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節今,何が大学に求められているか1.問題は何か:留学生教育の場から
志 柿 光 浩 (外国人留学生指導センター講師)
好むと好まざるとに関わらず, 日本の大学を舞台にした国際的な人的交流 は,今後も拡大し続けて行くだろう。大学の「国際化」に向けて態勢を充実さ せていくことに,誰も異論はあるま~
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しかし具体的に何がなされなければ ならないのかという段になると,明確な答えが用意されているわけではない,というのが実情である。特に,国際的な人的交流拡大の中心的役割を担う海外 からの留学生受け入れの場合,大学の現場では,すでに日本に「来てしまっ た」留学生を前に,試行錯誤の連続を強いられているという厳しい状況があ る。
他方,文部省を中心に進められているいわゆる「留学生1
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万人受け入れ」政 策は,大学審議会などの答申に基づいて始まった大学教育の改革と結合され,各大学に国際交流の量的な拡大と質的な変革を迫ろうとしている o
このように,留学生受け入れの拡大を最大要因とする大学の国際化の要請が 日本全体の趨勢としてあり,実際の現場では試行錯誤が続けられているという 現実との狭間にあって,各大学は次の一歩をどこに進めればよいのだろうか。
本節の課題は,その「次の一歩」を進める手がかりを探ることにある
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。 その際に,以下では,実際に留学生と接する仕事をする中で,経験し考えさ せられてきたことの内から,特に重要と思われる三つの問題に焦点を絞って考 察する。第ーは, 日本の大学における教育の内容・方法そのものの問題,第二 は異文化を背負って日本にやってくる留学生(そして研究者)に対応する際 に,どのようなことが考慮されなければならなし、かという問題,そして第三 は,これら二つの問題と切り離せない関係にある,コミュニケーションの手段 としての日本語の問題である。2 .
教育への回帰J
・「教育機能の強化J
留学生の抱える問題は多種多様だが学習・研究が思うようにできない」
という悩みは,最も本質的な問題であろう。「指導教授はいつも忙しそうで,
2 2 8 ‑
とても相談できる雰囲気ではない
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ゼミで質問しでもきちんと対応してくれ ないん「毎日が実験の繰り返しで,専攻分野についての包括的な指導をしても らえない」といった教師の教育指導に直接関わる問題から図書館に必要な 本が整備されていないJ,I
洋書がほとんどない」といった学習環境の問題,さ らに留学生たちが口をそろえていうことだが日本人の学生は勉強しない」「授業で質問しないし教師も学生との討論を望んでいないように見えるjと いった日本の大学における教師と学生の関係のあり方についての問題などな ど。これらは,留学生と接する中で筆者も直接聞き,またこれまでの調査で,
日本の大学に概ね共通することが明らかになっている問題である3。それは,
後に述べるように日本の大学における「教師と学生双方の教育からの離脱」の 問題であって,教育を受けることを最大の目的としてきた筈の留学生にとって は衝撃的な現実である。
留学生の宿舎の問題やアルバイトの問題も決しておろそかにできない問題だ が,留学生教育の最大の問題は日本の大学における教育そのものにあるように 恩われる。留学生の来日の最大の目的は日本で教育を受けることである筈であ り,その内容・方法に問題があるとすれば,これこそが留学生教育の最大の問 題である。
日本の大学では教育が軽視されている,と言うと事実認識が違うと言われる かもしれない。大学は研究機関であると同時に教育機関である,というのが共 通の認識だからである。大学教授の中には教育が軽視されているなど心外だと 思う人も多いだろう。しかし日本の大学教育の抱える問題の深刻さについて は,すでに多くの指摘がなされている。日本における数少ない高等教育研究者 の一人である喜多村和之氏は,日本の大学の現状について,教師と学生の「双 方の側からの不幸な 教育からの離脱現象勺があることを指摘しているま た大学審議会は
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月の高等教育計画に関する答申で,日本の高等教育の 今後の「教育機能の強化」を真っ先に提唱しているのである5。日本の代表的政治学者の一人である福田歓一氏は「自国の学生を大事にしな い社会は留学生を大事にできない……
