輪
説 国 連 人 権 委 員 会 の 国 別 審 査 手 続 に 関 す る 一 考 察
ー 公 開 審 議 の 史 的 展 開 と 現 状 l l
阿 部 浩 己
目次
序‑一二三五決議の成立経緯
一人権の﹁保護﹂への胎動
二一二三五決議の採択
三NGOに対する牽制
H公開審議の始動
一一五〇三手続の成立
二南ア・イスラエルへ向けられる矛先
三チリ非難とNGOへの警告
皿公開・審議の新たな展開
一一五〇三手続への失望と公開審議への期待の高まり
二公開審議の活性化
(163)
163
三NGOの躍動
四小括
W公開審議の現状
一審議の政治性
ニァクショソの一例ll←争実調査
V公開審議の評価
一大規模人権侵害事態の取扱い
ニアクショソの政治的選別性1ーダブル・スタソダードの批判
(164) 164
序
国連人権委員会(以下︑人権委員会)は︑国連憲章(第六八条)において唯一名指しされる委員会として︑一九四六
(1)年に設置されて以来︑常に国連の人権活動の中心にある︒例年二月の第一週から三月上旬にかけての六週間ジュネー
ヴの国連欧州本部で開催される会期には︑四三のメソバー国に加え︑オブザーバー国や民族解放団体︑国際的諸機関︑
(2)そしてNGOの代表が数多く参集する︒メンバー国代表団の規模は国によってまちまちであるが︑一九八九年の例で
みると︑米国のように四〇名近い大代表団を送り込んでくる国もあれぽ︑スワジランドやボツワナのようにわずか一︑
二名から成るきわめて小規模の代表団にとどめている国もある︒ちなみに同年日本政府代表団は一三名から成り︑フ
(3)ランス︑イタリア︑西ドイッ︑スペイン︑英国などとほぼ同規模の構成であった︒﹁ひと回り小さな国連総会﹂と称
(4)されることもある人権委員会は︑こうした諸国の政治的思惑を中心に︑オブザーバー国や国際社会のオソブズマソと
(5)しての役割を担うNGOの意向も加えて︑きわめて複雑かつ魅力的な意思決定模様を織り成してきている︒
国連 人 権 委 員 会 の 国別 審査 手 続LYrV関す る一 考 察
人権委員会の活動は︑大別して次の三つに分類することができる︒すなわち︑第一に国際人権基準の定立︑第二に
(6)国際人権基準の促進(伸張)︑そして第三に国際人権基準の保護︑である︒第一の基準設定についていえぽ︑人権委員
会がこれまで世界人権宣言や国際人権規約(﹁経済的︑社会的及び文化的権利に関する国際規約﹂︑﹁市民的及び政治的権利に
関する国際規約﹂︑﹁市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書﹂)といった数々の重要な文書の草案を作成してき
(7)ていることは周知の通りである︒一九九〇年の時点でも少数者︑人権活動家︑精神障害者の権利保障を目的とする諸
(8)文書の起草作業が進行中である︒第二の人権の促進とは︑定立された人権基準を広めたり︑その適用にあたっての問
題点を分析したりする活動である︒一九八八年に世界人権宣雪口四〇周年を期して開始された世界人権広報キャソペー
(9)(10)ンや近年とみに重視されてきたアドバイザリー・サービスなどがその代表的なものといえる︒このほか一見無秩序と
(11)もいえるままに増大しつつある国際人権文書の定立・実施をめぐる諸問題の検討もこの側面から開始されている︒第
三に︑人権委員会は人権の保護を目的とする活動を行っている︒これは︑人権侵害の事態を明らかにし︑必要とあら
ば人権委員会が組織として一定のアクショソをおこすというものである︒この第三の側面は一九六七年以後人権委員
会に導入された比較的新しいものであるが︑その機能は年々拡充されてきており︑現在では人権委員会の行う諸活動
(12)の中で最も重要なものになっているといっても過言ではない︒
この人権保護活動はさらに二つの種類に分類することができる︒一つは国別人権状況審査であり︑もう一つはテー
マ別人権状況審査である︒これらはそれぞれ︑国ごと︑テーマごと(失踪︑拷問︑略式または恣意的処刑︑宗教的不寛容︑
など)に世界の人権状況を検討しようとする手続であり︑人権委員会の人権保護機能を相乗的・相互補完的に高めて
きている︒本稿ではこのうち前煮すなわち国別人権状況審査に焦点を当て・(姻の史的展開と現状について考察を試
(14)みることにする︒人権委員会に人権保護機能をもたらした原動力はいかなるものであったのか︑それは以後こんにち
(165)
165
までどのように展開・拡充してきたのか︑といった点を︑人権委員会を取り巻く法と政治の錯綜という観点から解明
してみたい︒なお国別人権状況審査には公開のもの(公開審議手続)と非公開のもの(非公開または一五〇三手続)とが
あるが︑本稿では公開の側面を中心としつつ︑適宜両者への言及を試みたい︒
1 一 二 三 五 決 議 の 成 立 経 緯
Cr6s)
166
一人権の﹁保護﹂への胎動
第二次大戦の終結にともなって発足した国連体制は︑すでにそのスタート時点から東西冷戦構造を内包するきわめ
て波乱含みの様相を呈していた︒多くの問題について両陣営間の合意を導くことは容易でなかった︒ただそうした中
で両陣営が奇しくも当初から見解を一にしていたのは︑国連に寄せられる人権侵害の通報について組織として何らの
アクショソもおこさないということであった︒
国連憲章は﹁国際の平和及び安全の維持﹂とともに﹁人権及び基本的自由の尊重﹂をその主要目的の一つに掲げて
いる︒そのためもあってか︑世界中の人々にとって︑新たに発足した国連は抑圧された人々の権利と自由を確保して
くれるまさに希望の星のごとき組織と映ったのであった︒そのような期待から︑国連には発足以来数多くの人権侵害
の通撃送付されて匙・しかしそうした通報を紐解くことは︑とりわけ主要国にとっては︑そこからあらゆる災い
と害悪が飛び出す﹁パソドラの箱﹂をあけるにも等しいことであった︒米国は自国の人種差別問題が国連によって取
り上げられることを恐れた︒英国その他の西欧諸国は︑自国が抱える植民地の状態にスポットライトが当てられるこ
とをよしとしなかった︒一般に民主主義体制をとる諸国は︑自国の反政府勢力によって自らが批判にさらされる一方
で︑全体主義体制をとる国々がそうした批判を強権的に抑えこむであろうとの危惧を抱いていた︒他方ソ連をはじめ
国 連 人 権 委 員会 の国 別 審 査手 続 に 関 す る一 考 察
(16)とする社会主義諸国は︑国内問題不干渉の抗弁を提起して通報の審議に原則面から反対した︒
こうした各国ごとの思惑に加え︑通報の受理を正式に認めるのであれば国連は無数の通報に埋もれることになるの
ではないか︑またその中には当然に常軌を逸したプロパガソダのようなものも少なからず含まれるであろうが︑その
結果として国連はそうした通報の処理に無為に時間を取られることにならないか︑などといった懸念も一般に共有さ
れていた︒そして何より重要だったことに︑通報処理の任を担うぺき人権委員会自体︑当時その精力を国際人権章典
の作成に注いでいたため︑当面は人権の﹁保護(凛︒梓案δ昌ごにまで手を広げる余裕をもちえなかった︒こうしたこと
から人権委員会は一九四七年︑﹁人権に関するいかなる苦情申立についても何らのアクショソもおこさない﹂ことを
(17)全会一致で決定するに及ぶのであった︒この決議は︑ほどなく経済社会理事会(以下︑経社理)によっても承認される
(18)こととなった︒
一九五四年に至り︑人権委員会は世界人権宣言に続き国際人権規約草案の起草作業をも終了した︒これにより同委
員会は当面の最大の作業から解放され︑次なる活動段階(第二期)に歩を進める絶好の好機を迎えた︒ここで人権委
員会は︑従前の人権基準の定立(︒・富薮舞籍毘欝︒Q)Lから﹁人権基準の保護﹂へとその活動内容を変更する選択肢をもっ
(19)ていた︒しかしこれは︑ほかならぬ米国の強力な指導力のもと︑実現には至らなかった︒代わって米国はいわゆる
﹁アクション・プラン(︾6峠一〇口℃一帥コ)﹂と称されるプログラムを打ち出した︒これは当時のアイゼソハワー政権下で国
務長官を勤めていたダレス(トO邑Φψ)の主導によるものであり︑このことからダレス・ドクトリンの産物ともいわ
(20)れる︒それは︑説得や教育を通じ人権を世界的に﹁促進(鳴oヨo鉱o護)﹂することを内実としていた︒そのために︑世界
的に人権状況の研究を行い︑またセミナーの開催などを中核とするアドバイザリ!・サービス(巴くぎ藁︒・翁同8)が人
権委員会によって提供されることとなった︒また各国は︑自国の人権状況について定期報告を作成することも求めら
(16?)
