スタール婦人 : 中庸の精神
著者名(日) 武田 千夏
雑誌名 大妻比較文化 : 大妻女子大学比較文化学部紀要
巻 14
ページ 70‑82
発行年 2013
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00005679/
スタール夫人
―中庸の精神―
武 田 千 夏
1990年から2010年にかけて、ヨーロッパにおいては、経済統合と並行して、憲法的枠組 についても様々な取組がなされた。とくにフランス政府は欧州憲法実現のためのリードを 取った。その結果は国民投票によって否決されてしまったが、こうしたフランスのイニシ アチブは、何も戦後の欧州統合に始まったわけではない。フランス革命時の憲法制定、王 政崩壊から共和国樹立にいたった自国の革命史の延長と捉えることも可能であろう。そし てジェルメン・ド・スタール夫人とは、革命期に共和国憲法について考察した代表的な政 治思想家のひとりであった。
スタール夫人(1766-1817)は、フィロゾフ、批評家、小説家、モラリスト(道学者)、歴史 家、政治思想家、ジャーナリストのすべてであった。彼女は多様な肩書を持っていたが、こ れは彼女が、学問領域の専門化が始まる19世紀以前の啓蒙主義の伝統を引き継ぐ最後の世 代のフィロゾフであることを示している。この知的傾向は思考方法にも反映され、彼女は 文化的、国家的、地理的、宗教的、性的なあらゆる種類の相違を一つの普遍的な体系の中へ 組み込もうと試みた。相互に対立した知的、政治的原則を、その矛盾を含めて一つの体系 の中にまとめていくという手法は、フランス啓蒙主義に特徴的なサロン文化における女性 の役割に由来する。
スタール夫人が政治思想家として注目されるようになったのは比較的最近の傾向であ る。1970年以降フランスを中心に彼女の文学に対して新たに関心が集まる一方で、修正主 義の台頭とともに、政治思想家、歴史家としての視点からスタール夫人を解釈しようとい う動きも活発化した。その結果2000年からフランスでは、スタール夫人の全集の刊行も始 まった。
本論文では、スタール夫人を紹介する手立てとして次の3つについて述べる。一つ目に、
スタール夫人の生涯について、二つ目に、彼女の著作に根づくサロン文化の精神的土壌と しての会話の技巧について、そして三つ目に、彼女の幸福についての考え方を糸口としな がら、彼女の自由論について、その中核となる中庸の精神を中心に紹介したい。
1)スタール夫人の生涯
スタール夫人は1766年4月22日にパリで誕生した。当時フランスはすでに国籍に関し て出生地主義を採用しており、したがって彼女はフランス人として生まれた。しかしなが ら両親が新教徒のスイス人であり、また革命勃発当時、父親がフランス王国の要職にあっ
たために、彼女は典型的なフランスの上流階級の女性たちとは異なる一生をたどることと なった。
父親のジャック=ネッケルは15歳の頃裸一貫でジェネーブからパリへやってきて30代 半ばまでにヨーロッパ有数の銀行家として財を築いた。ネッケルはフランス人とは異なる スイス人特有の実直さを買われて、1777年にフランス王国の財務総監を務めることとなっ た。その後1788年に再び財務総監に任命され1789年の三部会における決議方式の民主化 に影響を与えた。その結果反革命派からは、革命を引き起こした張本人として非難を受け ることとなった。
母親のシュザンヌ・キュルショは、ネッケルと同じくスイスプロテスタントであり、牧 師の娘であった。経済的には恵まれなかったが、父親から当時の女性としては例外的な教 育を受け、ラテン語、ギリシャ語、英語をあやつり、幾何や物理を理解し、文章も書いた。
当時のフランスの上流階級の女性は若いうちから修道院に入れられ、学問に触れる機会を 与えられなかったが、この母親のおかげで、スタール夫人は当時の女性としては破格の教 育を受けた。シュザンヌは教育ママの走りで、当時流行していたルソーの『エミール』を参 考にして、ジェルメーヌを女の子のソフィーではなく男の子のエミールを模範として育て たからである。
スタール夫人の教育に決定的な影響を与えたもう一つの要因は母親のサロンだった。
シュザンヌは夫の政治的キャリアを助けるために自宅でサロンを開き、百科全書派を中心 とした18世紀の代表的な哲学者を、週に一度自宅に迎え入れた。ジェルメーヌは物心つい た頃からこのサロンに出入りした。こちらの肖像画はジェルメーヌのサロンにおける様子 を伝えている。これは彼女が14歳の頃の様子である。
