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漢代磚墓の変遷とその分布について

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(1)

漢代磚墓の変遷とその分布について

その他のタイトル On the Variation and Distribution of the Brick Tombs of the Han Dynasty

著者 山田 幸一

雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要

巻 12

ページ 29‑53

発行年 1979‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/16065

(2)

漠代碑墓の変遷とその分布について

一︑ 緒

目 次 一

︑ 緒 言

二︑漢代碑墓の事例

三︑空心簿と小碑の交替期

1︑空心碍の終末

2︑小碑使用の始期

3︑両碑交替の実年代四︑碑墓の分布と拡散五︑結語ー残された問題ー参考文献

図 版 目 録

図一︑鄭州二里岡第三二号墓

図二

A

済源洒澗溝三座漢墓B︑済源洒澗溝三座漢墓図三︑洛陽西漠卜千秋壁画墓

中華人民共和国︵以下単に中国︶における近年の考古学的遣址.

遣 物 の 発 見 は 枚 挙 に い と ま な い が

︑ 就 中

︑ 漠 代 墳 墓 の 調 査 事 例 は

第一六号墓第二四号墓

竺 表

漢代碍墓の変遷とその分布について

第三三号墓 図四︑洛陽前漠墓構法見取図図五︑洛陽西郊漢墓︵金谷園︶第三︱一九号墓図六︑洛陽西郊漢墓︵金谷園︶第三二四四号墓図七︑漢代碑墓の分布I東漢初期以前

I I

東漢中期以後図八︑広東徐聞東漠墓

目 録

ー︑西漢及び新代

z

︑東漢晩期①

m

︑東漢中期 1 1 ︑東漢早期

東漠晩期②東漠晩期③

目覚しく︑同国の考古専門誌を毎号のように賑わせている︒漠代の 墓葬が木郭から漸次碑築に移行することは早くから知られており︑

また碑築墓の材料が空心碑から小碑に交替することも周知である︒

これらの点についてほ︑わが国でも古くから諸家の優れた論考があ

二九

(3)

①②

り︑殊に最近では長谷川誠一及び町田章両氏の広範な研究があり︑

前者は小簿墓における拱︵アーチ︶構法の発生と変遷に関し︑後者

は漢代墳墓全般︑特に傳築墓の規模・型式の変遷について詳しい︒

長谷川論文における空心簿墓斜岐頂と小傳墓弧頂の前後関係に関

する考察︑また町田論文における大墓と中小墓を分離して漢代墳墓

の特徴を整理されたことは︑それぞれ卓見といわなければならず︑

本稿もその多くを両論文の成果に負う︒

しかしながらその後も相継ぐ遣吐・遺構の発現は︑先学諸家の考

察を跡づけるにせよ︑修正するにせよ︑改めて整理しておくべきも

のであろう︒本稿は最近に調査報告の行われた事例を中心に︑漢代

傳築墓︑特に小薄墓の発生時期と︑その分布を探ろうとするもので

ある︒もとよりこの種の研究において︑現場を実見せず論考を進め

る危険は問われるまでもない︒そのような不備は︑今後の研究と大

方の批判を仰ぐことにより修正を重ねることとしたい︒

なお本稿に使用した表・図は︑その大部分を本学工学部建築学科

昭和五十四年卒業生平尾和久君︵現・ナショナル住宅建材株式会社

勤務︶の卒業研究により︑一部の作成は︑本学大学院工学研究科建

築学専攻︵修士課程︶谷村昭君を煩わせた︒

①長谷川誠一﹁中国における拱式架構の出現﹂考古学雑誌第五七巻第四

号︵一九七一︶

②町田章﹁華北地方における漢墓の構造﹂東方学報京都第四十九冊︵昭

和五十二年二月︶

二︑漢代榑墓の事例

表一は近年の中国考古学専門誌に調査結果が紹介された漢代を中

心とする陣築墓︵以下単に礒墓︶の一覧である︒ここに傳墓と呼ぶ

②③

のは︑空心礒または小陣で築かれた地下墳墓をいうが︑若干の陣石

合構︵混用︶墓をも含むものとする︒以下に同表の項目名について

説明を加える︒

①記号

築造期別の順をアルファベットAないしE︵期別とアルうてヘ

ットの関係は③で説明する︶で示し︑同期のものは︑原則として

地理的に東北に位置するものから順に数字を打つ︒但しBについ

ては︑明らかに年代が上ると思われる1ないし5を前に置き︑以

下は原則に従った︒C以下についても年代の前後関係の明瞭なも

のが若干存在するが︑これについては年代の項に譲り︑数字の順

はすべて原則に従う︒なお本文中に記号を引用するときは︿﹀

で囲む︒③名称︵所在地︶

すべて調査報告書の名称に従う︒墳墓の名称は被葬者の名を冠

するのが普通であろうが︑多くの場合はそれを知り得ないので︑

一般的には所在地︑またはそれにその墳墓の特徴︵例えば壁画を ③平尾和久﹁中国陣の組積工法の史的研究﹂関西大学工学部建築学科卒

業論文︵一九七九︶

(4)

表ー(I)西漠及び新代

号"し,̲口F:,. 名称(所在地)年代部位 構造法と材料備掲報載告書誌法1壁硼法I碑の種類

ぢ勾:;

考頂 Bl 洛陽西漢卜千秋壁画墓(昭B帝C8〜6宜4帝9)  墓門塔成橋形帯押空心碑文物'77‑6主室平脊斜披横靭,竪硼空心碑壁画あり耳室券頂錯縫順靭楔形小碑

B2 洛陽西漢壁画墓M61号墓(元B帝C4〜8成7帝)  主室斜披空心碑考古学'6報4‑4 耳室券頂小碑 B3 河南桐柏万閥漠墓(武B帝C〜14西0漢A末D 6)  単室? 平列交錯靭小紺3座あり考古'64‑8 B4 河南済源洒澗溝漢墓M16(焼MB溝1C6三3よ2期り梢以A前晩D20)  単室円洪形券錯縫順靭小碑3座あり文物'73‑2 同M24 単室円洪形券錯縫順靭小縛M16と起券法が異るB5 河南翠県石家庄古墓群焼溝三期墓門楯式空帯心有子碑母口的空心碑はやや小さ考古'63‑2し、砥室並列塁靭空心碑

B6 河墓南鄭州新通橋画象空心碑西漢晩期墓門楯式帯樺空心碑 文物'72‑10

砥室呈洪脊状錯縫儀靭帯押空心碑空彫心られ碑には図案が長方形空心碑 ている B7 河南翠県葉嶺村西漠墓西漠末〜新代弧頂順縛錯縫畳靭小縛一部石造考古'74‑2 B8 西安東郊韓森砦漢絡西漠晩年主塞券洞式小碑文物'60‑5耳室券一弓形土洞 B9 湖南長沙古代墓王非代墓室券頂単(塀壁)平碑直硼乎碍文物'60‑3 B10 湖南零陵李家園発現新非墓王非代単室券頂小碑考古'64‑9 B11 洛陽老城西北郊81号漠墓元帝〜王非代D 雨道(BC33A 6)  横舗平頂塁靭(竪硼)空心簿考古'64‑8

主室門楯式特制空心碑 空隙に小縛をつめる墓室平頂両斜式横硼三層樺卯的空心碑耳室は土横

認惹嬬Q~..1Jtt1Qit{~U{':,. ¥J 

111  I 

(5)

