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先秦文献に見える動詞「有」の否定形式 : 『孟子 』および趙岐注を中心に

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(1)

先秦文献に見える動詞「有」の否定形式 : 『孟子

』および趙岐注を中心に

著者 王 周明

雑誌名 言語文化

巻 11

号 4

ページ 569‑598

発行年 2009‑03‑10

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011549

(2)

       

先秦文献に見える動詞「有」の否定形式

―『孟子』および趙岐注を中心に―

王   周 明

1. はじめに

 先秦文献においては、否定詞は種類が多様で、性質や否定対象もそれぞれ 違うために、特定の一語との結合関係を通して、全ての否定詞について観察 するのは決して容易なことではないと言える。

 様々な否定詞の中で、最も常用されるのは「無/未/非/不」の四種であ る。しかもこの四種否定詞の共通点の一つに、いずれも動詞「有」を否定で きるということがある。そしてこれらの否定詞は、「無」がそのまま「有」

の否定になる(太田辰夫1958:298、楊永龍2003:32)他、「有」との共起で それぞれ「無有/未有/非有/不有」の形式を取る。また、同時代でこの四 種否定詞全ての否定対象になることができる語は「有」のほかに殆どないと いう事実がある。このような状況に基づき、本論文では「有」の否定形式に 限定して考察することとする。

 「有」について、おおまかに言うことに過ぎないが、先ずその性質と基本 的用法を討議の前提として、概略取り上げておきたい。つまり、「有」は動 詞として非動作性(即ち静的)のものであり、その基本的用法は「存在」と

「所有」に分けることができる。

 本論は、『孟子』および後漢の趙岐の注を中心に、否定詞「無/未/非/不」

と動詞「有」の結合関係の解釈を試み、更に『論語』『左傳』『韓非子』を対 象にその結合関係を検証することによって、先秦におけるこれらの否定の一 般的性格を探求するという構成となっている。この四種の言語資料を対象に したのは以下の根拠による。先ず『孟子』の言語は、春秋末より前漢に至る

『言語文化』11-4:569-598ページ 2009.

同志社大学言語文化学会 ©王 周明

(3)

内部的に比較的均質だと思われる漢語資料であり、それに対する趙岐の注(以 下「趙注」)は、現存する『孟子』注釈の中で唯一の漢代注釈であるからで ある。こうした注と原文との対照を通して、戦国と後漢の否定形式の共通点・

相違点が観察できると思われる。次に、春秋戦国期に成立したとされる、そ の言語が時代性や地域性や文体などの要素で『孟子』と多少相違する『論語』

『左傳』『韓非子』を選び、『孟子』趙注を扱って得た結論の均質性を検証し たい。

 以上に記した各文献における「無/無有/未有/非有/不有」否定形式の 使用情況と回数は【表一】に示す通りである。

孟子 趙岐注 論語 左傳 韓非子

総数 259 286 129 1152 786

目的語 名詞性1)*1 198 237 101

1)*3 1)*3 述詞性 60 46 26

目的語無し 1 3 2

無有

総数 6 13 0 9 16

目的語 名詞性 0 6 0 6 4

述詞性 4 2 0 1 0

目的語無し 2 5 0 2 12

未有

総数 26 7 2 14 11

目的語

名詞性(代名 詞「之」1)*2)

23(9) 5(0) 2(0) 12(6) 6(1)

述詞性 2 2 0 1 3

目的語無し 1 0 0 1 2

非有

総数 2 0 0 0 10

目的語 名詞性 1 0 0 0 10

述詞性 0 0 0 0 0

目的語無し 1 0 0 0 0

不有

総数 3 1 3 12 6

目的語 名詞性 3 1 3 11 5

述詞性 0 0 0 1 1

目的語無し 0 0 0 0 0

【表一】

(4)

2. 「無」と「無有」

2.1. 『孟子』および趙注を中心とした考察

 「無/無有」の性質は、『孟子』および趙注の用例が示すように、ほぼ一致 する。

2.1.1. 「無」の性質

2.1.1.1. 名詞性成分の否定マーカー

 『孟子』では、「無」は「有」と対照される形でしばしば現れる。

  ) 民之為道也、有恆産者有恆心、無恆産者無恆心。(孟子・滕文公上  巻:頁裏)2)

[民が道徳を為す場合、一定の生活手段のある者は、一定不変の道 徳心があるが、一定の生活手段のない者は、一定不変の道徳心がな い。]

  ) 三日不食、耳無聞、目無見也。……三咽、然後耳有聞、目有見。(孟 子・滕文公下 :15表)

[三日間食うことをせず、耳には聞くことがなく、目には見ること がない。…三回飲み込んで、その後に耳には聞くことがあり、目に は見ることがある。]

 「無」と「有」、一見単純そうに見える両者の関係を、言葉で具体的に説明 しようとすると、却って簡単な問題ではない。先行研究には既に様々な試み があった。代表的な論述として、松下大三郎1930:198の「『無』は否定され た『有』である。…『有』も『無』もどちらも肯定で、…唯『有』は肯定さ れた結果を肯定し『無』は否定された結果を肯定する。『無』は材料が否定 なので形式は肯定である。意義の材料の否定は否定された結果であって、こ れから否定するのではない」という指摘、また、太田1958:298の「《無》、《有》

の否定である。つまり、《有》の概念に単純な否定概念があわさったもの」と、

太田1984:74の「『有』は動詞であるから陳述のはたらきを有する。…『有』

とは存在所有の観念に判断作用が加わったもので,『無』とは存在所有の否 定観念に判断作用が加わったものである」という指摘などがある。要するに、

「無」は「有」と意味上の反義関係となる唯一の否定動詞として認識されて

(5)

いる。

 『孟子』および趙注において、「無」が名詞性成分を否定する場合、その殆 どは例のように裸の名詞であることに特に注意しなければならない。『孟 子』の中、その比率は160/198、凡そ80%に達している。また、残りの約

20%では、例のように「者」字、「所」字及び「之」字などを用いた名

詞性構造となっている。

  )仁者無敵。(孟子・梁惠王上 裏)

[仁者は敵なし。]

○趙注:鄰國暴虐、己修仁政、則無敵矣。

[隣国は暴政である(ことに対して)、自国は仁政を修めれば、敵な しになっただろう。]

  )為不順於父母、如窮人無所歸。(孟子・萬章上 表)

[父母に愛されないため、困窮している人が身を寄せる所がないよ うなものである。]

○趙注:為不愛於父母、其為憂愁、若困窮之人無所歸往也。

[父母に愛されないため、彼は憂愁になり、困窮している人が身を 寄せる所がないようなものである。]

  ) 人悦之、好色、富貴、無足以解憂者、惟順於父母可以解憂。(孟子・

萬章上 裏)

[人に好かれることも、美女も、金持ちも、高い地位も、憂いを解 くに足りるものではない。ただ父母に愛されることだけが憂いを解 くことができる。]

  ) 由是觀之、……無辭讓之心、非人也。無是非之心、非人也。(孟子・

公孫丑上 :15表-裏)

[これによって観ると、辞譲の心を持たなければ、人間ではない。

是非を判断するの心を持たなければ、人間ではない。]

 裸の名詞にせよ、「者」字、「所」字及び「之」字などを用いた名詞性構造 にせよ、これらの[無+名詞性成分]にはいずれも量化成分(quantifier)が 伴っていない。この事実は、ものがあらゆる情況において存在しない、或い はものをあらゆる状況において所有しないということを意味すると考えられ

