︹研 究ノ
l
ト ︺
松
胃
J I
る 系 図
作 成
伊
h
渇え
よ
はじ めに
一月七時︑太田髄中守資京を挙行とし
の系隷を集めるという将軍家光の上意があり︑これによって吋覚永語家
系図伝﹂︿以下︑﹁寛永譜﹂とする﹀の譲纂事業が開始された︒ 寛永十八年︿六随一)
松前家でも︑この年に強用された斉藤革政によって系図がまとめられ
鑓出されており︑とくに︑直政は﹁松前家の誼たる武器借広を新選三郎
系の若狭糠氏の末に仕立あげたのは︑重政ではなかろうか﹂ともいわれ
てい
る︒
小稿
では
︑
いかにして松前家が若狭武田民の末議となったのか
という点に柱闘しながら︑この系閣の性格についの検討を加えて
みた
い︒
松前蒙が提出した茶園の珪諮
松前家が幕府に系留の提出を求められたのは︑
間ニ十年七月十六詩︑大将軍家光公為太閤備中守資宗承︑被抑出松
前氏広家之灘間於可書上之由︑家盟斉藤多宮産政就之︑則日産敬語
の
齢
エ
藤
輔 大
無阻害之筆者十二人之内︑高野山見樹際法印立詮︑申松前之先祖者
若州展形之息男牢人之来由︑代々の名誉︑法事繁多︑取其要為一小
一巻
者氏
広所
持︑
と︑
寛永
二十
年(
一六
問一
一一
﹀七
月一
六日
ぬこ
とで
あっ
たと
明新
議之
記録
﹄
春︑令法碍講書二春︑巻者使資宗上
大特
第︑
は伝える︒持軍家光による系国接出の上意が太間資娯に伝えられたのは︑
箆永十八年の二月のことであるから︑二年以上の時間を経た後のことに
‑ 34 ‑
なる︒このときに松前家から据出された系図は︑﹁寛永廿年幕府江得葱
出写﹂という﹁松前家精い︿以下︑﹁系思
G
いとする)によって知るととができる︒この系留には︑﹁案︑来二十奨来襲七月吉
a
松前勝之助/太国舗中守駿﹂とあり︑系図挺出の時期についての型新築之記録﹄の記述
を裏付けることができる︒
また
︑内
関文
憲論
臓﹁
松前
系国
にも︑右の吋新織之記録﹄の記事
とほぼ関文の記述があるが︑これには上使永井弥右衛門︿車一兆﹀が遣わ
されたとある︒永井弥省衛門は︑七月一四民の時点でぶ特使聴札﹂のこ
と仁より審践番をつとめており︑妻は﹁松前隼人正忠広が女﹂であると
いう︒忠広は︑拐代議主襲広の二男である︒ちなみに︑このときに作成
された系閣を自にした松前景広が︑明新羅之記録恥をまとめるきっかけ
の一
っと
して
︑
購買隼人正忠広︑奉事大将軍秀忠公︑於大坂擦令高名︑怒川私秀忠公
御上洛之時乍為病身供世帯奉部於途中道去︑最是不尽忠箭央︑車敬之
失念故平不載此巻中事︑為案内机遺慢︑葉広書載知之一巻︑
と︑この剛山広の忠節が載せられていなかったこと金あげている︒
諸家
より
概出
・8れた系協は︑ぷ見永欝いの編纂担当者の手によってま
とめあげられてゆくことになるが︑この過犠で金じた疑問点などは憲作
である太田資京の名在もって諸家に問い合わせがなされたとい
たと
えば︑津軽氏のばあい︑
太問備中守資京問︑掲通政惜栢続之事︑時実永十八年五月︑捧続使
者来︑示近衛信尋公害状一通︑其状語︑津軽系菌龍山自筆晶︑然期
政信後法成寺猶予無疑者也︑云々︑
と︑政信が近衛尚通の猶子であるとすることに疑問を持たれ︑問い合わ
せがなされている︒津軽家では︑津軽信吉が︑案︑来十八年三月の段階で︑
近衛家の進藤修理に書状を遣わして︑吉家の霧呂を保証して欲しいと依
頼しており︑四月二六日付の近毎信尋の返書により︑津軽系留は近衛前
久の筆によるものであること︑敦信は近衛出向通の猿子であることが伝え
