はじめに
映画とその分身 という視座のもと、これまで映画作品のテクストに現れる 表象作用の形象について、主に主題論的な観点から考察してきたが、既に論じた 鏡や反映、および写真の形象に続き(1)、本稿では絵画のそれについて検討するこ とにする。
絵画と映画もまた、幾つかの共通点と相違点を有していることは明らかであ る。共通点として挙げられるのは、両者がいずれも、枠取られた、二次元の、視 覚的表象をなすという点であり、実際、油彩や水彩、素描、版画、壁画など、技 法や形状はさまざまであれ、枠によって画定されない、無限に広がる絵画という ものは基本的にあり得ず、また一部の現代絵画に見られるような例外を除けば、
それが平面上に展開する視覚的表象であることは間違いない。同様に、映画もス クリーンという、枠によって限定された矩形の空間上に、これも3D映画などの 例外を除けば、二次元の知覚をもたらす映像が投影されることで成り立つ媒体で ある。そうした共通性を示す一方で、両者は幾つかの点で根本的に異なる特徴を も有している。すなわち、絵画が人為的手段によって創り出された、しばしば単 一の、静止画であるのに対し、映画は機械的手段によって写し取られた、原則的 に複数の、動画の組み合わせによって構成される。また、絵画は聴覚的表象を伴 わないのに対し、映画は、少なくともトーキー映画の場合、基本的には映像と同 期した音声を伴う視聴覚的表象をなしている。さらには、そもそも絵画作品が音 声を伴い得ないのは、その表現が空間的次元においてのみ展開され、時間的次元 を欠いているからであるが、であるからこそ、そこに時間性が関与し得るとすれ ば、それは描かれた事物に内包される時間的な広がりを喚起する方法や(2)、ある いは作品を鑑賞するのに費やされる時間の任意の長さにのみ関わるものとなる。
これに対し、映画作品の表現は空間的=時間的次元の両方において展開されるか らこそ、個々のショットから作品全体に至るまでの様々なレヴェルで、描写され た出来事に対応する現実の時間経過と、物語内容上のそれと、映像表現上のそれ
「開かれた窓」からの問いかけ
―映画作品における絵画の形象について―
武 田 潔
との一致や不一致の可能性が介在するとともに、他方で、作品の鑑賞に要する時 間は、これも映像ソフトでの鑑賞に際して通常の再生以外の操作を行うなどの場 合を除き、基本的に当の作品のフィルムの長さによって規定される映 写 時 間と 合致することになる。
このように一連の共通点と相違点を有する絵画と映画の特質を踏まえつつ、映 画作品のテクストに現れる絵画の形象について考察し、なかんずくその主題系を 具体的に分析することが本稿の目的であるが、論述を進めるための手順として、
まずは映画と絵画が取り結ぶ多種多様な関係の諸相を概観しておくことにしよ う。
1.映画と絵画の多様な関係
ともに枠取られた二次元的視覚表象をなす映画と絵画は、まずは映画製作に関 わる実践的工程において深く結びついている。初期映画のエミール・コールから ディズニーを経て最新のデジタル・アニメに至るまで、アニメーション映画が絵 画表現を基盤としていることは言うまでもないが、一般の映画でも、例えば撮影 の準備段階ではセットや衣裳のデザインが素描によって示され、また各ショット の概要を描き込んだ「ストーリーボード」(日本では「絵コンテ」と呼ばれる)
が作成されることも珍しくない。あるいは、実際の撮影において、描かれた絵 によって背景を設えることは―演劇における「背景画」の伝統を受け継いで(3)
―初期映画の時代には広く定着していたし、その後も特殊効果の一環として、
スクリーン・プロセスのような実写による背景提示の技法が普及する一方で、実 在しない背景を描いた「マット・ペインティング」を実写と合成する技法が、現 在に至るまで用いられている(4)。他方、完成した映画が公開される局面でも、今 日では目にすることが稀になったものの、かつては、例えば映画芸術の先進性を 訴えるような斬新な意匠を凝らしたポスターが制作されたり(5)、あるいは映画産 業の繁栄を謳歌するような麗々しい手描きの看板が映画館の正面を飾るなど、こ こでも映画的なものと絵画的なものとの協同が成立していた。
映画と絵画の協同に関してなかんずく重要なのは、主としてサイレント時代 に、少なからぬ前衛画家たちが映画制作に協力したり、自ら制作を手がけたと いう事実である。その先駆者として知られるレオポルド・シュルヴァージュは、
1910年代半ばに「色の付いたリズム」と銘打った、カラーによる一種の抽象実 験映画を創り出すべく多くの原画を描き(6)、そうした模索は、同じく動く抽象 画の実現をめざして ロール絵画 を制作していたハンス・リヒターやヴィキ ング・エッゲリングらに受け継がれ、20年代に入って多彩な成果が生み出され ることとなる(7)。また、この時期には前衛画家が映画作品の美術に協力すること
もあり、表現主義画家のヘルマン・ヴァルム、ヴァルター・ライマン、ヴァル ター・レーリッヒが『カリガリ博士』(ロベルト・ヴィーネ、1920)の美術を担 当したり、既に名前を挙げたキュビスムの画家フェルナン・レジェが、『人でな しの女』(マルセル・レルビエ、1924)の美術に参加したり、自らも実験映画『バ レエ・メカニック』(1924)を制作したりしたことはよく知られている(8)。
これらの実践活動の領域のみならず、研究活動、とりわけ映画理論の分野にお いても、映画と絵画の関係をめぐっては幾多の論考がいとなまれてきた。ヴィク ター・O・フリーバーグの『スクリーン上の絵画美』(1923)(9)は、この問題を体 系的に論じた最も早い例の一つであるが、そこでは主に、映画表現に絵画的な 規範を適用するという見地から、構図や明暗や遠近、そしてなかんずく運動の描 写に関する留意点などが検討された。それに対し、同じく規範的な展望に拠りな がら、明確な映画理念に基づく主張を展開した例としては、やはりエイゼンシュ テインのモンタージュ論や、バザンのリアリズム論におけるそれを挙げるべきで あろう。周知の通り、エイゼンシュテインは、例えば論文「枠を超えて」(1929)
の中で、写楽の浮世絵(大首絵)に描かれた諸要素間の不均衡を、モンタージュ による現実の解体と再構築としてとらえ、その後も、未完の遺著『無関心な自然 でなく』(執筆は主に1945−1947)に至るまでの幾多の論考を通じて、グレコや ピラネージ、近代ロシア絵画、中国や日本の山水画や絵巻物など、古今東西の絵 画にユニークな分析を加えて、映画が具現する感覚と意味のダイナミックな生成 過程を探究したのであった(10)。他方で、モンタージュ論の対極に立つバザンも また、そのリアリズム論の基盤をなす論文「写真映像の存在論」(1945)におい て、精神世界を表出する中世絵画から現実世界を再現するルネサンス絵画へと絵 画の使命が変容し、さらに写真の発明が絵画から再現的機能を切り離したと説い て、絵画と映像が現実と取り結ぶ関係に根本的な相違があることを強調した。そ して、そうした対比は後年発表された論文「絵画と映画」(執筆年不詳)におい ても敷衍され、絵画の額縁が、現実空間と表象空間を決定的に分離する「 枠 」 をなし、そこでの空間は「求心的」であるのに対し、スクリーンの枠は実は枠で はなく、その内外の空間の連続性を保ったまま、たまたまその外側にある領域を 隠す「マスク」にほかならないのであり、よって画面の空間は「遠心的」である と主張したのであった(11)。その後、これも周知の通り、1968年5月革命以降の
