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地租改正における土地測量の技術的前提

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(1)

論 説

地 租 改 正 に お け る 土 地 測 量 の 技 術 的 前 提

1ー﹃耕稼春秋﹄の測量図を中心にしてー‑ー

田 上 繁

目次

はじめに

一地租改正時の測量方法

二﹁惣高廻り検地﹂の測量方法...割地に伴う測量方法

おわりに

は じ め に

177

地租改正が︑わが国の土地制度史上において天画期をなすことは︑すでに広く認められている・明治六(天七ご

年七月の太政官布告第.石︑一口諺公布をも.て行われる一連の地租改正事業は︑なによりも・全国の土地の測量とそ

の図面の作成︑誉りに︑それを登録する土地台帳の調製という作業から享された︒その作業は・基本的には・百来

(2)

検地ノ例規ト各地ノ慣翠ヲ参酌︑匙Lすると述べるように︑旧幕期の検地の形式と変わりはない︒

一般に・旧幕期の検地と地租改正時の測量における主体の違いについては︑前者が領主側の検地役人によ.て行わ

れ︑後者が﹁人民﹂によ.て実施されたとい・つ占{が強調される.その改租事業での天民Lによ(橘量のあり方は︑

三地丈量ノ業ヲ挙二切人民ノ担理トナシ︑官吏ハ誉分派シ︑其丈量ノ精粗︑適否ヲ検スル孟Lめたとする記述

に裏付けられている・夷︑改租事業での測量作業をt体的に担.たのは︑地方巧者である天民Lたちであ.た︒

地方によっては・測量の輩に精粗が認あられるものの︑全国規模での土地測量の実施とい・つ点では︑その目的は

曲がりなりにも護された・全国の⊥地の籔は・宅地を含あて八茜四無という天文学的な数字となり︑傾斜地

の多い日本の地形に加え・零細な耕地の地片からなる土地の状態を愚に入れれば︑それは技術的にも驚くべき大事

業であったといえる・旧幕期に︑村のなかに検地の測量技術が備わ.ていないとするな・りば︑}﹂の人事業を成し遂げ

るには・短期間に﹁人民﹂へ測量技術を伝授する政府の測量技術者の存在がなければならない︒

確かに・冒吏Lが周囲数村ノ人民ヲ招集Lして︑﹁実地二就テ量法算則製図ノ法﹂を﹁教授﹂したとあるよ,つに︑

測量技術を習得していない村に政府の型里技術者が出向いて指導する}しともあ.たであうつ︒しかし︑明治政府が本

格的に測量技術者の畿に取りかかったのは︑⊥部省が測量技術通学生規則Lを布達し萌治⊥ハ年かりであ.た︒

同年二月に撃された内務省がこれを引き継いで︑全国測量に取りかか.たが︑その実湧法を盛り込んだ﹁量地

条例綱領﹂を内務省届の形で布達したのは︑三年後の九年五月三日にな.てかりの▼しとである︒

こうした政府による測量技術者育成の取り組みの遅さから判断すると︑かくも短期間ρつちに全国の土地測量が実

現できた背景には︑政府の測畏術者の指導を必要としない︑古同度な測量技術が地方旙いてすでに肇していたと

いう事実があったからと考えられる︒わずかな期間に彪大な筆数を整理しえた魔法の鍵Lは︑まさにそ}﹂に求め,り

(3)

地 租 改IFに お け る 上地 測 量の 技 術 的 前 提 179

れるべきであろう︒小稿は︑地租改正事業を可能とした測量技術が︑村主導で実施された近世の検地の測量技術のなかに見い出されるという事実を︑﹃耕稼春秋﹄に描かれた測量図を素材にしながら検証しようと意図するものである︒

地 租 改 正 時 の 測 量 方 法

明治.噂(天六九)年︑改正掛に就任した渋沢栄ぼ︑﹃青淵先崖伝初稿﹄のなかで︑改正掛のr要な事業として・地

租改正︑駅逓法変更︑度量衡の改正とともに禽測撃あげて転祝・叢{ながら・地租改正・度量衡の改正・全国測

量の三事業は︑奇分の関係にある︒実際︑明治六年七月の﹁地方官心得書﹂には︑調査ノ難キ地価ヲ定ムルヲ篁

ノ難事トシ︑土地ノ広狭ヲ量ルト落地或ハ重複ノ地ナキヲ検スル亦之ピ一亜ケリ︑故二調査ノ間最モ此両件二注意ス

ヘシ﹂とある︒さらに︑明治九年三月三日の地租改正事務局から各地の出張職員へ宛てた達書には・﹁首トシテ丈量ヲ

正確ニシ地盤ヲ定ムヘシ︑此業ヲ終ルニ非レハ収穫・地価ノコトヲ誘フヘカラス﹂と示達して︑正確な土地測量作業

が地租改正事業の基本であることを述べている︒

そ の 測 樺 業 の 過 程 で 作 成 さ れ た 地 図 に は ︑ 野 取 図 と 改 租 図 が あ 麗 ︑ 地 租 改 正 時 の 土 地 整 理 の 成 果 図 で あ る 改 租

