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大阪造幣局の建設とオリエンタル・バンク
立 脇 和 夫
目 次 〈はじめに>
1 幕末維新期の新貨鋳造計画 皿 造幣局の建設とグラバー商会 皿 オリエンタル・バンクとの契約
]V オリエンタル・バンク大坂支店 V 新貨鋳造に関する外国人の提言 V[ 日本人職員と御雇外国人との関係 皿 外国人排斥運動の背景と結末 〈むすび〉
〈はじめに〉
幕末の開港(1859年=安政6年)とともに,日本は香港と各方面で深い係わりをもっこと となった。香港が西欧文明の日本への流入経路上に位置していたからである。日本と香港と の関係は,通貨金融関係に限ってみても,①近代的金融機関であるBANKとその訳語「銀 行」の流入,②香港造幣局の造幣機械(イギリス製)の輸入,③わが国の新通貨単位に採用 された「円」の流入,などがある。
ラ
このうち,①についてはすでに論じた。そこで:本稿では,②香港造幣局の鋳造機械を,明 ヨラ
治初年大阪に建設された造幣局との関連において検討することとし,③については,将来,
稿を改めて論じることとしたい。
なお,本稿(本文中)における年月臼の表示は西暦(太陽暦)で統一し,必要に応じて日 本暦(明治5年12月2日以前は太陰暦)をカッコ内に記した。但し,引用文ではそのままと
した。
1 幕末維新期の新貨鋳造計画 ラ
維新後,新政府が大坂川崎の地に建設した造幣局(明治元年11月着工,3年12月竣工)
は,近代的幣制の確立のみならず,近代的工業の導入に大きく貢献したが,その過程でオリ
らう
エンタル・バンク(本店ロンドン)は極めて重要な役割を演じた。新政府は,1869年8月 1日(明治2年6月24日),オリエンタル・バンクとの間に「貨幣鋳造条約」(免銀舗約定書)
ラ
を締結し,同行を通じて造幣局の建設に必要な機械設備の輸入,外国人技術者の雇入れ,、
造幣寮創業当初の経営を行なったのである。
(1)日米条約下の内外通貨交換
ラ
これより先,幕府は日米条約(1857年)に基づいて,外国貨幣たる洋銀(主としてメキ シコ銀貨)と本邦貨幣め一種である一分銀との交換比率を1対3と定めたが,これは,単に 計数貨幣の量目比較にすぎず,真の意味での対外価値の確定ではなかった。このため幕府は 開港直後,新たに洋銀に相応する二朱銀を発行し,あるいは低位の二分金を鋳造して,外国 の金銀比価と矛盾しない貨幣を流通させようとした。しかし,旧貨幣の同時流通を認めたた め,却ってわが国の貨幣制度を混乱させ,金及び一分野の海外流出をもたらす一因となった。
こうした事態を憂慮したイギリス,アメリカなど各国公使は幕府に対して貨幣制度の根本 的改革を要請した。貨幣制度の安定が実現しない限り,国際貿易の拡大も国民経済の発展も 期し難いかちである。そこで,1866年6月(慶応2年5月)欧米主要国との間に締結された
め
「改税約書」において,貨幣制度の改革が約束された。この第6条は,次のように規定さ れていた。
[改税約書]
第6条 日本と外国との條約中に外塀貨幣は日本貨幣と同種同量の割合を以て通用すへしと取極たる 無理に從ひ是迄日本運上所にて墨是寄ドルラルを以て運上を納むる時は萱分銀の量目に比較しドル ラル100枚を一分銀311箇の割合を以て請取來れり。然る庭日本政府に於て右仕來を改め総て外國の 貨幣日本の貨幣と引替る事に障りなき様にし又日本通用の貨幣を不足なき様にし交易を便利にせん 事を欲するにより日本金銀吹立所を盛大にせん事を既に決せり。然る上は日本人又は外愚人より差 出すへき総て外車金銀貨幣並地金は日本貨幣に吹替へ其諸雑費を差引其質の眞位を以て北西め定め たる場所に於て引替んとす。此庭訓を行ふ為日本と條約を取底ひし各課は其條約に書載たる貨幣通 用に関係せる箇條を改むる事緊要なれぽ右箇條を改むる様日本政府より申謁し承諾の上日本來丁卯 年11月中(西洋1868年第1月1日)より其塵置を心行へし
吹替の雑費として取立へき高の割合は向後讐方の全権協議の上定むへし
しかしながら,この約束を実行しないうちに幕府は崩壊し,明治維新を迎えることとなった。
(2)維新後の新貨鋳造計画
新政府は,その発足後間もない1868年3月18日(慶応4年2月25日),参与兼会計官判事
三岡八郎(福井藩士,後の由利公正),小原仁兵衛の両人に貨幣改鋳のことを命じて貨幣制
大阪造幣局の建設とオリエンタル・バンク 51 度の改革に乗り出した。次いで,同月30日(日本暦3月7日)福井藩士村田理右衛門,大垣 藩士久世治作(後の喜弘)にわが国の各種貨幣及び欧米各国の貨幣50余種の品位分析及びそ の れらの量目の検査を行なうことを命じた。両人はただちに国内貨幣の分析に着手する一方,
外国事務局判事寺島陶蔵(後の宗則)に外国貨幣を購求することを依頼し,寺島は兵庫県知 事伊藤博文に命じて神戸,兵庫の商人や在留外国人から買い集め,数日後外国貨幣50余種を 入手したのである。
また,政府は貨幣問題を扱う専門の部署として1868年6月(慶応4年閏4月)会計官のな かに貨幣司を置き,大坂長堀にその支署を設けた。しか し貨幣管理の方法が粗漏であったた めに幣制の素乱を招くこととなったので,「翌69年3月(明治2年2月)貨幣司を廃止して,
太政官中に造幣局を置き貨幣の鋳造を管掌せしめ,参与三岡八郎を造幣掛に,会計官判事甲 斐九郎(後の下山尚)を知事に任命した。造幣局は同年5月(日本暦4月)再び会計官所属
ξなったが,8月(同7月)会計官が廃止され,大蔵省が設置されたのに伴って同省所属と ユ う なり,名称も造幣寮と改称された(その後,明治10年1月再び造幣局と改称)。
京都二条金座中に設けられた貨幣分析所において慶長以降の新旧貨幣及び欧米各国の貨幣 を分析し,その品位量目等を比較検討した結果,わが国の貨幣は雑駁不均一であり到底欧米 の 諸国の比でないことが明らかとなった。このため,1868年4月8日(慶応4年3月16日)朝 議は貨幣改鋳を議決し,江戸時代からの鋳造機関であった金座・銀座を閉鎖することとした
の
。画一純正な貨幣を鋳造するため洋式の器械を採用することとし,三岡八郎がその任に当た ることとされた。
三岡八郎は,参与外国事務局判事五代才助(薩摩藩士,後の力闘),寺島陶蔵と協議のう ユ う え,同年6月(日本暦学4月),. キ崎在留英商グラバー(Thomas B. Glover)と契約し,当 時閉鎖中であった香港造幣局の造幣機械(ロンドンのジェームズ・ワット警察)を6万円で 購入した。これに伴い,横浜裁判所御用掛助勤上野敬介(薩摩藩士,後の景範)が香港へ派
どノ
遣された。
(3)香港造幣局の建設と閉鎖
日本政府が買入れた造幣器械は,英国が香港で建設し,数年後閉鎖されたものであった。
香港総督ロビンソン(Hercules Robinson,1859年9月〜1865年3月在任)は1860年掛初め香 港で,メキシコ銀貨と同様の銀貨及び1ドル以下の補助貨幣を鋳造し,これをまず香港・清 国に通用させ,次いでシンガポールなど東洋一・円に流通させるため,香港に造幣局の創設を 企画した。この計画は,1863年4月英本国大蔵大臣(Lords Commissioners of H. M.