「異議申し立て」の状況のもとで、バザン流の「観念論的映画理論」を徹底的に 批判したジャン=ルイ・コモリの長大な論文「技術とイデオロギー」(12)が発表さ れ、バザンが着目したルネサンス期の絵画が、透視画法による遠近法という、特 定の人間主体の視点を特権化する、近代的な(そしてブルジョワ的な!)表象装
置をなしていたという戦闘的な見解が打ち出され、映画もまた、カメラ・オブス クラや写真術とともにその系譜に連なるイデオロギー装置にほかならないという 主張が、強力に展開されたのであった。
このほか、エイゼンシュテインも関心を寄せた絵巻物と映画との関連性につい ては、当然ながら日本の映画論においてしばしば論じられ、例えば物理学者で随 筆家の寺田寅彦は、「映画時代」(1930)の中で、映画における場面から場面への 展開をタイム・マシンになぞらえつつ、「想うに絵巻物と、その後裔であるとこ ろの活動映画もまた云わばやはり一種の『時の器械』である。時の歩みを順にも 逆にも速くも遅くも勝手に支配することが出来る」と述べ、2年後の「映画芸術」
においても、「映画というものの一つのプロトタイプとでも云わるべきものは絵 巻物の類である。これは空間的であるのみならず、またいくぶん時間的である点 においていっそう映画に接近するのである」と評した(13)。寺田に次いで、映画 批評家=理論家の今村太平は、初の著書『映画芸術の形式』(1938)の中で、絵 巻物と映画とのつながりを簡略に指摘して以来、繰り返しこの問題について考究 している。その代表的な論考の一つである「日本芸術と映画」(1941)では、日 本の絵画や音楽や演劇と、映画とを比較検討する中で、「日本の絵巻は時間的で あろうとした絵画のおそらくもっとも古い形式」であり、絵画は静止画、映画は 動画という違いはあるものの、「観念の流動を時間的な継起として造型的に表し ている」点は共通するとして、双方における空間や時間の歪曲の事例を分析し た(14)。こうした関心はその後も潰えることはなく、近年では日本の代表的なア ニメーション映画作家の一人である高畑勲が、『十二世紀のアニメーション―
国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』(1999)を著して、絵巻物の表現 形態の特徴と映画のそれとの通底性を、多数の図版を駆使しながら平易な語り口 のもとに解説している(15)。
さらに特筆すべきは、映画と絵画の関係をめぐる研究が、1980年代後半から めざましい発展を遂げつつあることで、主要な成果に限っても、そうした問題系 を切り拓いた先駆的な論考として、パスカル・ボニゼールの『脱フレーミング』
やジャック・オーモンの『無限の眼』が挙げられ(16)、多彩な論考を収めたシン ポジウムの記録集として、レイモン・ベルール編による『映画と絵画―様々な アプローチ』や研究誌『アイリス』の「映画における肖像画」特集号などがあ る(17)。さらには、1920年代における前衛芸術と映画の関係を詳細に検証し直し たパトリック・ド・アースの研究や、映画に登場する肖像画を 不在の形象 の 一環として鋭利に分析したマルク・ヴェルネの論考など、優れた個別研究も数多 い(18)。このほか、著書『映画と絵画―映画作品で芸術はどのように用いられ るか』において具体的な事例分析を行うとともに、関連する古今の論考のアンソ
ロジー『視覚的転回―古典的映画理論と芸術理論』を編んだアンジェラ・ダッ レ・ヴァッケの仕事や(19)、『映画と絵画―移行、協同、現前』によって、両者 の関係をいま一度包括的にとらえ直そうとしたリュック・ヴァンケーリの試みな ど(20)、昨今の 視 覚 論 の隆盛、発展とあいまって、この問題系をめぐ る研究は目下、多彩かつ旺盛に推進されつつある。
最後に―last but not least !―実践的関与や学術的探究と並んで、作品の
内に具体的に現れる映画や絵画の形象に目を向けなければならない。無論、その 検討にあたっては、絵画作品に現れる映画の形象と、映画作品に現れる絵画のそ れの両方が対象となり得るはずであるが、実際には、後者の事例の豊富さに比べ て、前者のそれはある程度限定されているように思われる。このことは、映像の 内に絵画を包摂することは可能であっても、絵画の内に動く映像をそのまま現出 させることは不可能であるという、存在論的な事由のもたらす帰結であるのかも しれないが、それでも、例えば(三たび名前が挙がる)フェルナン・レジェの『無 題(キュビスム的チャップリン)』(1924)からアンディ・ウォーホルの『マリリ ン・モンロー』の連作(1962〜67ほか)に至るまでの、映画俳優のイメージを 再構成した作品や、あるいはウィリアム・ロバーツの『映画館』(1920)やエド ワード・ホッパーの『ニューヨークの映画館』(1939)のような、映画館の情景 をエキセントリックに、あるいは物憂げに描いた作品や、さらにはフランシス・
ベーコンの『映画『戦艦ポチョムキン』の乳母のための習作』(1957)やジャッ ク・モノリーの『殺人No. 10/2』(1968)のような、実在の映画の人物や、ある いは いかにもありそうな 映画的場面を呈示する作品など、絵画に現れる映画 の形象は実に多彩で、かつ独創的である。
他方、映画作品に現れる絵画の形象も、その様態や機能はきわめて多様であり、
しかも、そこではしばしば、映画の意味作用に対する鋭く根本的な問いかけが提 起される。そうした射程について探究することが、本稿が最終的にめざすところ である。その目論見に向け、早速本題に入ってゆくことにしよう。
2.主題としての画家と絵画
映画作品に登場する画家や絵画の形象について検討するにあたり、それが物語 内容において主題をなす次元と、映像表現において視覚的な形象化の要因をなす 次元、さらに両者を連繋させるテクスト生成の契機をなす次元に分けて考えるこ とは、実際にはそれらが重なり合い、密接に結びついて機能することが多いとは いえ、概念規定を行う上では一つの有用な方策であろう。
そこで、まずは主題としての画家や絵画について整理しておくことにする。そ
うした主題を持つ映画作品は数多いが、それらの事例は2つの軸にそって大まか に分類することができる。一つは、そこで取り上げられる画家や絵画が既存のも のか、あるいはフィクションとして創作されたものか、もう一つは、それが物語 映画において語られるか、あるいはドキュメンタリー映画の題材をなすか、とい う基準である(21)。当然ながら、既存の画家や絵画は物語映画またはドキュメン タリー映画の主題をなし、架空のそれは基本的に物語映画のみの主題をなすこと になる。
