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近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に 関する一考察

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近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に 関する一考察

著者 李 善惠

雑誌名 評論・社会科学

号 91

ページ 89‑116

発行年 2010‑05‑31

権利 同志社大学社会学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012239

(2)

〔論 文〕

近代初期における韓国の

プロテスタント社会事業に関する一考察

李 善惠(イ ソンヘ)

同志社大学大学院社会学研究科・博士後期課程

【要約】

E・Hカーは,「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程で あり,現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのである」と定義し ている。これは過去にせよ現在にせよ歴史的な事実が「今,ここに(here and now)」影響を及ぼしていることを示している。近代初期における韓国 でのキリスト教,特にプロテスタントは社会福祉において政策や倫理に重 要な影響を及ぼしたといわれている。本稿の目的は,近代初期に行われた 社会事業を通して,プロテスタントが社会福祉にどのような影響を与えた のかについて明らかにすることである。そのため,プロテスタントが導入 された近代初期の韓国の歴史的な状況,すなわち政治的,経済的,社会的 な状況を把握する。その後で,プロテスタント宣教師やキリスト者を中心 として行われた社会事業を分野別に整理して,歴史的な状況による韓国の プロテスタント社会事業の傾向を論ずる。

キーワード 近代初期,プロテスタント,社会事業

目 次

1 はじめに

2 先行研究の検討 3 近代初期の歴史的な状況

3−1 政治的状況 3−2 経済的状況 3−3 社会的状況

3−4 プロテスタントの伝来

────────────

2009年10月15日受付,査読審査を経て2010年2月24日掲載決定

―89 ―

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4 近代初期のプロテスタント社会事業

4−1 教育事業

4−2 医療事業

4−3 児童保護事業

4−4 その他

5 歴史的な状況による韓国のプロテスタント社会事業の特徴

6 結論

1 はじめに

歴史についてE・Hカーは『歴史とは何か』という著書(E. H. Carr 1961=

清水1962 : 40)で,「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程で

あり,現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのである」と定義してい る。これは過去にせよ現在にせよ歴史的な事実が「今,ここに(here and now)」影響を及ぼしていることを示している。歴史は今でも綿々と流れてお り,その歴史の中で私たちが生きている。そして,過去から現在に至るまでの 時間の流れの中で歴史を大切に思うのは,この現在が過去の結果であると同時 に未来の種であるからであろう。

柴田(1985)は人間に対して働きかける行為として政治,裁判,医療,教育,

救済をあげて,すべてが宗教行為であったと述べている。マカロバ(Macarov 1978)はあらゆる宗教は苦しみに置かれている人に慈善を施すことであり,ま たその宗教の掟を忠実に実行しようと努めることが社会福祉の動機になってい ると述べている。このように救済と慈善は人間の生活の中でなくてはならない 行為であり,宗教の重要な行為である。

では,韓国の社会福祉の歴史はどのように形成されてきたのか。金徳俊

(1983 : 169)は近代初期の宣教師によって行われた事業が韓国のキリスト教社 会事業であり,現代的な各種社会事業の始まりであったと述べている。以前は

「相互扶助」,「慈善事業」,「救済事業」という名で行われてきたのが,近代初 期の宣教師によって今日の社会福祉の根拠となる社会事業が本格的に始まった といえる。しかし,韓国のキリスト教社会福祉の発達史に関する研究は少な

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(4)

い。金徳俊編(1985)の『基督教社会福祉』の歴史編で,ローマ国教以前から 産業革命以後までのキリスト教と社会事業について述べられているが,韓国は 除かれている。その後,金基源(1998)の『基督教社会福祉論』で,初めて

「韓国基督教社会福祉の歴史」について述べられているが,歴史的な背景は言 及されていない。2000年に入ってから,キリスト教社会福祉に関する研究が 徐々に増え始めている。しかし,時代的な背景に基づいて社会福祉を分析した 研究はあまり見あたらない。

したがって,キリスト教社会福祉史の出発点であった近代初期の社会事業を 時代的な背景を通して整理することは意義があると思われる。本稿の目的は,

近代初期に行われた社会事業を通して,プロテスタントが社会福祉にどのよう な影響を与えたのかについて明らかにすることである。そのため,プロテスタ ントが導入された近代初期の韓国の歴史的な状況,すなわち政治的,経済的,

社会的な状況を把握する。その後で,プロテスタント宣教師やキリスト者を中 心として行われた社会事業を分野別に整理して,歴史的な状況による韓国のプ ロテスタント社会事業の傾向を把握する。

2 先行研究の検討

まず,本稿のキーワードになる社会事業という用語について,あらかじめ操 作的に定義しておきたい。欧米において社会福祉形成史は慈善・博愛・社会事 業・社会福祉への順序である(木原1999)。とはいえ,韓国の場合,近代初期 に行なわれた事業を慈善や博愛事業という名称で定めるのは難しい。なぜな ら,研究者の殆どが当時の事業に対して社会奉仕や社会事業,社会福祉事業,

また社会福祉という用語を混在して使っているからである。それ故,筆者は当 時行われた様々な事業が貧困や教育,医療問題を個別的ではなく,初めて社会 的・組織的に解決しようとしたことから,当時の事業を慈善や博愛事業ではな く「社会事業」と定義する。

本稿の研究範囲は,キリスト教の中でもプロテスタントに限定する。もちろ 近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に関する一考察

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(5)

んカトリックはプロテスタントより以前に導入されていたが,近代的な社会事 業はプロテスタント宣教師によって行われた社会事業であったため,プロテス タントを中心とする。それ故,本稿でのキリスト教はプロテスタントを指す。

そして,近代期と呼ばれる時期が研究者によって異なっているが,本稿では外 国との修好通商条約が始まった1876年から日韓合併された1910年までに限定 したい。なお,韓国の国名については,朝鮮や大韓帝国,韓国など混在してい るため,文章を引用する場合には資料における名称をそのまま使用した。

韓国のキリスト教社会福祉史に関する文献は次のとおりである。

1 韓国のキリスト教社会福祉史に関する文献一覧

研究者 内 容

金徳俊編

(1985)

1部 思想編(ヘブライ人,イエス,ローマ帝国,修道院,

ヨーロッパ,十字軍,中世紀,様々な神学者らなど)

2 歴史編(ローマ帝国以前,中世紀,ルネッサンス以 後,産業革命以後など)

3部 運動編(キリスト教社会主義,解放運動,労働問題,

孤児保護事業,COS, YMCA, YWCA,救世軍など)