Treasury)の承認を得,工事が進められた。
1866年4月に香港造幣局は操業を開始したが,それまでに要した費用は40万ドルで,維持
費は年間7万ドルを要するものと予測された。しかし,香港造幣局で製造した銀貨は,メキ
シコ銀貨に比べて銀の純量が若干少なく,模様も新奇で清国人は歓迎せず,発行後2年を経
の
過しても流通が思わしくなかった。このため香港造幣局の操業度は低く,1866年5月から 1868年2月までの鋳造益はわずか2万ドルにすぎなかった。
こうした情況下,ロビンソンの後任総督リチャード(Sir Richard)は香港造幣局の処分を 英本国大蔵大臣に上申し,1868年2月その処理を一任された。総督は造幣局の処分について 審議するため,行政審議会(Executive Council)を招集し,オリエンタル・バンクをはじめ 香港の全銀行責任者(第1表参照)にも出席を求めた。総督は,造幣局を民間銀行に売却し 民間銀行が香港政庁の監督の下に造幣事業を継続することを望んでいた。しかし,総督の期
待に反して,この案を受け入れる銀行は皆無であった。
このため香港造幣局は1868年6月に閉鎖され,造幣機械は6万ドル(1ドル=約1円)で日 本政府へ売却されたのである。そして,建物と土地はジャーディン・マセソン商会(Jardine,
Matheson&Co.)が6万5000ドルで買い取り,精糖工場とした。この結果,香港政庁はすで ヨ に50万ドルを投入した造幣局を処分して,わずかに12万5000ドルを回収したにとどまった。
(第1表)
香港所在銀行(1868年当時)
銀行名(カッコ内は漢文名) 責 任 者
Chartered Bank of India, A旦stralia and China(渣打銀行) Wm, Kaye, manager
Chartered Mercantile Bank of India,London and Ch量na(新銀行) W.Jackson, manager
Comptoir d Escompte de Paris(佛蘭西銀行) E.Delbanco, acting manager Hongkong and Shanghai Banking Corかoration(香港上海銀行) Victor Kresser, chief manager
Oriental Bank Corporation(金宝銀行) James Berwick, acting manager
(注) 香港上海銀行 (本店香港)を除ぎ,いずれも支店である。
(典拠) The Chronicle ahd Directory for China, Japan&the PhilipPines for the year 1868, The Daily Press office, Hongkong,1868.
皿 造幣局の建設とグラバー商会
(1)造幣局の敷地と建設工事
わが国造幣局(造幣工場)の建設地について,在日外交団は横浜近辺を希望していた。即 ち,フランス,イタリア,アメリカ,オランダ,プロイセン各国公使等は,1868年5月25日
(慶応4年閏4月4日),連名で外国事務総裁東久世中将等へ書を呈し,その中で次のよう
に要請した。
大阪造幣局の建設とオリエンタル・バンク 、 53 日本政府ニテ鋳貨局ヲ江戸ヨリ大坂二移サルベキ目論見アルヲ公書ヨリ知りタレバ下名ノ号外国事
こママ ママ
務総裁二実測ン事ヲ願フハ下命ノ者ノ推量ニヨレバ準準置ハ外国商買ノ利益二甚害アルベシ,出戸 上局ノ転移ノ如キ内国政務二関係スルヲ欲セザルトモ下名ノ者共商買取引便利ノ為横浜近辺二日本貨 幣常々充分ノ準備アルベキヲ条約船脚基キ望ムノ理ヲ有ス,且右二掲ル商買ノ便利ヲ恐ラク妨グベキ 24[
庭置戸条約面二反スルモノトシ関ルベキ筋ナルベシ(句読点引用者)
しかし,造幣局の建設地は,1868年秋(慶応4年8月)に至って,「大坂川崎」の地に決
ら
定された。その理由は,「当時,東京は未だ公然帝都とならず寧ろ大坂こそ新政府の所在地 とならんとする形勢」にあったからである。当時,大久保利通からは大坂遷都の議が提出さ れていた(慶応4年1月23日提出)。
また,大坂に嘗てr川崎」の地を選んだのは,「難波,中之島等の諸地を検したれども容 易匠決せず。會々上野敬輔香港より書を寄せて最も水利の便ある所を選ぶべしと勧告するあ ハ り。因て淀川の水流が初めて大坂の市街を洗はんとする所ありし川崎の地」に決定し,1868年 末(明治元年11月)建築工事に着工したのである。
その後,前島密の江戸遷都論(慶応4年3月10日提出)が優勢となり,1868年9月3日(慶 トウケイ
応4年7月17日)江戸は,「東京」と改称され,翌年4月5日(明治2年2月24日)には太 政官が東京へ移され,京都における政府機関は皆無となった。こうして東京が完全に帝都に なったとき,大坂の造幣局の建設工事はすでに本格化しており,建設地を東京へ変更するこ
とは事実上困難だったのである。東京の金銀座も1869年3月(明治2年2月置には廃止され
シ てしまった。
さて,香港で買付けた造幣機械及び建築材料は,1868年10月央(慶応4年8月末)大坂港 う に到着し,12月下旬に据付けを開始した。たまたま香港でこれらの機械を取り扱い,荷造り を行なったイギリス人プレチエット(J.Pritchet),ボイド(Boyd)が同じ便船で来日したた め,グラバーの推薦により,政府は彼らを雇い入れ,機械の荷ほどき及び据付けを行なわせ
た。また,当時において,大規模な洋風建築は,日本人の技術では困難であったので,同年11 月(明治元年9月),グラバーの推薦により,長崎にいたイギリス人建築技師ウォートルス
ヨリ ヨ
(Thomas J. Waters)を雇い入れ,工事の設計と監督を一任した。彼は,他の多くの外国人 技師とは異なり,日本政府(貨幣司,後に造幣局)の直雇いであり,貨幣司知事長岡右京と ヨヨラ
の間で契約が結ばれた。ウォートルスは雇入れ当時37〜38才であったが,資性温良で大建築 の経験もあり,材料の入手難と言葉の障害を克服して任務を全うした。
造幣局(明治2年7月造幣寮を改称)の起工後1年を経た1869年12月6日(明治2年ll月 4日)夕刻,建設現場から出火し,不幸にも造幣寮並びに土木司,鉱山司の仮三局その外土 蔵1か所,諸職人小屋等を焼失し,機械の大半が灰儘に帰して譲った。また,鋳造場に用い
るためイギリスへ発注していて鉄柱48本が輸送途上,南支那海で難波沈没したことが,翌70
年1月初旬(明治2年12月初旬)に香港から伝えられた。度重なる不幸により,政府は工事
を一時中断し,1月下旬ウォートルスを香港へ派遣して旧香港造幣局の使用していた鉄柱を 1万4000元(当時1元=約1円)で購入させた。イギリスへ注文するのに比べて,納期が大 幅に短縮できる点を考慮したためである。これらの資材は,70年4月(明治3年3月)大坂 ヨの に到着し,工事は再開された。
造幣寮では火災で焼失した機械設備の発注見積もりを急ぎ,1869年10月20日(明治2年9 月16日)オリエンタル・バンクを通じて,貨幣鋳造機i械など18点(代価約2万500ドル)を イギリス今,硫酸製造設備など2点(代価5万7000ドル)をアメリカへ発注することとし,
おユ
見積りが在神奈川外務大引を通じて大隈四位へ提出された。これら機械設備等は翌70年3月
(明治3年2月)に発注され,貨幣鋳造機i械は同年8月(日本暦7月),硫酸製造設備は1871年 ヨ 1月(明治3年11月)に大坂へ到着した。
その後工事は順調に進捗し,1870年9月(明治3年8月)には,金銀貨幣鋳造場,機械場,
細工場などの諸建築をほぼ完成し,翌10月初め(日本暦9月初旬)には機械の装置も概ね完
ヨア
了した。そして,同年11月7日(日本暦10月14日)から銀貨の試鋳を,翌71年1月17日(明 治3年11月27日)から銀貨の本格的鋳造を行ない,創業式までに53万1,939.2円を製造した
。そして,同年4月4日(明治4年2月15日)には右大臣三条実美以下政府要人,各国公使
など内外の貴賓多数を招いて,造幣寮創業式典が盛大に挙行された。
(2)創業式の挙行
式典の模様を「大蔵省沿革志」は次のように伝えている。
開業儀式
本日巳牌半刻(明治4年2月15日午前11時=引用老),右大臣三条実美及ヒ諸官員,各外国公使等 月刊ノ西門ヨリ入り,儀場二会シ,午牌国旗ヲ掲ケ,右大臣告文ヲ朗諦シ,大坂城二於テ祝砲ヲ発ス。
右大臣親カラ機関ヲ運転シ,而シテ造幣ノ工業ヲ巡覧ス。儀式全ク畢リ,秤量局二於テ酒撰ヲ饗シ,
外国公使祝辞ヲ呈ス。更二応接場一結来シ,煙火技ヲ観ル。亥牌夕冷散ス。本日各官省ノ長官,次官 総テ窄袖狭袴ヲ披用シテ参場ス。別号iヲ賜ヒ,本省各司ノ判任官冬田シテ本地二在ル者モ亦タ之ヲ賜
フ191
この式典には,日本に滞在していたオリエンタル・バンク監査役カーゲル(William W.
