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冷戦関連資料 鳩山訪ソに関するソ連資料

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著者 下斗米 伸夫, 机 文明

出版者 法学志林協会

雑誌名 法学志林

巻 104

号 4

ページ 163‑184

発行年 2006‑10‑27

URL http://doi.org/10.15002/00004383

(2)

史料紹介

鳩山訪ソに関するソ連資料 下斗米伸夫 冷戦関連資料

ここで訳出したのはロシア連邦の現代史史料館史料(宛のシ三)、旧ソ連共産党国際局関連資料((()目・口○℃扇屋□の一○心底・)に含まれていた一九五六年十月初めのソ連外務省による、鳩山・河野代表団訪ソに関する日ソ国交回復交渉の関連資料である。いうまでもなくソ連外務省と共産党国際局関連部門は、一九五四年十月の毛沢東・フルシチョフ会談と共同声明以来の日ソ国交回復をめぐる交渉の決定的な段階にあった。中ソは当時同盟条約があり、対日講和交渉は中ソが共同して当たることになっていた。同時にスターリン死期、後継指導部は、金日成lスターリンが行っていた朝鮮戦争を終わらせ、東アジアでの日本との国交回復をふくめ新たな国際秩序を求めていた。五五年二月二五日の北朝鮮外務大臣南日による対日国交を目指した声明もまたそういった流れにそうものであった。しかし結局一九五六年十月十九日に調印された日ソ共同声明では、そういった方向にすすむかに恩われたものの、東アジア冷戦の緩和は結局平和条約締結にならず、半世紀たったことになる。東アジア冷戦研究への史料として訳出した。翻訳に当た

鳩山訪ソに関するソ連資料(下斗米) 本報告書は一日ソ国交再開問題」と、首相兼自由民主党総裁鳩山一郎ならびに農林水産大臣河野一郎の人物について、ソ連外務省情報局により作成された。

資料は日本の鳩山首相の来るべきわが国訪問に関連して、指示準備されたものである。

A・グロムイコ一九五六年十月八日Ⅲ一四五九一送付先”エヌ・ァ・ブルガーーーン同志力・イニ・ポロシロフ同志

一一ハーーー っては大学院の机文明君にお世話になった。下斗米伸夫

添付報告枚数:二三枚 エヌ・エス・フルシチョフ同志

NOL ,,秘

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法学志林第一○四巻第一号

エリ・エム・カガノビッチ同志ア・イ・キリチェンコ同志ゲ・エム・マレンコフ同志ア・イ・ミコャン同志ヴェ・モロトフ同志エム・ペルブーヒン同志エム・ゼ・サプロフ同志エム・ア・スースロフ同志エヌ・エス・フルシチョフ同志

ガ・ケー・ジニーコフ同王心エリ・イ・ブレジネフ同型西デ・テ・シェピーロフ同韮心エヌ・ア・ムヒトジノフ同志イェ・ア・フルシニワ同志エヌ・エム・シュベルーーク目回志ア・ビ・アリストフ同志エヌ・イ・ベリャーェフ同志ぺ・エヌ・ポスペロフ同志

極秘 近日中に日本とソビエト連邦との間の関係を調整する件での交渉を継続するために、日本国首相鳩山二郎)が彼の個人的

随行員)と共にモスクワに到着する。モスクワにおいて行われた日本の外務大臣重光〈葵)と、シ

x)剛山主宰の使節団の柵成:河野腱林水産大臣・全権代表として松本俊一・全権顧問として松木棚次郎内閣官房副長官、及びその他の面々である。一重光葵(しげみつまもる)二八八七年七月二九Ⅲ~一九五七年一月二六且大分県出身。東京帝国大学法学部卒。戦前は外交官として、各国の公使を務める。駐蕊公使として上海に赴任中の一九三二年上海事変が勃発し、四月二九日の天長節の式典において、朝鮮人・尹奉吉の爆弾テロに適い、右足を失う。その後、駐英公使・駐ソ公使を務め、東條英機・小磯国昭両内閣において外相を務める。日本の敗戦に当たっては、四五年九月二日の戦艦ミズーリ号甲板上における、連合国への降伏文書調印式において、日本国全権として署名する。戦後は極東軍事裁判において、A級戦犯として金銅七年の刑を宣告されるも、五一年に出所後は改進党総銭・日本民主党副総裁を務め五四年、第一次鯛山内 日ソ交渉再開に関する問題について 一六四町、

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|、蝋山のソ連訪問の意図と、彼が提起している、現時点における領土問題の解決ぬきでの日ソ関係正常化というプランは、与党自民党と内閣との間に根強い不和を呼び起こした。嶋山訪ソについては、かなりの数の自由民主党の議員の間で反発が生じた。主として、前大蔵大臣の池田に率いられた以前の自由党議員のグループであった。(日ソ交渉において、”慎重な政策“の実施を絶えず提言していた、いわゆる吉田派と呼ばれるグループである。)このグループの代表者達、特に池田は、新聞や実業界、集会等々において、日本政府がソ連に対して如

喝山訪ソに関するソ連資料(下斗米) エピーロフとの間の交渉が日ソ関係の調整について合意を見なかった後、首相自身がソ連を訪れるという決定を、鳩山は今年八月了承した。一連の声明において鳩山は、次のような条件によって日ソ関係の解決をなす用意があるということを示した。すなわち、日ソ間の戦争状態の終結に関する協定への調印、外交関係の回復と大使館の設置、日本人抑留者のソ連からの帰還、’九五六年三月に調印された漁業に関する協定の発効、日本の国連加盟に関する問題についてのソ連の支持の表明、である・領土問題の解決に関しては鴫山の考えによれば、二国間関係を正常化した後にソ連が交渉継続に合意することで、将来の決定に委ねられるかもしれない、ということである。 何なる譲歩も行わないように呼びかけることで、鳩山訪ソに対してあからさまな反対を唱えた。’九五六年九月二日、公的には自民党に加入してはいないが、旧自由党員間では活動に強い影響力を発揮し続けている日本の前首相吉田は、鳩山が提起している枠組みに基づいて、日ソ間の外交関係を正常化することは、日本の無条件降伏を意味するであろうという書簡を、鳩山宛に送付した。かかる交渉は、吉田の見解によれば、対等と呼べるものではなく、それは日本の「自由主義諸国」からの信頼を失うことになりかねないということであった。

九月末、燗山に反対する自民党識員は、lいわゆる「時局懇談会」と呼ばれる反主流派グループを創設した。これは一七

闇において外相就任。ソ連との国交回復、日本の国際連合加盟に尽力。五六年一二月一八日の日本の国連加盟に当たっては、日本国全権として加盟演説を行う。五七年一月二六日、狭心症の発作により神奈川県湯河原の別荘にて逝去。x)自由民主党は国会では衆議院に二九九議席、及び参議院に一二四議席を有する。燕鳩山の対ソ政策に反対する吉田派ら自民党反主流派が、一九五六年九月二五日に結成した連絡会議。反主流派の一大勢力拠点となったが、“鳩山訪ソ絶対反対“を唱える吉田派と、噌山訪ソそれ自体には賛成している旧改進主流派が並存していたた