(6)

る。まさにこのために、「無」は名詞性成分の否定マーカーとも呼ばれるよ うになったのである。(石毓智2001:318-319)

2.1.1.2. 述詞性成分を否定する「無」

 例に既に示されたように、「無」はまた述詞性成分をも否定できる。「無+

述詞性成分」の場合でも量化成分を伴わない。

  )告子曰、性無善無不善也。(孟子・告子上 11:表)

[告子は、人の本性は善もなく不善もない、と言っている。]

○趙注:告子以為人性在化、無本善不善也。3)

[告子は、人性は如何に変化するかにあり、本来の善や不善はない、

と思っている。]

  ) 知者無不知也、當務之為急。仁者無不愛也、急親賢之為務。(孟子・

盡心 13:19表)

[智者は知らないものがないが、当面の要務を急とする。仁者は愛 さないものがないが、急いで賢者に親しむことを要務とする。]

  )王無罪歳、斯天下之民至焉也。(孟子・梁惠王上 表)

[王様は歳のせいにしないでください。こうすると天下の民衆は集 まってくるでしょう。]

○趙注:戒王無歸罪於歳、責己而改行、則天下之民皆可致也。

[年のせいにするなということを王に戒める。自分自身を責めて行 為を改めるなら、天下の民衆は皆集まって来られる。]

  10)王無異於百姓之以王為愛也。(孟子・梁惠王上 :10裏)

[王様は、百姓が王様のことを物惜しみとすることを、怪しまない でください。]

○趙注:無怪百姓之謂王愛財也。

[百姓が王様のことを物惜しみと謂うことを怪しまないでくださ い。]

 これらの例文は二つの類に分けることができる。(一)例,7,8は、行為・

性状が存在しないという意味を表す。太田1984:72, 73はこの三例と類似す る別の状況に対して、「者」や「所」を補足して名詞化させ、即ち「者」字 構造や「所」字構造として説明を行っている。また、中には、例のように

(7)

「不+述詞」の前に更に「無」が加わり、二重否定となる場合も少なくない。

(二)例, 10は「無」が勧告/禁止を表す例だが、後にこの用法の「無」が

「毋」に取って代わられた。この二例は構造上、常に主語と目的語が欠かせ ない(先行する文脈中で既存、省略されたものも含まれる)、動詞が必ず「無」

の直後に来る、という二つの特徴を有する。

 しかし、述詞性成分が事柄を表すとき、「者/所」による名詞化は必ずし も必須ではない。呂叔湘1941:94, 95と太田1958:300とも先秦漢語において、

禁止が一般的な否定からあまり区別されなかった傾向がある、ということを 認めている。更に、呂叔湘1941:95は「無」が勧告/禁止を表せるというこ とについて、「禁約之辭,逆而止之於未形,其事固猶未顯現,亦指事之類,

……以作爲變化作名物觀者也」(禁止約束を表す語であり、前もって未だ形成していない うちにその事を止めて、その事がもともと未だにはっきりと現れないので、事柄を指す類でもあり、

…変化とすることを物事の名称として考えるのである)を心理的根拠として提示してい る。

 例の「足以解憂者」は「順於父母」のような類の道徳行為、即ち抽象概 念を表す名詞性成分である。やや大胆な推測をすれば、こうした抽象概念を 表す一部の名詞性成分でできた[無+名詞性成分]は[無+述詞性成分](後 に禁止を表すようになったと思われる[無+動詞性成分]も含まれる)に転 じ、先ず行為・性状が発生しないという意味を示すようになって、そこから 更に意味上転じて「存在してはいけない」のような勧告/禁止を表せるよう になっていったのではないかと考えられる。このような発展が成立できる重 要な前提として、「無」によって否定される成分は、名詞性にせよ、述詞性 にせよ、事柄を指すという指示性を有する点において本質的には共通してい るのである。

2.1.2. 「無有」の性質

 太田1958:301、1984:140では、「無有」は音節数を整えるために使用さ れる表現であり、「有」の文法的な否定の一つで「有」とそれ以下を名詞的 なものとして否定すると考えられ、「無有」の「無」も動詞と見なされてい るようである。

  11) 人性之善也、猶水之就下也。人無有不善、水無有不下。(孟子・告

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子上 11:表)

[人性の善は水の低い方へ流れるようなものである。人間には善で ないものはなく、水には低い方へ流れないものはない。]

  12) 飲食之人無有失也、則口腹豈適爲尺寸之膚哉。(孟子・告子上  11:14裏)

[飲食を目当てとする人は(道徳仁義を)失うことがなければ、口 腹はどうして単に尺寸の膚だけのためにとどまるのだろうか。]

  13)五命曰、無曲防、無遏糴、無有封而不告。(孟子・告子下 12:10裏)

[第五条に、個人の意志で堤防を造ることがあってはならない、穀 物の輸出を禁ずることがあってはならない、人に土地を与えて、こ れを天子に報告しないことがあってはならない、と言う。]

  14) 詩云、普天之下、莫非王土、率土之濵、莫非王臣。(孟子・萬章上  裏)

[詩経に、あまねく天の下は、王の領土でないところはなく、土地 の続く限界まで、住む人は王の臣下でないものはいない、とある。]

○趙注:……遍天下循土之濵、無有非王者之臣。

[あまねく天下土地の続く限界まで、王者の臣下でないものはいな い。]

  15) ○趙注:章指言、……此聖人之軌道、無有加焉。(孟子・萬章上 : 8裏)

[この章節の主旨は、…これは聖人の軌道であり、これ以上加える ことがない、と言っている。]

  16)然而無有乎爾、則亦無有乎爾。(孟子・盡心下 14:19裏)

[それでも、(世の中の思うに、見て知っている者、聞いて知ってい る者が)いないなら、いないことにしよう。]

○趙注:然而世謂之無有、此乃天不欲使我行道也、故重言之、知天 意之審也。言則亦者、非實無有也、則亦當使爲無有也。乎爾者、嘆 而不怨之辭也。

[それでも、世の中は(見て知っている者、聞いて知っている者が)

いないと謂う。これは天が私に道を行わせるのを欲しないのである。

(9)

故に重ねて言うのは、天意をよく知っていること示すものである。

「則亦」と言うのは、実際にいないのではない。それならばもう、

いないことにするべきであるということだ。「乎爾」とは嘆くが怨 まない辞である。]

 以上の用例は、(一)述詞性目的語を導く、(二)目的語を持たないという 二つの用法が、『孟子』と趙注の「無有」において同様に存在することを示 している。但し、『孟子』のような勧告/禁止を表す「無有」(例12, 13)の 用例は、趙注には見られない。趙注の「無有」がその後に名詞性目的語をし ばしば持つという状況は、『孟子』には見られないが、その多くは『孟子』

の「無」を書き換えるときに現れたものである。

  17)從獸無厭、謂之荒。(孟子・梁惠王下 裏)

[獣を追いかける(楽しみ)に飽きることがない。これを荒れると 謂う。]

○趙注:從獸無厭、若羿之好田獵無有厭極、以亡其身、故謂之荒亂也。

[獣を追っかける(楽しみ)に飽きることがないというのは、后羿 が狩猟を好んで飽きることがなく、その身を亡ぼさせたようなもの である。故にこれを荒れて乱れていると謂う。]