11111・ 

表ー(II)東漢早期

名称(所在地)年代部位 構造法と材料掲報告載書誌記号法壁靭法碑の種類

I

モのル種ク類ル 備考頂

Cl 北京昌平白浮村漢墓新芽代前後単室洪券(二層)両舗一立小碑考古'63‑3

ー舗一立合計10座出土

C2 河北定県北庄漢墓建(武A三D十54年) 券頂対縫硼築長方,扇形縛中山簡王劉焉の墓文物'64‑12

C3 山西太原金勝村9号漠墓東漢早期単室船縫頂式交互平靭小碑,子母縛石榔縛室墓文物'59‑10

C4 江蘇塩城三羊塾漠墓西漠末〜東漢早平舗一層土坑縛柳砥考古'64‑8 C5 河南鄭州二里闘漠画象空心西東漠漢l晩早期期 屋脊空心薄封象碑門をに小含碑む併用画考古'63‑11胃墓 M32 M33 並列平放

C6 河南榮陽河王水庫漢墓王非代〜東漠中四面結頂?小聰文物'60‑5

C7 河南桐柏万閥漢墓東漢早期弧形券頂乎列交錯畳硼小碑,楔形碑考古'64‑8

CB 江西南昌市郊漠墓新代〜東漢初単室券頂長方形考古'64‑2

C9 江西南昌青霙譜漠墓東漠前期単室洪頂乎臥縦硼長方形,斧形考古'60‑10

ClO 広東紹関市郊古墓MS東漢初期円洪形単券平硼放,順碍畳長方形,刀形考古'61‑8 同M12 券層頂)(一,二

en 

広州動物園東漢建初元年墓東(漢初期AD76)  雨道,後室券頂平碑,斧形大型縛文物59‑11

中室円錘形双隅結靭下方上円である C12 広東徐聞東漢墓東漢前期単室券券頂頂 顧碑丁碑相聞小薄章(帝前後)? 考古'77‑4AD86 同碑石合構墓長方形石板硼小碑頂部のみ縛硼

(6)

表ー(皿)東漢中期 記号名称(所在地)年代部位 構造法と材料備考掲報告載書誌法1壁靭法1碑の種類!忍は溢頂 D1 壌内蒙漢古墓自治区包頭市腐爾吐前室四薩面式起頂券?的弯小碑文物'60‑2

後室円券頂 D2 遼寧濡陽伯宮屯漠墓東漠中期か梢晩碑榔洪券頂?子母縛考古'64‑11 D3 江蘇丹陽東漢墓永(元A十Dl三O年l) 長方碑考古'78‑3

D4 洛陽14号漢墓四面撰頂小碑文物参'5考5‑資10料

弧券小碑隔壁(塀)空心簿

D5 河南常県石家庄古墓墓門楯式小碑,空心薄考古'63‑2単室券頂交錯縦連硼法小碑 D6 甘粛酒泉県下河清漢墓Ml東漠時代頭道門三重券靭小薄下櫓壁部あに単り券で付く文物'59‑10

前室弯薩頂丁掟頂,徒硼小薄,壁画碑写真では四面撰頂後室満硼成棋形一丁三順小碑文物'60‑‑‑2前門三重券子母碑植壁あり後室券頂長方,子母碑 D7 江西南昌東漠墓単室券頂両横両縦錯縫長方,刀形碑考古'78‑3 D8 

罰紅

14年墓<湖南・衡墓室券頂?双碑乎靭長方,斧形碑文物'77‑2 D9 広東仏山市郊瀾石東漠墓前室畳渋単薩頂錯縫乎舗長方,楔形碑考古'64‑9

後室券頂錯縫平舗

撼ギ惹嬬Q~.>J~Q(B~U0;, t‑' l I 1111 

(7)

111目

表ー(N)東漠晩期①

部位 構造法と材料備掲報載告誌書記号名称(所在地)年代

法 1 壁硼法 1 碑の種類 I~ 勾 iM

考頂 El 内蒙古和林格爾東漠壁画墓永(和A五D1年50以)降 墓室弯薩頂一丁三順長条薄封ル門ク簿ル使に壁用か画。?文物'74‑1

甫道券頂 E2 北京順義臨河村東漢墓焼溝五型墓門一丁ー順小碑壁痕上跡に塗抹石灰の考古'77‑6 E3 北漢墓京群昌平半裁塔村東周和両単室双券頂?両立舗,ー舗一小簿考古'63‑3 E4 河北定県43号漢墓景(平174三)年?耳室一層券?単縛中か山?穂王劉暢の墓文物'73‑11

前室双層券?

後室三層券?扇面単碑 ES 河北石家庄市北宋村漢墓墓室単層円洪券扇形簿用白灰潅漿を使文物'59‑1 E6 河北石家庄市橋東単室碑墓雨道洪頂長方碑文物'59‑4 E7 山西孝義張家庄漢墓前,後室方錐頂条碑石灰使用考古'60‑7

耳室双層円頂

EB 山西丙城石門村漠墓墓門券門小碑壁画あり考古'63‑9

E9 安徽奄県鳳凰台1号漢墓用道単券小碑壁画あり考古'74‑3 ElO 江蘇徐州銅山碑石結構墓墓室券頂長条,券簿考古'64‑10 Ell 河南鄭州二里闘漢代小碑墓隔壁券門縦列錯縫碑築長方簿考古'64‑4

墓壁一丁二順 El2 河壁南画墓密県打虎亭漠代画象石`券頂三層長方,楔形碑石灰使用壁画あり文物''6702‑‑410 

(8)

表ーCW)東漠晩期② 記号名称(所在地)年代部位 構造法と材料備掲報告載書誌法

i

壁硼法碍の種類

I 忍は潅

考頂

E13 洛陽東関東漠殉人墓焼溝5型墓墓門双層円批券長方,扇面石灰塗抹を用碑石混合硼築。文物'73‑2いて加固

雨道双層券頂一竪四二順順等, 三順,

前後室券層頂)(一, 

E14 河南霊宝張湾漠墓M2前室弧形券頂小縛石灰で舗装文物'75‑11

同M3 後,耳室弧形頂小碑

E15 河南南陽東漠許阿置墓建(寧1703)年〜三国期単室石造石条平蓋硼四横法一竪圧縫小碑文物'74‑8 E16 甘粛武威雷台東漠墓前後,室中' 複斗式小碑天井に壁画文物'72‑2

・‑E17 甘粛武威勝家庄漢墓〜魏晋代甫道洪形券小碑考古'60‑6

前室四(方面撰)頂

後,耳室四(長面撥方頂) : 

.El.8 甘粛涯泉漠代小咳墓M3壊室蓋住墓頂乎砺条薄子供の墓考古'60‑6

一‑単室洪形平靭子母,条薄 E19 甘粛嘉裕関漢画像碍墓墓門洪重券〉く五,六乾縛壁硼法画は特あ殊。碑文物'72‑12にほ象り。

前,中室複斗式

耳,後室券洪頂

継起惹議Q~-\.1,\JQ~~以0今ドlllf8 

(9)

111K 

表ー(N)東漠晩期③

代 構造法と材料報掲載告書誌記号名称(所在地)年部位法壁硼法碑の種類モのル種ク類ル備 考頂 E20 青海西寧移咆郷指揮庄村漠墓 券頂小碑文物'59‑2 E21 青海西寧南灘漢墓券頂平舗錯縫硼長条,子母碑考古'64‑5 E22 湖北房県東漢墓本(初14元6)年〜 墓門洪形く四重>普通,楔形縛第碑三横券重。目は普通,J考古'78‑5