Ifi7
紅絶︒このように描写すると・アクション・プラソはいかにもすばらしいプログラムであったかのような印象も抱か
れるかもしれない︒しかし実際には︑このプログラムは何ら目立った成果を生み出さなかった︒むしろそれは︑人権
委員会の活動を停滞させるに等しかった︒そのため︑このアクション・プラソは皮肉にも﹁イナクション(一昌弾6試O昌)﹂
(22)プランと椰楡されたほどでもある︒
第二期の活動の方向性が米国の指導のもとで確立されたことからも明らかなように︑この時期︑人権委員会におい
(23)て欧米グループ︑とりわけ米国の影響力は圧倒的であった︒より正確にいえば︑米国の支配的影響力はひとり人権委
員会の中にとどまらず︑当時国連の内外で縦横に浸透していたといえる︒そういった影響力は︑特に敵国とみなされ
たソ連に向けて発揮された︒事実︑国連成立後最初の二〇年間︑米国は一貫して国連外でソ連を疎外し︑国連内では
ソ連の力を減殺しようとした︒たとえば一九五〇年︑米国は国連総会において平和のための結集決議を採択させるが︑
(24)これは安保理におけるソ連の拒否権行使の効果を封殺することを目的としていた︒もとより︑安保理において米国は
多数派を背景にきわめて論争的な問題を提起することによりソ連の拒否権行使を誘発し︑ソ連が議事妨害に固執して
(25)いるかのごとき心証を生み出させていた︒同様に︑米国は総会においてもソ連を常に防御の側に回らせていた︒
このように常態的に劣勢の側におかれていたソ連にとって︑アジア・アフリカ諸国(AA諸国)が次々に独立を達
成し国際社会に非植民地化の新しい波を吹き込んだことは︑対米反転攻勢の一大好機とも映るものであった︒植民地
独立は植民地保有国たる西欧諸国のヘゲモニーの低下を示すものであったことは疑いないが︑米国にとっては非植民
地化それ自体は本来決して反対すべき現象ではなかった︒ただ新興独立国の経済的.社会的試みに﹁社会主義﹂とい
う名称が冠されたとき︑ダレスはそれを封じ込めの対象とすべき共産主義の浸透と同一視したのであった︒冷戦構造
の枠組を絶対視するあまり米国は正常な判断能力を失っていたのであり︑そうした状態にある米国にとって米国型の
(168)
1$8
国連人権委員会の国別審査手続に関する一考察
社会体制を採用しない新興独立国はすべて米国に敵対するものと捉えられたのであった︒かくして米国は︑その本来
の意図とは別に︑植民地保有国たる西欧諸国とともに反﹁非植民地化﹂のスタンスを呈さざるをえなくなっていくの
である︒他面で新興独立国の側も︑ソ連を囲い込むことにより共産主義の拡張を防こうとしたいわゆる﹁封じ込め政
(26)策﹂は︑米国自らの勢力を維持・拡張する試みにほかならないとしてこれに批判的な姿勢を示していた︒
(27)ソ連は︑欧米と新興AA諸国との間でできあがったこうした明瞭な対立の図式に乗じようとしたのであった︒AA
諸国は次第に非同盟グループとしてその結束を強化していくのであるが︑これらの国々は︑アフリカに残る植民地を
はじめ世界中の植民地の解放を優先課題の一つとして措定した︒かかる非植民地化のプロセスに法的装いを冠したの
は周知の植民地独立付与宣言であったが︑この宣言が採択される国連総会において同名の議題を提案するとともに自
(28)ら当該決議案を上程したのはほかならぬニキタ・フルシチョフ(ヴβ犀ロロoげ∩げΦ︿)その人なのであった︒この決議案は
(29)最終的に内容を若干修正したアジア・アフリカ四三か国共同提案の決議にとって代られる︒しかし︑そうした若干の
(30)内容的修正はソ連にとってはさしたる重大事ではなかった︒ソ連にとって最も重要だったことは︑自国がAA諸国と
同一歩調をとっているということを広く公知せしめることだったのである︒
この決議の採択によって非植民地化のプロセスは一層加速されていく︒そして次のステヅプとして求められていた
のは︑そのプロセスを促進するための具体的施策の案出であった︒その一つとして当該決議の実施を監視する非植民
地化委員会が組織され︑同委員会は一九六五年にザンビア︑タソザニア︑エチオピアで会合し具体的なプ胃グラムを作
成した︒発展途上国と社会主義諸国によって圧倒的多数が占められた非植民地化委員会は︑そのプログラムの中に非
植民地化達成のため国連の人権擁護諸機関(経社理︑人権委員会︑小委員会)に援助を要請するとの規定を盛込んだ︒すな
わち同委員会は︑植民地における人権侵害について人権擁護諸機関が一定の対応を示すよう求めたのである︒この点
(rss)
169
で特に人潅委員会は︑人種差別・隔離政策のはなはだしい南西アフリカおよびナミビアにおける人権侵害について注
意を喚起された︒この結果︑非植民地化のプロセスは︑はからずも植民地︑特に南部アフリカにおける人権侵害への対
(31)応という形で︑人権委員会をも巻き込んだよりダイナミックな課題として新たに発展していくことになったのである︒
こうした事態の展開は︑ソ連の思惑に沿うものであった︒ただソ連はAA諸国と完全に見解を一にしていたという
わけではない︒ソ連は︑国内問題不干渉の原則を拠り所として主権国家における人権問題への国際的監視を拒絶する
立場から︑国連の活動の対象をあくまで植民地のみに限定しようとした︒他方AA諸国にとって植民地の解放は最大
の関心事には違いなかったが︑同時に彼らはアフリカ諸国主導のもと南アフリカ(以下︑南ア)のアパルトヘイト撲滅
という特有の課題をも抱えていた︒非植民地化プロセスの延長で人権侵害への対応を独立国たる南アにまで拡大して
いくことは︑国内問題不干渉の原則を貫くうえでソ連にとっては本来受入れ難い選択ではあった︒しかし欧米への反
転攻勢という至上の課題を実現しなければならなかったソ連にとって︑より一層緊要な要請はAA諸国との協調路線
を墨守するということなのであった︒このゆえに︑ソ連はその後自らが固守していた国内問題不干渉の原則を部分的
(32)に放棄する形でAA諸国の側に与していくことになるのである︒
一九六六年︑人権委員会の親機関たる経社理において非植民地化委員会の要請が審議されたとき︑AA諸国は予想
通り当該要請を拡大し︑植民地(南部アフリカ)に加えてアパルトヘイトを実施する南アをも人権侵害への対応対象地
(33)域に含ませようとした︒もとよりソ連もこれに同調した︒ところで︑こうした非植民地化プロセスは人権委員会の機
能を抜本的に変更せしめる効果をもたらしつつあった︒すでに述べたように︑人権委員会は当時︑ダレス・ドクトリ