6 J
と述べているが,日本の大学におけ る教育の不在の指摘が正しいとすれば,留学生に対する教育も例外ではありえ ない。‑ 2 2 9 一
ここでは日本の大学教育の抱える諸問題について立ち入って議論することは しないが,教育を大学に取り戻すという一見単純なことを実行に移す上で,
「教師に時間的なゆとりがな Lリという問題が大きな障壁となって立ちはだ かっていることだけは指摘しておきたい。
実際,大学の教師には忙しい人が多い。「私の先生はいつも忙しい」と留学 生たちがあきらめ顔で口にするのを,筆者もよく耳にする。しかし教育には 本来,時間がかかるはずである。特に対話を基本とする教育は,時間的なゆと りなしには達成できない。そして,日本語能力が十分ではなく,講義などの背 景にある了解事項にも疎い留学生こそが,そのような対話を基本とした教育 を,最も切望しているように思えるのである。もっと教師が教育に充てる時聞 を増やせるようにすることが,大学における教育への回帰,そして留学生教育 の充実のための最大の条件ではなかろうか。
そのための解決策としては,現在進められている事務官定員削減政策を見直 して,行政的領域を専門家に托していくことが必要である。また今後,研究を 主にする大学教師と教育を主とする大学教師との機能分担が進むことも予想さ れるが,特に後者の立場の教師には,数年に一度,教師を教育から完全に解放 するいわゆるサパテイカル制度を確立して,一定期間,研究に専念する時間を 用意し,それ以外の期間には教師が十分に教育に専念できるようにする,と いったことも考えられてよい。
3 .
異文化対応の戦略以上のような日本人学生に対する教育も含めた大学教育そのものについての 問題の他に,異文化を背負ってやってくる留学生(そして研究者)に対して日 本の大学は,そして私たち一人一人は,どのような態度で臨めばよいか,とい
う問題がある。
国際交流拡大の旗を振っているだけの人はいいが,実際に留学生と日々接し て仕事をしなければならない事務担当者や,指導教授に留学生の世話をまかさ れた講師・助手といった若手の人々は,大学審議会がいうところの「非伝統的 な新しい学生層」の教育指導に四苦八苦しているというのが実情ではなかろう か。「留学生が来ると憂欝になるjとか,極端な話しではあるが後ろから飛 び蹴りを食らわせたいような留学生もいる」といった感想さえ伝え聞くことが
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ーあるが,それを,そのような感想を吐露する人の狭量のためだとあながち非難 できない状況があることも確かである。ある文部省国費留学生は「日本の大学 の事務官のような下級公務員に学生扱いを受ける筋合いはない。」といったこ とをあるアンケートに書き並べて帰国していった。
一方,留学生の側からは,腹を害Ijって話し合えるような関係を日本人と作り たいと思っているのに,なかなかそれができず,寂しく思っているという声が 共通して聞かれる。留学生には,待っていてもだめだから自分から積極的に日 本人に話しかけていくようにとか,クラブ活動に参加したらどうか,といった 助言を与えているが,そう簡単に解決しない問題のようである。
留学生の異文化適応に関しては,既にさまざまな研究が行われているが,大 学の学生や教職員が,国際交流の拡大の中で,どのように異文化に対処・適応 していけばよいのかという問題についても,もっと検討されるべきである o
ここではこういった問題を考える際の,基本的姿勢について私見を述べてみた し、。
(1) 一個の人間としての対等性の認識
国際政治学者
DovRonen
は「将来,研究が進んで反証がなされない限り,人間の構成する基本的実体として確実に実在すると言えるのは,個々の個人と 人類全体の二つだけで ある。これら二つの聞に位置するものは全て,母親と彼 女から生まれたばかりの新生児という組み合せを除いて,みな私たちが他者
( o t h e r s )に対するものとして我々 ( o u r s e l v e s )を認識する中で恐意的に作り
出したものである」と述べている8。人種や民族,国籍といったことはもとより,男と女といった区別さえ恐意的だという訳である。
我々
(we)日本人とか,彼ら ( t h e y )
外国人という区分けも,私たちが勝手 にしているに過ぎない。煎じ詰めれば,地球人という全体の中の一人一人の個 としての存在以外は,日本人であるとか,男であるとか,女であるとか,九州 男児であるとか,そういったものは私たち自身が長い歴史の中で勝手に作り出した,いつかは剥がされることもあるレッテルにすぎなし、。
