不在地主 磯野小作争議 上
倉 田 稔
目 次
は じめに
1北 海道 の農 民運 動お よび不 在 地主 2富 良野 農民 の状 態
3磯 野 進 4小 作争 議 5小 樽 へ
は じ め に
小 林 多 喜 二 は,中 編 小 説 「不 在 地 主 」 を 『中央 公 論』1929(昭 和4)年11月 号 に発 表 した。 た だ し,そ の 時,全 一 六[章]の うち 一 二[章]か ら一 五[章]
の前 半 は,削 除 され て い た 。 この 削 除 さ れ た 部 分 は,『 戦 旗 』12月 号 に 発 表 さ れ た 。 これ は後 に,『 不 在 地 主 』(日 本 評 論 社1930年)で 合 一 され た。
当 時,『 中 央 公 論 』 は 最 も有 名 な雑 誌 で あ っ た 。 こ こ に小 説 が 載 れ ば,一 流 作 家 と して 認 め られ た こ とに な った 。 小 林 多 喜 二 は,1929年7月6日 に筆 を と
り,9月22日 に完 成 した,つ ま り3カ 月 弱 で書 き上 げ た。恐 ろ しい 速 さ で あ る 。 こ の 時,多 喜 二 は,若 冠26才 で あ っ た 。ス トー リー の モ デ ル は,小 樽 の不 在 地 主 ・ 磯 野 進 の下 富 良 野 農 場 で 起 きた小 作 争 議 で あ っ た 。
〔1〕
1北 海道 の農 民 運 動 お よ び不 在 地 主
北 海 道 に は,も と も と農 業 は ほ とん どな く,漁 業 が 中 心 で あ っ た。1880年 代 後 半 に,明 治 政 府 の 殖 産 興 業 政 策 が 効 を奏 し は じめ た 。 日清 戦 争 後,北 海 道 へ の移 民 が 多 く流 入 し,道 庁 も大 土 地 占有 を方 策 した。 北 海 道 の 人 口 は1892(明 治25)年 末 の51万 人 か ら1901(明 治34)年 末 の101万 人 へ と増 加 した 。 大 農 場
は 日清 戦 争 の こ ろ か ら小 作 制 度 に移 行 して い た 。 本 州 か ら流 入 す る農 民 は,北 海 道 で は 自作 農 に な る こ と は 難 し くな り,小 作 と して入 る よ う に な っ た 。
北 海 道 で,国 有 地 の 払 い下 げ に よ る資 本 経 営 の 不 在 地 主 農 場 が 増 加 し始 め た の は,低 利 資 金 の 供 給 を受 け られ る よ う に な っ た1897(明 治30)年 前 後 か らで あ っ た。 北 海 道 庁 は,開 拓 資 金 を 得 るた め に,国 有 地 の払 い 下 げ を始 め た 。 そ れ ら を,タ ダ 同 然 の価 格 で,華 族 や 大 金 持 ち に売 った 。 つ ま り払 い 下 げ た の で あ る。そ れ らは 各 々,何 百 町 歩,何 千 町 歩 の広 さで あ り,そ の 上,石 狩,空 知, 上 川 の 優 良 地 で あ っ た。 一 方,本 州 で 食 え な くな っ た 農 民 に た い して,北 海 道 庁 は,移 住 農 民 を募 っ た 。 しか し彼 ら移 住 百 姓 は,優 良 地 で は な く,釧 路,根 室 の 泥 炭(で い た ん)1)地 に入 植 した 。彼 ら入 り地 百 姓 に,開 墾 補 助 費 が 出 た。
しか し,そ れ は 初 め の1年 間 で な くな っ て しま うの だ っ た。 そ こで 彼 らは低 利 資 金 を借 りる の だ が,土 地 を畑 にす る に は5,6年 か か り,そ の 時 に は借 金 で 首 が 回 ら な くな っ て しま っ た 。 ま た不 在 地 主 の農 場 に小 作 人 と して 入 っ た 開 拓 農 民 もい た。 こ の 不 在 地 主 は,文 字 通 り,農 場 に は お らず,札 幌,小 樽,東 京 に い て,上 が り を勘 定 す る だ け で あ っ た 。 本 州 の地 主 が 農 村 に い て 寄 生 地 主 と な っ て い た の とは 対 称 的 で あ る。 寄 生 地 主 は,土 地 所 有 者 で あ りな が ら資 本 を 産 業 に 投 下 した,い わ ば地 主 の ブ ル ジ ョア 化 で あ る が,不 在 地 主 は ブ ル ジ ョア の地 主 化 で あ る 。
大 正11(1922)年4月9日 に,日 本 農 民 組 合 が 創 立 され た。 賀 川 豊 彦2)と 杉
1)ピ ー トで あ る 。 北 海 道 で は,寒 さ の た め に草 が 枯 れ き れ ず,土 に な れ な い 。 そ れ を 燃 料 に 使 う。
2)賀 川 豊 彦(1888‑1960)。 キ リ ス ト教 的 社 会 運 動 家 。
不 在地 主 磯 野小 作争 議 上3
山元 治 郎3)が,そ れ を 準 備 し た。 正 式 出 席 者 は120余 名 で,そ の 創 立 大 会 の 中 に は北 海 道 の 会 員 は い な い 。 参 加 者 は2百 数 十 名 で あ っ た 。 この 時,支 部 は14 また は15で,組 合 員 は253名 で あ っ た。8月 に は支 部 が85に 増 え た。翌1923(大 正12)年2月 に は,支 部300,組 合 員1万 に な っ た。
1922(大 正11)年11月 に,日 本 農 民 組 合 関東 同 盟 が 創 立 され,後 に 日本 農 民 組 合 に合 併 す る。 一 方,同 じ大 正11(1922)年2月,小 さな 組 織,日 本 農 民 総 同 盟 が 創 立 され て い た4)。
北 海 道 に お け る最 初 の 小 作 争 議 は,奥 山5)に よれ ば,1906(明 治39)年6月, 比 布(ひ っ ぷ)殖 産 会 社 と小 作 人 との 紛 争 で あ っ た 。 つ い で,1908(明 治41) 年8月25日 に 余 市 郡 仁 木村 の 毛 利 農 場 で,ま た1915(大 正4)年11月 に 帝 国 製 麻 会 社 美 瑛 農場 で,ま た1920年2月 に岩 崎 男 爵 の 農 場 で,小 作 人 の 紛 争 が あ っ た 。
北 海 道 で,組 織 的 な小 作 争 議 と して 初 め て の もの は,石 狩 国 上 川 郡 神 楽 村 上 川 御 料 地 つ ま り天 皇 家 の 領 地 の小 作 争 議 で あ っ た 。1920(大 正9) 年6月 に発 生 し,大 正11(1922)年2月23日,旭 川[市]で そ の 農 民 大 会 が 開 か れ た 。 そ の12月 に は 日本 農 民 総 同 盟 の 本 部 か ら理 事 が 応 援 に来 道 した 。 これ は大 正12(1923)年10月20日 に解 決 した6)。
同 じ く1920(大 正9)年9月 に は,小 作 料 値 上 げ を はか っ た 蜂 須 賀 農場 の 争 議 も始 ま っ た 。 こ こ で は 昭 和6(1931)年 ま で6回 に わ た っ て 大 争 議 が く りか え され た。 高 名 な争 議 で あ っ た。
小 作 組 合 に つ い て は,北 海 道 で,1907・11年 に,共 同貯 金 と農 事 改 良 の小 作 組 合 が1つ あ っ た 。1912・16年 に2つ で き,1917・20年 に2つ で き,こ う して 1921年 に は5つ の 小 作 組 合 が あ っ た。
他 方,雑 誌 『問 題 』 が,多 分1922(大 正11)年 に,荒 岡庄 太 郎 の 手 で旭 川 で 3)杉 山(1885‑1964)。
4)青 木 恵 一 郎 『日本 農 民 運 動 史 』 第3巻 日本 評 論 新 社1963年,1版2刷(1版 1刷 は1959年 で あ る)。
5)奥 山亮 「北 海 道 農 民 運 動 史 」(青 木 書,第3巻,所 収)500ペ ー ジ。
6)青 木,106‑110ペ ー ジ。
創 刊 され た 。1923(大 正12)年 末 に は,本 格 的 な社 会 科 学研 究 会 が 北 海 道 大 学 と小 樽 高 商 に生 ま れ た 。1925(大 正14)年 に旭 川 で政 治研 究 会 が 組 織 され,同 年5月 に大 山郁 夫 が 来 道 し,各 地 に あ った 政 治 研 究 会 が つ なが っ て 組 織 され た 。
