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発酵食の記号論 ― 微生物/身体 ・ 生体/アイデン ティティの詩学

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発酵食の記号論 ― 微生物/身体 ・ 生体/アイデン ティティの詩学

著者 松木 啓子

雑誌名 言語文化

巻 6

号 4

ページ 589‑614

発行年 2004‑03‑10

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004625

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発酵食の記号論

― 微生物 / 身体・生体 / アイデンティティの詩学 ―

松 木 啓 子

発酵は人類の食品加工史上、いちばん重要な作用だ。パン、酒類、漬 物類、納豆、味噌、醤油、ヨーグルト、乳酸飲料やチーズなどの乳加 工品、塩辛類などがそれにあたる。みんな偶然の機会においしくなる ことが見いだされて、長い人間の歴史の中で改良が重ねられて今のよ うな形になった。

『食の文化史』(大塚 1975:151-152)

例えば、今ここに一本の牛乳があって、これを栓を抜いて数日間放置 したとする。当然、この牛乳は空気中から侵入してきた腐敗菌によっ て汚染され、猛烈な悪臭が立ち、そこにはその腐敗菌の造った毒性物 質がふくまれることになる。これを飲めば嘔吐や下痢が引き起こされ、

人間にとっては有益どころか有害となるのだから、これは「発酵」で はなく「腐敗」(「有機物、特にタンパク質が最近によって分解され、

有害な物質と悪臭ある気体を生ずる変化」『広辞苑』)である。

『発酵食品礼賛』(小泉 1999:9)

「発酵」とは何でしょう。簡単にいってしまうと、目に見えない微生 物の働きです。微生物は善玉菌と悪玉菌の2つに大別でき、善玉菌が 人間のためにいいことをしてくれることを発酵といっています。

『驚異の発酵食パワー』(永山 2002:1)

「言語文化」6-4:589−614ページ 2004.

同志社大学言語文化学会©松木啓子

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1.はじめに

本稿の目的は、発酵食の記号論的考察である。発酵の加工技術は世界に広 く分布しており、冒頭の大塚(1975)からの抜粋にもあるように、我々の食生 活で日常的に馴れ親しんでいるものの多くが「発酵食」として分類される。

しかし、今日、それは改めて「礼賛」に値するものであり、「驚異」の対象 となる「パワー」を潜めたものとして語られる。本稿では、「健康食」とし て語られる「発酵食」に焦点をあててみたい。社会的、文化的コンテクスト の中で語られる発酵や発酵食をめぐるディスコース―主に、一般大衆向けの 料理本や健康雑誌のディスコース―を見ることによって、それらの語られ方 の詩学的側面を論じる。1 中でも、「微生物」と「身体」をめぐるメタファ ー(metaphor)やメトニミー(metonymy)の働きと意味を考察する。2 特に、臓器 としての「腸」の新しい象徴性の問題に注目したい。

「発酵」は意味で溢れる。もともと食品についていたり、空気中にいる微 生物が発酵を促す。そして、発酵される食物がある。ある一定の時間を経て、

乳は「ヨーグルト」に変わり、大豆は「納豆」に変容する。ブドウは「ワイ ン」に変わり、米は「酒」に姿を変える。その食物はもともとどこで採れた ものなのか、どこで育ったものなのか。発酵を促す微生物はもともとどこに いたのか。また、食品が腐敗せずに、発酵するためには、微生物はどんな行 動を取るのか。つまり、専門家向けのディスコースにも、一般向けのディス コースにおいても、「発酵」は、特定の場所や時間、そして、出来事から成 る物語りとなる。「悪玉」や「善玉」の例に見るように、微生物は擬人化さ れ、発酵という物語りの主役として、または、わき役として語られる。本稿 の仮説は次の通りである。こうした物語りを通して構築される「発酵食」が、

新たに「健康食」として語られる時、「発酵」を取り巻く意味と「健康」を 取り巻く社会的、文化的意味が錯綜し、ある詩的言語がその新しい意味の創 造において特定の役割を果たすのではないか。本稿の巨視的な目標としては、

こうした創造的意味を、ポスト近代の科学知―中でも、免疫学とその<身体/

生体>観―との関連で捉えることである。

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2. 「健康食」としての発酵食を取り巻く社会的コンテクスト

発酵技術は我々の生活に欠かせない。小泉によれば、発酵産業全体の総生 産額から見る時、我々が日常親しんでいる発酵食品―乳製品、納豆、味噌、

醤油、酒類等―に相当する生産額は全体の20%に過ぎず、残りの80%は医薬 品や化学工業品を始めとした様々な領域のものだという(小泉 1999:10- 11)。こうした事実を考える時、「健康食」としての発酵食は、全体のシェア の尚更わずかな部分しか占めないということになる。それでも、健康情報番 組や雑誌のメディアを中心に、「健康食」としての発酵食をめぐるディスコ ースは、科学工業品の発酵技術をめぐるディスコースよりも我々には馴染深い。

前後するが、ある食品を「健康食」と呼ぶ基準は何であろうか。本稿では、

日常的なディスコースやメディアのディスコースの中で、「健康」や「から だ」によい食品として語られているのかどうかという漠然とした基準を採用 したい。以下で述べるが、「健康」の概念がイデオロギーであるように、「健 康食」や「健康食品」もある社会的、文化的コンテクストの中で創造される ものである。こうしたアプローチを取るのならば、「客観的な基準に基づい て、Xは『健康』によい食品であるから、『健康食』である」という研究者 側の一方的な命題は成り立たない。ある人にとっては、チョコレートは媚薬 のメタファーで語られるような嗜好品であっても、「健康」によいとされる ポリフェノール成分の摂取を目的に食べる人にとっては、それは「健康食」

であろう。例えば、瀬川はこうした「健康食品」のカテゴリーの曖昧性を論 じつつ、彼自身は4つのタイプ―(1)自然成分食品、(2)成分強化食品、

(3)(医薬類似)自然成分食品、(4)(医薬類似)成分強化食品―に分類し ている。瀬川の基準によれば、所謂「からだによいとされる日常のたべもの」

は、(1)の「自然成分食品」ということになる(瀬川 2002:5)。その意味 では、本稿で論じる「ヨーグルト」は「自然成分食品」ということになるで あろう。

ここでは、こうした「健康食」が礼賛される今日の社会的状況―本稿が扱 う発酵食をめぐるディスコースが現れる状況―とは一体どんな状況なのかを 押さえておく必要がある。現代の日本社会で展開されている「健康」をめぐ