「ネッケル夫人の傍らには木の腰掛があって、ジェルメーヌはいつもそこに背筋を伸ば したまま座っていました。ジェルメーヌが席につくや、4,5人の殿方が寄って来て優しく 話しかけました・・・その中の一人がレーナル神父で、ほかの人々は、トマ、マルモンテル、
ブゼ侯爵でした。晩餐の間、ジェルメーヌがどのように耳を澄ましているか、見ものでした。
その視線は話をしている人の身動きを追い、その人の考えについて行くかのようでした。
口は閉じたままなのですが、自分でも話しているみたいでした。それほど表情が生き生き していました。彼女は何事も知り、把握し、理解していました。当時すでに話題の中心になっ ていた政治のことでさえも・・・。」
さらにスタール夫人の特異な生い立ちの背景には、単なる教育方針の相違に還元できな い宗教上の理由もあった。カルビニズムの影響の下、ジェルメーヌは幼いころから母親か ら厳格な宗教教育を受けた。それは同じジュネーブ出身のプロテスタント教徒、ルソーの 影響のもとに、「良心にもとづいた、教義や奇跡を排除した、善、清らかさを主体とした自 然に由来する心の宗教」でもあった。宗教は同時に彼女に屈辱感を与える源ともなった。
スタール夫人はパリで生まれたにもかかわらず、革命勃発後彼女の国籍は問題視され、国 外追放の理由となった。フランス絶対王政下1787年の「寛容令」によってプロテスタント 信仰者は初めて戸籍が認められた。それまでは異教徒として、カトリック教徒である大半 のフランス人と結婚することを禁じられた。ジェルメーヌは10代の頃、ナルボーン伯爵と の結婚を夢見たが、それは絶対王政下に置いてはかなわぬ夢であった。
ネッケル家はジェルメーヌの結婚の条件として、パリにとどまること、相手も新教徒で あることを挙げた。1786年、つまり寛容令が発令される1年前にジェルメーヌは17歳年上 のパリ駐在スウェーデン大使の地位を持つスタール男爵と結婚した。男性は念願かなって 多額の持参金を受け取り、ネッケル家は貴族の仲間入りを果たした。双方の思惑が一致し た政略結婚によって、ジェルメーヌの女性としての生涯は大きく狂ってしまった。そして この事実は、彼女の政治思想において新教徒の迫害が大きなテーマとなったことに影響を 与えたのではないか。たとえば彼女は旧体制における新教徒に対する迫害と恐怖政治にお ける貴族に対する迫害を同一線上にとらえているが、それはスタール夫人自身の境遇でも あった。ちなみに彼女とB・コンスタンの娘であるアルベルティーヌも新教徒であったが、
母親とは異なり王政復古期にフランスの代表的な貴族ブロワ伯爵と結婚した。このような 事実はフランス革命が女性に何をもたらしたかについて考察するうえで興味深い。
スタール男爵に対する無関心とは対照的に、スタール夫人は一生涯、友達のような存在 であった父親のネッケルに対して、深い愛情と尊敬の念を持った。1818年の死後に発表さ れ、彼女の作品の中でももっとも影響力を持つこととなった『フランス革命に関する考察 において』では、1789年6月にフランス王室がネッケルの助言を聞き入れて第二院をいち 早く創設すれば、フランス革命の急進化を未然に防ぐことができただろう、と主張した。
スタール夫人は、フランス革命を二つに区切り、1789年の自由を建設する試みは正しかっ たが、その後恐怖政府にいたる一連の革命の動きは本来の政治目的からは逸脱したもので ある、というフランス革命の自由主義的解釈を提唱した最初の歴史家となった。
スタール夫人は22歳の時に文壇にデビューした。また結婚を機にスゥエーデン大使夫人 となり自らサロンを開いた。結婚以来1817年に51歳の若さで死ぬ直前まで、生涯スタール 夫人は著作とサロン活動に身を費やした。また彼女は4人の子供の母親にもなった。スター ル夫人は生涯でおよそ18作の著作を残した。
当時の同じ階級の男性、たとえば彼女の親しい友人で、同じ政治的考えを持っていたB・
コンスタンは政治に対して、投票者、議員、大臣、政府の役人などとして関与することがで きたのに対して、女性のスタール夫人はこれらのいずれに携わることも許されなかった。
その結果、彼女はサロンとペンによって政治的影響を与えようとした。フランス革命史研 究によれば、フランス革命は女性の地位向上に貢献しなかったという。とくに旧体制下に おいて比較的自由な立場を享受していた上層階級の女性たちは、その自由を奪われ、革命 期の良妻賢母のイデオロギーの影響のもと家庭へ入っていった。このような一般的な傾
