(平成元年3月) 別刷
クレーメンス・ブレンターノの「言葉」と「語り」
一『数名のヴェーミュラーとハンガリー国民の顔』解釈の試み−
〔験鋭〕
クレーメンス・ブレンターノの
「言葉」と「語り」
−『数名のヴェーミュラーと
ハンガリー国民の顔』解釈の試み−
山下 剛
はじめに
『数名のヴェーミュラーとハンガリー国民の顔』 (以下『ヴェーミュラー』
と略す)が初めて出版されたのは1817年,つまりプレンターノが総告白をして
Ifな If
カトリックへ改宗した年のことである。またこの年には,他方で『健気なカス ペルルと美しいアンネルルの物語』 (以下『カスペルルとアンネルル』と略す)
凸
も出版されている。『カスペルルとアンネルル』は芸術的完成度の高い優れた 作品であるため,以前から盛んに論じられているのに比べ, rヴェーミュラー』
の方は取り上げられることが不当に少ないようである。いくつかの研究にも拘 らず, 『ヴェーミュラー』の成立年代を特定することはできないらしいが, 1) ごく大まかに1811年から17年頃と考えて間違いなさそうである。2)
rヴェーミュラー」においては, 1810年頃から深刻化してくるブレンターノ の「言葉」と「語り」に関する問題3)が, 『カスペルルとアンネルル』の場合 とはまた一味違った,極めて興味深い現れ方をしている。rヴェーミュラー』
には, 「言葉」との関わりにおいて成長してきたブレンターノの極めて近代的 な言語観だけでなく, しかもそれによって毒されていないブレンターノという 才能の最良の部分をも読み取ることができるのである。
本稿は,「言葉」と「語り」という観点から『ヴェーミュラー』を読み直す
ことを通じて, この作品が持つ独特の魅力を探るものである。この作品は我が
国ではあまり知られていないという事情を考慮し,論述は物語の内容や参照す
ることのできた諸家の説をやや詳しく紹介しながら進むことになる。
ドッペルゲンガ一
1 .ヴェーミュラーが描く肖像画と分身のモチーフ
表題の人物ヴェーミュラーは旅の肖像画家である。ところで, その肖像画の 描き方というのが一風変わっている。それは,ハンガリー人の顔を描いたあら かじめ半分完成している39のパターンの中から,客自身に自分に一番似ている 物を選ばせ, それに客の個人的な特徴,名誉の傷跡,個性的な口髭,軍服等を 後から描き加えるというものである。このやり方には,画家は冬の間にパター ンの描き溜めができ,客も長時間ポーズをとる苦痛から解放され, しかも自分 とよく似た肖像画を決まった料金で手に入れることができるという利点がある。
(254)さらにヴェーミュラーは,一本で驚くほど多機能の杖を持って旅をして いる(255f、)。デイケンズは,狡猜とも思えるほど効率を優先させるヴェーミ ュラーのやり方に, 20世紀の機械による大量生産技術の先取りを見ているほど である。4)
ドッペルケンガ一
皮肉なことにそのヴェーミュラーが分身の不安におびえることになる。
ヴェーミュラーが寄宿していた城の主人ギゥロヴイッチ伯爵は, ヴェーミュラ
ド,ノペルヶンガー
−の分身の状況を次のように説明している。
ヴェーミュラーの贋物とはおそらく本物のヴェーミュラーに対する神の罰に 過ぎない。なぜなら本物の方はすべてのハンガリー人を誰でも彼でも一律に描
<(UbereinenLeistenmalen)からだ。それで今ではひとつの型に合わせて (tibereinenLeisten)数名のヴェーミュラーも存在するというわけだ。 (258)
あらかじめ描かれている肖像画というグロテスクなモチーフは,実際にあっ
た事件に取材しているということだが,5)ブレンターノは, オリジナリティ神
クレーメンス・プレンターノの「言葉」と「語り」
話の崩壊や詩人としての存在の不安・絶望へとつながりかねない問題を, ヴェ
ドノペルゲンガー
ーミュラーが描く肖像画とヴェーミュラーの分身というモチーフにおいて 見事に形象化している。
プレンターノにとっては, 「言葉」の問題が生の問題の中心を成しているの だが,ギゥロヴィッチ伯爵の説明は,ブレンターノの「言葉」というものを考 察する上で,極めて重要な示唆を含んでいる。ヴェーミュラーは現実の人物を 肖像画のモデルとして対象化していない。彼の描く肖像画は彼の観念の中にあ る複数のパターンに依っており,後に有料無料で描き加えられる付属品・小道 具の類が,本来誰でもないパターンに本人であるとの錯覚を与えるのである。
このようにして,ひとつのパターンから複数の肖像画が生産される。この不気 味な状況は, そのままブレンターノの「言葉」をめぐる状況に還元することが できる。
確固たる自我を持たず絶えずアイデンティティ崩壊の危機にさらされている 者は, ちょうどヴェーミュラーが描く絵のパターンが付属品・小道具の類で生 気を吹き込まれるように, ある意味で「言葉」の圧倒的な支配下にある。時に より場所により変幻きわまりない姿を見せるブレンターノのことを,同時代の 詩人たちはカメレオンなどと呼んでいたが,6)プレンターノは, 自分が気紛れ に口にした「言葉」によって否応なく自分の周りに撒き散らされていく複数の 姿に分裂したまま, それを統一することができず,複数の存在を生きるという 耐え難い苦痛を味わわなければならなかった。7) 「言葉」は虚構としての第二 の現実を作り上げ, そしてそれが等身大の現実を追い越して不気味に, しかも 嬉々として増殖していくのである。ブレンターノにおいて, 「言葉」と「現実」
との一義性の神話は無惨に崩壊し,両者のつながりの恋意性が暴露される。
「言葉」は「現実」を正しく写さない。このような「言葉」による「語り」は
「鴎り」に通じる。
実生活において「言葉」はプレンターノを「現実」から疎外するが, これは
しかし『ヴェーミュラー』においては,当てにならない「言葉」に対する不信 や猜疑とはならないで,逆にその豊かな遊戯性が物語の領極的な創造原理へと 転化している。モデル不在の肖像画,本人を不意に襲うもう一人のヴェーミュ ラーの存在,実体を欠いた「荒ぷる猟師の亡霊」の噂など,物語は「言葉」と
「現実」, 「見掛け」と「実体」との滑稽な落差をめぐって展開する。さらに「鵲 り」を「語る」ブレンターノの強烈な自意識は, 『ヴェーミュラー』の構成に 作者の意図を遥かに越えた極めて近代的な性格を与えることになるが, これに ついては章を改めて述べることにする。
ここで少し物語の内容を紹介しておこう。
