができないこ
と,実践や方法のみでしかもかなりのコストがかかるといった問題があったが,ここでいわれてい る方式は,それらの問題のいずれをも解消できるとしている。イデオロギー的色彩も強いが,同時
にかなり具体的な提案でもある。トルノーはすでに35年に〈ナチ精神による特殊学校教員養成の新たな構築に関する指針〉を専門 部に提案し,専門部の案として採用されているらしいが,それも次の39年の論文で再掲載されてい
る。標題そのものがイデオロギーを前面に押し出しているものの,基本的骨子は37年論文の内容を
すでに先取りしている。ただし,そこでいう養成機関は大学ではなく「特殊教育教員養成研究所」ないし専門学校で,しかも,基本的には特別な経費をかけず既存の教育・研究施設を利用ないし改組
するものである。ちなみに既存施設とは,ベルリン・シュテグリッツの盲教育研究所,同じくベル
リン・ノイケルンの聾唖教育研究所,ベルリン,ミュンヘン,ハレ,ケルン,マインツの治療教育
研究所をあげている(31)。この点では37年の構想の方が規模がやや大きい。39年論文では,再び「それぞれの特殊学校の独自性は,全特殊学校の共通養成に何等支障をきた
さない」ことを強調し(32},従来の補助学校教員養成の展開について,やや詳しく紹介,検討している。彼によれば,補助学校が「補習学校」から「精神薄弱学校」へと性格を移行させるにしたがっ て,特別な教員養成の必要性が次第に認識されるようになるが,同時に補助学校教員試験の結果か らも,短期間の講習では不十分であることも明らかになり,例えば1932年度のハレの特別な研修会
(Studienjahr)が開催されるようになる。それは大学での講義と「特殊学校」での実習からなり,「異 常児教育の基礎」「治療教育専門」「推薦・選択科目」「治療教育演習」「技術的実習」の内容に分か
れている。まだナチ世界観や民族生物学といった科目はないが,一応の共通基礎科目が設定されて
いる。また言語障害や養育施設(Erziehungsanstah)の教育といった当時等閑視されていたものも取り上げていた。彼は,養育施設教員の養成についてはナチズム体制となった今日「急務」であり,財 政・行政技術上の理由」は「遅延の理由にならない」として,政府の怠慢への批判とも取れる言い
方をしている(33)。
しかしこうした長所にも関わらず,ハレの研修には大きな欠点があったという。それは,講義と
実習は個々ばらばらで,それぞれの橋渡しは研修参加者本人に任されているということである。「多くの講義,実習は,固有かつ独自な学問領域としての特殊教育,特殊学校教育の,本質的な問題設
定,直接的な方向付けや重点付け(Getragwerden)が欠けている。」従来の治療教育もこうした観点が 欠けており,意識的に基礎科目,専門科目両者から独立した「特殊(学校)教育」,すなわち「民族・国家生物学的な特別な教育(Sondererziehung)の偉大な学問・研究・実践領域」を設けるべきだとい うのである㈹。
障害児教育教員養成の今日的状況にも当てはまるかのような内容もあるものの,全体的には再び イデオロギー的色彩が強まっている。ここでは独立の養成大学かどうか,どの都市に設置するかは どうでも良く,総合大学があることが唯一の条件であり,また盲・聾関係の養成も必要無くはない が,とにかく補助学校その他の教員養成が急務であると,最後にまたナチ世界観を持ちだして必死 に訴えている㈹。大戦勃発を前に,自分の壮大な構想の頓挫を警戒してか,焦りのようなものも感
じる。そうだとすれば,まさに彼の不安は的中することになる。
(2)作業・職業教育の構想
補助学校の教育課程のあり方について論じた34年の論文では,従来の「心理主義」的な方法偏重
を批判し,そこから脱却する方向として,「精神整形」と手作業教育の例をあげている。それについては32年著書と同じ内容であり,そうしたナチス期以前からの旧来の主張にナチス世界観によるイ デオロギー的粉飾を行っているにすぎない㈹。ただし,子どもの関心や,学習内容と結び付かない
機械的行為の形式的訓練への批判は,一・定の妥当性をもっている。それが四か年計画を境に,次第に経済的役割を意識した作業教育,職業教育に焦点を当てた具体 的で比較的事実に即した論述になっていく一もちろん教育課程を一般論的に論じたものもあるが,
一⑳。とりあえず38年の論文を見てみよう。