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るディスコースとイデオロギーを論じながら、柄本は、日本の公衆衛生の歴 史において、「生活習慣病」ということばが現れた1996年を象徴的な年と指 摘している(柄本 2002,  2003)。少子化・高齢化という社会構造や疾病構造 の変化が健康対策の転換を促し、「生活習慣病」が誕生したのである。柄本 は、この行政用語の誕生と共に、新しい国民像、そして、あるべき「主体」

像が生れたことを指摘する。社会構造の変化は医療コスト削減の必要性を生 み出し、病の「早期発見」でなく、発病自体を「予防」するという「一次予 防」が唱えられるようになっていく中で、コストのかからない「主体」、即 ち、日常の生活習慣の中で積極的に自己をコントロールしながら、「病」に かからないようにする自立した「主体」を生産する政策の必要性を生み出し たという。

(つまり)帰結としての発症を認めるよりも先に、その発症を 回避することを目標にするこの政策の転換は、私たちの健康観 に大きな変革をうながそうとしている。いわば主体的に生活習 慣の改善に取り込む主体を生産するものといえるだろう。現に この生活習慣病という言説は、私たちのまさにその生活習慣の なかに急速に浸透し、主体的に取り組まなければならないと意 識化されはじめてきている(柄本 2002:23)。

「生活習慣病」はカテゴリーであって、その中にいくつかの具体的な疾病 が存在する。厚生大臣の諮問機関である公衆衛生審議会成人病対策部会が決 めたところによると、「生活習慣病」として見なされる疾病には、高血圧、

肥満、糖尿病、高脂血、循環器病(動脈硬化症、心筋梗塞、脳卒中などを含 む)、大腸がん、肺がん(偏平上皮がん)などがある(香川 2000)。こうし た下位カテゴリーを包摂する「生活習慣病」はひとつの概念領域を形成し、

ソンタグが、Illness as Metaphorの中で論じた「癌」や「結核」をめぐるメ タファーのように、私達の思考と行動に大きく影響を与えることになる (Sontag  1978)。例えば、かつての「成人病」における「病」とは、成人、つ まり、「大人」になるにつれて向かい合わなければならない「病」であった

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のに対して、「生活習慣病」における「病」とは、生活習慣が悪ければなら ざるを得ない「病」であり、主体として自己コントロールできなければなら ざるを得ない「病」である。その病因は、「正しくない」生活習慣である。

しかし、生活習慣さえ「正しい」ものであれば、その「病」はやってこない。

それは、前者の「病」が「人生」や「必然」のメタファーを生み出すのに対 し、後者は自己の「コントロール」と「選択」のメタファーを生み出す。そ して、食習慣も「生活習慣」の一部であることを考える時、「健康」のため に―「病」にならないために―「健康食」を食べるという行為をめぐるディ スコースは、自己コントロールのできる「主体」としてのアイデンティティ をめぐるディスコースとなる。3

食物を体の中に取り込むことは生物学的な行為であると同時に、記号的な 行為である。つまり、あるものを「食べる」ということは、その食べ物をめ ぐる意味を「身体化」(embodiment)させていくプロセスでもある。ラプトン は、「食べる」ことの意味を社会学的に論じながら、何を食べるのか、どの ように食べるのか、という問題が様々な価値観―社会的、道徳的、審美的価 値観など―とアイデンティティの問題に連動していることを論じる(Lupton 1999)。ラプトンの研究は現代のオーストラリア人を対象としたものである が、その議論が呈示する課題は、今日の後期資本主義社会に生きる多くの 人々の「食べる」ことの意味を説明するのではないだろうか。特に、「健康 食」のイデオロギー性を論じながら、アイデンティティの問題を、今日の先 進諸国における「健康」をめぐるイデオロギーと「食べる」という日常的行 為めぐる自己コントロールとの関連で捉えるラプトンの議論は、本論にとっ て極めて示唆的である。

3. 「健康食」としての発酵食をめぐるメタファーとメトニミー

田中(2003)は、近代日本の公衆衛生をめぐる制度的装置―政策、教育、

メディア等の装置―や消費をめぐる社会構造の変化の過程で、「健康」の概 念がどのように構築されてきたかを論じる(cf.柄本 2002,  2003;  野村他 2003)。「健康」や「病」はディスコースを通して構築されるのであり、それ は政治学的な課題である。その意味では、「健康食」にも同じことが言える。

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少子化・高齢化や疾病を取り巻く社会的状況の中で、「健康食」としての発 酵食もこうした社会的コンテクストと相互作用しながら語られるのである。

本稿では、その語られ方の詩学的側面に焦点を絞りたい。中でも、メタファ ーとメトニミーに注目したい。

レイコフとジョンソンが唱えたように、メタファーは文学の領域だけのも のではなく、我々の日常的な様々な言い回しと意味を支える(Lakoff  and Johnson  1980)。彼らの認知主義的視点によれば、我々の思考のプロセスその ものが、メタファーなしではあり得ないことになる。つまり、メタファーは 偏在的であり、慣習的である。それは、詩的であり、日常的である。レイコ フとジョンソンは、こうしたメタファーを「概念的メタファー」(conceptual metaphor)と呼び、<AはBである>という形で表わす。この場合、より抽 象的な概念の領域A―「目標領域」(target  domain)―は、より基本的でわ かりやすい概念の領域B―「根源領域」(source  domain)―と対応関係を結ぶ のである。例えば、<発酵は戦いである>というメタファーを例として考え てみよう。ここでは、「発酵」という目標領域が、「戦い」という根源領域と 繋げられており、前者(「発酵」)は、より具体的な後者(「戦い」)をめぐる 意味を通して理解されるのである。冒頭の永山(2002)からの抜粋にもあるよ うに、「善玉菌」と「悪玉菌」をめぐるディスコースを可能にするのは、こ うした「戦い」としての「発酵」の概念的枠組み(つまり、<発酵は戦いで ある>というメタファーを通したものの見方)である。そして、「戦い」を めぐる一連の知識の中には、「善対悪」や「勝利」、「敗北」、「生」や「死」

などの様々な派生的概念が複合的に存在するために、「発酵」の語られ方は 詩的な拡がりを潜在的に持つのである。レイコフとジョンソンは、こうした ひとつのメタファーから新たなメタファーが連鎖的に生み出されていく作用 を「含意」(entailment)と呼び、日常言語における創造的、詩的側面を体系的 に説明しようとした。本稿では、「発酵食」をめぐるディスコースにおける 主要なメタファーやそうしたメタファーと含意関係(entailment relationships)