福音の社会的,歴史的な研究がキリス ト教社会福祉の研究であり,その本質 の表現である奉仕事業の研究がキリス ト教社会福祉事業史であると述べられ ている。しかし,韓国のキリスト教社 会福祉史は言及されていない。

金基源

(1998)

1編 キリスト教社会福祉の総論 3章 キリスト教社会福祉の歴史的な展開

4節 韓国のキリスト教社会福祉

①プロテスタントの導入

②解放前(1928〜1945):救済事業と社会奉仕事業

③解放後〜朝鮮戦争

④1970年代:農漁村の地域開発事業

⑤1980年代:都市零細民事業

⑥1990年代:国内及び国外への活動 2編 キリスト教社会福祉の各論

韓国のキリスト教社会福祉史について 初めて扱っている重要な文献である が,近代初期の内容は2ページに過ぎ ない。それ故,教育と医療機関につい て簡単に説明されているが,歴史的な 背景や特徴については除かれている。

時代別に事業名が定義されていない。

韓国社会福祉 研究所編

(2001)

1部 聖書の社会福祉思想 2部 先進国のキリスト教社会福祉

−韓国のキリスト教社会福祉−

3部 韓国キリスト教社会福祉の課題の展望

キリスト教は韓国の社会福祉教育の門 を開き,社会福祉の発展のために至大 な貢献をしたと述べられている。

イムジョンウン

・イムクウェン

(2003)

1部 キリスト教社会福祉の基礎理論

4章 韓国キリスト教社会福祉の展開過程

①導入期(1880〜1904) ②啓蒙期(1905〜1945)

③再建期(1946〜1989) ④成長期(1990〜現在)

2部 キリスト教社会福祉の応用 3部 キリスト教社会福祉の実際

宣教師や教会を中心として行われた事 業が政治,経済,文化,教育,社会に 影響を与えたと述べられているが,歴 史的な背景を含めて,どのような影響 を及ぼしたのかについて具体的な内容 は言及されていない。

金ハンオク

(2004)

1部 キリスト教社会奉仕の学問的な位置 2部 聖書の社会奉仕

3部 キリスト教史に現れた社会奉仕 4部 韓国プロテスタントの社会奉仕

12章 初期プロテスタントの宣教師時代から旧韓末まで のキリスト教社会奉仕

13章 日帝強占期のキリスト教社会奉仕(民族的抵抗運 動の主導;1910〜1920,文化統治期;1920〜1930,太平洋 戦争期;1930〜1945)

14章 解放以後から1990年代までのキリスト教社会奉仕

著者はディアコニアである社会奉仕の 概念でキリスト教社会福祉を説明して いる。特に世の中で使われている慈善 や博愛との概念と異なって,イエスキ リストの愛によって実践された概念と して説明している。その故,近代初期 における宣教師を中心として行なわれ た社会奉仕は福音伝播の一つの宣教方 法であった。

ナムヒス

(2007)

1部 キリスト教社会福祉の基礎理論

−韓国教会とキリスト教社会福祉−

2部 キリスト教社会福祉の個別理論 3部 キリスト教社会福祉の実際

韓国のキリスト教の歴史と社会福祉の 流れを通して韓国の教会を理解する目 的で述べられている。

(筆者作成)

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このように先行研究のレビューから韓国におけるキリスト教社会福祉に関す る歴史研究は極めて少ない。そして,キリスト教社会福祉に関する研究は主に キリスト教と関連がある書籍の中で見られるが,これも全般的な流れとして宣 教師と宣教機関がどのような団体を設立し,どのような活動をしたのか,とい う記録だけである。また,社会福祉史にも,具滋憲(1970)の『韓国社会福祉 史』と河相洛編(1989)の『韓国社会福祉史論』という代表的な文献がある が,どちらも各時代別に記録されているにもかかわらず,近代初期の部分が抜 けているか,それともわずかに触れているのみである。したがって,キリスト 教社会福祉史,特にプロテスタント社会福祉の出発点である近代初期における 社会事業を歴史的な背景に基づいて研究することは意義があると考えられる。

3 近代初期の歴史的な状況

近代初期の朝鮮に開国を迫ったのは西洋ではなく日本である。それ故,本稿 は日本との関係が中心になっていく。日本は明治維新以後に朝鮮と国交の再開 を要求したが,朝鮮から断られ,このため「征韓論」まで浮上するようになっ た。しかし,大久保利通を中心として攻撃的な外交政策より国内の安定を先に 図るべきであることが主張され「征韓論」が衰えていたが,明治維新の過程で 士族の不満が高まり,その不満を外に向ける必要が生じた。それに加えて,欧 米との不平等条約の不利益を補填するために他国を開国させた対象が朝鮮であ ったといわれている(姜萬吉1984 : 183)。こうして朝鮮は1876年に日本によ って条約が強制的に締結され,政治的にも社会的にも密接な関係を持つように なった。このような政治的な開国(1876年)以後,西洋の進んだ技術文明と 文化に関心を持った朝鮮人が中国や日本で外国宣教師と接触し,プロテスタン トを信じるようになった(金インス1998 : 109)。以下では,プロテスタント 社会事業が始まったきっかけを明らかにするため,近代初期の政治・経済・社 会的な状況を踏まえた上で,プロテスタントの伝来について記述する。

近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に関する一考察

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3−1 政治的状況

ゴジョン デウォングン

国王である高宗が即位して10年目,1873年に大院君は摂政の座からおりる ことになった。理由は高宗もすでに22歳になり成人したため,「国王親政」に

キョンボッグン

変えるべきだということであり,また景福宮再建にともなう負担の過重からく る人民の不満,書院(1)撤廃にともなう保守的儒林たちの不満に便乗した閔氏一 派とその追従者たちの策動によるものであった(姜在彦1998 : 49)。

ウ ン ヤ ン ホ

このような状況の中で,1875年5月に日本の軍艦「雲揚号」は朝鮮の釜山 に入港し,朝鮮の抗議を無視して発砲演習をした。その年9月に,日本の「雲 揚号」が朝鮮近海に再び来たため,朝鮮は軍事拠点である江華島の砲台で攻撃 を行った。そこで日本が報復攻撃をしかけ,陸戦隊が上陸して朝鮮の民衆に放

カ ン フ ァ ド

火・略奪した。これが雲揚号事件(江華島事件)である(大日方2002 : 78)。

日本は事件の責任を朝鮮に転嫁し,朝鮮政府を脅迫して不平等条約の締結を迫 った。これがきっかけとなり,朝鮮は1876年2月26日江華島で丙子修好条約

(江華島条約・日朝修好条規)に調印することになる(姜東鎮・高崎1987 : 89)。

ベ ル ギ グ ン

朝鮮は1881年に新式軍隊を養成するために「別技軍」を創設して,既存の 5軍営をその年12月に2軍営に改編した。そのため,多くの旧式軍人が仕事 を失うかもしくは,仕事を続けたとしても給料面での「別技軍」との差別待遇 が生じた(朴ミンヨン1997 : 107)。13ヵ月分の給料が支給されなかった旧式

