• 検索結果がありません。

火宅の人フィールディング

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "火宅の人フィールディング"

Copied!
31
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

火宅の人フィールディング

著者 能口 盾彦

雑誌名 言語文化

巻 8

号 1

ページ 139‑168

発行年 2005‑08‑25

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007596

(2)

火宅の人フィールディング

能 口 盾 彦

「火宅」とはこの世とか現世の意で、煩悩が盛んで不安なことを炎上する 家宅に喩え、三界に平安の無い娑婆を意味する。火宅僧と言えば妻帯僧を意 味することから、途端に人間臭く感じられる仏教用語である。日本で火宅の 人と言えば、石川啄木や壇一雄然り、太宰治に野口英世の名も挙がっても可 笑しくないが、単に火の車の家政を担うとばかり決め付けられない。妻子を 抱え、浮世のしがらみに縛られながらも、自らの才能を信じ、創作活動に余 念が無いが、近代医療が及ばぬ為に病を得て、志半ばで夭折する薄幸の才人 は数知れない。幸い頑健な肉体に恵まれるも、糧を得ようにも時を得ず、己 の不運を嘆く意思軟弱な輩は少なくない。家人との永久の別離を心の糧とし、

人生の機微を嘗めれば作品に深みが加わる可能性は否定できないが、その経 済的損失は無視し難い。様々な職種を変遷すれば、自ずと多様な生き様を体 験するのは当然だろう。特に文筆業が生業として確立を見なかった18世紀中 葉 ま で の 英 国 で 、 文 人 は 本 業 を 別 と し た 。 リ チ ャ ー ド ソ ン ( S a m u e l Richardson)はロンドンの印刷業者、スターン(Laurence  Sterne)は英国国教会 の田舎牧師、スモレット(Tobias  Smollett)は外科医、デフォー(Daniel  Defoe) はメリヤス商人等で、文筆家としてのスタートはスモレットを除きいずれも 遅かった。

読者層の拡大を前に、貴族を中心としたパトロンの支援に陰りが見えた18 世紀当時の英国での文人達の暮らし向きは如何なものであったか。地縁血縁 なきロンドンへ学歴無き地方の文学青年が上京しても、貴族や政財界の大物 の知遇を得る機会など皆無に等しく、その労苦はジョンソン博士(Samuel

「言語文化」8-1:139−168ページ 2005.

同志社大学言語文化学会©能口盾彦

(3)

Johnson)を思えば凡そ察しがつくのではないか。1 自作を携え伝手を頼って 東奔西走する貧乏売文家は数知れず、同好の諸氏が集う会合に足繁く通うの も人脈を求める為で、「文学クラブ」(The  Literary  Club)等もその延長線上に あろう。2 クラブにも所属せず、門閥とも無縁なフィールディングが如何に 生き、創作活動にいそしんだのか。読者層の育成もままならず、版権が確立 されぬ時代にあって、貴族か政界の実力者の庇護無き物書きの自活、家族の 扶養が至難の業であったことは想像に難くない。世襲財産の裏付けがあれば また別な展開も考えられるが、生活の安定がゆとりを生み、後世に誇る作品 を育む可能性が無きにしもあらず。しかしながら、その潤沢さが文人墨客の 創作意欲を削ぐ弊害ともなり兼ねない。生活に追われ、志を何時しか忘れ、

創作とは全く無縁の日常生活に埋没する輩が群れる中、フィールディング (Henry Fielding)は生き、書き、そして残した。

本論は作品を通して垣間見えてくるフィールディングの生き様に焦点を当 てるが、英文学史をなぞる意図は無い。自伝的色彩の強い『リスボン渡航記』

(The Journal of a Voyage to Lisbon)が中心とならざるを得ないが、作品を読み 解くこと怠らず、評伝等を辿ることで作品脱稿に至る経緯とフィールディン グの私生活との因果関係を論証したい。リチャードソンとは異なり、フィー ルディングは豪放磊落な人物とされてきたが、その範疇では収まりきれぬ一 面を解き明かすのが本論の目指すところでもある。典拠となるのは作品分析 が無論肝要だが、伝記や書簡の類を蔑ろにするつもりは無い。多岐にわたる フィールディングの経歴をめぐり、執筆活動や家族関係、社会との絆を通し て見えてくる彼の多面性を探求しつつ、彼の人生の貸借関係を解明したい。

Ⅰ遍歴

フィールディング家はダンビー伯爵家(the  Earl  of  Denbigh)とは縁続きで、

祖父ジョンはウィリアム三世(William  III,  William  of  Orange)の宮廷牧師を勤 めるなど、軍人や聖職者を輩出する家系であった。父エドモンドは中将を機 に退役した軍人とは云え、財産の名に相当するものは無きに等しかった。

『アミーリア』(Amelia)に登場する駄目亭主ブース大尉(Captain  Booth)のモデ ルとされる自堕落な退役軍人とあれば、父に多くを望めなかった。亡くなる

(4)

数ヶ月前に第四番目の妻と所帯を持つと云った按配で、目ぼしい物は係累が 競って我が物としても不思議は無い。3 一方、高等法院の判事を務めたグー ルド(Sir  Henry  Gould)を父にもつ、母セアラは作者11歳の時に亡くなり、祖 母(Lady Sarah Gould)の支援・庇護を当てにせざるを得なかった。イートン校 から大学に進む事無く、自活の道を模索せざるを得なかったフィールディン グは、劇作家として人生のスタートを切った。

21歳にも満たぬフィールディングではあったが、1728年の2月半ば、ロン ドンのドルアリ・レイン座(Drury  Lane  Theatre)で処女戯曲『恋の種々相』

(Love in Several Masques)の上演にこぎつけた。無論、未成年の若輩者がロン ドン一流の劇場で芝居のこけら落しが出来る筈も無く、又従姉のモンタギュ ー夫人(Lady  Mary  Montagu)と当時の演劇界のボスであるシバー(Colley Cibber)の仲介の労あってのことだった。以後、父エドモンドの補助による ライデン大学遊学の一時期(1728年3月〜1729年8月)の中断はあったもの の、4 1737年6月に発布された「劇場封鎖令」(The Licensing Act)までの約七 年間、劇作家として活躍した。その間、脚本が残されていない『デボラ』

(Deborah, or A Wife for You All)を除き、二十五篇の笑劇をものしている。全 て凡庸な作と決め付けがたく、「劇場封鎖令」施行の契機となった『1736年 の歴史的記録』(The Historical Register for the Year 1736)  (1737)は政治諷刺劇 で、時の宰相ウォルポール(Robert  Walpole)を槍玉に挙げた作品として知ら れている。風習喜劇の伝統に則った数篇の作品、1730年の『作者の笑劇』

(The Author’s Farce)や、あのスウィフトも思わず笑ったという、5 1731年の

『悲劇中の悲劇、トム・サム一代記』(The Tragedy of Tragedies, or the Life and Death of Tom Thumb the Great)、さらに1736年の『落首』(Pasquin)の評価が高 い。

ではフィールディングは劇作家時代に蓄財を果たし得たか否か、当課題へ の興味は尽きない。二十五篇の劇作を世に送り出し、しかも1736年3月にヘ イマーケット(Hay  Market)に自前の「小劇場」(The  Little  Theatre)を設け、そ こで最初に上演されたのが『落首』であった。予想の範疇に入るが、自ら劇 場運営に乗り出したからと言って、財を成したとも思えない。その理由とし て、1736年の春から翌年の6月までの僅か一年半未満の短期間にすぎず、劇

(5)

作として他に『ひょろ長ディック、又の名フェイトンの難局』(Tumble- Down Dick; or, Phaeton in the Suds)  と問題となった『1736年の歴史的記録』

に加えて、『野次り倒されたエウリディケ、又の名多言は無用』(Eurydice Hiss’d; or, A Word to the Wise)は1737年2月にドルアリ・レイン座で上演され た 『 エ ウ リ デ ィ ケ 、 又 の 名 恐 妻 魔 王 』 (Eurydice Hiss’d; or, The Devil Henpeck’d)の続編で、都合四作にすぎなかった。加えて競合するライバルの 出現が挙げられる。同じ風習喜劇であるヴァンブラ(Sir  John  Vanbrugh)原作、