留学生たちの多くが,日本人と率直に話し合えるような関係ができないと言 うのも,日本人に,地球上の人類として私たちは同類であり,それぞれは一個 の人間として対等だとする認識や教育が欠けているからではないだろうか。異
なる文化の中でそれぞれに生きてきた者同志が友情を培い得るとしたら,それ はこのような認識の上に立って初めて可能だと恩われる。
最近行われた調査で国際人」の条件とは何かという質問に答えて,臼本 人学生は「外国語能力や海外についての知識」を最初に挙げたのに対して, ド イツの学生は「視野の広さや寛容性」を第一に挙げ,際だつた対照を見せてい る九ドイツの学生たちの選んだ「視野の広さや寛容性」といった資質は,人 類としての共通性と個人としての対等性の認識に通ずるものである。このよう な認識を私たちの心の中に育てていくことが,まさしく教育の国際化の課題で あろう。
一方,留学生に対応する中で生じているさまざまな車
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蝶は,文化の違いだけ から来るのではない。留学生の多くは大学院レベルの学生であり,その年齢は 日本人学生より概して高く,出身国で大学講師や研究員など、の職についていた 者が相当含まれている。学生を,まだ一人前ではなく未熟な者として扱う傾向 にある従来の日本の大学の学生観でこれらの留学生に接して行けば,感情的な 食い違いが出てくるのは当然である。大学審議会の答申は,今後増加するであ ろう外国人留学生と社会人学生を非伝統的な新しい学生層」と呼んでいる が,従来日本の大学において形成されてきた学生・事務担当者・教師の聞の人 間関係のパターンに代わるものが今,求められているのである。そのような新しい人間関係のパターンを創造するためにも一個の人間と しての対等性」を明確に認識することが肝要である。教師だから学生より偉い とか,学生だから教師より劣るというのでとはなく,学問・研究上,教師に学ぶ ものがあるから,学生と教師の聞に尊敬と信頼の関係が生まれる。また,真理 を追求する立場にある点では教師も学生も対等であり,さらに人格的には教師 も学生も同じ一個の人間として対等だ,と考えるべきである。日本の大学で自 説に反論する学生に慣れていない教師や,教師に討論を挑まない学生が少なく ないのは, このような対等性の認識が薄いからではないだろうか。
このことは,事務担当者と学生の間でも同じである。「大学における学習・
教育・研究活動の遂行は,事務担当者の働きがあって初めて可能なのだ」とい う認識の上に立って,はじめて相互の尊敬と信頼の関係が築かれる。相手は学 生だからとか,自分は出身国では偉いから,といったことで人間関係が決めら
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れではならない。それぞれ一個の人間としては対等である,という認識を持つ ことを,出発点とすべきである。
このことは, 日本人も留学生も共に再確認すべき原理である。改めて言うま でもないことかも知れないが,大学教師であることは,その人の人格を何ら保 証するものではない。大学教師であることでその人が一個の人間として偉いと いうことにはならない。留学生の中には, 日本人以上に権威主義的なエリー卜 意識を覗かせる者もいる。日本人も自戒しまた留学生にもそのような権威主 義的なエリート意識の無意味さと弊害を認識してもらわなければならない。
( 2 )
契約観念の強化かつて海外の大学で教えていた時に筆者は,単位を与えなかった履修者に
「裁判所に訴えてやる」と言われた経験がある。日本でも留学生に教える中 で, この経験を思い出すようなことが最近あった。このようなことは, 日本人 学生を教える際には,まず考えられない。異文化を相手にすることの持つ,厳
しい側面である。
このように考え方や行動様式の異なる者同志が,円滑な人間関係を築いてい くためには,互いの権利や義務などの基本的な関係を明確に提示して,前もっ て相互に了解しておくことが何よりも大事である。すなわち「契約」である。
同質性の高い日本の社会で,相手の顔色を見てものごとを決定していく日本的 なやり方は,現実の国際交流では通用しない。
留学生教育の場合には,まず大学と留学志望者の間に契約が必要になる。受 け入れ決定の前に,大学側は留学志望者に対して,大学が留学生に何を提供す ることができ,何を提供することができないか,そして留学生は大学でどのよ うな権利と義務を有することになるかをはっきりと提示しなければならない。
大学が発行して留学志望者に送付する大学概要,あるいは学部,研究科の案内 等は,基本的にこの条件提示の役割を果たす。この条件提示がしっかりしてい れば,留学志望者はその条件を受け入れて入学を志望したことが明確になり,