イ ム オ グ ン ラ ン

軍人の不満が高まり,1882年6月に暴動(壬午軍乱)が起こり,この事件を 契機に清国が朝鮮の政治に強制的に介入することになる。これが後に日清戦争 の原因となる(アンサンフン・ジョソンウン・キルヒェンジョン2005 : 30)。

このように1880年代から1890年代の朝鮮は日本と清国の勢力争いに挟まれ て苦難に直面する時期であったといえよう。1884年に清国との関係を終らせ

ガブシンジェンビョン

るために開化派によって起された「甲申政変」(2),日本の経済的侵略と利権侵 奪によって農民が中心になって起した「東学農民戦争」,「日清戦争」,また1896

ガブオキョンジャン

年に日本によって強制的に行なわれた「甲午更張」(3)など改革を要求する時代 の流れの中で,朝鮮はロシアの勢力を引き入れようとした。しかし,それを止 めるために日本の守備隊と警察,新聞記者などが景福宮を襲撃し,やがては明

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聖皇后を殺害する事件を起した。この事件によって,1896年に高宗がロシア

アカンファチェン

公使館に避難(俄館播遷)し,日本はロシアと対立するようになった。高宗は 対外的に清国との伝統的な事大主義関係から離脱して(4),自主独立国いわゆる 大韓帝国になったことを宣布する(1904年1月21日)ようになる(姜在彦 1998 : 174)。

1904年,日本がロシアとの戦争に勝利してから,日本は朝鮮に対して「施 政ノ改善二関シ其忠告ヲ容ルル事」「軍略上必要ノ地点ヲ臨機収用スルコトヲ 得ルコト」とする「日韓議定書」を強要した(姜在彦1998 : 192〜193)。結 局,1905年に朝鮮の高宗と日本の天皇の御璽(玉璽)がない第2次日韓協 約,いわば乙巳条約を強制的に締結させられ,日本は朝鮮に統監府を設置し,

朝鮮の外交権を握るようになった。また,日本は1907年の乙巳条約が無効で あると主張した高宗を強制的に退位させ,次に純祖を即位させ軍隊を解散させ た。こうして1910年8月29日,日本は純祖に讓位の詔書を強要して,朝鮮の 主権を奪った。

3−2 経済的状況

開港による大規模な対外貿易は流通部分を活性化させながら,朝鮮の経済に 大きな影響を与えた。特に輸入品と輸出品を扱った開港場を巡って新しい商業 中心地が形成されるようになった(張ヨンミン1997 : 125〜129)。しかし,対 外的に輸出が始まったとはいえ,朝鮮の貿易は輸出量に比べて輸入量が多くな り,逆に損害を受ける問題が生じた。さらに,1878年から米穀を含む主要な 資源は,輸出というよりも対外的に流出したともいえる状況となった。1885 年から外国人の内陸地方の旅行が許可されてから,朝鮮商人を通さずに直接貿 易ができたため,各地方において米穀の不足と穀価の騰貴現状が生じ,民心の 不安を増大させる原因になったといえる(姜萬吉1984 : 255)。また,綿織物 に関しても,安い日本産紡績糸の輸入により国内の綿織物の生産構造や流通構 造が変化した。その結果,木浦港を通じた綿織物の輸出は1904年から急激に 減少し,1907年頃はほとんど輸出量がなくなり,農村家内手工業の成長が抑

近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に関する一考察

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制されてから徐々に日本製の綿糸とイギリス制の綿製品に従属するようになっ た(アンサンフン・ジョソンウン・キルヒェンジョン2005 : 33)。

それだけではない。日本の無制限的な金の流出は日本資本主義の発展をもた らしたが,一方,朝鮮にとっては,民族資本形成を阻害する原因になった。特 に金の輸出には税金が賦課されず,単に申告された税関に報告するシステムで あったため,正確な輸出量は把握できなかった(姜萬吉1984 : 255)。日本の 場合,1895年4月に日清講和条約(下関条約)に基づき,3億6824万8千円 という巨額の軍事賠償金を受領することによって,殖産興業が推進され,第2 次産業の飛躍的な伸長をみることになった。それゆえ,中国から賠償金がなけ れば,日本の金本位制移行は不可能であった。しかし,問題は金本位制の移行 後に生じたといわれている(村上:1973)。軍事賠償金の枯渇によって日本は 植民地から金(銀)を吸収することになったからである。そして,1880年代 や日清戦争の前後は日本の金輸入量の中で,朝鮮の金がほぼ100パーセントに まで至っている。これは1897年に日本の金本位制の確立に大きな影響を与え たが,逆に朝鮮にとって金が奪われることによって近代的な貨幣制度の確立を 阻害する原因になった(姜萬吉1984 : 256)。

その他に,鉄道敷設権,港口租借権,鉱産採掘権,山林採取権,通信架設権 など,朝鮮内の資源の動員及び利用権が外国の力によって奪われることになっ た。このように朝鮮の経済を構築するために必要な資源や利益を,日本を含め た外国の手に渡したことが国家を危機に陥らせる原因になったといえる。

3−3 社会的状況

朝鮮は政治執権層の親清,親露,親日政策など外国の勢力への妥協や屈服,

国際的な紛争や制度の改革による政府の財政の困難など,国家の危機に直面し た。しかしその一方で,被支配層には近代的な民族国家を樹立しようとする政 治・社会意識が生じた。これは外的には外国の勢力から主権を守り,内的には 朝鮮王朝の専制主義体制を倒し,国民主権の民族国家を成立させようとする動 きである。

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ここで2つの形態の代表的な民族運動が始まった。それは「下からの改革」

と呼ばれる東学農民運動と「上からの改革」と呼ばれる知識層を中心とした独 立協会運動である。まず,最初の農民運動は政治・経済・社会的な矛盾に対す る改革ではなく,農民層が支配層の不正や腐敗を告発するものであった。しか し,開港以降に外国から押し寄せる商品によって農村の生産力が急激に下落,