向とは対照的に、スタール夫人は革命期にも政治的関与を続けた数少ない女性のひとりと なった。
私はリベラルとしてのスタール夫人の政治的信条を「中道派」と定義づけたい。彼女は、
当初は立憲君主派であったが、1795年に穏和な共和制が樹立されると、共和派となった。
そしてナポレオンの帝国崩壊後の王政復古において彼女は再び立憲君主派となった。こう した彼女の政治的信条の変化は、彼女が日和見主義であったからではなく、彼女のリベラ リズムがその矛盾も含めて君主制、共和制の違いを問わないことを意味している。
ではスタール夫人は革命政治に対して実質的な政治的影響を持ったのだろうか。スター ル夫人は生涯サロンを開き、党派を問わず政治力、知力のある男性を招き入れた。同時に 彼女は作家としても活動した。彼女は自分のサロンを通じて、自分の友人が政府の要職に つくよう交渉したり、自分の理想とする憲法や政体を提案した。しかし政治的提案に関し ては、彼女の主張が時の権力者に聞き入れられることはなかった。一方彼女のサロンは知 的交流の場として機能した。彼女は生涯旅を続けたが、行く先々でサロンを開き、著名人 を招き入れ、自分の著作のインスピレーションを得たと思われる。彼女の著作は多くの人 に読まれ、今の時代ならベストセラーといってもよい存在であった。その結果彼女は、自 由主義者リベローと呼ばれる人々に対して著作を通じて大きな影響を与えた。ドイツの哲 学者、ハーバーマスによれば、スタール夫人の母親のサロンは後の彼が呼ぶところの「ブ ルジョワ公共圏」の形成のきっかけとなったという。スタール夫人が成人したころには、
しかしながらサロンはもはや世論形成の中核ではなかった。そしてそれにかわるブルジョ ワ公共圏が、国家に対抗する社会の中で形成されていた。そして彼女自身は母親とは異な り、サロンを開く女性としてではなく、作家としてブルジョワ公共圏に働きかけ、世論に 大きな政治的影響力を及ぼした。その結果19世紀のフランス自由主義成立に大きな役割を 果たした。
2)会話と恐怖政治
会話とは、フランス革命以前の上流社会で繰り広げられたサロンに由来する当時のフラ ンスがヨーロッパに誇った精神文化である。スタール夫人の政治的中道主義を支える自由 の精神には、つねに抑制、妥協が伴ったが、相矛盾する複数の要素を受け入れる、という彼 女の態度の背景にあったものが、この18世紀フランスの上流社会で培われた会話である。
スタール夫人は会話について次のように書いている。「私はフランス以外に住むことは できない。ここでは会話になんという魅力があることだろう。これほどまでに人々が相互 に理解しあえることは、ほかではないことだろう。」また「パリは世界中で、会話のための ウィットと嗜好がもっとも発達している」とも言っている。彼女は生涯自発的に、また亡 命などの理由で強制的に旅をしたが、どこへ行ってもサロンを開いた。そこで新しい人々 に会い、異なる考えの人々を結集する力を発揮した。スタール夫人と同時代人の歴史家ボ
ルネーは、革命の最中にフランスを逃れてアメリカへ渡った貴族の亡命者たちが、そこで はフランス風の会話が存在しないことに愕然として嘆いたと伝えている。会話とは今日私 たちが考えるように、たんに考え、感情、心配事を伝える手段ではなく、当時のフランスの 上層階級の人々にとっては、充実した精神生活を送る上で欠かせないものだった。さらに 言えば、会話とは人間に自然に備わった社会性を発揮するための手段であり、コニャック、
ワイン、音楽などと同様に人生の極上な喜びであった。スタール夫人のサロンを訪れたこ とのある人々はみんな彼女の会話の才能を称えており、この意味において、彼女がいかに 啓蒙主義時代の申し子かが理解されるだろう。
ではスタール夫人にとって会話の役割とは何であったのか。「よい会話とは知識による ものではなく、どれだけ自然に自分自身でいられるかによって決まります」「生き生きした 会話によってもたらされる満足感というのは、そのテーマによるものではありません。ま たそのテーマに付随する考えや知識によるものでもありません。それはまわりの人々に影 響を与えるある種のマナーです。相互性のうちに成り立ち、また相手に快適さをもたらす ものです。考えが浮かんだらすぐそれを言葉にするという同時性、自分自身が楽しみ、あ らゆるニュアンスを含めて自分のウィットを表現するということです。会話にタブーはあ りません。会話とは完全に自由なものですが、時、場所、人によって変化もします。偉大な ことでもささいなことでもありとあらゆることが、優雅に語られさえするなら、会話の対 象となりえます。会話とは友情を培い、優雅で正確なボキャブラリーを学び、美しく、上品 なものに対する感性をはぐくむマナーの学校のようなものです。」スタール夫人の会話の 精神的土壌に、礼儀正しさ、抑制の精神といったものがあった。