  18)内無怨女、外無曠夫、……(孟子・梁惠王下 :10表)

[当時は、内においては結婚適齢期が過ぎた女もいなく、外におい ては結婚適齢期が過ぎた男もいなかった。…]

○趙注:普使一國男女無有怨曠、……

[あまねく一国の男女に結婚適齢期が過ぎるということを無くさせ た。…]

  19)無嚴諸侯、悪聲至、必反之。(孟子・公孫丑上 裏)

[(彼にとって)尊厳なる諸侯がいない。悪口を言われれば、必ずそ れに仕返す。]

○趙注:嚴、尊也。無有尊嚴諸侯可敬者也、以悪聲加己、己必悪聲 報之、……

[厳とは尊厳である。尊敬すべき尊厳な諸侯がいない。自分に悪口 が加えられるなら、必ず悪口でそれに仕返す。…]

(10)

  20)之則以爲、愛無差等、施由親始。(孟子・滕文公上 :16裏)

[わたくし(夷之)の思うに、愛には差別がないが、愛することは 親から始める。]

○趙注:之以爲當同其恩愛、無有差次等級相殊也、……

[わたくし(夷之)の思うに、その恩愛を同一にするべきであり、

順序や等級には相違がないのである。…]

 「無」から「無有」への変換は、音節数を整えて[]の四音節を作 るためのように見える。また、これらの「無」と「無有」は全て名詞性目的 語と結合し、抽象的概念の存在を表す場合に限られている。この点に限って 見れば、「無有」は、(一)「有(+目的語)」という事実として存在不可能な ことを、既に存在している事実であるように表出して、そして否定する、と いうようなルートで強調を実現する、(二)存在用法の動詞「無」と実質的 に等価であるように見える。更に、この前提が成立すれば、「無有」につい ても一般に「無」と区別せずに説明が可能になるであろうと思われる。

2.1.3. 「無」と「無有」の差異

 しかし、「無」と「無有」の違いは単に音節数だけにあるのではない。存 在用法に限られるという特徴の他に、「無有」には、目的語の性質、及び比 較対照関係を示す構文においても、「無」にない制限が存在する。つまり、「無 有」の目的語となるものは、行為・性状を示す述詞性成分(例11~15)と抽 象名詞(例17~20の趙注)に限り、いずれも抽象性を有することを特徴と している。

 その他に、比較対照関係を示す構文において、『孟子』では、(一)「有」

と対比されるのは例,2のように「無」に限られ、「無有」は全く当てはま らない。(二)数的にそれほど多くはないが、例のように主語が共通であ る場合に「無」を用い、例11のように主語が異なる場合に「無有」を用いる というような使い分けもあるようである。

2.2. 『論語』『左傳』『韓非子』についての検証 2.2.1. 「無」の性質

 『論語』『左傳』『韓非子』にも、しばしば「有/無」対照の形式が見られる。

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  21)天下有道則見、無道則隱。(論語・泰伯 :15表)

[天下に道があれば現れ、道がなければ隠れる。]

  22)小國無文德而有武功、禍莫大焉。(左傳・襄公八年 14:12裏)

[小国に学問や道徳がないのに武功があるとしたら、それより大き な禍はない。]

  23)有度難而無度易也。(韓非子・外儲説左上 11:表)

[基準がある場合は(弓矢で的を射るのが)難しい、基準がない場 合は(弓矢で的を射るのが)易しい。]

  24)志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁。(論語・衛霊公 裏)

[志士仁徳者は、生きることを求めて仁徳を害することはないが、

自分の身を犠牲にして仁徳を成し遂げることがある。]

  25) 寡君寢疾、於今三月矣。並走群望、有加而無瘳。(左傳・昭公七年  21:18表)

[我が君主は病気で寝転がって、今日まででもう三ヶ月になった。

全国各地を(医者を探しに)走り回っても皆で祈っても、(我が君 主の病気は)重くなる一方で、軽くはならない。]

  26) 平王之温恵共倹、有過成荘、無不及焉。(左傳・昭公二十七年  26:裏)

[平王の温和、賢明、恭敬及び倹約は、成王と荘王を超えるところ があっても、及ばないところがはない。]

 例21~23は「有/無+名詞性成分」の用例であり、例24~26は「有/無+

述詞性成分」の用例である。特に「有/無+述詞性成分」の三例の場合では、

太田1984:72-73の指摘のように、それぞれの状況により例24, 26に「者」、

例25に「所」を補足して解することが可能である。但し、自指(self-designation)

機能を有すれば、「者」を補足する必要がないという前提で、例24~26に仮 定で新たに加えた「者/所」は、述詞性成分を名詞化させる一方、その転指

(transferred-designation)機能によって、述詞性成分に対応する主語(例24, 26)もしくは目的語(例25)をも補足することとなる。

 勧告/禁止を表す「無+述詞性成分」の場合、述詞性成分に目的語などを 補足する可能性も考えられる(例27「無使滋蔓」→※「無使之滋蔓」)が、

(12)

実際にその必要はない。こうした述詞性成分は、指示性を持ち、述語として 働くときの陳述性を持たないと考えられるからである(朱德煕1983:

16-17)。

  27) 姜氏何厭之有、不如早為之所、無使滋蔓。(左傳・隠公元年 : 2裏)

[姜氏は貪欲の切りがないので、彼女を早くどこかへ安置したほう がいい、(彼女の貪欲を)蔓延させるな。]

2.2.2. 「無有」の性質

 趙注と同様に、『論語』の注においても「無」を「無有」へ書き換えた例 が認められる。

  28)子曰、有教無類。(論語・衛靈公 裏)

[先生は、(人間の善悪は)教育によるものがあるが、(生まれつきの)

分類はない、とおっしゃっている。]

○魏・何晏集解:馬曰、言人所在見教、無有種類也。

[馬融は、(有教無類)というのは人間の善悪は教育によるものであ るから、(生まれつきの)善悪の種類はない、と言っている。]

 『左傳』『韓非子』においては、『孟子』とはやや異なった傾向も認められる。

つまり、例29のような「無有+述詞性成分」の用例は存在はしているが、僅 かにしかない。

  29)苟有位於朝、無有不共恪。(左傳・昭公十六年 23:13裏)

[仮に朝廷において高い地位を有することとなれば、慎み深くなら なくてはならない。]

 更に、「無有+名詞性成分」の用例がやや多いことにも注意せねばならない。

こうした用例を通して見ると、本章に取り上げた四種の文献に見られる春秋 戦国の「無有」の用法で、主流となっていたのは「無有+名詞性成分」のよ うである。但し、比較対照関係を示す構文に「無/無有」を使用する傾向は、

『孟子』以外の文献においては見当たらないようである。

3. 「未有」

3.1. 「未」の基本的用法

(13)

 「未」は已然に対する否定、即ち未然4)を表す否定副詞という基本的用法 を有する。

  30) 不仁而得國者、有之矣。不仁而得天下、未之有也。(孟子・盡心下  14:表)

[不仁であるのに国を得るものはあったが、不仁であるのに天下を 得たものは未だにいないのである。]

 この点は「未/已」の対照用例にも反映されている。

  31) 未有天下而無以天下為者、許由是也。已有天下而無以天下為者、堯 舜是也。(韓非子・忠孝 20:裏)