シバー補綴の『夫の憤慨』(The Provok’d Husband)がドルアリ・レイン劇場に て好評裏に幕を閉じ、リンカーンズ・イン・フィールズ(Lincoln’s  Inn  Fields) にあるリッチズ劇場(Rich’s  Theatre)では『乞食オペラ』(The Beggar’s Opera) が大評判を呼ぶ最中であった。イタリア・オペラに対抗してゲイによって上 演された同劇はロンドンで記録的な63晩の興行を記録し、リンカーンズ・イ ン・フィールズから1732年末には開設されたコヴェント・ガーデン(The Royal Opera House)に舞台を移して続演された。6 政治諷刺の効いた英語版イ ギリス・オペラが時流に乗らぬ筈はなく、限られた芝居見物客を集めたこと は間違いない。1728年の初演以来ロングランを呼んだ結果、『乞食オペラ』

以外の出し物は軒並み閑古鳥が鳴く状況となった。空前のブームを呼んだゲ イの作品と競合しなければ、フィールディングの作品もかなりの集客を呼ん だだろうが、正統派劇でなく笑劇(farce  ないしはburlesque)、特に『作者の笑 劇』や『悲劇中の悲劇、トム・サム一代記』が余波を受けたようだ。無論、

唯手をこまねくフィールディングではなかった。当初は『ウェイルズ・オペ ラ』(The Welsh Opera)と題された三幕劇『グラブ街オペラ』(The Grub Street

Opera)で対抗を試み、1731年に所謂 バラッド・オペラ と呼ばれる歌あり

散文会話をふんだんに取り込んで、『乞食オペラ』もどきの政治諷刺劇に仕 立てた。7『乞食オペラ』張りのウォルポールを核とした政治諷刺に加えて、

『グラブ街オペラ』では与野党の政治家のみならず、宰相と王妃(Queen Caroline)との親交振りなども織り込んだことから、上演禁止の憂き目を見た。

興行全般の成果を紐解いてみると、厚遇を受けた前述の処女作は僅か四晩 で幕を閉じ、金銭の授受に纏わる言及は見当たらない。当初、『乞食オペラ』

と競合したと考えられた『悲劇中の悲劇、トム・サム一代記』も意外に善戦

(6)

したことは、同劇開演2日目に時の皇太子一行が臨席され、急遽ピット席の 増設が計られたことからも分かる。8 さらに1733年に日の目を見た、ローマ の喜劇詩人プラウトゥス(Titus  Plautus)とフランスのモリエール(Morière,本 名Jean-Baptiste Poquelin)の作を捩った『けちん坊』(The Miser)は、フィール ディングの劇作家としての手腕が発揮された五幕喜劇で、興行的にも成功し たようだ。同年2月17日の初演後、前述の『悲劇中の悲劇、トム・サム一代 記』同様、26夜或いはそれ以上の興行が催されたと伝えられる。9 但し、当 時の興行界を牛耳っていたシバーと早々に袂を分ったことが、フィールディ ングの苦労を倍加させたようだ。脚本演出をめぐる軋轢や収益の配分をめぐ る不明瞭さが、自前の劇場でという首尾に繋がったと見て間違いなかろう。

ヘイマーケットの「小劇場」での最初の劇作、『落首』は6月22日まで四十 晩が数えられた。10 同作品はフィールディングの劇作中一、二の出来栄え で、彼が得意とする劇中劇が特色である。『落首』が評判を呼んだことから、

劇場主フィールディングが切符価格を吊り上げたところ、一晩で60ギニー以 上の増収がはかれたとか。11 だが好事魔多し。汚職政治の元凶たるウォル ポールをフィールディングが徹底的に糾弾した結果、1737年6月の「劇場封 鎖令」の発布を招いた。軌道に乗りかけた「小劇場」も経済的にさして寄与 すること無く、1737年6月には「劇場封鎖令」と共に閉鎖の憂き目を見た。

フィールディングの政治諷刺が招いた顛末との感もするが、労多くして見返 りが少ないことを、『落首』四幕一場でフィールディングお得意の劇中劇形 式で代弁させている。興味ある内容が故、英文・和文双方を次に記す。

. . .Indeed, a poet undergoes a great deal before he comes to his third night; first with the muses, who are humorous ladies, and must be attended; for if they take it into their head at any time to go abroad and leave you, you will pump your brain in vain: then, sir, with the master of a play-house to get it acted, whom you generally follow a quarter of a year before you know whether he will receive it or no; and then, perhaps, he tells you it won’t do, and returns it you again, reserving the subject, and perhaps the name, which he brings out in his next pantomime; but if he should receive the play, then you must attend again to get it writ out into parts, and rehearsed. Well, sir, at last, the rehearsals begin; then, sir, begins another scene of

(7)

trouble with the actors, some of whom don't like their parts, and all are continually plaguing you with alterations: at length, after having waded through all these difficulties, his play appears on the stage, where one man hisses out of resentment to the author; a second out of dislike to the house: a third out of dislike to the actor; a fourth out of dislike to the play; a fifth for the joke sake; a sixth to keep all the rest in company. Enemies abuse him, friends give him up, the play is damned, and the author goes to the devil: so ends the farce.(・・・実際作者というものは、上 演の三日目を迎えるまでにはずいぶん苦労するものです。第一にはミューズ の女神を相手に。この神たちは気まぐれな御婦人方だが、どうしても御機嫌 をとらないわけにはゆかない。もし先方がひょっとこちらを見捨ててどこか に行ってしまう気にでもなろうものなら、もうどんなに脳味噌をしぼって見 ても駄目です。次には劇場主に、作を上演させるまでの苦労。大概は三ヶ月 くらい後を追いかけ廻しても、一体採用してくれるのかどうかさえわかりは しない。事によると揚句の果てが、これでは駄目だと突返して来る。しかも 内

なか

と、時には外だいまで取っておいて、次の黙劇だんまりにそのまま使ったりする。

万一脚本を採用してくれるとなったらなったで、今度は又ぞろ眼を通して、

役々の書抜きをこしらえ、稽古の準備をせねばならない。やっと稽古が始ま る。今度は役者たちのとゴタゴタだ。役が気にくわんという奴が出て来る。

どいつもこいつもひっきりなしに書き直し書き直しのうるさい御請求。やっ とのことでこういう関所をいくつもくぐりぬけて、芝居が舞台にかかる。今 度は見物衆だ。作者に怨みがあって彌次る奴があるかと思うと、劇が気に くわんで彌次るのもいる。役者が気にくわんで彌次る、脚本が気にくわんで 彌次る、面白半分彌次るのもいれば、たゞおつきあいで彌次るのまでいる。

敵は罵る、味方は投げ出す、脚本は上あがったりで、作者はお陀佛、滑稽劇一幕 の終りというわけさ。)12

この諷刺劇たる『落首』が遠因の一つと想定されるが、「劇場封鎖令」施 行を実際に招いたのは1737年3月の『1736年の歴史的記録』であり、「小劇 場」で上演された。世相諷刺、劇界及び政界のその年の出来事が、劇作家本 人や批評家、庇護者たる貴族達の批評を交えて舞台稽古方式で演じられたも のだが、コルシカの政界と揶揄される英国政界の内幕暴露、収賄政治の実態

(8)

が辛辣に描かれている。その矢面が時の宰相ウォルポールに向けられている ことは明白で、その為「劇場封鎖令」が公布され、フィールディングは劇作 家のペンを折るに至った。フィールディングが「劇場封鎖令」を潮に、演劇 界と決別するかの如く法曹界に転出を果たしたのも、こうした煩雑な舞台裏 事情が在ったのかもしれない。

劇 作 家 時 代 の 1 7 3 4 年 1 1 月 に 2 7 歳 の フ ィ ー ル デ ィ ン グ は ウ ィ ル ト 州 (Wiltshire)ソールズベリー(Salisbury)在住のクラドック嬢(Charlotte  Cradock)と 結婚する。彼女こそ『トム・ジョウンズ』(Tom Jones)や『アミーリア』のヒ ロインの面影を伝える女性と考えられる。結婚前のフィールディングの行状 を伝える資料は乏しく、彼の最初の伝記作家マーフィ(Arthur  Murphy)の予断 に満ちた記述を典拠とせざるを得ないが、放蕩さと血気盛んな行動は若者ら しく、若気の至りとしてよく例に引かれるのが、従妹(おじのDavidge  Gould の妻の子)のアンドリューズ嬢(Sarah  Andrews)への恋愛感情が引き起こす誘 拐未遂事件であろう。13 フィールディング19歳、アンドリューズ嬢15歳、