一六五

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法学志林第一○四巻第一号

○名以上の自民党議員(衆議院約一二○名、及び参議院五○名)から組織されており、自民党出身の全ての国会議員の四○パーセント以上を占めている。このグループは、鳩山がモスクワ訪問を断念することを要求した。鳩山訪ソに対する反発は、閣僚の一部、とりわけ石橋(湛■一山)通産大臣や馬場(-元治)建設大臣からも起こった。しかしながら、大部分の自民党議員及び閣僚(主として以前の民主党議員、さらに前自由党議員の一部も)は、鳩山のモスクワ訪問に賛意を表明した。とりわけ、農林水産大臣河野二一一一郎)、経済企画庁長官高碕(達之助)、内閣官房長官根本(竜太郎)、また党執行委員会のメンバーであり、党の主要なリーダIの一人である大野伴睦、そして党の鳩山派に所属し、迅速な日ソ関係の正常化の支持者として有名な他の政治家たちが、この訪ソの最も積極的な支持者となった。鳩山はまた、党の最も影響力のあるリーダーの一人であり、日ソ関係の問題においては原則的に動揺した見方を持っている、党幹事長の岸(信介)サイドからも支持を受けた。手に入っている情報から判断すると、鳩山のプランの支持者は、日本の政治情勢の下では、日ソ交渉の失敗は、鳩山内閣の即時総辞職をもたらすのみならず、自民党の政権からの離脱をももたらす可能性があると指摘している。他の側面からすれば、 一一ハーハ

め、足並みは当初から揃っていなかった。二馬場元治(ばばもとはる)長崎県出身。一九二五年東京帝国大学法学部卒業。同年高等文官司法科試験合格。璽尿で弁護士を開業。二七年長崎移住。三○年長崎市議会議員当選。翌三一年、長崎県議会議員当選。三六年二月の衆議院総選挙において、一一一三歳で初当選。東方会所属。三九年社会大衆党との合同に反対して離党。四○年大政翼賛会本部総務部副部長。四二年の総選挙では、翼賛推薦議員として当選。このことが原因となって終戦後の四六年、公職追放を受ける。四四年厚生省参与官・追放令解除後五二年十月、自由党から立候補し、当選。政界復帰。五三年から保守合同前まで自由党総務を務める。五四年から五五年二月の衆議院解散まで衆議院法務委員長。五五年一一月第三次鳩山内閣において建設大臣。武蔵野銀行取締役。三高碕達之助(たかさきたつのすけ)(一八八五年二月七日~一九六四年二月二四日)大阪府出身。農商務省水産講習所(現衷辰海洋大学)入所oその後、水産技師となる。一九一七年、東洋製罐設立。’九三七年、東洋製織専修学校(後の東洋食品工業専門学校)設立。一九四二年、満州重工業開発総裁に就任。五二年、電源開発株式会社総裁に就任。’九五四年、第一次鳩山内閣において経済審議庁長官。五五年、衆議院議員初当選。同年、経済審議庁廃止に伴い、初代経済企画庁長官。五八年岸内閣において、通産大臣・経済企画庁長官・科学技術庁長官を兼任。一九六二年中華人民共和国を訪問し、日中総合貿易に関する覚醤きに調印。六四年逝去。

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南千島列島の返還要求を日本政府が行わないことを盛り込んだ平和条約の締結は、ソ連との平和的解決に反対するサイドからの激しい反発にあうことは必至であり、かつ日本の大衆層の一部からも好ましからざる反応を受けることとなろう。それどころか、ソ連との迅速な関係正常化に賛成している社会党でさえ、旧日本領土の返還を拒否してはおらず、この問題の解決を将来に委ねることに賛成している。これに対して噸山支持派は、噸山プランが大多数の日本国民に支持されるだろうという見解である。なぜならば、彼が日ソ関係の正常化を見込み、同時に将来旧日本領土の日本への引渡しの問題が再び取り上げられる可能性が開くからである。九月一七日の自民党執行委員会において、日ソ交渉における、》燕いわゆる〃新方針“が多数の表決で公的に承認された。党の”新方針“には、日本の新聞報道から判断すると、次の事柄を盛り込んでいる。すなわち、即時かつ無条件でのソ連からの日本人の帰還、歯舞及び色丹島の即時返還、日ソ間の平和状態回復後における、南千島列島返還に関する交渉の継続、二国間ですでに合意している問題に関して、協定の文言に組み込むこと、国が取り決めた国内問題についての不干渉に関する、相互の義務等々である。”新方針“はまた、関係を解決する形

式として、条約形式だけでなく、一時的協定をも許容している。

鴎山訪ソに関するソ迎資料(下斗米) 四根本萌太郎(ねもとり吟うたろう)二九○七年五月二五日~一九九○年三月一九日)秋田県出身。東京帝国大学農学部卒業。満州において建国大学助教授を務める。終戦後、四七年に衆議院初当選。民主党に属すも、炭鉱国営問題で田中角栄らと共に民主党を離党し、自由党入党。五一年第三次吉田内閣で農林大臣に就任。自由党で広川弘禅派に属したことから、五三年広川の腰相罷免・離党と共に、自らも自由党を離党し鳩山の民主党に加わる。第一次~第三次畑山内閣まで一貫して官房長官を務め、五七年第一次岸内閣、七○年第三次佐藤内閣で建設大臣。八三年衆譲院識員選挙で落選し政界引退。九○年逝去。五大野伴睦(おおのばんぼく本名Ⅱともちか)二八九○年九月二○年~一九六四年五月二四日)岐阜県出身。明治大学政治経済学部中退。東京市会議員を経て三○年衆議院議員初当選。四五年鳰山の自由党結成に参加。翌年、河野一郎の公職追放の後を受け、幹事長就任。五三年第五次吉田内閣で北海道開発庁長官。五七年、自民党初代副総裁。六○年岸内閣退陣後、総裁選への出馬を表明するも断念。翌六一年再び自民党副総裁。六四年逝去。※外交調査会と政調会合同会議の小委員会が作成した日ソ交渉の方針※この姻山訪ソの直前、五五年九月、当時の西ドイツのアデナウアー首相が平和条約の締桔と領土問題等、それに伴う諸問題の解決を先送りにし、共同宣言の形で戦争状態の終結と国交の正常化のみを実現させるという方途で、ソ連との国交を回復したことからこう呼ぶ。

一六七

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与党と内閣との不和により鳩山訪ソは、自民党が作成した”新方針“に基づいて日ソ間の調整に関する交渉を鳩山が行うという条件付で、一九五六年一○月二日、内閣において承認さ

れた。しかしながら指摘しておくべきことは、自民党幹事長の岸が、党によって採用された日ソ間交渉の路線の解釈について発言し、新路線は、鳩山による日ソ関係解決のプランと大きな違いはなく、柔軟性があり、全権使節団には、ある程度の活動の自由が与えられているということを強調したということである。「新路線は政治の自由を束縛するなどと言っている者は、外交交渉をする際にはその相手の存在を念頭に置かなければならないということを忘れている。政治とは生き物であり、決定はありのままの状況に従ってなされなければならない。」と岸は言明し なる。 法学志林第一○四巻第一号”アーナナウァー方式“を好ましくはないとはしながらも、平和条約に近い形態を基礎として関係正常化することを認めている。このように、日ソ間交渉における新路線を受け入れることで、その指導手段において、事実上鳩山訪ソを承認し、彼のプランに基づいた日ソ関係の正常化を受け入れた。党の新路線は、主としてそれが、歯舞及び色丹島の日本への即時引き渡しに関する要求を規定しているという点において、鳩山のプランとは異

