︿論説﹀
書 か れ た 自 然 法
現代的超実定法の考察
松岡誠
目次
一︑問題の所在
二︑超実定法の性格
法律を超える法について
ーラートブルフの見解
2カウフマンの見解
3正しい﹁法律と法﹂
三︑﹁書かれた自然法﹂の考察
1用語の意味
2書かれた自然法の性格
3現代自然法(論)との関連
4不文から成文へ
四︑結びi今後の展望
一︑問題の所在
いわゆる﹁第三の道﹂(母§霞ミ①σ︒)としての法哲学の可能性について︑かつて提唱されたことがあった︒それは従
来的な自然法論ではなく︑また法実証主義でもないような独自の方法論を開拓することであって︑たとえば︑ヴェル
ナ!マイすフ育は現実的葎学(器帥}葺藝暑垂N)を・アルトゥール・カウフ麗は葎学的解釈論
(言ユ︒︒冴暮①=霞ヨ窪2辞εへの探究を示唆した︒それ以来︑第三の道を考察する新しい法哲学については︑依然と誹論
ヘヘヘへ的な段階であるとはいえ︑次第に今日の法哲学界で注目されているようである︒
けれども︑このような法哲学の第三の道に対して︑自然法論者は明確に否定したり︑あるいは︑これを応い誉喘で
ヘヘへ自然法論の一変種とも考えたりするが︑第三の道が自然法論の根本的主張を克服する理論になることには概して優躰
・(3)︑︑︑的である︒しかし︑第三の道と言ってもまだ理論的に未発達であるし︑他方︑自然法論の研究にも全般的な停滞があ
るため︑現代自然法論と第三の道の比較については充分に考察されるまでに到っていないといえよう︒それどころか︑
自然法論者も認める通り︑現代における﹁自然法の失踪宣告状態﹂が今なお続いているとするならば︑せっかく第三
の道という格好のテーマすら︑現代自然法論からの批判や検討ができないであろう︒あるいは自然法論は﹁姿を変え
(4)︑︑た﹂のかもしれない︒そのため現代の多様な自然法理論を整えることは困難であるし︑また本稿も現代自然法思想の
ヘへどの立場がよいのかという問題に答えるには躊躇せざるをえない︒ただ︑さしずめ存在一元論的な伝統的自然法論か
ら自由であって︑しかも形式的な意味の普遍・不変性に固執するのではなく︑むしろ法の暦史憧と陣昏憐に立脚した
基本的視点が現代自然法論の中心になると思われる︒
ヘヘヘへさて︑本稿では問題提起として超実定法へのアプローチがなされているが︑ただし超実定法の考察を直ちに自然法
77
ヘへ論に結びつけてしまうことは︑また第三の道のような考え方も提唱されているので慎重であらねばならない︒と同時
に︑法哲学において超実定法を考察することがすなわち自然法論であるとは必ずしも言えないのであり︑さらに﹁法
律を超える法﹂を探究することも自然法論的基礎づけの枠内でのみ吟味されるとも限らないであろう︒もっとも﹁自
然法論かそれとも法実証主義か﹂というような二者択一的な見解ならば他に選択の余地がないけれども︑しかし﹁自
ヘヘヘへ然法性と実定性﹂(7咽帥けζ﹃胃①6ゴ蝕一一〇﹃岸①一一一﹄5窪剛O切一け一く一け餌け)といういわば二元論的な法の把握ができるのならば︑もはや自然
ヘヘヘヘヘヘへ法論か法実証主義かの帰属に拘泥する必要もないであろう︒そして他方では︑内容的に超実定法的性格を認めるよう
灸憲論も考えられるかもしれない・すでに法実証主義といえども多様な考知があるが︑実定竺元論的な法実
証主義ではなく︑嚇昏ひ超勢宙油性に現代実定法論はもう少し目を向けねばならない︒その際︑たとえば﹁悪法は法
ヘヘへや否や﹂で論議されるような﹁形式が先か内容が先か﹂という根本的な問題も柔軟に考察することによって︑もはや
ヘヘヘヘヘヘへ実定法論と自然法論を二極対立的な関係としてとらえるのではなく︑むしろ相補的な関連性で両者を把握する理論が
待ち望まれる︒
以上のことから︑現代自然法論・現代実定法論・第三の道という方法論のうち︑超実定法的側面を探究する場合の
ヘへ出ハ逸的か跡題点を整理することが必要であって︑またその点で超実定法の再検討に意義があると思われる︒そこで本
稿では︑まず現代における超実定法の再検討に際しての若干の問題点が述べられ︑次に超実定法の活性化のために︑
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ﹁書かれた自然法﹂という制定法内の自然法的な法規の性格についても考察されている︒とはいえ︑本稿は単に問題
提起の一素描にすぎないのであって︑また第三の道の可能性に対する判断もしていないし︑さらに従来の自然法論の
ヘヘヘへ枠からも自由でありたいので︑その意味では方法上の立脚点の不徹底さがあると思われるけれども︑あるいは見方に