北 海 道 で の 日本 農 民 組 合 は ど う展 開 した だ ろ うか 。1925(大 正14)年9月(ま た は7月),日 本 農 民 組 合 の 北 海 道 に お け る 最 初 の 支 部 が 東 旭 川 村 米 飯(べ ・一・一・ パ ン)に 創 立 さ れ た7)。
同大 正14(1925)年10月 に杉 山 元 治 郎 が きて,旭 川 で,そ の 月,日 本 農 民 組 合 北 海 道 連合 会(日 農 北 連)が 誕 生 し,第1回 大 会 を 開 い た 。 委 員 長 は 荒 岡庄 太 郎8)で あ る。創 立 さ れ た 時 は,5支 部600人 にす ぎな か った 。 この 大 会 に は, 千 余 名 が 参 加 し た。 この 年 に,東 旭 川,東 旭 川 第 二,東 川,当 麻 に農 民 組 合 の 支 部 が で き,会 員 は600名 で あ っ た。 翌1926(大 正15)年 の 夏 ま で に,浦 臼, 北 竜,北 村 の 支 部 な どが 成 立 し,こ の 年9月,旭 川 で 第2回 日本 農 民 組 合 北 海
道 連 合 会 大 会 が 開 か れ,計20支 部,3千 余 人 に 達 した 。 北 海 道 連 合 会 の 主 な役 員 は,荒 岡庄 太 郎,重 井 敏 郎,松 岡 二 十 世9)で あ った 。 そ の 後,同 年 に,真 竜, 鷹 栖,青 山,川 合,上 常 呂,富 良 野,比 布,妹 背 牛,永 山村,中 富 良 野,角 田
中 里,芦 別,野 付 牛,旭,上 士 別,蜂 延,札 的 内,角 田杵 臼,東 鷹 栖,伏 古, 中 沢(野 付 牛),上 長 沼,長 沼,な ど に成 立 した 。
この 年 に は,石 狩 を 中 心 に,天 塩,十 勝,北 見 に拡 大 し,43支 部 が 成 立 した。
大 正15(1926)年3月1日 に は 日農 北 連 富 良 野 支 部 が 富 良 野 座 で 結 成 され, 支 部 長 に伴 利 八 が な り,組 合 員 は約40名 で あ っ た(『 農 魂 』 よ り)。 そ の年 の 夏
こ ろ か ら,小 作 料 の 減 免 運 動 が 各 支 部 で 一 斉 に行 わ れ た 。 永 山 の板 谷 農 場,比 布 の 有 隣 農 場,妹 背 牛 の池 田 農 場,鷹 栖 の 岐 阜 農 場,浦 臼 の富 士 拓 殖 農 場,富
良 野 の磯 野 農 場,な ど の不 在 地 主 の農 場 で,争 議 が お きた 。
北 海 道 は新 しい 開 拓 地 と して,日 本 内 地 の 貧 農 が 移 住 し,巨 大 な不 在 地 主 の 7)奥 山 亮,508ペ ー ジ。
8)荒 岡 。1891年 生 まれ,栗 山 出 身,旭 川 で 活 動,特 要 甲 号 共 産 主 義 と され る 。 日農 北 連 の 指 導 者 。 三 ・一 五 に 連 座 す る 。 北 海 道 旭 新 聞 記 者 。 雑 誌 『問 題 』 を 発 行 。 北 師 講 習 科 卒 。
9)『 北 海 タ イ ム ス 』 の 記 者 だ っ た 。1926年 に そ こ を辞 め る 。
不 在地 主 磯野小作争議 上 5 た め に徹 底 的 に い た め つ け られ た と こ ろ で あ る。 御 料 地,蜂 須 賀 農 場 の 雨 龍, 鳩 山一 郎 の 農 場 等 々 で は,そ の あ ま りに もひ どい 封 建 的 な搾 取 と奴 隷 的 待 遇 に 反 抗 す る 闘 争 が 行 わ れ た 。10)
そ の 後,日 本 農 民 組 合 で は,労 働 農 民 党 の 支 持 ・不 支 持 をめ ぐっ て,第1次 分 裂,第2次 分 裂 が お き,全 日農 が,昭 和2年 に で きた 。つ ま り,1926(大 正15) 年3月,日 本 農 民 組 合 にそ の最 初 の 分 裂 が起 き,平 野 力 三 らの 右 派 に よ り全 日 本 農 民 組 合 同 盟 が 生 まれ た の だ っ た 。 北 海 道 で も この 同 盟 の 支 部 が12月 に で き た 。 昭和3(1928)年 に は,日 農 と全 日農 は 統 一 し,全 国 農 民 組 合(全 農)と
な っ た。
大 正 末期 の 小 作 争 議 は,地 主 側 が 守 勢 に まわ った が,昭 和5年 の 農 業 恐 慌 か ら,農 民 側 が 守 勢 に立 った 。日本 の 三 大 争 議 と して は,香 川 県 の伏 石 事 件(1924 年),群 馬 県 強 戸 争 議(1921年)新 潟 県 木 崎 争 議 が,有 名 で あ る 。
北 海 道 の 農 民 運 動 は,第1次 大 戦 末 期 の 生 活 苦,戦 後 恐 慌,昭 和 恐 慌,世 界 大 恐 慌 に よ り,ま た 連 年 の 凶 作 に よっ て 起 こ り,盛 ん とな った 。そ し て1933年(昭 和8年)を 転 機 と して 下 降す る 。
大 正15(1926)年 は,北 海 道 全 域 に わ た って 降霜 期 が 早 く,大 正13(1924) 年 の大 凶 作 に次 ぐほ どの 凶作 に な っ た。 道 庁 の 統 計 に よ る と,米 の 平 均 反 収 は
7斗8升8合 で,平 年 の47%で あ っ た 。大 豆 も平 年 の55%,馬 鈴 薯 は90%で あ り, 農 民 の 困 窮 は か な りひ どか っ た 。
反 当 り米収 年 1925 1926 1927
石 1.653 0.78811) 1.652
板 谷,有 隣,池 田 農 場 で は,小 作 米 の 差 押 え を や り,争 議 は 一 時,激 化 す る 10)青 木 恵 一 郎 『日本 農 民 運 動 史 』 第4巻,
11)奥 山(青 木 書,第3巻)516ペ ー ジ
日本 評 論 新 社1963年,82ペ ー ジ。
様 子 が 見 え た が,ほ ど な く,岐 阜 農 場 と と も に,地 主 との 問 に妥 協 が 成 立 した 。 1925(大 正14)年11月 に鷹 栖 村 の争 議 が 発 生 し,1926(大 正15)年 に,雨 竜村 蜂 須 賀 農 場 の争 議 が 起 き,1927年3月 に は角 田村 鳩 山 農 場 争 議 が 発 生 す る 。
1926(大 正15)年 の 争 議 件 数 は 増 し,そ の 中 で,注 目す べ きは 磯 野 農 場 で あ る。
同1926(大 正15)年9月,凶 作 の た め に磯 野 農 場 の小 作 人 が 小 作 料 減 額 の 交 渉 を 開 始 した12)。 富 士 拓 殖 と磯 野 農 場 の 争 議 は,解 決 の 見 通 しが な く,特 に磯 野 農 場 は 地 主 側 の 態 度 が 強硬 で,争 議 は 次 第 に深 刻 化 して い っ た 。
2富 良野 農 民 の状 態
北 海 道 空 知 郡 の富 良 野 は,明 治 後 半 に 開拓 が 進 ん で い た 。開拓 農 民 が 来 た 時, 土 地 は す で に地 主 の もの に な っ て い た。 農場 の 小 作 人 は,没 落 した 開 墾 移 民 も 多 か っ た が,北 海 道 庁 の 開拓 移 民 と同 じ よ う に 日本 内 地 か ら募 集 され た 。 内 地 の 貧 農 の 一 部 は,こ う して大 量 に北 海 道 に 流 れ 込 ん だ 。 この 土 地 に は貧 農 や 農 家 の二,三 男 が た く さ ん入 りこん で い た 。 か れ らは北 海 道 庁 や 政 府 の 北 海 道 移 住 制 作 の 宣 伝 につ られ て は る ば るや っ て きた 人 た ち で あ っ た 。 優 良 な 土 地 は, 北 海 道 の 巨 大 地 主 に よ っ てす で に 所 有 さ れ つ くし,残 され て い る の は 未 開 の土 地 の み で あ った(『 農 魂 』 よ り)。
道 庁 編 『北 海 道 移 住 案 内』 は,北 海 道 で の 農 民 経 営 が バ ラ色 の将 来 を約 束 し て い る よ う に描 い て い た 。 道 庁 と政 府 は,宣 伝 に よ っ て か り集 め た これ ら農 民