〃緑風会“の代表者は一○月四日鳩山一郎との会談において、日本の全権使節団はソ連との交渉の過程において、次のような要請を提起しなくてはならないと通告した。すなわちソ連からの全ての日本人抑留者の速やかな解放と帰還、日本の国連加盟 二、他の政党や会派の、鳩山によるソ連訪問及び、彼が提起している日ソ関係正常化のプランへの関係について言うならば、大きな影響力を有するブルジョワ地主階級の、国会会派である〉鑑「緑風会」が、一一九名の参議院議員を続く□し、基本的に、この問題における与党自民党の立場を承認している。 ている。

※’九四七年五月一七日、無所属国会議員のうち保守系五八人が集結して結成された、参議院の院内会派。初代参議院議長に、この緑風会から松平恒雄が選出され、後に参議院の最大勢力となる。メンバーはかっての貴族院議員・官僚出身者・文化人等で占められた。党人派に対する官僚出身国会議員の一大勢力拠点となるが、吉田内閣時代に、官僚出身者が衆議院に多数当選すると、官僚の政党に対する抵抗感が薄れ、次第に衰退していった。一九六○年に「参議院同志会」さらに六二年「第二院クラブ」に改称。六四年、二院クラブと元の緑風会に決裂。六五年解散。

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問題に関するソ連の支持の取り付け、歯舞及び色丹島の日本への速やかな引渡し、及び南千鳥問題に関する交渉の継続である。より迅速な日ソ関係の正常化に一貫して賛同を表明している日本社会党は、鳩山のソ連訪問、及び彼が提起している日ソ関係調整のプランに、その根本的な部分において同意を表明した。’九五六年九月六日、社会党指導部は、早い時期に、臨時の協定に基づく日ソ関係の正常化に関して、噸山内閣と協力する用意があることを表明した。この表明は、九月一八日の党の執行委員会決定として承認された。一九五六年一○月三日、社会党は次のことを示唆した特別声明を発表したcすなわち、鳩山のソ連訪問に対する内閣の承認は、社会党の要求に十分に答えるものである。なぜならばこの結果、日ソ間の外交関係の措定及び、日本人抑留者のソ連からの迅速な帰還の実現に向けた展望が形成されるからである。この声明においては、この決定がまた、今後日本が〃西側陣営と東側陣営との間の調停者“としての役割を果たし得るための手段であるということも強調された。」〈一○月四日の内閣指導部と社会党党首との〈舂談において鈴木(茂三郎)社会党委員長は、鳩山のソ連訪問に対する社会党の考え方と、予想される日ソ合意の性格に対する党の要求とを、次のように述べた。

蝋山訪ソに関するソ迎徹料(下斗米) “社会党は日ソ交渉に関する問題についての内閣の立場に同意すると共に、蝋山首相のソ連訪問について同意する。同時に鳩山首相が交渉に際して、特に次のことに配慮を示すよう社会党は望む。すなわち、長年に渡ってソ連との友好関係が維持するように、また貿易に関する問題、文化的協力の発展に関する問題その他の、ロンドン及びモスクワにおける交渉の過程で合意に達せられた問題が、協定に反映すること、で六鈴木茂三郎(すずきもさぶろう)二八九三年二月七日~一九七○年五月七日)愛知県出身。早稲田大学専門部政治経済科卒業。報知新聞社・大正日日新聞社・毎日新聞社等の記者を務める。一九一八年特派員としてシベリアに渡る。’九三六年、加藤勘十らと共に労働無産協議会を結成。翌三七年、日本無産党結成。’九三七年、人民戦線結成を企てた、いわゆる「第一次人民戦線事件一で検挙される。以後、四五年の日本の敗戦に至るまで、政治活動を禁じられる。戦後は、四六年衆識院識員初当選。四七年社会党政調会長。四九年替記長。五一年委員長○五一年サンフランシスコ総和条約批准をめぐる社会党の分裂後は、左派社会党委員長。五五年、社会党再統一後、統一社会党委員長・五九年参議院選敗北後の、左右両派の対立再燃により、西尾末広らが離党し、民社党結成。この責任を取る形で鈴木は委員長辞任。六二年、社会主義倫理委員会委員長就任。社会党の左傾化を推進する。六七年政界引退。七○年逝去。

一六九

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日本共産党もまた原則として、鳩山のモスクワ訪問、及び彼が提起している日ソ関係解決のプランに賛同している。東京のソ連代表部の情報によれば、共産党第一書記の野坂

(参三)は、この訪問は妥当なものであるとみなしている。野

坂の見解によれば、鳩山は自民党の他の党首と違い、迅速な正常化の達成を誠実に希求しているが故に、鴻山のモスクワ訪問は日ソ関係正常化にとって望ましい結果であり、内閣との協議がなくてさえ、モスクワにおける協定の調印が可能である。東京のラジオ放送の情報によれば、九月一三日付の共産党の)輔い中央機関紙『アカハタ」庁』、党の公式見解の叙述である、日ソ関係正常化に関する記事が掲載された。記事では、平和条約締

結を日ソ関係正常化の最良の方法としてはいるが、鳩山提案を

基礎とする平和的(国交)正常化を認めている。さらに「アデナウアー方式」に基づいてでもよいからと、ソ連との迅速な平和的正常化を強調している。この方式は日ソ間の国交再開の遅滞に終止符を打つということである。重早のラジオの報道によるとかかる記事は、南千島列島は日本がサンフランシスコ講和条約によって自らの主権を放棄した千島列島の一部であるが故に、これらの島々の返還請求に対する根拠を、日本は持たない ある。“ 法学志林第一○四巻第一号一七○

という党の公式見解を、出席者全員が再確認した、共産党の委員会の後、発表された。

三、来るべき日ソ交渉の再開との関係で、実業界のそれぞれの有力な代表者のこの問題に対する態度は、注目に値する。

七第二次大戦終結後の一九四六年一月に日本に帰国した野坂参三は、同年四月の第一一二回衆議院議員選挙に当選。徳田球一らと共に日本共産党の再建に尽力。五○年、いわゆる「平和革命路線」を提唱してコミンフォルムから批判され、これが原因で共産党は分裂。野坂は徳田らと共に「所感派」のリーダーとなり、宮本顕治らの「国際派」と対立。GHQによるレッドパージを受け、これ以降日共は非合法化され、地下に潜行。野坂・徳田らは中国に亡命。以後、「所感派」は武装闘争路線を採ったが、世論の支持を受けられず、五二年の選挙における惨敗を招く結果となった。五五年野坂が帰国し、(徳田は五三年に病死)宮本ら国際派と和解。第六回全国協議会(六全協)において従来の武装闘争

路線を否定し、党第一書記に就任。合法活動に戻る。五八年議

長。※日本共産党機関紙『赤旗」は、一九二七年創刊当時の名称は「せつき」。戦後復刊後の四六年、「アヵハタ」と片仮名表記に変更。その後GHQによって発行停止させられたが、サンフランシスコ講和条約発効後の五二年復刊。以後六六年「赤旗」に改称。九七年「しんぶん赤旗」に改称。