でつながるメタファーを見ることから始めたい。

一方、本稿では、詩的言語としてのメトニミーの重要性にも注目したい。

メタファーと同じように、メトニミーも我々の日常言語に広く浸透している。

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メタファーが異なる概念領域の類似性に基づくものであるのに対して、メト ニミーの場合は、同一の概念領域の中で起こるものである。大堀も指摘する ように、この点がメタファーとの大きな違いである(大堀 2002:76)。4 メ トニミーは、同一のカテゴリーにおける「部分」と「全体」との近接関係に 基づく。例えば、瀬戸は、「部分」と「全体」との関係を総合的な隣接関係

(物理的、空間的隣接関係)として捉え直すことによって、より具体的なメ トニミーの種類を論じているが、中でも、興味深いのは「外」と「内」の隣 接関係、つまり、境界をめぐる議論である。瀬戸によれば、我々は、メトニ ミーを通して、「外」によって「内」を理解するのであり、特に、「外」に対 する「内」の同定はメトニミーに依らざるを得ない。こうしたメトニミーの 意味作用は、何を究極的に「内」とするのかがわかりにくい場合においてこ そ重要となるという(瀬戸 1986:45)。5 以下で見る「腸」の概念化と理解 も例外ではない。我々が「腸」と言う時、厳密には「腸」のどの部分を指す のだろうか。「腸」は解剖学的には「腸管」であるが、「管」そのものを指す のだろうか。「管」の外側だろうか。それとも、「管」の内側を指すのだろう か。その場合は、「内側」のどの部分だろうか。「管」の内壁であろうか。空 洞部分であろうか。また、「腸管」は極めて長い内臓器とされているが、最 初から終わりまでの空洞部分を指すのだろうか。例えば、「腸をきれいにす る」という表現における「腸」は、「腸が痛い」における「腸」と同じよう に概念化されてはいない。後者では、「腸」は漠然とした臓器全体であるが、

前者の「腸」は腸管の内部を指す。要するに、「外」から捉える「腸」と、

「内」としての「腸」の境界線は実は極めて抽象的であり、その解釈は主観 的でもある。しかしながら、その曖昧な境界線にもかかわらず、「腸」をめ ぐるディスコースの意味を我々が理解できるのは―或いは、「理解できてい る」と認識するのは―「外」と「内」の隣接関係に基づくメトニミーが作用 しているからである。4.2.で論じる<腸は菌の戦場である>というメタ ファーが登場すると、「腸」は腸管の内側であり、「空間」としてより具体的 に概念化されることになる。つまり、メタファーとメトニミーは複雑に絡み 合いながら、我々の思考のプロセスを支えているのである。

ところで、すべての発酵食が「健康食」と見なされるわけではないことは

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既に述べた。また、「健康食」は、勿論、発酵食だけではないことも記して おく必要があるだろう。本稿が「健康食としての発酵食」に焦点をあわせる のは、その語られ方の特殊性である。発酵は微生物によって引き起こされる 化学反応であり、中でも、「菌」は発酵食の語られ方において重要な意味を 形成することを指摘したい。発酵の微生物には、(細)菌の他にカビや酵母 があるが、発酵食が語られる時、「(発酵)菌」は「善」の概念と結びついて も、「カビ」は結びつきにくい。「酵母」には「母」の概念が潜在的に繋がる が、一方で、「菌」には生命体としての「力」の概念が結びつく。このよう な「菌」の語られ方は詩的であり、食べ物と身体との関わりを考えていく上 でも重要な側面である。更に、「菌」の意味は、「腸」という臓器をめぐるデ ィスコースにも関わる。以下では、こうした微生物と臓器 ―「菌」と「腸」

― をめぐるメタファーやメトニミーが詩的に相互作用している事例として、

「ヨーグルト」をめぐるディスコースに注目する。そして、最後に、「腸」を めぐる身体観の象徴性の問題へと移行したい。

4.発酵と発酵食をめぐるディスコース

4.1.<発酵は戦いである>

文化人類学者レヴィ=ストロースが、「料理の三角形」(1965)の三頂点に、

「生のもの」、「火にかけたもの」、「腐ったもの」をそれぞれ置くことによっ て、人間の意識の外で構造的にカテゴリー化されている食べ物の問題を論じ たのはひろく知られている。発酵や発酵食が同論文の中でほとんど論じられ ていないのは不思議なことであるが、ただ一ヶ所において「腐ったもの」と の関連で言及されている。それは、1944年に連合軍としてノルマンディーに 上陸したアメリカ人兵士が、当地のチーズ工場から発散される匂いを死体か らの匂いと勘違いしたというものである。この逸話に基づいて、レヴィ=ス トロースは、「腐ったもの」のカテゴリー分類がフランス人とアメリカ人の 間では違うことを指摘する。つまり、前者にとっては「発酵食」であるもの が、後者にとっては「腐敗物」と見なされるのである。

本稿の冒頭で引用した三つのテクストを見ただけでも、発酵が人間にとっ て有益であるという価値判断に基づいて語られているのがわかる。また、こ

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うした一般大衆向けに書かれた啓蒙書や雑誌においては、「発酵」は「腐敗」

との対照の中で二項対立的に語られることが多い。有益と有害、善と悪、偶 然と必然などの対立項がすぐに抽出できる。勿論、レヴィ=ストロースの構 造的視点を再検討することが、本稿の目的ではない。また、発酵は実際には 有益であるばかりではないのにこれは問題である、と述べているわけでもな い。更に、その簡略化された説明は素人向けで専門的な科学知とはかけ離れ 過ぎている、と異義を唱えているわけでもない。そうではなくて、ここで強 調したいことは、その語られ方は詩的言語に基づいていて、「発酵」は意味 の現象であるという点である。

ある食物加工の過程を「腐敗」ではなく「発酵」だと語ること、ある食べ 物を「腐敗したもの」ではなく「発酵したもの」として語ることを可能にし ているのは、例えば、冒頭の小泉(1999)にもあるように、「腐敗菌」をめぐ るメタファーである。ここでは、「腐敗菌」は「侵入者」であり、「毒」であ り、「悪(臭)」である。 そして、同じく、冒頭の永山(2002)にあるように、