〔あらすじ〕
ヴェーミュラーは,彼の先触れ役として目的地へ先回りしているはずの妻ト ネルルを追って, クロアチアからハンガリーへと急いで国境を越えようとする
● ● ●
カミその途中,一人の農夫と居酒屋の女主人から相次いで,つい今し方もう一
●
人の自分力画境を越えていったことを知らされる。彼はあまりの不安に絶望し そうになる力:これまで以上に妻の身の上が気掛かりとなり,居酒屋を跳び出 すと,折からのペスト騒動のために張られた国境の非常線めがけて一目散に駆 け出していく。 (253〜259)
ドッペルケンガ一
分身は自我分裂・自我拡散の不安を表現する極めてロマン派好みのモチー フだが,ブレンターノはこれを文字通り深刻に取り上げるのではなく, このモ チーフに潜む喜劇的な可能性を引き出すのに成功している。彼はヴェーミュラ
ド・ノペルヶンガー
−の分身の状況を遊び半分に繰り返し繰り返し茶化しながら, これを滑稽
さへと譲り渡すのである。と言ってもこれは, いわゆるロマンティッシェ・イ
ロニーとは少々性質が異なっている。デイケンズは,改宗の年1817年に出版さ
れた対照的な作品『ヴェーミュラー』とrカスペルルとアンネルル』に,ブレ
クレーメンス・ブレンターノの「言葉」と「語り」
● ● ● ●
ンターノの複数の顔のうちの二つを探っているが, その中で彼は『ヴェーミュ ラー』の特徴として, ロマン派のモチーフやテーマの茶化し, 自己茶化し, ロ マンテイッシェ・イロニーのイロニー化などを指摘し, これをブレンターノの 飾りへの性向として説明している。8)彼によれば,ブレンターノのイロニーは 大胆なこぐのあるユーモアのため,調刺・パロディというよりは茶化し.冷や かし(Persiflage)に近いものであるという。9)確かにブレンターノ自身, 自 我分裂という切実な問題に苦しみながらも,彼はこれをいわゆるロマンティッ シェ・イロニーで明確に対象化し,積極的にその解決を図ろうとはしておらず)
むしろこの茶化しの蔭に隠れて自分自身のどうしようもない状況を仕方なく笑 っているという方が実情に近いように思われる。
例えば,ギゥロヴィッチ伯爵はヴェーミュラーにトカイワインを勧めながら,
こんな冗談で彼をからかっている。
もし君がこれを飲み干したら,ねえ, ヴェーミュラー君,君が二人に見えた なんてことには驚かんだろう。というのも君自身に見るものすべてが二つに 見えるようになるのだからね。 (258f.)
また,非常線の中心キャンプに勤務する外科医は,ヴェーミュラーの抜歯と 引き換えに肖像画を描かせたと語るが,本物のヴェーミュラーは無傷の歯が決 め手となって,先に国境を越えていったヴェーミュラーとは別人であることが 確認される(261f.)。先にヴェーミュラーの肖像画では,後から描き加えられる 付属品・小道具の類が極めて重要な役割を演ずると述べたが, ここで彼の自己 証明は「歯」という極めて末梢的なものによってかろうじて支えられている。
これは明らかに,彼の肖像画の手法に対する滑稽千万な復讐であり,痛烈な皮 肉である。
しかし我々のテーマにとってもっと重要なのは,むしろ次の変装に関する話
であろう。
〔あらすじ〕
非常線から止むなく居酒屋に戻ったヴェーミュラーは,噂を聞いて集まって
● ● ●
きた者たちから三人目のヴェーミュラーと勘違いされ, その真偽をめぐって 侃侃誇誇たる議論が巻き起こる。ヴェーミュラーが副知事のとりなしで何と か中へ入ると,今度はヴェーミュラーに変装したドゥヴィリエの登場でまた もや一場は大混乱となる。 (263ff.)
たら
これは客の一人, フランス人ドゥヴィリエが仕掛けた質の悪いいたずらなの であるが, よく注意してみると, あの肖像画を描くのと同じ手法でヴェーミュ
ド・ソベルケンガー
ラーの分身も複製されていることがわかる。変装においては衣裳が中身の 人物とは無関係に記号として独立し,全能化している。変装は内面の空虚を隠 し, きらびやかな表層によって人の目を眩ます。その結果, まったくの他人でも 扮装によってヴェーミュラーになりすますことができるのである。ここに本物と 贋物との区別は暖昧となり,一場は揮沌たる多義的な空間へと変質してしまう。
〔あらすじ〕
さてヴェーミュラーは秘密裏に非常線を潜り抜ける約束をとりつける。ただ し引き換え条件として,彼は一晩で副知事の肖像画を完成させなければなら ない。 (264)
ドッペルヶンガー
ヴェーミュラーの分身の謎の解明と妻トネルルとの再会は, とりあえず
彼が画家の役割に徹することによってもたらされるように見える。ヴェーミュ
ラーが「描く」とは,ブレンターノが「書く」==r語る」ことの比嶮である。たが
の外れた世界の只中におけるヴェーミュラーの必死の自己定立の試みは,三人
クレーメンス・プレンターノの「言葉」と「語り」
の人物が物語を語る間もその傍らで休むことなく続けられる。
ド,刀ペルケンガー
『ヴェーミュラー』では主人公の分身をめぐる状況が,居酒屋で語られ
ドソグ亀ルケンガー
る三つの物語を取り囲む現実の枠を形成するのだが,物語全体は分身のモ チーフと,三人の語り手によって語られる自発的な物語の遊戯性が揮然一体と なって展開する。作品全体は機知溢れる健康なユーモアに包まれている。そし てこれまで述べてきたように,ほとんど悪ふざけとも言えるやり方で,ヴェー ミュラーの深刻な状況が次の状況によって次々と茶化され滑稽化されるのと同 じことが,三人の語り手による枠入り物語同士, またそれらと現実の枠との関 係において物語大に拡大されている。次はその辺りの事情を物語の構成に注意
を払いながら見ていくことにしよう。
2. 「牡猫モーレスのピクニック, クロアチアの老貴族の物語」と「ドウヴィ リエによる牡蛎の岩礁上の魔女たちの物語」
トルコとの国境に近いクロアチアの領地に住む老貴族はこんな体験談を語る。
それは,
〔あらすじ〕
3年前,彼がクリスマスの早朝ミサに出席するため真夜中に教会へ急いでい ると,途中の凍りついた池の中島に立つ樫の木のところから,不思議な音楽が 聞こえてきた。近づいてみるとその木は,音楽に合わせてものすごい叫び声を 上げ,踊りを踊る鯵しい数の猫の群れによって占領され,木のてつぺんでは自 分の飼い猫モーレスがバグパイプを吹いている。彼はあまりの恐怖に夢中でそ の群れへ散弾銃を発砲すると,猫たちは一匹残らず逃走してしまった。翌朝,
彼は家で毛皮の焦げたモーレスと操み合いになったが, その際モーレスは下僕