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アメリカとの密接な経済的つながりを有する日本の金融独占

資本の代表者は、彼らが日ソ貿易についてわずかな展望しか抱

いておらず、また迅速な日ソ関係の正常化が、現在のアメリカ

と日本との経済的関係にマイナスな影響を与え得ることを懸念 するが故に、鳩山のソ連訪問に対して否定的な態度を示した。

故に、日本の通商産業大臣藤山(愛一郎)は、九月一二日の記者 会見において現在の国内政治情勢における日ソ交渉の継続は望

ましくないということ、さらに彼は、鳩山のモスクワ訪問を認めることはできないということを言明した。日本の経済団体連合会の代表者石坂(泰三)もまた、この時までに同様の一一三明を

行っていた。’九五六年九月六日、石坂と藤山とは、実業界の 主な代表者約六○名が署名した、鳩山の辞任を要求する上申書

を、自民党に提出した。これらの代表者たちの見解によれば、日本の政治情勢を安定させることが第一に不可欠であり、その後にのみソ連との交渉再開はあり得るとする。しかしながら最終的には、日ソ関係の迅速な正常化に有利な日本の社会的風潮が発達した状況の中で、件の実業界の代表者達は鳩山のソ連訪問に対して、公然と異議を唱えることをやめた。こうして一九五六年一○月二日、先に言及した石坂は、「連合の代表は全権使節団への参加を受諾しない。」と前もって

説明したものの、同時に「実業界は鳩山首相のソ連訪問を妨げ

蝋山訪ソに関するソ連資料(下斗米) 八藤山愛一郎(ふじやまあいいちろう)二八九七年五月二二日~一九八五年二月二二日)東京都出身。慶應義塾大学法学部中退。父親は「藤山コンッェルとの創始者である藤山電大。大日本製糖・日東化学工業・日本製紙等の社長を歴任。一九四一年より四六年、第九代日本商工会議所会頭。その後、GHQにより公職を追放されるも、解除後は日本航空会長・日本テレビ取締役等を務める。一九五一年から五七年、第二代日本商工会議所会頭。五七年岸内閣発足に際して、外相として民間から登用され政界進出。五八年自民党公認で衆議院議員に当選。外相として日米安保改定・日米地位協定の制定に取り組む。六一年から六二年の第二次池田内閣において経済企画庁長官。自民党総務会長等も務める。六四年の総裁選において、佐藤栄作に敗北。以後六五年第一次佐藤内閣で経済企画庁長官。日中国交正常化に尽力。七六年政界引退。八五年逝去。九石坂泰一一一(いしざかたいぞう)(一八八六年六月三日~一九七五年三月六旦璽泉都出身。東京帝国大学法科独逸法科卒業。逓信省人省。郵便貯金局書記。為替貯金局事務官補等を務める。一五年逓信省を退官し第一生命入社。一六年生命保険事業視察のため、欧米諸国を訪問。三八年~四七年まで第一生命取締役社長。吉田茂からの大蔵大臣就任要請を拒否。四八年東京芝浦電気取締役、翌年社長に就任。労働争議に揺れていた東芝の労使間交渉を推し進め、大規模な人員整理と東芝再建に尽力。五六年、第二代経団連会長に就任。五七年石川島播磨工業相談役・東芝会長・アラビア石油会長就任。六○年、東京オリンピック資金財団会

一七一

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法学志林第一○四巻第一号

はしない。」と言明した。

これと共に、米国資本とのつながりを殆ど持っていない日本

のブルジョワジーの一部を第一に代表している一連の日本の実

業界の代表者達は、鳩山訪ソと、彼が提起している日ソ関係正 常化のプランに同意を表明している。故に、漁業界の代表者達 は再三、予想される領土問題の解決の延期を考慮に入れて、日 ソ関係の即時正常化に賛成し、そしてあらゆる点から鳩山訪ソ

に賛成の態度を示した。このような事業者の全て、例えば全日⑪○一

本の水産業者団体の長である平塚(常次郎)などが、この態度

を示した。

また以前アジア大陸と密接な経済的つながりを有し、ソ連と

中国との著しい貿易拡大に関心を有している大阪地域の実業界の多くの代表者達が、鳩山のソ連訪問と彼の提起した日ソ関係一一解決のプランに同意している。大阪市長中井(光次)、大阪商{→-

工会議所会頭杉(道助)、日本の大きな造船と機械工業の〈云社

一》●一

の社長である〃日立“の社長松原(興三松)は、ソ連代表が最 近大阪市を訪問した時の会談において、大阪市の実業界は、鳩

山のモスクワ訪問を歓迎すること、そしてこの訪問の後、日ソ

間の貿易発展に関する具体的な問題についての交渉実施のため

に、モスクワに特別経済使節団を派遣するという意向を言明し

た。 一七二長c六四年産業経済諮問委員会(BIAC)日本委員長。ボーイスカウト日本連盟総裁。六五年日本万国博覧会協会会長。七五年逝去。逝去後の七五年三月一四日、正三位勲一等旭曰桐花大綬章追贈。’○平塚常次郎(ひらっかつねじろう)二八八一年一一月九日~’九七四年四月四且北海道出身・札幌の露清語学校に入学するも、二年修了時に同校は廃校。その後南樺太に渡り、雑貨店で働く。ポーッマス条約によって日本がロシアにおける漁業権を極得したことを背景に同年、盟友・堤清六と共に「堤商会」創設。北洋における缶詰生産工場を建設し、紅鮭缶詰の生産に成功。’四年日魯漁業設立。しかしその後、第一次世界大戦とロシア革命により、北洋地域における日本漁業は縮小を余儀なくされる。かかる事態に企業間の連携で対処するため堤らと共に二一年、三社合同による日魯漁業株式会社を設立。(現株式会社一一チロ)二六年日ソ漁業改定交渉に、日本側オブザーバーとして参加。三八年日魯漁業社長に就任。戦後初の衆議院議員選挙に当選し、蛆年第一次吉田内閣において迩輸大臣。その後公職追放されるも、

五二年衆議院議員として政界に復帰。以後、大日本水産会会

長・日中貿易促進議員連盟理事長・日中漁業協会会長・日ソ協会副会長等の要職を歴任。七四年逝去。

一一中井光次(なかいこうじ)二八九二年~一九六八年)

大阪府出身c戦後、参議院議員を経て五一年の大阪市長選挙

に当選。以後開年まで、四期一二年に渡り大阪市長を務める。

この間、五二年から五四年までJACM(全国市長会議)第五

代目会長。また五七年十月には米国・サンフランシスコ市と大

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四、自民党指導部と、他の政党やグループの見方をも考慮に入れると、来るべきモスクワにおける交渉の過程において鳩山は、彼が提起している現時占における領土問題の解決のない日ソ関係の正常化のプランに基本的に沿っていくであろうが、領土問題を含め新たな若干の譲歩をソ連側から獲得するということには、明らかに努力をもとめよう。とりわけ、自民党執行委員会で合意した、先に言及した”新方針“を引き合いに出し、歯舞と色丹島の日本への即時引き渡しにソ連代表が合意するように、これに関する問題を鳩山は十中八九、取り上げるであろう。これに関して、九月五日の記者会見における鳩山の声明で、彼は”自民党の新たな方針に応じて、日本の要求が満たされるように、交渉の期間を通じてすべての努力を傾ける意図を持っている“ということを語っている。恐らく日本の全権使節団は、日本の国連加盟問題にソ連が支持を表明することに関する日本の要求を満たすことに固執するであろう。指摘しておかなければならないことは、日本の国連加盟の必要性と、この目的に関してソ連から支持を受けることは、迅速な日ソ関係正常化の支持者達にとって、自分達の立場に有利な基本的根拠のひとつを提起したということである。一○月四日のテレビのインタビューにおいて鳩山は、|いかなる条件もなく、日本の国連への加

