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地方分権と自治体教育行政制度

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地方分権と自治体教育行政制度

――義務教育行政を中心として――

外 川 伸 一 1.はじめに

今日、自治体の教育委員会の機能不全が声高に叫ばれている。各地の学校現場で多 発している「いじめ」やそれによって児童・生徒が自殺するといった問題、生徒によ る生徒殺傷事件、教員による不適切な教育指導、あるいは児童・生徒の学力低下問題 などに対し自治体の教育行政を統轄する教育委員会は当事者能力を持ち得ないと言わ れている。

小川正人(2010:149−150)によると、教育委員会運営の考え方、あるいは教育委員 会制度の原理は、第1に、教育行政には「素人」ではあるが人格が高潔で教育・学術・

文化に関し識見を有する教育委員で構成される教育委員会が、地域の教育政策や教育 行政運営の基本方針を決定する最高機関であることを確認した上で、第2に、こうし た意味での「素人」教育委員会が、「専門家」教育長の助言・援助を受けながら政策 と行政運営を決定し、第3に、その決定を受けて、委員会の指揮監督の下に「専門家」

教育長が行政実務を執行していくといった「レイマンコントロール」(素人統制)

(layman control)と「専門的リーダーシップ」(professional leadership)の均衡による バランスある行政運営を旨とするという。こうした原理は、その道の専門家のみによ る統制が、彼らに特有のある種の「罠」に陥りやすいとの経験則に基づきこれを回避 するために発想された統治方式である(片山2007:160)。今日の教育委員会制度では、

こうした原理が機能不全に陥っているか、あるいは現実には作動していないと言わざ るを得ない。

これについては、教育委員会制度の原理は理念的にはそうであるとしても、現実問 題として「レイマンコントロール」と「専門的リーダーシップ」の均衡という理念が 実際に追求されているか否かがまず問題とされよう。たとえば、安倍内閣下における 教育再生会議が主導した27年の地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下、

地方教育行政法と言う)の改正によって教育委員への保護者の選任が努力規定からより 強い義務規定とされることになった(地方教育行政法4条4項)訳であるが、無理矢理 に保護者を選任しようとして、「教育について大局的判断をなしうる広い識見の人 材」(1956年、文部事務次官通知)からはほど遠い教育委員が誕生し教育委員会制度の根 本原理からの乖離が拡大することが懸念される。もっとも、保護者選任規定は、レイ

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マンとしての教育委員の具体的イメージの実定法による呈示とする考え方もある(片 山2007:161)。しかし、保護者から適任者が得られない場合も多いであろうから、保 護者については別の形での直接関与の制度化という方法も十分に考えられるであろ う。また、膨大かつ複雑な教育行政の懸案事項に数名の非常勤教育委員が、月に2〜

3回の審議で対応している実態も教育委員会制度の理念とは大きくかけ離れていると 言わざるを得ない。

いずれにしても、現在の教育委員会制度が機能不全に陥っているということに関し ては、ほとんどの論者が共通した認識を抱いているのであるが、教育行政学者と行政 学者との間ではその解決方策は大きく異なっている。前者は主として現行の教育委員 会を存置しながら制度改革を行うことによってその活性化を主張するのに対し、後者 の多くは、現行の教育委員会を廃止した上で、たとえば教育部という形で教育行政を 首長の下に置くことを主張する。もっとも、前者については、同じ活性化と言って も、現行の任命制教育委員会を公選制ないし準公選制教育委員会に「戻す」ことを主 張する者もいれば、現行の任命制を前提として教育委員会の機能強化を主張する者も あり、その方法は必ずしも一様ではない。さらに言えば、現下の教育行政における諸 問題は教育行政制度にあるのではなく、そうした諸問題は自治体の置かれている状況 によって異なるのであるから、教育行政制度を制度改変した上で教育委員会方式にす るか首長部門で執行する方式とするかは自治体の選択に委ねるべきである、換言する と教育委員会の必置規制は撤廃すべきであるという主張もなされている(たとえば森 田2005:135)

本稿では、こうした今日の教育委員会論争を念頭に置きながらも、この論争に欠け ている諸点について指摘しながら、中長期的視点から、特に義務教育行政に焦点を当 てて地方分権時代における自治体教育行政制度について若干の考察を加えていこうと するものである。

2.教育委員会論争素描

本節では、いわゆる教育委員会論争について素描するが、この教育委員会論争は、

特に具体的制度改編の議論になると実に複雑に絡み合っており、必ずしも「二分法」

的にスッキリした形で展開されている訳ではない。したがって、以下の素描はある特 定の立場に立脚することによって主観的に事実を歪曲しようという意図はさらさらな いが、この論争の全体像を必ずしも「客観的」に捉えている訳でもない。続く議論に 繋がるものとしてその一端を理解してもらうことがここでの素描の目的であることを まず述べておきたい。

新藤宗幸は、現在の教育委員会制度においては、文部科学省初等中等教育局−都道

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府県教育委員会−市町村教育委員会に至る行政系列が貫徹した垂直的行政統制が支配 しており、そうした意味で自治体の教育行政には地域住民の声は反映されていないこ とから、自治体の教育行政を直接公選という政治的代表性と正統性をもつ首長の下に 置き、首長のリーダーシップを行政領域全般に確立すべきだとする(新藤2005:49) また文部官僚出身であり出雲市長であった西尾理弘は、自治体が教育行政を直接執行 するか教育委員会方式とするかは当面の措置としては自治体の選択制にするとして も、今日の学校教育の混迷を打開するためには、住民の直接公選による首長が教育審 議会や教育行政の専門家に支えられながら教育行政に参加するシステムに改革してい くべきことを主張する(西尾2005:84)。これらの主張はいずれも教育委員会廃止論に 属すると言えよう。教育委員会廃止論者は、文科省を頂点とした「プロフェッション の連鎖」によって地域住民主体の教育行政の展開が阻害されているといった意見のほ か、教育委員会は行政委員会として首長から一定程度独立しているとは言え、予算編 成や事務局職員の人事権など教育行政を執行する上で必須の権限を有していないた め、そもそも正常に機能する条件を賦与されていないなどといった点を主張する。