のサーベルで切り付けられ,逃走した。その後,彼が前夜の場所を通りかかる
と,枝に髪がからみつき身体から血を流して助けを求める下女の一人を発見 し, この女が昨夜猫の一匹に化けていた魔女であることを知る。この女の告 白によって他の女たちも捕えられたが,一方,散弾による傷と刀傷を負って 死んだ狩猟商人の申し立てによれば,彼らの一行はある結婚式からの帰り,
国境上でクロアチアの貴族に襲われたという。そして事実,包帯をしギブス をはめた大勢の女たちを連れた狩猟商人夫人の一行が, ものすごい叫び声を 上げて自分の前に現れた。 (267〜274)
というものである。
この「牡描モーレスの物語」においては,モーレスに変身した狩猟商人を筆 頭に人間が猫に変身していたのだとして,謎は外見上は一応合理的に説明され る。しかし,物語の客観性を強調するために語り手が傍証として持ち出す事実,
例えば死後博物館に展示された魔女の遺骨の話(272),裁判騒動(272f.),一 件が落着した後,彼自身商魂たくましく例の樫の木のところに記念の居酒屋を 建て一儲けしたという話(274),彼がモーレスと操み合った際に受けた首の傷 (275)などは,逆に物語の真偽をかなりいかがわしいものにしているし, その 他にも彼の物語には,つい聞く者の微笑や失笑を誘うユーモラスな表現や大袈 裟な描写など,物語を異化する視点がふんだんに取り入れられているため,物 語は一種虚構としての性格を強く持つことになる。ところがそれにも拘らず;
物語の不気味な印象は一向に解消されない。これは一体どうしたわけだろう。
この物語は「詩的真実」(274)を伝えるひとつの物語として完成されており,
そのことが,物語の信憩性はともかくとして,語り手の「語り」の確かさを証 明する結果となっているのである。この物語は枠の現実と直接結びついてはい ないが, グロテスクさと不気味さという共通の詩的性格において枠の現実と間 接的につながっていると言える。
これにフランス人ドゥヴィリエの物語が続く。それは,
クレーメンス・プレンターノの「言葉」と「語り」
〔あらすじ〕
岩礁に身動きもせずへばりつき, ものすごい叫び声を上げている無数の猫は,
猫に化けた魔女の一群として恐怖の的となっていたが, それは単に牡蛎の殻に 足を狭まれて身動きが取れなくなっていた,牡蛎好きの猫たちに過ぎなかった。
(277〜280)
というものである。
「牡猫モーレスの物語」はグロテスクな非合理性を特徴としていたが, それ に対しドゥヴィリエの物語は不可解な現象もすべて因果律の連鎖で説明しよう とするフランス流合理主義, あるいは当時支配的であった極端な啓蒙主義の具 体化である。彼の合理主義的な「語り」は不気味に増大していく揮沌たる世界 を調伏しようとする一種の悪魔払いの装置なのである。彼は表向き「牡猫モー レスの物語」の信憩性を認めると言いながら(277), これとモチーフの似た話 をでっち上げ,前話をまったく別の視点,合理的視点から極端に誇張すること によって,最終的にはこれを茶化し相対化している。勿論ブレンターノは本気 でドゥヴィリエの超合理的な「語り」を支持しているわけではなく, これを冷 やかし半分で取り上げていることは明らかである。ブレンターノ自身の文学観 は,次の研究者たちも指摘するとおり, クロアチアの老貴族の物語にしきりに 感心するが,一座の者たちからは一向に理解されない詩人リントパイントラー の口を借りて述べられていると見るべきであろう。彼は語る。
その物語においてそこで言わんとしていることは本当かもしれない。それで
もその物語は高度の詩的真実を持つのだ。それはいずれにせよ,寂しさ,荒
れ野, そしてトルコの野蛮さといった性格を表現している限りは,真実なの
だ。その物語はその舞台となっている場所にいかにも特徴的で,神話的であ
り, それゆえそこではへたなラフォンテーヌの家庭物語などよりずっと本当
らしい。 (274)
この詩人リントパイントラーに,デイケンズはブレンターノの自画像を見て いる。10)また, クルーゲによるフランクフルト版全集の注は,バチオッキの機 知に富んだ即興にもまったく同じようにブレンターノの本質的特徴が反映され ているとして,デイケンズの説を退けながらも, リントパイントラーの発言に プレンターノ自身の意見が述べられていることでは意見が一致している。11)さ らにリューダースは, 「ブレンターノが(……)自分の本当の意見を無頓着にばか ばかしさに委ねてしまうことは(……) 『ヴェーミュラー』の特徴である隠した り,交錯させたりする要素に属している。このことは『ヴェーミュラー』に密 かにブレンターノの本質の複雑さを伝えており, 『ヴェーミュラー』を同時に愛 すべきもので肩の凝らないものにしている。物語は,ホーフマンスタールの言 葉を借りれば,表面に深みを隠しているのである。」12)と語っている。
ブレンターノは彼自身に極めて切実な問題である自我分裂のテーマを,ヴェ ーミュラーという人物において繰り返し繰り返しからかっていたが,上記の諸 家の説,特にリューダースの説明からわかるとおり,彼はここでも,切羽詰ま った問題や真剣な意見を正面切って切り出すことにはどうしても照れを感じる ため, それを茶化したりからかうことで自分の周りに二重三重の煙幕を張り,
「語る」自分を虚構化しているのである。ブレンターノの強烈な自意識は「語 る」自分自身をも椰楡せずにはいられない。そのため,ブレンターノの「語り」
の視点は次々と分裂していき,結果として,次の物語が前の物語を休みなく相 対化していく極めて独特な構成が成立する。クルーゲは別の論文で, 「ひとつ の虚構がもうひとつの虚構を無効にしてしまうことの中に,数名のヴェーミュ ラーとの滑稽な関係力繰り返されており,ヴェーミュラーの複製化もまた, そ
ド・ノペルケンガー
れが多くなればなるほど,深刻さや一人の分身によって惹き起こされた不
安を無効にしてしまう。」13)とまったく適切な指摘をしているが, その背景に
クレーメンス・ブレンターノの「言葉」と「語り」
はブレンターノのこの「語る」主体としての自意識があると見るべきだろう。
『ヴェーミュラー』においては,古典的な固定した遠近法は解体され,作者 のアイデンティティの浮遊するままに事物を捉える極めて演劇的な視点が採用 されている。存在の不安におのの<者は,むしろ領極的に「語り」の調和と均 衡を壊して,無窮の運動の中に自己を解放しようとしているかのようである。