ンに基づくアクショソ・プラソのもと人権の﹁促進﹂を行う段階にあった︒そこでは特定の人権侵害(状況)をとり
あげそれについての対応を審議するという人権の﹁,保護﹂は想定されていなかった︒しかし非植民地化のプロセスは︑
(170) 1?0
国連 人 権 委 員 会 の国 別 審 査 手続 に 関す る一 考 察
たとえ植民地(南部アフリヵ)および南アに限定されるとはいえ︑人権侵害(状況)についての何らかの対応を人権委
員会に迫りつつあった︒一九六六年の経社理は︑こうした意味においてまさに人権委員会の活動期の変革を画する分
岐点ともなる会合であった︒
事態のこうした展開は︑欧米諸国︑とりわけダレス・ドクトリソに固執する米国にその政策の再考を促さずにはい
なかった︒何より︑新たに迎える人権委員会の﹁人権保護期(第三期)﹂においてその活動対象地域が植民地と南アに
限定されるのであれぽ︑それらの地域・国と密接な関係を有する欧米諸国に人権委員会の批判の矛先が向けられるこ
とは火を見るより明らかであった︒ただ欧米諸国にとって幸いに︑AA諸国およびソ連が提案した人権侵害状況審議
対象地域の中には植民地に加えて独立国たる南アが含まれていた︒歴然たる主権国家である南アがその対象地域たり
うるのであれぽ︑AA諸国やソ連自体を含む他のすべての主権国家がそうであってはならないはずはない︒欧米諸国
は︑ここでダレス・ドクトリソを放棄し︑劣勢を挽回すべく﹁すべての国﹂を人権侵害状況審議の対象地域とすべき大
胆な提案を行った︒もとより︑いずれの国も人権問題から自由ではありえない︒しかしこの提案は︑特に自国内に大
きな問題を抱える多くのAA諸国にとって︑そしてソ連にとって逆に喉元に剣を突き付けられるようなものであった︒
ここでAA諸国・ソ連側は︑南アを除外するかまたは欧米の提案を受諾するかという厳しい選択を迫られることにな
(34)る︒その結果︑きわめて不本意ながら後者が選択された︒こうして一九六六年三月四日の経社理決議=〇二(XL)
(35)は大要次のようなものとなった︒すなわち︑﹁経社理は人権委員会に対して︑すべての国︑特に植民地その他の従属
国・従属地域における人権および基本的自由の侵害の問題(人種差別・隔離政策およびアパルトヘイト政策を含む︒)を検
討し︑そうした侵害を阻止する手段について経社理に勧告するよう要請する︒﹂
人権委員会の機能の変革をもたらす端緒になるこの決議の採択は︑いってみれぽ明確な勝利者なきものであった︒
(1?1)
171
欧米諸国にしても︑人権侵害の検討対象地域を﹁すぺての国﹂に拡張したのは人権の大義のためというよりは自らを
防御するために現実的に必要だったためであり︑AA諸国そしてソ連にとっては自らの提案によって自らの首を締め
る余地を招いてしまったのであった︒特にソ連にとっては︑固執すべき国内問題不干渉の原則に風穴をあけられるに
等しいものでもあった︒一旦動き出した非植民地化の巨大な流れの中で生まれたこの決議は︑その意味で︑すべての
国の思惑が複雑に絡み合った﹁妥協﹂の産物であったといってよい︒いずれにせよ︑この決議が採択されたことによ
り︑人権委員会の機能は﹁人権の促進﹂からすべての国を対象とした﹁人権の保護﹂へと向かうことになるのである︒
(172)
172
一一=一三五決議の採択
経社理決議一一〇二(XL)を受けて同年の人権委員会は早速に︑﹁すぺての国における人権および基本的自由の問
題を完全に処理するために︑人権委員会が人権侵害に関する情報をよりよく入手する手段について十分に検討する必
要がある﹂との決議を採択し︑さらに小委員会に対して適切と思われる勧告を行うよう要請した︒一方経社理は︑人
権委員会のこうした決議を歓迎し︑他方総会も﹁人権侵害が起った場所の如何を問わず︑その侵害を阻止する国連の
(36)
能力を改善するための方法と手段﹂について経社理と人権委員会が緊急の考慮を払うよう要請し︑これに呼応した︒
新たに到来しつつあった人権委員会の﹁人権保護機能﹂の具体的輪郭は︑同委員会の勧告を受けた小委員会によっ
て形成された︒特に重要な役割を果たしたのは︑米国人委員ファ1ガソン(O曹男霞唱︒・8)であった︒彼は長年にわた
って事実上放置されていた国連への通報の活用を中核として︑概ね次のような提案を行った︒すなわち︑国連に寄せ
られる通報をその他の関連資料とともにまず小委員会が検討し︑それが﹁いずれかの国︑特に植民地その他の従属地
域における一貫したパターンの人権侵害(人種差別・隔離政策およびアパルトヘイト政策を含む︒)﹂を示していると判断さ
国連人権委員会の国別審査手続に関す る一考察
れる場合には︑小委員会は当該事態を人権委員会に送付する︒次いで人権委員会は︑当該事態を審議し︑必要に応じ
(37)て研究または調査を開始するかどうかを決定する︒こういった内容を有するファーガソンの提案は︑主権国家に対し
て人権保護機能を及ぼすことに否定的なソ連人委員ナシノフスキー(乞鼠きく︒・ξ)の抵抗にあい採択されるには至らな
かった︒ただそれはそのまま葬り去られるということはなく︑参考提案の意味合いをもって人権委員会に送付される
(38)ことにはなった︒
この提案が送付されてきた一九六七年の人権委員会は︑従前の委員会とは大いに異なる委員会になっていた︒数的
にいえば︑メンバー国の数が一一一から三二に増大していた︒しかもそれまで合計六の席しか割当のなかったAAグル
ープに対して︑新たに一四(アフリヵ八︑アジァ六)の席が割り振られていた︒欧米主導型の第一期(人権基準の定立期)
および第二期(人権の促進期)を経て︑人権委員会は﹁人権の保護﹂を主軸に据える第三期を多くの新興AA諸国の参
加のもとで迎えつつあった︒こうした新装人権委員会において欧米グループは︑小委員会の場では採択されることの
なかったファーガソン案を下敷きに人権委員会の新たな機能を定式化しようとした︒ソ連・東欧グループは別として︑
人権委員会の人権保護機能を(植民地はもとより)南アに及ぼすことを当時最大の眼目の一つとしていたAA諸国は︑
この欧米グループのイニシアチブを拒絶することはできなかった︒この結果︑人権委員会は﹁人権保護期﹂の到来を
(39)告げる決議八(XX皿)を採択するに至るのであった︒当該決議において人権委員会は︑﹁すべての国︑特に植民地そ
の他の従属国・従属地域における人権および基本的自由の侵害(人種差別・隔離およびアパルトヘイト政策を含む︒)﹂に
ついて毎年審議することを決定し︑さらに﹁経済社会理事会決議七二八F(XX鵬)の規定に従って国連が受理する通