もっとも、後者の点については、教育委員会活性化論者の一部でも同様の指摘がなさ れ公選制教育委員会時代の教育予算送付制度、あるいは二階建て予算制度等への先祖 返りを主張する者もいることを付け加えておかなければならない。しかし、たとえ ば、この論者に最も特徴的な文科省を頂点とする垂直的行政統制の主張について言え ば、教育委員会制度を廃止し首長の下で教育行政を執行したとしても、文科省と自治 体との関係が実質的に対等・協力の関係になっていなければ、根本的解決には至らな いであろう。周知のように第一次分権改革は機関委任事務制度の廃止をはじめとする 国の関与の廃止・縮小を大幅に進めたが、国と自治体は相変わらず上下・主従の関係 にあると言わざるを得ないからである。首長の下の教育部が、さすがに戦前のように 官選知事が主管する一般行政の一部局としての「学務部」たる存在になることはあり 得ないが、残念なことにこれと類似した状態(機関委任事務状態)が払拭されたとは到 底言えない現実が今なお存在しているのである。

これに対し、教育行政学者の小川正人は、教育委員会の独立性や自律性をこれまで 以上に保障することを前提に、様々な制度構築・制度改正を行うことによって教育委 員会を活性化させるべきことを主張する。たとえば、「素人」教育委員会の役割分担 を地域の教育課題の設定、大綱的方針の設定、教育長−事務局の仕事の監督・評価等 に限定し、その具体的な政策立案と執行・管理という専門的事項は「専門家」である 教育長−事務局に任せるといった役割分担の仕組みの構築を前提としながら、現在の 画一的な教育委員会の組織・運営形態を弾力化することや教育行政の「専門性」を考 慮した人事システム・「専門」職員育成システムの構築、教育政策の立案・決定や教 育行政運営に関する手続き・ルールを教育基本条例などに規定した公正性・透明性の

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実現などを主張している(小川2006:126−140)。しかし、こうした改革について、片 山善博は、分野は異なるとは言え、同じ執行機関として首長と同質の権限と責務を有 すべき教育委員会がこれでは当事者能力を持ち得ないことを憂慮する(片山2007:162

−163,166)。そして、教育委員の権能を限定化する小川とはむしろ逆に、現在、教育 長が無権代理的に具有している教育委員会の代表機能を教育委員長の方に「大政奉 還」し、教育長は教育委員会の事務的執行者に純化すべきことを提唱する(片山2007:

174)。小川をはじめとする多くの教育行政学者が首長の下での教育行政の展開に否定 的であるのは、首長の有する強大な政治権力―それは地方分権によってますます強大 化する―を危惧し、「政治選挙とそれによって政治的正統性をあたえられた首長・議 会を通じる政治ルートだけで教育論議を行うのではなく、利害関係の調整と駆け引き から一歩距離をおいて、教育の『公論』を正面から闘わす教育ルートが存在する方 が、自治体政府内の政策をめぐる競合を生み出し、より自由でダイナミックな教育行 政が可能となる」と考えるからである(小川2006:144)。つまり、教育行政について は、教育が党派性を帯びないように、また首長のイデオロギーから自由となるように

「政治的ルート」のほかに「教育ルート」が必要だとするのである。地方分権改革は、

好むと好まざるとに拘わらず地域の諸決定を政治問題化していくものであることは間 違いない。したがって、われわれは、次にこの問題を論じない訳にはいかない。

3.義務教育の政治的中立性と党派性

地方分権改革が進むと義務教育行政における各自治体の裁量権は今以上に大幅に拡 大することは明らかである。一方、分権改革を徹底的に進めることは、各自治体でど のような教育行政機構を構築するかということについても地域住民の自治的決定(政 治的決定)に委ねることを意味する。戦後、教育委員会が首長部局から独立した行政 委員会として設置された理由の一つは、まさに教育の政治的中立性の確保にあった訳 であるが、先ほども述べたように地方分権改革は地域における諸決定を地域の自治 的・政治的決定に委ねることを意味する。大山礼子は、地方分権改革が首長の政治的 指導力を強化する方向に作用することを指摘し、公選制を根拠とするアメリカ大統領 型の強さとイギリス型首相の政策実現力を併せ持つわが国自治体の首長の政治的リー ダーシップの高まりに伴う「首長の独走防止装置」としての行政委員会制度、した がって教育委員会制度への期待を表明している(大山2002:30)。確かに、横井敏郎の 指摘する梶原知事時代の岐阜県(横井2004)や石原知事の東京都の例を見れば、大山 の期待は理解できなくもない。

しかし、現在のように議会の同意を得て首長が任命する教育委員から構成され、し かも教育委員の中から教育長を互選するという形で、「実質的」に教育長候補者も首

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長が任命している現在の教育委員会制度は、いわば「教育長制」になっているとも言 われており(安達2001:165)、果たして「首長の独走防止装置」となり得るのかは疑 問である。また、教育委員会は独立の行政委員会とは言うものの、「実質的」に首長 が任命した教育長は、教育委員会の権限に属する重要施策について事前に首長との意 見交換や細かい調整を行っている。多くの都道府県では、教育長及び教育委員会幹部