墓室券頂順碑錯縫

E23 四川阿壻州漢墓単室船筵式頂錯縫平硼長方,楔形碑石材混用文物'76‑11 E24 四川宝興県来金山北麓漠墓永(建5年〜130)  単室券頂長方,楔形碑文物76‑11

弧形薄

E25 江西清江武陵東漢墓墓門双層洪門長方碑考古'76‑5 E26 江西永新東漢墓〜六朝乎靭,横硼長方,楔形碑

帯樺長条碑I  考古'64‑8 E27 湖南長沙東屯渡東漢墓券洪式小碑文物'60‑5 E28 貴州齢西県漠墓券頂?長方,楔形碑文物'72‑11 E29 広東詔関市郊古墓永(和1383)年 単碑乎靭長方,刀形碑考古'61‑8 E30 広東仏山市郊瀾石東漠墓前室M6  弯薩頂長方,楔形碑考古'64‑9

墓門双券 同M14 前室円券頂

後,側室単券頂

‑‑.. ―‑

(10)

漢代

碑墓

の変

遷と

その

分布

につ

いて

第四期︑東漠早期︒

第五期︑東漢中期︒

第六期︑東漢晩期︒ ら︑それらの年代幅等は本項目中に説明した︒ もっとも期別が右のように画然と判定し得ない事例も勿論多いか

なお︑ここに早・中・晩期というのは︑前・中・後期というほ

どの意味であるが︑漢代の墳墓に関し詳しい編年を行っている

④ 

﹁洛陽焼溝漠墓﹂︵以下単に﹁焼溝漢墓﹂︶でこの表現を用いてい

るのに従う︒因みに﹁焼溝漢墓﹂の編年は

第一・ニ期︑西漢中期及びそのやや後まで︒

第三

期︵

前期

︶︑

西漠

晩期

第三期︵後期︶︑王非及びそのやや後まで︒ E 

二0AD二四年。B 西漢•新、高祖ー淮陽王、BC二年ないし

東漢早期︑光武帝ー明帝︑二五年ないし七五年︒

東漢中期︑章帝ー質帝︑七六年ないし一四六年︒

東漢晩期︑桓帝ー献帝︑一四七年ないし一三

0

年 ︒

表には載せていない︶

紺 (.::}  り (口) (イ)

(5) 

@ 

本表にいうAないしE

は次

の区

分に

よる

秦代

以前

︑ B

C二

0

一年

以前

︵但しこの期のものは本稿の対象から外しているので︑本

(4) 

年代 有するときは壁画墓︶が付加されている︒

いるものについては︑その種類を記した︒ モルタルの種類︒碑の組積にモルクルの使用が明記されて その種類別 で︑その第一ないし三期︵後期︶が本表のB︑第四・五及び六期

が本表の

C.D

及び

E

にそ

れぞ

れ対

応す

る︒

部位多室墓等で主室・耳室の別や位置により構造の異るものについ

ては︑ここに部位名を示し︑構造形式と対応させる︒

構造法と材料

頂法︒墓室頂部の構法をいう︒報告書によって異った名称

でも殆ど同じ構造を指すと思われるものもあるが︑細かい差

異が明確でないので︑ここではすべて原報告書のとおりに記

す︒個々の構造の特徴は後述する︒

壁硼法︒墓壁の組積法をいう︒種類別の説明は後述する︒

碑の種類︒使用されている薄を空心碑と小碑とに大別して

示す︒両者とも︑その形状の単純なものと複雑なものとがあ

るが︵例えば小碑における楔形碑・子母碑等︶︑

の使用が明記されているものについては︑そのうち最も複雑

と思われるもの︵主として頂部に使われている︶を記した︒

報告書掲載誌︒ここでは掲載誌のみを記すが︑本稿末尾に

附した参考文献欄に報告書題名等を挙げた︒参考文献の記号

は本表の記号に対応する︒

なお﹁焼溝漢墓﹂では︑主として頂法の扱い方によって墓形を

(11)

第一型から第五型までに分類し︑さらに平面形等によって一式・

二式等に細分しているが︑それぞれの形式は必要に応じ本文中で

説明する︒

①表一を作成するために参照した専門誌は次のとおりである︒

イ︑文物参考資料

一九五一年一期から一二期︒一九五三年一期から六期︒

ロ︑文物

一九五九年一期から一九六○年六期︒一九六一年一期から一九六六

年五期︒一九七二年一期から一九七八年九期︒

ハ︑考古

一九六○年一期から一九六四年一二期︒一九六七年一期から一九七

︑一年六期︒一九七四年二期から一九七八年六期︵うち一九七五年二・

三期は欠︶︒

各専門誌とも︑右記の号以外は本稿では参照できなかった︒それらに

ついては後日稿を改めたいが︑近年における調査の大網は表一で把承得

るものと思う︒

②本稿にいう空心傳とは︑壁卿用の直方体形のものの承でなく︑各種の

異形簿も含むものとする︒因承に﹁焼溝漢墓﹂︵本文後出︶では空心陣

を次表のとおり分類している︒

条薄 柱薄 背薄 三角簿 薄型

’ | 門琴

柱底

平頂墓一弧頂墓 施用部位

封頂門壁

山背門底

塔 額

表註,本表中の用語につ

いては,本文中に必要に

応じ説明を加える。

1︑空心陣の終末

ここでは表一を中心に︑陣墓の構成材料が空心簿から小陣へ交替

した時期について検討する︒まず︑秦代以前に小陣またはそれに類

似したものが墳墓の構造体l壁体や頂部の構成︑以下躯体という

lに用いられた例はなく︑一方︑三国・普代以降に空心傳が存在

したことも聞かない︒したがってその交替期が漢代にあったことは

いうまでもなかろう︒

河南省鄭州二里崗で発掘された二座の漢画像空心傳墓︿C5﹀

は︑表一の中では最晩期に属する空心陣墓である︒二座のうち︑第

三三号墓は長方形の主室と耳室とからなり︑何れも長さ一・二五︑

幅○・五六︑厚さ○・一五メートルくらいの空心傳を横積にして墓

壁を構成した上に︑同様の空心簿を並列平放︵平天井の形に陣を水

平に並べて置く︒平頂とも呼ばれ︑﹁焼溝漢墓﹂にいう第一型の墓

頂︶の墓頂を作っている︒一方の第三二号墓︵図己は長方形単室 ③本稿にいう小傳とは︑空心陣でない焼成煉瓦で︑長方体形のもののほ

か︑喫形・帯檸︵柄付のもの︑子母榑ともいう︶等の異形簿も含むもの

とする︒

④中国科学院考古研究所編﹁中国田野考古報告集︒洛陽焼溝漢墓﹂︑一

九五九年十二月︒本報告書は焼溝において集中的に発見された延べ一○

四○に余る各種漢墓に関し︑その型式や年代につぎ詳説している︒現在

においても漢墓に関する最も纒まった調査報告書であろう︒

三︑空心傳と小傳の交替期

(12)