既存の画家を主人公にした作品は、『赤い風車』(ジョン・ヒューストン、
1952)、『炎の人ゴッホ』(ヴィンセント・ミネリ、1956)、『モンパルナスの灯』
(ジャック・ベッケル、1958)のような一連の伝記映画(順にロートレック、ゴッ ホ、モディリアニの半生を描いている)をはじめ、『歌麿をめぐる五人の女』(溝 口健二、1946)のように、主人公は実在の画家でも物語内容にはかなり自由な脚 色を施したものも含め、映画史を通じて多数の例が挙げられる。また、60年代 以降には、『アンドレイ・ルブリョフ』(アンドレイ・タルコフスキー、1969)や
『ピロスマニ』(ゲオルギー・シェンゲラーヤ、1969)など、古典的物語映画の 経 済的 話法に則らない作品も現れてくるようになり、その後も『ムンク 愛のレ クイエム』(ピーター・ワトキンズ、1976)、『カラヴァッジオ』(デレク・ジャー マン、1986)、近年の『クリムト』(ラウル・ルイス、2006)など、異色のスタイ ルによって主題の明瞭な描出からあえて遠ざかろうとするかのような作品が次々 に生み出されている。このほか、数々の名画を活人画で再現しようとするテレビ 映画の制作を題材にしたゴダールの『パッション』(1982)を先駆として、その 企図はそれぞれ異なるにせよ、『裸のマハ』(ビガス・ルナ、1999)、『アララトの 聖母』(アトム・エゴヤン、2002)、『真珠の耳飾りの少女』(ピーター・ウェバー、
2003)、『レンブラントの夜警』(ピーター・グリーナウェイ、2007)といった、
実在する絵画作品をめぐって蠱惑的な世界を創り出したり、あるいは虚構と現実 を交錯させるような作品も最近では目立つ。
他方で、「美術映画」と呼ばれるドキュメンタリーの一ジャンルも、既存の画 家や絵画を主題とする映画として重要な位置を占めており、それらの中には、フ レーミングやパンやズームなどを駆使して動かぬ絵画を映画的に再創造したアラ ン・レネの一連の作品(『ゴッホ』(1948)、『ゴーギャン』(1950)、『ゲルニカ』
(1950))や、白い画布に裏側から絵を描くさまを正面から撮影する手法により、
創作過程の 持続 そのものをとらえたとしてバザンが称賛した『ピカソ―
天才の秘密』(アンリ=ジョルジュ・クルーゾ、1956)など(22)、ユニークな試み を展開したものもある。近年でも、ルーヴル美術館の大改修の過程を綴った『パ
リ・ルーヴル美術館の秘密』(ニコラ・フィリベール、1990)のようなオーソドッ クスな作品から、言葉とイメージを先鋭に再構成して旧来の美術映画の定式を打 ち破ったダニエル・ユイレとジャン=マリー・ストローブの『セザンヌ』(1989)
や『ルーヴル美術館訪問』(2004)に至るまで、多様な作品が制作され続けている。
これに対して、架空の画家を主人公にしたり、実在しない絵画作品を物語の中 心に据えた作品も少なくない。そして、ここでの特色の一つは、画家や絵画をめ ぐる高名な文学作品の映画化が目立つという点であり、例えば、骨董屋で購った 肖像画の魔力に翻弄される青年の数奇な運命を描いたゴーゴリの短編小説を映画 化した『肖像画』(ウラディスラフ・スタレヴィチ、1915)、ポーの『アッシャー 家の没落』と『楕円の肖像』を合わせて映画化したジャン・エプステインの『アッ シャー家の末裔』(1928)、頽廃的な生活を送る美青年の代わりに彼の肖像画が醜 く朽ち果ててゆくというワイルドの原作を映画化した『ドリアン・グレイの肖 像』(アルバート・リューイン、1945)など、幾多の印象深い作品が映画史を彩っ ている。日本映画においても、地獄の描写の迫真性を求める絵師が遂には娘を牛 車に乗せて焼き殺してしまうという、芥川の原作による『地獄変』(豊田四郎、
1969)や、絵の中の女に一目惚れした男が自らもそこに棲まうという江戸川乱歩 の短編を映画化した『押繪と旅する男』(川島透、1994)などの作品がある。
また、名高い文学作品の映画化以外でも、『飾窓の女』(フリッツ・ラング、
1944)や『ジェニーの肖像』(ウィリアム・ディターレ、1948)などに代表され るような、一枚の肖像画をめぐって犯罪譚や幻想譚が繰り広げられる作品、ある いは『牝犬』(ジャン・ルノワール、1931)とそのリメイク『スカーレット・ス トリート』(フリッツ・ラング、1945)や、『邂逅』とそのリメイク『めぐり逢い』
(ともにレオ・マッケリー、1939と1957)のように、主人公が絵を描くことが、
ヒロインとの恋愛を破綻させたり成就させたりする主要な契機となる作品も数多 い。さらには、『盗まれた 絵 の仮説』(ラウル・ルイス、1979)や『英国式庭園 殺人事件』(ピーター・グリーナウェイ、1982)など、館の閉ざされた空間に謎 めいた迷宮世界が現出したり、『美しき諍い女』(ジャック・リヴェット、1991)
や『マルメロの陽光』(ヴィクトル・エリセ、1992)など、絵画の制作過程を緊 張感漲る持続や静謐な緩慢さのもとに描き出す作品など、近年に至るまでユニー クで多彩な試みが繰り広げられている。
3.視覚的形象化の要因としての絵画的なもの
物語内容における主題の次元と並んで、当然ながら、絵画あるいは絵画的なも のが、映像表現の表層を形成する、視覚的形象化の次元で重要な関与をなす場合
『炎の人ゴッホ』
『モンパルナスの灯』
『女だけの都』
もある。
まず挙げられるのは、作品全体の視覚的スタイルを通じて、特定の時代や流派 の画風を再現するような趣向であろうが、その最もよく知られた例の一つが『女 だけの都』(ジャック・フェデール、1935)におけるフランドル絵画(あるいは より広くネーデルラント絵画)の画風の再現である。実際、17世紀始めのフラ ンドル地方のとある町を舞台にしたこの作品では、町の佇まいから人々の日常生 活、祭りや宴の情景に至るまで、ブリューゲル父子らが描いた数々の作品から抜 け出てきたような趣きの画面が繰り広げられる(23)。また、50年代のMGMミュー ジカルの代表作の一つである『巴里のアメリカ人』(ヴィンセント・ミネリ、
1951)のクライマックスでは、ガーシュインの音楽にのせて、デュフィ、ルノワー
ル、ユトリロ、ルソー、ロートレックなどの絵画世界が彩り鮮やかに再現される。
さらに、スタンリー・キューブリックの『バリー・リンドン』(1975)では、トー マス・ゲインズバラ、ウィリアム・ホガース、ジョシュア・レイノルズなどの、
18世紀イギリス絵画を思わせるような画題や画調が、当時の最新技術を駆使し た撮影によって浮かび上がる(24)。このほか、近年の『真珠の首飾りの少女』でも、
17世紀オランダ絵画と見紛うような画調が、作品の内容に相応した意匠をかた ちづくっている。
これに対し、より特殊な事例としては、絵で示された光景がそのまま実写に移 行する趣向が挙げられる。『巴里のアメリカ人』のクライマックスのナンバーで も、ロートレックのパートへの導入部で、まず石版画『バーで踊るショコラ』の 画面が示され、踊る人物の姿がそのままジーン・ケリーの実写に変わるという 手法が見られたが、古くは『サンライズ』(フリードリヒ・W・ムルナウ、1927)