られた︒五月に津軽の鑑者が示した﹁近衛信尋公書状一通﹂はこの返書
であった
ο
松前家の上使として涼遣された永井弥在籍問は︑娘成関係のある松前
の挺出を求めるためだけのものであったのか︑すでに提出され
た孫閣に対する疑問を問うためのものであったのかは般には分からない︒
しかし︑もし後者であったとすれば︑それは津軽家のばあいとおなじよ うに︑若狭武田家の末膏であるという松前家の昌吉に関するものであった
と思
われ
る︒
さて︑﹁寛永譜﹂を編纂するにあたっては︑
(1
﹀措訟の最初にあげられている通称・官途・位指などは︑最初
に大
書さ
れる
︒
︿2﹀原則として改年のところで誌改特にし︑干支は付さない︒
徳川氏以外には敬啓会同初期いない︒そして︑家康は東照大
権 現
秀忠は会徳競殿︑
記し
︑省
一期
にし
て記
す︒
︿4)
家紋は必ず系留の設に記す︒
といった形式的統の家光に対する表記で﹁将
‑ 35 ‑
があ号︑とくに︑︿
3)
軍家﹂とするものは︑語家から提出された思われる系菌にはまったくみ
られ
ない
とい
う︒
内閣文庫には真名本の
﹁案
︑京
藷家
系留
伝﹂
(三
O
冊総数約四
OO
点)が収められており(以下︑﹁嬰本﹂とする)︑その特徴は︑
(イ)諸家よりの皇謡︑ないし皇藷の原形をよく残していると思わ
れる
もの
︒
(口)寛永譜の未定識の段諸にあると思われるもの︒
︿ハ)寛永欝の編纂にさいしての考証筆記︒
︿一
一﹀
箆永
隷編
纂の
ため
の参
考資
料︒
の問機頼の合綴本で︑議纂のためのったものの⁝部
であるといこれに絞められている松前家の系関︿以下︑
そし
吋系
図②
﹂と
する
﹀は
︑ぷ
総本
い
の中で唯一︑さきの︿3﹀
の ノ レ ノ レ で
ある
﹁評
軍家
﹂
の表記を用い︑台頭にしたものである︒しかも︑﹁系関
③﹂は︑文章なども日光東照宮所臓の﹁寛永譜﹂とほとんど変わらない
ところから︑﹁寛永譜の最終稿本と推定される﹂という︒
方 ︑
と
とを比較してみたとき︑話物の
棒護法あるが︑人物の名前一致している︒し
かも︑吋笈永譜いの統形式である︿l﹀
t E
︿4﹀のルiルも
︑
家紋以外はすべて当てはまっている︒松前家の系認は︑幕蔚に提出され
の
たその時点ですでに﹁寛永譜﹂の形式に則っていたというができ︑さら
V﹂キ品︑その語句などにしても︑﹁寛永譜﹂と撞めて遊説したものとなっ
ているということができる︒
系題作成の背景
さきに結介した叫ん耕邸側之記録前回の記述によると︑松前家の系図は︑家
監の斉藤寵政がその担当者となり︑幕時の系国緩纂事業に関わっていた︑
こなったと結える︒斉藤雄政は︑大
波線撲の浪人にその出闘が求められ︑
って
葉︑
氷
期され︑家者織に就いた人物であるという︒また︑ついては︑寛
永二十年九月の太田資京による﹁寛永諸家系留依序いに︑
十九
年三
月十
日量
一有
台命使僧録金地院元良︑長老毘州法眼正意︑水戸書生ト議・了的︑
同預其事︑高野山見樹院立詮及営中筆史大議重敦・小島重俊頭和
字事︑且招京都五岳僧侶十七人経日到着江戸︑於是配分諸家系譜︑ 使道春・春驚掌講和源氏蔀︑立詮農之︑
と︑寛永十九年三月の編纂員の増員から幕宥の系図編纂に携わることに
なった人物であると記されている︒そして︑林道春・春驚のもとで﹁清
和源氏部﹂を担当し︑﹁高野山見樹段立詮・大橋長左衛門重政・小島久
税衛門重俊一一一人令漢字敬和学﹂と︑真字本を仮名本に改める作業をおこ
なっていたということを知ることができる︒
iま
の
︿以
下︑