破壊してから,農民の知識層までが没落し始めた。そして,農民の負担の過重 に対する農村の不満が高まり,このような危機から脱しようとする運動に転換 した(姜萬吉1984 : 215〜218)。当時の朝鮮は日本の商品市場として原料供給 地だけではなく,労働力市場として扱われたため,伝統的な農業社会の解体を もたらすことになった。このような中で「天心即人心」と「吾心即汝心」を総 括した「人乃天」の教理の東学が生まれた(朴ヒョンキョン1995 : 42)。しか し,時代の流れによって東学の性格は「斥倭洋」(5)に変わり,農民戦争または 農民革命が始まった。政府軍と日本軍によって,この動きは失敗したが,封建 的な支配体制に反対し,外国の勢力に対抗することによって政府の甲午改革に 影響を及ぼしたといえる(姜萬吉1984 : 219〜223)。

もう一つは,独立協会(6)の活動である。独立協会の主な活動は独立運動と民 権運動である。まず,独立運動は従来の王制という国家の体制から帝制に転換 して,独立国家として備えることであった。これが後に大韓帝国の背景にな り,日本との対等な外交関係を成立させることを目的とした。また,独立協会 は「独立新聞」や「独立協会報」を通して独立の意味や必要性を訴え,民衆の 独立意識を高めた。列強によって朝鮮の様々な資源が大量に流出し,民族資本 発展が阻害された上,国家の主権まで侵害されたからである。次は民権運動と しては人権拡大運動と参政権運動である。人権運動は天賦人権という思想を根 拠にして民衆の生命と財産権の保護を要求し,参政権の確立のために具体的に 議会を設立する案を提出した。しかし,このような活動は既存の体制を無視し て,新しい大統領制の新政府を建てようとするという誤解を引き起こし,これ が高宗だけではなく保守派を刺激する原因となり,1898年に解散させられる 原因になる(姜萬吉1984 : 225〜226)。

近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に関する一考察

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その他に義兵活動がある。独立協会は非武装運動であるが,東学農民運動や 義兵運動は武装運動であった。義兵運動の直接的な発端は,1895年10月に日 本が明聖皇后を殺害した事件と11月の断髪令(7)の強行である(姜在彦1982 : 255)。これにより潜在していた反日感情が暴発,各地に義兵闘争が現れるよう になった。1907年の乙巳条約が無効であると主張した高宗を強制的に退位さ せ,次に純祖を即位させ軍隊を解散させた際に,義兵の活動は高揚した。これ がきっかけとなり,朝鮮の義兵運動は全国的かつ反日的な独立運動としての義 兵闘争となっていく。

3−4 プロテスタントの伝来

シ ン ユ キョナン

朝鮮において1801年に多くのカトリック教徒が処刑された辛酉教難の事 件(8)以来,「鎖国攘夷」政策が推進された。開港以後,各国との交流と交易を 通して先進的な商品と制度が入ってきたが,宗教だけは厳格に禁止された。こ れは排斥論者だけではなく,穏健開化派までも西洋の宗教であるプロテスタン トを受け入れることができなかった。つまり,韓国の宗教に関する状況は依然 として変わらなかったといえる。

このような中で,1882年5月に韓米修好通商条約が締結されてから,アメ リカでは朝鮮に福音を伝えるために宣教師を派遣しようとする活動が始まっ た。当時のアメリカはまだ朝鮮に宣教する意図がなかったが,1883年に韓米 条約の批准書が交わされ,朝鮮の使節団がアメリカを訪れてから宣教の必要性 を感じ,朝鮮に宣教師を派遣するようになった(韓国基督教歴史研究所1989 : 176)。1883年11月にイギリスやドイツとの修好条約を締結した際,西洋人は 指定された居留地でのみ宗教の礼式執行が可能になった(9)

1884年12月4日に発生した甲申政変は朝鮮のプロテスタントの歴史を変え

ミンヨンイック

る大きな事件となる。開化の勢力によって保守派である閔泳翊(明聖皇后の 甥)が刀で刺され,生命の危機に陥った際,医師であったアレン(Horace N.

Allen)(10)の卓越した医術によって危機を脱した。これがきっかけとなり,アレ

ンは高宗と明聖皇后の信頼を築き,ついに王室付きの医官に任命され,後には

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クァンヘウォン

1885年4月9日「廣恵院」という診療所を開設するようになった(閔庚培 1993 : 147〜148)。

当時,朝鮮の政府は教育と医療に関する政策が少なくなかったため,その代 わりにプロテスタント宣教師の役割が大きくなり,その結果,朝鮮の様々な分 野の開化に先導的な役割を担うようになった。そして,近代式の学校が建てら れ始めて,各種の知識や思想を教授された卒業生が開化運動を主導するように なった。また,身分・迷信・悪習などの打破と自由・平等・博愛などの実践を 主張するプロテスタントの思想が広がっていった。そして,1880〜1890年代 のキリスト者には上級層より商民層や女性が多く,彼らは意識の啓蒙を促すこ とになった(韓キュム1997 : 86〜87)(11)

このように,朝鮮におけるプロテスタントは宗教として入ってきたというよ り,近代化または富国強兵を推進する一つの方法として広がったといえる。特 に,長い鎖国主義に嫌気がさした知識層や民衆には西洋文明に新しい未来を託 したいという思いがあったため,西洋文明の媒体としてプロテスタントの導入 が歓迎された。それに加え,プロテスタントは民主的かつ民衆的な宗教であっ たため,大衆社会に浸透して身分階級を打破し,人権を高め,実質的な平等を もたらした(金在俊1983 : 57)。更に,民衆とは異なり,国内外において危機 に直面していた朝鮮を独立させようとする知識層のプロテスタントの意志が,

教育と啓蒙を通して民衆まで広がった。これにより意識化された民衆の力が民 族運動(愛国啓蒙,独立)に結びつく要因になったといえる。これが後に日本 による弾圧と迫害が始まる発端となっていく。

4 近代初期のプロテスタント社会事業

開港以後,韓国の状況は,数回にわたった改革が失敗したために政治的には 混乱し,経済的には日本によって経済構造が植民地体制に変わり,社会的には 国民主権の民族国家を成立させようとする知識層の動きが大きくなった。この ように国家全体が不安定であり,危機的な状況にあったため,政府が貧民や孤

近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に関する一考察

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児,浮浪者に対する社会事業に関心を持つ余力がなかったといえる。その代わ りに,外国人宣教師たちは伝導の手段として医療や教育事業を行い,社会的な ニーズに応じ始めたといっても過言ではない。これが韓国において社会事業の 形態になる糸口であった。以下では,プロテスタントの宣教師を中心として行 われた社会事業を整理する。