の開巻部でも、「時は夏、休暇の時節」という字幕のバックに、駅の構内を俯瞰 した絵が示され、それが実景に変わって列車が動き出すという体裁が採られ、い ずれも絵画の静から映像の動への移行によって、シーンや作品全体が導入される 仕掛けとなっている。また、後年の作品でも、ディズニーのミュージカル映画
『最高にしあわせ』(ノーマン・トーカー、1967)のタイトル・バックでは、懐古 調のグラフィックな風俗画が次々に示された後、街頭風景の絵に「フィラデル フィア、1916年」と告げる字幕が出て、舞台となる場所と時代が示され、それ が実写に変わって物語が始まる。さらに、同じくミュージカル映画の『若草の頃』
(ヴィンセント・ミネリ、1944)では、1903年の夏から翌年の春にかけてストー リーが進行する中で、季節の変わり目ごとに、絵本風の意匠を凝らした画像が示 され、それが動き出すことで各エピソードが語られ始める。これら2つの例にお いては、絵画から実写への移行が、静と動の対比のみならず、新旧の表現手段の 対比をも通して、物語の背景となる古き良き時代へのノスタルジーを刻印してい
る。
さらには、これもきわめて限定された事例ではあるが、絵画と実写を合成する 特殊効果の技法も無視できない。その先駆的試みとして知られる『ファンタジア』
(ウォルト・ディズニー、1940)では、ポール・デュカス『魔法使いの弟子』編 の最後で、ミッキー・マウスと指揮のストコフスキーが握手を交わし、また『錨 を上げて』(ジョージ・シドニー、1945)の「悩みの歌(The Worry Song)」の ナンバーでは、これも漫画映画のキャラクターであるネズミのジェリーがジー ン・ケリーと一緒に踊り、さらに『メリー・ポピンズ』(ロバート・スティーヴ ンスン、1964)では、ヒロインに連れられた子供たちと友人の煙突掃除夫が、彼 が舗道に描いた田舎の風景の中に入り込み、アニメーションの動物たちと楽しい ひと時を過ごす。これらの例では、実写と絵が合成されることで、両者の現実性 の差異が顕在化し、相対的に実写の現実性が高いことによって、本来はそれ自体 が虚構にほかならない映画的世界の現実性が補強されていると考えられる。先に 述べた絵画から実写への移行も、基本的には同様の機能を担う技法であり( 絵 画は表象であり、これから始まる実景は現実である )、それらの例を含め、実写 と絵画を結合する技法が、ミュージカル映画―すなわち、その物語世界が必然 的に「地」と「ナンバー」という異なる現実性の水準を介在させるジャンル―
においてしばしば用いられるという事実も、そうしたメカニズムの本性を示唆し ているように思われる。
4.テクスト生成の契機―主題系としての絵画
もともと映画作品の物語世界は類同性と物 語 性という二重のコード化による 成層関係をなしており(25)、絵画や画家の形象は、前者における諸事物の認知の 局面と、後者における物語叙述の局面のいずれにおいても、重要な役割を果たす 場合が少なくない。実際、これまで「主題」として論じてきた諸事象は物語性 の次元に、「視覚的形象化」として論じてきた諸事象は類同性の次元に、それぞ れ基本的には位置づけられる問題であった(26)。その上で、ここからは、それら2 つの次元の連繋をもとに、 読解 の実践を通じて絵画や画家の「主題系」を紡 ぎ出す、テクスト生成の運動について探ってゆくことにしよう。
タイトル・バック
まず最初に、映画作品の冒頭で、タイトル・バックに現れる絵画について触れ ておく。それが絵から実写に移行する例については既に述べたが、しかし、そう した加工を伴わずとも、タイトル・バックに絵画が登場する例は少なくない。こ の場合も、既存の絵画作品が提示される場合もあれば、当の映画のために新たに
制作される場合もあり、しかも、いずれの場合も、その絵が物語内容と密接に関 わることもあれば、特に直接的なつながりを持たないこともある。
既存の絵画作品がタイトル・バックに用いられ、かつそれが物語内容と直に結 び付く典型的な例は、『赤い風車』や『炎の人ゴッホ』のように、画家の伝記映 画のタイトルで本人の作品が示される場合である。他方、既存の絵画でも、そ れ自体は物語内容と明示的な関係を持たない例としては、例えば『ベン・ハー』
(ウィリアム・ワイラー、1959)のタイトル・バックに示されるミケランジェロ の『アダムの創造』や、ベルトルッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972)
のそれに現れるフランシス・ベーコンの幾つかの作品が挙げられ、それらは自ら が先導する本編の物語内容に対して、それをあらかじめ象徴的に喚起する(『ベ ン・ハー』の物語を支えるキリスト教的な摂理、『ラストタンゴ』の物語を貫く 現代人の孤独と苦悩)、ある種の標 徴をなしていると言えよう。一方、映画のタ イトル・バックのために新たに絵が制作される例は、単にデザインの一環として 図案やイラストがあしらわれる場合も含めれば膨大な数に上るであろうが、中に は『ローラ殺人事件』(オットー・プレミンジャー、1944)のように、タイトル・
バックに掲げられる一幅の肖像画が、そこに描かれたヒロインの謎めいた美しさ を通して、物語展開を促す要因としても、また後述するような機能を担う主題系 としても、きわめて重要な役割を果たす場合もある。いずれにせよ、タイトル・
バックに現れる絵画の形象は、ジュネットが「パラテクスト」と呼んだものに相 当する周縁的な因子として、本体をなすテクストの一部を先取りしたり、あるい は他のテクストを引用したりすることで(この場合には「インターテクスト」と もなるが)、作品全体を囲い込む一つの枠組みを構成している。
現実の代替
ルネサンス期において、絵画がアルベルティの唱えたごとく「開かれた窓」と して描かれ、舞台背景が透視画法を用いただまし絵によって提示されたことに端 的に現れているように、絵画の根本的な機能の一つが現実の対象の代替にあった ことは疑いの余地がない。そして、その機能を端的に果たしたのが肖像画であっ たことも、また異論の余地がないであろう。しかし、絵画史自体においてすら、
ストイキツァが論じたように、ルネサンス期以降、とりわけ17世紀にかけての ヨーロッパ絵画においては、肖像画の本人代替機能が、同時に 絵画の自意識 を体現する種々の趣向の発露の場へと変容していった(27)。現実の対象を再現す るものとしての絵画という認識がこのように変質していったことが、先に論じた ような、近代の文学作品における肖像画のファンタスティックなとらえ方の根底 にあるのであり、したがって、それらを原作とする映画作品もまた、そうした西