物語はあるイデオロギーに沿って直線的に展開するのではなく,聞き手の視線 を次々とはぐらかし, 目まぐるしく螺旋を描きながら展開する。上記の二つの 物語に対して「バチオッキの荒ぶる猟師の物語」は, 「語り」の第三の視点を 提供する。聞き手は過剰なまでの言葉の奔流に翻弄されることになる。
3. 「バチオッキの荒ぶる猟師の物語」と枠への回帰
ところで登場人物は皆,実に生き生きと描かれており, クルーゲの注によれ ば, 『ヴェーミュラー』の登場人物は旧ウィーン民衆喜劇の類型によって生気 を吹き込まれているという。'4)またフリューヴアルトは,ヴェーミュラーの肖 像画の手法が物語の構成に転用されており,相互によく似たモチーフを語るそ れぞれの語り手に, その語り手によって代表される国民の典型的な性格が描き
● ●
込まれていると述べ,物語の榊成とテーマを芸術の意味と機能という観点から
説明している。'5)彼によれば, 「牡猫モーレスの物語」にはクロアチア人の「孤
独な,恐ろしい性格」が, ドゥヴィリエの物語には同時代のフランスの理性を
信奉する啓蒙的な精神が, そして花火師バチオッキの物語にはイタリアの「独
特な,演劇的な性格」が描き込まれているという。16) いずれも極めて示唆に富
む指摘なのだが,登場人物たちは同時にまた,ブレンターノの心の中に住む相
矛盾する複数の性格を人格化したものであり, そのひとりひとりが, それぞれ
代表する複数の視点から物語を語っているとは考えられないだろうか。クロア
チアの老貴族には, 自由な「語り」そのものを楽しむ極めて楽天的なブレンタ
−ノの面影があるし, またその物語を否定するドゥヴイリエには,合理主義・
ファンタジー
啓蒙主義を代表する人物と同時に,ブレンターノの詩的想像力の暴走に歯止め を掛けようと常に意識過剰になっている悪しき批評家が, そして花火師バチオ ッキには両者を統合する調和の取れたブレンターノの理想像力輔き込まれてい ると見るわけである。 (さらに言えば,民謡収集に熱心で(276)感受性豊か だが,誤解ばかりされているリントパイントラーはブレンターノの詩人として の自虐的な自画像であり, また何物からも自由で見事なヴァイオリンと歌を聞 かせるジプシーのミヒァリーは,やはりギターの即興演奏の名手であり, あら ゆる束縛を嫌った自由気儘なブレンターノその人を思わせる。そして彼は妹ミ
フアンタジー
ティディカともどもブレンターノの純粋な詩的想像力を象徴しているのではな いだろうか。'7)これについては後でまた触れることになる。)つまり「牡猫モー レスの物語」を「正」,ドゥヴイリエの物語を「反」とすれば,バチオッキの物 語は「合」に当たる。
さてバチオッキは演劇的効果を高めるため聞き手を周りに集め,芝居気たつ ぶりに物語を始める。それは,
〔あらすじ〕
ヴェネチアの花火師バチオッキの一行はある時,深い森の中にあり,荒ぶる 猟師の亡霊が常宿としているという噂の宿に,止むなく投宿することになっ た。そこには世にも美しいジプシー娘ミティディカカ、祖母と二人で住んでい た。バチオッキらは待ち伏せをかけ力ずくでその亡霊の正体を暴くと, それ は何のことはないミテイデイカの若い恋人であった。 (280〜298)
というものである。
クルーゲの注によって特に明確に指摘されているが, 18)この物語は他の詩人
の作品やブレンターノの自作からの引用, さらに難しい数の自己茶化しを取り
クレーメンス・ブレンターノの「言葉」と「語り」
込んだ目もあやな織物となっている。そもそも猟師の亡霊というのはドイツ文 学に広く見られるモチーフであり,19)宿へ向かうバチオッキ,マルティーノら の行進は『愉快な音楽士たち』のパロディであるというO20)またミテイデイカ の問いに対して韻を踏んだ答えを返すマルテイーノ(284)には,ブレンター ノ自身の姿が引用されている可能性が指摘されているo21)その他にも, 『ポン セ・デ・レオン』から引用された黒と白をめぐる滑稽な語呂合わせ(293),22)
r校長先生クロップシュトックと彼の五人の息子のメールヒェン』からの擬音 語の引用(293),23) 自作の俗物論文(290),24)さらにシカネーダーの劇(291)25)
や『フアウスト第1部』の描写(294)26)の暗示など力指摘されている。27)また,
キッスをお金に嶮えたミテイデイカとマルテイーノの滑稽なやりとり (292f、) , 宿の野性味溢れる室内や調度(285f.), ミテイデイカの祖母の恐ろしげな外見や 寝支度をする際の滑稽な様子(290ff.),宝石や装身具で身を飾るミテイデイカ の息を呑む美しさ(294ff.)などに関するいつ果てるとも知れない饒舌な描写,
ミテイデイカの歌の引用(288f.), また間断なく枠が介入してくること(289f., 291)……。ホフマンもリューダースも,到るところで花火が炸裂するような花 火師バチオツキの語り口に『ヴエーミユラー』の本質を見ているが,28)確かに バチオッキの物語において特に,ブレンターノの自在な視点の転換,伸びやか な語り口,発想の自発性,溌刺たる言葉遊びがその本領を発揮しているように 思われる。
先にも紹介したように, フリューヴアルトはバチオッキにイタリアの「独特 な,演劇的な性格」を見ているカミしかしそれは彼力演劇的効果を充分に計算し て物語っていることや, 目まぐるしく視点が移動する彼独特の「語り」による からだけではなくて,彼の語る物語が枠を形成する現実の世界に思いがけず流 れ込んでくるからである。バチオッキの物語は,現実との直接的な接触を持た ず虚構の世界に踏み止まっている枠入り物語を現実と和解させる役割を負わさ
れているのである。
ドゥヴィリエが,バチオッキの物語をさえぎって, その「荒ぶる猟師」とは ほかならぬこの私であったと白状する(298)ことで,物語はまったく新たな 展開を見せることになる。
つい先刻ドゥヴイリエの物語は「クロアチア人の物語の恐ろしさを非常に和 らげてしまった」(280),つまり異化の視点が, クロアチアの老貴族の真剣な 行為を演戯へ, 「語り」を「弱り」へ, 日常的空間を演劇的空間へと変えてし まったのであるが,今度はそのドゥヴィリエ自身が思いがけず他人の語る物語 の当事者となっている。これほど痛烈な皮肉があるだろうか。先程から繰り返 し述べているように, ある状況がめまぐるしく相対化される極めて演劇的な