を,こ れ ら巨 大 地 主 の 土 地 に しば りつ け て 開 墾 や 耕 作 に あ た らせ,そ の6割 か ら7割 を 地 主 に と らせ た 。 移 民 た ち は土 地 も ち に な る ど ころ か,内 地 か ら もっ て き た な け な しの財 産 資 金 を食 い つ ぶ した り,移 民 会 社 の 借 金 で 首 の ま わ らぬ 生 活 に 落 ち 込 ん だ。
不 在 地 主 は,小 作 料 を と っ て,都 会 の快 適 な生 活 を楽 しん で い た 。 一 方,不 在 地 主 の 農 場 で 働 く小 作 人 た ち は,管 理 人 に 支 配 さ れ,生 活 上 で も様 々 な制 約
ユ2)青 木,第4巻,82ペ ー ジ 。
不在 地主 磯 野小作 争議 上 7 を う け,非 人 間 的 な労 働 が 義 務 づ け られ て い た。
富 良 野 で は,反 当 り平 均 収 穫 量 は,1等 地 で一 石 二 斗,2等 地 で 一 石,3等 地 で 八 斗 で あ っ た。 内 地 の 半 分 に す ぎ ない 。 一 方,小 作 料 は収 穫 の4分(つ ま り4割 の こ と)で,小 作 人 の 所 得 は6分 で あ っ た。 収 穫 が 少 な い の で,4割 も 地 主 に と られ て は,生 活 は お ぼつ か な か っ た。
この 地 方 の 一 つ 北 大 沼 で は,米 ・野 菜 の 収 穫 は,普 通 の半 分 で あ っ た。 泥 沼 の様 な 湿 地 帯 で,悪 水 が た ま り,泥 炭 地 帯 で あ っ て,芦 ・茅 が 高 く茂 っ て い た 。 農 民 は 一 人 前 の 農 民 と見 な され ず,原 野 者 と言 わ れ,町 で差 別 され た 。 米 ・野 菜 の 行 商 に行 っ て も,購 入 を 阻 ま れ た 。
富 良 野 農 民 は,日 本 農 民 組 合 の 支 部 を結 成 し,彼 ら は討 議 して,こ の 土 地 は 元 々熟 田 で は な い の で,将 来 小 作 入 自身 の 手 で 土 地 改 良 を終 る まで,小 作 料 は 収 穫iの2割2分 と し,反 当 り小 作 料 を1等 地 で は3斗,2等 地 で2斗5升,3 等 地 で2斗 と算 定 し,3年 の 後,初 め て4分 ・6分 に な る の が正 当 で あ る,と 結 論 した 。
空 知 郡 下 富 良 野 村 の磯 野 農 場 は,約250町 歩 の 広 さ で,50町 歩 を北 海 道 大 学 演 習 林 に与 え て い た 。 だ か ら196町 歩 あ っ た。 小 作 人 は48戸(手 塚 説,武 内清 の 想 い 出 ・説),50〜57戸(磯 野 雄 三 郎 説),他 に37戸 だ っ た とい う説 もあ る 。 家 族 合 わ せ て200人 ば か りの,北 海 道 で は 中位 の 農 場 で あ っ た 。
す べ て の 農 場 と同 じよ うに,磯 野 農 場 も,昔 は まっ た くの荒 れ 地 で,特 に排 水 の便 が 悪 く,二,三 日の 雨 で,耕 地 が 泥 沼 に な っ て し ま っ た 。 また 病 虫 害 が 多 か っ た 。 水 も よ くなか っ た 。 お 茶 を入 れ て も黒 くな り,米 を炊 い て も赤 っ ぼ
くな っ た 。 井 戸 が な く,排 水 も利 用 した 。 農 民 の 持 ち物 は,鋸,鎌,斧,鍬, そ り,桶,鍋,包 丁,茶 碗,む し ろ,鉄 瓶 ふ る い,ざ る,が す べ て で あ り, 畳 の あ る 家 は一 軒 も なか っ た し,板 に む しろ を敷 い て い た 。 箪 笥 は ほ と ん どな か っ た 。 囲 炉 裏 の 生 活 で あ っ た 。 老 人 ・子 供 も貴 重 な働 き手 で あ り,女 の子 の
ほ とん どは,小 学 校 を 中途 で や め て,水 汲 み や 子 守 を して 働 い た 。
こ こで は,小 作 料 を年 貢 と言 っ て い た 。 収 穫 は他 の 農 場 の 半 分 で あ っ たが, 小 作 料 は5〜6割 で あ り,富 良 野 で 一 番 高 か った 。 地 主 ・磯 野 進 は,農 場 管 理
人 を置 い た 。 こ こで は,地 主 に逢 っ た 人 は誰 一 人 と して い な か った 。 不 在 地 主 の村 で あ っ た 。こ こ に は,手 形 交 換 所 もな か った,し た が っ て 担 保 を とっ た(磯 野 雄 三 郎)。 た だ し磯 野 農 場 よ り,寿 原 や 板 谷,拓 銀 の 所 有 す る農 場 が ず っ と 大 きか っ た 。
3磯 野 進
磯 野 農 場 の 地 主,磯 野 進 は,新 潟(佐 渡)の 出 身 で あ り,明 治23(1890)年, 東 京 法 学 院(中 央 大 学 の前 身)を 卒 業 した 。 磯 野 家 に養 子 に きた 。 当 時 の イ ン テ リの 殆 どが 官 界 を志 す 官 吏 万 能 の 時代 に,進 ん で 経 済 人 を志 した 。 彼 は,明 治30(1997)年 に渡 道 して,小 樽 で 海 産 物 商 を営 ん で 発 展 し,つ い に 資 本 家 と な り,大 地 主 に まで 一 代 で の し上 が っ た 立 志 伝 的 人 物 で あ っ た 。佐 渡 の 実 家 は, 味 噌 の 醸 造 を して い た。 だ が 昭 和4(1929)年 の佐 渡 の 火 事 で 焼 け て,い っ さ い や め た。磯 野 進 は,小 樽 で 海 産 物 産 商,青 森 で 回漕 店 を経 営 した 。磯 野 家 は, 小 樽 の 海 陸物 産 商 で,米 穀 海 産 問屋 を持 ち,す べ て 物 資 を扱 っ て い た 。 精 米, 澱 粉 工 場 な ど も経 営 し,北 海 道 で も有 力 な実 業 家 の 一 人 で あ っ た。13)そ し て 欧 州 戦 争 で雑 穀 で 儲 け た 。 磯 野 進 は,頭 が よ くて,無 類 に気 が 強 く,頑 固 で, 立 ち 向 か っ て ゆ く人 は 叩 き伏 せ る,と い う士 商 人 で あ っ た。彼 は 「政 治 家 」だ っ た 。た だ一 徹 の 頑 固 だ け で は な か っ た(境 一 雄)。頑 固 だ が,回 れ右 が はや い(磯 野 雄 三 郎)。 彼 は小 樽 市 会 議 員 で もあ っ た。 大 正2(1913)年 に,小 樽 商 業 会 議 所(現,商 工 会 議 所)14)の 第6代 目の 会 頭 に就 任 した 。 小 樽 商 業 会 議 所 は, 明 治28(1895)年 の 創 立 で あ る。 彼 は,大 正14年 に再 び会 頭 に な っ た 。 そ れ は 十代 目 に あ た る。 彼 は 商 才 力 量 抜 群 と う た わ れ た 。 酒 も飲 まず,た ば こ も吸 わ な か っ た。磯 野 邸 は 色 内 町 にあ っ た 。そ して,中 央 政 界 と も結 びつ きが あ っ た 。
大 正14(1925)年8月,磯 野 進 は,北 海 道 会 議 所 連 合 会 の 極 東 露 領 視 察 団 団
13)現,海 猫 屋(喫 茶 店,小 説 の 舞 台 に も な る)は,磯 野 商 店 の 倉 庫 の1つ で あ っ た 。 14)昭 和8年 に商 工 会 議 所 が で き る 。 以 前 は 商 業 会 議 所 。 商 業 会 議 所 は,現 在 の エ ル
ニ ー,4階 で あ っ た 。
不在地主 磯野小作争議 上 9 長 と して,1カ 月(8月22日 敦 賀 〜9月25日 ハ ル ビ ン),極 東 ロ シ ア を視 察 した。 帰 国 後 の10月9日,東 京 の 華 族 会 館 で 革 命 後 の ロ シ ア につ い て 講 演 し た 。 そ の 講 演 会 の 内容 は,こ うで あ る。
「開会 の辞
極東 露領の産業 に就 いて 欧露 の現状
閉会 の辞
日露協会講演 会」
後藤新平 磯 野進
八杉貞利 後藤新平
15)