4−1 教育事業

朝鮮政府が1876年日本との修好通商条約を締結してから,高宗は日本を含 めてアメリカなどに使節団を派遣して世界の情勢を把握しようとした。1883 年,閔泳翊がアメリカを視察した際に,ゴーチャー(John F. Goucher)に会っ たことがきっかけとなり,ゴーチャーが日本に駐在していたメソジスト宣教師 のマックレイ(Robert S. MacLay)を1884年6月に韓国の状況を詳しく把握す るために派遣した。この際,マックレイは日本で知り合った金玉均を通して,

高宗に韓国で宣教事業ができるように請願書を書き,提出した。このような中 で,高宗は韓国で教育と医療事業のみができるように勅命した(金インス 1998 : 124〜126)(12)。1885年から1909年まで設立されたプロテスタント系の 学校は次の〈表2〉のように38ヵ所であり,その中で14ヵ所が女性のための 学校であった。

1885年8月にアメリカから派遣されたメソジスト宣教師であるアペンゼラ

ベ ゼ

ー(Henry G. Appenzeller)によって培材学堂(13)が立てられたことが,韓国にお ける近代教育の私立学校の始まりであった(閔庚培1993 : 246)。また,南長 老派宣教師であったアンダーウッド(Horace G. Underwood)が,孤児を受け 入れたのが孤児院(14)に発展し,1886年2月に韓国政府の許可を得た。これが 当初はアンダーウッド学堂,イエス教学堂,ミンノア学堂などと呼ばれたが,

キョンシン

1905年に!信学校となり,今日では!信中・高等学校になっている(金イン ス1998 : 148〜1490)。また,アメリカの女性海外宣教会(Woman’s Foreign Mis- sion Society)から派遣されたスクラントン(Mary F. Scranton)は女性教育の ためにソウルの貞洞に女学堂を創立した。当時このような教育機関の設立は,

―100 ―

(14)

2 プロテスタント系学校

設立年 学校名 設立場所

1 1885 廣恵院(後:済衆院) ソウル 長老派・メソジスト。1899年に医学校設立。

2 1885 培材学堂 ソウル メソジスト

3 1886 梨花学堂 ソウル メソジスト。初めは女子学党と婦女院として始まった。

4 1886 !新学校 ソウル 長老派。1886年に孤児院から始まって,1905年に!

信学校で改名。

5 1887 貞信女学校 ソウル 長老派 6 1894 光成学校 平壤 メソジスト 7 1894 崇徳学校 平壤 メソジスト 8 1894 正義女学校 平壤 メソジスト 9 1895 日新女学校 東来 長老派 10 1895 正進学校 平壤 メソジスト 11 1896 攻玉学校 ソウル メソジスト

12 1897 崇実学校 平壤

長老派。初めは平壤学堂(サランバン学堂)と呼ばれ たが,1901年に崇実学堂に改名した。高等教育機関 として1905年から始まった。

13 1897 信軍学校 ソウル メソジスト 14 1897 永化女学校 仁川 メソジスト 15 1898 培花女学校 ソウル メソジスト 16 1898 盲唖学校 平壤 メソジスト

17 1898 明信学校 載寧 長老派

18 1901 平壤神学校 平壤 長老派(現:長老教神学校)

19 1903 崇義女学校 平壤 長老派 20 1903 櫻氏女学校(元山女学校) 元山 メソジスト

21 1903 貞明学校 木浦 長老派

22 1904 徳明学校 元山 メソジスト 23 1904 好壽敦女学校 開城 メソジスト 24 1904 進誠女学校 元山 長老派 25 1904 懿昌学校 海州 メソジスト 26 1905 永明学校 公州 メソジスト

27 1906 啓聖学校 大邱 長老派

28 1906 信聖学校 宣川 長老派

29 1906 保聖女学校 宣川 長老派

30 1906 義明学校 順安 セブンスデー・アドベンチスト 31 1906 韓英書院 開城 メソジスト

32 1906 美理欽学校 開城 メソジスト 33 1907 須皮亞女学校 光州 長老派 34 1907 信明女学校 大邱 長老派 35 1907 紀全女学校 全州 長老派

36 1908 新興学校 全州 長老派

37 1908 昌信学校 馬山 長老派

38 1909 懿貞学校 海州 メソジスト

出所:孫仁銖(1969 : 194〜196)と閔庚培(1993 : 246〜247)より作成

近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に関する一考察

―101 ―

(15)

韓国女性の地位向上のための契機になった。この女学堂は1887年に明聖皇后

イ フ ァ

の賜名によって梨花学堂と呼ばれた(閔庚培1993 : 246)。

近代初期にプロテスタントが本格的に導入されてから宣教師を中心として行 われた様々な教育事業は,人間の尊厳性とともに階級思想より万人平等思想を 主張し始めた。一つの例として,当時の女性の地位は非常に低く,自分の意志 を表現する機会がないばかりか教育を受ける機会もなかった。しかし,神の前 では誰もが平等であるという思想を持った宣教師たちを中心として,女性教育 から廃娼運動まで社会改良運動が展開された。これが社会事業の始まりといえ る。特に政治的には事大主義に反対する考え方,社会的には封建主義的な官尊 民卑や男尊女卑に反対する考え方は一般国民を啓蒙させる重要な役割を負った といえる。

また,宣教師によって教育を受けた人々は徐々に国家の価値を問うようにな り,民族教育の必要性を強調した。民族教育機関として,民間人による学校の 設立が本格的となるのは1905年以後である。その中で,代表的な人物として

アンチャンホ

漸進学校(1899年),大成学校(1907年)の安昌浩と講明義塾(1907年),五

イ ス ン フ ン

山学校(1907年)の李昇薰がいる(15)。この時期に設立された学校の理念は,

ほとんどが民族意識を高揚して新しい知識を啓発し,国権(自主的な独立)を 取り返そうとする考え方であった(孫仁銖1998 : 40〜43)。それ故,当時の民 間の学校は民族主義の精神に,またプロテスタント系の学校はキリスト教の精 神と民族主義の精神に基づいて行われたといえる。

4−2 医療事業

ミンヨンイック

1884年12月4日に発生した甲申政変で,大怪我を負った閔泳翊(明聖皇后 の甥)を治療したアレン(Allen)によって医者の資格を持った宣教師が入 り,本格的な医療事業が行われた。西洋医術が紹介された初期には患者たちが 外科手術を受けようとしなかったが,徐々に漢医や患者たちが西洋医術に感嘆 することになった(白楽濬1973 : 253)。また,地方の病院や診療所の場合,

ほとんどの患者が貧者であり,孤立した民衆であったが,ほとんど無料で診療

―102 ―

(16)