不景気で補助学校卒業生も失業にみまわれた時期には,彼等の「職業的有用性」を繰り返す必要
があった。それが,「総統による第三帝国の建設と四か年計画の実施によって,一年前にはまだ想像されていなかった専門労働者や農業労働者などの不足が生じ,そのために,補助学校卒業生に対す
る全く違った態度が,今や経済・労働市場において見られるようになった。(認)」職業教育の修了を 要する中級職(angelernte Beruf)でも彼等の器用さ,実際的能力,勤勉控え目な態度が評価されて いるだけでなく,以前には相手にもされなかった手工職(Handwerk)の分野でもかなり採用されるよ
うになった一1937年4月7日に経済相から文相へ,補助学校生徒の手工修業を原則的に認める書簡が
送られている一。しかしそのためにかえって,「責任ある民族生物学的課題のために,我々補助学校教師は,景気変動に決して影響されてはならないことを表明せざるを得ない。㈹」彼によれば,補 助学校卒業生が手工職に就くことに対しては,一般的には全く向かないとするものと,向いている とするものの二つの正反対の評価があるが,前者は,職人の同業組合などに根強く,補助学校生徒 を全面的に排除する「古い考え」であり,後者は逆に手工が高度な技術や知識を要する上級職であ
ることを考慮しないものである。結論としては,「個々の補助学校生徒には,手工職を得て,その能力が証明できる者もいるので,
補助学校生徒を原則的にすべて手工職から排除することには断固として反対するが,他方で手工業 のたあにも,民族全体のためにも,また補助学校生徒自身のためにも,ありのままの事実を認めな ければならない。つまり手工職は一般的には補助学校生徒には問題にならない。むしろ彼等には中 級職が向いている。手工職はそれゆえ適性のある者に限定されるべきで,またその場合も補助学校
教育的な取り扱い一とくに見習い修業の最初の段階で一が必要である。㈹」としている。トルノー自身の手工職についての考えは原則的には,32年の著作と変わっていない。冷静かつ原則 的ともいえる(ヒトラー・ユーゲント問題と同様に,「補助学校生徒だから云々」ではなく,業績達 成能力(Leistung)が問題であるという論理である)。しかし以前は手工業組合の補助学校生徒を拒否
するという姿勢をさほど批判してはいなかったのであり,それに比べると彼自身も景気に左右され
て,若干ニュワンスの変化が見られる。彼にとって問題なのは,補助学校生徒の能力を楽観的に過大評価することが,特別な職業教育の
否定につながりかねないということであった。手工の見習修業をどこで行うかについては,一般の職業学校の手工専門クラスか,補助職業学校 の専門クラスかで意見が分かれていた。前者は主に親方や,職業学校教師の主張で,実際に他の生 徒と一緒に授業についていけるという報告がいくつか出され,トルノーもそれを紹介している。後 者の立場にいわせると,そうした報告では,卒業生は実技的科目はやっていけるが,専門的な計算 や正書には困難なところがあり,補習授業もなされており,こうしたことはむしろ彼等には補助学 校教育の方法が必要であることを示している,としている㈲。折衷案として,一年補助職業学校に 通い,そこで選別した上でさらに職業学校へ,という意見もある。ただしそれでは一年修業期間が 長くなるという問題が残る。トルノーとしては補助学校教育的な取り扱いはどの卒業生にも不可欠
であり,補助職業学校か,少なくとも一般職業学校に,補助職業学校級をつくることを求めている(42)。翌39年に,彼は再び職業学校の問題を論じる。彼はいう。
すでに前年の「プロイセン補助学校に関する一般規程」(以下「一般規程」)で補助学校の制度的 基盤が確立していたが,「補助職業学校についても,統一的,一義的な規定がますます緊急に求めら れている。㈹」「職業教育の間でも生徒の特性を配慮し,職業圏,生活圏を考慮した教育活動が必要」
である。したがって教員は,理想的をいえば治療教育の訓練を受けた職業学校教師ということにな
るが,コストの面で無理がある。現実的には補助学校教師が技術教育の研修を受け,場合によって
は資格試験を受けるということも考えられる。専門的教育の可能な子もいるが,できれば補助職業 学校の専門クラスで教育するのが望ましいし,さらに国民学校の中途修了者も補助職業学校で教育 を受ける方が適切である㈹。要するに補助職業学校とは,専門的教育を治療教育的方法で行う学校 で,その「教授は,実際生活と仕事に向けられた補助学校教授の漸次的継続を意味し,同時に職業