系図であると息われる︒しかし︑とくに内新躍な記録
h
によって加筆がなされているであろうと思われる部分が数か所あり︑その意味では︑
﹁系間③﹂はその利用にさいしては註意しなくてはならない︒そして︑
その
﹁系
図③
﹂
の末尾に次のような一節がある︒
‑ 36 ‑
右公犠差上系国留書岳︑
寛永諸家系図之長載之︑
此一巻︑自修理大夫密告以上者︑以官本系図考之︑自若狭守信広以
下者︑松前之家譲記之︑立遇松前之家臣斉藤多宮直政︑其真偽以需
備後来之
覧部
丘︑
商野山見樹腕住持
これ比よると︑幕持に提出された松前家の系図は︑松前家が若狭裁問
家の米葡であると主張する部分を﹁宮本系悶﹂で︑町新羅之詑銭恥で
﹁当家之元議﹂とされる武田信広以下については﹁松前之家譜﹂によっ
て記したと伝えられる︒
まず︑松前家の系留については︑﹃新羅之記録﹄によると︑
慶長関年冬︑於夢︑州大坂之櫛城西丸︑十一月七時被召家康公御愚問︑
被櫛覧敬之嶋之絵関︑北高麗之様体宥梅物語︑以其衣南噂隣召当家
之系
図皇
︑
五九九﹀に家康に系関について尋ねられてというように︑慶長四年︿
いる︒また︑康長十四年ご六
O
九﹀ 一
一
一八
日の
福山
械の
火災
によ
り︑
﹁当此時︑従借広報悪相伝鎧・設広朝臣之弓︑殊質系摺等令悉焼失﹂と
系闘が焼失したとも訴えられる
c
﹁松
前之
・家
欝い
は︑
おそらくは︑幕府
に提出するために斉藤直殺の手によってまとめられた系関であったので
はな
いだ
ろう
か︒
つぎに︑﹁宮本系図いであるが︑日光東部山富所態の真名本の訟前家の
系図から︑組側沼部分を少々あげてみると︑﹁信義
l
信光i倍時l
詩 編
!
︻
n v
となっている︒そして︑建設l借泉!借武l民信
i
俗世i
︿以
下略
)﹂
ここで注目したいのは︑﹁信時│時繰
i
信政﹂の部分である︒叫新羅之記録﹄で該当部分をみてみると︑﹁借政i信時│時績いと改められている︒
この蝦穿は︑﹃尊卑分除い訟はじめ︑﹁若狭守護武田氏系図工仏臨寺文書﹀
A
お } { 憧 岬
V・﹁岡武田系関勺﹁若耕武田系留へそして︑﹁寛永譜いの武田氏の系閤
でもおなじである︒
しかし︑松前家の系図と問じ順序でならんでいるものが吋期本﹂に収
められている︒﹁建仁寺十如読本いと朱書されたぷ制捜武田系国﹂がそ
れで
ある
︒
つまり︑松前家の系留の若狭武田家との関援を示す部分は︑
吋寛永譜﹂錨構築のために叡集されていた系国であり︑この事業に関わっ
ていた立訟によって書かれたものであったと患われる︒﹁松前之家織い
には若狭武田氏立関してどのように記述がなされていたのか︿もしくは︑ まったくなかったか)は分からないが︑﹁寛永譜﹂を編纂するために収集したものをそのままあてはめなくて註会らない軽度にあったのだろう
カ=
むすびにかえて
寛永二十革七
R
に幕府に提出されたという松前家の系図は︑土寛永諦﹂の体裁に則って作成された系留であった︒それは︑系閣作成を担当
した斉藤庭教が︑﹁寛永譜﹂繍纂に関わっていた高野山見積読立栓と接
触していたからにほかならず︑﹁系図舎いにいうように︑立設が書き上
げたのであろうひまた︑直教がこのときまでに︑i後に松前景広に﹁情
‑ 3 1 ‑
披見之︑能当家之元祖億広朝臣建盛広朝霞之代有年譜復位相違之事︑難
偽玄歩︑於今不逮是非︑﹂と評されるものであっても
l
吋訟錦之家謹﹂というべき系鴎をまとめていたすれば︑重政にとって系凶作成のハイライ
トは︑松前家を若狭守武田誌の末奮とすることにあったと患むれる︒