演 題 「極 東 露 領 の産 業 に就 い て」 で,彼 は,農 業,鉱 業,運 輸,貿 易,金 融 の 話 の 後,こ う締 め く くる。 「共 産 主 義 は 日本 の 或 部 分 に於 て 言 ふ が 如 く,他 人 の 物 を タ ・"で持 っ て往 くの が共 産 主 義 で は ない の で あ ります 。」 「日本 の 主 義 者 は 食 ふ 者 は 働 くべ か らず と云 ふ や う な見 地 か ら言 ふ て居 る の で は な い か,露 西 亜 と反 対 の傾 向 で は な い か,斯 う云 ふ 人 に露 西 亜 の 実 状 を 見 せ た な らば,裸 足 で 遁 げ て 来 るや うな始 末 に な る で あ ら う と思 ひ ます 。」
講 演 の 中 で,磯 野 は,ロ シ ア の 共 産 主 義 に比 し,「 わ が 国 の 共 産,社 会 主 義 は他 人 の もの を タ ダ で持 っ て 行 く考 え だ 」 と,激 し く切 っ て 捨 て た 。
この 発 言 は,磯 野 農 場 小 作 争 議 の 指 導 者,同 調 者 ら,い わ ゆ る 「主 義 者 」 に 投 げ 返 し た もの だ ろ う16)と言 わ れ る が,時 期 が違 う。
4小 作 争 議
大 正15年(1926年)10月13日 に,日 農…の 指 導 に よ っ て起 こ され た 富 良 野 の磯 野 農 場 の 小 作 争 議 は,翌 昭 和2年(1927年)4月 ま で,半 年 に わ た って 闘 わ れ た 。
15)報 告 記,36ペ ー ジ。
16)北 海 道 新 聞 社 『小 樽 再 発 見 』(1984年107ペ ー ジ)に そ うあ る が 。
争 議 の 規 模 にお い て も大 きな もの で は な く,官 憲 との衝 突 と弾 圧 の は げ しさ は 同時 期 に 闘 われ た 月 形 争 議 の 比 で は な く,ま た 争 議 期 間 に お い て は 前 後 一 〇年 に わ た っ て 闘 わ れ た 蜂 須 賀 農 場 争 議 が あ る に もか か わ らず,特 に こ の磯 野 争 議 が 広 く知 られ て い る の は,地 主 の磯 野 進 が 小 樽 の 商 工 会 議 所 の 会 頭 で あ った た め,現 地 で あ る富 良 野 の 地 域 で の 闘 争 よ り も,地 主 の 居 住 地 で あ る小 樽 に闘 い が 集 中 さ れ た こ と と,日 農 か らの 要 請 に よ っ て 小 樽 合 同労 働 組 合 が 積 極 的 に応 援 に立 ち 上 が り,小 樽 経 済 界 の 巨 頭 で あ る磯 野 進 と小 樽 合 同 労 組 との 闘 い に ま で 発 展 した と こ ろ に あ る。そ して,こ の 争 議 の 労 農 提 携 が,が っ ち りと組 ま れ, い わ ゆ る 労 農 提 携 に よ る代 表 的 な 争 議 と な っ た 。 これ らが そ の ゆ え ん で あ る。
富 良 野 の 磯 野 の 農 場 に は,182町 歩 余 の 土 地 に 四 二 戸 の 小 作 人 が い た。 この 農場 で は,一 等 地 一 石 五 斗,二 等 地 一 石,三 等 地 八 斗 しか 収 穫 が な い の に,地 主 に はそ の 四 割 を収 奪 され て い た 。 しか も小 作 人 は,土 地 の 開拓,開 墾 か ら潅 概 肥 料 管 理 の 一 部 の 責 任 を背 負 わ され て い た。大 正11年(1922年)か ら15年(1926 年)ま で は,反 当 小 作 料3円 と い う小 作 契 約 が 締 結 され て い た に もか か わ らず, 磯 野 は こ れ を 無 視 して,大 正11年(1922年)秋 に な って,突 然,米5斗 の小 作 料 を 請 求 した。 小 作 農 民 は不 服 を とな え,闘 争 体 制 を しめ した が,富 良野 町 長 津 田泰 政,町 地 主 の 本 間十 一 ほか 数 名 が 調 停 役 に入 り,争 議 状 態 は一 時 小 康 に 入 っ た 。
大 正15年,古 い 小 作 料 率 の 期 間 が 既 に終 っ た の で,昭 和2(1927)年1月30日, 小 作 料 を改 め る こ と に な っ た 。 こ の 時,地 主 磯 野 は 従 来 三 斗 の小 作 料 を七 斗 に 引 き上 げ た ば か りか,昨15年 度 の 凶作 に よ る 下 記 の 要 求 を は ね つ け て し ま っ た。
要 求 書
,大 正 一 二 年 度 の 調 停 に準 じて 反 当 の 収 穫iの四 分 を小 作 料,六 歩 を小 作 人 の所 得 とす る こ と。
二,磯 野 農 場 は 開 拓 以 来,三 等 米 を 産 出 した る こ とな き に もか か わ らず,地 主 磯 野 は三 等 米 を要 求 して,四 等 米 納 入 者 は そ の格 下 げ 差 金 一 円,五 等 米 納 入 者 は二 円五 十 銭 つ つ(石 に つ き)を 徴 収 さ れ て い る 故 これ を 産 出 米 を もっ
不在 地 主 磯 野小作 争議 上 11 て 減 額 す る こ と。
三,昨 年 度 の 凶作 に た い す る減 免 は,作 柄 一 割 に み た ざ る もの は 全 免,最 高 二 割 三 分 に減 額 す る こ と。17)
こ の 要 求 を拒 否 し,小 作 料 の 引 き上 げ を迫 る磯 野 は,農 民 の飯 米 や 家 財 まで 差 押 え,土 地 取 り上 げ の 訴 訟 を ま で起 こ して きた 。 彼 は強 硬 な 態 度 を もっ て 小 作 農 民 側 の 要 求 を無 視 し,拒 否 しつ づ けた18)。
こ の ひ どい土 地 を小 作 人 の 長 年 の努 力 で,大 正 の 終 りに,畑 が水 田 に変 え ら れ た 。 初 め 磯 野 は,米 が 取 れ る よ うに な っ た後 も,稲 作 よ り軽 い 率 の 畑 年 貢 で よ い と,約 束 して い た。 しか し,前 述 の よ うに,余 り低 く は なか っ た の で あ る。
とこ ろ が 磯 野 農 場 は,今 度,水 田ふ 作 料 に切 り替 え る とい う通 告 を し た。
日本 農 民 組 合 富 良 野 支 部 が 結 成 され て い た。支 部 長 に伴 利 八 が な っ た 。大 正15 年(1926年),前 述 の 大 凶 作 が 起 きた 。 秋,農 民 は,小 作 料 の 引 き下 げ と免 除 を要 求 した 。 しか し磯 野 農 場 の 管 理 人 ・但 木 雄 尾(た だ き ・ゆ うお)は,こ れ を拒 否 した 。 そ して 農 民 組 合 の 幹 部9人 の 財 産 差 押 え,中 心 人物 つ ま り伴 お よ び奥 野 善 造 の,農 地 か らの 立 ち 退 きを命 じ た。 だ が,こ の 争 議 で負 け た ら,農 民 は路 頭 に迷 うの で あ る 。彼 ら は生 き る こ とそ の もの を堵 け た 。
1926年(大 正15年)秋,北 海 道 は 十 数 年 来 の冷 害 大 凶 作 とな っ た 。 富 良 野 の 磯 野 農 場 の 作 況 は 平 年 の 四 分作 か ら五 分作,小 作 人 た ち は6割 に もの ぼ る 高 率 の 現 物 小 作 料 の減 免 を要 求 して,農 場 管 理 人 但 木 雄 尾 に掛 け合 っ た が,現 地 で の 解 決 の 見 通 しは つ い に立 た な か っ た 。
1927年(昭 和2年)2月,農 場 主 の磯 野 は小 作 人 に 対 す る土 地 返 還 と財 産 差 押 え の 訴 訟 を旭 川 区 裁 判 所 に お こ した。19)
17)渡 辺 『北 海 道 社 会 運 動 史 』 レ ポ ー ト社1966年,219ペ ー ジ。 た だ し,こ れ は 青 木 書 を 利 用 し た の だ と推 測 す る 。 だ が 引 用 注 が な く,よ く な い 。
18)同,220ペ ー ジ。
19)琴 坂 編 『磯 野 小 作 争 議 ・小 樽 港 湾 争 議 資 料 集 』不 二 出 版1990年(以 下,『資 料 集 』 と 略 す),27ペ ー ジ。