漢代

碑墓

の変

遷と

その

分布

につ

いて

形︵切妻または舟底形︑﹁焼溝漢墓﹂にいう第二型の墓頂︒

﹁焼溝漢墓﹂の第二型には︑後出の小碑による券頂︑すなわちヴォ

ールト形墓頂をも含み︑舟底形及びヴォールト形を一括して弧頂と

呼んでいる︶の墓頂としている︒なお第三二号墓では︑封門部分に

若干の小碑が使用されている︒

さて右の両墓の築造年代は︑報告書によれば随葬品等から推して

西漢晩期ないし東漢早期におかれている︒したがってここでは空心

碑墓の終末期を一応この頃としておく︒因みにこの年代は﹁焼溝漢

墓﹂

期別

の第

三な

いし

第四

期に

相当

し︑

焼溝

では

その

間に

第一

︱︱

︱︱

一号

墓のような平頂を持つ空心碑墓は既に見られず︑同墓群の第一

0 ニ

号墓がこの両期にまたがる空心碑墓で︑主室は弧頂で図一に似てお

り︑耳室のみが平頂になっていたらしい︒そして﹁焼溝漢墓﹂でも 墓

で︑

使用されている碑は︑

但し

様で︑ここではその空心碑を縦横に積み上げて墓壁とし︑

に斜披碑︵壁硼用のものに比し細長い︶を互にもたれかけさせ屋背 幅は少し狭いが第三三号墓とほぼ同

一 九

但し空心簿墓と呼ばれるものが︑この

時期に終煉したものとしても︑空心碑そ

のものはさらに後まで使用されている︒

表一において︑東漢中期に比定されてい

る洛陽一四号漢墓︿

D4

﹀及び河南省翠

県石家庄古墓︿

D

5﹀にその例が見られる︒石家庄には計九座の東

漠墓があり︑うち六座がその中期のものとされているが︑その中の

第一五号墓では墓門の両桓を小簿で積み︑

︵楯︶を横架している︒同墓群で空心碑の使用が見られるのはこの

部分だけである︒また湖南省寧郷でも東漢期墓中から三塊の空心碑R による墓門桓が発掘された報告がある︒このように東漠中期に至っ

てもなお空心碑は散見し得るのであるが︑既に墓の謳体を構成する

主要材料とはなっておらず︑その座をすべて小碑に譲っている︒さ

らに東漠晩期に降れば︑中期に見られた空心碑の部分的使用さえな

2︑小碑使用の始期

次に空心碑墓に代って拾頭する小碍墓の始期について見よう︒河

これ

らの

南省も湖北との境に近い桐柏万巌では計九座の漠座が発掘され︑そ

のうち五座が小碑墓で︵他は土坑墓︶︑さらにその中の三座が随葬

品から武帝の頃から西漢末のものとされている︿

B

3﹀

く︑ましてそれ以後の墳墓からはまったくその跡を絶つ︒ その上

その上に空心碑の門額

NJ

';

 . .  

1 1 Im   

,,,.,,,,,,, 

鄭 州 二 里 闘 第32号墓

(参考文献

< c s

〉によ

る)

上・断面図

c m

法は屋背形)

下・乎面図 図一

これを最後として空心簿墓は見られなく

なる

(13)

lm 

I,,, I 1°1  I 1,  I 

図二A 済源洒澗溝三座漠墓第16号墓

(参考文献(B4〉による)

甲→ ←甲乙→ ←乙

乙 ← ︱

← 甲

0

lm 

' " " ' " " '  

図二B 済源洒澗溝三座漢墓第24号墓

(同上)

(14)

漢代

碑墓

の変

遷と

その

分布

につ

いて

墓は頂部が一様に陥没しており頂法は明らかでないが︑壁硼.舗地

とも小碑のみで︑空心碑が用いられた形跡はない︒一方︑同じ河南

省でも黄河より北の新郷市で発掘された済源油澗溝漢墓︿

B

﹀4

三座は何れも墓頂まで整った小碑墓で︑墓壁はすべて錯縫順硼︵破

れ目地で長方碑を平積にする︶で積まれている︒頂法ほ円洪形券と

呼ばれるヴォールト形であるが︑しかしこの部分の碑の使い方は二

種に分れている︒すなわち︑第一六号墓︵図二

A)

では墓壁が錯縫

であるにもかかわらず︑起洪点︵墓壁頂︶から上は直縫順硼︵碑

ほ平らに使うが、目地を芋目地ー通目地—~にする)であるのに

対し︑第八及び第二四号墓︵図二

B)

ではこの部分も壁硼と同じく

錯縫順硼で︑それぞれヴォールトを構成している︒なお図で見る限

り︑起券用の小碑は楔形と思われる︒

﹁焼溝漢墓﹂の編年では済源第一六号墓のような直縫形式のヴォ

ールトは︑錯縫形式のものよりやや年代が上るとしているが︑随葬品等より推して報告書では、第八•第二四号墓と雖も新代を降るこ

とはないとしている︒なお同省堂県葉嶺村西漢墓︿

B

﹀も西漢末7

ないし新代のもので︑一部に石を混えてはいるが︑墓壁は小碑の順

碑︵順硼に同じ︶錯縫︑頂法は順硼直縫で︑さきの済源第一六号墓

に似ている︒表一に挙げた限り︑以上が小碑のみを用いた墓葬とし

て最も古い例に属するであろう︒なお小碑のみを用いた湯合︑頂法

は必然的にヴォールト形︵券頂︶またはドーム形︵弯窟頂︶を採ら

ざるを得ず︑空心碑のときのような平頂を作ることほ技術的に不可

能であることに注意しておきたい︒

次に空心碑墓であるが小碑も艦体構造に併せ用いている例として

ほ︑洛陽西漠卜千秋壁画墓︿

B

1﹀及び洛陽西漢壁画墓第六一号墓

B2〉がある。このうち卜千秋墓(図一―-)の主室は墓底•四壁・

頂部ともすべて空心碍によっているが︑その頂法は平背斜波で︑前

出の鄭州二里巌のもの︵図一︶が斜披碑を単にもたれかけさせただ

けの屋背形であったのに対し︑ここでは頂部に頂背碑と呼ぶ乎らな

部材を加え︑舟形平底︵台形︶の天井を作っている︒ここでは同じ

<斜披を用いながら︑年代の降る二里巌の方に簡略な頂法の採られ

ていることに一応注目しておきたい︒それはともかく︑卜千秋墓の

左耳室は︑主室とは対照的に墓底.墓壁・墓頂とも小碑で築かれて

おり︑壁硼は錯縫順硼︑頂法は楔形小碑を用い直縫順硼で完全なヴ

ォールトを形成している︒洛陽第六一号墓の主室と耳室の構成もこ

れと殆ど同じといってよいが︑頂法ほ錯縫順硼である︵図四︶︒墓

葬年代は卜千秋・洛陽ともほぽ同じと思われるが︑前者が西漢中期

やや後︑昭帝ないし宜帝

(B

C八六年ー

B

C四九年︶︑後者がやや降

って元帝ないし成帝

(B

C四八年

│BC

七年︶の間とされている︒こ

のように︑主室と耳室の違いがあるとはいえ︑同一の墳墓に空心碍と

小碑がともに構造材として使われている例は︑これら二種の碑の交R 替期を探るうえに重要な位置を占めるものといわなければならない︒

﹁焼溝漢墓﹂では既に第一型の墓葬に小碑が見られる︒しかしこ

こで使用法は舗地または空心碑壁硼の補完用︑或は封門用としてで

(15)

縦断面図

‑ ‑‑ ‑ ・ ' " ‑ ・ ‑ ‑ ・ ‑ ‑ ・ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ・ 1   f てニフ

̲ ̲ ̲  [  __—-   ‑ l l ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ̲ j  

r , '  

rIIIIIIIIIIIIII9,IIIII 

1 ,

1'1.911

︱  

︱  

︱  

,11

'1

99

L

N ‑」 │

Im 

' " " ' " " '  