[未だ天下を有しないうちから、天下を何とも思わないものは、許 由がそれである。既に天下を有しているのに、天下を何とも思わな いものは、尭舜がそれである。]

 「未」は時間範疇という特徴を有するとよく言われる(太田1958:300)。

つまり、「未」による否定は、発話時又は事象時を参照時とし、出来事範囲 もしくは発話者の認知経験範囲に限って行なわれる。

3.2. 「未有」の『孟子』と趙注においての一致とズレ

 趙注は『孟子』の「未有」に対して、原文の「未有」をそのまま用いて説 明した場合が多いが、時には例32, 33のように名詞化のマークを更に加えた ものもある。

  32)未有盛於孔子也。(孟子・公孫丑上 :11表)

[未だに孔子より徳の盛んなものはいない。]

○趙注:未有盛美過於孔子者也。

[未だに孔子より徳の盛んかつ美しい者はいない。]

  33)若於齊、則未有處也。(孟子・公孫丑下 裏)

[斉国においてのように、未だに(道義において贈呈を受け取る)

正当な名目がなかった。]

○趙注:我在齊時無事於義、未有所處也。

[私は斉国にいたときに何事もなく、道義において未だに(贈呈を 受け取る)正当な名目がなかった。]

(14)

  34) 樂以天下、憂以天下。然而不王者、未之有也。(孟子・梁惠王下 : 6表)

[楽しむのも天下の人々と共にし、憂えるのも天下の人々と共にす る。こうしても王者にならない者は、未だにいないのである。]

○趙注:言古賢君樂則以己之樂與天下同之、憂則以天下之憂與己共 之。如是、未有不王者。孟子以是答王者。言雖有此樂、未能與人共之。

[古代の賢君は、楽しむなら自分の楽しみを天下の人々と共にし、

憂えるなら、天下の人々の憂いを自分と共にする。このようにして 王者にならない者は未だにいない、と言っている。孟子はこれで王 に答えをしたのは、このような楽しみがあると言っても、人々と共 にすることが未だにできないと言っているのである。]

  35) 五月居廬、未有命戒。百官族人可謂曰知。(孟子・滕文公上 : 4表)

[葬式の前五ヶ月間は、仮小屋の廬に居て、未だに命令や教戒は一 切なかった。百官や一族の人々は認可し、世子は礼を知ると謂った。]

○趙注:諸侯五月而葬。未葬、居倚廬於中門之内也。未有命戒、居 喪不言也。異姓同姓之臣可謂曰、知世子之能行禮也。

[亡くなった諸侯は五ヶ月を経てから葬られる。未だに葬られない 以前に、中門の内側に造った廬に身を寄せた。未だに命令や教戒は 一切なかったというのは、喪に服して話をしなかったのである。異 姓同姓の臣下は認可し、世子がよく礼を行うことを承知している、

と謂った。]

 意味深いのは、『孟子』と趙注の用例は例外なく、文末語気助詞「也、焉」

などと「未有」の話題全体における位置とのかなり緊密な関連性を示してい る。つまり、「未有」構造は、文末語気助詞「也、焉」と共起すると、常に ある話題の終結部に位置している(例32, 33)。一方、「也、焉」が付かない 場合では、「未有」構造は常に句としてある話題の中間部に位置し、同一話 題がその後に必ず続く。例えば、例34の趙注は近称代名詞「是」によって、

同一話題が最後まで貫かれる。例35の原文は言うまでもないが、趙注は原文 の該当節に対する説明という形で一つの話題を作ったものである。

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 その他に、趙注が『孟子』の「未有」を「無」に書き換えた例もある。

  36) 未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也。(孟子・梁惠王上 : 2表)

[仁であるのにその親を捨てる者は未だにいない。義であるのにそ の君を後にする者は未だにいない。]

○趙注:人無行仁而遺棄其親、行義而忽後其君者。

[人間には、仁を行うのにその親を捨てたり、義を行うのにその君 を軽視して後にしたりする者はいない。]

  37) 王語暴以好樂、暴未有以對也。曰、好樂何如。(孟子・梁惠王下 : 1表)

[王はわたくし(荘暴)に音楽が好きだと話し掛けられたが、わた くしは未だに答えにする言葉がなかった。そして音楽を好まれると いうことはどうでしょうか、と伺った。]

○趙注:荘暴…不能決知之、故無以對而問曰、王好樂何如。

[荘暴はそれを確実に知ることができないので、答えにする言葉が なかった。そして王が音楽を好まれるということはどうでしょうか、

と伺った。]

 この二例は必ずしも「未有」が「無」に等しいことを意味していない。時 間範疇のことを別にすれば、少なくとも例36, 37の趙注には「也」が出現し ないことは、文末語気助詞「也」と「無」との共起関係が「未有」の場合ほ ど緊密でない傾向を示している。

3.3. 「未嘗」5)と等価になる「未」

 「未有」には、上述の用法と異なるもう一つの用法がある。それは「未嘗有」、

つまり「ある種の行為は以前から今まで全く存在しない」という、現代語で

「従来没有」として扱えると思われる「未有」である。上に挙げた例36と下

の例38~41はこうした「未有」の用例である。

  38) 子曰、君子而不仁者有矣夫、未有小人而仁者也。(論語・憲問 : 13表)

[君子であるのに不仁である者はあったかもしれないが、小人であ

(16)

るのに仁である者は未だにいない。]

  39)人未有自致也者、必也親喪乎。(論語・子張 10:表)

[人間には自らその真情を尽くす者は未だにいない、必ずそのよう になるのは親が亡くなるときだろう。]

  40) 鄭皇戌使如晉師曰、鄭之從楚、社稷之故也、未有貳心。(左傳・宣 公十二年 11:表)

[鄭の皇戌は使者を派遣して晋の軍隊に行かせ、我が鄭国が楚国に 従うのは国のためなので、貴国に対して二心を決して持っていない、

と伝えた。]

  41) 人莫不欲富貴全壽、而未有能免於貧賤死夭之禍也。(韓非子・解老  表)

[人間には富貴や長寿を欲しがらないものはいないが、貧賎や横死 のわざわいを免れられるものは未だいない。]

 一方、上の例37や次の二例においては、明らかに「未有」を「未嘗有」と 解釈し難い。

  42) 而鞏伯實來、未有職司於王室、又奸先王之禮。余雖欲於鞏伯、其敢 廢舊典以忝叔父。(左傳・成公二年 12:表)

[鞏伯は本当に来たが、彼は未だに王室に職務を有していないし、

また先王の礼をも裏切った。(だから)わたくしは鞏伯に接見した いと思うが、どうして敢えて旧典を破って叔父に恥をかかせるもの か。]

  43) 昭侯曰、……吾必待有功者、故收藏之未有予也。(韓非子・内儲説 上 表)

[昭侯は言った、…吾は必ず功有る者を待つ。だからはかまをしまっ て未だ(誰にも)与えていないのだ、と。]

 「未有」を「未嘗有」と解釈できる例36, 38~41の場合は、事態が総括性(即 ち非特定性、任意性)をもつ、「有」が存在用法に限る、後に実現する可能 性のあることに全く触れない、という三つの特徴がある。事態が発話時にお いても妥当であるため、発話時が「未有」の参照時になる。しかし、文中の

「未有」を「未嘗有」と解釈できない例37, 42, 43の場合は、事件が特定、即

(17)