その後フランス革命は、フランス啓蒙主義に内在した抑制や礼儀正しさをことごとく破 壊した。そしてスタール夫人は生涯革命のリーダーたちにはこれらの精神性が欠如したこ とを嘆いた。彼女はこの精神に宿る抑制が欠如していたために、フランス人が革命の自由 の精神から逸脱し、恐怖政治にいたってしまったと批判した。そして抑制とは対極に位置 する要素として、複雑な思考を排除した、画一的な考え方に基づいたフランス革命派のメ ンタリティーを党派精神と名付けた。
党派精神、eprit de partiとは、すべての事象を唯一無二の考え方に結び付けてしまう精神、
知的状態を指し、スタール夫人はこれが狂信主義の温床となったと指摘している。反革命 派がすべてを絶対王政や極端なカトリシズムに帰結してしまうと同様に、革命派はすべて の事象を理性、自由などの抽象的な原理原則に結び付けてしまう精神的傾向があり、たと えば自由を狂信主義的に信奉した共和派たちは、王の処刑、所有権の否定などに至った、
と解釈された。その結果、アンシャンレジームではマイノリティーであったプロテスタン トが排斥されたが、革命フランスでは貴族が排斥された。彼女は狂信主義的行動に発展し うる党派精神には、宗教または政治的な動機があると主張し、革命派と反革命派の祖先は 16世紀に宗教戦争を繰り広げた少数の狂信主義的なカトリックとプロテスタント教徒で
あったと主張した。両者は相互の存在を認めることができず戦争を起こしてしまうが、そ のもととなる精神構造は同じであり、それは一つの考え、原則にすべてを収斂させてしま うと同時に、自分とは異なる意見を受け入れられないからである。
スタール夫人によれば、党派精神が発展した政治的、宗教的な狂信主義というのはどの 時代にもどの場所にも常に存在し、狂信主義的な運動は、組織のトップにいる人々の支配 欲とそれに従う人々の熱狂さによって支えられていると主張した。そしてロベスピエール やコンドルセの例を取るなら、理性、穏やかさ、厳格さなどの見せかけの裏には、党派精神 に対する過度の情熱、つまり狂信主義が隠されており、それに対して多くの人々が追従し たと主張した。党派精神が極端な形であらわれたのが恐怖政治であり、それは革命期のフ ランス人がアンシャンレジームにおける抑制、精神性の欠如を免れえなかったから、と主 張した。そして「1789年のスピリット」とも言える自由の精神のみが反革命、革命の精神 に現れた相互に対立する二つの狂信主義を緩和させることができると主張した。
3)共和派としてのスタール夫人の幸福観(1795-1799)
スタール夫人の会話の技巧に内包された自由の精神とは、反革命派と革命派を特徴づけ た党派精神(esprit de parti)の対局に位置し、矛盾を含めて異なる複数の原則を同時に受け 入れる精神を指すことを示した。では3つめのポイントとして、スタール夫人の考えると ころの抑制もしくは自由の精神が表現された具体的一例として、共和政を信奉した1795年 から1800年にかけてのスタール夫人の幸福感について、簡単に紹介する。
スタール夫人は共和派時代にもっともすぐれた政治思想に関する著作を残したと言われ ている。それは彼女の独自性に加えて、その対象となった総裁政府に代表される穏和な共 和制に関する当時の政治議論にも独自性があったからでもある。共和派時代のスタール夫 人の政治戦略とは、文学を通して政治エリートの徳を培って、その共通の精神的土壌のも とに真二つに対立している立憲君主派と穏和な共和派を政治的に結集して自由主義の勢力 とし、革命を終焉させるということだった。この目的のために、本来立憲君主主義者であっ たスタール夫人は、総裁政府の代表的な知識人であった穏和な共和派のイデオローグと積 極的に交わった。イデオローグは、考えの源は感覚にあり、社会が人間の感覚に訴えかけ ることによって新しい人間を作り出すことができると主張した。トップダウンの体系的な 教育方法に基づいて人間の中に自由の習慣を植え付けることによって、逆説的に自由な社 会を作り出そうというものである。その背後にはロックの感覚主義的哲学や功利主義など の影響があるが、スタール夫人はこうしたイデオローグの考え方の大前提をある程度受け 入れるとともに、彼らとは異なる立場も表明した。