「微生物」の「善」が「発酵」に深く関わる。つまり、「発酵」と「腐敗」の 境界線を意味論的に鮮明にするのは、これらの擬人化された「微生物」であ り、その「行動」である。更に、永山による著書のタイトル―『驚異の発酵 パワー』―だけに限らず、「パワー」や「力」は頻繁に援用される概念であ る。それらは「発酵」の「力」であり、「発酵」を支える「微生物」―「菌」

―の「力」でもある。さて、こうした語られ方を可能にしているもの、その 意味の解釈を可能にしているものは何であろうか。以下のディスコース例を 見てみたい。

<発酵>と<腐敗>は違う

微生物の働きにより、有機化合物が人間にとって有用な物質に 変化することを発酵という。いっぽう、有機物が人間にとって 有害な物質に変化することを腐敗という。 微生物には善玉菌

(発酵菌)と悪玉菌(腐敗菌)があり、前者が勝てば発酵食品、

後者が勝てば腐敗物となる。ただし、たいていは発酵菌が強く、

発酵すると悪玉菌を寄せつけなくなり、腐敗はしなくなる。発

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酵食品が長期間の保存ができるのは、この作用のおかげ。(『驚 異の発酵食パワー』2002:6)

ここでは、<発酵は戦いである>というメタファーがあることによって、発 酵菌と腐敗菌―善と悪―の戦いの意味が理解されるのである。更に、<発酵 は戦いである>というメタファーが、<菌は戦士である>というメタファー を含意するのである。そして、その戦いが「発酵」か「腐敗」かを分かつの であるが、たいていは発酵菌が「強い」という。つまり、より「力」を持っ ているのが「善の戦士」であり、「善の戦士」が「悪の戦士」に「勝つ」こ とによって、発酵食となる。そして、「完成」される。「善の戦士」は生き残 り、「生命」を保つ。

また、玄米以外では小魚、小エビ、豆、ゴマ、さらには漬物、

みそ、納豆などの発酵食品が、完成された生命体としての食品 になります。積極的にとりましょう。(『免疫を高めると病気は 必ず治る』2004:.27)

ここで、<発酵は戦いである>のメタファーの意味創造を可能にしている二 つの概念領域―根源領域としての「戦い」と目標領域としての「発酵」―を 整理してみたい。特に、ここでは、根源領域における一連の具体的概念をま とめて概観してみたい。

善 対 悪 勝利 敗北 戦士 生 死 侵入 防衛

発酵のプロセス

「戦い」(根源領域) =>  「発酵」(目標領域)

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つまり、「善対悪」、「勝利」、「敗北」などの「戦い」にまつわる一連の下位 概念が、以下に見るような「発酵」をめぐるディスコースを潜在的に可能に するのである。また、「戦い」の概念は、「発酵」に時間的奥行きを与えてい る点も重要である。つまり、「戦い」の始めから勝負がつくまでの「時間」

は、「発酵」のプロセスの概念化において鍵となる。

<発酵は善対悪の戦いである>

<発酵は善の勝利である>

<発酵は生である>

また、更なる潜在的含意関係によって、以下の「腐敗」の語り方も可能とな る。

<腐敗は善の敗北である>

<腐敗は悪の勝利である>

<腐敗は死である>

更に、「微生物」、即ち、「発酵菌」や「腐敗菌」の語られ方も形成する。

<発酵菌は善の戦士である>

<腐敗菌は悪の戦士である>

<腐敗菌は侵入者である>

そして、ここからどのようなメタファーが潜在的に含意され得るかというと、

最後の<腐敗菌は侵入者である>というメタファーから、<発酵菌は防衛者 である>といメタファーが含意され、「発酵」をめぐるディスコースにおけ る表現は更なる詩的拡がりを持つことになる。

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4.2.<腸は菌の戦場である>

ここでは、今日、「健康食」としての効能が頻繁に健康雑誌や料理本で取 り上げられる「ヨーグルト」に注目する。それぞれの発酵食の種類によって、

異なる「健康食」としての効能が通常注目されるが、ヨーグルトの効能で頻 繁に強調されるのはその整腸作用である。そして、その語られ方においては、

「菌」と「腸」が同時に重要な概念として作用する。つまり、それは、ヨー グルトをめぐるディスコースであると同時に、「菌」や「腸」をめぐるディ スコースでもある。特に、ここで考察したいのは、「菌」と「腸」―臓器と しての「腸」―がどのように詩学的に結びつけられているかについてである。

発酵食としてのヨーグルトは、本稿の冒頭やこれまでの事例に見てきたよう に、発酵菌が腐敗菌に勝った結果できるものである。従って、ヨーグルト自 体は、文字通り、「完成された生命体」(安保 2004:27)として捉えられ、

最早、発酵プロセスにおける発酵菌と腐敗菌の戦いの決着はついていること になる。従って、「菌」の新たな行動の場は、「腸」である。

アナタが腸美人になるためのキーワード。それは、「ヨーグル ト」です。腸内の善玉菌を増やし、自分の腸年齢を知り、健康 でイキイキとした美しい身体を手に入れる。そんな理想的なビ ューティフルライフを実現するために、まずはヨーグルトの効 果を正しく理解することから始めましょう。(『ヨーグルト美肌 ダイエット』2003:34)

ここでは、詩的言語としての「腸美人」に注目したい。これは、「腸=超」

の同音異義語に基づく言葉遊びであるが、その意味は曖昧でもある。つまり、

ひとつの解釈では、「腸が美しい」という意味が成り立ち、もうひとつでは、

「腸が美しい美人」という解釈が可能となる。前者の解釈によれば、「腸」を 擬人化して、「美人」と呼ぶのである。後者によれば、「美しい腸」が「美人」

の部分的条件であり、その意味で、ここでは、メトニミーによる転義、つま り、「部分」(美しい腸)が「全体」(美人)を指し示す意味作用が働いてい

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る。

続くディスコースでは、「勢力争い」をめぐる新たなメタファー―<腸は 菌の戦場である>―が重要となる。このメタファーが含意するのは、「菌」

が「腸」という「戦場」において繰り広げる「力」の争いである。「善悪」

を競うための「力」であり、「戦場」、つまり、「闘争の場」において生き残 るための「力」でもある。

腸キレイになる為の心がけは、「腸内の善玉菌を増やすこと」。

腸内では日々、ニクき悪玉菌勢力と善玉菌勢力が激しい争いを 繰り広げています。悪玉菌は、「腐敗菌」と呼ばれるもので、

腸内を腐敗させ、有毒物質を生成します。これに対して、善玉 菌は、健康の心強い味方で、悪玉菌の増殖を抑え、有害物質の 生成を阻止するのです。さらに消化の健康のために右から左へ と大活躍!(『ヨーグルト美肌ダイエット』2003:35)