的なものから(による)職業的なものへの訓育と陶冶なのである{45ヨ,と。ところで,補助学校では職業教育の前段階として,すでに作業教育にかなりの時間がさかれてい る。トルノーは別の論文で発達段階を踏まえた下級段階から上級段階への順次の具体例を示してい
る(46)。下級学年では砂場や木製の道具を使った体を動かす活動,中級学年では革細工,園芸,自然木による木工などの趣味的な手作業,上級学年では職業的に要求されるものに近い木工,金工,紙 工が行われ,その中で資源,エネルギー,労働生活上の知識保険の仕組み,衛生といった学習も なされるというのである。現在の作業学習の先取り的内容も見られ,それをさらに補助職業学校で 継続・発展させることを考えていたのである。なお,この論文にはフェルキッシュな世界観はほと
んど出てこず,非イデオロギー的なものといってよい。すでにトルノーの補助学校教育網の戦略は,職業教育も含めた一貫教育の確立に重点が置かれる
ようになっていた。(3)マークデブルグ方式
トルノーは補助学校生徒選別の方法として,自ら指導していたマークデブルグ市の方式を奨励し
ようとした。彼によれば,38年の「一般規程」で定められているように,「補助学校は精神薄弱学校ではなく,…精神薄弱であるかどうかの確認が選別の本質ではなく,…まして遺伝性精神薄弱を診
断するものではない。」「精神薄弱の医学概念は,私の考えでは転入手続きには関係ない」のであり,判定されるのは「補助学校必要性」だけである㈹。しかしながら従来の選別方法では単に知能の劣 等のみ診断するだけで,それでは不十分である。また,補助学校教師が国民学校に出向き,該当児 を個別に検査を行うので非常に時間を要する。それに対し,マークデブルグ方式は個別検査だけで なく,集団検査も行い,半日で6〜8人に対応でき効率的である。さらに感情,意思,共同体能力と
いった全人格を診断でき,「民族生物学的課題」にもかなっている,と。ここでいう「民族生物学的 課題」とは,主知主義に対して人格を強調するという意味合いで,優生政策とは別のものである。その後この方式は他の地域に広まっていく。その他補助学校の卒業試験の方法についてもマークデブ
ルグでの試みを紹介している(48)。これも事実だけを記述した非イデオロギー的内容である。もちろん彼自身が非イデオロギー的になったというわけではなく,優生政策を念頭に置いた相変
わらずイデオロギー的な主張もある。「第三帝国の民族生物学的課題は,補助学校とその父母との共同がこれまでの個別ケースの学校・教育的領域をはるかに越えて,すべての父母を世界観・政治的
観点の下に把握することを不可欠にする(49}。」しかし一般の断種啓蒙のためのフィルムが「白痴学校」と誤解される内容であると不満を表明し,家庭訪問の在り方,「両親の夕べ」のもち方,などかなり
綿密な配慮も求めているなど,NSLB幹部としての自分の立場を踏まえた内容ともいえる。
3.大戦と挫折
(1)補助学校の整理・縮小
42年のスターリングラード敗北までは,空襲のような直接的な戦争被害はなかったと思われる。し
かし戦争による様々な分野での経済引き締めは,再び補助学校縮小・廃止論などの障害児教育への 敵対が強まるのではないか。そうした不安から,トルノーの論調は再びイデオロギー的色彩が強く
なっていく。「補助学校も,犠牲を払いながら戦争を勝利に終わらせることに貢献していることは明 らかである。(50)」しかし,戦争中にあっては単に一般的意義を強調するだけでは通用せず,「必要な 範囲で,授業を整理・縮小しなければならない。」ただし補助学校のクラスを解体し,生徒を国民学 校に戻してしまうのでは,「第三帝国の人口政策,人種衛生的目的に合致しない。」こうして彼は,「戦争中は補助学校はいらないという無責任な考え」を批判しつつも,必要最小限の範囲で授業科目や
内容を整理・統合することを提案している。例えば社会や理科に関するものはすべて郷土科に,唱
歌も郷土科とドイツ語に挿入させ,幾何・製図は工作に吸収されている(51)。「縮小」という点では授業以上に問題なのが,以前彼が「やむを得ない生徒」と呼んでいたいわゆ る「教育不可能」な子どもであった。「一般規程」で廃止されるまでは,集合級母学級(Mut−terklass)