ち起きる時間と場所が限定された一回限りであるという点と、後に「有」が 実現する可能性を含むという点において共通する。例37, 42は、当該の出来 事が発話時まで全く及んでいないため、事象時が否定の参照時になる。例43 は目前の出来事に対する昭侯の発話である。この例において、事象時と発話 時は重なっているが、出来事は発話の前提である。

 こうした例36~43から見れば、「未」は「未嘗」と等価になるには、事態 の総括性と「有」の存在用法という二つの前提が必要且つ十分条件である。

そこで、「未有」が「未嘗有」と等価になる「未有」、とそれ以外の「未有」 に分けることができるだろう。

4. 「非有」

4.1. 「非」を用いる否定文の特徴

 否定判断詞「非」は形容詞「是」の否定から転じてきたとする説(太田 1958:191, 299)があるが、両者の密接な関係は、形容詞としても命題否定 に用いられても明らかである。

  44) 前日之不受是、則今日之受非也。今日之受是、則前日之不受非也。(孟 子・公孫丑下 表)

[先日の(贈呈を)受け取らなかったことが正しいとすれば、今日 の受け取ったことは正しくない。今日の受け取ったことが正しいと すれば、先日の受け取らなかったことは正しくない。]

  45) 故王之不王、非挾太山以超北海之類也。王之不王、是折枝之類也。(孟 子・梁惠王上 :12表)

[だから王様の王者にならないことは、泰山を脇の下に挟んで北海 を超えることの類ではない。王様の王者にならないことは、四肢を 屈して簡単なお礼をすることの類なのである。]

 単純判断文は命題の真偽性から言えば、「非」に否定される命題が偽であ るのに対して、多くの場合は対比性のある真命題が当該の文中、または当該 の文の直前や直後に来る。例45は、真命題「折枝之類」が偽命題「挾太山以 超北海之類」に後続するものである。「非」だけを用いる単純判断文はその 形式と違い、意味上むしろ句となり、常に真命題部分までを一単位と見なす

(18)

必要がある。

 更に、単純判断文においての「非」による否定にとって、否定スコープ(可 能な否定の範囲)と否定焦点(実際の否定の対象)6)とは相当に異なるもの である。常識を前提とする情況以外、単純判断文一文のみで「非」の否定ス コープは指摘できるものの、否定焦点の確定には真命題部分が常に重要な役 割を果たす。例45はまさに両者の違いを証明できるものである―「非」の 否定スコープは「挾太山以超北海之類」だが、否定焦点は「類」の修飾語「挾 太山以超北海」だけになる。

 また、「非」を通して二重否定或いは反語という形式で真命題が表される ものもある。これらの場合では、「非」に否定される命題は真である。二重 否定或いは反語を取るのはこの真命題を更に強調するために過ぎない。

  46)莫非命也、順受其正。(孟子・盡心上 13:裏)

[天命でないものはない。(だから天から与えられる)その正命を素 直に受け入れる。]

 命題否定の他に、副次的用法として、「非」は仮定としての否定にも用い られる。しかもこの仮定的否定を含む文の後半では、常に他の否定詞が呼応 し、「是非そうでなくてはならぬ」というニュアンスを表す。

  47)民非水火不生活。(孟子・盡心上 13:10表)

[民は水と火がなければ、生活できない。]

4.2. 『孟子』における「非有」の特徴

 「非有」の用例は『孟子』だけのもので、趙注にはない。二つの用例は共 に命題否定のものであり、真命題が偽命題「有(+目的語)」に先行している。

  48) 五霸、假之也。久假而不歸、惡知其非有也。(孟子・盡心上 13:

12表-裏)

[五覇は、それを借りたのである。久しく借りて帰さないと、どう してそれが(彼らに)存在するのでないことが分かろうか。]

○趙注:安知其不真有也。

[どうしてそれは(彼らに)存在するのは当でないことが分かろう か。]

(19)

  49)彼長而我長之、非有長於我也。(孟子・告子上 11:表)

[あの人が年長者なので、私はあの人を尊敬する。年長というもの は私に決められるわけではない。]

○趙注:見彼人年長大、故我長敬之、長大者非在於我也。

[あの人が年長であることを目にしたので、私はあの人を尊敬する。

年長というものは私に決められるわけではない。]

 例48において、『孟子』の「非有」は趙注で「不真有」に書き換えられ、「有」

のことが偽であると言う。「非」の否定スコープと否定焦点は偶々共に裸の

「有」になる。例49は、「有長於我」が「非」の否定スコープに包含され、同 時に「非」の否定焦点にもなる。ここでも「非」の否定スコープと否定焦点 は一致する。

 「無」は動詞か副詞かに関わらず、「有」のみがその否定対象となる。「未」

も動詞だけを否定対象とする。要するに、「無/無有/未有」の場合では、「無/

未」について、如何なる文脈においても、「有」はその否定スコープ及び焦 点の唯一の選択肢である。一方、例48, 49のように、否定スコープと否定焦 点が必ず一致するが、否定スコープと否定焦点になるのは「有」だけとは限 らない。これは命題否定である「非有」の特徴として注意するべきものかも しれない。

4.3. 『韓非子』の「非有」―命題否定と仮定否定

 『論語』『左傳』には「非有」の用例が全くないため、『韓非子』だけを挙 げる。

  50) 人臣之於其君、非有骨肉之親也、縛於勢而不得不事也。(韓非子・備 内 表)

[臣下はその君主に対して、骨肉の親しみがあるわけではなく、権 勢に縛られて仕えざるを得ないのである。]

  51)嬰兒非有知也、待父母而學者也。(韓非子・外儲説左上 11:11表)

[赤ん坊は智恵を有するのではなく、父母によって学ぶ者である。]

  52) 故群臣之言外事者、非有分於從衡之黨、則有仇讎之忠、而借力於國 也。(韓非子・五蠹 19:裏)

(20)

[故に群臣のうち外交を論じる者は、合縦か連衡かの派別に加入し ているか、又は仇敵の心配があって他国より力を借りるか、どちら かなのである。]

 『韓非子』では、九例の「非有」7)の中で、例52だけが仮定否定に用いられ、

他は全部命題否定である。しかも、命題否定であるにせよ、仮定否定である にせよ、「非」の否定スコープはじだが、否定焦点の様相はかなり異なって いる。命題否定の例50, 51は、『孟子』の例48, 49と同様に、「非」の否定焦点 は否定スコープと一致し、「有」だけでなく、「有」の目的語まで及んでいる。

一方、仮定否定の例52では「非」の否定スコープが「有」とその目的語まで 及んでいるのに対し、否定焦点のほうは「有」を排除し、「有」の目的語だ けになっている。しかも形式の上で、「非有」と呼応するものは、他の否定 詞ではなく、「則有」という言い方である。

 つけ加えれば、「非有」を用いた命題否定の文の形式は単純判断文に限り、

二重否定文や反語文は存在しない。真命題は、『孟子』の例48, 49では、「非有」

句の直前、『韓非子』の例50, 51では、「非有」を含む文の直後、というよう に必ず「非有(+目的語)」に伴って現れる。そこで、「有(+目的語)」が 偽命題を表すことは文脈の前後関係によって明らかになる。