2 .   平面図

3 .   後壁

図三洛陽西漠卜千秋壁画墓

(参考文献 <B1〉による)

(16)

漢代 墓碑 の変 遷と その 分布 につ いて

図 四 洛 陽 前 漠 墓 構 法 見 取 図

中華人民共和国漠唐壁画展図録(写真・資料中国人民対外友好協会,製作 東京・大塚巧芸社昭和51年1月)による

四 一

あって︵例︑第二号墓︑第二期︶︑もとより艦体を構成する主材料 とはいい難い︒﹁焼溝漢墓﹂で長方碑による壁硼及び楔形小碑によ る券頂の現われるのは︑例えば第八二号墓のように第二型一式︵弧 頂で︑かつ雨道を有しないもの︶からで︑期別では第三期の前期以 降︑実年代では西漢晩期ーー成帝ないし王奔

(B C三二年ー

A D

0

年︶ーーに相当し︑主室の用材に空心碑と小碑の違いはあれ︑乎面

形の相似性から推しても︑おおむねさきの洛陽第六一号墓と同年代 と考えられる︒この時期の﹁焼溝漢墓﹂では︑空心碍は墓門の横額

︵楯︶のみに用いられることが多く︑これを明らかに謳体構成に使 用しているのは︑第三ないし第四期の間とされている前引第一

0 1

号墓のみゃ他の諸例は壁・頂部ともすべて小碑で築かれたものば かりである︒したがって﹁焼溝漢墓﹂でもこの時期︑すなわち実年 代で紀元前後には空心碑から小碑への交替がほぼ終わっていたと見 て差 支え なか ろう

︒ なお焼溝と同じく洛陽近郊の金谷園で集中して発掘された墳墓群

︵洛 陽西 郊漢 墓︶

g

︑西漢中期に比定されているものの中

9

焼溝

一型︵空心碑墓で平頂︶のもの︵例︑第三︱一九号墓︑図五︶と︑

同二型︵小碍券頂墓︶のもの︵例︑第一︳三四四号墓︑図六︶が折半 する形で併存している︒金谷園は随葬品等の比較から︑焼溝よりも 優位にある集団の墳墓と考えられているから︑築造技術面でも先進 性を有し小碑券頂工法が早く採り入れられたという指摘は充分に説 得性を持つ︒もし所説の如くこの一群を西漢中期のものとすれば︑

(17)

小碑を艦体構造に使用した最も早い例とすることができよう︒しか し一方で︑卜千秋墓・洛陽第六一号墓︑あるいは焼溝第一

0

二墓

の ように主室と耳室を備えているものでは︑まず耳室において小碑券 頂が現われ︑主室には依然として伝統的な空心碑が用いられていた︒

□  ~,

 

□ 

, , , , . , , , , , ,  

図五 洛陽西郊漢墓(金谷園) 3119号墓

(三註⑦引用文献による)

このような例から推せば︑集団の先進性は認めるとしても︑同じく 洛陽周辺の金谷園においてのみ︑いわゆる一型と完成した小碍券頂 が同一時期に併存したとは俄かに首肯し難い︒この点についてほな

⑧ 

後お

考を

侯ち

たい

3︑両碑交替の実年代

以上を総合して︑小碑使用の始期と空心碑の終末はおおむね次の 如く要約することができよう︒

z L

︑ ︱

Im 

"""""' 

四四

図六 洛陽西郊漠墓(金谷園)

(同上)

第3244号墓

(18)

そしてさらに金谷園における編年を考慮に入れれば︑少くとも洛

陽周辺の先進地域においては︑早ければ西漢中期︑降っても同晩期

の初めまでには︑小碑による券頂は熟知されていたというべきであ

る︒なお壁硼用の長方碑は︑その煎芽が早く秦代に認められる以

上漢代の墳墓で空心碑による壁硼と併行して封門等に使用されて

いるのは当然で︑それが艦体構造に移行することは︑少くとも技術

的には何の障碍もない︒したがって長方碑使用の始期を壁硼に関し 大

きい

漢代

碑墓

の変

遷と

その

分布

につ

いて

ばかりであった︒ は第三期前期以降で︑済源洒澗溝漢墓の年代とほぼ一致するが︑それらは空心碍との併用でなく︑謳体をすぺて小碑のみで築いたもの

伝統的な空心碑に抗して小碑が拾頭するには︑まず副次的な使用

から始ると見るのが自然であるから︑空心碑と小碑とを併用したも

のが﹁焼溝漢墓﹂第三期以前に存在したとしても不思議ではなかろ

う︒その意味でも︑主室を空心碑で︑耳室を小碑で構築した卜千秋

墓や洛陽西漢墓︵何れも実年代を比較的限定し得る︶の存在意義は てよいかもしれない︒﹁焼溝漢墓﹂において小碑券頂の現われるの まず小碑は前一世紀半ば以前に比定される卜千秋墓において︑耳

室とはいえ楔形小碑による直縫順硼のヴォールトが完成していた︒

ここで既に楔形小碑が認められる以上︑通常の長方碍による壁靭は

いわずもがなであろう︒この時期は﹁焼溝漢墓﹂の期別にいう第三

期の前期に一応当てられようが︑或は第二期の終末期にまで遡らせ

四五

て云々することは︑この湯合あまり意味はなかろう︒

一方︑空心碑のみによる構成ほ︑﹁焼溝漢墓﹂ではおそらくは第

三期に遡らせてよい第一

0

二号墓が最後であるが︑表一では或は東

漢早期まで降るかと思われる鄭州二里巌のものである︒そうすれば

時期的に初期の小碑墓とラップするわけであるが︑これまた伝統様

式と新興様式の併存と考えれば理解できるし︑部分的な使用が東漢

中期まで散見されるのもまた当然であろう︒しかし空心碑のみで謳

体を構成する本格的な空心碑墓は︑遅くとも東漢早期に終煉したこ

とには異論なかろう︒

註①映西省臨撞県秦備坑では、一号門道南辺に長さ約0.八、厚さ0•五

メー

トル

の条

碑︵

写真

に見

る限

り小

碑と

同形

︶積

の辺

塙が

発見

され

てい

る︵

文物

︑一

九七

五年

︱一

期︶

︒し

かし

これ

は単

なる

︒^

ーテ

ィシ

虞ソ

で︑

謳体

を構

成す

るも

ので

はな

い︒

なお

同個

坑底

部︵

床面

︶に

は青

碑が

︑ま

た秦

都咸

陽第

一号

宮殿

建築

遺址

の第

八室

では

舗地

用に

方碑

が︑

さら

に土

留の

よう

な形

で碑

︵形

状不

詳︶

が竪

積で

用い

られ

た例

はあ

る︵

文物

︑一

九七

六年

︱一

期︶

︒因

みに

後者

の遺

址で

は各

種文

様の

入っ

た空

心碑

︵画

像碑

︶も

出土

して

いる

②焼溝第一

0

二号

墓の

頂部

は後

に見

る洛

陽卜

千秋

壁画

墓︿

B1

﹀ ︵ 図 一

ー ー ︶

と同

じ平

背斜

波で

︑同

じく

舟底

形と

いっ

ても

鄭州

第三

二号

墓と

まっ

た<

同じ

では

ない

︒な

お第

0

二号

墓の

年代

につ

いて

は後

に再

考す

る︒

③参考文献︿

B

9﹀

によ

る︒

④フラット︵陸︶アーチを用いれば小碑による乎頂も理論上は可能であ

る︒

しか

し開

口の

楯程

度の

奥行

なら

ばと

もか

く︑

水乎

な屋

蓋を

煉瓦

で造

るこ

とは

︑古

今東

西そ

の例

を知

らな

い︒

居庸

関冥

台︵

北京

西北

約六

0

(19)