図を作成するに当たって採用された測量方法は︑次のようなものであった︒

地押ハ︑土地ノ重複若クハ脱落ナキヲ要スル為メ︑当初芝ヲ施行スルモノナリ︑其方法先ツ人民ヲシテ・小村バ

一村通シ番︑人村ハ各字限リ一地肇毎芝蕃号ヲ附シ︑而後卜字法︑又ハ三斜法ヲ以テ其歩積量リ・畝杭ヲ

建テ︑字.番n与.地目.反別.聖姓名等渾テ之ヲ明記シ︑又其番号地順二随ヒ︑事毎ノ形状ヲ見取図二製シ・

之レヲ聯合シテ一字限リ及ヒ一村限図ヲ製シ︑地引帳ト共二之ヲ管轄庁二上申セシム

右の報告書には︑土地測量を最初に実施することの意義︑その手順︑さらに︑その方法︑明記すべき必要事項︑地

(4)

図1「 十字法 」 によ る測量 図 十宇認竿入口

字番元何

㎜何反歩宅 何某

(注)「 松 方 正義 地 租 改IE報 告 書 」(『明 治 前 期 財 政 経 済 史 料 集 成 』 第7巻,原 書房 刊)よ り。

図の作成︑上申の手続きなどが記され︑地租改正時の土地

測量に関する要件が︑その短い文章のなかに集約されてい

る︒ここで注目されるのは︑﹁f字法︑又ハ三斜法ヲ以テ其

歩積ヲ量﹂るとあるように︑測量方法が明記されたことで

ある︒つまり︑地租改正時の測量技術として︑﹁卜字法﹂と

﹁三斜法﹂が採用されたことを確認しうるのである︒そこ

で︑同報告書を利用して︑この﹁十字法﹂と﹁三斜法﹂に

ついて若.干説明を加えておきたい︒まず︑7r字法﹂という

のは︑図1で示したように︑土地を長方形化して︑その縦

と横の長さを測って地積を求めるものである︒

上の図のように︑各筆の田・畑・宅地は必ずしも完全な

長方形ではないが・丁字法Lでは︑余分な部分と欠ける部分とを相殺して長方形を作り︑その縦と横を測量して求積

する・なお・長方形の縦と横の決め方は︑和算式測量技術の流派によ.て異なり︑地租改正の測量方法では長い方

が縦L.﹁短い方が横﹂という区別が展的であったと樋.これに対し︑三斜法Lは︑図2のようになる.

﹁三斜法﹂は・土地を測量するときに︑その地形︑ないしは図形のなかにいくつかの三角形(直角三角形)をつくり︑

その細分された直角三角形を一つずつ測量して合計し︑全体の地積を算出するものである︒たとえ︑最初に直角三角

形とならなくても︑その頂点から底辺に向か.て垂直な線を引けば直角一.角形ができる︒}﹂の方法は︑雫字法Lより

正確であったことから︑後には︑広く用いられるようになった︒このほかにも︑次節で触れる﹁板分間﹂面り分間L

(5)

地 租 改 正 にお け る土地 測 量 の技 術 的 前 提 181

図2「 三斜法」 によ る測量 図 などの測量技術があった︒

}﹂,つしたいくつかの測量方法の・つち︑どの方法を採用するかは︑村の意向に委ねられた︒例えば・明治八年に本格

的 な 改 租 事 業 に 着 手 し た 石 川 県 鳳 至 郡 伏 戸 村 の 場 合 で は ︑ ﹁ 李 法 ﹂ に よ る 測 努 法 が 採 用 さ れ た ・ 同 村 に は ・ そ の 年 六 月 の 土 地 趨 妻 の 過 程 で 作 成 さ れ た 五 冊 の 郵 帳 L が 伝 存 為 ︒ そ の う ち の 扁 ﹁ 男 樋 爪 才 良 馬 場 内 苗 代 惣 歩