が行われたため,従来は西洋の宗教であると偏見があったプロテスタントまで もが良いイメージを持つようになった(韓国基督教歴史研究所1989 : 196)。

その他,癩(16)事業も韓国連合宣教会が中心になって初めて癩患者について調査 し始め,癩患者のための病院が様々な所に設立された(イムジョンウン・イム

クウェン2003 : 65)。1885年から1913年までの代表的な医療機関は次の〈表

3〉である。

最初の婦人病院を開設した保救女館のハワード(Howard)はショワード

(Gosetta Sherwood)とともに3年間,約5,500名の貧しい婦人を治療したとし て評価されている(ナムヒス2007 : 220)。このように献身的な宣教師による 医療事業は様々な領域で良い影響を与えたといえる。たとえば,1895年7月 と8月にコレラ病が発生した際,政府はこれに対してなす術がなかった。しか し,アメリカ北長老派から派遣されたエビソン(O. R. Avison,カナダ人)は アメリカとカナダから派遣された宣教医たちを中心として政府の財政的な支援 を得て患者を治療し(金ハンオク2004 : 396),コレラの予防・消毒に関する 注意事項を一般国民に知らせ,伝染病に対する予防事業に尽くした(ナムヒス 2007 : 221)。

また,1900年初めには全羅道と慶尚道を含めて南部地方で癩病患者が発見 され,その数が約3万名に達した(申光燮1994 : 192)。そこから1904年アメ リカの北長老派から派遣されたエビン(C. H. Irvin)とヴィントン(C. C. Vin- ton)とスミス(W. E. Smith)など3名を中心として,癩病診療のために委員 会が構成されて,救癩事業が始まった。これがきっかけになって宣教部は救癩 事業に関心を持ち,肉体的な病だけではなく同時にスピリチュアルの側面も治 療するためにキリストの愛の実践に力を傾けるようになった(金インス1998 : 323〜324)。

当時,医療事業の中で革命的であったのは,韓国人の女性を育成して医療事 業に従事させたことであろう。その先導者はエニス・マガリト記念病棟のホー ル(Rossetta. S. Hall)である。彼女は彼女の通訳であった朴エステル(Esther

Kim Pak)という女性をアメリカに派遣して医学教育(17)を受けさせた。そして

近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に関する一考察

―103 ―

(17)

3 プロテスタント系の医療機関

設立年 施設名 設立場所 備 考(設立者)

1 1885 廣恵院 ソウル

Allenによって始まる。1887年南大門内の銅峴に移り,Al-

lenの代わりにHeronが担当になった。後に1894O. R.

Avisonによる運営,1900年に済衆院に改名,1909年にア

メリカ実業家のL. H. Severanceの建築基金で今日のセブ ランス病院に発展した。ここは医療と教育を兼ねる機関で あった。

2 1884 保救女館 ソウルの

周辺

メソジストのMeta Howardによって開設。最初の婦人病 院で,明聖皇后の賜名によって名付けられた。

3 1885 施病院 ソウル

南大門外

1895W. B. Scrantonによって貞洞第1病院から始まり,

1886年高宗の賜名によって改名。

4 1890 臨時診療所 仁川 聖公会のE. B. Landisにより開始。

5 1891 医療事業 釜山 H. Brownによって始まったが,健康上の問題で辞任し,

後にC. H. Irvinによって継承された。

6 1892 Boldwin Dispensary

(保救女館の分院)

ソウルの 東大門

1899年秋に東大門で本院と分院を統合。1897年に「The Lil- lian Harris Memorial Hospital」に改名。

7 1892 聖マタイ病院 駱洞

聖公会の軍医監Wilesによる設立。後に男子部はE. H. Bal- dockが,婦人部は聖ペテロ病院という名でKatherine Allen が施療したが,1904年に閉鎖された。

8 1893 記笏病院 平壤 この病院は後に北長老派のLadd病院とメソジストのHall 病院が連合して1923年平壤基督病院に発展する。

9 1893 イルシン病院 釜山 Irvinによって始まる。

10 1895 済衆病院 平壤

11 1897 廣恵女院 平壤 Rossetta. S. Hallによって始まった(女性治療病院)。

12 1898 元山救済病院 元山 南メソジスト

13 1899 ドンサン基督病院 大邱 Johnsonによって始まる。

14 1901 ミドン病院(In his

name hospital) 宣川 北長老派宣教部のSharrocksによって施薬所から始まる。

15 1903 医療事業 松都 南メソジスト宣教部のJ. B. Rossによって始まる。

16 1904 Junkin記念病院 釜山 北長老派宣教部

17 1904 イエス病院 全州 南長老派のTateHarrionIngoldによって開設。

18 1904 Paton記念病院 晋州 濠州宣教部のHugh Currellによって始まる。

19 1904 エニス・マガリト

記念病棟 平壤 Rossetta. S. Hallによって始まる。1898年には娘を病で亡

くしたHallは,不遇な児童のために子供病棟を建立した。

20 1906 医療事業 黄海

(載寧)H. C. Whitingによって始まる。

21 1907 南星病院 開城 南メソジスト宣教部

22 1908 済恵病院 咸興 カナダ長老派のR. G. GriersonF. J. MurrayBlack どが活動。

23 1909 癩病院 光州 R. M. WilsonH. W. Forsytheによって開設。後に麗水愛

養園(1925年)になる。

24 1909 桂禮知病院 江界 ミルズによって始まる。

25 1910 癩病院 釜山 濠州長老派のIrvinによって始まる。後に国立相愛園になる。

26 1912 清州診療所 清州 Nullによって始まる。

27 1913 海州救済病院 海州 アメリカのメソジスト宣教部のNortonによって始まる。

28 1913 癩病院 大邱 当時のドンサン基督病院長Fletcherによって設立。後に愛 楽園になる。

出所:ナムヒス(2007 : 221)と白楽濬(1973 : 249〜253, 345〜353)と金ミンヨン(1998 : 113〜

126)と申光燮(1994 : 194〜195)より筆者作成

―104 ―

(18)

朴エステルはジョン・ホプキンス(Johns Hopkins)大学で医学を学んで卒業 し,韓国に帰った後1911年に亡くなるまで,熱心に奉仕活動を行った。その 他にも,1906年から看護師の養成プログラムが始まっている(白楽濬1973 : 352)。

4−3 児童保護事業

韓国の児童保護事業は教育と密接な関係がある。アンダーウッド(Horace

G. Underwood)はキリスト教大学や神学校を設立したかったが,最初に設立

したのは孤児院であった(18)。梨花女学堂や培花女学堂にも同じ傾向がみられ る。それ以外の児童保護施設について次の〈表4〉に示す。

また,障害者のための社会事業も子どもの保護から始まった。ホール(Ros- setta. S. Hall)は,韓国の障害者の歴史によれば,最初の視覚障害者のための 社会事業を始めたといわれる。宣教医であった夫を亡くした彼女は一時的にア メリカに帰り, New York Point System という点字を学ぶことになった。そ して,1898年に韓国に戻ると,そのシステムを韓国語の表記法に写すことに