と呼ばれた当時の基準でいう「重度精神薄弱」児のための学級があったが,これについてトルノー は次のようにいう。そこでは「精神薄弱」の様々な症例に出会うので,将来の補助学校教師には恰 好の訓練場所になり,一定の意義があった働。しかし,母学級の名称はペスタロッチに由来するに しても,集合級は名前からして在籍児が進級せずにそこに残留することを暗に示している。そのた
めに「補助学校の評価やその制度の発展にとってむしろ不利益に作用した。(お)」なぜなら彼等はそもそも「教育不可能」で,治療教育的方法をもってしても,せいぜいいくつかの単語が読める程度
にしか達せず,文章は読めず,数の概念も身に付かず,養育効果がある程度認められるだけである。そして素人にはそうした子どもが典型的な補助学校生徒に見え,「民族財産の浪費」と攻撃される口 実にされてしまう。「補助学校は専門的にいえばこうした養育課題のための正しい施設ではない。そ
れゆえ我々はこうした子どもを補助学校から退学させ,既存の集合級,母学級を廃止することを求
めてきた」,と御。「教育不可能」とは具体的にどのような生徒なのか。「一般規程」では2年間で補助学校教育の成果
が認められない者となっている。トルノーの説明では,単に読・書・算ができないというのが「教
育不可能」ではなく,とくに手作業の学習での進歩がない場合を指す。判定では一定の「慎重さ」を 求めつつ,「重度精神薄弱,白痴,痴愚はもとより」「モンゴリズム,インファンティズムのような特別な出現形態も」含まれるという。要するに今日の軽度知的障害はほとんどそこに含まれてしま
うといってよい闘。
論文では具体例が何人も紹介され,一様に学習能力がなく,補助学校の対象ではないことが強調
されているが,性格面の評価については子どもによって様々で,かなり好意的なものもある。以前
はこうした子どもに対する敵意すら感じられたのに比べ,ここでは彼等の「養育(訓育)可能性」を 繰り返し強調している。これまではこうした子どもの保護を定めた法令がないため,彼等は浮浪・非行化するの危険が高かったが,トルノーにいわせれば,そもそも彼等は典型的補助学校生徒と,純
粋な収容保護を要する子との中間に位置し,独自の養育保護施設での適切な養育を通して,園芸,農作業,家事労働での利用可能性があるという。したがって大都市では,青少年局,保健局,人種政
策局とナチ党の協力でそうした収容施設施策(Hort)の整備を進あるべきだとしている。39年に始まる「安楽死」政策,いわゆるT4作戦,は「教育不可能」な子の教育権はおろか,生存 権まで奪おうとしていた。秘密政策ではあったが,その噂は広がり,一部教会関係者などによる公
然の批判が起こり,表向きそれは中止される。「教育不可能」な子の一定の「有用性」を認めるかの ようなトルノーのこうした記述は,「有用性」を否定されたものがナチズム体制下では生存できない,ということを意識した上でのことだったのか。善意に解釈すれば,ではあるが。
(2)苛立ち
一般的に戦争は長引くほど人心は離れていく。ナチスの場合も例外ではなく,再びナチ世界観の
イデオロギーで関係者の引き締めが試みられる。トルノーも然りである。「我々の時代の本質的教育手段の一つに,自由と祭典がある。なぜならそれは,単に人間の知性に 向けられるだけでなく,何よりも非合理的方法で,その全体的本質を把握し,形成するからである。」
「いわゆる主知主義の最盛期としてのシステム時代は,自由と祭典に正当な評価を見いださなかった。
世界観の不確実性は,祭典に恐ろしいほどの無内容と空虚をもたらした。そこには民族への帰属と
共同体の体験が欠けていた。祭典は大抵は単なる娯楽であった。(56}」また,労働は単なる経済的意義でのみ捉えられ,喜びや自由と分断・対立させられていたので,感化院などでは,できるだけ長 時間,沢山の作業をさせ,日曜日ですら,遊び,スポーツ,娯楽,散歩といったこともままならな
い状況だったという(5η。作業学習批判としては,うなずきたくなる部分もある。ただし労働と自由 を結び付けるレトリックは,強制収容所の「労働は自由への道」を連想させ,不気味ですらある。ナ チ・イデオロギーにはかつての輝きは残っていたのだろうか。かつて積極的にアピールした自分の構想が,戦争によって遅延ないし頓座していくのは,だれの 目にも明らかであった。すでに公表した論稿を再掲載することも多くなり,彼の苛立ちが随所で現
れてくる(58)。
そうした心配を一定解消させたのが,自らも中心となって作成した1942年の「補助学校の教育と