打立野帳﹂から︑測量結果を記録した冒頭部分を抽出すると︑次のようになる︒

樋爪コ  セノの

⁝震 歩 輔兀 何 ﹃ 謬 幻 謡 .鴬 分 馨

〆 十 五 歩 三 厘 常 蔵 作

(注)図1と 同 じ。

{四間八分

.簡八分

〆卜三歩四厘

壱 番

同 北 井 大 道 縁 り

同 人 作

弐番

この記載方式から︑縦と横の長さを乗じて地積を求める

﹁レ字法﹂の測量方法であったことが知られる︒石川県の場

合︑地租改正時の測量技術としては︑﹁卜分ノ七ハf字器ヲ用

ヰ︑余ハ三斜法ヲ用ヰ施﹂と記されるように・卜字法が†

(6)

流であった・しかし・明治八年段階で下字法Lを採用した伏戸村では︑明治二〇年の地価修正の地押調査のときに

は・﹁三斜法﹂を導入して馳・ただ︑その明治︑6年段階でも︑依然と下字塗を使.て測量した石川県河北郡津

幡村のような例も麓・一般的な傾向としては︑丁字法Lかりより正確な三斜法Lへと切り換え.りれていったよ.つ

である・ともかく・本節では・地租改正時の土地測量については︑下字法L三斜法Lなどの旧来の和算式製技術

が利用され・そのうちどの技術を採用して測量するかは村の董や慣行に任甘りれていた▼しとを確認しておきたい.

二 ﹁ 惣 高 廻 り 検 地 ﹂ の 測 量 方 法

地租改正時の測量技術が・旧鷺の和算式測量技術に依拠するな・りば︑当然︑その前提となる近世の測畏術の内

容が問われなければならない︒そこで︑本節では︑加賀薄おける検地の方法を取り上げ︑その﹁惣高廻り検地を

称される独特な検地が・いかなる測量技術によって施行されたのか︑また︑検地の主体がだれであ.たのかとい.つ問

題を設定して︑その解答を追究してみることにする︒

近世讐として史料的価値の高い﹃耕軽穂﹄には︑土地測量に関するいらかの村絵図や田地の測量図が描かれ

ている・周知のように・同書は・宝永四(一七〇七)年に加賀藩のレ村を勤めた土屋又三郎によ.茎臼かれた︒毒

は+村などの役撃勤めたが・身分としては胃姓﹂身分の者であ.た.璽日には︑村絵図と田の型芳法の図が収

録されているが・ここではまず︑村絵図の方から説明を加えることにする︒村絵図は六籍あり︑その.つち︑三籍

を図示したのが︑図3①〜③である︒

①の村絵図は・村の周囲が長方形に近い形をした村で︑その村のなかに川︑池︑道︑大岩などが記入されている︒

さらに・大小二つの長方形が書き込まれ︑それらには天縄L﹁雛﹂との注記がある︒次に②と③は︑①と比較して︑

(7)

183地 租 改 正 に お け る土 地 測 量 の技 術 的 前提 ()(﹃m(洋)EO

L 母 璽ン

紳 り .

0

︒︒

()

{爵 準

=!濫 1い 勘

昂 〜 本1

0

(8)