コ
Cargi11)も招待され,出席した。式典後,大隈参議はカーゲルと会談し,新貨幣制度につい ぐの
て意見を交換した。
次に創業式当日の右大臣の告文を掲げる。
今般我政府二於テ漸次増益スル国用二供補シ且外国貿易ヲ盛大ナラシメンコトヲ欲シ,弘ク各国ノ
大阪造幣局の建設≧オリエンタル・バンク 55 オりエンタル コパンク 通貨ノ制ヲ勘酌シ新二純正ノ貨幣ヲ製作センカ為一昨年来造幣寮建築ノエヲ起シ,東洋銀行,キン ド・レ氏並ウヲートルス氏ノ尽力二依リ其工正二落成月回リシニヨリ今藪二各国公使其他諸 君ノ親臨ヲ得ルハ我政府ニオイテ深ク満悦スル所也,是レ乃後来貿易盛大ノ便ヲ資クルノ 確証ニシテ永ク我臣民ト各国臣民ト其懇親ヲ篤センコトヲ希望スル所也,因テ恭ク此詞ヲ 42)
述へ以テ権貴臨ノ添ヲ謝ス
この告文から,、政府が造幣寮にいかに大きな期待を寄せていたかがうかがわれる。また,
るヨ 造幣寮の創設に当って,オリエンタル・・バンク,造幣首長キンドル(Thomas W. Kinder),
建築技師ウォートルスの功績が高く評価されている点も注目される。
(3)本格操業の開始
創業式を終了した造幣寮では,ただちに本格操業へ移行し,この年6月27日(日本暦5月10 ぐの 日)に公布予定の「新貨条例」(明治4年太政官布告第267号)に則して二十円,十円,五円,
二円及び一円の6種Q本位金貨幣並びに五十銭二十銭十銭及び五銭の4種の定位銀貨幣 のほか,貿易銀として用いられるべき一円銀貨幣の製造に着手した。「新貨条例」の草案は るヨ この年の初め(明治4年1月)にすでに策定されていたからである。
また,この年6月27日「新貨条例」と同時に「造幣規則」(明治4年太政官布告第268号)
が公布され金銀地金の受入手続,鋳造手数料などの細目が決定された。同規則はオリエンタ ル・バンクの役割を次のように規定していた。
〔造幣規則〕 (抄)
第8条 造幣寮二七テ造幣ノ為メ金或ハ銀地金釧は金銀貨幣請取済ノ上山鋳造手数料ヲ引去リ,第4 条二照準シテ本位金貨又バー円銀ヲ以テ其受取リシ日ヨリ三十日間二尊フベキ令状ヲ渡スベシ 国辱令状ノ高彫日本人ハ大阪ニアル御用為替座,外国人ハ同所ナル日本政府ノ外国為替方オリエ ンタル・バンク社中ニテ本文日限中二払ヒ渡スベシ
第13条 一分銀ハ2000オンス」トロイ」凡16貫560匁,墨西舟ドルラル」ハ100オンス」トロイ」凡828匁 以上ノ高ナラバ再鋳ノ為メ各開港場ニヲイテコレラ受取ルベシ(以下略)
第14条 右受取方神戸横浜ニチハ日本人所持ノ分ハ御用為替座,外国人ハ外国為替方ナリエンタル・
バンク社中二於テ取扱ヒ,長崎,箱館,新潟ハ日本人外国人共,同所運上所二三テ取扱フベシ(句 46}
読点引用者)
このように,オリエンタル・バンクは外国人が改鋳のために持ち込む一分銀及び墨銀の受 入れ窓口の役割を果たしていたのである。オリエンタル・バンクは,1883年(明治16年)5
る
月,太政官布達第15号を以って「造幣規則」が改正されるまで,この役割を果たした。
皿 オリエンタル・バンクとの契約
(1)オリエンタル・バンクとの契約
わが国において,当時洋式機械による造幣技術は皆無であったので政府は欧州から技師・
職工を樽町するため,オリエンタル・バンクとの間に次の諸条約を契結した。
①1869年8,月1日(明治2年6月24日),伊達外国官知事,大隈会計官副知事がオリエ るの
ンタル・バンクとの間に締結した「貨幣鋳造条約書」(免銀舗約定書)
②同年11月4日(日本暦10月1日),寺島外務大輔,郷大蔵少丞がイギリ:ス公使,オリ ラ エンタル・バンク横浜支店長との間に調印した「造幣職工を造幣寮に雇用する約款」
③同月29日(日本暦10月26日),伊藤大蔵少輔がオリエンタル・バンク横浜支店長との らゆ
間に調印した「造幣士官を造幣寮に雇用する約款」
カミそれである。「貨幣鋳造条約」は,造幣寮の運営に関して,日本政府とオリエンタル・バ ンクとの間で締結した基本契約とも称すべきもので,次にみるように,外国人職員の任免,
貨幣の鋳造・搬出,日本政府の負担すべき手数料及び支店建造などについて規定していた。
[貨幣鋳造条約]
第1 日本政府にて金銀座に使用する外国人を雇入る事を治定せり
第2 右外国人の所為を管轄する為め日本政府にてバンクに命じ右外国人の工業を監察せしめ且日本 政府に対し其者等を引受べきエゼントに任ずることを希望す
第3 バンクにて右外国人の職を免じ且要用なる時は他の外国人を其職に命ずる権あるべし 第4 バンク及び其配下に傭はれたる外国人に報知なく金銀座より貨幣を出し又は鋳造すべからず 第5 若し外に枝葉の金銀座を開く時はバンクにて右同様其外国人をも管轄すべし
第6 約定期限は3箇年なれども政府の都合により4,5年置続く事あるべし且バンクに渡すべき金 高割合左の如し噛
1箇年の払方
初年目 2万5000ドルラル 2年目 2万ドルラル 3年目 1万5000ドルラル 約定若シ連続スル事アラバ 4年目 1万ドルラル 5年目 同
外に鋳造する貨幣高千分の一を世話料として払ふべし,バンクの為に外国人居住地内に日本政府の出 費にて相当の建物を造営すべし,バンクより右出費の一割を家租として納め其修覆内部はバンクにて 引請くべし,但外部の修覆は日本政府の引受たるべき事
第7 此約定書は洋暦1870年2月1日則我明治3庚午年正月朔日より取行ふべし