(教育次長、教育委員会事務局の主管課長など)は、日頃から陰に陽に首長と密接な連絡 を取り合っている。具体的には、教育委員会における重要案件は教育委員会幹部と知 事部局幹部(副知事、総務部長、財政課長など)との「政策会議」(名称は多様である) どによって事前の調整が行われる。そこでの調整の結果は教育長・教育次長等による

「知事レク」という形で直接知事に報告され、また必要な指示を受けることになる。

それらの結果は知事、副知事、各部長など県の主要幹部からなる最高意思決定機関で あり教育長もその構成員である「庁議」に報告され、幹部の間で確認され都道府県の 組織全体に周知される。教育委員会が「首長の独走防止装置」というのは名ばかりに 過ぎないことが理解できよう。

村上祐介(2009)の調査によると、首長は人事を介して教育長をコントロールし、

その後の意思疎通も密接である。そこで村上は次のように言う。「現行制度を政治学 における本人代理人論の視角からみると、首長は本人、教育長は代理人ととらえるこ とができる。……(中略)……本人たる首長と代理人たる教育長との間の意思の乖離

(エージェンシー・スラック)はほとんどないか、非常に小さいと推論できる」と(村 上2009:22)。そうだとすれば、首長が否定的な案件を、教育委員会は推進することな どできまい。ましてや、予算案提出権や条例制定権等は首長にあるのだから、教育委 員会の権限は、実際には些末な事案に限定されているのが現状である。その意味で教 育委員会の「機能不全」「無力性」が叫ばれるのは当然のことと言えよう。

とは言え、義務教育行政は政治的に中立であらねばならないことに筆者も同意する ものである。この場合の「中立性」とは、特定の党派のイデオロギーによって義務教 育が歪められてはならず、それは住民の意思(選好)を十分に反映したものでなけれ ばならないことを意味する。したがって、この場合の政治的中立性とは、教育(行政)

の「非政治性」とか「無政治性」の要求を意味する訳では決してないのである。それ は、現実問題として不可能であるし望ましいことでもない。

特に、教育内容に関する政治的中立性の確保は何にも増して最優先されるべきこと であろう。つまり、教育内容については、その「内骨格」は国民の意向(選好)を反 映して国が決定し、その「肉付け」は地域住民の意向(選好)を反映して自治体が決 定することになることは当然であろう。こうした「作業」あるいは「作業の過程」は まさに政治そのものであり、「非政治的」「無政治的」である筈がない。しかし、繰 り返しになるが、これらの「作業」あるいは「作業の過程」は確かに政治的ではあっ

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ても決して党派的であってはならないのである。

現実には、教育行政はその時々の政権のイデオロギーを体現したものにならざるを 得ないと言えよう。たとえば、大森彌は「国には教育委員会システムはなく、文科省

(初等中等教育局)は内閣の一員である文科大臣の指揮監督(政治統制)の下にある…

(中略)……その『指導』がどうして政治的に中立なのか」と主張している(大森 2007:26)。また、文部省初等中等教育局教職員課長の職にあった前川喜平は、政権に ある政治勢力がそのイデオロギーを公教育に繁栄させようとし、教育の中立性の要請 とのせめぎ合いや現場のニーズとの乖離が起こり、文部省(文科省)自体も「政治」

と「教育」の狭間で苦悩することを率直に吐露している(前川2002:198−199)。さら に、村松岐夫は、「文部省による『強め』の関与は、一人文部省の関与ではなく、内 閣と政権党の意向を反映した側面があ」り、「これを支える政治構造があったと考え るしかない」としている(村松2000:59)。そうだとすれば、現在の教育委員会制度を、

文科省を頂点として時の政権の主張するイデオロギーに染まった教育行政をストレー トに受け入れ、それを学校現場に伝達する媒介装置だと見る垂直的行政統制モデルは さらに強化され、垂直的「政治」行政統制モデルという形で妥当していることにな る。同様の論理は地域レベルにも当てはまる。岡田・小川の調査では、市長の実に 5.6%、市教育長の91.2%が、教育委員会の存在が教育行政の中立性の確保に貢献し ていると回答している(岡田・小川2002:371,372)が、これらの調査対象者は、そもそ も中立性の意味を理解していないと言わざるを得ない。要するに、任命制教育委員会 制度、あるいは首長の執行による教育行政制度のいずれを取ってもそのことのみで教 育の中立性を確保できるとは単純には言い難いのである。

4.義務教育における意思決定の正統性

そこで、その内容も含め義務教育行政が党派的な政治的決定によって決められてい る可能性を捨てきれないということになると、重要視されるべきは義務教育に関する 諸決定が正統性を有し得るか否かということであろう。正統性とは、われわれ国民が 集合的な拘束的決定作成を進んで受容するための根拠となるものである(Bekkers and Edwards2007:37)。したがって、ある決定が正統的だと言い得るためには、その決定 が単に国民や地域住民の利害関係の分布を正確に反映しているということではなく、

その決定が国民や地域住民の熟議(deliberation)による利害の調整を経て、できる限 り多くの国民・地域住民の選好に則したものとなることが要請される。スカルプフ

(Scharpf1999)の主張にパパドプロス(Papadopulos2003:484)の主張を加味すると、

正統性は、インプット正統性(入力正統性)、スループット正統性(過程正統性)、アウ トプット正統性(出力正統性)をすべて具備していなければならないのである。その

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ためには、この3つの正統性を担保できる制度と手続きの設計が不可欠となる。そし てそれを具体的に考えていくためには、現在の教育委員会を活性化するとか、教育委 員会を廃止して教育行政を首長の下に置くとか、あるいは必置規制を外して選択制に するといった皮相的な議論に終始するだけでは完結しないことを理解しなければなら ない。