いくぶん複雑な形状をもつ村の事例を示したものである︒①と同様︑川と道餐口き込まれているが︑図形が細分化さ

れ・②は天縄L﹁縁端﹂のほか﹁小縄﹂の図形がある.また︑③は︑天縄L﹁縁端﹂だけであるが︑﹁下ト立用﹂﹁上

ト立用﹂と注記があって︑両者が相互に相殺されて﹁大縄﹂を形づくる︒

これらの村絵図は・土崇﹁凡此六・⁝ハ村々定成大概を記す﹂と断.た上で︑コケ村惣高廻御検地の割は︑禦行

天に足軽天宛召連其所へ出・検地村の絵図を取︑本算定境村々百姓不残折高詞して︑翌日定廻りして皆井轡

等見届・吟味の上竿打格也Lと記述するように︑加賀藩で行われる﹁惣高廻り検地﹂のために作成された村絵図であ

ることは明らかである︒土屋は続けて次のように述べる︒

改作始より・御検地所へ他郡の御扶持人ト村︑禦行天へ天宛指添白田折役する物也︑御検地引物其外御定壮口

両通有・大縄の内に有・江・道・果︑石塚︑神社︑廟所なと皆引物に成故に︑惣打立の内抜物になる御格︑里

ケ 村 抜 物 別 帳 に 有 物 也

ここには・後述する面扶持人・卜村Lなどの検地への関与の仕方や白田折規定.抜物規定を含む袈藩の検地の内

容が︑短い記述のなかであますところなく示されている︒

この村絵図が何を目的に・また︑どのような測畏術で作成されたのかといった疑問については︑後年の石黒信由

の測量技術がその蟹を与えぞ翫︒宝暦δ(毛六〇)年︑越中国射水郡高木村に生まれた石黒は︑上屋又三

郎と同じように+村を勤める習姓L身分の者であったが︑和算学︑測量術︑天文.暦学などを究め︑数々のすぐれ

た著書を残した・とりわけ・享和二(一八・︑一)年に著した﹃測遠要術﹄は有名で︑石黒は︑そのなかで﹁縄張町見

領形絵図仕立之法﹂や﹁磐術領形絵図仕立之法﹂の測量技術を解説している.どち.bも村絵図(領絵図)の作成方

法を示したもので・前者が﹁平板測量法﹂︑後者が面り分間法Lの測量方法である︒葱高廻り検地Lで利用された

(9)

185地 租 改 正 に お け る 土地 測 量 の 技 術 的 前提

()

鶉 蜜 憂 鑑 謹 蜜 (妻 蕃 ﹃建 護 茎 蟹 ﹄ 舞 ) さ .

'

,検

「 一}幣 『 一 ㎜n

A‑:『

鯵 母

汐/

一!̀

\駕㌦呉

ボ.

触 き 裟

{n

(10)

図5① 「下 絵図」

(注)「 検 地 方 算 法 」(金 沢 市 立 図 書 館 蔵)よ り。

のは・主に後者の﹁回り分間法﹂で︑名称の由来もそこに起

因する︒そこで︑その﹁回り分間法﹂の測量方法を図示する

と︑剰4のようになる︒

一回り分間法﹂は︑一定の地域‑村域をあらかじめ確定

し︑その曲がり目曲がり目に目印の竹を凱て︑それを間盤

(磁石)で角度を定め︑間盤から目印までの距離を縄や竿を

使って測り︑順次︑その距離を確定していくものである︒

その方法で山林を除く村の周囲が正確に測量されると︑村

絵図を作成して検地に備える︒これらの作業を担うのは︑

主に十村などの村役人たちであった︒測騒の結果︑適当な

縮尺で村絵図が作成され︑そこに川︑道︑宮︑三昧などが書

き込まれると︑﹁仮絵図﹂(ー﹁下絵図﹂)といわれる絵図が

でき上がる︒さらに︑そのなかに長方形や三角形が書き入

れられると︑﹁領絵図﹂が完成する︒その場合︑それぞれの

図形には︑コ番角縄﹂からはじまって︑﹁角縄﹂や﹁縁端﹂

など図形の数だけ︑順々と通し番号が付される︒図5の①

が﹁下絵図﹂で︑②が﹁領絵図﹂である︒この﹁領絵図﹂が

前出の﹃耕稼春秋﹄に描かれた村絵図と同じものであるこ

(11)

地 租 改 正 に お け る=ヒ地 測 量 の 技術 的 前提 Is7

図5② 「領絵 図」

(注)図5① と 同 じ。

とは︑多くの説明を要しないであろう︒

検地の際は︑この﹁領絵図﹂を持参して︑検地に取りか

かる︒文化九(一八一二)年に検地が行われた加賀国能美

郡日用村の検地に関する羅が伝わるので・次に引用して

﹁惣高廻り検地﹂の実態をうかがうことにしよう︒同村の

検地については︑﹁能美郡日用村内検地打立井抜物帳﹂﹁能

美郡日用村内検地領絵図﹂﹁能美郡日用村惣打立歩の覚﹂

などの基本史料が残存する︒﹁領絵図﹂の引用は省略する

が︑﹁内検地打蹉井抜物帳﹂の一部を紹介すると︑以下のよ

うになる︒

一番角

一百甘.﹁間八分南縄

一 百 廿 三 間 六 分 五 厘

平 均

〆 百 弐 拾 三 間 弐 分 弐 .厘 五 毛

一 四 拾 九 間 九 分

一 四 拾 八 間 八 分

平 均 北 縄 西

縄 縄

(12)

四拾九問.︑分五厘

〆六千八拾壱歩壱分五厘四毛

右之内

幅一壱間五分

一弐間

〆平均壱間七分五厘

一五拾弐間

〆九拾壱歩

(中略)

拾番縁

一八拾間

一六間三分

〆五百四歩

一四拾五間

壱間

〆四卜五歩 南ノ道方

右 長 間 藪

皆畑

四つ折

江 道

(13)