よっては広義における自然法論の一変種かもしれないが︑それはまた途上にありがちなことであろう︒
(1)乏①コ零ζ巴ぎ略①ぴ幻①餌一一ω江ωoぎ旨ユω肩巳窪N﹂="菊①魯ヨチ8ユρ一㊤謡●
W・マイホーファーが﹁自然法論でも︑法実証主義でもない﹂ような方向を示唆した例として︑たとえば︑2僧言署㊦︒鐸
&電幻①筈富宕ω三く♂ヨ=︒・鎖=閉鱒)乏'ζ巴ぎ{①5同㊤OPの序文(国一巳①一ε品)で︑﹁伝統的自然法論でも︑従来的法実証主義でも
なく︑むしろ自然法や法実証主義を抜けて法の新しい根拠づけの道がある﹂と述べている︒またマイホーファーについて︑
ヨンパルト教授は﹁歴史的自然法論﹂に位置づけている︑ホセ・ヨンパルト﹃法の歴史性﹄一九三頁以下参照︒なお拙稿
﹁法・人間・イデオロギーlW・マイホーファーの法思想にふれてー﹂創価法学第十三巻第三・四号参照︒
(2)A・カウフマンについては︑U琴島Z餌ε霞①6窪き塵閑Φ6窪ω娼o︒︒三く一誓ヨ島碧ユ鱈二ω仲♂9①=霞ヨ雲①三芽曽凶冥}二ω8嵩①律琴αq
お胡.の論文をめぐって︑それまでの見解と一致するのかどうか話題になった︒この点については︑三島淑臣﹁︿自然法論﹀
と法実証主義の彼方﹂大橋智之輔他編﹃現代の法思想﹄一九六頁以下︑あるいはヨンパルト﹃一般法哲学﹄二八七頁以下参
照︒
(3)たとえばヨンパルト教授は﹁第三の道﹂はあり得ないという︑ヨンパルト﹃実定法に内在する自然法﹂はしがき参照︒さ
らに﹁自然法論と法実証主義とを混ぜるだけで︑果して第三の(新しい)道がつくられるか︑疑問である﹂と批判する︑ヨ
ンパルト﹁自然法論と法実証主義における認識論的前提条件﹂水波朗他編﹃自然法ー反省と展望ー﹄二一三頁の註参照︒
(4)自然法の失踪宣告や姿を変えた自然法から︑本来的な自然法を回復するための問題提起として︑阿南成一﹁なぜ︑今"自
然法論"を﹂ヨンパルト他編﹁法の理論4﹂一=二頁以下参照︒
(5)法実証主義という概念も多義的であり︑今日ではハートのように︑法律の妥当性と順法の問題を区別した法実証主義も主
張されている︑深田三徳﹃法実証主義論争﹄二二頁参照︒
二︑超実定法の性格
法律を超える法について
1ラートブルフの見解
79
ヘヘラートブルフが戦後﹁法律を超える法﹂の復活を唱えたとき︑それは自然法論への転向であったのかどうかについ
てかつて問題になった︒たしかに︑晩年のラートブルフが自然法に関心を示したということは︑たとえば﹁実定法の
不法と実定法を超える法﹂((1)一九四六年)の小論文で見受けられる︒けれども︑それでラートブルフが自然法論者にな
ヘヘヘヘヘへったとは言えないのであって︑むしろ自然法をも含む超実定法的側面の重要性を再認識することについて述べたかっ
たと思われる︒あるいは法律を超える法が﹁それぞれ神の法︑自然の法︑理性の法等どのように呼ばれようとも﹂
(法哲学入門・一九四ル妊)との言葉から︑実定法を指導する価僚的理含0鄭重をラートブルフは意図していたのであ
ろう︒したがって価値相対主義や方法二元論についても︑戦後のラートブルフはそれらを堅持するも︑しかし︑それ
ヘヘへらを形式的に徹底化させるのではなく︑自然法のような超実定法的規範の有効性を例外的に認めることによって︑そ
ヘヘヘヘヘへれらの理論を部分的に緩和することを試みたと考えられるのである︒
そこで︑そのような例外的な場合とは︑実定法が極端な不正義となり︑そのため法的安定性の意味をも損なうよう
な場合であって︑そのときには﹁不正な実定法は正義に道をゆずらなければならない﹂とラートブルフは説く︒さら
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへにラートブルフは通常の場合と例外的な場合との区別を以下のようにも考える︒すなわち﹁実定法の効力は通常の場
合は法的安定性によって根拠づけられるけれども︑或る例外的な︑きわめて不正な法律の場合には︑その不正の故に
かかる法律から効力を奪つ可能性はいぜんとして残って境﹂と・こうしてマトブルフはナチス時代の不法に対す
ヘヘヘヘヘへる審判を戦後の自然法に委ねた︒とはいえラートブルフは︑どのような自然法論を展開するのかということまで語っ
てはいないし︑あるいはどのような自然法的規範が過去を裁くのであろうかということについても明確ではない︒た
ヘヘヘへだラートブルフは︑通常の法治国家における法と︑いわば異常な不法国家における法とを分けることを提唱するだけ
(4)であって︑その両者の区別のメルクマールについても言及するまでに到っていない︒