噌山訪ソに関するソ連資料(下斗米) 盟についてのロシアの支持を獲得する」ことを彼が目標とする旨を言明した。

阪市の姉妹校締結を成し遂げた。|||杉道助(すぎみちすけ)(’八八四年二月二○日~’九六四年一二月一四且山口県出身。慶応義塾大学理財科卒業。一九一二年八木商店(現株式会社ヤギ)人社。三八年同社社長。四四年会長。四六年から六○年まで大阪商工会議所第一六代会頭。四七年日本商工会議所福会頭。五○年新日本放送(現縁日放送)社長。五一年海外市場調査会(現ジェト巳理事長。五二年日本国際見本市委員会委員長。五八年社団法人・伊丹空港協会会長。五九年藍綬褒章授葹。六一年日輔会談政府首席代表。六四年勲一等瑞宝章授章。同年逝去。逝去後、正三位授章。’三松原與三松(まつばらよそまつ)(一八九五年一二月一五日~一九七五年四月二九日)長崎県出身。一九一七年、長崎高等商業学校(現長崎大学経済学部)を卒業し、久原鉱業入社。一二年、同社からの日立製作所独立に伴い、同製作所に移る。四一年大阪鉄工所(日立造船の前身)に転じ、四四年日立造船取締役に就任。戦後、同造船所の常務・専務・副社長を経て、五○年から六二年まで日立造船社長。六二年から会長。五四年、造船疑獄で逮捕されるも不起訴のまま釈放。関西経営者協会会長。日本造船工業会長。五九年から六○年大阪ロータリークラブ会長。六七年大阪文化賞受賞。六八年から七五年日本国際貿易促進協会(現日中経済貿易センター)会長。

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法学志林第一○四巻第一号

日本の全権使節団は明らかに、交渉の過程において、漁業に 関する問題に関して、ソ連側からいくらかの新たな譲歩を得る

ことにもまた、努力するであろう。鳩山と社会党委員長との一○月四日の会談に出席した河野農林水産大臣は、南千島諸島における日本の漁業基盤の確立についての問題は、内閣において

丁寧に検討されなければならず、またソ連における交渉の過程

において、かかる基盤の確立に関する問題は、南千鳥のみならず、千島列島全体の問題として受け止めることが可能であるということを、言明した。しかしながら日本の新聞報道によると、内閣及び与党指導部

は、このような要求を提議するということが、交渉遂行を困難

にし得るということを理解している。それ故、領土やその他の公的な問題の放置や、そのことについて交渉を完遂することについて、ソ連側に明確な異議があった場合のために、内閣との合意を確保しておくという予測を述べている。

かくして鳩山が、来るべきモスクワにおける交渉の過程にお いて、ソ連にとって容認可能な取り決めで日ソ関係正常化の協

定への調印に至るための、基礎が定められた。

かかる協定の批准の見込みについて言うならば、現在の日本

の国会における、政治的力の相互関係を考慮するならば、それは批准されると予測することが可能である。 一七四

手に入っている情報から判断すると、反主流派に所属し、鳩 山のモスクワ訪問に反対を唱えていた、自民党出身の国会議員 全員は、協定の批准に反対を唱えはしないであろう。社会党出

身の圧倒的多数の国会議員もまた明らかに、(ソ連との関係を敵視している少数の者達を除けば、)協定批准に賛成するであろう。

〈性格描写〉

日本国内閣総理大臣そして自由民主党党首鳩山一郎

及び農林水産大臣河野一郎に関して 一九五六年‐十月八日

血’四五九一に添付 ソ連外務省情報委員会副議長イ・ツガリノフ

極秘十一部

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鳩山一郎経歴に関する簡単なデータ.鳩山一郎は一八八三年、重泉の

著名な政治家一家に生まれた。’九○七年年東京帝国大学法学 部卒業。模範的な成績で大学を卒業後、数年間法律家としての

実務に従事し、その後、東京都会議員に選出され、その後、その議会の議長に選出された。鳩山の政治家としての活動は一九一五年、彼が国会の衆議院

議員に選出された時に始まる。その後、ブルジョワ地主階級の 政党である政友会の幹事長になり、一九四○年のこの党の解体

に至るまで、リーダーの一人であり続けた。

一九二七年から二九年の間、田中(義一)将軍l極度に保

守的な政治家であり、ソ連及び中国に対する侵攻開始のアピー

ルを内容とする、’九二七年の”田中メモ“の作者として有名 な人物l内閣の内閣轡記官長の地位にあった。一九三一年か

ら三四年まで、鳩山は犬養及び斉藤内閣の文部大臣であった。

一九三四年、一連の高級官僚の汚職に対する訴追との関連で、 彼は他の内閣の閣僚全員と、辞職するに至った。この時、鳩山 は責任を問われることはなかったが、朝鮮及び満州における土

地の投機に関して、個人的に非難された。

畑山訪ソに関するソ連涜料(下斗米) 一九三七年鳩山は、日中戦争の本質について説明するという

目的を持って、日本の任務の指導者として”自ら進んで“米国 及びヨーロッパの一部への訪問を実行した。日本へ帰国後ドイ

ツとイタリアにおけるファシズム主義を賞賛し、中国侵略のための日本の軍国主義者達の計画を正当化した”世界の顔〃という本を出版した。第二次世界大戦の間、卿山は日本の政界において目立った役割は果たさなかった。彼は一九四○年、解体した党に代わって

創設された、日本の軍国主義者の政治的支持を基盤とした、立

憲制ファシズムの組織である、”大政翼賛会“のメンバーとな

った。一九四二年鳩山は、政府の推薦議員として、国会議員に

当選した。この国会の構成は、極めて反動的であるという一」と

を特色としていた。鳩山の、国会議員選出への準備の過程にお いて、東条首相と彼の国内及び国外政策を賞賛した冊子が発行 された。選挙運動の期間中有権者の前に現れ、以前田中将軍に

※いわゆる「田中上奏文」のこと。田中義一が一九二七年に天皇へ極秘に行ったとされる上奏文であり、中国侵略の手がかりとして、満蒙征服のための手段を記述したとされるものc昭和初期に中国を中心に怪文書として流布し、当初から偽書であると指摘され、現在の日本の史学会でも偽書として、ほぼ否定されている。