時は1725年の秋、西ドーセットの田舎町で繰り広げられた。作者の面目躍如 たる青春時代を髣髴させる出来事だが、乙女に付随する資産喪失を恐れた親 戚筋の干渉で不首尾に終わる。その後の彼の破天荒な言動の裏付資料に欠ける のは救いと云えるかもしれない。マーフィにしろ後述の文法学者兼批評家であ るハリス(James  Harris)にしても、フィールディングとの交友が1740年以降と 推定される事から、14 風評、伝聞が加味された伝記と成らざるを得ない。15

『富籤』(The Lottery)や『今様亭主』(The Modern Husband)のささやかな成功 でもフィールディングには千ポンド程の実入りがあったとされることから、

放蕩生活、特に賭博で実父同様、身代をすり減らしたものと推断される。16 いずれにしても、この期に社会の断面に通じたことが後の作家としての糧と なったことは否めない。

ここではフィールディングの品行を問題とするのではなく、結婚を潮とす る彼の懐具合に目を向けたい。自前の劇場運営が軌道に乗る矢先の「劇場封 鎖令」施行は、フィールディングにとって手痛いものだったに違いないが、

1735年2月に急逝したシャロッテの母の遺産がかなりの支えとなったことは 事実のようだ。マーフィに拠ればシャロッテの相続財産は千五百ポンドを越

(9)

えるものではなかったと云う。17 世襲財産らしき物は皆無のフィールディ ングだが、バテスティンに拠ると、母方の祖父が残した田舎の農園を売却し て手にした金額は、他の五人の弟妹同様、260ポンドであったとか。実際に は祖父や父エドモンドが農園に投資した金額は数千ポンド(祖父は3000ポン ド、父エドモンドも1750ポンドを追加投資)に上ったと言われるが、18 ど うやら足元を見透かされたらしい。翻って見ても、妻の相続財産は正に干天 に慈雨の如きではなかったか。自前の劇場開設を一年後に控えたフィールデ ィングにとって金策は容易でなく、手許不如意な気分を一新する効果があっ たようだ。この時期にフィールディング夫妻はロンドンから懐かしいソールズ ベリーやバースにしばしば滞在しているが、遠出費用の出所は義母の遺産では なかったか。その他の遺産相続に関して、幼年時から親交のあったおじのジ ョージ・フィールディングが1738年8月に亡くなり、フィ−ルディング夫妻 には夫々80ポンドと60ポンドが遺贈された。19

文士稼業と遺産相続でフィールディング一家の生計は一時的に好転の兆し をみせたが、当時の生活実態と暮らし向きを比較すれば、貨幣価値の実勢が 裏付けされ、凡その見当がつくであろう。地域別、職種別のデーターを二、

三例示したい。聖職者の俸給として、アン女王治世下で一万の聖職禄の中で 年額50ポンド以下が5597を数えたのに対し、百年後には150ポンド以下が 4000になったと云う。これは18世紀を通じて地方のジェントリーが自分達の 管轄下の聖職禄を自分の次、三男達に継承させるべき財産と考えるに至った 実態を反映している。20 時代は少し下るが、ウッドフォード牧師の1790年 代の小麦粉支払代金は5ポンド7シリング6ペンスで、同じ年の肉の支払い が46ポンド5シリングに上ったとある。ウッドフォード牧師の年収は僅か四 百ポンドにすぎないが、内働きと外働きに五、六人の奉公人を抱え、親戚の 世話をかまけず、気軽に旅行に出かけ、気前良く接待したという。21 使用 人の例ではロンドンと地方の地域差を考慮せねばならぬが、屋内屋外の使用 人は住み込み食事付きで年に僅か十ポンドしか支給されなかったと云う。22 当代の諸物価の動向を示す下記のデータに拠り、生計並びに物価の変動から 当時の庶民の生活実態が分かる。

(10)

23

(11)

上記の資料を勘案すると、フィールディングの此れまでの実入りが決して 見劣りする額とは申せない。堅実な生活を送りさえすれば若干の蓄えがあっ て然るべしだが、演劇界を追われたフィールディングは如何に糊口を凌ごう としたか。未練なく、演劇界から決別するかの如く、フィールディングは法 曹界の道を選択するのであった。前述の祖父グールドや従兄弟(Henry  Gould) に叔父(David  Gould)も帰属した誼から、フィールディングは1737年11月に

「中央法学院」(Middle  Temple)に受講料四ポンドを納付して所属する。25 同 所で猛勉強の末、通常の半分ばかりの三年弱の研鑚を経て、1740年6月に晴 れてフィールディングは弁護士に登録された。鮮やかな転身と言うべきなの だが、政治諷刺で名を馳せたフィールディングに法律相談の依頼が舞い込む 筈もなく、イートン校時代の学友で外交官のウィリアムズ(Charles  Williams) 等の支援に拠り、窮状打開がはかられたと聞く。26

結局、フィールディングはジャーナリストとして再びペンをとるに至った。

彼を迎えるジャーナリズムの進捗振りは目覚しいものがあった。アン女王時 代のホイッグ及びトーリー両党の抗争は王位継承問題を核に、イギリス国教 とカトリック教の宗教問題を内包する外交問題へと進展する一方、両党の内

24

(12)

政及び外交問題は文壇を巻き込む代理戦争、書籍合戦の様相を呈した。27 ざっと挙げてみても、ハーリー(Robert  Harley)とスウィフトが関与する『エ グザミナー』(The Examiner)、デフォーの『レビュー』(The Review)、アディ ソン(Joseph  Addison)とスティール(Richard  Steele)は『タトラー』(The Tatler) や『スペクテイター』(The Spectator)を発行する一方、アディソンと袂を別 ったスティールは『ガーディアン』(The Guardian)に次いで『イングリッシ ュマン』(The Englishman)を発行する。世紀の半ば頃までには、手書きの

「手紙新聞」(ニューズ・レター)は活字印刷にすっかり取って代わられ、ジ ョージ三世の初期の頃には新聞に税が掛けられ、二、三ペンスで、二折り版 四頁の紙面となった。28 各紙の詳述は紙面の制約上避けるが、 社会啓蒙 を意図し、読者の触発を目指す執筆者の多くは、政界から何らかの見返りを 期待しつつ執筆に勤しんだ節が見られる。

ジャーナリズムの台頭を受け、新分野開拓を目論んだフィールディングは 水を得た魚のように、論客振りを発揮した。彼は生涯を通して四度新聞経営 に参画している。1739年11月から1741年6月にかけて週三回発行の新聞『チ ャンピオン』紙(The Champion)の編集執筆に関与し、経営にも参画した。次 いで1745年11月から翌年6月まで『真の愛国者』(The True Patriot)を、1747 年12月から翌年11月まで『ジャコバイト』紙(The Jacobite’s Journal)を、1752 年1月から同年11月まで『コヴェント・ガーデン』紙(The Covent-Garden

Journal)を主宰・編集した。『ジャコバイト』紙ではフィールディングはペラ

ム政府支援の論陣を張るが、 ジャコバイト とはジェイムズ二世派、スチ ュアート王朝支持者を指し、紙名とは裏腹にジャコバイトを揶揄することで、

逆説的にスチュアート王朝シンパを抱えるトーリー党29を愚弄する狙いが込 められていた。1745年11月から翌年6月まで『真の愛国者』は若僣王(the Young Pretender, Charles Edward Stuart)の叛乱を契機とし、愛国心の高揚を狙 ったものとされる。ところがこうしたジャーナルの執筆稿料は驚くほど安く、

『チャンピオン』紙の一週三回の随筆稿料は各五シリングに日曜ディナーで あったとか。30 妻子を抱え、開店休業状態の弁護士稼業に加え、副収入が 一週一ポンドにも満たないようでは妙味に欠けるが、二大政党の政策論争を 通して、次第に傑出した存在を敵味方双方から認められるようになった。売