教育委員会制度は、一政党あるいは連立政党の党員によって構成された政権の配下 にある教育行政機構=文部科学省による諸決定が、公選の首長のチェックを経ること なく都道府県教育委員会−市町村教育委員会−学校と透徹していく垂直的行政統制モ デルであるとこれを批判し、教育行政を首長の下に置くことを主張する教育委員会廃 止論者も、あるいは首長からある程度独立した合議制の教育委員会を活性化し教育に 関する諸決定に地域住民の様々な意見を反映しようとする教育委員会活性化論者のい ずれも上記の3つの正統性のすべてを踏まえながら正統性を確保するための制度設計 を考えているか否かは疑問である。

それでは、すべての正統性を担保するための制度・手続きの設計を考案するとはど のようなことを言うのであろうか。まず教育委員会を廃止して教育行政を首長の下に 置くことを主張する教育委員会廃止論者の立場で考えてみよう。公選とは言え、首長 はその候補者のうち選挙で最高得票を集めた者が「相対的優位性」あるいは「比較優 位」を持つことによって選ばれたに過ぎない。したがって、首長は多数の住民の信任 の上に立っているとは言え、それに劣らない多くの住民からの信任は得ていない。中 には住民の過半数の信任を得ていない首長も決して珍しくはなく、候補者が林立し住 民の評価が分かれた場合には、ごく少数の住民の信任しか得ていない首長も登場する ことになる。この段階で既に彼又は彼女に政治的入力正統性があるかということにつ いては議論を呼ぶのであるが、「比較多数」という考え方に従うとすれば、この首長 は入力正統性を一応確保していることになるとされるのである。

そこで、第1の入力正統性の不備を補うために別の視点からの正統性として過程正 統性が主張されることになる。2つ目の正統性である過程正統性を確保するために は、公選という仕組みによる結果に加え、当該首長に投票しなかった住民も含め多く の住民で熟議を行う装置を内蔵させる必要性が指摘されることになる。一部の論者は その熟議装置を教育審議会に負わせる訳であるが、肝心なことは、そうした会議で熟 議が保証され様々な選好が披瀝される中で、関係者の持つ私的選好が公的選好へと、

また低度の公的選好がより高度の公的選好へと変容(transformation)を遂げ、いわば

「公共性」(publicness)を有する決定へと収斂する可能性を、当該教育審議会が有す るものであるか否かであろう。また、これに加え第3の正統性である出力正統性を確 保するためには、第2の過程を経て形成された決定が実際に教育上の効果を有するこ とが必要である。地域住民は過程さえ良ければ結果は一切問わないなどと言うことは

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ないからである。近年、政府に対する信頼の低下が叫ばれているが、これは良好な結 (成果)を国民・地域住民に提供し得ない「政府の失敗」に起因している。もっと も、教育政策の効果は短期的に現れることは希であるから、これについては中長期的 に評価しなければならないことが多いであろう。

教育委員会活性化論者の立場では、以上の議論はどのようになるであろうか。そも そも自治体に執行機関の多元主義が導入されたのは、独任制の首長にすべての権限が 集中することを回避することが主要な目的であったが、それとともに意思決定をでき る限り正統性あるものにするために合議制の機関を創設し、そこに様々な選好が表明 される形で議論を行い、最終的に大多数の選好を反映した決定がなされることが期待 されていた。こうした意図にさらに近づけるために、27年の地方教育行政法改正に よって、教育委員会は原則5名であるが、都道府県・政令市・一般市では6名以上、

町村では3名以上の委員で構成できることになった(同法3条)。すなわち、このこと は第1の入力正統性を高めるための措置ということもあったであろうが、委員の増員 によって第2の過程正統性を高めようという意図のもとに行われたと見て良い。しか し、多少の委員の増員だけではその実現に直接結びつくものではない。

また、教育委員会活性化論者は、教育委員の数を増やし委員会内部にいくつかの テーマ別の常任委員会を設置したり、委員会を教育審議会的形態にするなど、教育委 員会議自体を熟議装置的に設計する(小川2006:135)などして、第2の過程正統性を 確保しようとする。しかし、教育委員会議を熟議装置にしようとすること自体、それ が最終的に比較的少数委員による合議制を建前とする限り大きな限界が伴わざるを得 ない。そこで、教育委員会議ではなくその付属機関を本当の意味での熟議装置にしよ うとするのであれば、過程正統性は教育委員会廃止論に基づく場合と大差がないもの となることが理解できるだろう。なぜなら、ある意味で機能不全の状態にある入力正 統性への期待を部分的に放棄し、過程正統性を最大限に重視しようとすべく制度改変 を提唱するという意味で2つの考え方は同質だからである。また、第3の出力正統性 についても、熟議装置の重要性を前提とするからには、この装置の「帰属先」は一応 横に置くとしてこの装置のあり方については教育委員会廃止論者と教育委員会活性化 論者との間で大きく相違することはないからである。

一方、第1の入力正統性を高めるために、教育委員会活性化論者の一部は教育の直 接責任性の法理の具体的実現方策として、第一義的には教育委員の公選制を念頭に置 いた改革を提唱する(坪井1998;2001)。しかし、戦前の反省から戦後間もなく導入さ れた公選制教育委員会制度も当時の東西冷戦を背景として極めて党派的色彩が強く、

必ずしも民主主義的性格を反映したものではなかったことを想起しなければならな い。公選制教育委員会が廃止され任命制教育委員会が誕生した要因の一つはまさにそ うした事実にあったことを忘れてはならないであろう。

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小川正人は、自治体の首長は住民の直接選挙で選ばれることから、自治体の教育行 政の責任・権限は政治的正統性を有する首長が保持するとの主張に疑義を差し挟むの は難しい(2010:197)と述べるとともに、「自治体教育行政の関係機関の間で過度と もいえる相互の均衡・抑制を生み出している現行の権限配分のしくみを、首長サイド にシフトする形で見直し、首長を中心に教育行政の諸権限を再編成することが妥当な 改革方向である」とする(小川2010:198)が、3つの正統性を総合的に確保する立場 に立つと、単純にそうとも言えなくなってくることは明らかであろう。