大阪造幣局の建設とオリエンタル・バンク 明治2巳年6月24日
」.Robertson(signed)
Oriental Bank Corporation 外国官知事
伊達中納言 会計官副知事 大隈四位
57
「貨幣鋳造条約」に続いて締結された二つの約款は,いわば付属協定である。すなわち1869 年11月4日付約款は,外郎人職工の雇用人数(4〜5人),給与(月額合計2500ドル),赴任 旅費,解雇予告;期間等を規定していた。一方,同月29日付約款は,外国人士官(foreign staff of officers)等の任免及び給与支払がオリエンタル・バンクによって行なわれること,
日:本政府はオリエンタル・バンクへ物的保証(amaterial guarantee)として6万ドルを預託 すること,オリエンタルワミンクへの支払は年2回とすること,外国人職員に係る苦情はオ
リエンタル・バンクへ申し出ること,などを規定していた。
これらの条約及び約款を総合すると,造幣寮の外国人職員の任免,給与支払,紛争処理等 にはすべてオリエンタル・バンクが当たり,日本政府はオルエンタル・バンクを通じて間接 的に係わりをもつのみであった。また,外国人職員はすべて外国人長官(造幣首長)の輩下 におかれ,彼らに対する命令は,すべて外国人長官を通して行なわれる仕組みとなっていた。
つまり,外国人職員は,若干の例外を除いて日本政府の直接雇入れではなく,オリエンタル ら
・バンクの雇入れであった。
(2)造幣首長キンドルなど外国人の雇入れ
オリエンタル・バンクは,1870年2月23日(明治3年1月23日),試験分析方ツーキー
(Charles Tookey)と雇用契約を結んだのに続いて,同年3月3日(日本暦2月2日)元香 港造幣局長キンドル(Thomas W.:Kinder)と雇用契約を締結した。キンドルがオリエンタ ル・バンクとの間に締結した契約書には次のような待遇が約束されていた。
1 オリエンタル・バンクはキンドルを日木政府造幣寮の首長(manager)に任命すること 2 雇用期間は日本到着後3ヶ年間とし,以後6ヶ月前の予告で解雇しうること
3 給与は毎月1,045ドル(但し,日本通貨による)がオリエンタル・バンクにより支払われること 4 イギリスから大阪までの一等航海運賃がオリエンタル・バンクにより支払われること
5 航海中の給与は1ヶ月522ドル半とし,前金でまたは到着後オリエンタル・・ミンクにより支払わ れること
6 3年の雇用期間満了前に解雇するときは,支給済分も含め4年間の給与が支払われること
7 3年の雇用期間満了後,キンドルが辞任を申出たときは,1ヵ年分の給与が養老支給金として支 払われること
8 帰国時には赴任時と同様に一等航海運賃及び航海中は1ヶ月522ドル半の給与が支給されること 9 キンドルの在日中には,オリエンタル・バンクの在日支店長と同等の「最上壮麗」な住家が提供 されること
10 願い出た場合には,東洋に駐留するイギリス政府職員と同等の休暇が与えられること
他方その任務について,次のように規定していた。
1 キンドルは最善の努力を払って造幣寮の首長の任務を果たし,貨幣鋳造の体制を整備し,とくに 彼の最善の判断によって造幣寮内の各部局を管理すること
2 貨幣,地金等を受渡しするときは,必ず伝票及び受領証を授受すること
3 貨幣鋳造はもとより,キンドルの管轄事項に関して,日本人長官が公告する際には,事前にキン ドルに呈示すること
4 オリエンタル・バンクとキンドルとの間に紛議が生じた場合には,在日公使パークス(Sir
らヨ ら
Harry S. Parkes)又嫉その後任の裁断を仰ぐものとすること
日本政府とオリエンタル・バンクとの間に締結された諸条約に基づいて,1870年(明治3 年)中に,同行はツーキー,キンドルのほか,金銀溶解師アトキソ(E.Atkin),極印彫刻 方シャード(H:.Sheard),機械方マンチニ(N. Mancini),同レサイド(T. Reside),同プ ららシ リチェット(J.Pritchet),計7名を採用し,建築及び機械の据付け工事を行なわせた。一 方,建築工事は1870年中に大体完了したので,同年末(明治3年11月)に建築技師ウォート
ら ラ ルスは解雇された。
1871年4月4日(明治4年2月15日),造幣寮の創業式挙行当時における御雇外国人は7 名を数えていたが,この年試験方マッグンジー(Makengie),首長付書記ウィーラー(H.
Wheeler),極印局長ワイオン(E. Wyon)がナリエンタル・パンクにより,また,計算方ブ ラガ(V.E. Braga)及び同助役スウェービー(Lowis Swaby)が直接日本政府により,雇用 された。日本政府がブラが等を直雇としたのは,会計事務だけは日本人の所管とし,この部 らの 門に対するオリエンタル・パンクの干渉を排除しようとするものであった。
次いで1872年(明治5年)蒸汽船運貨丸の船長アトキンソン(G.Atkinso11),同器械方ホー ノレ(w.Ha11),試験邦銀方ハンター(G. W・H:unter),硫酸製造局小頭フィンチ(R Finch)・
化学兼治金師ガウランド(W.Go回and),機械局長マクラガン(R. Macklagan),医師エル メリンス(Ermerins)がオリエンタル・バンクにより,また銅計算方シー・ブラガ(C.」.