洋絵画史の変容の系譜を受け継いでいることになる。ここで注目すべきは、それ らの映画作品にあっては、もとの小説と違い、肖像画という視覚的表象が、映画 の画面といういま一つの視覚的表象と共存し、あるいはむしろ重層化されている という点であり、そこには絵画における「画中画」のそれに通じるような、ある 種の 自己反省的 な趣向がしばしば見出されるのである(28)。しかも、もとも と画中画と同じように、スクリーンの枠の中に肖像画の枠が入れ子状にはめ込ま れていることは言うまでもないが、ここでは静止画(絵)と動画(映像)の対比 も関与することになるため、その自己反省的な趣向はなおのこと精妙なものとな る。その最たる例は、先に挙げたポー原作の『アッシャー家の末裔』であり、夫 が妻の肖像画を描く場面では、その「まさに生き写し」の妻の肖像が、実は絵で はなく、女優の生身の身体によって、つまり額縁の中にモデルが佇む一種の 活 人画 の手法によって具象化されているため、描かれたはずの人物が微かに瞬き をするその 画面 を前にして、われわれは困惑の内に、絵画的表象と映画的表 象の狭間に宙吊りにされることとなる(29)。先に言及した他の2つの作品にあっ ても、趣向は異なるものの、同様に自己反省的な契機を読み取ることができる。
すなわち、ゴーゴリ原作の『肖像画』では、画布に描かれた人物の不気味な姿 が、初期映画ならではの止め写しや、ディゾルヴの技法を介して現実の人物に変 わり、しかもその人物は、活人画にとどまることなく、額縁から外に踏み出して 主人公に迫って来る(30)。また、ワイルドの原作による『ドリアン・グレイの肖 像』では、映画の最後まで主人公の代わりに老いさらばえてゆく肖像画は示され ず、遂にそれが画面いっぱいに映し出される場面では、それまで白黒であった映 像が突如カラーとなって、そのおぞましさがいっそう鮮烈に暴き出される。これ らの事例においては、いずれも絵画の形象を介することで、静と動、連続と不連 続、枠内と枠外、白黒と色彩といった契機にそって、視覚的表象の様態が複層化 され、それとともに、忠実に現実を再現するものとしての映像の機能も問い直さ れて、映画に対する多かれ少なかれ反省的な意識が形成されることになるのであ る。
不在の形象
現実の代替を提供するはずの絵画が、その機能自体を問い直しにかかるという 事態は、 不在の形象 としての絵画の機能、とりわけ死者の肖像画のそれをめ ぐっても同様に見出される。その最も鮮烈な例の一つが『レベッカ』(アルフレッ ド・ヒッチコック、1940)であり、ここでは後妻として豪壮な屋敷に迎えられた ヒロインが、そこでの生活に威圧され、とりわけ亡き女主人の追憶に固執する居 丈高な家政婦の言動に怯える中で、彼女に促されるまま、先祖の女性の肖像画と
そっくりの衣装で仮装舞踏会に現れて、それが生前の前妻の扮装と同じであった ことから、夫の激怒を買ってしまう。それはまさしく、もともと不在であるはず の死者が、そして不在の形象であるはずの肖像画が、視覚的相似性を介して不在 の境域から逸脱し、不在と現前の重層化を操りつつ、遂には現実の安寧を脅かし にかかる過程にほかならない。
また、先に挙げた『ローラ殺人事件』のタイトル・バックの肖像画も、クレ ジットが終わって物語が始まる時点では、ヒロインの庇護者であった中年男性の ナレーションが、そこに描かれた彼女の死を告げることで、まずは 不在の形象 として規定されるが、中盤で、この 殺人事件 の捜査を担当する刑事が彼女の アパートを捜索した後、うとうとと眠り込んでしまったところへ、死んだはずの ヒロインが現れ、自らの肖像画の傍らに佇むことによって、現前と不在の、生と 死の境は、突如として不可解な曖昧さに覆われてしまう。目覚めた刑事ともども、
観客は夢でも見ているかのような幻惑にとらわれてしまうが、実は、若い男友達 と婚約したヒロインが休暇に出かけている間に、嫉妬に駆られた庇護者の中年男 性がそうとは知らずに彼女のアパートを訪れ、出迎えた別の女性を、暗闇の中で 射殺してしまったのである。そうした真相は、広告会社を営むヒロインが、ア パートに残されたモデルの若い女の衣服を見つけ、彼女の写真を刑事に示したこ とから、次第に明らかになってゆく。そのモデルは、ヒロインと背格好も似てお り、主の留守中のアパートで、彼女のネグリジェを着てくだんの婚約者の男と逢 引きしていたために、人違い殺人の犠牲となったのである。最後に、真相を突き 止めた2人のもとへ犯人が現れ、帰ったと見せかけて、ヒロインを抹殺すべく再 びアパートの階段を上って行く場面では―フィルム・ノワールに求められる意 匠に則って―彼の不気味な影が壁に浮かび上がる。肖像画、写真、相似する2 つの人影、そして影そのものと、不在の形象をなす視覚的表象の数々が、さらに はそれらを契機として生起する現前と不在の拮抗作用が、この映画のテクスト全 体を貫いているのであり、冒頭と最後を飾るヒロインの肖像画は、そうしたテク ストの運動を凝縮する紛れもない標徴と言えよう(31)。
非日常への誘惑
不在を形象化するものとしての絵画はまた、平凡な日常生活を離れて、非日常 の境域へと人を誘うとば口となることもある。そして、ここでもまた、その非日 常への誘惑が、意図せぬかたちで現実を脅かす事態を招くこととなる。ルノワー ルの『牝犬』では、平凡な毎日を送る謹厳実直な会計係の中年男が、その退屈な 日々のなぐさみに趣味で絵を描きながら、ふとしたきっかけで知り合った若い女 の手練手管にはまり、遂には彼女を殺害するに至るが、そうした物語展開を通じ
て、序盤では主人公が鏡に向かいながら自画像を描くさまが、傍らの窓から垣間 見える、同じく平凡な生活をいとなむアパルトマンの隣家の情景とともに提示さ れ、後半では、女が情夫と一緒にベッドにいるところを主人公が目撃してしまう 様子が、まずはアパルトマンの扉越しに、次いで外から窓越しにとらえられ、さ らには殺した女の傍らに主人公が跪く姿も同じく窓越しに示される。そしてエピ ローグでは、主人公の描いた自画像が画廊の客の車に運び込まれ、そうとは知ら ぬ、今や浮浪者となった主人公に、走り去る車の後部座席から無言の眼差しを投 げかけた後、その情景自体が、開巻部にも現れた人形芝居のプロセニアム・アー チによって枠取られ、そこへ幕が降りて映画は終わる(32)。このように全編を通 じて織りなされる視覚的表象作用の呼応によって、ここでは、元来は窓や扉口な ど室内に穿たれた「開口部」を指していた「タブロー」の語源そのままに―こ れこそがストイキツァが打ち出した展望にほかならないが―絵も、窓も、扉も、
鏡も、等しく現実と表象の危うい戯れが行き交う通い路と化しているのである。
その『牝犬』にも増して、絵画による非日常への誘いの例として際立つのは、
やはりラングの『飾窓の女』であろう。妻子を休暇に送り出した中年の大学教授 が、画廊のウィンドウで見かけた麗人の肖像画に見惚れてしまい、そこへ現れた 当の女性と親しくなって、図らずも彼女の情夫の殺害事件に加担してしまうこと になるというこの作品の展開においても、彼が悪夢的な成りゆきに巻き込まれ、
遂に睡眠薬自殺を図るまでの過程を通じて、絵や、反映(発端の場面では、ガラ ス越しにとらえられた肖像画と並んで、ガラスに映ったモデル本人の姿が浮かび 上がる)や、写真(薬を飲んだ主人公の傍らでは、テーブルに置かれた家族の写 真が、あたかも彼の愚かな過ちを見守るかのように、その最期に立ち会う)や、