4 プロテスタント系児童保護施設

設立年 施設名 設立場所 備 考(設立者)

1 1892 孤児院 仁川 E. B. Landis

2 1897 児童の家 ソウル 障害者児童の為にオーストラリア長老派宣教部が設立 3 1899 孤児院 ソウル 聖公会

4 1900 孤児院 ソウル イギリス福音派

5 1903 盲人女学校 平壤

1890年アメリカのメソジスト宣教師であるホル(Ros- setta. S. Hall)の妻によって始まった(⇒1894年女1 名)。夫の死亡で帰国。後に帰ってきて1903年正進学 校内に設立⇒1915年平壤盲唖学校に認可を得る。

6 1904 盲人男学校 平壤 アメリカの北長老教宣教師であるモフェット(S. A.

Moffett)の婦人が設立 7 救済所 ソウル アメリカのメソジスト人1人他

8 1906 順安義明女学校 平壤西村セブンスデー・アドベンチスト(貧児教育事業)⇒現 在,三育学校

9 救済所 ソウル アメリカのメソジスト人のニコラス1人他 出所:アンサンフン・ジョソンウン・キルヒェンジョン(2005 : 66)と金ハンオク(2004 : 394〜

396)とナムヒス(2007 : 240)より筆者作成

近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に関する一考察

―105 ―

(19)

成功し,点字を通して視覚障害者の教育を始めた(金ハンオク2004 : 396)。

そして,1909年には盲人学校に聾唖校を開設して聴覚障害や視覚障害を持つ 子供を教え始め,親から捨てられた子供に対して愛情を込めて奉仕した(金イ ンス1998 : 326)。

4−4 その他

日清戦争や日露戦争は朝鮮をめぐるアジア強国の勢力間の新しい秩序をもた らし,19世紀末の韓国の状況は徐々に帝国主義の侵略勢力に対処するものと なっていった。そして,1904年日本との「議定書」を締結してから,1905年

「第2次日韓協約(乙巳条約)」,1910年「日韓合併」に至るまで,国家の存立 の危機を免れるための様々な活動がプロテスタント系の機関を通して活発に行 われ始めた。特に知識層であったキリスト者が中心になって民族運動(愛国・

独立・啓蒙)を導いていたが,後には徐々に民衆層も合流して推進するように なった(韓国基督教歴史研究所1989 : 259〜266)。

まず,独立協会は知識層が中心となり,国民教育と自主独立,自強革新,自 由民権を目標とした。創立メンバーのほとんどがキリスト者であり,後には団 体の性格を政治に反映させようとしたという理由で,1898年11月政府によっ て強制的に解散させられた。エプワット(Epworth)青年会は,1897年5月に 韓国の宣教会のために来たアメリカの北メソジストのジョイス(I. W. Joyce)

5 プロテスタント系機関

設立年 施設名 設立場所 備 考(設立者)

1 1894 独立協会 ソウル 徐載弼・尹致昊・李商在などが中心になって創立。

2 1896 協成会 ソウル 培材学堂内に設立。後に独立協会と合流し,万民共同 会に発展。

3 1897 エプワット(Epworth)

青年会 ソウル メソジスト宣教師G. H. Jonesを総務とし,W. A. No- ble5名を中心として委嘱した。

4 1903 皇城基督教青年会

(YMCA) ソウル

1895年頃は政治的な性格を持っているという理由で 警戒されて中断されたが,後に1903年に公式に組織 化⇒1913年朝鮮中央基督青年会に改称。

出所:閔庚培(1993 : 250〜251)と金インス(1998 : 297〜303)より筆者作成

―106 ―

(20)

監督の承認をきっかけに設立された。最初の組織は貞洞メソジスト教会の中 で,15歳から40歳未満の男性25名と女性11名で創立された。しかし,この 団体も1905年乙巳条約が締結されてから,愛国運動(独立)に尽力するよう になったため,教会団体の政治参加という理由で強制的に解散させられた。基 督教青年会(YMCA)の設立はアンダーウッドとアペンゼラーが宣教活動する ために,アメリカとカナダに資金を要求したのがきっかけである。150余名に 至る会員が集ったこの団体は,高宗が政治的な性格を持つようになることを警 戒したため,やむを得ず中断させられた。その後,YMCA 再開のための様々 な動きによって1903年に皇城(19)基督教青年会(YMCA)が公式に組織された。

これは国家の改革と開化の先頭に立った独立協会が守旧派の圧迫で解体された 後に,その精神を継承していこうとする団体であった(金インス1998 : 227〜 299)。

5 歴史的な状況による韓国のプロテスタント社会事業の特徴

近代初期における韓国のプロテスタント社会事業の特徴を一言でいうと,教 育事業と医療事業が中心となったことである。これは様々な社会事業が行われ た日本と比べて,韓国は国家の政策によってプロテスタント社会事業が限定さ れたといえる。その理由は,国王である高宗が韓国で教育と医療事業のみがで きるように勅命したからである。にもかかわらず,児童保護事業が行われた理 由は教育事業と密接な関係があり,初めて集まって来た人々が児童の方が多か ったからであろう。

また,日本と異なり民間を中心として行われた社会事業は極めて少ない。背 景事情の文脈の一つとしては,政治的な改革を望んでいた政治家と知識人たち が,列強からの独立と自主国家を建国することに心を傾けていたためといえ る。特に日本の占領によって韓国の主権が日本に奪われてから,政治家や知識 層は抗日及び独立運動において主導的に活動するようになった。そしてキリス ト者であったリーダーたちが日本の警察に逮捕される事件(20)が頻繁に起こるこ

近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に関する一考察

―107 ―

(21)

とになり,宣教師を含めたキリスト者たちが徐々に高宗に対する忠誠と愛国の 情熱を表すようになった。こうした当時の状況によって,独立運動を含めて社 会改革運動や国民啓蒙運動分野は発展したが,一方で社会事業の分野の展開は 困難な状況であったといえる。

つまり,韓国のプロテスタント社会事業は政治的,経済的,社会的な状況に よって社会事業の内容が教育と医療に限定されていたし,独立運動に始まり社 会改革運動や国民啓蒙運動として禁酒・禁煙,節制,識字運動に広がっていっ たといえる。