Braga)が日本政府によって雇用された。他方,この年10月 (日本暦9月),機i鴨方プリチェ
ットぼ,品行不良(酒乱)のため解雇された。
大阪造幣局の建設とオリエンタル・バンク 59 さらに,1873年(明治6年)には,機械方バケット(T.Hackett),試験分析方ディロン
(E.D. Dillon),極印局副長ハウレット(T. Houlet),機i械方R.スミス(Robert Smith),
秤量兼修覆i師W.スミス(William Smith),及び医師レニッキ(Renwick)がオリエンタル・
バンクによって雇用された。他方,この年,試験分析方ツーキーが解雇され,ディロンがこ
ら う の後を引き継いだ。
(3)創業時の造幣寮の陣容
創業当時,造幣寮は56,000坪の広大な敷地をもつ世界最大規模のものであった。貨幣鋳 造各工場は造幣寮(事務所)早耳…に建てられ(明治4年10月竣工),金鎗解用コークス炉6 基,銀甲解用コークス炉12基,圧延機8台,圧穿機i5台,圧下機i 2台,圧印機8台,自動秤 ら ラ 量機2台等が配置されていた。動力としては,往復動の蒸気機関が用いられた。
金銀貨幣鋳造場では,アトキン,マンチニ,W.スミス,ワイオン,プリチェットらがそ れぞれ溶解,圧延及び圧穿,秤量,野生,圧印等の作業を指導した。貨幣極印の製造は彫極 所で行なわれ,加納夏雄,益田友雄のほか熱処理にシャードが配属されていた。貨幣の製造 能力は当初予定の十倍にも達し,1871年9月15日(明治4年8月1日)以降1か年間の製造 高は1,550万3,978枚,金額にして2017万8666円で,日本人職員は機械力の偉大さに驚嘆し う
たといわれる。
金銀地金の精製は,精製分析所(明治4年7月竣工)で硫酸分離法をもって行なわれ,
ぞうへいのすけ
造幣助久世喜弘が独力でこれを行なったといわれる。金銀地金や貨幣の分析は鋳造工場内 に設けられた試金室でツーキーの指導によって行ない,その他の卑金属や諸材料の分析は 1872年(明治5年)末から化学及び冶金試験室で行なわれ,ガウランドが指導した。精製,
分析及び貨幣円形の予洗には多量の硫酸を必要としたので,これを自給するため1872年5月
(明治5年4月)に雇い入れたフィンチによって硫酸製造作業を開始し,また溶解用コーク スも窯を築いて(明治4年4月)これを自製自給し,同時に石炭ガスをも製造して主として ユ
工場,街路及び外国人官舎の照明に用いた。機関室にはレサイドがいた。
事務面では,地金局に計算方E・ブラが同助役スウェービーらがいて,わが国で初めて複 式簿記を採…回して貸借関係を明らかにし,証拠書類及び日計表等によって,計算の確実を期
した。
この他,1871年春(明治4年2月)造幣寮と堂島新船町との間に馬車鉄道を設け,同年央
(明治4年4月中川口電信局との間に電信線を架設して公私電報の取扱いを始めた。さらに,
翌1872年4月(明治5年3月)には蒸汽船「運貨丸」を購入して,川口と神戸のオリエンタ
ル・パンクとの間の貨幣及び地金の運送を行なうなど,創業当時の造幣寮は,西洋文明の粋
を集めた,最先端工場であった。
(第2表)
造幣寮関係御雇外国人
氏 名 職 名 国 籍 年令 月 給 雇 入 解 雇
John Pritchetプリチェット 機械方極印局小頭 イギリス 30 $250 1868.10.一 1872.10.一
Boydボイド
〃一 $300
〃1870.2.一
Thomas Watersウ小一トルス 建 築 技 師 〃 一 $650 1868.11.1 1870.12.一 Charless Tookeyツーキー 試 験 分 析 方
〃 42 $500 1870.2.23 1873.4.29 Thomas William Kinderキンドル 造 幣 首 長 〃 58 $1,645 1870.3.3 1875.1.31
58 $1,645 1870.3.3 1875.1.31
E.Atkinアトキン 金 銀 鎗 解 師
〃27 $300 1870.4.28
〃Henry Sheardシヤード 極 印 彫 刻 方
〃33 $250 〃 〃
Napoleun Manciniマンチニ 伸金局助役兼機械方 イタリア 40 $200 盾Q50
〃
1877.3.30
T.Resideレサイド 機 械 局 小 頭 イギリス 一 一 1870.7.28 『
V.E. Bragaブラガ 地金局計算方 ポルトガル 36 茎200
s300
1871.8.1
@ 一
1875.3.13
単akengieマ・ケ〃一 試 験 方 イギリス 一 一 1871.11.一 1872.3.一 Lowis Swabyスウェビー 計 算 方 助 役
〃27 X250 1871.11.14 1875.1.31
Herbert Wheelerウイーラー 首 長 付 書 記
〃 23$150 1871.12.12
〃$200
Edward Wyonワイオン 極 印 局 長 〃 28 $250 1872.1.8
〃
George Atkinsonアトキンソン 運 貨 丸 船 長
〃一 $300 1872.3.9
〃William Hallホール 運貨:丸機械方
〃一 $180 1872.3.13 一
L
G.W. Hunterハンター 試験鋳暁方,試験日解同試験方
〃32』 $300 1872.3.25 1875.1.31
Roland Finchブインチ 硫酸製造所小頭
〃30 $250 1872.5.14
〃C.J. Bragaブラガ 銅 計 算 方 ポルトガル 35 ¥100
揩Q00
1872.8.21 1875.1.11
Ermerinsエルメリンス 医 師 オランダ 30 馨70 1872.8.一 1874.2.一 William Gowlandガウランド ・化学兼冶金師試験分析方 イギリス 51 $320
揩U30
1872.11.8 1888.10.31
Robert Macklaganマクラガン 機 械 局 長 〃 50 $250
s400
1872.12.1 1889.1.31
T.Hackettバケット 機械方伸銅課長
〃50・ $200 1873.2.一 1874.3.21
E.D. Dillonディ・ン 試験分析方鋸解局長
〃28 X400
s600
1873.3.29 1878.1.31
Thomas Houletハウレット 極 印 局 副 長
〃37 $120
盾Q50
1873.5.5
〃Robert Smithスミス 機械方兼伸銅小頭
〃31 X200 1873.1.17 1875.1.31
(三盛貨:丸乗組員)
William Smithスミス 秤量局秤:量兼修旧師 〃 一 一 1873.12.1 1874.7.29
Renwickレニッキ 医 師
〃26 茎70 1874.3.一 1875.2.28