ド、ジペルヶンガー
「語り」が, 『ヴェーミュラー』の本質であり, 『ヴェーミュラー』は分身 , 変装といったモチーフやそれらの茶化しにおいてだけでなく,作品自体が極め て演劇的に構成されているのである。
ドッペルゲンガ一
4.ヴェーミュラーの分身の謎の解明と大団円
バチオッキの物語を受けて今度はドゥヴィリエが告白を続ける。
〔あらすじ〕
彼は当時,実は密輸の仕事をしながら政治的な諜報活動をしており,老婆に
8f
気取られずにミテイデイカと逢い引きを重ねるために「荒ぶる猟師」の噂を流 していたこと, そしてこの時の混乱で愛するミティディカを失ってしまったこ とを語る(299〜301)。すると驚いたことに,今度はミヒァリーが, ミテイデ イカとは自分の妹であると語る(302)。
物語は続く。
クレーメンス・プレンターノの「言葉」と「語り」
〔あらすじ〕
翌朝,非常線は武装した女騎手とその一行によって向こう側から破られる。
● ● ● ●
女騎手はミテイデイカその人で,一行の中にはもう一人のヴェーミュラーの姿
● ●
がある。本物のヴェーミュラーは狂ったようにその男めがけて跳びかかるカミ
● ● ● ● ●
そこへミティデイカが三人目のヴェーミュラーを連れて現れる。本物のヴェー ミュラーはその姿に妻トネルルを認め,二人は堅く抱きあう。彼女はいつまで 待っても姿を現さない夫の身の上を案じ,たまたま行く先が同じだったミティ
● ● ● ●
ディカと二人で男装し, ここまで旅をしてきたのだという。またもう一人の贋 物はフロッシャウア一という名前のヴェーミュラーの商売がたきであり,彼は思 いを寄せる一人の娘をめぐって,ふるい職人と賭けをしたという。彼はヴェー ミュラー以上の画家になれたらその娘と結婚ができるというので,ヴェーミュ ラーの手法を完全に習得し,彼に変装して稼ぎを上げていたことが明らかにな
ド・ジペルケンガー
る。ヴェーミュラーの分身の謎はすべて解明され,ヴェーミュラーとトネ ルルだけでなく, ドゥヴイリエとミテイデイカも再会を果たす。 (303〜309)
リューダースは三つの枠入り物語はどれも謎めいた出来事の解明がテーマと
ド・ソペルヶンガー
なっていると述べ, それらの中でヴェーミュラーの分身の謎は実際には解 明されないけれども,解明の仕方力提示される29) として,作品の芸術性豊かな 構成とテーマの絡み合いを語りの技法の面からも見事に説明している。30)そし て彼は, 「荒ぷる猟師の物語」とそれに続く状況におけるドゥヴイリエとミテ イデイカの運命の中でヴェーミュラーとトネルルの運命が先取りされており,
これによって枠入り物語の枠への侵害が可能になったと述べている。31)また,
フリューヴアルトも同様の分析の上に立ち,バチオッキの語る「演劇的なもの」
● ●
において,つまり非合理的なものと合理的なものとが一体化する芸術において 初めて,存在の失われた統一,調和の楽園は再発見されうるのだと説明し,ヴ
ド・ソベルケンガー
ェーミュラーを分身の謎の解明と妻との再会から隔てる「非常線」に極め
て詩的な象徴を見ている。32)さらにクルーゲは論文中で,ブレンターノの物語 は「運命と偶然との注目すべき共演の結果」33)であると述べ, 『ヴェーミュラ ー』においては度重なる偶然にも拘らず,最終的により高い摂理が偶然を統 合しており,ヴェーミュラーと妻の再会はドゥヴィリエとミティディカの再会 と同様に, 「冗談を越えてこのカップル(ヴェーミュラーとトネルル)のより 深い統一と二人のお互いの定めを指し示している。」34)と説明している。(括弧は 筆者)
それぞれ実に適切な解釈なのだが,ただしここで問題なのは, 「物語」が「現 実」に開くというよりは「物語」の方が「現実」を奇妙に引き寄せている,つ まりちょうどヴェーミュラーの肖像画において,現実のモデルの方が強引に既 成のパターンに似せて描かれたように, 「現実」の方が虚構を「語る」言葉に よって鋳直されているという印象が強いということである。実際,バチオッキ の物語の登場人物が現実の枠の人物と一致する度重なる偶然は,物語全体の印 象をかなり滑稽なものにしている。しかし強引で不自然であるからこそ逆に,
バチオッキの物語には,最終的に分裂を統一へ, 「物語」を「現実」との和解 へ持ち込みたいというブレンターノの一途な願いが託されているのではないだ ろうか。ブレンターノの自我分裂に関する異常なまでに強い自意識は,最終的 にこれを統合へと導いてくれる原理「愛」へのひたすらな憧慢となるのであ る。事実,二人のヴェーミュラーの贋物の正体を暴くと, そのうちの一人がヴ ェーミュラーの愛する妻トネルルであることは, ヴェーミュラーのアイデンテ ィティの確認が同時に「愛」による存在の調和の回復であることをも意味して いる。
ところで,謎がすべて合理的に解明され,すべてが一義的に説明され尽くす ことは,ブレンターノがドゥヴイリエという人物において徹底的に茶化してい たはずのものであり,エネルギー溢れる饒舌, とめどない脱線,視点の自在な
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転換などを特徴とするブレンターノの詩的想像力は, このようにすべてが至福
クレーメンス・ブレンターノの「言葉」と「語り」
の調和の内に幕となるいかにも斯嚇的な結末に行儀良く収まる性質のものでは ない。
上記の研究者たちは一般にごくあっさりとしか扱っていないが,我々のテー マとの関わりで, もうひとつ決して見逃すわけにはいかないことがある。それ は, ドゥヴイリエとミテイデイカの再会という出来事である。
クルーゲの注によれば,ブレンターノにとって自然児のジプシーは啓蒙,文 明化によって助けられなければならない存在であるというo35)先にもちょっと 触れたが,深く荒々しい森に住み,稜れを知らずこの上もなく美しいミティデ
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ィカは兄のミヒァリーともども,無垢で奔放不溺の詩的想像力そのものである と考えられないだろうか。そのミティディカが合理主義・啓蒙主義的理性を代 表するドゥヴイリエと調和の取れた関係を取り結ぶことは, ブレンターノの求 めて求め得ない文学の理想像を表していると思われる。これは詩人ブレンター ノにとって, 「愛」による楽園の回復に劣らず大きな重みを持つものなのであ る。