189地 租 改 正 にお け る 上地 測 量 の技 術 的 前 提

四 百 五 卜 九 歩 畠 四 つ 折

内 三 百 四 卜 四 歩 弐 分 .五 厘 折 捨 歩

百 十 四 歩 七 分 五 厘 本 歩

並日通︑﹁打産﹂と﹁抜物帳をは別々の帳簿であるが︑扇村の場合︑それが一帳にまとめられて作成された・この検地では︑一か︑り四六までの番与がつけりれ︑その;ひとつの﹁角﹂﹁縁端﹂疲物Lが測量された・コ番角Lのよ.つな人きな﹁角﹂は︑東西南北の距離が測嬰れ︑南北の平均値と東西の平均値がかけ合わされて地禦求められ

る︒﹁蕃角﹂のA口計歩数は六・△杢盆厚四毛となる︒そのなかから道・江・宮などの歩数が援物L歩数とし

て差し引かれる︒﹁抜物﹂の・つち︑道や江など芳が長い場合は︑数か所の幅を測そその平均値を出し・それを長さに乗じて歩数を算出する.また︑﹁縁端﹂の捜は︑﹁抜物﹂と同様︑縦と横を乗じて求められる・ただ・﹁馨縁﹂の

畑の場A口のよ.つに︑﹁白田哲の畑であるな,bば︑特別の算定方法を必要とする・田の面積に肇するため・﹁畠折﹂といわれる操作を行わなければな.bないか・りである︒そこにある西つ折Lというのは・その畑の霧を計算上四分割

し︑その,つち三つを控除して︑残りをその畑の霧と算定することである︒まず・五・四歩の畑寝のうち西五歩

の﹁江道﹂が疲物L歩数として差し引かれ︑その残りが四五九歩となる︒その四五九歩に対して・﹁四つ折﹂の﹁畠折﹂が施}﹂され︑四分璽二に相当する三四四歩.盆厘が﹁折捨歩﹂となり︑それが四尭歩から控除され・その残

歩 二 四 歩 七 分 五 厘 が }︑ の 畑 の 最 終 的 磁 と な る . そ れ は ︑ 嚢 で も 名 目 的 な 霧 で あ る が ︑ 田 の 霧 に 養 す

るためそのよ.つな操作が行われるのである︒測努法としては︑﹁畠哲の有無にかかわらず・属﹂﹁縁端﹂とも縦と攣乗じて求積する﹁卜字法﹂が使われる.▼︑の葱高廻り検地Lでは︑村の周囲を確定する測量には面り分間法Lが︑また︑﹁角﹂﹁縁端﹂や疲物Lの面積を求める測量にはア字法Lがそれぞれ使われた・

(14)

葱打彦の覚Lによると・昂村の惣歩数はゴ.万天︑五歩三分二厘四毛で︑抜物惣歩数は万δ三歩八厘六

毛となっている・そして︑惣歩数から抜物惣歩数を差し引いた残歩の﹁有歩詳は︑二万︒八︒︑墾分三厘八毛と

記されている・さらに・﹁高二直シ﹂て二著八斗七升九合三タ四才八味とある.}﹂れは︑日用村の村高を示すもの

で・加賀国の反当たり歩数は三・・歩であるから︑反別に直すと六九反三分四厘・七九三一三となり︑その反別に︑

あらかじめ設定されていた加賀国能美郡の斗代宕七斗を乗じると村高が求め・りれる.}﹂・つして検地は終rするが︑

﹁野帳﹂∴内検地姫帳L・﹁引物帳﹂∴内検地抜物帳L︑それに嶺絵図Lをセッたし三進上Lすれば︑﹁水帳﹂

が村に交付される・この﹁水帳﹂は︑巖に﹁検地打渡状﹂といわれ︑霜に面積と村高重口き上げただけのもので

ある・それが全検地の董を示すものであった.加賀藩では︑いわゆる一筆﹂との検地帳は存在しなか.た︒

しかも・丙検地をいうのは蝋河A蜘Lに﹁御扶持筆て︑試として内検地致し候て相願也︑是を禺検地ト云

フ⁝都て本検地と先ハ替り無之﹂と記されるように︑藩の検地役人が出役しないで︑村側で独nに行つ検地であっ

歓 雛 籍 叢 難 い繁 纏 製 蘇 .雛 雛 離 難 難 観

の検地仕讐が伝わっており・そのことはまた︑領t検地である葱高廻り検地Lが彼・りの毒によって行われた}﹂

とを物語っている︒

三割地に伴う測量方法

加賀藩領をはじあ北陸地方の各地において︑割地慣行が広く行われた}︑とは︑周知の通りである︒加賀藩で竺筆

ごとの検地帳が作成されなかったことか・り︑当然ながら︑村において土地経営を行つには︑それに代わる土地ムロ帳が

(15)

