︿論説﹀
近 世 後 期 に お け る 浅 草 寺 役 者 の 就 任 過 程
小 島 信 泰
1 目次
はじめに
第一章浅草寺一山と役者
第一節一山の執行機関としての役者
第二節寺中寺院住職としての役者
第二章役者の就任過程
第一節選挙権と被選挙権
第二節役者自性院の就任過程
①役者御免願の提出
②役者選出の入札
③役者の任命
④役者の着任
第三章﹁役者選出寺法﹂の運用
結び
2はじめに
前稿で筆者は︑近世後期における浅草寺別当代の就任過程について論じたが︑それは筆者が構想する浅草寺の寺法
体系の完成に向けての一つの試みである︒すなわち︑別当代の就任に関する寺法は︑この浅草寺の寺法体系の五つの
部門の第一︑﹁一山機構法﹂を構成する三つの法領域の①︿役職就任に関する法﹀に位置付けられる︒そして︑本稿
で論じる役者の就任に関する寺法も︑同じくこの︿役職就任に関する法﹀に該当するものである︒
浅草寺の役者は以下に述べるように︑別当代を補佐する浅草寺の寺務執行機関として︑一山における重要な役割を
果たしていた︒その選出は︑寺中総出の入札によって行われていたことはよく知られていを浬︑役者の就任から退任
にいたる過程を具に論じる作業は︑管見の及ぶ限りまだなされていないのである︒
そこで︑本稿では︑第一章で浅草寺一山における役者の地位の特質について概観してから︑第二章で﹃浅草寺日記﹄
(以下﹃日記﹄)に記されたその就任過程の実例を紹介して︑役者就任に関する寺法について考察する︒さらに︑こ
の寺法運用の変遷を通して︑寛永寺と浅草寺の関係史について論じてみたい︒就任後の役者の職務内容等については︑
稿を改めて論じる予定である︒
なお︑﹃日記﹄は︑寛永寺の東叡山門跡が浅草寺の別当を兼帯するようになって以降の寛保四(一七四四)年一月
ら より記されているので︑ここでは近世後期における浅草寺の役者について述べることになる︒これ以前については︑
史料上の制約があるので詳しくは別の機会に譲るが︑本稿でも﹃日記﹄を通して解明できたことを述べておきたい︒
近世後期における浅草寺役者の就任過程
注
(1)﹁近世後期における浅草寺別当代の就任過程﹂(﹃創価法学﹄第二八巻第一号︑一九九八年︑以下﹁拙稿‑一九九八﹂)︒
(2)筆老の考える浅草寺の寺法(寺院法)体系に関しては︑﹁近世寺院法の体系的考察のための一試案t近世仏教の研究史
と浅草寺の寺院法﹂(﹃創価法学﹄第二五巻第一・二合併号︑第二六巻第一号︑一九九六年︑以下﹁拙稿‑一九九六﹂)︑参
照︒
ここでは︑浅草寺の寺法体系を構成する各部門を記しておく︒
(一)
(二)
(三)
(四)
(五) =山機構法﹂
﹁寺務執行法﹂
﹁寺中寺院運営法﹂
﹁僧侶支配法﹂
﹁世俗関連法﹂
(3)例えば︑浅草寺日並記研究会編﹃雷門江戸ぱなし﹄(東京美術︑一九八六年)︑二三七頁︑参照︒
(4)浅草寺日並記研究会編︑第一巻・第二巻は金龍山浅草寺出版部︑以下の各巻は吉川弘文館︒一九八七年に第一巻が刊行さ
れ︑全三〇巻の刊行が予定されており︑既刊一九巻︒浅草寺には︑寛保四(一七四四)年より慶応三(一八六七)年にいた
る一二四年間の日記が残されていて︑年一巻の割合で刊行されている︒﹃日記﹄の内容や時代背景については︑﹃日記﹄第一
巻の[解題﹂や第三巻以降の﹁あとがき﹂︑浅草寺日並記研究会編﹃雷門江戸ぼなし﹄に詳しい︒
(5)寛永寺と浅草寺の関係については﹁拙稿‑一九九八﹂︑参照︒なお︑本稿にいう近世後期とは︑石井良助氏の時代区分に
よる︑■公事方御定書﹂が制定された寛保二(一七四二)年以降の江戸時代を意味する(﹃法制史﹄︿体系日本史叢書四﹀︑