日農 北 連 は,荒 岡 委 員 長,松 岡 二 十 世,重 井 鹿 治 らが か けつ け,支 部 大 会 を 開 き,結 束 をか た め て 小 作 調 停 裁 判 所 に持 ちだ した 。 一 方,代 表 者 二 七 名 を 選 出 して小 樽 の 地 主 磯 野 に直 接 交 渉 せ しめ る と共 に,評 議 会,小 樽 合 同 労 組 は じ め 民 主 団体 に,応 援 を求 め た 。
次 の よ う に も言 わ れ る。 事 件 の 報 告 を受 け た 日農 北 海 道 連 合 会 で は た だ ち に 委 員 長 荒 岡 庄 太 郎 を 派 遣 して組 合 総 会 を ひ ら き,組 合 の 結 束 をか た め,小 作 調 停 裁 判 に も ちだ した 。20)
「対 立 状 態 に な っ た磯 野 農 場 の 争 議 に は ,富 良野農 会が調停 に立 ち,上 川郡 農 会,警 察,農 産 検 査 所 な ど も調 停 に 立 っ た が,[19]26(大 正15)年 度 の 収 穫 を,地 主 は[平 年 の]7割6分6厘 と主 張 して 譲 らな い の にた い し,小 作 人 側 は,[平 年 の]最 高4割7分,平 均2割2分 を 主 張 した か ら,開 きが 大 き く, 妥 協 の 見 通 しは 困 難 で あ っ た。 小 作 人 側 は さ ら に,2分 の 減 免 を要 求 した 。2 割 以 下 は小 作 料 全 免 とい う規 定 が あ っ た か ら,地 主 側 は ます ます 強 硬 に な っ て,
ま も な く差 押 え の 手 段 に で た。 小 作 人 側 は,伴 利 八,阿 部 亀 之 助 ら27人 が 申請 人 に な っ て,12月 中旬,小 作 料 の 減 免 要 求 を旭 川 地 方 裁 判 所 に提 訴 した 。」21)
一 方,こ の代 表27人 で,小 樽 の磯 野 に直 接 交 渉 を させ る と と も に,全 小 樽 の 労 働 組 合 ・民 主 団 体 に も支 持 を訴 え た 。22)
は じめ 日農 北 連 か ら小 樽 合 同労 組 に た い して,地 主 の磯 野 と交 渉 を して ほ し い との 依 頼 が あ っ た 。 武 内清,渡 辺 利 右 衛 門,近 藤 栄 作(彼 も磯野 争 議 の 指 導 者 の1人 とな る)な どが 交 渉 に 当 た る こ とに な っ た 。 しか し,磯 野 は1回 の 交 渉 に 応 じた だ け で,全 く交 渉 に応 じ よ う と しな い ば か りか,警 察 の 弾 圧 と干 渉 が 日に 日 に 強 まっ て きた。 そ こ で武 内 は 評 議 会 本 部 か ら 山本 懸 蔵 を オ ル グ に む か え て,2人 で 道 評 議 会 と して の磯 野 争 議 に た い す る方 針 を検 討 した。 検 討 に も とず い て,武 内 が,現 地 の 農 民 を小 樽 に 呼 ん で,労 農 共 闘 に よ る争 議 団 を作 り, 強力 な 闘 い を展 開 す る こ とが 必 要 で あ る と提 案 した 。 こ の武 内 の 提 案 が 取 り入
20)青 木,第4巻,84ペ ー ジ 。
21)手 塚 英 孝 『小 林 多 喜 二s上,新 日 本 新 書, 22)青 木,第4巻,84ペ ー ジ 。
1974年135ペ ー ジ 。
不在 地 主 磯 野小作 争議 上13
れ られ て,富 良 野 か ら交 渉 団(代 表 伴 利 八)が 小 樽 に や っ て きた 。23) 日農 北 連 は 耕 作 権 確 立 の 運 動 を 全 道 各 支 部 に 指 令 し,富 良 野 の 小 作 人 た ち は 日農 北 連 の援 助 と小 樽 合 同 労 組 の協 力 を頼 りに,小 樽 へ 出 向 い て 不 在 地 主磯 野 進 と直 接 交 渉 の 決 意 を 固 め た 。24)
日本 農 民 組 合 北 海 道 聯 合 会 と労 働 農 民 党 北 海 道 支 部 聯 合 会 の だ した ビ ラ(日 付 不 祥)は,次 の 通 り。
激11耕 作 権 獲 得 の猛 運 動 を起 せ11
富 良 野 原 野 磯 野 農 場 小 作 人 三 名 が 同 僚 小 作 人 二 十 名 と小 作 料 減 額 と そ の 前 と に 於 け る小 作 契 約 条 項 改 正 に端 を発 しそ の 全 部 が 差 押 へ と小 作 料 請 求 の訴 訟 と を
され た上 土 地 明 け渡 しの 請 求 訴 訟 が 地 主 磯 野 に よ っ て提 起 され た 。
・ ・(中 略)・ ・ ・ ・ ・ ・ …
人 間 ら しい 生 活 を した い た め に小 作 料 減 額 を 地 主 に対 して す る時 に け しか ら ん とか ソ ロバ ンに 会 わ な い とか つ ま り地 主 が 余 計 儲 る か らか 否 か との こ と で,吾 々小 作 人 が 耕 か しで きて又 生 き て い る耕 作 地 を取 り上 げ られ て は や り きれ な い。 地 主 が 「所 謂 合 法 的 な 」 殺 人 手 段 を も っ て 吾 々 小 作 人 を威 嚇 す る 時 に 吾 々小 作 人 が対 抗 す べ き何 も の もな い(地 主 の よ う に都 合 の よい 合 法 的 な,つ ま り生 存 権 た る耕 作 権 が な い)耕 作 権 の獲 得11そ れ が 吾 々小 作 人 に取 っ て 最 も重 大 問 題 で な け れ ば な らな い 耕 作 権 が 獲 得 して な い 為 に 地 主 に追 い 出 さ れ立 ち 入 り禁 止 を さ れ 実 に横 暴 の 限 りを尽 さ れ る の だ 。 耕 作 権 を確 立 せ
よ11
耕 作 権 を獲 得 せ よ。 耕 作 権 が 獲 得 され れ ば 悪 逆 地 主 も何 等 恐 る こ とは な い 処 が 地 主 共 が 此 の小 作 人 の要 求 の 耕 作 権 の確 立 を非 常 に 恐 れ て い る 。 そ の 為 に 吾 等 の生 存 権 た る耕 作 権 を 除外 した 躁 躍 した 処 の 小 作 法 案 を ブ ル ジ ョア議 会 に依 っ て 設 定 せ しめ て い る の だ 。 此 の ブ ル ジ ョア議 会 に よ っ て設 定 され ん と し て い る吾 等 の 生 存 権 を躁 躍 した る地 主 の 手 先 た る小 作 法 案 に 反対 の 猛 運 動 を 23)武 内 清 の 思 い 出刊 行 会 『武 内 清 の 想 い 出 』 札 幌,昭 和52年,45ペ ー ジ。
24)『 資 料 集 』27ペ ー ジ。
起 せ11吾 等 小 作 人 の 生 存 権 た る耕 作 権 獲i得の 猛 運 動 を起 こせ11(貧 欲 地 主 磯 野 の 私 欲 の た め に立 退 訴 訟 を され た る 三 名 の 小 作 に 応 援 し 暴 虐 地 主 に対 し
て あ らゆ る排 撃 運 動 を起 せ1125)
次 の 指 令(日 付 け不 祥)も 出 した 。
「 指 令
横 暴 地 主 小 樽 商 業 会 議 所 会 頭 磯 野 進 は 吾 々 日本 農 民 組 合 富 良 野 支 部 に属 す る 組 合 員 三 名 に対 して 二 月初 旬 突 然 に土 地 返 還 の訴 訟 を提 起 し仮 差 押 を な した 。 土 地 返 還 とは何 ぞ 。 そ は 小 作 人 の生 命 を奪 は ん とす る支 配 権 力 の 直 接 の現 はれ な の だ 。
吾 々 は土 地 を作 っ て生 活 を続 け て居 るの だ。 そ して 妻 や 子 を 養 っ て居 る の だ。
この 土 地 を取 上 げ られ て は 吾 々 は 明 日か ら何 を して 生 活 す るか 。 地 主 は 公 然 と此 の 殺 人 的 法 律 を以 っ て 吾 々小 作 人 の生 活 を脅 か し言 い た い こ と も言 は さ な い とす る 現 在 に於 い て は 其 くの 如 き悪 法 が 存 在 して い る の だ。