地 租 改1Tこにお け る土地 測 量 の技 術 的前 提 191

なくてはなりなかった︒その土地ムロ帳を作成するには︑村に存在する田畑屋敷の面積を華ごとに測量して・その正確な面積と位馨鎧する必要がある︒前節でみた丙検地Lとは別に︑村独自で実施する土地測撃やはり丙検地Lと呼ぶ▼︑とがあ.た︒ほかにも︑示輝丙縄L丙笛などの用語が・袈藷下の地域に残る史料のなかに贅される.いずれも︑村が独自に行う検地の意味をあらわした翌陶であるが・それ喬能とするには・村のなかで

測量技術が伝習されていなければならない︒そこで︑その測量方法の内容

を知るため︑﹃耕稼春秋﹄に戻って︑﹁田地検地算法﹂とある土地測量図の

内容を検討することにしよう︒

①♂'冬訊圭歩そこには︑最初に﹁爵﹂刃田L﹁直田﹂﹁斜田﹂﹁弧田﹂三斜田L﹁勾股田﹂﹁二斜併田﹂﹁裏田﹂﹁直減勾股田﹂﹁異形直円﹂﹁至併三斜田﹂﹁梯田﹂

姻 ﹁俊 畢 三 斜 併 田 ﹂ 剛 . 鍵 藷 田 L 翼 形 ︑ 舞 田 L 直 併 二 謂 L の 天

期種類の田の形が図示されている︒そして︑そのうち︑いくつかの田につい

土て雛形が提示され︑それぞれの測量方法と計算方法が解説されている︒そ

図のなかから二つを選んで掲出したのが︑図6①・②である︒

①は︑﹁斜田﹂の形をもつ田である︒その求積方法の説明には︑まず︑一

②ら︼間と七間を加えて.一で割ると九間が求められ︑それに縦の長さ四五間を 

阯かけると四〇五坪︑すなわち︑一反三畝一五歩(三〇〇坪11一反)が算出図されるとある︒これは︑下字法Lによる計募法である・②は・﹁勾股里㈱の形をし畠の事例である・この震方法の説明としては・天間(図には

(16)

奈されていない)に四〇間をかけ毛一〇坪を求め︑これを︑扇.て三六〇坪を篭するとしている︒そして︑一

八間に四︒間をかけ三で割るのは︑図のようにその形の図形を.一つA口わせて四角形とし︑その面積を出してか.り半

分にして三角形の面積を籠するためとの注記がある.それは︑﹁三斜法﹂の逆の応用である.}﹂のほか︑両畢斜

田L三斜田L﹁・・斜併畢‡胆﹁異形直田﹂﹁‡併三斜田﹂三斜併田L二斜併三斜田L翼形二斜併田L﹁直併覆

田﹂など︑複雑な形状の求積方法が詳細に解説される︒

そこでは・﹁李塗の型畏術が用い・りれており︑当時︑すでに︑レ村2フスの者たちが憂水準の測量技術を習

得していたことが知られる・﹃耕馨秋﹂に}あような一筆ごとの田の測努法が図示されている}しとか︑り︑ややもす

れば加賀藩においても一筆ごとの検地が実施されたと把えられがちであるが︑ワ﹂れは︑村が独自に行つ割地のときの

測男法を蓑留めたもので・決して領セ検地の型里図を描いたものではない.ただ︑前述したよ.つに︑﹁惣︑麺り検

地﹂の場合でも・面り分間法Lによって村の周囲を測量するほかに︑﹁角﹂﹁縁端﹂や﹁抜物﹂を測りなければなりな

い・﹁角﹂は置田Lの測量方法を応用すればよいが︑﹁縁端﹂や﹁抜物﹂は岬角Lとは異なり︑さまざまな形状にな

るので・その難な土地を正確に測量する技術が必要となる.そのようなとき︑﹃耕馨秋﹂に記された田の測畏術

が利用されたことは想像に讐ない︒割地に伴う村の測量技術が︑検地のときに応用されたのである︒また︑葱高廻

り検地Lは・業的には﹁抜物﹂形式であるが︑﹁畠折﹂のある畑では︑その事の畑︑ないしは︑そのまとまりを測

量する必要がある・その場合でも︑﹃耕馨愁に描かれたさまざまな形状の田の測努法が利用されたものと推測さ

このように﹁角﹂﹁縁端﹂﹁抜物﹂・あるいは︑﹁畠折﹂姦用する畑などの測量については︑筆﹂との測量に準じ

た技術が不可欠であった・年代が降るとともに︑その技術も改善され︑検地仕蟻日のなかには﹁李法﹂だけでなく︑

(17)