(13)

れない弁護士の口過ぎとしてのジャーナル執筆が効を奏し、ホイッグ党のペ ラム首相支持、トーリー批判の論調が次第に認められ、与党のホイッグ党に 重宝されるようになった。こうしてペラム内閣の広報活動に携わる主任宣伝 者(chief  propagandist)として活躍した訳だが、フィールディングへの直接依 頼を裏付ける資料は見当たらない。政治家達との関係構築にフィールディン グは成功するが、その中にはニューカッスル公爵(Thomas  Pelham-Holles,  1st Duke of Newcastle)やベッドフォード公爵(John Russell, 4th Duke of Bedford)に 第4代チェスターフィールド伯爵(Philip  Dormer  Chesterfield,  4th  Earl  of Chesterfield)31やピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham=the Elder Pitt)等の幕僚 に加えて、中堅政治家ドディングトン(George  Dodington,  Baron  of  Melcombe Regis)等を数えた。彼等との仲介役を果たしたのがイートン校の学友達で、

リトルトン(George  Lyttelton,  1st  Baron  of  Lyttelton)32やウィリアムズにフォッ クス(Henry Fox, 1st Baron of Holland)等がいた。当時の政界を巻き込んだ書物 合戦、トーリーとホイッグ二大政党の政策論争が巻き起こる背景に、前宰相 ウォルポールの不戦政策がスペイン王位継承戦争やオーストリア王位継承戦 争をめぐる覇権主義、対フランス、スペインに対する欧州大陸や北米大陸で の植民地主義が凌ぎをけずり、政策論争が巻き起こったことがフィールディ ングに大きく利した事は間違い無い。劇作家としての経歴に加えて、こうし たジャーナリストとしての修練が小説執筆の習作期を形成したことは言うま でも無いだろう。

Ⅱ小説稼業

二束の草鞋ならぬジャーナリスト(当時は『チャンピオン』紙を主宰)か つ弁護士たるフィールディングが大きな転機を迎えたのは、1740年11月に二 冊本(十二折判[duodecimo])一セット、六シリングで匿名出版された『パ ミラ』(Pamela,  or  Virtue  Rewarded)の発刊であった。市井の一商人とはいえ、

ロンドンの有力印刷業者リチャードソンが作者と判明する同物語は忽ち評判 を呼んだ。説教壇からも道徳規範書として推奨される始末に、33 フィール ディングは早速、翌年4月4日に1シリング6ペニー(one-and-sixpenny)のパ ロディ版『シャミラ』(Shamela)を匿名出版してこれに抗した。34 更に1742

(14)

年2月22日には『ジョウゼフ・アンドリューズ』(Joseph Andrews)を上梓す るのであった。本論の特質上、文学史的評価等は別紙に譲り、35 フィール ディングの文筆稼業に焦点を当てたい。6シリングで売り出された『ジョウ ゼフ・アンドリューズ』の初版は千五百部が刊行され、36 原稿料は当初二 百ポンドといわれたが、実際に印刷業者ミラー(Andrew  Millar)からフィール ディングが手にしたのは183ポンド11シリングにとどまった。37 速筆を誇る 彼が同書執筆に割いた期間は数ヶ月を超えないとすれば、フィールディング にとっては効率的ではなかったか。3 8 因みに笑劇『都に出たルーシー』

(Miss Lucy in Town, a Farce)を10ポンド10シリングで、マールバラ公爵夫人に 纏わる小冊子、『マールバラ公爵夫人を全面擁護する書』(A Full Vindication of the Dutchess Dowager of Marlborough)を5ポンド5シリングで、何れもミ ラーが買い上げている。39『トム・ジョウンズ』で600ポンド、40『アミーリ ア』で800ポンドと云われているが、41 1,000ポンド説もある。42『ジョウゼ フ・アンドリューズ』の執筆料をめぐる逸話として、印刷業者ミラーの申し 出にフィールディングは思わず聞き直したとか。43『シャミラ』の執筆関与 を生前決して認める事が無かったフィールディングが稿料を公表できる筈も なく、執筆者の認定が二十世紀とあっては、真相を探る糸口は無きに等しい。

『ジョウゼフ・アンドリューズ』の版権料を巡っては、思わず真偽を確かめ ようとする受け止め方に、彼の懐具合が示唆されるのではなかろうか。

事実この頃、フィールディングは窮乏生活を強いられていた。1741年の厳 冬はフィールディングの持病である痛風を悪化させた。病をえた最愛の妻は 小康を保つも、1736年生まれの愛しい長女シャロッテは死の床にあった。結 局、愛児は薬石効無く1742年5月に夭折し、埋葬費用は5ポンド18シリング とあり、クロスは貧者にとってはかなりの出費と記している。44 この辛酸 が『親しい者を失った苦しみへの対策』(Of the Remedy of Affliction for the Loss of our Friends)や『あの世への旅』(A Journey from This World to the Next) 脱稿へと繋がったことから、転んでもただでは起きないフィールディングの 作家魂を垣間見る思いがする。しかしながら、不屈の魂の持ち主も所帯の遣 り繰り下手は覆い難く、借金に追われたことは想像に難くない。ロンドンは チェリングクロスの手狭な借家に起居するフィールディング一家に、病人が

(15)

相次いだことが家計を圧迫したことは紛れもない事実であろう。なかんずく、

治療費や処方薬代金の支払に追われたことは間違いないだろう。自作のヒロ インに面影を抱かせる妻シャロッテは暫し煩った後、1744年11月14日に肺結 核で亡くなり、45 長女の傍らに埋葬された。立派に執り行われた葬儀費用 はしめて11ポンド17シリング2ペンスに上ったという。46 薬石料、医者へ の支払い、湯治療法の為に度々バースへ帯同した諸費用が葬儀費用の比でな いことは明らかだ。1737年には次女ハリエットが生まれ、長女と妻は闘病中 の最中とあっては、印刷業者ミラーの申し出に欣喜雀躍の心境ではなかったか。

フィールディングの時代にあって、パトロンの減少と読者層の拡大に至る 間隙を埋め合わせる便法の一つとして、予約出版の形式がとられた。新聞紙 上で数次にわたって予約購読者を募って発行部数を確保することは、売文家 と印刷業者双方にとって好都合であったと見てよい。さらにリストアップさ れた著名人同士のライバル意識が部数拡大を呼ぶ相乗効果を生んだであろ う。フィールディングの交際の広さを端的に物語る『大盗ジョナサン・ワイ ルド』(Jonathan Wild the Great)を含む『雑文集』(Miscellanies)が1742年6月 に予約が募られ、最終購読者は427名を数え、翌年4月に刊行された。556セ ットの購読者リストをみると、時の皇太子の十五セットを始め、ベッドフォ ード公爵、チェスターフィールド伯やリトルトン等の政界人に加えて、法曹 界や演劇界の名士が名を連ねるのは当然としても、オーフォード伯(the  Earl of  Orford)として犬猿の仲だと考えられていた元宰相ウォルポールが十セッ トを購入したことが人目を引く。予約金総額は770ギニーに上ったのだが、

フィールディングの懐に全額入るといった代物ではない。47

1749年2月に18シリングで売り出された『トム・ジョウンズ』は好評で、

ロンドンで同年中に四版を、ダブリンでも一版が出版され、ミラーから百ポ ンドの追加支給を得たと言われる。1751年12月に一セット12シリングで発売 された『アミーリア』は初版五千部が忽ち払底し、翌年1月に再版三千部が 増刷されたが、以後十年間、版を改めることはなかった。遺作となった『リ スボン渡航記』は1755年2月25日に一部三シリングで刊行(同年1月にスト ラハン(William  Strahan)なる印刷業者が他版で二千五百部を印刷)をみたが 評判は芳しくなかった。48 だが同年11月にリスボン市を襲った大地震で旧

(16)