山川出版社︑一九六四年︑参照)︒
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4第一章浅草寺一山と役者
第一節一山の執行機関としての役者
ユ 別当代は︑一山内の首長として寺内︑山内︑領内および末寺の支配に当たっていたが︑当職は本寺である寛永寺に
よって浅草寺外部の僧侶が任命されていた︒その結果︑これを補佐する一山内の僧侶の中から選出される役者の職務
は極めて重要なものになったと思われる︒
寛政=二七九九)年九月から文化元二八〇四)年一二月まで第九代の別当代を勤めた恵門院淵海は︑役者へ
ヨ の達の中で︑
是迄別当代一山寺院江罷越候儀無之︑地理不案内二而差支候儀も間々有之候
と述べている︒これは︑別当代がもとは浅草寺外部の僧侶であったことが原因で起きたと思われるが︑こうした点か
らも別当代はもともと一山内の僧である役者の補佐に依存していたと考えられる︒事実︑﹃日記﹄をみてみると︑役
者が浅草寺の寺務執行に大きく関与していたことが判明するのである︒これに関する詳細は︑別稿で論じることにし
て︑ここでは一山の寺務を執行した寺院機関としての役者について概観するにとどめる︒
役者は定員二名であり月番で寺務を執っていた︒役者の選出については第二章で詳しく述べるように︑寺中総出で
入札を行い︑その結果をみて本寺である寛永寺が任命することになっていた︒ただし︑入札に関しては︑寺中の衆徒・
寺僧のいずれも参加しているが︑役者になる資格は衆徒に限られている︒
別当代は浅草寺の本坊である伝法心院(略称・伝法院︒以下このように記す)に住してここで寺務を執っていたが︑
役者については特別の執務場所が設けられることはなく︑自らが住した寺中の寺院(子院)で寺務を執っていたと思
われる︒また︑本坊に出向いて別当代を補佐することもあったであろうが︑これに関しては︑役者の寺務執行につい
て論じる際に調べてみたい・なお・﹃日記﹄には﹁御舞﹂・蔑草寺降﹂との記述がみえているが︑これらはいず
フ れも浅草寺の寺領内の民政・公事を司った浅草寺代官の執務場所のことである︒
役者は︑以下に述べるように︑自らの寺中寺院の運営もあって何かと物入りであったが︑特別に役者料を支給され
ていた︒なお︑役者は今日の浅草寺の執事長格に当たるといわれている︒
近世後期における浅草寺役者の就任過程
5 注(1)こうした一山の区分については︑﹁拙稿‑一九九六﹂︑参照︒
(2)﹁拙稿‑一九九八﹂︑参照︒
(3)﹃日記﹄第九巻︑寛政一二(一八〇〇)年二月二八日の条︑八五頁︒
(4)﹃日記﹄第一巻の﹁解題﹂︑参照︒
(5)﹃日記﹄第一巻︑延享三(一七四六)年一月一七日の条︑九七頁に︑
一棟梁筑後此度類焼二付拝借願書代官所渉指出候願書左之通
乍恐書付を以奉願候
此度類焼仕︑困窮之拙者儀少々之差掛等茂一分二仕兼難儀仕候︑依之御慈悲二金子弐拾両拝借仕度奉願上候︑何
卒御慈悲を以願之通拝借被成下候様二奉願上候︑上納之儀者三年賦二上納可仕候︑偏二奉願上候︑以上
寅正月鈴木筑後
御役所様(傍点・は筆者が付した︒以下同じ)
と記されているが︑この記事は浅草寺別当代の日記である﹁日並記﹂に記されているものであるから︑これは当時︑誓願寺
門前の出火が原因でそれに類焼した棟梁の鈴木筑後が浅草寺代官に提出した拝借金額であると考えられるので︑﹁御役所様﹂
とは浅草寺代官を指していると読み取ることができる︒
6 (6)同右︑宝暦三(一七五三)年七月六日の条︑六二七頁に︑
一町年寄樽や藤左衛門方汐諏訪町聖天町名主共方へ︑浅草川之内浅草寺領之間殺生禁断御高札之儀︑最初御高札相建