とは言え、いずれの立場に立脚しても過程正統性を確保するための熟議装置によっ て入力正統性の不備が是正されるのであり、かつまた出力正統性の実現可能性が高め られるのであって、現在の論争はこの3つの正統性を念頭に置くことによって補正さ れる必要があることは確かであろう。

5.義務教育の専門性

さて、教育行政が行政委員会としての教育委員会に委ねられるもう一つの理由は、

教育の専門性にあると言われている。教育に携わる者は、専門家としての一定の資格 を持ち、職務の遂行にあたっても専門的な技術・能力が必要とされている。その結 果、教育委員会の職務活動の本質は教育専門性に支えられた行政、すなわち指導行政 である(加治左2001:6−7)ということになり、また、教育委員会において教育専門 性に支えられた行政を担保する指導主事の配置が要請されその数が極めて少ない市町 村教育委員会は、教育専門性の点から職務遂行体制が弱体であると問題とされること になる(加治左2001:8;河野2003:13)。指導主事とは、教育に関し識見を有し、学校 における教育課程・学習指導その他学校教育に関する専門的事項について教養と経験 を有するとされる者である(地方教育行政法19条4項)。加治左哲也は、行政作用にお いて、権力的作用であって拘束力を有する命令・指示・監督と、助成的作用であって 受容するか否かは受ける側の判断に任される指導・助言・援助との区別がつかなく なっている点を現行教育行政の問題だとし、教育委員会にこの両者の明確化を要請し ているのである(加治左2001:19−20)が、そうした要請は実現可能とは思われない し、この点が自治体教育行政制度の根本的問題とは筆者には思えない。

問題は、助成的作用である指導行政そのもののあり方にあるのではないだろうか。

この指導行政こそが大きな問題を招来しているとするのは、教育委員会廃止論者の側 である。たとえば、新藤宗幸は単に文科省を頂点とする垂直的行政統制が政治的正統 性の点から問題であるとだけ主張している訳ではない。文科省初等中等教育局−都道 府県教育長−指導主事(県費負担職員)−市町村教育長−指導主事(県費負担職員) 学校現場なる指導・助言・援助の行政体制を問題にしているのである。換言すると

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『専門的・技術的』『指導・助言』と勧告が容易に伝達され、機能する構造」、ま た、「教育における民衆統制を一種の『隠れ蓑』として、『精神的権威』に服従する集 権的かつ権威主義的な指導・助言体制」「教科書の内容や施設、教員の配置、学校教 育の標準などが内閣統轄下の行政機関に所掌され、助言・指導の名のもとに通知行政 が機能する体制」「情況追随的な『指導・助言』を閉鎖的な空間のなかで『従順』に 具体化していくタテの行政系列」を問題としているのである(新藤2005:51,54)。ある いは、伊藤正次も「教育委員会は、『非権力的』な『指導助言』の名の下に、文部省 統制と画一的学校管理を結節する機構としての役割を果たしてきた」と述べている

(伊藤2002:48)

もっとも、新藤らは教育の専門性を否定している訳ではなく、それが有する専門技 術的知識に基づく科学性は認めているのであって、なされてはならないことはそうし た専門技術的知識にもとづく科学性を特定のプロフェッションに専有させることなの である(新藤2005:56)。しかし、社会に生起する諸問題は複雑であり、多様化してき ている。したがって、教育行政に限らず、今日、行政には領域・分野を問わず高度な 専門性が求められているのである。保健・医療・福祉の分野を例に挙げてもそのこと は容易に理解できるはずである。

それでは、なぜ教育の専門性だけが特別に教育委員会という行政委員会を設置しな ければ確保することができないのであろうか。この点について論理的説明ははなはだ 困難と言わざるを得ないであろう。教育における専門性に係る特徴は、専門技術的教 育サービスを受ける客体が膨大であること、教育の専門性の発揮はそのほとんどが第 一線の現場で実現されるということなどであるが、これらは教育の専門性だけに妥当 する特徴ではない。また、専門性の程度から言えば、義務教育よりも高等教育におけ る方が高度であり、保健・医療分野の方がさらに高度である。また、教育の専門性を 教育行政の専門性としたところで、この根本が変わる訳ではない。専門性という観点 だけから言うと、現在、教育委員会で行われている義務教育行政を首長部局に教育部 を設置して行ったとしてもそれによって教育の専門性、あるいは教育行政の専門性が 発揮できないという理由にはならない。もしも、教育行政が首長部局に移管され当該 部局の教育部において教育の専門性や教育行政の専門性が発揮されない事態が生じて いるということになった場合、それは専門性を発揮させるための具体的制度設計に問 題があるのであり、首長部局が教育行政を執行することとは基本的に無関係である。