共和派に接近するために書いた『情熱の個人と国家の幸福に対する影響』という著作の 中で、スタール夫人は幸福感について次のように語っている。「人々が望む幸福とは、相反 する要素がすべて揃っている状態を指します。それは個人にとっては、恐怖心の伴わない
希望、心配のない活動、中傷のない栄光、変化のない愛、自分がこれまでに手にしたものに 満足するとともに、失望を感じる思い出については忘れることのできる想像力などのこと です。またマイナス要素が一切ない道徳心、才能、喜びが引き起こす興奮のことです。国に とっての幸福とは、共和国の自由と王制の穏やかさが共存すること、競争が保証されると 同時に党派による争いがないこと、対外的には軍国精神を発揮しつつ、国内においては法 律を順守できること。しかしながら人々が望む幸福とは、現実には不可能なものです。で は人々の手に届くような幸福をどうやって現実のものにするのかと問われれば、それは大 きな苦痛を避けるもっとも確実な手段を研究することです。」恐怖政治の前と後ではスター ル夫人の幸福観は大きく変わった。1788年には世俗的な幸福の実現を訴えたが、恐怖政治 の後、このテキストにあるように彼女は人々が考える完全な幸福を達成することが不可能 だと主張するとともに、彼女自身の幸福観はより精神的な性格を帯びるにいたった。その 結果彼女にとっての幸福とは、哲学などの学習によって「自分より強い動きによって乱さ れたり、征服されたりしないという確信」というものに変わった。ここで自分より強い動 きというのは、情熱を指す。実際「情熱が個人や国の幸福にとって最大の障害となります。
情熱を統制するための道徳および政治科学を研究することによってのみ、個人や国民のあ いだの不幸を軽減することができます。」「情熱、人間を自分の意思から遠ざけてしまうこ の衝動的な力、これが個人、政治的幸福にとっての最大の障害です。道徳でも政治でも情 熱がもたらす困難をどうやって克服するか、という点から論じたい。」
この著作の中で、スタール夫人は個人と国家の幸福について同時に語っているが、両者 の違いにも注目している。彼女の個人の幸福についての考え方は、イデオローグとは異な る。彼女は外からの刺激ではなく、自己の内面に幸福の源を見つけなさい、と主張してい る。さらに現世主義的なイデオローグとは対照的に、神とは言わなくとも道徳的本能に従っ て行動し、自己利益に基づく道徳論や計算に基づくものではなく、自己の内にある道徳心、
利他主義、隣人愛に耳を傾けなさい、とも主張している。そして党派精神というのが、イデ オロギーに対する過度の情熱の思い入れだとすれば、スタール夫人はこのような極端な精 神状態を緩和するのは、個々人の内にある慈悲の心である、と説いた。
一方彼女は、個人の幸福はその人の意思や性格によるのでそれをコントロールすること は困難だが、国家の幸福をコントロールすることは可能だと主張する。そして穏和な共和 派として知られるコンドルセに由来する統計学に準じて、国家の幸福の実現は計算によっ て解決できるとする。そして感覚もしくは道徳的な考えではなく、計算によって社会全体 の痛みを軽減すべきだと主張する。「人間の集団にはかならずあらゆる種類の性格の人々 が決められた割合で存在するために、状況が異なってもあらゆる出来事は一定の割合で、
繰り返し起こることとなります。政治学という学問は時間を経ることによって幾何学的な 確信を生み出すでしょう。この視点からあらゆる憲法の唯一の問題は、どこまで国民全体 の幸福をそこなうことなく、情熱を刺激したり圧縮したりするかという問題に収斂します」
ここで情熱というのは第三身分出身の人々のことを指し、具体的には、制限選挙制のもと に第一院に誰を選出し、誰が投票者となるか、という問題へとつながる。
スタール夫人は幸福の政治的意味合いについて具体的に「休息、安全、所有権の保障」と 列挙する。それゆえ彼女の幸福とは、政治的には市民権をさし、政治的権利とはそのため の保障と位置づけられる。しかしながら当時浸透していた一般的な市民権の定義と比較す ると、スタール夫人の市民権はいささかいびつな内容であった。そこには、人身の安全や 所有権は含まれるが、言論や宗教の自由を含んだ知的自由が含まれていないからである。