﹁清和諌氏部いを担当していた立践と接挫したのは︑そうした意識の現
れであったといえよう︒しかし︑
一方
では
︑
西年の火災によって
焼失してしまったからか︑積極的に理府づけができなかったともいえよ
う︒それ放︑吋寛永譜﹂編纂のために叡集した系留をそこにあてはめざ
る者得なかったのである︒
︿1 註
)
﹁大
猷院
接御
実紀
﹂巻
四六
︒
︿2 )
このとき提出されたのは系関ばかちでなく︑﹁古審物﹂も書き写して
一書
房︑
(誌
﹀同
省︒
(は
w v
問右
︒
︿げ﹀吋系図①﹂は︑習繍部分に欠損部分がある︒後掲する内鑓文雄麓﹁松
前系図全﹂令系関舎﹂﹀は︑胃頼部分に﹁家紋剖避いとあ号︑﹁系国
①﹂はこれとおな乙註量に家紋の記述があった可能性がある︒
(認 )海 保嶺 夫容 帯藩 制国 家と 北海 道﹄
︿一 一二 書軍 師︑ 一九 七八 年)
︒
(m
m)
TH
先叢書寛永諸家系関誌恥第一巻︿続群番額誕完或会︑
一九 八九
提出していたようであるぬ鹿児島県史料
二
O
五号 文書
︑一 九八 六部 )︒
︿3﹀議保嶺夫﹃幕藩制問家と北港道l松前滞敏史研究序説
lh
一九
七八
年)
︒
(4
)
﹃薪北語道史恥第七巻資料一︿一九六人年)︒
(5
)
松前町史綴集室態﹁中島家文轡九
(6
)
この系閣は︑﹁系留
e
﹂とおなじように︑﹁寛永二十奨来歳七月吉日松前勝之助/太田備中守殿いとあるが︑後に加護された形跡がある︒
︿?
﹀﹁ 大猷 読殿 御実 紀﹂ 巻五 居︒
︿8
﹀﹁
寛政
重諺
諸家
抽出
場第
六二
一一
一︒
︿9
)
橋本政宣吋箆永諸家系図伝と細川系関﹂︿当日本歴史
h
蕊O一 号 ︑
九O
年 ﹀ ︒
( m
﹀内閣文成蔵﹁寛永諸家系賠訴勺
w
{日﹀簿軽稽古書状写︿吋新縦弘鶴市史﹄資料締ニ近世て六一
九九
六年
)︒
指記雑録﹄後編六附録
九
なお︑西尾正信︿番物憲行)の鰭伝にも︑おなじ内容の
︿初﹀﹁西尾系図い明器党叢書寛永諸家系図誌﹄第六巻︿続群書類誕完或会︑
一九九一年可
(れ
)吋
い松
前革
々記
﹄︿
﹃松
前昨
史
h
史料編第一巻︑一九七関年)では︑﹁家藤公於大坂御城西丸慶広被為話︑当家之系図・蝦夷嶋之絵図上覧﹂と伝え
る ︒
みえ
る︒
‑ 38 ‑
︿幻 )吋 日光 叢書 年 ︒
︿お
)﹃
昌史
大系
白血
第六
O巻
上︿ ム吉 川弘 文節
︑一 九六 六年
﹀︒ (包 )﹃ 小誤 市史
h
社寺文書編︿一九七六年)︒(お)叫続群書類従﹄第五輯下︿続群書類従完成会︑
︿部
﹀問
右︒
︿許
﹀明 日光 叢書
年 ﹀ ︒
寛急務家系図伝﹄第春︑競群書類従完成会︑
一九 八九
︿山
﹀近 構信 尋書 状︿ 問右
︑ム ハ三 回号 文書
﹀︒
︿日)樟軽家と近衛家との欝係が認められるのは︑文禄一
為信が上洛し︑﹁近寄家へそ参上﹂︿問右︑五五号文書﹀したというよう
に︑為倍以降のことであるという︿長谷川成一ぷ押軽藩々政文書の基礎
的研費︿ニ
i
近世前期務較文書を中心にi h
吋文経論叢﹄第一五場第
一号文学務第I︑一九八O
年 ﹀ ︒
︿M﹀楠本政宣﹁案︑承諾家系図伝と諾家の同部講い(司自光叢書寛永龍家系図
伝﹄第一巻︑統群叢類従完成会︑一九八九年﹀︒
しか も︑
︿
3﹀の方針は︑少なくとも寛永十八年の秩の段措では一定
したものではなかったという︒
︿一
五九
一ニ
)に
九五 九年 寄玉 三版
﹀︒
寛永務家系図伝﹄第六帯︿競群書類従完成会︑
一九
九
(くどう・だいすけ青森市史編さん室)