報に含まれる重大な人権侵害に関する情報を人権委員会ならびに差別防止及び少数者保護小委員会が検討し﹂︑人権
委員会が﹁入手可能な情報をも慎重に検討した結果︑一貫したパターンの人権侵害を示す事態について徹底的な研究
(1?3}
173
および調査を行い︑経済社会理事会に当該事態についての勧告を付した報告を行うLことができるよう経社理にその
承認を求めたのであった︒
人権委員会の決議八(XX皿)は︑同年六月六日の経社理決議によって概ね承認される︒ただ人権委員会への﹁調
査﹂権限の付与については︑当該国の同意が必要との判断から英国︑フィリピン︑タンザニア代表などの発議により
(40)拒絶された︒またこの経社理決議にはAA諸国および社会主義諸国の提唱に基づき自決や人種間平等への強い希求が
特に込められたが︑実にこの決議こそ︑人権委員会が人権保護活動の領域に踏み込むことを正式に承認される歴史的
(41)な経社理決議一二三五(XLH)なのであった︒これにより︑人権委員会は成立後二〇年目にしてようやく世界の人
(24)権侵害に対して本格的に取組む法的装いを整えたのであった︒ここでその主要箇所を抜粋すれば︑それは次のような
ものである︒
﹁経済社会理事会は︑
人権委員会決議八(XX皿)および九(XX皿)に留意し︑
一﹃すべての国︑特に植民地その他の従属国・従属地域における人権および基本的自由の侵害(人種差別.隔離
およびアパルトヘイト政策を含む︒)﹄と題する議題を毎年審議するとの人権委員会の決定を歓迎し⁝⁝︑
二人権委員会ならびに差別防止及び少数者保護小委員会に対し︑南アフリカ共和国および⁝⁝南西アフリカ領
において行われているアパルトヘイト政策が示すような人権および基本的自由の大規模な侵害ならびに特に南ロー
デシアにおいて行われている人種差別に関する情報であって︑一九五九年七月三〇日の経済社会理事会決議七二八
F(XX瓢)に従って事務総長がリスト化している通報に含まれるものを検討することを承認し︑
三人権委員会が︑一に基づいて入手する情報を慎重に検討した後適当な場合に︑南アフリカ共和国および⁝⁝
(174) 174
南西アフリカ領において行われているアパルトヘイト政策が示すような一貫したパタ!ソの人権侵害ならびに特に
南ローデシアにおいて行われているような人種差別を示す事態について徹底的な研究を行い︑勧告を付して経済社
会理事会に報告を行うことができると決定[する︒]L
国 連 人 権 委員 会 の国 別 審 査 手続 に 関 す る一 考 察
三NGOに対する牽制
この決議を契機として設定された人権委員会の人権﹁保護し活動を効果的なものにするにあたって︑NGOの果た
す役割はいうまでなく重要である︒ただ︑NGOは必ずしも人権委員会において常に厚遇されてきたわけではない︒
後に述べるようにNGOは間断的に各国政府による非難の的ともなってきているのである︒
(43)NGOと国連(経社理とその下部機関)との関係を規律する基本条項は︑国連憲章第七一条である︒同条は︑経社理
が﹁その権限内にある事項に関係のある民間団体[NGO]と協議するために適当な取極を行うことができる﹂旨を
定めている︒国連設立当初こうした取決めは一九四六年に設置された経社理のNGO委員会を中心にアド・ホックな
(必)(45)形で行われていたが︑一九五〇年に至りそうした取決めや協議資格の具体的内容は経社理決議二八八B(X)によっ
て一律に画定されることとなった︒NGO委員会が最初に作成した報告書によれぽ︑NGOに協議資格を付与する目
的は二つあるとされる︒まず第一にNGOの専門的助言を得ること︑そして第二に世界の世論を反映させること︑で
(46)ある︒ただNGO委員会の審査を通るとはいえ︑NGOの中には政治的に偏向しているとみられがちなものも散見さ
れる︒とりわけ冷戦が激烈であった時期において︑東西両陣営は他の陣営に一方的に与しているとみられるNGOを
非難することを怠らなかった︒たとえぽ世界労働組合連合(WFTU)や米国労働者連合(AFL)は︑それぞれ東西
両陣営を代表するNGOとして︑初期の国連(経社理)においてまさにそうした非難の矢面にたっていた︒
(175)
175
冷戦のさなかNGOに対するそうした疑念が高じ︑一九六七年︑経社理が画期的な決議一二三五(XL皿)を可決
(47)したその年に︑国連と協議資格を有するすべてのNGOはその地位を国連によって精査されることとなった︒その具
体的背景には︑一方で欧米諸国が国際婦人民主連合(WIDF)や国際民主法律家協会(IADL)などを社会主義諸
国の単なるエージェソトにすぎないとして︑それらに対する協議資格の付与を好ましく思っていなかった事情があっ
た︒しかし他方でより直接的な誘因となったのは︑園帥日℃曳︒︒誌によって国際法律家委員会(ICJ)をはじめとする
若干のNGOが米国CIAの財政的援助を受けていたという事実が暴露されたことであった︒この事実は︑欧米に本
拠を置く多くのNGOに日頃から不信感を抱いていた社会主義諸国およびAA諸国に格好の攻撃の材料を与︑兄ること
(48)となった︒
こうした背景のもとで行われた国連の精査は︑﹁政府の前線組織であるとの一般的嫌疑について潔白であることを
証明するよう要請する質問書を通じ︑経済社会理事会との協議資格を有するNGOを不名誉な尋問的﹃詰問﹄にさら
す﹂ものであっを詫耀この精査の結果翌一九六八年に採択された経鐘決議三九六((50)XLW)は︑NG・の協
議資格の停止・取消しを可能とする三つのケースを新たに明示するものとなった︒決議一二九六(XLレ)は︑従前の
決議二八八B(X)を拡充するものであり︑国連憲章第七一条を実施するためのいわぽ授権決議ともいえ︑こんにち むNGOの協議資格を語るうえで最も重要な決議といえるが︑決議二八八B(X)との決定的な違いの一つはNGOの
協議資格の停止・取消しの場合を新たに付加した点にあったといえる︒NGOの協議資格の停止.取消しをなしうる
とされたのは次の三つの場合で紮・第一に・函連憲章の目的および原則に反する行為を行うよう薙するため秘
密裡に政府の財政的影響が行使されたとの確証が存するL場合︑第二に︑﹁国連加盟国に対して根拠がないかまたは
政治的に動機づけられた行為を計画的に行うことにより協議資格を明白に濫用する﹂場合︑そして第三に︑﹁過去三
(176)
176
国連人権委員会の国別審査手続に関する一考察
年間経社理の事業に何ら明確なまたは効果的な貢献を行わなかったL場合︑である︒これに加えて︑NGOの基本財