スタール夫人は、宗教については国が管理すべきだと主張している。さらに新教を国教 とすることが望ましく、カトリック特有の教義や神秘を一切排除すべきだとも述べる。反 革命派とつながったカトリック教の社会的影響に対抗するために、共和国に抵抗する司教 を強制的に国に服従させるべきだ、とも書いている。ではなぜスタール夫人は信教の自由 を主張しなかったのか。フランス革命以後フランスの社会状態が混乱し、政治的対立、内 戦を引き起こしたために、政治エリートたちは社会におけるモラルの低下を憂慮していた。
そして社会をひとつにまとめるための手段として宗教に注目が集まった。同時に宗教に よって国民道徳を管理するという考え方は、先に述べた上からの刺激によって国民のモラ ルを作り上げる、というイデオローグの考え方に他ならない。この意味からイデオローグ のスタール夫人に対するもっとも顕著な影響は彼女の宗教に対する考え方に反映されてい るといえる。さらにスタール夫人は言論の自由を全面的には認めていない。書籍の出版の 自由は認めたが、雑誌の出版の自由を認めなかったからである。
スタール夫人は、信教、知的自由とは対照的に、人身の安全に加えて、経済的自由の保障 を主張しているが、この中にもイデオローグの影響を見て取ることができる。イデオロー グは彼らの社会科学の中心に経済学を据え置き、政治学とは峻別した。そして社会科学の 目的が社会における最大多数の人々の幸福を実現することであると規定し、功利主義的な 幸福感をアピールするとともに、相互関係に基づいた社会性の一環として自由な経済活動 を推奨した。このようなイデオローグの前提はスタール夫人の幸福感にもある程度影響を 与えている。彼女は個人の幸せというものが、個人の自立、欲望の満足、富の蓄積であるこ とを否定しない。さらに近代人の自由の本質は、政治的活動とはかかわらなくてもいいこ とであると強調し、その私的自由、市民的自由の重要性を強調した。またスタール夫人は、
個人の内面から湧き出る感情を重視すると同時に、イデオローグにならって道徳を人類に 対して役に立つ行動として規定している。その結果、道徳を順守することによって社会に 秩序が生まれ個人の安全が守られるという意味から、社会秩序を順守することが個人の利 益にもかなうとし、競争、芸術の発展、栄誉のような情熱が社会的幸福である、とも書いた。
しかしながら、スタール夫人とイデオローグの間において、幸福というのは個人の市民 権を指す点では一致していたが、その幸福を保障する手段においては、大きな隔たりがあっ た。
イデオローグは憲法などの政治的組織に重心を置かず、中央集権国家による経済、社会 の組織化によって国家の幸福を実現しようと試みた。代表的なイデオローグのデスチュッ ト・ド・トラシーは、自由を「自分の意思や欲求を遂行するための能力」と規定し、幸福と 自由を同一視した。そしてどのような政体であろうとも、最優良な政府とは、最大数の人々 に幸せが約束された政体である、と主張した。
一方、スタール夫人は、個人が幸せを実現する上で、つまり市民権を確保するために、政 体による個人の自由の保障が不可欠であると考えた。彼女は政治的権利によってのみ国民 の幸福は確保されるとみなし、彼女にとっては代議制なくして自由はなかった。先ほど彼 女にとってのベストな政体とは、共和国の自由と君主国の穏和さを兼ね備えたものである と紹介した。それは大ざっぱに言えば立法権と行政権の均衡を指している。それに加えて、
スタール夫人は、選挙による優秀な政治エリートの選出、権力の分散、二院制など要素を 兼ねた代議制によって、国民の幸福は約束されると主張した。彼女は大枠では共和派が主 張した人民主権に基づいた法の支配による代議制を受け入れ、イギリス憲法が共和国フラ ンスにはふさわしくないと主張する一方で、イギリスの貴族院に由来する大規模な土地を 所有する階層の利益にかなうような第二院を創設すべき、と矛盾した主張をした。つまり 彼女は法の支配を訴えるが、同時にモンテスキュー的な権力均衡の考えを捨てきることが できなかった。このように表面的には共和政を標榜しながらも、その共和政の中に王政の 特徴を盛り込もうとしている点に彼女の自由な政治政体の考え方の特徴があり、これは抑 制の精神を体現した考え方である。
フランス革命史の第二の段階、つまりナポレオンの帝政を経て、自身が10年以上の亡命 生活を余儀なくされた後、スタール夫人の幸福感はさらに変化する。それは彼女がナポレ オンの民主的独裁制につながった要因の中にイデオローグの思想の影響もあった、と判断 したためである。イデオローグは政治性を問わない国家の建設を訴え、そのために国家が 幸福を享受できるのなら暴君をも指示すると主張し、ナポレオンの政治的成功に加担した。