ただし,二人が再会する前, ドゥヴィリエがミティディカとの結婚の意向を 語るとミヒァリーは, ミテイデイカは自由なジプシーで土地に縛られることを 好まないと語っている(302)。性格のまったく異なる二人の結婚は前途の多難 を予想させる。そして物語は祝祭的な結末の後に, もうひとつ決して見逃すわ けにはいかない仕掛けを隠している。
〔あらすじ〕
一行は土地の男爵夫妻の館で一堂に会し,二人の前でこれまでの冒険の一部
始終がもう一度語られる。そしてミティディカがかつてドゥヴィリエから贈
られた装身具をつけて登場し, ミヒァリーの伴奏で歌い踊る。皆はそれを心
行くまで堪能し, その晩はそれでお開きとなる。 (310f、)
ところが最後にアウクトリアルな, あるいは人格を具えた語り手「私」が登 場し, クルーゲの注が指摘するように,36)これまでの物語全体が第三者によっ
て眺められた客観的な出来事ではなく,極めて主観的なものである可能性,つ まり全体が完全な作り話・再話である可能性が開ける。
語り手「私」は語る。
ドゥヴィリエが約束した物語,チロル男のもうひとつの物語とサヴォイ男の 物語は続く数日間にわたって楽しませたが, それについては,私にその気が あるときに,話して上げましょう。−(311)
物語は推理小説におけるように,すべてが合理的な謎解きへと集中してきた が, その結末そのものをも相対化してしまう,極めてラディカルな語り手「私」
の登場によって, これまでの物語の「真」「偽」の区別が一挙に相対化される。
『ヴェーミュラー』においては,本当の出来事として語られる物語が,語る そばから虚構と化してしまう。読者は, 「弱り」と化す油断のならぬ「語り」
に散々翻弄され続けた場句に, 「真」「偽」定かならぬ多義的な空間によるべな く放り出されてしまうのである。聞き手の視線はこの混乱を収拾する契機を欠い て, 「真」と「偽」の間を無限に往復することになる。
5.結 び
先にヴェーミュラーの「描く」行為はブレンターノが「書く」こと,つまり ブレンターノが「語る」ことの比喰であると述べた。確かに,振り返ってみる と,ヴェーミュラーの真剣な行為もまた到るところで茶化され, その意味が無 化されていることがわかる。
「牡猫モーレスの物語」の後に持ち上がった大混乱の最中, ヴェーミュラー
クレーメンス・ブレンターノの「言葉」と「語り」
力錨いている半乾きの絵の上を猫が駆け抜けたり(275), さらにテーブルに駆 け上がったリントパイントラーの鋲付きの靴がそれに穴を空けたりする(275f.)。
そして彼が必死で描き加えるのは,副知事の服のボタンという滑稽千万なもの である(267)。 しかも最終的に,解決はヴェーミュラーが絵を描くことによっ て必然的にもたらされるのではなく,呆れるようなやり方でまったく別のとこ ろから訪れる。非常線はまったくの誤解から張られたことがわかり,易々と取 り払われてしまうのである(307)。ブレンターノにとって「語る」とはどうい う意味を持つのか。「語る」ことは最終的に徒労に終わってしまうのではない のか。これを突き詰めていくと物語の背後から危険な深淵力噸を覗かせる。物 語は重大な問題を孕みながら, しかし表面は飽くまでも楽天的で陽気である。
『ヴェーミュラー』はこの時期の作品にしては珍しく,宗教的倫理的色彩が
フアン
希薄である。ブレンターノは他の作品の場合と違って,エネルギー溢れる詩的
タジー
想像力を嫌悪しこれをヒステリックに抑圧したり, また作品を過度のキリスト
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教的雰囲気で毒することなく,彼の詩的想像力の最良の部分を生かすことに成 功している。ブレンターノの「語り」の特徴を説明する際に,繰り返し繰り返 し使った「自意識」とはこの場合,構成に関してある指向性を持ったもの, い わゆる明確な構成の意志ではなく,ある状況を手当たり次第に茶化さずにはいら れないかなり場当たり的な性質のものである。37) rヴエーミユラー』において はそのような「自意識」に支えられた奇抜な「語り」が,最終的にはほとんど 奇跡的に明快な形式と出会ったのである。ブレンターノの場合は時に, 「語り」
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の「自意識」が奇形化せず,詩的想像力の奔放な発露,つまり自由な「語り」
を抑圧しないときに,作品としては優れたものとなることがあるが, その最も
成功している例がほかならぬ『ヴェーミュラー』なのである。言葉に対する懐
疑が先鋭化し, 1817年のカトリック改宗以降しばらくの間,ブレンターノはあ
らゆる詩的な言葉を否定し,詩人としては沈黙に陥ってしまうが, その彼が改
宗前のこの時期にこのような言葉の饗宴そのものとでも言えそうな作品を残し
ていることは,やはりひとつの驚きであり, また大きな謎でもある。
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最後に,詩的想像力を象徴するミヒァリーが,虐殺されたジプシーの死を悼 む歌を演奏したときのミヒァリーと民謡収集家リントパイントラーのこのやり とりを見ていただこう。
リントパイントラーはしかし歌い手めがけて跳んで行き, こう言いながら彼 を抱き締めた。おお, これはすばらしい。これは根源的なものだ。ねえ, ミ ヒァリーさん, あなたの歌を口述筆記させてもらえないだろうか。とても無 理さ,とジプシーは言った。そんなものは口述筆記などできないよ。 このおい らですら今となってはもうよく知らないのだ。たとえあんたがおいらの首を 切り落としてもね。いつかまたきれいな娘を悲しませるなんてことがあれば,
また思い浮かぶだろうけど。すると一座の者は皆どっと笑った。(……) (276)
ブレンターノは, このリントパイトラーの場合のように,捕まえたと思った 瞬間にはもう手から擦り抜けていく言葉とのいたちごっこに疲れ果て, 「鋸り」
を「語る」言葉の凄まじい瑚笑から逃れるために言葉の沈黙に陥ったのだろう
か。これについては,彼の改宗以降の創作活動との関わりで改めて論じられな
ければならない。
クレーメンス・プレンターノの「言葉」と「語り」
使用テクスト
FrankfurterBrentano‑Ausgabe. ClemensBrentano・ SamtlicheWerkeundBriefe.