要するに、地方分権時代においてどのような自治体教育行政制度が求められるかと いう問いに関して、教育の専門性は制度設計の根本を左右する要因とはならないので ある。

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6.義務教育政府の創設

筆者は、今日の教育委員会制度が内包する諸問題を解決するために、中長期的には 義務教育行政に特化した目的を有し、既存の一般目的・総合目的の政府である市町村 の区域を横断する(地理的状況によっては、複数の都道府県にまたがる)義務教育政府の 創設を提唱する。つまり、教育委員会活性化論でも、一般目的・総合目的の政府の首 長による教育行政の執行でもなく、この両者を止揚する(aufheben)形での解決方法 である。もっとも、この義務教育政府は全国に一律に置かれる必要はなく、その設置 はいわば「制度選択型一国多制度」を採用し自治体の裁量に任せられるべきであろ う。と言うのも、各自治体の置かれている状況や諸課題は大きく異なることから、全 国一律の画一的制度を強いることには問題があるからである(小川2010:217)。義務 教育政府には、その制度設計は多様であってよいが、たとえば公選の議決機関と執行 機関が置かれ、設置目的の範囲内で条例制定権を有し、そのサービス提供のために課 税権と起債権を有する。また、一般目的・総合目的の政府と同様に必要な予算が確保 され、それを執行する権限を賦与されることは言うまでもない。さらに、議決機関や 執行機関には住民の熟議を可能にする熟議装置を効果的に内蔵することが肝要であ る。また、そこでの決定は「公共性」を持ち、効果的であることを要する。これらの ことによって、先に述べた3つの正統性を担保する必要がある。なお、義務教育政府 が創設された場合、高校教育をいずれが所管するのかが問題となる。これについて、

筆者は各自治体の自治的選択に委ねたい。義務教育と高校教育の密接不可分性を重視 するのであれば、義務教育政府は両者の執行を目的とする政府に改編されることにな る。逆に、いわゆる高大連携あるいは高大接続を重視するのであれば、高校教育は、

首長下の教育部局で執行され、大学教育と連携を持たせることになろう。

加えて、義務教育政府の創設によって、その身分は学校設置者である市町村の職員 であるが、その市町村の教育委員会は基本的に服務監督権しか有せず、任命権は都道 府県教育委員会にあり、給与は義務教育費国庫負担制度に支えられながら都道府県費 で負担する県費負担教職員制度といった変則的な制度から脱却することが可能とな る。つまり、教職員はこの義務教育政府の職員であり、採用から人事異動、昇任、研 修、懲戒など義務教育政府は、一貫した人事権を有するのである。一般に任命権と は、任用、免職、休職、復職、懲戒、給与の決定その他身分取り扱い上のすべての事 項に関する権限を言うのであり、これらが断片的に分有されることは制度上極めて問 題があることは誰にも理解できるであろう。

中嶋哲彦は、27年の地方教育行政法の改正によって教育委員会の共同設置が推進 されたことについて、次のように主張する。「教育行政の体制整備を理由に、複数の

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市町村による教育委員会の共同設置等を推進することは、教育委員会が教育の地方自 治の基礎単位である市町村及びその住民からこれまで以上に遊離するのを促す恐れが ある」と(中嶋2009:88)。筆者は教育委員会の共同設置を否定する立場には立たない が、しかし、義務教育政府の創設は、こうした中嶋の杞憂を払拭するに十分であろ う。義務教育政府は義務教育行政に特化しているとは言え、まさに地方自治に根ざし た政府だからである。政府の目的が義務教育というシングル・イシューに特化しシン プルになることによってこの政府には住民が直接の関与をしやすくなる。現代におけ る複雑化・多様化した無数の諸問題との相対において、住民は能力的限界を有するこ とや関与する時間が絶対的に不足しているといった現実を踏まえた場合、このシンプ ルな政府に地域住民が積極的に直接参加し熟議によって諸問題の解決を図るしくみを 内蔵すれば住民自治はより一層強化されることになるであろう。理想的には、ヤング

(Young2000:23)の言うように、「民主主義的決定は、それによって影響を受けるす べての人びとが議論と決定作成に包摂される場合にのみ規範的に正統的である」こと から、この熟議装置には利害関係者(stakeholder)すべてが何らかの形で関係すべき であろう。

ところで、筆者の提案と類似の提案は、既に今井照(2005)によってなされている。

今井は、「政治的対立をできる限り排除する合議制組織を合意形成機構としてもち、

ナショナルミニマムとは独立したシビルミニマムを保障する政治・行政組織であり、

自治体区域の内外において柔軟に編成しうる、市民自治の貫かれた自治体教育機構で ある」教育自治体の創設を提案している(今井2005:22−23)。今井の言う教育自治体 では、議会議員(旧教育委員)は直接公選で選ばれ、議会は教育マネジャー(旧教育長)

を雇用し、学校教育の執行にあたらせることになる。また、中央政府は教育自治体に 対し基本的な義務教育等の執行に支障がないような存立保障を行い、そのために教育 自治体は国税から移譲された課税権をもち、その一部を活用して教育自治体間の財政 調整制度を設けるという(今井:2005:23)

このように今井は、基本的に全国画一的な自治制度としての教育自治体を提唱して いるのであるが、筆者の提唱する義務教育政府は、その制度設計(議決機関・執行機関 の具体的制度設計等)は基本的に関係自治体の自治的決定によること、それをどの区域 にどの規模で創設するかも(都道府県の区域をまたがることも含め)関係自治体の自治的 決定によること、高校教育の所管を義務教育政府に統合するか否かも自治体の自治的 決定によること、義務教育政府を創設するか否かについても自治体の裁量にまかせる ことなど、先ほど述べた「制度選択型一国多制度」の導入を基本とすることである。

したがって、義務教育政府間の財政調整制度は課税権とは一応切り離されること等の 点でも今井の教育自治体とは異なることになる。しかし、類似点が多いことも確かで ある。従来から筆者は、自治体は「総合性」の呪縛から解き放たれて様々な分野に特

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定目的の政府を効果的に創設すべきであり、それらの創設については分権とは矛盾す る自治制度の画一性を回避し「制度選択型一国多制度」によるべきことを主張してい (外川・安藤2011)のであるが、義務教育政府構想もその一環である。