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よって簡潔に述べられた国外政策を、日本の軍国主義者達が実行することを言明しながら、彼らへの賛同を述べたつ一九四五年一二月一一日付で発行された新聞“ニッポンタィレ誤ムズ“の記事に、鳩山は、彼が戦争中、”いかによりよく軍事力行使の問題に関ったか“、また日本が勝利を得た戦争の終結に、“彼がいかに他の誰よりも、より多くをなしたか”ということについて書いた。日本の降伏後蝋山は、主に以前の政友会のメンバーが加入して欄成された、自由党の樹成員の一人となった。一九四五年一一月、彼はこの政党の党首に選出された。一九四六年五月、鳴山は戦争犯罪人として、政治活動に関る権利が奪われた。しかしながらこれにも関らず、彼は政界の舞台裏で積極的に活動を続け、そして自由党における著しい影騨力を維持した。一九五一年、鳩山は政治的権利を回復して再び自由党の指導者の一人となり、時の与党及び吉田内閣への反対

※現在の「ジャパンタイムズ」。一八九七年に創刊された日本最古の英字新聞。一九一五年「ジャパンメール」と一ゾャパンタイムズ」が合併し「ジャパンタイムズ&メール」となり、’九四○年に一ジャパンアドバダイザー」を吸収合併し、「ジャパンタイムズ&アドパダイザー」となる。「太平洋戦争中の一九四三年「ニッポンタイムズ」と改称。その後、’九五六年一ジャパンタイムズ」という元の名に戻り、現在に至る。 一七六

派となった派閥を指導した。一九五四年二月、鳩山は自分の側近の支持者達と共に自由党を離脱し、吉田内閣に対する他の反対派と協力して、日本の再軍備の促進や、この目的のための日本の憲法再編の要求、またソ連や中国を含む全ての国々と日本との関係正常化をも提起する、ブルジョワ地主階級の民主派政党を形成した。一九五四年二月、鴻山は内閣総理大臣になり、彼は今日に至るまでこの地位にいる。’九五六年四月嶋山はさらに、〃自由党及び民主党合同“の結果、一九五五年二月に結成された自由民主党の党首に就任した。鴫山は、彼が利害を有している、日本の金融独占業界と密接なつながりを有していた。戦前まで鯛山は、三井や安田といった巨大な独占財閥と密接なつながりを維持していた。特にこれらの財閥の企業は、中国と経済的利害を有していた。戦後、特に吉田内閣の反主流派形成の期間嶋山は、三菱や住友といった財閥の利害を代表する岸派サイドや、いわゆる“新興鋼と称される財閥の代表者、特に鮎川サイドからの支持(金融面を含む)を受けていた。今日鳩山は、いわゆる〃大陸グループ“と称される、米国とはつながりが弱く、中国や他のアジア諸国との経済関係の発達

を通じて自己の立場を強化することを期待する日本の金融独占

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資本や、また水産独占資本を主な拠り所としている。彼に支持を示し、また同時に彼への影響力を有する鳩山の取り巻きの人々は、水産企業と密接なつながりを有する、農林水産大臣河野、及びI巨大産業界の代表者であり、戦前は満州における重工業企業“満州重工業“の社長であったl経済企画庁長官高碕がいる。鳩山の政治的視点国内政治問題においては、鳩山は極めて保守的な視点を有しており、占領まで、曰本における軍国主義の存在復活に対する、積極的な支持者の一人であった。これとの関連で彼は、ブルジョワ的性格が制限されているにも関らず、ブルジョワ民主主義の権利の一部(言論・出版・集会及び結社の自由、普通選挙制)や、国際紛争解決の手段としての軍隊の不保持、及び侵略目的に用いることを可能とする、新たな軍隊を創設することの放棄を唱えた、戦後日本の憲法を見直すことを、提言している。鳩山の憲法再考についての要請は、日本の自主性と独立性、国家信条、伝統といったものの回復を正当化するものである。’九五六年七月の、選挙前における自身の提言の一つとして鳩山は、現行の憲法が、日本をコントロールするために占領権力によって作られたものであり、故にそれは再考することが不可欠であるということを言明した。

鳩山訪ソに関するソ連資料(下斗米) 〉承一九五五年一一一月一一一日付の”産経時事”紙の情報によると、鳩山は自身の演説の一部において、天皇が国政の場においてより重要な役割を果たし、中央政府が政策及び教育に対して大きな規制力を有し、さらに日本の軍事化を禁止する条文を撤廃するようにすることを、彼が求めていることを言明した。鳩山はまた、中央国家権力の増大と、日本に存在するブルジョワ民主主義的諸制度の抑制を目的とした、国家における行政システムの改革の即時遂行、また左翼政党出身の国会議員の当選の可能性を小さくすべきであるという日本の支配層の打算による、小選挙区での投票制度の導入を見込んだ、新たな選挙法の制定をも提議している。この点において鳩山は、指示した方策の反民主的な傾向を隠そうとしない。新たな選挙制度に関する問題の国会における自身の演説において、それがあたかも平等原則を破っていないかのように言明したにも拘らず、同時に、”共産主義は民主主義の敵である“とか、彼が〃共産主義者は一人として国会における議席を有しなくなることを望んでいる“などと強調した。鳩山は日本軍事化の積極的な支持者である。個人的な演説に※’九五五年二月に「産業経済新聞」と「時事日報」が合同してできた新聞名。一九五八年に元の「産業経済新聞」の名で統一され、現在に至る。

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法学志林第一○四巻第一号 おいて彼は、”日本の領土保全に関する外国軍隊への依存を撤廃“するための、日本の”防衛戦略”強化が不可欠であることを、再三強調した。この件に関して一九五五年一月の非公式のデータによると、鳩山は軍備に関する問題について、次のような考え方を堅持している。すなわち今日における日本政府の重要な課題のひとつは、航空・軍事・船舶発達のため独自の技術基盤構築を目的とした、重工業のより迅速な回復と拡大をなさねばならないということであり、米国の技術に基づいては、総合的な日本の軍事力の増強はないということである。鳩山の対外政策の問題は、現在の日本の情勢を考慮に入れながら、西側ブロックの一員に留まり、同時に社会主義陣営の国々との関係の発展も模索しなければならないという、いわゆる”双務的“或いは”両面的“と言われる路線の支持者という態度をとっていることである。鳩山は、日本政府の政策上の基礎は、合衆国政府との”協力“に置かなければならないということを、再三言明した。’九五六年一月三○日の国会における施政方針演説において鳩山は、次のように表明した。”我々政府の対外政策における基盤は、アメリカ合衆国及び他の民主主義諸国と、自由主義陣営の一員としての日本との 一七八

協力である。我々は今後、我々とこうした国々との関係をより以上増強していくことに努力するつもりである“・以前鳩山は、日米の“安全保障条約”や、“行政協定“への批判を行ったり、また多くの場合それらの見直しを提起したこともあったが、今は米国との“安全保障条約“を有しているが故に今の日本が存在していると理由付けながら、米国との安保条約の維持を主張している。同時に鳩山は、以前と同じように今回もまた、”共産主義との共存“政策の実施や、社会主義陣営の政府と共に、共産主義諸国との文化及び貿易関係を発達させることを、再三提議した。一九五四年一二月二日の記者会見において鳩山は、次のように言明した。”全人類が恐れている第三次世界大戦を回避するためには、相互の交流及び貿易の拡大が望ましい。仮に共産主義というものが単なる敵であり、交流及び貿易による調整はないと看倣すならば、これは戦争をもたらすことに他ならない。ソ連や中国との友好関係確立のためには、これらの国々との交流及び貿易の発展が望ましい。“一九五四年一二月七日、鳩山は次のように強調した。”共産主義にたいして抵抗するには、二つの路線で示さなければならない。すなわち軍事力による威嚇という手段であり、