吾 々 は其 くの如 き悪 法 の存 在 に依 っ て 生 活 を脅 か され る の だ 。 吾 々 は先 づ 此 の 法 律 を撤 廃 させ ね ば な らぬ 。そ して 必 然 的 に 吾 々 は耕 作 権 を確 立 せ ね ば な らぬ 。
そ うす る こ とに 依 っ て 吾 々の 解 放 は 期 さ れ得 る の だ 。 立 て 各 支 部 は耕 作 権 確 立 の 予 備 運 動 と して左 の 方 法 を取 って 進 め
一,宣 伝 ビ ラ に依 っ て 一 般 大 衆 に耕 作 権 の必 要 を知 ら しめ よ 一,耕 作 権 確 立 演 説 会 を 開 催 せ よ
一,集 会 の機 会 を利 用 して 耕 作 権 確 立 の 示 威 的 運 動 をす る
日本 農 民 組 合 北 海 道 聯 合 会 本 部 」26)
25)『 資 料i集 』22・23ペ ー ジ 。 26)『 資 料 集 』26・27ペ ー ジ 。
不 在 地主 磯 野 小作争 議 上 15
5小 樽 へ
交 渉 が 行 き詰 ま り,昭 和2(1927)年,小 作 人 た ち は,地 主 の い る小 樽 へ 行 くこ とに した。 彼 ら は小 作 米 を売 っ て旅 費 と した。 同3月3日,27人 の 小 作 人 代 表 は小 樽 へ 旅 た った 。 そ して37日 間滞 在 す る こ とに な る。 彼 らは 「こ う い う 苛 酷 な 時 は 年 貢 を納 め られ な い か ら」 「親 父 に事 情 を言 っ て,頼 も う」 「な ん と か す が ろ う」 と した 。
小 樽 は,人 ロ14万 人,市 中 銀 行 が15あ る北 海 道 経 済 と金 融 の 中心 で あ っ た 。 大 正 か ら昭 和 に か け て,世 界 の 穀 物 相 場 を動 か す 大 貿 易 港 で あ っ た,ま た浜 の 労 働 者 の 町 で もあ った 。
1925年5月 に,日 本 労 働 組 合 評 議 会27)が 結 成 さ れ て い た 。
1925(大 正14)年8月 に,労 働 農 民 党 の 北 海 道 支 部 連 合 会 が 結 成 され た。1925 年(大 正14年)8月30日 に,小 樽 総 労 働 組 合 の 創 立 大 会 が 開 か れ た 。 堺 一 雄 が 執 行 委 員 長 に選 ば れ た 。 港 湾 労 働 者 と 自 由 労 働 者 が 中 心 に な っ た300人 前 後 の 組 織 で あ っ た。 しか し組 織 は 急 速 に広 が っ て ゆ く。1925年 に,小 樽 総 労 働 組 合 は,評 議 会 に加 わ っ た。1926年(大 正15年)2月,評 議 会 北 海 道 地 評 が 結 成 さ れ,小 樽 総 労 働 組 合 は,4月23日,再 組 織 さ れ,小 樽 合 同労 働 組 合 と改 称 した。
三 一 分 会 で,組 合 員 は約1200人 とな っ た 。小 樽 と函 館 で 北 海 道 初 め て の メ ー デ ー が 行 わ れ た 。
磯 野 商 店 は,荷 物 運 搬 中 に 火 薬 爆 発 事 故 を起 こ し,怪 我 を した 労 働 者 に補 償 を しな か っ た の で,恨 ま れ て い た 。 磯 野 商 店 は,農 民 と労 働 者 の 共 通 の 交 渉 相 手 で あ っ た 。 農 民 の 来 る とい う連 絡 を 受 け た[小 樽 合 同]労 働 組 合 は,万 全 の 支 援 体 制 を とっ た 。 委 員 長 は 鈴 木 源 重 で,27人 の農 民 を小 樽 駅 で待 っ た。3月
3日 午 後6時,小 作 人 代 表,伴 利 八,阿 部 亀 之 助 ら27人 は,赤 い た す きを掛 け て, 小 樽 駅 に到 着 した 。 赤 旗 を もっ た 小 樽 合 同 労 働 組 合 の 約200人 の 労 組 員 が 駅 で
出迎 えた 。 鈴 木 源 重 が 挨 拶 した 。 伴 は,雪 の 上 に両 手 をつ い て,「 よ ろ し くお
27)総 同 盟 が1925年5月 に, 作 っ た 。
2つ に分 裂 し,除 名 された左 翼が 日本 労働組 合 評議会 を
願 い し ます 。」 と言 っ た。3月 で も寒 さ は厳 し く,小 樽 は連 日吹 雪 だ っ た 。 小 作 人 代 表 を先 頭 に,た だ ち に磯 野 商 店,あ る い は磯 野 宅 や28)ま た,関 係 の工 場, 店,ホ テ ル,29)商 業 会 議 所 ヘ デ モ 行 進 が 行 わ れ た。 小 樽 合 同 労 組 の組 合 長 境 一 雄 が
,指 導 者 に な っ て30),磯 野 宅 へ 押 し掛 け た 。
小 作 人 代 表 た ち は,そ れ ぞ れ 「磯 野 の 小 作 人」 と書 い た赤 ダス キ を か け て デ モ り,連 日に わ た っ て市 中 に ビ ラ を ま き,何 度 も執 よ う に磯野 商 店 へ 押 し掛 け て い っ た31)が,面 会 を 断 わ られ つ づ け た 。
磯野 商 店 は,主 人 不 在 と言 っ て と りあ わ な か っ た 。 そ して10人 以 上 の 帯 剣 警 官 に 追 い 散 ら され た。 しか し彼 らは毎 日押 し掛 け た 。磯 野 は,支 配 人 に任 せ て, 絶 対 会 わ な か っ た 。
富 良 野 か ら交 渉 団 が や って くる と,小 樽 合 同 労 組 の 事 務 室 に争 議 団本 部 が お か れ た 。 看 板 が 掲 げ られ た 。
3月4日 に は,午 後1時 に,小 作 人 一 同が 磯i野宅 を訪 問 した 。 午 後5時 に も 訪 問 した。夜,第 二 十 二 番 屋 で演 説 会 が 行 わ れ,近 藤 栄 作,伴 利 八,阿 部亀 之 助, 松 岡 二 十 世 が検 束 さ れ た 。
小 作 人 代 表 か ら伴 利 入,阿 部 亀 之 助,小 樽 合 同 の 鈴 木 源 重,武 内清,渡 辺 利 右 衛 門,日 農 北 海 道 連 合 会 の 荒 岡 庄 太 郎,重 井 鹿 次,松 岡二 十 世,山 名 正 美, そ して 境 一 雄 が 選 出 され た 。 さ ら に,官 憲 の弾 圧 に備 え て,武 内清 ら小 数 の メ ンバ ー で秘 密 の 移 動 指 導 部 が 作 られ た 。
協 同 委 員 会 の 指 導 の も と で 連 日 に わ た っ て 交 渉 を要 求 す る行 動 が 展 開 さ れ た 。 労 働 者 や 市 民 に 訴 え る ビ ラ や ポ ス タ ー が 毎 日の よ うに 配 布 さ れ,真 相 報 告 会 が 頻 繁 に 開 か れ た 。 そ して全 国 の 労 働 農 民 党 や 日農 そ して 評 議 会 の 組 織 に た い して ビ ラや 撤 が 連 日送 られ た32)。
小 樽 合 同 の 磯 野 争 議 へ の と り くみ は,た だ 単 に農 民 の 闘 い を支 援 す る と い う 28)磯 野 雄 三 郎 氏 語 る 。
29)渡 辺,220ペ ー ジ 。 30)磯 野 雄 三 郎 氏 語 る 。
31)渡 辺 。 青 木,第4巻,84ペ ー ジ 。 32)『 武 内 清 の 思 い 出 』46ペ ー ジ 。
不在 地主 磯野 小作 争議 上 ヱ7 以 上 の もの で あ っ た 。連 日の ビ ラ や ポ ス タ ー の作 成 と配 布,交 渉,演 説 会 の 開 催, 戦 術 指 導 と,闘 い の す べ て の 面 で 主 導 的 役 割 を果 た した33)。
3月5日,小 作 人 代 表 阿 部亀 之 助 が氏 名 詐 称 の か どで,争 議 団 本 部 で 検 束 さ れ た。 午 後3時,磯 野 宅 で 交 渉 中 の武 内 清 が 検 束 され,殴 打 さ れ た 。 小 樽 警 察 署 次 席 警 部 田 中 は,武 内 清 に,「 警 察 は君 等 の い う通 り資 本 家 の 走 狗 だ,そ の つ も りで 居 れ」 と放 言 した。
『小 樽 新 聞』 は書 く。 「小樽 商業会 議所 総会 は,三 月五 日午後 四時 か ら開会 した。 出 席 議 員 は 一 五 名 で あ った 。 磯 野 会 頭 は,同 氏 の 農 場 小 作 争 議 の た め 出 席 で きな くな っ た 。」34)