それに対して、市川昭午の提唱する中間学区構想は、義務教育政府の創設とは完全 に一線を画するものである。市川の中間学区構想は、都道府県と市町村の中間に学校 経営の単位を創設しようとするものであり、これは政府ではなく公立学校を経営する ための事業主体である(市川:2000:115)。つまり、中間学区構想は特定目的の政府で はないのである。市川は、「市町村の教育行政能力不足、その結果としての都道府県 への教育行政権限の集中、学校管理に関する両者の間の権限の重複といった問題」を 緩和・解決するために、狭義の教育行政は都道府県、学校経営は市町村に一体化すべ きであるといった観点から中間学区構想を提唱しているのである(市川:114−115)

もっとも、筆者の提案は中長期的観点に立ったものである。当面は、先ほど取り上 げた教育委員会の共同設置や広域連合などの広域行政制度で対応していくことが現実 的かもしれない。しかし、こうした広域行政制度では義務教育政府の創設を待たなけ れば解決できない問題も多い。いずれにしても、この場合も教育委員会を設置する か、あるいは首長部局による教育行政の執行にするかについては、自治体の自治的選 択に委ねるべきだと考える。

加えて、地方分権時代に適合した「特色ある学校づくり」を進めていくためには、

現在の義務教育費国庫負担制度や学級編成・教職員定数の義務標準法、県費負担教職 員制度などを見直し、諸矛盾を解消できる制度の構築が必要である。筆者は、規制緩 和による学校間競争には必ずしも賛意を表する者ではないが、上記の制度がある限 り、こうした規制緩和も意味をなさないことに留意する必要がある(学校選択制に賛同 する者として森田2005:136−137)。なぜなら、上記の諸制度が規制緩和論者の理想を阻 むように立ちはだかっているからである。したがって、伊藤正次の言う市場・選択モ デル(伊藤2001:51−52)は上記の制度を前提としていたのでは良好に機能することは ないのである。われわれはそのことを肝に銘ずるべきである。

7.おわりに

われわれは、地方自治が成熟しなければ、地方分権には悲惨な結果をもたらす側面 もあることを忘れてはならない。もっと具体的に言おう。中央省庁の官僚の抵抗にも 拘わらず、地方分権を勝ち取ることができたとしよう。このことは、当然、自治体の 諸権限が強化され自己決定の幅が広がることになるが、自己責任の範囲を拡大しその 程度を高めることにもなる。自治体の自己決定の幅の拡大とは、今まで中央省庁によ る一方的とは言え、しかしある意味では温情主義的決定によって、自治体は住民の多

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様な選好を披瀝させそれを変容させ、あるいは集約するといった困難な政治過程と政 治的決定を回避し得たのである。

しかし、分権時代においては、自治体にとってこの困難な政治過程と政治的決定は 日常的なものとなる。さらに言えば、この政治過程と政治的決定を良好な形で収斂す ることができなければ、当該自治体は政治的混沌状態に陥ることになる。一方でこの 政治過程と政治的決定を良好に収斂させた自治体との「格差」は拡大しその幅は中央 集権時代よりも拡大する。地方分権とは各自治体に諸権限を賦与した上で、それらを 用いて「政治的自由競争」をさせることだと考えればよい。この「政治的自由競争」

は、当然のことながら勝者と敗者を顕在化させる。敗者となった自治体の末路につい ては、倒産企業を思い浮かべればよい。これをもって、大桃敏行は地方分権改革に よって今までの普遍的で共通の教育の保障という理念とそれを支えてきた教育行財政 制度からなるトータル・システムが解体の危機に晒され「義務教育の危機」がもたら されるとする(大桃2005:30−31)。これについては国家に対し全幅の信頼が置けるか 否かという「根源的」疑問はあるが、こうした懸念の表明は取りあえず無視する訳に はいかないのである。

今まで自治体は、教育行政にどれだけ関心を抱いてきたであろうか。教育行政、特 に義務教育行政はナショナルミニマムであるから、国の責任であり、したがって中央 集権的に画一的に実施されるべきであり、地域に根ざした個性豊かで創造的な教育へ の取り組みなど行う必要はないと考えてきたのではなかろうか。文科省を頂点とし、

都道府県教育委員会−市町村教育委員会−学校現場と連なる垂直的行政統制スタイル に内心満足しこれを是認してこなかったであろうか。中央集権的義務教育行政は実に 心地よく教育委員会は自身の仕事をルーティン化してこなかったであろうか。これら の問いに対して多くの自治体はわれわれが納得する解答を与えることはできまい。文 科省の官僚である森田正信は、国が種々の制度の弾力化や新しい制度の創設等を行っ ても、自治体や学校現場は、こうした裁量の拡大に積極的に取り組もうとしないこと に懸念を示している(森田2001:173−174)

教育行政学者の堀和郎は、次のように指摘する。多少長くなるが引用しよう。すな わち、「教育委員会が教育の地方自治機構として設置されたにもかかわらず、その本 来の機能を発揮し得ず、形骸化していると指摘されていることに関しては、地方自治 体の責任が大きくかかわっている。たしかに、地方自治体にとっては、形骸化の克服 を試みようとしても、『縦割り行政』に基づく教育行政の集権的官治体制がそれを困 難にした事情はある。しかし、50年もの間、地方自治体は教育委員会を教育の地方自 治機構の担い手としてどれだけ真剣に支えてきたのであろうか。教育委員会の直面す る諸問題をどれだけ自治体全体の問題として真摯に受け止め、それを解決するための 制度・政策の整備に力を尽くしてきたであろうか。地方分権の新たな構築の求められ

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る新しい時代を迎えた今、そして、これから、地方自治体に問われるのは、そのこと なのである」と(堀2001:3)