源は各国支部または個人メンバーからの拠出金によって賄うものとされ︑あわせて任意の拠金があった場合にはその
額と寄付者名を明らかにしなければならないとされた︒また政府からの寄付金があった場合には︑国連事務総長を通
じNGO委員会にその旨を報告しなければならず︑その用途も国連の目的に合致するように厳命された︑さらにNG
Oは四年ごとに活動報告を作成し︑その活動内容をNGO委員会によって定期的にチェックされることともなった︒
ただこの決議一二九六(XLW)を生み出した以外︑結果的には国連による精査自体によってNGOの活動が具体
的な制約を受けるということにはならなかった︒国連からの質問に何ら回答しなかった若干のNGOがその地位を剥
奪され︑またユダヤ人組織協議理事会(08︒・鼻轟話O︒§亀︒胎甘鼠静9σ・鋤巳N註︒琶の協議資格が停止されるというこ
とはあったものの︑アシェール(︾︒冨婦)がいうように︑国連による精査は全体としてみれば﹁最小限の影響しか及ぼ
(53)さなかった﹂というのが実相であるように思われる︒大部分のNGOは協議資格を剥奪も停止もされることなく︑国
連の人権事業に貢献していく途を確保したのであった︒
皿
公 開 審 議 の 始 動
一一五〇三手続の成立
経社理決議一二三五(XLH)(および人権委員会決議八(XX皿))が人権委員会の活動を新たな段階に発展させる直
接の法的基礎を与えていることは疑いえないものの︑この決議が予定している肝心の手続は必ずしも十分に明確とは
いえなかった︒とりわけ︑第二項が人権状況を検討するにあたり重要な情報源として予定する﹁通報﹂の処理方法に
ついては︑手続的に何ら明らかにされていなかった︒その手続の明確化作業は再び小委員会のイニシアチブに基づい
(177)
177
て行われていくことになる︒一九六七年︑国連人権局長を退官し小委員会のメンバーとして国連に返り咲いていたカ
ナダ人ハンフリー(↑寓ロヨ℃誓2)は︑国連が人権の保護に踏み出したことに意を強くし︑早速ギリシアとハイチにお
ける人権状況の研究を人権委員会に要請する決議案を小委員会に提出した︒この時米国人代理委員カリー(99冨団)
は通報を積極的に証拠として活用しようとする考えから︑経社理決議七二八F(XX冊)に基づいて作成されていた
両国に関する通報の番号をハンフリーの決議案に添付したのであった︒またこれ以外に︑小委員会は南アおよび中東
(54)における四つの事態について人権委員会の注意を喚起した︒
小委員会の要請を受けた一九六八年の人権委員会の対応はきわめて政治的に決せられた︒人権委員会は最終的にギ
リシアとハイチの事態については何らのアクショソもおこさないとの決定を下すのであるが︑この決定をめぐる各国
の思惑は決して同様ではなかった︒ソ連はギリシアがとりあげられることを基本的には歓迎しながらも︑通報がその
証拠として活用されるのであれば個人に国家を相手取った苦情申立権を与えかねないとして重大な疑義を表明した︒
また米国は︑自国の側に立つギリシアとハイチが公開の批判を浴びることに当初から反対を表明していた︒AA諸国
を中心とする非同盟諸国にとってもその主たる関心は南アや中東に集中していたのであり︑この結果人権委員会は小
委員会によって付託された事態のうちギリシアとハイチにおけるものについてはこれを取り上げない旨決定したので
(55)あった︒
こうした人権委員会の対応は︑小委員会に対して通報処理手続定式化の必要性を痛感させた︒折から︑小委員会は
(56)ハンフリーを議長とする三名から成るワーキソグ・グループを設置しその定式化を委託していたが︑こうした状況の
(57)もと同委員会は早々と一九六八年に︑このワーキソグ・グループが提案した三段階の処理手続を承認するに至る︒す
なわち通報は︑まず小委員会の通報ワーキソグ・グループで︑次いで小委員会全体で︑そして最後に人権委員会で︑
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178
国連 人 権 委 員 会 の国 別 審 査 手続 に関 す る一考 察
スクリーニングされるというものである︒小委員会から送付されたこの提案は︑人権委員会においても承認されると
(58)ころとなる︒ただその際人権委員会は︑小委員会による通報の検討に際しては﹁他の関連情報﹂も考慮されるべきで
(59)あるとする英国の提案を受け入れ︑また通報手続に懐疑的なタンザニアの提案を受けて︑すべての手続は人権委員会が
(60)経社理に勧告を行うことを決定するときまで﹁非公開﹂にすることとした︒通報処理手続はこのように﹁非公開﹂と
されたことにより大きな制約を受けることは必至であった︒しかしこうした重大な足枷がかけられたにもかかわらず︑
個人に苦情申立権を付与するに等しいと考えられたこの手続の確定には︑社会主義諸国をはじめ頑強な抵抗が最後ま
でみられた︒実際に一九七〇年に人権委員会の提案を経社理が審議したとき︑この提案を事実上廃案にもちこもうと
する動議がブルガリアとスーダソから提出された︒しかしこの動議は︑賛成一二︑反対一二︑棄権三という詰坑した
(61)結果を呈しながらも否決され︑最終的に西欧︑ラ米諸国を支持基盤としたこの提案は︑経社理決議一五〇三(XL皿)
(62)として︑一四力国の賛成のもと(反対七︑棄権六)一九七〇年に正式に採択されたのであった︒
(63)一五〇三手続と一般に称されるこの通報処理手続は︑一九七一年に通報の許容性についての細目が確定されたこと,
(磁)により本格的に始動する条件が充足される︒国連が人権の保護を行うにあたり︑世界各地から寄せられる通報は情報
源としてきわめて重要である︒国連設立当初人権委員会はこうした通報については何らのアクショソもおこさないと
いうことを明言し︑この姿勢は一九五九年の経社理決議七二八F(XX冊)でも再確認されていた︒しかしこうした
国連の消極的姿勢は︑非植民地化の波を直接的誘因とし︑またハンフリーやカリーなど有能な小委員会(代理)委員︑
さらには人権委員会・経社理における西欧︑ラ米諸国︑といった様々なアクターの行動によりいまや一八〇度覆され
た︒一五〇三手続は︑人権委員会の新しい機能を象徴するものとして大きな期待を背負っていくことになるのである︒
{179)
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二南ア・イスラエルへ向けられる矛先