種々の報道の形象をも交えつつ(ラジオや新聞に加えて、ニュース映画も登場す る)、さらには 夢落ち によるどんでん返しの結末まで駆使して、まさしくラ ングならではの、虚実の境を撹乱するすぐれて自己反省的な仕掛けが繰り広げら れるのである(33)。
自己実現への勧奨
非日常への誘いの契機は、現実からの逃避のみならず、現状を打破して、自己 実現を果たすことへの勧奨の力としても作用する。『ジェニーの肖像』では、売 れない絵描きの主人公が、公園で偶然出会った不思議な少女との交流を通じて、
挫けかけた創作への意欲を取り戻し、やがて愛し合うようになった彼女の肖像画 を描くことで、画家としての天分をまっとうするに至るが、主人公が少女の不可 解な言動を訝しみ、その過去を探る過程には、絵画と並ぶ幾つもの視覚的表象が 散りばめられている。例えば、綱渡り芸人であった少女の両親がかつて出演して
『アッシャー家の末裔』
『ローラ殺人事件』
『牝犬』
『飾窓の女』
『ジェニーの肖像』
『肖像』
いた劇場に主人公が赴き、今は映画館となったその劇場に勤める昔の芸人仲間の 男と面談する場面では、2人の背後に上映中のスクリーンの裏側が見え、そこに はミッキーマウスの漫画映画が映し出されている。また、その男の紹介で、かつ て劇場の衣裳係をしていた黒人女性を訪ねる場面では、アルバムに収められたく だんの少女の写真が示され、実は彼女が、事故で両親を亡くした後、修道院に入 れられたことが明かされる。そして、その修道院の院長から、少女が久しい昔に 嵐の岬で亡くなったことを知らされた画家は、その最期の地を訪れ、同じ嵐の中 で彼女の幻影=出現を固く抱き締めながらも、再び大波にさらわれた彼女を、永 遠に失ってしまう。芸術家としての主人公の克己復礼は、その証としての少女の 肖像画の完成は、そのような イメージ の相関に導かれて果たされるのである。
自己実現の契機としての絵画は、肖像画を描く者のみならず、そのモデルとな る者をも導き得る。黒澤明の脚本を木下惠介が映画化した『肖像』(1948)はそ の典型である。ここでは、吝嗇な中年男の囲われ者であるヒロインが、天真爛漫 な画家一家の住まいの2階に旦那ともども暮らすこととなり、彼女の素性を疑う ことを知らない家族の面々から「お嬢さん、お嬢さん」と慕われて、はじめはそ れを面白がるものの、次第にその見せかけと現実との祖語に苛立つようになる。
なかんずく、一家の主の画家に頼まれて肖像画のモデルとなるや、「不思議な陰 がある」とさりげなく、しかし鋭く指摘されたこともあって、次第にいたたまれ なくなってゆき、遂に、自堕落な生活と決別して自立した生に踏み出すべく、旦 那を捨てて家を出てゆく。最後に、くだんの肖像画が出品され、高い評価を得た 展覧会の会場で、戦争から復員した一家の長男だけは彼女の素性を揶揄するが、
その息子に対して父親は、「わしは嘘は描かなかったつもりだよ」と告げる。そ うした自己実現の道程が綴られる中で、例えば序盤では、2階で寝転がって煙草 を喫っている女の姿が、マンテーニャの『死せるキリスト』を思わせるような 短 縮法 の構図でとらえられ、あるいは制作中でも展覧会のくだりでも、肖像画の 画面そのものは―レンブラントの『アトリエの画家』やベラスケスの『ラス・
メニーナス』のごとく―決して画面に現れず(34)、さらには、展覧会で自らの 肖像画を見届けたヒロインが、家族に気づかれぬように足早に立ち去り、美術館 を出て行く光景が、「開口部」としての「タブロー」そのままに―あるいはま るでジョン・フォードの映画にしばしば見られる構図のように―黒味に囲まれ た戸口の矩形の中に浮かび上がるなど、黒澤や木下がそれを意図したか否かはと もかく、少なくともテクストの形象化のプロセスにあって、多様な絵画的意匠が 随所に仕掛けられているのである。
他者との結合
『ジェニーの肖像』の画家は結果的には現世においてヒロインと結ばれること はなく、『肖像』のヒロインも新たな生活に踏み出す第一歩が描かれるのみであ るが、時には、絵画を介した自己実現の達成が、同時に他者との最終的な結びつ きを、端的には恋愛の成就をもたらすこともあり、むしろそこにこそ、古典的物 語映画における叙述の経済原則と、絵画の主題系とを連繋させる最も強力な工程 が存在するとさえ言えよう。しかし、他者との結合を求める欲求、それを妨げる 障害、そしてその克服という、おそらくはあらゆる物語内容を根源的に規定する 類型を踏襲しながら、他方で、視覚的表象たる映画の内に、絵画といういま一つ の視覚的表象を介在させることで、映画的意味作用の成層構造を必然的にいま一 度重層化するこうした様態は、必ずしも、先に挙げた『メリー・ポピンズ』にお ける実写と絵の合成のような、フィクションの補強にのみ資するとは限らない。
ここで論じているのはあくまでもテクストの読解による主題系の生成である以 上、その読解の普遍性を唱えるつもりはないが、それでもなお、例えば『めぐり 逢い』において、無為な人生を過ごしてきた主人公のプレイボーイが、ヒロイン との恋を成就させるべく、生来の才能を揮って画家として一本立ちし、いったん は失った彼女と固く結ばれるまでの過程が物語られる中で、2人の愛の証となる ヒロインの肖像画のみならず、船上で出会った彼らを隠し撮りした幾枚もの写真 や、ヒロインがもたれかかったテラスのガラス戸に映る、半年後に屋上での再会 を約したエンパイア・ステート・ビルの反映や、主人公が目下の婚約者とともに 出演し、婚約の破棄を示唆するテレビの番組や、最後にヒロインのアパートで、
主人公が隣室に見出すくだんの肖像画が実像ではなく、鏡像としてのみ示される 構図など、物語展開上は必須ではないにもかかわらず、多彩な視覚的表象が織り なす豊かな呼応関係を通じて、2人の出会いと、別れと、困難を乗り越えての愛 の成就が描かれるというプロセスは、やはり単なる物語叙述の経済学には還元さ れない、幾多の視覚的表象の間のずれと、それが惹起する問い直しの契機を孕ん でいるように思われる。とすれば、絵画の主題系が映画に対して問い直すものと は、果たして何なのであろうか。
ここでいま一度、本稿の冒頭で述べた絵画と映画の相違、とりわけ時間性の関 与についてのそれに立ち返らなければならない。そこで指摘したのは、絵画が基 本的には単一の静止画からなり、映画が複数の動画の組み合わせからなるため に、前者に関与し得る時間性が、描写された出来事に想定される時間的な持続を 空間的に喚起する方法や、鑑賞に要する時間の任意性といったものに限られるの に対し、後者に関与する時間性は、片や描写された出来事が、現実と物語内容と
映像表現において占める時間同士の対応関係によって、片やそうした映像表現お よびそれらの集積としての映画作品の映写時間と、その鑑賞時間との合致によっ て、規定されるということであった。絵画作品の言表が時間の次元を欠き、映画 作品の言表が時空間において展開されるものである以上、これらのことは当然で ある。しかし、両者に関わる時間性の特質を考えるためには、各々の言表自体の 特徴と、受容面での言表作用の特徴のみならず、いま一つの要因を考慮に入れな ければならない。送出面での言表作用、より正確には、言表自体の物理的な形成 過程に関わる認識のあり方がそれである。そして、この点については、さらにも う一つの視覚的表象をなす写真を交えて論じることが有効であろう。