教授に関する要綱」(以下「教授要綱」)であった。「一般規程」が補助学校制度および生徒の本質を 定めたのに対し,それは彼がこれまで推進してきた教育課程を原則的に承認したものであり,「すべ ての補助学校教師に歓喜と感激を持って受け入れられた(59}」という。彼によれば,教授要綱は長年 蓄積された経験と,新たな世界観の両者が結実したものである。それはLeistungsschuleとしての性格を強調しており,とりわけHauptschuleの導入によって益々「負担軽減」の観点が重要になる。これ でドイツ補助学校の新たな建設がスタートする,としている(マークデブルグでは補助学校生徒の
割合が30年代半ばまで3%前後だったのが,38年以降の発展で約4.5%に達していた)(6°)。教育課程に関する自分の長年の考え方が,公に採用されたことで,半ば有頂天になっているよう
な印象さえある。しかし彼自身も認めているように,教授要綱は平時を想定したもので,たとえそ
うでも即時に実行すべきであると彼がいくら強調したところで,時すでに遅しであった。彼の明る
い見通しは単なる強がりに過ぎなかったともいえる61)。空襲,疎開などによって,ナチズム期障害 児教育は,古きも新しきもともども,破壊されていくのである。おわりに
以上,トルノーの障害児教育論を見てきたが,ナチズム期の情勢と関わって彼の論調やテーマも 変化が見られることが分かる。初期にあっては,ナチズム体制にとにかく障害児教育を根付かせる ために,とりわけ補助学校擁護の脈絡からそのイデオロギー的意義づけと,生徒の有用性の強調が 目立っている。またそれとの関係で,補助学校の本来的性格を曖昧にさせないために,補習学校的 性格への逆行の拒絶と「重度児」の排除の必要を訴えている。いわば外的な確立を目指していると いえる。とくにこの時期の叙述の特徴として,ナチスト以外の関係者の立場を配慮してか,あるい は彼特有のレトリックか,匿名の補助学校への敵対者・無理解者が多く登場することである。中期 になると,四か年計画の進行による労働力不足を背景に,一般論的・イデオロギー的論調から,制 度や教育内容をテーマとした具体的な提起が多くなる。いわば内的な充実に目を向ける余裕が生じ たのである。教育課程については,とりわけ中級職に向けた労働力陶冶の養成から,作業・工作教 育論,さらに職業教育論を展開している。また,教員問題については,組織統一から,教員養成制 度の確i立に関心が移っている。しかし一時的にもつことができた明るい展望も,第二次大戦の開始
とともに陰りが生じ,,戦況の悪化とともに多くが頓座していく。トルノーの主張のうち,実現した
といえるのは,教育課程の原則的考え方が一応は承認されたことと,生徒の選別方法が一定広まっ
たことぐらいであろうか。彼の焦り,苛立ちは論稿の随所に表れている。しかし,以上のような変容にもかかわらず,すでに彼がナチズム体制確立以前から考案されてい た補助学校教育論を,ナチス・イデオロギーによって粉飾するというトルノーの論理構成は,ナチ
ズム期を通じて一貫していた。これについては,一面ではヒトラーの政権獲得に彼が素早く反応し,急遽従来の教育論にイデオロギーの看板だけを取り付けた,という評価もできる。それは間違いで
はないであろう。だがこの辺の事情は,もう少し複雑なもののようにも思える。トルノーの教育論のベースにあるのは,ケルシェンシュタイナーの作業教育論や,合科教育,郷
土教育といった新教育運動の理論である。補助学校の現場でしばしば見られた作業教育や精神整形
における学習内容とは結び付かない形式的訓練の傾向を,彼は厳しく批判しているが,その内容は
今日的にも一定程度妥当なものである。もちろん,彼の主張にはいくつかの点で矛盾もあった。例
えば,主知主義を批判しておきながら,補助学校生徒の特性としてまずは理論的知識・思考に劣る
という主知主義的基準を当てている。しかし本来ヒトラーの能力観からすれば,実際的能力に問題
がなければ,第三帝国下のドイツ民族としては問題ないはずであり補助学校対象とする理由が曖昧
になる。そこで人格を持ち出す。そうなると,補助学校生徒はそもそも人格,性格,感情・意志に
問題があるということになる。そうなると彼等の「有用性」が説明しにくくなる。結局,有用かど
うかは補助学校生徒であるかどうかが問題ではなく,個々の能力・適性によるという常識論に収ま