市街が壊滅したことから、ミラーはこの期を捉え、同年11月29日と12月2日 に「ホワイトホール・イーヴニング・ポスト」紙(The Whitehall Evening Post) にフィールディングの遺作の宣伝記事を掲載し、2シリング6ペンスで再販 本を販売した結果、初版と再版で遺族は数百ポンドの出版料を得た。49 と ころがこの金も借金返済のために充当されたとかで、弟ジョン共々大いに困 惑させられたのは、フィールディング死して借金の山を残した事による。彼 が小説家稼業で獲得した原稿料の総額は二千数百ポンドで二千五百ポンドを 超えないものと推定するのが妥当ではないか。この額が高いか低いか議論を 呼ぶところだが、版権が確立されぬ18世紀中葉にあってはさらなる分配金を 生まぬが、演劇作家の煩雑さと比べて、報われなかったとは決め難い。

貴族の傍系にして世襲財産をフィールディングが当てに出来なかった事は 前に述べたが、劇作家を口火に文筆業を生業としたフィールディングが日記 等を残さなかったことから、生活実態は書簡や伝記作家の推論に依存せざる を得ない。豪放磊落な性格から、マーフィに拠ると青年期にはかなりの放蕩 生活を送ったらしい。バテスティンもフィールディングの自堕落な生活振り を推断している。5 0『トム・ジョウンズ』の 山の男 (the  Man  of  the Hill)(VIII:  xi-xv)や『ジョウゼフ・アンドリューズ』の ウィルソン (Wilson)(III:  iii-iv)の脱線話、さらには『アミーリア』での「債務者拘留所」

(sponging  house)の迫真的描写やブース大尉の放蕩振りから、同様の思いを抱 く読者も少なくないだろう。事実、リチャードソン自身がウィルソンとフィ ールディングの近似性を指摘している。51 自己の青春時代に思いを馳せ、

友人のホガース(William  Hogarth)の『放蕩一代記』(Rake’s Progress)にヒント を得たことは、フィールディングに近しい人物が作中人物に登用されている 事実から、当然考えられる手法である。『トム・ジョウンズ』の作者献呈の 辞はトムの養父で後に伯父と判明するオールワージのモデルとされたリトル トンに当てられ、『雑文集』に収められた詩作『自由』(Liberty)も同男爵に 献じられ、52 フィールディングにとって財界人アレン(Ralph  Allen)と双璧を なすパトロンであった。53 さらに同男爵の政敵であったハーヴェイ卿(Lord Hervey)はトーリー党の有力指導者の一人で、『ジョウゼフ・アンドリューズ』

ではジョウゼフの恋人ファニーに横恋慕するダイダパー(Didapper)として揶

(17)

揄される。ジョウゼフ等の恋の成就を阻もうとするブービー夫人に、これ幸 いと嗾けしかけられるダイダパーの異常な体躯は際立ち、その脚の細さはハーヴェ イ卿を思わせたという。この他にもアダムズ牧師等の作中人物の系譜を実在 人物にたどることが出来る。54

自著のヒロイン達に面影を偲ばせる最初の妻との結婚生活(1734年11月に 結婚、1744年11月にシャロッテ逝去)は十年でピリオドが打たれ、1747年11 月に先妻の侍女ダニエル(Mary  Daniel)と再婚するが、フィールディングの不 遇は家族との別離にある。1748年2月に長男ウィリアムが誕生する。同年暮 れには三女メアリー・アミーリアが生まれるが夭折。1750年には四女ソファ イアが生まれるも1756年頃までに夭折。1752年の年末には五女ルイーザが誕 生するも翌年初めに夭折。1754年に次男アレンが誕生する。都合二男五女の 子宝に恵まれながらも、愛児は次々と夭折する悲哀をフィールディングは嘗 めた事から、心の痛手は申すまでもなく、経済的打撃は甚大なものであった と推される。病弱な妻子を抱え、自らも持病の痛風、水腫や喘息に悩まされ、

シャロッテの闘病生活も長期に渡ったことから、家計は文字通り火の車では なかったか。55 果たして、薬剤師からの請求に応じ切れず、訴訟沙汰とな った事例が最近の研究から明らかになった。56 遣り繰り上手な後妻メアリ ーとは言え、『リスボン渡航記』に明らかにされる、夫の水腫治療と称され る処方費用が如何ほどか、原始的な治療実態と共に読者の関心を呼ぶ。だが 奇妙なことに医療費の言及が一切本文に記されていない。航海中に立ち寄っ たワイト島(the  Isle  of  Wight)での民宿の請求書はパンやバターから燃料費に 至るまで細目に渡って記載される一方、57 フィールディングの治療費や、

妻メアリーが抜歯の為に「ポルトガルの女王号」(the Queen of Portugal)に呼 びつけた医療関係者への支払いが剥脱されているのは解せない。例えばロン ドンで旅立ちを前に、1754年2月にウォード医師(Mr.  Ward〔196〕)から水 腫治療と称する荒唐無稽な荒療法、即ち套管針(trochar)を用いて腹部から14 クオート(one  quart=1.136  litre)も病液を抜き取る施術を受けたとある。以後 二回目が同年5月で13クオート、第三回目が同年5月末で10クオート、四回 目が同年6月28日で「ポルトガルの女王号」の船上で10クオートを抜くとの 克明な記述が残されている。だが肝心の治療費の言及箇所が見当たらない。

(18)

『リスボン渡航記』は新たに旅行文学の領域を目指すフィールディングの紀 行文が為、極めて自伝的な色彩が強い作品と見て良い。航海中に漁師から入 手した飛び切り安い鮮魚 John  Doree,  as  it  is  called.    I  bought  one  of  at  least four pounds weight for as many shillings. . .〔262〕 の価格は明示され、貧者の 食料として安価な魚の活用を説くフィールディングに、食通と為政者の両面 を見出す事が可能だ。旅の行程での細かな出費を書き留めているのに、遥か に高額な支払いを要する事例の詳らかな記述が何故欠落するのか。旅日記で あればこそ、宿泊費や食料調達費に加えて、多額な費用を要する項目には記 載者の思いを込めて、書き記すのが自然の流れではないか。どう考えても、

言及されて然るべき高額医療費が欠落するのは腑に落ちない。転地療養に遥 遥ポルトガルへ向かう筆者一行の思わぬ出費を残らず記載して、読者にあら ぬ不安を抱かせることを危惧した等とは到底考えられぬ便法だ。現実には、

リスボンに到着後、当地の生活費が予想に反して割高で、先行きを懸念する 文がロンドンの懇意な印刷業者ミラーに届けられている。フィールディング がリスボンから手紙を書き送った人物は弟のジョン、治安判事時代の知人ウ ェルチ(Sauders  Welch)とミラーであったが、ジョン宛の三通の書簡以外は全 て紛失されている。58 従ってミラーへの書簡は失われたが、同文を通読し たバーチ(Reverend  Thomas  Birch,王立協会フェローでフィールディングと親 交を有す)がフィールディングとは親戚筋のヨーク伯爵(Hardwicke,  Philip Yorke)宛の1754年7月6日付けの書簡の中で、フィールディングの窮状に言 及していることから、リスボンでの彼の暮らし向きが窺える。59 路用の金 銭をフィールディングがかなり持参したことは、イングランド南部の陸地伝 いに寄港・停泊する度ごとに、名産品や生鮮食料品を買い揃える様子から推 断される。同行する妻と次女ハリエット以外の家族を残しての出立にして、

よもや借金を踏み倒す意は無かろうが、支払いを滞りなく済ませた上での旅 立ちであっただろうか疑念が残る。果たして多額の負債が発覚する。60 帰 らぬ旅路ならば、立つ鳥跡を濁さぬはノブレス・オブリージの根幹にかかわ る。手許不如意であればこそ、債務者にあらぬ詮索を受けぬ為、高額な支払 いを意図的に隠蔽したとは、論者の穿った解釈だろうか。

(19)

Ⅲ債務

借金のかたに身柄を拘束して負債を回収する為には、非常に効率的な制度 である「債務者拘留所」は執行吏(sheriff)或はその部下(bailiff)の管轄する家 屋で、フィールディングの時代にある意味で隆盛を極めた。現在では人権軽 視、自由拘束がもたらす非人間的処遇が問題となろう。だがフィクションの 世界では、拘留所内での人々の悲喜交々の生活振りは社会の縮図を成し、