このような態度はイデオローグの師匠的存在であったテュルゴーが「合理的判断を下せる 啓蒙君主を賞賛した」ことと重ね合わせてみることができる。スタール夫人はその後の作 品の中でイデオローグの自己利益に基づいた道徳論、また彼らの合理的、抽象的な考えに 基づいた国家主導の社会変革のアプローチを批判するとともに、彼らが自己利益を保持す るために政治を利用していると批判した。そして政教分離、言論の自由を保障して、個人 の倫理的自由を育むことの重要性を再認識するとともに、選挙権を持たない人々も含めた 市民の積極的な政治参加を強調することとなった。
最後に
スタール夫人の政治思想の背景には、寛容、妥協、抑制などを促す自由の精神があり、そ れは彼女が18世紀末期のフランスのサロン文化の中で身につけた精神であると指摘した。
その精神によって彼女は革命思想として自分が受け入れられる範囲の中でイデオローグの 思想を受け入れ、第二院に関しては王政の要素を取り入れた独自な共和制について論じた。
ちなみに同時代に書かれたスタール夫人の著作に『文学について』というものがあるが、
この中で彼女は進歩観にもとづいた歴史展開の中で社会の政治構造、宗教、天候、対外関 係などと絡めて多様な国民性について論じた。この手法はギゾーの文明史に大きな影響を 与え、その結果間接的に明治時代の日本にも影響を与えることとなった。なぜなら福沢諭 吉の文明論は、ギゾーの文明史から直接インスピレーションを得て書かれたものだからで ある。したがって、日本の近代を考える上でも、スタール夫人の政治思想が果たした役割 には大きなものがあり、今後このテーマについても考えてみたい。
本論文は、平成23−24年に私学研修員として在籍した東京大学社会科学研究所におけ る口答発表をもとに再構成された。1年間穏やかな環境のもとで研究に邁進することがで きたが、国内研修としてそのような機会を与えて下さった大妻女子大学、それを支えてく ださった大妻女子大学比較文化学部の同僚、そして受け入れ先の東京大学社会科学研究所、
とくに宇野重規教授に深く感謝の意を表明したい。
論文に使われた第一次資料
Madame de Staël, (Paris, 2000).
Madame de Staël, Considérations sur les principaux événments de la Révolution française, (Paris, 1983).
Œuvres complètes, vol.II (Paris, 1820-21).
Madame de Staël, Correspondances générales, texte établi et présenté par Béatrice W. Jasinski, Paris, 2009.
論文に使われた第二次資料
Bronislaw Baczko, Politiques de la Révolution française, Paris, 2008.
B.Constant, The Spirit of Conquest and Usurpation and Their Relation to European Civilisation in Benjamin Constant, Political Writings, (Cambridge, 1988), 104.
Karyna Szmurlo (ed.), Germaine de Staël: Forging a Politics of Mediation, (Oxford, 2011). Aurelian Craiutu, A Virtue for Courageous Minds: Moderation in French Political Thought, 1748-
1830, Princeton, 2011.
Simone Balayé, ‘Le Groupe de Coppet: conscience d'une mission commune’ in Le Groupe de
Coppet. Actes et documents du deuxième Colloque de Coppet, 10-13 juillet 1974, Geneva and Paris, 1977.