るのである。にもかかわらず,彼は他の「伝統的・保守的」な補助学校教師に比べれば,明らかに
進歩的,合理的な面を持っていたといえる。では,もともとは彼は進歩的立場にある人間だったの
か。彼は(ある施設指導員のものとしてではあるが,おそらく)自分自身の若き時代の日記を紹介
しているが,その内容からしてもトルノーは,当時はまだナチストではなかったものの,かねてよ
りワイマール体制にも,近代的合理主義,自由主義,民主主義にも反感を抱いていたようである。進歩と反動の奇妙な共存ということか。だが同じようなことは,彼が依拠した新教育にも言えること
である。そもそも新教育運動には様々な潮流,主張があるが,ほぽ共通して教育の科学性と効率性 を高めようとするすぐれて近代的・合理的な要素と,反主知主義に見られる反近代・非合理主義的
な要素が混在化している。さらに,合理と非合理が相乗効果的に極端な形で混在・共存したのが,他ならぬナチズム体制だったといえよう。トルノーがナチズム期に確固たる地位を得たのも,こうし た背景と無関係ではあるまい。これについては,もう少し他の人物とも比較しながらさらに検討し
ていきたい。トルノーは第二次大戦後,1950年まで脳負傷者のための衛戌病院で働いた後,心理セラピストの訓 練を受け,1965年までハノーファーの心理療法研究所の行政事務官を勤めたとされている。「補助学
校とその教育へのナチ・イデオロギーの浸透を擁護した」ものの「他方で彼は,補助学校の閉鎖を
もくろむ潮流に反対した(62)」という一定の肯定的評価は,戦後長くドイツの障害児教育界に敷術す ることとなるのである。註
,
i1)ポイカート(Peukert, Detlev)著,木村靖二,山本秀行訳rナチス・ドイッーある近代の社会史』(三元 社,1991)
(2)Ellger−R廿ttgardt, S.,Dごθκゴη4εr,4∫εwαア8ηα〃∫01詑わ_.,(Beltz,1987)
(3)ポイカート前掲書P.140
(4)Wolf, Antonius.,陥η4θ1伽」αr80〃ε51物∫∫oπα1∫o加 3〃2鳳,1982.詳しくは,拙稿(a)「ナチズム体 制と障害児教育・序説2」r西洋教育史研究』第22号(1993),P.112。
(5)Fischer, G., Tomow, K.;Henze, G.u.WegeneL H.(Hg.),石η琳勿伽∫cんθ∫H伽4わκc乃4ε7∫o〃一 4εηρδ4α80gεκμη4 乃rεアσrεηz8εわ ε∫θ.(1969), s.3540−3541.
(6)Tornow, K., Die Einheit der Fachschaft V(Sonderschule)im NSLB und die deraus sich ergebende Schau ihrer Arbeit in wissenschaftlicher und praktischer Hinsicht。;DDS 2.Jg.(1935), S.110.
(7)Ebenda, S.112.
(8)Ebenda, S.117.主にハンゼルマンの治療教育理論に依拠している。
(9)Ebenda, Sユ23,
(10)Ebenda, S。128.
(11)Ebenda, S.129.
(12)Tomow, K., Sinn und Bedeutung unserer Reichszeitschrift Die deutsche Sonderschule ;DDS 3.Jg.(1936), S.643f£
(13)Tomow, K, Hilfsschule in Kampf und Gefahr?;DDS 2.Jg。(1935), S.794.
(14)Ebenda, S.797.
(15)Ebenda, S.799.
(16)Ebenda.
(17)Ebenda, S.800.
(18)これについては,拙稿(b)「ナチス期障害児教育のイデオロギーと内実」『特殊教育学研究』第33巻 第3号(1995),PP.1−11,を参照されたい。
(19)Tomow, K., NS=Jugendb鷲nde(DJ, HJ, und BDM)und Hilfsschule.;DDS 1.Jg.(1934), S.339.
(20)Ebenda, S.340−341.
(21)Ebenda, S.345.
(22)Tornow, K., Hilfsschule in Kampf und Gefahr?a.a.0.,S.803.