発酵過程をめぐるディスコースでは、「悪玉菌の勝利=>腐敗」というシナ リオしか存在しなかったが、以下の例は、「悪玉菌の勝利=>腐敗=>発ガ ン物質の発生」という段階的シナリオに基づくものである。更に、「乳酸菌」

や「ビフィズス菌」などの具体的な菌の名前が登場している。

ヨーグルトの生きた乳酸菌にすぐれた整腸作用があることはご 存じの通りです。腸内では善玉菌と悪玉菌が常に勢力争いを展 開していますが、乳酸菌はビフィズス菌などの善玉菌を増やし、

腸のぜん動運動を活発にして、悪玉菌を追い出して便秘を解消 します。しかも悪玉菌が腸内で作る発ガン性物質も追い出すの で、大腸ガンや直腸ガンの予防にも効果があるとされています。

(『驚異の発酵食パワー』2002:22)

ここで興味深いのは、三行目の下線部分「乳酸菌はビフィズス菌などの善玉 菌を増やし」の部分である。「乳酸菌」も「ビフィズス菌」も一般に知られ

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たヨーグルトの種菌であり、前者は後者を包括する上位カテゴリーである。

言い換えれば、ビフィズス菌も乳酸菌なのである。6 従って、この部分は曖 昧な部分が残るにせよ、解釈によっては誤りとなってしまう。以下の例でも 同様のことが起こっている。

そのほか、ヨーグルトの乳酸菌の効果を忘れてはいけません。

乳酸菌は発酵にによって腸内にビフィズス菌などの善玉菌を増 やし、悪玉菌を抑えて腸内環境を整える重要な働きをしていま す。免疫力を高め、大腸ガンなどの予防にも有効。(『テレビで 話題の健康食材ガイド』 2003:82)

しかしながら、これらの誤りや命題の曖昧さを指摘することによって、専門 的知と素人知のズレを批判することが目的ではない。ここでは、たとえ指示 的意味が曖昧にせよ、これらの具体的な「菌」の名前がある詩的効果を持っ ている点の重要性に注意を喚起したい。例えば、『栄養と料理』(2003年6月 号:33−41)の「市販のヨーグルトガイド」では様々なヨーグルトの情報が 集められている。以下は、紹介されている27種類のヨーグルト中の菌の名前 である。

ラクトバチルスGG株・ヤクルト菌・Sサーモフィルスヤクルト株 LKM512菌・ビフィドバクテリウムラクティス菌 ブルガリア菌・サーモフィラス菌・ブルガリスク菌 L−55乳酸菌・LKM512菌・ラクトバチルス ロイテリ菌

LCI乳酸菌・ 乳酸菌LG21・ビフィズス菌 アシドフィラス菌・ガゼリ菌SP株・ ビフィズス菌SP株

発酵の専門家でなければ、これらの個別の菌が具体的にどのような違いをも たらすのかは、筆者も含め、わかりにくい。しかし、こうしたカタカナで表 された発酵菌の未知の名前は、素人を対象にしたディスコースにおいては、

「菌」の未だ知られざる「力」、つまり、「未知の力」を象徴するメトニミー

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となっている。7 また、「未知の力」はしばしば空間の概念とも連動している。

例えば1970年代以来明治乳業から発売されている「ブルガリアヨーグルト」

は、ブルガリアから輸入された「ブルガリア菌」によって発酵されたヨーグ ルトとして広く知られてきたが、その名前は菌がどこから来ているのかを伝 えると同時に、長寿国ブルガリアの神秘性―日本では比較的未知の空間であ る「東欧」の神秘性―と菌の「未知の力」のメトニミーとなっている。

そして、こうした「未知の力」は、「生きたまま」「腸」に届く。「プロバ イオティクス」の名のもとに、胃酸でも死滅しにくく、「生きたまま腸に届 く」菌が決め手のヨーグルトが話題となっている。

乳酸菌が生きたまま腸に届く!

「プロバイオティクスヨーグルト」は、別名「機能性ヨーグル ト」と云います。現在、明治乳業の「LG21」の大ヒットをき っかけに続々と新製品が登場し、市場を賑わせています。ちな みに「プロバイオティクス」とは、「口から摂取された後、生 きたまま腸まで届いて腸内で作用し、私たちの体に有益な作用 をする微生物」という意味で、アンチバイオティクス(抗生物 質)に対比する 形でつけられた言葉です。・・・・・・プロ バイオティクスヨーグルトの第1のメリットは、腸内細菌のバ ランスを整え、免疫力が高く病気にかかりにくい体を作ってく れるという点。(『ヨーグルト美肌ダイエット』2003:6)

もう少し専門的な『栄養と料理』からの例も見てみたい。

プロバイオティックスとは

口から摂取した菌が生きたまま腸まで届き、腸内フローラ(腸 内細菌叢)のバランスを改善することにより、人体に有益な働 きをする生菌を含む製品のこと。加熱すると菌が死ぬためその 効果がなくなる。また、これらを種としてヨーグルトを作って も同様の菌叢のヨーグルトはできない。(『栄養と料理』 2003

(17)

年6月号: 33)

ここで、「生きたまま腸まで届く」という頻繁に繰返される表現について考 えてみたい。まず、第一に、改めて「生きたまま」と繰返すということは、

プロバイオティックス以前は、菌は「腸に届いたら死んでいた」ことを暗示 する。これでは、「腸」が「力」を持つ「菌」の「勢力争い」の「戦場」で あることと矛盾してしまう。しかし、プロバイオティックスが誕生して、い よいよ、現実が「菌」のあるべき姿に追いついたことになる。第二に、「免 疫」という用語の登場である。勿論、「免疫」は以前から、「免疫がある・な い」というような表現にあるように日常のディスコースの一部である。しか し、今日、「免疫」は「高める」ものであり(『免疫を高めると病気は必ず治 る』2004年)、「鍛える」ものとして語られる(『免疫力を鍛えるスーパー食 事法』2003年)。そして、「身体」(body)は「生体」(organism)となる。以下 は、あるヨーグルトの商品説明である。