T.W. Markamマルカム 書記方 日進学社教師
〃40 冥150 1875.9.1 1877.8.31
M.Mannaマンナ 月 雇 一
〃一 一 一 一
Scotchスコッチ 機 械 方
〃23. $150 一 一
(備考) 1.年令は解雇時におけるものである。
2.月給が雇傭期間中に変更されたものはその当初のものと変更後のものと併記した。
3.雇入年月Bは最初の雇入年月日を示した。
(出典) r造幣局百年史』79ページ。但し,配例を雇入順に組み替え,雇入・解雇日付をr造幣局六
十年史』等により一部訂正した。
大阪造幣局の建設とオリエンタル・バンク W オリエンタル・バンク大坂支店
61
オリエンタル・バンクは造幣寮関係の業務を行なうたあ,1870年2月頃(明治3年1月頃)
に大坂川口居留地に支店を開設した。同行は1864年(元治元年)に横浜支店を開設しており,
大坂支店は日本における第2号店であった。しかし大坂支店は「貨幣鋳造条約」に基づいて,
日本政府から支店用建物を提供され,主として日本政府と㊧契約に定められた業務を行なう もので横浜支店やその後開設された神戸支店(1870年9月開設)とは性格を異にしていた。
(1)オリエンタル・バンク大坂支店の性格
「貨幣鋳造条約」(1869年8月1日締結)第6条は「バンクの為に外国人居留地内に日本 政府の出費にて相当の建物を造営すべし」と規定していた。但し,「バンクより右出費の1 割を年租として納め」ることとされており,全くの無償ではなかった。
オリエンタル・バンク大坂支店の開設時期を明示する史料はない。しかし「貨幣鋳造条約」
が1870年2月1日(明治3年1月1日)に発効しており,同年2月23日(日本暦1月23日)
からオリエンタル・バンクによる外国人の雇用が始まっていることを考慮すると支店開設 は1870年2月頃と推定される。因みに,1869年7月28日(明治2年6月20日)付「大隈四位 ヨリ寺島四位への書簡」には,オリエンタル・バンクの建物について,「洋暦来年(1870年)
らし
2月1日迄ニハ成功ノ几見込ニ十方中共藤橋掲物申候二付……」と述べられている。
ゆ タテ
支店の所在地は大坂川口居留地の税関敷地内であった。そして,支店用建物は「半幅ブー ト,横八十ブート」の土地に12,000ドルを投じて建設され(建坪不詳),オリエンタル・パ ア
ンクに貸与されたのである。この建物の建築に当って,オリエンタル・バンクは,その基礎 工事,内外装,建材,工法等について,詳細な注文をつけている。いま,次にその一端を紹 介しよう。
○基礎ノ事溝之深サバ十分深ク広サハ2ブート8インチニ堀リ能ク掲固メ碑石ヲ4インチ丈敷キ更 二掲固ムルナリ……○外面ノ壁床迄ノ慮ハ伊豆産ノ斑石1ブート4インチノ厚サノモノヲ用ヒ部屋々 々ノ壁ノ下ハ8インチノ広サノ石ニテ積ミ漆喰ニテ能ク其接間ヲ接著セシム……○前面ノ塀ハ8イン チノ厚サニシテ外ノ庭ノ通り石ニテ造ルヘシ ○石段パグラナイトミカゲ石ノ類石ニテ造ルヘシ
○暖炉ハ房州ノマダラ石ヲ以テ漆喰ニテ積ムヘシ……○橡側ノ床ヨリ上ハ瓦ヲ隅違二塁リ石壁ノ如ク
ニ塗ルヘシ……○床板憶想キ松板パインノ広サ8インチヨリ広カラス厚サ1寸ノモノニテ溝ヲ造り舌
ヲ以テ接合高張ルナリ ○屋根ハ日本風二造ルヘシ乍去堅キ木叩テ張り屋根板ハ2インチヨリ広カ
ラサルモノヲ用フ,瓦ハ極上ノ品ヲ用ヒ尾根棟ト誌上ハ漆喰ヲ塗り固メ棟ノ下裾ノ上ハ2尺丈漆喰ヲ
塗ルナリ ○書院三都テノ部屋々々ハ三回ツ玉塗リ良ク仕上クヘシ ○窓及戸ノ骨組ハ節ノナキ
良材ヲ以テ造り戸ハ堅木ノ閾ヲ持ツ ○番頭ノ役所ニハ大ナル算用台ヲ設ク其大サバ長12ブート
幅3ブート半ニシテ槻ノ2インチ板ニテ造ルヘシ……〇二箇所ノ役所ノ間二三サキ戸一箇所ヲ装置ス
0浴室三箇所ニハ水落シノ管ヲ付ケタル水桶アリ1インチノ厚サノ三田テ2ブート半弓羽目ヲ張ルナ リ ○雲隠二箇所川里ニテ塗り要用ノ品ヲ備へ槻ノ座ヲ設ク ○家内ハ都テ假漆等ニテ塗り飾り 68} 又窓戸縁側等も然リ ○前面ノ垣ハ緑色二三返ツX塗ルナリ(以下略)
The Japan Directoryをみると,オリエンタル・バンク大坂支店が掲載されているのは 1872年版〜1876年版であり,支店長はC.S. Steuart(但し,1875年版のみC. S. Clande)と記
ラ されている。
明治末期に造幣局長の任にあった長谷川為治は,r世外候維新財政談』のなかで,当時の オリエンタル・バンク大坂支店について次のように語っている。
鉄道馬車なら,この川口です。川口にオリエンタル・バンク出張所というものを造りました。それが 9矢張り造幣寮で建てたのです。オリエンタル・バンクからの申立てに依って,やったものとみえる。
さう必要でもなかった様ですが,併し彼処へ支店を結えたのです。それに交通の便を開くというので,
フの 馬車鉄道を架けた。
(2)大坂支店の業務
オリエンタル・バンク大坂支店の業務は主として次の3項目に関するものであった。
①1869年11月29日半政府とオリエンタル・パンクの間に締結された「造幣士官を造幣 寮に雇用する約款」に基づいて,日本政府から保証金6万ドルを受け入れ,保管する アリ こ、と,及び日本政府から所要資金を受け入れ,御雇外国人へ給与を支払うこと。
②オリエンタル・バンクがキンドルをはじめ外国人と締結した雇用条約に基づいて御 雇外国人に対して赴帰任旅費,航海中の給与,退職付加金等を支払うこと。
③「造幣規則」(明治4年太政官布告第268号)第8条に基づいて,造幣のため金銀地 金または金銀貨幣を造幣寮へ引き渡した外国人に対して,30日以内に本位金貨又は一 ア ラ
円銀貨を支払うべき令状を発行すること。
以上のほか,御雇外国人からの預金受入れや本国送金の取扱い,あるいは居留地商人との 預金取引なども当然行なわれたものと考えられる。しかしながら,明治初期における大阪の 貿易は予想に反して振るわなかったので,輸出入為替取引はほとんどなかったようである。
「貨幣鋳造条約」が1875年(明治8年)1月31日を以て失効し,オリエンタル・バンク雇 入れの外国人はすべて解雇された(一部,日本政府が再雇用)ため,オリエンタル・バンク 大阪支店は存立基盤を失い,閉鎖された。閉鎖月日を明示する史料はないが,・オリエンタル
・バンク大阪支店の使用していた建物及び敷地が,同年3月1日前その管理者である造幣局 ヨラ
から所有者である神阪税関へ返却された事実が,税関関係史料に記されている。
過日貴寮ヨリ御掛合相成候大阪川口東洋銀行建物三関へ引渡之儀今日漸ク本寮ヨリ指令有之候二三来
大阪造幣局の建設とオリエンタル・バンク 63 月1日右請取方致度貴寮二於テ御差聞無之候哉此段前以及御打合候也
8年2月27日
石 丸 造 幣 権 頭 殿
引渡 目録
富島町82番地 但坪数其他図面之通 右 地 面 内