留学生の教育をめぐって入学後にさまざまな問題が生じた際にも,感情的な行 き違いの生じる可能性が大幅に減る。留学生の生活上大きな問題である宿舎の 問題などにしても,入学許可の前に大学の寮の入居条件などについて明確に提 示しておけば,留学生はさまざまな条件を知った上で入学してくることにな
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り,問題が生じても相互理解のための共通の土俵がそこにはある。
一方,契約の一方の当事者である留学志望者の側は,大学の求める受け入れ の条件を自分が満たしていることを,明確に証明しなければならない。本国で の学業成績,留学中の学資負担能力,語学能力,などを証明するのは留学志望 者の責任である。入学後にそれらの証明に偽りがあることが判明した場合に は,入学の許可を取り消す権利を大学側が保留するといったことも当然明確に されていなければならない。ただしこれら留学志望者が提出する書類を的確 に評価するのは,大学側の責任である。この点,留学生出身国の教育制度に関 するマニュアルなど最近少しず、つ整備が進められてはいるが,個々の大学の留 学生の選考・入学許可のシステムはまだまだ不備だらけだというのが実情であ
ろう。
例えば長崎大学では,特に研究生や聴講生の身分での留学生の受け入れに関 して,依然,指導教官個人の裁量に任されている部分が多い。しかし身分は どうであれ,大学の学生として受け入れが認められた時点で,その留学生と大 学の聞には相互に権利・義務の関係が生じる。大学が留学生の受け入れを許可 するという行為は,その意味で,大学と留学生を双方の当事者とする契約関係 締結の行為だと考えられる。このことは留学志望者の選考・入学許可を行う際
に, もっと自覚されるべきである。
「教育というのは優れて人間的な関係であって,契約などといった四角四面 のものを持ち込むと,教育から人間味が失われる」といった議論があるかも知 れない。しかし しっかりした制度的裏付けがあってこそ初めて柔軟な人間関 係の構築が可能になるのであって,そのような裏付けのないところで「柔軟 さ
Jだけを求めても,それはただ「し、ぃ加減」なだけに終ることの多いことを
忘れてはならない。そのようなことでは,教育にいくら心を込めようとしても,労多く実り少ないということになりかねない。
留学生をめぐる諸々の問題は,入口の所をきちんとすることによって,その 多くが解決され,また問題の処理も容易になるはずだ,というのが留学生と接 する中で日頃,筆者が最も強く感じていることである。
4 .
日本語の重要性日本語の重要性を論じていると決って出てくるのが専門教育は英語でい
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ーいから,日常会話ができる程度の日本語が必要だ」という考え方である。しか し筆者は,ほんとうに専門教育の場であなたの英語は通じているのか?とい う質問を専門教育担当の大学教授に発したい。専門分野の実験の方法,理論な どは大方の教授が英語で説明できることであろう。しかし留学生を対象とし た専門教育はそれだけでは終わらないはずである。まず,日本の大学における 教師と学生の関係は多くの外国の大学とは異なっている。この違いを英語で十 分に説明することがどれだけの大学教授にできるか,問題である。それにとど まらない。専門教育は研究テーマ以外のさまざまな側面を含む。奨学金制度,
大学院の組織・制度,さまざまな人間関係,そういったことまで,留学生と英 語で十分に討論できる教授ばかりではない,というのが実情ではないのだろう か。
そのようなとき,英語で意志疎通ができないことが,大学教授の資質を欠く ことを意味するとは思えない。日本で教育をしている以上, 日本語で意志疎通 のできない留学生が非難されることがあっても,英語のできない日本人教師が 非難される筋合いはないのである。ただ,それを主張するには,留学生に対し て, 日本語能力が不可欠であることを,最初に明示しておかなければならな い。前項で述べた「契約」の問題である。そして,これが可能になるには,留 学志望者の日本語能力評価が合理的になされる保証がなければならな
L
、。現 在, 日本国際教育協会と国際交流基金によって実施されている日本語能力試験 が,米国のT0 E F L ( T e s t o f English a s a Foreign Language)
などのモ デルに一日も早く近づくことが,期待される。ひとたび日本語の重要性が確認されれば,後は技術的な問題であるように思 われる。まず受け入れの段階で日本語能力の十分な者だけを受け入れるように する。それができない時は,次善の策として,受け入れ後に十分な日本語教育 を行えばよい。しかし現実はそのような理想には程遠¥,¥。筆者はかつて,日 本語はおろか英語の能力もないのに学部に受け入れられたある 聴講生!nの