小腸と大腸に有益な働きをする5属16種もの人由来の有益菌で 発酵させたヨーグルト。1個に1000億個以上の善玉菌が存在す る。小腸と大腸内の有益菌のバランスが整うことにより、整腸 作用や生体防御力(免疫力)の回復が期待できる。(『栄養と料 理』 2003年6月号:36)

この「防御」のメタファーは何を含意するのであろうか。そして、「生体」

という用語は、ヨーグルトのような日常的な食品をめぐるディスコースを構 成することによって、どんな意味を創造するのであろうか。勿論、既に見た ように、「力」の概念は、プロバイオティックス以前のディスコースにも存 在した。しかし、プロバイオティクス以後、「力」だけでなく、「侵入」や

「排除」の概念が頻繁に登場するようになる。次の例は、あるヨーグルトの レシピ本からのものである。

最近「プロバイオティックス」という言葉をよく耳にします。

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簡単にいえば「食べることで健康的な体をつくる有益な微生物」

という意味で、もちろんヨーグルトはその典型です。病気の原 因のひとつに外部から入ってくる病原菌があります。この外敵 から体を守ることもプロバイオティックス機能のひとつです が、これには元々私たちに備わっている免疫力が重要な役割を になっています。私たちの体には、外部から侵入してきたウィ ルスや病原菌などを、自動的に察知して、それを排除するシス テムが組み込まれています。それが免疫とか免疫システムと呼 ばれているものです。(『カスピ海ヨーグルト効果倍増レシピ』

2002年:73)

ダナ・ハラウェイによれば、「免疫系」(immune  system)は「侵略」と「防 衛」をめぐる意味のシステムであり、ポスト近代における様々な領域のディ スコースに関わる。ハラウェイは、そうしたディスコースが記号論的な意味 生成の連鎖の中で新たに自然化していく「自己」(self)と「非自己」(non- self)をめぐる意味やその境界設定、また、そこで繰り広げられる「攻撃」や

「侵略」、そして、「防衛」の諸概念が人々の日常的実践に関わってくること に注意を喚起する (Haraway  1991:  204)  。例えば、エイズやその伝染をめぐ るディスコースがハイテク戦争のように語られていることに注目したのは、

ソンタグであった。「癌」や「結核」に続き、「エイズ」をめぐるメタファー を論じながら、ソンタグはその語られ方における軍事的概念―中でも、外部 から来る「侵入者」―の重要性を指摘する(Sontag  1989)。これらの議論は 西欧の社会的、歴史的コンテクストの中に位置付けられているが、今日の日 本社会における様々なディスコースの意味と深く関連しているのではないだ ろうか。本稿の発酵食をめぐるディスコースは全体の中の一部分に過ぎない が、ハラウェイやソンタグの議論と結びつくのではないだろうか。以下では、

こうした科学知との関連の中で、「腸」をめぐる象徴性の問題を取り上げた い。

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5. 「腸」の新しい象徴性

多田は著書『免疫の意味論』(1993)の中で、人間の臓器をイメージさせ る上での「管」のメタファーに注意を喚起する。8 中でも、人間そのものを

「消化管という巨大な管を内腔した、巨大な管」と見ながら、胃や腸のよう な消化「管」をめぐる免疫学上の意味を論じている。特に、多田の議論で興 味深い点は、消化管の「内」と「外」をめぐる部分である。

ところで、胃の中とか腸の中とか言うが、それは本当に体の中 なのであろうか、あるいは外であろうか。「腹も身のうち」な どと言うが、胃の中、腸の中は解剖学的には体の外である。人 間は皮膚や感覚器官を通して外界と接しているばかりでなく、

消化管内腔の粘膜を介しても外界と接触している。人間そのも のが巨大な管であるというのはこういう事実からである。(多 田 1993:167)

更に、

こうして見てくると、消化管が単なる栄養分の消化吸収のため の器官ではないことに気づくであろう。それは内なる外との絶 え間ない接触の場であり、それに対応するための強力な免疫学 的戦略が配備されている。管としての人間の体制である。(同 上:170)

これらの胃や腸を、体の「内」側にありながら「外」として捉える解剖学的 視点、また、「内」と「外」との「接触の場」、そして、「戦略の場」として 捉える免疫学的視点は、素人の捉え方と全くかけ離れたものなのだろうか。

本稿では仮説の呈示のみにとどめたいが、筆者は、こうした科学知と、「発 酵食」のディスコースにおける「菌」や「腸」のメタファーやメトニミーの 詩学には象徴的な連続性が存在するのではないかと考える。

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「内」と「外」、及び、その境界線の象徴性はこれまで人類学者たちによ っても頻繁に論じられきた。3.において見たように、その境界設定はカテ ゴリーを通して行われるのであり、認知的である。しかし、同時に、それは 社会的であり、心理的であり、何よりも、象徴的な拡がりを内包する。例え ば、それは、社会と個人の秩序とアイデンティティの問題としても論じられ てきた。メアリー・ダグラスは、そうした境界の外の「汚れ」や「穢れ」と 境界周辺における潜在的危険性について論じている。身体の象徴性と社会的 カテゴリーの相互作用に目を向けた人類学者として、ダグラスはこれまで大 きな知的影響力を与えてきたが、中でも、口や肛門などの身体の開口部の象 徴性―特に、その象徴的危険性−に対する視点は本稿にとって極めて示唆 的である(Douglas  1966)。ここで、「腸」についてもう一度考えてみたい。

例えば、過去の日本研究において、「腹」の象徴性は頻繁に取り上げられて きた(大貫1985;  cf.  Matsuki  1995)。しかし、「腸」の象徴的な意味の研究は ほとんどない。それは、「腹」に対して、「腸」は主に消化器官としての機能 を語る時に使われるのであり、「腹」ほど象徴的に体系化された意味は不在 であったからである。その意味では、本論における「腸」をめぐるメタファ ーやメトニミー、また、多田による「内と外の接触の場」としての「腸」は、

これまでになかった身体観―身体/生体観―や境界設定をめぐるポリティッ クスに潜在的に繋がるのではないだろうか。今後、メディアをはじめ、人々 の日常的ディスコースをより広範に見ていく必要がある。

6.おわりに

本稿では、発酵と発酵食をめぐるディスコースのメタファーやメトニミー をみることによって、「微生物」と「身体/生体」、そして、「アイデンティテ ィ」の意味の錯綜を考察した。柄本(2002)が論じるように、「健康」であ ることが自己の責任であり、その責任を日々の生活習慣の中で実践しなけれ ば、「病」の刻印を押されてしまう現代を我々は生きている。癌やエイズ、