地 租 改 正 にお け る 上地 測量 の技 術 的 前提 193

三斜塗が図示されるよ・つになる︒例えば︑前出の覆地方算法﹂には︑図7①〜④で示すような測量図が収められ

地形測量図

① 直田

② 鈎股 田

︑ \  

\ 諏

卜 L

ド気i

̲⊥̲̲濾 演

蝉 窪 3

'

そこでは︑まず︑たとえ複雑な田の形をしてい

ても︑﹁品々之地形ヲ成替二依テ︑方田・勾股田

等之形トナル﹂と述べて︑結局は︑同図で示され

るような﹁直田﹂﹁鈎股田﹂﹁三斜田﹂﹁四斜田﹂

(﹃耕稼春秋﹄の﹁三斜併田﹂の図形に相当する)

の四つの形になると教える︒①の﹁直田﹂であれ

ば︑﹁是︑方田一ッ︑勾股田ニッ相裂ノ形チ﹂と注

釈して︑正方形一つと直角三角形二つの図形と

なり︑それらを別々に計算して求積すればよい

としている︒②の﹁鈎股田﹂では︑﹁勾股田トハ︑

勾ト股トノ角曲尺手能ク合フ者ヲ云︑又︑不合者

ヲ三斜田ト云﹂うと記して︑﹁鈎股田﹂が直角三

角形のことであるとしている︒そして︑三角形で

も直角三角形でないものを③﹁三斜田﹂というと

説明する︒従って︑③の﹁三斜田﹂は︑﹁異勾股田

ニツ裂タル形﹂であり︑当然︑その面積は図のよ

(18)

商 経 論 叢 第32巻 第1号 194

図7各 種

③ 三斜 田

④ 四斜田

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(注)図5① と 同 じ。

うに異なる二つの直角三角形をつくって求めれば

よい︒最後の④の﹁四斜田﹂は︑﹁異鈎股田四ツ裂

タル形﹂の図形であり︑これも異なる四つの直角

三角形をつくって求積すればよい︒

以上のように︑近世後期のこの﹁検地方算法﹂

では︑明らかに﹁三斜法﹂の測量技術が採用され

ており︑﹃耕稼春秋﹄の﹁レ字法﹂をさらに進めた

﹁三斜法﹂の測量技術が︑当時すでに村において採

用されたことは注目に値する︒ところで︑﹁十字

法﹂であれ︑[三斜法﹂であれ︑﹃耕稼春秋﹄や﹁検

地方算法﹂に描かれた各種の測量図が︑一節で掲

げた図1ときわめて類似していることに気付くで

あろう︒図1は︑明治一五年の一松方正義地租改

正報告書﹂に記載された﹁十字法﹂と﹁三斜法﹂の

測量図であったが︑それらは︑ここで紹介した

﹁検地方算法﹂の﹁直田﹂や﹁四斜田﹂の測量図と

まったく似通っている・石川県に限定すれば︑地租改正における測量技術の原型は︑すでに﹃耕馨秋﹄のなかに形

成されていたといえる・そして︑さらに精密な石黒信由の測量技術を基本とする﹁検地方算法﹂の測量技術が︑地租

(19)

195地 租 改IEに お け る 土地 測量 の技 術 的 前 提

改正の測量技術として準備され︑それが実際に応用されたことは明白である︒石川県の場合・﹁丈量ハ初吏員ヲ派出

シ︑其方法ヲ教授セシモ︑人民ノ熟知セシモノ多キヲ以︑之ヲ巾止シ︑適宜丈量セシ施﹂といった記述が・その}﹂

とを裏付ける︒それ・りの技術が︑卜村などの青姓L身分の者たちによって伝えられたことは・これまでみてきた通

りである︒

おわりに

以上︑﹃耕馨秋﹄に描かれた測量図の性格を検討しながら︑地租改正の遍測量が短期間に完了した要因について藁してきた︒製日には︑葱高廻り検地Lに必要な六種類の﹁領絵図﹂とともに・割地に伴うさまざまな形状の田の測量図望臼かれている︒前者は︑領盗地とい・ても︑実質的には丙検地﹂の名目で村が主体的に行うもので・村では嶺絵図Lを作成するための測量技術を備えていなければならなかった︒その検地も村全体の面積から川・道・江︑宮などを差し引く﹁抜物﹂形式と畑面積を田霧に餐する﹁白田折﹂形式の検地であったため・華ごとの田畑・屋敷の面積は把握できなかった︒