これも冒頭で述べた通り、絵画は基本的に人為のわざによって創り出され、写 真や映画の映像は機械的な複製手段によって生み出される。すなわち、1点の絵 画作品が制作されるためには、たとえ数分で描けるような素描であれ、数週間か 数ヶ月か、時には数年もかかるようなタブローや壁画であれ、創作のいとなみが 遂行される 持続 が担保されることが不可欠である。そして、そうした過程の 介在は、 芸術創作 をめぐる基本的にはロマン主義的な理解のもとで、現代の 鑑賞者によっても多かれ少なかれそれとして認識されているように思われる。こ れに対し、写真の場合は、たとえ 決定的瞬間 をとらえるために長時間待機す るようなことがあるとしても、シャッターを切った途端に、現実の時間の流れか らある特定の瞬間が切り取られる。無論、いかに速いシャッター・スピードで あっても、露光時間はゼロではなく、また撮影された画像についても、フィルム 写真の場合には現像・定着・焼付などの作業が、デジタル写真の場合にはディス プレイへの表示やプリント・アウトなどの操作が、必要なのであるから、言表の 形成に要する時間が皆無というわけではないが、にもかかわらず、 写真映像の 存在論 は、眼前の画像について、それが瞬時に、自動的に、人為を介さず、形 成されたものであるかのように認識し、しかもそれが かつて、あった ことの 痕跡として、任意の時間にわたって眺められるのである。そしてさらに、映画の 場合には、ショットのレヴェルにおいて、撮影される出来事の時間的持続が基本 的にそのまま記録され、再現される一方で、そのショットを構成するコマのレベ ルでは、写真と同様の瞬間の切り取りが継起的に行われるのである(35)。ここで もまた、一つのショットを撮影するには、スタッフやキャストや機材など、しか るべき準備が行われ、撮影後も写真と同様の工程や、さらには編集の作業が必要 となるのであるから、それらの加工を経た末に観客に提供される映像は、言うま でもなく、現実の光景を無媒介的に、動きとともに再現しているわけではまった くない。にもかかわらず、映画に見入る観客は、眼前に繰り広げられるアクショ ンを、 今、ここで 生起しつつあるもののように受け入れるのであり、それな
くしては、映画体験の快楽はおよそ成立し得ないであろう。
このような展望のもとで、映画に登場する絵画の形象をとらえ直すならば、そ れが映画と写真と絵画の言表および言表作用の様態にまつわる、相関的な対比の 一環をなしていることが理解されよう。すなわち、映画にあっては、持続を持続 として表出する言表が、それ自体、持続において受容されるのであるが、絵画の 場合には、その制作に要した持続が一幅の静止画に凝縮され、その凝縮された非 持続性が、映画の画面に現れることであらためて持続性を付与されて、観客に提 供されるのである。ちなみに、映画に現れる写真の場合には、瞬間の切り取りと して成立する静止画が、その一瞬の開示のインパクトを保ちつつ、片や現実にお けると同じように、片や映画の淀みない進行からは遊離するかたちで、持続の相 のもとに差し出されることになる。こうして、映画作品に登場する絵画や写真の 形象は、運動と静止の、持続と凝縮の、見ることと凝視することの、力動的な往 還を生み出し、そこに顕在化する異なる表象様態のずれを通して、映画を観ると いういとなみに反省的な眼差しを投げかけることになるのである。ゆえに、例え ば『ジェニーの肖像』において、主人公の自己実現がヒロインの肖像画を描き上 げる過程を通して達成され、彼女の出自をめぐる謎が昔日の写真によって一挙に 開示され、2人の究極的な絆が幻影と現実の一体化として体験され、しかもそう した展開の一部始終が映画によって叙述されるのも、決して偶然によるのではな い。そこにはまさしく、相異なる視覚的表象が織りなすテクストの運動に導かれ て、映画が映画を問い直す反省作用のプロセスが現出しているのである。現実の 代替から他者との結合に至るまで、多様な機能にそって、しかしいずれも表象に まつわる通念からの逸脱の契機を孕みつつ、映画作品に現れる絵画の形象が提起 しているのは、 映画とその分身 が体現する、そうした自己反省の射程にほか ならない。
5.自己反省の可能態
これまで、主に「古典的映画」に登場する絵画の形象を取り上げて、それが映 画に対する自己反省の契機をなす種々の様態について論じてきたが、そうした作 用は、あくまでもテクストの読解を通じて紡ぎ出される主題系の機能なのであ り、言い換えれば、古典的な物語叙述を遂行する映画においてすら、自己反省的 な射程を包摂するテクストが生成される点にこそ、主題論をいとなむことのダイ ナミズムが存することはあらためて確認しておきたい。
しかしながら、その一方で、60年代以降のいわゆる「現代映画」においても、
絵画の形象が何らかの自己反省的な機能を担う例は数多く見られ、しかもそこで は、そうした形象が作品全体の批評的、風刺的、 脱構築的 な企図の一環をな
すものとして位置づけられることが少なくない。その端的な形態の一つとして挙 げられるのが、有名な絵画を 活人画 として再現する趣向であるが、実際、『ビ リディアナ』(ルイス・ブニュエル、1961)や『M*A*S*H』(ロバート・アルト マン、1970)におけるレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の再現や、オ ムニバス映画『ロゴパグ』(1963)のパゾリーニ編「意志薄弱な男(リコッタ)」
におけるロッソ・フィオレンティーノの『十字架降下』の再現(36)などが、道徳 や宗教から軍隊や芸術文化に至るまでの、既存のあらゆる権威や秩序に対する挑 発の意図を孕んでいることは明白であろう。そして、こうした活人画による名画 の再現を、あるいは映像メディアのシステムに対する、あるいは物語叙述のコー ドに対する、尖鋭な問いかけとして展開したのが、ゴダールの『パッション』や ロブ=グリエの『囚われの美女』(1983)であることは周知の通りである。
しかし、現代映画において、絵画の形象を契機とした自己反省作用は、そうし た明瞭な企図に基づくものとしてのみ実現されるのであろうか。もしそうであれ ば、古典的映画においては読解によるテクストの戯れとして生起し得た作用が、
現代映画においては作者の意図によってのみ支えられるという、逆説的な事態が 生じてしまうことになりかねない。無論、実際はそうではない。その証左となる であろう事例の一つとして、エリック・ロメールの仕事を挙げることができる。
もとより、ヌーヴェル・ヴァーグの中核を担う一員として、ロメールもまたゴ ダール、トリュフォー、リヴェットらとともに、まずは批評の分野で活躍し、次 いでそこで培われた映画観を具現すべく、実作へと転じていった。なかんずく、