磯 野 に つ い て,『 小 樽 新 聞』 は,書 く。 「商 業 会 議 所 の 会 頭 で あ り,人 気 引 き 立 たぬ 磯 野 氏 な の で,こ れ こそ 屈 強 の相 手 と見 込 まれ た か,小 作 争 議 が 深 刻 に な っ て 来 て,さ す が 剛 が ん の磯 野 氏 も大 分 弱 っ た ら しい 。 当 の本 人 は,二 階へ 篭 居 して,代 理 を 出 して い る 。 … …肝 心 の 会 議 所 の 総 会 へ も出 ず,公 私 混 同 な ど も非 難 さ れ,お ま け に毎 日争 議 団 の 訪 問 に,家 族 も ろ と も太 い神 経 の 所 有 者 も,神 経 衰 弱 に な りそ う な有 様 。 先 だ っ て,護 衛 巡 査 の 来 よ うが 遅 い とか な ん とか と,巡 査 に タテ をつ い た 程 の 逆 上 だ った 。 … …」35)
磯 野 氏 は,渋 うち わ とか,カ ス ベ の 干物 とか,印 度 の 貴 族,と 言 わ れ た。
争 議 団 が 小 樽 へ や って きて3日 後 に は,は しけ 人 夫 に よ る労 働 運 動 弾 圧3立 法 に反 対 す る2時 間 の 時 限 ス トが 行 わ れ た 。 あ る い は 「労 働 組 合 法 案 」 反 対 の 総 ス トラ イ キ で,約300名 が 動 員 され た 。 ス ト参 加 の 労 働 者 に よ っ て磯 野 宅 へ の 抗 議 デ モ が 組 織 され た 。
3月6日,争 議 団 は争 議 の経 過 と実 状 を説 明 した 「市 民 に訴 う」 とい う ビ ラ を 出 し,全 市 に ま き,は し け 人 夫100人 も 「悪 徳 地 主 糾 弾 」 の ビ ラ を まい て, デ モ を した 。 農 民へ の 同情 が 広 ま りだ した 。
7日 に は,第 二 十 番 屋 で,第1回 の磯 野 争 議 真 相 発 表 演 説 会 を 開 い た が,警
33)同,47ペ ー一・ジ 。
34)昭 和 二 年 三 月 六 日 付,三 面 。 35)昭 和 二 年 三 月 八 日 。 四 面 。
官 との乱 闘 騒 ぎが 起 きた 。場 内 に私 服 …警官20余 名,制 服70余 名 をい れ,弁 士(鈴 木 源 重,近 藤 栄 作,松 岡 二 十 世,渡 辺 正 吉 ら)を 片 端 か ら中 止,検 束 した 。 大 西 喜 一 を殴 打 し,検 束 した 。 会 場 に 入 ろ う と した 新 聞記 者 に 対 して も,い ち い ち 威 嚇 的 な 身体 検 査 を お こ な っ た 。 翌8日,労 農 党 小 樽 支 部 は,「 官 憲 暴 圧 糾 弾 に 関 す る提 議 」 を行 な っ た 。 争 議 団 は,警 察 の 弾 圧 ぶ りを暴 露 した橡 を全 国 の 労 農 団 体 に送 っ て 応 援 を要 請 した 。
8日,前 日 の 大 西 を,公 務 執 行 妨 害 で 勾 留7日 と した 。 こ れ に つ い て,『 小 樽 新 聞 』 は 書 く。 「本 月 七 日,小 樽 市 稲 穂 町 上 部 火 防 番 や で の磯 野 農 場 小 作 争 議 真 相 発 表 演 説 会 にお い て,公 務 執 行 妨 害 の か どに よ り勾 留 七 日に 処 せ られ た 労 働 農 民 党 小 樽 支 部 常 任 委 員 大 西 喜 一 は,七 日の勾 留 を不 服 と して,正 式 裁 判 を仰 い だ が,裁 判 所 にお い て 七 日 の勾 留 の 至 当 な 旨 の 判 決 を言 い 渡 した の で, 同 人 は さ ら に控 訴 した 。」36)
合 同 労 組 は,参 高橋 倉 庫 従 業 員 を応 援 せ よ」 の ビ ラ を まい た。 これ は4月15 日 に争 議 が 解 決 した 。
事 態 を見 て,小 樽 警 察 署 は,8日(翌9日 とい う説 も あ る が)午 前,警 察 は, 小 作 人 代 表 と磯 野 進 地 主 側 を そ れ ぞ れ 小 樽 警 察 署 に招 き,調 停 を試 み た が,地
主 側 が 小 作 人 の 要 求 を た だ 全 面 的 に 拒 否 した だ け に終 っ た 。 詳 し くは こ うで あ る 。「磯 野 農 場 小 作 争 議 は。八 日,小 樽 署 で,小 作 人 と地 主 の立 ち合 い の もの に, 両 者 の 意 見 を 聴 取 した が,到 底 妥 結 点 を発 見 す る こ とが で きな か っ た の で,遂
に警 察 側 で は手 を引 く こ とに な っ た 。」9日 も午 後2時 よ り,磯 野 邸 で 交 渉 を 持 っ た が不 調 に 終 っ た 。 「磯 野 氏 の 代 人 で あ る 高 田米 造 氏 の 態 度 が 余 りに 冷 酷 な の を憤 慨 した 一 六 人 の小 作 人 と,会 見 立 ち合 い の た め 同伴 した小 樽 合 同 労 組 の近 藤 君,日 本 農 民 組 合 の 重 井 君 も退 席 し,交 渉 は小 作 問 題 の本 質 に入 らず に 物 別 れ と な っ た が,こ れ は代 表 者 を磯 野 氏 が 認 め ん 認 め る とい う事 と,労 働 組 合 の幹 部 立 ち合 い を拒 絶 した た め で,数 日 を費 や して い る状 態 で あ る。9日 に は富 良 野 か ら農 場 管 理 人 も来 邸 した く らい なの で,解 決 点 を見 出 す も の と思 わ
36)昭 和 二 年 三 月 一 一一日,三 面 。
不 在地 主 磯 野小 作争 議 上 19 れ た が,交 渉 決 裂 と な り,い よい よ交 渉 は 絶 望 と見 られ,警 察 方 面 も こ う観 測 し て い る 。」37)
「小 作 人 側 は,直 ち に組 合 本 部 で 協 議 会 を開 い た が,争 議 団本 部 で は,演 説 会 で の官 憲 取 締 りの 実 状,検 束 の 状 態 を詳 細 に記 した 印刷 物 を,全 道 と全 国 の 各 労 働 団 体 に 激 を 飛 ば した 。」 『小 樽 新 聞』 は続 け る。 「本 問 題 もい よ い よ全 国 的 に な っ た が,労 農 党 小 樽 支 部,評 議 会 北 海 道 聯 合 支 部,無 産 青 年 同 盟 小 樽 支 部, 統 一 同盟 小 樽 支 部 は,各 本 部 に応 援 弁 士 の 派 遣 を求 め た の で,近 く来樽 の はず
で,両 三 日中 に演 説 会 を 開 く との こ とで あ る。」38)
『小 樽 新 聞』 は な お ,書 く。 「日本農 民組合 北海 道聯合 支部長 会議 は,九 日 午 後 二 時 か ら 旭 川 ・ ・で 開 催 され た 。 出 席 者 は,北 見 を 除 く四 二 支 部 長 と常 任 委 員 な らび に本 部 員 で,常 任 委 員 山 地 岩 雄 氏 が 開 会 の挨 拶 を し,執 行 委 員 長 荒 岡庄 太 郎 氏 を議 長 に推 し,荒 哲 夫 氏 を書 記 に任 命 した 。 本 道 を代 表 し,第 五 会 全 国大 会 に 出席 した 五 名 の代 議 員 を代 表 し,松 岡 二 十 世 氏 は,前 組 合 長 杉
山 元 次 郎 氏 に 対 す る 人 心 は全 く去 り,大 会 上 で は顧 み る 者 も ない と前 提 し て, 大 会 の模 様 を 報 告 し,つ い で 各 支 部 の報 告 が あ っ て 議 事 に 入 り,労 農 党 に 関 す る件,を 付 議 し,緊 急 動 議 と して 小 樽 磯 野 農 場 争 議 に 関 す る件 を議 し,争 議 に 連 座 した小 作 人 家 族 慰 安 演 説 会 を十 一 日富 良 野 で 開 き,一 方 小 樽 労 農 党 支 部 と連 絡 を と り,小 樽 中 央 座 で 官 憲 糾 弾 演 説 会 を 開 い て 政 治 闘 争 とす る こ と に 満 場 一 致 で議 決 した。 労 農 党 に 関 す る件 以 下 三件 につ い て は,組 合 支 部 の 所 在 地 全 部 に党 支 部 を設 置 し,従 来 の 運 動 目的 が 労 働 者 と農 民 の 二 者 に 限 られ て い た か の よ う な観 が あ っ た が,全 て の 大 衆 運 動 と学 校 同盟 休 校 問 題 等 に も翼 を広 げ,そ の 内面 に つ き入 っ た 真 相 を解 剖 批 判 し,積 極 的 に進 む こ と に した 。 メ ー デ ー は五 月 一 日 を期 し,各 無 産 団体 と連 合 して 旭 川 で 挙 行 す る事 に決 定 し, 七 時 過 ぎ,非 常 な成 功 裡 に散 会 した 。」39)