堀のこの言説は、教育委員会活性化論に立脚していることは容易に理解できるので あるが、どの立場に立とうともここでの主張の趣旨は共通のものとして受け取ること ができよう。そして、ここでの主張は、団体としての自治体にだけ向けられたもので はなく、それを構成する一人ひとりの住民に対しても向けられていることに留意する 必要がある。住民も自らはサービスの受け手であり、つまり教育サービスの消費者で あるという認識に立っており、政治的決定に関わる自治の主体であるという認識を抱 いてこなかったことは否定しようがない。この点で義務教育政府の創設は、こうした 受動的住民をシングル・イシューで直接的に関与させる「自治の学校」としても機能 する。教育委員会の制度再編を行い委員会の活性化を図るのか、あるいは広範な分野 である教育行政を他の分野と同様に首長部局で実施するのかという問題は、住民自治 と団体自治の両観点から吟味すると、現在、実に中途半端に議論されていると言わざ るを得ない。教育行政の自治的展開を展望すると、様々な課題はあるが本稿での提案 は検討する価値があると思われる。

(参考文献)

1)安達和志(2001)「教育委員会制度と教育における直接責任の原理」日本教育学会編『自 治・分権と教育法』三省堂

2)市川昭午(2000)「分権改革と教育委員会制度」西尾勝・小川正人編著『分権改革と教育 行政―教育委員会・学校・地域』ぎょうせい

3)伊藤正次(2002)「教育委員会」松下圭一・西尾勝・新藤宗幸編『岩波講座 自治体の構 想4 機構』岩波書店

4)今井照(2005)「首長部局による教育政策のリスクと可能性―自治体教育機構の市民自治 型再構築に向けて」『月刊ガバナンス』No.46

5)大桃敏行(2005)「地方分権改革と義務教育―危機と多様性保障の前提―」日本教育研究 学会編『教育学研究』第72巻第4号

6)大森彌(2007)「分権改革に逆行する改正『地教行法』」『月刊ガバナンス』No.75 7)大山礼子(2002)「首長・議会・行政委員会」松下圭一・西尾勝・新藤宗幸編『岩波講座

自治体の構想4 機構』岩波書店

8)小川正人(2010)『教育改革のゆくえ―国から地方へ』筑摩書房

9)小川正人(2006)『市町村の教育改革が学校を変える―教育委員会制度の可能性』岩波書 店

10)岡田佐織・小川正人(2001)「教育委員会制度の機能と改革課題―全国市長・市教育長ア ンケート調査をもとに―」『東京大学大学院教育学研究科紀要』第42巻

11)加治左哲也(2001)「教育委員会の専門性と行政能力の向上」堀内孜編集代表『地方分権 と教育委員会2 教育委員会の組織と機能の実際』ぎょうせい

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12)片山善博(2007)「教育のフィールドから地方自治制度を点検する」日本の教育を考える 10人委員会編『今、義務教育が危ない!国民のライフラインを守ろう』ぎょうせい 13)河野和清(2003)「地方分権化時代における市町村教育委員会と学校」『日本教育行政学

会年報 29 地方分権政策下における自治体と学校』

14)新藤宗幸(2005)「教育行政に問われる『タテ系列』の解体」『都市問題』第96巻第4号 15)新藤宗幸(2002)「教育行政と地方分権化」東京市政調査会編『分権改革の新展開に向け

て』日本評論社

16)坪井由実(1998)「教育基本法10条と教育委員会制度改革―直接責任の法理と教育統治機 構論―」日本教育研究学会編『教育研究』第65巻第4号

17)坪井由実(2000)「教育委員会による地方教育行政と教育委員会1 地方分権と教育委員 会制度」ぎょうせい

18)外川伸一・安藤克美(2011)「政令指定都市のガバナンスに関する若干の考察」『日本都 市学会年報』No.44

19)中嶋哲彦(2009)「教育委員会の現状と課題―学習権保障の条件整備と教育の地方自治」

平原春好編『概説教育行政学』東京大学出版会

20)西尾理弘(2005)「義務教育行政における自治体の主体性−特色ある学校教育をめざし て」『都市問題』第96巻第4号

21)堀和郎(2001)「地方政治、地方自治と教育委員会」堀内孜編集代表『地方分権と教育委 員会3 開かれた教育委員会と学校の自律性』ぎょうせい

22)前川喜平(2002)「文部省の政策形成過程」城山英明・細野助博編著『続・中央省庁の政 策形成過程−その持続と変容−』中央大学出版部

23)村上祐介(2009)「地方分権改革後の教育行政における首長と教育長の関係」『日本女子 大学紀要人間社会学部』第20号

24)村松岐夫(2000)「教育行政と分権改革」西尾勝・小川正人編著『分権改革と教育行政―

教育委員会・学校・地域』ぎょうせい

25)森田朗(2005)「地方分権と教育改革」八代尚宏編『「官製市場」改革』日本経済新聞社 26)森田正信(2001)「指導行政と指導主事の配置、役割」堀内孜編集代表『地方分権と教育

委員会2 教育委員会の組織と機能の実際』ぎょうせい

27)横井敏郎(2004)「分権改革下の地方教育行政における『民衆統制』―岐阜県における知 事主導の『教育改革』」日本教育研究学会編『教育学研究』第71巻第2号

28)Bekkers, V. and A. Edwards.(2007)‘Legitimacy and Democracy : A Conceptual Framework for Assessing Governance Practices’, V. Bekkers, G. Dijkstra, and M.

Fenger, eds., Governance and the Democratic Deficit− Assessing the Democratic Legitimacy of Governance Practices, Aldershot and Burlington, VT : Ashgate

29)Papadopulos, Y.(2003)‘Cooperative Forms of Governance : Problems of Democratic Accountability in Environments’,European Journal of Political Reasearch,4

30)Scharpf, F. W.(1999)Governing Europe−Effective and Democratic ?, New York : Oxford University Press

31)Young, I. M.(2000)Inclusion and Democracy, New York : Oxford University Press.

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参照

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