Hrsg. v・ JiirgenBehI・ens,KonradFeilchenfeldt,WolfgangFriihwald,ChristophPerels, HartwigSChultz・ Bd、 19:Hrsg. v.GerhardKluge. Stuttgart, Berlin,K61nu.Mainz l987. (以下FBA19と略す)
本文中, ( )内の数字はFBA19所収の『ヴェーミュラー』のページ数を示す。
注
jjj l23
FBA19, S、 658‑660.
FBA19, S、 663,
V91.R611eke,Heinz:DiegemasteteGanseleber. ZueinerMetapherinClemens Brentanos>GeschichtevombravenKasperlunddemsch6nenAnnerl<. In:
JahrbuchdesFreienDeutschenHochstifts、 1974. S.312‑322.
DiCkenS,DavidB. :BrentanoSErzahlungDje77Zeノl瘤7℃7zWEhmij"er1mdtmgα冗一 sch"Ⅳα"o7zalgesimte7・ :EinDeutungsversuch・ In : GermanicReview58 (1983). S. 13.
FBA19, S、663f.
Vgl.GUnderodesBriefeanBettina(Januarl806,Junil802undFrijhlingl804) DieGunderode・ Hrsg. v・ BettinavonArnim・ In : BettinavonArnim,Werke undBriefe・ Hrsg. v・GustavKonradundJoachimMUller. Bd. 1. Frechen l959. S、 481.
Vgl. JosephvonEichendorff,Werke. NachdenAusgaben letzterHandbzw.
denErstdrucken. VerantwortlichfiirdieTextredaktion : MarliesKorfsmeyer.
MitAnmerkungv.Klaus‑Dietex・Krabiel. Miinchenl976. Bd. 3. Geschichte derpoetischenLiteraturDeutschlands. S.836.
undvgl・ dazuKemp,Friedhelm:Nachwort. In :ClemensBrentano,Werke,4 Bde. Hrsg. v.WolfgangFrijhwald, BernhardGajek undFriedhelmKemp.
MUnchenBd. 1. 1978. S、 1290ff.
若き日のブレンターノの恋人であったギュンデローデはこう語っている。 「私にはし ばしば,彼はたくさんの魂を持っているかのように思われます。さて私がこれらの魂 のうちのひとつに好意を持ち始めると, それはいなくなってしまい, その場所へ私の 知らない別の魂がやってくるのです。そしてそれを私はびっくりして見つめるばかり 4)
5)
6)
です。そしてそれは, あの親しげな魂と違って,私に優しくしてはくれないのです。」
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また, アイヒェンドルフはすでに若いブレンターノの詩的想像力の悩みに気づいてお り,彼に深い理解を示してこう語っている。「そのため彼においてもまた,戦いの最中 にある力の一方かあるいは他方が優勢になるのに応じて,彼の生における筬言的な,
即興的に作られたもの,非常に奇妙な対照をなして入れ替わる見掛けの分身状態, あ のカメレオン的な, しかし常にきらびやかな色彩の戯れ(が現れた)。そのことで彼の 姿は我々をしばしば驚かせた。」 (括弧は筆者)
プレンターノ自身の証言は到るところに見出せるが,例えば有名なものとしては,
1811年始め(1816年2月?)にブーケに宛てた書簡がある。
Vgl.ClemensBrentano,Briefe.Hrsg. v.FriedrichSeeba8, 2Bde.Niirnberg
l951・ Bd、 2. S、 155ff.
Dickens :Ebd. S、 12‑20.
Ebd. S、 18.
Dickens:EM. S. 15.
FBA19, S、 683.
Liiders,Detlev:NachwortzuClemensBrentanos ,,DiemehrerenWehmliller undungarischenNationalgesichter". Stuttgartl966(ReclamUniversal‑Biblio‑
thekNr.8732) S.77ff.
Kluge,Gerhard:ClemensBrentanosErzahlungenausdenJahrenl810‑1818.
BeobachtungenzuihrerStrukturundThematik・ In:ClemensBrentano.Bei‑
tragedesKolloquiumsimFreienDeutschenHochstiftl978.Hrsg.v・ Detlev Luders. Tiibingenl980. S. 106.
FBA19, S、 662.
Friihwald,Wolfgang:DiemehrerenWehmiillerundungarischenNationalgesich‑
ter・ In:KindlersLiteratur‑Lexikon imdtv, Bd、 14. Munchenl974.
S、6149.
Ebd. S、 6149.
さらに言えば, ミヒァリーは,亡くなった祖母の許で悪らしていた妹を待ち受ける30 歳位の才能豊かな人物とされており,祖母ゾフイー・フォン・ラロッシュが1807年に 75歳で死んだ時,ブレンターノが28歳であったこと, また妹のベッテイーナが小さい 頃,長く祖母の許に身を寄せていたという事実などを考え合わせると, ここにブレン
ターノー家の伝記的事実の反映を見ることができるかもしれない。
Vgl.FBA19, S、 672‑696.
FBA19, S. 687.