6 結 論

キリスト教の基本教義は,世界を創造し,支配し,特に人間を罪から救うた めに働く神が存在すると信じることである。これは神の摂理と支配,また救済 の歴史の中で,神の前で誰もが平等である人間が神を信じていく宗教である。

そして,「心を尽くし,精神を尽くし,力を尽くし,思いを尽くして,あなた の神である主を愛しなさい。また,隣人を自分のように愛しなさい」とルカに よる福音書10章27節に書かれているように,キリスト教は神に仕える心を持 って神を愛し,またこの世で私たちと一緒に住んでいる隣人を愛し,奉仕する 実践的な宗教である。

このような基本教義を理解した上で,プロテスタント社会事業について理解 する必要がある。特にキリスト教社会福祉の歴史研究において,近代初期を中 心とした研究は非常に重要である。その理由は,韓国において封建社会から近 代社会へ転換する過程の中で,プロテスタントが導入されたことと,また,近 代的な社会事業がこの時期から本格的に行われたといわれているからである。

福音の伝播のための宣教事業の一つとして宣教師によって教育事業や医療事業 が行われ,彼らの影響によって多くの人々がキリスト者になり,彼らの活動が 社会事業の礎石を築いたといえる。

プロテスタントが社会福祉に及ぼした影響についてまとめると,次のとおり

―108 ―

(22)

である。まず,近代初期に導入されたプロテスタントは神の前で誰もが平等で あるという思想によって,その当時の一般的な考え方を様々な面で変化させる ことになる。女性の場合,「男尊女卑」という考えが遍在していたために,教 育を受ける機会が十分になかった。最初に近代教育を実施するために設立され た女性教育機関でも,「男尊女卑」の思想で女性の学生募集が難しかった。ま た,貴族層の女性は家庭内では教養として様々な教育を受けていたが,家の外 で行われている近代教育に自由に参加することは難しかった。そのため,最初 に学生として集まった女性は孤児,寡,妾など疎外された階層であったといわ れている(韓国基督教歴史研究所1989 : 198)(21)。しかし,プロテスタントは 創造秩序の中で,女性の立場を徐々に男性と同じものとして,その尊厳性と対 等性を人々に理解させた。今まで認識されていなかった女性の潜在的な能力や 力量の発揮,女性の権利の確立は社会変革に大きな影響を与えたといえる。こ うして,長い儒教の影響により,人間関係は職業・性・年齢等々の序列があっ たものが,プロテスタントが入ることにより本格的に個人的平等,婦人の地位 の平等,社会的平等が重視されるようになる。一般的に無価値に思われていた 孤児や女性について価値があるということに気づくという認識の転換は,今日 の社会福祉の対象について最も深く考えさせる契機となったといえる。

次に,プロテスタントが社会福祉に及ぼした影響は今日の社会福祉運営や実 践の礎石を築いたといえる。もちろん,近代初期に行われた社会事業は,体系 的な運営や実践が行われていたとは言いにくい。特に当時の社会事業は施設運 営に必要となる知識や組織が少なく,公式な教育の基盤もなかったと考えられ る。それにもかかわらず,その当時に宣教師を中心として多くの人々が教育や 医療事業を通して献身的に奉仕し,十分にその責任を果たした意義は深い。そ してそのことが,今日の社会福祉の根幹となったといえる。

最後にプロテスタントが社会福祉に及ぼした影響は,民間機関としての教会 の役割である。最初は国王である高宗がプロテスタントの活動を教育と医療に 限定したため,教会の活動はあまり見られなかった。しかし,徐々に教会が成 立するようになり,キリスト者は貧困や疾病や苦痛の社会的な原因を発見し,

近代初期における韓国のプロテスタント社会事業に関する一考察

―109 ―

(23)

その原因を除去するために社会構造を改善して変革するべきであると認識して いた。これが近代初期の韓国における社会改良運動や啓蒙運動であり,教会を 中心とした教育がキリスト者に認識の変化をもたらしたものと考えられる。

現在,社会福祉の制度や政策は国家の責任の下で動いているが,制度や政策 から排除される人が生じるという社会問題が起こっている。この点について,

朴宗三(2000 : 28)は国家や民間社会福祉体系の力が届かない人を守る組織

として教会がソーシャル・セーフティネット(Social Safety Net)の役割を果 たすべきであると主張している。つまり,社会福祉に対して国家や民間だけに 責任があるのではなく,公共圏の中で教会の役割が必要であると考えられる。

山室はプロテスタントについて「基督教は此世の有様にあきたらぬ宗教であ る,さりとて此世を厭ひ棄て遁るゝ如き卑怯未練な宗教ではなく,却つて此の 世の中にふみ止まりて之を改革せずしては満足する能はざるものでありま す」(22)と述べている。これは,プロテスタントとは時代を導いていく責任があ るだけではなく,時代の必要に応じて改革する義務がある宗教であることを示 唆していると考えられる。韓国における近代初期のプロテスタントは,最初は 伝道のために教育や医療事業が行なわれたといっても間違いではない。しか し,これが近代的な社会事業の始まりとなり,社会的なニーズに敏感に応じて 社会改革のために様々な活動を通して主導勢力として中央に位置したといえ る。

したがって,歴史的な状況を理解した上で,プロテスタントの教義である神 を愛し,隣人を愛するために時代の必要に応じて行なう社会事業こそ,今日の キリスト教社会福祉の課題になろう。

⑴ 16世紀中,学問の研究と先賢の祭祀のために設立された教育機関。

⑵ 1884年新政府を樹立しようとする開化派によって14ヵ条の革新政綱が発表され た。内容は清国に対する事大外交の廃止,人材登用における封建的門閥制度の打 破,国民生活の救済,国王親戚の廃止と責任内閣の創設など革新的な内容であ る。しかし,この改革は3日維新で終った。

―110 ―

表 2 プロテスタント系学校 設立年 学校名 設立場所 備 考 1 1885 廣恵院(後:済衆院) ソウル 長老派・メソジスト。1899 年に医学校設立。 2 1885 培材学堂 ソウル メソジスト 3 1886 梨花学堂 ソウル メソジスト。初めは女子学党と婦女院として始まった。 4 1886 !新学校 ソウル 長老派。1886 年に孤児院から始まって,1905 年に! 信学校で改名。 5 1887 貞信女学校 ソウル 長老派 6 1894 光成学校 平壤 メソジスト 7 1894 崇徳学校 平壤 メソジ
表 3 プロテスタント系の医療機関 設立年 施設名 設立場所 備 考(設立者) 1 1885 廣恵院 ソウル Allen によって始まる。1887 年南大門内の銅峴に移り,Al-lenの代わりにHeronが担当になった。後に1894年O

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