問題となったのは︑一二三五決議と一五〇三決議との関係である︒一五三〇決議が取扱う通報処理手続は︑本来一
一一三五決議第二項の不明確さを補うために定立されたものといえる︒このように考えるならば︑一五〇三手続は=一
ヘへ三五決議が提示するより包括的な手続の中に吸収されることになる︒他面で一五〇三手続は何らの限定も課されてい
ないーつまり公開審議を予定されていたと考えられる!一二三五手続とは異なり︑特に﹁非公開﹂という制約を
負わされている︒しかも︑通報を処理するにあたって小委員会は﹁その他の関連情報﹂の検討も認められている︒そ
(65)の結果として︑一五〇三手続はそれ自体単独で機能しうる手続とも思料された︒また後に明らかにされるように︑政
府の中には︑一五〇三手続こそが一二三五決議を吸収し唯一有効な人権審議手続になったと主張するところもみられ
(66)た︒この考え方によると︑一五〇三手続はその非公開性をもって一二三五決議の予定した公開人権審議シナリオを全
面的に凌駕するものとみなされたのである︒
両者の関係はこのように当初決して明瞭とはいえなかったが︑事実の問題として一二三五決議の予定した公開審議
手続は︑実は一九六七年の時点から早々と機能はしていたのであった︒最初にとりあげられたのは南アにおける事態
である︒南アに関しては同年公開で人権状況審議が開始されるとともに︑囚人や被拘禁者その他警察の保護下にある
者への拷問︑虐待の嫌疑を調査するため早速にアド・ホック専門家グループが設置されるに至っている︒個人的資格
(67)で選出される六名から成るこのグループの委託権限は︑後に南部アフリカの他の地域にも拡大されていく︑以来こん
にちまでこのグループの活動を通じ南アは一貫して人権委員会の公開の監視下にあるわけであるが︑他の地域・国に
先んじて南アが早々と公開審議の対象になった背景には︑何よりもこの国を公開で審議するためにこそ一二三五決議
が採択されたという特殊な事情がある︒このことは当該決議の文言からも明示に読み取ることができる︒自らが監視
(180}
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国 連 人 権 委 員 会 の 国 別 審 査 手 続 に 関 す る.̲..考察
の対象になるかもしれないリスクを冒してまでAA諸国が=一三五決議を成立させたのは︑なかんずくこの南アを人
権委員会の審議の姐上にのせるためなのであった︒またソ連の主張によれば︑そもそも南アの事態は非公開の一五〇
三手続にかけられる必要のない事態であるとされた︒つまりソ連によれば︑いずれかの事態が大規模な人権侵害状況
を呈しているかどうかを認定するためには本来一五〇三手続が活用されなければならないことろ︑アパルトヘイト︑
人種差別.隔離政策を通じ︑南アの人権侵害状況の大規模性はすでに十分に立証されている︒したがって︑この国に
っいてはわざわざ一五〇三手続に付す必要がないとされたのである︒この国について必要なのは追加情報を入手する
ということであり︑アド.ホック専門家グループの活動および人権委員会での公開審議の目的はまさにそのためにあ
(68)るとされた︒
次いで公開審議の矛先はイスラエル占領地域に対して向けられた︒一九六七年︑第三次中東戦争で一敗地にまみれ
たアラブ諸国は︑敗戦による損失を政治的手段で回復しようと直ちに多面的な外交キャソペーソを開始した︒その中
心的舞台は国蓬据えられた︒アラブ諸国は︑国連のあらゆる機関を通じてイス三ルへの攻勢を仕掛けようと論・
そこで︑一九六八年にまず総会で︑﹁被占領地域住民の人権に影響を与えるイスラエルの慣行を調査する特別委員会﹂
が組織された︒以後総会は同委員会を機軸に︑激しいイスラエル非難を展開していくことになる︒もっともこの委員
会はセネガル︑スリランカ︑ユーゴスラビア︑ソマリアといったイスラエルと外交関係をもっていないか︑またはイス
ラエルと戦争状態にあるとみなされた国をそのメンバーに含んでいたことから︑かなり政治的に動機づけられた機関
であるとの疑いが拭い切れなかった︒かくしてイスラエルは同委員会の偏向性を指摘し︑協力を一切拒むことになる︒
そこでアラブ諸国は一九六九年に人権委員会の場へ外交戦線を拡大し︑南アの人権状況調査を委託されていたアド・
ホック専門家グループに対して被占領地域における人権状況の調査も合わせて行うよう求める決議を採択させるので
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あった︒アド・ホック専門家グループのこの拡大された任務は一九七一年に終了するが︑﹁中東における敵対行為の
結果占領された領域における人権侵害の問題﹂と題する議題は残り︑一九七二年以後も人権委員会は総会が設置したお
特別委員会や他の機関からの情報を得て︑継続的にイスラエル占領地域の人権状況を公開審議の対象としてきている︒
南(部)アフリカに次いでイスラエルが﹁選別﹂されたのは︑確かに一面で被占領地域において特に重大な人権侵
害が発生していたからであることは間違いない︒それが自決権の否認に関わっていたということも重要な要因である︒
しかしより決定的だったことは︑すでにみたように︑第三次中東戦争の失地回復を図るべくアラブ諸国が結束してそ
の政治力を総動員したということであった︒人権という語を装いながら︑多数派集団.非同盟グループを背後に容赦
ない政治的非難を浴びせかけるアラブ諸国の攻勢を前に︑当時(そして今も)世界の中で孤立していたイスラエルは国
れ 連において全くなす術がなかったといっても過言ではない︒事実アラブ諸国によってなされた世界的な反イスラエル.
キャソペ!ンはかなり熾烈であり︑それはアフリカ諸国を中心とする反南ア・キャンペーンに匹敵するほどであった︒
その点に鑑みれぽ︑南(部)アフリカとイスラエル占領地域が公開審議の場で特に集中的に取り上げられたのは︑大
規模人権侵害への憂慮そのものからというよりは︑両国を世界のあらゆる場で完全に孤立させようとする多数派グル む
ープの政治的キャソペーソが人権委員会の場に及んだためであったからとみる方が適切なのかもしれない︒
もとより︑公開の一二三五手続はこの両地域以外について全く活用されなかったわけではない︒たと・兄ぽ一九六九
年には︑イスラエル占領地域における人権状況の審議に関連してではあるが︑イスラエルのためにスパイ行為を働い お たとしてイラクで死刑を適用された者についての言及がなされた︒翌一九七〇年には︑中国のチベット人やイラク.