7)
8)
9)
10) 11) 12)
13)
14)
15)
jj 6711
18)
19)
クレーメンス・ブレンターノの「言葉」と「語り」
20)
21)
22)
23)
24)
25)
26)
27)
FBA19, S.688.
FBA19, S.689.
FBA19, S、 692.
FBA19, S、 693.
FBA19, S、 692.
FBA19fS、 692.
FBA19, S、 693.
本文中でも述べたように, 『ヴェーミュラー』に現れる茶化しは, ある状況や自分自 身を対象化し超越しようというFr.シュレーケル流のロマンティッシェ・イロニー ではない。また引用とか茶化しとは言っても, それは自分を含めて先人に対する明ら かな敬意やあからさまな楓刺ではない。ブレンターノの引用癖・自作自注癖には,む しろ彼の詩作行為との関連でもっと重要な問題が隠されているように思われる。エン ツェンスベルガーは彼のブレンターノ論の中で,複数の言葉やモチーフの組み合わせ が徐々に変化発展を遂げながら,「言葉の複合体」 (Wortkomplex)を形成していく過程 を時代を追って論証しているが, 自作他作を問わず過去のモチーフなり表現なりを奇 妙に引き寄せずにはいられないプレンターノの強烈な自意識が『ヴェーミュラー』の 中でも働いていると見ることはできないだろうか。ここでは調刺的意図は希薄である。
ここにはある状況なり表現なりをひとつの完成された,変更不可能な決まり文句とし て古典化することを窮屈と感じるブレンターノの生理,換言すれば状況や言葉を固定 化した姿ではなく,不断に変化し生成する姿において捉えたいというプレンターノの 自意識が隠されているとは言えないだろうか。
vgl・ Enzensberger,HansMagnus :BrentanosPoetik.MUnchenl973.
Hoffmann,Werner :ClemensBrentano・ LebenundWerk・ BernundMiinchen l966. S. 289ff.
Liiders :Ebd.S、 71‑79.
Liiders :Ebd.S、 72f.
Ebd.S、 71‑79.
Ebd.S、 74f.
Fruhwald:Ebd.S, 6149.
Kluge :Ebd.S. 131.
Ebd.S・ 131.
FBA19, S.694.
FBA19, S、 696.
クルーゲの注によれば,プレンターノの手書き原稿の一般的な特徴として,段落があ 28)
29)
30)
31)
32)
30) 34)
35)
36)
37)
まり設けられていないこと,会話が引用符で括られていないこと,名前の綴りがいい 加減であることなどが指摘されている。これは視点の目まぐるしい転換という点にお いては極めて演劇的であっても,プレンターノ自身は物語そのものをダイナミックで 弁証法的なものとしては構想しておらず,杼情詩のようなひとつの大きな流れと感じ ている証拠かもしれない。
vgl.FBA19, S.667ff.
クレーメンス・ブレンターノの「言葉」と「語り」
ClemensBrentanos ,Sprache@ und,Erzahlungskunst$
‑"DiemehrerenWehmUllerundungarischen Nationalgesichter@@ :EinDeutungsversuch‑
ThhesMY別MASMTM
,,DiemehrerenWehmUller und ungarischen Nationalgesichter"
(,,Wehmiiller") erscheint imJahrl817, alsoindemselbenJahr, woder DichterClemensBrentanodenWegindiekatholischeKircheangetreten hat. DieErzahlungentstehtwahrscheinlich irgendwo indemZeitraum zwischenl811undl817. Seitetwal810 fangtdesDichtersSkepsis gegenUberder,Sprache@ unddem,Erzahlen@ an,sichzuscharfen・ In ,,Wehmiiller@@ sindnichtnurBrentanossehrmoderneAnschauungvonder ,Spracheo,dieinseinemKampfmitder,Sprache@gewachsen ist,sondern auchderbesteTeilBrentanoschenTalentszusehen, dervonderAn‑
schauungnichtvergiftet ist.
ImwirklichenLebenentfremdetBrentanosmitPhantasieiiberladene
,Sprache@denSprecherselbstundfangtan,sichautonomundunheimlich weit iiberdielebensgroBeWirklichkeithinauszuvermehren,wieesbei WehmtillersDoppelgangernundseinemPortratierenderFallist.
Brentanos ,Sprache@spiegeltdieWirklichkeitnichtrichtig. Aberin ,,Wehmiiller@f fiihrtdiesdenDichterwederzurSkepsisnochzumMi8‑
trauengegensoeine ,Sprache@, sondern imGegenteil benutzterden reichspielerischenCharakterdieser ,Sprache.alspositivesSchOpfungs‑
prinzipderErzahlung.
IndemerdasDoppelgangermotiv,daszurDarstellungderlchspaltung
undderdamonischenSelbstzerstOrungdes Individuums beiromantischen Dichternsehrbeliebt ist,anWehmUller immerwiederpersifliert, gibt eresschlieBlichderLacherlichkeitpreis.
Brentanos starkesBewuBtsein, dassichnichtdavonabhaltenkann, eineSituationzupersiflieren,gibtderStrukturderErzahlung,wodie eine Binnengeschichte die andere ununterbrochen aufhebt, einen sehr
modernenCharakter.
In ,,WehmUller"wirddieklassischefixePerspektiveaufgelOstund einesehrtheatralischeaufgenommen. JederErzahlerderdrei Binnen‑
geschichtenreprasentierteinenderauseinandergegangenenGeisterBren‑
tanos. IndemaltenkroatischenEdelmannkannmandenoptimistischen CharakterBrentanossehen,derandemErzahlen alssolchemVergnUgen findet,inDevillier,derdieGeschichtedesKroatendurchUbertreibung widerlegt, nicht nurden franz6sischen, aufklarerischenGeist, sondern auchdenb6senKritiker inBrentano, der immer streng tiberdiereine PhantasieAufsichthat, und indemFeuerwerkerBaciochi das ldealbild
Brentanos,wodieerstenbeidenCharakterevereinigtwerdensoll・ Und mankanninBaciochisErzahlungsogarBrentanoseifrigenWunschsehen, schlieBlichdieBinnengeschichtenmitdemRahmeninEinklangzubringen.
NachderAbschaffungdesPestkordonsundderAufklarungratselhafter EreignissefindetdasWiedersehenzweierPaarestatt,aberdieErzahlung gehtdochnochnichtzuEnde・ AmEndemeldetsichderlch‑Erzahler
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