P︑現在のものは元・至正三ーー一三四三ーー年の建設︶の門洞天井の

中央部が︑あるいはこの例かも知れないが︑これも外壁面の洪門部はフ

ラットアーチであっても内部の平天井部分は別の構造ー—

l例えば、上部

荷重を一旦通常のヴォールトで受け︑下面を何等かの方法で水平に貼石

するー—である可能性が強い。なお漢代にほ楯と雖もフラットアーチは

見られず︑小碑墓で開口を水平にしたいときには︑後述の補助アーチを

用い

てい

る︒

⑤報告書によると︑卜千秋墓主室の壁画ほ空心碑を積み上げてから描い

たものではなく︑あらかじめ番号を付した個々の空心碑に白日の下で彩画し︑それを順序に従って組み立てたものとされている︒すなわち︑今

日でいうプレハプ的工法が採られており︑単に年代の特定と空心碑・小

碑の併用の事例としてのみならず︑この意味でも卜千秋墓は注目すべき

遣構

であ

ろう

⑥﹁焼溝漢墓﹂では第一

0

二号墓が第四期まで降る可能性のあることを示唆しているが︑既にほぼ同じ楷造を持ち︑しかも年代を比較的特定し

得る卜千秋墓等の存在が明らかとなった現在︑敢えて年代を降す必要はなく︑むしろ第三期に特定すべきものと思われる︒

⑦中国科学院考古研究所洛陽発掘隊﹁洛陽西郊漢墓発掘報告﹂考古学

報︑一九六三年第二期︒金谷園墳墓についてほ︑一註②書に説かれている︒以下︑本稿の金谷園に関する考察は多く同論文に負う︒

⑧洛陽西郊漢墓第一ニー一九号墓︵図五︶は墓室が東西二棺室に分れた

﹁焼溝漢墓﹂にいう第一型二式墓である︒このうち西棺室頂部は空心碑平頂であるが︑東棺室の頂部は小碑券頂である︵壁硼ほ空心碑︶︒但しこの券頂に関し報告書ほ︑﹃頂部千空心碑壁上全部改用小碑起券﹄とし︑

後の改造を認めている︒おそらく当初は西棺室と同じく空心碑平頂であろう︒またこの券頂は︑一見してス︒^ソに対してライズ︵起洪点よりヴ

ォールト頂点までの鉛直距離︶が低いことも注意すべきであろう︒そして以上のことは︑金谷園において焼溝第二型に分類されている第三二〇

︵図

二号墓の主室頂部についても共通する︒これらの点についても︑今後な

お詳

しい

考察

を必

要と

しよ

う︒

⑨本節註①参照︒

︑ 碑 墓 の 分 布 と 拡 散 図七は表一に挙げた事例を︑東漢早期以前ーと︑同中期以降

I I

に 分けて地図上に︒フロットしたものである︒いま同図を参照しながら 漠代小碑墓の分布状況を見ることにする︒

前節本文で採り上げた空心碑・小碑交替期の碑墓の所在は︑一例

︵湖南省寧郷のもの︶を除きすべて河南省のものばかりであった︒

このことからも理解できるように︑空心碑の使用された地域は︑河

① 

南省に多く︑図七ーーにおいても黄河南岸に特に濃密である︒

初期の小碑墓︵西漢中期ないし晩期のもの︶の分布も︑この空心 碑集中の地域を出るものでなく︑空心碑との併用例も含めて︑河南 省を中心とする華北一帯に限られている︒しかし新代まで降れば︑

その範囲はまず南に向って湖南省に及ぶ︒すなわち︑同省長沙︵湖 南長沙古代墓︿

B

﹀)︑及び零陵︵湖南零陵李家園発現新非墓︿9

B

1 0 ﹀)で︑この時期の小碑による券頂墓がそれぞれ確かめられてい る。さらに東漠早期に至れば、江西省(南昌市郊墓〈

C8〉•南昌

青雲譜漢墓︿

C 9﹀)から広東省︑それも雷州半島の先端に近い徐 聞

︵ 広 州 徐 聞 東 漠 墓

︿C

12

﹀)でも既に碑墓が営まれていた

八 ︶ ︒

この徐聞では︑三ヶ村で計五十一座の小碑墓・碑石合構墓及び石

四六

(20)

漢代碑墓の変遷とその分布について

四七

、,'一、ヽ"•:

'

..  .  .・,

··•. .... 

  . .

,,  ,. 

図七A 漢代縛墓の分布 (I) 

B C  

空心碑墓

空心碑・ 小縛併用墓 小碑墓

西漢・新代 東漢早期 東漠初期以前

(21)

空心石尊・ 小縛併用墓 小碑墓

東漢中期

東漢晩期

図七B 漢代碑墓の分布 (JI)  東漠中期以後

八四

(22)

他 ほ 券 頂 で あ

る︒特に碑石合構墓では墓底.墓壁とも大型の石板を用い︑墓頂の

みが小碑によるヴォールトとなっており︑前節に見た金谷園第一︳二

一九号墓の空心碑墓壁と小簿券頂の関係が想起される︒

徐聞の墳墓群はほぼ章帝

(A

D七六ー八九︶の頃のものとされて

いるが︑広東省ではその他に紹関︵広東紹関市郊古墓︿

C1

﹀0

)・

州︵広州動物園東漠建初元年墓︿

c l l

﹀)等で同年代の碑墓が発見

されており︑特に後者の第二号墓では︑﹃建初元年

(A

D七六︶七

月十四日甲寅治碑﹄の記年銘のある墓碑が見られる︒その他にも広

州には﹁永元九年

(A D九

七︶

﹂・

﹁建

寧 (A D

一六

八ー

一七

二︶

﹂の

I I  I  I  1 1 1 , 1 , 1 ~

\ 

~

漠代

碑墓

の変

遷と

その

分布

につ

いて

Im 

" ' " " " ' '  

図八 広東徐聞東漠墓

き ︑ ル前後に停まり︑頂 かかわらず一メート

33号墓(参考文献 (C12〉による)

高さは平面の如何に 0•八メートルで、 きくなく︑すべて単室で︑最大のものでも長さニ・一四︑幅

法は︑石室土坑の石

板 に よ る 平 頂 を 除

の規模はそれほど大 ている︒もっともそ 室土坑墓が発掘され

いっ

てよ

かろ

う︒

四九

|•第四型ー雙弯薩l)、またアーチの組方にも三重券•四

 