日本語教育を担当したことがある。「研究生」が指導教官の下で,一つの研究 課題について一定期間大学で指導を受けるという制度であるのに対して聴 講生」は,正規の学生以外の人が,各学部で開講されている講義を選び,聴講 す る こ と が で き る よ う す る た め の 制 度 で あ る 。 「 聴 講 生
J
という身分2 3 5 ‑
表
1 米国の留学生教育における英語運用能力と学謀教育との関係( 1 )
I E E
英語運用能力
青島力 な し 初歩的な能力がある 中級程度の能力があ る
学 課 教 育 学 課 教 育 は 行 わ な い
学習した語震を使を った 身近な話題についての 簡単な文や質問書く 文や質問がを 基本的で ことができる。スペリ はある 複雑ではない ングの違間違いや文くの構
昧カ 文
f型を使って書』く
iこと 造に間 いが多く 意 できるが,し しば 作 文 能 力 事実上運用能力なし が分かりにく なるこ 意味不明である 文 ら 限
とがある。 れてはいるが物能語力 や 描写文を書く があ る 。
初歩描 的な英語教材や物
羅 芝 時 英 に 英 日 草 二 持 ヶ 寄 電 国 語 を 審 常
車辞
語 , 写文を読国み辞 ,理 解を常 する。二ケ 語 書
用する
oし る
o用 書 読 語 解 裳能力・ 事実上運用能力なし を使う
o非 身 ず常にゆっ話 くりと一語 普還の速さでも一語ず つ分な話 質 な て け されれば, つはっきりと題 話されれ 近 題についての ば , 質身近な話陳 時 と につい 聴 解 能 力 事実上運用能力なし 簡単実な 語聞は理解使 必する。 て の 聞 や 述 や 会
議 を っ て が分かる。 に 言 必い話 直 写 言 な い的 直すことが 要に し て や る こ が 要 に
ることが多い。 なる。
日常, 個 身 質人的に必題要な 社 場 会 会 面 話生活のほとんどの こ と や 近 な 話 に つ で 理 ヅ 月 て
、解可能な形で いては 聞をしたり答 を わ す こ と が で 発 話 能 力 事実ーヒ運用能力なし えたりすることができ きるが, 構学術文や語 発音は るが, 語 葉 。 が は 非 構 多常文に限 発 不 識
完 全用 の 知 られている や は限定されている。
音の間違い い 。
集 中 的 な 英 語 教 育 プ ロ グ ラ ム を 受 け さ せ る ESL の必
要性 学 課 教 育 の 科 目 は 受 講 さ せ な い
出所
:EnglishLanguage P r o f i c i e n c y C h a r t . Produced by t h e Consortium on I n t e n s i v e English Program (CIEP) o f t h e A s s o c i a t i o n o f Teachers o f English a s a Second Language (ATSL) i n c o n s u l t a t i o n with t h e Admission S e c t i o n (ADSEC) o f NAFSA
,n . p .
,n . d .
‑ 2 3 6
一表 1 米国の留学生教育における英語運用能力と学課教育との関係(2 )
町 V
V I
英語運用能力 学低課限教育能に必要あな最 学 部 課 分 教 的 育 な 能 に 必 力 要 が な あ る うち 学 力 課 を 教 十 育 分 に に 必 有 要 す な る能 の 力 が る 。
学 課 教 育 学 課 教 育 は 制 限 し て 実 施 通常の学課教育を実施 身近な話題や学問上の 一定書の余裕を持日寺 って文 ネイティブに比べて多 時 あ 話題について,ほとん がけるが, に慣用 少書慣く速度現が遅く,
どの文時型が使味 きいこなせ 的 時 時用 間法の誤用がある に 用 解 表 説 構 の誤を りが る 。 に意 不試明験 。時 がないときや試験 説 構 る や 論 証 行 う
草
聞 説がないと 時 や の には能を力低減 解 文章の 成について理
作 文 能 力 やに論は能証力をが低造 減 文 。 章 解 で や論証 行う文章解 構 をの 解がある。
われる文イ章丁構つ の浬 成 か や に な 能 つ り 自 分 低 力 い て い で 誤 が の
J理 成 度 訂 正 力 は 度は低い。
する を短用 期 基 礎 間の内 に身につける はあ る 。
英英ん辞ど書のを解常説用文 してほ 英英辞専 般書的を解多説 用しなが
一 般 , 書 ィ 理 的 ブ を 解 な よ 使 学 す り 用 術 は る し 文 。 い献 時を読
み 最 i i f襲長i !