そして、様々な感染症の情報が循環する現代を生きている。本論の目指した のは、発酵食を手がかりにして、こうした後期資本主義社会に生きる我々の 日常的な実践とそれをめぐる意味の詩学的側面の考察であった。

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【注】

1 近年の言語人類学的視点によれば、社会行為としてのディスコースは、テクス ト化とコンテクスト化の円環的な緊張関係の中に位置づけられるものであり、従 って、実際のコンテクストから切り取られ、文字化された「ディスコース」も、

実は、アーティファクトとしての「テクスト」でしかない。その意味では、「デ ィスコース」と「テクスト」はメタレベルでは等価であるとも言える。しかしな がら、本稿において、「ディスコース」の概念を敢えて援用する理由は、ある特 定の思考のあり方(cf. イデオロギー)と慣習的な言説(cf. ディスクール)のあり方 との間の相互作用を前提としているからである(cf.  Foucault  1972)。勿論、こう したフーコーの視点はこれまでの言語人類学のディスコース分析に大きく影響し てきたのであり、本稿でのアプローチは過去の研究群に多くを負っている。特に、

本議論では、「ディスコース」の概念を援用することによって、「微生物」や「身 体」の特定の語られ方とそれらをめぐる思考のあり方との相互作用を重視する。

2 メタファーの日本語訳は「隠喩」、メトニミーは「換喩」であるが、本稿では、

「メタファー」と「メトニミー」に統一したい。

3 医学博士日野原重明は、「生活習慣病」の概念を1970年代より提唱し始めた中心 的推進者であったが、ある対談の中で以下のように述べている。

習慣の問題なども、教育の場にもう少し取り入れられないと、偏差 値だけの今の状態ではどうしようもないと思います。そして習慣形 成と、自分で「美味しいからいくらでも何でも食べる」ということ を、どこで自分で自分にブレーキをかけるかという訓練、つまり、

知的なものと意思力とその実行力、それから何と言ってもよい環境 を与えるということを考えていかなければなりませんね(西川、山 崎編 1998:11)。

例えば、『NHKきょうの料理』(特集 生活習慣病をらくらく防ぐ)には、「生活習 慣病」が「あなた自身の生活が体に写しだされたもの」として語られる。

「生活習慣病」は、年齢に関係なくあなた自身の生活が体に写し出 されたものです。今は問題がなくても、将来の病院通い、医療費の 負担を想像してみてください!習慣を変えることは簡単ではないか もしれませんが、一度変えることに成功すれば、あとは意外にらく らく。毎日の食事も、あなた一人だけでなく、家族みんなのこれか らの健康のため、変えてみませんか(『NHKきょうの料理』2001年 2月号:6)。

4 わかりやすいメトニミーの例としては、「部分」によって「全体」を表わすもの

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がある。例えば、「あの白い帽子はよくしゃべる」といった表現を考えてみよう。

ここでは、「白い帽子」がしゃべるのではなくて、「白い帽子をかぶった人」がよ くしゃべる、という意味であり、「白い帽子」(部分)が「白い帽子をかぶった人」

(全体)を表わすのである。また、「容器」によって「中身」を表わす例も馴染み 深い。例えば、パーティ会場における「真中のお皿が美味しい」という表現では、

美味しいのは「真中のお皿」ではなく、「真中のお皿に盛られている食べ物」で あり、前者が後者を代表するのである。

5 例えば、瀬戸は、「電話を取る」と「電話が鳴る」という表現を比較しながら、

それぞれの「電話」の捉え方を支えているメトニミーを論じる。前者における

「電話」は「受話器」という物体であり、電話の全体性にほぼ近い捉え方である。

一方、後者における「電話」は具体的な音、つまり、電話のベルであり、個別の

「ベルX」であるという。こうした「全体」と「部分」の関係を、「外」と「内」

の概念やその隣接関係を通して捉え直し、その境界線の曖昧さとメトニミーの作 用を論じる。

ことばは、適当なところで間に合わせている。「適当なところ」と は、比較的明瞭な輪郭を保持することによって知覚上の優位を示す

《外》のことである。「適当な」《外》でとどまることによって、

日常の言語生活はそれほど猥雑にならずに済んでいる(瀬戸 1986:

46)。 更に、

《内》は《外》にとって重要なものでなければならないが、その重 要性とはたとえば工学的な意味での客観的な重要性ではなく、私た ちの「生活世界」において現に感じられる主観的な重要性である、

ということを指摘しておきたい(同上:47)。

つまり、瀬戸の視点に基づけば、本稿で論じている「腸」に関しても、「腸」が どんな内臓部分を具体的に指すのかという解剖学的知識の有無が問題なのではな く、概念化による「間に合わせ」をどのように記号論的に行っているのかが問題 となるのである。

6 ビフィズス菌(ビフィドバクテリウム)はもともと人間の腸管内に生息してい る、所謂、「善玉菌」である。つまり、ビフィズス菌は「善玉」の腸内細菌であ り、その意味では、「乳酸菌はビフィズス菌などの善玉菌を増やす」という命題 に誤りはない。しかし、今日、それは培養されてヨーグルトの発酵菌としても用 いられている(cf.小林・白石 2003;  小泉 1989;  小崎 2002)。つまり、ビフィズス 菌はその増殖時に乳酸を体外に分泌する「乳酸菌」として、ヨーグルトの生産に 使われている主要な菌なのである。こうした視点に立つ時、同命題はビフィズス 菌が乳酸菌でないという矛盾的解釈を産みだす。特に、こうしたヒト由来の乳酸 菌としてのビフィズス菌の性質についての知識を持たない素人には尚更であろ

(23)

う。

7 例えば、「AはBの象徴である」という表現において、 AとBの関係性が類似性に よるものであれば、それはメタファーによる捉え方に基づくものであろう。例え ば、「バラは彼女の象徴である」という例を考えてみたい。ここで、「バラ」の概 念領域における「優雅さ」と、「彼女」の「優雅さ」が対応するのであれば、メ タファーである。一方、「彼女」がいつも「バラ」の柄の洋服を好んでいて、「彼 女」(全体)と「バラ」(部分)が近接関係を構成している場合ならば、メトニミ ーである。当例のように、「未知の力」は「菌」が持つものであり、前者は後者 の「部分」である場合、即ち、「力」と「菌」がそれぞれ異なる概念領域からの ものではない場合、メタファーではなくメトニミーということになる。

8 本稿で取り扱ったメタファーが概念領域の対応関係に基づく「概念的メタファ ー」(conceptual  metaphor)であるのに対し、ここで紹介されている「管」のメタフ ァーは「イメージ・メタファー」(image  metaphor)である。前者と違い、このメタ ファーを成立させているのは視覚的イメージによる対応関係である。大堀によれ ば、概念的メタファーに比べて、このメタファーは慣習度の度合いが低く、より 創造的であり、日常のディスコースよりも、文学のジャンルなどにより見出しや すいという(大堀 2002:85; cf. Kövecses2002)。

[参考文献]

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Haraway, Donna J. (1991) Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature.