重券のものが見られ︑なお補助アーチさえ使用されるようになる︒

ここに至って小碑墓作成の技術は一応のピークに達したと認めら

れ︑いわゆる煉瓦積技法の一般的な知識は完全にマスクーされたと おいてドーム

︵弯

窒︶

が現

われ

︵﹁

焼溝

漠墓

東漢中・晩期にまで降れば︑表一の事例に限っても図七ー

I I

に 見

るように︑小碑墓は︑北は遼寧省︵潅陽伯宮屯漢墓︿

D

﹀2

)︑

西は

甘粛省︵酒泉県下河清︿

D

6﹀・武威雷台東漢墓︿

E1

6﹀等︶に及

ぶ︒同時に墓室の規模も次第に大きく構成も複雑化し︑特に頂法に

の第三型1単弯認

︑ ︒

ぅカ ︵ ︵漢代では徐聞と同郡︶の貴県でも同じ頃の碑墓が存在している 文字のある字簿も発見されている︒さらに広西省杜族自治区合浦

参考

文献

︿

C1

﹀2

によ

る︶

︒ 以上の洛陽から長沙・零陵を経て広州︵漠代の南海︶に通じる

線︑或は南昌︵同︑予州︶を経由する線は︑何れも漠代の主要陸上

交易路に当り︑その先端︑前出の徐聞には既に西漢武帝の元鼎六年

(B

C‑

︱‑︶に県治が設置され︑南海貿易の重要拠点とされてい

た︒そうすれば小碑によるヴォールト技術も︑中原を発してこれら

ルート上の要衝に順次伝播していったことは容易に想像される︒そ

して前述各遺跡の年代差は︑いみじくも中原文化の南方へ滲透する

速度を示す︱つの指標として受け止めることができるのではなかろ

(23)

以上を通観して︑小縛を謳体に使用した墳墓は西漠中期以降︑河

南省を中心に同心円的に拡がっていったことが窺われ︑少なくとも

河南省以外に源があり︑そこから直線的に中原に導入されたとは考

えられない︒特に甘粛における年代の遅れることは︑この技術が西

方より自然的に滲透してきたとする説を困難にするものであろう︒

註①図七ほ表一の諸例をプロットしたものであって︑漢代簿墓のすべてを

網羅したものではない︒しかし河南省に最も濃密であることは︑本図に

焼溝

や金

谷園

の諸

例を

加え

た場

合を

考え

れば

︑容

易に

理解

され

よう

なお空心碍分布の範囲は︑従来の研究によれば︑河南省を中心に河北・映西・山東の各省及び安徽•江蘇両省の淮北部に限られるとしてい

るが︵一註①長谷川論文他︶︑その他︑湖南省及び内蒙古自治区におい

ても

発掘

され

たと

いう

報告

があ

る︵

二註

③論

文他

︶︒

②漢書・南葛伝

︵元

鼎︶

六年

冬・

:・

・・

南患

已平

︑遂

以其

地為

南海

︑蒼

梧︑

郁林

︑合

⁝⁝

九郡

漢書・地理志

合浦

郡︑

県五

︑徐

聞︑

高涼

︑合

浦︑

臨允

︑朱

盛︒

③﹁焼溝漢墓﹂では第三期に比定される第六三二号墓に既に二重券が見

られる︒また和林格爾東漢壁画墓︿

E1

﹀で

は三

重券

が使

われ

てい

る︒

以後︑近世に至るまで多重券は中国アーチエ法の一つの特徴となってい

る ︒

④密県打虎亭漠代画像石壁画墓︿

E1

2 ﹀では三重券を用いるほか︑補助

アーチも見られる︒補助アーチとは︑開口上部に水平の楯を渡し︑その上に組まれたアーチをいう︒この場合︑上部荷重はアーチによって負担

され︑楯にはかからない︒アーチ工法を採りながら︑開口上部を水平に 区切る場合(開閉装置'~戸・障子等ーを取り付けるのに都合がよい︶に膜々採用される︒また補助アーチを壁体に埋め込むように組めば︑壁体の補強にもなる︒密県の例では︑開口上部︑壁体補強の双方に補助アーチが用いられている︒なお西方での補助アーチの確実な例はロ

ーマ

時代

にな

らな

けれ

ば見

られ

ない

こと

を注

意し

てお

きた

い︒

結語ー│残された問題

I

以上を通じて︑小碑墓発生の時期︑あるいはその分布に関して

は︑最近の発掘調査事例を含めても︑諸先学の論考を特に大きく修

正する必要は認められなかった︒しかしながらその過程で︑幾つか

の新しい問題が提起されるのではないかと思われる︒まず、中国における碑の自生•他生の問題は古くから論争が繰返

いま︑空心碍が中国独自の発想でされながら未だ定説を聞かない︒

あることを疑う者はあるまい︒しかし︑それよりも製造技術面では

先行してよい筈の小碑が遅れて用いられ︑かつ︑小碑使用の始期に

殆ど間髪を入れず完全なアーチ法が採用され︑その間に疑似アーチ

の用いられた期間が存在しないことは特記すべきである︒およそ煉

瓦造ないし石造を多用した古代文明諸地域︵メソボクミヤ・エジプ

ト・インダス・マヤ等︶において︑疑似アーチの段階を経ず真の

アーチを開発した処はなく︑特にメソボクミヤを除いてほ独力で真

のアーチに到達することが出来なかったし︑またそのメソボクミヤ

においてすら︑疑似から真に至るのに千年に余る長期間を必要とし

たようである︒その中にあって︑中国に限って小碑の使用とアーチ

五 ︑

五〇

(24)

① 註

漠代碑墓の変遷とその分布について

一註

①書

等︒

次に︑空心碑における斜披頂と︑小碑によるヴォールト頂との前

後関係は︑伴出随葬品の相対年代の比較から︑現在のところヴォー

ルトが先行し︑斜披がそれにヒントを得て発案されたことになって

いる

o C

しかし斜披とヴォールトが併存する遺構においては︑主室に

斜披︑耳室にヴォールトをそれぞれ使い分けるのが常であったこと

を考えれば︑両者の前後関係を単に構造技術の面からだけで捉える

わけにはいくまい︒いわんや本稿では触れなかったが︑地上の木造

架構物にも斜披形のものが存在していた︵例えば武氏祠前石室第六

石画像石に表わされている橋梁状のもの︶とすれば︑それらとの関

係も明らかにされなければならず︑斜披・ヴォールトの前後関係は

なお今後に残された問題となろう︒

その他︑今回は詳しく触れることは出来なかったが︑子母碑の使

用︑補助アーチの使用も中国における碑築技術の解明に重要な関連

を有しているし︑また一般に煉瓦積に必須と考えられるモルタルに

ついては︑漠代縛墓の報告書そのものの記載が明確でなく︑使用の

有無すら不明な例が殆どである︒これらもすべて残された問題とし

て今後の考察に譲りたい︒ いかと思われる︒ の完成がほぼ同時点で認められることほ極めて特異で︑この点に碑の自生•他生の決定に関わる一つの重要な鍵が潜んでいるのではな

考 文 献

1

﹁文

(w

en

wu

)﹂文物出版社︒一九五

1年創刊︵ただし一九五一年

一 期 1

一九

五八

年︱

二期

まで

は︑

﹁文

物参

考資

料﹂

︶月

刊︒

2

﹁考

(k

ao

ko

)