シリア.エジプト・ソ連のユダヤ人︑さらにイラクのイラン人をめぐる人権状況などが公開審議の場で取り上げられ
た︒ただこれらのヶースは︑インド︑イスラエル︑イランといった当該人権状況と直接の利害を有する国によって取
(182)
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国連 人 権 委 員 会 の国 別 審 査 手 続 に 関す る一 考 察
り上げられたことから極めて政治的な色彩を帯びざるをえず︑直ちにイラク︑ソ連など被告発国の反論を誘発し︑専
ら相互非難の応酬を招く羽目となった︒また米国もソ連のユダヤ人問題への言及を行ったが︑これも逆に米国のイン
(74)ディアン問題を取り上げるソ連の反論を招いただけであった︒このほか一九七二年には再びイラソがイラクのイラソ
人の問題を取り上げ︑またパキスタンがバングラデシュ独立戦争に伴いインドに抑留されていたパキスタン人捕虜の
(75)問題を取り上げたがその帰結も同様であった︒全般的にみて︑この時期公開審議手続は南(部)アフリカとイスラエ
ル占領地域を除き︑きわめて散発的に利用されたにすぎなかった︒両地域に関する場合を除き︑特別の調査手続が設
置されるなどして継続的かつ集中的に審議がなされるということはなかった︒端的に言って公開審議は︑両地域を除
けば︑希になされる︑ごく限られた一部の当事者間における政治的非難の応酬のために利用されたにすぎなかったと
いえる︒人権委員会の公開審議の矛先は︑当初︑政治的意思が結集した南(部)アフリカやイスラエル占領地域をこ
(76)えて真の意味で一般化されていく状況にはなかったように見受けられた︒
こうした状況を打破し︑公開審議手続を活性化していく可能性を秘めていたのはNGOである︒しかし当時︑NG
Oの有用性はこの手続の中で十分に認知されてはいなかった︒審議に参加し発言するNGOの数自体がこんにちに比
ぺれば少数であったということもあるが︑その数少ない発言に際してNGOは︑南(部)アフリカとイスラエル占領
(77)地域を除き︑自らが言及している事態(国名)を特定することを慣行上許容されていなかった︒たとえぽ一九七一年
の例で見ると︑国際法律家委員会(ICJ)が政治囚の処遇について発言を行っているが︑そこではいずれの国も名
指しされることはなく︑事態が一般的に描写されるにとどめられている︒また同年アンチ・スレーバリー・ソサイエ
ティ(≧亭ω響⑦q夢︒凶身)はある宗教的︑人種的少数者の劣悪な人権状況を取り上げているが︑その際にも国名は特
(78)定されず﹁アフリカのある国﹂という表現が用いられたにすぎなかった︒当該NGOは一九七三年に発言した際にも
(1'83)
183
﹁アジアのある国の山岳民族﹂︑﹁南米の小国の先住民﹂といった語を用いて国名の特定を回避している︒同様に︑同
年の国際国連学生運動(冥Φ旨畿8巴鱒民︒算ζ︒<①馨暮hgd巳邑2蝕︒琶の発言に際しても﹁ラ米のある国﹂であると
(79)か﹁地中海のある国﹂といった表現が用いられている︒世界各地の人権問題を広範かつ非政治的に提起しうるNGO
に課されたこうした制約は︑いうまでもなく公開審議の活性化を阻害する重大な要因となったのであった︒
こんにちにおいてもその構造は基本的には変化していないものの︑非同盟(および社会主義)諸国の影響力が圧倒的
だった当時︑より一層強調されていたのはNGOが第二義的存在にすぎないということであった︒人権委員会の主役
は︑あらゆる面においてあくまで主権国家であった︒一九七〇年前後の国連文書を見ると︑議長が各NGOの発言の
前に全メンバー国に対して異議がないかの確認を逐一求めていることがうかがえる︒そして異議がないことを確認さ
れたうえで︑NGOは︑議長の招請のもと発言を許可されるのであった︒当時の公開審議におけるNGOの脆弱な立
場は︑こうした一面に端的に現われている︒ちなみに人権委員会にはNGO以外にもオブザーバーとして何か国かの
政府が参加しているが︑NGOとそうしたオブザーバー国との相違について前出経社理決議一二九六(XL皿)は次
のように述べている︒﹁憲章は⁝⁝投票権なしの[オプザーパー国の﹂参加と﹁NGOとの﹂協議のための取決めとを
明確に分けている︒憲章において意図的に行われているこの区別は本質的なものである︒協議のための取決めは︑N
GOに︑国家と同一の権利を与えるべきものではないのである︒Lこうした区別は当時︑こんにち以上に重視された︒
﹁協議関係は︑国連の意思決定過程にNGOを介入させることを意味してはいない⁝⁝︒国連の意思決定過程は︑国
(80)家政府に固有の領域である︒﹂ということを平然と強調した国連事務総長の言にそのことが象徴的にうかがえる︒こ
うした認識が根強かっただけに︑公開審議の場においてNGOが周縁的地位しか与えられていなかったのも当然では
(81)あった︒その一方で︑こうした状況のもと各国政府の心証を害さず自らの脆弱な立場を守るために︑NGOがその発
(184)
184
言において慣行上求められるままに事態 ならないのである︒ (国名)の特定を回避し続けたのも由無きことではなかったといわなければ
国連人権委員会の国別審査手続に関する一考察
三チリ非難とNGOへの警告
南(部)アフリカとイスラエル占領地域に限定されることなく公開審議を真に活性化させていくチャソスが訪れた
のは︑一九七四年のことであった︒サルバドール・アジェソデ(qO恥一く陣鮎ON>一一Φ口店①)政権を転覆させ権力を奪取したチ
リの軍事政権は︑他の全体主義諸国と同様に大規模な恣意的拘禁︑拷問︑殺害を通じた﹁恐怖政治﹂を施していた︒
こうした事態を前に一九七四年の人権委員会は︑国際婦人民主連合(WIDF)を代表して発言する故アジェンデ夫人
を迎えていた︒人権委員会における発言はまず政府代表からなされるのが通例であったが︑この年はこのルールが放
棄されまずNGOの側から発言の口火が切られた︒故アジェンデ夫人はその発言の中でアジェンデ社会主義政権の民
主主義的正統性を強調するとともに︑現軍事政権による大規模人権侵害の事実を非難し︑あわせて人権委員会にアク
ショソをおこすよう呼び掛けた︒この発言は直ちにソ連・東欧グループ(ソ連・ブルガリア︑東独︑ユーゴスラビア︑チェ
コスロバキァ︑ポーラソド)の支持を得ることとなる︒これに対してチリ代表はすかさず反論権を行使し故アジェンデ
(82)夫人の発言に反駁を加え︑また当時の冷戦構造を反映し︑ソ連をはじめとする社会主義諸国への攻撃も忘れなかった︒
もっともチリ代表の発言は頼みの欧米諸国からも十分な支持を得ることができず︑その結果最終的に人権委員会は議
長に対して大要次のような内容を有する電報をチリ政府に打電するよう求める決議を採択するのであった︒すなわち︑
人権侵害を終えるよう要請すること︑著名な政治家・文化人の生命への憂慮を表明すること︑さらに出国の自由の保
(83)障を求めること︑である︒またこうした措置の延長として︑翌年にはチリの人権状況を調査するアド・ホック・グル
(185)
185
(別)iプの設置も決定されたのであった︒
シュウェルブ(頃ω蓄εは︑チリに対するこうした人権委員会のアクショソを南アやイスラエルといった﹁他のケ
(85)ースとは異なり︑当該国における人権状況への純粋な憂慮を表明するものであった﹂と評している︒しかし︑果たし
て﹁純粋な憂慮﹂が人権委員会を動かしたのかどうかについては少なからぬ疑問があろう︒ここでわれわれは︑アジ
ェンデ政権が社会主義を採用し︑またチリを非同盟グループに参加させていたという事実を看過してはならない︒新
たに権力を奪取した軍事政権は社会主義を徹底的に嫌悪した︒それだけに一層︑当該政権の非難にはソ連・東欧グル
ープの支持が集まったのであった︒一方︑チリ軍事政権非難が人権委員会の意思として形成されるには何よりも非同
盟グループの賛同をとりつけなければならなかったが︑この点でアジェンデ政権がチリを当該グループの一員として