領主検地で]筆︑との面積が謹できなければ︑村内部での土地経営は不罷なたあ・何らかの形で蘂の土地を測量する必要性が生じてくる︒それが︑﹃耕馨秋﹄に描かれた後者の田の測男法であった・そこでは・技術的には縦と横の長さ叢じて面積を求める﹁卜字法﹂が採用された︒近世後期になると︑﹁三斜法﹂の測量方法も考案されたが︑加賀藩領下においては︑﹁李法﹂が藷を占めたようである︒明治期に入ると︑この﹁李法﹂は・逐次・三斜法Lに移行していったが︑明治.δ年段階でもまだ﹁卜字法﹂を利用する村も存在した・地租改正においてどの測量技術を採用するかは︑村の判断に委ね・りれており︑そのことはまた︑そうした方針を明治政府が採らなければ全国

(20)

測量が実現できなかったことを暗示している︒その技術も決して稚拙なものではなく︑石田信由の測量技術は︑伊能

忠敬の測量術に匹敵するほどの高度なものであったといわれる︒いずれにせよ︑地租改正時の土地測量が︑全国的規

模でかくも迅速に実現できたのは︑旧幕期から村内部に和算式測量技術が広く並日及していたとい.つ前提があ.たかり

これが・石川県だけの特殊事例なのか︑あるいは︑全国に普遍化できる問題なのかは︑小稿では叩りかにしえない︒

加賀藩には葱高廻り検地Lという固有な領t検地や︑割地慣行という特有な土地制度があ.た▼︑とは事実である︒

そうした土地制度と・村内部に測量技術が発達し︑村毒で検地が実施された}﹂ととは︑ま.たく無関係ではなか.

たかも知れない・その意味では︑石川県は特殊な事例ともいえるが︑地租改正の全国測量が短期間に終了した事実を

併せ考えると・他府県でも石川県とほぼ同じような条件が備わっていたと判断しても大過ないように思われる︒

注(‑ζ松方正義地租改正報告書L︒引用に際しては︑﹃明治前期財政経済史料集盛第七巻︑冗荒年︑屡.房刊(復刻版)を

(2)

(3).︑巻.年

(4)府県地租改正紀要兵庫県.ここでは︑﹃明治前期産業発達史籍﹂別冊(9了︑冗Lハ五年︑明治文献資料刊行会より

(5)調

(6).巻

(7)

(8)調

(21)

地租 改iEに お け る 上地 測 量 の技 術 的 前提 X97

171fi15

))\

((((((

14131211109

))))))

...樹(18)

(19)

L(2︒)村高に若干誤差が告る︒しかし︑それは︑集計上の計算違いとして処理できる程度の微兼である・(幻ご︑▼︑では︑藩法研究会編﹃藩法集六続象蓬︑元︑ハ五年︑創文社に収録されたものを利用した・﹁河合録﹂を編集した河合祐之は︑天保期ごろに改作奉行を勤めた加賀藩の役人である︒

(22)若林前掲論文の業には︑寛政二年の﹁河北郡内日角村錨検地御川留帳﹂が収録され・検地の様子が薪に記されてい

(鞠 俳 繰 購 ︑ 麟 難 馨 と あ る よ う に ︑. 通 ・ 丙 検 挫 や .定 検 地 ︑ と は 若 ト 性 格 を 異 に す る と 思 わ 慧  

(24)(12) 前掲注(1)﹁松方正義地租改正報告書﹂より引用した︒

塚田利和前掲書︒

石川県輪島市町野町︑伏戸区有文書︒

府県地租改止紀薯川県L︒﹃明治前期肇発達史資灘別興9)u︑一九会年・明治文献資料刊行会より引用した・石川県輪島市町野町︑伏戸区有文壽︒

若林喜∴郎﹁加賀藩の農地測量﹂︑.九五六年︑財団法人農林統計協会列︒

拙稿箭田領における検地の性格について﹂史学雑誌﹄第.○.編第6号・冗九輩を参照されたい・引用に際しては︑﹃日本難H全集﹄四︑充八〇年︑社団法人農山漁村文化協会刊を利用した・川村博忠﹃近世絵図と測量術﹄︑冗九..年︑衷,豊饒.また︑石黒信由の総禽研究としては・袋福瀬勝による共同.年

稿.

︹付}

小稿は︑神奈川杢子日本常民文化研究所による﹁奥能登躊家の総禽研究あ成果の一つである・肇に際しては・当プ︒ 心

(22)

・[

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