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また外交関係正常化のための場を持つことで、大量に移動する商品やアイディアを組織化するという方途である。“一九五五年三月八日、インターナショナル・ニュース・サー〉悪ビス通信社との特派員のインタビューにおいて鳩山は、彼個人及び彼の政府が、反共産主義であることを示唆しながら、同時に彼の対外政策は、冷戦における緊張を和らげる目的で、共産主義国家との繋がりの拡大に向かうこととなるであろうと言明

した。“冷戦情勢はlと鳩山は言った。l健全な状況ではない。冷戦が突然熱戦へ転化するやも知れない。我々の責任は、この脅威を小さくさせることである。この目的の協力のために、我々は共産主義国家との付き合いをやめるべきではない。私個人は共産主義に反対であり、如何なる時も日本における共産主義の台頭の企てに賛同しなかった。私は共産主義に関しては、そのもとで生存するよりも死をえらぶほうが良いと考える。しかしながら、国際社会において共産主義者を無視するということは、より以上に緊張を強めることとなる。“

※いわゆるINS(「三の『。::巴Z⑦急の②⑦『く-8)通信社。’九五八年にUP通信と合併して、UPIS己(のこて『の鍋一.富『・三豊。:一)通信となる。

噸山訪ソに関するソ連資料(下斗米) 鳴山は、国際関係における緊張緩和を目的とした、幅広い交渉実施の正当性についてもまた言明した。例として、’九五五年六月一四日の国会における質問への回答として鳩山は、彼の見解によれば、国家間の緊張の原因は、“二大陣営が互いの攻撃を恐れ、武器生産の領域において首尾よく競争しているということ“にあるのであり、そして”現実の世界に向けては、交渉以外に他の道はない“ということを指摘した。鳩山は、日本の中国との貿易関係の発展及び、それに続く日中関係の一般的な調整のための原則について提議した。これについて鳩山は、”二つの中国“lすなわち中華人民共和国と蒋介石のグループーという考え、及び、国民党政府との関係も維持している下での、中華人民共和国との関係正常化の実現が、日本にとってあり得るということについて提起した。これに関して特に蝸山は、一九五五年三月一四日の外国人特派員への記者会見において、次のように言明した。“もし共産主義中国が、lと鳩山は言った、l日本との外交関係の措定を望むのであれば、従来の国民党中国を、日本が承認することを許可することで、我々は交渉開始の準備をする。”しかしながら、共産主義中国との関係正常化に関する問題において鳩山は、はなはだ一貫していない立場を占めており、こ

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日ソ関係解決の問題における鳩山の立場鳩山は、日ソ関係のより迅速な正常化を提議している。一九五五年一月、嶋山は自ら裏承のソ連の代表者と接見し、この後、日ソ関係正常化の問題に関する交渉に着手するというソ迦の申し入れを、日本政府は正式に受託した。後の、すでに日ソ交渉が開始されて後、鳩山は再三にわたって二国間関係のより迅速な正常化を提議し、また最後まで交渉を成し遂げるという堅い意志を表明した。この点に関して多くの場合鳩山は、日ソ関係正常化の問題に関して、与党の公式見解や、政府の路線とは異なる言明を提起した。手に入っている憤報によると、鴫山は自ら、次のような見解に従って行動した。すなわち、日本によって提起されているソ連にとって受け入れがたい要請は、日ソ交渉の障害となり得るものであり、日本は譲歩しなくてはならない。特に領土問題に関する自国の主張は、歯舞及び色丹諸島の返還に止めるということである。これと共に燭山は、会談の一部や公式声明において、日ソ間においては第一に、戦争状態の終結及び外交関係の設圃に関し 法学志林第一○四巻第一号 の問題における自身の綱領実現に向けた、十分有効な程度な対策に着手してはいない。 ’八○

て合意を成し遂げ、この後、残りの係争中の諸問題の解決がなされるというような方途の正当性を、再三言明した。一九五六年一月二六日の記者会見において鳩山は再び、「恐らくは、ロシアとの戦争状態の良好な終結がなされ詞その上で漸次、交渉を通じて他の諸問題を解決する’’ことを彼が考えていることを、再び言明した。一九五六年七月六日の記者会見において鳩山は、領土問題をそこに含まない、日ソ間平和条約の締結を通じての日ソ関係の調整の推進を提言した。手に入っている悩報から判断すると、鳩山は日本に存在する政治悩勢を考えて、この推進を提言したのであったc周知のようにソ連とのより迅速な関係調整に賛成している社会主義者たちでさえ、戦後日本から分離した領土の回復についての要求を完全に拒否してはおらず、かつ現行の諸問題解決の、将来への延期を提議しているが故に、日本政府の南千島列島返還要求の放棄はソ迎との平和的調蕊に反対するサイドからの激しい反発に会うのみならず、日本の大衆厨の一部においても好ましからざる反応を受けるということを、彼は危倶したのである。しかしながら指摘しておかなければならないことは、鳩山のそのような言明にも拘らず、彼は首相として、日ソ交渉を成功樫に成し遂げることへの比較的大きな可能性を有してはいたが、

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実際的にはこの方針を採ることは非常に稀であったということである。それどころか、日ソ関係正常化に反対する勢力の下で、鳩山は多くの場合、日ソ関係の正常化の問題について不安定な立場に立っており、この問題(特に領土問題。及び関係正常化の枠組みに関して)についての自分の最初の声明を、再三撤回した。この年の八月、日ソ交渉が再び中断された時、日ソ関係調整のために聰山は、自らソ連を訪問するという希望を表明した。これについて鳩山は、次のような取り決めによって、日ソ関係を正常化する提議を打ち出した。すなわち、日ソ間の戦争状態の終結に関する協定の締結、二国間における大使館の交換、ソ連からの日本人の帰還、漁業協定の発効、日本の国連加盟問題に関するソ連の指示のとりつけである。領土問題については将来解決されねばならないということである。東京のソ連代表部の摘報によると、姻山は他の自民党指導者とは異なり、より迅速に正常化を実現することを熱心に望んでおり、そして内閣と相談することすらなくモスクワにおいて条約に調印することが可能であるが故に、鳩山のモスクワ訪問は、関係正常化にとって望ましい結果を有することとなるであろうという、日本共産党中央委員会第一書記である野坂は指摘している。

蝸山訪ソに関するソ連溢料(下斗米) 内閣における蝋山の立場最近、内閣における嫡山の立場と、彼の個人的影響力は著しく低下した。このような低下をもたらした大きな理由としては特に、国内政策の分野(憲法改正、新たな選挙制度の導入)において生じた課題の遂行において、鳩山内閣の指揮が無能であるということであり、与党自民党内における派閥間の抗争が激化したことにある。鳩山の立場の著しい度合いでの衰退は、一九五六年六月諸島に開かれた、日本の国会の参議院選挙において、自民党が三分の二を上回る議席漣得することができないという事態を招いた。他ならぬ与党内部及び金融独占資本の間では、これについての責任を、第一に鳩山に負わせた。与党自民党及び日本の金融独占資本の間では今日、鳩山辞職が妥当であるとする根強い意見が台頭している。日本の新聞報道から判断すると、党指導部においては原則として、日ソ交渉完遂後、鳰山は辞職すべきであるとの決定がなされている。九月二四日、農林水産大臣河野は、ソ連から噸山が帰国した後、彼が辞職するということは予め決まっているとの声明を発表したc