候節之訳︑其後御建替之義︑尚亦去年御建替之儀︑何方汐如何様二申立候哉之趣︑書付今日中指出候様二被申渡候
問︑名主方二者最初御建被成候節之留書︑其後御建替之義も留書無御座︑度々類燵之瑚左様之書物致焼失高相知
不申︑去年御建替之義何方汐如何申立候哉︑是又不存候旨申候処︑涛草寺役所又は本坊へ聞合︑書付指出候様二被
申候由故︑本間庄太夫右申出候二付︑最初殺生禁断願上候節之留書井掛り之御奉行所其外右之節被仰渡等之書面︑
去々年未ノ五月御建替之義上野江相伺︑上野汐青山因幡守殿江被仰入︑被仰立之通御建替井町触之義被仰出候上・
去七月御建替相済候迄之趣書抜︑名主方汐為指出候様二本間庄太夫江渡之候処︑弥右書付差出候而相済・外二尋之
義も無之由︑依之此上共二中古御建替之次第等尋申来候共︑此方へ聞合無之書出申間敷旨申渡置之
と記されているが︑この記事については︑別当代智泉院が記した﹁目案﹂(﹃日記﹄第一巻︑五九四頁)に︑
町年寄樽屋藤左衛門.浅草川之内殺生禁断之御高札之儀︑最初相建候節之訳井御建替之義名主方へ尋候付︑価昏・申出候二付認遣候事
とあるから︑浅草寺役所とは浅草寺領の支配を司った代官所のことであると考えられる︒
(7)拙稿﹁江戸時代における金龍山浅草寺の﹃酉体制﹄ー近世寺院法研究の笙段階として﹂(﹃宗教法﹄第八号・一九
八九年︑以下﹁拙稿i一九八九﹂)︑参照︒
(8)網野宥俊﹃浅草寺史談抄﹄(金龍山浅草寺︑}九六二年)︑﹁拙稿‑一九八九﹂︑参照︒
第二節寺中寺院住職としての役者
役者には︑別当代とは違い浅草寺一山の僧侶が就いていたが︑この一山の僧侶には様々な身分の僧侶があり・前述
したように寺中寺院の住職を勤める僧侶についても衆徒と寺僧という格式の違いがあったのである︒役者は︑この中
の衆徒からのみ選出されたわけであるが︑役者も寺中寺院の住職であることにかわりはなく︑別当代のような専任職
ではなかった︒そこで︑浅草寺の寺中寺院について概観し︑その住職でもあった役者の特質について述べておきた犀︒
なお︑寺中寺院についての詳細は︑別の機会に論じる予定である︒
近 世 後 期 にお け る浅 草 寺役 者 の就 任過 程
浅草寺の寺中寺院は時代によってその数に増減があり︑室町時代中期には百を越えていたといわれるが︑現存する
冒記﹄篁巻が書かれた延享年間ころからは三四力寺であ.た︒この中︑衆徒は三力寺︑寺僧は二ニカ寺であ.
た︒﹃日記﹄の記述によると︑当時の各寺中寺院の財政は決して潤沢ではなく︑住職は寺院運営のために様々な努力
をしていた・そして・この寺中寺院は︑一寺院としての自立した性格とともに︑面内の寺院として浅草寺面に従
属した性格も有し・か三山全体の運営に関与することがあったのである︒また︑寺中寺院は各組A・によ.て組織さ
れており︑相互の寺院運営を支え合っていた︒
こうしたことから︑役者は寺中寺院の住職としての職務とそれが抱える諸問題を担いながら︑同時に一山の執行機
関としての職務を遂行しなければならなかったのである︒その結果︑後に述べるような様々な困難に遭遇し︑役者を
勤めることが困難になることもあったのである︒
注(1)一山内の諸僧の身分や寺中寺院の住職の就任については︑詳しくは別稿で論じる予定である︒
﹁拙稿ー一九八九﹂︑﹁拙稿‑一九九六﹂︑参照︒(2)
寺中寺院の運営については・詳しくは浅草寺の寺法体系の中の尋中寺院運営法﹂を論じる際に述べる予定である︒組A.
については︑同じく=山機構法﹂に位置付けられる︿寺院組合法﹀について論じる際に述べる予定である︒
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