様々な逸話、件が生まれる余地がある。18世紀英文学にあって、同所を扱っ た作品も少なくなく、デフォーの『モル・フランダーズ』(Moll Flanders)や リチャードソンの『クラリッサ』(Clarissa, or The History of a Young Lady)等 が例証される。フィールディングの大作『アミーリア』の冒頭部にも「債務 者拘留所」の場面が挿入されている。アミーリアの夫は退役後、ソールズベ リー郊外で近代的営農を志すも所詮陸に上がった河童同然。忽ち財政破綻を きたしてロンドンに出奔するが、夜陰の路上で諍いに巻き込まれ、下級役人 に小額の罰金を支払えぬ為、「債務者拘留所」に収監され、そこで馴染のミ ス・マシューと再会を果たす。鼻薬を利かせて待遇改善をはかり、何不自由 ない暮し向きの彼女の介在は、男女関係も可能な施設の実態を示唆し、物語 に格好の舞台を提供する。同所に纏わる迫真的描写から、読者は「債務者拘 留所」に作者の精通振りを訝るかもしれないが、フィールディングが実体験 を有したことから合点が行く。場末での徒花の恋に象徴される、フィールデ ィングの卑俗さに批判の矛先を向けるリチャードソンは、愛読者の一人ブラ ッドシャ(Lady  Bradshaigh)にフィールディングの実妹(Sarah  Fielding)との対 話を次の様に語っている。

. . . ‘Had your brother,’ said I, ‘been born in a stable, or been a runner at a sponging-house, we should have thought him a genius and wished he had had the advantage of a liberal education and of being admitted into good company; but it is beyond my conception that a man of family, and who had some learning, and who really is a writer, should descend so excessively low in all his pieces.’61

(20)

生活破綻が絵空事の御仁には無縁な箇所だが、フィールディング拘留を巡 る事の顛末はこうだ。債権者のアレン(Hugh  Allen)の訴えにより、1740年3 月上旬にフィールディングは「債務者拘留所」に拘禁され、6日にサザク (Southwark)の法廷に弁護士と四人の知人、縁者(長姉のキャサリン)と共に 出頭した。当初の負債額は二百ポンドであったが、他人名義が上乗せされた として28ポンド16シリングにまで減額され、諸経費を含めて35ポンド余を 1742年5月26日までに返済することで和解が成立し、3月20日に漸くフィー ルディングは解放された。62 その間実に二週間余り「債務者拘留所」に拘 束された訳だが、40ポンドに満たぬ金銭の工面にも苦慮するあたり、四面楚 歌、彼の窮状振りが察せられる。文人の常らしく、フィールディングは執筆 の口約束で、ミラーを始めとする出版業者から前金を受けたらしい。63 時 は下り1753年の大晦日にミラーから1892ポンドも借用せざるを得ない事態を 迎えた。64 さらにフィールディング兄妹にミラーが用立てた金額の詳細に 渡る記録も残されている。65 結局、この時も業者からでは足りずに、友人、

知人と手当たり次第、借金を繰り返したらしく、万策尽きての長期拘留を迎 える羽目となった。リチャードソンとも親交があった前述のハリスからも 度々寸借したらしく、66 督促状へのフィールディングが認めた返信が残っ ていることからも明らかだ。67 貸借をめぐるゴタゴタが相次いだが、フィ ールディングの「債務者拘留所」からの保釈保証人にハリスはその名を連ね ている。68 当然、リチャードソンの耳にハリスからフィールディングの情 報は入ったと考えるのが至当であろう。結局、1749年2月の『トム・ジョウ ンズ』上梓による 当たり年 (bonanza)の間、一時的に一家の暮らし向きは 好転した様だが、ミラーとの賃借関係から示唆されるように、「債務者拘留 所」に拘禁された時点以後も最晩年に至るまで、フィールディングは債務か ら免れることは決して無かった。救いは作者が残した人の輪で、物心両面の パトロンであるアレンを始めとして、遺族は各方面から支援を受けたが、69 兄の負債解消に腐心させられたのは治安判事の職を後継した盲目の弟ジョン であった。70

浮沈が避けられぬ文筆稼業ならいざしらず、収入がある程度約束され、あ

(21)

わよくば役得も期待できる治安判事職に就いての借金まみれは理解に苦し む。ジョンは遺族に自らの俸給四百ポンドから百ポンドを割愛・提供したこ とから、71 兄も同様の賃金体系に則ったと推定される。その管轄地域から 前任者たちはおよそ千ポンドの収入を得ていたらしいが、余禄、役得をフィ ールディングは潔しとしなかったものと推定される。72 ロンドン演劇界を 後にして、中央法学院で学び、1740年には法律家として登録された弁護士フ ィールディングの前途は洋々であった。だが前述した如く、忽ち開店休業す る事態にもフィールディングはジャーナリストとして愁眉を開き、筆舌で政 敵を論破する貢献振りに政界のパトロン達の覚え宜しく、1748年10月にはペ ラム政権への貢献が評価された。73 その結果、ウェストミンスター地区の、

さらに翌年1月にはミドルセックスを管轄する治安判事任用にて、その労は 報われた。では自己の猟官主義ともとれる、与党のペラム政権支持の論調と の関りを如何に弁証出来るのか。ホイッグ党の有力政治家とよしみを通じ、

為政者の一翼を担い得るこの転機が手許不如意の境遇を脱却させる好機と化 した。念願の金の成る木を手にしながら、借金地獄からの脱却を計ろうとも しないのは、家庭人フィールディングの心情にそぐわない。そうとは言え、

この自己矛盾こそ彼の高潔心の発露と捉える向きもあろう。従前の治安判事 の収賄裁判に批判的であったフィールディングではあったが、定収入が約束 された事は望外の喜びに相違ない。これもパトロンの推挙の賜物、特にベッ ドフォ−ド公爵が1745年、1748年及び1750年に控訴院裁判官(Lord Justice)に、

また1746年にはハンプシャーのニュー・フォリスト(New  Forest,  Hampshire) の首長(warden)に任じられた事が幸いした。公爵の厚意は推挙だけに止まら ない。特にミドルセックスの治安判事任用に際し、年額百ポンドの収益ある 地所をフィールディングに貸与することで、治安判事登用を可能ならしめた。74 治安判事職に関し、建前上は国王の任命だが、現実はその州のジェントリー の意向を踏まえ、州統監が指名した。名目上は公僕だが、治安判事は地方の 土着権力を代表する職分でもあった。75 大恩あるベッドフォード公爵だが、

フィールディングは格安の賃貸料すら滞らせていたらしく、彼の死後、遺族 のもとに一年30ポンドにつき、計180ポンドの請求書が届けられた。76 兄死 して借金の山を残す。ジョンは遺族の窮状を訴え、1755年5月3日に兄の借

(22)

地賃貸権を放棄する条件で、公爵からの172ポンド10シリングの賃貸料は免 除された。77

馬が合わなかったのか、早々にフィールディングが袂を別ったロンドン演 劇界の重鎮シバーが、1740年4月に自叙伝、『我が生涯の弁』(An Apology for the Life of Mr. Colley Cibber)を記し、その中で He (Fielding) knew, too, that as he is in haste to get Money, it would take up less time to be intrepidly abusive than decently  entertaining; 78とフィールディングの拝金主義を酷評した。これに対 してフィールディングは同月から翌月の『チャンピオン』紙上で敢然と反論 し、シバーの英語表現等を捉えて揶揄嘲笑した。79 この辺りは朱牟田氏が 詳しく、参照させて頂いた。80 つまり彼は金の為に筆耕したと咎められた 訳だが、これまで見てきたように、全く的外れとは云えない。シバーにして みれば、『劇場封鎖令』によって演劇界を追われはしたが、フィールディン グこそ劇界に混乱を引き起こした張本人である。舞台の袖に引っ込んだと思 った無頼漢が転身をはかり、弁護士として、またジャーナリストとして身を 立てた動静がシバーに関心を呼び覚ましたのか、それとも、その侮りがたい 才知への嫉妬が仕向けた所作かもしれない。だがこうした批判が出る背景に は、実際上はともかく、当時の文壇人に課せられた自らの文筆活動は社会啓 蒙を旨とする建て前に由来するが、稼ぐに暇無し、速筆且つ多作はフィール ディングの金欠状態の成せる業と解釈されよう。