5. 「不有」

5.1. 「不有」の意味に関する先行研究

 今日まで、「不有」に関する研究は、主に意味解釈の面から論じたものが 多いようである。時代的に比較的早い例として、清の劉淇『助字辨略』巻三 は、「有」の条に「不有」を挙げ、「若無、不敢、豈無」の三つの釈義を与え た(175頁)。呂叔湘1941:102は「或表反詰,義同豈無;或表假設,義同若無」、

楊伯峻1956:13-15は「不以為有、不能得有/保有/享有」などの説明を加 えた。これ以外に、馬建忠は『馬氏文通』において、「不有」が文頭に現れ る傾向、「若無」という意味との対応関係に着目していた。8)

 近年では張敏2002:597の「其中的“不”不是跟“有”結合表存在否定,

而是跟後面的動賓短語結合,……實際上是對整個謂語的否定,句子的含義是

“假如不是這種情況…”“不是這種情況嗎?”」(その中の「不」は「有」と結合して

(21)

存在の否定を表すのではなく、後の述賓フレーズと結合するのであり、…実際は述語部分全体に 対する否定であり、文の意味は「仮にこの種の状況でなければ…」「この種の状況ではないか」で ある)という指摘もある。

5.2. 『孟子』および趙注における「不有」―事態の不可能を示す

 『孟子』の「有天下」と「不有天下」に対して、趙注は「得」を加え、「得 有天下」と「不得有天下」と解しているが、「不有」をそのまま用いた個所 もある。

  53) 匹夫而有天下者、德必若舜禹、而又有天子薦之者。故仲尼不有天下。

繼世以有天下、天之所廢、必若桀紂者也。故益、伊尹、周公不有天 下。……周公之不有天下、猶益之於夏、伊尹之於殷也。(孟子・萬 章上 9:11裏-12裏)

[匹夫であるのに天下を有する者は、その徳が必ず舜禹のようであ り、また天子の推薦を有する者である。故に孔子は天下を有するこ とができない。親から世を継承して天下を有するが、天によってや めさせられるのは、必ず桀紂のような者である。故に益、伊尹、周 公は天下を有することができない。……周公の天下を有することが できないのは、益の夏においてのことと、伊尹の殷においてのこと のようなものである。]

○趙注:仲尼無天子之薦、故不得有天下。繼世之君、雖無仲尼之德、

襲父之位、非匹夫故得有天下也。益値啓之賢、伊尹値大甲能改過、

周公値成王有德、不遭桀紂、故以匹夫而不有天下。

[孔子は天子の推薦がない故に、天下を有することができない。親 から世を継承する君は、孔子の徳がなくても、父親の王位を継承し、

匹夫ではない故に、天下を有することができる。益は啓の賢明に逢 い、伊尹は大甲が過ちをよく改めることに逢い、周公は成王が有徳 であることに逢い、桀紂に遭わない故に、匹夫として天下を有する ことができない。]

 「仲尼(孔子)/益/伊尹/周公」らの人物は例えに過ぎない。趙注によ ると、動作者である彼らは内在的要因(=彼ら自身の「徳」)によって「天下」

(22)

を自らのものにすることも可能であった。それにも関わらず、外界からの機 会がなかった(=「仲尼無天子之薦、……益値啓之賢、伊尹値大甲能改過、

周公値成王有德、……」)ため、実際に事実としては「天下」を手に入れる ことができなかったのである。

 以上の「不有」は、所有用法に限られ、仲尼らの情況のいずれかに当たる 事象時において、「有」の事態へ変化する可能性が潜在していると考えられる。

これによって、文全体は実際に結果がどうなったかではなく、ある特定の条 件を備えればその変化が実現できる、という推定(動作者主語に対する話者 の主観的な否定の判断)を示すことに重点を置くと認めなければならない。

5.3. 『論語』『左傳』『韓非子』における「不有」の使い分け

 他文献においての「不有」は、『孟子』趙注に類似するものもあれば、『孟 子』趙注にないものもある。先行研究の意味解釈を、文法面においての特徴 と合わせて考えてみると、三つの類型に分けることができる。

5.3.1. 事態の不可能を示す「不有」

 趙注に類似する解釈は『左傳』の注釈にも見られる。

  54) 衛石共子卒、悼子不哀。孔成子曰、是謂蹙其本、必不有其宗。(左傳・

襄公十九年 16:10表)

[衛国の石共子は亡くなったが、(息子の)悼子は悲しまない。孔成 子は、この態度はその一族のもとを動揺させるということを意味し、

きっとその宗族を保有できない、と言っている。]

○唐・孔穎達疏:己人皆不愛、必將喪家、知其不能保有宗嗣也。

[自分も他人も誰も惜しまず、きっと間違いなく家を亡ぼす。彼は 宗族子孫を保有できないことが分かる。]

 「不有」に対して、上の例53とここの例54との解釈の共通点は、「不」と「有」

の間に現代語の助動詞にあたるものを入れることである。『孟子』および趙 注の「不有」と同様に、『左傳』の例54の「不有」も、目的語を持つ所有用 法に限られ、文全体は実際の結果ではなく、動作者主語に対する話者の推測

(判断)を表している。

5.3.2. 意動用法9)の「不以…為有」

(23)

 この種の表現は、本章に取り上げた四種の文献の中、『左傳』のみに存在 する。動詞の意動用法はそもそも稀だと言わざるを得ないにも関わらず、以 下の例55, 56はまさにその少ない例だと認めるべきである。

  55) 君若不有寡君、雖朝夕辱於敝邑、寡君猜焉。(左傳・昭公三年  20:17裏-18表)

○楊伯峻注:不有寡君謂心無寡君。

[君はもし心に我が君主がなければ、毎日我が国に居られるにして も、我が君主は猜疑されるだろう。]

  56)若不獲扞外役、是不有寡君也。(左傳・昭公二十年 24:裏)

[もしも外回りを務めなければ、これは心には我が君主がないこと である。]

 楊伯峻1956:13, 14によれば、「不有寡君」は軽視の意を包含し、主観性の 強い否定を表すという。存在用法であるこの二例の「不有」は、それぞれ文 における位置が異なる(例55では条件節にある、例56では帰結節にある)に もかかわらず、共に寡君が実在するという事実に反する仮設(presupposition)、

つまり動作者の主観的な否定を表し、文全体が仮定複文の形式を取っている。

5.3.3. 反語文、仮定文や二重否定文に用いられる「不有」

5.3.3.1. 文としての特徴

 Ⅰ. 反語文(例57, 58)の「不有」が「豈無」と、仮定文(例59~63)の「不 有」が「若無」と、呂叔湘1941:102によって釈義されている。

  57)不有博奕者乎。(論語・陽貨 :10表)

[双六と囲碁というものがあるのではないか。]

  58)以君之靈、不有寧也。(左傳・僖公二十八年 表)

[お陰様で、安寧になっているのではないか。]

○晋・杜預注:不以病、故自安寧。

[病気を持たない。だから当然安寧である。]

  59)不有廢也、君何以興。(左傳・僖公十年 :13表)

[前任の君主をやめさせることがあったのでなければ、君はどうし てお立ちになることができたでしょう。]

  60) 不有居者、誰守社稷。不有行者、誰扞牧圉。(左傳・僖公二十八年

(24)

 裏)

[留守の者がいるのでなければ、誰が社稷を守るか。供えに行く者 がいるのでなければ、誰が國を守るか。]

  61)不有君子、其能國乎。(左傳・文公十二年 裏)