Biancamaria Fontana, ‘La république de Thermidor et ses principes dans les ecrits de Madame de Staël’ in Le siècle de l’avènement républicain, ed. by Francois Furet and Mona Ozouf, (Paris, 1993), 283.
Pierre-Xavier BOYER, ‘Constitutionnalisme de la raison et constitutionnalisme des passions’, in Revue francaise d’histoire des idées politiques: Les idéologues et le Groupe de Coppet, 287.
Henri Grange, “Necker, Madame de Staël, et la constitution de l’an III”, Les idées de Necker, (Parisn 1974), 462-476.
Lucien Jaume(ed.), Coppet, creuset de l'esprit libéral, Aix-en-Province and Paris, 2000.
Aurelio Principato, ‘Madame de Staël: La conversation et son mirroir’ in Cahiers staëliens, No.52, 2001, 53-74.
Patrice Rolland, ‘Les droits garantis’ in Revue francaise d’histoire des idées politiques : Les Idéologues et le Groupe de Coppet,305.
Jean-Paul Sermain, ‘Conversation et écriture chez Madame de Staël,’ in Cahiers staëliens, No.52, 2001, 75-94.
Georges Solovieff, ‘Scènes de la vie de Coppet (récits d'hôtes européens),’, Cahiers staëliens, No.43, (1993-1994), 46-66 and Marie-Claire Hoock-Demarle, ‘Coppet, lieu de mémoire,’
ibid., 76-90.
Destutt de Tracy, ‘Commentaires sur l’ esprit des lois de Montesqueu’, in Œuvres de Montesquieu, Dailbon, 1826, tome VI, 148. Rolland, “Les droits”, 320.
Laurence Vanoflen, ‘Finir la Révolution par le raisonnement: De l’influence des passions sur le bonheur des individus et des nations’, in Cahiers Staëliens : Madame de Staël et le Groupe de Coppet, no.52, 2001,111-128.
スタール夫人の伝記
佐藤夏生、スタール夫人、清水書院、2005年。
Maria Fairweather, Madame de Staël, London, 2005.
Chinatsu Takeda, Mme de Staël's Contribution to Liberalism in France, PhD thesis to the University of London, 2000.
スタール夫人の代表的著作
本論文で説明したとおり、フランスでは現在スタール夫人ブームが起きており、新たに 全集も刊行されている。一方日本では『コリーヌ』と『フランス革命に関する考察』などを 除き、近年スタール夫人の作品はほとんど日本語訳されておらず、フランス文学離れとあ
を願って。
Lettres sur les ouvrages et le caractere de J.-J.Rousseau(1789)ジャン・ジャック・ルソーの著 作と性格についての書簡
(1793)王妃裁判についての省察
(1795)平和論
(1795) フィクション試論
!"#$ (1795) ピット氏とフランス人
にあてた平和についての省察
個人と国民の幸福におよ
ぼす情熱の影響について(1796)
Des circonstances actuelles qui peuvent terminer la Révolution française et des principes qui doivent fonder la République en France 革命を終結させうる現在の情勢について、ならび にフランスに共和国を建設すべき原理について(1798)
De la littérature considérée dans ses rapports avec les institutions sociales 社会制度との関係に おいて考察した文学について(1800)
Délphine(1802)デルフィーヌ フランス革命初期の政治家批判、フランス社会風刺
Corinne コリーヌ、あるいはイタリアについて(1807)小説、イタリア、イギリス文化、社会 の紹介
De l’Allemagne ドイツ論(1810)
Des Considérations sur les principaux événements de la Révolution française フランス革命の主 要な出来事についての考察(1818)
Dix années d’exile 追放10年:ナポレオン批判と10年に渡る亡命の日々(1820)
(71ページの文献の日本語訳のみ、佐藤夏生教授に従った。その他の翻訳は著者が行った。)
要 約
Mme de Staël comme peuseur politique
Cet essai vise à présenter quelques aspects de la vie et pensée politique de Mme de Staël, célèbre femme écrivain et penseur politique. Son approche philosophique consiste à intégrer dans un système global des aspects culturels, nationaux, géographiques, ou religieux malgré des contradictions internes. Cette logique est en soi inhérente au fonctionnement de femmes de salon du siècle des lumières, qui essayaient de relier des invites de sensibilités politiques et horizons !"