バザン以上のバザン主義者と目されたロメールにとって、映画とはリアリズムを 本旨とするものであって、ゴダールやリヴェットに見られるような映画的表象作 用そのものを問い直そうとする姿勢や、あるいはトリュフォーも含めた3者に共 通するような映画的引用への嗜好は、彼の作品においては一貫して退けられてき た。しかし、彼の批評家時代の言説には、映画の自己反省作用に対する明晰な問 題意識が読み取れるのであり(37)、また絵画と映画の関係をめぐっては、映画と 既存の諸芸術を比較検討した連載記事「セルロイドと大理石」の一編をその考察 に充て(38)、あるいは「絵画の空しさ」と題した論考において、パスカルの名高 い所見をめぐるバザンの考察をさらに敷衍するなど(39)、確かな関心を抱いてい たことが窺われる。そして、実作に転じてからも、その作品の幾つか、なかんず く撮影監督ネストール・アルメンドロスと組んだ一連の作品においては、彼と協 議しつつ、絵画をヒントにして基本的な画調を構想することがしばしばであった
(『クレールの膝』(1970)におけるゴーギャン風の色調、『聖杯伝説』(1979)に おける中世ミニアチュール的な絵柄、『海辺のポーリーヌ』(1983)におけるマ ティスの『ルーマニアのブラウス』、『満月の夜』(1984)におけるモンドリアン
『ビリディアナ』
レオナルド・ダ・ヴィンチ
『最後の晩餐』
『ロゴパグ』
パゾリーニ編「意志薄弱な男(リコッタ)」
ロッソ・フィオレンティーノ
『十字架降下』
『O侯爵夫人』
フュスリ『夢魔』
(デトロイト版)
フュスリ『夢魔』
(フランクフルト版)
の抽象画など(40))。
そのように批評においても実作においても、絵画への浅からぬ関心が窺われる ロメールの仕事の中で、特に注目されるのが、クライストの原作を忠実に映画化 した『O侯爵夫人』(1976)である。この作品の序盤、ヒロインが就寝中にロシ アの将校に辱められることになる場面で、フュスリの『夢魔』の絵柄が再現され ていることは、映画と絵画の関係を論じた考察においてしばしば取り上げられ ているが(41)、しかし、従来指摘されてこなかった点として、その画面の右端に、
原画にないローソクが配されている事実はきわめて重要である。『夢魔』には複 数の異本があり、最もよく知られているのはデトロイト美術館所蔵のものと、フ ランクフルトのゲーテ博物館所蔵のものの2点であるが(42)、横たわっている人 物の向きから、ここで再現されているのは前者であると思われる。しかし、その 枕元に灯されているローソクは、いずれの原画にも描かれておらず、強いて言え ば、それぞれ人物の足元に置かれたガラス瓶などの光沢が、微かな輝きを放って いるのみである。そこにあえてローソクを配した意匠が、監督のロメールの発案 によるものか、撮影監督のアルメンドロスによるものかは不明であるが、前者が リアリズムに徹した映画観を標榜し、後者がそれを具現する、自然光を活かした 撮影を貫いたことで、ヌーヴェル・ヴァーグの視覚的スタイルに大きな影響を与 えたことを考えるならば(もちろん、トリュフォーの歴史物の作品において、ア ルメンドロスがローソクやランプの光を印象的に採り入れたことも忘れてはなる まい)、この活人画におけるローソクの付加こそは、絵画の形象を介して映画本 来の表象のあり方を、とりわけそれが光によってもたらされるという事実を、あ らためて顕在化させるすぐれて反省的な契機をなしていると言えよう。絵画の色 と映画の光―ゴダールの『パッション』が鮮烈な相貌のもとに顕現させた両者 の閾が(43)、ここでは1本のローソクに託されて、慎ましく喚び起されているの である。
他方で、ロメールの近年の作品『グレースと公爵』(2001)もまた、あるユニー クな意匠のもとに、自己反省の契機を図らずも浮かび上がらせるものとなってい る。フランス革命の混乱を気高い矜持をもって生き抜いた、イギリス出身の貴婦 人の回想録を映画化したこの作品は、絵に描かれた背景と実写による人物をデジ タル合成した異色のスタイルを採っているが、そこに現出する両者の関係は、現 代の映画にあってはきわめて特異なものである。絵と実写の合成をめぐっては、
現実性の相対的な差異によってフィクションを補強する古典的映画の表象原理を 指摘したが、さすがに今日では、そうした古典的用法に完全に準拠する例は少な くなったように思われ、むしろ、例えば近年のあまたのSF映画におけるように、
先端的な技術的達成をこれ見よがしに誇示したり、あるいは現実とその表象の関
係をめぐって、時に律儀な訓示を伝えたりといった具合に(44)、物語世界への純 然たる没入よりも、何らかのかたちで、多かれ少なかれそこからの覚醒を促すよ うな用法が目立つように思われる。しかし、それでも、この作品に見られる合成 の様態はいささか倒錯的である。すなわち、まずはプロローグで舞台となる場所 や登場人物を紹介する何点かの絵が示された後、街頭風景を描いた最後の1点が 動き出すことで物語が始まるのであるが、この種の技法の古典的な様態とは違っ て、ここで実写となって動き出すのは人物たちだけであり、背後の街路や建物は 相変わらず絵のままで、そうした趣向が全編にわたって維持されるのである。か つてロメールは、クレティアン・ド・トロワの騎士道物語を映画化した『聖杯伝 説』において、中世のミニアチュールを参照しつつ、セットも、人物の姿勢や動 作も、徹底して様式化した独特のスタイルを試みていたが、ここでは、人物たち は通常の姿で行動するのに対し、背景だけがいかにも絵画的な外見を保っている ため、両者の間には常に奇妙な違和感が醸し出される。観客はあたかも初期映画 のごとく、書割に描かれた背景の前でアクションが演じられているような錯覚を 抱くことになり、ロメールがそれを意図していたか否かは別として、言わば通時 的な倒錯の身振りによって、絵画の形象を介した自己反省の運動に巻き込まれる のである。
絵画を手がかりとして映画的表象のあり方を問い直す自己反省の契機は、なに も『パッション』を生み出したゴダールや、『アメリカの友人』(1977)を世に問 うたヴェンダースのような映画作家についてのみ語り得る論題ではない(45)。リ アリズムの映画観を奉じ、実作から自己反省的要因を厳しく排してきたかに見え るロメールにおいてすら、上述したような反省的契機が読み取れるのであり、同 様の読解は、例えば今やハリウッドの正統を 生き残った者 として貫きつつ あるイーストウッドについても―あの注目すべき『目撃』(1997)を想起せよ
―明瞭な指標にそって試みることができるのである。しかし、もはや予定され た紙幅ははるかに越えてしまった。絵画の形象が映画テクストに仕掛ける、多様 な視覚的表象の相関の戯れにあっては、もはや古典的/現代的という対比も、あ るいは再現的/反省的という対比も、テクスト生成の運動の内に無効化され、開 かれた読解をいとなむ快楽のみが、無限に増殖してゆくということをあらためて 指摘して、この長い論考をひとまず閉じることにする。
注
( 1 )「映画と鏡―映画作品における反映の形象について」、『演劇映像学2008』、早稲田