18世紀中期のイギリスの文人達は、官職紹介や生活支援の為の金銭授与に 加え、『トリストラム・シャンディ』(Tristram Shandy)第一、第二巻の出版費 用捻出の為、スターンが百ポンドの工面を依頼した如く、81 仲介も含めた 出版支援をパトロンに期待したのも、文筆業一本で自活し得るには未だ広範 な読者層の形成が果たされていなかった為であろう。今日の著作権法のモデ ルとされる「アン女王令」は1710年に発布されたが、82 1774年までは作家 の版権は認められず、出版者が永代版権を保持するのが実態で、今日的意味 での著作権法は確立を見なかった。執筆者に増刷分が支払われる事は極稀な 上、アイルランド等で印刷される殆どが所謂海賊版であった。糊口を凌ぐ文

(23)

人達がパトロンの気を引こうと、書物合戦を通してパトロンの政敵を紙上で 糾弾・論破し、自著の巻頭に献呈の辞を差し挟む。この時期こそフィールデ ィングが文壇に登場した時節に符合し、負債の元凶とは言え、印刷業者ミラ ー等との金銭の遣り取りから、自活する文人作家の道程、 胎動 が認めら れたと云って過言ではない。

フィールディングのパトロン達はイートン閥に属した。ライデン大学に遊 学はしたが、所謂オックスブリッジの卒業生ではなかったが、ペラム内閣の 閣僚や主要ポストにイートン校時代の同級生を数えた事が幸いした。その中 にリトルトンやピットにウィリアムズ等がいた。ベッドフォード公爵との親 交や宰相ペラムとの信頼関係構築に、彼等の存在無くして望み得なかっただ ろう。『トム・ジョウンズ』の出版を前に、フィールディングはリトルトン やピット等を前に自作原稿を朗読すると、同物語の推奨役を申し出る学友達 であった。83 こうした逸話にも、交友との親交とは別にパトロンの有様が 示唆される。イートン閥の国会議員の動静がジャーナリストとしてのフィー ルディングの筆舌に少なからず影響を及ぼしているが、パトロンの支援によ って得た治安判事として、利権漁りに陥ることなく、フィールディングは職 責を全うした。

フィールディングが生涯に渡って如何ほどの収入を得たのか、これまで正 確には算定されていない。だがバテスティン等によって新たに見出された書 簡等の資料を基に、近年研究の進捗がはかられている。伝記作家達も小説家、

劇作家及び劇場支配人として、さらに弁護士として、ジャーナリストとして、

はたまた治安判事としてのフィールディングの収入全てを把握している訳で はない。だがここでは金銭や額面総額は問題ではない。彼の資産形成は確か な数字で算定され得ないが、残る疑問は借金の挙句に如何にして債務の山を 成したかである。放蕩の名に相応しく、収入以上に散財を重ねた結果が本論 の表題を生むと定めれば良いかもしれない。84 浪費癖は親父譲りで、愛情 の発露とはいえ、妻子の葬儀費用の充当に垣間見られるように、体面を重ん じる性格が災いした。地位に相応しき世襲財産を欠く上、扶養家族の多さに 加え、自身も含めて家人の病気療養費が家政を一層悪化させた。物品を購入 する際にも、『リスボン渡航記』に見られるように、グルメ嗜好で自宅用以

(24)

外に友人、知人の為と称して買いあさる。これでは執筆料が幾らあっても不 足するのは当然で、必然的帰納が多重債務を抱えることとなる。現代では

「債務者拘留所」に収監されることはないが、自己破産の危機を迎える可能 性は否定できない。フィールディングとの緊密さ振りを伝える祖先の私信を、

恥辱だとばかりに破り捨てた貴族の逸話もあるとか。愛する異国の文豪に対 し、交際次第では鼻つまみ者との評価が下される訳だ。フィールディング亡 き後、交際を誇るあのモンタギュー夫人に、自分の知己の中でフィールディ ングに並ぶ放蕩家はスティールをおいて他に無いとまで言わしめている。85 何しろあの借金まみれのスティールと並び称せられるのだから、これも火宅 の人フィールディングの名に相応しい。

1 文人とパトロンの関係でよく例に引かれるのが、ジョンソン博士とフィールデ ィングのパトロンでもあるチェスターフィールド伯に関する逸話であろう。夏目 漱石の『文学評論』に収められている訳文から、ジョンソン博士の弁を見てみよ う。 庇護者とは人の将に溺れんとする折を冷眼に看過し、漸く岸に泳ぎ付きた る折を見計らって、わざと邪魔ともなるべき援助を与へらるゝものに候や。 こ れこそ正にパトロンへの決別の辞に他ならないではないか。

参照:James  Boswell,  ed.  R.W.  Chapman, Life of Johnson(Oxford:  Oxford  University Press, 1970), 185; 夏目漱石『文学評論』(東京:岩波書店、1995年)、第15巻166頁。

2 ジョンソン博士を中心に、レイノルズ(Joshua Reynolds)、バーク(Edmund Burke)、

ゴールドスミス(Oliver  Goldsmith)等を会員として1764年に成立したクラブでギャ リック(David  Garrick)、ボズウェル、ギボン(Edward  Gibbon)、シェリダン(Richard Sheridan)等が名を連ねた文芸サークル。

クラブの歴史を簡単に紐解いてみよう。王政復古期のロンドンには小売店主を 始めとして階層を違えた人々が集うコーヒー・ハウスが千軒以上も存在したと云 われる。だがフィールディングの時代になると、コーヒー・ハウスは次第に淘汰 され、文人墨客や政界人が党派別で屯したことから、集会場も人の出入りも様変 わりした。その結果、コーヒー・ハウスに代わる集会場の一つとしてクラブが生 まれた。トーリー党員が屯する代表的クラブとして、デフォーとスウィフト (Jonathan  Swift)が通いトーリー党の領袖ハーリー(Robert  Harley)も集う「サタデ ー・クラブ」、ハーリーの宿敵ボウリングブルック(Henry  Bolingbroke)の「ブラザ

(25)

ーズ・クラブ」があり、「オクトーバー・クラブ」はセント・ジェイムズ街に近 いサッチト・ハウス・タヴァーンで開催された。対するホイッグ党のクラブとし て、「キット・キャット・クラブ」(The Kit-Cat Club, 1703年ころ創設)は有名で、

当初の有力会員はサックヴィル(Sir Charles Sackville)、さらに王立学士院前会長で 元海軍大臣ヴォーン(John Vaughan, 3rd Earl of Carbery)、著名な医師ガース(Samuel Garth)、ホイッグの有力指導者ウォートン(Thomas  Wharton)やモンタギュー (Charles  Montagu)に事務局長的存在であった印刷業者トンソン(Jacob  Tonson)等の 名が傑出している。他にシーモア(Charles  Seymour)を始めとする中堅政治家が群 れを成し、アディソンやスティールもいた。アン女王が1714年8月に亡くなり、

ジョージ一世が即位するとキット・キャット・クラブのメンバーが政権の中枢を 占めるようになり、トンソンが1718〜20年にかけてパリに出掛けて不在がちとな ったことも退潮に加速が加わった。結局、1720年頃に「キット・キャット・クラ ブ」は消滅するが、その後ホイッグ党党員が集う「カーブズ・ヘッド・クラブ」

(The  Calf's  Head  Club)等が生まれた。忘れてならないのは、1713年ごろポープ (Alexander  Pope)の提案により、三文文士を揶揄する目的で設立されたのが「スク リブレルス・クラブ」(the  Scriblerus  Club)で、リーダーはスウィフトとポープで あり、スウィフトの友人アーバスノット(John  Arbuthnot)、ポープの友人ゲイ(John Gay)、両者の共通の友人パーネル(Thomas  Parnell)、パトロンとしてのハーリーか ら構成されている。

参照:小林章夫『クラブ』(東京:駸々堂出版、1985年)、24-61;  68;  74-6;  82-5;

94-5; 240-52頁;高山宏「クラブ近代史異説」『クラブとサロン』(東京:NTT出版、

1991年)、233-41頁。

3 Harold  Pagliaro, Henry Fielding: A Literary Life(Basingstoke,  Hampshire:  Macmillan Press Ltd., 1998), 32.

4 わが国の国会議員による経歴詐称事件の記憶も新しいが、クロスやダデンは言 及していないが、近年の研究に拠ると、フィールディングはオランダに遊学する もライデン大学に在籍していなかったらしい。しかも金欠病故の借金(下宿の賃 貸料と個人教授代金)の取り立てをめぐり、大学法廷(the  University  Court)の係争 事件を体験する羽目に陥った。結局敗訴の末の和解策として、下宿先のフィール ディングの私物が没収の憂き目を見、彼は決然とライデンを後にしたとか。この 経験が『作者の笑劇』(The Author’s Farce)で、下宿の女将は三ヶ月の家賃を間借 り人(Luckless)が踏み倒して遁走せぬよう腐心した件に生かされている。

Cf.,  Martin  Battestin  with  Ruthe  Battestin, Henry Fielding: A Life(London:  Routledge, 1989), 72-3 & 634.