個人的性格よく知られている彼の性格についての評価によると、彼は極

一八一

(21)

河野一郎略歴データ河野一郎は一八九八年、神奈川県に生まれた。一九二三年、東京の早稲田大学政治経済学部を卒業。大学を卒業後、河野は一時期、朝日新聞に記者として勤務した。その後、農林水産省において様々な行政上のポストに就いた。河野の積極的な政治活動は一九三二年、彼が初めて国会において衆議院議員に選出された時に始まった。河野は喝山と同じ 法学志林第一○四巻第一号 めて野心的な人物である。彼は社交的で、柔和に人々にアピールする能力に長けている。鳩山は高い教養を有した博識な人物であり、宗教においては、彼はキリスト教徒(バプティスト)である。’九五一年七月、鳩山は脳梗塞を発病し、この桔果、彼は左半身麻庫になった。後に彼の健康は幾分回復したが、しかし今日に至るまで、彼には病弱さがにじみ出ているように見受けられる。このため彼はしばしば、一人で移動することができない。その上、手に入った情報によると、彼は重い胃の病気(胃癌)を患っている。噸山には妻と四人の娘、そして東京大学を卒業して大蔵省に勤めている息子がいる。鴫山の妻は、彼の母が創立した共立女子大学の学長である。 一八二

時期、ブルジョワ民主主義の政党である政友会のリーダーの一人であった。一九四○年のこの党の解散後、河野は君主制ファシストの組織である、”大政翼賛会“のメンバーの一人となり、神奈川県におけるこの団体の活動の指導者となった。日本の降伏後、河野は自由党に加わり、間もなく同党の幹事長に選出された。’九四六年、第二次世界大戦中、戦争に協力したとして彼は政治及び社会活動に参加する権利を剥奪された。しかしながら実際には、日本の政界の舞台裏において、積極的な関与を保ち続けた。一九四八年河野は、彼が秘密裏に選挙運動に参加した、国会の定例選挙の際に、政治家を買収したことが明るみになり、選挙の公正に関する法律違反に問われ、告訴された。一九五二年、彼の政治的権利が回復されて後、河野は再び自由党に加わり、嶋山グループに加わった。自由党員でありながら河野は、吉田内閣の提議した政策に再三にわたって反対し、これとの関連で“政治綱領“違反に問われ、一九五二年九月二九日、国会議員選挙の前日、党から除名された。一九五三年吉田の支持者達は、一九五二年一○月に河野が選出された、国会の衆議院における綱領委員会のメンバーからも、河野の除名を獲得することに成功した。一九五三年から五五年の間、河野ははじめ自由党吉田派から離反した政治家のグループによって創立された、日本自由党執

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行委員会のメンバーであり、その後、民主党執行委員会のメンバーであった。今日、河野は自由民主党のメンバーであり、褐山に従う、いわゆる”主流派“に加わっている。一九五四年一二月、鳩山内閣の農林水産大臣のポストに就き、行政管理に関する機構の長官でもあり、経済閣僚会議のメンバーである。河野は海外への多くの代表団や使節団を主宰した。例として、一九五五年の八月から一二月にかけて、イギリス・西ドイツ・アメリカ・アルゼンチンその他の国々の政府と経済交渉を行う目的で、ヨーロッパ及びアメリカ訪問を実行した。アメリカ滞在の間、河野はアメリカの“余剰〃農業生産物の日本への買占めに関する協定に調印した。一九五六年三月、河野はモスクワにおいてソ連政府との交渉を行った。この結果、太平洋北西海域の開放に関する日ソ漁業協定及び、海で遭難した人々を救助する上での協力に関する、ソ連と日本との間の協定が調印された。河野は、日本の巨大な水産企業と密接な繋がりを有している。河野の政治的視点及び日ソ交渉における彼の立場国内政治問題において河野は鳩山と同様、極めて保守的であり、戦後日本の恵法の見直し、及び中央国家権力の増強や、今日一部に存在するブルジョワ民主主義制度の機能を抑制するための行政制

蝿山訪ソに関するソ迎資料(下斗米) 度改革を、国が実施することを積極的に提言した。行政機構の再編を提議しながら河野は、’九五六年一月一五日付の日本の雑誌”ジャパンジャーナルオブファイナンキ、いスァンドコマース“の情報によれば、次のように一一一一□明したご〃鳩山内閣の最も大きくかつ最も重要な課題は、政府の行政機構の大幅な再編成の実施である。この再編成は、占領期間中に作られ、現在では我々の国の慣習と両立し得ないということが指摘されている、鯵しい数の政治制度を終わらせることである。“対外政策の分野において河野は、鳩山と同様、ソ連及び他の社会主義陣営の国々と日本との関係正常化の必然性を、同時に認めながら、米国との日本の密接な協力に賛成している。社会主義陣営の国々と日本との関係発展を望まない、日本の支配層に反対し、一九五六年七月はじめ、次のように言明した。〃一部の政治家は、ソ連をできる限り遠ざけることを模索している。これらの人々は、日本の国際的地位を軽視しており、またソ連の国際的な地位に対する理解が不充分である。彼らはまだ試食せずに、それが彼らにとって好みではないと言っている人に類似している。“※’九四八年から一九五六年まで一一ツポンタイムズより発行されていた月刊誌。

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法学志林第一○四巻第一号 日ソ関係正常化の具体的枠組みに関しては、手に入った情報によると、河野は、日本の支配層の一部によって提起された、日本の全ての領土要求の充足を主張することは、日ソ交渉に障害をもたらすに過ぎないとみなしている。一九五六年三月二一日付の〃毎日新聞“のインタビューにおいて河野は、〃ソビエト・ロシアとの外交関係回復に対して、日本にとって唯一受け入れられ得る枠組みである、いわゆるアデナウァー方式が残っている“との見解を述べた。しかしながら他の発言において河野は、次のように言明した。すなわち日ソ関係の正常化においては、”アデナゥァー“テクストの正確なコピーである必要はないと言明した。河野の見解によれば、日ソ条約は大きな幅を持たせるべきであり、かつ、漁業・貿易・日本の国連加盟問題に関するソ連の賛成等々に関して、全て肯定的な条文を盛り込まなければならない。この条約においては、河野が言明したように、領土及び国境に関する条文は盛り込むべきではない。東京のソ連代表部との会談において河野は八月二四日、次のように言明した。”鳩山と私は、日ソ関係のより迅速な正常化を望んでいる。私はかかる正常化は、私との会談においてフルシチョフ氏によって提言された取り決めにおいて充分可能であると、堅く 信じている〃。一九五六年十月〃八日〃剛一四五九一に添付 ソ連外務省情報局管理委員会局長テ・クプリーコフ 一八四

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