37)昭 和=二 年 三 月 一 〇 日,三 面 。 38)同 。
39)昭 和 二 年 三 月 十 一 日,五 面 。
小 樽 で は,第2回,第3回 と各 所 に演 説 会 が 開催 さ れ た が,第3回 は買 収 の 手 が 回 っ て 会 場 の貸 与 を途 中 で 取 り消 さ れ,演 説 会 は解 散 させ られ た が,市 民 の 関 心 と支 持 は い よい よ強 ま っ て い っ た。。
こ の小 樽 合 同 の 熱 い 連 帯 の 闘 い を組 織 す る にあ た っ て,武 内 の 活 動 が 非 常 に 大 き な役 割 を果 た した 。 彼 は演 説 会 で 弁 士 を つ とめ る よ うな 表 立 っ た こ と は ほ とん ど な か っ た 。 武 内 は 少 しの 時 間 を見 つ け て は,連 日の よ う に港 湾 の 現 場 に 出 か け,港 湾 労 働 者 へ の オ ル グ活 動 に全 力 を あ げ た 。 こ の 彼 の 活 動 を ぬ き に し て,港 湾 労 働 者 を主 軸 とす る小 樽 合 同 の 強 力 な 連 帯 の 闘 い を見 る こ とは で き な い とい え る40)。
武 内 清 は,1902(明 治35)年,函 館 に生 まれ た 。 小 学 校 四 年 を 出 て,小 僧 と して 働 き,上 京 して 苦 学 した 。そ の 後,函 館 に帰 り働 い た 。1921(大 正10)年, 函 館 水 電(=市 電)の 車 掌 に な る が,1923年 の ス トラ イ キ の 中 心 人 物 だ と して, 解 雇 され た。 そ れ 以 降,労 働 運 動 に専 念 す る。1924(大 正13)年,函 館 合 同 労 組 や 函 館 無 産 青 年 同 盟 を組 織 した。だ が 「不 敬 罪 」に よ り,東 京 に 一 時 逃 げ た 。 1925(大 正14)年 に 函 館 に 帰 り,9月 に,結 成 され た 小 樽 総 労 働 組 合 の常 任 に な っ た 。 多 喜 二 の小 説 「転 形 期 の 人 々 」 に 出 て くる 旗 塚 は,武 内 が モ デ ル で あ る。41)
武 内 は25才 の青 年 で あ っ た が,す で に 押 し も押 され ぬ りっ ぱ な 指 導 者 と して の風 格 が あ っ た 。 冷 静 に全 局 をつ か む こ と,そ して まわ りの 人 た ちの す ぐれ た 力 を ひ きだ し,そ れ を発 揮 させ る こ とに 非 常 に長 け て い た。
磯 野 争 議 を 闘 っ て い る最 中 に,朝 日製 紙 と い う小 さ な工 場 で,労 働 時 間 の 問 題 で争 議 が お こ っ た 。 こ の 時,武 内 は,函 館 合 同労 組 か ら磯 野 争 議 の 応 援 に き て い た村 上 由 に た い して 「工 場 労 働 者 の 闘 い は,小 樽 よ り函 館 の 方 が 経 験 が あ る」 とい っ て,朝 日争 議 の指 導 を村 上 に 頼 ん だ。 そ して 「磯 野 の ま え に朝 日の 争 議 を か な らず 勝 利 させ て ほ しい 。 そ の こ とが 磯 野 の 闘 い を大 き く励 ます こ と
40)『 武 内 清 の 思 い 出』48ペ ー ジ 。 41)村 上 由 『北 海 道 労 働 運 動 もの が た り
1965年 。
私の歩 ん だ40年』 共 産党 北海 道委 員会
不在地主 一 磯野小作争議 上 21 に な る 」 と盛 ん に 強 調 して い た 。
朝 日争 議 は短 時 間 の うち に 勝 利 を お さめ た 。 そ の 時 の 武 内 は大 変 な 喜 び よ う で,勝 利 して工 場 に入 る労 働 者 の 行 進 の 先 頭 に喜 々 と して た っ て い た42)。
小 樽 の 労 働 組 合 ・民 主 団体 もつ い に 農 民 の 闘 い に 同 調 し,一 斉 に た ち あ が っ た。 まず 労 働 組 合 北 海 道 地 方 評 議 会,小 樽 合 同労 働 組 合 を 中心 に磯 野 農 場 争 議 団 を つ く り,労 働 争 議 共 同 闘 争 委 員 会 を組 織 した。 そ の 総 会 と して,3月12日 に は,全 小 樽 産 業 労 働 者 会 議 が 開 か れ,次 の よ うな 決 議 が 行 わ れ た 。
決議
今 回磯 野 進 氏 農 場 小 作 人 が 遠 路 出小 樽 小 作 料 減 免 及 び年 貢 米 の 減 額 を 嘆 願 せ る は 昨 年 度 凶作 に 見 る に 吾 等 は 何 等 不 当 な り とは 認 め る こ と を得 ず 速 や か に小 作 人 の 要 求 を 入 れ 解 決 せ ん 事 を促 す もの で あ る 若 し貴 殿 に して 解 決 の 誠 意 を示 さ ざ る 時 に は 吾 等 は 貴 殿 荷 物 の 陸 上 げ を絶 対 に 拒 否 し ス ト
ラ イ キ を決 行 し 同時 に 北 海 道 無 産 団 体 の 決 議 た る貴 殿 発 売 品 の 不 買 同盟 を決 行 す 。
右 決 議 す 。
昭和 二 年 三 月 一 二 日
全 小 樽 陸 産 業 労 働 者 会 議
磯 野 進 殿 」43)
労 働 者 の この 決 議 は さす が の磯 野 の 心 を も動 揺 させ る に い た っ た,と 青 木 は 書 く。44)
3月12日,全 小 樽 陸 産 業 労 働 者 会 議 は,磯i野 商 店 あ て の 味 噌3百 樽 の 陸 揚 げ 拒 否 の3時 間 の 時 限 ス トが 行 わ れ,磯 野 の 商 品不 買 同盟 な ど を決 議 した 。 ス ト 参 加 労 働 者 を 中 心 に3百 名 の 市 中 デ モ 行 進 が 行 わ れ た。
42)『 武 内 清 の 思 い 出 』49ペ ー ジ 。 43)『 資 料 集 』54ペ ー ジ 。
44)青 木,第4巻,85ペ ー ジ 。
重 井 敏 郎,近 藤 栄 作 を代 表 と して,交 渉 した が,磯 野 側 は組 合 代 表 を交 渉 相 手 と して 認 め な い 。 労 働 者 約50名 で磯 野 宅 に示 威 運 動 をす る。 新 聞 記 者 団 は7
日の 弾 圧 に対 して 抗 議 運 動 を開 始 し,磯 野 は 。「新 聞 の論 調 が 如 何 で あ ろ う と, 新 聞記 者 が 勝 手 に 書 くの だ」 と,放 言 した 。
『小 樽 新 聞』 は 書 く。「磯 野農場小作争議 は,労 働 農民党小樽支部 に移 され, 争 議 は い よ い よ深 刻 化 した が,日 本 農 民 組 合 北 海 道 聯 合 会 で は,協 議 の 上,十 三 日,争 議 慰 問応 援 の た め,白 米 五 俵,馬 鈴 薯,人 参,大 根 等 の兵 糧 を送 る ほ か, 慰 問 員 三 名 を派 遣 し,気 勢 を添 え る こ と に な っ た 。」45)
13日,争 議 団 は,地 主 側 と交 渉 す る 。磯 野 は組 合 幹 部 の 立 会 い を拒 否 した 。 磯 野 は,彼 の 経 営 す る工 場,店,そ の他 を官 憲 に ま も らせ,さ らに 争 議 団及 び応 援 委 員 会 を弾 圧 し よ う と した 。 そ こで 共 同 闘争 委 員 会 は3月14日 に,訴 え
「三 度 び 市 民 諸 君 に 訴 う」 の声 明 文 を 出 した 。
45)昭 和 二 年 三 月 一 二 日,一 ・面 。
これ は多喜 二伝 ⑯ であ る。本 稿 は,高 商史研 究 会の 活動 の一結 果 であ る。