5 Wilbur Cross, The History of Henry Fielding(New York: Russell & Russell Inc., 1945), 1: 87.

(26)

6 Homes Dudden, Henry Fielding: His Life, Works, and Times(Oxford: Clarendon Press, 1952), 1: 37.

7 Dudden, Henry Fielding, 1: 89.

8 Cross, The History of Henry Fielding, 1: 88.

9 Cross, The History of Henry Fielding, 1: 143.

10 Cross, The History of Henry Fielding, 1: 86.

11 Cross, The History of Henry Fielding, 1: 203.

12 Henry Fielding, Pasquin, ed. Leslie stephen, “The Works of Henry Fielding”(London:

Smith, Elder, & Co., 1882), 10: 167;朱牟田夏雄『フィールディング』(東京:研究 社、1956年)、21-2頁。

13 Martin Battestin with Ruthe Battestin, Henry Fielding: A Life, 49-51; Cross, The History of Henry Fielding, 1: 50-5; Dudden, Henry Fielding, 1: 17-9. 

14 Martin Battestin with Ruthe Battestin, Henry Fielding: A Life, 362-3.

15 Martin Battestin with Ruthe Battestin, Henry Fielding: A Life, 144.

16 Donald Thomas, Henry Fielding(New York: St. Martin's Press, 1991), 103. 

17 シャーロッテの唯一の身内だが、ビタ一文も遺産分与がなされなかった妹キャ サリンは、『アミーリア』の嫉み深い姉を思わせるが、クラドック夫人の逆鱗に 触れたとの見方が支配的である。

Cf., Cross, The History of Henry Fielding, 1: 174.

18 Martin Battestin with Ruthe Battestin, Henry Fielding: A Life, 249.

19 Martin Battestin with Ruthe Battestin, Henry Fielding: A Life, 250-1.

20 George  Trevelyan, English Social History: A Survey of Six Centuries from Chaucer to Queen Victoria(London: Longman Group Ltd., 1978), 313.

21 Trevelyan, English Social History, 363 & 368.

22 Trevelyan, English Social History, 368.

23 M.  Dorothy  George, London Life in the Eighteenth Century(London:  Penguin  Books, 1966), 170.

24 D. C. Coleman, The Economy of England 1450-1750(Oxford: Oxford University Press, 1977), 112.

25 Dudden, Henry Fielding, 1: 237-8.

26 Martin Battestin with Ruthe Battestin, Henry Fielding: A Life, 391-2.

27 岩崎泰男『スウィフトの時代の政争と文学』(東京:英宝社、1982年)、8-13頁。

28 Trevelyan, English Social History, 365.

29 理神論者としてのボウリングブルックやシャフツベリー等の貴族を引き付けた。

戦後処理として、ハーリー(オクスフォード伯)は大逆罪でロンドン塔に監禁さ れ、ボウリングブルック子爵は1715年3月にブランスに亡命。咎はトーリー党に よる新教徒の利益に対する大きな裏切り行為である和平交渉、加えて王位要求者

(27)

ジェイムズ・エドワードへの陰謀的加担の嫌疑であるとされる。ボウリングブル ックは『サー・ウィリアム・ウィンダムへの書簡』(Letter to Sir William Wyndham [not published until 1753])を亡命先で執筆するが、生前出版されることなく、1723 年まで同国に留まる。機智諧謔に富んだ小冊子をものして才人に伍した御典医ア ーバスノットはアン女王死去の後、直ちに渡仏。

参照:ジョルジュ・ミノワ著、手塚リリ子、手塚喬介訳『ジョージ王朝時代のイ ギリス』(東京:白水社、2004年)、107頁;岩崎泰男『政争と文学』、153頁。

30 Martin Battestin with Ruthe Battestin, Henry Fielding: A Life, 266.

31『トム・ジョウンズ』第5巻第2章及び第13巻第12章に記される思想家シャフツ ベリー(Anthony Ashley Shaftesbury, 3rd Earl of Shaftesbury)とは王政復古後にホイッ グ党のリーダーを務めた第一代シャフツベリー伯の孫でロック(John  Locke)の弟 子だが、祖父はロックのパトロンであった。英国の17,18世紀に於いて、被庇護者 とパトロンの関係は自活と庇護・扶養の有無に帰するようだ。

32 Henry Fielding, MiscellaniesVol. 1, ed. Henry K. Miller, The Wesleyan Edition of the Works of Henry Fielding (Esher: Redwood & Burn Ltd., 1972), xiii: 36-41.

33 T.C.  Duncan  Eaves  &  Ben  Kimpel, Samuel Richardson: A Biography(Oxford:

Clarendon Press, 1971), 129; Dudden, Henry Fielding, 1: 313.

34 Dudden, Henry Fielding, 1: 315.

35 拙稿、「『シャミラ』とフィールディング」『同志社大学英語英文学研究』29(同 志社大学人文学会、1982年);拙稿、「PamelaとShamela―パロディとしての『シャ ミラ』―」『同志社大学英語英文学研究』40(同志社大学人文学会、1986年)

36 Dudden, Henry Fielding, 1: 386n.

37 Dudden, Henry Fielding, 1: 327.

38 Dudden, Henry Fielding, 1: 327.

39 Cross, The History of Henry Fielding, 1: 316.

40 G.M. Godden, Henry Fielding: A Memoir(London: Sampson Low, Marston & Co. Ltd., 1910), 182; Dudden, Henry Fielding, 2: 584.

41 Dudden, Henry Fielding, 2: 797.

42 Godden, Henry Fielding, 240.

43 Thomas, Henry Fielding, 170.

44 Cross, The History of Henry Fielding, 1: 351.

45 Pagliaro, Henry Fielding, 21.

46 Cross, The History of Henry Fielding, 2: 11.

47 Dudden, Henry Fielding, 1: 413.

48 拙稿、『諦観からの軌跡―The Journal of a Voyage to Lisbonを中心に―』『言 語文化』第7巻第4号(同志社大学言語文化学会、2005年)

参照

関連したドキュメント

Note that s may be the arclength in some particular initial configuration, but it is not the arclength in general since the fibers change length as the tube is deformed; the

All (4 × 4) rank one solutions of the Yang equation with rational vacuum curve with ordinary double point are gauge equivalent to the Cherednik solution.. The Cherednik and the

We show that a discrete fixed point theorem of Eilenberg is equivalent to the restriction of the contraction principle to the class of non-Archimedean bounded metric spaces.. We

Instead an elementary random occurrence will be denoted by the variable (though unpredictable) element x of the (now Cartesian) sample space, and a general random variable will

In [24] he used this, together with Hendriks’ theorem, so show that if the fundamental group of a PD 3 complex splits as a free product, there is a corresponding split of the complex

His approach is functorial in nature: he defines a derived stack as a functor from a category of test objects to the category of simplicial sets, satisfying some conditions

Recently, Bauke and Mertens conjectured that the local statistics of energies in random spin systems with discrete spin space should, in most circumstances, be the same as in the

[2])) and will not be repeated here. As had been mentioned there, the only feasible way in which the problem of a system of charged particles and, in particular, of ionic solutions