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らー な 文やを 自 み には
基
2
福竜寺Z F 3 辞 ネイ
辞
専 の 読 ティ よりは くらか
読 語 解 柔能力・ の 余 を っ て が 把 時 握 間がかかるが, 要旨 み も める。要 把 握 短の技 の能力はある。
か 。 に欠けるが,盤 あ間で 期 読 は 習 得 す る 基 は る 。 語
力 能
普通の速さで,質 とくだけ
学 会 問 話 問 上 , 題 の ほ な 会 と 話 や 通 の 解 常 講 で 義 のき た言い話回しの 問,理
陳っている分野での会
が く ん 理 ど 述 , 会 が ほ ん ど や 講 き義がほとんど理
聴 解 能 力 解できる。盟義 き難を伴う で る 。 る 。 が,自分の っている
分 野 で の 講 を 理 解 す ることがでる。
ためらいがちになるこ
社 の 受 会 的 話 慣 を な に 会 十 表 話 分 現 犯参 や 学 加 問 で 上 き 慣 用 不 暢 表 正 現 確 話の 使 が用にたま ともあるが社会交的話な会 十
周時 な に さあるが,
話 分 表 や 学 参 加 構 問上の に る 用 時 や構文の 流 に す こ と が で き 発 話 能 力 に できる。慣 を 誤り に す が , 意 る 。
や の誤り 味 ま 不 り 明 な い に 。なることはあ に現犯し文 意味不明に
ることカ
fある。
学課教育は最小限 学課教育は部分的に実施 通常の学課教育を実施 ESL の必
童書君臨上級 無
も華民学 作 課 文 教 ・ 育 読 科 解 に 目 重 2 科 点 級を 目 置 と ESL コースは必要な
要性 い 。
ESL の コース いた ESL の 上 コ ー (単位の有 は問わな ス(単位の有無は問わ
し、
ない
2 3 7
ーで受け入れられた留学生は, 日本人学生と机を並べて講義を聞くわけだから,
当然,高度の日本語能力と専門の学力を持っていなければならない筈である。
私たちの開講している日本語コースは補講的な性格のもので,週
2
回だけの初 級日本語の授業にやってくる彼の姿を見る度に,矛盾とある種の絶望感を感じ ずにはいられなかった。大学教育の持つべき合理性のかけらも,そこには見い だせなかったからである。こういったことを是正して行く上で,語学能力検定を含めて,留学生に対す る英語教育について極めて合理的な制度を作ってきた米国の例は,ここでも参 考になる。留学生の英語能力のレベルに従って,留学生が本来目的としている 学課教育と留学生を対照とした英語教育(一般に第二外国語としての英語教 育,
English as a Second Language : ESLと呼ばれている〉とはどのよう
な関係で行われるべきか,米国で作られたモデル・チャートを表1
に訳出して おく。これらを例として,留学生を対象とした日本語教育の場合には,留学生 の日本語能力に英語能力を勘案して,同様なチャートが作られ,実施される必 要がある。5 .
大学に求められているもの冒頭でも触れたが,日本の大学をとりまく条件は,今,急速かっ確実に変化 しようとしている10。そして,大学が変革を迫られているこの時に,留学生受 け入れを中心にした国際交流の増大が,避け難い現実として日本の大学に迫っ てきている。大学も重い腰を上げざるを得ない状況がそこにはある。すでに文 部省は子を打ち始めている。問題はそれぞれの大学が,状況をどう判断して行 動していくかで、あろう。この大学変革の時代に大学が生き残っていけるかどう かは,それぞれの大学で働く者の意識にかかっている11。そして,各大学にお ける留学生教育の態勢の強化あるいは改革は,まさしく大学を構成する者それ ぞれの意識によってその成否が左右される問題である。
そのような意識変革を行ない,それを一つの理念として集約しそれを効率 的に実行するために組織化を進めていくこと,これこそが国際社会に大学が貢 献する上で今,大学に求められていることではないだろうか120