1.煉化石建家並附属日本建家共 但建家内金庫鉄戸付
1.右 図 面 右回通引渡候也
明治8年3月1日 , 神阪税関長
長岡租税権助代理
植村租税大属殿
神阪税関長長岡租税権助代理 植 村 租 税 大 属
壱 ケ 所
壱 ケ 所 壱 枚
造幣権頭 石 丸 安 世
上記の史料から,オリエンタル・バンク大阪支店は1875年(明治8年)2月に閉鎖された ものと推定される。
V 新貨鋳造に関する外国人の提言
オリエンタル・バンクは香港の造幣器械買付では長崎の英商クラバーに遅れをとったもの の,1868年9月(慶応4年7月),イギリス公使パークスの紹介で50万ドルの借款(年利15
アる
%,期間1か年)を供与して以来,維新政府の信認を得るところとなり,政府の通貨・金 融政策の策定に次第に関与することとなる。
(1)貨幣改鋳の議
ら
政府は,1868年4月8日(慶応4年3月16日)貨幣改鋳を議決し,続いて同年5月30日(日
本暦閏4月9日),外国事務局輔兼神奈川裁判所総督東久世通禧ら連名で在日各国公使に次
の書簡を送り,コメントを求めた。新貨鋳造は「改旧約書」第6条の実行を意味したからで
ある。ただし,この書簡に対して各国公使がただちに反応した形跡はない。
貨幣製鋳ノ事
以書翰致啓上候然ハ我国貨幣製造ノタメ新二製造所ヲ取直,旧法ヲ棄西洋ノ器械ヲ以テ製造イタシ候 ハX,必ス我国ノ貨幣充実ハ勿論洋銀ノ両替モ容易ニシテ貿易隆盛両国ノ利益ナル事ト存候間,速二 施行イタシ度右二付御勘考モ御座候ハエ委敷御記聞有之度御相談労此段可得御意如此坐候以上 (慶応4年)閏4月9日
肥前 待従 東久世中将
英佛米李蘭以 エ 公使閣下
一方,政府は,1869年3月(明治2年2月)貨幣司(会計官所属)を廃止して造幣局(太 政官所属)を設けたが,翌月15日(日本暦3月4日),参与大隈八太郎(後の重信)及び造 幣判事久世治作は,新しい貨幣の形状は従来の方形を止め,流通・携帯に便利な円形に改め ること,ならびに計算上不便な四進法を廃止し,十進法による新貨幣単位を採用すべきこと
ラ を建議した。
この建議に対して,一部には反対論もあったが,朝議は結局「欧米各国近世日新ノ貨制」
ア う にならって,円を通貨単位とする十進法の採用を決定した。これと並んで重要な決定事項は 新貨の品位,量目,金銀比価及び本位貨幣の問題であった。
(2)政府の当初原案
1869年(明治2年)半ばに,政府首脳は=オリ土ンタル・バンク横浜支店長ロベルトソンと 貨幣鋳造に関して協議を行った。すなわち,大隈参与,伊藤大蔵大丞,井上(聞多,後の馨)
ぞうへいのかみ
造幣頭,中江外国判事は,同年7月23日(明治2年6月15日),横浜運上所でロベルトソン
ラ
を交えて会談し,席上新規に鋳造する貨幣に関して,次のような政府原案を明らかにした。
新規二発行スル貨幣ノ本位トナル者ハ其量目トロイ斤416ケレイン」ヨリ減ズルコトナク,其質ハ十 分ノ九ノ銀貨ナルベシ,故二三銀貨ハ墨是寄ドルラルト同品位タルベシ
右本位ノ銀貨ヲ分割シテ更二細小ナル銀貨ヲモ鋳造スベシ,其小貨ノ定量末細精二治定セザレドモ概 ネ左ノ如クナルベシ
五十セント貨 トロイ斤 280ケレイン」ヨリ減ゼズ,銀貨十分ノ八 二十五セント貨 トロイ斤 140ケレイン」ヨリ減ゼズ,銀貨十分ノ八 十セント貨 トロイ斤411ケレイン」ヨリ減ゼズ,銀貨十分ノ八 五セント貨 トロイ斤 20ケイレン」ヨリ減ゼズ,銀貨十分ノ八
又金貨幣ヲモ鋳造スベジ,其金貨ノ本位銀貨ノ10箇,5箇,2箇半二当ルモノニシテ唯便利ノ為メニ
之レヲ用フベシ
大阪造幣局の建設とナリエンタル・バンク 65 r又本位銀貨ノ百分ノー及ビ千分ノーに当ル銅貨ヲモ鋳造スベシ
改税約書二従ヒ我政府二上テ鋳造費用ノ為薄口請取ベキ区割ヲ……三分ヨリ減ゼザル上上メントス,
8ω 又貨幣ハ地金ヲ請取ル後30日ヲ遅延セザル様造幣寮ヨリ之ヲ渡1スベシ(以下略)
これは,新政府が始めて対外的に明らかにした新貨幣構想であったが,そこでは量目416 グレイン,品位90%の銀貨,即ちメキシコ銀貨と同量同品倖の銀貨(その剤名は不明)を本 位貨幣と位置づけていたのである。
政府の提示した腹案に対して,ロベルトソンは小額貨幣の品位について若干の変更を提案 り したようであるが,政府が1869年12月11日(明治2年11月9日)に各国公使へ送った書簡で は,本位銀貨,小額銀貨,金貨及び銅貨の種類,量目,品位とも上記原案と変わりない。地 金を貨幣に鋳造する場合の改鋳費及び貨幣引渡期限も全く同様であった。
政府:書簡に対して,翌年4月(明治3年3月)欧米各国公使から次の意見が寄せられた。
1.新規発行する銀貨にはヨーロッパ諸国の例にならって通用制限を設けるべきこと。
2.旧貨幣一分銀は1866年6月25日(慶応2年5月13日)に締結した「改税約書」により,
二分判金貨は1869年8月27日(明治2年7月20日)の公報(外国人所持の偽二分金の正貨 引換通知)により,新貨に交換されるべきこと。
3.劣位二分判のうち,外国人より政府に収納せられたものは再び使用することなく,必ず ヨシ
これを新貨に改鋳すること。
の諸点であった。このように各国公使の意見は鋳造貨幣それ自体に関してではなく,むしろ それに付随する性質のものであった。
(3)造幣首長キンドルの提言
政府の新貨鋳造案が関係者に伝わると,造幣首長に任命されたキンドルからも赴任直後オ リエンタル・バンクを通じて,1870年4月30日目明治3年3月30日)付で意見書が提出され た。キンドルの意見書は,外交団と異なり,さすがに専門家らしい本質に係わる内容のもの である。下記にその要点を示そう。
第1.本位銀1「ドルラル」ノ重量ハ416「ゲレーン」ニシテ1「ゲレーン」半内外ノ鯨差アリ。即 チ1「ドルラル」ノ重量ハ414「ゲレニン」半ヨリ減ゼス417「ゲレーン」半ヨリ増サΣルヲ本位 ト為ス。又墨銀量ノ純分ハ此ノ十分ノ九ニシ千分ノニノ鯨差アリ。(中略)而シテ此鯨差串本ト 正当ナル通規二出テ我力英吉利国政府ノ清国香港二於テ鋳造セシ「ドルラル」貨幣ノ比例二適合 ス。
第2.補助銀貨ハニ十五「セント」ノ者ヲ鋳造スルヲ千尋,別二83「ゲレーン」2ノ「トロイ」ヲ以
テ秤量スル豊凶「セント」ノ者ヲ鋳造スルヲ得タリトス。蓋シ日本政府ノ新二鋳造スル貨幣ハ応
二目ク香港其ノ他ノ各地二流通スベシ。然ルニ見こ香港二於テニ十「セント」銀貨ノ鋳造二従事
スルアリ。比ノニ十「セント」銀貨トニ十五「セント」銀貨トノ差違ハ其ノ形状重量共二甚タ僅 少ナリ。(中略)且ツ公平二之ヲ論スルモニ十「セント」銀貨ハ本位貨幣ノ最モ正当ナル比例ト 為ス(以下略)
第3 (略)
第4 金貨ノ如キ亦是レ補助ノ貨幣ニシテ其品位ハ「ドルラル」貨幣二均五更シメ,珪素西国ノ法制 二準依シテ純金ノ分量ヲ十分ノ九ト為ス可シ。
第5 (略)