[君子がいるのでなければ、國が國になれるものか。]

  62) 不有祝鮀之佞而有宋朝之美、難乎免於今之世矣。(論語・雍也 : 15裏)

[祝鮀のような弁舌者がいるのでなく、宋朝のような美貌者だけが いるとしたら、今日の世間を免れることが難しくなるなあ。]

  63) 今留無術以規上、使其主去兩用一、是不有西河、鄢、郢之憂、則必 有身死減食之患。(韓非子・難一 15:表)

[今は無能者を残して君主を正す、その君主に両者の併用をやめて 一人を任用させると、もし西河、鄢、郢のような心配があるのでな ければ、必ず殺されるか飢えて苦しむかのわずらいがある。]

 例57~63の中、例57~61と例62, 63との情況が異なる。

 例57~61、(一)形式上、疑問形式を取っているのは反語文だけでなく、

仮定文も複文全体がそうなっている。反語副詞や仮定接続詞を必要としない。

その代わりに疑問語気詞「乎/也」或いは疑問代名詞「何/誰」と共起して いる。このような関係は換言すれば、「不有」に以上の特徴的な字(語)の いずれかが加わり、はじめて反語文や仮定文が成立するようになることを意 味するのではないかと考える。(二)意味上、述べている仮定の内容はいず れも既成の事実に相反するものである。

 一方例62, 63は、形式上「不有」を含む句自体は並列複文(例62)と選択 複文(例63)からなり、仮定の内容は既成の事実に相反するものでなく、現 在・未来の情勢に対する予測である。この二点は例57~61に全く見られない。

 Ⅱ. 二重否定文の「不有」において、最もよく見られるのは「莫不有…」

という形式(例64)か、或いは「無…不有/未必不有…」(例65, 66)である。

  64) 賢者識其大者、不賢者識其小者、莫不有文武之道焉。(論語・子張  10:裏)

[賢者はその大きいほうを知り、賢者でないものはその小さいほう

(25)

を知り、どちらも文武の道を有しないものはない。]

  65)楚自昭王即位、無歳不有呉師。(左傳・定公四年 27:裏)

[楚国は昭王が即位してから、呉の軍のない年がない。]

  66) 救小未必能存、而交大未必不有疏、有疏則爲強國制矣。(韓非子・

五蠹 19:表)

[小国を救うことによって必ずしも生き残ることができない。そし て大国と交際するによって必ずしも粗忽がないとは限らない。粗忽 があれば強国に支配されることになったのである。]

5.3.3.2. 「非有」との差異

 例58~66の「不有」は、現代語では「不是有」により表されるとされた(太

田1958:301)。すると、意味的に「不有」が「非有」に通じることとなる。

しかし、両者の関係は単純に類似するに止まらない。

 先ず【表二】から、後になると共に「不是有」に取って代わられた「不有」

と「非有」は、二重否定文、反語文、及び疑問形式の仮定否定文において、

相補分布の関係を有することが明らかとなる。

【表二】

 更に、一見共通のように見て取られる所でも「不有」と「非有」は再び微 妙に異なっている。例えば、例52「非有」も、例63の「不有」も選択複文の 前節の仮定否定に用いられる。しかし、「非有」を含む文は「非甲則乙」に 属し、「(実際には)甲か乙かどちらかだ」という意味、つまり既成の事実を 表す。「不有」を含む文は意味上「(実際には)」を有せず、「もし甲がなけれ ば、必ず乙になる」を語る。つまり事実上の状況ではなく、未来の可能性を 予測するものである。

 要するに、如何なる場合でも「不有」と「非有」とは対立している。こう した関係に基づき、「不有」は「非有」を補完するという役割を果たしてい

区別 否定形式

命題否定 疑問形式の仮定否定 単純判断文 反語文、二重否定文

非有 + ― ―

不有 ― + +

(26)

ると言うべきだろう。

5.4. 「不有」の共通点と例外

 以上の特徴の他に、「不有」はいずれも必ず目的語と結び付く、意味上「仮 定」と共起する、という点において共通する。

 一般に、「不有」は単純判断文には用いられないと言われるが、例48の『孟 子』の「非有」に対する趙注は例外である。形容詞「真」の挿入がその理由 であると考えたい。「真」は命題の真偽性を示す。「不」の否定対象を「真」

に変えることによって、「不」と「有」との直接的な結合関係が破られ、「不 有」においての目的語との共起関係も無くなった。そこで、「不真有」はは じめて単純判断を示し、目的語を持たなくなったのだろう。

6. おわりに

6.1. 『孟子』における「有」の否定形式の普遍性、及び文献による相違点  以上、「無/無有/未有/非有/不有」について、『孟子』および趙注、『論 語』『左傳』『韓非子』を対象に考察してきた。楊伯峻、何樂士1992:323- 332は先秦時期において、否定詞の用法は相互にはっきりとした区別がなかっ たと指摘している。但し、少なくとも「有」との関係において、「無/未/非/

不」はそれぞれ特徴を有し、他のものには代替できない役割を確実に果たし ていることが認められよう。

 『孟子』に見られる動詞「有」の否定形式、その多くはある意味で、古典 漢語の均質性の部分を代表すると言っていい。しかし、全ての状況を反映で きるとは言えない。例えば、「非有」の用法はやや時代の離れた趙注に現れ ない、『孟子』以外の三種の文献では「無有+名詞性成分」が「無有」の用 法の主流となっている、また『孟子』の「不有」には意動用法及び「非有」

と相補分布の関係を持つ反語文などの用法がない、などの相違点が認められ る。

6.2. 「有」の否定形式に見られる否定成分の一般性格

 「有」に関係する二重否定の用例(例, 11, 14, 29, 64, 65, 66)は以上の各

(27)

文献の中に分散している。そこで、二重否定においての分布上の違いによっ て、各否定成分の性格の相違点と共通点を改めて比較によって確認できる。

分布状況は次の通りである。

【表三】

 内側の中心部分が(一)VP/Aになる場合では、「不」を用い、話者があ る事態や性状を主観的に否定する。(二)NPになる場合では、a)「非」を用い、

現実の中で存在している物事の真偽性を判明する。b)「不有」を用い、重点 を現実の中で存在するという点に置かず(たとえ例65のように物事が事実で あるとしても)に話者の主観的な予測を表す。一方、外側の「無/無有」は 物事をありのままに叙述するもので、話者の主観的な否定を示さない。そこ で、外側の他の否定成分「莫/未必」と併せて考えてみると、二重否定にお ける否定成分はいずれも時間範疇という特徴を有しないことが明らかにな る。「未」が二重否定に入らないのは恐らくこの条件を満たしていないから だろう。

 同一構文においての共起、又は類似している構文においての同一分布は相 互間に共通点が存在することを証明できるが、「無/非/不」は、「有」の反 義語としての「無」が主観性を明確に反映しない、「非」が主観性を示しな がらも客観事実という角度を重んじる、「不」が主観性を明確に示すという 点によって、それぞれ独自の否定意味を持ち、否定機能を果たしている。

6.3. 「有」の否定形式に見られる「有」の性格

 以上のような否定形式を有している中で、動詞「有」が存在の用法なのか、

それとも所有の用法なのかについては、区別ははっきりしている。しかし、

二重 否定

外側

否定成分 無 無有 莫 未必

NP - + - - -

内側

否定成分 不 不 非 不 非 不

NP/VP/A10) V VP(=

有NP) A VP NP VP(=

有NP) NP 有NP

用例 例

例65 例11 例29 例

14 例64 例

14 例66

(28)