北京

科学

出版

社︒

一九

五五

年創

刊︒

隔月

刊︒

参考文献1︑2

より特に参考とした記事を以下にあげる︒頭書の記号

のBIE

は二

のい

に準

ずる

︒ B 1

洛陽博物館﹁洛陽西漠卜千秋壁画墓﹂文物一九七七年六期︒

B 2 河南省文化局文物工作隊﹁洛陽西漢壁画墓発掘報告﹂考古学報一

九六

四年

第二

期︒

B3 河南省文化局文物工作隊﹁河南桐柏万岡漢墓的発掘﹂考古一九六

四ー

八゜

B4

河南

省博

物館

﹁済

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一︳

一座

漠墓

発的

掘﹂

文物

一九

七三

ーニ

︒ B 5 河南省文化局文物工作隊﹁河南翠県石家庄古墓葬発掘簡報﹂考古

一九

六三

ーニ

︒ B6 鄭州市博物館﹁鄭州新通橋漢代画象空心碑墓﹂文物一九七ニー一

0

B 7 堂県文化館﹁河南翠県葉嶺村発見一座西漠墓﹂考古一九七四ー ニ ︒ B 8 映西省文物管理委員会﹁西安東郊韓森砦漢墓清理簡報﹂考古一九

六OI

五 ゜ B 9 高至喜﹁湖南古代墓葬概況﹂文物一九六

OI

三 ゜

B10周世栄﹁湖南零悛李家園発現新非墓﹂考古一九六四ー九゜

B11賀宮保「洛陽老城西北郊八一号漢墓」考古一九六四—八゜

C 1 北京市文物工作隊﹁北京昌平白浮村漠・唐・元墓葬発掘﹂考古一

九六

三ー

三︒

C2河北省文化局文物工作隊﹁定県北庄漠墓出土文物簡報﹂文物一九

六四

l二 ゜

C 3

﹁山西省太原金勝村九号漢墓﹂文物一九五九ー一

0文物工作報

(25)

導 ︒ C 4

江蘇省文物管理委員会︒南京博物院﹁江蘇塩城三羊塾漢墓清理報

告﹂

考古

一九

六四

ー八

゜ C 5

河南文化局文物工作隊﹁鄭州二里闘漢画象空心碑墓﹂考古一九六

‑ T

°  

C 6

河南文化局文物工作隊﹁河南榮陽河王水庫漢墓﹂文物一九六〇

ー五

︒ C 7

河南文化局文物工作隊﹁河南桐柏万閥漢墓﹂考古一九六四ー八゜

C 8

劉玲﹁江西南昌市郊清理一座漢墓﹂考古一九六四ーニ︒

C 9 江西省文物管理委員会﹁江西南昌青雲譜漢墓﹂考古一九六

0

ー 一

0 ︒

C1

0

広東省博物館﹁広東詔関市郊古墓発掘報告﹂考古一九六一ー八゜

c l l

広州市文物管理委員会﹁広州動物園東漢建初元年墓﹂文物一九五

九ーニ︒

C1

2

広東省博物館﹁広東徐聞東漢墓﹂考古一九七七ー四゜

D1

﹁内蒙古自治区包頭市寓爾吐壕漢墓﹂文物一九六

0

ーニ︑文物工

作報

導︒

D 2

濡陽文物工作組﹁濡陽伯宮屯漢魏墓葬﹂考古一九六四︱︱︱︒

D 3

鎮江市博物館・円陽県文化館﹁江蘇円陽東漢墓﹂考古一九七八ー

三 ︒ D4

河南文物工作隊第二隊﹁洛陽一四号漢墓発掘簡報﹂文物参考資料

一九

五五

年第

0

期 ︒

D 5

河南省文化局文物工作隊﹁河南翠県石家庄古墓葬発掘簡報﹂考古

一九

六三

ーニ

︒ D 6

甘粛省文物管理委員会﹁酒泉下河清第一号和第一八号墓発掘簡

報﹂文物一九五九ー一〇甘粛省文物管理委員会﹁甘粛酒泉県下河清漢墓清理簡報﹂文物一

九六

0 ー ニ ︒

D7江西省博物館「江西南昌東漢・東呉墓」考古一九七八—―――°

D 8

﹁湖南衡陽豪頭山発現東漢永元十四年墓﹂文物一九七七ーニ︒文

博簡

報︒

D 9

広東省文物管理委員会﹁広東仏山市郊瀾石東漢墓発掘報告﹂考古

一九

六四

ー九

゜ E1

内蒙古文物工作隊︑内蒙古博物館﹁和林格爾発現一座重要的東漢

壁画

墓﹂

文物

一九

七四

ー一

E2北京文物管理処﹁北京順義臨河村東漢墓発掘筒報﹂考古一九七七ー方

E 3

北京文物工作隊﹁北京昌乎半裁塔村東周和両漢墓﹂考古一九六三

ー ︱ ︱

︱ ° E4

定県博物館﹁河北定県四三号漢墓発掘簡報﹂文物一九七三ー一

E 5

河北省文物管理委員会﹁石家庄市北宋村清理両座漢墓﹂文物一九

五九

ー一

︒ E 6

﹁河北石家庄市橋東単室碑墓﹂文物一九五九ー四文物工作報導︒

E 7

山西省文物管理委員会・山西省考古研究所﹁山西孝義張家庄漢墓

発掘記﹂考古一九六

OI

七 ゜ E 8

李奉山﹁山西丙城石門村発現的漢墓﹂考古一九六三ー九゜

E 9

竜県

博物

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竜県

鳳凰

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号漠

墓﹂

考古

一九

七四

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︱︱

E1

0 江蘇省文物管理委員会︑南京博物館﹁江蘇徐州・銅山五座漢墓清理簡報」考古一九六四—10

E1

1

河南省文化局文物工作隊﹁鄭州二里闘的一座漢代小碑墓﹂考古一

九六

四ー

四゜

E1

2

安金椀︑王与剛﹁密県打虎亭漢代画象石室和壁画墓﹂文物一九七

ニー

0

河南省文化局文物工作隊﹁河南密県打虎亭発現大型漢代壁画墓和

画象

石墓

﹂文

物一

九六

〇ー

四゜

(26)

漢代碑墓の変遷とその分布について E認余扶危︑賀宮保﹁洛陽東関東漢殉人墓﹂文物一九七三ーニ︒E1 4

河南省博物館﹁霊宝張湾漢墓﹂文物一九七五ー一︱°

E1

5

南陽市博物館﹁南陽発現東漠許阿檻墓志画像石﹂文物一九七四ー

八 ゜

E1

6

廿粛省博物館﹁甘粛武威雷台東漠墓清理簡報﹂文物一九七ニー

ニ ︒

E1

7

甘粛省博物館﹁甘粛武威勝家庄漠幕発掘簡報﹂考古一九六

01

六 ゜

E1

8

甘粛省博物館﹁甘粛酒泉漠代小咳墓清理﹂考古一九六OI

六 ゜

E1

9

嘉裕関市文物清理小組﹁嘉硲関漢画像碑室墓﹂文物一九七ニー一

ニ ︒

E2

0

﹁西寧昭把郷指揮庄村漢墓﹂文物一九五九ーニ文物工作報導︒

五 一

E2

1

﹁西寧市南灘漠墓﹂考古一九六四ー五簡訊゜

E2

2 湖北省博物館﹁湖北房県的東漢︑六朝墓﹂考古一九七八ー五゜

E2

3

﹁四川阿塙州発現漠墓﹂文物一九七六

I

︱一

文博

簡報

E2

5 黄願寿﹁江西清江武陵東漠墓﹂考古一九七六ー五゜

E2

6

﹁江西永新清理一座東漢墓﹂考古一九六四ー八簡訊゜

E2

7

﹁長沙東屯渡清理了一座東漢碑室墓﹂文物一九六

OI五文物工作

報導

E2

8 貴州省博物館﹁責州齢西県漠墓発掘簡報﹂文物一九七ニー一︱°

E2

9 広東省博物館﹁広東紹関市郊古墓発掘報告﹂考古一九六一ー八゜

E3

0

広東省文物管理委員会﹁広東仏山市郊瀾石東漢墓発掘報告﹂考古

一九

六四

ー九

参照

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