第6 金貨,銀貨共二演舞ハ9分ニシテ薬価位ヲ比較スレバ銀ノ15ハ金ノ1二当リ,即チ下墨二記載 スル重量ノ比例ヲ以テスレバ大約十分ノーノ利益ヲ見ル可シ(以下略)
第7.本位銀貨ノ百分ノ十二,百分ノー及ビ千分ノー二当ル三種ノ銅貨バー「セント」ノ者ノ重量:ヲ110 「ゲレーン」ト為シ,半「セント」ノ老ノ重量ヲ55「ゲレーン」卜為シ,千分ノー二当ル者ノ重 量ヲ14「ゲレーン」ト為ス可シ(以下略)
第8 銅貨ノ中分ハ純一ヲ用フ可シ(以下略)
第9 (略)
84〕 第10 (略)
このように造幣首長キンドルの提言は具体的かつ詳細にわたっている。ことに,貨幣の量 目に若干の誤差を許容すべきこと,二十五セント銀貨を廃止して,二十セント銀貨の鋳造を 提案している点は,香港における銀貨発行の経験に裏づけられた提言である。
(4) ロベルトソンの建議i
一方,オリエンタル・バンク横浜支店長ゴベルトソンも,わが国の新規鋳造貨幣の品位量 目に関して,基本的にはキンドルの提言と同意見であったが,彼自身も,1870年5月4日(明 治3年4月4日),伊藤大蔵少輔に一書を送り,「日本政府ハ宣クー「ドルラル」銀貨ヲ以テ 其本位貨幣ト為スヘキが二二,金貨二於テハ本位ヲ設クル勿レ」と建言した。
その理由として,「金銀複本位ノ制目従来欧州各国積年ノ経験上二曲テ実際其非ヲ認メタリ,
然レバ日本若シ誤りテ複本位ノ制ヲ用フル時制為二其造幣上ノ利益ヲ減ジ公益ヲ損害スルニ 室ランコト必セ判と述べている151ロベルトソンの建言はキンドルのそれに劣らず詳細かつ
具体的で,しかも各貨幣の量目に匁分厘の表示が付記されている。
大蔵卿はキンドルやロベルトソンの提言に則って,一円銀貨を本位とする新貨幣の品位及
び重量を次のように策定し,1871年1月2日(明治3年11月12日)太政官の裁可を得た。そ
のなかで,補助銀貨の二十五銭がなくなり,代わって二十銭が登場したのは,キンドルの提
言に従ったものである。
大阪造幣局の建設とオリエンタル・バンク 67 新貨幣品位及び重量表(明治3年庚午11月太政官裁定)
1.本位一円銀貨,品質銀9分,銅1分,量416「ゲレーン」 即チ我力7匁1分9厘6三二当ル。
2.補助五十銭銀貨,品質銀8分,銅2分,量208「ゲレーン」 即チ我力3匁5分9厘6一二当ル。
3.補助二十銭銀貨,品質銀8分,銅2分,量83「ゲレーン」2 即チ我力1匁4分3厘8毛6締二
当ル。
4.補助十銭銀貨,品質銀8分,銅2分,量41「ゲレーン」6 即チ我力7分1厘9毛3締二当ル。
5.補助五銭銀貨,品質銀8分,銅2分,量20「ゲレーン」8 即チ我力3分3厘9毛6綜3忽二当
ノレ0
6.補助十円金貨,品質金9分,銅1分,量248「ゲレーン」 即チ我力4匁2分8厘8毛二当ル。
7.補助五円金貨,品質金9分,銅1分,量124「ゲレーン」 即チ我力2匁1分4厘4毛二当ル。
8.補助二円半金貨,品質金9分,銅1分,量62「ゲレーン」 即チ我力1匁7厘2毛二当ル。
9.一銭銅貨(100枚ヲ以テ1円二換フ),重量110「ゲレーン」 即チ我力1匁9分2毛二当ル。
10.半銭銅貨(200枚ヲ以テ1円二換フ),重量55「ゲレーン」 即チ我力9分5厘1毛二当ル。
11.一厘銅貨(1000枚ヲ以テ1円二換フ),重量14「ゲレーン」 即チ悟了2分4厘2毛二当ル。
こうして,銀貨を本位とする新貨幣の品位・量目は概ね確定し,1871年2月26日(明治4 年1月8日)にはそれまでの検討結果を法文化した「新貨条例」及び「造幣規則」の布告案 う
が策定された。ところが,その後事態は急転し,同年5月半ば(日本暦4月初め)に至り,
ラ 新貨幣の銀本位を改め,金本位とする旨決定された。これは,米国にあって金融財政事情を 調査中の大蔵少輔伊藤博文から,大蔵卿へ「欧米近世貨制ノ実況ヲ察スルニ金本位主張ノ説 方サニ熾ン興行ハレ将来東洋諸国モ亦金本位ノ潮勢二二一ザルヲ得ザルノ姿アルヲ以テ本位 の
変革ノ意見(明治3年12月29日付)」が具申され,これが政府に採用されるに至ったためで
ある。
(5)新貨条例
こうして,1871年6月27日(明治4年5月10日)に布告された「新貨条例」(明治4年太 政官布告第267号)は最終的に次のような内容となったのである。
〔新貨条例〕(明治4年太政官布告第267号)(抄)
1.新貨幣ノ称呼ハ円ヲ以テ起票トシ,其多寡ヲ論セス都テ円ノ原称二数字ヲ加ヘテ之ヲ計算スヘシ,
但シ1円以下ハ銭(1円ノ百分ノー)ト厘(1銭ノ十分ノー)ト. 宙ネテ少数ノ計算心用フヘシ 1.算則ハ都テ十進一位ノ法ヲ用ヒ1厘10ヲ合シテ1銭トシ,1銭10ヲ配転テ10銭トイヒ,十銭10即 チ100銭ヲ以テ1円トス
1.集貨中金銀純分ノ割合及其量目一寸テ月形模写ノ下二表出スルトイヘドモ,溶和鋳造ノ際僅少ノ
差アルヲ免レズ,故山今各種ノ貨幣二就テ其不得巳シテ生ズル量目ノ公差ヲ表出シテ以テ毛糸糸ノ微
細ヲ弁析ス
〔通用制限〕
本位金貨幣,即チニ十円,十円,五円,二円,一円ノ中一円金ヲ以テ原貨ト定メ,各種トモ何レノ払 方ニモ之ヲ用ヒ其高二制限アルコトナシ
定位ノ銀貨幣,即チ五十銭,二十銭,十銭,五銭ハ都テ補助ノ貨品ニシテ,其一種又ハ数種ヲ併セ用 フルトモーロノ払方二10円ノ高ヲ限ル可シ
定位ノ銅貨,即チー銭,半銭,一厘ハ都テ一画ノ払方二1円ノ高ヲ限り用フ可シ
各開港場便利ノ為,当分ノ内中外人民ノ望二応シー円ノ銀貨ヲ鋳造シ之ヲ貿易銀ト為シテ通商ノ流通 ヲ資ク可シ
此一円銀ハ全ク各開港場輸出入物品其他外国人ヨリ納ムル諸税及日本人外国人ト通商ノ取引二丁フル ノミニシテ,内地ノ諸税納方等公ナル払方二用フヘカラサルハ勿論其他一般ノ通用ヲ得サルベシ,サ レトモ私ノ取引二三相対ノ示談ヲ以テ受取渡シイタス分一何レノ地ニチモ勝手次第タルベシ 各開港場諸税受取十二十一円銀ト本位金貨トノ価格比較ハ当分銀貨100円瘤付本位金貨101円ノ割合タ 9h ルヘシ
(第3表)
「新貨条例」で定めた貨幣品位量目表
貨 種 脛 量 目 性 合
二 十 円 貨 1寸1分5厘7毛 8匁8分7厘3毛6(514ゲレイン41) 金 9 銅 1
本 十 円 〃 9 分 7 厘 1 毛 4匁4分3厘6毛8(257ゲレイン2)
〃位金
五 円 〃 7 分 8 厘 7 毛 2匁2分1厘8毛4(128ゲレイン6)
〃貨 二 円 〃 5 分 7 厘 7 毛 8分8厘7毛36(51ゲレイン44) 〃
一 円 〃 4 分 4 厘 6 毛 4分4厘3毛68(25ゲレイン72) 〃
定 五 十 銭 〃 1 寸 4 厘 3匁3分2厘9毛25(193ゲレイン2) 銀 8 銅 2
位 二 十 銭 〃 7 分 7 厘 1匁3分3厘1毛7(77ゲレイン2)
〃銀 十 銭 〃 5 分 8 厘 6分6厘5毛85(38ゲレイン6)
〃貨 五 銭 〃 5 分 3分3厘2毛925(19ゲレイン3)
〃定 一 銭 〃 9 分 1匁8分9厘7毛5(110ゲレイン)
位銅