「無/未/非/不」の四種の否定詞の「有」に対する否定は、「有」がどちら の用法であるかに関わらず、全て「有」の事態としての存在を拒否する否定 である。特に「有」が「不」と共起する場合では、現代語の立場で言うと、「不 有」はどうしても一般の「不V」のように「~しない」の意味にならないため、

成立できないはずだった。しかし、先秦期の「不有」は可能や意動や仮定な どの要素が必要に応じて新たに加わったことによって成立できた。こちらの 要素は「有」自体には絶対含まれないが、複合的傾向があった先秦期の「不」

にとっては主観性の否定という性質を保ちながら、受容可能のものである。

 つまり、否定の性格それぞれの否定詞と共起する中では、「有」は一定不 変の性格を持つ。それは即ち、動詞「有」は物事の存在或いは所有状況を静 態として客観的に示すだけで、陳述する内容は話者や陳述される対象の主観 的な意志を直接かつ明確に反映していない。それ故に、後世になって、否定 詞との共起に変化が起こっても、その原因は「有」にあるのではなく、むし ろ変化しつつあった否定詞自身にあると考えるべきだろう。

付記 修正にあたり、査読委員の先生方より貴重なコメントを頂きましたこ とに、心より感謝申し上げます。

〈注〉

1) *1 名詞性:代名詞と名詞、及び名詞性構造(例えば、窮人無所歸」)。述詞性:

例えば、「無有不善」。

  *2 「未有」は代名詞「之」を目的語にする場合では「未之有」の形式を取り、

その数を内数で示す。「無有/非有/不有」の場合はいずれも「之」を目的 語にしない。

  *3 『左傳』『韓非子』での「無」の目的語の情況については、現在の所詳しく調 査していない。

2) 以下各章節の諸例、「巻:頁」を省略する。

3)「不善」と対照した形になっているため、「善」が名詞ではないことは明らかで ある。

4) 本文の「已然/未然」については陳平1988,420参照。

(29)

5) 周國正2000:14参照:「未嘗」意即某類事件・事態・行為的任一次都没有發生過。

6) 工藤真由美2000:130参照。

7)『韓非子』における「非有」の他の用例(本文には取り上げていない):則法術 之士欲干上者、非有所信愛之親、習故之澤也。(孤憤)/夫姦臣得乘信幸之勢以毀 譽進退群臣者、人主非有術數以御之也、非參驗以審之也、必將以曩之合己信今之言、

此幸臣之所以得欺主成私者也。(姦劫弑臣)/夫君臣非有骨肉之親、正直之道可 以得利、則臣盡力以事主。(姦劫弑臣)/君臣之相與也、非有父子之親也。(姦劫 弑臣)/夫妻者、非有骨肉之恩也。愛則親、不愛則疏。(備内)/管仲曰、此非 有國之恥也、公胡其不雪之以政。(難二)

8) 呂叔湘、王海棻1986:181参照。

9) 1960年代の馬漢麟『馬漢麟古代漢語講義』(2004年版:94)の「所謂意動用法

……就是它表示当事人主観上認為賓語所表示的事物具有某一種性質状態,或者成 為某種事物。―在古代漢語裏,形容詞和名詞都可以有意動用法,……」(意動用 法というのは、当事者が主観的に目的語に示される事物はある種の性質状態を有する、或いはある 種の事物になると思うということを示す用法である。―古代漢語の中で、形容詞と名詞とも意動 用法を持つことができる。)

10) NP:名詞性成分;VP:動詞性成分;A:形容詞

〈テキスト〉

孟子(清内府蔵宋刊本):四部叢刊

論語(長沙葉氏蔵日本覆刻古卷子本):四部叢刊 左傳(玉田蒋氏蔵宋本):四部叢刊

韓非子(黄蕘圃校宋本):四部叢刊

〈参考文献〉

工藤真由美2000「否定の表現」,金水敏ほか『日本語の文法 時・否定と取り立て』,

岩波書店2001年。93-150頁。

太田辰夫1958『中国語歴史文法』,東京:江南書院。

太田辰夫1984『古典中國語文法(改訂版)』,東京:汲古書院。

松下大三郎1930.『標準漢文法』, 東京:中文館書店。

陳平1988「論現代漢語時間系統的三元結構」,『中国語文』第期:401-422頁。

呂叔湘1941「論『毋』與『勿』」,『漢語語法論文集(増訂本)』(北京:商務印書館 1984年)所収:73-102頁。

王瑛1992「“不”的否定意義」,『語言教学與研究』第期:61-70頁。

(30)

楊伯峻1956「從上古漢語幾組同義詞的考察試探在詞彙方面古今分合現象的規律」,『楊 伯峻學術論文集』(長沙:岳麓書社1984年)所収:9-44頁。

楊永龍2003「句尾語気詞“嗎”的語法化過程」,『語言科學』(科學出版社)期:

29-38頁。

張敏2002「上古、中古漢語及現代南方方言裡的“否定―存在演化圏”」,記念李方 桂先生誕辰一百周年漢語史國際學術研討會(予稿集;Univ. of Washington):571- 616頁。

周國正2000「古漢語否定詞中的標記性對比」,『中文學刊』(香港中文大學)期:

1-16頁。

朱德熙1983「自指和轉指」,『方言』第期:16-31頁。

呂叔湘、王海棻編1986『馬氏文通讀本』,上海教育出版社。

馬漢麟1960年代『馬漢麟古代漢語講義』,天津古籍出版社2004年。

石毓智2001『肯定和否定的對稱與不對稱(増訂本)』。北京語言文化大學出版社。

石毓智、李訥2001『漢語語法化的歴程』。北京大學出版社。

楊伯峻、何樂士1992.『古漢語語法及其發展』,北京:語文出版社。

楊伯峻1984『孟子譯注』,中華書局。

楊伯峻1983『春秋左傳注』(第版),中華書局。

要約

キーワード:『孟子』 趙岐注 有 否定形式 分布 否定意味

 本文以《孟子》及其趙歧注爲中心,輔以《論語》《左傳》《韓非子》,對否 定詞“無/未/非/不”與動詞“有”的結合關係進行了分析解釋。

 “無/無有/未有/非有/不有”見於《孟子》的以下特點在春秋末年至西 漢的諸文獻裏頗具代表性:“無/無有”否定指示性成分,而後者的使用受到 多方限制;“未”以時間範疇爲特徵,可有條件地與“未嘗”等價;“非有”多 用於命題否定,其否定焦點十分特殊;“不有”可表示事態的不可能。但例如“無 有+名詞性成分”是“無有”的主流,“不有”另有意動、與“非有”互補兩種 用法等等,都沒能在《孟子》中得到反映。而上述否定成分在與“有”相關的 雙重否定中的分佈差異,正是它們否定意義各不相同的具現。

(31)

On the Negative Forms of Verb “You(有)” in Pre-Han Texts:

Focusing on Mengzi(

孟子

) and the Commentary of Zhao Qi(趙岐) Zhouming W

ANG

Keywords: Mengzi(孟子),Zhao Qi(趙岐)’s Commentary,“You(有)”,

the negative forms,distribution,the meaning of negation

参照

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