New York: Routeledge.

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小崎道雄(2002)『乳酸菌―健康をまもる発酵食品の秘密―』東京、八坂書房 Kövecses, Zoltan (2002) Metaphor. New York: Oxford University Press.

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大貫恵美子(1985)『日本人の病気観―象徴人類学的考察―』 東京、岩波書店 大塚滋(1975)『食の文化史』東京、中央公論新社

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Sontag, Susan (1977) Illness as Metaphor. New York: Farrar, Straus and Giroux.(邦訳

『隠喩としての病い』富山太佳夫訳 東京、みすず書房)

Sontag, Susan (1989) AIDS and Its Metaphors. New York: Farrar, Straus and Giroux. (邦 訳『エイズとその隠喩』富山太佳夫訳 東京、みすず書房)

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東京、青弓社

――――――――――――――――――――――――

(資料)

『栄養と料理』(2003)6月号、 東京、女子栄養大学出版部

『カスピ海ヨーグルト効果倍増レシピ』(2002)東京、アスキーコミュニケーション ズ

『驚異の発酵食パワー』(2002)(永山久夫監修)東京、主婦と生活社

『きょうの料理』(2001)2月号、東京、日本放送出版協会

『免疫を高めると病気は必ず治る』(2004)(福田稔、安保徹監修)、東京、マキノ出 版

『テレビで話題の健康食材ガイド』(2003)東京、学習研究社

『ヨーグルト美肌ダイエット』(2003)東京、芸文社

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The Semiotics of Fermented Food:

A Poetics of Microbes, Body/Organism, and Identity

Keiko MATSUKI

Key words: health, illness, food, metaphor and metonymy, immune system

Today, partly due to people’s deep concern with health and illness, the information on the merits of eating fermented food abounds, creating a variety of discourses on microbes and body. Although such discourses have several dimensions for analysis, this study focuses on their poetic aspect. It particularly looks at the significance of metaphors and metonymies.

This study illuminates fermentation as the phenomenon of meaning.

Fermentation is a narrative. It has the beginning and the ending. It is situated in specific time and space. It has a goal. It has characters: microbes.

Theses microbes are often personified and told as if they were agents with specific goal-oriented missions. They may even embody some moral qualities. Some are “good” microbes, while others are “bad.” Basically, fermentation is a war between such “good” and “bad” ones. When the

“good” ones win out the “bad” ones, the process of fermentation ends with success. Now, milk becomes cheese, and grapes turn into wine. Soy beans change to Miso paste. After the process of fermentation, fermented food is born. In this very making as well as telling of fermented food, the role of microbes is rhetorically constructed.

The paper pays special attention to discourses on yogurt, one of the most well-known fermented food items today. By analyzing the excerpts from cook books and other books on health targeted for general audience, the study illuminates the phenomena of specific metaphors and metonymies surrounding “bacteria” and “intestines.” It is such metaphors and

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metonymies that constitute the discourses on yogurt, further creating several symbolic meanings on health and illness situated in the contemporary social context. As Lakoff and Johnson (1980) made it clear, metaphors and metonymies are not only in the realm of literature but also in the realm of our everyday discourses. They are poetic, but habitual. Without noticing it, we rely on metaphors and metonymies for the conceptualization and understanding of things in this world. Metaphors and metonymies co-occur, functioning together for the formation of familiar as well as new meanings.

Following such theoretical assumptions concerning metaphors and metonymies, this paper explores their semiotic role in the discourses on yogurt. The ultimate goal of this study is to find the poetically-constructed conceptualizations and symbolism between microbes, body/organism, and identity.

Situating the present analysis in contemporary social contexts, this study also tries to capture the meaning of eating kenko-shoku (“healthy food”).

Eating healthy food items constitutes our contemporary identity as agents who take responsibility for our own health conditions. Especially since the term seikatsu-shuukan byo (“life-style related disease”) was officially introduced by the government in 1996, we have been exposed to wide information established through media: how to stay healthy and avoid sickness through “good” life-styles. Thus, the act of eating is an important practice of life-style. This study frames the meaning of eating yogurt within this shifting public health policy, along which the construction of identity as responsible, self-disciplined agents are better understood.

In this study, two important metaphors are illuminated. One is

< FERMENTATION IS WAR>. In this metaphor, the conceptual domain of “WAR” as a “source domain” is mapped onto the domain of

“FERMENTATION” as a “target domain.” Because of this mapping between two different conceptual domains, something difficult to conceptualize as it is–here, “fermentation”–becomes more understandable;

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various aspects surrounding “war”– “victory,” “defeat,” “soldiers,” “life,”

and “death,” for instance–constitute the discourses on fermentation. Also, the personification of microbes as “soldiers” becomes possible because of the operation of this metaphor.

The other metaphor is <INTESTINES ARE BATTLEFIELD FOR BACTERIA>. This metaphor particularly becomes important in the discourses on yogurt. When the merits of eating yogurt are told, they usually surround the good effect of “good” bacteria taken into the inside of our body. It is surprising to see how such a metaphor concerning a body organ– “intestines”– becomes explicit in the discourses on yogurt. The organ is rhetorically told as the battlefield where “good” bacteria fight against “bad” invaders. Here, concepts such as “invasion,” “defense,” and

“attack” importantly constitute such discourses. The discussion connects the emergence of these concepts to the importance of the image of the immune system, particularly following Haraway (1991) and also Tada (1993). As these scholars point out, the area of immunology has been influential not only practically but also ideologically. When contexualized in this epistemological shift happening today, the symbolic meaning of “intestines”

opens up new ways of conceptualizing our body as an organism. Starting with the analysis of poetic language, the present study explores the semiotic dyanmic conjoining several contemporary themes surrounding health and illness.

参照

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