(86)位置づけていたという事実は決定的に重要であった︒また西欧グループにしても︑大規模な人権侵害を行うチリ軍事
政権を人権委員会の場で正面から擁護することは困難であった︒米国代表がそうしたように︑せいぜい原則的な立場
(87)から審議の﹁政治化﹂に警鐘を鳴らすことができた程度であった︒もとより人権委員会を離れても︑総会や小委員会
をはじめとする国連全体が﹁反チリ軍事政権﹂の大合唱を奏でていたという事実も見逃してはならない︒こうした諸
々の政治的条件が重なった結果︑チリは南ア︑イスラエルに続き実質的な意味において第三の公開審議対象国として
選別されえたのであった︒もっともそうした政治力学の作用の如何にかかわらず︑チリが公開審議の姐上にのぼった
ことは事実として将来的に非常に大きな意味をもつことと考えられた︒世界の孤児として別格視される南アやイスラ
エルではなく︑また自決権が関わっていたわけでもない︑他にも同様のケースがありがちなチリの事態が取り上げら
れたことは︑大規模に人権を侵害する他の国を同じように公開審議で取り上げるにあたって貴重な先例を提供するこ
(83)とになっていくであろうと期待されたのであった︒
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国 連 人権 委 員会 の 国 別 審 査手 続 に関 す る一 考 察
ところで︑すでに述ぺたようにNGOはそれまで︑南アとイスラエル以外の国に言及するときは慣行上国名の特定
を控えるよう求められていた︒ところが一九七四年に国際婦人民主連合を代表して故アジェンデ夫人がチリを非難し
たとき︑この発言を遮るメンバー国は一か国もなかった︒そこでこの機会を捉え︑世界宗教者平和会議(WCRP)を
代表するホーマー・ジャック(㎏{︒ヨ2﹄碧犀)は︑世界の宗教的迫害の状況を国名と被害者名を特定して取り上げた︒ま
た翌日にも︑アムネスティ・イソターナショナル(︾︼馨窃¢冥Φ嵩巴8巴)を代表して︑フランク.ニューマン(物.騨鵠犀
Z⁝琶がチリにおける拷問の状況を詳細に墾︒す乏及んでい(砲・NG・?﹂うした発言を容認する人馨曇
(90)の姿勢は︑それまで停滞状況を呈していたといわざるをえない公開審議に大きな期待を注入するものとなった︒
翌一九七五年︑前年度の成功に意を強くした世界宗教者平和会議のホーマー・ジャックは︑再び公開審議の場で宗
教的迫害の問題を取り上げた︒彼は宗教的不寛容撲滅のための宣言の起草が遅れていることへの失望を表明するとと
もに︑宗教の自由の否認および宗教的不寛容の実例はいずれか一つの国またはいずれか一つの大陸に限ってみられる
現象ではないと述べ︑その例としてフィリピン︑パキスタソにおけるイスラム教徒の虐待︑シリアにおけるユダヤ教
徒の差別︑キプロスにおける教会の冒とく︑エジプトにおけるコプト教徒の迫害︑アフリカ各地におけるキリスト教
聖職者へのいやがらせ︑チェコス﹃ハキアにおける宗教的弾圧︑ソ連におけるユダヤ教徒およびバプチスト教徒への
いやがらせ・などを列挙庖・ところ墾馴年以走詳禦この墾尼対して︑今回は前年と異なり︑直ちにメソ.→
国五か国(エジプト︑パキスタソ︑ソ連︑トルコ︑ザイール)そしてオブザーバー国二か国(フィリピソ︑シリァ)が反論権
を行芒・取り上げられた妻を否認する途羅み憾・とりわけエジプト代護次のような発昌一日を付け聖︑その憤
怒をあらわにしたのであった︒
﹁われわれは︑若干のNGO代表が表現の自由を濫用していることをきわめて憂慮している︒特に世界宗教者平
(r8a)
187
和会議のこのたびの発言は︑委員会の審議要録に収録されるべきではない︒またその協議資格も経済社会理事会
によって再吟味されるべきである︒世界宗教者平和会議はこの二年間そうした発言を続けている︒その協議資格
は︑経済社会理事会決議一二九六に従って再検討されるべきものである︒L
続けて人権委員会は非公開の場において︑非同盟および社会主義諸国の主導のもと︑経社理に対してNGOの活動
(93)に警告を発する決議の採択を要請した︒当該決議ではまず前文で︑NGOが行うすぺての苦情申立および人権侵害告
発は決議七二八F(XX皿)に従った非公開リストに載せられること︑人権の実施に関するすべてのアクショソは決議
一五〇三(XL皿)に従って非公開とされること︑そして若干のNGOはこの非公開性を遵守せずその口頭での発言に
際して慎重さを欠いていること︑を指摘するものとされた︑そして本文では︑人権侵害に関する申立は文書によるに(魍)せよ口頭によるにせよ経社理決議四五四(X蝉)に従わなければならないこと︑一五〇三決議の非公開性は厳密に遵
守されるべきこと︑口頭での発言において慎重さを欠くNGOは決議=一九六(XL皿)に従ってその協議資格を停止
されること︑NGO委員会はNGOの活動を引き続き慎重に吟味すること︑を確認するものとされた︒経社理にその
採択が要請されたこの決議は︑非同明皿および社会主義諸国によって支配される人権委員会が︑南ア︑イスラエル︑そ
して(一九七四年以後)チリに関するもの以外︑NGOによる人権侵害の﹁告発﹂を容認していなかったことの端的な
現れであった︒
この要請を受けた同年の経社理は︑事態を憂慮した二二のNGOの共同声明やNGOの活動に共鳴する西欧諸国の
発言を受けて︑最終的に採択される決議内容を若干緩やかなものとし︑またNGOが﹁人権の促進および保護にあた
(95)って重要な役割を果たしている﹂ことを認める一節を前文に挿入することとした︒しかし採択された決議は︑概ね人
権委員会の求めた線からはずれるものではなかった︒そのためこの決議がコンセソサスで採択された後︑若干の欧米
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国連人権委員会の国別審査手続に関す る一考察
諸国は決議内容に対する留保発言を行うこととなった︒例えば米国代表は国連の事業に対するNGOの貢献を賞賛し︑
それは﹁世界における人権の遵守を促進するわれわれの努力に必須のものであり⁝⁝個々の国家にとっては当惑させ
られるものの十分に国連の注意に値するような事態を明るみに出すことにより︑NGOはわれわれの艮心として機能
してきた﹂と断じた︒そして彼は︑採択された決議の根底にあったNGOを懲罰しようとするイニシアチブを批判し︑
NGOが自由に国連の事業に貢献できるようにとの希望を表明するのであった︒このほかノルウェー代表は当該決議
の採択を歓迎せず︑またオラソダ代表は当該決議が表決に付されたならば賛成票を投じなかったであろうと明言した︒
さらにこのほか︑英国︑カナダ︑ベルギ!︑イタリア代表もNGOを支持する発言を行っている︑もっともこうした
欧米諸国の発言を待つまでもなく︑冷静に決議内容を分析してみるならば︑それはNGOの活動を新たに制約する文
言は何ら含んでおらず︑むしろそれは︑オランダ代表がいみじくも述べたように︑NGOと経社理との関係を規律す
る従前の決議を﹁実質的に何ら変更も制約もない﹂ままに確認するものであったとすらいえ華ただそうではあって
も︑この決議は活発化しかかったNGOの活動に冷水を浴びぜるという意味では一定の効果をもつものであったこと
は確かである︒
公開審議を活性化させようとするNGOへの非難はその後も継続する︒一九七七年の経社理は再びその舞台となっ
た︒そこではとりわけアルゼンチンがNGOによってなされる主権国家への﹁政治的攻撃﹂を非難することに専心した︒
アルゼンチンが特に問題視したのは︑NGOを代表して発雷する者が真に当該NGOに属しているのかどうか︑とい
う点であった︒これに関連して︑小委員会で国際法律家委員会を︑次いで人権委員会でパクス・ロマーナ(霊麟菊︒舞量
を代表して発言した者の例が取り上げられた︒アルゼソチン政府によれば︑同人は国際的テロリスト運動のメンバー
であるとされたのであった︒同政府はそのような者に発言の機会を量るNGOの協議資格停止の可能性を示唆捻・
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