(23)Tomow, K., Die Mltarbeit des Sonderschullehrers bei der Verwirklichung des GzVeN.;DDS 3.
Jg.(1936), S.322−323.
(24)Ebenda, S.324.
(25)Ebenda, S.328.
(26)Tomow, K., Gedanken zur Ausbildung des Sonderschullehrernachwuchs.;DDS 4Jg.(1937), S.86.
(27)Ebenda.
(28)Ebenda, S.88−89.
(29)別の論文では,実際にこの順序で分類している。;Tornow, K., Del Fleischulgedanke und die deutsche Sonderschule, besondere Hilfsschule.;DDS 4.Jg., S.161.
(30)Ebenda, S.90. ・
(31)Tornow, K., FOhrt uns auch eine geschichtliche Betrachtung zul F6rderung einer gemeinsamen Sonderschulleh爬rausbildung?;DDS 6Jg.(1939), S.94.
(32)Ebenda, S.81.
(33)Ebenda, S.88−89.
(34)Ebenda, S.89.
(35)Ebenda, S.97.
(36)Tomow, K., Der EinfluB ganzkeitlicher Auffassung und des inhaltlich festgelegtem Erziehung−und Bildungszieles auf die methodische Gestaltung des heilerzieherischen Unterricht.;DDS 1.Jg.,S.170ff.
こうした論理構造については,拙稿(b)を参照されたい。
(37)Tornow, K., Zur Eigengesetzlichkeit der Hilfsschulerziehung.;DDS 6.Jg., S.505−518.
(38)Tornow, K., HilfsschUler, Handwerk und Hilfsbemfsschule.;DDS 5.Jg.(1938), S.93−94.
(39)Ebenda, S.94.
(40)Ebenda, S.99.
(41)Ebenda, S.97.
(42)Ebenda, S.98.
(43)Tornow, K., Zur Berufsschulfrage ehemaliger Hilfssch薩ler.;DDS 6.Jg., S.631.なお「一般規程」につ いては,拙稿(c)「ナチズム期官報・文部省報にみる障害児教育一障害種別格差の是正と温存一」r茨 城大学教育学部紀要(教育科学)』第45号(1996),pp255−258,を参照。
(44)Ebenda, S.631−632.
(45)Ebenda, S.635.
(46)Tornow, K., Zur praktische Gestaltung des Handfertigkeits=und Werkuntwerichts.;DDS 5. Jg.,
S.260.
(47)Tornow, K., Zum Auswahlverfahren des hilfsschulbed廿rftigen Kindes.;DDS 5.Jg., S.705.
、(48)Tornow, K., AbschluBpr極fung auch in der Hilfsschule?;DDS 6.Jg., S,361ff.
(49)Tornow, K., Zusammenarbeit zwischen Hilfsschule ulld Elternschaft als staatpolitische Erziehungs一 aufgabe.;DDS 5 Jg., S.6ff.
(50)Tornow, K, H量lfsschule auch im Kriege.;DDS 7.Jg.(1940), S。31.
(51)Ebenda, S.32−34.
(52)Tomow, K., Bildungsunfahige Hilfsschulkinder. Was wird aus ihnen?;DDS 8.Jg.(1941)., S.24.
(53)Ebenda.
(54)Ebenda, S.26.
(55)Ebenda, S.27.
(56)Tornow, K., F荘rsorgeerziehung in der Systemzeit.;DDS 8.Jg., S.44.
(57)Ebenda.
(58)例えば,Tornow, K. Wie gestalte ich die Schulgartenarbeit in der Hilfsschule?;DDS 8.Jg., S.335ff.
(59)Tomow, K., Was bedeutet die Richtlien fUr Erziehung und Unterricht in der Hilfsschule fUr die Entwicklung des deutschen Hilfsschulwesens?;DDS 9.Jg.(1942), S.123.「教授要綱」については拙稿(b)
を参照。
(60)Ebenda, S.127.
(61)その後,身体教育に関する論稿で,軍事上の意義とセラピーとしての機能が論じられているが,もは や迫力のあるものではなくなっていた。Tornow, K., Sonderschulpadagogische Gesichtpunkte f廿r die Leibeserziehung in Sonderschulen.;DDS 10.Jg.(1943), S.60ff.
(62)Eπ老ソκ1(ψδ4 ∫c乃ε5Hαη4わεκ乃48ア30π4θηワ44α808ε」ヒ,a.a.0., S.3541.